2004年ロシア訪問記

取材/加藤麗子

協力/實方康介 社団法人全日本ピアノ指導者協会

モダン・ピアノ・デュオとの出会い

「モダン・ピアノ・デュオ」とは、ロシアのアレクサンドル・ローゼンブラットとオレグ・シンキンによる熱いパフォーマンス・デュオのことである。 ローゼンブラット氏が、伝統的なクラシック音楽にジャズ・ラテン・ロック・フォークソングなどを融合して作曲し、オレグ氏とのセッションにより 一層魅力的に仕上げる。これを「クロスオーバー」なジャンルという。 彼らの魔力にとりつかれた人々を「ローゼンブラット中毒」と評する人もいるが、正に私も一瞬にしてそうなってしまった一人である。 「ローゼンブラット自作自演集」注1を聴き始めた瞬間、何もかもが一変したのだ。 更に、彼らの幻のライヴ映像を見た時は、ただもうため息をつくばかり。ローゼンブラット氏の作曲が素晴らしいのは勿論のこと、クラシックを基盤に超絶なテクニックを兼ね備える彼らのデュオは、 サービス精神旺盛な前代未聞の熱いパフォーマンスを披露していた。私は彼らの作品にアプローチしたいという欲求にかられた。

その後の純粋な気持ちと熱意によって、幸運にもローゼンブラット氏本人から知遇を得ることができた。 更に彼は、私のライブ(ミュージック・パフォーマンス・デュオによる見る音楽)の写真を一見しただけで何と「是非、日本で一緒にコンサートをやろう!!」と持ちかけてくれた。。。 私の熱い思いとローゼンブラット氏の全てを超越した理屈抜きの本能的決断が、一瞬にして解け合った不思議な出来事で、 これが事実だと信じるまでには大変多くの時間を要したのを覚えている。 そして遂に2005年3月11日の初来日公演が決定し、そのリハーサルの為(実際には彼らと共に現地でゲリラ的にコンサートも行ってきたが)、2004年12月14日に私はデュオのパートナー注2 と共に ロシアへ飛び立つこととなった。「ダブル・ピアノ・デュオ」の誕生である。

ダブル・ピアノ・デュオの「手」

注1 残念ながら2007年現在廃盤。「鉄腕アトムファンタジー」などユニークな作品が収録されている。

注2 事情により渡露直前に私のパートナーが変更されました。

想像を絶する事件ともいうべきドラマ

12月14日

アエロフロート航空の直行便で10時間かけてモスクワに到着。噂と違い快適な飛行だった。空港は暗い。 現在のロシアは、ソ連時代の名残りで入国に関する手続きがスムーズにいかず、外国人は歓迎されていないように感じたが、かなり日本のパスポートに守られていたのは事実である。モスクワの空港にはローゼンブラット氏が出迎えてくださった。普段からファックスのやり取りをフレンドリーにさせて頂いていたのも手伝ってか、とても自然な初対面だった。ホテルに向かうタクシー内での最初の話題は 「ここはロシアですからすべてがスケジュール通りにいきません。日本人はきちんとしていると思いますが、ロシアではハプニング続きになるでしょう。心得ていてください。」というものだった。そして早速それまでに立てられていたスケジュール変更の話が続いた。 確かに到着早々、彼と同行していたロシア人通訳と既にとんでもないトラブルが生じていた。支払いに関しては外人料金を要求されたのだ。次の日から通訳無しということでお互い片言の英語によるコミュニケーションだったが、かえって感性だけのやり取りが4人の友情を深めていったのだと、今は思う。 我々は、クレムリンの赤い城壁と聖ワシリー聖堂の眺めが良いロシアホテルに宿泊。

12月15日(リハーサル初日)

オレグ氏の運転する車でいざ彼の勤める劇場(メトロならスポルチーヴナヤ駅下車)へ移動。そしてリハーサル会場へ案内された。覚悟はしていたがやはりその予感は的中した。ピアノが2台必要なのだが、そこにあったのは壊れたグランドピアノと壊れた電子ピアノだった。ペダルは外れかけていた。当然合わせると音程が2度ほど狂っている。気持ち悪いが贅沢は言っていられない。価値観が変わった瞬間だった。しかも2台8手の新曲を初めて合わせたその迫力は、圧巻!この日彼らは、我々の演奏に大変満足して下さり、恐れ多かった。訳も分らないまま一日が終わった。

12月16日

この日もオレグ氏の劇場で同様に個人練習とリハーサルを行い、パフォーマンスの作戦を練った。

12月17日

「今日はグランドピアノが2台あるぞ。」と自慢気におっしゃっていたが、実際はフォルテ以上の音量を

出すと‘きしむ’ので加減して弾いた。勿論この日もピアノ専用の椅子がなく姿勢が猫背になりながら。。。

ローゼンブラット氏の合図がオーバーアクションで四人が合わない為、合図の出し方について対立し、互いの外国語(英語)での意思の疎通がうまくいかず仕舞いには喧嘩になり、オレグ氏の仲介によってやっと仲直り、というハプニングもあった。この日のリハーサルは2時間のはずが、なぜか20分だったのが未だ謎だ。移動に利用した地下鉄は地下深くにあるので、改札口からホームまで暗くて長~いエスカレータで降りるが、エスカレーターの速度が速いので乗る瞬間が非常に怖い。しかしプラットホームの天井は豪華な装飾が施されている駅も多く、楽しい鑑賞ツアーとなる。ついでに、この世のものとは思えないほどの美女も多いので、ついついうっとり。。。

12月18日

ジューイッシュ・アカデミーという施設が所有するホールにて、新曲「ジャパニーズ・ファンタジー」のレコーディングが行われた。この曲は、日本で世界初演されるメイン曲で日本の歌(さくらさくら・浜辺の歌・赤とんぼ)が盛り込まれたお洒落なジャズファンタジーである。さすがに少しは恵まれた環境だったが、2台8手を合わせるのはかなり難しいと痛感した。また彼らのパワーに完全に食われてしまっている自分に落ち込むが、彼らは我々をひたすら褒めて下さった。どうも彼らが音楽に求めている視点が違うらしい。

余興でお二人の生演奏に触れる機会もあり、高い表現力に加え、ため息が出るほど解け合った演奏に涙が出た。更に「2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ」の作曲のヒントとなった「ポルカ」を演奏してくださった。

12月19日

昼間はオレグ氏の劇場でお二人へのインタビュー(取材:加藤麗子)、夜はオレグ氏のパフォーマンスコンサートをそこで鑑賞した。何とコンサート本番でも、まぎれもなくあの壊れたピアノと壊れた電子ピアノが使われていたのである。素晴らしい演出家(イヴァン・ポポフスキー。マケドニア=旧ユーゴスラビア出身の若手演出家。)によるヴォーカル中心のステージだったが、楽器が悪いにもかかわらず、質の高い仕上がりに驚き感動した。終演後に私は「あなたのステージは大変素晴らしい。」と称えたが 、彼は「これは仕事だよ。」と割り切った様子。あとでローゼンブラット氏から、「アレックはロシアの著名なアーチストとして政府から高く評価され、国内外のコンサートツアーでかなり多忙だ」と伺った。

12月20日

コンサート前日なのでローゼンブラット氏が休息を取りたいとおっしゃり、我々は個人練習をしてから市内観光に出た。ローゼンブラット氏の知り合いであるタクシーを貸切ってモスクワ市内を移動した(半日貸切70ドル)。厳粛なたたずまいのノヴォデヴィッチ修道院、大迫力のモスクワ大学、憧れのチャイコフスキー記念モスクワ音楽院、ボリショイ劇場など名所を見学し、マクドナルドで遅い昼食、歩行者天国アルバート通り散歩、百貨店でクリスマスグッズなどを物色した。ノヴォデヴィッチ修道院の写真左奥に実は「白鳥の湖」があり、かのチャイコフスキーがその湖を見て名曲「白鳥の湖」を作曲したという。オレグ氏はこの日もご自分のコンサート本番。相変わらず彼が練習している様子は全くなかった。

12月21日

ジュコブスキー市のドム・ウチョーヌフ・ホールで我々四人のコンサートが行われた。1台はヤマハ・グランドピアノだったが、もう1台が壊れた白いピアノであまりのショックにメーカー名までは思い出せない。連日の衝撃に思わずお二人にロシアのピアノ事情について伺ったところ、彼ら自身グランドピアノを持っていないという。モスクワ音楽院卒のプロでありながらグランドを持っていない!ロシアはすごい国だと驚嘆した。 私はこのコンサートが失敗に終わったと思ったが、聴衆はかなり喜んでいたのが印象的だし、何よりも不思議だ。ロシアの聴衆はとにかく温かかった。このような環境の中でローゼンブラット氏のような温かい芸術家がたくさん育まれてきたのはまぎれもない事実だ。私は、聴衆から演奏家を評価するという方向性を感じ受けることもなく、とても気持ち良かった。

ロシアで行なった四人のコンサートのチラシ

ロシア語で書かれた私の名前「KATO PEИKO」に感動!

彼らは楽器がどうであれ、その環境の中で素晴らしいピアノのやり取りができる。彼らにとって媒体は重要ではない。なぜならば測り知れない程の鋭いインスピレーションと、溢れんばかりのアンテナを張りめぐらせ、心で音を楽しんでいるからだ。彼らの曲と演奏は、私に既成概念や一方向からの価値観の中で生きることが、いかに自分自身の可能性を狭め、 曇らせてしまうかを示して下さった。私は「ローゼンブラットとオレグ」という‘音楽宇宙’によって、それまでの私自身から開放されたといっても過言ではない。 颯爽とジャジーでユニークな熱いピアノを弾く彼らの存在は、大変魅力的であり、何よりもショックだ。普段の彼らは別々に仕事を持って活動をしておられるので、この「モダン・ピアノ・デュオ」の活動の位置づけを伺ったところ、 「人生最大の趣味です。一生涯飽きることはないでしょう。」 自然で理想的なピアノ・デュオがここに存在した。

現地インタビュー

(2004年12月19日、エレナ・カンブローヴァが主宰する‘音楽と詩’の劇場にて)

加藤: モダン・ピアノ・デュオの活動のきっかけは何だったのですか。

アレクサンドル・ローゼンブラット氏(以下A・R): 私たちは昔からとても仲が良かったのですが、大学も違いますし、芸術の分野で一緒に活躍することは全く考えていませんでした。ある時生まれて初めてピアノソロを作曲し、ソロのコンサートで「パガニーニの主題による変奏曲」や「ピアノソナタ」を演奏しました。しかし、何か大切なものが足りない気がしていました。その時オレグさんの頭に素晴らしいアイデアが閃きました。 彼は「あなたには、オーケストラの為のカマリンスカヤ・ファンタジーがあるのだから、二台ピアノ用に作曲したらどうか」と。その後私たちはそれを一緒に演奏し、その結果 「素晴らしい」と確信しましたので、これをきっかけに一緒にデュオを組むことになりました。 ピアノデュオは、ただ二人で弾くという事ではありません。良く練習しても良いものはできません。二人とも同じ世界観と時間感覚、そして同じ物事の受けとめ方ができなければ良いデュオにはなりません。私たちの間にはそれがあります。また日常生活にも表れています。物事を一緒に同じような反応で同じ言葉で評価します。周りの人たちがその様子にびっくりするんです。

加藤: お二人のデュオはとても理想的でうらやましいです。演奏上の良きパートナーを見つけるのは、最愛の結婚のパートナーを 見つけるより難しいと言う人もいますがやはりそうでしょうか。

オレグ・シンキン氏(以下O・S): 実際には本当にそうかもしれませんが、我々の場合は昔から仲が良く当たり前のことだという気がしているので、自然な結果でしょう。

A・R: もう一つ大事なことがあります。私たちは普段別々に仕事をしています。しかし二人の芸術(デュオ)は最大の趣味の形として表れていますので、飽きることはありません。(実は、1時間前にオレグ氏からも同じ言葉を聞いていたところだった。)

加藤: お二人の演奏のパワーはいったいどこから来るのですか。

A・R: 非常に難しい質問ですね、なぜならば自分を評価できませんから。しいていえば、星座の相性がとても良いということです。

O・S: (笑)サーシャはしし座で、私はてんびん座です。

(サーシャとはローゼンブラット氏のニックネームです)

A・R: グッドコンビネーション!!

加藤: お二人はご自宅にアプライトピアノをお持ちだと伺っております。日本ではピアノを専門にされている方たちの多くがグランドピアノです。ロシアのピアノ事情をお聞かせください。

O・S: 以前わが国でもプロのピアニストたちはグランドピアノを持っていました。しかし現在のロシアの住宅はとても狭いので、プロでもグランドピアノを持っていない場合が多いのです。

加藤: ハートフルでユーモラスな演奏をされるお二人は、いったいどんな少年時代を送ってこられたのでしょうか。

O・S: 私はシベリア出身です。シベリアのイメージといえばそれは雪と過酷な寒さです。私はそのような環境の中で音楽学校を卒業した後、現在のモスクワ音楽アカデミーへ進学しました。父はオーボエ奏者でした。私は子供の頃あまりピアノの練習が好きではなく、アイスホッケーなどのスポーツの方が楽しかったごく一般的な子供でした。

A・R: オレグさんは練習があまり好きではなかったとおっしゃいましたが、私にはその表現では足りません。なぜならば練習は大嫌いでしたから(笑)。父はバイオリニスト、母はピアニストでした。両親は私にピアノを練習させる為に「ちゃんと練習したら飛行機のプラモデルを買ってあげる」などと約束したり、あの手この手でピアノをやらせました。13歳まで絵を描くことが大好きでしたし、外でサッカーなどもしていました。 しかし13歳の時ホロヴィッツの演奏を聞き、その時のインパクトが余りにも強烈でそれがきっかけとなってピアノから離れることができなくなりました。

加藤: オレグさんはどんなアーチストから影響を受けましたか。

O・S: 私も同じでした。ひとつ加えるならば、ピアニストとしてのラフマニノフです。若い時のギレリスも好きです。

加藤: ローゼンブラットさんにお伺いします。クロスオーバーなジャンルの音楽への転機はいつ頃ですか。

A・R: 私はモスクワ音楽院においてクラシックピアノと作曲理論を学んだと同時に、ジャズピアノも勉強しました。卒業論文はアメリカのジャズピアノをテーマにしました。 その時にジャズハーモニーを知るようになり心の中に残りました。1984年、音大を卒業した時の私は、自分が作曲家になるとは全く 思っていませんでした。卒業した後はクラシックをずっとやっていましたが、ある時ある友人が「みんなが歌の音楽を 作っていっぱいお金を稼いでいる時にあなたはどうしてクラシックをやっているのか。あなたもこういう曲を作って下さい」と言って、歌集をくれました。生まれて初めて言葉に曲をつけ、それが当たって人気も出てテレビでも使われたのでした。初めての経験でした。そして、私が大学時代学んだジャズハーモニーとクラシックの基礎に加え、理論的な知識もありましたので、それらをミックスしてクロスオーバーな音楽を作り始めたわけです。オレグさんの仕事もクロスオーバーと関係がありますので、お互いの能力を調和できるのです。

加藤: これから行われます来日公演プログラムのコンセプトは何ですか。またソロ演奏をなさらず、すべてデュオ演奏なのはどうしてですか。

A・R: ソロとデュオを一緒にするというコンサートの伝統はないですから、ソロならソロ、デュオならデュオだけの演目です。またクロスオーバーといえば、ロシアと日本、私たちが日本の聴衆とクロスオーバーすることができれば、それはとても幸せです。

加藤: スパシーバ!!(ロシア語で「ありがとう」の意)

お二人: ありがとう!! (日本語で)

全員: ほら、今も同時にタイミングが合いましたね!反応が同じ!(笑)

加藤: 最後に日本の皆さんにメッセージをお願いします。

O・S: エレナ・カンブローバと一緒に活動している関係で、世界中を旅行して周りました。しかし、日本には一度も訪問した事がないので、私にとって今一番行きたいと望む国、それは日本です。日本の伝統文化に大変興味を持っていますので、その文化を創った人々にも会いたいと思っています。また、日本に訪問して帰国した友人が、不思議なことに良い意味で人間的に変化していました。人間に良い影響を与えている国の皆さんの前でコンサートをやれる事は私にとってとても幸せです。

A・R: 私の日本との関係には真義があると思う。1999年に贈り物として着物を頂きました。その着物を着てから、日本との不思議で神秘的な関係が始まりました。「ステップ バイ ステップ」 私は日本に近づいている気がしました。日本人に出逢ったり、日本人と話をしたり、日本人のファンが現れたり。。。神秘的な関係で私は非常に嬉しい。日本人への祈りといえば、今と同じように勤勉で、美しい伝統を守り続ける国でありますように心から願っています。『日本の聴衆との出会いがインパクトの強い出逢いになりますように!』

加藤: お忙しい中、ありがとうございました。

この直後、オレグさんのコンサートがすぐに始まった。

ローゼンブラッ氏とオレグ氏の熱い御もてなし

実はローゼンブラット氏、我々の訪露少し前に背中を悪くされた関係で、リハビリをしながらリハーサルをこなされていた。リハーサルの後は必ず「折角モスクワまで来たのだから、是非ロシア料理とモスクワのコンサートを堪能して、芸術に磨きをかけて帰って下さい」といって、体調がお悪い中オレグ氏と共に様々なアレンジをして下さった。 毎晩、食べきれないほどのロシア料理を楽しみましたが、我々がドリンクにウォッカを注文しない事に彼らはご不満の様子で、飲み物を注文するたびにかなりの時間を費やした。他愛もない話をする中で、ローゼンブラット氏はたまに少年のように愛嬌たっぷりのジョークを飛ばすのに対して、オレグ氏は真面目に、そしていつもローゼンブラット氏を見守っていたのがとても印象的だった。 コンサートへ出かける時も大抵何か失敗するローゼンブラット氏をかばう様にオレグ氏が助けていて、微笑ましい彼らの人間性に触れることができた。二人で一つ、これは最高のデュオの像だ。一人っ子同士の彼らには、それぞれ23歳の一人娘がいるところも境遇が似ている。また星座の相性もベストだそうだ。 夕食後のコンサートには三夜出かけたが、ロシアでは良いコンサートをとても安く鑑賞できるので日本人にとっては夢のようである。

今回の訪露は仕事中心で観光はほとんどしていないが、ロシアは芸術を学ぶ者にとって大変魅力のある大国だ。なにしろ信号が青でも赤でも車が前進して大渋滞になることに何ら疑問を持たない国なのだから。。。 再び訪れようと誓った。

私は、彼らの初来日が日本の音楽界に何らかの影響を与えるだろうと信じている。 日本訪問に対する彼らの真摯な姿勢に感謝し、今後の日本とロシアの音楽交流に期待したい。