教会

キリスト教教会(カトリック、プロテスタント)はナチスにいかに加担し闘ったのかという問いに対し、ナチスの政策に組織的に反抗しなかったのではなくできなかったのだと解しています。個人や末端の司祭や牧師レベルでは抵抗したり障碍者やユダヤ人を助けたのでしょう。一方で、教会の根底には、ナチスを敵(共産主義)の敵として利用した面もあるでしょう。

組織の頂点にたつローマ教皇ピウス12世はナチスの迫害に沈黙したとしてユダヤ人から現代においても批判されますが、イスラエルのヤドヴァシェムで義人として表彰もされています。

教会



ラテラノ条約

  • 1929年、ローマ教皇庁(ピウス11世)とイタリア政府(ムッソリーニ首相)はラテラノ条約を締結

  • 教皇庁は、国家としての地位を確立するとともに、教皇はバチカン市国の国家元首として公認された一方で、教皇領の首都であったローマをイタリアの首都として認知し、教会国家の再興を断念した

  • ムッソリーニは、ファシスト体制を安定・強化するため国民の多数を占めるカトリック教徒の支持を得ようとしたもの

  • 教会の政治的な活動は禁止された

コンコルダート(聖教条約)

  • 1933年、ローマ教皇庁(国務長官パチェリ)とナチス政府(副首相バーペン)はコンコルダートに署名

  • 教皇庁は、ドイツ人口の約4割のカトリック信徒を持つカトリック教会の自由と権利を保障され、共産主義の脅威から教会が守られ、教会の地位や体制を確保した

  • ナチス政府は、国際社会で主権国家から最初に承認され、政党であるカトリック中央党を解散させ教会の政治的活動を抑え、カトリック信徒をナチス政策に従わせることに成功した

  • ナチスと教皇庁は対立し、ナチスは教会を弾圧し続けた

ピウス12世

  • 1939年、国務長官パチェリはローマ教皇に選出されピウス12世を名乗った、第260代ローマ教皇(1939年~1958年)

  • ローマ生まれ、本名エウジェニオ・パチェリ、ローマ教皇庁の要職を務めた家系

  • ナチスに対して沈黙の姿勢が、親ナチとみられ「ヒトラーの教皇」ともいわれた

  • 一方で、独のローマ占領時にバチカンに多くのユダヤ人を囲ったことから、イスラエルのヤド・ヴァシェムで、諸国民の中の正義の人(ナチスドイツによるホロコーストからユダヤ人を守った非ユダヤ人)として表彰される

  • ミュンスター司教フォンガーレンはナチスを弾劾

  • 1941年、T4作戦(安楽死計画)は中止された

ホロコーストへの対応



イスラエルとバチカン

  • 1993年、バチカンとイスラエルの間で国交が樹立

  • 2000年、教皇ヨハネ・パウロ2世がイスラエル訪問

  • 2009年、ベネディクト16世はエルサレムのホロコースト犠牲者追悼施設ヤド・ヴァシェムの「記憶のホール」で演説し、ユダヤ人を失望させた。


「ユダヤ教ラビとの質疑応答(2010年)」より

  • 聞き手>最後に、バチカン法王庁は現在、ローマ法王ピウス12世(在位1939~58年)の聖人化への手続きを進めているが、ユダヤ世界から激しい批判が聞かれる。

  • ラビ>難しい質問だ。ローマ法王は当時、ナチス政権がタッチできない唯一の機関だった。だから、法王がナチス政権でその見解を表明すれば、大きな影響を欧州諸国に与えたことは間違いない。しかし、ピウス12世はその権限を行使しなかった。それによって、どれだけの多くのユダヤ人がナチス政権の犠牲となったことか。その意味で、彼は聖人に値しない人物だ。カトリック教会には素晴らしい聖職者がまだ多くいる。彼らの聖人化を進めるべきだ。ピウス12世ではない

「ベネディクト16世とイスラエル(2009年)」より

  • だがイスラエルでは、この演説を「表面的だ」として批判する声が圧倒的に多かった。その理由は、ドイツ人であるベネディクト16世が、ナチスが行った犯罪について謝罪しなかったからである。彼の演説には「遺憾に思う」とか「ドイツ人として許しを乞う」という言葉すらなかった。ここを訪れる歴代のドイツの首相や大統領の大半は、謝罪や反省の意を表してきた。

  • さらにユダヤ人たちは、「戦争中にローマ教皇だったピウス12世をはじめとして、バチカンはユダヤ人虐殺に抗議せず沈黙し続けた」としてローマ・カトリック教会の姿勢を批判している。だがベネディクト16世は、戦争中のローマ教皇庁の態度についても一切触れなかった。また彼は、子どもの頃ヒトラー・ユーゲント(少年団)に加盟していたが、そのことを「若き日の過ちだった」と反省する言葉もなかった。

  • バチカンとイスラエルの険悪な関係の背景には、ベネディクト16世が保守的な4人の司教に対する破門を解いたことがある。この中の1人がアウシュヴィッツでの虐殺を矮小化する発言を行っていたことから、イスラエルではローマ教皇に対して轟々たる非難の声が巻き起こった。しかしイスラエルでの滞在中、ベネディクト16世はこの問題についても口を閉ざしたままだった。

参考