7 あめつちと色即是空
原文。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、
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「あめつち(天地)」
大和言葉の「あめつち」に振り漢字をして作ったのが天地ですから、その漢語読みはテンチになります。その指し示し与えられる意味内容は、漢語の天と地、及びその組み合わせである天地の範囲に限られています。
漢字を覚えた人には理解し易いのですが、所詮は唐心の表明となりますので、大和心の「アメ」と「ツチ」を唐心内で現わしたものでしかありません。
大和の「あめつち」にするには、天地・てんちではなく「あ・め・つ・ち」に戻さなければなりません。
あめつち、とは。
吾(あ)の
眼(め)を
付(つ)けて
智(ち)となす
私の興味関心思至る吾の眼たる意識を、相手対象に向けて受け取り創造したものが、智となり私の意識となった天地世界というわけです。
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般若心経。
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
しゃりし しきふいく くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅうそうぎょうしきやくぶにょうぜ
舎利子と呼びかけているのは仏陀の意識です。それは二つの在り方を指していて、一つは実在の在り方、他は意識の在りかたです。
実在の在り方は、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色だよといい、
受想行識もまたそうなるよ、といっています。
よく見ると呼びかける仏陀の意識の内容実在は教文のとおりとなりましょうが、では、このように言う仏陀の教えと教えを伝えようとする意志はどうなるのでしょうか。
空になるどころが、永劫に人類に与えられた問い答えるべきものとなって日々現前しています。
仏陀は色や空や意識を実在と捕らえて有る無しを語りましたが、それらの働きそのものを語ることはありませんでした。仏陀の問いかけの意志とその表明たる般若心経は空ではありません。
有る無しを語っても有る無しを判定する意識の働きそのものを解明しなければ、いつまでたっても同じことが繰り返され、意識の働きも有る無しで片付けられてしまいます。
しかし仏陀は実在世界の在り方のみ話しているようで、空だ空だと教える意志が空であることを証明していません。受想行識もまたかくのごとしと言っていますが、そのような実在もかくのごとしというので、受想行識の働きそのものについては述べていません。
古事記では実在世界の在り方と成り方の双方を取り上げ、働きそのものを述べています。
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行ずる時。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如
天地・あめつち(吾の眼を付けて智と成すこと)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天の御中主(みなかぬし)の神。次に 高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 神産巣日(かみむすび)の神。
天地をあ・め・つ・ち・と正しく読み直して、吾の眼を付けて智と成すとした時に、両者の文はよく似ている事に気付きます。
ただし心経にある「時」を「行ずる時」とした場合です。通常の解釈のように、「六波羅蜜を行っていられた、そのとき五蘊(われわれの心と身体)は空であると、明らかに理解せられた。」としたのでは、実在世界と働きそのものの世界が永久に出会いを無くします。そのあとは例によって実在の解釈だけが横行していくでしょう。
行によってその結果何かが明らかになるのではありません。行そのものが行の中で明らかになるのです。
行と明らかになったものとは同じでなくてはなりません。そうでないと、あれやこれやと行について論じる事になったり秘伝とか秘訣とかがまかり通るようになります。
例えば座禅ならば座っているだけの事しかしていないのですから、その他の実在の仕方に関しては解釈が横行していきます。
仏教はその名の通り仏の教えです。仏の吾の眼を開陳したものですので、仏の吾の眼の真理ということになり、いわゆる物事の真理原理とは違います。
行ずる時に現れる実在についての教えで、行ずることなく真理を探究できるのは客観科学の世界です。
科学は意識の介入を認めませんから、長く感じる時間も短く思える時間も区別しません。仏の教えは仏陀の意識からきているので個別的であると同時にその分析は緻密です。しかし、意識の実在を分析するのみで、その主張も表現も仏陀の吾の眼からしたもので、その結果は教えを聴く者に任されていて普遍性はありません。協調同調者たちのものとなっています。
これらのことは他の宗教でも哲学、思想でも同じことです。ですのでそこに切磋琢磨して向上進化があるように思われ、上を目指すという意識と競争や弱肉強食を受け入れる素地をのこしています。
しかしここに不思議なことがあります。自分の主張をし自分の進化を歌うのなら自分の発明した言葉ですれば良いものを、誰も彼もが同じ言葉の元に集う図があります。仏陀は日本人ではないので日本語を話せないという場合でも同じことで、意識の構造である、吾の眼を付けて智となすのは共通です。
もしそういうことに気がつけば、言語の構造に係わりなく人の意識構造に沿った実在と働きの探求の道がそこにあるはずです。
古事記というのはその人類の意識の働きの探求の道筋を書き残したものです。
序文にある通り読み方を変えれば意識探求の道筋の全貌が現れてきて、仏陀を始めどのような人間の位置付けもできるようになるのです。古事記はそれの原理教科書として書かれていて、全人類のためのものですから原理を忘れることなく、手を変え品を変え人類の至宝を伝統のように継承させられている家族までいるのです。
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自分に対して想念が来ない時間。
七面倒臭いことは言わないで、一日のうちであなたが一番自由な時間がとれるときを選んで、少なくとも二十分、できれば三十分くらい、自分の時間をお持ちくださいませ。
この時間帯は、電話が鳴っても取らない。ご主人が「おーい、お茶入れてくれ」って言っても黙ってる。「この時間はわたくしの時間ですよ」というのを事前に宣言しておきます。それが不可能だったらみんなが寝静まったあとでも結構ですし、みなさんがまだ起きてこない朝のうちでも結構です。みんな出払っちゃったあとでも結構でございます。また、通勤する方だったら電車の中でも結構です。
自分の時間を設定しまして、それで「それじゃあ何をすればいいんですか」と言ったら、何にもしないでほしい。何もしない時間。「何にもしない時間」というんですから、「何をしてもいい時間」ということにもなるんです。「あー、あの野郎嫌な野郎だな」と思ったら、「嫌な野郎だな」って二十分思ってりゃあいいです。
ただし、条件がある。365日、一日としてやらない日がないというように、その時間を持ってほしいのです。何もしない。しなくていい時間。一週間経った。二週間経った。それでも何にもしたくなかったら、何にもしないで結構なんです。そのうちに、その時間ていうものがですな、自分の一生にとってものすごく貴重な時間だっていうことに、だんだん気がついていらっしゃる。
ポカーンとしていますとね、意識が対象を持たなくなります。「あいつは嫌な野郎だな」というのは、対象がありますね。「今日の晩飯何にしようかな」っていうのは、晩飯という対象があります。だけどシーンとして「この時間だけはわたしの時間」っていうことになると、だんだん慣れてきますと、自分に対するものが無い時間になってきます。
自分に対して想念が来ない時間。そうしますとね、自分の心がシーンと静まってきて、「あーあ、生きてるんだなあ」っていう感覚が起こってくるようになるはずです。
以上引用
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座禅
座禅はもっぱら座っているので意識の対象が狭い替りに何処へでも飛んで行けます。それらを追っかけてしまっては悟れないので最小の動きになろうとします。しかし最小であろうと動きの対象を持ってしまっては、自由になれません。眼を瞑っても黒が見えます。瞑った場合には見ようとしてもしなくても黒に支配されますが、半眼にすると、半眼で見える部分に囚われないようになると、黒と見える部分との間で翻弄される自分が出てきます。
半々部分で迷っていると黒や見えているものを見ているより、自分の戸惑う機能の中に放り込まれていくのが分かります。その半眼になり得られる戸惑う機能の方を取る分けです。見る方をとっては元も子もありません。この機能の中に入ってしまったならば、見ることに心を奪われることはありません。
そうすると今度は自分の働きの一つにいることになります。そしてこの働きを調整すればいいのです。戸惑う働きにはそれを起こす元となる動因がありますから、その動因に向かうようにしていきます。
ここに働きの働き、動因の動因へと遡って意志の間を通り、奥に意志の座り込んでいる座をみるでしょう。
それがイザナギとイザナミの「イ・ザ(イの座)」です。
働きとか機能とかは実在物ではないので見ることはできませんが、それに近い状態を座禅で作り出すというわけです。そしてもろもろの機能の元となる生きる機能へと近づくのです。イザナギのイは生きるのイです。
元の元にまで行ったなら現実に帰って来なくてはなりません。それがナギ・ナミで名の気と名の実になります。
座禅は座りっぱなしで行動活動している姿勢を取りませんから、その気と実も座ったままとなります。座ったままでできる思想の開陳にはいいでしょう。しかし現実創造歴史創造には向かないし座禅にはそのような事跡はありません。行為の指針とはなり得ません。