週刊「通販生活」 > 読み物:福島県南相馬市へ移住した作家・柳美里さんインタビュー

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※サイト容量の都合で写真は割愛しました。

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週刊「通販生活」今週の読み物

福島県南相馬市へ移住した作家・柳美里さんインタビュー

南相馬に住む人たちは、日常の暮しの中に

矛盾やストレスを抱えながら 日々生きていると思います。

3・11以後、福島県に通いつづけ、今年4月に南相馬市へと移住をされた作家の柳美里さん。なぜ、南相馬への移住を決めたのか。また、そこでの暮しや接する人びとのことなど、つまびらかにお話しいただきました。

取材・文・写真/畠山理仁 写真/木野龍逸 インタビュー日:2015年7月26日

原発事故の直後は「できるだけ遠くへ避難させたい」という母親の気持ちと、「今すぐ福島に行きたい」という物書の気持ちが強く引っ張りあっていた。

畠山

2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故以降、柳さんは居を構えていた神奈川県鎌倉市から福島県に足繁く通われていました。2015年4月には福島県南相馬市に移住されましたが、そもそも、なぜ原発事故後に福島に向かわれたのでしょうか。

一つは幼いころに母から聞かされていた「福島の記憶」があったからです。私自身は横浜で生まれ育ちましたが、福島県とは「縁」があるんです。

私の母は中学・高校時代を福島県南会津郡只見町で過ごしました。只見町には、只見ダム、田子倉ダムがあり、隣の檜枝岐村には奥只見ダムがあります。首都圏に送電するために作られた東京電力福島第一・第二原子力発電所がある浜通りが「原発銀座」だとしたら、只見は「ダム銀座」とも呼べる場所なんです。

只見ではいくつもの集落がダムの底に沈んでいます。私がまだ子どもの頃、母は同窓会で訪れた只見に、私と妹、二人の弟を連れて行き、ダムサイトでダムに沈んだ田子倉集落の話をしてくれました。

「ダムの底には家もあった。お墓もあった。あそこには丘があって、こちらにはお寺があって、大きな桜の木もあった。小川も流れていた。それが全部沈んでしまうということは、ものすごく悲しいことなんだ」と。

原発事故が起きて福島第一原発から半径20キロ圏内が「警戒区域」に設定されると聞いた時、私の中でダムの底に沈んだ只見の記憶が蘇りました。ダムに沈んだ町は水に潜らない限り見えないけれど、警戒区域はその場にある。だから検問で閉ざされる前に行かなければと思ったんです。

畠山

最初に20キロ圏内を訪れたのはいつだったのでしょうか。

2011年4月21日です。この日の午前11時、政府は「4月22日午前0時から原発20キロ圏内を警戒区域に設定する」と発表しました。私は「10年単位で入れなくなるのではないか。とにかく閉ざされる前に行かなければ」と思い、その日のうちに20キロ圏を目指しました。福島に通い始めたのはそこからです。当時はまさかこんなに早く「警戒区域」という名前がなくなり、「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」という3つの区域に再編されるとは思っていませんでした。(*1)

20キロ圏にある楢葉町の検問所に着いたのは4月21日の夕方です。日が落ちる前に桜を見たいと思い、まずは富岡町の夜の森で桜を見ました。

震災後、私は毎年「夜の森の桜」を見ているのですが、4月下旬になるといつも散ってしまって、ほとんど葉桜になっているんです。でも、震災の年は寒くて風もなかったため、満開に耐えているような状態でした。誰もいなくなった夜の森で見た満開の桜の印象は、今でも鮮烈に思い出せます。

その後は浪江町に行き、浪江小学校、浪江駅、請戸港を歩きました。

その日、最後に訪れたのは東京電力福島第一原子力発電所の正門前です。辿り着いた時には4月22日の午前0時を回っていました。

畠山

警戒区域に設定された時間に20キロ圏内にいらしたんですね。

柳 災害対策基本法には、警戒区域から退去しなかった場合、「十万円以下の罰金又は拘留に処する」という文言がありました。時計が0時を回ってしまった時、「まずい。今、手持ちのお金が3万円しかない!」と思ってとても焦りましたが、結果的には外に出してもらうことができました。

2011年5月には、被災地の岩手県、宮城県、福島県を南下する形で再訪し、7月には北郷本陣で行なわれた野馬追も見ました。

私は2012年3月16日から南相馬の臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」「柳美里のふたりとひとり」というラジオ番組を持っていますが、そのきっかけは、私が野馬追に来ていることをツイッターで知った臨時災害放送局のディレクター・今野聡さんが「エフエムに出てくれないか」と連絡をくれたことが始まりです。ラジオでは南相馬に縁のある二人の方をお招きして私がお話を聞いていきます。今年8月28日で168回なので、もう350人近い方々にお話をうかがったことになりますね。(*2)

畠山

東京では「原発事故は過去のもの」として、もう忘れてしまっている方も少なくないと思います。しかし、原発事故当初は原発から227km離れている東京でも「危ないんじゃないか」という放射能への恐怖で混乱していました。関西や沖縄へ避難された方もいる。柳さんがそうした方々と逆方向である福島に向かったのはなぜなんでしょうか。

私の中では両方あるんです。原発事故直後、私は大阪に子どもを連れて避難しています。

原発事故が起きた時、私は子どもを鎌倉に置いて韓国にいました。ちょうど韓国のソウルで私が23歳の時に書いた『向日葵の柩』という戯曲が上演されていて、舞台挨拶をすることになっていたからです。

原発が爆発したことはソウルのテレビで知りました。本当はすぐに日本に帰りたかったのですが、舞台挨拶が3月14日で、それまではどうしても日本に帰れませんでした。舞台挨拶を終えてすぐ日本に戻ろうとソウルの金浦空港に着くと、空港は日本から逃れてきた人たちであふれていました。外国人の伴侶を持つ日本人が多かったですね。ドイツ人と結婚している日本人女性がたまたま私を見つけて「柳美里さんですか。どこに行くんですか?」と聞いてきました。私が彼女に「日本に帰ります」と言ったら「ドイツ大使館からは退去しなさいという連絡が来ています。なんで戻るんですか! 日本に戻っちゃダメです!」と強く言われたことを覚えています。

畠山

その時、柳さんはなんとお答えになったんでしょうか。

「いえ、私は日本に子どもがいるから帰ります」と答えて鎌倉に戻りました。戻ってきたら、日本は大変な状態でした。鎌倉でも、店頭からは食べ物が消え、水もありませんでした。コンビニエンスストアで商品を運んでくるトラックが到着するのをみんなで待って、商品が届くと一斉に手を伸ばす。店員までもが「これは僕が後で買います」と確保してしまうような状態でした。

その翌日、3月15日の爆発を鎌倉の自宅のテレビで見た時、「もう間に合わないかも。早く逃げないと危ない。全部メルトダウンする」と思い、川崎にいる大阪出身の友達に声をかけ、家族3人、猫4匹と一緒に車に乗り込んで、3月16日の夜に大阪に向かいました。当時、私がツイッターに「メルトダウン」という言葉を書き込んだら、「危機を煽るな」とものすごく叩かれましたね。

畠山

避難したことも非難の対象となったんですね。

そうですね。ただ、この時も私の中では2つの感情がありました。「子どもの安全を確保するためにできるだけ遠くへ避難させたい」という母親としての気持ちと、「今すぐ福島に行きたい」という物書きとしての気持ちです。その両方が強く引っ張りあっているような状態でした。

大阪から鎌倉に戻ったのは、息子が小学6年生の新学期を迎える直前の4月8日です。これは新学期前に子どもと話し合って決めました。母親の私としては「もう少し大阪で原発事故の行方を見たい」という気持ちはありましたが、息子が「友達と一緒に5月の修学旅行に行きたい」と言ったことで決めました。

畠山

「様子を見たい」というのは放射能のことを考えたからでしょうか。

もともと私は子どもに対してはものすごく神経質で、自分でも病的なんじゃないかというくらい気を遣っていたんです。たとえば食べ物も、生まれてからずっと無農薬や減農薬のものを食べさせていました。洗濯機も子ども用に別に買って、自分のものとは一緒に洗わない。タオルも無漂白のものを使い、夜、息子が寝返りを打って布団を蹴ると、お腹が冷えて風邪をひくかもしれないと思い、枕元に正座をして見守るほどになってしまったんですね。自分自身にはまったく気を遣わないのですが、子どもに対してはかなり神経質だったんです。放射能だけに特化していたわけではありません。

私は息子を産んだ3ヵ月後に、伴侶の東由多加を癌で亡くしています。それもあって「息子だけは完璧に育てよう」という意識を持ってしまったんです。

子どもはとても親を不安にさせる存在です。不安や恐怖を親の心に呼び込む。私にとって、原発事故もそうした不安を呼び込む要素の一つでした。

畠山

一方で、柳さんご自身は物書きとして福島に行きたい気持ちがあったわけですね。

そうですね。私の行動や言動に整合性がないと思っている方は今でもいると思います。「原発事故直後、大阪に逃げてなかったっけ」とか「南相馬に引っ越すなんて、安全派に転向したのか」と言われることもあります。今は安全派、危険派のような派閥争いになっていますよね。

でも、当時は、政府が情報を全部は開示していなかったし、原発や放射線の専門家の意見もバラついていました。さらに危険な状態になる可能性もあるという状況下で子どもを大阪に避難させたことと、自分が20km圏内に向かったことというのは、私の中では全く矛盾していないんです。

南相馬に暮す人が3月11日のことを話し出すと止まらない。まだまだ皆さんのお話を聞きたいと思い、移住を宣言しました。

畠山

原発事故の「ゼロ地点」である原発に近づくことへの恐怖は全くなかったのでしょうか。

近づいていく道すがらには不安のようなものもあったような気がしますが、福島第一原子力発電所の正門前に立って空間放射線量率を計った瞬間、心の振れ幅がピタッと止まったんです。人間は感情が振れますよね。「危険だ」と思うこともそうだし、「不安だ」と思うこともそうだし。ところが正門前で「50μSv/h」という数字を見た時に、私は心の揺れが止まりました。

実際には事故を起こした原発の中にいるわけではないから「ゼロ地点」ではないけれど、そこに立ったことで不安や恐怖が霧散しました。

畠山

それは「線量が低くて安心した」という感情ではありませんよね。

違いますね。とにかく目の前で起きている事象が圧倒的すぎて、数字は取るに足らないことのように思えた。言葉で「20キロ圏」と聞いても広さが実感できません。けれども、私は検問所から入って、かなり広い範囲にわたって人がいなくなったことを見てきました。洗濯物も干しっぱなしだったし、桜がとてもきれいなのに誰一人いない。その日、私が自分の目で見てきた出来事、事件、事故の有り様が圧倒的でしたから、「50μSv/h」という数字自体には意味がないと思ってしまったんです。それからは、ほとんど線量計を見ることはなくなりました。

実際に高線量の中で原発事故の収束作業に従事している方々から話を聞いていくと、やはり自分とは比較できないと思うんですよ。原発が「非日常的な事態」に陥っているとしても、現場で作業に従事する人たちにとっては「働く」という日常なんですよね。私は何度も通ったとはいえ、自宅は鎌倉にありましたから、私にとって福島は「日常の場」ではなかった。そう思ったことも大きいですね。

畠山

その間、柳さんは只見ダムがある只見町にも通われていました。南相馬へ移住しようという意識が芽生えたのはいつ頃だったのでしょうか。

2012年2月に開かれた「南相馬ダイアログフェスティバル」というイベントで、私は「物語を作る」というワークショップを行ったんです。町の人が自由に参加できるイベントで2日間にわたって開いたところ、町の人が100人くらい参加してくれました。

私は原発事故が起きる前の南相馬の個人的な記憶をみんなで共有して物語を作っていきたかったのですが、実際に皆さんに話をしてもらったら、ほとんど全員が2011年3月11日の話をされたんですね。みんな話しだすと止まらない。一人で30分も40分もお話しになる。会場を借りている時間を1、2時間オーバーするほどになってしまったんです。私はまだまだ皆さんのお話を聞きたいと思いました。だからその打ち上げの席で、「私は南相馬に住みたいと思っています。でも、今は子どもの進学の問題などもあるので住めません。でも、いつか必ず住みます」と話しました。南相馬への移住を宣言したのはそれが最初です。

畠山

その少し前、2011年の大晦日は南相馬で過ごされたそうですね。

はい。南相馬ひばりエフエムの今野さんに、「南相馬の人が初詣に行くお寺や神社を全部教えてください」とメールをして教えてもらい、2011年12月31日、2012年1月1日にかけて7寺社を回りました。その時まで、私は南相馬の人とは直接の関わりを持ってはいませんでした。

畠山

それはなぜでしょうか。

「安易には関われないな」と思っていたんです。まずは「こういう町だ」ということを自分の足で歩いて知る。そして地元のお薦めの食べ物もいろいろ食べて歩く。地元の人が食べている味を知ったうえで、郷土史なども読み込んで、そこに住む方々と関わる覚悟を固めていきました。

私は何かを書くために1回や2回取材に来て、もう来ないということはできない性分なんです。関わったら関わり続けなければいけないと思っているので、その覚悟をするための時間が必要だったんです。

2011年の大晦日に皆さんがお参りする時の言葉は直接インタビューしたわけではないけれども、おそらく原発事故のことであるとか、家族が離れ離れに暮していることとか、津波で家族や親族を亡くされた方々がいろんな思いで手を合わせているんだろうなと思いながら後ろ姿を拝ませていただきました。その姿を見て、「今度は正面からお話を聞こう」と覚悟を決めたんです。

畠山

実際に移住されたのは今年の4月です。これは息子さんが南相馬市にある福島県立原町高等学校に入学されるタイミングに合わせたということでしょうか。

そうですね。私自身も南相馬ひばりエフエムの「ふたりとひとり」に、原町高校の先生、生徒、卒業生に多数出演してもらっていましたから、原町高校がどんな学校かということはわかっていました。いろんな方々から原町高校のお話を聞いて、「いい学校だな」と思っていました。息子が1歳から15歳までを過ごした神奈川県鎌倉市は、都心への通勤圏のため土地の値段が高く、都市景観条例による規制が厳しいため、新たな宅地がなかなか出ません。それによって、住民の変動がほとんどなく、息子が通っていた幼稚園、小学校、中学校では、幼馴染率が高かったんですね。けれども、高校でみんなバラけるんです。神奈川県は高校の数が多いから、だいたい一校に多くて2、3人。少ない場合は一人ですね。南相馬に移住するならば、息子の高校進学のタイミングを逃したら、大学進学を待つしかないと思っていました。

畠山

息子さんも原町高校への受験を希望されていたんでしょうか。

息子は高校受験まで南相馬に来たことはありませんでしたが、鎌倉の自宅に南相馬の友人が6、7人で泊まりに来たこともありましたし、ラジオのディレクターの今野さんも原高出身でした。息子は2011年から「福島昆虫ファウナ調査グループ」という、福島県内の昆虫をメッシュで調査するグループに参加していて、一人でリュックサックを背負って新幹線で福島まで出かけ、飯坂温泉の桃農家の家に泊まり込み、調査に参加していました。そこにも原高の出身者がいましたから、「どんな学校か」ということは息子もわかっていたんですね。そのうえで、息子も「いいな」と思っていて、受験する時は南相馬の友人の仮設住宅に泊めてもらいました。

もう一つの理由としては、息子は4歳からフルートを習っているのですが、原高の吹奏楽部は2014年度に東日本学校吹奏楽大会で銀賞を取るほどの強豪校だということもありました。

畠山

実際に引っ越すにあたって、不安はなかったんでしょうか?

放射能? 今、原発事故から4年半が経っています。その間の情報を見てみると、南相馬の原町高校に通える距離で住居を探すという意味では、不安はありませんでした。ただ、息子が収集している昆虫が「ハネカクシ」という土中にいる微小甲虫なんです。だからこちらに来る前、息子からは「どこまでやっていいの」と相談されましたね。

昆虫を捕まえるときは、表土を取って植木皿の上で振るんです。そうすると、虫が土から這い出てくるわけですが、なにしろ小さいものだと1ミリ未満なので、手でつまみ取ることはできないんです。「吸虫管」という中に網が入っているストロー状の道具で吸うんです。私は息子に「吸うことはできないよ」と言いました。

畠山

できないよ、と聞いた時、息子さんはなんと言ったんでしょう。

「うーーーん。まあ、そうだよね」と(笑)。たしかに雲雀ヶ原祭場地の裏にある御本陣山も除染はされていますが、細い道を奥に入っていけば、まだ除染されていなくて線量が高い場所もあります。息子は福島昆虫ファウナ調査グループのメンバーからは、「そうしたところに入る時は線量計を持って行き、少しでも高いと思ったらすぐにそこを離れなさい」とアドバイスされたようです。でも、もう息子は高校生ですから、危険なこととそうでないことの判断は自分でつけられると思います。と言うと、高校生だから大丈夫というニュアンスに聞こえ、地元で小さなお子さんを育てている親御さんへの非難を助長するのではないかと心配になります。言い方が非常に難しい。

年配の方が「他人様が作った米や野菜を買うなんて、こんな情けないことになるとは思わなかった」とおっしゃっていました。

畠山

ラジオ番組「ふたりとひとり」は、サイマルラジオを通して全国からインターネットでも聞くことができます。柳さん自身の出演料はゼロだそうですが、これまでやってきてよかったなと思うのはどんなところでしょうか。

当たり前のことだけれど、ここの場所にいる理由は一人ひとり違うんですね。けれども、世間で語られる時は、どうしても「被災者」としてひとくくりにされてしまう。でも、実際には一人ひとり違う。それを直接知ることができたのはよかったと思っています。

たとえば「先祖代々の土地を奪われて」というような言い方をされても、ご先祖様は一人ひとり違います。代々ここにいらっしゃる方もいれば、浄土真宗の真宗移民で北陸の方から江戸時代にいらっしゃった方もいるし、鹿島の方の干拓でいらした方、外国からいらした方など様々です。

たとえば原町の中華料理「福来臨」(フクライリン)は、浙江省から来ている馮王春(ヒョウ・オウシュン)さんがやっているお店です。原発事故後に妻子とともに中国に避難したけれども、馮さんだけ荷物を取りに日本に戻ってきたら、「食べ物屋がないから、馮さん残ってよ」と市役所の人に言われて一人で残った。南相馬には朝鮮系の方もたくさんいらっしゃいます。もう一つ、これはラジオをやり始めてわかったことですが、私の祖父は南相馬でパチンコ店を開いていた時期があって、その店を知っているという人もいました。不思議な縁だな、と思いますね。

また、英語塾を25年間やっているパキスタン人のシャヒッド先生は「生徒が残っているのに自分だけ避難するわけにはいかない」と言って、2011年の4月から英語塾を再開しました。そういう一人ひとりの物語の多様性が面白いですね。

ラジオで放送する時間は30分ですが、収録前後に2時間以上お話をうかがったこともあります。ご自宅におじゃましてお話をうかがったり、食事をご一緒したりしながら、個人史をどんどんさかのぼって記憶の扉を一緒に開けていくのです。とりわけ原発事故以前の物語に興味があるので、「かつての南相馬がどんな町だったのか」を知ることができたのは本当によかったなと思っています。

畠山

南相馬にいる人であればわかるけれども、「離れた場所にいる人には理解できないかもしれない」と思ってしまうような話が出ることもありそうですね。

何人かの年配の方が「他人様が作った米や野菜を買うなんて、こんな情けないことになるとは思わなかった」とおっしゃっていました。自給自足に近い形の生活が営まれていたんですね。生活というのは生きていく価値観みたいなものじゃないですか。それを突然奪われてしまったという感覚は、きっと都会の人にはわからないだろうなとは思います。

20代の頃からずっと福島第一原発に勤めている方は、その息子さんたちも発電所に勤めています。その方のお宅でも、自分たちが食べるお米は自分たちで作っていたんです。専業農家ではないけれど、自分たちの食べる分は自分たちで作る。「現金収入がなくても食べていける場所だったよね」と、皆さんおっしゃいます。

実際に住んでみるとわかりますが、皆さん、いろんな物を持ってきてくださるんですよ。ご自身が作られたお米や野菜も日常的にいただきますし、「麻婆豆腐をいっぱい作ったから食べて」と持ってきてくれることもあります。隣組もしっかりしていて、地域の草刈りもみんなで分担してやっている。そういう結びつきがしっかりしている土地なんです。

都会の人はテレビで借り上げ住宅(みなし仮設住宅)の映像を見て、「わりといい家じゃん」と思うかもしれません。でも、もともと住んでいた場所は全然違います。どこのお宅にも蔵があったりしますからね。

畠山

移住してわかったことは、他にどんなことがあるでしょうか。

原発事故が日常の中にある「異常さ」は感じます。鎌倉から引っ越してきた時は、ちょうど我が家のある地域が除染され始めた時期でした。ある日、買い物から帰ってきたら、庭や玄関、雨樋にチョークでバツ印がついていたんです。道路と庭に塀がないとはいえ、勝手に入って勝手にピンクのリボンを埋め込んだりするんだなと思って驚きました。

うちよりも先にお隣で屋根と雨樋の除染が始まったのですが、7月でしたからね、外に洗濯物を干して、窓を全部開けて換気している時に、いきなり雨樋除染が始まった。その様子を見ていると、最初に不織布で拭いて、最終的には刷毛で掃くけれども、フワーッと埃みたいなものが舞い上がっているんです。慌てて窓を閉めて洗濯物を取り込みました。日常の中で、突然、非日常が始まるという違和感はありますね。除染作業員はヘルメットとマスクで顔が見えません。しかし、彼らからは、家の中の様子や、そこに住む人たちが見えているわけです。防犯上の不安もあります。

放射能の問題を話題にするのは、すごく神経を使うんですよ。以前、南相馬の飲食店関係者が集まる会合で講演をした時に「柳さん、放射能をどう思いますか」と質問されたことがありました。私が「うーん、一言で言うのは難しい問題ですね」と答えたら、その方々もやはり同じような悩みを抱えていて、「外では言えないんだけれども……」といろいろ話してくれたことがありました。

「以前はキノコや山菜、川魚とか、自然の恵みがたくさんあった。今、この辺りは山地除染をするほどの線量ではないといっても、以前のようには食べられない。そういう憤りがある。でも、それを外にいる人たちに言ってしまうと、南相馬の風評被害に繋がるから言えない。そういう悔しさがあるんだよね」って。

外の人たちから「あそこは汚染されている土地じゃないか」と言われると、みんな、「いや、私たちは普通に暮していますよ」って言うけれども、そうした日常、普通の中に、ものすごいストレスがあります。それは実際に住んでみて思うことですね。

除染のことにしても、私が寝間着で朝ごはんを食べていると、除染作業員の方々が重装備で庭にいるんです。除染の風景自体にはみんな慣れてきていますが、除染をしたから安全なのか、それとも除染をしているようなところだから危険なのかという、そこの線引きがちょっとわからなくなっています。

人というのはどんな場所であっても日常を営む生き物です。日常になってしまうと慣れてしまうけれど、やはり原発事故が日常にあるという違和感は皆さんお持ちだと思います。

もう一つ、これも難しい問題ですが、作業員が増えることによって町の治安が悪化しているという問題もありますね。

畠山

全国からたくさん新しい人たちが集まってくるために、もめごとが多くなるということでしょうか。

女性の電話相談をボランティアでしている方から聞いた話では、性犯罪が増えているという話もあります。被害届が出ていないものもあるので正確な数はわかりませんが、何件かは事件化しています。南相馬のお年寄りたちは、避難している子どもや孫たちに帰ってきてもらいたい、一緒に住みたい、という思いを募らせているんですよ。ですからネガティブな情報は公にはしたくないという雰囲気もあるんですね。だからといって問題にフタをして、無かったことにしようとすれば、加害者を増長させて問題を温存させることになってしまう。そして、被害者に、被害を公にしたら町の傷になってしまうという心理的な圧力を与えかねない。非常に難しい問題ですね。

なかには作業員宿舎が近くに建つことに対する反対運動が起きている地域もあります。住民との軋轢も起きているんです。もちろん、原発や復旧や除染の作業員のなかには地元の方も多いんです。一日も早く元通りの町の姿を取り戻したいという志を持っている作業員もいる一方で、暴力団関係者や犯罪者も潜んでいるという事実は否定できない。真面目に働いている作業員への差別や偏見が高まるような事態になっては困るわけだし、南相馬の復興には除染は不可欠だし、作業員は圧倒的に不足しているんです。来春、南相馬市小高区の避難指示が解除されれば、さらに作業員が必要になるし、作業員は増加するでしょう。放射線による健康不安を解消するための除染によって、治安悪化という新たな不安が生まれてしまったわけです。

昨年10月には、原町高校からの下校途中に、17歳の女子生徒がダンプカーにはねられて死亡するという事故も起きています。ダンプカーを運転していたのは74歳の土木作業員です。信号は青でしたが、運転手の不注意で事故となってしまったのです。福島県浜通りを「ダンプ銀座」と呼ぶ人もいます。時間帯によってはダンプの列が途切れず、ほとんどの生徒が自転車通学なので、かなり危険な状況です。

全国のナンバープレートを写真に撮るという趣味を持っていた地元の人が、「震災以前は東京ディズニーランドの駐車場に行くと全国のナンバープレートを見つけられたんだけど、今は南相馬のスーパーマーケットの駐車場で見つけられる」と苦笑していました。

ある70代の女性は、「原発事故によって、地獄の釜のふたが開いた。それが、4年半たっても開けっ放しになっている」とおっしゃいました。

畠山

原発事故がもたらした現状に対する皆さんのお気持ちは「怒り」に近いものなんでしょうか。

「怒り」とひと言で言い切れるほど単純なものではありません。内心煮えたぎるような憤りはあるけれど、反原発のデモをしている人たちと一緒に声を上げられるのかというと、そういう気持ちにはなれない。だけど、たぶん誰よりも、どの地域の人よりも、原発は廃絶してほしいと願っている。除染はまだ何年もかかるし、市内の仮置場に積まれているフレコンバッグを中間貯蔵施設に移すのにも何年もかかるし、さらに原発の廃炉には何十年もかかるわけです。解決はできないけれど、一つ一つの問題に対処していくしかないのです。そういう矛盾、そこにある日常を、日々生きているのだと思います。

初出/「通販生活」ウェブサイト」

取材・文・写真/畠山理仁 写真/木野龍逸 インタビュー日:2015年7月26日

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*1 避難区域の再編について:2012年4月1日より、各自治体で再編が始まる。南相馬市は2012年4月16日に再編。

2016年7月12日には帰還困難区域を除く避難指示区域が解除。

*2 南相馬市の臨時災害放送局は2018年3月25日に閉局。閉局に伴い「柳美里のふたりとひとり」も3月23日放送(第296回)で終了。

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