『国家への道順』はじめに

国の家と書いて、国家――。

家とは、なんだろう?

人間以外の生き物の自然に溶け込んでいる棲家とは大きく異なり、人間の家は自然に対抗して頑丈で長持ちする造りになっている。

屋根があり、四方に壁があり、窓があり、出入り口がある。台所があり、便所があり、風呂があり、寝室がある。寝室が最も親密な空間ということになるだろう。一日の全ての活動を終えて体を横たえ、目を閉じて眠る。完全に無防備な姿勢で、その空間に身を委ねる。目を覚ますまでの何時間かを、安らかさと温かさの中で過ごす。

同じ家で共に寝起きする人を家族と呼ぶ。

一つの家、一つの家族は孤立しているわけではない。家の外には、別の家、別の家族が在る。朝、家から出発して職場や学校に向かう道すがらにも家はあるし、家の中や庭で料理や洗濯や掃除や子どもの世話などをしていても、隣近所の人と顔を合わせ言葉を交わすことはある。

自分の家を中心にした半径七百メートルぐらいの範囲は、買い物や散歩などの日常生活に密接に結び付いている。「おはようこざいます」「こんにちは」などと挨拶を交わす顔見知りも多く、夏祭りや文化祭などのイベントや、公園や公道の草毟りや側溝の清掃活動なども共に行い、災害時の緊急避難場所なども同じくしている。この関係の中で生き、生かされているという緩やかな所属感、一体感のようなものを持つことができる。

(都会では、同じ賃貸マンションに暮らしていても、隣室に誰が住んでいるかわからず、一部屋一部屋が孤立しているのが当たり前ですが、わたしは2015年4月から福島県南相馬市に居住しているので、地元の暮らしに基づいて考えてみています)

同じ隣組、同じ行政区、同じ小高区、同じ南相馬市であれば、街のそこかしこの佇まいやあらゆる機能に生活者として馴染むことができる。一日の生活リズムに支障を来たすことなく往来できる車で片道40分以内の浪江町、富岡町、相馬市、飯舘村は(距離的には近い双葉町、大熊町は、2011年3月に起きた原発事故により「帰還困難区域」に指定されたため立ち入りが制限されている*1)、日常的な生活の舞台とは離れるものの、方言や食文化も共通しているし、馴染みの店もある。

長距離バスや電車で行くことができる福島県の飯坂温泉、宮城県の仙台、女川、岩手県の花巻、山形県の山寺などは、好きな場所や店はあるものの、その地域の生活の細部は窺い知ることしかできない。

日本列島の白地図を前にして、生まれた場所、育った場所、暮らしたことがある場所、家族や親族や友人が暮らしている場所、仕事や観光で行ったことがある場所を塗り潰していこうと思っても、自分がかつて暮らした場所、いま暮らしている場所以外は点と線でしか示せず、決して面にはならない――、つまり、ほとんどが白い余白として残るわけです。

日本に生まれ育ち、日本で暮らし、日本語で読み書きすることを生業にしていても、わたしは日本のほんの一部しか知りません。

だから、「国家」という言葉に違和感を覚えるのです。隅々までよく知っていて、目隠しされても、だいたいどこに何があるか見当がつく場所が「家」というものだから。

日本で暮らす大多数の人は、日々の暮らしの中で「国家」に所属していること、「国民」であることを意識する機会は少ないのではないでしょうか。

「国家」の輪郭が浮かび上がるのは、別の国家に相対した時――、最もはっきりと立ち現れるのは、戦争が勃発した時です。あたかも一つの家であるかのように、主権の所在、領土の範囲、「国家」を構成する「国民」としての役割が示されます。その国の国籍を有する人は「国民」と名指され、一定の条件を満たす人はその国を守る兵士として召集され、「国家」によって支配、統治されているという現実に否が応でも直面するわけです。

戦時において、その国の国籍を有していない者は「国家」から弾かれます。

わたしは、オリンピックが苦手です。

近代オリンピックの父と呼ばれるフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵は、世界中の青年の友好を深め、人種・宗教・政治に左右されないスポーツ大会の実現を目指しましたが、開催国はオリンピックを国際社会に国力を誇示することができる一大イベントとして捉えました。1936年のベルリン大会では、ナチスドイツがオリンピックを国威発揚の舞台として利用し、聖火リレーや記録映画制作などの劇的な演出を編み出しました。第二次世界大戦の激化でオリンピックは二度も中止となります(わたしの祖父は、1940年の東京オリンピック出場を有力視されていました)。終戦からベルリンの壁が崩壊するまでの44年間に亘り、オリピックは東西冷戦を象徴する場となり、開催国によって対立するイデオロギーを持つ国家がボイコットするという事態に陥りました。

現在も、国を挙げてのメダル争いは熾烈で、そこに歴史問題や領土問題に火種を抱える国同士が絡むと、国民感情に火がつき、相手国の選手のバッシングや相手国へのヘイトスピーチへといっきに燃え広がります。

わたしは、オリンピック開催期間中は、国民感情という鑢に心が削られないように、なるべくテレビや新聞やインターネットを見ないようにして静かに過ごしています。

わたしのパスポートは赤(日本)ではなく深緑色(大韓民国)です。パスポートの中の文面は全てハングルで表記してあり、ほとんど判読できません。

海外での仕事を終えて日本に向かう時、いつもメールやブログで何と報告すればいいか悩みます。

「自分の国へ帰る」「帰国」ではないので、「日本に戻ります」と言ってみたり、「帰着しました」と言ってみたりしていますが、どの言葉もしっくりきません。

「福島県南相馬市小高区の家に帰りました」とは言えるのですが、「日本に帰りました」とは言えないのです。

成田空港や羽田空港に到着して、電車に乗り換えると初めて「家路を急ぐ」という言葉が浮かびます。そして、「あの町この町」という童謡が頭の中で流れ出すのです。


  あの町この町 日が暮れる

  日が暮れる

  今きたこの道 帰りゃんせ

  帰りゃんせ

  おうちがだんだん 遠くなる

  遠くなる

  今きたこの道 帰りゃんせ

  帰りゃんせ


この歌を口ずさむ時、わたしは第二次世界大戦末期に、インパール、サイパン、ペリリュー、ミンダナオ、レイテ、ルソンなどの南方の地で命を落とした日本人兵士(約130万人)のことを考えます。その6割が厳密な意味での戦死ではなく、餓死・病死だったといいます。

国家に繋留されたまま馴染みの風土とは全く異なるジャングルの道なき道を踏み迷い、力尽きて餓死した兵士の魂は、家路を辿ることができたのだろうか――。

彼らが帰りたくて帰れなかった場所は、日本という国家ではなく、それぞれの家族が還りを待ち侘びていた彼らの家だったはずです。

自分の家への道順を尋ねる人はいません。

家路とは、どの道よりもよく知った、歩き慣れた道だから。

国家への道順は?




*1 2019年現在、双葉町、大熊町でも一部地域で避難指示の解除、復興再生拠点の整備・準備が進んでいる。