警戒区域(仮)第1回

 二〇一一年四月二十一日、わたしは福島県富岡町の夜ノ森公園にいた。
 宵闇が迫っていたが、僅かに光は残っていた。どこまで歩いても、さくら、さくら、さくら――、無風のせいか、花びらは舞い落ちていなかった。
 桜のひと花ひと花が、満開に堪えて静止している――、自らを散るに任せなければならない時そのものを拒絶しているようにも思われた。
 わたしは、たったひとりで満開の桜を見上げていた。

 枝野幸男官房長官が、福島第一原子力発電所から半径二十キロ圏内の地域を、四月二十二日午前零時をもって「警戒区域」と指定する旨を発表したのは、当日の二十一日午前十一時だった。
 その発表を受けて、わたしは二十キロ圏内に入る決意をしたのだが、あまりにも急だったために放射線防護服と全面マスクの用意ができず、コンビニで買った五百円の透明ビニールレインコートを羽織り、タオルで頭を覆い、ガーゼマスクをするという気休め程度の対策しかできなかった。
 既に検問所が設置されていて、住民以外は入れないとの情報があったので、浪江町請戸の自宅を津波で流され、千葉県成田市で避難生活を送っている在日韓国人の知人男性の氏名と住所を書いたメモをジーンズのポケットに捩じ込んで家を出た。
 福島県楢葉町の検問所に到着したのは、夕方五時をまわっていた。大阪府警から応援にやってきている警察官に根掘り葉掘り訊かれる前に、「請戸の叔父の愛犬を捜しにきました」と強めの口調で言うと、あっさり許可を得ることができた。
 警戒区域に指定される零時ぎりぎりまで二十キロ圏内を歩くつもりだったので、時間はたっぷりあったが、日が落ちる前に桜を見たいと思い、真っ先に福島第一原発から六キロ地点にある夜ノ森公園を訪れたのだった。
 ひとが暮らしている町は、日没と入れ替わるように家の明かりがぽつぽつと点される。日没と共に全ての家々の窓が闇に沈んでいくというあり得ない光景に、自分が夢の中に融けていくような空恐ろしさを感じ、自分が自分単独では生のリアリティーを支えることができないあやふやな存在だということ
を、改めて思い知らされた。
 わたしは二本の脚をコンパスのように突っ張らせて、三月十一日に露出した過酷な現実の只中に立っていた。
 ――なんの音もしない。
 日が落ちるまではときおり、自衛隊車両や、自宅に荷物を取りにきて避難先に引き返す住民の自家用車が桜並木を通り過ぎたが、車を降りて花見をしようというひとは、当然ながら皆無だった。
 昨日は風が強かったのだろうか、公園の地面に落ちた花びらは波紋のような模様になっていた。
 踏んで歩くひとがいないので、地面の花びらもピンク色だった。
 三月十二日に福島第一原発一号機が水素爆発、十四日に三号機が水素爆発、十五日に四号機が爆発――、放射性物質が飛散する中で、桜は黙々と蕾を膨らませ、花を開かせた。
 木は生きている。
 木は、定められた所で根を張り、枝を伸ばし、幹を太くして、自らの時を刻んでいる。
 ソメイヨシノは短命な桜だ。
 万葉の昔から「今ある時」の頂点として咲く姿、散る姿を詠われてきた「さくら」は実はヤマザクラである。ソメイヨシノは江戸時代末期に駒込辺りで発生したエドヒガンザクラの突然変異種で、接木という形でひとが手を貸さなければ増やせない不自然な桜だ。生育が早くどの土地にも馴染みやすいことから明治時代に全国に普及したものの、病気がちで早死にの傾向があるために「平均寿命六十年説」が囁かれているほどだ。
 ソメイヨシノには、同種の樹木が育った跡地では育つことができない「忌地」という習性があるため、寿命が尽きて枯死した後は、伐採、抜根、客土、消毒をして苗木を植えなければならないのだが、数十年生きた桜を伐採しようとすると、必ずと言っていいほど近隣住民から伐採反対の署名運動が起こるので、日本全国の桜並木は衰退の一途を辿っているという。
 夜ノ森地区の桜並木には、樹齢百年のソメイヨシノが現存する。奇跡的に延命したというのではなく、「後世に桜並木を伝えたい」という強い思いを持った富岡町立富岡第二小学校、富岡町立富岡第二中学校の卒業生たちが「桜のとみおか」委員会を結成して、数年先の樹勢を読みながら老化した枝を剪定し、切り口には刷毛でていねいに薬を塗り、殺虫剤を撒布し、肥料を与え、ソメイヨシノの樹齢を一年また一年と延ばしてきた。
 夜ノ森地区の桜並木は、明治三十三年、相馬藩士・半谷常清の長男として相馬郡小高区に生まれた半谷清寿が、東北の新しい農村づくりのモデル地域にしようと、荒地だったこの地に入植した記念に三百本のソメイヨシノを植えたのがはじまりである。十年後に清寿の次男の六郎がさらに千本植樹し、富岡町の住民が千五百本にまで増やして、東北屈指の桜の名所となったのである。
 毎年この時期は、「夜の森桜祭り」が開催される。
 富岡町の子どもたちは、花みこしを担いで大年神社を出発し、夜ノ森駅、富岡第二中学校の桜並木通りを練り歩き、親たちはカメラやビデオで我が子の姿を撮影する。
 夜ノ森公園を中心に大判焼きやたこ焼きやイカ焼きなどの屋台が出て、さくらYOSAKOI、カラオケ大会、ゴルフ・バレーボール・ソフトボール・ゲートボールなどのスポーツ大会も催され、富岡町民のみならず一万五千人もの観光客が集まる大きな祭りだった。
 国道6号線から川内村に向かう一キロの桜並木と、そこから直角に折れて、富岡第二中学校までの一キロの桜並木が、午後六時から九時までライトアップされていた。
 昨年の今頃は、満開の桜の下を、手と手を繋いだ家族連れや恋人たちが桜の美しさに感動しながら通り過ぎ、大切なひとと死別したり離別したりしたひとたちが散りゆく桜の儚さに傷心しながら通り過ぎ――、わたしは同じ満開の桜の下を歩いて想像してみる。
「夜ノ森」の名前の謂れには、二つの説があるようだ。江戸時代には磐城平藩と相馬藩の境だったことから、双方の藩主が「余の森」と主張し、転じて「夜ノ森」になったという説と、半谷清寿が開拓する以前は昼間でも薄暗い原野だったことから「夜ノ森」と呼ばれるようになったという説だ。
 夜ノ森公園の一隅で、原野だったこの地を想像しようとしているうちに、日は完全に落ちてしまった。
 ブランコが見えた。
 滑り台が見えた。
 雲梯が見えた。
 でも、遊具に向かって駆け出す子どもたちの後ろ姿は見えなかった。
 わたしは、桜を媒介にして、三月十一日以前までこの地で営まれていたひとびとの暮らしを想像したかった。
「想像したい」というよりは、心情的にはむしろ「想い出したい」という感情に近いような気がする。
 自分の全ては過去に在る、と思う。
 過去とは、自分が生きてきた時間だけではない。
 自分が生まれる前の父や母、祖父や祖母、名前も知らない祖先、数多の死者たちが生きてきた時間――、永々何百年、何千年、何万年という時間をわたしの細胞は記憶し、その記憶の集積が過去なのだと思う。
 ひとは過去から切り離されたら、生きてはいられない。ひとりの人間の過去は、幸不幸や運不運や善悪などに大きく舵を切られる瞬間もあるが、その大半は、取り立てて語る必要も書き記す必要もないような日々繰り返されるささいな暮らしの中に在る。
 原発事故によって奪われたのは、まさにその暮らしなのだが、津波や地震による破壊は目に見えるが、放射性物質による汚染は目に見えない。原子力災害対策特別措置法によって原子力緊急事態宣言が出され、取るものも取りあえず、着の身着のままで避難している間に、自分の家が放射性物質によって汚染され、突然立入禁止になる、という現実に、想像力によって対面しなければならないのだ。家や庭や公園や学校や商店や駅は以前と変わらず目の前に在るのに――。
 樹齢百年のソメイヨシノを見つけることができないまま立ち去るのは心残りだったが、わたしは夜ノ森公園をあとにして、浪江駅に向かうことにした。

 福島第一原発から九キロ地点の常磐線浪江駅に着いたのは、午後七時過ぎだった。
 浪江駅周辺は、街灯や自動販売機に光が灯り、二十キロ圏内ではいちばん明るい場所だった。
 福島県の太平洋側は、日本全国五十四基のうち十基の原発が集中していることから「原発銀座」と呼ばれる地域だが、若狭湾沿岸にあるもう一つの「原発銀座」を有する福井県とは異なり、福島県民はその原発で発電された電気を使わず、東北電力が女川原子力発電所や原町火力発電所などで発電した電気で生活している。福島県内の原発で発電された電気は全て「東京電力」管内(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県、静岡県東部)で消費されていた――。
 この構図を首都圏に住むわたしたちは片時も忘れてはいけない。判り易い一握りの「加害者」の名前を羅列しただけでは、問題を引き起こした「現状」の均衡は保たれ、何も変わらない。何も変わらない、何も変えられないまま「今回の原発事故の教訓は……」などとしたり顔で語るのは、破廉恥以外の何ものでもない。
 三月二十九日、東京都知事の石原慎太郎氏は「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない。(中略)少なくとも夜間、明かりをつけての花見などというのは自粛すべき」と発言し、上野公園や井の頭公園には宴会自粛を呼びかける看板が設置されたという。
 七月一日から九月三十日まで、テレビでは天気予報と共に「でんき予報」なるものが流され、暑さのピーク時は電力需要もピークとなるために、極力クーラーを使わず、扇風機で代用したり、緑のカーテンを設置したり、窓に遮熱シートを貼ったりするなどという暑さを凌ぐ様々な工夫が各局の番組で紹介されていた。
 今日は十二月十五日である。ここ数日寒さが厳しさを増し、日によって変動はあるものの、東京電力発表の予想最大電力は十五日には八十六%、十六日には八十九%と、かなり切迫している数字だが、「節電」を喧伝する声はめっきり少なくなった。
 夏場の電力需要のピークは午後二時だが、冬場のピークは午後六時で、ネオンやイルミネーションが点灯している時間と一致する。
 電気の無駄遣いではないかという批判を免れるために、商業施設の担当者は予め「全てLED電球を使用し、電力使用量の削減を図る」「消費電力を昨年比約四十二%削減し、使用電力の約十三%は深夜電力もしくは太陽光を蓄電して賄う」などと「節電」をアピールしているが、原発事故が収束していない今年ぐらいイルミネーションは自粛してもよかったのではないかと思わずにはいられない。
 寒さや暑さを、肉体的限界を越えて我慢すれば、ひとは死ぬ。死なないまでも、健康を著しく害することになる。「適温」は、ひとの生存環境に必要不可欠な条件だが、イルミネーションは――?
「計画停電」の恐怖と共に「節電」が声高に叫ばれていた春から秋にかけて、「原発は絶対必要」と、わたしのツイッターのアカウントにメンションを送ってくる都内在住のOLがいた。「仕事が終わると、ひとり暮らしの部屋に戻る前に、必ずコンビニに寄る。ファッション雑誌を立ち読みしたりスイーツを選んだりするのが、ささやかな楽しみだったのに、コンビニが暗くなって、マジ鬱になりそう」という彼女のツイートも、「カレシとのクリスマスデートにキラキラしたイルミは欠かせないアイテムなの」と言う若い女性の気持ちも理解はできる。孤独を忌避したいという欲求は、飢えや渇きや寝不足を忌避する欲求と同等か、ひとによってはそれ以上に重要な自己保存の欲求なのである。
 わたしが小説や戯曲に繰り返し登場させているのは、孤独感に打ちひしがれて狂気や自殺に追い詰められる人物ではあるのだが――。
 今日現在、全国の原発は五十四基中四十六基が定期検査などで停止している。
 テレビが「でんき予報」をやめ、「節電」を特集しなくなったのは、原発が無くとも電力は足りる、という共通認識を持ったわけではなく、十二月は一年で最も「消費」が活発な時期だからだろう。日本はキリスト教の国ではない。商機を失いたくない流通業者が消費者を集める誘蛾灯としてクリスマスイルミネーションを活用しているに過ぎない。クリスマス商戦真っ只中、東電管内の首都圏はどこもイルミネーションできらびやかだ。
 そして、きらびやかな町のあちこちで「忘年会」が行われている。クリスマスイルミネーション同様に、今年ぐらい「忘年会」という呼称を止めてみたらどうかとも思う。
 こんなことになったのは、誰の責任なのか?
 こんなことになったのは、何の代償なのか?
 その代償として喪失することになったのは、何なのか?
 誰が、何を、失ったのか?
 その補償を、誰が、どのような形で行うのか?
 わたしは問うている。
 誰に?
 自分に。
 問うことを放棄しない。
 わたしは忘れない。
 忘れることを認めない。
 何故ならば、わたしは東京電力福島第一原子力発電所事故の「当事者」だからだ。
 原発から二十キロ圏内が「警戒区域」に指定された四月二十一日に戻る――。
 浪江駅の駅舎には鍵がかけられていた。
 わたしは扉のガラスに額をつけて、時刻表を見た。
 原ノ町・仙台方面は七時十八分、いわき・水戸方面は七時二十九分――、ちょうど会社勤めの父親たちが改札口から出て家路を急ぐ時間だ、本来であれば――。
「本来」は「当然そうあるべきこと」「当たり前」という意味の言葉である。母親が家を守り、父親が働きに出て、子どもが学校に通う、という至極当たり前の暮らしが、何の説明もなく突然奪われ、住民たちは現在も避難生活を余儀なくされている。
 わたしは駐車場の金網をよじのぼって、プラットホームに飛び降りた。
 プラットホームは、ひとが移動という目的のために列車を待つ場所である。列車に乗って移動を終えたひとが降り立つ場所である。存在の目的と意味を失った駅舎、改札口、プラットホーム、線路――、わたしは線路の上を歩いてみた。
 通るひとがいない跨線橋、ただ白い光を放つだけの清涼飲料水の自動販売機――、わたしは、わたしが家族と暮らしている家と、家から三十分歩いたところにある駅を想い出した。
 記憶の中の家と駅には、ひとがいる。
 この町で暮らしていたひとたちが想い出す家や駅にもひとがいるはずだ。
 ならば、この無人の駅の光景は、何だろう?
 どんな光景にも、そこに至るまでの長い過去があり、その過去にはひとの想像力を喚起する物語が含まれ、物語は歴史となってひとを未来へと運ぶ推進力になる。
 だが、ある日、町中の全ての場所からひとが抜き取られたら――、家や駅はその日から廃墟としての時間を刻みはじめ、ひとびとの記憶の中の光景との断絶が生じる。断絶は、時間が経過すればするほど、深く広くなり――、わたしは自分がこの光景から抜き取られないように、ランニングシューズの踵に力を入れて線路の敷石を踏んでいた。

 浪江駅から県道167号線を海へと向かい、東邦銀行浪江支店の四ツ角を左に曲がり、陸前浜街道を富岡街道へ向かって歩いた。
 電信柱はところどころ斜めに倒れ、全壊した古い木造住宅もあることにはあったが、大半の家はブロック塀が倒壊したり、戸板がはずれたり、屋根瓦が落下したりという程度の被害で留まっていて、その家に住んでいたひとびとの無念さは如何ばかりだろう、と歩きながら下唇を噛み締めていた。
 いらっしゃいませ、という赤地に白抜きの昇り旗がはためいているのを見て、風が吹いていることに気づいた。
 釣具屋の前に小さな扇風機が転がり出ている。拾い上げて元の場所に戻したい衝動に駆られたが、無断で店内に入ることは憚られた。扇風機には手を触れず、開け放たれた主のいない店の奥の暗がりを覗き込んだ。
 その瞬間、お前は何者なのか、何故ここに居るのか、という問いに刺し貫かれるのを感じた。
 わたしは福島に縁がある。
 一九五〇年、朝鮮戦争の最中、わたしの母は五歳のときに、単身日本に渡った父親を追って、母親と妹と二人の兄と共に釜山港から密航船に乗った。
 到着したのは福岡県北九州市の門司港だったが、祖父の行方はなかなか掴めず、数年間にわたって日本全国を捜し歩くこととなる。
 茨城で見つけた祖父には、日本人の妻とその間に生まれた一歳の男の子がいた。妻側の両親や親戚立会いのもと鹿島神宮で祝言まで挙げていたという。
 祖母は四人の子どもを置いて出奔し、母は継母の手で育てられる。
 一九五〇年から五三年の四年間、日本の景気は、朝鮮戦争に参戦したアメリカ軍が使用する武器や車両の修理、弾薬の製造で飛躍的に上向き、「朝鮮特需」が沸き起こる。
 一九五二年、電源開発促進法が施行され、電源開発株式会社が誕生する。
 一九五三年、福島県南会津郡只見町で「田子倉ダム」と(新潟県魚沼市との県境にある)「奥只見ダム」の建設が着工される。
 一九五七年、八年間に及ぶダム反対闘争(水没する田子倉集落五十戸二百九十人の住民はダム建設予定地からの立ち退きに断固として応じず、測量妨害などを行って激しく抵抗しつづけた)が終結し補償交渉が妥結する。
 一九五八年、「只見はダムで景気がいい」という噂を聞き、祖父は只見町と金山町に二軒のパチンコ屋を開店する。母は十四歳のときに、只見中学校に転校する。
 一九六〇年、奥只見ダムが完成する。
 一九六一年、田子倉ダムが完成する。
 同年、母は只見中学校を卒業し、福島県立南会津高等学校只見校舎に進学する。
 一九六二年、ダム建設が終わってパチンコ屋の客が激減したために、祖父は家族と共に茨城に戻り、土浦の駅前にパチンコ屋を開店する。
 一九六八年、茨城県土浦市でわたしが誕生する。
 福島第一原子力発電所の一号機が営業運転を開始したのは、わたしが三歳のとき、一九七一年である。
 その後、母は同窓会などがあるたびに、わたしや弟妹たちを只見に連れて行った。
 わたしは小さいころから、ダムに沈んだ村の話を聞かされた。
 水没した集落出身の親友の女性が、車ごと奥只見ダムに突っ込んで死んでしまった、という話も聞かされた。
 わたしは奥只見ダムを訪れるたびに、無傷のまま水底に沈んでいる家々や田畑や桜や柿や梅の木々や先祖代々の墓や川や池などを想像した――。

 浪江小学校の校門にある、真っ白な二人の少女の立像は、通学する生徒がいなくなった校舎に眼差しを向けていた。
 何故、突然、学校から子どもたちの姿が消えたのか、という詰問の眼差しにも感じられた。
 駐輪場にはたくさんの自転車が置きっぱなしになっていた。
 三月十一日午後二時四十六分、六時間目の授業中、あの地震が起きた。
 机の下に潜り、恐怖のあまり泣き出した子もいただろう。
 防災頭巾をかぶって校庭に避難するときに脱いだ小さな上履きが、昇降口に折り重なっていた。
 扉は開いていたが、中には入らなかった。わたしは、この小学校の卒業生ではないし、この小学校に通っている子どもの保護者でもないからだ。
 校庭に面している校舎の窓をひとつずつていねいに覗いて歩いた。
 三年生の教室だった。
 廊下のフックには、子どもの母親がミシンで縫ったのだろう、赤や白や青のキルティングの体操服袋がいくつも吊るしてあった。
 子どもたちのお習字が貼り出してあった。
 子牛、火――。
 東北は、二世帯、三世帯同居の家も多いと聞く。祖父や祖母に教わったのか、留め撥ねがしっかりした思い切った筆さばきの字が多かった。
 非常階段から屋上にあがると、プールが見えた。
 プールは水を湛え、月の光を反射していた。
 耳もとで母の声が蘇った。ダムの水を見下ろしていたときの震える声だった。
「ひとりでここに来たら、悲しくて、飛び込みたくなるわよ、悲しくて、悲しくて」
 悲しくて――、のリフレインで頭の中が緑がかった濃青の水でいっぱいになり、胸の底に重しのような痛みが落ちていった。
 プールから目を逸らして左手を見ると、桜に縁取られた公園があった。
 桜はやはり、満開だった。

 請戸に着いたのは午後十一時、「警戒区域」指定の一時間前だった。
 わたしは、「請戸の叔父の愛犬を捜しにきました」と嘘を吐いて検問を突破したことに対する後ろめたさを引き摺っていた。
 浪江町請戸は津波による被害が大きかった地区だが、放射線量が高いために一ヵ月以上行方不明者の捜索がされなかった。捜索が開始されたのは四月十四日――、十九日までの六日間で発見された七十四体のうち、身元が判明したのは数人だけで、ほとんどの遺体は身元不明のまま荼毘に付された。
 行けそうだったら、請戸港まで行ってみよう、と歩き出した。
 浪江町の北には請戸川、南には高瀬川が流れ、どちらもアユやヤマメやイワナなどが生息する清流だった。二つの川が合流する海から二キロの地点にはサケの孵化場があり、毎年春先に一千数百万匹の稚魚を放流していた(最初の放流は地元の小学生が行う)。
 サケが遡上する秋には「鮭まつり」が開かれ、請戸川の岸辺では鮭釣り体験や鮭のつかみどり大会などが行われ、取れ立てのイクラが安価で販売される。ご飯と醤油を持参して、即席の「イクラ丼」を作って食べるのが楽しみ、という地元のひとも多かったそうだ。
 請戸港の沖合いでは黒潮と親潮がぶつかるため小魚やプランクトンが豊富で、漁獲される魚の種類も豊富で、シラス、イカナゴ、マイワシ、カタクチイワシ、イシガレイ、マコガレイ、ナメタガレイ、ヒラメ、タコ、メバル、スズキ、真ダラ、スケソウダラ、ブリ、サバ、ホッキ貝、カツオ、マグロ……
 真っ暗だった。
 ヘッドライトを持ってくればよかったな、と思ったが、部分的に見えたら怖いかもしれない、真っ暗だから怖くないのだ、と思い直して、歩いた。
 しばらくすると、闇に目が慣れてきた。
 洋式便器が見えた。
 洗面台が見えた。
 箪笥が見えた。
 タイヤが見えた。
 何だかわからない黒い塊……
 見る。
 見ようとする。
 布団が見えた。
 枕が見えた。
 波の音が大きくなっていった。
 真夜中なのに、海鳥の啼き声がする。たぶんカモメ、一羽ではない。何十羽というカモメが騒いでいる。大地震の前兆に、夜中に鳥が騒ぐというのがなかったか、記憶を掻き混ぜてみたが、もしいま三陸沖を震源とする地震が起きたら、これらの瓦礫と共に津波にさらわれて、わたしの行方は不明となり、わたしの身元は不明となる――。
 足を止めたのは、目の前に家の残骸が立ちはだかったからだ。津波に丸ごと押し流され、道の真ん中で横倒しになって潰れた家だった。
 家の中にひとがいるかもしれない――、わたしは手と手を合わせて、深く頭を垂れた。

 福島第一原子力発電所から零キロ地点――。
 友人の週刊誌記者から、そのまま通過すれば敷地内に入れるかもしれないと聞いていたので、正門に向かって直進した。
 真っ白な放射線防護服を着用し、全面マスクで顔を覆った男性が近づいてきた。
 車のパワーウィンドウを開けた。
「中に入らせてください」声を口から出した。
「許可は?」声が耳に入ってきた。
「まだ取ってません」
 警備員は全面マスクの中で数秒間沈黙して、声を出した。
「そんな格好で、こんなところに来たら、危険ですよ。早く離れてください」と、防護服の白い右腕を上げて、陸前浜街道の方を指し示した。
 車のナンバーを控えられ、名前と社名を訊ねられた。友人の名前と社名も言ってパワーウィンドウを閉め、Uターンをした。
 ひとの顔の高さでどれくらいの線量があるのか、知りたかった。ピーピーと警報音が鳴りつづけてうるさいので電源を切っていたガイガーカウンターのスイッチを入れた。
 車の中で二十マイクロシーベルトを超えていた。
 請戸で眼鏡が曇るのでガーゼマスクをはずしてしまい、ジーンズのポケットに入れたはずなのに、無かった。
 警備員に見つかる前に、測りたかった。
 マスクなしで車から降りた。
 ガイガーカウンターの数値は見る見る上昇し、五十六マイクロシーベルトになった。
 二十キロ圏内を歩いて初めて「被曝」という二文字が頭に浮かんだ。恐怖は湧かなかった。逆に、この一ヵ月の間に高まっていた放射能に対する恐怖が一気に減圧された。
 いつか、必ず、いなくなる。
 この風景から抜き取られる瞬間が、必ずいつか訪れる。
 津波にさらわれ行方不明となった二万人ものひとびとは、その瞬間、まさか、いま、自分の命が終わるなどとは信じられなかったはずだ。
 死ねば、何も見えなくなる。
 わたしは、いま、生きている。
 見る。
 見ようとする。
 こんなに明晰に何かを見たことはなかった。
 一瞬一瞬が影を帯びているのが、見える。
 腕時計の針が十一時五十分を指しているのが、見える。
「警戒区域」に指定された後に無断で立ち入ったら、十万円以下の罰金か拘留と報道されていたが、わたしは三万円しか所持していなかった。
 慌てたせいか、道に迷ってしまった。
 ルームランプをつけて「広野・楢葉・富岡・大熊・双葉・浪江町」の都市地図をひろげた。
 気配を感じて目を上げると、ヘッドライトの中に犬がいた。首輪に鑑札をぶらさげた二頭の犬と、目が合った。二頭とも舌をハアハアさせている――、車の音を聞きつけ、飼い主が帰ってきた、と全力で走ってきたのだろう。
 犬だけではない、グレーとホワイトのペルシャ猫が寄り添いながら舗道を歩いているのが見えた。
 痩せた牛の群れが近づいてくる――。
 彼らは、ここがあと数分で封鎖され、飼い主が餌やりに訪れることも儘ならなくなるということを、もちろん知らない。
 福島第二原子力発電所の前で零時をまわってしまった。
 楢葉町の検問所を通過したのは、四月二十二日午前零時二十分だった。
 車から降りて、「立入禁止」の真っ赤なネオン看板と対き合った。
 痛み、があった。
 痛みの理由を見つけたかった。
 痛みの目的を見つけたかった。
 この痛みの中に立とう、と決意をした。


第1回:『G2 vol.9』(講談社、2012年1月)
第2回:『G2 vol.11』(講談社、2012年9月)
第3回:『G2 vol.13』(講談社、2013年5月)