2012年9月2-3日 名古屋大学 東山キャンパス
プログラム
9月2日(日)
11:40-12:10 「実験科学における背理的ロジックの問題」 中島啓光(横浜国立大学)
13:30-14:10 「分子遺伝学でどこまでわかるか:線虫の神経系での情報処理および個性」 南波英志(東京大学)
14:20-15:00 「恐竜絶滅論争の解剖」 高橋昭紀(早稲田大学)
15:10-15:50 「断続平衡説とは何だったのか」 田中泉吏(慶應義塾大学)・高橋昭紀(早稲田大学)
16:00-18:00 ワークショップ「遺伝を問い直す」
「遺伝にまつわるエトセトラ」 森元良太(慶應義塾大学)
「絡み合う遺伝の諸要因」 南波英志(東京大学)
「ご冗談でしょう、ヴァイスマンさん:獲得形質の遺伝をめぐる誤解と誤謬」 鈴木大地(筑波大学)
「ラマルクとラマルキズム」 横山輝雄(南山大学)
18:00-20:00 懇親会
9月3日(月)
9:30-10:10 「遺伝子の決定性について」 松本俊吉(東海大学)
10:20-11:00 「適応とは何か? 生物学的確率と情報の理論がめざすもの」 中島敏幸(愛媛大学)
11:10-11:50 「生命の起源の創発説:マラテールの実用主義的創発による解釈をめぐって」 佐藤直樹(東京大学)
13:30-14:10 「生命の目的の創生と目的の段階的能動進化に基づく生物機械部品の目的機能の形成」 大西耕二(新潟大学)
14:20-15:00 「生命科学における情報概念の役割について」 石田知子(慶應義塾大学)
15:10-17:10 ワークショップ「Exploring future direction in history and philosophy of Evo-devo」
「The origin of the “extendedness” of evo-devo in the 80s」 吉田善哉(京都大学)
「過程に潜在する形態」 梶智就(北海道大学)
「エボデボから科学哲学にお持ち帰りできる大きめのおみやげ」 戸田山和久(名古屋大学)
要旨
「実験科学における背理的ロジックの問題」 中島啓光(横浜国立大学)
何かを失うことによって,初めてその失ったものの意味を知ったり,重要性に気づくことがある.実験科学の世界では,何かを人為的に失わせることによって,その失ったものについて知るという方法を用い,多くの研究が行なわれてきた.医学,生物学,心理学といった様々な分野における最先端の実験的研究で用いられているこの方法は,1つのロジックに支えられている.Xがない場合に生じる障害や欠損を調べれば,Xの機能,役割について知ることができるだろう,というロジックである.このロジックを本研究では背理的ロジックと呼ぶ.本研究の目的は2つある.1つは,背理的ロジックが実験的研究の場でどのように用いられ,結果としてどんなことがわかったのかを,いくつかのケースについて検討することで,このロジックの有効性と限界を浮き彫りにすることである.例えば,背理的ロジックに基づく実験の成功したケースとして,山中らがiPS細胞の開発過程で行った実験を,失敗したケースとして,福岡らがノックアウトマウスを用いて行った実験を,それぞれ取り上げ,考察する.もう1つの目的は,背理的ロジックそのものの構造と前提について分析することにより,現代の諸科学が抱える根本的問題に光を当てることである.背理的ロジックの理想形をJ.S. Millの差異法に見出すことができる.この差異法との比較を通して,背理的ロジックの構造と前提を明らかにし,これらについて議論する.
「分子遺伝学でどこまでわかるか:線虫の神経系での情報処理および個性」 南波英志(東京大学)
動物が行動を変化させる際に、脳・神経系で何が起こっているのかは、大きな謎である。おそらく感覚神経が刺激を受容し、その下流の神経回路において何らかの情報処理がおこなわれていると考えられている。この情報処理のプロセスを解明するためには、神経ネットワークにおける個々の神経細胞の機能を制御するメカニズムを明らかにすることが重要であると思われる。そして、神経系における情報処理のプロセスが明らかとなることで、例えば、神経疾患に対する診断や治療や予防へとつながるなど医学への応用も大きく期待される。高等な動物の神経系は、神経細胞(ニューロン)の数が非常に多く、ヒトの脳に至っては1000億の神経細胞によって構築されている。そのため、脳の神経回路網における神経細胞同士の接続の組み合わせは天文学的な数値になり極めて複雑である。一方、個々の神経細胞の物理化学的な性質に着目してみると、高等な動物と単純な動物の間に、実はあまり差は存在しない。そこで、特定の行動に関わるシンプルな神経回路のしくみを調べることで、複雑な神経にも共通するくしくみの基本原理を明らかにすることができるかもしれない。そこで私は、神経系における情報処理のしくみを調べることを目的として、わずか302個の神経細胞からなる非常に単純な神経系を持つ線虫C. elegansを用い、その神経機能の解析を現在までおこなってきた。本研究報告では、まず、線虫が温度に対して応当する際の温度走性行動に必要な神経回路と遺伝子についてまとめ、さらに個々の線虫の「個性」の違いを調べる計画についても検討し、分子遺伝学の可能性を探りたい。
「恐竜絶滅論争の解剖」 高橋昭紀(早稲田大学)
化石記録は常に不完全である.これは,古生物学者が生物進化や絶滅パターンを研究する上で大きな障害となる.化石記録はただ不完全なだけでなく,産出頻度が種によって大きく異なるため,本当は突発的な同時絶滅(一斉絶滅)であるものが,あたかも漸進的絶滅であるかの様にみえてしまう.これをSignor-Lipps効果(シニョール・リップス効果;以下,SL効果)という.SL効果があるため,大量絶滅の原因を論じる際に常に議論が紛糾してきた.
白亜紀/古第三紀境界(K/Pg境界)で生じた大量絶滅をめぐる議論では,SL効果をどう見積もるかが重要な争点となった.1980年にアルバレスらによって提唱された小惑星衝突説(以下,衝突説)は,世界中の古生物学者に強い衝撃を与えた.衝突説とは,衝突によって大量の塵・煤(スス)・硫酸エアロゾルなどが空中に巻き上げられ太陽光が遮断されたため,食物連鎖の最下位にいた光合成生物が大量に死滅し,生食連鎖が断ち切られたために大量絶滅が生じたというものである.この説は,地質学的現象は常に一定の速度で徐々に進行するという「斉一説」の考えに反するため,1980年代には衝突説アレルギーといえる程,古生物学者の反論を被った.だが,1991年にメキシコのユカタン半島のK/Pg境界において,直径約180kmのクレーターが発見されてからは,衝突説反対論者の勢いは一気にトーンダウンし,もはや小惑星衝突の事実を疑う研究者はほとんど相手にされなくなった.これを受けて,衝突説反対論者は,白亜紀末の大量絶滅の原因を衝突に求めるのではなく,生物は白亜紀末に向かって徐々に(漸進的に)絶滅していき,多様性が著しく低くなった時に,最後のとどめとして衝突があったと主張するようになった.すなわち,衝突がなくても大量絶滅は起こっていたという主張である.果たして白亜紀末の生物は漸進的に絶滅していったのか,それともK/Pg境界まで高い多様性を保っていて突発的に絶滅したのだろうか.
この問題に正しく答えるためには,SL効果を取り除かなければならない.SL効果を取り除くために,K/Pg境界付近での化石が集中的に採取され,また生物種の層序的分布の信頼区間推定や希釈解析(rarefaction analysis),abundance-based coverage estimatorなどの様々な統計学的手法が開発・利用された.それらの手法が駆使されて,近年ではK/Pg大量絶滅は突発的に生じたという合意がほぼ形成されるに至った.本発表ではその経緯について詳しく論じる.
「断続平衡説とは何だったのか」 田中泉吏(慶應義塾大学)・高橋昭紀(早稲田大学)
断続平衡説がエルドリッジとグールドによって提唱されてから今年でちょうど40年の節目を迎える。その歴史は賛否両論の激しい論争に彩られている。支持者たちは、それが古生物学による進化生物学への重要な理論的貢献だと主張した。その一方で、進化生物学の主流派(進化の総合説の支持者)は漸進主義の立場からこれを強く批判した。本発表ではまず、断続平衡説の主張とそれに対する批判を概観する。次に、大進化のパターンについての古生物学の諸研究を紹介する。それらの中では、漸進的進化や断続平衡的進化のほかに、様々な進化パターンが報告されている。それらの報告を整理したあとで、様々な進化パターンの背後にあるとされるプロセスについての諸説も検討する。その後、地質学の一分野である生層序学が断続平衡説の評価に重要な意義を持つことを指摘する。断続平衡的な進化パターンは、ダーウィンと同時代の古生物学者によってすでに漠然と認識されてはいたが、その進化論的意義が深く追究されることはなかった。他方、その進化パターンは断続平衡説が提唱されるよりも遥かに以前から生層序学の実践において広く活用され、層序確立と年代対比に用いられていた。すなわち、地質時代境界の多くが、ある生物(群)の出現や消滅(絶滅)で定義されているのである。生層序学の営みが断続平衡的な進化パターンに依存し、しかもそれが大きな経験的成功を収めてきたという事実は、断続平衡的な進化パターンが実在することの何よりの証拠である。断続平衡説はこのことを進化古生物学の主張として改めて明確に述べたものとして評価できる。最後に、断続平衡説と総合説を比較検討する。議論の焦点になるのは大進化と小進化の関係である。また、断続平衡説の位置づけについて考察する。すなわち、それは仮説あるいは理論なのか、それとも化石記録の見方や解釈の仕方なのか、はたまた方法論なのかという点について検討する。さらに、論争を断続平衡的進化と漸進的進化の二項対立として捉えることの問題点を指摘する。本発表では、以上の考察を通じて、断続平衡説とは何だったのかと問い直したい。
ワークショップ「遺伝を問い直す」
「企画主旨」 森元良太(慶應義塾大学)
遺伝が熱い。熱いといっても、夏の猛暑のせいでも節電のせいでもない。そもそも「アツイ」という漢字が違う。そうではなく、これまでの考えをひっくり返すような報告があがっているからだ。遺伝をつかさどるのはDNAであるというのが進化の総合説の信条の一部であった。だが、近年の遺伝研究の成果を踏まえると、DNA中心の遺伝観はどもう怪しいらしい。エピジェネティクスの研究により、染色体上のDNAの塩基以外も遺伝することがわかってきた。それだけでなく、最近では獲得形質が遺伝するという噂もある。さらには、ラマルキズムの復活や進化の方向性を擁護する主張までなされている。どうやら、遺伝について問いなおす必要があるようだ。そこで本ワークショップでは、DNA中心の遺伝観を崩す事例をいくつかあげ、遺伝の要因について検討する。DNA以外に何が遺伝するのか、獲得形質はほんとに遺伝するのか、などを問いなおす。また、DNA中心の遺伝観から脱却することはどういう帰結をもたらすのかについても考察する。ヴァイスマンはラマルキズムを死滅させたのではなかったのか、ラマルキズムはほんとうに復活するのか、といった問題も取りあげる。こうした遺伝にまつわる諸問題を、分子遺伝学、発生学、歴史、哲学というなまざまな角度から議論をし、遺伝についての正しい理解を目指したい。
「遺伝にまつわるエトセトラ」 森元良太(慶應義塾大学)
獲得形質の遺伝はしない。ラマルキズムはヴァイスマンのおかげで死滅した。これらは進化の総合説の常識である。いまでは、ラマルキズムを擁護しようものなら白い目でみられる風潮にある。ところが最近、獲得形質が遺伝する事例の報告がNatureなどの有名雑誌に掲載されるようになった。また、生物学の哲学者エヴァ・ヤブロンカと生物学者マリオン・ラムを中心に、総合説の遺伝に関する常識を覆す試みがなされている。彼女たちは1995年にEpigenetic Inheritance and Evolution―The Lamarckian Dimension-、2005年にEvolution in Four Dimensionsを出版し、新しい進化論を展開する。どちらの本も「遺伝(inheritance)」に焦点をあて、従来の遺伝概念の拡張、さらにはラマルキズムの復活を提唱している。どうやら遺伝研究が騒がしいようである。いったい遺伝研究になにが起こっているのだろうか。
遺伝とは、いうまでもないが、親の形質が子やそれ以後の世代に現れる現象のことである。では、遺伝をつかさどるものは何か。アリストテレスの時代からさまざまな案が提出されてきたが、20世紀半ばにはDNAがその答えとなった。DNAの塩基こそが遺伝をつかさどるいう考えは進化の総合説の主張の一部に取り入れられ、一般にも広まった。しかし近年、DNA以外の物質も遺伝に関与することがいろいろ報告されている。有名なのはエピジェネティクスの研究であり、染色体上のDNAの塩基以外にも、DNAやヒストンを修飾したメチル基なども遺伝をつかさどることが明らかとなった。また、妊娠期間における母親の食事が子の嗜好に影響を与えることやトリの歌声が次世代に伝わることなどが議論されている。さらには、文化や言語などがDNAを介さずに伝わると主張されることもある。このように、遺伝要因についての従来の見方に変更が迫られている。ヤブロンカたちはこうした事例と思考実験を織り交ぜて、ラマルキズムの復活などの過激な主張を展開する。
ヤブロンカたちの議論は思考実験やレトリックが駆使され、ときに大きな論理の飛躍もみられる。彼女たちの論証を綿密に吟味することも重要ではあるが、本発表ではそれはおこなわない。むしろ彼女たちの主張を足がかりに、遺伝にまつわるいくつかの問題を提起する。DNA以外に遺伝するものがあるのか、獲得形質は遺伝するのか、ヴァイスマンは何を論じたのか、ラマルキズムはほんとに復活できるのか。遺伝概念が生物学さらには哲学にどんな影響を及ぼすのか、いまいちど問いなおしてみたい。
「絡み合う遺伝の諸要因」 南波英志(東京大学)
生物の存続や進化には、形質等が次世代に遺伝することと、形質に変化が生じること、の両方が重要であると思われる。形質がどのようなしくみで遺伝するのかについては、古くから研究されてきた。現代の遺伝学につながる研究では、まずメンデルが遺伝の法則を発見し、その後、遺伝子の実体が核酸であることが発見された。分子遺伝学の発展期には、DNAが二重らせん構造であることが突き止められたことを契機に、DNAの半保存的複製による遺伝情報の世代間の伝達しくみが明らかにされるなどの広がりをみせてきた。さらに、近年では、エピジェネティクスの分野で、上記のDNAをベースとした従来の遺伝情報の伝達の範囲には収まりきらない新しいタイプの遺伝のしくみが解明されつつある。そして、環境による影響や分子レベルのゆらぎも無視できない場合がある。しかしながら、実際にはそれらを明確に区別することは容易ではない場合も少なくない。そこで、本研究報告では、分子遺伝学の研究による、遺伝のしくみについてのこれまでの知見をまとめ、それらに関連する論点に関して議論したい。最後に、分子遺伝学における課題を検討する。
「ご冗談でしょう、ヴァイスマンさん:獲得形質の遺伝をめぐる誤解と誤謬」 鈴木大地(筑波大学)
獲得形質の遺伝は一般に、進化の総合説では否定されている。それは「体細胞で新しい形質が獲得されても、その遺伝情報が次世代に伝達されないため」であると説明される。この説明には、①;生殖系列と体細胞系列の区別、②;遺伝子型から表現型への一方向性、さらに③;①と②を同一視すること、が前提とされている。これらのテーゼは現代においても総合説の中核を担っており、特に遺伝子中心主義的な文脈でその重要性は更に高まる。また総合説の中心的基盤は、ダーウィン主義・ヴァイスマン主義・メンデル主義という3つの側面に分析することができるが、獲得形質の遺伝の否定に関するこれらのテーゼはヴァイスマン主義とメンデル主義的な側面が強い。生物学史上においても、獲得形質の遺伝の否定はヴァイスマンが主導的に行ったものとされており、この議論におけるヴァイスマン主義の重要性は高い。それではこれらのテーゼは進化一般を論じるにあたって妥当と言えるのだろうか。ヴァイスマンはすべての獲得形質の遺伝を否定したのだろうか。本発表では、近年の研究を踏まえつつ、獲得形質の遺伝について生物学的・哲学的・歴史的に精査する。
「ラマルクとラマルキズム」 横山輝雄(南山大学)
ラマルクの著書『動物哲学』が出されたのは、ちょうどダーウインが誕生した年の1809 年である。18世紀の「進化論の先駆者」と違い、ラマルクは明確に進化論を提示したにもかかわらず、現在歴史の教科書などでは「進化論といえばダーウイン」である。ラマルクをダーウインとの関係でどう位置づけるかは繰り返し問題となってきた。ラマルクの直後にキュビエによる否定があり、ダーウインも高く評価していない。しかし、ダーウインの没後「ダーウィニズムの失墜」の時期にラマルク復興がおこり、ネオ・ラマルキズムが唱えられ、伝記が書かれたりし評価が高まった。総合説の確立と拡大の時期までそれがつづいたが、その後ラマルクは失脚しダーウインの天下になった(現在、また復活?)。
こうしたラマルク地位の変転は獲得形質遺伝の問題とからんでいるが、それはヴァイスマンのネオ・ダーウィニズム時代の問題設定によるところが大きい。歴史の見直しが起こるのは、現代の問題が過去に投影されるためでもある。一般に自然科学では過去の歴史は単なる顕彰でしかないが、ダーウインをめぐる歴史の再解釈は、単にそれだけではない、現在の研究の位置の自己認識の問題とむすびついており、人文社会科学における問題と似た性格のものがある。歴史の見直しを行う場合、現在の専門分野から過去に遡及する分野別学説史(進化論史、遺伝学史、発生学史など)の再編成も視野に入れる必要があろう。
「遺伝子の決定性について」 松本俊吉(東海大学)
われわれ生物学の哲学者にとって「遺伝的決定論」という表現は、一般的には否定的な響きをともなっている。それはかつての社会生物学論争などを通じて醸成されてきたイメージであろう。けれども、現在の生命科学者には、この表現に違和感を抱くことなく肯定的に言及する人々も多い(たとえば、斎藤2011)。では、ある形質が「遺伝的に決定されている」とはそもそもどういう意味なのか。本報告では、以下のような論点に依拠しつつ、この素朴な問いにいま一度迫ってみたい。
(1)かつて「遺伝的決定論者」として指弾されたE. O.ウィルソンやR.ドーキンスは、すでに1970年代の段階で、「統計的な傾向性」と「不可避的な決定性」との相違を強調し、いわゆる「遺伝子と環境との相互作用」の重要性について言及していた。では、昨今エボ・デボやエピジェネティクスなどでしばしば言及される「遺伝子と環境との相互作用」には、いかなる固有の、もしくは新奇な意味があるのだろうか。
(2)そもそも「遺伝子」とは何か。「ある形質が遺伝的にコードされている」という言明の持つ意味は、科学的な文脈においてさえ、必ずしも明確に定義されているわけではない。現在、大まかに二つの異なる遺伝子概念が、ときに混同されつつ流通している。一方は「ヒトの遺伝子は2万数千個である」と言われるときのように、その染色体上の部位が明確に特定されたDNA配列であり(いわゆる「遺伝子D」)、他方は「赤目の遺伝子」「肺ガン遺伝子」などと言われるときのように、生物体の適応度に差異をもたらすように見える表現型Xの背後にそれをコードする遺伝子が存在するものと想定し、それを「Xの遺伝子」と呼ぶというものである(いわゆる「遺伝子P」)(Moss 2003)。
(3)従来、遺伝的決定論や適応主義をめぐる論争が紛糾した背景事情の一端は、必ずしも遺伝的基礎があるかどうかは定かでない――つまり現時点で何らかの適応的(adaptive)な機能を担っていても、それが過去の自然選択によって固定された適応(adaptation)であるとは確定していない――表現型に関して、遺伝子Pの意味でとりあえずその遺伝的基礎の存在を想定するという語用法が特に進化生物学者たちによって乱用される傾向にあり、それを逆に批判者の側が、遺伝子Dの意味であたかもそのDNA上の部位が明確に特定された物言いであるかのように受け取ってしまったという点にあるように思われる。
参考文献
・斎藤成也『ダーウィン入門』ちくま新書、2011年
・Lenny Moss, What Genes Can’t Do, The MIT Press, 2003
「適応とは何か? 生物学的確率と情報の理論がめざすもの」 中島敏幸(愛媛大学)
自然選択説は生命の適応性を説明してはいない。より適応した遺伝的形質が存在するなら、それが集団内や新しいニッチに広まることを説明しているだけである。では、生命の環境に対する適応となはにか?適応度は繁殖の成功度を意味するが、これは個体のタイプの持つ繁殖率と生存率で決まる。環境におけるどのような形質が繁殖率を高め、或いは生存率を高めるか、という問いに対して、具体的なケースごとの個別的な説明ではなく、一般原理を探ることは重要な課題であろう。
すでに一部の研究者によって指摘されているように、環境と相互作用しながら生存と繁殖をおこなう単位としての生命システムの適応とは、「環境から情報を取り適切に行為し、自らが経験する事象の不確実性を減少させ、生存に好ましい事象を高確率にして生存および繁殖をおこなう」というよう理解できるだろう。しかし、このような適応性を科学的に理解するには、この説明にある「事象の確率」とはなにか、それはどのようにして決まるか、「情報」とは何かという、基礎的な問題を解決しなければならない。さもなければ、上記の説明は適応についての説明ではなく、我々が説明しなければならないことの別表現に過ぎないだろう。
私の提題では、確率が何を意味するかについて、複数ある従来の見解を整理した上で、いずれも上記の生命の適応性を捉える基礎概念にはなり得ないことを指摘したい。つぎに、これに変わる、確率についての理論の概略を示し、そのもとで、意味を取り扱える情報理論の構築の展望を議論したい。
「生命の起源の創発説:マラテールの実用主義的創発による解釈をめぐって」 佐藤直樹(東京大学)
生命の起源の問題は,ひとり生物学や進化学の問題にとどまらず,哲学の問題ともなっている。昨年取り上げたJ. Monodは,"Le hasard et la nécessité" (1970)の中で,生命の起源も人類の起源も偶然であり,出現する確率はほとんどゼロである状況で出現したという。その過程は,有機物や高分子化合物の合成(化学進化),機能分子の合成,最少複製システムの誕生である。この3段階は,その後,M. Morangeも,また,C. Malaterreも踏襲している。
Malaterreは,生命の出現が創発と言えるのか否かということについて,議論を展開している。創発にもBroad (1925)の定義,Hempel & Oppenheim (1948)の定義,Kim (1999)の定義などがあるが,Malaterreは創発を認識論的に捉え,van Fraassen (1980)による説明の実用主義的なモデルを用いて定義しようとする。それには,まず,問題Qを,対照となる命題クラスXとの対比において真となる命題Pkとして定式化し,「Aであるので,Xの他のメンバーとの対比においてPkである」という説明Aを見いだすのである。その際,還元的な説明文脈における適切性を与える条件RR : 問題となる現象が属するシステムSと同じかそれ以上の組織化階層にあって,SまたはSの部分を含む実体を援用しないこと,が課せられる。文脈に依存した認識論的な問題として, 創発を議論することは,科学知識の進展とともに創発であるか否かの判断も変わってくることを意味する。
これに基づいて,Malaterreは,古来,創発といわれた水の透明性に対して,分子レベルでの還元的な説明ができることを示し,創発とは言えないことを結論する。この議論を生命の起源の3段階に適用することにより,最初の段階はおそらく還元的な説明が可能だが,あとの二つの段階は,現在の科学の知識では説明可能ではなく,創発といわざるを得ないと結論する。ただし,第二の段階に関しては,部分過程を考えればある程度説明可能であり,残りも未来永劫,説明不能(=創発)であるとも思えない。同様に考えると,第三の段階についても,段階をさらに細分化して考えれば,それぞれの段階に関する還元的な説明をつけることは可能だろうという。発表では,こうした議論を紹介しながら,生命の起源についての考え方を整理してみたい。
参考文献
Monod, J. (1970) Le hasard et la nécessité. Essai sur la philosophie naturelle de la biologie moderne. Seuil, Paris
Morange, M. (2003) La vie expliquée? 50 ans aprés la double hélice. Odile Jacob, Paris
Malaterre, C. (2010) Les origines de la vie: émergence ou explication réductive? Hermann, Paris
佐藤直樹(2012) 「40年後の『偶然と必然』 モノーが描いた生命・進化・人類の未来」 東京大学出版会
「生命の目的の創生と目的の段階的能動進化に基づく生物機械部品の目的機能の形成」 大西耕二(新潟大学)
Shannonの情報量の定義 (I = - k log P) が認知主体としての生物個体の存在を前提とすることから、情報は情報認知系としての生命と同時に起源し, 最小認知系として生命が起源した(Artif.Life Robotics 16: 448-454,2012)。生物個体が自己改良型学習認知機械であることから、「何をするための機械であるか?」を問うと、個体は自己類似の次世代個体を作る「目的」をもった精密機械である。この第1目的は広義(または第1段階)の自己複製であり, 生命起源段階において自然選択で創成可能な属性である。第Ⅰ目的を持たない個体は死滅し、適応的な個体が自然選択されることによって, 適応的な目的(=第1目的)が結果的に選択される。生命起源後においては、第1目的の効率的達成のための補助目的としての第2目的をもつ体内部品(例えば代謝系分子)等が第Ⅰ目的達成機能を基盤として生物個体によって認知的に形成され、さらに第1,2,…,k目的のうちのいくつかの目的の効率的達成のための補助目的としての第k+1目的をもつ体内部品等がその幾つかの目的の達成機能を基盤として個体によって認知的に形成される。これらの目的の段階的形成過程は生物自体の自己改良型情報認知機械としての認知機能の関与の下で能動的に進行する。その結果は第1~第n目的間のハブ構造をもつ効率的なscale-free network(Barabasi & Oltvai,2004)の関係を築くであろう。これらの部品の目的(=機能)は集約されて第1目的達成効率(=Darwin適応度)を結果的に高めるか否かによって, 生物自体の在り方や行動様式によって(即ち能動的に)選択されて進化する。「目は見るために進化したか?」などを議論する。また, 能動進化の例としての隣接環境の内在化・体内部品化の例を部品の目的の設計の例として論ずる。人工機械の目的はヒトが設計して与えるのに対し, 生物機械の目的は認知系としての生物自身が第Ⅰ目的達成の効率化に寄与するように創成または設計する。そこでは偶然の適応的または中立的変異が能動的に拾われるメカニズムを伴うケースが多いであろう。
このような過程を経て、シンプルな化学反応系をもつ原初認知系生物個体の体内分子道具としての触媒分子や基礎代謝系分子や膜構成分子が認知的に形成または利用され, 原始代謝系が段階的に複雑化し, さらにはATP利用系やヌクレオチド類似触媒分子など(NADHや現在の補欠分子族など)をも含む高度の代謝系をもつ単細胞個体が進化した。4種の記号要素としての塩基を含む情報記号分子としての核酸分子道具の創生は, このような高度に進化した認知主体としての単細胞生物個体が, 同種集団が共有する体内記号文化としての文化記号の形成過程を経て認知的に進めた。このことは核酸分子記号系は生物の体内記号文化として進化したものであって, 遺伝暗号のような高度に洗練された記号系の進化の論理基盤が,ソシュール記号論の「記号は全て文化記号である」という主張と合致する。記号系は認知的主体の近縁者集団の文化進化の過程で創成されるものであって, 酵母菌や蛾のフェロモン記号系のような個体間情報伝達記号系に留まらず,同種個体群における体内・細胞内分子記号やホルモン分子記号のような体内文化記号をも含むものと「記号」を拡張定義することによって, 文化記号学としてのソシュール記号学を「一般生物(文化)記号学」へと発展的に展開できる。単細胞個体集団における遺伝暗号系の進化はそのような認知的文化進化における記号文化の進化産物であったとほぼ断定できる。これらは全て, 生物が起源段階から情報認知能を基本特性として具備していたことの進化的必然である。核酸は次世代へ情報を伝える「目的」をもった分子道具部品としての文化産物であって, 文化を生み出す認知主体性が生命の本質である。生命の本質的特性は核酸の出現以前に確立されて今日まで引き継がれている。Caetano-Anolles et al. (J.Mol.Evol. 74: 1-34, 2011) は核酸中心主義を乗り越えた初期生命論を展開している。
能動進化,雌雄選択, 超個体の能動進化, 進化の能動的方向付けの論理基盤, ラマルクの用不用説の現代的解釈と「体細胞のゲノム選択機能および生殖系列細胞のゲノム遺伝機能」の分業的役割, ワイズマンによるラマルク説の矮小化と曲解, 細胞の思考(団まりな), 粘菌の知性(小林亮・中垣俊之), mRNA起源論(=poly-tRNA説)(大西), Dawkinsなどについても適宜取捨選択して言及し, 認知主体としての生物個体の進化の視点から議論する。
「生命科学における情報概念の役割について」 石田知子(慶應義塾大学)
現在、情報やそれにまつわる概念は生命科学では広く使われており、それらなしに生命現象を語ることは難しいように見える。中でも、とりわけ重要なのは「遺伝情報」という概念であろう。本発表では、遺伝情報概念を中心に、生物学における情報概念はどう理解されるべきか、またこの概念が生命科学に果たす役割は何か、といった問題を考えたい。その際に鍵となるのが、科学哲学者であるロナルド・ギャリーらが展開するモデルベースの科学観である。まず、遺伝現象をはじめとした様々な生命現象の理解に、いかに情報モデルが貢献しているかを概観する。また、情報モデルを通して現象を理解することの意味についても考察したい。
ワークショップ「Exploring future direction in history and philosophy of Evo-devo」
「企画主旨」 中尾央
Evo-devo最初の教科書(Hall 1992)が出て20年が経つ.2000年前後から哲学でも(DSTではなく)evo-devoへの関心が高まっていき,従来の総合説への挑戦としてのevo-devoの側面が強調されてきた.また,歴史的考察ではHaeckel,Roux,Goldschmidt,Waddington,de Beer,Berrill...といったevo-devoの「先駆者」に主な焦点が当てられてきた.本WSではこうした従来の流れを超え,evo-devoの歴史と哲学に新たな視点を持ち込むことを目的とする.まず,歴史的考察においてはこれまで(その重要性は認識されつつも)比較的注目されてこなかった80年代に焦点を当て,生物学史におけるevo-devoの位置づけを再度見直す.哲学的考察においてはevo-devoの核の一つをなすと考えられている形態学において,「説明」がいかなるものであると考えられているのかを考察し,evo-devoにおける説明の多様さを指摘する.
「The origin of the “extendedness” of evo-devo in the 80s」 吉田善哉(京都大学)
1980年代には複数の分野で進化と発生の関連を探る動きが活発化し,そうした動きは進化発生生物学(エボデボ)の成立に様々な形で寄与したと考えられている.本講演では,ぺル・アルバーク,ブライアン・K・ホール,ゲルト・B・ミュラーという3人の研究者の活動を中心に,この年代の進化と発生を巡る動きの精緻化を試みる.3人の研究は当時断絶されていた実験発生学と比較系統学それぞれの手法を併用したものであり,彼ら自身もそれらの分野を統合することを目指して研究を行っていた.また,彼らは当時の進化生物学を遺伝子・適応中心主義であるとして批判し,進化を考える上で遺伝子や適応と同等に,あるいはそれら以上に重視されるべきものとしてエピジェネティクスの概念を強調した.こうした研究はエボデボの成立に大きな影響を与えており,特に,エボデボの中でも形態の進化研究において核となっているエピジェネティクスの概念は,まさにこの3人を起源とするものである可能性があるのである.
「過程に潜在する形態」 梶智就(北海道大学)
動物の形態はいかなる形式をもってして「説明」され得るのだろうか。形態が形成される過程を記述することによりその発生的な由来を指し示すことはできる。しかし形態そのもの、つまり形態の空間的構成の成立根拠については、単なる時系列的変化の網羅的記述によって理解することはできないだろう。むしろそれは、それぞれの形態が固有にもつ、形成過程の特性とでもいうべきものの中においてこそ与えられると考えられる。本発表においては、いくつかの事例紹介を通じ、形成過程に潜在する特性を抽出し形態そのものを説明する方途を模索する。同時に、生物学的事象を説明するとはどういうことか、いかなる説明が求められているのか、そして拡張総合説の展開にとって形態の説明がとるべき位置づけについて、具体的な事例に即し議論を深めたい。
「エボデボから科学哲学にお持ち帰りできる大きめのおみやげ」 戸田山和久(名古屋大学)
エボデボと科学哲学のつきあいは双方向的であることが望ましい。エボデボ内部で、さまざまな概念の分析や明晰化を行うという仕事は確かに重要であり、どんどん進めるべきだが、もうひとつ、エボデボとかかわることから、generalな科学哲学が学ぶ論点はあるのかということも同時に考えておく必要があるだろう。この発表では、後者の作業を行う。エボデボという興味深い、しかも現在進行形の研究分野から、次の二つの一般的な論点を取り出し、私見を述べたい。第一に、科学の目的(価値)・方法・事実の関係のなす構造についての新しいモデルを提案する。クーンの階層モデル、ラウダンの網状モデルに代えて、glamorous modelなるものを提案する。これはとりわけエボデボの現状をうまく説明できるのではないかと考えている。第二に、(メタ科学的にではなく)科学の内部で、科学の実践の一部として行われる歴史記述の問題をとりあげる。HallやGilbertをはじめとするエボデボの偉いさんたちは、エボデボの歴史についていろいろ書いている。あれは科学者の活動として一体何をしていることになるのだろうか。そして、そのことは、科学史上のデータと科学哲学上のテーゼの関係、とくに後者を前者によって検証しようという自然主義的な動きに何を示唆するのか。こういった問題について考えたい。