07 (ヒ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法

(ヒ)・チイキミシリヒニ。たかまはらの使用法。

(イ--意思の発動)

チ--ここに天津神諸(もろもろ)の命(みこと)

イ--以ちて、(や行のイ)

キ--伊耶那岐の命

ミ--伊耶那美の命の二柱の神に詔りたまひて、

シ--「この漂(ただよ)へる国を修理(おさ)め固め

リ--成せ」と、

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神

ニ--言依さしたまひき。

(ヰ--意思の帰還)

ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神

「 天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)とは先天の働きのある矛(ほこ)の意。矛とは剣(つるぎ)の柄(つか)の所を長くした武器のこと。古事記の神話が言霊学の教科書であることを念頭におくと、天の沼矛とは言葉を発する時の舌のことと考えられます。」

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於母陀流(おもだる)の神。 (アの性質)火花の先端にて、表面性。 いとなみ、働き。過去-今-全体。

精神内容表現が精神宇宙球の表面に完成する韻

「言霊ヒ。於母陀流の神を日本書紀には面足尊(おもたるのみこと)と書いており、その意味・内容は更に明らかとなります。ハヒフヘホの音は主として人の言葉に関する音であります。面足とは心の表面に物事の内容表現が明らかに表わされる力動韻という事が出来ます。

かくの如く心の表面にはっきり表現として現われる時には、心の奥で過去のイメージが実を結んでいる、という事になります。」

意識内容が自己の表層へと上昇し自己の表面結界を超えて、表面で見つかったものと結び付こうとする働き。

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ヒ--天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 於母陀流(おもだる)の神

「ヒ」と「ニ」の二つを残して、チイキミシリ・・・を経過してきました。実体と働きはキ・ミにおいて実在となり、おさめ固め成せと言われ、「 言霊ヒ・天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、」となったところです。

成人に成った今は普通に言葉を喋っていますが、赤ちゃん時代には全く「 ヒ・天の沼矛(ぬぼこ・舌・言葉)を賜ひて、」という状況でした。

チ) 自我の成立を目指す胎動が始まり、

イ) その働きが持続していき、

キ) 自我の働きいとなみ、主体側と

ミ) 自我の実体、客体側なりさまに剖判して、

シ) 剖判されたギミ(自己)がそのまま目的結果となり、実在世界の働き・実体と成る事を目指して、

リ) それぞれが事実として確認されるように、(八父韻の働きで)

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ヒ) ギ・ミの表面に指示される言葉を受け、

ニ) その表現されたものを花開かせる行動の名目とします。

言霊ヒは於母陀流の神で、表面で見つかったものと結びつき頬がゆるむというおもしろい比喩ですが、心の動きと比べると全く天才的な比喩に感服します。

ここでは表面にあらわれたものは何かといえば、おさめ固め成せといわれた八種の表現です。顔つきで表現されたものや、歓喜とか恐怖とかニヤニヤの現象を指すのではなく、それを表出していく心の動きをいいます。

今まで読んでいて分からなかったものがある時「分かった」と納得する時などは、詳細は不明不問でも全体を納得していることがあります。あるいは同様に詳細は不明不問ですが、こうして継続持続していくこと自体に納得していることがあります。

さらに、形、恰好だけはよく分かるとか、機能働きは今までの知識と比較して良く分かるとか、基礎も比較もしなくてもその機能や選択は直ぐ飲み込めるとか、そういった心の働きの中で心の表面に見つかるものが、ヒのオモダルです。シメタ、引っ掛かった、と心の緩みと緊張を両方得ることでしょう。

自我の成立を語る当初に、イの意思の発動で、チの自我の成立を目指す胎動が始まっていますから、ここでの「ヒ」は自分の心の表面に見つかったキ・ミの内容と働きをあらわすものです。

例えば、他人を批評しようというとき相手の言っていることが分かるようで分からない、コジツケのようで最初に決めた事をまた繰り返すに過ぎないと思うときに、出てくるのは言葉とか文字です。しかし良く見るとその前に、頭脳内では物凄い勢いで観念が回転していて、思い思われたこと考え考えられたこと感じ感じられたことが言葉の流れとして生成されようとしています。

この観念の流れはものすごく早すぎて頭脳内ではスイスイと自分でも分からない内にいきますが、物質世界に表出されるには物質界の作用反作用以上に出ることはできない抵抗に合います。幾ら早口で喋ろうと心の中で回転しているアイデアのスピードにはかないません。

オモダルは面に足らしめるで、緩和とか緊張とか言いましたが、沼矛である舌の現実的な動き(文字なら書く動き)に心の表層が従わされ足らしめられることでもあります。これによって観念の流れが現実と同様な規制を受けます。夢などは現実界に出てこないのでその規制を受けません。

心の中では八種の律動がありましたが、実在世界と働き世界が結ばれるときには、実在世界の物質条件に従いますから、八種の実在世界の表徴の仕方となって、八種の表現となります。

では何が心の表面で回転しているのかといえば、観念概念としてまとめられているけれど、これから一つ一つ発語されようとしている形成前の言葉です。イメージを語ってしまうと言葉現象になってしまいますから、語られる前のことです。そこで心の表面に物凄い勢いで浮きでて来ては漂いすくい上げられるのを待っているのは前言葉で、その実体、働きを「おさめ固め成せ」と言われているわけです。

自我の成立で言えば、このチイキハシリ・ヒまでの段階では、自分を指して「自我」だとか「自分」だとかはまだ発せられていないのです。心の表層にキ・ミの働き・内容として浮き上がっていましたが、言葉として出てきたものではありません。

まだ固められていない実在世界を八父韻の働きで、心の内で頭脳内で形を与え、心の表面に浮き立たせる処まで来ました。しかし心の表面などといっても、どこにあるのか一寸先は闇状態です。

そこで次に、

ニ--言依さしたまひき、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神、になります。