記憶のねぐらで、獣の名を呼ぶ

4/15/2025




 紫鸞が孫堅から白鸞の居場所を尋ねられたのは、赤壁の戦後処理もそろそろ落ち着くだろうという頃だった。聞けば白鸞は、彼らの工作が一段落したあたりで姿を消し、その後はどこにも見当たらないと言う。彼のことだから、やる事が終わったから帰ったのだろうと告げれば、働きに応じて報いたいので白鸞が欲しいものを知りたいと返ってきた。きっと何も要らないのだろうな、と思いながらも、一応は探してみると伝えると、孫堅は少しだけ安心した素振りを見せた。紫鸞がそれを見逃さずに首を傾げると、孫堅は父親の顔をした。しばらくの間白鸞は、いつ寝ているのかというような働きっぷりだったらしい。それでいて例のごとくつれない態度なものだから、息子達よりも年若いであろう白鸞のことを、少し心配しているらしかった。紫鸞にとって、そして太平の要にとって、目的のために眠らずに働くというのは親しみのある状況ではある。暗にそう言えば、孫堅は腕を組んで眉をしかめ、若いからと無茶ばかりするなと苦笑し、紫鸞はそういうものかと頷いた。


 白鸞を探すとは言ったものの、紫鸞は連絡手段を持っているわけでもないし、白鸞の居場所を知っているわけでもなかった。とりあえず、と、たまに顔を合わせる里へと出向いてみたが、人の気配は全く無い。辺りを一望できる大きな木に登って、白鸞が叱りに来るのを待ってみたが、いくら待ってみても、白鸞どころか、人の一人も姿を見せなかった。だから紫鸞は、木の上で、里の焼け跡が少しずつ自然にかえっていく様子を、ゆっくりと眺めた。木々の花はいつものように咲いていて、土の匂いがして、とても静かだった。焼け落ちた家々の跡を、あちらは誰それの家だった、そちらは何やらの置き場所だった、などと思い出しながら眺める。自分でも驚くほどに、心は凪いでいた。何もかもを忘れてしまっている間に、然るべき荒波は過ぎたのだろうと思った。ふと、どこからか鳥の声が聞こえたので、声の主を探してみる。しかしどこにも、小鳥の一羽も姿は見えなかった。陽の光は暖かく、のどかで、昼寝でもして帰るか、と思ったところで、それが急に目に入ってきた。里長の屋敷だった場所だ。里の真ん中あたりにあって、他より大きな建物だったからだろう、瓦礫の量も、少し多かった。そこにわずかな違和感を感じてまじまじと見ていた紫鸞は、弾けるようにあることを思い出した。里長の屋敷には、里の外へ通じる隠し通路があったのだ。おそらくあの日も、その通路を使って逃げた者は少なくなかっただろう。紫鸞は木から降りると、屋敷の跡へ近づいた。紫鸞や朱和は白鸞の護衛を務めていたので、その隠し通路の場所を知っている。朧げな記憶を必死に掘り返し、焼け跡の周りをうろうろとしばらく歩いて、紫鸞はようやく、床だった部分に隠されたその扉を見つけた。扉は景色に溶け込むように朽ちかけていて、最近使われた様子は無い。しかし、それはそのように見せかけられている可能性もある。紫鸞は、石造りの床の一角を、もうはっきりと思い出した手順で開けた。現れた通路は崩れる事なく口を開けている。そこに、散って数日も経っていないだろう花びらが、一枚だけ落ちていた。この通路は、まだ使われている。この花びらはもしかしたら、白鸞の気の緩みなのかもしれない。そう考えた紫鸞は通路に入ると、丁寧に外側を元に戻し、扉を閉めた。

 記憶の通り、通路の中は暗い。けれど、所々に開けられている小さな穴から、少しだけ外の光が入ってきていた。それらは空気穴も兼ねているし、外の様子をうかがうためのものでもある。もちろん、この通路の上には里の瓦礫や山の草木が存在していて、よほど念入りに探さない限り、外からは見つけられないはずだ。紫鸞は、音を立てないように細心の注意を払って歩いた。移動のみを目的とした通路だから、狭くて細長い。昔日に一度二度通った事があるが、今はその時以上に慎重だった。

 しばらく歩いていくと、すんなりと外に出た。川も何も無い、人里離れた山の真ん中だ。昔は、この近くに獣道があった。人が作ったのではない本当の獣道に似せた、人の作った道だ。紫鸞は辺りを見回したが、道のようなものは見当たらなかった。通路は使われている形跡があったが、その出口から先はあまりにも自然そのもので、紫鸞は来た道を振り返った。おそらく、何かを見落としている。紫鸞は一度大きく息を吸って、吐いて、通路に戻った。木々や土の香りを思い切り吸い込み、そして吐き出した後に改めて嗅いでみれば、通路の空気からは微かな香りがする。それは、元化が宿に卸していたという香に似ていた。紫鸞は今度は、壁に手を這わせながら歩き出した。

 絶対に音を立てないように。できるだけ空気を動かさないように。注意深く入口から出口まで何往復かして、紫鸞はついに、新しい扉を見つけた。薄暗い通路の中で、それは普通の壁にしか見えない。霊鳥の目を何度か使ってようやく見つけたその扉の開け方を、紫鸞は慎重に探した。当たり前のように、取手のようなものは無い。壁のわずかな窪みをいくつかそっと押してみると、その一つを押した時に少しだけ壁が動いた。紫鸞はそこで一度手を止め、ほんの僅かな隙間から中を覗く。ただでさえ暗い通路の先の、同じように暗い空間、そこにあるものを、何でもいいから見ようとした。目を凝らして揺らぎを探し、息を止めて空気の動きを読み、耳を澄ませて手がかりを得る。すると、どうやら扉の向こうには紐のようなものがあって、紫鸞は瞬時に仕組みを理解した。この扉は今も使われていて、この先には白鸞が居るのだ。このまま扉を開けると、紐を伝って部屋の奥で鈴なり鳴子なりが音を立て、何者かの侵入を知らせるようになっているはずだ。里では忍び込み方も教わるが、忍び込む者への対処法も教え込まれる。それがきちんと使用されているようだった。紫鸞は扉をゆっくりと、もう少しだけ開き、慎重に紐を切った。その端を掴んで位置を固定しながら、自分が通れるように扉を開ける。中に滑り込んだあとは切った紐を結び直して、仕掛けを直しておいた。ここから先は、瞬きをするのも気をつけなければならない。何せ、中にいるのは白鸞なのだから。

 紫鸞は、慎重に足を運んだ。金属の少ない装束を纏っていて良かったと思う。布は音を吸うが、金属は跳ね返し、時に鋭い音を立てる。そろりそろりと先へ進んでいくと、少しずつ広くなっていき、通路に残っていた香りが、僅かずつ確かなものになっていく。ふと気配を感じて、紫鸞は足を止めた。それは音もなく近づいてくる。どこかに隠れたかったが、土を掘っただけの場所には身を隠す場所など無かった。紫鸞が覚悟を決めて壁際に立っていると、のったりと、一頭の狼が姿を現した。驚いて立ち尽くす紫鸞に近づき、ふんふんと匂いを嗅いだりじっと見つめたりしていたかと思うと、狼は現れた時と同じようにゆっくりと奥へ歩いていく。許されたのだと理解して、紫鸞は狼を追った。狼が静かに静かに歩くので、紫鸞も静かに静かに歩いた。しばらく先へ進むと、空間がぽっかりと広くなった。部屋の隅に、狼が出入りできそうな大きさの穴があって、そこから光が入ってきている。洞窟のようなその空間の、穴から一番遠いあたりに、白鸞は居た。先ほど紫鸞を調べに来たのとはまた別の狼が横たわっていて、その狼に寄り添うようにして眠っていた。武器の類は隅にまとめてあり、いつも纏っている白い布も丸めてそこに置かれていた。襟元も帯も緩められて、靴も近くに転がっている。見た事がないほどだらしない様子ですやすやと眠っている白鸞を囲うように、素朴な棚が作られていた。そこには里の焼け跡から拾ってきたのであろう小物が並んでいる。見たことのある食器の破片、半分焼け落ちた木彫りの馬、焼け残った誰かの帯や帯飾り、白鸞を可愛がっていたおばあさんの使っていた茶器の欠片———。品物の数は、里に暮らした人の数ほどは多くなかった。それはそうだろう。火は、いつだって全てを燃やしてしまう。それでも、紫鸞からすれば信じられないほど多くの物が、そこにはあった。一つ一つが丁寧に清められている。きっと白鸞のことだから、掃除もこまめにしているのだろう。棚には埃ひとつ落ちていない。壊れたものを直すこともせず、壊れているからと捨てることもせず、ただ、焼け残ったものが、焼け残ったまま、そこに集められていた。その宝物に囲まれて、白鸞は穏やかに眠っている。

 ふと、白鸞に寄り添う狼が、僅かに顔を動かしてじろりと紫鸞を見た。狼と目が合った紫鸞は、一つ頷いて来た道を戻った。隠し扉まで戻ると、扉の内側には取手がついていた。先ほど細工をした紐を、今度はそのままにして扉を開く。カラン、と奥で音がして、白鸞の寝息が消えた。足音を消して、けれど早足で奥へ戻ると、この洞窟の中でどこに隠れたのか、白鸞の姿が消えていた。外へ出てしまったのだろうかと思いながら辺りを見回すと、狼の後ろから、白鸞が出てきた。

「…よく見つけたな」

少しほっとしたような、悔しそうな、訝しげな、何とも複雑な様子で白鸞は言った。紫鸞は少し誇らしくなったが、ここで胸を張れば白鸞の機嫌は悪くなるだろうと思い、曖昧に笑うにとどめた。

「まぁ、いいだろう…」

白鸞はそう言うと、どうやらまだ眠気が残っているらしく、狼にもたれかかるようにだらりと座った。狼たちはとても大人しい。きちんと信頼関係ができていて、そして満腹なのだろう。白鸞のことだから、狼相手であろうとも、細やかに世話を焼いているはずだった。

「何か用か?」

あまりにもくつろいだ様子なので、紫鸞は、この場所が白鸞の巣なのだと改めて思った。きっと普段過ごしている場所とはまた別の、隠れ家のようなものなのだろう。そんなふうにぼんやり考えていると、いつものように睨まれる。紫鸞は少し面白くなってしまって、しかしながら辛うじて笑い声は上げなかった。きっと、拗ねてしまう。

 孫堅が探していたと伝えると、白鸞は思い切り顔を顰めた。何故、と聞かれる前に、働きに報いたいが何が欲しいかを知りたいらしいと伝えると、白鸞の顔はさらにくしゃくしゃになった。寝起きでいつもより素直なのだなあと紫鸞がその様子を見ていると、白鸞はひとつため息をついて、いつもの顔になった。少し俯きながらも何も要らぬ、と短く吐き捨てるので、紫鸞はその場に腰を下ろして白鸞と狼たちを見つめた。

———その狼たちにも、何かを頼む時には肉なりなんなりを与えているのだろう?要らない面倒を避けるためには、働きに応じたものを受け取った方がいい

紫鸞が静かにそう言うと、白鸞は俯いたまま、もう一度ため息をついた。それから顔を上げて、諦めたように笑う。

「『人』というのは獣の持つ名の一つにすぎないが…お前も、随分と人らしい事を言うようになった」

近いうちに、孫堅のところへ顔を出そう、と続けて、白鸞は立ち上がる。ここを出るのかと、紫鸞も腰を上げた。

———自分は里で人になったんだ。

身なりを整える白鸞にそう言葉を投げると、白鸞は一瞬、手を止めた。そうか、と短く返ってきて、紫鸞は満足して微笑んだ。

 狼たちを穴から外へ出し、珍しく弓矢を手にした白鸞に首を傾げると、これから狼たちのために肉を獲りに行くと言う。ならば手伝う、と伝えると、白鸞は少しの間紫鸞をじっと見て、宝の並ぶ棚から石のかけらを手に取った。

「ではこれは、その礼だ」

どのように割れたのか、紫鸞に渡された石はもともとそれなりの大きさだったように見えた。そのくらいのことはわかったが、何の石なのかはよくわからない。

「朱和がお前のために割った石の一つだ」

白鸞は、静かに言った。そういえば、一時期朱和は石をよく割っていた。しばらく経って本人の口から聞くまでその意図は不明だったが、なるほど、改めて見てみれば、綺麗に割れている。さすがだ。紫鸞がまじまじと石を見ていると、白鸞は

「朱和が何故か毎回私のところに持ってきていたので、残っていたのだ」

と教えてくれた。白鸞は白鸞でよくわからないままに割れた石を保管していたらしい。朱和は強く美しく、慈しみにあふれていて、そしてたまによくわからなかった。けれど彼女はいつだって真剣な様子だったから、白鸞も紫鸞も、困惑しながらも笑うことなどしなかった。

———あなたに渡したのなら、あなたが持っているべきだと思う

紫鸞はそう言って、白鸞に石を返した。何かをくれるというなら、孫堅に顔を出した後に一緒に食事をしに行きたいと告げると、白鸞はおとなしく石を受け取って、珍しく約束をしてくれた。それから白鸞は、狼の出ていった穴を布で塞いで、棚に布を被せ、香の火を消した。紫鸞を促して扉から隠し通路へ出ようとして、白鸞は、一度切られて結ばれた紐を見逃さなかった。

「…紫鸞」

名を呼ばれ振り返ると、白鸞が気色ばんでいる。怒りか、羞恥か、悔しさか、別の何かか。あまりに暗いこの場所では、ただその感情の大きさだけが伝わってきた。しかし、もうしっかりと記憶を取り戻した紫鸞には、その頬が少し赤くなっているのがわかる。白鸞が頬を赤くして紫鸞の名を呼ぶ時、その響きはいつも同じなのだ。ずっと、ずっと昔から



〜おわり〜