命綱を渡る
6/7/2025
「そういえば、最近白鸞どのを見ませんね。忙しいのかな」
ふと元化のこぼした言葉が、その日に限ってやけに紫鸞の心をざわつかせた。紫鸞は努めて忘れようとしたが、小さく罅の入った器から漏れる水は、どうしたって止めることはできない。何もなければそれで良い。何かあったのなら後悔はしたくない。常ならば遠方に身を寄せている白鸞だが、もし有事であるなら、彼の隠れ家にいる可能性が高いだろう。紫鸞はその日のうちに、里のあった場所へと足を向けた。
里は———正確には里のあった場所は、訪れるたびにほんの少しずつ草花が増えている。ここでは木々は常に春を着飾ってはいるが、焼け落ちた家々の跡や通りのあった場所は、少しずつその姿を変えていた。時の流れは、こうして目に見える形をとることがある。ここへよく訪れる者は、紫鸞と白鸞くらいしか居ないだろう。きっと白鸞は、時間に埋もれていく里の姿を、それでも愛し続けているに違いない。
先日見つけた白鸞の巣へ向かおうとすると、物陰から狼が姿を見せた。その毛並みには見覚えがある。白鸞の狼だ。その狼がここに居るということは、白鸞もここに居る。少し首筋がざわついて、紫鸞は狼に近づいていった。挨拶をしようと手を伸ばすと、狼はその手を一度軽く咥えて引いて、すぐに口を離した。それからのっそりと歩き出すので、紫鸞はおとなしくついていった。おそらく、狼はもう一頭いる。彼らが紫鸞を仲間だと認めてくれているのかはわからないが、賢い彼らが紫鸞を呼んでいるのなら、それは白鸞に必要なことなのだと思った。
以前は内側から忍び込んだ白鸞の巣に、その日は外から入った。狼が、彼らの使う出入り口へと連れていってくれた。不用心にも、少し離れたところで火を使った跡がそのままになっていた。中へ入れと促してくる狼を少し待たせて、紫鸞は急いでそれを片付けた。あとで使うつもりだったのかもしれないが、白鸞が人の痕跡も処理できない状態なのであれば、元化のところへ連れて行かねばならない。生い茂る草葉に隠れている窪みに狼に続いて入っていくと、見覚えのない短い通路の先に、白鸞の部屋があるようだった。きっと狼のために白鸞が作った通路なのだろう、人である紫鸞には少々歩きにくい大きさだった。腰を屈めて進んでいくと、強めに焚かれているらしい香が、ふわりと紫鸞の鼻を撫でる。その香りの中に血の匂いが混じっていないことに少しだけ安心して、紫鸞は肩掛けで鼻を覆いながら早足に進んだ。狼たちの鼻は自分たちよりもよほど繊細にできているはずだが、何も影響を受けていないように見える。きっと、白鸞がそのように育てたか、そのように香を作ったのだ。通路を抜けると、記憶の通りの部屋が現れた。一番奥にある寝台で、もう一頭の狼に寄り添われて、白鸞が眠っていた。側には水差しと、保存用に加工された食料が無造作に置いてあって、白鸞本人も回復に時間がかかる事を見越しているのだとわかった。紫鸞が近づいてもぴくりともせず眠り続けているのは、焚かれている香が、深井眠りをもたらすものだからだろう。煙を辿れば、おそらく燃え尽きる時間がきちんと計算された分量の、そろそろ全てが灰になりそうなものが、香炉を使うでもなく、小皿の上で燻っていた。紫鸞は白鸞に近づき、その名を呼んだ。予想通り返事は無い。そっと触れて脈と息を確認すると、深く眠っているのだろう、随分とゆっくりとしていた。けれど、確かに生きている。その身体がいつもより少し暖かい気がして、生きていることの安心と、どうやら万全ではないらしい様子への心配が湧いてくる。紫鸞はほんの少しだけ考えたあと、側にあった白鸞の荷物をまとめた。狼たちに、医者のところへ連れていく、と説明してから白鸞を抱え上げる。意識のないうちに連れていった方が良いだろう。白鸞が口を開けば、紫鸞には勝ち目は無い。狼の通路は人間二人には狭すぎるので、紫鸞は人間用の出入り口から外へ出た。侵入者に備えた仕掛けを直すことも忘れない。白鸞はきっと、いつでも隠れ家を外へ移すことができる。それをしないのは、白鸞が里を大切に思っているからだ。紫鸞の不注意で、その巣を何者かに荒らされてしまうことは、絶対にあってはならない。
狼たちは、馬から離れて着いてきた。紫鸞の馬は狼たちを少し怖がる様子を見せたが、紫鸞が落ち着いているのを見て腹を決めたようで、普段と同じように走ってくれた。街が近づくと、狼たちはいつの間にか居なくなっていた。さすがは白鸞の狼だ、もしかしたら、紫鸞よりその辺りの塩梅が上手いのかもしれなかった。
白鸞を自室に運び込んで丁寧に寝かせると、紫鸞は元化を訪ねた。夜も更けていて少し申し訳なかったが、元化が文句の一つも言わないであろうことは、短くない付き合いで知っている。案の定、事情を聞いた元化は、弟子を叩き起こして湯の用意を言い付け、それからすぐに紫鸞の部屋へ向かってくれた。
「怪我ですか?病ですか?」
元化は白鸞の顔を覗き込みながら、静かに尋ねた。紫鸞が正直にわからないと言うと、元化は服の上から色々なところを触ったり、手足を動かしたりした。それから、状態を確認したいので衣類をゆるめますね、と紫鸞を振り返った。なぜ自分に確認するのか良くわからないままに頷くと、元化は神妙な顔をする。
「急に暴れたりしたら、助けてください」
なるほど、と思い至って、紫鸞はしっかりと頷いた。一人で眠っていたのを勝手に連れてきてしまったのだ。目を覚まして驚いて、手が出ることもあるかもしれない。
「わぁ…」
元化が声をかけながら白鸞の衣服をくつろげていくと、腹回りに布が巻かれていた。薬草の香りのするそれを取り除くと、脇腹、というより半身に及ぶ勢いで、胴の色が変わっている。皮膚は破れていないようだが、強い衝撃を受けたのだろうと知れた。
「内臓は、大丈夫そうですけど」
元化は骨の様子や体の内側の様子を診ながら、痛そう、と呟く。その元化の視界の外、けれど紫鸞の目の端で、べたべたと体を改められている白鸞がうっすらと目を開いた。意識が戻ったのなら、多少なりとも痛みを感じているだろうに、ぴくりとも動かず、少しも息を乱さない。紫鸞が声をかけると、白鸞は再び目を閉じた。けれど紫鸞には、その呼吸から、白鸞に意識があるのがわかる。
「白鸞どの、痛かったら教えてもらえますか?」
起きたのか、と元化が声をかけるが、白鸞は何の反応も示さなかった。寝ちゃったかな、と触診に戻る元化に、紫鸞は近づいた。白鸞は起きている。隠密行動を生業とする彼らは、意識を取り戻した際、周囲の状況をはっきりと認識するまでは寝たふりを続けるように教え込まれる。意識があることを知られた場合でも、視線の動きを隠し、声を出さない。その静寂の下で白鸞は、手甲に隠しているであろう暗器を確かめているに違いなかった。白鸞は、たとえ自らが危険の中にあったとしても、相手を無闇に殺すことはしないだろう。それでも、おそらくは眠り薬やしびれ薬などを塗った針を隠し持っているはずだ。今元化を眠らされては、白鸞をここへ連れてきた意味がなくなってしまう。
———白鸞、ここは自分の部屋で、今、元化が診てくれている。安心してほしい
紫鸞は白鸞の右手にそっと触れ、無闇に動かせないようにしながらそう声をかけた。けれど白鸞は目を開かない。起きたばかりだからか、香がまだ抜けないのか、それとも痛みで朦朧としているのか。原因はわからなかったが、白鸞の意識には、いまだもやがかかっているのであろうことは見てとれた。様子をうかがうように見上げる元化に、紫鸞は続けてくれと伝えた。少しして、元化の弟子が湯を持ってきた。元化は白鸞のあざのあたりを清めて、それから軟膏を塗って、清潔な布を巻き直した。
薬湯を作るから、と一旦自室へ向かった元化を見送って、紫鸞は寝台に腰を下ろす。白鸞の右手を放して、そっとその肩に触れた。それから静かに、その耳元で慎重に言葉を紡ぐ。太平の要には、意識のはっきりしない仲間へ安全を告げるための合言葉がある。それを聞けば、白鸞は緊張を解いてゆっくりと休めるはずだった。紫鸞の声を聞くと、白鸞の肩は僅かに揺れた。しかし、それが全てだった。目を開けることも、声を出すこともなく、その全身からはまだ警戒が滲み出ている。聞こえなかったのかともう一度口を開きかけて、けれど、白鸞が動かない理由に思い至り、吸った息をそのまま止めた。
変わったのだ。合言葉が。
紫鸞は覚えている。あの日、里に裏切り者が出た。それが太平の要から出たのか、里の幹部からだったのか、これまでは知る由も無かった。しかし合図を変更したと言うことは、鸞和の名を持つ誰かだったのだろう。そしてその者はまだ生きている。または、生死の確認が取れていない。だからこそ、合言葉を変える必要があったのだ。
白鸞が戦場で紫鸞を見つけ、香で呼び出した時。彼は出会い頭に紫鸞の名を呼んだ。今になってよくよく考えれば、あれは白鸞の甘さだったと思う。そこから紫鸞の名が外に漏れ、成りすます者が出てくることだって起こり得た。紫鸞が記憶を失っていたのを知って、おそらく白鸞こそがその可能性に気づき、己の甘さを思い知ったはずだ。死んだと思っていた紫鸞は生きていた。それは確かに喜びであっただろうが、同時に白鸞の背筋を冷やしたに違いない。連絡が無いだけで、生きている者は他にも居るかもしれないのだから。もしかしたらこの傷だって、紫鸞の知らない何者かの技でつけられたのかも知れなかった。
紫鸞が何も言えずに白鸞を見つめていると、薬湯を手にした元化が部屋に入ってきた。紫鸞はそれを受け取って礼を言う。元化は、処置は終わったので寝に戻るが、何かあればすぐ呼ぶようにと念を押して去っていった。今の白鸞が口に入れられたものを素直に飲み込むかどうかはわからなかったが、きっとそれが薬湯だと気づくだろう。紫鸞はそう思って、というより半ばそう願って、返事が無いと知りながらも白鸞に声をかけて口元に匙を運んだ。白鸞は静かに匂いを嗅いだ後、うっすらと目を開けた。匙を持つ手を辿って紫鸞と目を合わせようとしているのはわかったが、その瞳は始終ぼんやりとしていた。白鸞は再び目を閉じ、おとなしく匙から薬湯を飲んだ。紫鸞はほっとして、白鸞が再び眠ってしまうまで、少しずつその薬湯を口に運び続けた。
夜明け前、紫鸞が椅子の上で目を覚ますと、寝台の上に狼が寝そべっていた。さすがに驚いて反射的に立ち上がると、狼は咎めるように紫鸞を一瞥し、白鸞に寄り添って目を閉じる。いつの間に、どうやって入ってきたのかはわからなかったが、それで白鸞がゆっくりと休めるのならばそれでいいか、と思い直し、紫鸞は再び椅子に座って目を閉じた。
窓の外が明るくなり、その空の色につられるように紫鸞の瞳もまぶたから顔を出すと、狼はいなくなっていた。夢だったのかと一瞬戸惑ったが、寝具に獣の毛がついていて、夢ではないのだと知れた。運び込んだのが夜中だったのもあり、白鸞の顔色が良くなっているのか悪くなっているのかは確信が持てなかったが、昨夜よりずいぶんとぐっすり眠っているようで、紫鸞はほっと息をついた。寝台に近づいてその頬を突いてみると、不機嫌そうに眉を寄せて唸る。反応が返ってきたことに、紫鸞はうれしくなった。何か食べるものを見繕うかと腰を上げると、不意に白鸞の寝息が消えた。紫鸞が振り返ると、白鸞としっかりと目が合う。白鸞はゆっくりと身を起こすと、元化の巻いた布を触ったり、軟膏の匂いを嗅いだり、服についている狼の毛を検分したり、一通りあたりを見回した。それから視線を紫鸞に戻すと、口を開く。
「説明しろ」
いつも通りの白鸞の様子に、紫鸞は心の底から安心した。
「…説明しろ」
ほっと胸を撫で下ろしていると鋭い声が飛んできて、紫鸞は慌てて寝台に座り直し、大まかに事の次第を話した。白鸞はそれを遮る事なく最後まで聞いて、そうか、と短く呟き、ばつが悪そうに礼を述べた。それから寝台から降りようとして顔を顰めるので、紫鸞は慌てて白鸞を寝台に押し戻した。何があったんだ、と今度は紫鸞が尋ねると、白鸞は目を閉じ、口を引き結んだ。紫鸞が再び白鸞の名を呼ぶと、ついに諦めたように紫鸞を睨み、目を泳がせた。
「猪が…」
一瞬、何を言われたかわからず紫鸞が聞き返すと、白鸞は渋々口を開いた。
「…薬草をとっていたら、急に猪が飛び出してきた。どうやら熊に追われていたらしく…。足場の悪いところにいたのでうまく避けられず、直撃されたというわけだ」
脇腹のあの派手なあざは、猪に突進されてできたものだと言われ、紫鸞は咄嗟に何も言えなかった。
「熊は、狼たちが追い払ってくれたようだ」
必死に走る猪に突き飛ばされた白鸞は、少しの間気を失っていたらしい。その間に狼たちが熊を追い払い、猪を仕留めてくれたのだと言う。せっかくの猪だったが、痛む体で捌くこともできず、狼たちに頼んで最寄りの集落の近くへ置いてきてもらったらしい。きっと今頃、人々の腹に収まっているだろう、と白鸞は締め括った。人の世のいざこざでなかったことを喜べばいいのか、世が太平であろうとなかろうと、人は簡単に命を落とすのだということを恐れればいいのか、紫鸞にはわからなかった。ただ、絞り出すように、頼むから気をつけてくれと言うことしかできず、それを聞いた白鸞は神妙に頷いた。
はっきりと目を覚ました白鸞に、元化は数日間は安静にするようにと告げた。すぐにでも去ろうとしていた白鸞は、しかし、派手な見た目通りに身体が痛むようで、少なくとも一日二日は世話になる、と頭を下げた。
気まずそうに寝台で横になる白鸞に、紫鸞は持ってきていた荷物を渡した。そこには白鸞の使っていた香も入っている。使うなら火を用意するが、と聞いてみると、白鸞は首を横に振った。元化の薬湯に痛み止めの効果があるから必要は無いと告げ、小さくあくびを噛み殺す。珍しいその様子に、紫鸞は衝立を窓辺に移動させて、部屋の中を少し暗くした。適当に出かけてくるからゆっくり眠るといい、と告げると、白鸞は小さく頷く。そのままうとうととしている様子を見て、紫鸞は、昨夜の、うんともすんとも言わない白鸞の姿をぼんやりと思い出した。何を言っても、何をしても反応を返さず、紫鸞の知る合言葉では安全を伝えられなかった。紫鸞はまだ、その秘密を教えてもらえるだろうか。新しい合言葉を知っている者は、一体どのくらい居るのだろう。
紫鸞は、もう一度寝台に腰掛けた。それに気づいた白鸞が、重そうに瞼を持ち上げる。目が合ったところで、紫鸞はもう一度、彼の知る符牒を口にした。白鸞は、じっと紫鸞を見ている。
———新しいものを、教えてくれないか?
紫鸞は、駆け引きが得意ではない。だから素直にそう言った。白鸞はため息をつくように笑って、目を閉じる。
「私以外に、誰が仲間かもわからないのにか」
そう言われ、確かにそうだなと納得した紫鸞は、ではそれも教えて欲しいと頼んだ。白鸞は、静かにぼんやりと目を開き、何事かを考えている。紫鸞はそれを見つめながら、白鸞の言葉を待った。
「お前は、いま誰かと知り合って名を聞かれたら、何と名乗る」
白鸞のその言葉に、紫鸞は里でもらった鸞の名を名乗った。
「…ふふ」
それに返ってきたのは、ささやかな笑い声だった。紫鸞がじっと見ている先で、白鸞は目を開く。少し苦しそうに、それでも笑った。
「では、新しいものを考えよう」
これから考えるのか、と首を傾げる紫鸞に、白鸞は目を閉じる。
「お前が紫鸞と名乗るのならば、霊鳥の名を持つ太平の要は、世に二人ということになる。新しい合図を考えよう」
そのまつ毛がしずかに濡れるのを、紫鸞は変わらず、じっと見つめて、それからそっと、手を伸ばした。
小さく罅の入った器から漏れる水は、どうしたって止めることはできない。けれど紫鸞は、せめてその傷に手を当て労り、器が破れてしまわないように包みたかった。
時の流れは、こうして目に見える形をとることがある。
白鸞は、紫鸞の手を振り払わなかった。
〜おわり〜