曲目解説

《 機械仕掛けのマトリョーシカ 》

解説:松本和貴

◆無伴奏モノ・オペラ《想像風景》 (山本裕之 作曲:2000年)

2000年発表当時のプログラムには、「《想像風景》は言葉の意味性を隠匿して、越境してデジタル変調された音声が、それでもコミュニケーションを求めながらも崩壊する過程を描いた、超モバイリーな無伴奏モノ・オペラである」とある。最後に呟かれる言葉"quid faciam? quo eam?"はラテン語で「一体どうしたらよいのか?どこへ行けばよいのか?」の意。世界中で誰にも使われていない言語でそう尋ねる事で一方的なコミュニケーションの無意味さを象徴し、また情報社会の空虚さをも表現する。

山本裕之の作品は演奏の困難さで知られるが、本作品はテクニックや譜読み等とは別の次元での演奏の困難さを発揮する。コンサート当日は、反社会的勢力として逮捕されないように祈るばかりである。

◆リスト・ファンタジー(アレクサンドル・ローゼンブラット 作曲:2011年)

フランツ・リスト生誕200周年を記念してローゼンブラットによって書かれたファンタジー(幻想曲)。ローゼンブラットのリスト偏愛が滲み出ており、リストの楽曲「ハンガリー狂詩曲第2番・第6番・第12番」「ドン・ジョヴァンニの回想」「ラ・カンパネラ」「マゼッパ」「メフィストワルツ第1番」「ピアノ協奏曲第1番」「ピアノソナタ」「愛の夢第3番」等(ニコライ・トカレフ氏によれば更に10曲ほど)が入れ子状になって構成される。毎度の事であるがローゼンブラットの曲は技術的に難しい。その上我々は止せばいいのにパフォーマンスも組み込むので、事態はよりややこしくなる。

◆トイピアノの為の組曲(ジョン・ケージ 作曲:1948年)

アメリカ実験音楽の先駆者として知られるジョン・ケージの楽曲。トイピアノの小さな音色が実に愛らしい。ケージは既存の音楽界に対して反抗的な態度を生涯に渡って取り続けた。トイピアノの使用もお堅いピアノ音楽に対する反発と、師シェーンベルクがそうした様に非ヨーロッパ音楽への脱却の為であった事だろう。そうした志とは相反して紡ぎ出されるメロディは非常に可愛らしく、「現代音楽を聴く」と言う身構えを解きほぐしてしまう。

◆季節はずれのバレンタイン(ジョン・ケージ 作曲:1944年)

「季節はずれ」というタイトルゆえに2月のR+公演では演奏を見送った楽曲。第二次世界大戦末期の作曲で、ケージは「戦争は世界中を大きな音で覆った。だから、私は妻のためにこの曲を小さな音で作った」と言う。正に作曲家の妻への「季節はずれのバレンタイン」プレゼントだったのだ。一般に現代音楽は乾いた響きで人の体温を感じないと思われがちだが、この楽曲に残されたエピソードは非常にロマンチック(ショパンの様との意味ではなく)で血が通っている。また、音選びにおいてはグレゴリオ聖歌を想起させる教会旋法が使われており、聖ウァレンティヌスの記念日に掛けて神聖なる愛を表現したものと推測出来る。

さて、この楽曲は本来はプリペアド・ピアノ(弦にボルトやコインを挟み、音を歪ませたグランドピアノ)を用意せよとの指示があるが、我々はあえて楽器にプリペアを施さない。加工をしない音の方が、ケージが何を書いたのかがピュアに伝わると考えたからだ。ただしケージの世界観は守るべく、作品の音楽的本質に立ち戻り、代わりに歪んだ電子音の通奏低音を用いて音楽を非ヨーロッパ的にする事を目論んだ。新たなケージの魅力、更には現代音楽の可能性が明らかになったと考えている。

◆トルコ・シンクロ・行進曲(編曲:2014年)

前回のR+公演からのレパートリー。ファジル・サイ編曲を更に手を加えている。言わずと知れたモーツァルトの名曲をジャズ風に弾こうとするも、クラシック畑出身の人間は古典派の様式に引きずられて演奏が硬くなる。緊張しない演奏を心がける為、星飛雄馬にヒントを得、ウエストコースト・ジャズ養成ギプス(洗濯バサミ)を装着し、血のにじむ努力の末にこのパフォーマンスを習得した。良い子はマネをしてはいけない。

◆「5つのピアノ曲」より第5曲「ワルツ」(アルノルト・シェーンベルク 作曲:1920年)

シェーンベルクは、無調のメロディをフーガ状に組み立てる事で合理的に無調音楽を作る12音技法を理論化した。オクターブの音を全て平等に扱うこの技法の根源的思想は、当時の社会学の平等精神との結びつきも大きい。この楽曲は彼がその12音技法を試みた音楽の中で最も初期に書かれたもので、長調でも短調でも無いミステリアスな響きが大変美しい。無調の音楽は「気味が悪い」と毛嫌いする人も多い。あろうことか、毛嫌いすることで自分の聴音能力を誇示する哀れな音楽家もいる。我々の生きる日常とは、調性が無く調律すらされていない生活音のオーケストラの中にあるにもかかわらずだ。調性のある楽曲だけが音楽であると思い込むのは実にもったいない。どうか普段聴かれない無調の音楽も、平等に聴かれるチャンスを与えたい。法律をテーマにしたマジックのBGMとして溶け込ませたこの不思議な音楽を、それと意識しないで聴いて頂けたら幸いである。

◆日本の歌によるファンタジー~日本の未来である、チャーミングな世麗音に捧ぐ~(アレクサンドル・ローゼンブラット 作曲:2004年)

2005 年3月11日に行われたローゼンブラット初来日公演「ダブル・ピアノ・デュオ」の為に、ローゼンブラットが憧れの国だと語る「日本」の観客へ、彼の特別な思いを込めて全精力を費やして書いた「傑作」。2004 年、加藤麗子が十数曲の日本の名曲を気の向くままに五線紙におこして、コメントを付けて彼へ送った。「さくらさくら」「浜辺の歌」「荒城の月」「花」「ずいずいずっころばし」「かごめかごめ」「赤とんぼ」「上を向いて歩こう」など。彼が最初に選んだ曲はストレートに日本をイメージできるという「さくらさくら」。その他これに合いそうな明るい曲ということで選んだのが「浜辺の歌」と「赤とんぼ」。選曲において「さくらさくら」以外の曲については特別に象徴的な意味はなく、インスピレーションで選んだようだ。本作品はその後半年で完成した。曲の始まりはしめやかに美しく導かれてのどかな「浜辺の歌」から始まるが、次第に怒涛のようなスケールの大きい波へと変わっていく。ふと山へ目を向けるとそこには立派な寺が立っている、この時「さくらさくら」によって荘厳な鐘の音が遠くで鳴り響く。そしてテイクファイブの「赤とんぼ」を口笛で吹く若者、ナンパでもしながら街を闊歩しているような粋な調子。やがてラフマニノフ調のドラマティックな「さくらさくら」からスイングする「赤とんぼ」、この辺りからエネルギーが更に増していく。未来へ夢を抱きながら颯爽と奏でるブルース調の「浜辺の歌」、最後には「さくらさくら」までもがニューオリンズ・ジャズ・スタイルになってしまう。この曲が最後まで演奏された時、それを聴いた人はいつのまにかニューオリンズのベイジンストリートに立っているような気分になるかもしれない。ローゼンブラットのコンセプトは日本的な色合いを残しながら編曲するというものではない。3 つの日本の古い歌を素材にジャズをクロスオーバーしていくことで「全く違う作品として」作り上げたのだ。 これが彼のオリジナリティである。

◆パガニーニの主題による変奏曲(アレクサンドル・ローゼンブラット 作曲:1987年)

ローゼンブラットのピアノ・ソロ作品の中で、技巧的なテクニック、特徴的な拍子やリズムの表現等、特に難易度の高い作品だが、彼の芸術家としての魅力が溢れ、 最高峰の充実度を持っている。この楽曲について作曲者は「現代のピアノ演奏において最も効果的なメソードを取り入れ、更に極めて典型的なジャズの特徴(スイングジャズ)を組み合わせている。」と述べている。パガニーニの主題は、歴代の作曲家達(リスト、ブラームス、ラフマニノフ、ルトスワフスキー、近年ではファジル・サイ )が魅力を感じ、作品に取り入れてきた。そしてローゼンブラット自身がそこに加わろうとする意欲作と言える。本作品の第1変奏冒頭の爆発的なリズム、野性的なベースライン、右手で奏される4度の和音があまりにも強烈。各変奏は高度な構築性を持っており、最後には疾走感を帯びたフーガが配置され、破壊的にフィナーレを迎える。なお、作品中の幾つかの変奏は音楽家等の「肖像」となっている。第1変奏は「Gino Vannelli」、第2変奏は「Modern Brahms」、第4変奏は「Modern boogie」、第6変奏は「Swing」、第7変奏は「Thelonius Monk+Oscar Peterson」、第9変奏は「Bill Evans」、第10変奏は「Oscar Peterson」。ローゼンブラットが愛してやまない物を詰め込んだ宝箱である。

◆美しき青きドナウ・ファンタジー(J.シュトラウス作曲/G.アンダーソン編曲)

誰もが知るクラシックの名曲を、現代的なピアノ曲へとアレンジされている。異常にアクロバティックなテクニックで固められている事に稽古してみて初めて気付いたのが運の尽きで、相方の手がぶつかり曲が止まるは、アフロで楽譜も鍵盤も見えないは、とにかく散々なものであった。編曲者の息の合った演奏を聴いた時の親しみやすさと爽快感で選曲してしまったのだが、異様に難しいので正直後悔している。

◆サーカス・ギャロップ(マルカンドレ・アムラン 作曲:1991年)

演奏困難な難曲に挑む事で知られるピアニスト、アムランによる作曲作品。

本来は自動演奏ピアノの為の楽曲。非常にテクニカルなメロディと、10人の指でも足りない巨大なポリフォニーで構成され、それを息もつけない高速で処理せよと指示があり、まるで人間の挑戦を拒んでいるかの様である。

自動演奏ピアノの為の作品について記す上で、コンロン・ナンカロウとジョルジュ・リゲティの存在は無視出来ない。アメリカ人ナンカロウは亡命先のメキシコで、ジャズを元に自動ピアノの為の「人間が弾かない」スタディを書き上げた。それは複雑なポリリズムにポップな旋律を乗せたもので、現代のリズム語法に新しい光を差し込ませた。ナンカロウにインスパイアを受けたリゲティは、セリエル技法を通過した現代的な旋律を新鮮なポリリズムで展開し、超絶技巧ではあるが「人間でも弾ける」エチュードを創出する。こちらは人間ピアニストの挑戦者も多い。アムランの本作品はポップさと超絶技巧が共存する。サーカス・ギャロップの理解として、少なくともこの2つの作品を踏まえたものと言って差し支えない。

今回のコンサートの演目の中でこのサーカス・ギャロップは、最多の稽古時間と打ち合わせ回数を要した。単に曲が難しかったからと言う理由ではなく、この作品の素晴らしさを伝えたいとの気持ちがそうさせた。膨大と思える声部をピアニスト用に解体していく作業の中で気付かされたのはアムランの「聴衆を楽しませよう」と言うエンターテイナーとしての気迫と、ピアニストとしての音楽に対する美意識。機械用の作曲にも関わらず一つ一つの声部がピアニスティックで美しく、全体としてはハチャメチャなサーカスの様子を描く標題音楽として成功しているのだ。可能ならばアムラン自身が演奏したかったに違いない。これは傑作だ!

この機械の為の作品を演奏するに当たって、四人のピアニスト達の精密な連携により人間の演奏の限界を超える事に努めた。更にサーカスを表現するべく技術面以外の工夫も大いに凝らした。実は企画段階で、音楽専門家より「機械の為の作品に人間が挑むのは馬鹿らしい」との批判があった。確かに楽譜通りの演奏がコンサートでは評価されるのであれば、機械に任せておけば良いのかも知れない。しかし、我々は表現者である。再現者ではない。人間として、エンターテイナーとして、機械には出来ない仕事、つまり芸術が出来る誇りがある。そう言った思いを胸に、反逆のサーカスをパフォーマンスする。