投稿日: 2024/12/24
文 藤城孝輔
二人の男が青空の下で並んで座っている。彼らは、親友である青年が今まさに家畜への性行為によって童貞を捨てようとしている様子を見守っている。彼らにとってそれは「男になる」儀式であり、見守る二人の表情には厳粛さが表れている。豚小屋の中から雌豚の絶叫が聞こえると二人は手を打って喜び、青年が「男になった」ことを祝福する――沖縄出身のお笑い芸人、ゴリ(照屋年之)の初監督長編映画となったコメディ映画『南の島のフリムン』(2009年)はこのように幕を開ける。冒頭で色濃く示されているとおり、本作品に登場する男性たちにとっては「男になる」ことが重要な課題である。このことと沖縄という背景がどのように結びつくのか、考えてみたい。
冒頭の獣姦の場面は、沖縄を代表する映画監督、高嶺剛の『ウンタマギルー』(1989年)における獣姦、すなわち西原親方の豚の化身に対する溺愛が形を変えて再現されたものであるといえよう。豚は人間の女性の代替物であり、豚としか性的関係を持つことができない二本の映画の男たちは、男性性を否定された存在である(それをさらに強調するかのように、『ウンタマギルー』の西原親方は去勢された人物であると説明される)。沖縄映画における男性性の否定には、沖縄が現在に至るまで受けてきた政治的な暴力が大きく影響していることを見逃してはならない。新城郁夫は「基地・軍隊という国家暴力組織の基盤に性的支配というジェンダー暴力が作動している事実」(19)を指摘したうえで、日本とアメリカという国家による暴力的な支配を隠蔽し、現在の沖縄の社会が抱える政治的問題の原因をひたすら男性的な主体の不甲斐なさに帰する言説に批判を加えている。基地問題をはじめ沖縄をめぐる多くの社会問題は、決して沖縄の人間が本来的に不甲斐ないために起こっているわけではない。むしろ、性を収奪し、否定している支配という暴力のために他ならない。
『南の島のフリムン』は、沖縄の男性が奪われた男性性の回復を試みる物語として見ることができる。主人公の栄昇は、コザのナイトクラブで「沖縄ナンバーワンのSEXシンボル」と称される白人のポールダンサー、オレンジに一目惚れする。このナイトクラブは客のほとんどが迷彩柄の服を着たアメリカ人男性によって占められており、クラブが商品として提供する女性ダンサーたちも白人女性が多い。地元の人間はバーテンダーや入場係などの客に従事する役割として存在しているのみである。この場面が示唆するのは、支配者であるアメリカ人男性のために性が提供され、彼らによって独占的に消費されている状況である。地元の人間は性から完全に疎外されてしまっている。だからこそ栄昇はオレンジの関心を引くために、自分の言葉で思いを伝える代わりに歌劇『トゥーランドット』(1926年)のアリア「誰も寝てはならぬ」の録音に合わせてリップシンクで歌うという手段を選ぶ。いわば、自分のものでない声、自分のものでない言葉を借りることでしか彼は女性に気持ちを伝えられないのである。
オレンジに熱狂的に憧れる一方、兄妹のように育った幼なじみの女性りみが彼に寄せる恋心に気づかない栄昇は、アメリカ人男性がもつ美的感覚を内面化させた人物でもある。占領者の価値観を自分のものとして取り入れてしまうネイティヴの人間の意識を風刺するかのように、劇中では沖縄の人間がアメリカ人のようになろうとする姿が滑稽に描かれる。例えば、りみは栄昇に魅力的な女性として見てもらうために、オレンジの姿を観察して彼女の服装を真似し、髪を赤く染める。けれども、りみがそうやって変身した姿を目にして、栄昇や家族の人間は彼女の姿を「キジムナー」と呼んで嘲笑する。さらに、栄昇の親友マサルとヒトシが栄昇の恋敵である軍人のマックスを偵察するために米軍基地に侵入する場面では、二人は白人男性になりすましてゲートを通過する。顔を白粉で塗り、訝しがるゲートの警備員に対して終始無言で押し通す彼らの姿は道化を強く連想させる。そして基地内に潜入した二人がマックスの姿を録画するために持ち込んだビデオカメラで撮影するのは、アメリカ人女性の豊満な肉体である。アメリカの支配下において、アメリカ人の容姿に憧れ、同化しようとする意識がこれらの場面では笑いの対象となっている。
本作のクライマックスとなるのは、オレンジを賭けて栄昇とマックスが闘牛場で格闘技の試合をするシーンである。この試合にむけて栄昇を指導する金城の「人間、相手を見くびったら負ける」という言葉や、彼女が伝授した局部を握りつぶす必殺技を使って栄昇がマックスを倒すことからも、抑圧されてきた被支配者が支配者に抵抗し、奪われた男性性を勝ちとるという寓意がこの試合に込められていることは明らかである。ところがこの作品では、沖縄の人間とアメリカ人の関係に焦点をあてるものの、沖縄の社会状況にアメリカ以上に大きく関与している国家であるはずの日本の存在が大きな空白となっている。劇中で沖縄と本土の関係に言及されることがないばかりか、登場人物の中に本土の人間が一切存在しない。沖縄という「自己」に対してアメリカがすべての「他者」を代表しているようにも見える。このことは、出演者を「基本的に全員、沖縄出身者にする」(『南の島のフリムン』劇場用プログラム 16)という監督の方針に従って沖縄の人間はほぼ厳密に沖縄出身の俳優が演じているにもかかわらず、アメリカ軍人のマックスの役にはナイジェリア人のお笑いタレントが起用されているという無頓着さからもうかがえる。米軍による戦後の占領、そして日本復帰後もなお沖縄に米軍が駐留している現在の状況を考えるうえで、日本本土の存在は決して無視することができない。映画が沖縄を描くとき、本土との関係が隠蔽されることで見えなくなるものは大きいのではないか。
日本と沖縄の関係に対する踏み込みの甘さ、ないしはそれを描くことへの躊躇は、戦後沖縄文学を代表する作品である大城立裕の「カクテル・パーティー」(1967年)とも通底する要素である。「カクテル・パーティー」は、占領者であるアメリカ人と被占領者である琉球人との不条理な力関係を告発した小説である。作中には本土の人間として小川氏という人物が登場し、沖縄戦における日本軍の残虐行為に関して「そういう兵隊と縁のつながっているかもしれない小川氏の前にその言葉を出せな」(294)いと、戦時中の日本人と沖縄の人間との関係を話題にもちだすことを主人公が自粛する姿勢が描かれる。さらに、米軍の軍属に対する強姦は死刑を含む厳罰によって固く禁じられている一方、沖縄の人間は強姦されても泣き寝入りを勧められるという不条理な沖縄の状況に、日本という国家がどのような形で加担しているかに関しては、作品は口を閉ざしている。追立祐嗣は小川氏の人物描写を「極めて曖昧な描かれ方がなされており、そもそもこの作品に登場させる必然性があったのか」(22)と疑問を呈し、作者は「自らの仮面を脱ぎ捨て、日本及び日本人に対する率直な怒りを表明するべき」(同)であると述べている。
『南の島のフリムン』の主人公は暴力的な支配に抵抗し、「男になる」。それは沖縄の男性を奮起させる痛快なおとぎ話ともいえるだろう。だがそこで見落とされているものに目をむけない限り、沖縄が直面している状況を変えることはできないはずだ。ゴリはこののち、商業的には収益の見込めない短編映画というジャンルにおいて沖縄を舞台とする数々の作品を監督し、長編第二作『洗骨』(2017年)では沖縄独自の死生観にもとづく家族ドラマを描いた。現在は、伊江島を舞台とする第三作『かなさんどー』(2025年1月公開予定)の劇場公開が控えている。ポリティカルな寓意をこめた笑いはなりをひそめ、沖縄の祖先崇拝や家族といった主題にシフトしているように見える。しかし、そんな一見非政治的な家族ドラマにおいてさえも、ゴリが繰り返し描く〈妻に先立たれた弱い父親〉という存在に目をむけることで、デビュー作からつらなる男性性の主題が見えてくることだろう。
引用文献
追立祐嗣「アメリカ黒人文学と現代沖縄文学に見られる類似性:二重意識、土着性のシンボル、死者との語らいを中心に」『沖縄国際大学 外国語研究』9巻2号、2006年、1-26頁。
大城立裕「カクテル・パーティー」1967年、沖縄文学全集編集委員会編『沖縄文学全集』第7巻、国書刊行会、1990年、257-303頁。
新城郁夫「はじめに 攪乱する島――ジェンダー的視点」新城郁夫編『攪乱する島――ジェンダー的視点』社会評論社、2008年、9-24頁。
『南の島のフリムン』劇場用プログラム、角川映画、2009年。
映像出典:映画『南の島のフリムン』予告【2009.8.14 公開】吉本興業チャンネル