第5回生物学基礎論研究会(共催:三田哲学会)

2011年9月6-7日 慶應義塾大学 三田キャンパス

プログラム

9月6日

13:00-13:10 開会の挨拶

13:10-14:10 「ヒトの支配者―時間・情動・理性-」 坪川達也(慶應義塾大学)

14:20-15:20 「教育と文化の継承」 中尾央(名古屋大学・日本学術振興会)

15:30-16:30 「ミツバチはダンス言語を使いこなせない」 大谷剛(兵庫県立大学)

16:40-18:10 特別講演「進化理論の再解釈:変異,選択,そして浮動」 西脇与作(慶應義塾大学)

18:30-20:30 懇親会

9月7日

9:00-10:00 「マックスウェルのデーモンはどこにいるのかー生命を理解する新しい情報理論を探るー」 中島敏幸(愛媛大学)

10:10-11:10 "Some aspects of the relation between gene’s eye view, kin selection and group selection" Iván Darío González Cabrera(東京大学)

11:20-12:20 「40年後になって見直す『偶然と必然』の実像:ジャック・モノーの夢とその後の生命科学」 佐藤直樹(東京大学)

13:30-15:00 特別講演「合成生物学-観る生物学からつくる生物学へ-」 山村雅幸(東京工業大学)

15:10-16:10 「その辺の生き物を観る生物学」 島谷健一郎(統計数理研究所)

16:20-17:20 総括/「生物学基礎論」についての討議

要旨

「ヒトの支配者―時間・情動・理性-」 坪川達也(慶應義塾大学)

演者は,魚類を研究材料として社会行動の解析を専門とする神経科学者である.生命の前提となる時間を軸にしつつ,脊椎動物における神経系,特に運動機能の進化について参照しつつ,情動の保存性,理性の特殊性,時間に対する両者の関係を,ヒトの脳の中に見い出すべく試みる.

「教育と文化の継承」 中尾央(名古屋大学・日本学術振興会)

ヒト以外の動物でも文化を持ちうることは概ね同意を得つつあるが,一見すると両者の文化は大きく異なっているように見える.この原因(の一つ)は,ヒト文化の多様性であろう.BossouやTaïのチンパンジーは多少異なった方法でnutを割るかもしれないが,この多様性は我々の文化と比べれば極めて限定的なものである.多様な文化,これこそが他の動物と我々ヒトの文化を隔てるものなのかもしれない. では,この多様性をもたらした原因は何なのだろうか.もちろんこれは,唯一の原因が存在するというよりは,多様な要因が絡み合って成し遂げられたものだろう.たとえば,文化伝達をより正確なものにする要因の一つとして,これまでも模倣能力の差異などが幾度も指摘されてきた.我々は他の動物に比べて模倣能力が優れており,それが文化の正確な伝達を可能にしているというわけだ. では,模倣能力だけが正確な伝達を可能にしている要因なのだろうか.たとえば,長らくチンパンジーの文化研究に携わってきたBoesch(2008, p. 40)はそれ以外の要因として罰(punishment)と教育(teaching)を指摘している.本発表ではBoeschの指摘する「教育」が文化の伝達においてどのような役割を果たしてきているのかを考察する.特に焦点を当てたいのは,(1)CsibraやGergelyがヒトに特有なものであると論じているnatural pedagogyと(2)動物社会における教育行動,である.これらを比較して両者の共通/相違点を明らかにし,教育がヒト文化の独自性の一つである文化の「多様性」を生み出す際にどれほどの貢献を果たしてきたのかを検討する.

「ミツバチはダンス言語を使いこなせない」 大谷剛(兵庫県立大学)

ミツバチは8の字ダンス(尻振りダンス)に含まれている距離と方向の情報を読み取り,仲間とその情報を共有して社会生活を円滑に送っているとされている.演者は40年以上,ミツバチと接してきているが,「そんなに頭がいい」とはとうてい思うことが出来ないでいる.詳細にデータを採取してみると,教科書通りにはならないことが結構出てくる.尻振りダンスに距離と方向の情報が含まれていることついては,膨大なデータが集積されているが,仲間同士でそれを共有して理解し,使いこなしているかどうかは別問題である.今までダンス言語説で説明がつきにくいところをいくつか報告してきたが,データを整理していく過程で,ようやくダンス言語説に替わる仮説(匂いマップ説)が見えてきたので,それを紹介して諸賢のご意見を伺いたい.また,二つの仮説の成立過程を考察すると,ダンス言語説は「萌芽的」な状態のまま,進化しない,という点についてもお伺いする.

「進化理論の再解釈:変異、選択、そして浮動」 西脇与作(慶應義塾大学)

遺伝子やDNAの不連続な変化を「動く」ではなく「選ぶ」によって表現し,進化の要因の多面的な現われとして変異,選択,浮動を考え,複数の異なる力による理論ではなく,一つの力による複数の現われとして捉えることが,集団遺伝学に基づく進化の理論の整合的な解釈である.これが私の主張である.この整合的な解釈は,進化の理論が力学的なモデルではない情報的なモデルに基づいていることを意味しており,進化の理論の特徴や限界を議論するための基本的な内容を提供することになる.生物集団の初期状態の範囲は,そのジーンプールの情報と,突然変異による情報の変更からなり,その情報に対して,世代交代を通じて選択と浮動が働くことによって進化が起こる.突然変異による情報の変異幅の拡大,自然選択と遺伝的浮動による変異幅の縮小によって,進化の過程が実現されることになる.この現象的な変化は物理・化学的な変化とは違って,情報レベルでの変化であり、付随的な過程と看做すこともできる.

「マックスウェルのデーモンはどこにいるのかー生命を理解する新しい情報理論を探るー」 中島敏幸(愛媛大学)

生命の巧妙さは,環境の不確実性に攪乱されず,内的な秩序を維持し,その組織を複製していくことである.この過程で生命システムは,環境の不確実性に対しては適切な動き(行為)を繰り返して対処し,内部においては構成要素間の適切な動きと構造の構築によって秩序的な状態を維持している.一部の物理学者は,乱雑さの方向に物理系が向かおうとする傾向(熱力学第2法則)に対して,どのように生命は対抗しているのかという問題に取り組んできた.この生命の特性に対して,Shordingerが「生命は負のエントロピーを食べている」と表現したことは有名である.熱力学の第2法則(エントロピーの増大)は,系がミクロ状態数のより多いマクロ状態に移行していくという統計的な過程として説明されている.しかし,ここで仮定されているのは理想気体のような相互作用のない粒子の集合である.システムとは相互作用する要素の集まりであるから,理想気体はシステムと呼ぶには程遠い実体である.このような仮定のもとで導かれる第2法則が,生命システムに代表されるような,複雑な物質間相互作用が存在する実在系において本当に成り立つかということには,疑いの余地は残っている.この法則の真偽はともかく,生命がどのような原理で「環境の不確実性に攪乱されず,内的な秩序を維持し,その組織を複製していく」のかという問題は,自然科学の基盤的な諸概念を再検討しながら解いていくべき未解決の難問である.Maxwellは第2法則の真偽を検討する手助けとして一つの思考実験を示した.彼が考案した有名な(悪名な?)なデーモンは,運動する粒子が入った2室からなる容器の中央の仕切りに備えたドアを開閉する.このデーモンは,粒子の位置と速度を識別し,選択的にドアの開閉をすることにより秩序(ここでは温度勾配)を作り出すのである.このデーモンがやることはきわめて生物的である.擬人的であるのみならず,生化学者のMonodがタンパク質をこのデーモンになぞらえたように,生体内の他の多くの分子も同様に「識別」と「選択」の動きに満ちているではないか.確かに,多くの物理学者が言うように,生命は,放熱しながらも低エントロピーのエネルギーを絶えず外部から取り込み,構成要素を合成・分解しながら組織の秩序を維持している.しかし,我々の知る生命が第2法則に違反してはいないということだけでは,先の問いに答えたことにはならない.この発表では,生命システムが環境の不確実性に攪乱されず,内的な秩序を維持し,その組織を複製していく,という過程を一般的なモデルを用いて,理解することを議論したい.具体的には,すべての物的実体を,何らかの識別能力と選択能力を持つ運動(行為)主体としてみる認知体システムモデル(cognizers system model)をもちいて,明確なフォーマリズムのもとで,行為の主体にとって「不確実性(偶然)とは何か」,秩序維持に関する「事象の確率はどう決まるか」,「生命における情報とは何か」,「情報の意味や価値とは何か」等の問題を,既存の概念や学説と対比しながら論じたい.

"Some aspects of the relation between gene’s eye view, kin selection and group selection" Iván Darío González Cabrera(東京大学)

Kin selection is probably the most important explanation of the evolution of biological altruism. This theory has had unquestionable merits explaining phenomena like the evolutionary origin of eusociality. However, different interpretation of the same theory can be given by using different notions of gene and relatedness. In particular, my aim in this presentation is to support the idea that one particular version of this theory, which is usually understood as supporting the so called gene’s eye view, is actually a subset of explanations of altruism by group selection. For that purpose, the presentation is divided into three parts. In the first part, I will discuss the relation between kin selection and the genes’ eye view. Kin selection has sometimes been interpreted as a rough equivalent of the gene’s eye view, but this close relation depends on a broad definition of relatedness, and the consequent notion of inclusive fitness. I will show that one paradoxical consequence of a broad definition of relatedness is that, even though that definition leads to a generalized version of kin selection, it supports some version of the equivalent thesis according to which the conditions for the evolution of altruism become mathematically equivalent to those conditions in group selection models–in particular, under a very liberal definition of group. In the second part, I will argue that although the conditions for the evolution of altruism are similar, kin selection and group selection can be distinguished at the level of the units of selection. For that purpose, I will explain the distinction between levels and units of selection. I will argue that kin selection models have an intrinsic commitment with genes as units of selection, while group selection models make use of a more generous approach to the debate of units of selection in which process of cultural selection can be defined, and therefore new forms of biological altruism can be explained. Finally, I will argue that kin selection, by invoking a broader interpretation of relatedness, assumes a functional conception of gene which diminishes some of the usual arguments offered against group selection at the same time that supports the liberal definition of group used to support the equivalence thesis.

「40年後になって見直す「偶然と必然」の実像:ジャック・モノーの夢とその後の生命科学」 佐藤直樹(東京大学)

1970年にフランスで出版されたLe hasard et la nécessité (HN)は,従来,要素還元論・機械論に基づくネオ・ダーウィニズムの例の代表として,反対論者,賛成論者の双方から取り上げられてきた.アメリカでも日本でも翻訳され,多くの読者を得たが,その内容は必ずしも正しく伝えられたわけではなく,それぞれの版が,再話として機能したと見ることができる.これに加えて,もともとのHN自体が,多様な要素からなるアマルガムであることが,HNの理解を困難にしてきた.素直に全体を読むと, DNAやタンパク質の分子生物学的説明と,進化の説明,人間社会の説明は全く別のものであることがわかる.さらに,関連文書との比較解読により,モノーの人間に関わる思想は,ニーチェなどの実存思想をもとに,モノーが批判したとされるベルグソン,テイヤール・ド・シャルダン,マルクス主義のそれぞれからの影響のもとに成り立っていると考えられる。以上の考察に基づき,モノーが表現した偶然と必然のそれぞれの内容を分析し,HNの実像を解明するとともに,現代生命科学に引き継がれた課題について検討する.

「その辺の生き物を観る生物学」 島谷健一郎(統計数理研究所)

生物学の原点は何なのか,以下のような問いかけから話を始めてみようと思います.

1.世界で一番読まれている生物学の本は何だろう.

2.今の子供たちは,どんな生物学に夢やロマンを感じているのだろう.

生命とは何か.生命を知りたい.それには,その辺の生き物を見ていても限界があることを人間は知った.そこで,生物を切り刻み,分解していった,それはもはや生物学ではなく「死物学」であると今西錦司は糾弾した.しかし,分子レベルまで切り刻むと.今度は生きたまま切り刻む生物学も可能となる. その一方で,地球環境問題の一環として,森林生態系や生物多様性が注目を集めている.これは1個の生物を切り刻むのとは逆に,多数の生物の総体を扱う科学である. そんな総体の構成員すべての遺伝子情報を収集できる時代である.今は,細分化された生物学を,分子から森林の生物多様性まで包括させる時代に来ているのだろうか.それとも,まだ時期尚早だろうか. 鍵を握るのは,統計科学であるというのが私の偏見です.