第11回生物学基礎論研究会

【第11回生物学基礎論研究会】

第11回生物学基礎論研究会は下記の日程で開催されました。

日時:2017年9月10日(日)~11日(月)

場所:北海道医療大学 札幌サテライトキャンパス 札幌市中央区北4条西5丁目 アスティ45 12F

アクセスマップ:https://www.hoku-iryo-u.ac.jp/~satellit/contents/access.html

会場は、JR札幌駅南口出口より南西方向に向かって徒歩5分です。

特別講演(敬称略)

-小泉逸郎(北海道大学大学院 地球環境科学研究院)

-長田直樹(北海道大学大学院 情報科学研究科)

プログラム・告知ポスター・発表要旨集は、本ページ最下段からダウンロードできます。

第11回生物学基礎論研究会プログラム

9月10日(日)

<開会の挨拶>

10:00-10:10 森元良太(北海道医療大学)

<一般講演 第1部(司会:田中泉吏)>

10:10-10:40 大久保祐作(北海道大学)

「生物学における知識の正当化」

10:10-11:40 水野隆文(名城大学)

「生物の最小単位としてのステップ関数」

11:40-11:40 島谷健一郎(統計数理研究所)

「統計を用いる生物学の未確立な科学論」

<シンポジウム(企画・司会:森元良太)>

13:30-15:10 「なぜ生物学が哲学の問題になるのか、あらためて考える」

網谷祐一(東京農業大学)

「誰がために生物学の哲学の鐘は鳴る」

田中泉吏(慶應義塾大学)

「果てしない生物学基礎論の可能性と広い射程のその中で――理性の起源を問いなおす」

<一般講演 第2部(司会:網谷祐一)>

15:20-16:20 森中定治(放送大学)

「種問題とパラダイムシフト」

<特別講演1(司会:森元良太)>

16:30-17:30 小泉逸郎(北海道大学)

「野外個体群において進化のプロセスを調べる」

<懇親会>

18:00-

当日会場にて案内します。ふるってご参加ください。

9月11日(月)

<一般講演 第3部(司会:千葉将希)>

10:00-11:00 江川史朗(東北大学)

「絶滅動物の発生様式の推論」

11:00-11:30 松本俊吉(東海大学)

「ローレンツ/ティンバーゲンの動物行動学の遺産」

13:00-14:00 大塚淳(京都大学)

「科学モデルとしての生物種概念」

<特別講演2(司会:森元良太)>

14:10-15:10 長田直樹(北海道大学)

「集団遺伝学とゲノム進化学」

<一般講演 第4部(司会:松本俊吉)>

15:20-15:50 坪川達也(慶應義塾大学)

「Zebrafish変異体の脳と行動―左右非対称性と脳」

15:50-16:50 渥美圭佑(北海道大学)

「種間交雑はなぜ起こるのかー適応進化・適応的な次善の行動の副産物か?」

<総合討論>

16:50-17:20

第11回生物学基礎論研究会発表要旨集

9月10日(日)

<一般講演 第1部>

大久保祐作(北海道大学大学院農学院)「生物学における知識の正当化」

高度に細分化した現代の生物学は、分野ごとに発達した様々な実験器具を用いてデータ収集を行なっており、こうした器具の動作原理もまた高度に細分化した背景理論に基づいている。さらにこうした器具を通して得たデータを分析する段階でも同様の事態が生じる。このような場合多くの生物学者は、いちいち背後にある動作原理を考慮することなく「あくまで知識獲得のための道具」として割り切った利用の仕方をする。しかし、これらの道具は本当に知識獲得のために寄与していると言って良いのだろうか。動作原理のわからない器具や分析法を用いて知識を獲得することは、どのような哲学的背景に基づいて正当化できるのだろうか。

哲学において「知識」とは、伝統的に以下のように定義されてきた:

主体Aが、知識pを持っているとは、Aとpが以下の条件を満たすとき、かつその時に限る。

1)Aがpを信じており

2)Aがpを信じることが認識的に正当化されており

3)pの内容が真である

しかしこの定義は先述の事情を考慮するとあまりにも保守的であり、Hardwig(1985)が論じたように、知識概念の根本的な問い直しが必要である。そこで本発表では2)の認識的正当化のプロセスに着目して、「道具」に基づく知識の問題を問い直す。

水野隆文(名城大学)「生物の最小単位としてのステップ関数」

コンピュータやキットの普及により、個人のレベルでも生物をモチーフとしたオブジェクトを作成できるようになった。作成されたオブジェクトに接した際、我々は、詳細な分析や観測をすることなく、「これは生物的だ/生物的でない」と評価する。近年に進展を見せる深海や秘境の探索においても、数秒の動画を閲覧しただけで、多数の初見の造形の物体に対して「未知の生物」という判断を下す。これらの生物/非生物のラベル付けに際しては、我々は生物の普遍的特徴(例えば自己増殖や進化、遺伝子)を確認しない。生物の普遍的特徴は、生物に分類されたモノが共通して所有している属性であり、今までに生物に分類されたモノの中にはその属性を所有していないモノが存在しないという属性である。歴史的にも、生物/非生物のラベル付けが先であり、普遍的特徴の発見が後である。科学の手続きは、観測、仮説立説、予測、実験のサイクルにより構成されるが、生物/非生物のラベル付けは観測のみで成立する。

本発表において、まず私は、我々は対象がもつステップ関数(階段関数)として表現される機能を観測し生物/非生物のラベル付けを行っていることを研究の前提として主張する。次に、この前提の妥当性を説明する。そして、生物の普遍的特徴を表現する数理モデルが、ステップ関数を最小の単位とし、それらの組み合わせで表現されることを示す。ステップ関数はIf-Then文の一表現であり、工学的視点ではセンサである。本研究の結論として、これらが生物の本質であることを主張する。本発表は、過去に幾度も行われた機械論と生気論の議論を一部含む。本研究の結論から得られる発展的枠組みとして、生物と機械の違いが程度問題となることを主張する。物理的構造とあるステップ関数の対応を選択できる場合に機械と表現し、あるステップ関数が存在する場合にその機能を実現する構造が表現できない場合に生物的と表現する。生気を単位サイズあたりのステップ関数の種類の数として定量的に表現する。

島谷健一郎(統計数理研究所)「統計を用いる生物学の未確立な科学論」

今日の生物学研究の多くに統計解析が含まれている。しかし、生物学の科学方法論の多くが、統計解析を伴う方法論に言及していないし、していても、100年も昔に確立されたP値を用いる統計の範囲を超えていないように思える。今日(及び今後)の統計解析では、統計モデルが中核を占めている。そこでは、例えば、仮説の反証などと大きく異なる、複数仮説の相対比較という科学方法論を採用している。一方には、統計をほとんど用いない、物理学の伝統的な方法論を生物学へ援用する数理生物学と、その実験による検証という生物学もある。現在の生物学には、こうした複数の主義が混在しているが、しばしば、この混在している現状を忘れた議論に終始する。ここでは、現在の生物学の研究現場における4つの科学方法論の混在と、混在が認識されていない問題点を整理する。

<シンポジウム「なぜ生物学が哲学の問題になるのか、あらためて考える」<企画・司会:森元良太)>

網谷祐一(東京農業大学北海道オホーツクキャンパス)「誰がために生物学の哲学の鐘は鳴る」

新しい分野が興隆する際にはいつでもすぐれた教科書がある。生物学の哲学には『進化論の射程』(E・ソーバー、春秋社)、『セックス・アンド・デス』(ステレルニー&グリフィス、同)というすぐれた教科書があった。昨年その列に加わった『生物学の哲学入門』(森元良太・田中泉吏、勁草書房)もこの分野をさらに発展させる役割を果たすだろう。

この本は正確でわかりやすい記述で前二著では扱わなかったトピック――発生や微生物学の哲学など――をカバーしており、生物学の哲学という分野の幅の広さを示すものになっている。この意味で生物学の哲学を知らない人には「生物学の哲学」という世界を味わうために絶好の本になっており、この分野をある程度知っている人には格好の副読本になっている。

本発表では本書の内容面へのコメントからはじめ、つぎに本書に対する読者からの反応を振り返ったあと、生物学の哲学が様々な読者(生物学者、哲学者、一般読書人など)にとってどういう意味があるのかを考えていきたい。

田中泉吏(慶應義塾大学)

「果てしない生物学基礎論の可能性と広い射程のその中で――理性の起源を問いなおす」

本発表では網谷祐一著『理性の起源――賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ』(河出書房新社、2017年)の批評を通じて、なぜ生物学が哲学の問題になるのかをあらためて考えたい。

本書のテーマはその題名の示す通り理性の起源であり、本書では「私たちはなぜ理性的なのか」「私たちの理性はどこからきたのか」という問題が論じられる。これは道徳性の起源と同様、古くから哲学者が興味を抱いてきた問題であるが、現代においては進化生物学(および関連諸分野)の知見を駆使して取り組むことができるし、またそうすべきような問題でもある。

この問題に果敢に取り組む著者の専門分野は生物学の哲学(生物学基礎論)である。生物学の哲学は、狭義には「生物学はどのような科学であるのか」について考えたり、生物学の概念や理論の分析を行ったりする分野であり、その定義に従えば本書は生物学の哲学の著作ではない(ただし、「生物学の知見を活用した哲学」という意味でならば、広義の生物学の哲学の著作と位置づけることもできる)。しかし、本書には生物学の哲学者ならではの視点や工夫があふれており、それが類書にはない特徴や魅力となっている。本書は生物学の概念や理論の正確な理解に裏打ちされており、理性の起源のような難しい大きな問題を論じるときにどのような科学的知識をどのように扱えばよいのかの見本を提供してくれている。一方で(おそらく主に紙幅の関係で)取り上げる題材に「大胆な取捨選択」が行われており、本発表ではその是非を問いながら、理性の起源の問題に取り組む際の今後の課題についても検討したい。

本発表では最後に、科学と哲学の関係、生物学の哲学の今後の可能性、生物学にとっての生物学の哲学の意義、哲学全体のなかで生物学の哲学の果たすべき役割などのトピックについて、時間の許すかぎり会場の皆さんと意見交換をしたいと考えている。

<一般講演 第2部>

森中 定治(放送大学埼玉学習センター)「種問題とパラダイムシフト」

私はチョウ類の分子系統による生物地理学、進化学の研究者であり、扱う単位が種であり、“種”に対して深い関心を持つ。生物の種とは何か。その考察が人類にパラダイムシフトを引き起こす契機を与える。2016年7月、相模原で19人が殺され、26人が重軽傷を負う日本の戦後最大の障害者殺傷事件が起こった。この事件は、犯人の一時的な感情や、麻薬、精神病が主因ではない。また「優生学」が犯人の思想にあるとする論評も多く、犯人の植松聖自身もヒットラーが降りてきたなどと言うが、優生思想よりも現代の人類にとってもっと深刻と思われる問題に焦点を当て、そしてその解決を導く一つの道を示す。植松は「親の同意を得て・・」という言葉を犯行前の衆議院議長への手紙に残している。親が「障害者であろうと健常者であろうと、そんなことは関係ない。我が子だ。どんな子であろうと私が育てる」と言えば、植松の殺人対象からは外れる。親が、どんな子であろうと我が子は私が育てると主張し、その意思を認め尊重するなら、それは優生思想ではなく、優生思想に立ちふさがるものだからである。植松は親の意思を認めている。

ではなぜ植松は障害者をこの世に不要と考えたのか。それは、障害者が親ではなく税金で養われていたからである。「生きる権利は皆平等」「人の生命は同じように大切」という誰も反対できない正義(観念)の下に税金が使われるのである。親ですら育てない子をなぜ無関係の他人が育てねばならないのか?このような考えが取るに足らない人数の範囲であれば問題はない。ところが現代は、弱者への福祉を特権とみなしてそれを目の敵にするヘイト・クレイム、欧州における難民排除を掲げる政党の急進、トランプ現象・・・無関係の他人を助けることがなぜ強制されるのか納得できない、この考え方が世界中を包みつつある。しかもそれは、「生きる権利は皆平等」と言う正義の前に公にできず隠れてしまっている。植松は、表に出ないしかし今や多数を占めるそれらの人々を代表し、それらの人々の代理人として税金で養われる障害者を殺傷したのである。このものの考え方の原点にリバータリアリズムがある。それは「生きる権利は皆平等」という考え方を否定しない。そう考える人々はその規範によって行動すればよい。それを認めよう。しかし、そうは考えない人々まで、それを強制しないで欲しい。これが結果として現在は新自由主義に結びついている。

人類は、誰もが苦労を分かち合い喜びを分かち合う、「生きる権利は皆平等」「人の生命は同じように大切」と誰もが考える人間社会を再度作る必要がある。その方法、解決へ続く一本の道が“種問題”から出てくる。実験データをもって証明することはできないが、誰もが理解し納得し得る“種問題”に対する答えを、私は第11回生物学基礎論研究会で示し、参加者と意見を交わしたい。

<特別講演1>

小泉逸郎(北海道大学地球環境科学研究院)「野外個体群において進化のプロセスを調べる」

かつて進化は長い時間を要するプロセスだと考えられており、実証不可能な仮説とされていた。しかし、近年、人為的環境改変に対する生物の応答や、新天地における移入種の変化など、進化は観察可能な時間スケールでも起きているという認識に変わった。さらに、大規模な野外操作実験によっても進化が実証され始めている。今や野外個体群においても、自然選択により常に適応進化が起きていることに疑問を呈する研究者は少ないであろう。

一方、進化は複雑なプロセスでもあり、自然選択以外にも、ジーンフロー(遺伝子流動)やドリフト(遺伝的浮動)によっても大きな影響を受ける。例えば、ジーンフローは状況によって適応進化を抑制もするし促進もする。自然状況下でのこれらの相対的な役割についてはほとんど理解が進んでないのが現状である。

本講演では、申請者が20年にわたり研究を続けてきた河川性サケ科魚類のメタ個体群における形質進化について紹介する。メタ個体群は、複数の局所個体群がジーンフローによって結びついたシステムであるため、自然選択、ジーンフロー、ドリフトの相対的影響を調べるのに適している。環境が大きく異なる30以上の局所個体群において繁殖時期などの変異を調べ、かつ共通環境下の飼育実験により形質変異の遺伝性を明らかにした。また、DNA解析により個体群間のジーンフローおよびドリフトに関係する有効集団サイズを定量化した。これにより、自然選択、ジーンフロー、ドリフト共に局所個体群の形質進化に影響していることが示唆された。

現在は、大規模かつ長期のゲノム−デモグラフィーデータを、洗練された統計モデリングにより解析し、形質進化に与える3つの進化的力の役割を明らかにしようと試みている。この取り組みについても紹介し、ご意見が頂ければ幸いである。

9月11日(月)

<一般講演 第3部>

江川史朗(東北大学)「絶滅動物の発生様式の推論」

「なぜその生物はその形態を呈するのか」。程度の差はあれ、生物の形態を研究する者は皆この疑問をもつであろう。多くの研究者は、生物の形態を「機能(適応度)」の観点のみならず、「発生様式(発生拘束)」の観点からも説明を試みており(例えばconstructional morphology, morphodynamicsなど)、後者が主要な説明要因であると思しき事例は多々知られている。また、生物の形態進化は発生様式の変化を通じて起きたはずであるため、少なくともこれを推論できれば上記の疑問に大きな手がかりを与えることができる。このように、発生様式は生物の形態を説明する上で重要な鍵となり、それは恐竜のような絶滅動物に対して上記の議論を行う場合も同様である。

しかしながら、形態形成が起きている時期は往々にして胚がまだ軟組織の状態であり、故に殆ど化石に情報が残らず、ましてや胚組織を用いた実験は不可能である。この為、絶滅動物の発生様式を推論する為の方法論を整備しておく必要がある。

方法論を整備するにあたり以下の点について議論したいと考えている。議論の対象にするべき形質はどのようなものがふさわしいのか。そしてその形質の発生様式のうち、どの側面(ゲノム上の責任配列、分子カスケード、細胞系譜、組織間相互作用など)が推論しやすいのか、またどの側面に対する推論が実りある議論をもたらすのか。発生様式の推論の方法にはどのようなアプローチの仕方があるのか、またこれらのそれぞれのアプローチの仕方は、仮説の検証をベイズの定理の定性的な利用に基づいて行うならば、尤度と事前確率のどちらを検証しているのか。提示した仮説に対してどのように反証を試みるか。本発表では、絶滅脊椎動物を中心に上記の事柄についてまとめ、具体的な実践例として恐竜の股関節の形態進化を取り上げる。

松本俊吉(東海大学)「ローレンツ/ティンバーゲンの動物行動学の遺産」

1973年のノーベル生理学・医学賞はローレンツ、ティンバーゲン、フリッシュに与えられた。動物行動研究に対して初めて授与された栄誉をエソロジストが手にすることになったわけだが、皮肉なことに、この時すでにエソロジーは急速に影響力を失いつつあり、社会生物学がそれに取って替わろうとしていた。

しかしエソロジーは単に過去の遺物として乗り越えられてしまったわけではない。ティンバーゲンは1963年の論文“On Aims and Methods of Ethology”において、その後動物行動研究にとどまらず広く生物学一般に影響を与えることになる有名な「四つの問い」———因果性(メカニズム)、生存価(機能)、個体発生、進化———を打ち出していたが、これは、当時異なる視点からバラバラに遂行されていた動物行動研究を、エソロジーの方法論をベースに「行動の生物学」として統合することを目指した理想主義的な綱領であった。しかし現実には、ティンバーゲンの思惑とは裏腹に、その後これら四つの問いへのアプローチはますます分業化されていく。ウィルソンやドーキンスの社会生物学は、当初実証的研究の展望が立たなかった「因果性」と「個体発生」の問いを捨象して、「生存価」と「進化」にフォーカスすることによって結果的に成功を収めたが、逆に彼らが無視した残り二つの問いが正当にクローズアップされるには、1970年代終わりの進化発生生物学の登場を待たねばならなかったのである。ティンバーゲンの上記論文はローレンツの還暦記念として、「エソロジーの父」としてのローレンツの功績を称揚するために書かれたものであるが、すでにその中で彼は、「生得性」概念に基づく師ローレンツの本能研究に批判的な目を投げかけている。すなわち「生得性」とは、「若干の環境要因をコントロールしてもなおそこに残存している行動要素」として消去法的にしか定義できない概念であり、動物行動をポジティブに特徴づけうるものではない、と。

他方でローレンツは、「種の保存」のような群淘汰的思考に安易にコミットしていた点とか、『攻撃』(1966)などの通俗科学書で示した動物行動学的視点の性急な人間への適用などによって、いまではどちらかというとキワモノ視されている観があるが、彼の“The Comparative Method in Studying Innate Behaviour Patterns”(1950)は、当時の最新の自然科学(特に神経生理学)の基礎の上に動物行動研究という新分野を確立し、従来科学的にいかがわしいものと見られていた「本能」研究に実証科学的な道筋をつけようという気概に溢れた好論文である。

本発表では、上記のティンバーゲンとローレンツの論文を軸に、エソロジーとその後の動物行動研究との連続性と非連続性について考えてみたい。

大塚淳(京都大学文学研究科)「科学モデルとしての生物種概念」

生物学的種とは、どのような存在物なのか?これまで種タクソンの存在論的身分に関する形而上学的問題は、それが個物か普遍(クラス)かという二択問題として論じられてきた。本発表ではこれとは全く異なる見方を提示したい。その見方によれば、種タクソンとは個物でもクラスでもなく、むしろモデルである。さらにいえば、それは数学的モデル、すなわち集合論的存在である。

この一見突拍子もない考え方を示すため、発表ではまずこれまで提示されてきた様々な種概念が、それぞれ異なった数学理論上の言明へと翻訳可能であると論じる。たとえば本質主義的種概念は一階述語論理、クラスター説は確率論、系統的種概念は半順序集合の理論上の命題として表される。それぞれの種概念・理論において種タクソンとはこうした命題を満たすもの、すなわちその理論のモデルであると考えることができる。こうした数学的モデルは、最終的に集合論を用いて構成されるので、種とは集合論的構築物だということになる。

どのモデルを取るかによって、種についてどのような言明が有意味になるか、すなわち対応する理論の表現力が決まる。一般により豊かな公理系ほど理論の表現力は高く、反例をうまく処理できるが、同時に種を同定する際の自由度も増す。よって最適な種概念に関する議論は、それぞれの種概念・理論が持つ表現力と倹約性の釣り合いに関する問題、すなわち科学におけるモデル選択と同類の問題である。

種をモデルと同一視する本説に従えば、各生物個体と生物種の間の関係性は、個物と普遍の例化関係でも、部分と部分のメレオロジーでもなく、むしろ現象とモデルの間の表現的関係である。具体的に構成された一つのモノとしてのモデルは、複数の対象を表現することが可能であり、そこにモデル=種の認識論的な意義がある。こうして、生物種に関する形而上学的議論は、科学哲学一般におけるモデルに関する議論に接続されることになる。

<特別講演2>

長田直樹(北海道大学大学院情報科学研究科)「集団遺伝学とゲノム進化学」

メンデルの遺伝法則をもとに,集団内の遺伝子に起こる突然変異,遺伝的浮動,自然選択,組換えなどを定式化することによって近似解を導出し,それをもとに生物の遺伝や進化を理解しようとする学問が集団遺伝学である.初期の集団遺伝学は,生物の進化が集団レベルでどのように起こるかを明らかにし,その後,木村資生による中立説を経て分子進化学という分野を生み出した.さまざまな生物のゲノム解析コストが下がった現在,集団遺伝学や分子進化学の理論は様々な研究で広く応用されるようになり,医学分野での応用を含む,ゲノム解析等においては欠かせない考え方を提供している.これらの研究分野はゲノム医科学,ゲノム進化学,集団ゲノム学などとも呼ばれる.

本講演では,講演者が行ってきた研究の内容を含め,進化に関連する近年の研究成果について,特に生物のゲノム進化とゲノムにかかる自然選択を中心に発表を行う.集団中に固定した(DNAやアミノ酸の)変異のほとんどが進化的に中立であるという中立説は,分子進化における基本的な考え方として広く受け入れられているが,弱い淘汰を考慮に入れたほぼ中立説の発展や,ゲノム配列にかかる自然選択の検出法の発達などにより,ゲノムの進化が「厳密な」中立説で考えられているほど単純に起こっているかどうかということに対しては,常に議論が続けられてきている.多様な生物種における多くの個体のゲノム配列が解読されるようになると,これまで提案された予測のうち,多くの生物で成り立つものや,現在あるデータからは支持されないものなど,多くの傾向が観察されてきている.これらの研究の動きを俯瞰しながら,講演者自身が研究を行っている,弱い淘汰がゲノムに及ぼす影響について議論を行いたいと思う.

<一般講演 第4部>

坪川達也(慶應義塾大学生物学教室)「Zebrafish変異体の脳と行動―左右非対称性と脳」

脳は左右の神経管が融合してできた構造である。多くの無脊椎動物の神経は梯子状であり、左右が判別可能であり、脊椎動物でも終脳は左右が融合せず、背側視床以上の構造は左右に分かれている。したがって潜在的に左右で違う機能を持つ可能性があるが、多くの動物では目立たない。しかしヒトにおいては左右の終脳の機能の差は、まずは利き腕をして現れ、右利きは世界平均で約85-92%の多数派であり、文化圏を通じて、この比率におおきな差はないのでこの機能さ(加えて左右半球の形態的差も存在する)には遺伝的影響が存在すると考えられている。この左右非対称性(Left-Right Asymmetry)は、ヒト大脳皮質における言語野の局在にも関係するので、ヒトの心理に興味を持つ者にとっても重要な研究領域である。

近年の発生学的な研究は、身体の左右差について大きな進歩を見せている。マウスの遺伝的内臓逆位という現象で見出され、多くの実験動物で発生学的に発見されてきた遺伝子群(TGFβ成長因子群、NodalとLefty、転写生後因子Pitx2など)は脊椎動物で保存されていることが明らかになっている。脊椎動物の場合、受精時(例:Xenopus)もしくは発生のかなり早い時期(例:哺乳類)で左右の体軸(Body Axis)が決定されている(これを一次左右性という)。これに対して各器官で決定される二次左右性も存在することが明らかになっている。

今回、前回に続き、2014年より行っている英国University College Londonとの共同研究である脊椎動物Zebrafishの中枢神経系に見出された二次左右非対称性変異体の行動解析を通じてその役割、形態と機能の関係やその進化的機構について考察を紹介する。

渥美圭佑(北海道大学)「種間交雑はなぜ起こるのかー適応進化・適応的な次善の行動の副産物か?」

種間交雑は,遺伝的独自性を失なわせる,あるいは同種との繁殖を妨害することで個体群を絶滅に導く反面,他種の遺伝子を導入することで進化を促進する可能性もある。そのため,交雑が起こる原因とその帰結を解明することは、生態学・進化学での重要な課題である。交雑の帰結は進化・生態・保全の面で注目を集め,理解が進んできた。その一方で,交雑の原因は「動物が一定の確率で犯すミス」といった簡単な捉え方が支配的で,適応進化の視点からの検討が十分にされてこなかった。私は,交雑を適応進化や適応的な行動の副産物と捉えることで,交雑が進化的に維持される仕組みを説明できると考えた。

①交雑を起こしやすい性質が 他の場面では有利にはたらく場合,交雑は例え非適応的でも維持されると考えた(適応進化の副産物)。例えば,大胆な性格の個体は他種と交配しやすいかもしれないが,大胆さは成長・繁殖に有利にはたらく。

②外部環境や自身の状態に応じた行動の可塑性も,交雑を維持させると考えた。例えば,外敵が多い,異性が少ない場合や,自身の状態が悪いために異性を探すことができない・異性にモテない場合には,繁殖のチャンスが減る。そのような条件下では,個体は配偶者選択で妥協する(選り好みを弱める)ことで確実に子孫を残そうとすることが知られている。この副産物として,同種/他種の判別も不正確になり,交雑が起こりやすくなると推測できる。

本発表では,上記を踏まえ,交雑の起こしやすさの種内変異が進化・生態にもたらすインパクトについても議論したい。

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