とりとめのない趣味の小話3

とりとめのない趣味の小話2

<<追記20160708

みちしる沼津で三年目になる。

結局二年間いろんな本が読めている。

東芝テックの子会社にいては考えられない事である。

私は理系なので文系みたいな仕事を忘れるという事が理解出来ない。

なぜならプログラムも間違いなく数学だからである。

なおさら大学受験の知識を忘れるなんてあんまり考えられない。

忘れても何となく本を読み直せば記憶の底からよみがえる。

感覚が残っている。まさに本能みたいな感じである。

なので私自身これからも前進している。

感覚を養うため色々挑戦している。

昔の事が役に立つ時もあると思っている。

忘れるというのはそれだけ感覚が残っていないという事であり

数学的感覚というのは過去現在未来へとつながるものである。

だからあんまり無駄な人生だとは思っていない。

何か役に立つだろうと思って無駄な事している。

それが私にとって楽しいのである。

無駄に読書出来無いよりマシである。

<<追記20160708end

<<追記2016/07/09

午前中は英語とドイツ語とフランス語を打ち込み俳句をアップした。

昼間1時間雨の中歩きつつ

あしたの計画を思いつき

帰宅後

お茶をいれて

短歌と俳句を作った。

私に必要な事は何事も自然にする事かとも思ったりする。

自然にとけこんで愛し笑う。

それこそが子供のためになる。

それが私が読書してて今の所の私の結論である。

ボチボチやりたい。

<<追記2016/07/09end

<<追記20160710

広小路に駐車して

柿田川まで行き帰り歩いた。

カワセミを見に行ったが一回飛んでいる所しか見えなかった。

帰宅後

選挙に行った。

そして俳句と短歌作った。

ちょっとデジカメとパソコンやってスイカ食べた。

これから我が部屋でゆっくりする予定である。

ボチボチやりたい。

<<追記20160710end

<<追記20160711

我が家の我が部屋にLEDのシーリングをつけた。

取り外しと取り付けも無事に済んだ。

意外と簡単だった。

朝方スマートフォンで取り外しを調べてた。

電気関係なので慎重にしたいなあと思ってた割に

とんとん拍子にいった。

当分色々楽しめそうである。

説明書とにらめっこである。

適当に

ボチボチやりたい。

<<追記20160711end

<<追記20160712

私の何を比べる気なのか理解不能である。

ノーベル賞でもとる気なのか

情報処理試験を合格する気なのか

はたまた別の資格でもとる気なのか

こんなに多岐に専門が分かれていて

どうやって私と比べる気なのか理解不能である。

それで全く女の気持ちなんて聞いていないし

聞いても日本語になっていない。

不細工が不細工な事言っている。

これで一体何が解決するのか理解不能である。

こんな状況で私と何を比べる状況なのか理解不能である。

私としては各専門分野で個々で頑張ってくださいぐらいしかない。

それで頑張りようがないなら私を大事にしてくださいぐらいしかない。

なのに毎日私にストレスを与えている。

何の立場が逆転するのか理不尽である。

そんなのヒドイぐらいしかない。

私としては選択と集中しかない。

それが私の判断である。

全部やろうなんて思わない。

それでもいろんな情報収集している。私なりに視野を広げている。

何かのヒントになるように、もしかのために、やる事無いと思いつつ

ボチボチやりたい。

<<追記20160712end

<<追記20160713

結果がすべてだ。それも悲しい。

結果があるから原因があるわけでは無いからである。

原因があるから結果があるのである。

原因→結果である。

数学の論理学的に原因が十分条件であり結果が必要条件である。

逆が成り立てばイコールになる。

それは科学で言えば平衡状態である。

そして理論→実験でもある。

結果そのものより理論や原因に問題がある。

そしてその原因や理論が現実とかみ合わないのは

原因や理論の失敗である。

それが科学的知見である。

<<追記20160713end

<<追記20160714

一体女はいつまで話が通じないのか理解出来ない。

宇宙人が宇宙語を話しているようにしか感じない。

あんまり私の話を聞く風でも無い。

あまりに自分勝手である。

チアガールの方がよっぽどマシである。

お荷物女なんてストレスなだけである。

一体いつになったら身軽になれるのかと思う。

さっぱり通じない宇宙人の女である。

どうしてそんな女を処理せなああかんのか理解不能である。

結局男はどこまでも冷静に処理せなああかんように思う。

それはHの時もである。

しっかり相手の事を考えてHの時も処理せなあ

何時も処理できない。

仕事も家庭も趣味も冷静に処理せなあ、うまくいかない。

そこまで処理してなんぼの世界のようである。

それで女はどうする気なのか見ものである。

どうやって存在意義を見出すつもりなのか観察してやろうと思う。

私は散々観察された。

今度は私の番である。

ボチボチやりたい。

<<追記20160714end

<<追記20160716

今日は昼間一時間歩いて昼食後

水神さんと墓参りした。

帰宅後俳句と短歌作った。

今日もたくさん話をした。

テレビが HDMIでパソコンのディスプレイになる話と

usb3.0の話とAirPrintの話が印象に残った。

何か夢のような話だから想像するだけで楽しくなるみたいな事を私は言った。

ボチボチやりたい。

<<追記20160716end

<<追記20160717

今日も昼間1時間歩いて昼食後

帰宅して短歌と俳句を作った。

話は東芝テックの子会社の仕事話もした。

結構私にしか出来なかった仕事が結果的に多かった。

言い出すときりが無い。

仕事の話は良くメモしてそれなりに対応した。

仕事の態度は私も苦労した。

疲れてインターネットしてたら上司から注意された。

タバコは吸わないけど

タバコの時間が決められてあんまり自分も飲み物買うのが買いづらくなった。

現に飲み物飲むのも時間が決められた。

そんなこんなで肩身せまい感じがした。

仕事の要件もシステム要件にかなったものだった。

ただ一回要件がかなってなかったので報告連絡相談した。

振り返って知識の吸収と言うより実践だったと思う。

ひたすら私の能力を披露する感じにしか思えなかった。

それで私にしか出来なかった結果になってもあんまり満足しなかった。

そんな話が6年2ヶ月間そんな感じであった。

それに比べれば今の方が知識を吸収出来ている。

具体的にはLISPやPythonやベイズ統計やAIがあげられる。

私にとって知識と実践の両方が仕事なんじゃあないかと思う。

なのにマンパワーで仕事した気がする。

それだったら勉強する必要があるのかと思う。

誰かの指導のもと仕事量をこなせばマンパワーになるからである。

もっとマンパワーと勉強について戦略的に考える必要がある気がしてならない。

それが現場ではすべてゴチャゴチャになっている。

これでは誰が仕事出来るのか理解出来ない。

自分は出来る事しかしませんになってて

お互い自分のテリトリーでしか仕事をしない。

そんなんでシステムを理解出来るのか私には理解出来ない。

そんなこんなで私が私しか出来ない6年2ヶ月仕事した事になった。

原因はシステムを組める人が誰一人いないからである。

なのにシステムが存在するのは組織があるからである。

従って組織ありきなのである。

会社にとって当たり前だけど私にとって当たり前ではないという事である。

<<追記20160717end

<<追記20160718

今日は水神さんから一服峠を通って位牌岳に行って

池之平経由で水神さんへ帰ってきた。

新たな道を通ってきた。

今日梅雨明けのようである。

家に帰ってテレビ見て知った。

今日も良く寝れそうである。

短歌と俳句も作った。

考えられるだけ考えようと思う。

つまらない世の中だけどそれにつきあって

私に出来る事は考える事である。

無意味さえ無意味だと考える。

しらみつぶしに考える。

人生そんなものみたいである。

<<追記20160718end

<<追記20160719

ガロアやマクスウェルにしろ

秀才が追いついてきた。

アインシュタインもそうである。

ニュートンも力学だけでなく

放射線にプリズムに分光すると決まった波長に分光するのを知っていた。

今では原子ごとに吸収線と放射線に決まった波長領域がある事がわかっている。

そうやって

追いつくという事が

繰り返してきた。

多少間違っていても何らかのエッセンスぐらいにはなる。

従って

私は考える事をやめない。

そして他人が考えるのを止めない。

何らかのキッカケになるよう

ボチボチやりたい。

議論はのぞむ所である。

求めるのは真理である。

<<追記20160719end

<<追記20160722

私自身何をそんなにモメル必要があるのか理解出来ない。

話は全然通じないし

会話にもなっていない。

何でそんなに想定外を考慮せなああかんのか理解不能である。

私としては処理出来ない話まで処理しない。

それが私の大阪時代であり

都会とはそういうものと思っている。

なのにみんなそろって処理せなああかんとは私には無理である。

いくら何でも私の頭では無理である。

無理な話をいっぱい持ってきても処理出来ない。

なのに全部教えろとか

わからないこところを教えろとか

私のやる事では無い。

そうやって先生に教えられても私はそうでは無い。

それは先生の責任であって私の責任では無い。

そんな疲れる話どうでもいい。

どうでも話はどうでもいい。

なのにこんな話に巻き込まれるのはどう考えても先生が悪い。

ここまで来てこんな話を続ける以上どう考えても教育の失敗である。

ようくこの状況を改めたほうがいい。

なんかどうでもいい人が権限を持ちすぎである。

まともな判断出来ない人が判断しているからこうなるのである。

本当に民主主義は最悪な政治手段だけど

組織としてはこれがベターなんだろうと思う。

多分国民一人一人が決断するからじゃあないかと思う。

それ以外は最悪かもしれない。

決断するからにはそれなりに本人が組織として機能しようとしている。

組織を考える人にとってはまた違った視点があるかもしれないが

組織論は地方の私には遠い話である。

私もボチボチやりたい。

<<追記20160722end

<<追記20160723

今日は水神さんから一服峠から袴腰岳から馬場平から愛鷹山から

水神さんに戻った。

風呂入って夕食して

短歌と俳句を作る予定でいる。

今日もよく寝れそうである。

ボチボチやりたい。

<<追記20160723end

<<追記20160724

今日は昼間一時間歩いた。

家に帰って俳句と短歌作った。

昨日はロッキード事件をNHKでやっていた。

今日もやると思う。

ずいぶん昔の話でもない気がした。

私が子供の頃は漠然と

総理大臣経験者になれば判決が出ないのかと思ったように思う。

何かあらためて冷静にテレビを見ているような気もする。

人それぞれ違った思いがあるように思う。

そうやって昔を振り返るのも面白いなあと思う。

そんなこんなで今日も楽しみにしている。

ボチボチやりたい。

<<追記20160724end

<<追記20160725

昨日はNHKのロッキード事件見て

パソコンのメールを消化してから寝た。

何だか田中角栄が泥んこだったような気がする。

時代背景もあるかもしれないけど

彼一人の問題でも無いけど

もう少し美しさが足りない気がした。

日本列島改造論も何かブラックのように思えるロッキード事件だった。

だけど日本列島改造論をうわまわる政治もなかなか難しいなあとも思う。

そんなこんなで私の夢は何だろうとも思う。

ボチボチやりたい。

<<追記20160725end

<<追記20160726

最近の読書は技術系に飽きて

物語系になっている。

外国語のヒアリングも少しやり始めた。

中国語と韓国語とアラビア語は全然ダメである。

また作戦を立てないといけない。

あんまり余裕も無いので、ある程度時間が必要で

やりたい事から順番になっている。

気分が変わってくるのが私の期待値であり

そのためにやりたい事も変わっていきたい。

常に新しい気分を求めて読書している。

こうやって自分を確かめて方向転換し

次の展開を求めて

とりあえずボチボチである。

<<追記20160726end

<<追記20160727

私の事を考えたら誰が賢いのかわからなくなる。

世間も大学生もそうである。

試験が出来ても試験範囲でしかない。

結局賢いとは自分で切り開くしかない。

例えば何で如実に東大生と私は違うのかとか考えるに

自分の得意分野でしか戦っていないということだと思う。

私みたいにプラスもマイナスも丸呑みする奴は皆無である。

結局損得勘定で世間も大学生も動いている。

そういう急がば回れで動いていない。

結局私が一番近道だったみたいな所もあって

一体東大生は何をしているのか文句タラタラである。

一番成績のいい奴が生徒を指導出来るわけではないらしいが

私の典型のように思う。

もっと東大生やら京大生は救世主になりうるようなリーダーになった方がいい。

大勢を導ける人になった方がいい。

なのに反対に私がそれに近くなっている。

それは世間や社会がおかしいように私は思う。

なのでそれ自体が失敗なのだと思っている。

ちゃんとした人がちゃんとした事をやっていない。

天才とは

ちゃんとした事をしてちゃんとする人である。

私の脇田隆之的転回はもういい。

学校も社会もちゃんとしなければいつまでも失敗続きである。

私の典型は学校も社会もちゃんとしていない。

そんなんでいいんですかと聞きたい。

なので私だけでもちゃんとしようと民主主義として参加している。

他人がちゃんとしないのがイライラする。

そんなんでいいんですか?

私もボチボチやりたい。

<<追記20160727end

<<追記20160728

情報技術は私が講義する方が手っ取り早いような気もしたりして

マンパワーと頭脳が仕事としてかみ合っていない。

結局私にしわ寄せが来る。

それを6年2ヶ月繰り返した。

どうしたら労働力として認める気なのか私には判然としない。

しっかり言われた事をやってきただけであるが

それでも私にしわ寄せがやってくる。

他人がしっかりやらないのに何で私がしっかりやるのか理解に苦しむ。

それなのにしっかり障害者扱いである。

こんなの本当の不平等である。

誰もまともに仕事出来ないのなら

他人が仕事出来るまで私が講義するしかない。

それをまわりくどく私に仕事させるから

話はややこしくなる。

そうやって繰り返してもこりない。

どうやって決着させる気なのか見物気分である。

今日も幾つか読書した。

哲学と科学史と会計関係と古典文学の話をチョコチョコっと進めた。

iPod nanoで英語とフランス語とドイツ語を少しヒアリングした。

アラビア語と韓国語と中国語は夕食後我が部屋で

チョコチョコっと進めたい。

人間何で勉強するのかというと未来の可能性のためである。

可能性のある人間になりたいのである。

ボチボチやりたい。

<<追記20160728end

<<追記20160729

tsite.jpでT-IDのパスワードがよくわからない。

tsite.jpでYahoo-IDで登録したらT-IDのパスワードはいらないようなコメントが出た。

Yahoo-IDのポイントはゲットできたけど

TSUTAYA ディスカスのポイントはゲットできなかった。

システム上そんなものかなと思って今のところあきらめた。

T-IDの登録でクレジットカードが必要なのが引っかかる。

これって何の意味があるのか説明がない。

そんなこんなで人生こんなものらしいと思った。

<<追記20160729end

<<追記20160730

今日は昼間一時間歩いた。

水神さんと墓参りした。

帰宅後父と買い物して

夕飯はお好み焼き作った。

夕飯前に中国語と韓国語対策のため本に頼った。

アラビア語は発音の本を

今週の金曜日にゲットした。

まあ色々やって軌道修正していこうと思っている。

多少慣れる必要もあって

気分を変えるのも乙である。

一応希望を持って

チャレンジしているのが私の生き甲斐である。

それが仕事でなくても私の場合ありえる。

何か仕事なんて関係無い人生が大半だったからかもしれない。

そんな仕事無くても発想が浮かぶ。それが私の人生だった。

仕事が無くて困るのはただ単に何をやっていいのかわからないだけである。

それに私は何の表現も思いつかない。

勉強してたら何か思いつくそれが私だからである。

だからあんまり仕事してて技能が身につくというのは

狭い専門性しかない。全体像は見えない。

それで何が楽しいのか私には理解出来ない。

勉強は全体像を明らかにする。

結局仕事は給料稼ぐしかない。

ただの一部品の歯車である。

そんなんで満足してていいのかわからない。

とりあえず

私の出来る努力はしようと思っている。

ボチボチやりたい。

<<追記20160730end

<<追記20160731

今日は十里木登山口から越前岳登った。

その後

忠ちゃん牧場でジンギスカン食べた。

家に帰って

短歌と俳句を作りデジカメをPCにとりこんで

ビデオのテレビを消化し

いくつか雑務をこなし

今である。

みんなで協力すれば休日は快適に過ごせる気がしている。

それを一人で済ませると

大変な気がする。

そんなこんなで自分がこの休日を満喫できているのは

協力者がいるからのように思う。

そんな実感が私にある。

それも私なりのアクセントな気がする。

ボチボチやりたい。

<<追記20160731end

<<追記20160801

私の学生時代にあんまり自信が無いのも

テストのせいのように思う。

頑張った割にどうもおかしい気が今している。

それとテンカンの薬で緊張すると筋肉が萎縮したのもある。

そんなこんなで妥当な視点が無かった。

それでも今があるのは読書が大きい。

読書さえしてれば前進出来る自分がいる。

ここが大学にいなくても可能な分岐点のように思う。

損得無しに読書するのは

私がクソ真面目なんだろうと思う。

そのクソ真面目が損得やテストには関係無いのが

私なんだろうと思う。だけどあんまり私にとってそれがどういう意味があるのか想像できない。

私って何みたいな所で私を語っている状態である。

それなのに読書したいのはクソ真面目なんだろうと思う。

ボチボチやりたい。

<<追記20160801end

<<追記20160802

数学の本も最近はkindleで読めそうな本がある。

複素関数論やら群論やらもそうだし

物理数学でも結構良さそうなのがある。

それで私が何をやりたいのかあんまり方針が無くて

とりあえずストックされている。

他には機械学習やら最適化数学やらもあるのだが

あんまり深入りすると迷路にさまよって

人生を無駄にしそうな所もある。

私自身これぐらいなら許せる線でギリギリである。

法律や会計や哲学や古典などを中心に今の所読んでいるが

夢は数学や物理をやって

楽しむ事のように思ったりする。

そんな風になるように私なりに活動する事が

なんとなく私の使命である。

今までよくやっている。

考えられないぐらいである。

精神的な事はもうやりつくした。

何か次の展開も考えたい。

読書量を考えるとしばらく時間がかかりそうである。

ボチボチやりたい。

<<追記20160802end

<<追記20160803

まあナンダカンダやってきて

権力除いて私ってエライなあと思う。

私としては何かそれだけで十分である。

再度掲示板の書き込みを減らす努力をしようと思っている。

第二次計画である。

利点としては時間が出来るという事であり

欠点としては頭が整理つかないという事である。

それでもアウトプットし続けた結果

あんまり他に言いたいことも無い。

そんなことするぐらいならインプットしたいなあと思い始めている。

今年四月に一度試みて

そのうちに思いつくことがあった。

今回もそうなるかわからないけど

試みるだけ試みてみようと思う。

書き込みは

短歌と俳句とウォーキングや登山と外国語ぐらいにしようと思っている。

キーワードはインプットである。

色々案は浮かぶが

ボチボチやりたい。

<<追記20160803end

<<追記20160811

ゴールデンボンバーの「女々しくて」という歌が何か気になっている。

多分紅白などで数年前から知っているけど

度重なる放映で

何か気になり始めた。

自分を助けるのは自分しかないと思えば

女々しくならない。

現に私は障害者扱いだが

誰も私の周りの電磁波には話を聞いてもらえない。

人為的にもかかわらず障害者のような症状なので

しょうがなく薬をのんでいる。

誰もこの現状を私の病気のせいにしている。

こんなんだから誰も救ってもらえない。

私は私なりにやるしかない。

そう割り切れば

出来るだけ全部自分でやろうとする。

それでどこか女々しくなるだろうかと思う。

変な事はたくさんある。

私の体中が私がした事でもない事もある。

結局すべて病気のせいである。

それに私は抵抗して生きている。

女々しくなってたら生きていけない。

結局女々しいとは中途半端に誰かに頼る事何だろうと思う。

誰かに頼るだけの信念が無いから女々しいんだと思う。

私の活躍を許せないのも

中途半端に信念が足らないからである。

私とは関係無い関係になれないからである。

関係しないのか関係したいのか中途半端である。

ここまでくると迷惑としか思えない。

いくらでも私を無視しようと思えば出来るし

いくらでも信用しようとも出来るはずである。

なのにそれが出来ないのは私を利用しようとしているだけである。

それも自分のために中途半端に定説を作ろうとしている。

そんなん誰もそんな話聞きたくない。

結局

ご都合主義ってだけである。

それが女々しくてという事だろうと私は思っている。

<<追記20160811end

<<追記20160812

休みで読書して少し疲れている。

多分横になっている時間が多いのがいけない気がする。

今頃数学書読んで何になるんだろうと思うが

数学書を読む集中力が出てきたように思う。

今まで続かない感じだったように思うが

何となく自分に冷静さが戻ってきているように思う。

それが持続力につながっている気がする。

寝たきりになるまで物理やった手前

無理に無理を重ねてきた。

それが苦も無くなるのか私にはわからないが

やるだけの事はやろうと思っている。

それでも目標が定まらない。

どうするべきかボチボチやりたい。

<<追記20160812end

<<追伸20160812

私の教養はあんまり加味されず他人がどうなろうと模索しても

私の教養は無視出来ない。

私の論理性は大学院の修士修了をもってつちかわれた。

大学の時は地学のテストで

今を振り返ると論理性をつちかうためだったんだと認識した。

その論理性とこの掲示板で表現してきた表現力は私の教養の一部である。

英語もドイツ語もフランス語も論理性や表現力や国語力に影響しているように思う。

今週も英語とドイツ語とフランス語のヒアリングをしている。

人生何が功を奏するかわからない。

そういう不確定要素が私にある事だけは事実である。

数学もそれなりに系統だった認識にはある。

こういう時にこういう数学があるみたいなものはある。

だからいざとなれば判断材料になる。

物理も系統だった認識とそれなりの哲学的認識にある。

特に自然現象はたくさんの力学による哲学的考察がある。

その上で私のプログラム人生がある。

テスト項目作るのだって国語力がいる。

英語を使うプログラムだって遭遇する。

物理を使って位置を割り出す計算もある。

数学もわからなくて計算も出来ない。

以下に教養が大事かわからなくて仕事は出来ない。

それを私をダシにして利用したってうまくいかない。

それぐらい教養は大事である。

プログラムマネージャーやってもプログラムの事を知らねばならない。

それでもプログラムをやりたければ

プログラムマネージャーになればいいと思う。

私はTEC時代の上司の意見が聞きたい。

私はそんな教養が無くてプログラムの仕事は出来ないと思うけど

私が困るぐらいだから上司も困っているかもしれないと思った。

結局そういう余分な教養で差がつくのが

仕事のように思う。

なのに得になる事しか考えない奴が仕事なんて不可能である。

おんぶにだっこぐらいが関の山である。

それを許すほど甘くないというのが私の実感である。

そして大学時代から社会人まで

結果はすべて保留である。

私が42歳にして社会的犯罪である。

すべて他人のせいである。

そんな人と比べては社会が成立しない。

結果のついている人と比べなければ社会がおかしい。

それを平気で比べようとしているのは

正気の沙汰ではない。

すべての結果が無い障害者を何と思っているのか

そんな障害者と比べて社会が成立するのかおかしい。

もっとまともな待遇をしてから

私を比べて欲しい。

私と比べる重責に耐えられない。

社会の責任を果たす大人がそういう判断が出来ない事を

私は恐ろしい事だと思っている。

もっと責任を果たす人が比較すべきなのであって

私のような弱者がする事では無い。

人間の許されない限界を超えている。

42歳の私は健康第一である。

若い人のようにはいかない。

なのにいまだに私の体をいじめている。

こんな犯罪をしてまで社会は成立するのか理解不能である。

どこにそんな正義があるのか理解出来ない。

そして私自身も正義は存在しない。

それが日本社会なのである。

それでいいのか私には判断つかない。

もっと頑張る人が頑張らなければ日本沈没である。

私は健康では無い。

健康な人が日本を引っ張るべきなのである。

それがまっとうな社会である。

愛らしい健康的なはじけるような精神こそが私の理想である。

なのに私はそれに遠い。

なので私は比較されうる人間では無い。

幻聴はそれに遠い。

まだ私の方がそれに近い。

でも病んでいる。

それがそのまま社会問題なのである。

<<追伸20160812end

<<追記20160813

私の小中学校時代は

個人が求める真偽も無く

他人をほっとくしか無かった。

私だけでも真偽を求める。

それが私の世間に負けない力である。

むろん大学院の二年間は

理論だったので観測値や実験値と合わせて理論が妥当か妥当でないかの研究をした。

それはそれで理論らしかったと思う。

いろんな考え方を持つべきでないとは言わないが

それが妥当か妥当でないかの判断が必要である。

それが不可能になると

大学の研究も出来なくなる。

それが小中学校では

判断が不可能だったのであんまり妥当か妥当でないか考える余地が無い。

そんな手前私だけでもまともでいようと思った。

今も同じ状態にいる。

私なりに妥当か妥当でないか責任を持ちたい。

それが私の使命だと思っている。

でないとみんなわけわからなくなる。

私はそれを最悪な状態だと思っている。

そういう意味で

小中学校は何を学んでいるのかわからない状態である。

何のために授業やっているのか皆目見当がつかない。

それが私の小中学校時代だった。

そんなのに負けたくない。それが私の本音である。

<<追記20160813end

<<追記20160814

アイデンティティとは自分を自分として確認する事そして

普遍性は項目別のそれぞれの共通性と

私が思っている。

アイデンティティと普遍性が両立するには

アイデンティティには

毎回同じものと変化するものがなければ

普遍性が成り立たない気がする。

アイデンティティが変化して自分を認識する事もあれば

同じものだから自分を認識するとすれば

そこには変化にも同じものにも普遍性が存在出来る気がする。

私的には普遍性の無いアイデンティティなんてあるのか信じられない。

それこそ人間を神格化している気がする。

両方同じものも変化するものもなければ

私としてはアイデンティティと普遍性は両立しない気がした。

それでこそ人間は生物であり動物であり哺乳類であり霊長類である気がする。

<<追記20160814end

<<追伸20160814

みんな同じという人に

みんな人間違うで話をまとめたいのは私にもわかる。

だけどそんな無責任でいいのかと私は思う。

その場しのぎにしかならない。

私自身そんなに性格が違わなくても生きていける。

特殊な人に特殊の話をするのも何となくわかるけど

そんな自然界な気が私にしない。

もっとサバサバと生きれるようにした方がいいと思う。

なのにみんなややこしくなっている。

人間はもっと簡単に生きれるそう言う人間になって欲しい。

それをややこしくするのは私は嫌いである。

特殊な人はどこまでも特殊である。

それを物理の世界でも排除しようと世界を守っているような気がする。

福岡の一般公開の質問で私は感じた。

それがこの世の現実のように思う。

それをありのままに私は表現している。

私なりにしょうがないから私は私で表現するだけである。

あんまりややこしい話をするのは世界が混乱するだけである。

それが日本にとっていい気がしない。

それが私の今のところの心配である。

<<追伸20160814end

<<追記20160815

人生数学の問題考えたら

すっととけたらすっといく。

電車の中で院試の数学の問題やっている大学生がいた。

結構考えてた。

人間の人生を感じた。

今日も数学の本読もうかと思った。

数学を追っていると発想が必要なのがわかる。

それを自分自身で見つけるのはなかなか難しい。

結局慣れるまで追うというのが私の物理学的スタイルである。

だけど今日の電車の人は色々メモって考えてた。

だから人生色々である。何が正解なんか無い。

だから正義も同じ気がする。

言っとくけど私には正義が無い。

なのに他人の正義のせいで迷惑している。

他人が色々方針変えても

私はどうでもいい。

私は私で判断できればいい。

なのに他人の正義が何で私に関係あるのか理解できない。

全く関係が無い。

それなのに私を許せないのは正義のせいである。

正義なんてやめてしまえばいい。

数学の問題のようにいろんな方針があってもすっといけばすっといくのである。

全然ややこしくない。

それが私の人生論である。

<<追記20160815end

<<追記20160816

最近また書き込みを続けてしまった。

何かことあるごとに文句言いたくなる心境になる。

それなりに勉強して仕事して生活するでいい。

それがややこしい話ではない。

あとは努力するだけである。

どう努力するかも本人次第である。

材料はそろっている。

私としてはやるだけやって表現した。

それで何で私が関係あんのか理解不能である。

ただの迷惑でしかない。

どうにでも判断すればいい。

私は正直ラクになりたい。

今まで苦しいだけである。

何で正義のために私が非難されなければいけないのか理解不能である。

そんな正義いらない。

そして私は正義を持ち合わせていない。

そんなために何で私が苦労せなああかんのか理解不能である。

そんなに他人の正義が必要なのか理解に苦しむ。

そういうのをふざけた正義というんだと思う。

ただ他人は努力すればいいだけである。

正義じゃ無い努力である。

それで何でややこしい話になるのか理解不能である。

そんな日本でいいのか理解に苦しむ。

総理大臣がまとめるような状況で無い。

ほとんどまともな話になっていない。

真実は他にある話になっている。

そんなんで日本はまとまるのか心配でならない。

中国語も漢字をたくさん覚えないと日記が書けないらしい。

だから頭のいい人しか日記書けないらしい。

漢詩もそれなりに漢字を知っていないといけない。

私が漢詩に近づき難いのも私だけでは無いらしい。

日本の日記や随筆の多さを考えたら

私も少しは日本人なのかなと思った。

そんなこんなで共通認識を持つというのが

日本の問題のように思う。

それなのに私含めて迷惑な話である。

もういい加減にこの辺でやめたい。

大体の事は実現する。

それなのに共通認識が持てないのは

悲しい話である。他人が実現しないのは私の問題では無い。

なぜなら私にも限界がある。

ほとんど本人の問題である。

そこまでやったのに共通認識が不可能になっている。

これは大学レベルで無いと不可能なのかと思ったりしてしまう。

そんなんでいいのか私は無抵抗である。

<<追記20160816end

<<追記20160817

大阪の島本町より高槻市の方が教育がいいとか先生は言ってたが

島本町の方が

他人をどうのこうの言うより自分の任務を遂行する事の大事を知っていた。

だから

私自身あんまり他人の話をするのは好きで無い。

自分の役割を果たす方のが私にとって大事なのである。

それが高槻の奴には全くそれが無かった。

決定的に民主主義じゃあ無い。

本当にめちゃくちゃである。

これのどこが教育に成功しているのか私には理解出来ない。

私が私の事やるのに誰も気づいていない。

これこそが教育の失敗である。

最低ランクの教育である。

他人が勝手にして私がやる事も気づいていない。

もう個人主義の最たるものである。

他人もやる事やって私がやる事も知る。

そうじゃあないとつり合いとれない。

ひたすら私が私の事やっているだけである。

そんなの一人で生きているのと同じである。

それを教育の失敗と言う。

<<追記20160817end

<<追伸20160817

全く色々参る。比較しないと自分がわからないのは

自分がする事を知らないだけである。

そんなの根性無いだけでしょう。何で比較せなあ自分がわからないのか理解に苦しむ。

他人と自分を比較せなあ生きていけないなんて

そんな甘っちょろい話無い。

そんな教育間違っている。

どうしてそんな状態で私が駆り出されて比較され

苦しむ必要があるのか想像して欲しい。

神様も許さない気が私にする。どうしてこれが共通認識にならないのか狂気の沙汰である。

<<追伸20160817end

<<追記20160818

どうして努力しないのかの方が気になる。

努力に何で他人が必要なのかわからない。

自分で工夫して自分で努力して自分のものを作ればいい。

それで何で他人が許せないのか理解に苦しむ。

そんなの他人のひとりよがりである。

何でそこまでして他人が出てくるのか私には理解不能である。

そんな努力が出来なくて何で他人を批判するのか私にはわからない。

そして一言勉強にやりすぎはない。

徹底的にやればいい。

勉強もせず他人の批判することはやりすぎである。

何のために学校に行っているのか聞きたいぐらいである。

勉強のために学校に行っているのである。

そして勉強にやりすぎはない。

他人の批判はやりすぎである。

そんな暇があったら勉強すべきである。

学校卒業しても勉強すべきである。

そうやって努力して勉強もせず他人を批判するなんて人間のする事ではない。

<<追記20160818end

<<追記20160819

今日は混乱して仕事が難しかった。

それでも仕事になってたらいいなあと思う。

一応最善は尽くした。

私は社会と戦っても勝てない。

いずれは負ける。

それでも最善を求めるのは一般社会人だからだろうと思う。

そんな事を求められる状況が無いのにほとんど無償の愛である。

結果は全然評価されていない。

それこそが無償の愛である。

それでも最善を選んでいる。

今日も混乱した割に何とかなるだろうと思っている。

そんな人生を選べない人に何言ってもしょうがない。

それが私の本音である。

なのに私の事に話をはさむのは迷惑としか思えない。

ほとんど私の問題では無いように思う。

本人の問題である。

それなりに最善が選べない。それが問題である。

それを私がどうしたらいいのか理解不能である。

ほとんど学校の先生が悪い。

自分の後始末ぐらい学校の先生として模範を示すべきである。

何で私が模範を示す必要があるのか立場が逆転している。

<<追記20160819end

とりとめのない趣味の小話4