『柳美里不幸全記録』
『柳美里不幸全記録』
新潮社、2007年11月30日
【写真】
篠山紀信
【装幀】
新潮社装幀室
【あとがき】
なにから話せばいいか、困っています。
どこまで話せばいいか、迷っています。
でも、まず、とりあえずは、やっばり、本書のタイトルの説明(釈明)から……
『柳美里不幸全記録』
このタイトルは、わたしが考えたのではありません。表紙のヌード写真ーー、これもわたしのアイデアではありません。すべて、本書の担当編集者である古浦郁さんの頭のなかから立ちあがったものですからーー、と、恨みつらみを書きたいわけではなくて、わたしは古浦郁というひとを全面的に信頼しています、ということをいいたかったんです。
信頼に、理由や保証は要りません。何故なら、信頼はわたしの内に在るものだからです。信頼した相手のいうことが、正しかろうが、間違っていようが、だから信頼する、だから信頼しない、ということにはなりません。もし裏切られたとしても、それは相手の問題であって、信頼を悔いることはありません。
くりかえしますが、わたしは古浦郁というひとを信頼しています。
本書のことを真剣に考えた上での提案だと思ったので、わたしは古浦さんの提案に同意しました。
本書は、2002年1月から2007年7月までの5年半に渡って『新潮45』に連載した「交換日記」を一冊にまとめたものです。
古浦さんは、連載スタート時から、『旅』に異動する2004年3月まで「交換日記」を担当してくださったんですが、その間に二度のフルマラソンとハーフマラソンと山岳耐久レースをいっしょに走ってくださいました。書くことと走ることの、だれよりも側にいることによって、何故走るのか、何故書くのか、何故生きるのか、というわたしが抱えている「何故」に、だれよりも近づいてくれた、と信じています。
現在、文庫編集部に在籍する古浦さんが、本書を担当することになった経緯については、話すと長くなるし、いろいろと角も立つので、この話はこれくらいにしておきます。
ここ数ヵ月、テレビの仕事で、色川武大と阿佐田哲也の本を読み返しているのですが、『麻雀放浪記』(全4巻)を読み終えて、主人公〈坊や哲〉の二つの言葉に深く同意しました。
「私の生き方に少しも益しない。」
「いつも不幸だが、不幸であることを不服に思ったこともない。」
来年で、わたしは40歳になります。この40年を振り返ってみてわたしは、「私に益しない」ことには寛容であり、ときにはすすんで受容することもあったけれど、「私の生き方に益しない」ことに対しては極めて不寛容であったために、あちらこちらで摩擦が生じ、ときには激しく衝突して、「私に益しない」状態に陥るハメになったことも少なくありませんでした。その状態に身を置いていたわたしは、不幸であったかもしれません。けれど、「不幸であることを不服に思ったこと」は一度もありませんでした。だって、わたしは、わたしの生き方しかできないんだからーー。
『柳美里不幸全記録』の表紙の写真を撮ってくださったのは、篠山紀信さんです。
はじめて篠山さんの被写体になったのは24歳のときですから、15年の歳月が経過したわけなんですが、撮影回数は20回近くなると思います。回数だけではなく、父、妹、父が勤めていたパチンコ屋、父が建てた(『フルハウス』のモデルにした)家、妊娠中(臨月)のわたし、出産直後の息子とわたしーー、あらゆる角度から〈柳美里〉を撮ってくださっています。
篠山紀信の構えるカメラの前に立つと、いつも死を強く意識します。
わたしは、いる。
わたしは、いない。
カメラとわたしが瞬きをするたびに、生きることと死ぬこと、幸と不幸が入れ替る気がします。
そうしているうちに、セックスよりもエロティックな瞬間が訪れます。
篠山さんとわたしは、撮影という行為を通して、お互いの生き死にに触れ合っているのだと思います。
「交換日記」は、2001年9月に『新潮45』の編集長に就任した中瀬ゆかりさんの「日記を連載してほしい」という依頼でスタートしました。
中瀬さんは、処女小説『石に泳ぐ魚』の担当編集者で、当時出版部に在籍していた(現在は『新潮』の編集長である)矢野優さんとともに8年間にも及ぶ裁判を戦い抜いたこともあって、生涯変わることのない戦友です。
そして、だれにも口に出すことができない、文字に書き記すことも躊躇われるいくつかのことをーー。
あのとき、わたしが、どんなに不幸だったのかーー中瀬さんは知っています。
あのとき、中瀬さんが、どんなに不幸だったのかーー、わたしは知っています。
不幸のなかで息づいている時間をふたりで共有し、不幸のなかに蹲ったり、立ち疎んだり、不幸に向かって階段のように降りて行ったりもしてーー、中穎さんとわたしの友情は不幸で結ばれているのかもしれませんね。
中島(旧姓高橋)麻美さんは、2004年の4月から2007年7月の最終回まで担当してくださいましたが、ちょうど鬱がひどくなり、眠れない、起きあがれない、ひとと逢えない、書けない、という時期だったので、なかなか原稿を入れられず、また、ときにはかなりキツイ内容のメールを送ったこともあり、たいへんご心労とご迷惑をおかけしました。
最初にお逢いしたときの、鎌倉駅東口のリストランテ〈かの鎌倉〉は去年閉店してしまいました。
あのとき、「柳さんの担当になることを母がとても喜んでくれて」といっていたけれど、そのお母さまは2年前にお亡くなりになられました。
わたしと中島さんは、やっばりお母さまが生前おっしゃっていたように「似ている」のだと思います。他人になかなか馴れることができないところや、生きづらい生き方しかできないところやーー、いつか、お母さまにお逢いして、「どこが似ていますか?」とお訊きしたいと思っていたのですがーー。
来年の命日に、お墓参りをさせていただきたい、と思っています。
この期に及んで、わたしは、古浦さんから与えられた『柳美里不幸全記録』という本書のタイトルの意味を考えつづけています。
不幸の深さがそのまま生きることの深さになればいい、と念じながらーー。
2007年11月8日
柳美里