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Encyclopedia Ⅱ

by Bunkou ishikawa

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【新幻魔大戦(漫画)】

平井和正・石森章太郎・著 画像:徳間書店(全2巻) A6版240頁

1983年四月初版 当時定価450円(2刷)

紹介文:67年週刊少年マガジンで連載された「幻魔大戦」の続編として、

71年11月より月刊SFマガジンに連載された劇画ノベルズ。全2巻。

書籍 『新幻魔大戦』

平井和正・著 画像:徳間書店全1巻 新書版265頁

1978年七月初刷 当時定価650円(14刷)

紹介文:上のコミック版を、78年に小説化したもの。全1巻

内容:1999年幻魔の圧倒的な破壊力により、壊滅状に陥った地球。

プリンセス・ルナの娘ベアトリスによって、未来を救うことの

できる強力な超能力者を生み出すため、江戸時代に送り込まれる

ミュータントお時。彼女を追って、幻魔も過去へ魔の手を伸ばす。

やがて彼女は、魔人由井正雪に出合う・・・。

少年マガジン版は、内容の難解さからか連載当時の不人気により、

急遽、壮大な物語を断ち切るように終わった。その斬新で、印象的な

ラストが人気を呼び、そして、そこから果てしない、幻魔パラレル

ワールドが始まった。この作品は、その出発点となる物語。





【新・古代学 第1集(著作)】

古田武彦 他・著 新泉社 A5版285頁

1995年七月初版 当時定価2200円

紹介文:71年「邪馬台国はなかった」で古代史界に登場した古田武彦氏は、

豊富な知識、緻密な探索、そして明解な論理によって、古代史の定説を覆す、

いくつかの新説を発表してきた。「九州王朝説」に代表される氏の説の多くは、

現在の学会に充分に受け入れられているとは言えないが、その数々の著作に

よって、多くの読者を魅了し、民間の古代史研究家や、研究を目指す人々に、

多大の影響を与えた。古代史界も徐々に、氏の研究を追従する方に向かって

いるように思われる。

多くの後援者に恵まれ、充実度をましてきた古田史学が、次に取り組んだのが、

東北の古代史であり、90年に著作「真実の東北王朝」を発表した。そこではじめ

て、「東流日外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」が登場する。「東流外三群誌」は

47年に発見された、和田喜八郎氏が所有する古文書類の一部で、従来より偽書

の可能性が高く、ほとんどの歴史学者が取り扱わない書物であった。古田氏は

慎重になりながらも、学会に認められない自分を、「三群誌」の作者とされる秋田

孝季の不遇と重ね合わせるように、その書物に魅せられ、疑問を残しながらも、

博物誌的内容、膨大な量の古文書類や、大正期までの写本類から、真作説へと

傾いていく。

長年の古代史でのライバルである安本美典氏が、かなりの量の和田氏の自筆

原稿を入手し、「三群誌」等の筆跡と綿密な比較を行って、多くの類似を発見し、

それらのことを中心に、偽書説を展開していく。「虚妄の東北王朝」「東日流外

三群誌・偽書の証明」などの関連著作が発表されている。こうして両者の真作、

偽作論争が、週刊誌「サンデー毎日」誌上やNHKナイトジャーナルで激しく行わ

れることになった。この論争は泥沼化し、古田氏の後援グループの離反や、大学

研究室での助手であった原田実氏の偽作説支持への転向などが引き起こされ、

話題となった。

筆跡からは、偽作説が優勢だが、この「新・古代学第1集」で論じられている

「国史画帳・大和桜からの盗用」「岩波文庫ギリシャ・ローマ神話からの盗用」

問題などの反証を読むと、一概に偽作と決めらない説得力がある。特に後者の、

和田家文書「ギリシャ祭文」には、岩波文庫のほうにない三番目の詩がのっており、

これほどの詩が書けるものが、一番、二番をほぼそっくり書き写す必要もないし、

また、あらためて三番目の詩だけを創作する理由もないように思われる。

和田喜八郎氏は亡くなられたが、和田家文書には、偽作、真作論だけでは割り

切れない、複雑な状況があったように思われる・・・。





【自動車絶望工場(書籍)】

鎌田慧・作 画像:講談社文庫 309頁

1983年九月1刷 当時定価380円(4刷)

紹介文:72年に、季節工として、トヨタ自動車本社工場に潜入した著者の

半年間のルポルタージュ。ベルトコンベア作業の過酷さと、労働の無内容、

人間性の解体を描き出す、著者の代表作。そのアンフェアな取材方法を

非難されたが、能率を追い続けるトヨタ生産方式に、一石を投じ、現在の

人間性尊重を掲げる一因となった。





【成吉思汗の秘密(小説)】

高木彬光・作 画像:角川文庫 305頁

1973年七月初版 当時定価不明(8版)

紹介文:推理機械と呼ばれ、東大法医学部助教授であり、名探偵の神津恭介が、

入院中に、ベッドディクティブに挑む。挑戦するのは、「源義経は、衣川で殺された

のではなく、蒙古へ渡り、ジンギスカンになったと言う伝説。そんな一人二役のトリッ

クが成立するのか」。小説のスタイルをとっているが、内容は小谷部全一郎の論文

をベースにした、義経=ジンギスカン説の集大成となっている。

並べられている論証は全て、結局、可能性の証明であり、決定打とはなっていな

いが、最終章の「成吉思汗の名前の秘密」は、この本ではじめて論じられ、ただの

偶然とは思えない内容である。ジンギスカンは自ら、自分の名前を漢字で書いた

という記録が残っているそうだが、なぜ、「成吉思汗」と表わしたのか?

この本では、仁科東子の説として、『吉成りて、水干(汗)を思う』と解いている。

吉は吉野山、水干は白拍子の衣装、白拍子といえば義経の最愛の人、静御前。

『吉野山の誓成りて、静を思う」・・・。これだけでは、こじつけと言えなくもないが、

「成吉思汗」を読み下せば、「なすよしもがな」。そして、静御前が義経を思って、

詠った歌が、「しずやしずしずのおだまきくりかえし、むかしを今に、なすよしもがな

吉野山、峰の白雪ふみわけて、入りし人の、あとぞ恋しき」

このような一致が、偶然と言えるだろうか!!

義経とジンギスカンは、入れ替わった年代もほぼ合っている。この伝説が言われ

はじめたのが、江戸中期、西暦も伝わっていない、モンゴル史の情報も定かでない

当時に、なぜ、これほど矛盾なく、義経からジンギスカンの移り変わりの年齢が合う

のか?なぜ、ジンギスカンの慰霊のオーボー祭と義経忌が同月同日なのか?

源義経―ゲンギケイ―gen・gi・kei―jin・gis・kan―ジンギスカンと

変化したと、言われているが、判官から「ハン」または「カン」と呼ばれ、上記の理由で、

自ら、「成吉思汗」と命名し、その後、ジンギスカン(チンギスハン)と呼ばれたとも考えれる。