自己紹介

福田 雅澄 「 自己紹介 」

出生地と育った場所は、高知県室戸市吉良川町傍士です。

吉良川町は南はすぐ海、北はすぐ山で、東の川と西の川(吉良川)が流れている。

夏は海、冬は山で遊んで、自然がとてもすばらしいところです。

( 高知県室戸岬 海上からの航空写真 )

( 高知県室戸市吉良川町 生家から20mくらい先の海岸 )

( 目の前180度が見渡せる太平洋で、地球が丸いのがわかった )

( 夏には、毎日この海で泳いだ )

( 生家では、夏の夜なんかに寝ているときに、潮騒が聞こえていた記憶がある )

( 高知県室戸市吉良川町 生家のすぐ近くにあった漁港 )

( 小さい頃、ここでとれた新鮮な魚をよく食べた )

小学校は地元の室戸市立吉良川小学校に通いました。

中学・高校はいわゆる進学校である、中高一貫校の土佐中学・土佐高校へ通いました。

高知市内にある学校で、地元から遠くて通えないので、親元を離れて高知市内に下宿していました。

( 当時の土佐中学・土佐高校 全景 今は新築校舎になっている )

( 当時の土佐中学・土佐高校 玄関 )

土佐高校は当時、高校野球が強くて甲子園大会に出場し、上岡というピッチャーのときに準優勝した。

甲子園大会で、イニングの攻守交代のときに全力で走って交代することで、「全力疾走」という言葉が全国で有名になるきっかけをつくった。

「全力疾走」の土佐高校ということで有名になった。

大学は静岡大学に通った。

この頃は、学生運動も盛んで、時々学内が学生によって封鎖され休校となった。

大学1,2年の教養課程は静岡市のキャンパスで、大学3、4年の専門課程は浜松市のキャンパスで授業を受けた。

大学1,2年の静岡時代は下宿していたが、大学3,4年の浜松時代は大学の寮であるあかつき寮に入った。

( 静岡大学 工学部 入口玄関(静岡県浜松市) )

1972年(昭和47年)4月、富士通(株)に入社した。

創始者古河 市兵衛の古河財閥の「古河」の「ふ」と提携していたドイツの重電メーカー「シーメンス」(ドイツ語読みでは「ジーメンス」)の「ジ」とから「富士電機」(子会社?)(富:ふ、士:ジ)が生まれ、その「富士電機」の子会社が「富士通信機」(現在の「富士通」)となりました。

父に「富士通は富士電機の子会社だけれども、子会社が親会社より大きくなった」と言うと、父はホーッと目を細めていました。

人は2度死ぬと言われていますが、1度目の死は肉体的な死ですが、2度目の死は皆からの噂とか記憶から消えたときだそうです。

2度目の死の前に、し足りなかった親孝行をしようかなと思ったりして・・・。

    • 最初は、JR南武線の武蔵中原駅前の川崎工場で、「生産技術部 試験課」に配属されました。

( 会社生活のほとんどを過ごした 神奈川県川崎市武蔵中原駅前の川崎工場 )

    • ミニコンピュータ FACOM-Rを使っての、プリント板(コンピュータを構成する機能単位のブロック板)をテストするシステムの開発です。

    • 次に、「トータリゼータ技術部」です。

      • ここでは、JRA(Japan Racing Association)(日本中央競馬会)向けの、勝馬投票券発売システム(払戻しシステムも含む)(いわゆる馬券発売)の開発を行っていました。

      • JRA(日本中央競馬会)の本部は、東京・新橋駅前の「ニュー新橋ビル」から歩いて2,3分のところにあり、ときどき出張で出かけていました。

      • ミニコンピュータ U-300 で制御する、中間制御装置TCU(Totarizator Contorol Unit)に内蔵しているマイクロコンピュータ PANAFACOM L-16Aのファームウェア(ソフトウェアの一種)のプログラミング等を行いました。

      • このトータリゼータシステムは、富士通の中でも特に超高信頼化を要求されるシステムで、二重化されたシステムであり、どんな部位でどんな故障とかエラーが起きても、システムが止まらずに稼働し続けるという思想のもとで開発されました。

      • 停電に備えて、瞬時に切り替わる無停電電源装置というものも備えていました。

      • かなり大がかりなシステムで、全国の10大競馬場、および場外発売所(今WINSと言っている)のそれぞれのシステムから専用回線を通して、後楽園(今の東京ドーム)の黄色いビルの中に設置している大型コンピュータ(メインフレーム) FACOM230-58にデータを集めて、オッズ(掛け金に対する予想払戻し倍率)や、払戻し金額を計算していた。

      • いつだったか、後楽園に出張して仕事しているときに、誰かに「今日は、ここでキャンディーズのさよなら(解散)公演をやっているよ」と言われたが、仕事中なので、見える由もなかった。

      • 仕事であちこちへ出張に行きました。

      • 中山競馬場、東京競馬場、京都競馬場、阪神競馬場へ行きました。

      • また、場外発売所(今のWINS)では、銀座、横浜、後楽園、道頓堀、神戸、

      • 札幌へ行きました。

    • 次に、「CTS(Conputerized Typesetting System)課」です。

そこは、新聞CTSシステムという、コンピュータを使っての新聞制作システムの開発です。

読売新聞は富士通が担当していました。

朝日新聞は、富士通ではなかったのですが、今は半分富士通が入っているそうです。

日本経済新聞は確か日本IBMが担当していたと思います。

この頃、韓国でソウルオリンピックが開催され、このソウルオリンピック以降、新聞の写真が白黒のみだったのが、カラー写真が初めて取り入れられました。

    • 次に「技術情報管理課」です。

ここは社内の設計データの登録・管理・配布とか、CN(Conputer Normal)(技術標準)とかFV(Fujitsu Vorshrift(ドイツ語))(生産標準)とかの社内システムを扱う部署である。

この時期病気で入院したので、左遷気味だったのかもしれない。

この頃のトピックスとして、電算機技術部のメインフレームのコンピュータの設計図面(磁気テープに格納)(磁気テープ数百本)を課長の命令で、全部廃棄した。

自分としては、歴史的遺産として残しておきたいと思ったが、上司の命令だからしかたがなかった。

2001年頃、ITバブルがはじけてIT不況となり、富士通が大幅赤字になった。

この頃、厚木テクニカルセンターで3ヶ月間研修を受けた。

    • 川崎工場から新横浜に転勤となった。

      • 次に「MWS事業部プロダクトコンサルティング部、第四開発部、サポート技術統括部」です。

( 神奈川県横浜市新横浜駅前のTECHビル )

DWH/BI(データウェアハウス/ビジネスインテリジェンス)とかのDB(データベース)ソフトウェアのサポート&サービスを行っている。

その後、新設のサポート技術統括部へ移り、そこで長かった富士通一筋での会社生活を無事卒業し、2010年1月20日に定年退職した。

2010年10月14日に、定年退職前から計画していた 株式会社 先見の明 を起

業した。

起業理念は、「情報革命」と「投資」を行うというもので、「情報革命で人々を幸せに」しようとするものである。

以上が略歴です。