冷たい石

2/23/2026




———夢を見た。

紫鸞はゆっくりと目を開けると、傍らで書を読んでいた元化をちらりと見てそうこぼした。元化は少しだけ目線を上げて、そうですか、とだけ応えた。紫鸞が続きを話したいのなら話せばいいし、そうでもないならそれでいいと思った。

———白鸞のところに行ってくる。

紫鸞はしばらく口を閉ざしていたが、元化にそう告げて部屋を出て行った。珍しいことだ。紫鸞がはっきりと白鸞を訪うと告げるのは。きっと夢に白鸞が出てきたのだろう。そう思って、元化は静かに紫鸞の背を見送った。相変わらず紫鸞は、白鸞の住居も、暮らしも、よくは知らないはずだ。すんなりと会えるといいけど、と呟いて、元化は静かに、書に目を戻した。


 紫鸞は、通い慣れた里に向かった。夢の中で、紫鸞は朱和と旅をしていた。共に鍛錬をし、戦場を駆け、市井の様子を見て回った。太平の世を作り上げるであろう英雄を見つけ、里をまとめる白鸞に、それを伝えに行こうとしていた。夢だとはわかっている。けれどあまりにも幸せな夢だった。一人で持ち運ぶのには少し重すぎて、だから白鸞の顔を見て、あれは夢だと、目を覚まさねばならなかった。

 白鸞に会いに行くと言っても、里の中をぶらついて、白鸞が現れるのを待つしかない。会えるかもしれないし、会えないかもしれなかった。けれど紫鸞にとって、里は間違いなく「白鸞のところ」だ。この場所で出会い、暮らし、別れ、再会した。だから、元化に告げた行先は嘘ではなかった。会いたいとは思ったが、会えるかどうかはわからない。それでよかった。


 人の気配のない里に着くと、紫鸞は馬を降りた。賢い馬なので、放しておいても呼べば戻ってくる。特にどこかへ繋ぐこともせず、紫鸞は手綱から手を離した。そのままぶらぶらと辺りを歩く。一度なくして、それから戻ってきた記憶が、どの瓦礫が誰の家だったのかを、いつだって教えてくれる。里長の屋敷も、紫鸞が間借りしていた朱和の家も、今はもう、等しく草花に飲み込まれかけていた。畑の痕跡などとうに無くなっていて、焼けた家屋と柵の名残が、その場所に人が住んでいたことをかろうじて物語っている。紫鸞はぼんやりと里の中を見てまわった。静かなものだ。風が揺らす草木の音に混じって鳥の声が聞こえるだけで、枯れた井戸からは、水の音もしなかった。

 里には、二つの墓地がある。里の外でも見かけるような、よくある農村の墓地と、まるで目立たない墓地だ。山の中に隠されるようにひっそりとあるその墓地には、ところどころに石が積まれているだけで、知る者が見なければ、墓地だとはわからないだろう。この里に生まれ、太平の要として生き、そして死んだ者たちの墓だ。紫鸞も、一つ二つ、墓を作る手伝いをしたことがある。石の下に、彼らが眠っているとは限らない。ある者は報せしか戻らず、多くの者は火葬された。歴代の里長は、少し離れた場所で鳥葬されるから、石すら積まれない。この石は、世の太平の裏で生きた者たちの足跡だと、いつだったかに白鸞は言っていた。完全には草木に埋もれず、けれどあまり人の気配を感じさせないように、紫鸞はたまに、少しだけ手入れをしているし、おそらく白鸞もそうなのだろうと思っている。

 里に白鸞はおらず、他にやることもないので、紫鸞は静かな墓地をのんびりと歩いた。崩れすぎた石は少しだけ積み直し、石を飲み込もうとしている草を少しだけ片付ける。そうして歩いていると、墓地のはずれ、視界の隅で、ちりりと光るものがあった。何だろうかと紫鸞が目を向けると、木漏れ日が揺れるのに合わせて、歌うように光を反射する何かがある。近づいてみると、小さめの石が積まれていて、その近くに何かが落ちて———いや、置かれていた。朱和の髪飾りと、耳飾りだった。しゃがみこんでよく見ると、丁寧に磨かれてはいるものの、部分的に燃え落ちて、拭いきれない煤がついていた。耳飾りの一つは、壊れてバラバラになっていて、それでも一箇所にまとめて置かれている。積まれている石が少し小さいのは、石を集めた時の白鸞の手が小さかったからだと気づいて、紫鸞は目を覚ました。全ては夢だ。朱和と共に見出した英雄も、彼がもたらした太平の世も。

 紫鸞は一つ息をして、立ち上がった。しばらく朱和の墓を見つめて、それから一歩足を出そうとしたところで、近くに、似たような大きさの石が集められているのに気づいた。ぱらぱらと無造作に散らばった石は、きっともうすぐ、草に飲み込まれて見えなくなるだろう。何となく気になって近づくと、草に隠れるように、石に混じって陶器の欠片が落ちていた。それを拾い上げてみると、どこかで見たことがあるように思った。紫鸞は、じっとそのかけらを見つめた。なんの特徴もない、色もついていない陶器の欠片だったが、紫鸞はそれを知っている。ひっくり返してみたり、傾けてみたりしているうちに、急に答えに辿り着いて、そして息を止めた。それは、紫鸞が里で使っていた、茶碗の欠片だった。散らばる石は、白鸞が作った紫鸞の墓だ。紫鸞が生きていたのを知り、積んだ石をわざわざ崩したのだろう。きっと朱和に文句を聞いてもらいながら、少々乱暴に。それでも、白鸞のことだ、石を蹴り飛ばしたりなどはしなかったに違いない。そういった雑さを、彼は持ち合わせてはいないから。紫鸞は、茶碗の欠片をもとあった場所に置いて、立ち上がった。改めて辺りを見回すと、二人の墓は、墓地の端、里長が弔われる山の方角に作られていた。凛と冷たく見えるくせに、存外寂しがりやなのだ。紫鸞は、自分の墓だった石の一つを持ち帰ることにした。小さなそれは、紫鸞の手の中ですぐに温まって、紫鸞の心を慰めた。風が吹いて、揺れた木漏れ日の下、朱和の耳飾りが光った。


 空気が澄んでいる。紫鸞は早足に里の入り口へ戻り、指笛で馬を呼んだ。軽やかに近づいてくる蹄の音が、命の持つ鼓動に聞こえた。次に白鸞に会ったら、抱きしめようと思った。小石のようには、すぐにはあたたかくはならないだろうけれど、それでも。




〜おわり〜