『ピョンヤンの夏休み』

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』 韓国版、メールインタビュー

2013年02月04日 10時40分59秒

http://blog.goo.ne.jp/yu_miri/e/be8690ae867c68457737d1d02ec777e0

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』 韓国版が出版され、2013年1月5日にソウルで出版記念会が開かれ、翌6日に韓国メディアのインタビューに応じました。

その様子は、2月7月発売の『創』(2013年3月号)に書いたので、読んでみてください。

聯合ニュース(日本の共同通信に当たる韓国の通信社)だけは、渡韓前にメールインタビューの依頼があり、大韓航空機の中で、iPodを機内モードにして質問の答えを書き、金浦空港でメール送信したのです。

その記事は、公式サイト「La Valse de Miri」のトップから飛べるようになっているのですが、韓国語では読むことができない、日本語で読みたい、とユーザーから要望があったので、一問一答を、朝鮮民主主義人民共和国で撮影した写真と共にアップします。

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』韓国版、メールインタビュー(1)

http://blog.goo.ne.jp/yu_miri/e/34a5139868ec398ae719af30514a5bdb

【質問1】

「北朝鮮」から帰って来て、「こころが祖国に根を生やしている」とおっしゃいました。韓国のソウルや密陽では感じなかったのに、何故「北朝鮮」を祖国として感じたのかについて、もう少し詳しく説明してほしいです。そして、初訪問と2回、3回の訪問のうち、「祖国」に対する見方の変化はありましたか?

一つには、韓国には20代前半から10回以上訪れているのですが、全て仕事だったというのがあると思います。演劇公演や、小説の新刊の宣伝や、ドキュメンタリー撮影で、常に気を張っていたし、ゆっくり町を歩く時間的な余裕もありませんでした。

今回も、『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』の出版記念会と、韓国メディアのインタビューを受ける為に来韓したのであって、2泊3日ですから、観光をする時間はありません。

朝鮮民主主義人民共和国に行ったのは、3回とも「観光」ですし、滞在期間も2週間と長かった。大同江沿いの遊歩道を歩いたり、牡丹峰で昆虫採集をしたり、妙香山や白頭山を登ったり、世界遺産に登録されている高句麗古墳後期の墓「江西大墓」の石室を見たり、ホテルの部屋で読書をしたり、時間を気にせず存分に「観光」できたのです。

もう一つは、祖父や祖母が祖国から離れ、日本に渡ってきた時、朝鮮半島は一つだったということです。

そして、韓国は、訪れる度に風景が変わっていますが、「北朝鮮」は、昔ながらの風景が多く、祖父母や父母が暮らしていた当時の朝鮮を感じることができるのです。

風景に郷愁を感じる。

その風景の中を歩いているうちに、3代に渡って異国暮らしをしている60年という歳月の隔たりが埋められる気がするのです。

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』韓国版、メールインタビュー(2)

http://blog.goo.ne.jp/yu_miri/e/6e7c316c041f420a96ec9cb628c68e14

【質問2】

2004年、柳さんは韓国メディアのインタビューで、「ものごごろついた頃から現実の世界に居場所がなかった為、戯曲や小説を書いて、虚構の中に居場所を見出すしかないのです」とおっしゃいました。「北朝鮮」訪問後、「居場所」についての考え方は変わりましたか?

通常、人は、男で「ある」、3人兄弟の長男で「ある」、ソウル大学法学部卒で「ある」などと、「ある」ことをアイデンティティーにしますが、私という人物に影響を与えたのは、「ある」ことよりも「ない」ことだったのです。作家という仕事を選んだ動機は、「ない」ということに苦しめられたからです。

在日韓国人として生まれたことによって日本人でも「ない」韓国人でも「ない」、両親が別れ家族が離散したことによって家族が「ない」、父も母も貧乏だったので金が「ない」、小学校での激しいイジメによって友達が「ない」、中学に入って自殺未遂を繰り返したことによって、死者でも「ない」生者でも「ない」、精神のバランスを崩し高校を1年で退学処分になったことによって学歴が「ない」――、現実の中に寄る辺がなかったので、戯曲や小説を書いて、その中に居場所を見出だすしかなかったのです。

そして、その虚構世界が、私のように現実世界から押し出され、断崖から落下しそうになりながらも必死にしがみついて、助けを求めている人の(「居場所がない」人の)避難所のような場所になれば――、と思いながら、18歳から26年間書き続けてきました。

その思いには変わりはない(おそらく、死ぬまで変わらない)のですが、訪朝後、「架け橋」という言葉を強く意識するようになりました。

二つの場所を隔てる、段差、狭間、溝、崖、海、川に橋を架ける――、朝鮮半島の北と南、日本国と大韓民国、日本国と朝鮮民主主義人民共和国の間に橋を架けたい――、その橋の上に私の「居場所」はあるのかもしれない、と思うようになりました。橋の上は、見晴らしはいいし、どちらの場所にも行き来できますが、風や波の影響をもろに受ける危険な場所でもあります。戦になれば、真っ先に橋を落とすというのが、古今東西、戦の定石でもあります。けれど「橋の上に立つ」ということは、私の宿命であり、使命であるので、安心や安全な場所を求めて、橋を降りようとは思いません。

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』韓国版、メールインタビュー(3)

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【質問3】

徐京植先生の『ディアスポラ紀行―追放された者のまなざし―』(岩波新書)には、「どこで、どう死のうか。いつも、そのことが気にかかる。」と書いてあります。

大多数の人は自分が「いつ死ぬか」ということについて思いを巡らせますが、徐京植先生は、「どこで死ぬか」という死に場所についての考察を書かれていました。この場所に対する強い意識は、柳さんが繰り返しおっしゃっている「生まれた時からデラシネ(根無し草)だった」という言葉と重なるのではないかと思います。「デラシネ」の意味について聞かせていただけますか?

2番目の質問の答えと重複するのですが、そもそも私は日本では外国人です。しかも、朝鮮半島出身者に対して差別意識を持つ日本人も少なくないので、常に共同体から疎外され、「余所者(よそもの)」だという意識を持っていました。韓国に行っても、日本で生まれ育ち、韓国語を話すことができない私は、「パンチョッパリ(半日本人)」です。

仕事の合間に韓国語を少しずつ学んではいるのですが、濃音や激音をきちんと発音できないし、外国語を学ぶようにしか学習できないことに、歯痒さや口惜しさや悲しさを感じます。自分を「魂の吃音者」だと思うことが度々あります。

父母が一緒だった子供時代に4回、母と暮らした中学校時代に3回、15歳で家を飛び出してから7回引っ越しをし、場所に対する思い入れがない(転々とし過ぎて、思い入れを持てなかった)ということも影響していると思います。常に旅の途上にあり、漂流しているような意識――、旅先で身元不明者として行き倒れるようなイメージを自分の人生に対して持っていますが、私はそれを不服に思うことはありません。異国で客死したら本望なのです。

『ピョンヤンの夏休み わたしが見た「北朝鮮」』韓国版、メールインタビュー(4)

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【質問4】

文芸評論家の仁軒永先生の『ピョンヤンの夏休み』推薦文に、「柳さんが書いた『ピョンヤンの夏休み』を通して『北朝鮮』の実体が“統一と民族の実体”として近づいてくる」と書かれています。

韓国では、時代を経るにつれ統一と民族に対する意識がだんだん薄れ、今回、大統領選挙に勝利したパク・クネのセヌリ党は、「北朝鮮」に対する強硬路線を明確にしています。柳さんは南北統一と朝鮮民族についてどのようにお考えですか? 「北朝鮮」を訪問してから、そのお考えに何か変化はありますか?

北の人と話すと、みな、南北統一を語ります。「もう一踏ん張りだ」と熱く語る人もいれば、「分断が60年も続くなんて誰も思わなかった、自分の代では無理かもしれないが、子の代にはきっと――」としんみりした口調で語る人もいますが、統一を語らない人はいないのです。

2011年10月に慶州で行われた国際ペンクラブ大会(『創』2012年11月号を参照)で、作家の李浩哲さんとお話ししました(『イオ』2012年11月号を参照)。李浩哲さんは、朝鮮戦争の最中、19歳の時に人民軍の捕虜として南に連行され、その後、北の家族から一人離れて、南で作家になった方です。ご両親は亡くなられたそうですが、妹さんは生きてらして、2000年に再会を果たしたものの、保守政権に変わり、逢うことができなくなってしまいました。

80歳を越える李浩哲さんや、高齢になった離散家族のことを考えると、次の大統領選挙まで待つことはできないのではないでしょうか? 私は、片時も南北で1千万人以上いると言われている離散家族のことが頭から離れません。

李浩哲さんはおっしゃいました。

「もうみんなが思い描いていたような統一は訪れないかもしれない。でも、なんとか、南の人と北の人が同じテーブルにつく機会をつくり、顔を合わせて一緒に食事をする――、その機会が増えた時、それを統一したと考えるべきではないかね」

私は、未だに、南北統一を諦めていませんが、まずは、「南の人と北の人が同じテーブルで食事をする機会を増やすこと」が重要だと思います。

断絶は、誤解と敵意しか生み出しません。

顔を合わせて対話を積み重ね、相互理解を目指すべきではないでしょうか?

私は今後も、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、行って、歩いて、見て、聴いて、感じたことを書きます。