概要
日時:2024年9月3日(火)- 4日(水)
場所:会津大学講義棟一階M10教室(予定)
特別講演(敬称略):齋藤寛(会津大学)、小暮克夫(会津大学)
プログラム
一日目(9月3日)
10:00-10:05 開会の挨拶(網谷祐一)
研究報告(1)(司会:森元良太)
10:05-10:35 佐藤公亮(北海道大学理学院博士後期課程)「エンテレヒーを情報と捉え再解釈を目指す研究」
10:35-11:05 川﨑あゆむ(慶應義塾大学文学研究科)「目的意味論における志向記号の協働性の条件とハンディキャップ理論」
研究報告(2)(司会:松本俊吉)
11:20-11:50 藤野光士(F.A.C. Ltd.)「自然主義的認知科学で「私」を知る方法の探求」
11:50-12:20 Christian J. Feldbacher-Escamilla (University of Cologne) “Abductive Knowledge vs. Abductive Preference”
12:20-13:50 昼食休憩
シンポジウム
13:50-16:20「意味をめぐる(バトル)フロンティア」オーガナイザー:鈴木 大地(筑波大学)
榎本 啄杜(大阪大学)「情報の観点からダブルミーニングなミーニングを考える」
浅利みなと(東京都立大学)「動物のコミュニケーション研究における意味の領域」
道田蒼人(京都大学)「記号を通して世界をみるということ:目的意味論の群論的形式化」
特別講演(1)(司会:網谷祐一)
16:30-17:30 小暮克夫(会津大学)「歴史的出来事に対する因果推論」
18:30-20:30 懇親会(当日会場にてご案内します)
二日目(9月4日)
特別講演(2)(司会:網谷祐一)
10:30-11:30 齋藤寛(会津大学)「野生動物警報システムと会津地方での実証実験」
一般講演(1)(司会:鈴木大地)
11:40-12:10 岡崎佑香(立命館大学・日本学術振興会特別研究員PD)「G.W.F.ヘーゲルにおける性別二元論への挑戦」
昼食休憩 12:10-13:40
一般講演(2) (司会:田中泉吏)
13:40-14:40 染谷昌義(北海道大学 人間知・脳・AI研究教育センター)「神経戦線を突破する心の科学と哲学―植物神経生物学論争から意識の細胞基盤仮説まで」
14:50-15:50 松本俊吉(東海大学)「生物学の哲学から見た進化医学(その3)――生物学的な適応度と医学的な健康との関係」
16:00-16:30 網谷祐一(会津大学)「分類学は二流の科学か」
16:30-17:15 総合討論・閉会の挨拶
発表要旨
特別講演
小暮克夫(会津大学)「歴史的出来事に対する因果推論」
本講演では、歴史的出来事が現代の経済成果・経済発展に与える因果関係を検証している近年の社会科学における実証研究を批判的に検討したい。大規模ミクロデータの整備・アクセスの向上、コンピュータ性能の飛躍的進歩、そして、実証分析手法の発展を受けて、詳細な歴史データと現代のミクロデータを駆使しながら、両者の因果関係を識別しようとする実証研究が増加している。そして、これらの多くの論文が海外有力学術誌に掲載されている。社会科学の実証研究の進展や関連分野の学術研究動向についても俯瞰しながら、これらの実証研究において、因果関係を識別する際に見落とされている文脈特有の概念的問題と、識別の過程で暗黙のうちに置かれている仮定について議論したい。また、これらの問題を回避するための代替アプローチの可能性についても議論したい。
齋藤寛(会津大学)「野生動物警報システムと会津地方での実証実験」
近年、獣害が社会課題となっている。害獣の侵入は主に目撃に頼っており、そこから住民に周知されるには数十分から数時間を要す。この間、害獣の近くにいる人は害獣と遭遇し、事故に合う可能性がある。こうした問題を減らすために、我々は野生動物警報システムを開発してきた。このシステムは、野生動物警報装置にて、AIを用いて害獣を自動で検出し、音や光の発報にて近くにいる人への警報や害獣の追い払いを行う。また、検出した情報をサーバー経由で、メール登録者に即時に周知する。野生動物警報装置を害獣の生息する山と人々の生活圏の境界に設置することで、害獣の侵入を早い段階で検出することが可能となる。本発表では、野生動物警報システムの概要、及び福島県会津地方振興局からの委託業務における成果を報告する。また、現在抱えている課題と今後の展望を解説する。
シンポジウム「意味をめぐる(バトル)フロンティア」
オーガナイザー:鈴木 大地(筑波大学)
唯物的な世界で、意味はいかにして生じるのだろうか。コンピューターは意味を理解するのだろうか。意味はどのように伝達されるのだろうか。情報意味論、目的意味論、(生命)記号論、進化生物学ベースのコミュニケーション理論といったさまざまな分野が、それぞれの理論を展開してきた。だが分野間での交流は、肯定的なものであれ否定的なものであれ、それほどなされてこなかったように思われる。ChatGPTに代表されるLLMが爆発的に普及し、人工生命(ALife)や人工意識(AC)の研究もにわかに盛り上がりを見せている現在、あらためて意味について分野横断的に検討し、あらたな地平を切り開くことが求められる。そこで本シンポジウムでは、生命記号論の再検討を主題に、情報意味論、目的意味論、進化生物学ベースのコミュニケーション理論の専門家から話題提供をいただき、意味やその創発プロセスに対するスタンスやアプローチの共通点や対立点を検討、議論したい。
榎本 啄杜(大阪大学)「情報の観点からダブルミーニングなミーニングを考える」
生物にとって、「意味(ミーニング)」は重要である。ただし、一口に意味といってもダブルミーニングであり、「何か別のものを指示している」といったニュアンスであったり、「受け取る主体にとって役に立つ」といったニュアンスであったりする。これらは全く異なることであるにもかかわらず同じ用語で表されており、さらにはどちらも生物にとって重要であるように思えて、よくわからない。ところで、意味概念は情報概念と紐づけて理解されることがしばしばある。いわば、情報概念とは意味概念の親戚のようなものだ。すると、よくわからない「意味」を情報という道具立てで理解してみるのはどうだろう?と企みたくなる。しかし、そもそも情報という道具立てを何の気なしに使おうとすると、意味に関するダブルミーニングな直観が入り込んでしまってうまくいかない。やっぱりよくわからない。それなら、意味に関するダブルミーニングな直観が入り込まないレベルにまで情報概念を削ぎ落して「モノ(stuff)としての情報」を想定してみるのはどうだろう?すると、そこから日常的な情報概念やダブルミーニングな意味概念へと発展するように組み立てられるかもしれない。
浅利みなと(東京都立大学)「動物のコミュニケーション研究における意味の領域」
動物シグナルとは何か。言い換えるならば、自然界において意味の担い手となりうる振る舞いとは何なのか。実のところ、動物のコミュニケーションを研究する上での出発点とも言えるこの問いに対して、研究者のあいだで一致した見解は存在していない。これまで数々の生物学者や哲学者によってシグナルやコミュニケーションの定義が考案されてきたが、その中でも最も受け入れられているのは、Maynard Smith and Harper[MSH] (2003) による定義だろう。しかし、これが「最も広く受け入れられている」とは言っても、何人かの論者によってその多義性が指摘されている(Stegmann 2005; Scott-Phillips 2008; Scarantino 2013)。本発表は、これまで提案されてきたMSHのシグナルの定義の解釈とその含意を整理することから始める。興味深いことに、ある解釈にしたがうとミリカンが提示する目的意味論的なコミュニケーション像へと近づくのに対して、また別の解釈にしたがうと生命記号論が描く世界観へと近づく。この整理を踏まえ、攻撃的擬態(aggressive mimicry)やカモフラージュ(camouflage)等の境界事例を検討しながら、動物のコミュニケーションを研究するうえでその範囲をどう確定すべきかについてより良い見方を提示する。
道田蒼人(京都大学)「記号を通して世界をみるということ:目的意味論の群論的形式化」
生物学と言語哲学が交叉する地点では、さまざまな意味の理論が展開されている。それらは独自の発展を遂げているが、残念なことに没交渉気味である。その一因は、各分野に固有の前提を離れて通用する共通言語が欠けていることにある。本発表では、R. G. Millikanの目的意味論(teleosemantics)を、群論の言葉で数学的に形式化することを試みる。形式化という方法論に訴える目的は二つある。第一の目的は、Millikanの哲学において鍵となる役割を果たしつつも曖昧に用いられている「同型性(isomorphism)」概念を明確に定式化し、それによって彼女の議論を説得的なものとして再構成するためである。本発表は、同型性概念にフォーカスしつつ数学的構造と哲学的主張のパラレルな関係を明らかにする。この作業を通じて目的意味論の基本構造を抽出することが、形式化の第二の目的である。この抽象化により、目的意味論に固有な前提から身を引いて、意味をめぐるディシプリンどうしの差異と類似性がどこにあるのかを俯瞰的に捉えることができる。つまり形式的な方法論には、哲学的議論の明晰化に資するのみならず、分野横断的な対話を促進するという効果が期待できるのである。私の見立てが正しければ、目的意味論はDretskeに代表される情報意味論とはある仕方で決定的に異なっており、むしろ生命記号論との親和性が浮き彫りになるだろう。
研究報告
佐藤公亮(北海道大学理学院博士後期課程)「エンテレヒーを情報と捉え再解釈を目指す研究」
本発表では、生気論の代表的な教義であるハンス・ドリーシュのエンテレヒーの再解釈に取り組むことを表明する。エンテレヒーの概念は、現代科学の唯物論的世界観では棄却されたものとして扱われているが、決定的な否定には至っていない。また、エンテレヒーを情報概念として再評価する動きもあるが、エンテレヒーには依然として光が当たらない現状がある。まずは、現在までのエンテレヒーを巡る議論を整理し、自身のバックグラウンドである生物学的視点を加えて議論への参戦を試みる。
川﨑あゆむ(慶應義塾大学文学研究科)「目的意味論における志向記号の協働性の条件とハンディキャップ理論」
ミリカンの目的意味論においては、ある物が志向的記号とみなされるためには記号の生産者、消費者は協働するために設計されている必要がある。次田(2015)は、協働性の条件に変更を加え、ガゼルのストッティングのように一見して消費者・生産者が対立するケースをも志向的記号とみなすべきとしている。本発表では、ゲーム理論に基づいて協働性の条件を分析し、ストッティングのようなコストリーシグナリングを志向的記号とみなせるかについて考察する。
藤野光士(F.A.C. Ltd.)「自然主義的認知科学で「私」を知る方法の探求」
計算論的自然観の立場からは、宇宙とは自らのなりゆきを求め続ける一個の計算機である。日常言語で頻繁に主語として用いられる「私」は、認知と経験の主体であり、自然主義的認知科学におけるビッグ・トピックであるが、この計算論的自然観の宇宙において「私」はどのように実装されていると言えるだろうか。現時点までの経験科学の事実知を総動員してそのコロラリーの真の限界を極める方法を模索している。そのいくつかについて、その有効性と問題点を報告する。
Christian J. Feldbacher-Escamilla (University of Cologne) "Abductive Knowledge vs. Abductive Preference"
According to the knowledge first account within the philosophy of science (cf. Bird 2022), knowledge plays the dominant role in assessing the progress of science. Regarding the inferential basis, constraints for our evidence are weakened by arguing for the claim that all our knowledge is evidence (E=K). In this way, we can use whatever we know as evidence for or against our hypotheses and are not confined to directly tracing back everything to experience and observation. Regarding the inference method, this account aims to be perfectly located at the intersection of ampliative and knowledge-preserving inferences. It is a particular form of abduction, namely inference to the only explanation, that is supposed to fill this spot. In this contribution, we argue, based on an example/an episode in the history of biology, namely the Mendelian abduction of rules of inheritance, that inference to the only explanation will lead to some form of unplausible evidential uniqueness thesis, and that one better goes for an account of abductive preference rather than abductive knowledge.
一般講演
岡崎佑香(立命館大学・日本学術振興会特別研究員PD)「G.W.F.ヘーゲルにおける性別二元論への挑戦」
本報告の目的は、G. W. F. ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)による経験的な判断、推理、分類、定義に対する諸批判に着目することで、「両性具有」を「奇形」として病理化する同時代の比較発生学の言説に対して、彼がいかに挑戦しているかを明らかにすることである。第一に、ヘーゲルの自然哲学および論理学の鍵概念である「自然の無力」とは何を意味するのかを検討し、ヘーゲルにおける自然と概念の関係および経験的な「分類」についての彼の批判的考察の内実を確認する。次に、一八二八年の自然哲学講義においてヘーゲルは「自然の無力」の具現化として「移行的性」を挙示しながら、雄と雌のクラスのあいだの連続性に光を当てていることを論ずる。これを通じて、雄雌のあいだに所与の境界線を想定すること、あるいはその最終的な境界線を引くことに対してヘーゲルが批判的なスタンスをとっていることを示す。そのうえで、『エンチュクロペディ』における「タイプ」と「奇形」に関する議論を「タイプ標本」に対するヘーゲルの批判的検討と解釈したうえで、任意の個別対象を経験的な「タイプ」を基準にして「奇形」と評価することに対してヘーゲルが異議を唱えていることを明らかにする。さらに、『論理学 第二編 主観的論理学あるいは概念論』の「概念の判断」および「定義」ついての議論を生物種の新しい本質主義、すなわち恒常的性質クラスター説として解釈する先行研究を紹介しつつ、ヘーゲルの議論はむしろ本質による定義の不可能性を主張していると論じることで、先行研究に異論を提示する。最後に、『論理学』における帰納的推理に対するヘーゲルの批判を検討する。この検討により、ヘーゲルが帰納法の結論の蓋然性だけでなく、その論点先取の誤謬についても指摘していることを明らかにする。
染谷昌義(北海道大学 人間知・脳・AI研究教育センター)「神経戦線を突破する心の科学と哲学―植物神経生物学論争から意識の細胞基盤仮説まで」
かつてHumberto Maturana(1970)は、神経系があろうとなかろうと生命過程は認知過程であること、すなわち生命過程は心のはたらきであると主張していた。それから約50年、心の科学と心の哲学において、険しかった神経戦線を突破する思潮が生まれつつある。本発表では、2005年イタリアで旗揚げした植物神経生物学(plant neurobiology)の諸研究や主張、それをめぐる論争、さらにその後に登場した新規なアイディアと哲学的考察をいささかジャーナリスティックに紹介しながら、心の科学と哲学が突破しつつある神経戦線をレポートしたい。これにより、生命と心とを連続化(同一化?)する思考の可能性を提示する。
変形菌、真菌類、真正細菌、原生生物など、無神経な生物であっても知的な行動や巧みな環境応答ができることはよく知られている。植物ではどうだろうか。植物の行動・認知(さらに意識も)について明確かつ積極的に主張する運動が始まったのは、2005年であると言えるだろう。この年、Stefano MancusoやFrantišek Baluškaほか数名の植物科学(生理学・細胞学・生態学)の専門家が発起人となって、植物神経生物学会(The Society for Plant Neurobiology)が設立され、フィレンツェでシンポジウムが開催された。植物には解剖学的な器官としての神経系などない。にもかかわらず、この学会の発起人・賛同者たちは、確信犯的に「神経生物学」という言葉を用い、既存の植物学や植物生理学の禁欲的態度を刺激し挑戦した。同学会は、植物の知性的な行動や心のはたらきの研究を、植物の生体電気シグナルおよび化学的シグナルによる情報の伝達と統合の仕組みを解明することで行う、そう宣言したのである。
発表では、植物神経生物学の宣言に始まり、そこから派生した論争と思考を追跡する。植物生理学からは、重鎮Lincoln Taizたちからの激しい批判があり、それに対して植物神経生物学側からの応答が続く。生物学や心の哲学においては、植物の行動と認知を加味した認知の最低条件(minimal cognition)や認知の本性が検討され、同一性や個体性といった西洋の形而上学前提の脱構築と動物中心主義からの生の解放を目指すplant philosophyも登場した。心理学では、エンドウマメの幼芽の古典的条件づけ研究や比較心理学ジャーナルへの植物行動研究が登場した。さらには、無神経な生物に意識を認める考え方や、細菌やアーキアの原核細胞をも含む細胞こそ意識の起源であるとする意識の細胞基盤仮説(cellular based consciousness hypothesis)が植物神経生物学関係者から提示された。神経系の機能や役割への見直しを始め、いずれのアイディアも心の科学や哲学の主流(そうしたものがあるとして)への挑戦を含んでおり、学際的な吟味を要するだろう。
松本俊吉(東海大学)「生物学の哲学から見た進化医学(その3)――生物学的な適応度と医学的な健康との関係」
昨年の愛媛大学での報告の最後で「今後の課題」としてペンディングにした問題について、改めて考察したい。それは、生物学的な適応/不適応と医学的な健康/不健康の関係をいかに考えるべきかという問題である。これに関しては従来、Boorseが提唱した――所与の参照集団における統計的標準からの逸脱として病気を定義する――生物統計理論(Biological Statistical Theory: BST)(Boorse 1977, 1997)を支持する論者(e.g., Kingma 2013)と、Wrightの起源論やMillikanの固有機能論の流れを汲む――進化的に獲得された生物学的機能の不全として病気を定義する――選択効果理論(Selected Effect Theory: SET)を支持する論者(e.g., Wakefield 2016; Griffiths & Matthewson 2018)との間で議論の応酬がなされてきた。本報告では、両派の対立点を整理した上で、主として後者の立場から、前者からの批判にどう応答しうるかを考えたい。具体的には、以下のような問題を扱う予定である。
東アジア居住の80歳以上の高齢者の80%以上が変形性関節症を罹患しているが、同時に彼らの80%以上が乳糖不耐症を罹患しているという事実は、BSTではなくSETによって説明可能であると思われる
それ自体は進化的適応ではない――したがって固有機能を持たない――進化の副産物(読み書きの能力など)や痕跡器官(ヒトの虫垂など)の不具合による疾患をどう説明するか
EEA(進化的適応環境)と現在の環境とのミスマッチによる疾患をどう説明するか
生殖年齢を超えた老齢期に主として発症する病気や機能喪失(前立腺ガン、変形性関節症、閉経など)を、進化的に——例えば生活史トレードオフないし拮抗的多面発現の考え方を用いて——どこまで十全に説明できるか
網谷祐一(会津大学)「分類学は二流の科学か」
分類学や分類は科学の中でどういう地位を占めるのだろうか。生物分類学者は、分類は生物学全体の中で重要な役割を担うと主張する。例えば岡西政典(2022)は、生物分類学の役割として、生き物を分け・名づけることで認識可能にし、生物多様性の変遷を追跡可能にすることをあげる。しかしこれに異を唱える生物学者もいる。例えば利根川進は立花隆との対談で、大学入学時の生物学の授業が博物学的な内容だったことに触れた後、分類学は「ほんとの学問」とは言えないと述べる(立花・利根川 1993)。本発表では、周期表探究の歴史を題材に、科学における分類と予測の重要性の評価を考える。具体的には、周期表の発見者とされるメンデレーエフが「分類だけでなく予測もしたから他の人よりも評価された」という言説を検討することから、この問いについて考える。メンデレーエフは周知の通り周期表の発見者として知られるが、周期表発見レースに参加していた化学者は彼以外にもロータル=マイヤーなど多数いる。その中でメンデレーエフが評価されたのは、彼が未知の元素を予測して成功したからだとされる(吉田 1993など)。これが正しければ、科学者の評価は、元素についての単なる情報の整理よりも予測の成功の点からメンデレーエフを評価していることになる。ところが、化学史・化学の哲学の第一人者であるエリック・シェリーによれば、実際はそうではないという(シェリー 2009, 2013)。シェリーはメンデレーエフが1882年にデーヴィー・メダルを受賞した時の講評から、メンデレーエフへの評価では予言の成功というよりも既知データの整理統合が主な役割を果たしていたことを指摘する。これが正しければ、分類に連なるデータの整理統合が科学者自身にとっても高く評価されていた事例があることになる。本発表ではこれが生物分類学の役割や価値に関する議論に与える帰結について議論する。