歴史

反ユダヤ主義の系譜

  • ユダヤ教とキリスト教

紀元前のこと、ユダヤ教を信仰する人々が、中東にイスラエル王国を興しましたが、ペルシャやローマ帝国に滅ぼされ、各地に離散することになりました。紀元後、ユダヤ教の中からキリスト教が分離した後に、キリスト教はローマ帝国の国教となりました。

欧州の歴史の中で「反ユダヤ主義」はおこり、ユダヤ人はキリスト教から迫害を受け続けゲットーへ隔離されることもありました。そんな中でも、ユダヤ人は主に都市部に暮らしや商業の分野で活躍していました。

  • 20世紀初頭

ユダヤ人への迫害は、ポグロム、ドレフェス事件、シオンの議定書などという形で止むことはなく、欧州のユダヤ人の間には、遠い過去にあった祖国の地に帰ろうというシオニズムの流れが起こりました。また、優生学という人種的な研究が盛んになったのもこの頃でした。

1914年、ヨーロッパではドイツ同盟国と連合国が戦う第一次世界大戦が勃発し、5年後にドイツの敗戦で戦争が終結しました。また、ロシアでは革命が起こり、共産主義が台頭することになりました。

  • ナチスの勃興

敗戦したドイツは多額の賠償金を背負い、また、世界恐慌もおこる中、失業者が増えドイツ国民の生活は困窮しました。その生活状況を打破しようと、ファシズムの流れにのった「ナチス」が台頭しました。その党首が「アドルフ・ヒトラー」でした。共産主義、ユダヤ人を敵視し、純粋なアーリア人の国家を作りあげることを目標としました。

ミュンヘン一揆でナチスの暴力的権力奪取が失敗に終わり、ヒトラーは投獄され獄中で「我が闘争」を作り上げ、その後は合法的な選挙により政権を獲得する方向に路線変更していきました。

ホロコースト

  • 迫害の始まり

1933年、ナチスは政権をとり、ヒットラーは首相を経て総統になり、法律を改定しながら独裁者となりました。ナチスは、ユダヤ人を差別するしくみをいくつも作り、「ニュールンベルグ法」などを制定し様々な差別を作り出しました。

1938年、「水晶の夜」という事件が起こり、ドイツ国内のユダヤ人の商店やシナゴーグが破壊されました。ドイツ全土が暴力的な気運に支配され、迫害に拍車がかかることになりました。そして収用所を建設し、ナチスの考えに相容れないものすべて、ユダヤ人、共産主義者、ジプシー、同性愛者などを収容所に送り迫害しました。

ユダヤ人の一部は国外に移住をしましたが、多くのユダヤ難民を各国がユダヤ人の希望どおりに受け入れる状況にはありませんでした。このころリトアニアの外交官「杉原地畝」は、三国軍事同盟の意に反しユダヤ難民のためにビザ発給手続きを行い海外脱出を手助けしました。

  • 第二次世界大戦

1939年、ドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まり、ソ連とポーランドを分割領有しました。障がい者を安楽死させる「T4作戦」はこの頃に始まりました。占領した地ではユダヤ人は「ゲットー」に隔離され、「強制収用所」では強制労働に従事させられました。

1941年、ドイツはソ連に侵攻し独ソ戦が始まり、ドイツが占領した地域には「アインザッツグルッペン」という殺戮部隊が送り込まれ、ユダヤ人や敵対者を執拗に殺害していきました。「バーヴィ・ヤール事件」はこの頃に起こりました。

  • 最終的解決

独ソ戦が続く中「ラインハルト作戦」が計画され、ゲットーを解体しユダヤ人をトレブリンカなどの「絶滅収容所」に移送して殺害しました。

1942年、ナチス政府機関の主だった人が「ヴァンゼーで会義」を行いユダヤ人の「最終的解決」を討議し、それが決定され実行に移されることになりました。「アウシュヴィッツ絶滅収容所」では、多くの人が到着後にガス殺されたり、強制労働に駆り出され労働できなくなりしだい殺害されていきました。

ワルシャワゲットーではユダヤ人が蜂起しましたが鎮圧され、生存者は収容所に移送されました。また、教会の司祭や牧師の中には抵抗し犠牲になる人もいましたが、バチカンのローマ教皇ピウス12世は明確に徹底抗戦を表明することはありませんでした。

最終的にユダヤ人など多くの人々が虐殺されました。

その後

  • 解放

戦争が終わり、収用所は開放され惨劇は止みました。ニュールンベルグ裁判で迫害、虐殺の状況が明らかにされ、ホロコーストについては人道に対する罪で裁かれました。

解放された一部のユダヤ人に受難は続きました。特に東欧では元の住処を失い、難民としての受け入れは制限され、移住先のイスラエルでは紛争への対処で生きつく暇なく、ソ連では反ユダヤ主義がはびこり、平穏に暮らしていくには困難が付きまといました。

  • 解放後

「夜と霧」、「アンネの日記」、「夜」など、迫害された人たちの様々な本が出版され、想像を絶する時を過ごしたことが証されました。

1960年、南米に逃亡していたアイヒマンが捕まり、イスラエルの首都エルサレムで裁判を受け処刑されました。ユダヤ人問題の最終的解決に関して主要なポストにいた彼は、組織の決定したことを、組織の一員として純粋に命令を遂行しただけであると主張し、そのことは物議をかもしました。

「イェルサレムのアイヒマン」、「困難な自由」などの本が出版され、改めてホロコーストとユダヤ人を見つめなおす機会となりました。

  • 現在に至る

「ヤド・ヴァシェム」、「アウシュヴィッツ記念館」、「アンネフランクの家」、「ホロコースト記念館」など世界のあらゆるところにホロコーストに関する記念館が建てられ、多くの人が訪れ、虐殺の真実に触れ、深い悲しみを抱き、祈りを捧げています。

その一方で、ヨーロッパで起こったような虐殺は時と場所とその内容を変え、カンボジア、ルワンダ、スレブレニツァで起こり、結果的に、人は良ろしくない歴史を繰り返すことを回避することはありませんでした。

2005年には、アウシュヴィッツが開放された1月27日をホロコースト記念日とすることが国連で採択され、改めてホロコースト犠牲者への追悼と啓蒙活動が続いています。

<未来> ホロコーストが再び繰り返されないことを祈ります。無関心にならないように、流れに抵抗する勇気を持つことは、難しい問題です。