歪な足跡を、並べて残す
3/15/2026
紫鸞は、帰路を急いでいた。
周瑜からの頼みで、遠方への遣いに赴いた。到着した先で書簡を渡すと、相手は不思議な顔をして、その問題はすでに解決していると首を傾げた。数瞬の後、紫鸞は弾けるように閃いた。この用事は、自分を孫権から離すためのものだったのだ。周瑜があえてそのようなことをするはずがない。おそらく他の誰かが周到に用意したものだった。踵を返し、馬を潰す勢いで走らせた。埃も払わず城へ駆け込むと、紫鸞のただならぬ様子に誰もが驚いた。孫権は無事だった。とりあえずは落ち着いて周瑜を探すと、誰かが呼びにやったらしく、急いだ様子で登城してきた。今回の遣いの詳細と情報源を尋ねると、発端は白鸞からの報告で、いつものように裏をとってから紫鸞に依頼をしたという。白鸞が信頼されていないというわけではなく、火急の件でない場合は派遣する人員の選定も兼ねてもう少し情報収集をするのだ。その手順には、いつもと変わったところはなかった。紫鸞が首を傾げようとしたところで、周瑜が、情報を確認した者の名を口にすると、紫鸞は慌てて礼をとりその場を辞した。周瑜が口にしたのは、白鸞が身分を隠すときに使っている名だった。出発前に紫鸞がその名を耳にしたところで、結局は何が起きているのかと怪しんで現地へ赴いていただろう。白鸞はとにかく、紫鸞を少しの間遠ざけたかったのだ。孫権をはじめ、誰も彼も無事だったから、白鸞が太平の要として何かをしたかったということではないはずだ。では、なぜ。
流石に馬は休ませ、紫鸞は屋敷へ走った。その勢いのまま門の中へ飛び込むと、ちょうど元化が、屋敷の前で山ほどの薬草を弟子と一緒に洗っていた。
「あ、おかえりなさい」
息を切らした紫鸞に、元化が声をかけ、手を止めた。
「何かあったんですか?」
———白鸞は来たか?
紫鸞が質問で返すと、元化は訝しげに頷きながら顔を険しくした。弟子に作業を託し、紫鸞を連れて中へ入る。紫鸞は努めて息を整えて、前を歩く元化の背中を見下ろして歩いた。
「これを、あなたに渡してくれと」
元化はそう言って、紫鸞に小さな箱を渡した。質素な作りながら丁寧に包まれたそれを開けると、白鸞の玉佩が入っていた。紫鸞の持っている物と対になっている、白鸞が次期里長であった、そして太平の要であった証。自分の手の中にあるそれを眺め、紫鸞は何も考えることができなかった。この玉佩がここに、自分の手に収まっている。なぜだ。息をするのも忘れた紫鸞に、元化は声をかけた。
「…白鸞殿、眼が悪い…んですか?」
虚を突かれて紫鸞が一瞬呆けると、
「いい医者を知らないかと、聞かれて…」
紫鸞殿はてっきり知っているものだと、と、気まずそうに続けられた。どこの医者を紹介したのかと聞けば、元化は小さな街の名前を三つ、口にした。白鸞から、何人か教えてくれと言われたらしい。もう、疑う余地は無い。白鸞は姿を消そうとしている。三つの街の名はそれぞれ遠く離れているし、紫鸞が追って来ることを見越して、おそらくその街には行かないだろう。いや、紫鸞がそう考えることを読んで、あえてそのうちのどこかへ行くのかもしれない。そもそも、本当に眼が悪いのだろうか。最後に会った時の様子を思い出してみても、いつものように仏頂面だった記憶しかない。もしかしたら白鸞の仏頂面は、眼が悪かったということなのかもしれないが。
何も言わずに突っ立ったままの紫鸞を座るように促して、元化は茶を入れた。まだ世が落ち着く前、記憶を失った紫鸞に何度か飲ませた、心が落ち着く香りの茶。その香りに、紫鸞はようやく顔を上げる。他に何か言っていなかったかと尋ねると、元化は首を横に振った。まったくいつもの様子だったと言う。それはそうだ。白鸞は面倒を嫌う。図らずも白鸞は、この国に知り合いも増え、どころか君主の覚えもめでたい。そうだ、勤めはどうするつもりなのだ。紫鸞は弾かれたように立ち上がると、白鸞の玉佩を握りしめたまま屋敷を飛び出した。
飛び出して行った紫鸞が再び駆け込んできて、城内は慌ただしくなった。紫鸞は手当たり次第に知己を訪ねた。誰も彼もが紫鸞の不在の間に白鸞と会っていた。普段と変わらない様子で、運が良ければ少し言葉を交わし(白鸞は愛想がないのだ)、またなと気軽に別れたらしい。もしかして避けられているのは自分だけなのかと危惧しながら歩いていると、周瑜に声をかけられた。周瑜は紫鸞を部屋に招いて、人を払った。
「白鸞だが、暇をとったぞ」
静かな部屋の中で、声を潜めて周瑜はそう告げた。
「必要がなければ伏せておいてほしいと言われたので、多くの者はまだ知らない。…後任の者もすでに決まっている」
続いて教えられた名は、紫鸞の知らない名だった。しばらく紫鸞が動けずにいると、孫権がやってきた。呆然としている紫鸞と、それを気遣わしげに見つめる周瑜を見て、孫権は困ったように眉尻を下げた。おそらく孫権が謝罪を述べようとするのを、周瑜が制した。
「すまない、遣いを頼む時に、言うべきだった」
周瑜はそう言うと、ちらりと孫権を見る。孫権は、小さく頷いた。
「紫鸞…その、もしお前に、この国への不安がないなら、少し、休みをとるか…?」
最近では随分と貫禄の出てきた孫権は、出会ったばかりの頃のように、少し辿々しく言葉を紡いだ。紫鸞はぼんやりと孫権を見ると、一つ大きく息を吸って、静かに吐いた。
———今はまだ、何も決めるべきじゃない。騒がせてすまなかった。また来る
静かにそう告げて、紫鸞は城を辞した。
飛び出して行った勢いとは真逆の様子で、とぼとぼと帰ってきた紫鸞に、元化は茶を淹れ直した。とりあえずは温かいものを飲むに限る。崩れるように椅子につくなり、小箱に入っていたものを握りしめて微動だにしない紫鸞を見て、元化も近くの椅子に座った。おそらく白鸞が、紫鸞に黙って姿を消したのだろうと、すでに察しはついていた。
「…探しには、行かないんですか?」
元化は、そっと尋ねた。白鸞がこの屋敷を訪れたのは、数日前だ。今ならまだ、そこまで遠くには行っていないのではないかと思った。紫鸞だって、それはわかっているはずだった。
———自分たちは…
紫鸞は、静かに静かに口を開く。
———太平の要は本来、何にも執着してはいけないんだ
執着は眼を曇らせ、公平さを失わせる。都合の悪いものを視界から消し、現実ではなく迷妄を、理想ではなく願望を追うようになる。同行を願う紫鸞に白鸞が否と繰り返していたのは、紫鸞の執着を咎めていたからだ。それでもなんだかんだと顔を見せてくれていたのは、きっと白鸞の優しさだった。けれどおそらく、白鸞は気づいてしまったのだ。紫鸞が白鸞を求めるように、白鸞も紫鸞を望んでいると。里に生まれ、次期里長として育ち、そして生きるために本音と建前を使い分ける妙を学ぶ前に、白鸞の世界は燃え落ちてしまった。だから白鸞は他に方法を知らず、玉佩を紫鸞に預け、もう自分は相応しくないのだと、役目を辞した。それを追うようなことを、してもいいのだろうか。紫鸞がまとまらない考えをそれでも巡らせていると、裏切るように紫鸞の腹が鳴った。元化は一つ笑って、紫鸞を部屋から連れ出した。
「太平の要って、引退とかできないんですか?」
肉まんが七つ八つ紫鸞の腹へと吸い込まれた頃、元化は静かに口を開いた。
「よくわからないけど、紫鸞殿だって、しばらくただの武芸者だったじゃないですか。白鸞殿は、そうはなれないんですか?」
どうなのだろう。食事であたたまった体は、紫鸞を少し落ち着かせた。紫鸞はもともと里の外で生まれ育ったし、役目の本質こそ白鸞や朱和から何度も聞かされていたものの、おそらく里で誰もが知っているような慣習やら何やらというのはよく知らなかった。落命以外で引退した者を見たことはなかったし、年を重ねるなどして弱った者も、役目を辞するのではなく、次世代を育て導く役割に変わるのを見たことがあるだけだった。白鸞なら知っているだろうから、直接尋ねるしかない。
———ありがとう、元化
腹が満ちた紫鸞は、元化に礼を言うと、席を立った。
その日、三度目に城に登った紫鸞を、周瑜と魯粛が待っていた。随分と落ち着いた様子の紫鸞を、二人は穏やかに迎えた。紫鸞はしばらくの暇を乞い、それはすんなりと許された。戻る気はあるが、もしかしたらもう戻らないかもしれない、と紫鸞が告げると、周瑜と魯粛は意味ありげに目配せをした。
「お前の名を記録に残す時、何とすればいい」
そう尋ねたのは魯粛で、周瑜はじっと紫鸞を見ていた。好きなように、と口を開きかけて、紫鸞は口を閉じた。それから、鸞の名ではなく、以前に使った名を口にした。その名はもう、紫鸞だけのものではない。いつかの夜に、白鸞と分かち合った。名を残すことなどまったく興味はなかったが、白鸞の名が残るのは悪くないと思った。何も知らないはずの周瑜と魯粛は、ただ、強く頷いた。紫鸞は、丁寧に礼をとった。
その足で、紫鸞は里へ向かった。里の、白鸞のねぐらだ。道すがら、頭上を鷹が飛んでいて、自分もああやって白鸞を探すことができればいいのにと思った。里は、いつもと変わらず静かだった。風が少しだけ耳を撫でて、草花が鼻をくすぐった。隠し通路からではなく裏口から訪ねようと、紫鸞は山へと足を進めた。以前に何度か使ったことのある、狼のための入り口。場所は覚えている。土と草を踏みながら、紫鸞は落ち着かなかった。意味もなく、焦りを感じる。この先に白鸞の隠れ家がある。それは確かだ。これまでだって、そこに白鸞が居たことも、居なかったこともある。紫鸞は少し早足に歩を進めた。見覚えのある木の並びが見えて、とうとう走り出した。落ち着かない心のままに草をかき分ける。蔦や草花、木の根に隠されていた小さな穴は、綺麗になくなっていた。最初からそこには何も無かったような顔をして、山肌がそこにある。紫鸞の息は乱れた。急いで里まで戻り、焼け跡に埋もれる隠し扉を開ける。するりとそこへ潜り込んで、暗い通路を走った。何の気配もしない。いつものことなのに、それがとてつもなく冷たかった。何度か開けたことのある扉までたどり着いて、そっと開いた。いつだって慎重に仕掛けられていた罠は、取り除かれていた。音もなく開いた入り口に、紫鸞は飛び込んだ。もつれそうになる足で通路を進み、空間が開ける。そこには、何も無かった。空の水甕はひっくり返されて、寝床があった場所には藁の一本も落ちてはいなかった。ただ、白鸞の宝物たちは、そこに残されていた。数が多かったからかもしれないし、違う理由からかもしれなかった。その棚の隅に、一つ、物が増えていた。白鸞の帯飾りだった。白鸞は、里のものを何ひとつ持ち出さなかったのだ。ただひとつ、紫鸞に渡した玉佩を除いて。紫鸞は白鸞の帯飾りにそっと触れて、手を引いた。いつの間にか止めていた息を、吐いて吸った。
それから一年と少し、紫鸞はあちこちを訪ね歩いた。元化が白鸞に紹介したという医者を、全員訪ねた。その誰もが、白鸞とは会っていなかった。白鸞と関わりがあるかもしれないという地へは、心当たりがあってもなくても足を伸ばした。屋敷へ戻るたびに、白鸞を見たかと元化に尋ねた。使える伝手は全て使った。白鸞の後任だという者にも会った。さすが白鸞が後を任せるだけあって、彼は知らぬ存ぜぬを貫いた。孫権は何度か、何かを言おうとしていたが、結局は何も言わなかった。里にも、何度か訪れた。空っぽになった白鸞のねぐらを、一度か二度、掃除した。掃除といっても、軽く埃を払う程度ではあったが。けれどその抜け殻を訪れるたびに、白鸞の帯飾りだけは手入れをした。
ある日、紫鸞がしばらくぶりに水鏡庵を訪れると、諸葛亮に龐統、そして徐庶が揃っていた。珍しいこともあるものだと目をぱちくりとさせる紫鸞に、徐庶は所在なさげに、
「人を探していると聞いたから、何かできることがあればと思って」
と告げた。その心遣いが嬉しくて、紫鸞は素直に礼を言った。諸葛亮と龐統は、慣れた様子で近況を尋ね、紫鸞はいつものように首を横に振った。白鸞は見つからないどころか、手がかりの一つも無いままだ。もしかしたら、姿や名を偽っているかもしれないし、紫鸞があちこちを駆け回るのと同時に、白鸞もあちらこちらへ移動しているのかもしれない。ぽつりぽつりと紫鸞がそう話すと、名を馳せた識者三人は顔を合わせた。
「先ほど少し三人で話していたのですが」
「その…君が探している人は、故郷には戻ってないのかい?」
「どこかを悪くしてるなら、慣れた土地の方が過ごしやすいんじゃないかねぇ」
そう言われ、紫鸞は困ったように笑った。彼らは孫呉の人間では無いから、白鸞のことは、詳しくは話していない。故郷はもう焼けてしまって記憶の中にしかないのだとも、伝えてはいなかった。けれどそこはこの三人だ、紫鸞の様子から何かを察したのか、再びそろりと口を開く。
「故郷が難しいのだったら、その近くとか」
「山奥で野菜を育てていたりなどという事もありえますね」
「そういや孔明、お前さんもそうだったなぁ」
そう続けられて、紫鸞は再び、曖昧に笑った。里の近くの山の中は、もう随分と歩き回った。家も、畑も、人の気配も、一度も見つけられたことがない。三人は、労わりの言葉をかけ、野菜を渡した。紫鸞は礼を言って、水鏡庵を後にした。
諸葛亮から渡された野菜がそれなりの量だったので、紫鸞は一度屋敷に戻ることにした。のんびりと歩く馬の背から、紫鸞はあたりを見回した。山道に入る手前、少し遠くに民家が見えた。赤く染まった空が、きっと明日も晴天だろうと告げている。空は少しずつ少しずつ暗くなっていったが、紫鸞は馬を止めなかった。光を失って冷えた風が、そろりと紫鸞のうなじを撫でた。白鸞は、まだ生きているのだろうか。ずっと考えないようにしていたその可能性が、急に紫鸞の喉を刺した。急な痛みに思わず手綱を握りしめる。その時だった。
「あれをひとりで死なせるのか」
急に近くで声がして、紫鸞は驚いて振り返った。何の気配も無かったはずだが、馬の尻に、随分と懐かしい姿が座っていた。もう会う事もないと言って消えていった、おそらくは太平の要の始祖。幼い頃の白鸞の姿をした、幻ともまた違うものが、咎めるような視線を紫鸞に向けていた。
———白鸞はどこに?
「さてな」
紫鸞は縋るように尋ねたが、彼はつれなかった。
「久しく合すれば必ず分かれ、久しく分かれれば必ず合す」
彼は紫鸞を慈しんでいるようでもあり、なじるようでもあった。
「お前を探し、諦めた時の寒さは、いかほどであっただろう」
それだけ言うと、こどもの姿は、ささやかな風と共に消えた。馬は、ただ歩き続けている。紫鸞は、馬の腹を蹴った。馬は速度を上げ、夜風を容赦無く紫鸞にぶつけた。言われるまでもなく、紫鸞は白鸞を見つけたい。見つけなければならないのだ。
数日後、紫鸞は再び里を訪れた。馬上からでは気づかない事もあるかもしれないと、その日は里から離れたところで馬を降りて、のんびりと歩いた。珍しく、鷹は飛んでいなかった。里の周囲の様子は、いつもと何ら変わりがなかった。ちらほらとある獣の気配も、小川の流れる気配も、そして、人の気配の無さも。あえて足音を立てる事もなく歩を進め、いつものように里のあった場所へ足を踏み入れると、何かが走ってきた。気配を頼りに辺りを見回すと、狼が二頭、紫鸞に向かってくる。紫鸞が慌てて木の上に逃げようとすると、一頭が咥えていた何かを放り投げ、速度を上げて紫鸞に飛びかかった。流石の紫鸞もその場に引き倒されて、慌てて懐から武器を出そうとしたが、それよりも先に、ふんふんとものすごい勢いで嗅がれたかと思うと、顔をべろべろと舐められた。先ほどまで咥えていたのだろう獲物の、血の匂いがした。紫鸞は、いつだったかに白鸞から教わった狼達の名を、確かめるように音にした。狼達は尾を振って、紫鸞を鼻で小突いた。白鸞の狼達だ。そう確信して、紫鸞は狼を押しのけて立ち上がった。
———白鸞はどこだ?
狼達は一度首を傾げると、先ほど放り投げた獲物を咥え直して走り出した。どうやら、彼らが獲ってきたのは兎らしい。その小さな肉を、その場で食べずに運んでいるということは、おそらくは白鸞の食事なのだ。紫鸞は、狼達を追った。
狼達は里を通り抜けて、山の中へ入った。草木をかき分けながら何とかついていくと、見慣れた場所に近づいていく。空になった白鸞のねぐらの、狼達が使う入り口の近くだ。紫鸞は、何度も何度もこのあたりへやってきた。そして入り口がないのを確かめて、正規の隠し通路を通って白鸞のねぐらに入った。逸る気持ちを嘲笑うように、狼達を必死に追いかける紫鸞の息は乱れていった。がさり、と最後の音を立てて、狼達は茂みの奥へと入っていった。
「戻ったか、ありがとう」
小さく、白鸞の声が聞こえた。止まりそうになる足を動かし、叫びそうになる口を閉じて、紫鸞は茂みに飛び込んだ。細かい枝葉が紫鸞の肌を叩いた。紫鸞が茂みから飛び出すと、白鸞が兎を抱えて目を丸くしていた。その肩に乗っていた一羽の鷹が、急に翼を広げて大きく鳴いた。白鸞は慌ててそれを宥めて、兎を一羽与えた。鷹は白鸞の肩から降りて、兎をついばみ始めた。狼達は、白鸞の近くで大人しく座っている。声もなく立ち尽くす紫鸞をしばらく眺めて、白鸞は静かに笑った。
「少ないが、食べるか?」
兎を掲げながらそう言うので、紫鸞は頷いた。
白鸞は慣れた様子で兎を捌き、火を起こした。水を汲みに行こうとしたのを、紫鸞が代わった。白鸞が、片足を引きずっていたからだ。悪くしたのは眼ではなく、足だったらしい。紫鸞が白鸞を見つめると、白鸞は何でもないように「以前のようには動けないが、生活くらいはできる」と言った。その声は驚くほど穏やかで、柔らかかった。狼達は、自分たちの食事をしにいき、鷹は食べかけの兎を持ってどこかへ飛んで行った。紫鸞には、言いたいことや聞きたいことがたくさんあった。たくさんありすぎて、言葉は一つも出てこなかった。ただただ、恨めしげに白鸞を睨み続け、二人が食事を終えると、白鸞はとうとう笑い出した。
「こんな所へ通っていないで、役目を果たせ」
紫鸞が暇を取っていることも、里へ何度も足を運んだ事も、白鸞は知っている。そんな響きだった。紫鸞は、口を開こうとして、一度閉じた。そして、大きく息を吸った。どうして自分の居ない間に、なぜ何も言わず、どうして、その足は、今は、どこに住んで、誰と、どうやって、なんで。まとまることを知らない言葉が紫鸞の口から流れ出るのを、白鸞は静かに聞いていた。
———どうして、置いていったんだ、自分を
兎を焼いた火の残りが、静かにぱちりと音を立てた。白鸞はずっと、微笑みすら浮かべて紫鸞を見ている。その眼に映る自分がどのような顔をしているのかなど、紫鸞には知ったことではなかった。あの日、馬を必死に走らせた日からずっと、白鸞以外の誰にも言えなかった言葉を、ようやく外に出した。身の内で育ったそれは随分と刺々しく、そのくせ弱々しかった。
「別に、お前を捨て置いたつもりはない。ただ、私は里の生き方しか知らないから」
白鸞は、眉尻を下げた。
「役に立たなくなった時、どうしていいかわからなかった」
今はこの近くに居を構えているだとか、近くの村の子供が時々迷い込んでくるのを送り返しているだとか、白鸞は話を続けたが、紫鸞の耳には上手く届かなかった。唐突に紫鸞が白鸞の袖を掴み、白鸞が口を閉じると、怒りのようなものが、紫鸞の瞳から雫になって溢れ出た。
———名は、もういらないのか?人としての名を、あなたが欲しがったのに
袖を引いていた紫鸞の手は、いつの間にか白鸞の肩を掴んでいた。
———あなたが欲しがったんだ、だから渡した。なのに、もういらないのか?
紫鸞は、かつて白鸞に与えた名を呼んだ。何も言えずにいる白鸞を、紫鸞はとうとう、その腕の中に収めた。
———生き方なんてどうでもいいんだ。わからないことは元化に聞けばいい。あなたが役目を終えたと言うなら、もう断る理由はないはずだ。共に行こう。街が嫌いなら、どこでも、あなたの好きな所へ
紫鸞の声は、湧水のように濡れていた。鍛えた身体に強く抱きしめられて、白鸞の骨が軋む。けれど、痛みは少しも感じなかった。吐息だけで名を呼ぶと、紫鸞の抱擁は強さを増した。痛みはなかったが、苦しかった。どこにも行けるはずがない。翼を失い、足も引きずるこの体たらくでは。こうして捕まえられてしまえば、逃げ出すことすら叶わないのだ。
木々のざわめきに嗚咽を隠して、白鸞は、紫鸞の背に腕を回した。
特徴的な瞳の色を持ち、よく働いて国を支えた者の名を、歴史は記録し、人々は記憶した。けれど、誰一人として知り得ないのだ。その名がどのような色で呼ばれ、その返事がどのような響きをしていたのかを。
白鸞が紫鸞の屋敷に居を移してしばらく後、紫鸞は白鸞のねぐらにあった宝物の全てをまとめて運んできた。元化の手伝いをして薬草をすりつぶしていた白鸞は、それを見て目を丸くした。かけがえのない品々の中には、もちろん白鸞の帯飾りも含まれている。
「…紫鸞」
名を呼ばれ振り返ると、白鸞が気色ばんでいた。その顔はいつもの仏頂面で、喜びなのか怒りなのか、それとも別の何かなのかはよくわからなかった。けれど、紫鸞は、そこに情というものが少なからず含まれていることを、もう知っている。白鸞が頬を赤くして紫鸞の名を呼ぶ時、その響きはいつも同じなのだ。ずっと、ずっと昔から。
〜おわり〜