あなたにおかえりと言いたい
3/9/2025
白鸞だ、と思ったので、紫鸞は振り返ってしまった。
髪の色も、すれ違いざまに目の端をかすめた顔も、それから背丈も、歩き方も、持ち物も、もちろん衣類も、身のこなしも。全てが白鸞のそれとは異なっていたが、紫鸞にはそれが彼だと分かった。振り向いた先で、男は変わらずに歩いている。それはそうだ。街中で不意に姿を消すのは、自ら同業者だと名乗るのに等しい。男は何に煩わされることもなく飄々と歩いて、けれどきっと紫鸞が振り返った事には気づいている。しまった、と思っても後の祭りだった。白鸞の目的が何であれ、彼はこの先、より一層警戒を強め、この場に居た理由の秘匿に努めるだろう。紫鸞が、彼に気づいて振り返ってしまったから。少なくない人々の気配に、その背中は少しずつ溶けていった。しっかりと見送って、紫鸞は踵を返した。適当に街をぶらつくのを止め、早足で黄蓋を探す事にする。黄蓋は山越に伝手がある。白鸞も、山越に伝手があると言っていた。白鸞とて、ようやく訪れた束の間の平和をあえて乱すような事はしないだろうが、もしも何かが起こるというのならば、紫鸞も知っておかねばならない。
運良く城に出ていた黄蓋にそれとなく山越の様子を尋ねると、真剣な様子で何かあったのかと聞き返された。なんとなく気になっただけだ、と誤魔化して宿に戻る事には、空はすっかり暗くなっていた。確証もなく懸念を言うのが憚られて絞り出した「気になっただけ」という言葉だったが、黄蓋はきっと、念の為にと様子を探ることだろう。自らの発言に少なからず影響力があることを、紫鸞は今ひとつ理解していなかったし、だからこそ少し忘れていた。今日は失敗が多い、と少しだけ気を落としながら宿の部屋へ戻ると、元化が薬草を干す準備をしていた。少し気を紛らわせたくて手伝いを申し出ると、元化は訝しげに眉を顰める。
「どうしたんですか」
それは、質問ではなかった。紫鸞は口元をもごもごとさせて、たっぷり迷った後、街で白鸞を見かけたと白状する。別に、言わなくてもよかった。けれど、自分よりよほど頻繁に、そして広範囲に人々と接しているであろう元化が、もしかしたら自分の知らない何かを知っているのかもしれないと思った。元化は案の定、少し考えるそぶりを見せ、街に変わった様子は特に無いと思いますが、と告げる。そうだろう。白鸞が姿を見せるのは、きっと物事が起きる前だ。何かが起きてから対処に向かう自分とは違う。「変わった様子」が現れるのは、きっとこの後だ。鸞は、吉兆をもたらす霊鳥だと言う。きっと白鸞が前触れで、自分は後始末の担当なのだろうと、紫鸞はぼんやりと思っていた。
「気になるなら、白鸞殿に聞けばいいじゃないですか」
変なところで奥手なんだから、とかなんとか言いながら、元化は作業に戻る。それに促されて、紫鸞も手を動かし始めた。少ししなびた草花が、手元でかさりと葉を鳴らす。それが叶うならばどんなに良いだろう。加工され、知らない誰かを救うのだろう薬草を手慰みにいじっていると、元化から咎めるような視線を向けられた。白鸞の居場所を知らない、と殆ど独り言のようにこぼすと、元化は少し驚いた様子を見せた。
「そうなんですか?いつもどうやって連絡をとってるんです?」
そう言われても、白鸞から一方的に書簡を受け取るか、呼び出されるか、はたまた戦場で相見えるかしか経験のない紫鸞は返答に困る。困ったような、少し悲しいような様子の紫鸞から何かを察したようで、元化はそれ以上を尋ねる事はしなかった。白鸞は、山越に知人が居るような事を言っていた。里が焼けた後、北に渡ったとも。しかし、南方にあるこの孫呉の地からしてみれば「北」というだけではあまりに可能性が広すぎる。せめて西方か東方かだけでも手がかりが欲しいものだが、悲しいかな、今の紫鸞がこの宿の一室で嘆いたところで、どうにもなりはしない。
それでも紫鸞は、思案の中からなんとか端緒を得ようと試みる。例えば他の者であれば、何となくではあるが居場所を見つける事はできると思った。張飛などはよく「兄者がいる場所が家みたいなもんだ」と言っていた。張飛を探すには劉備を探せばよく、劉備を探すには時勢を読めばいい。昼間に会いに行った黄蓋だって、城に居なくても孫呉の領内には居るだろう。詳細な場所が知りたければ、孫権や周瑜などに尋ねればいい。しかし白鸞はどうだ。居場所はもちろん、彼が今誰のために何をしているのかも、紫鸞は知らない。太平の世のために動いているのであろうことはわかるが、あまりにも広義だ。どこで長く過ごし、どこで何を食べ、どこで眠り、どこで武具の手入れをし、香の材料を得て、星を読んでいるのか。紫鸞は何も知らなかった。
———はぁ
思いの外大きなため息が出てしまって、元化が呆れたように紫鸞を見やる。
「以前、里で白鸞殿とお会いしたと言ってましたよね。たまに行く場所なんじゃないですか?紫鸞殿にとっても、白鸞殿にとっても、故郷なんでしょう?」
故郷。紫鸞は、まるで初めてその言葉を聞いたような顔をした。なので元化も、少し戸惑ってしまった。
「ごめんなさい、違いました?そうだとばかり……」
この時世、生まれ育った村落を追われる者は珍しくない。紫鸞が幼かった頃は、状況はきっと今より酷かっただろう、と元化は思い至った。件の里だって、随分前に焼けてしまった。少し気まずげにする元化の様子には気づかずに、紫鸞は少し考えてみる。あの里で生まれたわけではないけれど、故郷と言われればそうなのかもしれない。ふと、故郷とはどういうものだろうか、と元化に尋ねた。元化は薬草から目を離さず、うーん、と少し唸る。
「自分が死ぬ時に、居たい場所じゃないですか?…まぁそれで言うと、武人のお歴々はきっと『戦場』って言うんでしょうけど」
紫鸞は、その答えに少し驚いた。生まれた場所ではなく?とその瞳が雄弁に語るのを、元化は相変わらず手元の作業に目を向けたまま、それでもなんとなく察したようで、淡々と言葉を続ける。
「生まれた時のことって、覚えてないじゃないですか。でも人が亡くなる時、大抵は直前とか少し前くらいまでは意識があるんです。きっとその時、最後に見たい景色、会いたい人、とかなんだと思いますよ。まぁ、俺の勝手な考えです」
ぱさりぱさりと、部屋の中には薬草が仕分けられる音がした。自分は、自分だけではなく白鸞も、それにどこの誰であろうと、いずれ必ず死ぬのだと突きつけられたようで、紫鸞は朱和を思った。彼女は故郷で死ねたのだろうか。机の上で、薬草は仕分けられて束になっていく。つい先刻まで生きていたみずみずしさが、朧げに香っていた。知らないような、知っているような気配だった。
翌日、紫鸞は里へと足を運んだ。元化に言われたからというものあるし、そこが自分にとっての故郷であるのか考えてみたかったというのもあった。もちろん、白鸞に会うことができればそれが一番だ。紫鸞は、穏やかに花弁を降らせる木に登り、かつて里であった一帯を眺めた。故郷とは、自分が死ぬ時に居たい場所なのではないか。元化はそう言った。どこで死にたいかという考えとは、きっと少し違う。おそらく張飛などは、それが劉備や関羽のいる場所ならばどこでもいいのだろう。あの三人は「生まれた日は違えど死ぬ時は同じ日に」と誓い合ったと聞いている。黄蓋や周泰などはきっと、後悔が無ければそれでいい、というような事を言うだろうから、彼らはまとめて元化の言うところの「お歴々」であるのだろうなと思った。自分はどうだろうか。死ぬ時は、この景色を望むのだろうか。
「愚か者」
急に、下から鋭い声が飛んできた。聞き間違えるはずもない。紫鸞が木の根元を見おろすと、白鸞が立っていた。腕を組み、眉を顰め、口を引き結んで、機嫌を損ねているのは明らかだった。
「里の木には登るなと教えただろう。傷でも付いたらどうする」
かけられた声に応えるでもなくぼんやりと白鸞を見ていた紫鸞に、追加で叱責が飛んできた。白鸞の眉間の皺が深まり始めたのを見て、紫鸞は慌てて木から降りた。ふん、と鼻息をひとつ荒げて、白鸞は木の周りをぐるりと歩いた。木の無事を確認すると、白鸞は咲き乱れる花を見上げた。
この場所は、きっと白鸞の故郷であるのだろう。紫鸞は、そう思った。いずれ白鸞は、このあたりのどこかに身を埋めるのだ。人知れず。もしかしたら、自分も知らないうちに。その日がいつかくる事を思って、紫鸞はじっと白鸞を見つめた。自分が死ぬ時は、白鸞の側でないほうがいい。そう思った。白鸞の知らないうちに、知らない場所で、どこでもいいから、誰にも知られないように。自分の故郷はきっと、もうずっと昔に燃えてなくなってしまったのだろうと思った。けれど、と、紫鸞は少し困る。自分が死ぬ前に、白鸞を見届けたいと思った。白鸞が望むのなら、この場所に連れてこよう。この場所でなくてもいい。彼の望む地へ共に行こう。最後にその目を閉じるまで、その景色の一部として存在していたい。紫鸞は物事の正誤はよくわからないが、他の誰が何を言おうと、あなたの下した判断にはとても大きな意味があったのだ、朱和も自分も偽りなくそう思い、白鸞をとても大事に思っている、と伝え続けたかった。
きっと自分は、白鸞の故郷になりたいのだ。そう思い至ってしまえば、ざわついていた心は不思議と凪いだ。花を見上げていた白鸞は、気が済んだのか紫鸞を見た。
———昨日、街にいただろう
紫鸞は、素直に言った。白鸞は表情一つ変えず、何のことだ、と返した。紫鸞は少し楽しくなって、微かに笑った。
多くの者が紫鸞に自由を望み、好きに羽ばたけと言う。目の前の白鸞は、そんな事を言われなくても、憎らしいほど自由だ。共に歩みたいと言えばすげなく断り、聞きたいことがあってもどこにいるかもわからない。姿を見せてもどの立場にあるのか話してもらわなければわからないし、街中ですれ違ってもこちらを見向きもしないのだ。自分に与えられてきた言葉の意味を、紫鸞はようやく理解した気がする。白鸞の自由を慈しみ、けれどせめて最後はこの腕の中でと望む今となって。
———白鸞が通り過ぎた店の料理は美味いぞ
紫鸞はそのように言ってみた。白鸞は、少しだけ生意気な顔をした。
「知っている。いつぞや、お前の給仕をしたこともあるからな」
なんだそれは、いつだ、全く気づかなかった、と目を丸くする紫鸞に、まだまだだな、と言い残し、白鸞は背を向けて歩き出した。穏やかな日差しと風の中、ここはいつでも花が咲いて、花弁が舞っている。白鸞は別れの挨拶も、それから再会の挨拶もしない。もしかしたら、紫鸞が思っているほどには、お互いの道は離れていないのかもしれないし、全てが幻なのかもしれない。
生きている間のことなど、きっと些事だ。けれど紫鸞は、白鸞の最期にはおかえりと、自分の最期にはただいまと、そう言いたいと思った。
〜おわり〜