※都立大南大沢キャンパスおよび会場へのアクセスや周辺のホテル・飲食店情報についてはこちらや大学の公式案内(アクセス、キャンパスマップ)をご確認ください。
※宣伝用のポスターはこちらになります。ご活用ください。
立木 佑弥 氏(東京都立大学 理学研究科 生命科学専攻 准教授)
髙木 慎介 氏(東京都立大学 都市環境科学研究科 環境応用化学域 教授)
懇親会・ランチョン申し込み: https://forms.gle/Ax2PKcYEM8gKYZD86
※申し込み期間を延長しました。8/28(金)締切です。ぜひご参加ください。
※研究会に参加のみの方は入力する必要はありません。当日会場に直接お越しください。
託児所(都立大KIDs)の利用と申し込みについて:https://forms.cloud.microsoft/r/YjtrPuZRHt
※詳細はURLをご覧ください。申し込み締切8/11(火), 最大5名となるので定員に達したら締め切ります。
Lec-1 立木 佑弥(東京都立大学)「数理モデルで迫る適応進化、進化のゲーム理論」
生物に見られるある特徴がいかにして適応進化したのかを議論する進化生態学は、ダーウィン以来の自然淘汰の論理が定式化され、実証的に検証することによって進められてきた。1970年代以降の進化生態学へのゲーム理論の導入とその拡張は、生物間の利害対立や相互作用の存在下において合理的に見える生物のふるまいや、生活史など生涯のスケジュールの問題に対しても理論的推論を可能にした。具体的には、各主体が合理的判断を下すゲーム理論に対して、進化ゲーム理論ではゲームが繰り返される結果、存在する変異の間で淘汰が起こるプロセスを動的に捉えるアプローチを採用することにより、複数の主体間の利害対立の元での適応進化過程をゲーム理論に位置づけることが可能となった。その結果、合理的に思考するわけではない対象生物の特徴が、突然変異によるバリエーションを糧とし、自然淘汰によって駆動されて変化する条件および、その最終的な帰結となる進化的に安定な戦略が導出されるようになった。この発展は生物に見られる多様な表現型を分かつ条件について検証可能な理論予測を提示することにつながり、実証による検証が合わさることによって科学的プロセスの両輪として進化生態学研究の方法論を確立した。
本講演では、進化生態学の基本となる方程式の提示し、進化生態学者の中心的興味である量的な特徴量の進化ゲーム理論に至る道筋を示す。そのうえで、いくつかの具体的な生物現象についてシンプルな数理モデリングを活用した研究アプローチを紹介する。
現代において、学問分野は人文学(Humanities)、社会科学(Social Sciences)、自然科学(Natural Sciences)に大別されることが多い。さらに自然科学は物理学(Physics)、化学(Chemistry)、生物学(Biology)、地球科学(Earth Sciences / Geosciences)などに細分化される。しかし、この分類は歴史的に大きく変遷してきたものである。
一方、物質観の観点からは、・・・素粒子・原子・分子・超分子系・・・極めて単純な(意思のない)生物・・・複雑な(意思のある)生物、という階層的な序列が考えられよう。本来、森羅万象は融通無碍に結びついており、こうした学問の分類や物質観の序列は便宜上のものに過ぎない。では、なぜ現代においてこれらの境界が存在するのだろうか。 例えば、生物は分子から成り立っているので、分子を扱う化学は生物を包含してもよさそうなものであるが、そうなってはいない。
本講演では、いくつかの具体的な学問上の境界を取り上げ、その「境界の意味」を考えることによって、翻って学問全体を俯瞰することを試みる。講演者の専門は化学であるため、特に化学の視点から人文・社会科学がどう見えるのかについても触れ、学問全体の将来を展望したい。
全体要旨
TBA
S-1 網谷 祐一(会津大学)「趣旨説明」
TBA
S-2 杉本 光衣(横浜国立大学 インターセクショナル・イノベーション実践センター)「ロイドから読み解く文脈的経験主義の実践(仮)」
エリザベス・ロイドによる『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ』は、進化的な説明についての優れた分析であると同時に、フェミニスト科学哲学を実践したケーススタディとしても位置付けられる。本発表では特に後者の側面に着目し、本著作を通じて、フェミニスト科学哲学、とりわけヘレン・ロンジーノの認識論的枠組みが科学研究においてどのように機能するのかを検討する。
本著作の中でロイドは、女性のオーガズムについての既存の進化論的説明を批判し、そうした進化的説明に悪影響を与えてきた二つの主なバイアス(適応主義のバイアスと男性中心主義のバイアス)を明らかにした。そして、これをケーススタディとして分析するためにロイドが援用するのが、フェミニスト経験主義者として知られるヘレン・ロンジーノの文脈的経験主義である。
本発表ではまず、文脈的経験主義の利点と批判を整理する。この枠組みには科学における客観性と価値の役割を両立させる利点がある一方で、いくつかの点で批判が残る。例えば、Hicks(2011)が指摘するように、有害な価値を持つ立場までも共同体に包摂することになりかねない。次に、これらの批判に対するロイドらの応答を検討する。ChoGlueck & Lloyd(2023)は、Hicksらの指摘を整理した上で、ロンジーノとロイドの文脈的経験主義では、価値とはモデルを構築するためのヒューリスティックな道具であると再整理する。
最後に、ロイドらが示した認識的枠組みは、現代の一部の科学的実践にも適用可能であることにも触れる。ジェンダード・イノベーションとして知られる研究手法は、生物学的性(セックス)とジェンダーの分析を通じて背景仮説を可視化するという点で、バイアスをヒューリスティックとして用いている実践であると解釈しうる。
S-3 坂口 菊恵(独立行政法人大学改革支援・学位授与機構)「普遍的な現実認識装置としての生物学(自然科学)という幻想」
発表者は適応主義者としての立場から、「女性のオーガズム」を典型例とする社会生物学・進化心理学的な議論がどのような背景をもとに進展したのか、そしてなぜ行き詰まったのかについて話題提供する。研究者の視点に『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ』で示されているようなバイアスが含まれていたという指摘に対しては首肯するとともに、こうした問題は自然科学が前提とする方法論や、ヒトの持つ認識の限界に深く根ざしていることを述べる。まず、仮説検証をする際には、要因を少数に絞り、その時に測定可能な変数を用いて相関関係もしくは因果関係を推定しなければならない。これはマクロな生物学的現象を対象とする際にはとりわけ至難の技であり、「再現性の危機」を生じさせる主要因となる。すなわち、客観性と再現性を担保するためには、あらかじめ答えを用意してそれを支持するパラメータを探すプロセスが必須となる。さらに、社会生活を送る主体でもある研究者が世界を観測する際に、客観的にあらゆる視点から物事を観察することは困難である。生活する環境に応じた適応課題に応じて、視点を固定することによってはじめて解像度の高い情報処理が可能になっているからである。こうした現実認識の限界を適応論的にあつかう理論として、「適応は真実に勝る定理」(Fitness-Beats-Truth Theorem, FBT)(Prakash et al., 2021)や「知覚のインターフェース理論」(Interface Theory of Perception, ITP)(Hoffman, 2019)がある。
類似の構造を持つ例として、発表者が近年関わってきた、性のダイバーシティや認知発達のダイバーシティについての適応論的議論と、そのパラダイムを転換することによってあらたな視点がひらけ、隣接する諸領域との接続性が見えやすくなったことを紹介する。
最後に研究活動や仕事をすすめるエージェントがヒトからAIに移ろうとしている現在、適応論的な知見がどのような「意味のある問い」を提起しうるかについても議論する。
S-4 加藤 秀一(明治学院大学社会学部)「何をすれば生物学の性差別的バイアスを正すことになるのか:フェミニズム・進化生物学・目的論についてのささやかな考察(仮)」
『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ』におけるエリザベス・ロイドの議論は、その主題的な主張そのものにおいて重要であるだけでなく、生物学の哲学、さらには科学哲学全般にかかわるさまざまな論点について、豊かな示唆を与えてくれるものである。本報告では、それらの中から、フェミニズム志向の生物学および生物学哲学に焦点を合わせ、ロイドによるその批判的検討の意義を検討してみたい。生物学の領域に種々の性差別的バイアスが存在してきたことはもはや否定しがたい事実である。だが他方、そうしたバイアスの修正を意図するフェミニズム志向の生物学評価に一義的な規準があるわけではなく、「この見解は性差別的・男権的、この見解はフェミニズム的」といった類いの弁別は決して簡単ではない。実際、本書で言及されている通り、共に明確なフェミニズム志向を掲げるサラ・ハーディとロイドとの間で、ヒト女性のオーガズムに関する見方は鋭く異なっているのである。こうした状況をふまえ、生物学におけるフェミニズム志向の分析は何をなすべきかについて一定の見通しを与えてみたい。内容についてはまだ詳細を示すことはできないが、生物学における(ある種の)「適応主義」や「目的論」の位置づけといった本質的な問題にも関係づける仕方で問題提起ができればよいと思う。
1-1-A-1 【講演】遠藤 颯(東京都立大学)「連続する進化、断片化される生物 〜 統合的分類学が探る“種”の実像 〜」
チャールズ・ダーウィンは『種の起源』において、生物は連続的な変化の積み重ねによって進化すると考えた。もし進化が本当に連続的であるならば、生物の境界は曖昧になり、「種」という単位は存在しないようにも思える。しかし私たちは日常的にも研究上でも、イヌとネコ、スズメとカラスのように、生物をある程度明確なまとまりとして認識できている。なぜ連続的な進化の中から、断片的な「種」という単位が立ち現れるのだろうか。
この問いに対し、20世紀にはエルンスト・マイヤーが「実際にまたは潜在的に交配可能な個体の集団であり、他の同様の集団から生殖的に隔離されているもの」を種とみなす生物学的種概念を提唱した。しかし現実には、単為生殖生物や化石生物、遺伝的には近いが形態が異なる集団など、この定義だけでは整理できない例が数多く存在する。つまり「種」とは絶対的な実体ではなく、人類が生物多様性を理解するために設定した“妥協点”でもある。
本発表では、ミミズ類を対象とした分類学研究を例に、現代の分類学がどのように「種」を扱っているのかを紹介する。近年では、形態だけでなく、DNA配列、生態、行動、地理分布など複数の情報を統合して判断する「統合的分類学」が主流となっている。これは単一の基準で種を決めるのではなく、異なる証拠を重ね合わせながら、生物の連続性の中に存在する境界らしきものを探る試みである。
さらに余談として、生物学とは異なる「文化的種概念」にも触れる。世界各地では、人々が地域ごとの暮らしの中で独自の生物分類体系を築いてきた。例えば「田植えの時期に現れるミミズ」や「雨の前に地上へ出てくるミミズ」といった、生態や季節性に基づく認識である。こうした分類は近代生物学的な種概念とは異なるが、地域の自然環境を深く観察する中で形成された知識体系でもあった。しかし現在、その多くは急速に失われつつある。人類は知らず知らずのうちに、生物の分類を通じて生態学的特徴や環境変化を理解し、自然と共存してきたのではないだろうか。本発表では、「種」という概念を科学だけでなく文化の側面からも捉え直したい。
1-1-A-2 【講演】冨樫 潤(京都大学)「槽歯類の事例から見る、進化分類学と分岐学の分類の安定性をめぐる対立への認識的徳の作用」
本発表では、20世紀後半における槽歯類の分類実践を手掛かりとして、体系学の二つの方法論である進化分類学と分岐学の間で生じた分類の安定性をめぐる対立の背景を検討する。槽歯類は、ワニ類、翼竜、恐竜が属する主竜類の祖先群としてかつて古脊椎動物学で用いられ、後に消滅した分類群である。本発表では、進化分類学と分岐学の分類の安定性に対する立場の相違が槽歯類の分類実践に反映されていたと論じつつ、その相違の要因を分析する。
分類の安定性は、分類の実用性に関わる要素であり、自然分類の追求とは異なる観点から分類体系の形成を左右する重要な争点となる。安定性をめぐる主張や実践の背景の分析は、研究者が学問知として分類体系を形成する様相を理解する上で不可欠となる。従来の科学史研究では、安定性をめぐる対立は主として社会的利害の観点から説明されてきた。しかし、それでは槽歯類の事例での進化分類学と分岐学の対立を説明しきれない。
本発表では、認識的徳という概念に注目し、認識的徳が槽歯類をめぐる進化分類学と分岐学の分類実践の相違を形成したという仮説を提唱する。(本発表では認識的徳を、知識生産に関わる実践において研究者として身につけるべき在り方、態度を美徳として示すものとして定義する)具体的には、「配慮ある再分類」と「積極的な知見の反映」という認識的徳を提示し、槽歯類の事例ではこれらが進化分類学と分岐学の立場の相違に寄与したとする仮説を提示する。まず、前者を重視する進化分類学支持者が、他の研究者や利用者への配慮を重視し、慎重で節度ある再分類を望ましい研究者の態度とみなし、不確実な知見からの拙速な再分類を忌避したと論じる。更に、後者を重視する分岐学支持者は、分類の不安定化を懸念するよりも、新たな知見を速やかに分類へ反映させる姿勢を望ましいとみなしたと主張する。
1-2-A-1【報告】鈴木 絵梨香(東北大学)「生物学における科学的理解についての予備的考察(仮)」
本発表では、科学的理解に関する近年の科学哲学上の議論を示し、その生物学への適用可能性について検討する。科学哲学では、説明や予測との関係を含め、科学的理解をめぐって様々な議論が行われてきた。しかし、生物学においてこれらの議論がどのような意義を持つかについて、なお検討の余地があると考える。本発表では科学的理解の代表的な議論を整理した上で、生物学において科学的理解を考察する際の論点を提示し、今後の研究課題を明らかにしたい。
1-2-A-2【報告】山銅 康弘(東京大学)「『再現性の危機』から危機の多層化へ―統計学の哲学と科学哲学から」
統計学を哲学的に分析する試みの中には、「再現性の危機」への考察の応用がみられる。しかし近年、心理学等の分野では、再現性の危機のみならず、「測定」「理論」「実用性」など、より多層的な問題が指摘されている。これら諸問題の複合的な発生メカニズムを解明するためには、統計学そのものの分析に留まらず、科学実践における統計学の役割を捉え直す必要がある。すなわち、統計学の哲学を科学哲学と不可分なものとして検討せねばならない。 そこで本研究では、BogenおよびWoodwardが提唱した「データ/現象/理論」の三項関係モデルを導入する。この図式に統計学が果たす役割を詳細に分析することで、危機の関連性を明らかにすることを試みる。
1-3-A-1【報告】近藤 玲(筑波大学)「心の機能と起源説」
心の表象能力の理論として目的意味論が挙げられる。目的意味論は、その表象が何を対象として持つべきかを、その機能の形成の歴史に訴えて説明する立場をとっている。こうした起源によってある機能の目的を説明しようとする理論を起源説という。この報告では、心の表象に関する機能がいかにして起源説と関連しているかを敷衍する。
1-3-A-2【報告】高橋 紀之(京都大学)「菌類の二重の個体性に対する『ダーウィン個体』概念の適用とその限界」
生態学や集団遺伝学は個体を数える事から出発する。然るに前提となる、何を以て一個体として数えるべきかは決して自明でなく、例えば巨視的生物と微生物の両方の側面を持つと見做せる担子菌の重相世代の茸は、地上で最大の個体の一つとしても認識される一方、核が個体の如く振る舞う。先行研究ではダーウィン個体という概念を適用する事で菌糸体と核の二重の個体性が論じられた。本研究では進化論的立場に於けるこの有用性と適用限界に就て考察を与える。
1-3-A-3【講演】佐藤 公亮(北海道大学)「細胞生物学における目的性の認識論的役割─BPT論文の再解釈から─」
生物学および生物学の哲学では、目的、目的論、機能、目標指向性、エージェンシーといった概念が、相互に関連しつつも十分に区別されないまま用いられることがある。現代における目的性理解の重要な出発点の一つは、Rosenblueth, Wiener and Bigelow の “Behavior, Purpose and Teleology(以下BPT)”(1943)である。BPTはしばしば、目的的行動を負のフィードバック機構によって自然化・機械論化した論文として理解されてきた。Nahas(2026)は、この読みがBPTの論点を狭めていると指摘し、(広義の)目的を内部機構へ還元する問題ではなく、目的的行動をどの記述水準に位置づけるべきかという問題として再解釈している。しかし、記述水準を区別するだけでは、その水準が研究実践においてどのような働きをもつのかは明らかにするためには不十分である。
本発表は、この再解釈を手がかりに、細胞生物学における目的的・目標指向的記述の役割を検討する。細胞生物学では細胞内分子機構の解明が中心的課題である一方、研究実践では、「細胞がこの環境に入れられたら、この膜輸送経路を動かしたいだろうな」と、強い意味ではないにせよ、細胞にエージェンシーを持たせたかのような推論を行うことがある。この推論は、細胞に意図や意識を直接的に帰属するものではないが、単なる比喩や既知の分子機構を短く、あるいは擬人的に言い換えた表現でもないと考えられる。
この点を明確にするため、本発表はLevinらのTAMEおよび“Mind Everywhere”を参照する。Levinらは、目標指向性(目的性)を、心的性質の文字どおりの帰属ではなく、未知の能力を発見し、予測・制御・介入を可能にする実験的枠組みとして捉える(Levin 2022, Levin and Resnik 2026a, b)。この観点から、細胞生物学における目的性や目的論的記述は、機械論やメカニズムの説明と競合する代替説明ではなく、説明対象の同定、機能帰属、メカニズム探索を方向づける認識論的役割があるものとして理解できることを論じる。
1-4-A-1【講演】島田 草太朗(東京都立大学)「形状最適化は生物形態の進化モデルとして有望か?」
ある機能に「最適な形」は何か?という問いは、「適者生存」が基本原則の一つとされる生物進化の研究において有益なものに思われる。ある生物形態が環境との相互作用の中でどのような機能において適応的に評価され獲得/喪失されたかを探究する機能形態学においては特に、極めて実践的な問いである。主要な情報源が形態のみである古生物においては、その形質が持つ機能の類推を可能にするような類似の生物が現存しない場合、それぞれの機能を果たすのに最適な理想形態との比較による類推がしばしばなされる。
だが、無限にある形の中から特定のものを「最適な形」として参照する判断基準は一般には明確でない。「最適な形」の判断基準を定式化するのが、形状最適化という数学である。この点、形状最適化は、生物学者に「最適な形」に関する共通言語を与え、探究を促進するモデルを提供すると期待できそうである。演者はこの期待から形状最適化の数学を研究をしている。従来は工学などにおける「最適設計」の数学として発展してきた形状最適化を、生物形態の進化モデルの数学として再構築することを目指している。他方、形状最適化を生物形態の進化モデルとみなそうとする試みそれ自体の妥当性については、「進化は偶然である」「進化とは“もがき”である」などの主張から、懐疑的に論じる意見を受けることも多い。
本講演では、これらを念頭に、「最適/妥協」「偶然/必然」などの概念を検討することを通して抱きうる、形状最適化の進化モデルとしての期待や疑念を論じる。「最適/妥協」「偶然/必然」などは相対的な概念であり、何らかの基準を前提とする。重要なのは、何と比べて「最適/妥協」「偶然/必然」なのかである。形状最適化はそのような比較を可能にするものさしの意味でモデルとなり得る。他方、「進化は偶然である」「進化とは“もがき”である」などの文はそのようなものさしの上でしかそもそも意味を持たないのではないか。
1-4-A-2【講演】道田 蒼人(京都大学)「最適輸送によるシグナリングの分析:確率変動から確率輸送へ」
情報概念を認識論や意味論へ導入した先駆者として、ドレツキの功績は疑いようがない。だが彼は、条件付き確率1という厳しすぎる条件を情報伝達の条件として課したことでも知られる(Dretske 1981)。この悪名高い定義は、不完全な相関や多少の曖昧さを許容する確率変動理論へと緩和され(Scarantino & Piccinini 2010; Shea 2007)、とりわけスカームズの影響力のある著作以降、情報を「Probabilistic Difference Maker」とみなす見解は標準になった(Isaac 2019; Scarantino 2015; Skyrms 2010)。
しかし、この理論的緩和は新たな難問を招いた。というのも、ほぼ全ての変数対の間に何らかの依存関係がある以上、確率変動理論の基準は容易に満たされてしまうからである。結果として、情報伝達は過度にユビキタスなものになってしまう。この問題は、世界のあり様を正確に表現するというシグナルの役割を情報概念に訴えて説明しようとする際に、極めて深刻なものとなる(Artiga 2024; Burge 2010)。
本発表ではまず、KLダイバージェンスを用いた分析を通じて、従来の確率変動説によるシグナル分析の限界を示す。その上での積極的提案として、本発表は最適輸送理論(Peyré & Cuturi 2020; Villani 2008)の枠組みを導入し、シグナルが伝達する情報を「Transportation Cost Generator」として捉え直すアプローチを提示する。適応度勾配から定義されるコスト関数を標本空間に組み込むことで、従来説が陥った情報伝達のトリヴィアルさの問題を解消し、最適輸送の観点がもたらす理論的ペイオフを明らかにする。
最後に、近年提案されたレート歪み理論に依拠したシグナルの分析(Mann 2020; Martínez, 2019)との比較検討を行う。生態学的なコストの導入という共通点を持つ両者を対照させ、最適輸送に基づくアプローチがもつ独自性と射程を浮き彫りにする。
1-4-B-1【講演】藤野 光士(F.A.C. Ltd.)「認知する生命にとって『実』とは何か」
われわれは日常言語において「現実」「実在」「実物」といった語を自明であるかのように用いるが、これら「実」の字を含む語が何を指し示しているのかは明らかではない。
本発表では、生物学主義的認知科学の基礎的問題の枠組みの下で、認知する生命が生のただなかで何を「実」とするかを適切な粒度と抽象度で記述するための必要十分条件をユクスキュルの環世界論を参照しつつ検討する。生物学主義的認知科学の一部においては、認知主体は、与えられた世界を単に感受する存在ではなく、身体・環境・行為の循環のなかで世界を分節する存在として捉えられうる。このとき「実世界」「実在」といった語が何を指すと言うべきかを、認知主体「私」における「実」という視点から再検討する方法を示し、「実」を、外界の素朴実在論的客体ではなく、生存可能性、感受可能性、行為可能性、そして証拠立て手続きにより逐次的に構築され開示されていく事物として捉え直す。すると、「私」は、何が「実」であるかをリアルタイムかつオンサイトで選別し決定し続ける結節点としても理解されうる。これに基づき認知科学・生命科学・存在論を接続する「実」の輪郭を明らかにするためになされるべきことを論じる。
さらに、その記述は計算可能機構論である抽象機構論(Abstract Machinery Theory, AMT)に包摂され、次に動作論へ向かうが、その際の基礎となる情報の定式化について述べる。AMT では、対象事物を、機片子(Fragment)が機片子情報(Fragmenton)の交換によって結合し形成する機構(Machinery)という事物として捉え直す。その際、機構の動作を記述する上で、情報を状態記述や符号とするのみでは十分でないため、機片子を接続し、変位を伝達し、起こりうることを制約する事物として工学的に再定式化し、その妥当性を従来の情報概念と比較しつつ論じる。
1-4-B-2【講演】松本 俊吉(東海大学)「WakefieldのDSM批判と正常な悲しみ/うつ病の境界問題」
米国の進化精神医学者Jerome Wakefieldは、彼が「有害な機能不全説」(harmful dysfunction analysis)と呼ぶ精神障害の定義を提起する中で、米国精神医学会が発行する『精神障害の診断・統計マニュアル』(DSM)を批判してきた。その批判の中心は、特に第3版以降のDSMが、症状に定位したチェックリスト方式を導入することで診断の信頼性を高めた一方で、ストレス環境や喪失体験に対する自然な反応までも疾患として分類してしまう危険を高めた、という点にある。
これに対して有害な機能不全説は、悲しみや落ち込みなどのネガティブ感情の多くは、ストレスフルな環境、喪失体験、挫折などに対する正常な適応的反応であり、それ自体は疾患ではないと考える。しかし、その本来ならば適応的な反応が、調節異常ないし機能不全に陥った場合に、それらは精神障害として理解されうる。
発表者は、うつ病を単なる精神疾患と見なす従来の疾患モデルや、反対にうつ病を進化的適応と見なす適応仮説に対して、うつ病を正常な防御反応から病理的な機能障害へと至る連続性の上に位置づけるWakefield(およびRandolph Nesse)の進化精神医学的立場が、最も有望であると考える。しかしその際に問題となるのは、正常な防御反応と異常な機能障害との境界をどのように引くのかという点である。本報告では、主としてHorwitz and Wakefield (2007) The Loss of Sadness: How Psychiatry Transformed Normal Sorrow into Depressive Disorder を手がかりとして、WakefieldのDSM批判がこの境界問題に対してどこまで明確な答えを与えているのかを検討する。
2-1-A-1【報告】島谷 健一郎(統計数理研究所)「自然再興nature positiveで活かされそうな科学哲学視点」
諸科学を統合する思考や推論は、現実の社会問題で普通に要求される。生物多様性保全やその再生、人為攪乱後に新たなる多様性に富む生態系を作っていく自然再興nature positiveもその一例である。コンクリートで固められた川を自然に近い状態に戻すといった課題では、土木工学と生態学の統合が要求される。ところで、古典物理という基盤を持つ土木工学と生態学の相性ははなはだ悪い。統合を目指す学会でも議論はかみ合っていない。そこに科学哲学視点があると、両者を対照させられ、その乖離がよく見える。
2-1-A-2【講演】鈴木 大地(筑波大学)「意識の幻想主義と生物学的実在論は(どこまで)対立するのか?」
幻想主義において、意識の現象的性質は錯覚の産物であり存在しないとされる。一方で認知科学者・心の哲学者のレヴォンスオは、生物学的実在論を標榜し、主観的意識は幻想や知的錯誤ではなく、生物学的現象として実在する現象(real phenomenon)であるとする。本講演では、一見すると真っ向から対立している両者が、「現象」や「存在」、「実在」といった概念の整理によって、かなりの程度の調停が可能であることを議論したい。
2-1-B-1【講演】米本 昌平(無所属)「H・ドリーシュ理解の失敗と生物学史の見直し」
2013年以来、シリーズ History,Philosophy and Theory of Life Sciences は、「機械論 vs 生気論」論争の見直しを行ってきているが、前世紀のドリーシュに対する誤解の延長線上にあり、問題は少なくない。そもそもアリストテレスを祖とする生気論史は、彼の『生気論の歴史と理論』(1905)によって初めて成立した物語であり、それ以前の生気論は機械論に対する不同意、すなわち、Vitalismus=Anti-mechanismusという関係にある概念であった。
形態形成に関する厳格な因果関係を追求する「発生力学」の熱心な支持者であったドリーシュは、再生過程の因果関係を分析した結果、生命現象には秩序を供給する自然因子が不可避的に存在すると考え、これをエンテレヒーと命名した。彼は、自然現象はすべて古典力学の統御の下にあると信じており、エンテレヒーは力でもエネルギーでもないとした。その後、彼は哲学へ転進し、ライプチヒ大学の哲学の教授選では、フッサールやカッシーラを抑え、正教授に選出され、ドイツ‣アカデミーにおいて哲学者として成功した。
今日、ドリーシュが非科学的迷妄の代表とされる理由は、1930年以降の論理実証主義による活動が主因である。実際、論理実証主義の研究プログラムである『科学的世界把握』(1929)では、打破すべき形而上学の例としてエンテレヒーを挙げており、主要メンバーは徹底的にこれを批判した。具体的には、ライヘンバッハ『今日の自然哲学の目標と方法』、P・フランク『因果法則とその限界』、カルナップ『物理学の哲学的基礎』がそれであるが、なかでもライヘンバッハが『科学哲学の形成』(1951)で行ったエンテレヒーの糾弾が第二次大戦後の科学哲学におけるドリーシュ評価を決定づけた。もう一つの誤解は、彼が全体主義のイデオローグであったとするものである。彼はナチスの暴力的体質を批判し、協力を拒否したため、ナチス政権が成立すると、非人種的理由で大学を追放された最初の研究者の一人となった。
2-2-A-1【講演】佐藤 直樹(東京大学)「『偶然と必然』から生命の合目的性を考える」
1970年に発表されたジャック・モノーの『偶然と必然』は,オペロン説でノーベル賞を受賞した学者による哲学的な論考として,生物学だけでなく,哲学的な議論も巻き起こした。しかしその中身はあまりよく理解されず,「偶然」を突然変異と捉え,「必然」を生物の合目的性と見なす捉え方は当初から一般的であった。本講演では,当初「無根拠性」と訳されたgratuitéという概念を「モジュラー性」と捉え,生物のもつ合目的性をどのように考えるのか,モノーが進化をどのように捉えていたのかに基づいて,私なりの考え方を披露する。さらに,モノーが人類の必然的な選択として提唱した「客観性の倫理」が,当時誰にも理解されなかったものの,いまになると,現代社会における人工知能の普及を予言していたようにも見える点を指摘し,人工知能は生物進化の行き着く先にあるのかという点についても議論したい。この講演は『生物物理』誌66:170 (2026)に発表したものをもとにして,さらに詳しく説明する。
2-2-A-2【講演】廣田 隆造(北海道大学)「テレオノミーの生成原理としてのBlind Variation and Selective Retention:ダーウィニズムからサイバネティクス、オートポイエーシス、エナクティヴ・アプローチへ」
本発表では、機械論的世界観における生物のテレオノミー(目的律)的振る舞いの説明の原理として、"Blind Variation and Selective Retention"(BVSR)と呼ばれる図式が、Darwinの進化論から現代のエナクティヴ・アプローチに至る一つの系譜のなかで形を変えながら繰り返し用いられてきたことについて論じる。Darwin(およびWallase)による自然選択の理論は、一見「設計者」がいなければ生じえないと思われるほどに巧妙に環境に適応した生物の形質が、変異・選択・遺伝という機械論的な過程によって生じうることを示した。D. T. Campbellは、この論理を一般化して「盲目的変異と選択的保持(Blind Variation and Selective Retention)」というかたちで表現した。その後、サイバネティクスの運動のもとでAshbyが提唱した超安定性(ultrastability)の概念は、生物進化の原理としてのBVSRを、単一個体内のパラメータ探索へと内在化させたものとみなすことができる。また、サイバネティクスの影響下で提唱されたオートポイエーシスの概念は、超安定性の概念を踏襲しつつ個体の多数性と復元したものとして理解できる。さらに、オートポイエーシスの提唱者の一人であったF. J. Varelaらによってその後展開されたエナクティヴ・アプローチは、オートポイエーシスの理論において外在化されたBVSRを再び(部分的に)個体へと内在化させることで各個体の能動性・主体性を再評価する動きと見ることができる。一方で、現代のエナクティヴ・アプローチの一部は、これらの理論に共通してきた機械論的世界観の前提とその上での「見かけ上の」目的論性・主体性という枠組みから離れつつある。本発表ではそうした近年の動向やそこにおける理論的緊張および今後の展望についても述べる。
2-2-B-1【講演】長谷 和子(京都大学)「進化生態学におけるself概念の再定義―「わたし」は進化の産物か?―」
self(自己)は哲学や認知科学で広く議論されてきた一方、生物学においては統一的な定義が十分に与えられているとは言い難い。進化生態学を専門とする発表者は「血縁認識が協力行動の進化にどこまで関与してきたか」について検証を重ねてきた。しかし、たとえば利他行動を考えるときも、動物個体が自己と他者(self/non-self)の境界をどのように形成・認識しているのか、という問題はあまり論じられてきていない。この知見を踏まえ、本発表では、進化生態学の立場からselfを再定義する枠組みを提案する。従来のselfは意識や主体性との関係で論じられることが多かったが、発表者は、生物が環境および他個体との相互作用を通じて形成・更新される動的な自己境界としてselfという概念を捉える枠組みを提案する。この立場では、血縁認識や社会的認識、さらには自己・非自己識別などを、selfを構成する異なる生物学的側面として統一的に理解できる可能性がある。また、selfは生得的・固定的な実体ではなく、個体発達を通じて形成され、その形成機構自体が進化の産物である可能性がある。さらに、「個体性」および「self」は進化生物学の研究対象となり得るか?という問いを提示し、その検証に向けた計測可能な概念としてのselfについて議論したい。selfを計測可能な概念として捉えることにより、これまで哲学的・記述的に論じられてきた自己概念を、進化生物学における実証研究の対象として位置づけられる可能性がある。
2-2-B-2【講演】中島 敏幸(愛媛大学)「生命の適応,意識の出現,および科学的探求の背後にある逆因果システム」
逆因果システム(Inverse Causality System)とは,外部状態を指すシンボルを内部状態として生成し,これを記号として処理して,物理・化学的ルールを超えた自由度の高い“外部状態→構造変化”機能を可能にする.この記号過程は,物理学や化学に還元できない生命の特性である.この逆因果システムは心と物を統一した実体(cognizer)によって世界が構成されるという Cognizers Systemモデルで記述されており,この逆因果システムの部分過程に意識が生じうることを説明する.本発表ではこのシステムが以下の3つの領域に共通して働いていることを示し,それぞれの領域の問題と解決を検討する.
(1)生命進化における逆因果システムの出現
生命システムは,自身の外に出ることはできないため「自身の外界は存在するか」というSolipsism問題を抱えている.生命は部分を生成する閉じた化学システム(オートポイエーシス)として出現したが,外部状態に応じて構造変化する能力は限られ,物理・化学的ルールに縛られていた.この段階から,生命は外部状態に対し生存と繁殖に有利な反応を可能にする,“自身の内部状態のみで外部世界(外部状態や状態変化のルール)を捉える機能を持つ部分系”を発明した.これが逆因果システムである.生態系の中では,生存・繁殖を可能にするうえで多様な外界との関係性が可能であり,逆因果システムの多様性が進化した.
(2)逆因果システムの進化による意識の出現
Cognizer の集まりが逆因果システムという特定の構造を持ったとき,なぜ,どのようにして心的過程やクオリアをもつ意識状態が生じるかを説明し,「〜に意識はあるか?」という問いの答えの基準を提案する.さらに,下記(3)と比較し,なぜ科学が記述する物質が “量的な状態や特性”を持ち,クオリアのような心の状態が科学的描像から排除されるかを明らかする.
(3)科学的探求における逆因果システム
科学的探究には,科学者が自然の一部をモデル(仮説)化し,その検証を通してアップデートする過程がある.ここには,問い,実験系の制作,測定器を介した観察,仮説形成(アブダクション),仮説の予測の検証等が含まれる.この科学的探求を “測定器”というセンサーを組入れた“拡張された逆因果モデル”で表現する.昨今,AI時代の人間には“既存の科学的知識”を批判的に受け入れ,更新する能力が望まれている.演者が担当する演習型講義「科学の取説」(四国型次世代科学技術チャレンジプログラム[SHIN-GS], JST)の具体的な事例を用い,科学的探求の逆因果モデルを考察する.特に,新しい問いや仮説の考案は新規な観察を生み記号的リンクの再編成により,外部世界モデルの更新をもたらす.この過程は,生命の適応進化や脳の外界のモデル形成と類似し,共通の原理が働いていることを示唆する.