『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』
講談社、2011年12月19日
http://bookclub.kodansha.co.jp/title?code=1000009759


【ブックデザイン】
鈴木成一デザイン室


【表紙写真】
村上朝晴


【本文写真】
柳美里・村上朝晴


【目次】

第1章 初訪朝――わたしが見た、幻の祖国 2008年10月

第2章 こころが祖国に根を生やしている――朝鮮は霧の国だった

第3章 太陽節と国際マラソン大会――8月の果て 2010年4月

第4章 家族と故郷――息子を連れての訪朝 2010年8月

「あとがき」


【初出】

第1章 『週刊現代』2008年11月29日号-12月20日号

第2章 『月刊イオ』2009年2月号

第3章 『G2』第5号(2010年9月)

第4章 『G2』第6号(2010年12月)


【あとがき】

あの日、わたしは日本にいませんでした。

ニ十ニ歳のときに書いた戯曲『向日葵の柩』を劇団「新宿梁山泊」がソウルと全州で上演するということで、プロモーションのために訪韓していたのでした。

ソウル公演の日程は三月八日~十三日、世宗文化会館の隣の喫茶店とホテルを往復して、朝から夜までインタヴューを受ける日々がつづきました。

ソウルの町を歩く日がほしい、と要望して、十一日にオフをもらえることになりました。

わたしは、三月頭に在日韓国人の奥さんと二人の娘さんと共にソウルに移住したばかりの柳京一さん(洪錫中著『ファン・ジニ』の訳者)と大学路でランチをごいっしょして、三・一独立運動宣言の地であるタプコル公園に行きました。

日本の植民地下だった一九一九年三月一日、天道教・キリスト教・仏教の宗教指導者三十三人がタプコル公園に集い、独立宣言文を読み上げ、万歳三唱をしました。

各地で民衆による「朝鮮独立万歳」を叫ぶデモが広がり、日本は徹底的にこれを弾圧し、七千五百人もの死者が出たと言われています。

タプコル公園の正門前では韓国国旗が売られていました。

風にはためく小旗が美しく――、わたしはピョンヤンの町のあちこちで美しくはためいていた朝鮮民主主義人民共和国の国旗を思い出しました。

よく晴れた、風の強い日で、三月半ばになるというのに、とても寒かった。

横断歩道を渡って喫茶店に入りました。コーヒーを頼んで携帯電話を開き、ツイッターのタイムラインに繋ぎました。

14:46 マグニチュード8.8

あの日から、わたしはこの作品しか書いていません。

小説を書く気がしなかった。

小説を読む気もしなかった。

小説に限らず、漫画、映画、演劇、テレビドラマ、全てのフィクションを受け付けませんでした。

三月十一日十四時四十六分に凝視されながら、わたしはこの作品を書きつづけました。

この作品を書きあげたことで、ようやく三月十一日十四時四十六分を凝視できる気がします。

読み直して、別れの場面が多いことに気づきました。

毎回、もう二度と逢えないかもしれない、と万感の思いで別れ、再会を喜び、また別れる――。

三月十一日以降、わたしは家から学校に出掛ける息子を「行ってらっしゃい」と見送ったり、留守番をする息子に「行ってきます」と仕事に出掛けるたびに、もしかしたらもう二度と逢えないかもしれない、という不安が頭を過ります。

「いま」という時間の掛け替えのなさに堪え切れず、消えてしまいたくなることもありますが、持続しているように見える生に割り込み、一秒たりとも同じではない「いま」を煌かせるのは、やはり死であり、別れだと思うのです。

だから、「さようなら」という言葉は、どの国の言葉も美しい。

朝鮮語の「さようなら」は、立ち去る側は「안녕히 게십시요.」で、見送る側は「안녕히 가십시요.」で、ひと文字異なります。

いつも、どちらなんだろうと迷い、迷っているうちに別れの時が過ぎてしまいます。

そもそもわたしは、見送ることも立ち去ることも苦手です。

「さようなら」も「バイバイ」も言ったことがない。

いつも「じゃあ、また……」などと口籠もりながら逃げるように立ち去る。

今回も、「じゃあ、また……」でペンを置きたいと思います。

最後になりましたが、三年もの間、この作品の完成を待っていてくださった講談社の石井克尚さん、どうもありがとうございました。

二〇一一年十一月十六日 柳美里