「この地球の平和を本気で願ってるんだよ!」
2011年リリース、つんく詞曲の名曲である。
日常の些細なことと地球の平和が隣り合わせに歌われることのちぐはぐさがむしろ、ハロプロという特殊な場所では圧倒的な説得力を持ちうる。
「地球の平和」を字面どおりに捉えると、戦争のないこと、それに加えて個人の人権が守られている状態のことを言うのかもしれない。それを本当の意味で実現するには、あらゆる社会変革や国と国との間でのきまりごとを必要とする。しかし、つんくが言っているのはもっと狭い範囲の、個人としての問題であるように思える。
それは、すなわち愛。愛を持つこと。愛をもってこの世界を見つめること。
社会全体の問題を個人の心の持ちようとして片付けてしまうのはよくないが、今考えているこの私の主観、これのみを問題にするならば、手の届く範囲から始まる世界平和も存在する。なぜならば世界を解釈するのは自分の頭だからだ。自宅の裏庭にこっそり牡丹の花を育てるようにして、愛を育てる。ハワイに移住して家族に囲まれ月初にお赤飯を炊くようにして、世界平和を育てる。将来二人でお店を出すためにパソコンの学校に行きたいとこぼしてしまう女の子にも、個人のレベルで実現できる世界平和がある。あらゆる苦しみから解放された桃源郷、自分たちだけの夢の楽園。
もちろん、それはただ目の前の苦しみから目を背けているだけで、治療すべき深い傷にオロナイン軟膏を塗って長らえているにすぎないと言われれば、それは確かにそうかもしれない。かといってそれは、鎮痛剤が有用な場面が存在することを認めない理由にはならない。
何が言いたいのか?
わたしはここに、地球の平和を本気で実現するために来た。
百万遍南西角の路地を少し入ったところ。建て売り住宅のような店構えでラーメン屋には見えないが、京都の二郎インスパイアのパイオニアらしい。
食券を買い、ニンニク、アブラ、タレ、ヤサイの好みを告げて席に着く。汁なし油そばの森三朗をチョイス。この店のウリであるはずのにぼしの味はしないが、醤油の味がいつも私を落ち着かせてくれる。
程なく、彼に対面する。
待ち焦がれていた瞬間。「いただきます」と手を合わせる。急ぐな、麺は逃げない。ゆっくりと箸を進める。
確かに醤油の味が濃いが、それでもどこかに、にぼしの香りが残っているような気もする。山肌に腰掛けて遠くに見える海を眺めるかのような、潮を感じるか感じないかの境界。「海にうさぎが跳ねよるわ」戯れにそうつぶやく。
ひと口ごとに満たされていくのを感じる。地球は丸い。丸い形は完全であることを象徴する…。
始まりがあれば終わりがある。気がつけば器は空になっていた。
意気揚々と店を出る。目の前のアスファルトが、私には虹色に見える。
私だけの地球の、私だけの世界平和。その扉を開くのはとても簡単だ。コツさえ掴めば…。
(文・みた) 2020.3.26.