2010年9月13-14日 八王子セミナーハウス
プログラム
9月13日(月)
13:00-13:10 開会の挨拶
13:10-14:00 「微生物学と有機体概念」 田中泉吏(日本学術振興会)
14:10-15:00 「人間の誕生にみる種の進化」 望月清文(城西国際大学)
15:10-16:40 招待講演「進化学研究に対応する世界観を求めて」 斎藤成也(国立遺伝学研究所)
16:50-17:40 「生命の一元的理解に向けた理論構築」 佐藤直樹(東京大学)
17:50-18:40 「『生物学の哲学』の過去と現在」 横山輝雄(南山大学)
19:00-21:00 懇親会
9月14日(火)
9:00-9:50 「身体像拡張のコンピュータシミュレーションモデル:Self-movementから言語獲得への進化」 佐藤勇起(東京大学)
10:00-12:00 ワークショップ「生命と確率」 中島敏幸(愛媛大学)・森元良太(日本学術振興会)
13:30-14:20 「情報認知系としての生物個体の起源とその階層ニューラルネット学習機械としての能動進化」 大西耕二(新潟大学)
14:30-15:20 「理性と知性と情動と―サカナの行動からからヒトの行動まで―」 坪川達也(慶應義塾大学)
15:30-16:20 「Massive Modularity Hypothesisについて」 松本俊吉(東海大学)
16:20-16:50 総括・自由討議,次回開催の予定について
要旨
「微生物学と有機体概念」 田中泉吏(日本学術振興会)
有機体(organism)概念はこれまで、群体生物や社会性昆虫、植物、共生などの一部の文脈で問題とされてきたが、近年は微生物学や免疫学の文脈で新たな考察が可能になってきている。有機体概念に関する考察は、有機体を定義するうえで候補となる諸特徴と、生物学の諸理論とを突き合わせながら行われる。その考察に対して、従来はほとんど重視されてこなかった微生物学の知識を加えると、有機体概念は大きな存在論的改訂を迫られる。近年急速に発展を遂げている微生物学の知見を十分に取り入れることで、生物学の哲学における伝統的な問題は大きく様変わりすると予想されるが、本発表ではその一端を示すことを目標としている。
「人間の誕生にみる種の進化」 望月清文(城西国際大学)
感性を表現した言葉と五感とのかかわりについて、22カ国、28の民族について調査した結果、それが人類が人間へと進化したときの心の遺跡であり、5万年前頃に形成されたものであることを示す。そして、これらの研究結果から、人類の人間への進化が、ダーウィンの提唱するような突然変異と自然淘汰による漸次的なものではなく、種に特有な統合力の誕生による突然の進化であることを、データを基本に哲学的側面から考えてみることにする。
「進化学研究に対応する世界観を求めて」 斎藤成也(国立遺伝学研究所)
標題は進化学の研究が最初にあるかのようなものにしてしまったが、個人的には、まず自身の世界観があり、それに適する進化の研究をするようになったというところである。 というのは、私は中学生のころから素朴な虚無主義者だったからだ。当時から生物学に興味があったが、歴史にもSFにも興味があった。高校で仏教思想を知り、これも虚無主義だと納得した。偶然と必然だと、前者を好んだ。このような考え方の人間が中立進化論を知ったとたんに惚れ込んでしまうのは、当然ではなかろうか。
「生命の一元的理解に向けた理論構築」 佐藤直樹(東京大学)
生命科学の進歩はめざましく,遺伝子の本体が解明され全ゲノム解読が当たり前になったことによって,数十年前までの牧歌的な生物学とは異次元の科学が生まれている。生命の科学は,食の安全,環境変動,先進医療など,身の回りの問題に直結するにもかかわらず,一般人と生命科学者との間の認識のギャップが拡大していくことに懸念を覚えるのは私だけではないだろう。この解決に向けてできることは,専門的かつ膨大な知識の集積となっている生命科学の最も本質的な部分の理解を可能にすることである。これまでの生物学や生命科学関連の書物を見ても,技術的進歩の列挙にとどまり,体系的理解にはつながらない。生命科学に携わるものとして,まず,生命とはこういうものという核心を定義することを目指したい。他方,生命論は生命科学とは別個に議論が進められているものの,生命の定義の困難さ,複雑な階層性をもつ生命世界,生命の多様性などのために,これまでの生命論はともすると抽象的で,生命科学と話が通じないという意味で応用性のないものに留まっている。特に問題なのは,生命というときに人間を題材として考えることが一般的であり,その場合,あくまでも個人としての人間のレベルで生命が語られることが多い。個体あるいは一個の細胞を基本として生命を考えることには無理がある。ここで提案したいのは,生命を相互に結びついた集団としてとらえる視点である。この結びつきには,代謝物質を介した相互作用,細胞間や個体間のシグナル伝達,生殖などのほか,生態や進化までも含み,空間的・時間的にも広がりをもつ。この相互作用する集団が太陽エネルギーの入力を受けて示すシステム的挙動をもって生命全体の理解を可能にしたいというのが,現在のアイディアである。私の考えを簡単に紹介し,議論を仰ぎたい。
「『生物学の哲学』の過去と現在」 横山輝雄(南山大学)
「生物学の哲学」は、1970年代の生命科学的転回をうけて、1980年代から90年代にかけてアメリカで成立し、2000年以降日本にも導入され、2010年代の現在本格化しつつある。しかし、それ以前の「前史」はどうなっているのだろうか。さかのぼれば、「生物学の哲学」に相当する議論もあった。しかし、それれは「生命の哲学」あるいは「世界観」などと結びついており、現在の「生物学の哲学」とは異質な面をもっていた。両者を対比して、現在「生物学の哲学」の性格を検討したい。
「身体像拡張のコンピュータシミュレーションモデル:Self-movementから言語獲得への進化」 佐藤勇起(東京大学)
我々の身体像は、物理的な身体の境界(体表)に限られているわけではない。盲人にとっての杖は、あたかも自分の手の一部かのようになっている。このような、動的に変化する身体像の形成メカニズムを理解するためのコンピュータシミュレーションモデルを、飯塚・池上による「風車モデル」を拡張することにより構築した。さらにこのモデルを拡張し、二個体のエージェントがコミュニケーションするモデルを提案する。これにより、self-movementによる対象の知覚から、道具使用を経て、言語的コミュニケーションへと至る進化の過程を明らかにする。そして、「物と心」、「機械論と生気論」といった二項対立ではなく、互いを支え合う「相補性」として両項を捉える視点を提案する。
ワークショップ「生命と確率」
確率は自然科学が共有する基礎概念の一つである。それは統計学の中核的概念として科学の認識論的方法論の基盤をなしているだけではなく、具体的な現象を説明する理論の中でモデルのパラメータに潜むかたちで,或いは,直接用いられるかたちで重要な役割を担っている。生物学においても確率は,明示的にせよ暗示的にせよ,分子、細胞、個体、集団のいずれのレベルにおいても有効な説明項として用いられている。 例えば、進化学においては、適応度概念は個体(あるいは集団)の生存確率と結びつけて捉えられ、自然選択による進化と中立的進化を統合的に理解していこうとする上で確率概念は重要な役割を持っている。 しかし、「確率は一体何を意味するか」と問うてみると,この概念に立脚した科学理論は難しい問題につきあたる.それは,確率のもつ二重性によるものである.その一つは,確率とは事象を生み出す対象についての主観的な知識の度合いを意味するという解釈であり,もう一つは,対象自体がもつ客観的な特性により生み出される事象の相対頻度という解釈(あるいは,相対頻度を生み出す対象の客観的な傾向性としての特性)である.このワークショップでは、生物学における世界の決定性と確率概念をめぐるいくつかの基本的問題を提起し,進化や生命の情報処理などの具体的な生物学的過程における確率の意味と有効性を議論し,今後の展望を描きたい。
提題:「生命現象を理解するための新しい確率理論を目指して」 中島敏幸(愛媛大学)
【問題の背景と概観】はじめに「確率とは何か」について従来の哲学的理論の概略を述べ,事象の確率と世界の因果決定性との関係についての諸見解の概略を整理する.これに基づき,従来の確率解釈や理論は生命現象の理解には不十分であることを指摘し,以下に述べる生物学的確率の理論の概要を紹介しその主要な点を論じる.
【生物学的確率論】細胞や個体などの生命体はその内的秩序を適度な確実性を持って維持していかなければならない.さらに,この自己維持のために,自己と環境との間に一定の関係を保ち続けなければならない.開放系としての生命体は常に外部からエネルギーや資源を取り込み,その維持に必要な外部環境との関係が維持されるように運動或いは行為していかなければならない.その環境において,行為の結果としてどのような事象がどのような確率で,その主体としての生命体に生起するかを理解することは生命の本質的な理解に必須である.しかし,これには従来の確率概念では捉えることのできない新しい確率の解釈と理論の発展を必要とする.この問題に対して認知体システムモデルにより上記の事象の確率を説明する理論を提案した(中島, 1990;Nakajima, 1999).このモデルでは,世界の構成するすべての物的実体を,その環境状態を認識し,自己の次の状態を確定する運動体として定式化されている.この運動体を認知体(cognizer)という.個々の認知体は,より下位のレベルの認知体の集まったシステムであり,逆に複数の認知体が集まり,より高次の認知体を作るというかたちで全体として一つの階層システムを構成している.認知体は,自らの状態と環境の状態に基づいて,その認知体固有の運動特性(関数)によって一意的に次の状態を決める.このモデルにおいて,事象とは,着目した認知体(「主体とする認知体」)がある行為の結果出くわす経験のことである.認知体たちが構成するシステムは,そのシステムの外部にいる観測者(meta-observer)から観ると決定論であるが,システム内部の認知体から観ると,それが経験する事象は一つの行為に対して一意的に定まるとはかぎらず,事象の不確実性が生じる.認知体モデルの解析から,認知体が環境との相互作用において経験する事象の種類と確率は,認知体が環境の異なる状態を識別する能力(「識別性」),行為が次にどの状態を選ぶか(「選択性」),および環境中の認知体の行為特性(選択性)によって決まることが明らかになった.上記の理論では,事象の確率は「客体化された主体(認知体)」が経験する事象の確実性の度合いであり,それはその主体と環境との相互作用系という系全体の特性によって決まる客観的な値である(これを「内的確率」と呼ぶ).この点で,この確率は,確率の二重性,即ち「主観的な知識の度合いによる確実性の度合いとしての確率」と「客観的な傾向性としての確率」を統一的に捉えたものになっている.
【情報理論への展開】最後に,確率概念の延長として「情報とは何か」という問題に展開し,情報の「量」と「意味」をともに捉えた統一的な情報理論の1つの方向性を示し,物質・エネルギーと情報を統合した科学としての生物学の将来の一つの展望を議論したい.
提題:「決定論と進化論的世界」 森元良太(日本学術振興会)
私たちの住む世界は決定論的だと言われる。これは物理法則、とりわけニュートンの法則に基づいた世界観である。では、進化の世界も決定論的なのだろうか。本発表では、まず決定論の意味を再考し、決定論をめぐる物理学内部の対立を確認する。そして、ニュートンの法則が物理世界全体を支配するわけではなく、また世界観を語る特権的な役割を担う必要もないことを指摘する。その上で、進化論と決定論的な世界観との関係を明らかにする。
「情報認知系としての生物個体の起源とその階層ニューラルネット学習機械としての能動進化」 大西耕二(新潟大学)
情報の最終受信・利用者は「生物個体」であり、個体は「情報認知能を持つ主体的認知システム」として起源・進化した。故に情報認知能の起源は生命の起源と同義で、進化は次世代形成目的を持つ認知機械の自己改良過程で、重要情報の記号化は生物機械の効率化を促した。ミツバチ超個体や多細胞動物個体は既存個体を要素部品とする自己改良型のqueen-worker型階層neural-net (NN)学習機械であり、worker部品(働き蜂や体細胞)のqueen部品への利他行動的機能を、超個体が主体的・認知的に使用して、遺伝子セット(ゲノム)の自然選択を(体細胞=器官の使用を伴って)用不用説的に方向付ける。Mayr種の階層的確率NN学習機械としての性質や、簡単な調和振動子系から最小認知系初期生命への自然な発展をも試論ずる。
「理性と知性と情動と:サカナの行動からからヒトの行動まで」 坪川達也(慶應義塾大学)
演者は、サカナを研究材料として社会行動の解析を専門とする神経科学者である。サカナに意識はあるかは、荘子の「濠上問答」以来の大きなテーマであるが、少なくとも行動を自然科学的に観測できるのは事実である。魚そして陸上生物、ヒトまでの進化の足跡を神経系の変化として理解しつつ、理性と知性と情動という問題を神経系の進化という点から捉えなおしてみたいと考えている。
「Massive Modularity Hypothesisについて」 松本俊吉(東海大学)
生物の形態学的なパーツ(心臓、肺、etc.)が機能的なユニット(モジュール)から成っていることは論を待たない。では、人間の認知能力(読み、書き、計算、視覚、聴覚、言語理解、顔の認識、三次元物体の知覚、食用食物の同定、危険な天敵の同定、配偶者獲得、嫉妬、etc.)はどこまでモジュール化されているのだろうか。ここでは近年の認知心理学や進化心理学における脳のモジュール構造をめぐる議論、特に進化心理学者たちによる「モジュール集合体仮説Massive Modularity Hypothesis」ー脳のほとんどすべての認知機能がモジュール化されているという仮説をめぐる論争ーを整理し、どこまでがデータに裏打ちされた経験的に妥当な主張で、どこからが現時点では推測に基づいた仮説にとどまるのかという点を検討する。