これより「身禊」の章に入り、解説して行きます。
小さい段落に分け、原文、島田正路氏の教え、次いで解説となります。
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
ここを以ちて、とは伊耶那岐の命が妻神伊耶那美の命が主宰する黄泉国の文化を体験し、その内容と、黄泉国の文化を摂取して世界人類の文明創造に組み入れる方法をも確認し、その結果、高天原の精神文明と黄泉国の物質科学文明とでは同一の場で語り合う事は出来ないという決定的相違を知り、岐の命と美の命とは高天原と黄泉国との境に置かれた千引の石を挟んで向き合い、離婚宣言をした事を受けての言葉であります。
「ここを以ちて」
イザナギの命は客観世界を創造し、その世界に入り込んで高天原の精神世界とは全然違うため決別してきました。
「ここを以ちて」は例えば「ア」とか「へ」とか発音する場合ならどのようなことに相当するのでしょうか。今までさんざん瞬間だと言ってきましたがその瞬間のどの時点に相当するのでしょうか。
ここを以ちてと書かれている以前のどの時点においても成立します。書かれる順序として黄泉国から出てきた後ですが、それはここを以ちて以前が最高の形で完了して現れているからです。
今あることは前段の内容の成ったものですから、前段の経過のどこでもが「ここを以ちて」となりますが、経過次元の違いがあります。その完成された特徴が黄泉国を出るということになります。前承する言霊循環。
ずっと戻って蛭子や淡島の段階でもそれらの黄泉国(よもつくに・予母都国・四方津国、あらかじめ産み出されるものを示す周辺の国)の特徴を付与すれば、初期の黄泉国というわけです。
しかしそういった言い方を良いことにしたり、共通性のみを固定したり等の事をするのが黄泉国の特徴となりますから、前段階での経過を無視すると黄泉国行きとなります。
伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、……
この文章を読んで奇異に感じる方もいらっしゃるかと思います。今までの古事記の文章では伊耶那岐の命または伊耶那岐の神といわれて来ました。ここに来て初めて伊耶那岐の大神と大の字が附けられたのは、ただ単に尊称として大の字を附したのではありません。そこには重大な意味が含まれています。この事について説明して参ります。古事記の神話が始まって間もない時、主体である伊耶那岐の命と客体である伊耶那美の命との関係として、相対的立場と絶対的立場という事をお話した事があったのを御記憶の方もいらっしゃると思います。相対的立場とは主体と客体が相対立した場合の立場であり、絶対的立場とは一体となった場合の事であります。正(まさ)しく伊耶那岐の大神という呼び名は伊耶那岐の命と伊耶那美の命とが一体となった呼名であります。二人の命が一体となる、とはどういう事なのでありましょうか。この事を理解しませんと、これより説明をします古事記の総結論に導く「禊祓」の法というものの理解が難かしくなってしまう事が考えられます。そこで、この大神という名の意味を詳しく説明いたします。
客体と一体となった主体の心とはどんな心なのでしょう。卑近な例で言えば、お母さんが赤ちゃんに対する心と言う事が出来ます。赤ちゃんが普段と違う泣き声をしている。掌を頭に当てて見て「あっ、熱があるみたい」と思う時は、赤ちゃんとお母さんはまだ主体と客体が対立した相対的立場に立っている、という事です。熱を計り、「三十八度近くある」と知り、「どうしてだろう」と考えている時もお母さんは赤ちゃんの事を客体として観察しています。けれど「昨夜、暖かいと思って薄着にさせたのがいけなかったに違いない」と知って、お母さんが反省した時からは、お母さんは自分が病気になった時以上に申訳なく思い、心配します。赤ちゃんを病気にさせたのは百パーセント自分のせいだ、という様に悔やみ、心配します。この時、お母さんと赤ちゃんは一体となっています。主体と客体が一体となる絶対の立場となります。
主体と客体の相対と絶対の立場をもう少し掘り下げて考えてみましょう。時々お話する事ですが、人間の心は五段階の進化を遂げます。人間は生まれた時から五段階の性能が備わっています。ウオアエイの五次元性能です。けれど人間はそれを知りません。言霊学に出合って初めてそれを知り、言霊学を学ぶ事によって一段々々とその自覚を確立させる事が出来ます。その自覚の進化の順序はウ(五官感覚による欲望)、オ(経験知)、ア(感情)、エ(実践智)、イ(創造意志)の順です。以上の五段階の進化の中で、人間の主体と客体との関係はどう変わっているか、を考えることにします。
先ずは言霊ウの欲望性能では、何々が欲しい、何々になりたい、という欲望行為は、その欲望の対象であるものを客体として、その獲得のために努力し、また手練手管を駆使してその対象である目的に近づきます。この段階の主体と客体は飽くまで相対関係にあります。教えです。
次の言霊オの経験知識性能ではどうでしょう。研究したいものを客体とし、主体はその客体について観察、比較等を繰り返して、客体の動きを法則化して行きます。この次元の場合も主体と客体とは飽くまで対立し、相対の立場にあると言えます。
第三段階の言霊ア(感情)の性能に到って様相を異にして来ます。醜いもの、臭いもの、嫌なものを見聞きして、「いやだ、気持悪い、憎い」と思っている内は主体と客体は相対の立場をとっていますが、大層美しい物や事に遭遇しますと、自然感動し、我を忘れます。また気の毒な人に会うと同情します。美しいものに感動し、自分ならざる人に同情する心、それは純粋感情と呼ばれ、愛とか慈悲の心、滅私の心であり、主体(自我)と客体が同一化してしまった場合に見られます。先程述べた赤ちゃんに対するお母さんの心もその一例でしょう。この時、主体と客体は絶対の関係となります。
以上の言霊アの性能が社会の活動となって現われたものが芸術や宗教であります。芸術の美と宗教の愛の活動によって世の中に明るさ(光)と慈(いつく)しむ心(愛)が芽生え、楽しい社会がもたらされます。それは感動と同情の心の発露によりましょう。しかしながら愛や慈悲、同情や美的感情が客観としての社会に影響を及ぼすのは個人または家庭、更には区域社会に限られます。広く国家全体、ひいては世界人類に対してはほとんど何らの影響を与える事が出来ないのが現状です。何故なのでしょうか。芸術や宗教は人間のヒューマニズム的心情に光を与える事はあっても、人類全体の歴史をどう見るか、人類の明日よりの創造を如何に計画するか、の方策と理論を持ち合わせていない為であります。言霊学の教える人間の心の進化の三段目である言霊アの確認は出来ても、第四、第五の次元、言霊エとイへの進化の自覚が欠けているからであります。言霊アの感情性能は人対人、人対地域社会での主体と客体との絶対関係を立てる事は出来ても、人対人類の主体と客体の関係は相対的なものに終り、人即人類世界の絶対関係に立つ事が不可能だからです。それ故に人は宗教と芸術活動に於いて人類を愛する感情はあっても、人一人が世界と合一し、世界をわが事と思い、愛すると同時に世界歴史の今を合理的に認識し、それに光明を与えて、明日の世界創造の唯一無二の指針を生み出すことが出来ないのです。
人類世界という自らの外の存在を自らの内に引き寄せ、人類世界と自らが主客絶対の境地に入る為には、言霊学の所謂第四の言霊エ(実践智)と第五の言霊イ(創造意志)の人間性能の自覚が不可欠となります。言霊五十音の原理は人間進化の第五段階、言霊イの次元に存在し、その原理に基づく世界の明日を築く実践智は第四段階の言霊エから発現します。この第四と第五の進化の自覚の下に人は「我は人類であり、人類とは我の事である」の我と人類との絶対関係が成立し、その活動は人間の心の今・此処(中今)に於て行われ、人類が歩むべき道が絶対至上命令として発動されます。
長々とお話をして参りましたが、古事記の禊祓に登場する伊耶那岐の大神とは、右の如き立場に立った伊耶那岐の命の事をいうのであります。それは主体である伊耶那岐の命が客体である伊耶那美の命を包含した主体の事であり、それはまた高天原の建御雷の男の神なる精神構造を心とし、黄泉国の次々と生産される文化の総体を体とするところの世界身、宇宙身としての伊耶那岐の命のことでもあります。以上伊耶那岐の大神の意味・内容について解説いたしました。
「 伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、 」
島田氏の教えはいわば、いつまでも悟りみたいな低次元にいないでそれをずっと超えているエ次元、イ次元の方から、悟りぐらい最低悟っていてほしいと言われていると思えるような教えです。
読者は様々で、言霊学に関心があり学んでみたいのに何故悟りなんだとか、言霊学の知識を歴史的に知ろうとしているのに悟りは関係ないだろうとか、宗教的に信じないと言霊学は分からないのではがっかりだとか、いろいろありそうです。
わたしの場合は原理的なことが知りたいという知的な対象であることが多いのでこういった文章になっています。私の水準にしろ他の方の水準にしろ、「 伊耶那岐の大神 」のなるべくして成ったその成長経過の位置にいなくても、それなりにイザナギの大神は各人それぞれに隠れています。大多数の人は自覚して見出すことは出来ませんが、イザナギの大神の心は持っています。
ですのでイザナギの大神の詔りたまいしくというようなややこしい言い方で、自覚していても自分から言うのでもなく、無自覚であっても言わされていることが分かっているというような、表現が用いられています。単に仰せになるという尊称表現ではなく、先天の命令を安心して受けているような具合です。
わたしも読者も悟っていない側の無自覚な人間ですから、その立場から先天的にイザナギの大神であるということにして語っていきます。知らないことを知っているように語れば詐欺ですが、知らないことを知っていた事として語らさせられるとするのは従順です。(出すぎれば法螺になりますけれど。)
ということで上記の島田氏の教えのような各人がここにいます。
私達は蛭子、淡島から戻ったところです。知的な対象として事を扱う意識に固定されるのが黄泉国の扱いですから、それを抜け出さなければならないのですが、どうしてもまた、知的に抜け出すという傾向になります。
そこでその知的な内容とはどういうものかを徹底的に洗い出します。
この意識の領域を、自覚反省禊ぎへの変態へ向かう領域として、知訶島・知を叱りたしなめる締まり・と名付けられています。
知訶島の神々。
伊耶那岐の大神 --知のよって立つ自己意識。
衝き立つ船戸の神 --自己主張の拠り所となる先天規範。
道の長乳歯の神 --知の関連性と連続性。
時量師の神 --自己主張を成り立たせる時処位。
煩累の大人の神--曖昧性の自己内での排除。
道俣の神 --主張提起の分岐点の、方向性の明瞭化。
飽昨の大人の神 --実相を明らかに組んだとする確信へ。
奥疎の神 --主体側からする整理組み込み。
奥津那芸佐毘古の神 --主体側からする連結整理。
奥津甲斐弁羅の神 --主体側からする不備な間隙を減らす。
辺疎の神 --客体側への到達の組み込み。
辺津那芸佐毘古の神 --客体側への選択結果への連結。
辺津甲斐弁羅の神--客体側への不備な間隙を減らす。
意識において自分が大神になる経験は無いようでですが、他人と比べ自分を上に置いたり、他者の間違えに気付いたりするときになど、結構自分は偉い大神という思いを持つことがあります。
そこから、他人相手でなく自分の失敗に気付いたり、前の自分との違いに気付く時なども自分の大神を感じる時もあります。その時などは自分の前段までの経験やその不調和、不十分さを超克したという意気軒昂な思いが大きな自分となっていきます。
そういった経験できる内容を昇華して、自分は大神であることを悟らなくてはなりません。
しかし、古事記は黄泉国から出る時に、大神を連発しています。黄泉大神、道敷きの大神、道返しの大神、黄泉戸の大神、そして自分に向かってイザナギの大神となっています。
大神というのは我々主体側から見ると、どうしようもなく手におえないものとみえます。というのも客観世界は相手対象の内に出来上がったものですから、ものとしてのそれ自体の働き、運動の中にあります。古事記にあるようにものの客観世界が自分を主張してこようものなら、主体側としては自らの産んだ子現象に対抗するには、それ以上の子現象を生んで対抗することになり、悪循環に陥ってしまいます。
イザナギは自分の産んだ子達の囚われの姿をみました。それによって客観側が勝手な主張をしてきますが、全てイザナギの成したことです。客観側は形としてありますから、それが勝手な自己主張をしているわけです。その手におえなくなってしまった客体側を創っていく過程、主観では手に負えない過程にあるのが大神となります。
黄泉大神、、、客観物として出来上がった世界全体、
道敷きの大神、、、客観世界を先導してきた道理、
道返しの大神、、、主客共に同じ規範を使用しているのに黄泉国への回帰を選択すること、
黄泉戸の大神、、、客観物として固定化してしまう愛着に逆らえない意識のこと、
イザナギの大神 、、、そしてそれらの自己意識の客観的でありたい、客観的でいたいわたし・主体の傾向。
客体側から見ればこれらによって正当に客観世界を創造してこられたのです。世界文明分化の創造主です。寿司を喰いたいと寿司を創りましたが、こんどは寿司の方がそれを食わしたい食わせたいこれしかないこれにしろというようになり、主体側の選択を狭め脅かしていくようになります。
イザナギはこうした正当な客観客体創造の世界に潜む自身の「汚き」「御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたま」うことになります。
イザナギは自他にこれらを発見することになり、その発見を強固に保護している黄泉国の法則になっている(自らの)意識を叱りたしなめようとするわけです。
どうしようもなく手に負えない相手にはこちら側もどうしようもなく手に負えないもので対応することになります。それだけのものが誰にも備わっているということです。
大神とは言霊五十音図の天津菅麻音図のことです。これが相手です。