アイヒマン裁判
アイヒマン裁判
アイヒマンは、第二次世界大戦後に偽名を使いアルゼンチンに潜伏
1960年、イスラエル諜報機関モサドに拘束されアルゼンチンからイスラエルに連行される
1961年、エルサレムの法廷で「人道に対する罪」ほかの罪状で起訴される
ユダヤ人虐殺については「組織の命令に従っただけ」ということで無罪を主張
1961年、死刑の判決を受け、絞首刑が執行された
〔語録〕
「命令された内容はなんであれ忠実に従い実行した、組織の命令に従う以外には何もできなかった」
「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」
アイヒマン裁判
YouTubeのYad Vashemに登録されてる裁判動画
EichmannTrialEN、No.1~No.114
The Knesset(クネセット:イスラエルの国会) > The Eichmann Trial
ISA:Israel State Archives(イスラエル国家公文書館) > The Eichmann Trial - Documentation at the ISA
サイモンヴィーゼンタール
1908年、オーストリア生まれのユダヤ人
ナチスのユダヤ人迫害で強制収用所に収容されるが生き残る
戦後、ユダヤ人迫害記録センターでナチハンターとして活動
1960年、アルゼンチンに潜伏していたアイヒマン拘束に関与
1977年、米国に博物館が設立され、「サイモン・ヴィーゼール・センター」の名称が付けられた
フォーサイスの小説「オデッサ・ファイル」に情報提供役として登場
1995年、日本の雑誌「マルコポーロ」が、サイモン・ヴィーゼール・センターの抗議を受け、その後廃刊となった
〔語録〕
死んで天国へ行ったら、ホロコーストの犠牲者となる。彼らは「君たちは、生き延びた余生という贈り物をどうしたのかね?」と聴くだろう。ある人は「弁護士をしていた」、「教師をだった」、「実業家だった」などと言うだろう。私はこう応える。「君たちのことを忘れなかったよ」
ハンナアーレント「イェルサレムのアイヒマン」
1906年、ドイツリンデン生まれのユダヤ人
哲学を専攻
ナチスのユダヤ人迫害により、最終的に米国に亡命
1951年、「全体主義の起源」を発表、米国の大学の教授を歴任
1961年、エルサレムでアイヒマン裁判を傍聴
1963年、米国の雑誌に連載されたアイヒマン裁判の記事を出筆
副題に、”悪の陳腐さについての報告”をつけ本として出版
アイヒマンが人との良心を捨て命令に服従した様を、人で無くなった点が罪だと主張
迫害を先導したものよりも悪かったと指摘した点で、ナチスを擁護したとみられ非難された
ナチスの迫害を、ユダヤ人評議員会が補助したことへの指摘も非難された
現在では、「悪の凡庸さ」についての考え方が評価されている
そのほか
当時のアルゼンチン政権は親ナチスであったため、ナチ党員の亡命先となっていた
アイヒマン拘束に対し、アルゼンチン政府はイスラエル政府に主権侵害の抗議をした
イスラエルには死刑制度が無く、アイヒマンはイスラエルで死刑執行された唯一のものとなった
アイヒマン裁判は、法律的にイスラエルが裁くことについて議論が生じた
ハンナアーレントは、アイヒマン裁判を、ベングリオン首相が演出した政治ショーだと批判した
イスラエル社会では、それまでホロコースト生存者は多くを語らなかったのが転換をもたらした
アイヒマン裁判以降、ミルグラム実験、スタンフォード監獄実験など権威に従う心理状況の実験が試みられた
参考
NHK解説委員室 > 視点・論点「ハンナ・アーレントと”悪の凡庸さ”」
ヘブライの館2 THE HEXAGON > シンボルとしての「アイヒマン裁判」
wikipedia > イェルサレムのアイヒマン