※注意書きが必要ない方むけです。
現パロなので、紫鸞がカギカッコ付きで話します。
紫鸞の一人称が「俺」です(現パロなので)。
職業とか制度とか情報色々は全部ファンタジーと捏造です。





おなかがすくまで待って

7/26/2025





自分はもうすぐ死ぬのだと、白鸞はずっと思っている。

何の因果か、別の人生の記憶を持って生まれたようだと気づいたのはいつだったのか、もう覚えていない。ぼんやりと世界の姿をとらえ始めてしばらくして、知らない記憶もぼんやりと姿を現したのだった気がする。辛うじて、最低限の読み書きができるようになる頃までは小学校に通っていたはずだ。だから、気まぐれに机の上に残されている紙幣の価値もなんとか理解できたし、時々送られてくる水や電気の請求書も、家賃の催促も、大家に一度説明された後はそういうものなのだと知ることができた。いつから学校に行かなくなったのか、それからどのくらい時間が経ったのかはよくわからない。たしか、初めて手のひらで煙草の火を消された翌日、ついにその傷を転倒だと言い訳ができなくなったのがきっかけだったような気がする。白鸞は問題なく日々を過ごしているつもりではあったが、その実、全てはひどく曖昧だった。たまに帰ってくる母親のために、小さな部屋の中を清潔に保って、時折残される紙幣をやりくりして水と電気を確保した。腹は空かなかったから、いくらか余裕ができるたび、母親のために酒を買いに行った。酒屋へは幼い頃に一度連れて行かれたことがあったから、道は知っていた。その後足繁く通っているので、もう目をつむっていても辿り着く事ができるだろう。白鸞が酒屋に通っていると、近所の酒屋の店主とその奥さんは、何故だか軽食を出してくれるようになった。出されたものは食べなければと、ただそれだけの理由で、白鸞はいつも礼を言ってそれを食べた。そうして白鸞が持ち帰った酒を、母親は時に喜んで飲み、時に瓶ごと白鸞に投げつけた。随分と哀れな女だと同情を向けつつ、それでも母親だった。機嫌の良い時は優しかったし、きっと自分が死ねば悲しむのだろうと思った。社会や人の在り方というものが、記憶にあるものと随分違うのだと気づいた頃、白鸞はたまに散歩に出かけるようになった。どうせ家にいても、掃除くらいしかやることが無い。小さな子供が、一人でぼんやりと外をうろつくのはどうやら珍しいことのようで、どうしても人の目を集めてしまう。それに気づいてからは、散歩の時間は夜になった。急に遠出をして迷子にならないように、少しずつ少しずつ出歩く範囲を広めていった。白鸞は色々なものを見た。大人たち、子供たち、犬、猫。電灯、看板、車。酒屋以外の店、畑、公園。大きさの合わなくなった靴の踵を踏んで、白鸞は静かに歩いた。裸足で歩くよりは、こちらのほうが無難なのだと学んでいた。地面の多くは土ではなかったし、少し汚かった。ある時、高台にある公園を見つけた。そこからは町なのだろうものの様子が一望できた。随分と色々なものがちらちらと光っていて、初めて見た時は驚いたものだ。そのせいで星は見えにくかったが、月は見えた。暦はよくわからなかったが、日々は動いていた。どこを散歩しても、血の匂いはしなかった。息のない人の体が落ちていることもなかったし、子供達は外で遊んだり、どこかへ向かって歩いていた。素晴らしいことだと、白鸞は思った。なぜ自分に昔の記憶があるのか、そもそもそれが本当に昔の記憶なのかすら、白鸞にはもうよくわからなかった。ただ、生きてこの風景を見られた事は、とても幸せだと思った。何を求められることもなく、腹も空かず、ぼんやりと平和な世界を見ている。現実味がなくて、これは死ぬ直前に見ている幻なのだと言われた方がしっくりくる。だから白鸞は、自分はもうすぐ死ぬのだと、もうずっと思っていた。


「こんばんは」

夜遅く、いつものように夜景を眺めながら、ぶらぶらと揺れる椅子に座っていると、近くで大人の男の声がした。公園で誰かに声をかけられたことなどなかったから、それは自分に向けられたものではないと思った。だからせめて、邪魔にならないようにと、白鸞は俯いた。

「こんばんは、君、大丈夫?」

けれどその声は、急に近づいてきた。白鸞のすぐ近くで、男がしゃがんだのだ。頭はぼんやりとしているのに、体は反応して緊張してしまった。鎖を掴んでいる手に力が入ってしまったのを、どうか気づかずにいてくれと、白鸞は思った。

「気分が悪いのかな…?」

頑なに地面を見つめる白鸞の顔を、男は覗き込んできた。そうまでされて無視をし続けるのも失礼にあたるだろうか、と、白鸞が諦めて顔を上げると、予想通り、若い男がしゃがんでいた。体つきもがっしりしていて、程よく鍛えられているのがわかる。所作に隙がないとは言わないが、白鸞はただでさえ子供なのだ、腕力では敵わないだろう。身なりも清潔で、足の大きさに合った靴を履いていた。きっと、走るのも速い。男が急に何も言わなくなったので、白鸞は諦めて顔を合わせることにした。長い前髪の間から隠れるように目線を上げると、綺麗な色の瞳が二つ、まんまるに光っていた。

「…白鸞?」

名を呼ばれれば、その声音には覚えがあった。確か、彼の名前は。

「紫鸞だ。あなたは、白鸞だろう…?」

違ったらどうするのだと口から出そうになったのを、白鸞は飲み込んだ。人違いだということにした方がいいだろう。何せ、自分はすでに半分死んでいて、きっともうすぐ、全部死ぬのだから。白鸞が、何もわかりませんとでも言うように首を傾げる前に、けれど、紫鸞は白鸞の前髪を指でよけた。相変わらず、遠慮が無い。ぱっちりと目が合ってしまえば、取り繕うことはできなかった。

「どうしたんだ、こんな時間に。一人で来たのか?家は近い?……怪我をしているのか?」

目の前の紫鸞は、記憶にある紫鸞よりよく喋った。畳み掛けるように質問を投げかけられて、白鸞が少し面食らっていると、紫鸞はごそごそと、何かを取り出した。

「今は警官をやっているんだ。こんな夜更けに、子供が一人で公園にいると通報があって、見にきた」

紫鸞が見せたものは、おそらく身分証明書のようなものなのだと思う。けれど白鸞にはよくわからなかった。警官というのは、たしか官吏のようなものだったはずだ。母親も、母親が時々連れてくる男達も、警官とやらを嫌っていたから、覚えている。

「それは…すまなかった。帰る」

とりあえずもっと目立たない場所を探すかと白鸞が立ち上がると、紫鸞も一緒に立ち上がった。随分と背丈に差があって、自分はまだまだこんなにも小さかったのか、と白鸞は思った。どうりで、一人でぶらついていれば怪しまれるわけだ。

「送ろう」

「え?」

「家まで送る。危ないから」

「必要ない」

「あなたに必要がなくても、俺が安心したい」

「いや…」

朧げな記憶の中では、白鸞は紫鸞に口で負けたことは無かった。それなのに今、白鸞の頭は、紫鸞をうまく言いくるめる言葉を見つけ出せない。そういえば、この世界に来てから、誰かと会話をしたことが殆どなかった。昔と立場が逆になってしまったのだと何となく思って、白鸞は、言葉を探すのをやめた。とはいえ、もしかしたら母親がいるかもしれない家に、警官を連れ帰るのはよくない。白鸞は、母親にはできるだけ憂いなくいてほしい。

「その…」

言葉を探すのをやめたとしても、言い訳は探さねばならなかった。白鸞が俯いて言い淀むと、紫鸞はただ、静かに待った。どれだけ白鸞が時間をかけても、紫鸞はじっと待っていた。

「…家に、来ないでほしい」

結局白鸞は、適当な嘘を作り上げる事ができず、簡潔に正直に、そう言った。

「じゃぁ、家の近くまで一緒に行こう。白鸞の家が見えたら、俺はそこまでしか行かない」

紫鸞がそう言うので、それならいいか、と白鸞は頷いた。そうして白鸞が静かに歩き出すと、紫鸞は隣へ並んで歩いた。

人の気配も、車通りも無かった。草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったもので、とても静かだった。その上白鸞は、街灯の少ない、暗い道を選んで歩いている。それに気づいた紫鸞が少し眉を顰めた事に、白鸞は気づかない。紫鸞が、歩きながら白鸞の様子をじっと見ていることも、白鸞は気づかなかった。

しばらく歩くと、白鸞は小さな集合住宅の建物を指差して、紫鸞を見上げた。紫鸞はポケットから小さな手帳のようなものを出すと、数字を書いて一枚破り、白鸞に渡した。

「何かあったら、連絡してほしい」

白鸞が首を傾げると、紫鸞はしゃがんで、再び白鸞の顔を覗き込んだ。

「…電話は、使えるか?」

「でんわ…」

「…誰か、大人の知り合いはいるか?」

質問が変わって、白鸞はよくわからないながらに頷いた。

「その人にそれを見せて、電話をしてほしいと言ってくれ。そうすると、俺のところに連絡がくる。そういう仕組みだ」

紫鸞は、優しい声でゆっくりと説明した。だから白鸞は、もう一度頷いた。けれど、紫鸞に連絡をすることは、きっとない。それを察してか、紫鸞は穏やかに言葉を続けた。

「朱和と暮らしている。あなたをずっと探していた。今度連れてくる」

朱和。懐かしい名前が耳に入ってきて、白鸞が手にした紙片がかさりと音を立てた。

「朱和も警官をしている。相変わらず強い」

「家、には…来ないで、ほしい…」

「どうして?」

白鸞が何とか言葉を搾り出しても、紫鸞は引かなかった。たまにこういうところがある。察しがいいのか悪いのか、白鸞にはわからない。白鸞が何も言えずにいると、紫鸞も何かを考えているようだった。

「…じゃあ、明日の夕方、さっきの公園で会えるか?」

白鸞は、驚いて紫鸞を見た。先ほどからこの紫鸞は、うまく折衷案を出してくる。成長したのだなあとなんだか感慨深くなって、それと同時にうまく話せない自分に呆れて、それから頷いた。自宅でないならどこでもよかった。朱和の様子も、気にならないと言えば嘘になる。紫鸞は最後に、白鸞の背を軽く叩いた。白鸞は背中を押されるままにその場を離れ、自分の家へ駆け出した。


翌日の夕方、白鸞は公園には行かなかった。約束を忘れたわけでも、破ろうとしたわけでもない。ただ、ひどく精神状態の悪い母親が帰ってきたかと思うと、殴る蹴るにとどまらず椅子を振り回して襲いかかってきた。何度か打たれて、流石の白鸞もしばらく動けそうになかった。何が悪かったのか、白鸞にはわからない。もしかしたら、紫鸞と歩いていた事を知られたのかもしれないし、外出先でよくない事があったのかもしれない。こうなった彼女は感情をぶつけるばかりで、何も説明はしてくれないから、白鸞はとにかく耐えるしかなかった。窓の外が少しずつ赤くなって、そして暗くなっていくのを薄目で見ながら、それでもどこかほっとしている自分に満足した。朱和と紫鸞が穏やかに暮らしているのならば、それ以上の幸せはない。世は太平となり、両翼は健やかで、白鸞の夢見たものが全て揃っている。白鸞の心は、これまでになく穏やかだった。ガタンと、椅子がどこかへ放り投げられたのが聞こえて、白鸞はゆっくりを目を開いた。涙と怒りで顔をぐちゃぐちゃにした女が、肩で息をしている。この満ち足りた世界にあって、白鸞は、未だに母親を幸せにできていない。どうすればいいのか、何が足りないのか、本当にわからなかった。ドンドンと、どこかの壁が叩かれた。流石に騒がしかったのだろう。申し訳ないことだ。その音を合図にしたように、細い腕がにゅっと伸びて、怪物のような力で白鸞の首を掴んだ。なるほど、今日死ぬのか。白鸞はそう思った。やはりこれは、死ぬ前の幻だったのだ。平和な世の中を見て回って、紫鸞と会って、朱和も健やかだと知ってしまったから、もう終わるのだ。最後に母親に、力が及ばなかったことの謝罪を伝えたかったが、白鸞はもう、声を出すことはできなかった。大人の男でも、首を強く締めればすぐに意識を失う。ましてや白鸞はまだ子供の身だ。自ら目を閉じるまでもなく、くらりと視界が回った。その時だった。

「児童虐待及び殺人未遂の現行犯で逮捕します」

もう随分と長い間、もう一度聞きたいと思っていた声がして、白鸞は床に投げ出された。身体が勝手に大きく息をして、咳き込んだ。前の晩に触れたのと同じ手が、白鸞の背をさすった。咳をしながら、それでも白鸞が急いで身を起こしてあたりを見回すと、母親が朱和に取り押さえられていた。それから、どうやら先ほどの音は、壁ではなくて玄関を叩かれた音だったのだと、蹴り破られた玄関を見て理解する。白鸞が公園に行かなかったから、彼らがここへ来てしまった。壊れた扉を見て呆然とする白鸞を見て、朱和は咳払いを一つした。

「ドアは…ごめんなさい。でも、緊急事態でした」

その声に振り向くと、床に押さえつけられている母親が目に入った。相変わらず、大声で泣いている。

「あ、その…その人は、母で…」

「はい」

「だからその…大丈夫なんだ」

「いいえ」

「その、わたしが、よくなくて」

「いいえ、白鸞殿」

白鸞は、何とか母親を放してもらおうと言葉を探した。しかし朱和は、全てを跳ね除けてしまう。朱和は紫鸞に目配せをして母親を任せると、白鸞の前に膝をついて、両手で白鸞の頬を包み、真っ直ぐにその瞳を覗き込んだ。

「あなたのお母様が連れていかれるのは、彼女が道を間違えたからです。あなたが何かを間違えたとか、うまくやれなかったとか、そういう事は一切ありません。わかりますか?」

「でも…」

「白鸞殿」

珍しく、朱和の声は潤んでいた。

「自分がどのような状況なのか、わかっていますか?こんなに、傷だらけで」

朱和はそう言いながら、白鸞の輪郭を手のひらでなぞる。

「細い腕…これは…煙草の痕ですね?…最後に食事をしたのはいつですか?何を食べました?」

前の晩の紫鸞のように、朱和は白鸞にあれこれと尋ねた。白鸞がうまく答えられずにいると、朱和はとうとう、白鸞を抱きしめた。白鸞が驚いて体を強張らせると、朱和はその腕に更に力を込める。いつの間にか、聞いたことのある音が近くまで来ていた。警察の車の音だ。この音がしたら身を隠さなければならないと言われているのを思い出して、白鸞が助けを求めるように紫鸞を見ると、彼も何やら泣きそうな顔をしていた。警戒音が女の泣き声を掻き消すほどに大きくなって、ようやく朱和は白鸞を放した。それから、強い雨が止むように全てが急に静かになった。紫鸞は誰かと話しながら、母親を連れて外に出て行った。白鸞も、朱和に連れられて家を出る。知らない大人が何人かいて、白鸞は白い車の方へ連れていかれた。清潔な匂いがして、車の中に寝床のようなものがあった。

「少しの間離れますが、遅くとも明日には必ず迎えに行きます」

朱和が強くそう言ったので、白鸞はとりあえず頷いた。何が起きているのかは、やはりよくわからなかった。ただ、母親を守れなかったのだということはわかる。紫鸞と朱和の穏やかな生活を乱してしまったことも。促されるままに寝床のようなものに横になって、白鸞はぼんやりと天井を見た。白い服を着た大人が、色々と声をかけてくる。なんだか少し疲れてしまって、白鸞はそのまま目を閉じた。




目を覚ますと、知らない場所に居た。さらさらふわふわとしたものに身体が包まれていて、辺りを照らす光は白く、知らない香りが鼻を突いた。前回死んだ後の事は覚えていないが、こんな感じだったのかもしれないな、と白鸞が辺りを見回すと、すぐ近くに紫鸞が居た。目が合い、お互いに少し驚いた。気分はどうだと尋ねられて、とりあえず頷いた。何だか全てが眩しくて目をしょぼしょぼとさせていると、眠いなら寝ろと言われたので、白鸞はもう一度目を閉じた。白鸞は、それから何度か目を開けて、声をかけられればとりあえず頷いて、それからまた眠った。

次にはっきりと目を覚ますと、また知らない場所に居た。体を包んでいるものは相変わらずふわふわとして肌触りが良く、暖かい。寝かされている場所の側に大きな窓があって、よく晴れた空が見えた。どうやら白鸞は一人で寝ていたようで、今度こそ死んだのだと思った。なんだか少し身体も軽いし、ぐっすりと眠ったような気がする。起き上がってみると少しふらふらとしたが、すぐに治った。白い壁に嵌め込まれた、茶色くてすべすべとした扉が見えた。ふわふわの塊から抜け出して床に足をつけて立ち上がってみると、知らない衣類に着替えさせられていることに気づいた。随分と簡素で動きやすいその服装に、死装束というのは時代と共に移り変わるのだなと思い、けれど裸足ではあったので履き物を探した。何も見つからなかったのでそのまま歩くことにして、白鸞は、扉に手を伸ばした。そっと、静かに、少しだけ開けて隙間から向こう側を見ると、暖かそうな部屋があった。もう少しだけ覗き込むと、大きな椅子で、朱和と紫鸞が何かを話している。白鸞は、一旦扉を閉めた。朱和と紫鸞がいるということは、自分はまだ死んでいない。もしくは、亡霊のようなものになって二人のところに来てしまった。そのどちらかなのだろうと思う。何がどうなっているのか、白鸞にはもうずっとわからない。そういえば、朱和は迎えに行くと言っていたから、ここは朱和の家なのかもしれない。だとすると、紫鸞の家でもある。そうなってくるとやはり、自分は生きているか、亡霊かのどちらかのはずだと、白鸞は思った。死にきれずに二人の様子を見に来た亡霊であるならば問題はない。が、もしまだ自分が生きているのだとしたら、それはとても問題だと思った。解決策を考えたいのに、白鸞の頭の中には濃い霧がかかっている。目的達成の手段を探すために、まず目的をしっかりと理解しなければならないのに、白鸞はもうずっと、どうしたらいいのかわからないままだった。ふと、柔らかくドアが叩かれたので、白鸞はもう一度、少しだけ扉を開けた。朱和が立っていた。

「おはようございます」

「…おはよう」

にこりと挨拶をされたので、半歩下がりながら挨拶を返すと、朱和はゆっくりとドアを開けた。声をかけられて、自分が生きているのだと知って、白鸞は緊張した。朱和は話があるからと白鸞を部屋から連れ出し、先ほど朱和と紫鸞が座っていた大きな椅子に座せた。腰を下ろしてみれば、少し柔らかかった。紫鸞は奥から何かを持ってきて、椅子の前の机に並べる。どうやら、飲み物のようだった。促されて口をつけると、温くなった茶で、果物の香りがした。朱和と紫鸞がその様子をじっと見ていることに気づいて、白鸞は慌てて湯呑みを机に置いた。紫鸞が白鸞の隣に座ると、その反対側で、朱和が床に膝をついた。

「私と紫鸞は籍を…婚姻届を出して、あなたを養子に迎えました」

言われた事をすぐには理解できず、白鸞の口がぽかんと開いて、それから閉じると、朱和は白鸞の手をとった。

「私はあなたの母、紫鸞はあなたの父です。誰かに何か言われたら、そう言ってください」

優しく微笑む朱和を呆然と見つめることしか、白鸞はできなかった。長い長い時間をかけてゆっくりと振り返ると、紫鸞もにこにことして座っていた。もう一度時間をかけて朱和に向き直り、更に時間をかけて口を開けたり閉じたりした後、白鸞はようやく声を出す事ができた。

「…なに…」

白鸞が言葉を探すのを、朱和はじっと待っていた。里最強と名高かった彼女は、こんなにも気が長かっただろうか。きっと紫鸞と同じように、朱和も成長をしたのだと思った。その朱和と紫鸞が婚姻届を出し…、婚姻ということは、つまり夫婦になったらしい。何とめでたい。昔、二人が家庭を持つ事を、白鸞は夢見ていた。そんな願いまで叶うとは。まず言わなければならない事は祝辞だろうと思ったので、白鸞は

「おめでとう…」

と口にした。言いながら理解したのか、白鸞の頬は少しだけ健康的な色になる。大事な二人が祝言をあげたのだから、それはとても喜ばしい事だ。そう理解した白鸞は、続けて何かを言おうとした。言おうとして、そんな二人が自分を養子に迎えたらしいという事が、ようやく頭に入ってきた。頭には入ってきたが、それは落ち着く場所を求めてうろうろと歩き回っている。

「…養子?」

「そうです。これからはここで一緒に暮らします。さっきの部屋があなたの部屋です」

朱和が、白鸞の手を握る力を強めた。白鸞は手を引こうとしたが、力の差がありすぎて僅かに動いただけだった。

「だめだ」

「それは、どうして?」

「家に帰らないと」

「ドアが壊れていて、しばらくは住めませんよ」

「でも、帰らないと…」

「じゃあ、私たちもあそこに住みます」

「何を言っている」

「白鸞殿」

じわじわと追い詰めた獲物にとどめを刺すように、朱和は強く名を呼んだ。思わず白鸞が口をつぐむと、その背をそっと、紫鸞の手が支えた。

「今のあなたは、か弱い子供です。昔のあなたが今のあなたを見たら、間違いなくすぐに保護するでしょう。一人でどこかへやったりはしないはずです」

そうなのだろうか。朱和が言うのだから、そうなのかもしれない。白鸞は、朱和の握る自分の手を見た。厚く肉のついた彼女の手に比べて、確かに、随分と頼りなく見える。

「それに」

朱和は白鸞の手を放して、今度は両手で頬を包んだ。そういえば彼女は、白鸞の頬を気に入っていたような気がする。

「私も、大人になったあなたを見たい。紫鸞は昔見たと言っていました。私も見たい」

白鸞は、自らの両翼には甘い。それは昔も今も変わらなかった。仕方なく頷くと、朱和はようやく、ほっと笑って白鸞の手を放した。




それから白鸞は、朱和や紫鸞に連れられて、病院に行ったり警察に行ったりしながら、少しずつ新しい暮らしに慣れていった。ある日、少し遠出をしたかと思うと、一匹の犬を紹介された。シロという名の白いレトリバーで、随分と大きかった。紫鸞はシロを新しい家族だと説明した。白鸞とは兄弟になるから、仲良くしてやってくれ、と。白鸞はよくわからないなりに頷いて、シロを撫でた。動物は、昔から好きだ。シロはさりげなく白鸞についてまわり、白鸞はシロにすぐに慣れた。時々白鸞がぼうっとしていると、シロは寄り添って、白鸞の膝に顎を乗せた。吠えることは滅多になく、紫鸞が誤って尻尾を踏んでしまった時でさえ、じろりと睨むだけだった。夜は白鸞のベッドで眠り、昼は白鸞と並んでソファで昼寝をした。白鸞はこの世界で動物と触れ合うのは初めてだったが、人というものがそれほど変わらないように、動物もそんなには変わらない。話しかけたり、撫でたり、気まぐれに引っ張ってみたりしながら、一人と一匹は仲良くなった。朱和と紫鸞が二人とも仕事で居ない日は少なくなかったが、シロのおかげで、白鸞が一人になることは無かった。

身体の傷も癒えて、白鸞がテレビというものにも慣れてきた頃の、天気の良い日だった。暖かい部屋の中で、窓からは青い空が見えた。白鸞がソファに座ってうとうとし出すと、シロが寄りかかってきた。その重みもちょうどよくて、白鸞は穏やかに眠りに落ちた。そのままぐっすりと眠ってしまって、陽が落ちてもカーテンも閉めず、明かりもつけず、食事もとらなかった。暗いままの我が家を見た紫鸞が、帰宅するなり部屋に駆け込んできて、その勢いに驚いて白鸞が飛び起きると、シロは白鸞を宥めるようにその手を舐めた。白鸞は、ほっと息をつく紫鸞と、すっかり暗くなった窓の外を見て、盛大に寝過ごしたのだと気づき、珍しくひどく慌てた。そのままバタバタとシロの餌を用意するのに、当のシロも付き添っていた。紫鸞は、カーテンを閉めたり明かりをつけたり、二人分の食事を用意しながらそれを見ていた。シロが餌を食べ始めたのを見て一息ついた白鸞に、腹が減っただろうから自分達も夕飯にしようと声をかけた。

「俺だったら、腹が減って目を覚ましていただろう」

感心したように言いながら、昔と変わらず大きな一口でよく食べる紫鸞に、白鸞はうん、と曖昧に頷いた。随分と人間らしい生活をするようになったが、相変わらず、腹が減ることはなかった。だから白鸞は、自分はもうすぐ死ぬのだと、まだ思っている。


心身の回復のためだったのだろう、ひたすら眠るばかりだった白鸞の睡眠サイクルが少しずつ平常になっていくと、朱和と紫鸞は白鸞を連れて色々な場所へ出かけた。山、川、海、水族館、動物園、植物園。牧場、美術館、博物館、科学館。シロはいつも、白鸞に付き添った。大抵の施設にシロと一緒に入ることができて白鸞は驚いたが、朱和に、シロは仕事をしているプロの犬なので許可されているのだと聞かされて、お前は実はやり手だったのだなと感心した。白鸞はまだ、介助犬というものを知らなかった。

どこへ行っても、そこには白鸞の知らないものしか無かった。山へ行けばテントを訝しみ、水族館では大きな魚と水に怯えた。動物園でキリンを見た時などは「これが、麒麟…?」と、おそらく白鸞の中の何かと戦っていた。朱和と紫鸞と、それからシロは、平静を装いながらも目を丸くしたり紫鸞の服の裾を掴んだりする白鸞を、暖かく見守った。

朱和と紫鸞の予想通り、白鸞は動物園と植物園が気に入ったようだったので、彼らはある日、動物と植物の図鑑を白鸞に贈った。これといった私物を持った事のなかった白鸞は、それはそれは驚いた。白鸞の傍を離れないシロの様子から、驚きすぎて少し調子を崩したのだろうことを察して、朱和と紫鸞も少し慌てるほどだった。白鸞は、数日間、机の上に置いた図鑑をひたすらに眺めていたが、ある日とうとう、その本を開いた。インクの匂いに一つ小さなくしゃみをして、つるつるした紙に触れた。紙には、動物の写真が並んでいる。それから、その動物の名前と説明が書かれていた。白鸞の呼吸が一瞬乱れて、シロはその頬を舐めた。白鸞は本を閉じて、シロを抱えるようにして撫で回した。

「散歩に行こう」

シロにそう声をかけて、それからキッチンで昼食を作っていた紫鸞に一言告げて、白鸞とシロは家を出た。家を出て、いつもの道を歩いた。シロはいつものように白鸞の隣を歩きながら、いつもよりも頻繁に白鸞を見上げる。シロに言われずとも、白鸞にもわかっていた。少し、こころが荒れている。それがどういう名前の天気なのかを、けれど、白鸞は見つける事ができていない。

白鸞の様子が少しおかしい事に、朱和も紫鸞もすぐに気づいた。シロも、いつも以上に白鸞から離れなかった。朱和はその夜、少しでかけることにした。紫鸞はその間に、ソファでシロの口元を引っ張っていた白鸞の隣に座って、

「図鑑は、あまり面白くなかったか?」

と、ずるい質問をした。白鸞は紫鸞を見上げて、シロから手を離した。

「…字が、あまり読めなくて」

今の白鸞では、朱和にも、紫鸞にさえ、言葉で勝てないことはもう理解していたので、正直にそう告げた。そう告げて、俯いた。

「情けない」

口から滑り出した言葉に、白鸞はようやく自分の気持ちを理解した。少し胸がすっきりした白鸞の隣で、紫鸞は目を丸くした。

「すまない、全然気づかなかった」

やけに真剣に肩を掴まれて、白鸞は少し面食らった。

「え?」

「昔から、白鸞は俺よりずいぶんと色々なものを知っていたから」

「そ、そうか…?」

「だとしたら…身の回りによくわからないものが多くて、怖かっただろう。本当にすまない」

紫鸞は白鸞を柔らかく抱きしめて、その背中を撫でた。そうなのだろうか。白鸞にはよくわからなかったが、紫鸞が言うなら、そうなのかも知れなかった。その夜、帰宅した朱和にも同じように謝罪をされて、白鸞は戸惑ったまま、とりあえず何度も頷いた。


その二日後に、家に元化がやってきた。何年か前に、紫鸞がバイト先で出会ったらしい。

「わぁかわいい」

白鸞を見るなりそう言うと、慌てて自分の口を押さえていた。

「あのすみません、違くて…俺はその、いかつい白鸞殿しか知らなかったから予想外だったっていうか、ええ〜!こんな感じだったんですか。かわ、ンン、よろしくお願いしますね!」

記憶にある元化より少し騒がしい様子に、白鸞はそばにいたシロを撫でることで心を落ち着けた。再会は少し胡散臭かったが、聞けば、医師免許をとってしばらくは医者として勤務したものの、今はそれを活かして家庭教師のようなものをしているらしい。急に何かがあってもきちんと対応ができるので、容体の安定しない療養中の子供達やお年寄り、闘病中の社会人など、難しい状況にありながらも何かを学びたい人を助けているそうだ。記憶があるのならてっきり医者になっていると思った、と告げた白鸞に、元化は難しい顔をした。

「今の医学というものが、記憶にあるものと少し違っているというのもあるんですけど、素晴らしいことに、俺より優れた医者が山ほど居るんですよね。優秀な人が集まる場所って、ちょっとめんどくさくって。俺は俺にできることを、自由にこつこつやろうかなと思ったわけです。医学の知識はあるに越したことは無いけど、それだけでは解決できないことも、たくさんありますからね」

元化は言動こそ少し騒がしかったが、そのあり方はそんなには変わっていなかった。白鸞はそれに少し安心して、元化を師と認めることにした。

元化は、週に一度か二度やってきた。元化に読み書きを教わるようになってすぐ、元化は白鸞を眼科へ連れて行った。やたらに眩しくなる目薬を差され、世が世なら拷問器具のように見える道具で何やら検査をされた。シロを握りしめながらそれに耐えた数日後、元化は白鸞に眼鏡を持ってきた。言われるままに身につけると、急に世界がはっきりと見えた。

「左右で少し視力やなんかが違ってたみたいです。そりゃ疲れますよね」

元化はそう言って納得したが、白鸞にはまだ、二枚の薄いガラスの仕組みがよくわかっていなくて、おそるおそる眼鏡を受け取った。眼鏡は、何故か朱和に好評で、何枚か写真を撮られた。白鸞はよくわからなかったが、朱和が喜ぶならと好きにさせた。それまでよりも細かいところまで見えるようになったのは良かったが、見えすぎて疲れることもあった。だから白鸞は、必要な時だけ眼鏡をかけることにした。

元化は読み書きや勉強を教えるだけでなく、一緒に映画やドラマを見ながら出てくるものを解説したり、図書館の使い方を教えたり、小さな鉢で植物を育てたりした。白鸞は、読み書きさえできるようになってしまえば慣れたもので、そこらじゅうのものを読み漁って、わからないことは元化に尋ねた。特にガーデニングは得意なようで、里の香を再現できるだろうかと思い立って植物図鑑を隅から隅まで読んで、朧げな記憶と一致する写真を探した。そうして草花のリストを作って元化に見せたところ、そのうちの幾つかは、今は個人が育ててはいけない決まりになっているそうで、平和な世というのは、決まり事が多いのだなと、白鸞は少し思った。元化は大抵のことは知っていたし、白鸞の扱いも上手かった。朱和や紫鸞ほど静かではなかったが、白鸞も少しずつそれに慣れていった。


そんなある日のことだった。やってきた元化は、白鸞の様子を見ると、

「今日は何をしましょうか」

と尋ねた。そんなことを聞かれたのは初めてで、白鸞は少し考えた。元化が何も言わずに待っていたから、白鸞も特に急がずに窓の外を見た。天気がよかった。

「…行きたいところがある」

白鸞がぽつりとそうこぼすと、元化はすぐに頷いた。

「どこですか?」

「どこ…だろう」

腰を上げかけていた元化は、白鸞がそう言って窓から視線を外さないので、静かに腰を下ろして、続きを待った。ぼんやりとシロを撫でていた白鸞は、急にはっとして元化に向き直る。

「どこに行きたいかがわからないのではなく、住所がわからないという意味だ」

「ああ、そういう」

慌てたように捲し立てても、元化はさらりと返事をする。そういうところは、少し気楽だった。

「朱和と紫鸞は知っていると思うが…教えてくれるかはわからない」

「聞くだけ聞いてみましょう。どこに行きたいんですか?」

元化は、鞄からスマートフォンを取り出した。白鸞はもう、それがどういうものかを知っている。画面を撫でてメッセージアプリを立ち上げているのであろう元化は、なかなか答えない白鸞に首を傾げた。顔を上げてみると、白鸞はひどく緊張した面持ちで、シロの前足を掴んでいる。それに気づかないふりをして、元化はもう一度白鸞に、どこに行きたいのかを尋ねた。

「…家、に」

「家?」

「まえに、住んでいた…」

「なるほど、ちょっと聞いてみますね」

元化は、するすると指を動かした。てっきりメッセージを打っていたのだと思ったが、元化は電話をかけたようだった。紫鸞にではなく、紫鸞の職場に。呆気にとられる白鸞の目の前で、元化は紫鸞と話をして、通話を切った。

「パトロールのついでに一緒に行ってくれるそうです。準備して待ちましょう」

「は?」

「さ、シロくんのうんち袋と水も持たないとね」

状況を飲み込めないでいる白鸞を置いて、元化はてきぱきと外出の準備をした。ようやく白鸞がシロのリードをとりに行くと、紫鸞が近くまできたと、元化に連絡がはいった。白鸞は、戸惑いながらも家を出た。少し遠いから、と、白鸞は紫鸞の引く自転車に座らされて、大人の速度で、二十分ほど歩いた。ぼんやりと、少しずつ、見たことのあるものが増えて行って、あの日、紫鸞と別れた場所に到着した。白鸞は自転車から降りて、古びたアパートをじっと見た。全てをはっきりとは、覚えてはいなかった。それでも、忘れられるはずもなかった。ふらりと、アパートに向かって一歩踏み出そうとして、紫鸞の大きな手が、その肩を掴んだ。白鸞が振り返ると、紫鸞は静かに、首を横に振った。白鸞はそれでも、アパートに向かおうとしたが、紫鸞は今度は、その腕を掴んだ。

「白鸞、だめだ」

静かなその声に、白鸞は意味もわからず焦った。

「帰っているかも…」

母が、とは、言葉にならなかった。

「帰ってはいない。あそこにはもう、知らない人が住んでいる」

白鸞は紫鸞の腕を振り解こうとした。けれど、紫鸞はびくともしない。

「放せ」

「だめだ」

「紫鸞!!」

放せと言ったのに、白鸞はとうとう両腕を掴まれてしまった。

「白鸞、彼女は今服役中だ。あそこにはいない」

「どうして…何も悪いことはしていない」

「した。あなたに暴行を加えて、命を奪おうとした」

「違う、あれは…。あれは」

「白鸞」

言い合う紫鸞と白鸞を、元化とシロは静かに見守っていた。けれど元化は、いつでも取り出せるように鞄の中で冷たい茶の入った水筒に触れていたし、シロは決して腰を下ろさなかった。

「彼女は、紫鸞、いつだって私を捨てる事ができたのに、それをしなかった。毎日ではないが帰ってきたんだ。た、たしかに、きちんとした人間ではなかったが、一生懸命生きていた」

白鸞は、力の限り、紫鸞の腕から逃れようとしている。母親のいるかもしれないあの部屋に、もう一度帰らなければならなかった。

「掃除をしないと…せめて清潔な場所で過ごしてほしいから、紫鸞」

「白鸞、あの部屋には、もう別の人が住んでいる」

紫鸞は、少しも揺らがなかった。呼吸の乱れた白鸞の瞳から、とうとう、ほろりと魂が血を流す。

「わたしは、どうして…いつも、誰も、たすける事ができない!いつも!!」

自分はもうすぐ死ぬのだと、白鸞はずっと思っていた。そうでなければ、生きる事ができなかった。ぼんやりとした記憶がいつのものかなど関係ない。そこにあるのは、幸せにできなかった命のことばかり。唯一得た肉親さえ、どうすれば喜んでもらえるのか、未だにわからないままだった。世界の全てはぼんやりとしていて、眼鏡をかけたところで全ては形を持たなかった。

「それは違う」

泣き出した白鸞を、紫鸞は軽々と抱き上げた。優しく背中を叩きながら、停めてある自転車に寄りかかる。

「白鸞、別に、逮捕されたからといって命を奪われるわけじゃない。社会での生き方を学ぶ必要があるから、そういう…長い合宿みたいな感じのあれに、参加しているようなものだ」

紫鸞は、なるべく柔らかく説明しようとして少し失敗したが、ちらりと見た元化が呆れたように頷いたので、紫鸞も肩の力を抜いた。

「物事には得手不得手があるし、白鸞はまだ子供だ。今は助ける側じゃなくて、助けられる側なんだ。元化に色々習っているんだろう?平和な世の中だから焦らなくていい。できる事ややりたい事を、探すところからやろう」

紫鸞の言葉が白鸞に届いているのかは、その場の誰にもわからなかった。全てを拒むように縮こまって泣き続ける白鸞を抱き上げたまま、紫鸞はしばらく待って、それから歩き出す。自転車は、元化が引いた。シロは、リードを持たれなくてもきちんとついてくる。白鸞は、軽かった。紫鸞は少しだけ怖くなって、小さなこどもを抱く腕に力を込めた。


白鸞が目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。隣にはシロが伏せている。昼寝はいつもソファなのにと思いながら身を起こして伸びをした。なんだか瞼が重たくて、どうしてだろうとぼんやり考えたところで、急に一日の出来事を思い出した。取り乱して泣きじゃくった上に、おそらく紫鸞に抱えられているうちに眠ってしまったのだろうと思った。

「シロ…」

助けを求めるように、隣でおとなしくしている兄弟の名を呼んだ。恥ずかしいし、気まずい。きっと朱和にも、話は伝わっているだろう。深くため息をつく白鸞の手を、シロはいつもより多めに舐めた。ドアの向こうには人の気配がする。音から察するに、夕飯の準備をしているのだろうと思われた。時々話し声が聞こえてくるのに耳を澄ませると、どうやら、全員居る。朱和も、紫鸞も、元化もだ。白鸞はもう一度寝転んで、もうこのまま眠ってしまおうと思った。シロを抱え込んで目を閉じる。それから大きく、息を吸った。シロの匂いにまじって、食べ物の匂いがした。扉のすきまから忍び込んできた夕食の存在感に、突然、ぐぅ、と白鸞の腹が鳴った。シロが驚いたように息を止め、白鸞も驚いて目を開けた。一人と一匹はしばらく顔を見合わせていたが、もう一度、今度は少し長めにぐぅぅと音がして、白鸞は諦めて起き上がった。ひどく、腹が空いていた。空腹を思い出してしまえば、それはいとも簡単に白鸞を動かした。気まずくても、恥ずかしくても、空腹には勝てないのだ。腹を空かせた人間から、正気を失っていくのだから。古い記憶の中に、その事実は強く根付いていた。白鸞は静かに静かに、ドアを少しだけ開けた。その隙間から隣の部屋を覗くと、三人が夕食の準備をしていた。少し怖気付いてドアを閉めると、ややあってから柔らかくドアが叩かれた。白鸞は少しだけ怯んで、それでも扉を開けた。朱和が立っていた。

「おはようございます」

「…おはよう」

にこりと挨拶をされたので、白鸞も挨拶を返した。

「もうすぐ夕食ですが、食べられそうですか?」

朱和の問いには、白鸞の腹が大声で答えた。朱和は目を丸くして、それから声を上げて笑った。

「あ、いや、これは…」

白鸞は慌てて弁明をしようとしたが、シロが後ろから白鸞を押して、部屋から出した。追い出されてしまった白鸞が所在なさげに食卓に近づいていくと、それに気づいた元化が

「寝起きの顔をしてるから、顔洗ってきた方がいいですよ」

と耳打ちをしてきた。白鸞は素直にそれを聞いた。洗面所で鏡をみると、見事な寝癖と、よだれのあと、それから赤くなった瞼という、大変な様子だった。もしかして朱和に笑われたのはこちらだったのかもしれないと思いながら、白鸞は顔を洗った。少しさっぱりして戻ると、三人はすでに席について白鸞を待っていた。白鸞も慌てて座って、皆で手を合わせてから箸を手にとる。もう随分と上手く使えるようになったそれで、炒め物を口に運んだ。ずっと腹が空かなかったから、白鸞はすっかり忘れていた。その一口が運んでくる、生きる喜びを。

一口目を口に入れたきり動かなくなってしまった白鸞に気づいた朱和が白鸞の名を呼ぶと、白鸞ははっとして口を動かし始めた。味を確認するように朱和が炒め物を口にいれると、白鸞は慌てておいしいと伝えた。好き嫌いは無いのだ、昔から。しばらくして、白鸞の様子をそっと窺っていた元化の方を見て、白鸞は口を開く。

「料理を…してみたい」

白鸞が何かをしたいと言うのは初めてだったから、三人の大人は揃って顔を明るくした。

「いいですね!実は俺、料理は苦手なんですけど、一緒にがんばりましょう!」

簡単なものから始めましょうね!とやる気を見せる元化に、白鸞は嬉しそうにして、朱和と紫鸞は少し不安になった。できるだけ立ち会おうと目配せをして、頷きあう。それに気づかず、白鸞はどこかすっきりとした心持ちで、湯気の立つ食べ物を口に運んだ。


その夜、珍しく、シロは白鸞よりも先に眠った。その寝顔を眺めながら、白鸞は小さくあくびをする。料理ができるようになったら、会いに行こうと思った。あの部屋で一緒に苦しんだ彼女に。なにかすごく美味しいものを作って、持っていこう。そう決めて、白鸞は目を閉じる。食べてくれるかどうかはわからない。わからないが、彼女はずっと、空腹だったのかもしれない。もしそうなのだとしたら、温かい食べ物を届けたいと、そう思った。




〜おわり〜