電子管の歴史を遡ると、真空中の放電現象の発見が起源となりそうですが、近代の電子技術勃興は、一般的に真空管と呼ばれる電子管の発明によって始まりました。
真空管と呼ばれる電子管は、英国のJ. A. Flemingが1904年に発明した高真空で動作させる2極管が起源と考えられます。Flemingは、Thomas Edisonが1983年に発見したEdison効果を調査していて、2極管の発明に至りました。
その後、米国のLee de Forestが1907年にオーディオン(3極管)を発明しました。これらが発明された当時は、無線による長距離通信の必要性が高まってきたことから、無線検波器の高性能化が大きな課題となっていました。その為、無線検波器の高性能化を目的として、Flemingが2極管を、de Forestがオーディオンを発明しました。
Flemingが発明した2極管では、Richardsonの熱電子放出の理論に基づき、フィラメントからの熱電子放出によってフィラメント-陽極間に電流が流れると考えていた為、高真空で動作させることが前提でした。ところが、当時は高真空を維持することが技術的に困難で、真空ポンプを稼働させて使用する必要がありました。
Flemingの2極管は、真空ポンプを稼働させながら使用する為、検波器は大掛かりな装置となることは避けられません。当時の検波器の主流だったコヒーラーと比較すると、性能は優れていたと考えられますが、主流の座を奪い始めた鉱石検波器との性能差は殆ど認められず、鉱石検波器が簡便であったこともあり、Flemingの2極管が当時の検波器の主流になることはありませんでした。
de Forestが発明したオーディオンでは、「電流が流れるためには、イオンが必要である」という理論に基づいており、真空度については明確に定義されていませんでした。その様に考えると、de Forestのオーディオンは、真空管とは呼びにくいものかもしれません。
de Forestのオーディオンは、Flemingの2極管や鉱石検波器と比べ、検波器の受信感度が数倍高かったことから、発表当初に一躍脚光を浴びましたが、動作特性が不安定であり、実使用時間が数時間程度と短く、実用性が無いと評価されました。
オーディオンの様な3極管の実用化には、基礎理論、電極材料、真空技術、製造技術等の膨大な知見が必要だったことは想像に難くありません。その後、多くの研究者、発明家らがオーディオンを入手して、オーディオンを範とした3極管の実用化に向けた試行錯誤を繰り返しましたが、容易には実用化に至りませんでした。
de Forestがオーディオンを発明して間もない1908年に、逓信省逓信官吏練習所の佐伯美津留がオーディオンを使用した無線検波器を入手して試験したことが、電気学会50年史に記されており、世界的に見ても早期に日本でオーディオンの調査を開始していました。更に、1910年には、逓信省電気試験所(現在の独立行政法人産業技術総合研究所)の鳥潟右一が米国でオーディオンを入手し、評価した記録も残されています。その評価結果は、前述の通り、「初期には鉱石検波器よりも数倍高感度であるが、短時間で使用できなくなり、実用性が無い」との評価でしたが、「短時間でグロー放電を発生し、動作しなくなる」との重要な記述があり、実用化に向けた大きな知見を得たものと思われます。1910年のオーディオンの試験の後、電気試験所でオーディオンの試作研究が開始されました。
東京大学工学部電気系学科でも、1911年にde Forest製の検波器を購入した記録が残されていたことから、当時の最先端技術として注目していたことが分かります。
1910年頃から、欧米で3極管の実用化に向けた研究開発が活発化しました。
1910年には、オーストリアのLieben他が電話中継増幅器様にリーベン管を発明しました。リーベン管は、水銀を封入することで安定にイオンを発生させ、イオンによる電流を制御して電気信号の増幅を可能にするという理論に基づいていました。電気信号を増幅する目的で開発された3極管は、リーベン管が世界最初です。しかし、リーベン管は構造の複雑さだけでなく、水銀を封入した水銀放電管としての特徴から、長時間安定に動作させることは難しく、主流になることはありませんでした。
1911年には、米国のLowensteinがオーディオンを用いた増幅器の実験に成功し、追随するようにde Forestも増幅器の実験に成功しました。
1913年には、de Forestがオーディオンのライセンスを米国Western Electric社に売却し、Western Electric社のArnold他が改良型Audionを開発します。1915年には、改良型オーディオンを用いた電話中継増幅器を開発し、長距離電話中継の実用化に成功しました。1907年にde Forestが発明してから8年後の1915年に、Arnoldによってオーディオンが実用化されたと言えます。
また、米国General Electric 社のLangmuirは、Richardsonの熱電子放出の理論に基づき、残留ガスの影響でオーディオンが長時間動作できないことを突き止め、高真空な3極管であるPliotron、2極管であるKenotronを1913年に特許申請し、1915年に発表しました。ここで、名実ともに真空管が誕生しました。尚、Pliotronは、高電圧で動作させることが出来る大型の3極管で、世界で最初の出力管として開発されました。Kenotronは、高電圧の交流を整流できることから、先に発明されたX線管用の直流高電圧発生用の整流管として開発されました。
その当時の欧州は、第1次大戦直前であり、通信機器の需要が急激に高まっていました。フランス陸軍ののFerrieは、3極管の有用性に着目し、Langmuirの理論と英国Marconi社のRoundが開発したRound管から量産性の高い構造を参考にし、1914年に独自に高真空な3極管の開発に着手します。1915年には、TM管(フレンチ管とも呼ばれる)が実用化されました。TM管は、世界で最初に大量生産された高真空3極管です。TM管は高真空なことから、数百ボルトもの高電圧で動作させることが可能で、小型の無線送信用出力管としても使用することが出来ました。当時のTM管の実使用時間は100時間程度だったそうですが、その有用性から、第1次大戦の軍需物資として、100,000本以上生産されたと言われています。
TM管は、開発国であるフランスだけでなく、第1次大戦の連合国であった英国他でも大量に生産されました。その為か、第2次大戦終了までに欧州で開発された真空管に、TM管の仕様の一部が真空管の規格として残ることになりました。
1910年に電気試験所でオーディオンの試作研究を開始しましたが、その後の数年間については、情報を確認できておらず、現在調査中です。ただ、電子管実用化に関連した技術情報は、欧米から供与された事実は確認できていないことから、日本での独自技術の蓄積が必要で、多くの困難を乗り越えなければならなかったと思われます。
1915年の米国での長距離電話中継実験の成功、実用化の報を受けて、東京帝国大学工学部電気工学科助教授だった鯨井恒太郎が、電気学会で「オーヂオン、アムプリファイヤー」と題した講演を行い、オーディオンの必要性を強く説きました。これを契機に、電気試験所でのオーディオン実用化に向けた試作研究が本格化し、1916年には電気試験所でオーディオンの実用化に成功し、電話中継用増幅器に使用開始しました。
電話中継器の需要が高まった事から、電気試験所は実用化に成功したオーディオンを東京電気に1916年に製造委託し、1917年6月に東京電気はオーディオンの製品化に成功しました。尚、東京電気は製品化したオーディオンを「米国型オーヂオンバルブ」(型番:UN-100)の製品名で販売しました。
ほぼ同時期に、海軍からオーディオンとは別構造の3極管の製造委託を受けた安中電機製作所は、1917年10月にAAB-5型の製品化に成功しました。
更に、1918年には、日本無線がLumion C1型を製品化しました。
日本国内で実用化した最初期の3極管は、東京電気のオーディオン、安中電機製作所のAAB-5型、日本無線のLumion C1型です。これらの3極管の実用化によって、日本の電子技術発展の歴史が始まったと考えています。