優男のプロポーズ

3/20/2016





アーサー・カークランドは、頭の奥で響く耳鳴りに、夏の気配を感じていた。

日付や暦を気にした事は無いが、季節はいつでも雄弁にその訪れを予告する。雲の形、風の温度、虫の鳴き声。湿度によって変化する窓やドアの開け閉めの具合も、時にはその日の天気を正確に教えてくれた。

大きく息を吸って、吐いて、アーサーは起き上がる。

朝だ。いや、もう昼か。昨夜の客は、ここ数年通ってきていた男だった。孫ができたからここへはもう来ないとだけ宣言して、そしていつも通りの額を置いてさっさと帰って行った。ぽっかりと空いてしまった夜を、アーサーは酒で埋めた。昨日手に入れた分を、昨日だけで使い切ったと思う。適当にルートヴィッヒに紙幣を押し付けて、あとはひたすらに飲んでいた。夜も更ければフロアに残っている客はほんの僅かで、上の階からはちらほらと嬌声が降ってくる。その頃になるとソファの集まったあたりでストリップを始める者が現れる。客を取れないならせめて、脱いでチップを稼ごうという者達だ。しこたま酔ったアーサーはその喧噪に潜り込んで、下着にねじ込まれた金で更に飲んだ。潔いほど下品で、低俗で、酷く楽しい夜だった。思い起こせば随分多くの夜を共にしたあの男も、もうここへ来る事は無いだろう。彼は一度だけ、アーサーに仕事を紹介しようとした事があった。身を売るのではない、まっとう、と呼ばれる仕事だ。けれどアーサーはそれを鼻で笑った。自分にはこの場所が似合いなんだ、そう告げた時の男の顔は、どんなだっただろうか。そんな事も、もうどうでもよかった。

水差しから直接水を飲んで、酒で焼けた喉を潤す。どうやらアルコールにやられたのは喉だけではないようで、食欲は全く無かった。幸いな事に頭痛も吐き気もそんなに酷くはない。何をして過ごそうかと考えながら、窓を開ける。どうやら風は殆ど無いようで、部屋の中に爽やかな空気が入ってくる事はなかった。取り払われた境界を跨いで、部屋の中と外の気配がお互いを探り合っている。隣の建物の屋根で、小鳥達がちよちよと騒いでいた。

「…キクんとこでも行くか」

誰に言うでもなくそう呟くと、アーサーは顔を洗って部屋を出た。


キクの居る教会は、お星様通りの端にある。礼拝堂の扉には、鍵はかかっていない。さして信心深いわけでもないこの辺りの住人が盗みに入らない程度には、教会の中には金目のものは何も無かった。小さな庭はよく手入れがされており、季節によっては花が咲く事もある。この教会に咲く花は、開いた傍から誰かに摘まれ、路上で売られてしまうのが常ではあるが、キクはそれを気にしなかった。美しく咲く花で教会を飾る事よりも、この辺りで生きる者の生活が少しでも潤う方がいい。やる事が無い時、生きている何かを拾った時、そして、生きていた何かを拾った時。お星様通りの住人達は、教会を訪れる。僅かばかりの食べ物をねだったり、「お駄賃」をねだったり、あるいは体調不良を訴えに来る者も居た。キクは、教会を訪れる誰の事も平等に扱った。身なりや言葉遣い、髪や目や肌の色、出身地や、訛、習慣。お星様通りで生き残るためには気にしてなどいられない小さな違いを、キクもまた、気にしなかった。そして、神の教えとやらも強要する事はなかった。

アーサーは、暇があれば教会を訪れる程度にはキクに懐いていた。礼拝堂の隅で寝ていても怒られなかったし、庭でぼんやりしていても追い払われなかった。アーサーが子供の頃、それこそまだアントーニョがこの辺りで過ごしていた頃から、キクの姿は変わらない。東洋人の見た目はよくわからないらしいが、アーサーは、キクは人間ではないのではないかと思っている。黒い服を着て、赤ん坊や死体を引き取って行く。きっと死神かなにかなのだ。死は、命を持つ者には平等に訪れる。キクが誰に対しても態度を変えないのも、そのせいだと思えば納得がいく。静かに静かに、お星様通りの人間達を見守っているのだ。神は、居るかもしれないし、居ないかもしれない。けれど、死は確実に存在している。だからアーサーは、死神の存在を信じる事はできても、神の存在についてはあまり気にした事がなかった。

教会へ向かう途中、どうやらお星様通りに迷い込んで来てしまったらしい者を見かけた。飾りボタンの付いた服を着て、キョロキョロとしている。物陰から、彼を見ている者が何人も居る。何事も早い者勝ち、そして強い者が勝者となる。キクが居れば安全な場所まで連れていってやるのだろうが、あいにくアーサーは死神様でも何でもない。他の者達が様子を見続けているのを良い事に、ふらふらと近づいて行った。ぶつかるふりをして財布を掏ると、声もかけずに通り過ぎる。すっと路地を曲がると、さっさと中身だけ抜いて財布を捨てた。ちらりと見ると、小銭と一緒に、柔らかい布に包まれた指輪が入っていた。小さくてキラキラ光る石が付いている。アーサーは素直にそれを綺麗だと思い、紙幣や小銭と一緒にポケットに入れた。そのまま少し裏路地を通って、アーサーは通りに戻った。先ほどの彼が無事に目的地へ辿りつけるのか辿りつけないのかはわからないし、興味もなかった。お星様通りには何だって落ちている。仲間も、食べ物も、命だって。アーサーもお星様通りで拾われたのだし、アントーニョだってそうだ。先ほどの彼が、しばらく後にはぴくりとも動かなくなって落ちていたって、何の不思議もない。

アーサーは教会に着くと、いつものように礼拝堂へ滑り込んだ。がらんとしたそこには誰もおらず、適当に座って、先ほど拾った指輪をとりだした。高い位置にあるステンドグラスから、ぼんやりと色づいた光が降りて来ている。そこに重ねるように指輪を掲げると、透明な石がキラリと光った。売ってしまおうか、少しとっておいてみようか。角度を変えて小さな小さな光を撒き散らしながら、しばらく指輪を眺めていた。

「おや、どうしたんですか、それ」

空気のような声をかけられて、アーサーが隣を見ると、いつの間にか近くにキクが立っていた。

「拾った」

アーサーが事も無げにそう言うと、キクは笑った。

「先ほど、道に迷った方を表までお送りしたのですが、指輪の入った財布を盗まれたと言っていましたよ」

「どんな奴だった?」

「明るめの茶色い髪で、目はブルー、なかなかに整った顔の方でした」

「ふぅん」

値の張りそうな飾りボタンと、気の弱そうな、不安そうな挙動しか覚えていないアーサーには、キクの語る人物が指輪の持ち主かどうかはわからなかった。アーサーにとっての獲物かどうかには、髪の色や目の色は関係ない。リスクに見合う身入りが期待できるかどうか、腕力勝負になった場合に確実に自分が勝つかどうか。それさえ分かれば間違いは無い。

「恋人にプロポーズするための指輪だそうですよ」

曖昧にしか返事をしないアーサーの隣に腰を下ろすと、キクは指輪を覗き込みながら言った。

「…目立つ所に痣でもつけてやりゃぁよかったな」

アーサーは笑った。小さな指輪は、ステンドグラスの光の中できらめいている。

「指輪をなくした言い訳にもなるし、女の同情をかって盛り上がれたろうに」

「おやおや」

薄暗い光の中で、二人は笑った。一通り指輪を眺め終わったアーサーは、小さなそれをキクに投げて寄越す。

「そいつが赤ん坊を捨てに来たら、それ渡してやれよ」

そう言い捨てて、礼拝堂を出て行った。アーサーのその言葉が、せめてもの慈悲なのか、それとも皮肉であるのかは、キクにはわからない。


昔、アーサーはこの教会の裏手で、赤ん坊を拾った。アントーニョが自分を拾ったのと同じくらいの年になった頃で、その時にアントーニョから、お星様通りで赤ん坊を拾った時にはどうするのかを教わったのだ。アーサーはアントーニョに拾われたので、Aから始まる名前をつけられた。それに倣い、アーサーも拾った赤ん坊にAから始まる名前をつけた。赤ん坊は、アルフレッドという名前になった。

アルフレッドは金色の髪に鮮やかな水色の瞳をしていた。アーサーにとっては初めて見る生きた赤ん坊で、乳をもらうためにアントーニョと娼館を巡った。ふにゃふにゃとした赤ん坊だったのがだんだんと子供の形になっていくと、今度は必死に食べ物を探した。落ちている物や、くすねた物。その頃にはアーサーも金銭というものを学び、食べ物そのものよりもそちらを集めた方がおいしい物を食べられるのだと知っていた。そうして三人で生きていた。

「ねえ、あの人達は、なんで金を持ってるの?」

ある日ふと、アルフレッドが言った。三人で用も無く表通りを歩いていた時だった。その日の鴨を物色していたところで、アントーニョとアーサーは顔を見合わせた。

「なんでやろな」

「トーニョもわかんねえのか。キクに聞きに行こう」

三人はそうして、教会へ向かった。キクは決して親代わりなどでは無かったが、それでもアーサーが知る人間の中で一番長生きで、物知りだった。

結論から言うと、キクの話は大変難しくて、よくわからなかった。

一つ分かった事は、世の中には、盗む意外に金銭を手に入れる色々な方法があるという事だった。野菜を育てて売ったり、誰かの靴を磨いたり。料理をふるまったり、馬車に誰かを乗せたり。得意な事、やりたい事、やってあげたい事をよく考えて、やってみてはどうか、と、キクは言った。読み書きなら教えられると言われ、アルフレッドはその場で教えて欲しいと頼み込み、アントーニョとアーサーは少し考えてみる、とその日はねぐらへ戻ったのだった。


その、夜の事だった。

アーサーは男でも娼婦になれるのだと知り、紙の金を知った。




ーーー




目を覚ますと、既に昼に近かった。

やけにまとわりついてくるブランケットを蹴るようにのけて、アーサーは硬いベッドの上で伸びをする。日差しは容赦無く夏を運んでくる。目を開けても閉じてもめまいがした。のろのろと起き上がり水を飲む。夏は嫌いだ。別れはいつも夏にやってくる。アントーニョが料理人になると言ってお星様通りを出て行ったのも、アルフレッドが船乗りになると言ってお星様通りを出て行ったのも夏だった。

一人の夏は寒かった。ずっと背中がすうすうとして、暑いはずなのに汗をかかなかった。食欲も無くなって、そうすると何だか生きる気力も無くなって、このまま死ぬのも悪くないと思えた。どこからか噂を聞きつけたキクがアーサーに会いに来なければ、きっとそのまま、アーサーは路地裏で冷たく硬くなっていただろう。最初の一年は、すっかりキクに世話になってしまった。ねぐらはあっても寝床を持たなかったアーサーに、キクは教会の一室を貸してくれた。寝てばかりのアーサーに、僅かではあったが食べ物を与え、たまに身を清めるように言い、共に庭をいじった。一年と少し経つと、アーサーはふと教会を出た。世話になってしまった分を何とかして返さなければ、と身を売った。その途中で娼館に部屋を得た。キクには、稼いだ金や拾った金を教会へ持って行っては献金箱へ入れた。そうして何とか暮らしていると、読み書きと料理を覚え、ビジネスパートナーを見つけたアントーニョが帰って来た。二人で表通りに小さな店を持つと言って、アントーニョは忙しなく働いた。その傍らで、試作品だと言ってはアーサーに食事を与えた。そうこうしているうちに、アントーニョはリーゼロッテと出会い、そして、アーサーはフランシスと出会った。

夏は思い出ばかりが浮かんでは消えて行く。フランシスという男の誕生日を祝ってやりたいとアントーニョに言われた時、アーサーは最初は断った。暦の事はよくわからなかったが、夏の盛りだというのはわかっていた。渋るアーサーに、アントーニョは無理強いはしなかったが、諦めもしなかった。終いにはリーゼロッテまでがアーサーを訪れた。

「いつもすました顔をしている男なので、一泡吹かせてやりたいのです」

その言葉からは悪意は全く感じられず、二人からそこまで頼まれると、アーサーも徐々に興味が沸いて来た。結果的に、アーサーはその頼みを引き受けた。最近では自分が何をどう着ればどのように見えるのか少しずつ計算するようになっていたので、純朴そうな者が好みだと聞き、少し野暮ったい服装にした。同情をひくために古めのセーターを引っ張り出した。どうせ、暑いのか寒いのかよくわからない。カッターシャツにセーターを重ねて、ズボンとブーツで足元を飾った。コロンの変わりに、リーゼロッテからもらった杏をかじった。一階の時計が時間を告げる頃、血色の悪い頬を軽く叩いて色づかせ、部屋をぐるりと見回してから、扉を開けて階段を下りたのだ。

その夜はつつがなく仕事を終えたが、その次の日からが酷かった。身体は重く、食欲も無く、何も食べていないのに吐き気が収まらない。とうとう死ぬのかもしれないと観念して、全部酒のせいにしてしまおうとあるだけ飲んだ。ギルベルトとルートヴィッヒに小用を頼まれた以外は、客もとらず、部屋に籠っていた。気まぐれに様子を見に来るギルベルトに苦い顔をされながら、水と酒とを飲み続けた。


そんなアーサーの夏を、フランシスは知らない。


これからもっと暑くなると、きっと今年も身体の調子がおかしくなるのだろうと思う。しばらく間が空いても良いように、動けるうちにフランシスに会いに行こう。アーサーはそう決めると、顔を洗って部屋を出た。

いつものようにレストランの裏口から顔を見せると、フランシスはいつものようにそこに居た。最初こそ、見慣れないキッチンに警戒して足を踏み入れるのは躊躇われたが、今となっては勝手知ったる何とやらだ。ここにある刃物は、絶対にアーサーに向けられる事はない。

軽く挨拶をして、すっかり定位置となったカウンターの端の席に座る。フランシスはその様子を目で追いながら、ジャガイモの皮を剥き続けていた。

「顔色悪いね、具合悪いの?」

「夏は食いもんがすぐ悪くなる」

「食べる前にちゃんと匂いくらいかげよ」

はは、と笑って返される声に、アーサーは力ない笑顔を作った。

フランシスはきれいな男だ。髪もふわふわで良い匂いがするし、瞳の色も、明るすぎず暗すぎず、ちょうどいい。髭が少し邪魔だと感じる事もあるが、よく似合っていてチャーミングだと思う。すぐに愛だ何だと説き始めるのは少し面倒だが、少しかさついた指先はいつも優しいし、てのひらはいつもくすぐったい。その穏やかな声も良い。目を閉じてフランシスの鼻歌を聞いていると、何だか眠くなってくる。

「具合悪いなら上で寝てけば?」

アーサーがふんわりとカウンターに伏せると、そう声をかけられた。今では、フランシスも上の階の鍵を持っている。アーサーはふるりと首を横に振った。今横になってしまったら、きっとしばらく起き上がれない、そんな予感がした。

「かえる」

アーサーは奥歯を噛み締めてそう言った。思いの他、身体が自由に動かない。今日は部屋に居ればよかった、と少しだけ後悔した。よろよろと立ち上がると、いつの間にかすぐ傍に来ていたフランシスが背中を支える。

「どしたの…なんか今日お前…」

暖かいてのひらが冷えた背中を撫でている。アーサーは適当な事を言おうと口を開いて、そのままめまいに負けた。



ーーー



「アーサー、前に連れてってくれた丘を覚えてるかい?

 あそこから見た街の様子はまるで小さくて、そこに人が居るなんてよく分からなかったよ。

 表通りのほうがいいものなんだと思っていたけど、ごちゃごちゃとしているだけだった。

 だけどこの通りはどうだい、あんな遠くからでも、星のマークがしっかり見えた!

 もし道に迷っても、あの星のマークを目印にしてここへ帰ってくる事ができるよね」

記憶というものは、夢になど出て来ない。いつも眠る前か、目を覚ました時にふと意識の中に沸き上がる。まるで逃げ場が無いので、感情の嵐が通り過ぎるのをじっと待つしか無いのだ。

「アーサー、俺はきっとね、何も知らないんだ。何が良くて何が悪いかとかね。

 キクは本をたくさん読ませてくれたけど、どの本にも、あの星のマークの事は書いてなかったんだぞ。

 だから、いろんなものを見て来ようと思う。乗せてくれる船はもう見つけてあるんだ。

 言うのが遅くなったけど、明日、俺はここを出て行くよ」



知る限りの罵詈雑言を吐き捨てながら、アーサーは握りしめた拳を振り下ろした。ぼすんと間抜けな音を立てて、マットレスが鳴る。眠っていたのがいつものベッドではないと知り、アーサーは慌てて起き上がった。

「お、はよ…」

辺りを見回すまでもなく、すぐ近くにフランシスが座っていた。目をぱちくりとして、剥きかけの玉ねぎを握りしめている。

「おう」

とりあえず挨拶を返しながら窓の外を見ると、まだまだ明るい。真っ昼間だ。急いで眠る前の事を思い出そうとして、そして思い出して、少し気まずい心地になった。のそのそとマットレスから足を下ろし、ブーツを履く。

「あー…帰る…」

ちら、と窺うようにフランシスを見ると、フランシスは眉をしかめた。

「大丈夫?昨日突然倒れて丸一日寝てたよ」

「そうなのか?」

そんなに陽が傾いていなかったので眠っていたのは少しだけかと思ったが、どうやら違ったらしい。今度はアーサーが驚いて、目をぱちくりとした。

「そうだよ…そしたら突然暴れ出すから何事かと思った」

受け答えのしっかりしているアーサーに安心したのか、フランシスは軽く笑った。

「腹減ってるだろ、スープでも作ってやろうか」

いつもなら遠慮なく頷くところだが、アーサーは曖昧に笑って肩を竦めた。思えば近頃では、フランシスにも随分と世話になっている気がする。食べ物もそうだし、習っている読み書きだってそうだ。その借りを返すという名目で恋人ごっこをしては居るが、最近ではそれすら借りになってきている心持ちがした。要するに、フランシスのためだけであったそれが、アーサー自身のためになりつつもあるのだ。フランシスに会うのは気分がいい。少々乱暴に扱ってもはいはいとあしらわれるし、落ち込んでいる様子の時は甘やかせばそれはそれは上手く甘えてくる。適当な事を言っても怒らないし、そしてフランシスのほうも簡単には約束をつくらない。気まぐれに現れても現れなくても何も言わないし、それでいて向こうに希望がある時はきちんと要求してくる。さすがにコックだけあって料理は上手いし、安くて美味い店もたくさん知っている。服を脱いで寄り添えば、肌触りもよかった。

つらつらとそんな事を考えていると、フランシスは手にしていた玉ねぎを置いた。

「お前…なんか変だよ、どうしたの?」

声を潜めて、覗き込むように目を合わせられる。アーサーは酒の飲み過ぎの他は滅多に弱る事がないので、フランシスは心配をしているのだろう。

「変なもの食うと、変になんだよ」

「アーサー」

適当に言いくるめようとするが、どうやらいつもの通りには頭が働かない。少し強めに、けれど包み込むように名前を呼ばれてしまえば、アーサーはフランシスから目を逸らすしかなかった。窓の外を見ると、日差しは容赦無く夏を運んでくる。目を開けても閉じても、めまいがした。

「暑いのが苦手なんだ」

観念して、アーサーは白状した。

「結局みんな、夏にどっか行っちまうんだよ」

フランシスは、アーサーの夏を知らない。アーサーの生きて来た世界で、誰がどんなふうに何をしたのか、全く知らない。それを承知で、アーサーは笑った。

「お前もそのうち、どっか行っちまうんだ。きっと、夏に」

視線を窓からフランシスに戻すと、彼は、とても真摯な瞳でアーサーをみつめていた。アーサーがもう一度肩をすくめて見せ、立ち上がろうとすると、その手をフランシスが掴む。てのひらはいつもの通りに暖かくて、指先はいつもの通りにかさついていた。きっとその指先を口元に持って行けば、たまねぎのツンとした匂いがするに違いない。

「これからのことは俺にもよくわかんないけどさ」

フランシスは両手で、アーサーの両手を包み直した。その頬が、ほかほかと暖かそうに見える。アーサーが不思議そうにその様子を眺めていると、フランシスは一つ大きく息を吸って、吐いた。

「俺がどっか行く時には、一緒に来なよ」

日付や暦を気にした事が無いアーサーは知らなかったが、その日は奇しくも、フランシスの誕生日の二日前だった。フランシスはアーサーの夏を知らなかったが、その日が、二人が出会ってちょうど一年経った日だという事は知っていた。

「俺はどこにも行かねえぞ」

「じゃあ俺だってどこにも行かない」

「は?何でだよ」

「だって一緒に居たいもん」

アーサーは、その両手を包んでいるてのひらが、少し冷たくなって汗をかいているのを感じた。

そして、ようやく気づいたのだった。


それは、フランシスの精一杯の、プロポーズだった。








おわり