日時:2025年8月30日(土)- 31日(日)
場所:筑波大学(筑波キャンパス)総合研究棟A 110号室、111号室
特別講演(敬称略):和田洋(筑波大学)、大庭良介(筑波大学)
共催:科研費 学術変革領域(A)クオリア構造学 公募研究「原初的クオリアの創発:動物意識論と生命記号論の統合による人工意識の構築を目指して」
宣伝ポスター:https://drive.google.com/file/d/1cAqN8Fmk6GZoMJfiQfbnmofQqX7Wjq-J/view?usp=sharing
Lec-1 和田 洋(筑波大学)進化生物学は通常科学でよいのか
進化生物学は、ダーウィンによる「種の起原」で典型的なパラダイム転換を遂げたといえるだろう。動物学がアリストテレスに起源したとすると、動物の多様性を眼にしてきた人類が、このパラダイムにたどり着くまでに2000年以上を要したと言える。また、「種の起源」には、生態学や行動学の端緒となるような問題提起も行われていることを考えると、「種の起源」は生物学そのもののパラダイム転換を起こしたと言える。その一方で、ダーウィン自身は一貫して謙虚な姿勢で論を進めており、自身の「変化を伴う由来」学説では説明の難しい現象についても言及している。その1つとして、「極度に完成度の高い複雑な器官」を取り上げ、「ごくわずかずつの変化が数多く連続的に累積することでは形成されないほど複雑な器官が1つでも存在するとしたら私の学説は完全に崩壊する」と述べている(渡辺政隆訳、光文社文庫)。ダーウィンは、その上で脊椎動物の眼をこのような事例として取り上げ、中間段階も適応的に進行することができると論じている。そうであるならば、形態進化を適応度地形に沿って理解しようとする場合、形態進化は常に適応度地形を登り続けてきたと考えなければならない。進化の過程で、適応度地形を下って、別のピークに移行するということは起こらなかったのだろうか。この問題を取り上げたA. ワグナーの議論を紹介しつつ(「廻り道の進化」)、進化発生学に新たなパラダイムが出現しうるのか、すでに形態進化を考える理論的な枠組みは十分に理解されており、現代の我々は通常科学を営むことしかできないのか、考えてみたい。
Lec-2 大庭 良介(筑波大学)身体知と知の多様性──基盤となる方法論的再考
本講演では、西洋と東洋における身体観の違いを起点として、「知とは何か」「どのように伝わり、活かされるのか」という問いを掘り下げる。具体的には、トーマス・カスリスが提案した〈インテグリティー〉(対象間の外的関係に基づく世界認識)と〈インティマシー〉(対象間の内的関係に基づく世界認識)というの二つの指向性を、対象と関係に関する認識形式論として再定義し、それぞれに対応して知を扱う「人文学的方法」「科学的方法」「型的方法」「調律的方法」という四つの方法論を構成する。そして、身体観と治療といった具体例を通じて、これら方法論の妥当性を検討する。
科学的方法と人文学的方法では、〈インテグリティ―〉の指向性での世界認識を基盤として、解剖的・物理的な要素ネットワークとしての身体観が導出され、対象の病気という状況を、「対象同士の明示的で不変的(科学的方法)または可変的(人文学的方法)な関係の知」を適用して治療する活用が可能となる。型的方法と調律的方法では、〈インティマシー〉の指向性を基盤として、全体的・機能的なホログラフィックな身体観が導出され、対象の病気という状況を、「対象同士の暗黙的で可変的(型的方法)または不変的(調律的方法)な関係の知」を適用して治療する活用が可能となる。
科学的方法以外のアプローチはしばしば非合理的とみなされがちであるが、「指示・枠組」「経験・データ」「検証・反証」という三要件からの視点では、異なる認識能力に依拠するものの、いずれも信頼性ある汎用的な方法論であり、環境を含む心身という対象の全体性に迫るためには不可欠であることを論じる。一つの知の枠組みに偏るのではなく、複数の方法論を往還できる「行き来する力」の大切さを強調したい。本講演の目的は、単なる方法論的多様性の提示ではなく、生命や生物の本質を理解・把握し、同時に、それを基盤とした実践知を構築するためのアプローチの提案である。
全体要旨
「そこのアナタ、本書を読まずして統計学を語るなかれ」。刺激的な帯で目を引く『統計学再入門』が2024年に出版された! 本書は、統計学を使うときに抱く後ろめたさやモヤモヤ感の要因を突き止め、そうしたオモイを軽減してくれる。そのモヤモヤ感の要因の一つに、統計思考への切り替えができていないことが挙げられる。統計学では分布をもとに現象を捉える。分布をもとに現象を見る視点は、測定誤差を処理する誤差論のなかで発展していった。測定には誤差がつきもので、誤差論では測定値は真の値に誤差が加わった値として扱われ、測定を何度も繰り返すと誤差によって測定値はベル型の分布を示すとみなされる。一方、同じ分布を別の視点から捉える思考法は、チャールズ・ダーウィンの進化論で芽生え、フランシス・ゴールトン、カール・ピアソン、ロナルド・フィッシャーらによる進化研究のなかで深化していった。ゴールトンらは進化論の数理的発展に寄与しただけでなく、現在の統計学の基盤も築いた。そのなかで、分布を見つめる新たな視点が考案され、分布を真値まわりの誤差のばらつきとして見るのではなく、分布自体が集団の特徴を表していると捉えるようになった。このような分布の捉え方を「集団的思考」と呼ぶ。
本シンポジウムでは、集団的思考という視点がどのように発展し、いまの生物学や統計学に影響を与えているのかを検討する。まず、森元良太(北海道医療大学)は、集団的思考の意義を誤差論の思考法と比較しながら説明する。次に、深谷肇一氏(国立環境研究所)は、種の個体数変化を表す階層モデルを具体例に、モデルにおける確率分布と母集団との関係を分析する。そして、入谷亮介氏(理化学研究所)は、フィッシャーの進化モデルを通じて、分布の捉え方を検討する。最後に、島谷健一郎氏(統計数理研究所)は、生物学における統計学と数学の役割を考察する。本シンポジウムを通じて、集団的思考の視点が現在の統計学や生物学にどのように影響しているのかについて、さまざまな具体例を交えながら多角的に議論を深めていきたい。
S-1 森元良太(北海道医療大学)『統計学再入門』を読んで分布を語ろう
拙著の『統計学再入門』では、統計学を使うときに抱く後ろめたさの要因の一つに分布の捉え方があることを論じた。統計学を使うときには、誤差論的思考から集団的思考に思考の枠組みを切り替える必要がある。集団的思考の着想はチャールズ・ダーウィンの偉業と讃えられている。集団的思考はフランシス・ゴールトンによって精緻化され、正規分布という分布の新たな捉え方につながる。その後、分布の捉え方はカール・ピアソンやロナルド・フィッシャーらによって展開され、進化論だけでなく、近代統計学の基盤として広まっていく。本発表では、統計学や進化論の黎明期に発展した分布の捉え方を再考する。
S-2 深谷 肇一(国立環境研究所)生物多様性評価のための統計モデリングにおける誤差論的思考と集団的思考
野生生物種の個体群を健全な水準まで回復させることは国際的に合意された生物多様性目標となっている。こうした目標に向けた進捗を測定・評価する上で、種の分布や個体数の変化傾向(トレンド)を示す指標が重要な役割を果たす。演者は、全国規模で行われている生態系モニタリングのデータに基づき種個体群のトレンドを正確に示す指標を提案するために、種個体群の動態と観測の過程を明示的に考慮した統計モデル(階層モデル)の開発を行っている。本講演では、種個体群のトレンド評価の考え方や、種個体群の観測に固有の問題、演者によるモデリング研究の事例などを紹介し、生物多様性のモニタリング、およびそのための統計モデリングや指標開発の文脈において、誤差論的思考と集団的思考がそれぞれどのように出現するかを考察する。また、種を単位とした生物多様性保全の考え方に対して、誤差論的思考と集団的思考が十分な枠組みを与えうるかどうかについて検討する。
S-3 入谷 亮介(理化学研究所)クラス構造をもつ適応進化と集団的思考
適応進化は、集団内の個体の適応度の変異性によって遺伝子頻度が変化する現象である。しかし、適応度の変異性は遺伝的な違いのみによって起こるのではなく、環境効果もある。たとえば、生息地の質の良し悪し次第で、残せる子どもの数は異なる。このように、集団内に非遺伝的な差異が存在するとき、集団は「クラス構造」を持つと言われる。一般にクラス構造が適応度に及ぼす影響を検討するためには、適応度が高次元(行列)構造をもつ状況を考える必要があり、そのために「繁殖価」と呼ばれる量を考える必要がある。本講演では、クラス構造と繁殖価に関する基礎的な考え方と具体例を紹介する。そしてクラス構造をもつ集団における適応進化という概念は、より一般化された集団的思考をうまく反映し、集団的思考の柔軟性を特徴づけることを議論する。最後に、講演者が研究している、クラス構造をもつ集団における適応進化の簡略化理論について紹介する。
S-4 島谷 健一郎(統計数理研究所)生物学における数学思考と統計思考
生き物は数式に従って生きているわけではない。アタリマエのことだが、基本的な法則が数式で書ける古典物理学と決定的に異なる点である。古典物理では、基礎方程式をみつけることで、諸々の法則を統一的に理解し、演繹的に定量的予測を行うに至った。しかし同じような科学論は生物学では望み薄である。Levins (1966) が、集団生物学では、一般線・現実性・正確性の3者にトレードオフがあると主張して以降、定量的正確性を捨て定性的パターンに軸足を置く数理生物学が発展した。
一方、統計学も生物学でよく使われる。しかし、その役割は根本的に異なる。統計学は、データに基づく帰納推論を補うものである。数学としての理論体系は数理統計学として演繹推論で構成されるが、科学に応用する段では、帰納推論の中に組み込まれる。
ところで、演繹的な数理モデルと帰納推論目的の統計モデルを、状態モデルと観察モデルとして階層モデルの中で統一的に扱う手法も1960年代から始まり、2000年代にはベイズ推定と組み合わさり、今日、標準的モデリングとなっている。そこでは、モデルの中の未知パラメータや数式の形はデータから帰納的に推定・選択し、予測は不確実性込みで演繹的に行う。
数学の役割の異なる方法論が交錯する生物学だが、「統計学再入門」3章の集団的思考は、一貫して生物学において主軸の役割を担っている。今後の定量的生物学における数学の役割も、「統計学再入門」の中で基礎付けされた集団的思考を軸に考察することで、見通しや展望が開けてくるかもしれない。
全体要旨
エドワード・O・ウィルソンが『社会生物学』を出版してからちょうど半世紀が経過した。この著作は「社会生物学論争」と呼ばれる一大論争を巻き起こしたことで知られるが、その主要な論点の一つは<生物学と倫理学の関係性>であった。進化理論がさまざまな倫理学的立場や倫理学という分野そのものにどのような影響を及ぼすのかという問題は、現在でも活発に論じられている。ピーター・シンガーが1981年に出版したThe Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress は、そうした議論の土台としてこんにちでも大きな価値を有する現代の古典であり、この節目の年における邦訳(『道徳は進歩する―進化倫理学でひろがる道徳の輪』、矢島壮平[訳]、晶文社、2025年)の出版は、このテーマに関心をもつ者にとってこの上ない朗報である。本ワークショップでは、その後の研究の進展を踏まえながら、進化倫理学の可能性と限界について多面的な検討を加えることで、さらなる議論を喚起したいと考えている。
WS-1 矢島 壮平(中央大学)倫理に合理的基盤はあるのか——シンガー『道徳は進歩する』を手がかりに——
『道徳は進歩する』において、初版出版1981年時点のシンガーは、進化論的暴露論証により生じる懐疑論・主観主義を回避するため、マッキーの錯誤理論を援用し、<利害均等考慮の原理>が倫理の合理的基盤であると論じた。ここで利害とは快・不快であり、それゆえこの利害均等考慮の原理に基づく道徳の輪は、快・不快を感じる動物まで広がる。しかし、「2011年版へのあとがき」でシンガー自身も認めているように、錯誤理論を適用すると、規範的原理である利害均等考慮の原理自体も偽であることになる。そこで懐疑論・主観主義を回避するためにシンガーは、客観的真理としての倫理的原理を認める方向に舵をきり、結局のところそれは<功利の原理>だと考えているようである。本発表では、こうしたシンガーの議論に問題はないのかどうか、懐疑論・主観主義を回避するための合理的基盤と主張されるものが一つの主観ではないのかどうか、検討したい。
WS-2 竹下 昌志(名古屋大学)道徳の輪は非ヒト動物にまで広がるのか?
本発表では、道徳の輪が非ヒト動物にまで広がることについて悲観的ながらも理性擁護的見解を示す。シンガーは『動物の解放』を通じて広く非ヒト動物への道徳的配慮を訴え、また『道徳は進歩する』でも理性によって非ヒト動物にまで道徳の輪が広がることを予見し、また広がるべきだと主張した。『動物の解放』は数多くの動物擁護運動を生み出し、たしかに輪は広がったように見える。本発表では、依然として人々がひどく種差別的であり、そのような種差別的考えから抜け出すことが心理的にいかに難しいのかを示しつつ、そのような心理的困難を理性によってどのように乗り越えることができるかを検討する。
WS-3 古手川 由樹(京都大学)理性に訴えることで進化論的暴露論証を反駁することはできるか
道徳的信念に対する進化論的暴露論証にはさまざまな批判が存在するが、その1つはヒトの自律的な理性的能力に訴えるものである。この種の批判によれば、確かにヒトの基礎的な道徳的傾向性に少なからず進化の影響が及んでいることは否定しがたいが、同時に私たちには進化の影響から独立した理性的能力が備わっており、この能力を行使することで進化の影響から独立して真なる道徳的信念を把握することが可能になる。現代の私たちの道徳的信念の形成に理性的反省や文化といった進化以外の諸要素が関与していること自体は暴露論証の支持者も認めるところである。だがそうだとして、理性的能力は進化の影響から完全に独立して作用するのだろうか。本発表では、理性的能力が道徳的信念の形成においてどのような役割を果たすものと解釈しても、進化の影響を否定することはできず、それゆえ上の批判は進化論的暴露論証に対する決定的な反論とはならないことを示す。
1-1-A-1【報告】近藤 玲(筑波大学大学院)心的表象の自然化と、表象の生産メカニズムの自然化の区別
心的表象の自然化の有望な理論と考えられている R. G. Millikan らの目的意味論は、心的表象を生物学的な機能によって自然化することを試みている。しかし、生物の機能に着目するこれらの試みにおいては、表象それ自体の自然化と、表象を生み出すメカニズムの自然化とがときに混同されて議論をされている。本発表では、心的表象の自然化が表象の持つ諸相の自然化と、それらの生産メカニズムの自然化との二つの観点から行われるべきであると論じたい。
1-1-A-2【報告】久保田 智也(東京大学人文社会系研究科博士課程(哲学))ミリカンの目的意味論と人間の思考
目的論的機能に基づいて志向性を自然化する目的意味論の検討において、研究者たちは、人間以外の動物にみられる表象(たとえばカエルの視覚表象)を中心的事例として扱ってきた。それゆえ他方、目的意味論が人間の信念や欲求をどのように説明しうるのかについて、議論すべきことは多く残されていると思われる。本発表の目的は、議論の端緒を開くため、人間の思考をめぐるミリカンの考察を明確化することである。
1-1-A-3【講演】道田 蒼人(京都大学)不確定性問題を退ける:Millikanの指示概念について
志向性の自然化プロジェクトの中で最も有望なアプローチの一つが、目的意味論である。目的意味論は現在も修正が重ねられ、諸説がその理論的優位性を競っている。こうした改良案を評価する主要な基準は、「内容の不確定性問題 (the problem of content indeterminacy)」(Neander 2017; Schulte 2023; Bergman 2023)にどれだけ上手く対処できるかどうかである。これは、表象に帰属しうる内容が複数存在するために、その表象が何を意味しているのかが曖昧になるという問題である。
本発表の狙いは、不確定性問題を疑似問題として退けることにある。内容の不確定性の源泉は、表象を利用する生体メカニズムの機能の不確定性に帰されてきた(Dretske 1986; Neander 1995; Enç 2002)。機能の一意な特定が目的意味論にとって喫緊の課題であったのは、「生体メカニズムの機能を確定できなければ、必然的に表象の内容も確定されない」という前提が広く受け入れられてきたからである。本発表では、この前提を揺るがすことによって、機能の不確定性を無害化する。すなわち、本発表の中心的主張は、「内容の不確定性は機能の不確定性に還元されない」ということである。
この主張を展開するための鍵は、ミリカンが立てる「明示的な指示 (explicit reference)」と「非明示的な指示 (implicit reference)」の区別(Millikan 2004)である。この区別の導入は、真理条件や正常な条件といった従来の基準だけでは捉えきれない内容決定の基準が得られることを約束する。以上の議論に基づき、本発表は機能の特定のみに依存しない、ミリカン流の内容決定モデルを提示する。このモデルは、不確定性問題を無効化できるという点で、擁護に値するものである。
1-2-A-1【報告】鈴木 絵梨香(東北大学文学研究科)生物学における機能分析について
本報告では、自身の修士論文で取り上げる予定である、生物学における機能分析についてまとめる。Wrightの機能を定式化しようと試みた分析から始まり、機能分析を用いることのできる場合を挙げたAyala、構成要素が全体の動作に貢献するメカニズム的視点で捉えようとしたCummins、機能概念に当てはまる統一的な特徴の抽出と、生物学の多様性とを踏まえたKitcherの分析について着目し、現状の課題と今後の研究の展望とを報告する予定である。
1-2-A-2【報告】久保田 はな(立命館大学)後期メルロ=ポンティ自然講義における動物性概念の検討
20世紀後半フランス哲学者メルロ=ポンティの後期思想における動物性という概念について報告する。彼は1957年の講義において、生命とは動物性と人間性との相互内属(従属でも包含でもない相互関係)であると主張した。本報告では、メルロ=ポンティの思想が存在論的次元において、人間性と動物性は可塑的であるという主張するものであることを踏まえつつ、彼の操作主義批判を検討する。
1-2-B-1【講演】森田 紘平(神戸大学)・吉田 善哉(エクセター大学)生物学と物理学をつなぐ中間モデル―集団細胞細胞の研究を事例として
生物学と物理学では説明スタイルや表象の形式に大きな違いがある。前者では諸因子間の因果関係を定性的に記述するメカニズム的モデルが広く用いられるが、後者では理論を背景に現象を形式的に記述する数学的モデルが主たる道具である。それでは、ある生命現象が生物学と物理学双方で研究されるとき、こうした異なるタイプの説明や表象はどのように関連し結びつけられるのだろうか?
この問いに答えるため、本発表では集団細胞移動の研究を事例とし、生物学と物理学を橋渡しする「中間モデル」の性質と役割について分析する。生物学における集団細胞細胞の研究は、細胞集団の協調的移動を制御する分子シグナルについてのメカニズム的モデルを構築してきた。これらのモデルは異なる空間スケールの要素を含み、少数細胞の相互作用の直感的拡張によって多細胞の挙動を説明する。これに対し、生物物理学のモデルは力学的相互作用を数学的に表現し、細胞を格子上の領域として表現するモデルや細胞集団を連続体として扱うモデルなどがある。それぞれの物理学のモデルは空間スケールが限定されており、多細胞の挙動を全体的・抽象的に記述する。
両者のモデルを橋渡しするのが中間モデルである。これは非形式的な概念モデルであり、細胞移動についての生物学的知識を踏まえつつ、物理的説明に関わるすべての力学的変数を提示する。中間モデルは生物学と物理学の説明を橋渡しする上でいくつかの役割を果たしている。①生物学の多スケールモデルと物理学の単一スケールモデルの接続、②系の特殊性を反映した生物学のモデルと一般的な物理学のモデルの接続、③物理学のモデル構築のための変数選択の準備、④物理学のモデルに対する生物学的な意味の付与(逆もまた同様)。さらに本発表では、遺伝子制御ネットワークモデル等の事例との対比を通じて、生命現象の解明における単なる数学的説明と物理学的説明の違いについても論じる。
1-3-A-1【報告】葉柳 朝佳音(大阪大学人文学研究科)環世界論の記号論的展開──シービオクのユクスキュル解釈について
記号論者トマス・A・シービオクは、生物の主体性を論じた生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論を記号論的に再解釈し、生物による〈意味生成〉のプロセスを理論化した。ただし、生命プロセスを記号プロセスに還元する生命記号論は、身体を通じた外界との相互作用という、環世界論が生命プロセスに見出した動的側面を見失うおそれもある。本発表では、環世界論的主体(知覚・行動の主体)から記号論的主体(意味生成の主体)への転換の意義と限界を検討する。
1-3-A-2【報告】島田 草太朗(東京都立大学理学研究科)・ 大村 嘉人(国立科学博物館植物研究部)「地衣類の種問題:共生体としての実体と種概念との乖離」
地衣類は、菌類と藻類との共生体として知られる。これらを構成する菌類および藻類は、自然界では単独でコロニーを形成して生活することはほとんどなく、多くの場合、共生状態を維持した「地衣類」として存在している。しかし分類学上、地衣類は菌類に属するものとして扱われ、その系統も共生菌に基づいて議論されるのが通例である。
ところが近年、詳細な遺伝解析の進展により、地衣類は単一の菌と藻のペアだけではなく、複数の菌および藻、さらにはバクテリアなどが、それぞれ特定の機能を担いながら、ひとつの共生体を維持していることが明らかになってきた。多くの生物が他の生物と相互関係を構築していることはよく知られているが、それらの関係は、一般に開放的な生態系の中で成り立っている。これに対し、地衣類は共生者同士が密接かつ安定した関係を保ちながら、外部への依存を最小限にとどめ、自己完結的な生活形を維持している点で異なっている。
こうした知見は、地衣類に於いて、菌類側の系統解析をもとに構築される「種」の概念と、自然界において共生体として存在し語られる「種」の概念との間で、指示対象に大きな乖離があることを示唆している。単に種概念の非合意だけでなく指示対象の非合意という問題が立ち現れる点で、地衣類の種問題は特徴的である。例えば、「ウメノキゴケ」と呼んでいる指示対象は共生体としての存在であるのに、分類学上は構成している単一の共生菌に対して「ウメノキゴケ」と呼んでいる状況になっている。
本発表では、この乖離が生じる背景を概観しつつ、従来の生物の種概念では扱いきれない独立した共生体としての地衣類の存在を通して、哲学に於ける種問題に関する事例提供および問題提起を試みる。
1-3-B-1【講演】米本 昌平(東京大学教養学部)生命科学の熱運動嫌悪症と、「細胞=時間循環分子系・小宇宙」仮説
いまの生命科学は、J・ワトソンが『遺伝子の分子生物学』(1965)で展開した分子生物学的生命観を基盤にしている。ワトソンは、生命現象は水素結合・ファンデルワールス力・イオン結合などの“弱い化学反応”で説明可能と考え、一気にこの教科書を書きあげた。ここでの“弱い化学反応”とは、熱運動よりは有意に大きい化学反応を意味しており、その根底には、生命現象の解釈に関して熱運動は無関係・無意味であるとする価値判断が伏在している。ただし、その合理的根拠は何ひとつない。
一方で、現行の生命科学の表現様式を分析すると、生体分子から熱運動を消去し、溶媒の水分子を除去して、生体分子を中空に浮遊する物体であるかのように扱う。これは、現行の生命科学の認識過程には“擬似アプリオリ的”に、熱運動と水分子溶媒を自動的に排除する機能が織り込まれていることを示している。そのため、生命科学は今日まで、“弱い化学反応”よりもさらに微弱な反応に関心を向けてきたが、作用因として熱運動を挙げるに至ってはいない。この生命科学の外形的特徴は、「熱運動嫌悪症」と診断するのがふさわしい。
ところで、熱力学第二法則の基本にある理想気体の一様な拡散の様式を、時間進行の基準に置いて考えると、理想気体の分子を球形剛体から徐々に逸脱させて、その非対称性の度合いを高めれば高めるほど、また、そのような分子の割合を増やせば増やすほど、時間進行の形は歪曲していく。このような抽象操作を「時間トポロジー」と呼ぶことにし、「生命数学」(生命現象から直接抽出される抽象論理)の一角と見なして、時間を歪曲させるこの抽象操作を際限なく進めていくと、出発点と終局の分子状態が一致する「時間循環分子系」を考えることができる。このことは、「細胞とは時間が循環する分子系の小宇宙である」とする解釈仮説を成立させる。これを分子生物学的生命観と対峙させると、新たな展望が開けてくる。
2-1-A-1【講演】呉羽 真(山口大学)構成論的アプローチはどこから来たか
人工知能(AI)や人工生命(A-Life)、ロボティクス、合成生物学の分野では、作ることで理解する、という「構成論的アプローチ」が、生命や知能を理解する上で有用なアプローチと認識され、活発に実践されている。また、特に日本では、A-Lifeやロボティクスにおける構成論的アプローチの実践者たちが盛んにこの手法の意義やユニークさを論じてきた。だが、こうした方法の由来については、ほとんど知られていない。国内ではこのテーマに関する研究は存在せず、海外では情報科学史と生物学史でそれぞれ研究が行われてきたが、分野を横断した同アプローチの歴史的展開についての統一的な像は描かれていない。そこで本講演では、海外の先行研究で得られた知見を統合し、また独自の見解も交えつつ、構成論的アプローチの展開を辿り、同アプローチがどこから来て、どのような経緯を経て現在に至るのかを明らかにすることを目指す。また、そうして明らかになった歴史的事実に基づき、構成論的アプローチに関する現在の(主に国内の)議論の妥当性を検討する。この作業を通して明らかになるのは、第一に、構成論的アプローチが、AIやA-Lifeの成立する以前の20世紀初頭の生物学に今日につながる起源をもち、行動主義心理学やサイバネティクスで形を変えながら実践されてきたこと、および第二に、この過程で同アプローチが、その起源を忘却されながら、特に機械論を巡って、それが考案された当初とはある点で対照的な見方を擁護する目的に援用されるようになったこと、である。以上の点を踏まえて、構成論的アプローチを生命や認知に関する特定の理論的立場と結びつける捉え方に異議を唱え、むしろそれを理論中立的な方法論と捉えるべきだと提案する。
2-1-B-1【講演】鈴木 大地(筑波大学)相同性の圏論的定式化
相同性は,教科書的には「形態や遺伝子が共通の祖先に由来すること」であるとされる.これは歴史的相同性概念と呼ばれ,そこでは連続相同(例:節足動物の同一個体内での各体節の付属肢の相同性)は単なる同型homoplasyであると解されてしまう.だが近年の進化発生学の勃興から,連続相同も包摂しうる相同性概念(例:G. Wagnerの生物学的相同性概念)が提出されている.こうした相同性概念の対立の背景には,個物と類をめぐる形而上学的コミットメントが存在する.本発表では、圏論を用いた相同性の定式化を提案し,対立する上記ふたつの立場はこの定式化を異なる観点から捉えたものであることを示す.この定式化は、連続相同だけでなく,スコープ依存性,先祖返り,発生システム浮動,deep homologyなど,相同性にまつわる多様な側面にも整合的に適用可能である.
2-2-A-1【報告】佐藤 公亮(北海道大学理学院)メカニズム図から見る細胞生物学的実践に関する考察
細胞生物学的実践では、顕微鏡観察による細胞構造の特定と分子生物学的方法によって分子作用を結びつけ、メカニズム図を作成することが重要な役割を果たす。分子生物学の発展による変化をSerpenteは「図表から記号への移行」と表現しており、生物学的メカニズムを示すだけでなく推論にも有用だとする。本発表では、細胞生物学におけるメカニズム図と、2000年にMachamerらが提唱した他分野のメカニズム図との差異を議論する。
2-4-A-1【講演】廣田 隆造(東京大学)「媒介のモノイド」としての自律性と生命・非生命の境界
生物を非生物と分ける顕著な特徴の一つとしてしばしば、生物の「自律性(autonomy)」が挙げられている。これは「自己依存性」や「自己決定性」とも言い換えられ、その系のあり方がそれ自体の活動や構成に依存しているような性質を指す。これまでに、生物の自律性を記述するためのさまざまな数学的形式化が試みられてきた。たとえばヴァレラによる「作動的閉包」(Varela, 1979)や、モレノとモッシオによる「制約の閉包」(Moreno and Mossio, 2015)では、系を構成するプロセスがなんらかの依存関係において閉じていること、すなわち依存関係のなす「閉包(closure)」という構造が注目されてきた。
本発表では、こうしたこれまでの「依存関係の閉包」としての形式化が共通して表現しようとしてきた自律性の本質的な構造を、圏論的観点から「媒介のモノイド」としてよりシンプルかつ統一的に捉えることを試みる。圏とは「対象」と呼ばれるものとその間の「射」と呼ばれる関係付けからなり、かつ対象を介した射の「合成」が可能な系である。モノイドとは、対象が一つのみで全ての射が互いに合成可能であるような圏であり、さまざまな操作や変換を経ても系のある性質が保たれるという「閉包」的構造の、より一般的かつ簡潔な表現である。またここでいう「媒介(mediation)」は、決定論的因果よりも一般的な「AがなければBはない」という依存関係を指し、本発表ではこの媒介関係を射とするモノイドとして自律性を捉える。すなわち、自律性とは、さまざまな自己媒介的プロセスのループ同士が、それ自体としては空虚な系の「同一性(identity)」を介して互いに合成可能となっているような性質であると理解できる。
さらにこの「媒介のモノイドとしての自律性」という観点から、台風や蝋燭の火のように自己媒介的でありながら非生命的な系と、生物としての系の間にある違い(モノイドの持つ射の多様性)についても検討する。
2-4-A-2【講演】浅利 みなと(東京都立大学)動物シグナルと情報概念
動物シグナルとは何か。古典的な動物シグナルのひとつであるOtte (1974) によれば、「他の生物に情報を伝達するがゆえに自然選択によってかたちづくられたり、維持されたりする振る舞い上、生理学上ないし形態学上の特徴」とされる。このように動物シグナルを情報概念によって基礎づけようとする試みは珍しいものではない。しかしながら、このような「動物シグナル=情報の伝達」という、こういってよければシャノン=ウィーヴァー的なコミュニケーション観に基づく動物シグナルの定義は、歴史上何度か批判にさらされてきた(Dawkins and Krebs 1978)。近年では、Rendall et al. (2009) による情報概念を用いた動物シグナルの定義が再度批判を浴びることとなり、生物学者、認知科学者、哲学者等を巻き込んだ論争を引き起こし、この論争はAnimal Communication Theory: Information and Influenceというタイトルで論文集が編まれるにいたった(Stegmann 2013)。動物シグナルとはそもそも何なのかについても未だ標準的な見解は存在しない。それどころか、むしろこの分野が発展するにつれて百家争鳴の体をなしているといっても過言ではない。
本発表では、こうした背景を踏まえつつ、こうした論争とは距離をとっているが明らかに情報概念に基づいたシグナルの分析を与えているSkyrms (2010) の仕事に焦点を当てる。実のところスカームズはシグナルの内容の分析を与えてはいるものの、シグナルとは何なのかにしては明確な定義を与えていない。本発表では、スカームズの仕事に依拠しつつ情報概念に依拠した動物シグナルの定義を与える。本発表が提示する定義によれば、情報を伝達するだけでなく情報を遮断するための振る舞いもまた動物シグナルとして見なされることになる。なぜこの定義が好ましいのか、そして、本発表が提示する動物シグナルの定義が、既存の批判をなぜ免れるのかについても議論をおこなう。最後に、Bergstrom et al. (2020) にて定式化されている情報開示(information revealing)と情報遮断(information concealing)の概念と、本発表が提示するシグナル概念とを比較検討する。
2-4-B-1【講演】中島 敏幸(愛媛大学)心と物の統一モデルによる生命の適応理論
単細胞や多細胞生物等の生命システム(以下,LS)が環境に適応する性質は生命の重要な特性の一つである.適応とは,LSが自身の外部の存在や状態を知り,それに対して生存や繁殖にとって望ましい状態変化することである.では,LSはいかにして自身の外部世界を知ることができるのか?これは哲学の独我論問題に似ている.この問題を科学的に扱うためには,LSという“物質系”が何かを“知る”という心と物の複合的な過程を整合(一元論)的に表現するモデルが必要になる.演者はこの問題に対し,“知る”と“動く”はいずれも“何かに対する状態変化”として統一し,知る(or 動く)“主体”がその外部状態に対して特定の状態に変化するという一元論のシステムモデル(cognizers system (CS) model)を提案した.この関係的状態変化を ”cognition” と定義し,その主体を ”cognizer”とした.ここでは,cognitionを通常の意味である人間の認識過程に限定せず,分子や原子等にも拡張している.しかし,原子や分子が外部状態に対して状態変化する特性を持つとしても,それらが寄せ集まれば“自動的”にLSの認識過程が生じるわけではない.この拡張を明確にするために,高次の関係的状態変化として「主体システムが外部状態を指すシンボルを内部状態として生成し,それを処理し,外部状態に対して合目的にシステム全体の状態が変化する」過程を考え,これを記号論レベルのcognitionと定義する.これは細胞レベルではシグナル伝達系,多細胞レベルでは神経系で実現されている.以上のように cognitionは物理的,化学的,記号論的過程という3つの階層レベルに拡張され,生命の適応にはこれらすべてが関わっている.しかし,「自己の状態とは区別した外部状態を知る」という記号論レベルにおいては独我論問題が現れる.夢や幻覚ではなく,外部状態を表すシンボルたちを生成する機構やその根拠となる原理は何か?また,意識とはこのシンボル(状態)なのか?本発表では,Nakajima (2024;doi.org/10.3390/e26080660) に基づいて,これらの問いに答え,微生物,植物,動物にわたるLSの適応を議論したい.
2-4-B-2【講演】松本 俊吉(東海大学)うつ病の進化精神医学について深掘りする
本発表では、うつ病を取り上げることで、精神医学に進化的思考を導入する進化精神医学の有効性とともにその限界を見定めることを目指す。うつ病はこうした目的のための恰好のケーススタディを提供する。それは、生物学的適応度に対するその明らかにネガティブな影響——自己肯定感の極端な低下、仕事・食事・社交・趣味・セックス等の適応度増大に貢献する活動への興味の喪失、自殺念慮、etc.——にもかかわらず、人類史の中で4000年にも渡って淘汰されることなく受け継がれ、その生涯有病率は13–17%、遺伝率は0.35と、他の精神疾患(ちなみに統合失調症の生涯有病率は1%、遺伝率は0.8–0.9)と比較してもかなり高いレベルを維持しているからである。
うつ病の進化精神医学的説明には、大きく分けて、(1)進化適応説(Andrews and Thomson 2009)と、(2)適応的防御機構の暴走説(Nesse 2009; Horwitz and Wakefield 2007; Wakefield 2016)があるが、本発表では発表者がより説得的であると考える後者に焦点を当てて考察を深めたい。特に、暴走説に論理的説得力をもたらす「煙探知機の原理」(Nesse 2019)を紹介し、その進化的基盤について考察する。最後に(時間が許せば)、うつ病を個人の疾患という観点からだけではなく、社会的・構造的な不正の犠牲という観点から考察する必要性を説く非進化的・規範的説明との対比を通して、暴走説の限界についても考察する。
2-5-A-1【報告】鈴木 治夫(慶應義塾大学)細菌レプリコン(プラスミド)分類の現状と課題
細菌のレプリコンは、サイズや必須遺伝子の有無に基づく分類が提案されているが、例外も多く、染色体やプラスミドといった用語の定義や使用に統一性がない(Hallら, 2022)。一部のプラスミドは接合を介して細菌間を伝達する可動性遺伝因子であり、特に薬剤耐性遺伝子の水平伝播に関与するプラスミドの分類は、耐性拡散が単一型によるのか複数型によるのかを評価する上で疫学的に重要である(Orlekら, 2017)。本報告では、プラスミドを対象にレプリコン分類法の課題を議論する。
2-5-A-2【報告】伊藤 謙佑(同志社大学)動物は消去法的推論をしているのか
哲学の分野では、自然主義的な立場の論者でさえ、ヒト以外の動物に論理的な能力を認めることには消極的である。しかし心理学の分野では、チンパンジーや犬などを対象に選言的三段論法(disjunctive syllogism/reason by exclusion)が可能かどうかの実験が試みられ、いくつかの実験で肯定的な結論に至っている。本報告では、そうした実験結果について哲学の立場から再検討を行い、二つの分野で考え方にズレが生じている原因を考察する。