お知らせ

第16回生物学基礎論研究会のご案内

第16回生物学基礎論研究会の詳細を下記の通り決定いたしました。どうぞ奮ってご参加ください。


概要

日時:2023年3月14日(火)- 15日(水)

場所:愛媛大学 城北キャンパス 理学部講義棟3F S32教室

特別講演(敬称略):細田 一史(脳情報通信融合研究センター (CiNet)・神戸大学大学院保健学研究科・理化学研究所BDR)、楠橋 直(愛媛大・理・地学)


注意事項

・ご来場の際には不織布マスクの着用をお願いいたします。

・消毒用のアルコールをご用意しておりますので、ご来場の際にご協力をお願いいたします。

・当日体調の優れない場合はご来場をお控えください。


連絡先

田中 泉吏(慶應義塾大学)

senji@keio.jp


プログラム

3月14日(火)

9:30-9:40 開会の挨拶


研究報告(司会:鈴木 大地)

9:40-10:10 島谷 健一郎(統計数理研究所)「生態学における哲学論争:法則と数理モデル」

10:20-10:50 泉 龍太郎(日本大学)「ヒト・人類の将来進化に関する考察」


一般講演①(司会:網谷 祐一)

11:00-12:00 松本 俊吉(東海大学)「生物学の哲学から見た進化医学(その2)」


13:30-16:00 シンポジウム「Stand by me: Biologists meet philosophy」

森元 良太(北海道医療大学)「「Stand by me: Biologists meet philosophy」のための科学哲学」

江川 史朗(国立精神・神経医療研究センター)「生活史サイクルの中の”因果性”についての検討」

入谷 亮介(理研・数理創造プログラム)「進化生態学におけるメタファーの功罪を再検討する」

佐藤 達之(Beth Israel Deaconess Medical Center/Harvard Medical School)「ライフサイエンスの哲学:医学と生物学の間で」

オーガナイザー:森元 良太(北海道医療大学)・鈴木 大地(筑波大学)


特別講演①(司会:中島 敏幸)

16:15-17:15 細田 一史(脳情報通信融合研究センター (CiNet)・神戸大学大学院保健学研究科・理化学研究所BDR)「生命とは何か、何がわかれば嬉しいのだろうか:人工細胞、人工生態系、人工知能を例に」


18:00-20:00 懇親会(詳細は当日ご案内致します)


3月15日(水)

一般講演②(司会:田中 泉吏)

9:30-10:00 網谷 祐一(会津大学)「利益関心に基づく説明はいつ成功するか」

10:10-10:40 浅利 みなと(東京都立大学)「カモフラージュはシグナルたりえないのか」

10:50-11:50 片岡 雅知・澤井 努(広島大学)「ヒト脳オルガノイドはヒト個体でありうるか」


一般講演③(司会:松本 俊吉)

13:30-14:30 中島 敏幸(愛媛大学)「生命システムとして生態系とその進化」

14:40-15:10 米本 昌平(東京大学)「ドリーシュの新生気論とその批判の失敗」


特別講演②(司会:中島 敏幸)

15:20-16:20 楠橋 直(愛媛大・理・地学)「化石からみた中生代における哺乳類の"初期"進化」


16:30-17:15 総合討論/閉会の挨拶


発表要旨

研究報告

島谷 健一郎(統計数理研究所)「生態学における哲学論争:法則と数理モデル」

あまり知られていないが、生物学の1分野である生態学にも科学哲学がある。生態学誌上でもしばしば科学哲学的考察を含む論文が公表され、生態学界では誌上議論が盛り上がり、数は少ないが、(科学)哲学誌上で科学哲学者によって精査される論文もある。ここではそのような例として、Levins (1966) The strategy of model building in population biology. American Scientist とLawton (1999) Are there general laws in ecology? OIKOS を取り上げ、議論の経緯を概括した後、現在の統計的視点を加えて議論への参戦を試みる。


泉 龍太郎(日本大学)「ヒト・人類の将来進化に関する考察」

遺伝子工学技術が進展し、また人類の宇宙進出が拡大しつつある現在、生命体としてのヒト自体の進化も議論されている。遺伝子の変異そのものは偶然の産物で、その大半は有害であると理解されているが、遺伝子改変技術を自由に操れるようになった人類は、我々の望む方向に進化をコントロール出来るのだろうか。遺伝子や身体機能だけでなく、知的能力や社会性も、進化するのか、あるいはさせることが出来るのか。ヒトとしての人類の今後の進化の方向性について、議論を深めたい。


シンポジウム「Stand by me: Biologists meet philosophy」

オーガナイザー:森元 良太(北海道医療大学)・鈴木 大地(筑波大学)

ついに、待望のカンプラーキス&ウレル著『生物学者のための科学哲学』の訳本が出版される。生物学の哲学の入門書に新たなラインナップが加わることになる。日本でも生物学の哲学関連の文献が増え、生物学者にとって科学哲学は身近になってきただろう。『生物学者のための科学哲学』のねらいは、生物学者にとって哲学は贅沢品ではなく必需品だと示すことである。哲学は引退後の生物学者の贅沢な趣味にとどまるのではなく(それも大いに結構である)、生物学者にとって必要不可欠な道具なのだ。科学の目的や方法論、説明と予測の違い、メタファーの役割、生物学の分野間の関係、モデルの役割など、生物学研究に不可欠な問題は枚挙にいとまがない。これらは生物学の実験や観察で答えられる類いの問題ではなく、哲学の問題である。こうした問題は現役の生物学者も悩まし、引退後まで避け続けるべきではないだろう。

本シンポジウムでは、生物学研究者に科学哲学がどういう点で必要なのか、どのように役立つのかを語ってもらう。まず、森元(北海道医療大)が本シンポジウムに関連する科学哲学の前提となる知識を紹介し、そのうえで3人の生物学研究者が登壇する。江川史朗氏(国立精神・神経医療研究センター)は、恐竜の発生学研究で直面した方法論の問題や生活史サイクルの説明パターンへの疑問などの解決のヒントに科学哲学が役立つのか検討する。入谷亮介氏(理化学研究所)は、生物学で使用されるメタファーの役割や限界について、科学の目的に照らしながら考察する。佐藤達之氏(ハーバード大)は、医学と生物学という関連するが異なる領域の知識をどう結び付ければよいのか、それぞれの研究方法の違いをどう理解したらよいかといった問題について、科学哲学の知見を参照しつつ検討する。3者の抱える諸問題とそれらへのアプローチを通じて、生物学にとって科学哲学が役立つ必需品であることを示したい。


森元 良太(北海道医療大学)「「Stand by me: Biologists meet philosophy」のための科学哲学」

科学哲学は生物学者にとって必需品である。カンプラーキス&ウレル著の『生物学者のための科学哲学』のメッセージである。このメッセージを再確認することがシンポジウム全体の目的であるが、本発表ではその準備段階としてシンポジウムに関連する科学哲学の基礎知識を紹介する。とくに、『生物学者のための科学哲学』の1章(なぜ生物学者は科学哲学に目を向けるべきなのか?)、2章(生物学における説明は何から構成されるのか?)、4章(生物学における理論とモデルとは何か?)、6章(なぜ多くの生物学の概念がメタファーであることが問題になるのか?)、9章(生命科学者はどのような方法を用いるのか?)、10章(地球上の生命の歴史を科学的に復元することは可能なのか?)のなかの議論が関連するので、それらを簡単に紹介する。生物学の目的、方法論、概念やメタファーの使用法、生物学的な知識などを概説し、シンポジウムの講演内容の理解と円滑なディスカッションに役立てる。


江川 史朗(国立精神・神経医療研究センター)「生活史サイクルの中の”因果性”についての検討」

進化発生学(エボデボ)は20世紀後半に成立し、すでに研究領域として成熟しつつある。一方、こと脊椎動物に関しては、進化発生学の議論は発生生物学の範疇から外へは広がらず、形態形成(発生)より後の現象(e.g., 孵化後の運動機能や生理機能)とは半ば議論が分離した状態にある。本発表では生物の生活史サイクル(生活環)に焦点を当て、その中にみられる形態形成と生後機能の関係性を取り上げ、この関係性について哲学的考察を行う。

生物の一世代はしばしばサイクルとして表現される。親世代からゲノム受け継いだ受精卵が個体発生(胚発生~生後の成長)を経つつ、孵化後には身体の機能性を発揮させながら生存し、配偶子を形成して次世代の受精卵を作る。生物の系統が成立するためには、この生活史サイクル(生活環)の中で各時刻の各イベントがお互いに齟齬がないように整合的である必要がある。この中で、例えば「胚発生でこういう現象が起きるので、結果として成体にこういう形質が生じる」といった機械論的説明がある一方、「成体でこういう機能性を発揮する以上、胚の形態はこうなっていなければならない」といったような、いわば目的論的な説明がなされることがある。生活史サイクルを説明するにあたっては、これら機械論的説明と目的論的説明が相互に循環参照するような状況が記述され、しばしばこの作業をもって説明/理解とする場面に直面する。これは科学における一般的な説明様式(e.g., 因果パターンの描写, 統合)とは大きく異なった印象を与える。このような“サイクル型”の説明は哲学的にはどのように扱えるのだろうか? 具体例として恐竜の後脚を取り上げ、これを議論したい。


入谷 亮介(理研・数理創造プログラム)「進化生態学におけるメタファーの功罪を再検討する」

進化生態学で用いられるメタファー(暗喩)の多様性には目覚ましいものがある。そもそもダーウィンによる「自然選択」という表現がメタファーである。より一般に、レイコフとジョンソンによると、メタファーなしには概念体系は成立しない。メタファーによって、元の事象(生命現象;起点領域)が、別の事象(卑近な事例;目標領域)に置き換えられるという対応関係(準同型写像)を得る。その準同型写像によって、さまざまな現象が説明される。このような、「メタファーによる説明」という恩恵は、科学者であれば誰しもが享受している。

一方で、メタファーによる説明には制約がある。たとえば近似によって覆い隠された情報や、誤解のリスクがそれにあたる。また、あるメタファーの併用(ないしメタファー同士の結合)によって、起点・目標領域の間の対応関係や、それがアシストするはずだった科学的説明そのものが、不明瞭になることもある。特に進化生態学では、説明の不明瞭さがpluralismを生み出し、しばしば論争が引き起こされる。では、こうした問題を解決するためには、どのような分析が必要であろうか。

本講演では、メタファーの説明的役割だけでなく、「予測的役割」について議論したい。ここでの説明とは、現在や過去の事象に対して、原理やメカニズムなど、「why疑問文への答え」を与えることである。一方で予測とは、現在進行や未来の事象を言い当てることである。「メタファーには、予測能力はあるか?」という問いかけは、メタファーを説明の便宜でどのように解釈し使用するかについてだけでなく、予測に活かすべくどのように既存理論と組み合わせるかについて、新たな視点を与えてくれる可能性がある。


佐藤 達之(Beth Israel Deaconess Medical Center/Harvard Medical School)「ライフサイエンスの哲学:医学と生物学の間で」

 医学は病気を治すことを目的とした学問であり、生物学は生物を理解することを目的とした学問である。目的が異なるこれら2つの学問は、それぞれ個別に誕生・発展してきた。しかし、人間も他の生物と同様進化の結果であることをダーウィンが提唱し、さらには人間を含む生物共通の遺伝物質としてDNAが発見されたことで、生物学と医学の距離がグッと縮まった。その結果、生物学と医学が融合したライフサイエンスという学問領域が誕生し、大きく発展している。ライフサイエンスの領域では、生物学者が生活習慣病やがんの研究を行い、医師が分子生物学の手法を用いている。現代は、生物学と医学が、ライフサイエンスの旗印の元シームレスにつながっている時代と見ることができる。

非常にうまくつながっているように見える生物学と医学だが、元々の目的と、歴史的に用いられてきた方法論は大きく異なる。二つの学問は、本当にシームレスにつながっているのだろうか?本発表ではまず、私が医師としてライフサイエンスの研究を行ってきた経験をもとに、実際の事例を交えながら、医学と生物学の性質の違いを考察する。次に、どの様にして2つの学問がうまく融合しライフサイエンスが誕生したのか、また、その影で生じている歪みを検討し、その歪みを科学哲学がどの様に解決してくれるのか考えたい。非常に大きな学問領域となっているライフサイエンス、そしてその両翼を担っている医学と生物学、これら3つの学問を同時に哲学することで、新たな切り口の議題を提供し、科学哲学が医師を含むライフサイエンス研究者にとって必需品であることを示したい。


一般講演

松本 俊吉(東海大学)「生物学の哲学から見た進化医学(その2)」

前回の報告に続いて、進化医学について生物学の哲学の観点から考察する。今回は特に、進化「身体」医学と進化「精神」医学に共通して見られる適応主義的な前提について、批判的な観点から考えてみたい。

進化医学は、生体機構の単なる誤作動に見える疾病という現象の背後に何らかの適応的意義が隠されているかもしれないという作業仮説に立脚し、人類進化の過程でなぜそうした疾病が生まれ現在まで淘汰されずに保存されているのかという進化的究極要因=病因論を問題とするものである。しかし、進化医学の創始者であるG. C. WilliamsとR. Nesse——あるいはその一部の後継者たち——は、そうした進化的究極要因の考察ということで、壊血病の病因論のような中立的な変異の偶然的な固定なども含めた広義の人類進化史の参照という正当な意味を踏み越えて、しばしば「あらゆる疾患には何らかの適応価があるはずである」という意味での狭義の(正当化し得ない)適応仮説の構築に陥りがちである、という点を指摘することができる。そして彼らは、特に精神医学のような「発展途上の」分野について、こうした適応主義思考の導入によってそれを真の厳密科学たらしめることが可能であるという見通しを示しているのだが、こうした見通しは報告者にはあまりに楽観的に過ぎるように思われる。

この報告では、身体疾患や精神疾患のいくつかの具体例を論じながら、こうした「発見法としての適応主義の過剰」の功罪について考える。


網谷 祐一(会津大学)「利益関心に基づく説明はいつ成功するか」

科学知識の社会学(SSK)とフェミニスト科学批判は、社会階級やジェンダーバイアスのような科学外の関心・要因が科学的論争の決着や科学的仮説の内容に影響しうることを認める点で一致する。しかし両者の一般的な評価には差がある。SSKに属する研究はさまざまな批判を受け、SSK自体もその目標を達成したとは言いがたいというのは一般的な評価である。その一方、フェミニスト科学批判におけるジェンダーバイアスの指摘は、科学に対して批判的だが正当な視点をもたらしていると考えられている。本発表ではこうした評価の違いが正当なものか、またそうした違いの源が何かという問いを検討する。具体的にはSSKおよびフェミニスト科学批判が用いる事例のいくつかを概観し、二つの流派の間にいくつかの相違点があることを見る。例えばいくつかのSSKの研究は社会文化的関心が科学的論争の帰趨や科学的仮説の内容に影響を与えたとするが、個々の事例において本当にそうした影響関係があったのかについて批判が寄せられている。つまり関心と影響をつなぐ因果的連鎖が弱いのではないかという批判である。これに対してフェミニスト科学批判における因果的連鎖(ジェンダーバイアスが科学者に与える影響)は多くの場合深刻な批判を受けていない。もう一つの違いとしては両者が注目を当てる探究上の段階が異なることがある。いくつかのSSK研究は科学的論争の帰趨に社会文化的関心が影響を与えたかに着目する。これはこうした研究が、科学的仮説・理論が発表された後の段階に焦点を当てることを意味する。これに対してフェミニスト科学批判の研究は、被説明項の選択や仮説形成という比較的早期の段階でバイアスが影響を与えることを指摘する。発表ではこうした点が両者への評価につながっている可能性について議論する。


浅利 みなと(東京都立大学)「カモフラージュはシグナルたりえないのか」

動物のカモフラージュ(camouflage)という振る舞いは自然界に非常にありふれている。カモフラージュをどのように一般化するかについて、一つのありうる見方は擬態(mimicry)と一緒くたにして、自然界における嘘(lying)やだまし(deception)として取り扱うというものである(Sober, 1994)。この方針を採用した場合の一つの難点は、偽な内容を伝達するためにデザインされたシグナルとしてカモフラージュを扱うこととなり、これが標準的な動物シグナルについての見解と相反するという点である。動物のコミュニケーションを研究する論者のあいだでの標準的見解によれば、シグナルは「他の生物の振る舞いを変化させ、その効果をもつがゆえに進化し、受け手の反応も進化したがゆえに効果的であるような行動や構造」と定義される(Maynard-Smith and Harper[M&H], 2003)。M&H (2003) はこの定義を導入したあとすぐに、このシグナルの定義を満たさない振る舞いとしてカモフラージュを挙げている。というのも、彼らによれば、上述の定義の「受け手の反応」が進化するためには、そもそも当該の振る舞いが受け手に検出(detect)される必要があるものの、カモフラージュは明らかに受け手に検出されないために進化した振る舞いだからである。このようにして、Sober (1994) のようにカモフラージュを嘘の一種として扱おうとすると、生物学者のあいだで標準的に受け入れられているシグナル観との衝突が起きるのである。

このような背景のもと、本発表ではSober (1994) の立場の擁護を試みる。すなわち、カモフラージュがM&H (2003) のシグナルの定義を満たしうるという立場の妥当性について検討する。その際にまず考察の対象となるのは「検出」という概念である。本発表では、ある意味でカモフラージュも受け手に検出されているという見方を提示する。そのうえで、M&H (2003) のシグナルの定義とカモフラージュの関係を精査する。最後に、Sober (1994) は議論の補足として、彼の立場から見たときにカモフラージュと擬態の違いについて言うべきであったことについて私見を述べようと思う。


片岡 雅知・澤井 努(広島大学)「ヒト脳オルガノイドはヒト個体でありうるか」

オルガノイドとは、多能性幹細胞から分化誘導された三次元の組織のことを指す。このうち、多能性幹細胞から作製された三次元の脳組織が脳オルガノイドである。現在、脳オルガノイドの作製は、組織や器官の作製として規制されている。このため、ヒトクローン個体の作製を禁止する法規制を敷く国・地域でも、脳オルガノイドの作製は認められている。しかし、脳というヒト個体にとって極めて重要な役割を果たす臓器を作製することは、ヒト個体そのもの作製することに近いのではないかという懸念が市民のなかにはある。

現状のヒト脳オルガノイドは、ヒト脳の一部分を不完全に再現したものであるため、組織を作製しているという現行の法規制は妥当であろう。しかし今後、ヒト脳オルガノイドの培養技術はますます発展すると思われる。加えて、ヒト脳オルガノイドを血管や筋肉組織といった生体組織や、マイクロチップのような人工物とつなぐ研究も進んでいる。こうした研究がヒト個体を作製しているのではないかという懸念は、ますます大きくなると予想される。

この懸念に応えるために検討すべき理論的課題の一つは、そもそもヒト個体とは何なのかという問題だ。この問題への様々な回答方針のうち、本報告では、脳オルガノイドに関係が深い2つを検討する。第一は、ヒトの個体性は生命維持能力に存するという見解である。生命維持能力は脳に局在すると考える場合、十分成熟したヒト脳オルガノイドはヒトと見なされる可能性が出てくる。第二は、ヒトの個体性は心的能力に存するとする見解である。ヒト脳オルガノイドが何らかの心的状態を持つ可能性は近年大きく懸念されているが、それは同時に個体性を持つ可能性なのかもしれない。

本報告ではこれらの2つの見解をより詳細に検討し、ヒト脳オルガノイドがヒト個体でありうるか、ありうるとすればどのような場合かを明確にする。


中島 敏幸(愛媛大学)「生命システムとして生態系とその進化」

生命の定義は研究者により様々であるが,多くの定義では(a)構成要素を自己制作する(オートポイエーシス,代謝閉包),(b)環境との間に境界形成する(+外部の情報を得る),(c)複製する,(d)進化する,という特徴を挙げて非生命との違いを捉える.しかし,(a)から(d)の特徴づけは,分子システム,細胞形成,細胞(or多細胞個体)の複製,個体群の進化,という着目した生命現象を切り出した系列であるが,その外側にはブラックボックスの”環境”が隠伏的に存在する.さらに, a の過程が可能であるためには個々の代謝系を安定して支える高次レベルの組織,すなわち生態系が必須である.つまり,上記 a ~ d の生命現象の系列は生態系の部分系であり,短期から長期の時間スケールで生じる分子・生理・個体群過程を通して生態系内の他の要素の系列と相互作用している.このような生態系まで含めた生命システムの包括的なモデルを用いた進化の効果的な理論はこれまで発展していない.

本発表では,生命システムを細胞や個体としてではなく,原子・分子から生態系までの階層システムとして捉え,その時間スケールを延ばしたところに構成種の進化と生態系自身の進化がある,という全体論と還元論を総合した観点から生物進化を論じたい.この議論では,通常の適応進化モデルでは曖昧にされている“環境“概念のもとで適応度が定義されている点を批判的に検討し,以下のように二つの ”環境”を区別する.一つは, 短い時間スケールで有効な”主体とする個体や個体群が直接経験するローカルな主体−環境系“と,二つめは 長い時間スケールで有効な“主体が直接および間接に関わるグローバルな生態系ネットワークを通した主体−環境系” である.概念的・数理的なモデルに加え,3種からなる微生物モデル生態系の13年間の長期培養実験の結果を紹介しながら,長い時間スケールの生態系過程として進化を捉える.具体的な結論の一つとして「生態系という全体が,主体−環境相互作用を通して構成種のローカル及びグローバルな環境を作り,変化させ,構成種の進化を誘導していく.この構成種の個体群の進化(多様化を含む)により,生態系の物質とエネルギーの流れの構造が変化して生態系自体も進化する」という見解を述べる.


米本 昌平(東京大学)「ドリーシュの新生気論とその批判の失敗」

ハンス・ドリーシュ(1867-1941)は、ヘッケルの下で学位を得たが、その学風にあき足らず、発生力学(Entwinckelungsmechanik)を提唱するW・ルーと行動を共にするようになる。1891年に行った、ウニの二細胞期の細胞を分離する実験で、半分の幼生ではなく、小さいながら完全な形の幼生が発生してきたため、当時、権威のあったワイズマン学説が誤りであると確信した。1899年にルーの雑誌で、調和等能系概念を提案し、これが生気論的現象の証拠だとした。1904年に、『自然概念と自然判断』を著し、ここで最新の物理学の成果を総覧した上で、生命現象に秩序を供給する自然因子が不可欠であると結論づけ、これをEntelechieと呼ぶことを提案した。アバディーン大学で行った講義をドイツ語に訳し、1909年に『有機体の哲学』として出版し、成功を収めた。ドリーシュは、これを機に哲学に転進したが、その講義はたいへん人気があり、哲学者としても成功した。彼は、秩序一元論(Ordnungsmonismus)の理想に立って、ナチスの暴力的体質を批判し、この政権に対して非協力を貫いた。だが1930年以降、活動を始めた論理実証主義が、ドリーシュのエンテレヒーを徹底的に批判したため、第二次大戦後に、ドリーシュは非科学の代表とする評価が定着した。しかし、論理実証主義によるドリーシュ批判は誤読による面が少なくない。21世紀に入って四半世紀が経とうとしているいま、生命に関する自然哲学を軸とした現代思想史を描くべき時に来ている。


特別講演

細田 一史(脳情報通信融合研究センター (CiNet)・神戸大学大学院保健学研究科・理化学研究所BDR)「生命とは何か、何がわかれば嬉しいのだろうか:人工細胞、人工生態系、人工知能を例に」

生命とは何か。ありきたりな問いだ。細胞からなる、自己複製する、情報を食べる、等々、何が足りないのか。未だに色んな分子や微生物を混ぜるだけで新しい発見があるのはなぜか。一つは、物理原理的理解が足りなくて、手玉にとれた気がしないということがあるだろう。もう一つは、そもそも私が生命であるから興味があるのに、私自身の理解が足りないことがあるだろう。生命であり、人間であり、そして自分である、私は何か、何をしようか。一本の式で表現できるか。それができて、人類の文化が成長し、世界が幸せになると良いなと思う。

生命を知りたいなら、最小単位として人工細胞を作ろう、というありきたりな思いがあり、やってみた。人工細胞は分子の寄せ集めであり、生命と物質の境界にある。面白いことに、たかが分子でも、分子内や分子間に複雑な相互作用があり、自己複製は簡単ではなかった。しかし、様々な分子の条件を満たし、そして情報分子が一つまたは少数であると、自己複製可能となった。

次に、実験室内進化と人工生態系をやってみた。生態系の危機が個人的に不安であることに加えて、生命システムは外部からも定義されるべきだと思うからである。面白いことに、微生物であっても様々な進化を見せ、さらに複数の種を混ぜると予期しないことのオンパレードであった。

加えて、人間とは何か、自分とは何か、という視点をつなげたいため、人工知能を作っている。この分野は急速に発展しているが、「自分があるAI」は未だ挑戦的であり、それに取り組んでいる。これは神託機械やフレーム問題など応用として重要な概念にも深くかかわる。

以上のように人工細胞、人工生態系、人工知能をみると、有効自由度の変化や情報の凝縮などの共通点が観察されて面白い。生命誕生と自己誕生が似ているというのも頷ける。しかし私のこれまでの結果などほとんど意味がない。考えは育っているが、未熟すぎて時間が足りない。ここでの議論を通して、皆様から様々なことを教えていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。


楠橋 直(愛媛大・理・地学)「化石からみた中生代における哺乳類の"初期"進化」

既知で最古の哺乳形類 (Mammaliaformes; 広義の哺乳類) の化石記録は,中生代三畳紀後期の地層から見つかっており,哺乳形類には2億年以上の進化史があると考えられている.哺乳類の特に外見的な形態が多様化するのは,non-avian dinosaursが絶滅した6600万年前以降の新生代に入ってからである.そのため一般には哺乳類と言うと新生代の印象が強いが,実際には哺乳形類進化史全体で見ると中生代の占める割合のほうが新生代よりも圧倒的に長い.したがって,哺乳形類進化を考える上で,中生代は重要な時代である.例えば,古生物学だけでなく分子系統学的研究からも,現生哺乳類グループ (単孔類・有袋類・有胎盤類) を含む分類群 (アウストラロスフェニダ類・後獣類・真獣類) はすべて中生代に出現したと考えられている.しかしながら,中生代の哺乳形類は一般に小型で,化石として保存されにくい上に発見されにくく,したがって,中生代哺乳形類の研究は,主に断片的な化石記録に基づいておこなわれざるを得ない.そのため,中生代における哺乳形類・哺乳類の “初期” 進化については,まだまだわかっていないことが多いのが現状である.例えば,有胎盤類の初期放散の時期については,白亜紀の間に短期的にあるいは長期的に起こっていたとするモデルや,新生代に入ってすぐに爆発的に起こったとするモデルなどいくつも提唱されているものの,依然決着をみていない.

演者は主に東アジアの白亜紀哺乳形類に基づき,中生代哺乳形類の古生物学的な研究をおこなっている.そこで本講演では,化石記録に基づく古生物学的な立場から,中生代哺乳形類・哺乳類の進化について概観する.また,演者らがおこなっている,前期白亜紀における東アジアの哺乳形類相の変化に関する研究を紹介したい.その上で,ぜひ古生物学以外の分野からのご指摘やご意見・ご討論をいただきたい.