⑬-1 既に他人を救う規範の道はある
・自覚的な規範を持って始まると、イザナギ大神(自分)が主になります。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、
「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
(・上記に対する比較例として、無自覚な規範によって始まると、天津神が主になります。
ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊耶那岐の命伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め成せ」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。かれ二柱の神、天の浮橋(うきはし)に立たして、その沼矛を(ぬぼこ)指し下(おろ)して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴(なら)して、引き上げたまひし時に、その矛の末(さき)より垂(したた)り落つる塩の累積(つも)りて成れる島は、これ淤能碁呂島(おのごろしま)なり。その島に天降(あも)りまして、天の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。)
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本章から身禊の運用法の準備に入ります。準備段階です。身禊をする主体の建て直しをまず行ないます。
構成は次のようです。
⑬-1 既に他人を救う規範の道はある。理想の規範を作る経過を追いますが、実は、既にできていました。
⑬-2 身禊五神を通過して得られた真理と思われるものの主張は、主観内のものに過ぎませんでした。
⑬-3 こちら側とあちら側。主客共に真理となるように形成する経過を探します。
これまでの流れでは、先天規範に盲目的に従っていました。何かを見出した後に自覚が付いてきました。「ここに天津神もろもろのミコトもちて」と私たちの無自覚さに命令を下してきました。
ここからは状況が変わります。その節目の一言は「かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、です。
「祓いせむとのりたまいた時」、そこに曖昧模糊とした何かが反省意識にのぼっていました。
ここから理想的な思惟規範を創造していくのですが、既にそれはあるものを探すと同時にその経過を創造しながら辿るものとしてもあります。何か元になるもの、切っ掛けを与える地盤が無ければ立てません。「祓えせむと宣(の)りたまい」た時には、主客の先天規範の上に載っていました。
小さなあるいは大きな自覚的な吾の眼を持って始まると、イザナギ大神が主になって現われてきます。自分自身が主になるということです。その節目とは自身の「きたなさ、けがれ」です。吾の眼の気田無い、気枯れ(主体意識の無い、枯渇したもの)となって主体意識を見舞うものです。賛同、歓喜にはケガレは生まれません。
自分と否定的なものを持つとそこには比較反省が生じてきます。それは同時に比較の原図を持つということです。これが先天構造のように働くので、せっかく持った反省意識も無自覚な比較の原図の言いなりになってしまいます。この比較の原規範を「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)」
(竺紫(つくし)のは、こころを尽くして運用するために、
日向(ひむか)のは、全人の健全な生命の日に向うための、
橘(たちばな)のは、意識による創造活動である性質を持った、
小門(おど)のは、音の、表出された言葉の、
阿波岐原(あはぎはら)は、意識規範図であるアワイヰと四隅を形成する音図。
あはぎ・吾葉気・意識と言葉と霊を示す、原・音図)
といいます。古代よりある五十音図の一つのことです。
五十音図は生命の日に向い尽くすようにできているので、意識の持ちようによる言葉、名、音等の立場を得るように、出来ています。吾の意識の言葉と気・霊の構造を鳥瞰できる音図です。
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意識の立場の違いによりそれを示す立場の音図がいろいろあり、今までの無自覚な音図と違ってここからは意識的な音図の構築に取りかかります。とはいっても考えられる理想的な音図を作っていくのではなく、既に古代において考えられてしまった音図を再構築するだけです。それがアワギ原の音図です。
アワギというのは、五十音図の四隅をとり、あ行のア、わ行のワ、あ行アオウエイの意識の並びになった時のイと、わ行ワヲウヱヰの並びになった時のヰを組み合わせ、アワイヰ原にしたものです。イとヰが詰まってギとなりました。(この後意識の成長発展の度合いに応じて複数の音図が出てきます。)
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さて、「禊(はらへ)せむ」という反省意識がきっかけとなりました。その時の意識図がアワギ原の五十音図です。
ケガレを祓うのだといっても、何をどのようにするのか明白でありません。手順も分からず、何らかの知識があっても他から得たもので、それは「祓おう」という自分の意志に反して他者のものです。このような時の自分が保持している原意識がアワギ原という音図で示されます。
祓いをしようといっても中身が無く未定です。あったとしても自分のものではありません。そこでその形を音図で示すと、中身の無い枠だけの音図となります。実在世界を示す母音半母音は不変ですから、アオウエイ・ワヲウヱヰと並び、働きを示す父韻もその手順が未定ですから単に主体から客体に渡る配置(ヒチシキミリイニ)を示すだけです。(ヒルコ、アワ島)
この順不動の父韻が活動して「祓おう」という意識に宣(の)り各人なりの身禊としてでてしまうことになります。(ここでは身禊と言っていますが、一般化できます。)
身禊をしようという主体的な真理を実践しようにも、所詮は他者の引いた道、無自覚に他者から得たものに載っていたのでした。
そこで、自身の持つ意識、意志の主体性とは果たしてどういうものかという問いを、解明しにいきます。
身を削ぎ払って、身を注ぎ張(は)らう手順を探します。汚きものを払った後では新たなものを張らうことになります。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、
「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の」とのりたまひて、に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
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