T4作戦
T4作戦とは安楽死計画のことで、その当時の考えにあった優生学の思想をとりいれたナチスが、生きるに値しない命として障碍者を安楽死させた計画であり、約20万人が犠牲となった。
内容
ヒトラーの官邸長官フィリップボウラーとヒトラーの主治医カールブラントが中心的な役割
医師が、安楽死を下す権限を委任する責任をもつ計画の責任者に、ボウラーとブラントが就く
各地の精神医療施設等からのリストにより安楽死の対象者が決定された
対象者は、灰色に塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された
対象者は、致死量の薬物注射か飢餓、特別に設置されたガス室でによって殺害された
対象者は、当初幼児であったが後に拡大された
ガス殺は、自動車の排ガスを使用した一酸化炭素中毒による
犠牲者の遺体は「焼却炉」で焼かれた
ブランデンブルク、グラーフェネック、ベルンブルク、ゾネンシュタイン、ハルトハイム、ハーダマーの6つに、ガス施設を設置
T4作戦のT4は、ベルリンにあった計画本部の住所、Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられた
この「ガス殺」と「焼却炉」は、後のラインハルト作戦やアウシュヴィッツ等の絶滅収容所に受け継がれた
経緯
1938年、重度の心身障碍を持つ少年の父親が、少年の「安楽死」をヒトラーに訴えた
1939年8月18日、ナチス内務省は医師らに対し、重度の心身障碍の兆候のある3歳未満の子供を報告するよう布告
1939年9月1日付けで、ヒトラーは、ボウラーとブラントにこの問題の権限を委任する書類に署名、ただし日付はさかのぼり
1939年10月、ナチス公衆衛生局は、障碍を持つ子供の親に対し、指定された小児診療所に子供を入院するよう奨励
1941年8月3日、ミュンスターの教会の司教クレメンスが、説教で安楽死政策を批判
1941年8月24日、計画は中止された
考察
作戦の「終わり」と「始まり」がはっきりしている。ただし、「終わり」は建前で、安楽死の作業は続いていた
ナチス政権下で、作戦が公然と批判され、批判への賛同が多く、ヒトラーが中止を伝えた (逆の意味で、ユダヤ人の迫害は公に批判が困難で、批判が広がることも無く、ヒトラーがユダヤ人迫害を中止した形跡はない)
この作戦の内容が、殺害の効率化の点から絶滅収容所のガス殺に引き継がれた
この当時、ナチスの人種差別の下地に優生学という考え方があった
作戦に従事した医療関係者は、作戦を批判する先鋒ではなかった(教会が批判の声をあげたことが作戦中止のきっかけ)
参考
HEART (ホロコースト教育・保管・探求・チーム) > Euthanasia (安楽死)
鳥飼行博研究室 > ナチス優生学の障害者安楽死T4作戦とジプシー・ハンセン病患者の差別
ヘブライの館2 THE HEXAGON > ナチスドイツの「優性政策」の実態
wikipedia > T4作戦
USHMM (米国ホロコースト記念館)
NHKハートネット福祉情報総合サイト ドイツの精神科医と安楽死計画(全5回)
第1回 精神科医が関与した歴史的犯罪
第2回 ナチズムがめざした人種改良
第3回 歴史を直視し、個々の患者に向き合う
第4回 日本で開催された移動展覧会
第5回 岩井一正さんのインタビュー
2019/12/18更新