自伝

自伝「先見の明」

福田 雅澄

目次

第1章 幼年期 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4

第2章 小学校時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10

第3章 中学校時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21

第4章 高校時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29

第5章 大学時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 34

第6章 社会人(生産技術部 試験課時代) ・・・・・・・・・・・・・ 42

第7章 社会人(トータリゼータ技術部時代) ・・・・・・・・・・・・ 49

第8章 社会人(CTS課時代) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 64

第9章 社会人(技術情報管理課時代) ・・・・・・・・・・・・・・・ 84

第10章 社会人(MWS事業部プロダクトコンサルティング部、

第四開発部、サポート技術統括部時代)・・・・・・・・ 88

第11章 定年退職後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 104

第1章 幼年期

1950年(昭和25年)1月19日に生まれた。

父は学(まなぶ)(大正12年生まれ)、母は英美(ひでみ)(大正14年生まれ)である。

一姫二太郎で姉は瑠璃子(るりこ)(昭和22年生まれ)、弟は裕之(ひろゆき)(昭和27年生まれ)である。

父方の祖父は徳一(?)でアルコール中毒であったが、よだれをたらしながらも山林を買ったという。

祖母はしげ子(?)で多田というところから嫁に来て、大きな(太った)人であったという。

母方の祖父は島本 勝(まさる)で農業をやっていた。

祖母は栄美(えいみ)である。

母方の祖先は、山内 一豊の家来で山内一豊が掛川から土佐に来たときに一緒に来たらしい。

父は四人兄弟で、兄が実(みのる)、妹が一恵(かずこ)、弟が勉(つとむ)である。

母は五人兄弟で、弟に英雄(ひでお)、勇作(ゆうさく)、敏郎(としろう)、四郎(しろう)がいる。

父は兄の実と一緒に製材業をやっていた。

母は父と結婚する前は小学校の先生をしていた。

父の気性は若い頃荒かったらしく、5尺6寸で20貫あった。

太平洋戦争中、メガネをかけていたので、上官とすれ違った際に上官がにらみつけられたと勘違いしたらしく、上官が怒って父の股間を日本刀で突いて大怪我したらしい。

又、父は若い頃猟犬を飼っており、木の上にいた猫を一撃で食い殺したということをよく言っていた。

太平洋戦争時は南方のスマトラとかボルネオへ行ったとのことだった。

輸送船に乗っているときに、隣の輸送船が敵艦の攻撃で沈められたらしい。

太平洋戦争終戦時、南方のスマトラとかボルネオの地元の住民に毛布と食料の物々交換をしていたので、地元の住民に好意を持たれており、引き上げ時に地元の住民の裁判で帰国のOKが出たそうである。

戦後、「椰子の実会」という戦友の集まりにも時々出かけて行ったそうである。

母の気性は気が強かった。若い頃安芸の女学校へ通っていて、弟の勇作おじさんと一緒に下宿していたとのことだ。

ある日喧嘩したらしく、勇作おじさんが釜に炊いていたごはんをぶちまけて暴れたらしく、勇作おじさんの若い頃は暴れ者だったとよく話していた。

太平洋戦争末期、よく竹やりで米兵を突き殺す訓練をしていたことをよく話していた。

米軍の艦載機のB29が爆撃に吉良川町にも飛来したそうである。鬼畜米英がとはよく言っていた。

子供が生まれてから、毎年1本ずつ木を植えていったとのことで、いろんな種類の木を植えた。

柿、枇杷、無花果、金柑、梅、葡萄等の木が植えられていたのを覚えている。

又、いろんな動物も飼っていた。犬、猫、山羊、鶏、うさぎ等も飼っていた。

私は母の実家で生まれた。

母が坂道に落ちていた熟した柿を拾おうと思って、転んでびっくりした拍子に私が生まれたということだ。

自分が生まれるときに、大きな流星が山の方角に流れたという瑞兆があったらしい。

初めての男の子が誕生したことで、父が大きなしび(マグロ)をもって母の実家にやってきて、喜んだとのことであった。

しかし、この出産後、母は喘息になり、後々まで恨めしく言われ続けた。

母の祖父が日清・日露戦争で鉄砲の弾を胸に受けたが、胸に手帳が入っていたために、手帳に弾が当たり危うく命拾いしたという話も聞かされた。

名前を付けるときに、当初父は「正博」という名を付ける予定であったが、1ヶ月前に生まれた池田 正博という人に名前を取られて(池田という人は父の将棋仲間だった)、急遽幕末の土佐の国学者「鹿持 雅澄」から名前をとって、雅澄と名付けられた。

血液型は父と自分と弟がB型、母と姉がAB型である。

住所は高知県室戸市吉良川町傍士である。

吉良川町は南はすぐ海、北はすぐ山で、東の川と西の川(吉良川)が流れており、海岸段丘となっている。

平野部は昔海底だったらしく、上傍士の畑からは貝殻が時々見つかった。

幼児期に住んでいた家は、製材所の一画にあり、道路際にはカンナの花が咲いていたのを覚えている。

家は一階と二階があり、二階の押入れの木戸に紫のクレヨンで一筋の線が画かれてあったのを覚えている。

隣には石建 雅巳(?)ちゃん(小学校同級生)の家があり、ドイツラン(アロエ)が植えてあり、父がかじってぼうずになったそうである。

石建 雅巳ちゃんは日大獣医学科卒業後、日刊スポーツ(?)の九州で勤務していて、現在は東京にいる。

同じく小学校の同級生の池田 幸孝君は高知工業高校を出て、高知市で働いている。

同級生の池田 正博君は母の話によると、関西でトラックの運転手をしているそうである。

家は港の坂を上がった上にあり、夜、漁師が灯台がわりに利用していたそうだ。

ある夜、家が電気を消していると、舟が港ではなく別の海岸に乗り上げてしまい難渋したとのことである。

父の兄の実おじさんを社長として製材業を営んでおり、従業員はその他に、浦川 健吉さん、永山さん達がいた。

永山さんは、お遍路さんをしていたところを、口説かれて働かされたらしい。

幼いころの思い出は、幼稚園へ池田 幸孝君と一緒に行ったが、途中ですぐ引き返してきて、余り幼稚園には行きたくなかったらしい。

幼稚園ではお昼寝の時間にシューベルトの子守唄がかかっていたのを覚えている。

母の昔話では、浜辺で遊んでいるときに母に小さなカニを手の平に置かれるとカニがじっとしているときはいいが、カニが動き出すとびっくりして驚天動地したという話をよく聞かされた。

又、あるとき高知市へ行った帰り、バスの中で自分が座っていた席に池田 よし子さん(母の友人)が座っていて気がついて席を自分にゆずろうとしたけれども、自分が頑として受け付けず立ちっぱなしで帰ってきたといういごっそうな面もあった。

母はこのとき、この性格を活かせばきっとなにかものになると思ったらしい。

母の実家の西山への里帰りで一緒に行ったときに、茶の間で真っ黒いススですすけた茶びんがかかっていたのを覚えている。

又、勝のおじいさんが、帰るとき「泊まって一緒に寝ないか、泊まると五円やるぞ」と言ったけれども、泊まらなかったのを覚えている。

父は青年期、太平洋戦争で南洋のボルネオ、スマトラへ行ってきて、途中他の船団が沈められたが、運良く日本に帰ってこられた。

戦争中食事には困ったらしく、食事に関してはうるさく母への注文が多かった。

弟が小さい頃、お膳の上のやかんをひっくり返して体にやけどをおい、そのとき父が新聞でぬぐったらしい。

弟はやけどの跡が下腹部に残った。

第2章 小学校時代

小学校低学年の時のことはよくは覚えていない。

小学校高学年の時に、父の勤めていた製剤所にあった家から、西の方角に100m位の新築の家に引っ越した。

リアカーで家財道具を運んだ光景を覚えている。

永山のおじいさんが赤土を足でこねていたのが記憶にある。

小学生の時の遊びといえば、夏は川と海で水泳、冬は山に入って「こぼて」(小鳥を獲るワナ)を弟と一緒にかけに行った。

弟とよく母屋の竹林等へ「こぼて」をかけに行った。

弟とよく見に行って、つぐみ・目白等がかかった。

真ん中の山の頂上近くで、鵺(ヌエ)の子供がかかっており、まだ生きていたが、後に弟が行っていたように家で飼うという発想がなく、山から帰りの途中で鵺の首を絞めて殺してしまった。

その時の悪いことをしてしまったという感情が今でも心の片隅に残っており、いつも神に謝りたいというしこりが残っている。

又、冬に目白を落としに、弟や石建 雅巳ちゃんとよく裏山へ行った。

鳥もちを木にまきつけるときに、鳥もちを川の水につけるときの水はたまらなく冷たかった。・

牛が首の山のうまめがしの木の蜜を吸いに、目白がチュンチュンと集まってくる。

オスはチジーとかチェーとか鳴くが、メスはツーと鳴くので鳴き声でオスかメスかがわかる。

なかなか目白を落とすことができなくて、小学生の終わり頃初めて2,3羽落としたときの感激は今でも忘れられない。

目白は鳥かごで飼う。

餌はキナ粉が上等の餌で、普通さつま芋と青菜をすり鉢ですりつぶして与える。

茶碗に水を入れておくと、お風呂よろしく羽をバタつかせて水浴びをし、かわいいもんだ。

時々朝起きるのが遅くてそのまま学校に行くと、ちゃんと母が変わりに餌をやってくれていた。

あるときの朝母の素っとん狂な声で、「いやーどうしょよ、蛇に目白が食べられた。」と叫んでいたが、眠くて寝ていて起きてみると目白は蛇が食べていなくなっていた。

夏場の遊びとして、鮎釣りがあった。

吉良川の東の川の河口で夏よく泳いだり、鮎釣りをした。

カッちゃんくの魚屋で鯵一匹5円で買って、鮎釣りの餌にした。

いつか石建 雅巳ちゃんと一緒に早朝、吉良川の東の川の河口で鮎釣りをするとよく釣れた。

魚にも朝早くはお腹が空いているので、食いが良いのかと思ったりした。

鮎はそのまま焼いて食べるが、その淡白な香ばしい味は天下一品であった。

近所の小学生仲間と母屋の上の空き地でバイもよくやった。

余り上手ではなかった。

バイの先を製材に勤めていた浦川 健さんにグラインダーでケンツに砥いでもらったりした。

台風が来ても東の川で泳いでいて、河口であったために土用波が上がってきて、いくら前に泳いで岸の岩のところへ行こうとしても進まないところを、前の家の田原 しげもりという人に腕をつかまれて助けられたこともあった。

この時、土用波に流されて溺れて死んでいたら、両親が悲しんだことを思うと今でもゾッとする。

小学校の担任の先生は低学年の頃は覚えていないが、小学校5年の時は島村先生、小学校六年の時は山本 昌弘先生であり、山本 昌弘先生とは今でも年賀状のやりとりをしている。(定年退職後、山本 昌弘先生とは一度お住まいのある安芸市でお会いした。)

三宅医院の三宅先生が教育長をしていた。

小学校5年生の時に、島村先生の指導で大藪 恵子さんの黒耳(くろみ)の家で大藪さんと一緒に勉強を教えてもらった。

大藪さんの家は廊下がツルツルでとてもよく磨かれていたことを覚えている。

ある日、大藪さんの家へ行くと、いつもあるはずの島村先生のオートバイがなかったので、島村先生が来ていないと思い、帰ってきてしまった。

翌日、島村先生から何故来なかったのかと聞かれて、「オートバイがなかったから(島村先生が)来てないのかと思った。」と言うと、「オートバイは家の中に入れてあった(と言ったと思う)らしいが、それ以来島村先生は怒ったらしく、指導してくれなくなった。

大藪さんは高知東中学へ入学した。

小学校6年生になった頃だと思うが、町の塾へ通いだした。

この塾は京大卒の若い人(名前は失念した)が主催していて、三谷 潤君、安岡 久子さん、大藪 恵子さんらが来ていた。

自分は、国語の書き取りが苦手だったが、よく勉強して修得した。

国語の漢字の読みで「ひっかけ問題」が多く、普通と違う読みのものが多かった。

例えば、会釈・一期一会・開眼とか仏教用語とかが多くなんとか習得した。

後に、京大卒の主催者が、最初は三谷 潤君より劣っていたが、そのうち同じレベルになったというようなことを言っていたそうである。

この町の塾へ通うようになったときか、大藪さんの家へ通うときか忘れたが、親から勉強するように言われて行くように言われた日、遊べなくなるのが嫌で裏山へ逃げ込んだ。

近所の同年代の人達の捜す声がしたけれども、そのまま隠れていた。

しかし、次回にはしぶしぶしかたなしに通うことになった。

参考書は、高知市で親が買ってきた算数とか社会とかがあった。

読書の習慣は、中学受験の参考書読みから始まった。

読書すれば、田舎(室戸市)出身でも都会(高知市)の人にも負けない。

今でもこの読書の習慣は続いている。

夜、勉強するときにはいつも母がつきそってくれたが、夜8時頃になると眠くなり、母が「もう寝」と言っていつも寝ていた。

母の話によると、スラスラと算数の問題を解くのが信じられなかったそうである。

特に、三谷 潤君はライバルであった。

小学校時代の学校の昼休みは、いつも家に帰って昼食を食べていた。

鰯の干物とトマトが多かった。

犬を飼っていて、昼食に家に帰るといつも跳び付いてきて前足で離さないようにされた。

港が近いせいもあり、近所(一軒おいて隣)に北村鮮魚店があり、夕食にはサバの刺身やハゲ(カワハギ)、テス(金目鯛)などの珍品を食べた。

夕食はほとんど魚料理が多く、この北村鮮魚店で新鮮な魚を買ってきて食べた。

当時は風呂場がなく、仙頭 つや子さんの家へもらい風呂に行っていた。

ある日、二段になっているセメントの上り台で、風呂から出るときにすべって頭から仰向けに湯舟に落ちた。

母親がびっくりして、それから家に風呂場を作るようになったみたいだ。

にわとり、山羊も飼っていた。

にわとりが産む卵よりもエサ代が高くつくと親父が文句を言っていた。

山羊に子が生まれて、弟と一緒に背中にしょった。

小学校6年生になってから、高知市の土佐中学校を受験するために、福島 清造(ハゲ造というアダ名だった)が主催している土佐塾は通うことになった。

あるとき、後免町駅が2つあり(片方は国鉄、片方は私鉄の土佐電鉄)、間違って別の駅まで乗り越してしまい、結局1駅の区間線路上を歩いて戻るはめになった。

まあ、田舎の電車で、1駅の区間線路上を歩いても電車が来なくて(電車間隔が1時間以上あったと思われる)、電車に敷かれて死ななくて良かったと、今でも冷や汗ものである。

この福島 清造は、後に(自分が土佐高校を卒業した後)土佐塾中学・高校を設立した。

小学校6年生のときに、ハゼ(木)に負けて手が膨れ上がって三宅医院に行った。

ヨードチンキとチンク油を手に塗ってもらっていたが、一向に良くならないので、高知市の土佐塾へ通っていたときに高知市の皮膚科の医院で診てもらったらやっと治った。

後でわかったことだが、三宅医院でヨードチンキをつけていたので、ヨードチンキアレルギーになり、手が膨れ上がっていたのがわかった。

それからというもの、怪我をしてヨードチンキを塗ると赤く膨れ上がるようになった。

それ以来医者不信となり、医者になるのは嫌だと思うようになった。

小学校の思い出を思いつくままに書いてみる。

まず、友人には立石 秋利、浜田 アキミツなどがいた。

製剤所のトロ(マグロ)箱を車に積むのを手伝わされた。

小学校の高学年のときのクラブ活動で、UFOのような回転しながら動くオモチャがあり、非常に興味深かった。

山本 昌弘先生に小学校6年生のときに、算数の問題を十数問黒板に書くように言われ、黒板に書いてから自分も問題を解き始めたが、自分が最初に全部出来てしまった。

余り怒られた記憶はないが、消しゴムを指でころがしていると、山本先生から「今、何やっている、同じことをやってみろ」と言われ、一瞬どうしようかと迷ったが、しかたなく同じように消しゴムを指でころがすと、山本先生は何も言わず教室から出ていったきり、その時限中は帰ってこなかった。

算数の問題を河野 久美ちゃんが教えてほしいと言ってきて、久美ちゃんの母親が時々お菓子をもってきたので、解いてあげた。

土佐中学校の受験のことを書こうと思う。

土佐中学校には姉が通っていたし、親としては当然のこととして、土佐中学校を受験するように仕向けた。

父親はよく講談で坂本 龍馬の話とかを聞いており、学業の大切なことを認識していたのであろう。

また、弟がやけどで三宅医院の世話になり、三宅医院の子供が土佐中学校へ進学していたのも影響を受けたのであろう。

当時、近所では中学校から高知市内の学校へやる人は皆無で、随分と非難と羨望もあったらしい。

さて、土佐中学校の入学試験であるが、国語の問題で「形容詞などがどの言葉にかかるのかを答えよ。」という問題が出て、今までこんな問題を解いたことがなかったから面くらって、よく考えずに思いついたまま答えてしまった。

この点が気がかりであった。

しかし、算数はよく出来て、後で山本 直四郎先生(土佐中学・土佐高校時代に保証人になってもらっていた)から百点満点だったことを聞かされた。

また、面接があり、「最近の新聞を読んで気になったニュースは?」と聞かれたが、自分は新聞を読んでいなかったので答えられなかったが、三谷 潤君はアメリカのアポロ計画のロケットのことを話したらしい。

合格通知の日、なかなか結果の通知が来ず、母親がじれて「もう遊びに行ってき。」と言ったので、正木の家の上の田んぼで遊んでいると、吉田 ますほちゃんが家で呼んでいると言ってきて、家に戻ると土佐中学校に合格したと言われた。

嬉しかった。

合格したことは運がよく、もし不合格だったら今頃田舎で船乗りにでもなって漁師にでもなっていただろうかと思ったりする。

合格の褒美に腕時計を買ってもらい、自分だけ腕時計をしてバイ遊びをしていると、立田たみおさんから「腕よりも腕時計の方が大きいやないか。」などとひやかされたりしたが内心嬉しかった。

この時期に三谷 潤君も土佐中学校へ、安岡 久子さんは土佐女子中学校へ、大藪 恵子さんは高知東中学校へ、山本 孝君も土佐中学校へ入学することになった。

吉良川小学校卒業間際に、安岡 久子さんと仙頭 律子さんが吉良川製材所へ来て、父に「同窓会が今日、公民館であるので来るように。」と言ったが、父が夕食が始まってから自分に伝えたのと、町の公民館がどこにあるのかわからず、結局行かなかった。

行くべきだった。

誘ってくれたご両人には今でも大変申し訳なく思っている。

機会があったら謝りたい。

小学校時代の記憶として特筆すべきことを書く。

父親は毎晩どこかで日本酒を飲んで酔っ払って夜遅く帰ってきたとき、必ず子供が眠いのにわざわざ起こして顔を見て安心していた。

父の製剤所勤めは、午後5時にかっちり終わり、それから帰ってきてから風呂に入り夕食となった。

吉良川町では昔から残業なんて考えられなくて、皆無であった。

夕食は魚料理を毎日といっていい程食べた。

刺身が多く、特にサバの刺身は新鮮でないと食べられないので、都会に出てきてからは食べられないでいる。

あのコリコリとした歯ざわり、独特の味はこたえられない。

また、ハゲ(カワハギ)を醤油で甘辛く煮たのは、とても美味しかった。

すぐ近所に魚屋があり、母がいつも「ツケ」(盆と正月の一括払い)で魚を買っていた。

第3章 中学校時代

1962年(昭和37年)4月に高知市内の土佐中学校に入学した。

土佐中学・高等学校は1920年(大正9年)、川崎幾三郎、宇田友四郎によって創立された私立の学校である。

三根円次郎(ディック三根の父)が初代校長であった。

クラスはBクラスとなり、アパッチ(あだ名)がクラス担任となる。

入学当初、中学受験のときに通っていた福島清造が挨拶に来た。

しかし、自分は恥ずかしがり屋だったので、ありがとうというお礼のあいさつが出来なかった。

先生方としてはオンカン(生物の中山先生)、花王石鹸(現代国語の森下先生)、アパッチ(音楽の先生で名前は失念した)、中沢先生(英語)、木内先生(日本史)などがおられた。

あだ名については次のとおりであった。

アパッチ・・・後の髪の毛がソソリたっていた。

花王石鹸・・・アゴが花王石鹸のコマーシャルの月のようにとがっていた。

オンカン・・・あるときはライオンのように恐ろしく、あるときはカンガルーのよう

にやさしかった。

土佐中学校・土佐高校の校風としては自由で、一に勉強、二に運動、三に礼節と言われていた。

いわゆる進学校であるが、高知県内では有名で人気があった。

生徒もどこか上品で、高知県内の上流階級と思われる子弟が多く、品の良さを醸し出していた。

自分は室戸市の貧乏出身ですこし引け目を感じたが、生徒の間ではそんな差別は微塵もなかった。

中学1年生のときにノートのタイトルに「雑木帳」と書いたら、寺尾さんに指摘されて「それはぞうきちょうでしょう」と言われ恥をかいた。正しくは「雑記帳」であった。

最初のテストでクラスで5番、学年全体で9番となり、郡部出身者(高知市以外の出身者)でこんな優秀な成績をとったのは初めてだと曽我部校長先生にほめられたが、それ以降成績は下降線をたどった。

土佐高校を卒業する頃には、学年300人中、100番目くらいの成績だった。

下宿は池上 佳樹さん(三谷 潤君の親戚)の家の二階の6畳間に最初は姉と二人で暮らした。

下宿代は確か一ヶ月3千円だったと思う。

食事は貧相でいつもごはんと味噌汁でおかずが少なかったような気がする。

これで育ちざかりの栄養は大丈夫かと心配していた。

下宿して一ヶ月位してからホームシックにかかった。

夜、いつも五台山の鉄塔の赤い灯かりを見ていた。

下宿には池上佳樹さんの子供の隆君がいて(5、6歳くらい)がいて、時々一緒に遊んだりした。

隣の家の子犬を連れ込んだりもした。

いつか大型台風がやってきて下宿の家が古かったものだから、窓に木でつっかいぼうをして、隣の家に非難したことがあった。

下宿の家が倒壊すると思ったがなんとか持ちこたえた。

一年位して、姉とあまり喧嘩するので、姉が他の下宿へ出ていった。

いつの日か冬、雪が珍しく屋根に積もり姉に起こされて物珍しく見た記憶がある。

この頃、生涯で最初で最後の父からの手紙が来たが、内容は忘れた。

どうせ勉強しろという内容のものだっただろうと思う。

また、中学生のときに詰将棋の本を買ってきて、凝っていたことがある。

中学生の頃からの友人に保木下 孝生君がいて、学校のそばに彼の家があったため、よく遊びに行ったものだ。

保木下 孝生君の影響を受けて、歌手エルヴィス・プレスリーのファンになった。

エルヴィス・プレスリーの歌を聴いて、彼はロック(アップテンポ)の曲だけでなく、スロー・バラードの曲もすごく上手くて、彼から次のような人生の指針を悟った。

それは、理科系・文科系を問わず、幅広く学ぶべきであり、視野を広げて世の中の動向を

把握すべきであることを悟った。

自分の読書の傾向も、理科系・文科系を問わず、幅広く読むことを心がけている。

ラジオで「9500万人のポピュラーリクエスト」を小島 正雄という人が司会でやっていて、よく聞いた。

時代はもうビートルズ時代となっていて、「9500万人のポピュラーリクエスト」のトップ10にビートルズの歌が3,4曲も入っていた時代だった。

中間テスト・期末テストのときには保木下 孝生君の家へ行ってよく一緒に勉強したものだ。

保木下 孝生君の兄嫁さんが美人で、喫茶店「展」をやっていてよくコーヒーをご馳走してもらった。

高知市内の喫茶店は全国一多くて、100軒くらいあり、保木下 孝生君と二人で全店を踏破するつもりで各喫茶店のマッチを集めたりした。

竹村 明君が下宿に遊びに来て、ロッテガーナチョコレートの紙袋が多いのにびっくりしていた。

下宿に風呂がなくて、風呂屋に行くようになったが、最初は恥ずかしかった。

中学3年生位のときだったと思うが、歌手エルヴィス・プレスリーに凝るようになったので、松下電器の一万円のテープレコーダーと音楽プレーヤーを親に買ってもらった。

最初買ったレコードはシングル盤で、歌手エルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」であった。

映画も観に行き、歌手エルヴィス・プレスリーの「アカプルコの海」、「大脱走」などを観た。

夏休みの宿題で吉良川の海岸にあった貝がらの採集を行い、、珍しい貝がらがあったのでオンカン(生物の先生)にあげると、オンカンから授業中にほめられた。

東京オリンピックがあった。

また、一世を風靡したビートルズが来日し、ライブ公演があり、保木下 孝生君の家のテレビで見た。

クラブ活動は軟式テニスを行い、よく近くの筆山(ひつざん)へランニングに出かけた。このせいで背が高くなったと思われる。

小学校6年生のときには、背が前から2,3番だったのが、高校を卒業するころには、後から2,3番になっていた。

保木下とペアを組み、彼が前衛、自分が後衛となった。

しかし、途中で保木下 孝生君が心臓が悪いとか言ってクラブ活動を辞めたので、自分も辞めた。

高校までの間に下宿を6回くらい変わった。

池上 佳樹さんの下宿を出て、佐藤さんと言ったかと思うが、二階建ての下の一階の三畳間に入った。

途中、かうたん(田舎の近所の池田(年上の人のあだ名))が遊びに来てくれた。

しばらくして、二階に下宿していたいとこの裕子の隣の部屋(6畳間)に行き、途中いとこの島本 富美男と同居した。

いとこの裕子が下宿を出た後、溝口君が入ってきた。

夏休み、冬休みは吉良川の実家へ帰省した。

夏は海で、冬は山でよく遊んだ。

弟(裕之)は吉良川中学、室戸高校、駒沢大学に行った。

弟は室戸高校ではよくモテテ、室戸市内では弟を知らない女子学生はいないくらいだったと美稲のおばちゃんが言っていた。

三谷 潤君の下宿(高知市桟橋通り)にもよく遊びに行った。

高知市一の繁華街帯屋町(おびやまち)へもよく歩きに行った。

その他、思いついたことを書き連ねることにする。

土佐中学校3年生の時に、担任の木内(きのうち)先生(日本史教育)に「(体が)小さいなあ」と言われたのを覚えている。

音楽の授業のときに、山崎君が「いつもクラシックを聴いていた。」という発言を聞いたときには、家庭環境の違いというものを認識させられた。

いわゆる上流家庭とはそういうものなんだと思った。

実家が海岸から100m位のところにあったので、夏休みは必ず毎日海に泳ぎに行った。

お盆のときに、母親から「死者の霊が海に引きずり込むので危ない。」と言われたが、そんなことはないと思い海で泳いでいたが、何ともなかった。

後になって気づいたことだが、水泳中には「こむら返り」が起こることがあるが、幸いにもこの「こむら返り」はこの時期には一度も起こらずに、死ぬなどの大事に至ることはなかった。

冬休みは弟の裕之と裏山へ「こぼて」(小鳥を捕獲するワナ)をかけに行った。

ツグミ、目白、鵺などがかかった。

中学校3年生のときに、「わかいし」(昔から伝統的に続く、吉良川町傍士の青年団の集まり)に入った。

最初にビールを飲まされたとき、家に帰るとき雲の上を歩いているような感じだったのを鮮烈に覚えている。

しかし、このとき以降は酒を飲んでも雲の上を歩いているようなことはなく、最初で最後の経験だった。

「わかいし」では、正月の江戸時代のような歌い始め、相撲大会、神祭、お盆のときの死者の送り行事(盆踊り)などを行っていた。

第4章 高校時代

高校へは中高一貫教育だったため、1965年(昭和40年)、土佐高校へ無試験で進学した。

一学年300人で、5クラス(一クラス60人)あり、Tクラス・Hクラス・Oクラス・Kクラス・Sクラスであった。

名前の由来は、土佐(Tosa)・報恩(HoOn)・感謝(KanSha)の頭文字をとったものである。

高校時代は下宿で級友達と放課後、トランプのポーカー遊びに夢中になり、たまり場となっていた。

上の加江出身の岡 敬二君の下宿(岡 敬二君の親が北竹島町に家を買って下宿していた)に自分も下宿させてもらっていたときに、岡 敬二君が味元君たち3人(自分は入っていない)と、夜高知市内に止めてあった車(かなりの台数だったかも)の窓ガラスを割って歩いたので、学校を退学になった。(何かムシャクシャしていたのだろうと思われる)

後で、岡 敬二君から手紙が来て、東京の明大付属中野高校に転校したらしい。

岡 敬二君は後に大阪大学へ行き、電通に勤めていたらしい。

その後、親戚の勇おんちゃんのところへ下宿した。

しかし、勇おんちゃんの子供がうるさかったし、落ち着いて勉強できなかったので、村上 英信君の部屋の隣に下宿を変わった。

この村上 英信君の影響は大きく、どちらも二次志望の静岡大学に入学したのだった。

村上 英信君は昔瀬戸内海を荒らし回っていた村上水軍の末裔だそうで、高知県外から越境入学してきていた。

村上水軍には、自分の人生の上で随分と助けられた。

彼はクラシック音楽を良く聴いていたので、自分も影響を受けてクラシック音楽も聴くようになった。

放課後とか休みの日とかは、保木下 孝生君とか細木 幸仁君とか級友とで、学校の新グラウンドでよくソフトボールをした。

よく遊んでいて楽しく、大学受験勉強は高校三年の後半位からしかしなかった。

土佐高校は当時、高校野球が強くて甲子園大会に出場し、上岡というピッチャーのときに準優勝した。

中京高校に決勝戦で0対1で負けた。

萩野というピッチャーのときにも甲子園大会に出場した。

甲子園大会で、イニングの攻守交替のときに全力で走って交替することで、「全力疾走」という言葉が全国で有名になるきっかけを造った。

「全力疾走」の土佐高校ということで有名になった。

学校の新グラウンドで、上岡というピッチャーの練習を下宿(新グラウンドのすぐ近くに下宿していた)の近くの金網越しに時々見ていたけれども、球をキャッチャーに投げるとシュルシュルシュルという風を切る音が聞こえて(今だに耳に記憶としてこびりついている)、とてもコントロールが良かった。

土佐高校野球部が甲子園大会で準優勝したことで、同級生で同じクラスの山本 誠一君がアメリカとの対外試合に選ばれてアメリカ遠征して、おみやげにアメリカ製葉巻タバコをもらった。

友達には保木下 孝生君、有沢 速雄君、鍵本 豊君、田所 貞雄君などがいた。

ビートルズの影響で、高校時代から長髪にしていた。

岡部 徹君は同級生で同じクラスで、NHKのアナウンサーをしていた。

今でも時々NHKの番組で見かける。

高校二、三年の担任は新階先生(英語担当)であった。

自分のいたOクラスでは、東大へ吉野 さやか君と奥田 俊一君が行った。

なんでも、吉野 さやか君は中学3年生までで、高校3年までの勉強をし終わっていたとのことだ。(家庭教師に習ったのかもしれないが)

奥田 俊一君はサッカーの部活でGK(ゴールキーパー)をしていて、いつそんなに勉強していたんだろうという感じだった。

ある日、体育のサッカーの授業の後で、奥田 俊一君が目をキラキラと輝かせながら、自分に対して「サッカーがうまくなったなあ。」と言ってくれたのが脳裏に焼き付いている。

大学受験は、家が貧しく私立大学は学費が高いので受験せず、国立大学だけにしぼった。

また、家が貧乏だったので、大学時代は奨学金をもらって通学していた(姉も奨学金をもらっていた)。

その奨学金は社会人になってから、コツコツと返済した。

大学受験は一期校は大阪大学を受験したが落ち、二期校の静岡大学工学部に受かった。

大阪大学の数学の問題は難しくて半分しか解けなかった。

学校の数学の授業の勉強だけでは、解けない問題が数学にはあり、塾とかで勉強をしなくては解けないと思ったが後のまつりだった。

総体的に大阪大学の試験問題に比べて、静岡大学の試験問題は随分とやさしかったように記憶している。

父親に浪人するかと聞かれたが、当時すごく痩せていて体力的に一年もつかどうかあやぶまれたので、静岡大学工学部電気工学科に行くことにした。

当時のことを思いおこすと、体育の授業は体育の教師(熊長先生)がいつも授業に出てこなくて、いつも生徒だけで新グラウンドでサッカーをしていた。

年に2,3回はたまにソフトボールをした。

高知市内の喫茶店の数は全国一だそうであるが、保木下 孝生君と高知市内の全部の喫茶店を踏破しようということで、喫茶店へ行き、そこの喫茶店で出してくれるマッチ(喫茶店毎に製作したロゴ入り)を集めていた。

当時はタバコを吸っていたが、しかしこの高校生のとき以外は今に至るまでタバコは吸っていない。

高校の勉強で、明日こそは予習していこうと思っていたら、アットいう間に3年間が過ぎていってしまって、予習はできずしまいであった。

高校時代、一番成績の良かったのは現代国語でいつも100点満点だった。

問題の解答にいつも自分の人生観のようなもののなぐり書きをすると、現代国語の教師片岡先生(あだなは「タコ」:怒るとゆでタコのよういに赤くなる)がいつもいい点数をつけてくれた。

第5章 大学時代

1968年(昭和43年)静岡大学に入学した。

静岡県には三つの大きな都市があり、東部は沼津市、中部には静岡市(商業の町)、西部には浜松市(工業の町)があり、人口は浜松市が一番大きかった。

浜松市には、ホンダ、ヤマハ、スズキ等の会社があった。

静岡大学工学部では、教養の一、二年を静岡市で、専門の三、四年を浜松市で過ごした。

入学式は駿府会館であり、母親と共に出席した。

静岡市での下宿は海岸に近いところに決めたが、一緒に行った母親が大家さんの二階でぜんそくで寝込んでしまった。

勇おんちゃんが急拠、迎えに来てくれて母親をつれて帰った。

大学は静岡市内のはずれの大谷地区にビル群としてあり、ある日突然東名高速道路が開通してうるさくなった。

大学へ向かう途中、富士山の雪をかぶった上半身の神々しい姿を目の前に見ながら通学した。

ただあまり授業に出なかった。

朝、起きれなかった。

ただ、体育の授業は出欠が厳しかったので、柔道の授業だけは必ず出席した。

柔道の授業では、同級生の柔道部の小川 義久がおり、背負い投げをかけても重くてびくともしなかった。

休みの日に帰省したときに、母親たちに受け身の技を見せたりした。

英語の授業には全く出ず、教授から「ロミオとジュリエット」の教科書の感想をレポートに書くように言われ、レポートに名文を書くことによって単位をもらえた。

学生運動も当時盛んであり、時々左翼運動学生が学校をバリケードで封鎖して授業が休講となる日が度々あった。

ちなみに自分はノンポリ(無所属)で学生運動には加わらなかった。

夕食は高校時代からの友人である村上 英信君が自分の下宿に立ち寄って、二人で大学の食堂まで自転車で食べに行った。

さすがにお茶が美味しくて、帰省時にはお茶をよく買って帰った。

村上 英信君はこの頃、もう時代は超LSIの時代になると予見していた。

(まだインテルの1チップCPU I4004は発売されておらず、メモリも1キロビット以下だったと思われる)。

後で、彼の予見、先見の明がすごいことがわかった。

教授陣の中には平沢 弥一郎先生もいて、足の裏を研究していて、長嶋 茂雄とか王 貞治の足の裏の話がおもしろかった。

電気回路の授業で、コイル(L)とコンデンサー(C)の数学的理論で、複素関数i(2乗すると-(マイナス)となる)というのが出てきておもしろかった。

教養課程時代に、専門課程で学ぶ電磁気学の本を買ってきて、独学で勉強したりした。

電気工学とは関係ないが、量子力学に興味があり、本を買ってきて読んだ。

アインシュタインの相対性理論の本も買ってきて読んだ。

みすず書房の「量子力学」という分厚い本には、光には波の性質があり、Shroejingerの波動方程式について書かれており、興味深かった。

また、高校の現代国語の教師片岡先生(あだ名タコ:怒るとユデタコのように赤くなる)の推薦の阿部 次郎(著)「三太郎の日記」などの哲学書を読んだりした(沈潜の心という章がおもしろかった)。

三、四年生の専門課程時代は、藤本 道夫君のおかげで(寮に入らないかと誘ってくれた)浜松では寮(あかつき寮)に入ることになった。

藤本 道夫君は静岡時代にも寮に入っていた。

浜松市には当時大学は静岡大学工学部しかなく、看護婦養成所の県看、聖隷、積志などがあった。

そことよく合ハイなどに行った。

あかつき寮では昼と夜が逆転し、夜中中起きていて、朝方寝たため、あまり授業に出なかった。(生体リズムは一日25時間で動いており、毎日寝る時間が1時間後ろに自然とずれた)

一日一食くらいのときもあり、毎日親子丼を近所の食堂で食べ、すごく痩せていた。

その頃、ボーリングがはやっており、我謝 孟徳さんと早朝ボーリングへ行ったりした。

その後朝食を食べてから、就寝した。

一時期、自分はあかつき寮の執行委員をやっており、寮長は高杉さん、大地 雅彰君も執行委員だった。

一回、寮のグラウンドで寮生(あかつき寮)と看護婦のたまご達とソフトボール大会をした。

自分は学生運動はしなかったが、「民生」という共産党系の団体にはいっている寮生も多かった。

また、過激派「革マル」にはいっている人もいた。

田中 豊さんのオートバイの後ろに乗って、各看護婦のたまごの寮へビラを届けに行ったりした。

車の運転免許を田舎の室戸で取り、レンタカーを借りて小川 義久君、山下 一郎君らを乗せて、徹夜でドライブしていたが、夜明け前、T字路で駐車場の鉄柵が見えなくてそこに乗り上げ、危うく事故を起こしそうになった。

それ以来、恐くなって車の運転はしていない。

卒業研究は一条先生のところで、真空管を使った薄膜の厚さの測定のようなものをやった。

あまり出席しなかったのと、理論とか数式はほとんど一条先生が書いてくれた。

卒業研究にはほとんど出席していなかったので、単位がもらえないという恐れがあり、

就職試験で富士通には合格していたけれども、単位がもらえなくて卒業できるかどうかわからなくて、ひやひやしていた。(単位がもらえる前にもう引っ越し荷物は富士通の寮に送っていた)

けれども3月31日付けでやっと卒業の許可が降りた(単位がもらえた)。

というのもその年で一条先生が定年退官の年だったので、留年させるわけにいかず、ラッキーだった。

途中で、我謝 孟徳さんから、一条先生の授業で自分の悪口を言われているということを聞くと、気分が悪くなってハキ気ももよおして胃の調子が悪くなった。(多分胃潰瘍になったと思われる)

その時以来今でも胃炎で時々胃が痛む。

実家の家計が苦しかったので、アルバイトは中学一年生の山岡 由美ちゃんの家庭教師をやり、毎月一万円もらっていた。

大学の授業には余り出席していなかったので、友達の和田 俊一君が学校で就職の話をしているというので、急いで就職担当の三橋先生のところへ行くと、三菱重工はどうかと聞かれた。

そこは軍需産業をやっているので、嫌だと言い、咄嗟に富士通にしたいと言った。

富士通と言ったのは、先輩が行っているということが記憶のどこかに入っていたらしい。

入社試験は富士通の川崎工場で行われ、5問出題され、1問連立方程式がラッキーにも解け4問解答できた。

面接では営業はどうかと聞かれたが、自分は論理的にものごとを考えるのが好きで、設計をやりたいと答えた。

入社試験の結果の封書が届き、ベートーベンの「運命」のレコードを聞いた後、封を開けると合格通知だった。

嬉しかった。

富士通へは大学の工学部電気工学科からは三人入社試験を受け、自分だけが合格した。

大学の専門課程の浜松時代のトピックを書き連ねていくことにする。

あかつき寮生の同級生の同室の常盤君に、一生に一回だけだが、自分がエルヴィス・プレスリーに似ていると言われ(よくレコードを聴いていたせいもあるが)、ウソかもしれないが、何とはなしに嬉しかった。

あかつき寮祭に、出し物で「ロミオとジュリエット」の劇をやり、自分がロミオの役に抜擢され、自分でも我を疑ったが、世間の目からそう見られているかもしれないと思った。

劇ではセリフを全部覚えることができず(というか余り身を入れていなかった)、メモにセリフを書いて、カンニングよろしくそのメモを見ながら話して演じた。

浜松時代の友人には、藤本 道夫君、大地 雅彰君、山下 一郎君、和田 俊一君などがいた。

先輩では、田中 豊さん、我謝 孟徳さんなどがいた。

真空管の授業は時代遅れで、嫌というほどではないが死んでいく技術のものをいまさら勉強しても意味はないと思った。

今はもうトランジスタの時代になっているというのに・・・。

大学を卒業した後で知ったことだが、静岡大学の先輩にテレビを発明した高柳 健次郎さんがいた。

浜松時代のあかつき寮の寮生活が、人生の上でかなり役立っている。

そこで、協調性とか社会性とか適応性とか義務感が培われた。

第6章 社会人(生産技術部 試験課時代)

1972年(昭和47年)4月、富士通(株)に入社した。

富士通は当時、国産のコンピュータのトップメーカだった。

コンピータの天才技術者池田 敏雄さんの寄与が大きかった。

入社して最初の一ヶ月は研修で、南武線の南多摩駅前にある南多摩工場に通った。

新人同期生の井形 啓一郎君と同じところで研修を受けた。

住まいは、田園都市線の市ヶ尾駅にある富士通第六市ヶ尾寮に入った。

二人部屋で六畳であり、二見君と一緒だったが、後に二見君は会社を辞めた。

同じ寮には、配属後同じ課で生年月日も同じ上倉 志津夫君もいた。

一ヶ月の研修後、南武線武蔵中原駅前にある川崎工場で生産技術部試験課に配属になった。

そこには西郷 隆盛の子孫であり後に取締役となった西郷部長、中野課長、小関さん、高須さん、平本さん、首藤さんたちがいた。

生産技術部に配属になった新入社員は15,6人いて、そのうち九州の人が多く、特に鹿児島出身の人が4,5人いた。

富士通全般に言えることであるが、アメリカが人種のるつぼであるが、富士通社員は全国から人が集まっており、まるで都道府県の人々のるつぼであった。

生産技術部試験課に配属後は、今でも思い出すが、市ヶ尾駅7時19分発の電車に乗って会社に出勤した。

このころの田園都市線はすごく混んでいて、時々井形 啓一郎君と「押さないで、卵がつぶれる。」と言ってふざけていた。

このころ富士通の川崎工場の始業は8時10分からであり、早かった。(2,3年してから始業が8時40分からと30分繰り下がった)

大学時代は昼夜逆転の生活をしていたので、配属後一か月は朝とても眠かった。

いつも朝起きると寮のトイレで、頭の中がシワシワーとして、いつも徹夜明けのようなだるい感じだった。

しかし、一か月後くらいには、規則正しい生活に慣れてきて、体調も良くなった。

しかし、胃の調子は大学時代の一条先生の卒業研究あたりから悪く、会社のお昼食堂へ行っても、味噌汁を一口飲むと吐き気がして、食事がのどを通らなかった。

多分拒食症になっていたと思われる。

食事をするのが、食べるのが難しく苦痛で(何せ吐き気がするので)、お茶とかジュースと一緒に胃に流し込んでいた。

食事をするのに、すごく頑張って食べないと、食事が進まなかった。

味もそっけもあったものじゃなかった。

いやー、食事をするのが苦しいなんて、今から思うと信じられない時期があった。

今は食事をするのが楽しみで、今から思い出しても何であんなに苦しんだのかなと思うが、

苦しんでいる当時はとにかく大変であった。

それでコーヒーもきつくて胃がむかむかして飲めなくて、せいぜいカフェオーレとしてミルクを多くしてやっと飲めるくらいであった。

この当時は拒食症ということを知らず、病院にも行かなかった。

この拒食症は5,6年続いて、結婚してから不思議と治った。

今は、過去とは信じられないくらい食欲旺盛で体調も良い。

生産技術部 試験課ではミニコンピュータFACOM❘Rを使ったプリント板試験機の設計を行った。

プリント板とは、二十㎝四方位の板の上にIC(Integrated Circuit)を搭載したものであり、そのプリント板を機能毎に合体・統合して、一つのコンピュータが出来上がるものである。

当時のコンピュータの世界は、アメリカのIBM社が360シリーズという汎用コンピュータを開発しており、富士通は独自のアーキテクチャの230シリーズという汎用コンピュータを開発していた。

後に富士通はIBM互換機のメインフレームMシリーズを開発し、日本IBMのコンピュータの売上高を上回り、日本一となった。

ここで、失敗談を書くと、プリント板試験機F8000の配線チェックをしているときに、誤って電源ピンに触ってしまい、その瞬間シュルシュルシュルという音とともに、配線が煙とともに溶けてしまった。

首藤さんと上司の小関さんに報告したが、意外と怒られなかった。

15,6本の溶けた配線をやりなおした。

また、電源等をICピンに誤って誤接触させても、TI(Texas Insutlemnt)製のICは壊れなかったが、富士通製のICはすぐに壊れて、彼我の差をムザムザと見せつけられた。

生産技術部 試験課には女性が少なくて、2,3人しかいなかった。

書記さん(秘書のような人)という若い女性がいて、自分が配属されて以来、お昼休みに食堂から帰ってくると、いつもその女性が自分の席に図々しく座っていて、あからさまに狙われていると思った。

しかし、悪い気はしなかった。

(課内では、マンジュウにたかるハエが多いと、そのマンジュウにその女性がたとえられていた)

上司の高須さんも、「軍資金(結婚資金のことか?)はあるのか。」と、自分に聞いたりした。

そんなこんなで、上司の高須さんがひがんで嫉妬して毎朝一番にガミガミと自分に文句を言い、気分が悪かった。

これが、ひがまれて嫉妬される自分の人生の一面を意識した最初の出来事だった。

また上司の高須さんは、沼津高専卒(同じ静岡県内にあり、高専と大学というライバル関係でもある)であり、静岡大学卒の自分に対して妬みからだろうと思われるが、朝一番からガミガミと文句を言い、気分が悪かった。

そんなこんなで、入社して三年目くらいで会社を辞めたくなった。

また、同じ課で高知出身の森岡さんが高知へ帰りたくなり、一緒に帰らないかと誘われた。

そこで高知県庁を受験した。

しかし、不合格となった。どうもコネがないと入れなかったらしい。

それとも受験成績が悪かったのか。

次に電気製品販売店の宮地電機を受験した。

しかし、宮地電機の徳島支店にやらされそうになったり、また四国電力を退職して宮地電機に入ったという面接の人が「富士通に残った方がいいですよ。」と言ってくれたりした。

また、親戚の千代岡 幸雄さんから「会社が左前になったら辞めたらいいけど、今辞めたらケツを割るよ。」と忠告された。

それで結局、富士通を辞めないことにした。

それからしばらくして、会社を辞めると言ったことが原因だろうと思われるが、中野課長から(以前幹部候補生だと言われていたが)トータリゼータ技術部への転籍を言い渡された。

高知へ帰ろうと誘った森岡さんは宮地電機に入ったと思われる。

また、森岡さんが下宿していたところの後に、第六市ヶ尾寮を出て自分が下宿した。

この頃、アメリカのインテル社が世界初の1チップCPU(1つのチップ(集積回路)上にCPUの機能を搭載した)I4004を発売した。

自分はこの頃、高信頼性運動の研究テーマとして、この1チップCPUを調査した。

こんなこともトータリゼータ技術部への転籍への伏線になっていたのかもしれない。

トータリゼータ技術部では、新しい装置にマイクロコンピュータPANAFACOM

L❘16A(松下電器と富士通の共同開発)を搭載した装置(TCU(Totalizator Control Unit)という中間制御装置)の開発を行おうとしていた。

第7章 社会人(トータリゼータ技術部時代)

1975年(昭和50年)、二十五才位のときにトータリゼータ技術部に移籍した。

そこには親分泰松部長を筆頭に、端末(馬券発売機)部門に後に部長となる北岡課長、我々の方式課に山田課長、羽野さん、田中さん、久保さん、市村君、藤田君、内村君、桑原君、窪田君(後に姓が山本となる)等がいた。

トータリゼータシステムとは、馬券や車券等を発券するシステムである。

全国的な組織である日本中央競馬会(JRA:Japan Racing Association)と地方(公営)の競馬場やオートレース、競輪等の公営競技との二つがある。

丁度この頃、小学校の同級生三、四人から父親を通して結婚の申し込みがあった。

しかし、まだ若かったし結婚のことは考えていなかった。

またこの頃、「日経コンピュータ」という雑誌が創刊され、創刊号以来ずーっと読み続けている。

二週間に一回発行され、読むのに半日位かかる。

NASA(アメリカ航空宇宙局)のコンピュータシステムは五重化システムであり、五台のコンピュータに同じ処理をさせる。

通常は五台のコンピュータは同じ計算結果を出すが、もし何かの原因で(メモリエラー、タイミングエラー、命令実行エラー等)あるコンピュータが違った計算結果を出すと、多数決で多い方の計算結果を採用する。

トータリゼータシステムは二重化システムで、二台のコンピュータに同じ処理をさせる。

通常は同じ計算結果を出すが、片方のコンピュータがトチ狂って違った答えを出すとその処理は採用しない。

トータリゼータシステムはどんなことがあっても(どんな部位が故障しても)動き続けないといけない高信頼化システムである。

そうしないと、もし馬券(勝馬投票券)等が発券できなくなると、ファン(お客)が騒ぎ出し暴動が起きかねないのである。

このトータリゼータシステムは日本中央競馬会(JRA)と富士通とで共同研究が始まり、日本中央競馬会(JRA)と公営競技のほとんどのシステムを富士通一社で独占している。

ただ、競艇だけは笹川 良一の息がかかった会社が独占している。

トータリゼータシステムについては富士通はまさに殿様商売をしていた。

当時、日本中央競馬会(JRA)は第三次機械化を推進していた。

それまで一回馬券を購入すると一つの組み合わせしか購入できなかった。

また、裏面に磁気記録(磁気コーティング)はなかった。

それを一回の購入で最大5種類の組み合わせまで購入できるマルチベット券とした。

また、馬券の裏面に磁気を塗ったもの(磁気コーティング)とし、表面に印刷、裏面にも同じ内容を磁気記録し、払い戻し(当たり券)のときに、端末(払戻機)で読み取れるようにした。

マルチベットにしたのは、調査により一人平均3種類(3ベット)買うのが多かったことによる。

トータリゼータシステムは場外システムと場内システムとの2種類があり、全国の場外システムと全国の競馬場の場内システムを専用回線で結び、後楽園に設置してある汎用コンピュータMシリーズで集計し、オッズを計算したり、発券したり、払戻し金を計算したりするものである。

場外システムとは、競馬場以外の後楽園や銀座、渋谷、横浜等場外馬券発売所に設置された馬券発売機で馬券を発売、払戻しをするシステムである。

場内システムとは、東京競馬場、阪神競馬場、京都競馬場等の競馬場内に設置された馬券を発売したり、払戻しをしたりするシステムである。

開発はまず端末(馬券発売機)の台数の少ない場外システムから行われた。

それから端末台数の多い場内システムを開発した。

全国で端末台数を合計すると一万台位になるという。

端末一台が当時二百数十万円した。

場外システム、場内システムの構成は、ミニコンピュータU❘300と端末の間にTCU(Totalizator Control Unit)という中間制御装置があった。

このTCUの基本的な構成は端末八〇台制御であるが、端末が増えるとビルディングブロック方式でミニコンピュータU❘300とTCUを増やした。

また、システムにはSVP(Service Processor)が一台あり、端末のエラー状態を監視していた。

また、富士電機製の無停電電源装置を設置し、電源断のときには瞬時に自家用発電装置に切り替わるようになっていた。

トータリゼータ技術部方式課が担当したのは、端末(馬券発売機)八〇台制御(ポーリング方式)の中間制御装置TCU(Totalizator Control Unit)であった。

この中間制御装置TCUはハードウェアは完全二重化されており、どこか一ヶ所故障しても動作し続けられるように設計されており、主に内川君が設計した。

IC(Integrated Circuit)にもマルH品という、一般IC品より高価な高信頼性ICを使用していた。

また、この中間制御装置TCUにはマイクロコンピュータL❘16A(富士通とパナソニックの共同出資会社PANAFACOM製)が搭載されており、8Kバイトの磁気コアメモリ上のファームウェア(ソフトウェアの一種)を久保 転(うたた)さんと自分が設計した。

久保 転(うたた)さんがOS(オペレーティングシステム:基本ソフトウェア)とアプリケーションプログラムを設計した。

自分はミニコンピュータU❘300 2台と中間制御装置TCUとの間を密結合で通信を行うPLCA(Parallel Line Communication Adapter)の通信制御を行うプログラミング作成を行った。

何しろまだパソコン誕生以前だから、OS(オペレーティングシステム:基本ソフトウェア)やアプリケーションプログラム、通信制御プログラム等全部手作りであった。

ただ、久保 転(うたた)さんは自分より一、二才年上で通信工業部から自分と同時期に移ってきた人であった。

そのためにコンピュータの割込み制御において独特な発想をしており、羽野さんにほめられた。

普通、電子工業部の割込み制御はレベルの高いものから低いものに行くに従ってピラミッド型になっているのであるが、ミニコンピュータU❘300と中間制御装置TCUとの間の割込みレベルと、中間制御装置TCUと端末(馬券発売機)の間の割込みレベルが端末の方を優先しなければならず、うまく凹凸(おうとつ)の割込み制御を考案した。

コンピュータはハードウェアだけではただの箱にすぎず、そこにプログラムを入れて命令を実行するという魂を入れてはじめて本領を発揮する。

プログラミング言語はアセンブラ(機械語)で、コンパイル(命令の実行形式変換)はミニコンピュータU❘200で行った。

アセンブラ(機械語)はパンチカードに打ち、ミニコンピュータU❘200でコンパイルした実行形式は磁気テープに落とした。

中間制御装置TCUをテストするためのテストプログラムの作成はジャパンシステムという外注の数森 敏君、遠藤君に頼んだ。

試験課が沼津工場にあったため、オープン直前の一ヶ月間中間制御装置TCUのテストのため沼津工場に出張した。

試験課のノブさん、鈴木君達と一緒にテストしたが、大きな問題もなく徹夜を一日した位でテストは完了した。

市村君と二人で沼津の時田旅館に泊り、沼津工場生産課の松ちゃん、竹ちゃん、稲葉 京子ちゃんに年賀状を送ったり、川崎工場に戻ってからも電話を竹ちゃんにかけたりした。

沼津工場で中間制御装置TCUの試験をしているときに、小林 大祐社長が遠い奥の方のドアを開けて入ってきたのを見たとき、まさに開けたドアからまぶしい光が差し込み、丁度後光がさしているような感じで、今でもそのときの様子がありありと脳裏に焼き付いている。

この場外システムの第一号システムは、後楽園の黄色いビルでオープンすることになっていた。

ミニコンピュータU❘300のプログラミングは、SE(システムエンジニア)(蒲田システムラボラトリィにいる部隊)である桜井さんを中心とするグループが担っていた。

後楽園でのオープン直前、久保 転(うたた)さんと五日間徹夜した。もっとも不規則ではあるが4,5時間の交替での睡眠時間はあった。

後楽園でのオープン当日、自分は日本中央競馬会(JRA)の人と中間制御装置TCUの前に座って運用状態を見守っていた。

するとあるレースの途中で、二重化してあった二台のマイクロコンピュータL❘16Aの片方が自動的に止まってしまい、もう片方でのシングルモードでの運転となった。

日本中央競馬会(JRA)の人が「あれっ、片方が居眠りしてしまった!。運用指示をだそうか?」と言い、自分が何の気なしに「うん」と言ってしまった。

後から考えると、よくも考えずに「うん」と言い、ヒヤッとしたが結果的には運用指示を出して、眠っていた(止まっていた)マイクロコンピュータL❘16Aがまた動き出してことなきを得た。

後で久保 転(うたた)さんに聞くと、片方のマイクロコンピュータL❘16Aが共有メモリを一秒以上保持したままとなり、一秒のタイマーにひっかかりタイムアウトとなりシングルモードになったとのことであった。

そこでタイマーを一秒よりもっと長くすることにより問題は解決した。

後楽園のオープンの日には、日本中央競馬会(JRA)の責任者である若月さんも来ていた。

後楽園でのオープンの後、銀座場外発売所、横浜場外発売所等でも場外システムが導入された。

関西にも出張に行き、道頓堀場外発売所等に導入された。

場外システムの次は場内システムの開発である。

場内システムの開発は自分にまかされ、久保 転(うたた)さんは公営競技システム(各自治体開催)の開発の回った。

公営競技システムは、日本中央競馬会(JRA)のシステムより少し機能を落として、シングルベット(一回の購入で一種類の組み合わせベット)とした。

そこで山田課長に頼んで、久保 転(うたた)さんの作ったOS(オペレーティングシステム:基本ソフトウェア)とアップリケーションプログラムの解析のために一ヶ月をもらった。

一ヶ月でプログラムを解析し、フローチャートを作成した。

場内システムの中間制御装置TCUのマイクロコンピュータL❘16Aのプログラムは、場外システムのプログラム8Kバイトに、2Kバイトの機能追加をして合計10Kバイトとした。

主な機能追加は、ホストコンピュータであるミニコンピュータU300と定期的に通信を行い、マイクロコンピュータL❘16Aが生きているかどうかをホストコンピュータが常時監視する等三つの機能を追加した。

また、久保 転(うたた)さんが8Kバイトのプログラムを一筆書きのように一つのプログラムとしていたのを、機能毎にプログラムを分割してわかりやすくした。

場内システムの第一号のオープンは阪神競馬場であった。

阪神競馬場に出張すると、競馬場長がパイナップルをごちそうしてくれて歓待してくれた。

ところがオープン初日、お昼前だったと思うが、場内システムが五分間システムダウンし、馬券が発売できなくなってしまった。

競馬場長が「富士通さん、どうしてくれるんだ!」と怒鳴った。

ミニコンピュータU300(ホストコンピュータ)のプログラミングをしたSE(システムエンジニア)が自分のマイクロコンピュータL❘16Aがエラーしたんじゃないのかと疑った。

しかし、結局ホストコンピュータ側のSE(システムエンジニア)がプログラムを修正して場内システムは正常に動き出した。

この阪神競馬場への出張のときだったと思うが、ある開催日に福永 洋一騎手(高知出身)の乗ったレース全部(3,4レースあったと思う)を福永 洋一騎手の乗った馬ばかり複勝で買って(2、3千円)、全部複勝に入り、5,6千円儲かったことを記憶している。

何せ、競馬新聞で無印の予想であっても複勝に入賞した。

すごい騎手だと思った。

その次に京都競馬場がオープンした。

淀駅から歩いて行ったが、計算機室が地下にあり、台風などのときの水害が心配された。

その次に府中本町駅にある東京競馬場がオープンした。

これ以後、全国十ヶ所の競馬場の場内システムが次々とオープンした。

十年位はこの場外システム、場内システムが稼働したと思われる。

中間制御装置TCUのマイクロコンピュータL❘16Aのプログラミングは、ミニコンピュータU200のOS(オペレーティングシステム:基本ソフトウェア)の勉強を自分で積極的に自習していたことも役に立った。

また、この頃山田課長以下5、6人で喫茶店で馬券を買う相談をし、5,6種類の馬券を買い、結構当たってトータルでは黒字であった。(営業の人より馬券を買って勉強するように言われた)

羽野さんの提案により、黒字が貯まったら銀座の「徳大寺」という店へ飲みに繰り出そうということだったが、結局行かずじまいだった。

この頃、自分はコンピュータの大衆化(ちょうど車のフォード社のT型フォードの車のような国民が安価に大量に買える大衆化したコンピュータ)という発想のコンピュータをイメージして開発すべきだという案を持っていた。

アメリカのビル・ゲイツが当時同じような発想でパソコンを開発したことを明かした記事が最近(2005年前後頃)新聞に載っていたのを見て、あああの時同じ発想をしていたんだと思うと感慨ひとしおだった。

また、この頃富士通がパソコンを未だ発売していないときに、NECのPC8001というパソコンを購入し、パソコンの将来性に一早く注目していた。

このトータリゼータシステムは富士通一社が独占していたこともあり利益率も良く会社の業績に大いに貢献した。

この頃のことで思い出すことで不思議に思うことは、同僚で同い年の羽野 和行さんに、私自身のことを「キリストみたいな人だなあ。」と言われたことである。

彼にはそう言った意味の真意を尋ねじまいだったが・・・。

多分、純粋で、人と争うことを好まない、政争しないということを言ったのかもしれない。

姉瑠璃子は鹿児島大学医学部を卒業して鹿児島に残っていたが、上京して帝京大学医学部付属溝ノ口病院に勤めるようになった。そこで知り合った貝瀬昌昭さんと結婚した。結婚式は銀座の三笠会館で挙げた。

また、この頃会社でシャークスという草野球チームに入って休みの日に他のチームと試合をした。打率は九打数四安打とバッティングが良く、いつも練習のときには最初にバッターボックスに入った。しかし、主体が別の部署のチームであったために少しで辞めた。

ある日、川崎市元住吉の下宿先に夜、母親から電話があり(自分が二十八才位の時だと思う)、「父さんが夜空の星になるからね」と言う。父親が直腸ガンだと言う。

父親が高知市の図南(とうなん)病院(勉おじさんが副院長をしていた)に入院し、手術の日に会社を休んでかけつけた。

切り取った直腸を見せてもらったが、亀の卵のような大きさのものが一個、あと二、三個小さいのができていた。手術後、弟裕之と徹夜で看病した。

父親があまりの痛さに「もう死んでもえいわ」と言ったが、「いかん」と言い返すと歯をくいしばっていた。それでも一年位はもった。

途中、お見舞いに行くとき、『富士通物語』という本を持っていくと、後で「お前も池田敏雄さんのようになれ」と言われた。また、「博士号をとれ」とも言われた。

一年位していよいよダメだというときに、図南病院にかけつけると、母親、姉、弟、親類の人達が見守っていた。

病室に入って父親のかさついた手を握ると「雅澄、来たか」と言うのを最後に大きな呼吸を二、三回すると息を引き取った。

姉が父親の上にまたがり蘇生術を試みたがダメだった。享年五十六才だった。

しばらくして、弟が小松緑さんと結婚した。弟は美男子で、高校時代室戸市内の全女子高生に知られているという位有名だったらしい。

弟は大学は駒沢大学地理学科で卒業後田舎に帰り、吉良川農協に就職し、職場結婚した。駒沢大学時代には東京の三軒茶屋というところに下宿しており、渋谷でビリヤード、ボーリングなどを自分と一緒にして遊んだ。

自分の方としては当時富士通の管理課にいたきれいな切手久美子さんとつき合っていた。社内メールでお誘いし、自由が丘の喫茶店で初デートした。

渋谷へ映画を見に行ったり、六本木のレストラン「ウカリハ」で食事をしたりした。

ただ、親から三年間という約束で富士通に入ったらしい。切手久美子さんは当時の専務、後に社長、会長となった山本卓眞さんからときどき寿司をおごってもらったりしてかわいがられていたそうである。

ある日、田中課長から突然切手久美子さんが会社を辞めるという噂を聞き、電話したが、もういなかった。あわてて実家である静岡県島田市まで追っかけて行き、公衆電話の電話帳で住所と電話番号を調べ(切手という姓は珍しいのですぐわかった)、デートを申し込んだ。確か静岡市内でデートしたと思う。

帰ってきてから、思い切って結婚の申し込みの手紙を出した。そうすると返事がきた。内容は少し怒ったような感じで、つき合ってまだあまり間がないので判断のしようがないというような内容だったと思う。場所が離れているのともうめんどうくさくなって絶縁した。

父が亡くなって、山林を売った財産のようなものが二百八十五万円入った。それで思い切って株を買うことにした。丁度三十才になっていた。

高校、大学の同級生だった村上 英信君が機械式のデジタル置時計(空港の発着ボードのようにパタパタとめくっていくもの)を持っていたのを思い出し、デジタル時計とは画期的であり、メーカーはコパル製であった。当時は電子式のデジタル腕時計はなかった。そこでコパルの株を一株300円位していたのを一万株300万円位で買った。それが一、二年以内位で一株850円に値上がりして850万円となり、売却して550万円儲けた。まさにビギナーズラックであった。

三十一才の時に新宿で森 喜久江さんとお見合いした。実家は東京の門前仲町で材木商をしていると言い、こちらも父が製材業をしていた。

川島 なお美に似た美人であり、トントン拍子に話が進み三十二才で結婚した。相手は三十一才だった。三月二十八日、満開の桜の中で東京会館で結婚式を挙げた。仲人には田中課長夫妻になってもらった。結婚式のスピーチで誰かが「彼女は小さい頃、深川小町と言われていた。」と言っていた。

新婚旅行は箱根へ行き、知り合いがいるという箱根プリンスホテルの昭和天皇陛下が泊ったという部屋に泊った。

住いは川崎市の苅宿というところに一軒家を借り、賃貸した。

ただ、妻は相手は100%完璧じゃないと嫌で、少しでも欠点があると嫌になると言っていた。それに対して100%完璧な人はいないと言った。

結婚当初の一ヶ月間、田中課長は仕事が忙しいから土、日曜も出勤しろと言い、新婚早々一ヶ月は休みがなかったが、妻に何とか我慢するように言い、何とかやれた。

いくら忙しい富士通といえども、新婚早々一ヶ月間休みがないのは他の人にはありえず、今思っても田中課長の意地悪としか思えない。

水曜日は組合との協定で定時退社だったが、それ以外の曜日は忙しくて残業して夕食はいつも夜の十時位だった。

翌朝にはお腹がパンパンに張って、朝食はろくに食べられなかった。料理はまあまあうまかった。

喜久江ちゃんはピアノを習っており、ピアノの練習をよくしていた。自分も「ネコ踏んじゃった」を教えてもらい、弾いた。

弟が高血圧になり、原因がわからず東京の医者に診てもらうために上京し、うちで一泊した。

しかし、東京の医者に診てもらっても高血圧の原因がわからなかった。

昭和58年9月25日長男が生まれた。聖路加国際病院で生まれた。

名前をつけるのに、国語辞典から良い意味の漢字百字位抜き出して書いてながめて考えた。結局、姉の第一子の「博子」、弟の第一子「正博」の共通している文字「博」と自分の「雅澄」の「雅」をとって「博雅」と名付けた。

夜泣きもほとんどせず育てやすかった。時々風呂へも一緒に入れてあげた。

インターネットで調べると、東京大学に通っていたらしい。

トータリゼータ技術部方式課に八年間位在籍して、CTS(Computerized Typesetting System)課への移籍を言い渡された。

送別会のときに北岡部長から「奥さんがきれいだから出した。」と冗談とも本音ともとれることを言われた。

第8章 社会人(CTS課時代)

1983年(昭和58年)、33才のときにCTS(Computerized Typesetting System)課へ移った。

そこは新聞CTSシステムというコンピュータを使っての新聞制作システムの開発を行っていた。

今までの鉛を使った活版印刷からコンピュータを利用して直接フィルム出力というシステムに変わった。

文字を処理するLDP(Layout Display )、画像処理用のMMC(Mass Memory Controller)、大刷装置、小刷装置等のシステムから構成されていた。

CTS課には山沢課長(後に小関課長)、沢井さん、藤森さん、河野さん、和田君、遠藤君たちがいた。

新聞CTSシステムは、文字と白黒写真、カラー写真(画像処理)を扱っていた。

移った当初は画像処理に慣れるため、汎用コンピュータとMMC(Mass Memory Controller)を使って、ビットマップで数種類の大きさの同じデータのバーコードを作成したりしていた。

コンピュータ画像処理の本を買ってきて勉強した。

新聞業界では競争が激しかったが、富士通ではトップシェアをとっていた。

しばらくして、窪田課長がCTS課に移ってきた。

それからF6526A SMPR(Small Multicopy Printer)小刷装置の担当となった。

小刷装置とは、新聞の一部の記事をA4〆B4サイズに印刷して、校正を行いチェックするための出力装置である。

SMPR(小刷装置)は岩崎通信機のOEM(Oriented Equipment Manufacture)装置であった。

磁気の円筒に磁気記録し、それをゼロックス機のように熱転写、印刷した。

SMPR(小刷装置)のテストに市松模様を印刷するようにテストプログラムを作成した。本格的なテストは明石工場の試験課が担当した。

そのSMPR(小刷装置)を大手町の読売新聞東京本社に納入した。

読売新聞東京本社の社員食堂の寿司が安くておいしいという富士通のSE(システムエンジニア)の評判を聞き、食べると本当に安くておいしかった。

この頃、「電子新聞」という特許を作成した。

まだ、パソコンもインターネットも無い時代に、現在のネット新聞のような発想で作成したものだったが、理解されず受け入れられなかった。

また、「電子ペーパー」という画期的な発想の特許も作成した。

しかし、これも特許部の人から「大風呂敷だとかなんとか・・・」言われて、受け入れられなかった。

その後、電子ペーパーは世の中で実現されて、れっきとした製品分野として確立されている。

この時、本当に特許部の頭の固さ、先見性のなさには憤りを感じた。

その頃、新婚の家に泥棒に入られた。

雨の日、妻が二階で居眠りをしていると、階段を誰か上がってくるのに気付き、妻が「どちらさまですか」と聞くと、踵を返して立ち去ったそうである。

幸い、何もとられなかったが、妻が騒いでいたら危険なところであった。

一階の窓ガラスの取っ手を締め忘れてそこから侵入したらしい。

プロの泥棒だったらしく、後で警察につかまり、警察の車で引き回されあいさつに来たそうである。

結婚して三年ちょっとして家賃を払うのももったいなく思うようになり、妻が新聞チラシにあった東横線新丸子駅から4分のところにあった新築マンションを昭和59年12月に購入した。

九階建ての八階の802号室で2LDK+Sの60㎡で2805万円であった。

頭金1500万円は妻と折半で出し合い、残りはローンで払っていくことにした。

各階に三世帯あり、真中に自分達で、左隣に中野さん、右隣に渡辺さんが入居した。

入居して半年ほど経った頃のことである。

その頃、毎週水曜日は定時退社日で夕食は午後六時頃いつも食べていた。

しかし、昭和60年3月頃、水曜日の夕食が一時間待たされて午後7時位になり、注意した。

その翌週の水曜日の夕食も午後7時位になり、注意した。

とうとう翌々週の第三回目の午後7時の夕食を食べ終わってから怒って、プッチンプリンを食べた後の空のプラスチックケースを妻に投げつけた。

そうすると、妻は「私、もう離婚します」と言って、田舎のおばさんの千代岡一恵さんに電話した。

丁度その頃、一ヶ月後の5月の連休に田舎で法事があるから、それまで待っていてくれるように千代岡一恵さんが言うと妻も受け入れた。

田舎に法事で帰る直前、妻は一旦謝った。

田舎に法事で妻と子と一緒に帰った。

そこで、福田勉のおじさんに妻が説得され、一旦は「はい、わかりました」と言った。

田舎の法事が終わって、新丸子のマンションに帰ってきて、翌日、妻はおみやげを実家に持っていってきますと言ったきり、帰って来なかった。

田舎のおばさんの千代岡一恵さんに電話で、帰ってこないことを言うと、「私が交渉するから、あなた(自分)はだまっておりなさい」と言われた。

それから、二、三週間、おばさんの千代岡一恵さんと妻の実家との交渉があった。

二、三週間して、千代岡一恵さんから電話があり、「向こうが強烈にしゃべり続け口をはさむことができない。もう、サジを投げた」と言われた。

自分としては、妻の実家の親戚の人の誰かが注意なりアドバイスして、妻が説得されて戻ってくるとタカをくくっていた。

それと、仲人をしてくれた上司の田中課長の家へ相談しに行った。

そうすると、妻の実家へ乗り込んで、絶対つれ戻してくるように言われた。

それで妻の実家に乗り込んだ。

妻と妻の母親(父親は亡くなっていた)は何も言わなかったが、妻の兄がケンもホロロに「帰ってください」と何度も怒鳴り、言語道断という感じだった。

あまりにも妻の兄にケンもホロロに言われたので、自分は「本当に僕はもう知らないよ」という捨てゼリフをはいて帰ってきた。

本屋でカウンセラーの載っている本を買ってきて、その本に載っていた坂本先生に相談した。

坂本先生が相談にのってくれて、一度妻と会って話し合うことになった。

しかし、その席で妻は興奮してしゃべるだけで、自分は「もうちょっと落ち着いて話せよ。」と言ったが、話の進展はなかった。

この頃、姉瑠璃子の差配で母親の英美をマンションに呼び寄せた。

母親からは、自分は性格がいいと言われた。

しばらく(二、三ヶ月)して妻が離婚の調停を家庭裁判所に申し込んだ。

離婚調停裁判が約一ヵ年にわたって開かれた。

妻がひどいことを言ったらしく、調停委員に「君は未だやり直しがきく年だから、あんな人とは別れた方がいいですよ。」と諭された。

しかし、女性の裁判官には、裁判になっても自分の勝ち目はないと言われた。

ひどい裁判官だなあと思った。

裁判官も間違った判断をすることもあると思った。

裁判とは疲れるもので、毎月一回ほどあったが、母と一緒に行き、帰ってくるとグッタリした。

一年間ほど裁判があり、結局は離婚が成立した。(昭和61年4月9日)

子供の親権は妻の方がとった。

子供に会う権利はあったが、子供が小さいうちは子供が動揺するといけないので会わないでほしいと言われ、今まで一度も会っていない。

しばらく離婚の痛手で傷心の日々であった。

サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌をレコードで聴いたりして、慰められたり気を奮い立たせられたりした。

1990年4月1日、弟の妻緑ちゃんから夜、電話があった。

弟が、くも膜下出血で倒れたという連絡だった。

姉の紹介もあり、救急車で高知市の近森病院に運んだ。

母と二人で徹夜で起きており、翌朝一番の飛行機で高知へ飛んだ。

近森病院へ着くと、緑ちゃんが待っていて、丁度弟が手術して運ばれてくるところだった。母と姉と緑ちゃんと四人で昼食を食べた。

数日、近森病院の近くのホテルに宿泊した。

その時に、不思議なことを体験した。

あくる日、目覚まし時計を見ると、針がとんでもない時刻を指していた。

(腕時計の時刻と随分とかけ離れた時刻を指していた。)

目覚まし時計の乾電池がなくなったわけでもなく、秒針は力強く動いていたのにである。

その時、随分と原因を考えたものであるが、結局はわからずじまいだった。

超常現象みたいなもので、今だに解せなく思っている。

まあ、現代の科学では解明できないことがあることがわかった。

母は近森病院に残り、姉と自分は仕事があるため一旦帰った。

母の話によると、弟は手術後一旦は意識が戻り、医者の問いかけにも正確に答えていたが、その後脳死状態となり、倒れてから二週間後に亡くなった。

弟の葬式後、緑ちゃんを勇気付けるために母を田舎へ帰した。

その母が、弟が亡くなって2ヶ月後の6月に心不全で亡くなった。

弟が亡くなったことによる後追い自殺だと思われる。

母の葬式のときに、母の母(祖母)である栄美さんが棺桶に入っている母に向って「アホなおなごや」と言った。

この時期に、富士通のパソコン事業は遅々として進まず、当時シェア50%以上だったNECから2周遅れだと揶揄されていた。

パソコンの将来性に目を付けていた自分は、余りにも富士通の不甲斐なさに悶々としていたが、思い切って当時の関沢専務(後に社長)に直訴した。

直訴の内容をコピーして持っていたので掲載する。(以下原文)

「 関沢専務殿 平成2年5月7日

富士通の現在、将来について

富士通は急速に発展したが、急速に滅亡するのを見るに耐えず筆をとりました。ご多忙中申し訳ありませんが、ご一読、ご高察頂くよう宜しくお願い致します。

主旨は遅々として進まないパソコン事業を発展させるには如何にすればいいかということです。

1.現山本社長が社長就任以前、よくテレビに出演されて「これからはOA(注:Office Automation)の時代だ」と言われていましたが、OAの具体的商品を見抜けず、日本電気がOAの本命であるパソコンPC❘8001を発売してからも2年間は無策でした。その後パソコンFM❘8を発売しましたが、これは、情報化時代だという運の良い時にあってはならないことです。池田敏雄元専務が嘆き悲しみます。

しかし、富士通を2兆円企業に押し上げた業績は尊敬に値します。

願わくばパソコン事業を発展させ、トップシェアとなり、相乗効果により総売上高

で日本電気を追い越し、近い将来総売上高で日立、松下電器を追い越してほしいと

思います。

しかし、パソコン事業で失敗すれば将来は滅亡するかもしれません。

2.日本電気がパソコンPC❘8001を発売した当時、将来の発展性を見込んで即

研究製番でパソコンPC❘8001を購入しました。

当時、あるシステムのホスト・コンピュータにパソコンを接続して構築する案を課

長に提示したところ、「君、そもそもパーソナル・コンピュータはパーソナル(個人

で使用する)というくらいだから、ホスト・コンピュータにつなげるなんて・・・」

と言われショックを受けました。

しかし、現在ではパソコンをホスト・コンピュータに接続して利用するのは当たり

前になっており、パソコン通信等もそのような形態になっています。

また、3,4年前にあるシステムに対するVE提案(内容はシステム価格が高すぎ

るため、競争力強化のための低価格化)で、「システム構成品のWS化、パソコン化)

を提案したところ、当時に課長に「そんなものでできるわけがない」(処理能力不足

)と言われて、つっ返され、出したかったけれども、結局出せませんでした。

しかし、現在ではWSでそのシステムが実現されており、パソコンでも開発中です。

部下の新しい発想の芽をつまれるのは悲しくて残念です。

管理職の時代の流れを読む目を養うための自己啓発および教育の必要性を感じます。

時代は予想以上に進展しています。他社の後追いでなく、先駆者利益を追求すべき

です。そういう意味ではFM❘TOWNSはハード技術的には評価できます。ただ

技術独善的なところがあり、ソフトの貧弱さもあって、大衆受けしなかったと思わ

れます。

3.現在は技術偏重すぎると思います。確かに技術力は大事ですが、売れなければ何

にもなりません。

一例ですが、OASYSの廉価版として表示部が8文字しかないものが以前発売さ

れましたが、広告を見るなり、このバカがと思いました。前後の文章がわからなく

ては文章の作りようがありません。これじゃあ、客が買うわけはありません。大衆

性があることが必要です。

パソコンのような商品は営業力が大事で販売ルートの強化が是非とも必要です。

富士通の弱点は営業力と歴史の浅さからくる展開能力(他社との技術連携、外国へ

の進出、販売ルート等)です。

富士通ゼネラルをもっと活用してはいかがでしょうか。いや、見習うべきところも

あると思います。以前はテレビでかなりのシェアをもっていた時期もあったし、家

電をやっているから販売ルートの確立およびAV低価格製品の製造等のノウハウは

貴重です。FM❘TOWNSのAV機能のように、今後コンピュータが家庭に入る

ようになれば、家電の要素は必須です。近い将来、富士通ゼネラルを合併した方が

いいようになるかもしれません。

現在は松下電器とパソコン分野でも提携していますが、松下電器にやる気がないの

かどうか、効果が上がっていません。ソニーとCD❘ROMの分野で提携しました

が、これをもっと拡大してパソコン分野でも提携して、松下電器を牽制してはいか

がでしょう。ソニーと前面的に提携しても面白いと思います。ソニーの映像分野は

魅力です。ただ、松下電器も映像分野は優れています。どちらかというとソニーの

方が御し易い。あわよくばソニーに資本参加もしくは吸収合併する(今、ソニーは

絶好調なので、業績不振になるのは絵空事かもしれないが)のはいかがでしょう。

IBMとは敵対関係にありますが、目標として頑張ってきたから今日があるような

ものであり、IBM互換路線で成功したと思われます。

しかし、ソフトの著作権問題で徹底的に対抗したため、ソフト開発で日立に遅れを

とってしまいました。

IBMとは敵対関係だけでなく、競争と協調により、これからはハードをIBMに

OEM供給する位な気持で望むことも心の片隅に置くのが良いと思います。そうす

れば、IBM文化ひいては富士通文化が生き長らえることができます。

一企業から見ると敵対関係ですが、国全体から見るとアメリカは良きパートナーシ

ップであるべきです。

IBMとパートナーシップとなることは夢です。

4.パソコン事業を発展させるためには、ハードの開発もさることながらソフトの開

発および流通が重要です。そこで、アメリカのマイクロソフト、日本のアスキー、

ソフトバンク(西さん、孫さんには悪いが)に匹敵もしくはそれ以上の会社を設立

すべきです。そしてパソコンソフトの拡充を早急に図るべきです。

また、サードパーティのような会社も設立し、サードパーティの意見の取り込みお

よびサードパーティのまとめ役(囲い込み)を行わせたらいかがでしょう。

5.パソコンのMPUのテクノロジーには年々汎用大型コンピュータのものが実現さ

れてきております。そこで、パソコンのOSに汎用コンピュータのOSを応用した

らどうでしょう。現在はMS❘DOSで次がOS/2だと思われますが、UNIX

という方向もあります。そこで、汎用コンピュータのOSの応用という発想もあり

得るかもしれません。

そこで、沼津のソフト部隊の一部にダメで元々で開発させる位の余裕があってもい

いと思います。

その場合には会話処理の強化が必要です。

6.パソコン開発部門と電算機開発部門との合体が是非とも必要です。池田敏雄元専

務なら最優先で行っているでしょう。電算機技術で培った技術をパソコンに生かす

べきであり、そうすることにより優位性も出てくるでしょう。

パソコンの重要性は増す一方であり、情報化の裾野が広まっている今、富士通の最

優先課題はパソコン事業です。

パソコン開発部門を南多摩に押しやってないで、川崎に持ってくるべきです。本館

の18、19階はパソコン開発部門、16,17階は電算機開発部門とすべきです。

そうすることにより、パソコン開発部門の士気は上がり、全社員の目の色も変わっ

てきます。

7.半導体(メモリ、マイコン)の開発もパソコンと同様に重要です。パソコン、オ

フコン、汎用コンピュータではメモリが大量に実装されますが、このメモリの開発

競争如何によっては、新製品開発競争に致命的なダメージを受けることもあり得ま

す。

メモリ開発競争に敗れて、新製品に旧世代のメモリしか実装できなかったら、今ま

で培ってきた電算機技術の財産は一夜にしてなくなってしまいます。

メモリの開発に関しては、これから特に重要になってくるでしょう。メモリ開発に

対する多大な設備投資を行ったのは正解でしょう。メモリについてもトップシェア

を取るべきです。

また、日本電気がマイコンのVシリーズを開発したように、G❘MICRO(トロ

ンチップ)開発の経験を元に独自のマイコンを開発し、マイコン開発の技術の習得

に努めるべきです。

8.パソコン等の製品は大衆性が要求されます。

幅広く大衆に受け入れられるには、製品の機能・性能は勿論ですが、宣伝・広告が

重要だと思います。

FM❘TOWNSの宮沢りえの起用、宣伝は大成功だと思います。ただ、売上は伸

びていませんが。

富士通はテレビの宣伝が少なく、一般大衆への知名度はそれほどありません。

そこで提案ですが、1時間の大型番組のスポンサとなり、その間宣伝を流したらど

うでしょう。

単発の宣伝では余り効果がありません。ソニーなんかはひっきりなしに宣伝してい

ます。

もっと宣伝に金をつぎ込むべきです。

西武の堤義明さんは事業が良くなってきたのはここ4,5年だと言っていますが、

これは野球の西武ライオンズが優勝しだしてからだと思われます。宣伝の効果はす

ごいと思います。

9.パソコンに関しては、特に顧客および若い技術者の意見を取り入れることが重要

です。

顧客および若い技術者からパソコンに関するアンケートをとるのも一つの手でしょう。

今から考えると、パソコンとワープロの力の入れ方が逆だったかもしれません。ワー

プロが好調だったためにパソコンがおろそかになってしまったかもしれません。パソ

コンの方に力を入れていたらと悔やまれます。

現在では、パソコンの使用方法としてワープロとして使うのがトップであります。

10.情報化社会の進展に伴い、そのうちにやがてはコンピュータが家庭に入っていく

ことが予想されます。

その時には台数としては現在とは比べものにならない位多くなるでしょう。

車より値段が安くて、物が小さいからだと思われます。

その時のためにホーム・コンピュータの開発を始めるべきです。

ホーム・コンピュータはパソコンとは違った携帯のものになることも予想されます。

入出力装置(プリンタ等)の開発が鍵かと思われます。

このときは、1番初めに飛び出さなければなりません。

富士通が滅亡しないように、限りなき発展を願っています。

海援隊

❘ 以上 ❘

この直訴が富士通社内でも有名になっていたらしく、同じ課の澤井さんから、「何もあそこまで(直訴のことか)しなくてもいい。」とか、外注の人(名前は失念した)から「パソコンはデザインが一番大事ですよ。」とか言われたりした。

富士通労組の連中にも有名になっていたらしい。

(自分は直訴したことは誰にも話していない)

澤井さんからは、また「パソコンをやるなら、富士通を飛び出してパソコン専門の会社を起業しなければ駄目だ。」と言われたりした

弟、母がたて続けに亡くなって悲しみにうちひしがれた。

七月のある夜、エルヴィス・プレスリーのレコードを一晩中かけて、母が自殺したのではないかと想像して思うと、怒りと悲しみでパニック状態になった。

徹夜でレコードを聴いていて、朝方、妄想があり、上半身裸のまま会社へ行こうとし、電車に乗った。

会社のある武蔵中原駅では降りられず、次の武蔵新城駅で降りると、鉄道公安員に警察へ連れていかれた。

それから中原警察署へ連れて行かれ、その後鶴見西井病院に「心因反応」という病名で入院した。

六ヶ月間程入院して、退院後デイケアセンターへ一ヶ月程通った。

デイケアに通っているときに、毎日午後2時位になるとのぼせ上って気分が悪くなった。

(後で考えると、副作用のせいだと思われる。)

デイケアへ通って一ヶ月後、会社の産業医の許可を得て、職場に復帰した。

職場に復帰しても時々、カ―ッとなってのぼせ上り、その時はトイレに駆け込んで一時間ほど休んでいた。

(これも、後で考えると、副作用のせいだと思われる。)

この頃から、名古屋にいる叔父の島本 勇作さんが一ヶ月に一回、二、三日の滞在で、様子を見に来てくれるようになった。

それと、姉と毎週土曜日の昼食を共にするようになった。

そして毎朝、目覚まし時計代わりに姉からのモーニングコールがかかるようになった。

薬は飲み続けないといかないと、婦長さんからも姉からもきつく言われた。

当時、のぼせ上りがひどくて気分が悪く、男性の更年期障害か若しくは薬の副作用かどちらかわからなかった。

姉は更年期障害ではないかと言っていた。

主治医の川名先生は病気の後遺症だと言った。

(結局は副作用のせいであった。)

職場に復帰して一年ほどして、窪田課長から今後20年位勤められる技術情報管理課への転籍を言い渡された。

第9章 社会人(技術情報管理課時代)

1992年2月、42才のとき技術情報管理課へ移った。

ここではCN(Computer Normal)〆FV500番台(Fujitsu Vorshrift)といった技術標準、生産標準の管理とか、設計図面の登録、管理、配付などの仕事を行っていた。

篠原課長、芹澤さん、溝口さん、半井さん、東さん、大橋さんたちがいた。

溝口さん(女性:50才前後だったと思う)は高血圧で、健康診断で富士通病院から再三に二次検査を受けるように言われていたらしいが、頑として聞き入れず、「私はいつ高血圧で倒れるかもしれない。」と言っていたが、その危惧が現実のものとなり、、ある日脳出血かなにかで倒れて、その日のうちに亡くなった。

最初、高木さん(後の吉川さん・女性)と一緒にFV500番台の登録、管理、配付を行った。

この頃のトピックスとして、電算機技術部のメインフレームのコンピュータの設計図面(磁気テープ)を全部廃棄した。

自分としては、歴史的財産として残しておきたかったが、篠原課長の命令で全部廃棄した。

(沼津工場に保管してあった数百本の磁気テープ)

3グループの女性達と食事に行ったりした。

長野から移ってきたマリちゃん、奈美ちゃんのグループ。

FLM(富士通ラーニングメディア)の西島千恵子(チャコちゃん)、高木さんのグループ。田所さん、鈴木美枝子さん、鈴木奈美江さんのグループ。

百万円以上飲食費に使った。

田所さんには性格が良いと言われた。

篠原悦男課長には天才だと言われた。

1998年48才の時、かわいくて美人である冨永 留美さんと再婚した。

相手は初婚である。

武蔵小杉の喫茶店「カフェビアン」で最初見合いをした。

最初会ったとき、どことなくなつかしい感じがしたと、後で彼女に言われた。

ひょっとして、前世でも一緒だったのかもしれない。

1998年6月13日、彼女の誕生日に青学会館で結婚式を挙げた。

新婚旅行はアメリカ西海岸(ロサンゼルス、サンフランシスコ)へ行った。

飛行機でロサンゼルス空港に降り立ち、バスに乗った中でバスガイドに、日本が初めて出場したワールドカップ サッカー フランス大会の初戦「日本×アルゼンチン」戦の結果が0対1で日本が惜敗したことを聞かされた。

ロサンゼルスでは、チャイニーズ・シアターとかビバリー・ヒルズとかに行った。

サンフランシスコでは、フィッシャーマンズ・ワーフとかサンフランシスコ湾遊覧船に乗ってゴールデン・ゲート・ブリッジを観たり、有名な百貨店メーシーズで夕食を食べたりした。

2001年頃、ITバブルがはじけてIT不況となり、富士通が大幅な赤字になった。52才の時、厚木テクニカルセンターで三ヶ月間研修を受けた。

ヒューマンスキル、インターネット技術等の研修を受けた。

その後、新横浜のソフトウエア事業本部MWS(ミドルウエアソリューション)事業部プロダクトコンサルティング部へ配属となった。

第10章 社会人(MWS事業部プロダクト コンサルティング部、第四開発部、サポート技術統括部時代)

2002年、52才の時、新横浜のソフトウエア事業本部ミドルウェアソリューション事業部プロダクトコンサルティング部に移った。

ソフトウエア事業本部は沼津工場にも部隊がいて、沼津工場からの転勤で自宅がある沼津・三島から新横浜に新幹線で通勤してくる人がほとんどだった。

プロダクトコンサルティング部は、DWH〆BI(データウエアハウス〆ビジネス・インテリジェンス)のサポート&サービスを行っているところである。

具体的にはDB(データベース)ソフトウエアのサポート&サービスを行っている。

製品名で言うと、富士通のSymfoware, ISV(Independent Service Provider)のBusiness Objects, Essbase, PowerPlay 等である。

清水 始部長、菊池 正夫課長、総括の永易さん、千田さんたちがいた。

当初は石丸さん(女性)と一緒にBusiness Objects社のBusiness Objectsのサポート&サービスをしていた。

1年ほどしてBusiness Objectsの担当をOSL(大分システムラボラトリ)に委譲した。そのとき石丸さんもOSLに移籍した。

その代わりに富士通はカナダのコグノス社と提携し、コグノス社のPowerPlayというDB(データーベース)ソフトウエアを扱うことになった。

2003年3月9日から3月13日まで、富士通入社30年記念にもらったリフレッシュ休暇制度(1週間の休暇)を利用して、妻とハワイへ海外旅行に行ってきた。

ハワイでは、有名なダイヤモンドヘッドが見えるワイキキ海岸の浜辺で泳いだ。

またアラモアナ・ショッピングセンターで買い物をしたり、シェラトンホテルの中でバイキングを食べたりした。

また、日立の宣伝で有名な「この木なんの木、気になる木、見たこともない木ですから・・・」に出てくる広大な木が群生している公園にも行った。

ハワイはなんかこう雄大でのんびりしている感じで、自然がすばらしかった。

ここで、1990年に「心因反応」で6ヶ月入院して以来飲み続けている薬の副作用について記しておく。

最近、厚生労働省の「薬の副作用デーベース」に投稿した内容をそのまま記載する。

「ただ、下記の副作用に悩まされ続けていました。

イライラして、怒りの感情が極限に達したような状態がおこり、気分がとても悪くなり苦しい時がありました。

(1週間に1,2回程度以上)

思考回路が働かなくなり、通常の精神状態でなくなります。

こういう状態はなかなか経験した人でないとわからなく、言葉では表現がむつかしいのですが・・・。

とにかく異次元の状態になり,とても苦しいです。

(大観衆の前で緊張して上がった状態と怒りが極限に達したのとが混じったような状態)

こんな状態が1時間以上続きます。」

付け加えると、副作用が出ると、じっとしていられなくなり、七転八倒状態になり耐えられないと思う程苦しくなる。

また、薬を飲んだ直後から2,3時間以内に、イライラしたり、嫌なことがあったり、怒ったり、考えごとをしたり、難しい本を読んだりすると、副作用が出やすいことが経験的にわかった。

新横浜への通勤には40分位かかったが、駅構内とか道路を歩いている時には、必ずエルヴィス・プレスリーの歌を歌いながら歩いていた。

(できるだけ気分が良くなるようにした。)

そうしないと、薬の副作用が出る確率が高かった。

「心因反応」の薬の副作用であるのぼせ上がりで気分が悪くなることが月に2、3回起きていたが、男性の更年期障害だとばかり思いこんでいたので、薬の副作用かどうか見分けるために薬の服用を2ヶ月位止めてみた。

すると想像していたとおり、薬の副作用は2ヶ月間起きなかった。

全くのぼせ上がりで気分が悪くなることの副作用が起きなくなり、薬の副作用が原因であることが判明した。

しかし、薬の服用を止めてから2ヶ月後にリバウウンドで「心因反応」の病気が再発して入院した。

3週間後、妻が面会に来て、髭がボーボーに延びた私を見て、妻が不思議な体験をしたと言った。

妻は私が「キリストに見えた。」と言った。

その時に、妻は大粒の涙が瞳からあふれそうになった。

それを見て、私はそれが丁度大粒のダイヤモンドのように見えた。

結局、3ヶ月間入院し、退院した後も一ヶ月間は、デイケアセンターに通った。

薬を変えてもらい、のぼせ上がりで気分が悪くなる副作用も幾分軽くなった。

その後復職した。

2004年10月、プロダクトコンサルティング部が空中分解〆解散して3分割され、自分たちは永易さんたちと一緒にソフトウエア事業本部ミドルウエアソリューション事業部第四開発部へ移った。

第四開発部では笠川満部長、笠井茂課長、永易さん、皆木さん、田畑君たちがいた。

そこでは富士通のDB(データーベース)ソフトウエアであるSymfowareの拡販と、永易さんグループのPowerPlay, Essbase, Report Netのサポートの仕事があった。

2007年5月、ソフトウエア事業本部サポート技術統括部へ移った。

従来は子会社Fsas(Fujitsu Support and Servis)で

行っていたサポート&サービスというストックビジネスを、金が儲かるというので、富士通本体に持ってくるという動きの一環として、ソフトウェアビジネスのサポート&ビジネス部隊をソフトウェア事業部内に新設した部署である。

そこに、新横浜のソフトウエア事業本部に自分が2002年に初めて来た時の上司である清水 始部長が、サポート技術統括部発足当時から仕事をしており、その清水 始部長に自分は引き抜かれた。

最初、藤山 紳浩(のぶひろ)部長の元で、松橋さんと自分とで、MWS(ミドルウェアソリューション)事業部関係のサポート部隊の事務局の仕事をした。

1年たたないうちに、清水 始部長は取引先の「エステック」という会社の専務取締役となり、転職していった。

時を経ずして、ソフトウェア事業本部内の各事業部のサポート部隊を結集して、正式にサポート技術統括部が発足した。

橋本 伸之サポート技術統括部長体制がスタートした。

ソフトウェア事業本部の主力製品は3種類あり、Interstage(アプリケーション用のミドルウェア),SystemWalker(運用管理ソフトウェア)、Symfoware(データベースソフトウェア)であった。

仕事はコールセンターのように、部員はだいたい顧客からの問い合わせや障害対応を行っていた。

1コールについて、インシデントといって番号を取って顧客対応の記録をコンピュータ上で取っていた。(それに対応するコンピュータ・アプリケーション・システムが稼働している。)

自分は、杉山 毅部長、竹内 洋生課長の元で、主にサポート技術統括部独自の、サポートツール(プログラム)の開発を担当した。

といっても、機能等の仕様書は各専門の人に、プログラムの開発はオフショア開発で富士通の中国の南京にある子会社FNST(Fujitsu Nankin Software ・・・)に頼み、自分はもっぱら全体的な取りまとめとか各人の調整とかを行った。

子会社FNSTの中国人である、劉課長、孟さん、蔡さんとは、テレビ会議等でお話ししていたが、劉課長はとても流暢な日本語を話し、日本人と同じくらいの日本語を話していた。

孟さんも、日本語を勉強しているそうで、ビジネスには支障がなかった。

蔡さんもまだ若くて、この人だけ日本語が未だしゃべれない感じだった。

時々自分は富士通社内の内線電話で子会社FNSTに国際電話したが、「ニイハオ」と言ってから、要件を日本語でしゃべった。

一時期1週間位、オフショア開発したプログラムのテストのため、劉課長、孟さん、蔡さんが我々の新横浜のオフィスまでやってきた。

ビルへの入館許可証の手配とか、作業場の確保、パソコン等の確保等を行った。

1週間経ち、未だ作業が完全に終了したとは思われなかったが、一部の人は土・日曜日も作業をやらすべきだと主張したが、自分は折角日本に来たのだから、土・日曜日くらいは東京あたりでも見物していってくださいと言って中国に帰した。

この頃は、プログラムの開発を頼んでいた子会社FNSTへの対応とか、全体的なまとめとか各人の調整とかで忙しかった。

あれもやらないといけない、これもやらないといけない、何か忘れて抜かっていることはないかと思うと、就寝してからもいろいろな考えとか段取りが頭に浮かんできて、メモしていると、気が付いたら朝になっており、そのまま徹夜明けのような状態で出勤したことも、2,3度あった。

定年退職まで後2年位になったところで、サポートツール(プログラム)の開発の仕事を、もう少し長いスパンでできるようにと、後輩の木下さんに譲った。

この頃、サポート技術統括部内で組織変更があり、自分がいた共通PJ(プロジェクト:課のような組織)が沼津工場へ移転することになった。

やばい、沼津市に住むようになるのかと妻にも話して、半ばあきらめというか観念していた。

しかし、共通PJが所属していた部のトップである田中 克枝部長(女性)が、組織変更の説明会で、「福田さんは、新横浜に残っていい。」と温情を示してくれた。

それで、自分は新横浜のオフィスに残ったが、他の共通PJのメンバー全員は沼津工場に移っていった。

もっとも、共通PJの人はほとんどが沼津市か三島市に自宅があり、新幹線で新横浜のオフィスに通勤していた。

新横浜のオフィスに残った自分は、樽矢 尚和部長の下で、サポート部隊の教育関連の仕事をやるようになった。

いわば、樽矢 尚和部長の秘書のような感じであった。

この樽矢 尚和部長は、新設のサポート技術統括部の立ち上げに先頭に立って尽力し取りまとめた方で、本来はサポート技術統括部長になるべき人だと思われたが、何故か橋本 伸之 サポート技術統括部長体制となり、田中 克枝部長(女性)にも途中で立場が逆転して、田中 克枝部長(女性)の方が職制上で上となった。

しかし、人間的にできた方で、非常に皆(サポート部員)からの人望があった。

朝礼とか、朝の滑舌のための「応酬話法」の唱和とかは、相変わらず取り仕切っていた。

教育の仕事は、「業務教育」とか「マナー教育」とか、「S❘MAX教育(サポート部員の「気付き感度向上」研修)」とかを行った。

サポート部員の顧客との電話応対は、録音されて社外の第3者機関に評価されるようにもなっており、厳しいなあと感じたものであった。

樽矢 尚和部長と自分とは、馬が合うというか、人間関係が良好であった。

定年退職まで富士通に勤めてきて、つらづら思うことは、自分が仕えてきた上司には2つのタイプがあったということである。

一方のタイプは、自分と馬が合い、可愛がってもらったタイプである。

もう一方のタイプは、ひがまれて嫉妬されたタイプである。

まあ、だいたい半々位の割合であった。

また、富士通の従業員には専門のコンピュータ関係の知識は良く知ってはいるが、その他のことはてんで知らないというかわからないという専門バカが多くて、人格的にも問題がある、へどが出そうな人もいた。

こういう人たちは、おうおうにして性格がいじけていたり、柔軟性とかおおらかさとか協調性がなかった。

また、一般的な歴史のある会社の上司とか上層部になる人は、徳があって人望がある人であるが、富士通ではただ技術に精通しているとか、家庭を犠牲にしてでも残業する人とかが多かった。

また、2008年のアメリカのリーマンショックによる世界同時不況により、富士通も経費節減のため、残業禁止となり、定年退職の時まで毎日定時に帰宅できるようになった。

そんなこんなで、定年退職前の数年間は、会社勤めの中でも余裕のある恵まれた時期だった。

定年退職日の半年位前だと思ったが、橋本 伸之サポート技術統括部長の秘書のような仕事をしていた女性の人が辞めさせられた。

その女性の人は、横着というか横柄な態度だったので、辞めさせられたのだと想像している。

富士通では、女性社員が少ないこともあって、幹部社員も含めて皆女性社員には、優しかったり甘かったりしたものだが、その女性社員は余程ひどかったらしいと思われる。

それで、橋本 伸之サポート技術統括部長の秘書のような仕事のうちの総務関係の仕事が

自分に回ってきた。

仕事の量が2倍に増えると思い心配したが、そんなに大したことはなかった。

仕事の量が2倍になっても、給料が2倍に増えるわけではなく、今までと同じであった。

自分は、30才位の時から株式投資をしていて、株式投資歴30年位になる。

証券会社は、自由が丘の証券会社を利用していて、電話応対から、見知らぬ営業員からも知られており、かなり自由が丘では有名であった。

また、富士通社内でも株式投資をしているということで有名であった。

自宅のパソコンの接続プロバイダとして、富士通の子会社「ニフティ」を愛用していた。

「ニフティ」はインターネット接続サービスプロバイダを主業務とするインターネット事業を行う会社である。

自宅のパソコンの障害調査依頼で「ニフティ」に電話した時に、自分はオペレータに「上場したらどうですかと社長に伝えてください。」と言っておいた。

すると、半年後の2006年12月に、本当に「ニフティ」は東証二部に上場した。

もっとも、自分が上場するように言ったことが本当の原因ではないかもしれないが、原因の一つと考えられると思っている。

こういうことのために、この頃株式投資は「ニフティ」一点だけに、株式投資につぎ込める額の大部分を、将来性を見込んでつぎ込んだ。

担当でない見ず知らずの証券会社の営業員から、「なぜニフティなんですか?」と店頭で聞かれたりしたが、「インターネットの会社だから。」と答えておいた。

2007年か2008年頃だと思う。

富士通の野副(のぞえ)社長が突然解任された。

野副社長が子会社「ニフティ」を富士通グループから切り離して、勝手に他の会社に売却しようとした。

何でも証券会社がからんでいたそうである。

あわてた「ニフティ」の社長が、富士通元秋草社長や富士通会長に相談して、富士通の取締役会かなんかで野副社長を解任した。

つまり、野副社長が富士通の子会社「ニフティ」を富士通グループから切り離して売却しようとしたことに対して、取締役会かなんかは合議して反対し野副社長を追放した。

コンピュータの発展の歴史は、メインフレーム→パソコン→インターネットへと発展してきているのに、その最先端「インターネット」時代の、富士通グループのネット企業(インターネット企業)である子会社の「ニフティ」を富士通グループから切り離して、勝手に他の会社に売却しようとするなんて時代錯誤もはなはだしい。

このことは随分と新聞を賑わした。が、はっきりとした真相はわかっていない。

野副社長と富士通サイドは裁判で争ったが、富士通側の勝訴となったみたいだ。

ここで穿った見方をすれば、富士通の野副社長は「ニフティ」の株式を大量に持っていた自分をおとしいれるために、「ニフティ」の株式価値(株価)を下げるために、そんなことをしたとも考えられる。

ある時期、野副社長が子会社「ニフティ」を富士通グループから切り離して、勝手に他の会社に売却しようとした噂を目ざとくキャッチした輩が「ニフティ」の株を売却し始めたらしいと思われるが、急激に「ニフティ」の株価が下落してきて、自分は「ニフティ」の持ち株全部のうちの半分を何回にも分けて損切りして売却した。(当時、自分はそんなこととはつゆ知らなかったが、何か「ニフティ」の株価が変な動きをしていることは感じていた。)

「ニフティ」の1日の株式売買取扱高は少なかったが、それで「ニフティ」の日本全国の1日の株式売買取扱高の半分位を自分の分が占めるというような事態となった。

しかも、「ニフティ」の1日の株式売買取扱高からして、「ニフティ」の自分の持ち株全部のうちの半分を一度に売却することができず、何回にも分割して売却していたが、自分が売却することによって、さらに「ニフティ」の株価が下落するという事態となり、冷や汗ものだった。

しかし、子会社「ニフティ」を切って他の会社に売却しようとして解任された富士通の野副(のぞえ)社長に対して、野副(のぞえ)社長の解任の真相はどうであれ、「ニフティ」の将来性を買った自分は、「先見の明」という点では、自分の方が勝ったと満足している。

富士通の社長に勝ったことにより、「先見の明」という点において、自分は随分と自信がもてるようになった。

60才での定年退職の日が近づいてきて、65才まで富士通に残って働き続けることもできたが、60才から年金が支給されることや(年金は65才から全額が支給されるが、60才から65才までも全額の7、8割が支給される)、自分の自由にできる時間をもって、好きなことをしたいという人生観(お金より時間の方が大事)だったので、60才で定年退職することにした。

馬の合った樽矢 尚和部長は、自分に富士通に残ってほしそうだったけれども、後ろ髪を引かれる感じを受けながら、60才で定年退職した。

2010年1月20日、富士通での定年退職の日を迎えた。

その日、部内の人にメールで出した文章が自宅のパソコン内のメモ帳で残っており、コピー&ペーストするだけなので記載する。

定年退職日の挨拶

2010.01.20 福田

インフラ開発PJ各位、サービス商品化PJ各位

富士通 MW事本)サポート技術統括部 サポート支援 福田です。

お世話になっております。

本日、定年退職日を迎えました。

無事勤め上げることができましたのも、皆様のおかげであり

深く感謝しております。

どうもありがとうございました。

富士通では仕事を通じて、いろいろな経験をさせていただき

人格を高め、人間的にも向上できたと自負しており、満足しています。

今後は、世のため人のために、貢献していこうと思っています。

まず手始めに起業します。そして投資事業にも、もっと力を入れていきます。

また、好きなこと(読書とか音楽鑑賞とかウォーキング等)をやっていき、

人生を楽しもうと思っています。

皆様におかれましては、健康に留意して

ますます仕事に、人生に精進されることを願っています。

以上

第11章 定年退職後

2010年1月20日に富士通を定年退職した。

しばらく、自由にできる時間がたっぷりできたので、毎日多摩川のサイクリングコースをガス橋まで1時間10分かけてウォーキングしたり、好きな読書をしたりして過ごした。

2010年5月28日~6月2日まで、妻とロンドンへ海外旅行に行ってきた。

ヴァージン・アトランチック航空の飛行機でロンドンのヒースロー空港に降り立った。

宿はMELIA WHITE HOUSEに泊まった。

庭園の素敵なコッツウォルズとか、オックスフォード、金融街シティーとか、トラファルガー広場、ナショナル・ギャラリーとか、REGERNT PARKとかへ行った。

イギリス名物の「FISH&TIPS」も食べてきた。

移動には地下鉄を使ったが、日本より断然空いていたが、どの駅も監視カメラが沢山見られた。

ロンドン地下鉄爆破事件以来、ものものしい警戒をしていた。

ロンドン市内を歩いていると、黒人やらアラブ系の人も多く、さすがに国際都市だと思った。

ロンドン市内の建物は、高層ビルはなかったが、歴史的に古い建物が多かった。

日本の歩道は、色彩付きのカラフルなものが多いが、ロンドンの歩道は、セメント色のモノトーンの道路ばかりで、余り金をかけていない感じだった。

2012年のロンドン・オリンピックのために、あちこちで工事しているのが見られた。

ファースト・フードの店の店員は、イギリス人ではない外国人ばかりで、人件費の節約をしていた。

2010年10月14日、念願の株式会社 先見の明を起業した。

これは富士通を定年退職する前から温めていた夢の構想であった。

企業理念は、「情報革命」と「投資」を行うというもので、「情報革命で人々を幸せに」しようとするものである。

また、日本の進むべき成長戦略は、情報革命を担う情報産業を発展させることにあり、それに沿うものを目指した。

ある意味では、幕末・明治維新期に活躍した坂本 龍馬の遺志を継ぐべきものと考えた。

株式会社 先見の明の定款(ていかん)の「目的」の項を記載する。

1.情報処理機器、ソフトウェア、情報コンテンツの販売、インターネットサービス

等の業務

2.未来開発企業、新興ベンチャー企業等への投資

3.株式、為替、商品等への投資

4.寄付・募金等により、世のため、人のため貢献し、未来を切り開く事業

5.その他各前号に付帯する一切の業務

2011年6月8日~6月14日まで、妻とドイツへ海外旅行に行ってきた。

当時の様子が自宅のパソコン内のワード文書に残っているので、コピー&ペーストで2クリックで1分以内で作業ができてしまうので、掲載する。

まあ、簡単で便利な世の中になったものだ。

ドイツ旅行記 2011.06.08(水)~2011.06.13(月)

2011.06.08(水)~2011.06.13(月)まで、妻の留美ちゃんとドイツへ旅行に行ってきました。

作家の旅行記ほどうまく書けないのですが、よろしかったら読んでみてください。

きっかけは、妻の結婚前の職場「バイエル」(ドイツの薬品メーカー「バイエル」の日本での外資系子会社)に15年前に3ヶ月間インターンでやってきていた妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ:女性 生まれはイタリアだが小さい時に両親ともどもドイツに移住した)がEメールで、妻にこの時期に時間が空くのでドイツに遊びにきてくださいとのことでした。

妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)が日本に滞在中に、妻が鎌倉とか日光とか案内してあげて仲が良くなったみたいです。

妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)の彼氏Karsten Schroeder(カールステン・シュレーダー:男性 ドイツ人 紹介ではボーイ・フレンドとのことだった)とも行動を共にしました。

6/8(水)午前9時半、成田発ルフトハンザ航空でフランクフルト空港まで飛びました。

約11時間位かかりました。

この日は、妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)が仕事があるとかで会えませんでした。

夕食は、フランクフルト中央駅から東へ3ツ目のKonstablerwache駅前でドイツ料理のソーセージとスープとビールを飲みました。

宿泊はその駅のBEST WESTERN HOTEL Scalaに泊まりました。

6/9(木)朝食はホテルでバイキング形式のものを食べました。

朝はホテルでゆっくりとしており、昼食はKonstablerwache駅前で、妻とパンとコーラを飲みました。

その後、近くの駅にあった「ゲーテの家」(ゲーテの生家)を見物しました。

3、4階建ての豪華な家でした。

その後、フランクフルト中央駅近辺を妻と散策しました。

午後6時、ルクセンブルクからの仕事帰りの妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)と彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)が車(フィアット社のスポーツ・カー アルファロメオ)で迎えに来てくれました。

レストランへ行って、4人で夕食を食べました。

ポークカツとりんご酒(ドイツでは有名らしい)を飲みました。

その後、車(アルファロメオ)を彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)が運転して、フランクフルト市内の博物館や

銀行等を案内してもらいました。

ドイツは夜10時位まで明るかった。

その後、AUTOBAHN(アウトバーン)をすっ飛ばして、Wiesbaden(ヴィースバーデン)という町のホテルまで送ってもらった。

宿泊は「MOTEL ONE」に泊まった。

6/10(金)朝9時に、妻の友人Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)がホテルまで車で迎えに来てくれて、3人でRoberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)のアパートメントへ行った。

部屋がいくつもあって広かった。

その部屋の一室で朝食を3人で食べた。

パンとかハムとかコーヒーとかを作ってくれて、一緒に食べた。

その後、Wiesbaden(ヴィースバーデン)市内を歩いて見物した。

昼食はある店の外のテラス(こういう形の店がほとんどだった)で、3人でパンとコーヒーを飲んだ。

Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)のアパートメントへ戻って、休んでいると、午後6時に彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)がやってきて、4人で車(フィアット社のスポーツ・カー アルファロメオ)に乗って、彼氏が運転して、AUTOBAHN(アウトバーン)を時速200Km/hですっ飛ばして、「バイエル」本社のあるLeverkusenまで行きました。

時速200Km/hは、妻も自分も初体験でした。

自分が「AUTOBAHN(アウトバーン)は1 LINEなのか?」と聞くと、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)が地図を見せてくれて、「この橙色の道路が全部そうで、ドイツの国の縦横にはりめぐらされている」と答えてくれ、思わず“That‘s great.”と感動の言葉を発しました。

「バイエル」本社前では記念撮影しました。

その後、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)の母親の家に行きました。

夕食は、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)の母親手作りのネイティブ イタリアン料理(パスタ等と赤ワイン)をご馳走になりました。

なお、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)の父親は、今イタリアに行っているそうです。

夕食後、彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)の両親の家に行き、そこで泊めてもらいました。

Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)の実家と彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)の実家は近くて、二人は幼馴染みたいです。

6/11(土) 彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)の両親の家で、6人で朝食をご馳走になりました。

ハムやソーセージやパンや果物やコーヒーを飲みました。

彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)の父親は、サッカーチームの「シャルケ」のファンで、日本から来ている内田選手を知っていました。

Elvis Presleyのファンだとも言っていました。

その後、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)と彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)と4人でケルンの町を見物しました。

ケルン大聖堂がどでかかった。

夕食は4人でMainz(マインツ)の町のレストランで食べました。

妻と自分はレイクフィッシュ(湖でとれた魚)とワインを飲みました。

宿泊は、Wiesbaden(ヴィースバーデン)の町の「MOTEL ONE」に泊まりました。

6/12(日)予定では、朝食はRoberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)のアパートメントで食べることになっていたが、相手が少し疲れているのではないかと思い、昨日の夜に、今朝はホテルの朝食を食べることを申し入れていた。

朝食はホテルのバイキング形式のものを食べた。

午前10時半に、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)と彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)が車(フィアット社のスポーツ・カー アルファロメオ)でホテルまで迎えに来てくれた。

Rheingauという町の、Rhein River(ライン川)河畔のぶどう畑やワイン販売所を見物した。

昼食はライン川河畔のレストランの店の外のテラスで4人で食べた。

ピザやパンやワインを飲んだ。

夕食は、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)のアパートメントで食べた。

パンとハムとワインを飲んだ。

源氏物語絵巻(彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)が持っていた)の話の内容や、世界中の旅行の話などをした。

Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)と彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)

は南アフリカの上にある国「ナンビア」(ドイツの唯一のアフリカでの旧植民地)へも行ってきたらしく、写真も見せてくれた。

宿泊は、Wiesbaden(ヴィースバーデン)の町の「MOTEL ONE」に泊まりました。

6/13(月) 朝食は、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)のアパートメントで食べた。

ハム、ソーセージ、スクランブルエッグ、パン、トリュフ、ワイン等を飲みました。

彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)の車(フィアット社のスポーツ・カー アルファロメオ)の前で記念撮影しました。

フランクフルト空港まで、例の車で送ってもらい、午後1時40分発ルフトハンザ航空で10時間位で成田に帰ってきました。

着いた日付は6/14(火)午前7時位でした。

添付として下記のものがあります。

○ お土産のチョコレート(フランクフルト空港で購入)

○ ドイツ旅行 スケジュール表(Excel)

○ 日本に帰着してからの、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)からのEメール

○ 写真の一部

日本に帰着してからの、Roberta Stanziano(ロベルタ・スタンチアーノ)からのEメールによると、二人は5年以内に日本に旅行に来たいそうです。(この夏はイタリアに行くとのこと)

その時には、同じようなおもてなしをしないといけません。

彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)が日本の方に、車を買うときは(フィアット社のスポーツ・カー アルファロメオ)を買うようにRecommend(薦めて)してくださいとのことでした。(彼はフィアット社に勤務している)

日本の自動車メーカーは全部、EV(Electonic Vehicle)電気自動車を開発していますよと言うと、彼氏のKarsten Schroeder(カールステン・シュレーダー)は、フィアット社はガソリン車とバイオエタノール車で十分で、電気自動車は開発しないと言っていました。

自分で言うのもおこがましいのですが、何とか英会話ができるようになりました。

妻は英会話教室へ通っていて、英会話はうまいです。

以上

2011年3月11日(金)午後2時46分に東日本大震災が発生した。

丁度その時、自分は自宅のマンションのリビングルームで、歌手エルヴィス・プレスリーのレコードを聴いていました。

突然部屋が揺れだし、今まで経験した地震の揺れの中で一番大きくて揺れの時間も長かったので、思わずテーブルの下に隠れました。

本棚にあったスピーカーとか本が倒れ落ちてきました。

レコードプレイヤーのダイヤモンド針が衝撃で、土台から剥がれてすっ飛んでいました。

マンション全体(ここの新丸子地区を含めて)が停電となりました。

夕方、マンションのエレベータも止まっていたので、裏の非常階段で歩いて降りて、夕食のために隣駅の「武蔵小杉」の喫茶店「きよのや」まで歩いて行きました。

携帯電話もつながらない状態だった。

東京都内の電車・地下鉄と近郊の電車が全面ストップとなり、マンションの前の綱島街道の歩道を東京方面から帰宅する人が大勢ゾロゾロと歩道一杯に歩いていた。

隣駅の「武蔵小杉」の喫茶店「きよのや」は停電にはなっておらず、そこのテレビで悲惨な津波が襲っているニュースをやっており、大変な事態になっているのを認識した。

妻は、東横線で渋谷を経由して、井の頭線で東京の笹塚まで、1時間ちょっとかかって通勤しており、この日もてっきり会社で泊まってくるものだとばかり思っていました。

すると午後10時半頃、妻は帰ってきました。

聞くところによると、妻は何でも会社がある東京の笹塚から6時間位かけて歩いて帰ってきたそうだ。

よくもまあそんなに歩けたものだと感心したが、当日はそんなゾロゾロと歩く人も多く、東京都内では帰宅難民も多かった。

マンションの前の歩道では、夜遅くまで帰宅する人が歩道一杯にゾロゾロ歩いていた。

マンションは2,3日停電となり、1、2週間位計画停電となった。

2011年12月9日、ソフトバンク社長 孫 正義さんに、お会いしてお話をしたい旨の手紙を自宅宛てで出しました。

株式会社 先見の明の仕事の一環として、情報革命を推し進めるためにどうすればいいか話し合う予定でした。

「情報革命で人々を幸せに」という同じ志を持つもの同士として、ひざ詰めで話し合う予定でした。

同封したものには以下のものがあります。

    1. お会いしてお話したい理由とか目的を記した檄文

    2. 読書「名言集」(今まで読書してきた中での名言を集めたもの)

    3. 本年の読書記録(本のタイトル、著者、ジャンルを記したもの)

    4. 富士通での職歴(富士通での入社から定年退職までの職歴を記したもの)

    5. 自叙伝(2006年1月に既に第一弾として必要最小限を記した小冊子)

      1. しかし、返事が来ませんでした。

      2. 多分、中身には感動して読んでくれたものと信じていますが、なにしろ超多忙の方ですから、時間がとれなかったのだと思われます。

      3. 最近、夏の暑いとき以外は、多摩川の川べりのサイクリングコースをガス橋まで1時間10分毎日ウォーキングしている。

      4. 読書も行なっていて、政治・経済書、歴史書、専門のコンピュータ関係の本等を重点的に読んでいる。

      5. ある本に、時代の流れは速すぎて誰も追いつけないと書かれてあった。

      6. しかし、自分はできるだけ時代の流れに遅れないように、一番遅れが少なくなるように、時代の流れにキャッチアップできるように、できるだけ読書したり、アンテナを高くして時代の最先端の情報をキャッチできるように努力している。

      7. 有名なアメリカ人のウォーレン・バフェットは一日6~8時間新聞を含めて読書しているそうである。

      8. 最近、つくづく「お金より時間が大事」と思うようになってきた。

      9. お金がなくてピーピー言っているわけではないが、時間が足りなくてピーピー言っているような状態である。

      10. ライフワークの一つである仏教の研究は、時間がなくてあきらめざるを得ない。

      11. しかし、充実した毎日を送っている。

      12. また、人格を高めて、日々精進しようと思っている。

      13. 今までの人生を振り返ってみて、随分といろんな人とか社会から恩を受けてきたので、これからはいろんな人とか社会への恩返しという意味も含めて、世のため人のため貢献しようと思っている。

      14. (2013年7月 福田 雅澄)