[運用 47] 上筒の男の命

次に上筒の男の命。

そして外国の学問・思想等知的産物が世界人類の知的財産として所を得しめられるまでに、八つの現象を経過して行なわれる事が分りました。その経路はオ・トコモホロノヨソ・ヲの八つの子音であります。この八つの子音が繋がった筒(チャンネル)の如くなりますので、またその八つの子音は禊祓を実践する人の心中に焼きつく如く内観されますので、上筒の男の命と呼ばれる事となります。

以上、底中上の綿津見の神、筒の男の命六神の解説を終ることとなりますが、御理解頂けたでありましょうか。伊耶那岐の大神が客観世界の総覧者である伊耶那美の命を我が身の内のものと見なし、自らの心を心とした御身(おほみま)を禊祓することによって外国の文化を摂取し、これを糧として人類文明を創造して行く禊祓の実践の作業は、これら六神に於ける確認によって大方の完成を見る事となります。そしてこの六神に於ける確認によって五十音言霊布斗麻邇の学問の総結論(天照大神、月読の命、建速須佐之男の命の三貴子[みはしらのうずみこ])の一歩手前まで進んで来た事になります。

ここで一気に総結論に入る前に、底津綿津見の神より上筒の男の命の六神の事について少々説明して置きたい事があります。古事記神話の始まりから結論までに五十音を構成している母音、半母音、父韻、親音については縷々(るる)お話をして来ました。けれど子音についてはそれ程紙面を割(さ)くことはありませんでした。何故なら子音の把握が他の音に比べて最も難しい為であります。子音は他の音と違って現象の単位です。現象でありますから、一瞬に現われ、消えてしまいます。母音、半母音、父韻、親音は理を以て何とか説明することが出来ますが、一瞬に現われては消える現象は説明の仕様がありません。そこに把握の難しさがあると言えます。

今までに子音に関する記述は、古事記の「子音創生」の所で見られます。先天十七言霊が活動を開始して、子音がタトヨツテヤユエ……と三十二個生まれ出る所であります。先天言霊の活動によって子音コ(大宜都比売の神)が生まれるまでに大事忍男の神(言霊タ)から始まり、鳥の石楠船の神(言霊ナ)までの三十一言霊の現象を経ることとなります。現象子音(コ)を生む為に頭脳内を三十一の子音現象を経過すると言うのですから理論上の想像は出来ても、その子音三十一の現象の連続の中から、一つ一つの子音の実相を把握することは殆(ほとん)ど不可能に近いと言わねばなりません。

けれど不可能だなどと呑気に言っている訳には参りません。日本人の祖先はチャンと三十二の子音を把握して、それによって物事の実相がハッキリ表わされるように名前を附け、現在に至るまで通用している日本語を造ったのですから。では子音を把握する手段は何処に発見されるのか。その唯一無二の道が底津綿津見の神より上筒の男の命までの六神が示す禊祓の実践の行程の中に発見されるのであります。

禊祓の実践者が、自らの心を心とし、外国の種々の文化を自らの身体とする伊耶那岐の大神の立場に立ち、自らの心の中に斎き立てた建御雷の男の神の音図を基本原理として、自らの御身を禊祓する時、自らの心の中つ瀬の底(エ)、中(ウ)、上(オ)段の行為は如何なる経過を辿って禊祓を完成させるか、を内観する時、水底の言霊エ段がエ・テケメヘレネエセ・ヱ、水の中の言霊ウ段がウ・ツクムフルヌユス・ウ、次に水の上である言霊オ段がオ・トコモホロノヨソ・ヲという明快な経過を経て、外国の文化を摂取する事が、心中に焼き付くが如くに把握され、自覚する事が出来るのであります。それは自己内面の心の変化の相として、比較的容易に各子音現象を自覚する事が出来る事となります。

以上の如く言霊エウオの段に属するそれぞれの八つの子音の把握は可能である事が分りました。残る現象の一次元であるア段の子音タカマハラナヤサは如何にしたらよいのでしょうか。それは禊祓を実践する人の心の中に、言霊アの感情性能の移り変わりの変化として自覚することが出来ます。それはア・タカマハラナヤサ・ワの初めから終りまでの経過として把握することが可能となるのであります。

この様にアオウエの現象の四母音次元に属する三十二個の現象子音は、人間精神の最小の要素である五十の言霊を操作して、人間が与えられた最高の性能である人類文明創造の実践の中に、今・此処即ち中今の生きた言霊の活動する相として把握され、自覚される事となります。そしてその子音の相の把握という事は、最近の会報の中で度々随想の形で書いてきた事でありますが、生きて活動している人が、自らの生命の実体、生命の実相を手に取って見るが如く確実に、自らの心の中に内観することなのであります。人が自らの生命の実体を自らの心の中に、正に事実として内観するのです。

人が生まれると新しい生命(いのち)の誕生と言われます。人が死ぬと一人の生命が失われたと言います。生命は人の最も尊いものと言われて来ました。けれど人はその生命とは何か、を知りません。最近生命科学がその生命の中に客観的物質科学のメスを入れ、遺伝子DNAの実像を解明しました。私はその方面の事には全くの門外漢でありますが、人類が客観的科学の研究によって生命そのものの内部の消息を明らかにしつつある時代となったと言う事でありましょう。それは素晴らしい事であります。けれど人類が客観とは反対の方向、即ち自らの生命を主観の方向に探究して、驚くべき事に今から少なくとも八千年以上昔に、既にその生命要素の実相を見極めてしまっていたという事実に、現代人の注意を喚起せねばならないと思います。太古の昔、日本人の祖先によって人間生命を内側に見て、そのすべてが言霊布斗麻邇の学として解明され、更に今現在、生命を外に見て、その究極にDNA等の学問として現代物質科学が解明を続けています。この人間が自分自身の生命の実相を内と外との両面から解明するという事実が、人類の将来にとって如何なる事を示唆しているのか、興味津々たるものがあります。