『国家への道順』おわりに

ここ、相馬地方では「国歌斉唱」と言うと、「君が代」ではなく、民謡「相馬流れ山」を歌います。

相馬中村藩主である相馬氏は、戊辰戦争終結(1868年)までの約740年間に亘ってこの地を治めました。このような長期間国替えがなかった領主は、相馬氏の他には島津氏(鹿児島県)と相良氏(熊本県)だけです。

7月の最終土曜、日曜、月曜の3日間は、千年以上の歴史を誇る国の重要無形民族文化財「相馬野馬追」が開催されます。野馬追は、街中を500騎もの騎馬武者が行進する御行列、雲雀ヶ原祭場地で行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、裸馬を追って素手で捕らえ神前に奉納する野馬懸からなる神事です。この3日間は、旧相馬藩領のあちこちで、法螺貝の音と共に国家「相馬流れ山」が響き渡ります。

(「君が代」が官報に他の歌と共に「学校儀式用唱歌」として告示されたの1893年(明治26年)、「君が代」が事実上の国歌として扱われるようになったのは、昭和に入って国家主義が高揚されるようになってからです)

歴史学者の磯田道史さんは『武士の家計簿』の中で、廃藩置県後の武士の意識について、こう書いています。

「忠誠のベクトルは天皇よりも、依然として旧藩主に強く向けられていたと言わざるを得ない。士族の忠誠心は速やかに旧藩主から明治天皇に移すべきものとされたが、実際問題として、それはスム ーズな移行ではなかった。

端的な例が正月年頭の意識である。前近代の日本では、正月が主従関係を再認識する契機になっていた。正月には年頭行事があり、公家は天皇に、大名は将軍に、藩士は大名に、つまり、正月に拝謁する相手が自分の主君という構造になっていた。

実は明治初年の猪山家をみると、旧藩主への「拝謁」が欠かせない要素になっている。まず、東京の成之は正月二日に根岸の前田邸に参上し、御居間で旧藩主に拝謁した。一方、金沢に居て拝謁できない直之は旧藩主揮毫の軸を元日から自宅の床の間に掛けて、やはり「拝謁」の真似事をするのであった。正月に藩主から盃を賜るのが忠誠儀礼であったから、「元日には床に中納言様(旧藩主)御筆をかけ、御鏡・御酒をそなえ、御酒下たを終日頂戴いたし、年賀を祝し」(明7・1・6)た。正月に盃を傾けるたびに「いつもの春の心持にて太平楽にてありがたく 、これも旧君のおかげ」(明6・1・9)と意識していた。世の太平と自分の安泰は旧君のおかげであり、天皇のおかげとは認識していなかったのである」

神奈川や東京で暮らしていた時には考え及ばなかったのですが、ここ南相馬で暮らし、相馬地方の「国歌」を聴く度に、藩政時代の「国」の範囲が適正だったのではないかと思うのです。

それぞれ異なる風土、異なる言葉、異なる食生活の中で育ち、それぞれの藩主に仕えていた領民一人一人に、「国家」への帰属意識を植え付け、「国民」という集合体としてのアイデンティティを芽生えさせるために、近代天皇制と国家神道を打ち立てました。そして「国家」の外に常に敵を求め、「国民」の危機感を煽るだけ煽って、数多くの兵士を死地へと駆り立て、日本各地を焦土にされるという取り返しのつかない敗北を招いたのです。

フランスの哲学者エティエンヌ・バリバールは、「全てのアイデンティティは視線である」と定義しています。敵意を帯びた視線を向けられていると思うことによって警戒感を強めて国家の囲い(塀)を築き上げ、囲い(塀)の内外の他者を敵視あるいは蔑視することによって、ナショナルアイデンティティを強固なものにしていきます。

国民国家(nation-state)は元々フランス、イギリスなどの西欧近代が生み出した概念で、国民 nation とは、単一民族ないし同質的集団という前提に基づいていて、他人種や他民族や他宗教に対する差別や排斥の危険性を内包しています。

明治期に欧米文化を輸入したことによって始まった中央集権的な国家主義に終止符を打つことは出来ないのか。偏狭な愛国主義を、おおらかな郷土愛に戻していくことは出来ないのか。

それが実現できれば、他者である在日外国人や他宗教を信奉する人の他性を認めつつ、同じ郷土を愛する隣人として、その存在を身近なものとして感ずることが出来るのではないかーー。

ここ、南相馬には日本人だけが暮らしているわけではありません。

わたしの知り合いだけでも、息子が通っている英語教室のパキスタン人の男性教師、地元の日本人男性と結婚して子どもを育てているキムチ店の韓国人女性、焼肉屋を営む韓国人女性、パチンコ屋を営んでいた韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれた女性、地元の整体師と結婚してコンビニエンスストアでアルバイトをしているフィリピン人女性、フィットネスクラブを経営しているアメリカ人男性、ハンバーガーショップを経営しているアメリカ人男性ーー、また、ホームセンターやスーパーマーケットに買い物に行けば、外国から出稼ぎに来ている多くの除染作業員を見掛けます。

南相馬市原町区の駅通りには、中国浙江省出身の馮さんと王さん夫婦が営んでいる福来臨という中華料理店があります。

お二人には、地元の中学校と高校に通う二人の娘さんがいます。

原発事故が起きて、いったん家族で浙江省に避難したのですが、2ヶ月半後に荷物を取りに戻った際に、南相馬市役所の職員に「馮さん、食べるところがないから店を開いてよ」と言われて、そのまま馮さん独りで店を営業し、1年2ヶ月後に家族を呼び寄せたのです。

わたしたち家族は、月のうち何度か福来臨で食事をします。地元住民の客も多いけれど、夜は除染作業員で賑わっています。

この間は、午後1時半、昼休みに入る直前に、わたしと夫と高校3年生になる息子と3人で食べに行きました。

息子が冷やし中華と半チャーハン、夫が日替わり定食の豆腐とエビの炒め物、わたしはレバニラ炒め定食を注文しました。

店内には客の姿はなく、馮さんの下の娘さんが中学校のジャージ姿で昼ごはんを食べていました。

レジカウンターの上にあるテレビでは、ワイドショーが放送されていました。

馮さんは、厨房から出てきて、腕組みをしてテレビ画面を見上げました。

コメンテーターたちは「北朝鮮」とアメリカの戦争の可能性について論じ始めました。和気藹々と、時折 小馬鹿にしたような笑い声を響かせながら、「先制攻撃」「38度線」「核攻撃」「火の海」というような言葉を使っていました。

アメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国の間で緊張が高まり、どちらかの国による先制攻撃が現実のものとなれば、 1953年7月27日に締結された朝鮮戦争における「休戦協定」が破棄され、第二次朝鮮戦争が勃発することとなるでしょう。アメリカ軍基地の最前線となる日本も戦争に巻き込まれます。

「休戦協定」には、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規定されています。

「最終的な平和解決」を達成するためには、 平和条約を締結して 朝鮮半島を分断する軍事境界線を無くし、2つの制度の連合国として交流と交友を重ねる中で、社会・経済・法律・軍事・外交などの未来の道筋を、分断と同じくらいの長い時間をかけて模索していくしかないのではないかーー。

わたしたちは黙ってレバニラ炒めを食べていました。

馮さんがこちらを振り向くかと思いましたが、そのまま微動だにせず、CMに切り替わると背を向けたまま厨房に戻りました。

おそらく、こちらを見ないことで、わたしたち家族に配慮をしたのでしょう。

今日8月29日午前6時、「北朝鮮」からの弾道ミサイルが日本上空を通過したために、Jアラートが大音量で鳴り響きました。

就寝中だったので、巨大地震あるいは原発の異変を知らせるサイレンなのか、と思いました。

「北朝鮮からミサイルが発射された模様です」

という言葉を聞き取り、津波によって家族や親族や友人の命を失い、原発事故によって長期間の避難生活を余儀なくされた東北沿岸部の住民のみなさんに、肉体的、精神的な衝撃を与えたのではないかと心が痛みました。

ミサイルの落下地点によっては、アメリカによる報復攻撃があるのではないかと思った時ーー、平壌の大同江沿の遊歩道を本を読みながら歩いていた大学生や、テコンドーの練習をしていた男の子や、お花摘みをしていた女の子や、小さな娘を肩車していた父親や、腕を組んで歩いていた若いカップルの姿が浮かびました。

わたしはこの国に居て、あの国には居ませんが、わたしの内には、あの国の人々が存在します。一人一人の顔が見えます。

「北朝鮮」という一つの集合体として敵視することは出来ないのです。

わたしたちは時間を与えられています。

わたしたちの時間には限りがあります。

過去の痛苦を孕んだ現在の重みを軽くできるのは、現在の努力だけです。

対話の道筋の中でしか、共通の言葉は見つけられません。

わたしは、対話を、求めます。