迷い道への落とし穴、落とし穴への迷い道
12/20/2025
白鸞が目を覚ましたことに、紫鸞はすぐに気がついた。寝台の近くでぼんやりとしていたから、一瞬の呼吸の乱れをその耳に捉えることができたのだ。寝台を見やると白鸞はまだ目を閉じている。状況確認が必要なのだろうなと思って、紫鸞は白鸞が瞼を開けるのを待った。しばらくして、白鸞はゆっくりと目を開いた。そろりとあたりを見回すので、紫鸞は寝台に近づき、静かに声をかけて元化を呼びに行った。紫鸞が元化を伴って部屋に戻ると、白鸞は寝台から足を下ろして座っていた。表情を変えずに元化を一瞥して、白鸞の視線はそのまま紫鸞の帯留を通って床を撫でると、一度、瞼の奥へと身を隠した。
「気分はどうですか?頭を打ってしばらく意識がなかったんですよ」
元化がそう言うと、白鸞はぱちりと目を開け、平気だと答えた。その声が酷く穏やかで、紫鸞の胸は少しざわついた。打ったところにたんこぶができているから、しばらくは気をつけて、できるだけおとなしく過ごしてくださいね、という元化の言葉を、紫鸞も白鸞もきちんと聞いた。白鸞は相槌を打ち、紫鸞も元化に礼を述べた。
元化が部屋を出ていくと、紫鸞は白鸞に向き直った。空気はこんなにも落ち着いているのに、紫鸞の耳の奥で、小さな虫が羽音を立てているようだった。
———自分の名前はわかるか?
そう尋ねられ、白鸞はじっと紫鸞を見つめた。
「私は白鸞、お前は、紫鸞。さっきの医者は元化」
すらすらとそう言うが、その声はやはり、普段よりも静かに思えた。
———痛むところはないか?
「ない」
消えない違和感の正体を探ろうとして、けれど、それは紫鸞には少し難しかった。白鸞は日常ではいつだって静かで、あまり多くを声に出しはしない。声にはしないが、紫鸞と似て、言外の言葉は比較的多かったりする。そう考えて、紫鸞はようやく、白鸞が静かすぎるのだと気づいた。言葉を交わす以外の会話を、白鸞は目が覚めてから一切していない。おそらく、何かの理由があって緊張し、警戒をしている。
———今の白鸞は、様子がおかしいように見える。本当に大丈夫か?
紫鸞がそう言うと、白鸞はじっと紫鸞を見た。紫鸞も、じっと待った。
「……朱和は、どうしている」
探るようにするりと耳に滑り込んできた言葉に、紫鸞は目を瞠った。朱和は、と言いかけて、咄嗟に口をつぐむ。白鸞に少し待つように伝えて、急いで元化を探しに部屋を出た。
「確か、子供を荷崩れから守ろうとして、下敷きになったんでしたよね。だとしたら香や何かの影響ではないはず…目を覚ますまでは紫鸞どのがみていましたし、何らかの薬を飲まされたわけではないでしょう。となると、身体を強く打ったことで少し記憶が混乱しているのかも。そういう例をいくつか読んだ事があります。戻るかどうかは…運次第、といったところでは…ありますが…」
食事中だったのを紫鸞の部屋に連れ戻された元化は、今度はもう少し色々と白鸞を検分した。白鸞ははじめ、元化の質問にそつなく答えていたが、紫鸞が安全だからと何とか説得すると、正直に受け答えをするようになった。
「腕が良いのだな」
感心しているのだろうがその様子を見せず、白鸞は淡々とそう言った。今の白鸞には、紫鸞と出会う前までの記憶しかない。紫鸞と元化の名は、二人の会話から拾ったものだった。大まかな現状を告げられても白鸞はとても静かで、元化は不思議な気持ちで、一応名医で通ってますよ、と答えた。
「それで、朱和は?」
一通りの診察が終わり元化が食事へと戻ると、白鸞は再び、紫鸞に尋ねた。紫鸞は寝台の近くに立ったまま、息を一つ、吸って吐いた。
———死んだ
紫鸞はその言葉を、事実を、初めて自分の口から音にした。白鸞が静かに見つめる先で、紫鸞の喉は震えた。震える喉で、里がもう無い事と、乱世は、少なくとも今は落ち着いていると告げた。白鸞はじっと、紫鸞から目を逸さなかった。以前白鸞が紫鸞に、朱和は死んだと告げた時もそうだった。あの時、記憶を無くしていたのは自分だったし、声を震わせていたのは白鸞だった。紫鸞は、多くを語る事が苦手だ。どこまで詳細を告げたらよいものかと一度口を閉じると、一拍置いて、白鸞が口を開いた。
「お前は今、働き口はあるのか?」
それを聞いて、紫鸞は一瞬、返答に困った。
「どうやら私は、何年も先の世に来てしまっているのだろう。里も朱和もすでに無いとお前は言うが、生活はできているのか?」
白鸞はいつから「次期里長」だったのだろう。今更、いや、今だからこそ思い至ったのだろうが、紫鸞はそう思った。何よりもまず、里の者の生活を心配する白鸞に、紫鸞の胸は少しだけ軋んだ。働き口と家はあり、生活もできている事は伝えると、白鸞はようやく、少しだけ微笑んだ。
「そうか」
その声が、静かで、けれど存分に安堵を含んでいるのが、流石の紫鸞にもわかった。
「では次に…、私は何かの仕事の途中だったか?」
この質問には、紫鸞は困った顔を見せることしかできなかった。白鸞がどこで誰と何をしているのか、紫鸞は殆ど知らない。孫権と時折会っているのは知っていたから、何かしら彼のために働く事があるのだろうとは思っている。そう告げると、孫権とは誰だと尋ねられたので、紫鸞は里が焼かれてからの大まかな流れを、たどたどしく説明した。白鸞は質問を挟みながらじっと耳を傾け、紫鸞が話終わると、ふむ、と自分の顎を撫でて考え込む。紫鸞はその仕草に見覚えがあった。そういえば、再会した後の白鸞からはその癖は抜けている。きっとどこかに置いてきたのか、落としてきたのかしたのだろうと思った。紫鸞が次の質問に備えていると、白鸞はふと髪を結っている紐に手を伸ばし、それを解いた。それからその紐をじっと見ていたかと思うと指先で細かく揉み始める。首を傾げる紫鸞の目の前で、紐だったものが徐々に開いていき、薄く薄くなめした獣の皮の破片になった。それに何かが書かれていたようで、白鸞はそれを読むと、また破片を紐に戻して髪を結った。
「今日は何月何日だ?」
尋ねられ、紫鸞が日付を答えると、白鸞の肩は緩んだ。白鸞が何にどれだけ備えているのか、事態が起こらなければ知ることもないのだだと、紫鸞は思った。
「急ぎのものはなさそうだが、この状況が続くなら何か考えねばな」
そう言いながら、噛み殺せなかったのだろうあくびを漏らす。疲れたなら休むか、と紫鸞がかけ布を整えようとすると、白鸞はゆっくりと立ち上がった。
「この身体に慣れたいから、少し歩きたい」
そんな事を言うので、紫鸞が今度こそ目を瞬かせると、白鸞は恥ずかしそうに目を逸らした。
「私も背が高くなるのだな。先ほど立った時に驚いた。少し落ち着かない」
なるほど、だからおとなしく座っていたのか、と合点がいって、紫鸞は白鸞を伴って部屋を出た。
おっかなびっくりだった白鸞も、すぐに成長した身体に慣れたようで、屋敷から外に出る頃には、なんの不自然もなくなっていた。まだ陽は高く、天気も良かったので、紫鸞は白鸞を連れて近場を歩く事にした。人々が穏やかに日々を過ごしているのを見て、白鸞はうれしそうにした。途中、近所の猫が木に登って降りられなくなっているのに出くわすと、紫鸞は猫を助け、白鸞は礼にと野菜を持たされた。強引に猫を抱える子供達に別れを告げて、二人はぶらぶらしながら帰路についた。屋敷に戻ると、野菜を厨房へ持っていき、夕食を作ってもらった。食べても食べてもまだ入る自分の腹と、そっと追加されていく料理に白鸞は困惑し、けれどそれ以上にするすると物を食べる紫鸞を見て驚いた。どこまでが適切な量なのかわからなかったので程々にしておき、その日は元化の念押しもあって早めに床につくことにした。自分は護衛だからと紫鸞が言えば、白鸞はすんなりと紫鸞を隣に招いた。気の抜けたあくびを聞くと、紫鸞も眠くなってくる。思ったよりも狭いと白鸞が言うので、紫鸞は重くなった瞼を開ける事なく微かに笑った。
「…朱和は死んだのか。次に会う時は、きっと私のほうが兄さんだな」
もう殆ど眠りに塗りつぶされた意識に滑り込んできた小さな小さな声に、紫鸞は何も返す事ができなかった。
「おい」
鋭く呼ばれ、紫鸞は飛び起きた。慌てて辺りを見回すと、目を覚ました白鸞が胡乱げに紫鸞を見上げている。
「お前はたまに、急に同じ寝床にいるが、なんなんだ」
ぶつくさと文句を言いながらぐいぐいと身体を押し出してくるので、紫鸞は抵抗せずに寝台から降りた。窓の外は明るい。ぐっすり眠れたようで、白鸞も寝台から出ると、悠々と大きく伸びをした。
———頭は平気か?
紫鸞が心配を隠さずにそう尋ねると、白鸞は怪訝な顔をした。
「……侮辱か?」
そう言って身構えるので、紫鸞は慌てて、頭を打った事、一日様子がおかしかった事を告げる。すると白鸞は、紫鸞に日付を尋ねた。どうやら本当に一日分の記憶がないのだとわかると、白鸞はばつが悪そうに、手間をかけたことの謝罪と、礼を告げた。覚悟していたよりもすんなりと白鸞が戻ったので、紫鸞は、その見慣れた、険しい眉間にほっとした。
しばらくすると元化が様子を見にきたので、白鸞は元化にも礼を言った。
「痛いところや、気分の悪いところなどはありませんか?」
元化がそう尋ねるのに、白鸞は問題ないと頷いたが、なぜか元化がじっと見るので、白鸞は目を閉じてため息をついた。
「なぜか腹が苦しいが、どうせ昨日の私がたらふく食べたのだろう」
悔しそうにそう言うと、元化も笑った。
「塩梅がわからなかったらしく、紫鸞どのに追いつきそうな勢いで食べてたらしいですよ。はいこれ、お腹を整える薬です。ひどくなりそうだったら飲んでください。お大事に」
元化はそう言い、去っていった。白鸞はじとりと紫鸞を睨む。なぜ止めなかった、と言外に叱られ、紫鸞も気まずげに眉を波打たせた。
「…ところで、私はなぜここに?」
———頭を打って運び込まれてきた
「そうではなく…なぜこの街に?しばらく用事は無かったはずだが…」
何の含みもない白鸞の問いに、紫鸞は一緒になって首を傾げた。
———それは、知らない…
もしかしたら自分に会いに来たのかもしれない、とふと思ったが、それを言えば白鸞の眉間の皺が更に深くなるだろうと思い、言わなかった。何にせよ、白鸞が元気そうなので、紫鸞はそれで満足だった。そんな紫鸞をしばらくじっと見つめていた白鸞だったが、何かに思い至ったのか、諦めたのか、組んでいた腕を解いた。
「…世話になったのは事実だ。薬草でも探してこよう」
そう言ってするりと部屋から出ていく白鸞を、紫鸞は慌てて追いかけた。白鸞のたんこぶはまだ消えていないし腹の調子も悪そうだから、自分も行くと隣に並んだ。白鸞は、自分が紫鸞の面倒を見なければと思っているようだが、紫鸞だって、朱和から白鸞のことを頼まれている。そのことを、白鸞は知らないし、知らないままでいい。いずれ白鸞が朱和と再会した時、朱和の口から聞けばいいと、紫鸞はそう思っている。
〜おわり〜