夜明けの片隅で、君の名を呼ぶ

6/10/2025




 顔が見たい、と思ったので、紫鸞は白鸞の巣を訪ねた。何度か足を運んでいるものの、白鸞が居るか居ないかは運次第だった。けれど、思いついた時に足を運ぶ先があるのは、とても幸せだと思う。

 その日は満開の大樹の下で狼二頭が昼寝をしているのを見つけ、里を歩く紫鸞の足取りも軽くなった。そして気まぐれに、以前狼に教えてもらった通路から入ってみるか、と、裏口から忍び込むことにした。

 紫鸞がその場所を訪れると、白鸞は大抵眠っている。紫鸞は少し心配に思ったが、よくよく考えれば、ねぐらというのは鳥の眠る場所を指す言葉なので、まぁ、そうか、と思い直した。這い出るように通路から部屋へ入ると、ぐっすりと眠る白鸞に近づく。様子だけ見て帰ろう、とその顔を覗き込むと、ふわりと何かが鼻を撫でた。香は焚かれていない。あたりを見回してみても特に変わったものはなく、もう一度白鸞を覗き込んでみると香った。いつも冷たい水の香りしかしない白鸞から、珍しく他の香りがする。もしや白鸞自身の香りだろうかと顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らすと、白鸞が低く唸って、猫のように一つ鳴いた。何事かと紫鸞が動きを止めると、白鸞の腕が伸びてきて、

「あとで…あそんでやるから……ねかせてくれ………」

と言いながら紫鸞をころんと転がした。むにゃむにゃと口を動かし、よしよし…、と続け、目を白黒させる紫鸞の髪を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜると、白鸞は紫鸞を抱きかかえて眠ってしまった。紫鸞は、自分でも、あまり物事に動じない質だと思っている。けれどさすがに動揺してしまい、身体は緊張して硬くなった。それが伝わったのか、白鸞の腕はひどく眠そうに、それでも気遣いをもって頭や背中を撫でてくる。誰かと間違えているのか、夢の中で誰かを寝かしつけているのかわからないが、そうやってあやされてしまうと、紫鸞も少しずつ眠くなっていった。白鸞に腕を回せば起こしてしまうかと思って、紫鸞はおとなしく、白鸞に抱えられて目を閉じた。人の匂いがして、白鸞の温度があった。


 心地よい午睡の終わりは唐突だった。誰かが息をのむのが聞こえたかと思うと、目が覚めきる前に胸元を突き飛ばされた。受け身をきちんとは取れずに、しかし素早く体勢を整えてあたりを見回すと、寝台の上で、白鸞が剣に手をかけている。

「お前…!なに……」

いくつかの単語だけを何とか捻り出しているうちに目が覚めたようで、白鸞は武器から手を離した。紫鸞は息をついて立ち上がり、顔を見にきた、と告げる。白鸞は怪訝な顔をしつつも、そうか、とだけ言った。それから大きくため息をついて、寝ている間に乱れた髪を整える。その様子をぼんやりと見つめていた紫鸞の、その寝起きの口が勝手に開いた。

———肌に、触れてもいいか?

声を出した紫鸞自身が驚いて自分の口を押さえる目の前で、白鸞は怪訝な顔をして紫鸞を見た。抱きしめられて眠るのはとても心地がよかった。けれど誰かと間違えられていたのかもしれないと思うと、多少の悋気を自覚してしまう。白鸞が自分だけのものだとは思っていない。思っていないが、自分が一番であってほしいと、紫鸞は少し思ってしまった。そんな考えに至るのを、随分と平和な日常を送っているものだと他人事のようにとらえる紫鸞の視線の先で、白鸞は髪を結っていた手を下ろした。

「いいだろう。水を浴びてくるから少し待て」

そのまま出て行こうとする白鸞に、慌てたのは紫鸞だった。咄嗟にその腕を掴んで引き留め、今すぐなのかと尋ねると、違うのかと腑に落ちない顔が返ってくる。紫鸞は、いつかでいいんだ、と縋るように言う。なおも首を傾げる白鸞に、今あなたはそういう気分じゃないだろう、と重ねて言うと、白鸞は完全に納得はしていないながらも、わかったと頷いた。紫鸞はようやく、胸を撫で下ろす。白鸞は、請われれば与えてしまう。もちろん全てがそうだというわけではないが、どうしても譲れないものの中に、白鸞自身は含まれていない。里にいた頃からその気はあった。それでも、少し苦しいのだと、せっかく打ち明けてくれたのに、紫鸞はその後、姿を消した。紫鸞が必死にその生にしがみついている間、きっと白鸞は追い立てられて走り続けるしかなかっただろう。

「…何か食べるか?」

腹を空かせたのだろう白鸞は、紫鸞にもそう尋ねる。桃ならあるが、と言われ、紫鸞は手土産を持ってきたことを思い出した。慌てて懐から肉まんを取り出すと、それは押しつぶされて平らになっていた。申し訳なさそうに眉尻を下げる紫鸞に、少なからず非のある白鸞も申し訳なさそうな顔をして、誤魔化すようにあたたかい茶を用意した。それから二人で、平らになった肉まんを食べた。


 そんなことがあってからしばらく、平穏に日々は過ぎた。紫鸞と白鸞はそう頻繁に顔を合わせるわけでもないが、どちらかがどちらかを訪ねれば茶や酒の一杯や二杯は共に飲んだ。あの日の会話を覚えているのかいないのか、白鸞の様子は全く変わらなかったし、紫鸞にも変わりはなかった。頼まれごとが舞い込めばそれをこなし、酒宴に誘われれば七回に一度くらいは白鸞も顔を見せた。白鸞は相変わらず、時折珍しい薬草を持って元化を訪れ、ついでに紫鸞に顔を見せた。紫鸞も気が向けば白鸞のねぐらに足を運び、運がよければ白鸞の様子を見て、そうでなければ里だった場所の様子を眺めて帰った。


 ある日ふと、紫鸞の目は、白鸞の纏う僅かな隙をきちんと掴んだ。

 薬草を届けにきた白鸞は、不在だった元化の代わりに紫鸞にそれを渡した。何度かしたことのあるやり取りで、紫鸞は預かった薬草をどのように保管すれば良いのかも、もう知っている。差し出された薬草の香りの奥に、冷たい水の香りがした。白鸞だ。おや、と紫鸞が顔を上げると、白鸞と目が合った。その目を見て、ああ、知っていたのか、と思った。元化が不在にしていることを。それでも薬草を持ってきたのは、白鸞が紫鸞ほどには素直ではないからだ。紫鸞はそれを、よくわかっている。紫鸞は薬草を机の上の籠に入れた。それから部屋の戸を閉めて、小さな鈴で封をした。白鸞はそれをじっと見ていたかと思うと、ゆっくりと寝台に近づいて腰掛けた。窓からは、夕の光が覗き見をしている。言葉にすると、ものごとには形ができてしまうから、紫鸞は何も言わなかった。そろりと白鸞の隣に座って、少し肩を寄せてみた。白鸞は何も言わなかったので、紫鸞はそっと、その手に触れた。そうして二人、太陽が諦めて帰っていくのを、ただ待った。

 明るい月が出てきたので、灯りは点けなかった。その暗さと静けさに少し気が緩んで、紫鸞は白鸞に顔を寄せた。白鸞が目を閉じなかったので、触れるか触れないかのところで一度止まると、白鸞はわずかに首を傾げた。その様子があまりに無垢で、全てを許されているのがわかったので、紫鸞は遠い日にそうしたことがあったように、白鸞の頬をかじった。ふ、と砂つぶほどの上機嫌が白鸞から溢れたので、紫鸞は今度こそ、白鸞の唇を食んだ。行く先々で様々なものを食べてきた紫鸞の、知らない果実の味がした。

 紫鸞は全てを、信じたくないほどゆっくりと丁寧に進めていった。白鸞は最初、少し不思議そうな顔をして、それが少しずつ戸惑いに変わって、それから結局、息をするのも大変になってしまった。身体のあちらこちら、それこそ外側も内側もが、紫鸞の指紋や舌のざらつきまで覚えてしまいそうだったが、それでも何も言わなかった。きちんとまとめられていた髪は解かれることもなくただ崩れ、衣服も、着ているとは言い難いが身ぐるみ剥がされたわけでもない。紫鸞の狼藉は、白鸞の許容を少しずつ少しずつ広げていくようだった。まだ白鸞が指先をなんとか器用に使えていた頃に、必死に手を動かしたおかげで、紫鸞の身なりもそれなりに乱れてはいる。はずだが、白鸞にはもう、よくわからなかった。そういえば、肌に触れたいのだと言っていた。もしかしたら本当に触れるだけで終わるのかもしれない。紫鸞は稀にそういうところがある、と急に思い立って白鸞がひくりと喉を鳴らすと、紫鸞はすぐに、身を起こして顔を覗き込んだ。その目を見て、白鸞は少し安心した。戦場では見ることのない色だ。他の誰かのためではなく、紫鸞自身が手に入れたいものを狙う光。それでも、その薄紫は気遣いに溢れている。どうした、と言葉にせずに尋ねられて、白鸞はせめて息を落ち着かせようとした。

「お、まえ、なんで、こんな…」

声は出せたが、言葉が見つからなかった。きっと言いたいことがあるのに、よくわからない。文句を言いたいたいわけでも、拒絶をしたいわけでもなかった。形の見つからないものごとは、もしかしたら言葉にしない方が伝わるのかもしれない。紫鸞は舌なめずりを隠しきれない顔で、それでも優しく白鸞の前髪に触れて、その目元を露わにした。

———あなたと事に及ぶ時は、最大限時間をかけるようにと言われた

随分と久しぶりに耳に届く紫鸞の声は、白鸞の知らない温度を持っていた。その熱はきちんと白鸞に伝わって、その頬に宿った。苦し紛れに「だれに」と聞けば、失った片翼の名が降ってくる。は、と、名前の見つからない心のかけらが白鸞の口から出ていくと、紫鸞はそれをそのまま食べた。最後のひとかけらまで味わうように口の中を行儀悪く舐め回されて、白鸞はついに喘いだ。

「すこし、まて…!」

息がしたい、と続けることができなかったその言葉は、紫鸞には別の記憶を呼び起こさせた。紫鸞を誰かと間違えた白鸞に、あとで遊んでやるからと髪を乱され、寝台に引き込まれたあの日を。それは、信じられないほど紫鸞の心を乱した。白鸞が自分だけのものだとは思っていない。思っていないが、自分が一番であってほしいと、もはや紫鸞は願ってやまない。目の前の全てをめちゃくちゃにしてしまいたい衝動をなんとか堪えて、紫鸞は白鸞の首元を強く噛んだ。白鸞は声を上げなかった。ただ、一瞬息を止めて、ゆるゆると重たげな腕で紫鸞の頭を抱え込んだ。

「わかった…、またなくていい…」

許しを得た紫鸞は、深く残った歯形を舐めた。血の味はしないから、おそらく皮膚は破れていない。自分でやったくせに、そのことにひどく安堵した。

 それからまた長い長い時間をかけて、ようやく紫鸞が中に収まると、白鸞はもう、息も絶え絶えだった。せめて紫鸞の手が冷たければ一息つくこともできただろうに、触れてくる紫鸞はどこもかしこも白鸞と同じように熱かった。痛みや苦しみがあれば少しは熱を冷ますことができたかもしれないのに、結局、それすら与えられなかった。白鸞は、されるがままに全てを投げ出した。紫鸞がこの状況を作ったのだから、全ての責任は紫鸞にある。紫鸞がなんとかするだろう。普段であれば決して至らない結論に、白鸞は引き込まれていた。他でもない、紫鸞によって。その紫鸞はといえば、もうずっと、どろどろに焼け落ちそうな目で白鸞を見て、ぐずぐずに煮崩れた欲で白鸞を囲み込んでいる。外側も内側も熱くて、どうにかしてほしかった。紫鸞は師の教えにどこまでも従うつもりらしく、白鸞はただ、燃え盛る慈しみのなかで必死に息をした。

———あなたはいつも、与えてばかりだ。自分があなたにあげられるものは、何かないだろうか

不意に、意識の近くで紫鸞の声がした。一生懸命に言葉の主と目を合わせると、なんだか呼吸が楽になった。そうか、目を合わせていなければいけなかったのか、とぼんやりと思った。そのまままた、何もかもわからなくなってしまいそうになったところで少し揺られて、白鸞はもう一度、紫鸞の瞳をなんとか覗き込んだ。

———なにか、ほしいものは

聞こえているか不安になったのか、紫鸞はもう一度尋ねた。白鸞は、まとまらない頭に鞭打って、紫鸞が何を求めているのかを考えようとした。自分が太平の世を望んでいることを、目の前の男は充分すぎるほど知っている。であれば、そういうことではないのだろう。なにか贈り物をしたいということなのか。だとしても、入り用の物も無い。黙ったままの白鸞に、紫鸞はやさしく微笑んだ。そしてもう一度口を開く。

———自分だけがあなたにあげられるものは、なにかないか?

ぐずる幼な子の機嫌をとるような響きに絆されて、紫鸞、と目の前の優しさを呼ぼうとして、

「…名を」

白鸞の口は勝手に動いた。里で生まれ、次期里長として育てられた白鸞は、「白鸞」以外に名を持たない。けれど紫鸞には、里に来る前に呼ばれていた名がある。きっと白鸞は、もうずっと長い間、それがほんの少し羨ましかった。紫鸞は、里の外でも生きていける。けれど、白鸞は。

「人としての、わたしの名を」

震える白鸞の声は、その場にそぐわず冷めていた。どうせ与えられるはずがないと、その声は言い、わずかばかりの希望を、その目に隠している。太平の要の里は、もうどこにも無い。白鸞は言っていた、霊鳥の名を持つ者は、世に二人だと。紫鸞はようやく、朱和の教えを理解した。白鸞を人に落とすには、たしかにそれだけの行いが必要なのだ。自分の望みの一つも言わず、それを口にしてなお、叶うことは無いと思い込んでいる。そうしてやっと吐かせた「ほしいもの」ですら、彼の願いそのものではないのだ。

 紫鸞は白鸞と額を合わせた。聞こえてきた小さな鳴き声を咄嗟に啄んで、それから、自分が記憶を無くしていた頃に名乗っていた名を口にする。疑問を浮かべる白鸞に笑顔を向けて、もう一度その名を呼んだ。

———おなじ名で生きよう。そうすれば、さみしくないから

そう言われ、白鸞は息の仕方を完全に忘れてしまった。言いたいことが山のようにあるはずなのに、言葉が一つも見つからなかった。口から何も出ていけないかわりに、目がうるんでいくのがわかる。慌ててそれを隠そうとする白鸞の腕を掴んで、紫鸞はその顔を覗き込んだ。そこに拒否の色が無かったので、髪も服も、それからその顔も、ぐちゃぐちゃになってしまった白鸞の全てを抱きしめた。堪えられなかった嗚咽にも、しゃくりあげて震える身体にも、紫鸞はようやく触れることができた。それがとても嬉しくて、紫鸞は容赦無くじっくりと、泣き止まない白鸞をあやした。


 陽もだいぶ高くなった頃に紫鸞が目を覚ますと、白鸞は居なかった。少しさみしかったが、慣れてはいる。机の上に置かれた籠には薬草が入っていたから、都合の良い夢では無かったのだろうとわかる。それでよかった。用事も無いので寝直そうとすると、

「愚か者。昼だぞ、起きろ」

と声がかかった。紫鸞が飛び起きると、白鸞が戸口に立っていた。いつも通りしゃんとしていて、けれど目元にうっすらと赤みが残っている。帰ってしまったのかと思った、と紫鸞が素直に告げると、白鸞は少しだけ目を泳がせた。

「流石に腹が減っているので、なにか食べてから発つ」

白鸞が紫鸞ほどには素直ではないことを、紫鸞はよくわかっている。だから、ただ頷いた。そうか、ではそうしよう、と紫鸞が身支度をするのを、白鸞は大人しく待っていた。支度をしながら、出かけていたのかと問えば、街の外で待たせていた狼たちを先に帰したと返ってくる。おそらく夜明け前には帰るつもりだったのだなと思いながら、そういえば、と、紫鸞は白鸞を見やった。

———あの狼たちの名前は何というんだ?

何度も顔を合わせておきながら、いつもなんとなく通じることができるから、名前を気にしたことがなかった。白鸞は、少し間をおいて、二度、猫のように鳴いた。きょとんとする紫鸞に、白鸞はもう一度、猫のように鳴く。

「彼らの名だ。共に仕事をすることも多い。人に聞かれて困る名はつけない」

そう言われ、なるほど、と紫鸞は思い、そして唐突に思い出した。あの日、白鸞のねぐらで、白鸞が急に猫のように鳴いたことを。もう一度聞きたいと頼むと、白鸞は怪訝な顔をしながらも、狼たちの名を呼んだ。そのうちの一つには、ぼんやりと覚えがある。紫鸞は、込み上げてくる笑いを殺しきれなかった。あの日、白鸞は、狼と紫鸞を間違えたのだ。だからあんなにも髪をまぜられて、よしよしと撫でまわされたのだ。白鸞に腕をまわし返さなくてよかった。もしそうしていたら、白鸞はそれが狼ではないと気づき、即座に目を覚ましていたことだろう。

 急に笑い始めた紫鸞に白鸞は眉をひそめたが、浮かれているのだとしたら心当たりが無いことも無い。それに、紫鸞は美味いもののありかをよく知っているから、とりあえずは紫鸞が身支度を終えるのを待つことにした。身なりに時間をかける男ではないので、すぐに準備は整うだろう。そして白鸞の名を呼ぶのだ。それがまるで、この世に唯一の宝であるかのように。



〜おわり〜