CMV懇話会日本語

日本語の年輪

≪01≫  幸田露伴の人生最後の作品『連環記』(983夜)に恵心僧都源信が顔を出している。 この物語は、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明の師匠だった慶滋忠行の第2子、慶滋保胤(かものやすたね/よししげやすたね)が仮りの主人公で、その生き方にふれて次々に念仏文化に感染しあう者たちが、あたかも天地の糸に連なるように語られていくというふうになっていて、そこが連環的なのである。

≪02≫  保胤は幼少期からの勉学好きの才人で、名作『日本往生極楽記』を綴ったのちの寛和2年(986)、生来の優しさゆえか人のよさのせいか、見えない力に背中を押されて出家する。見えない力というのは「冥」の力だ。

≪03≫  それで寂心と名のって比叡横川(よかわ)の恵心院を訪れ、すでに『往生要集』を著していた源信と親しく交わる。念仏結社の二十五三昧会がそこから生まれた。

≪04≫  源信の博覧強記と才能に惚れた寂心は思い募って、西は播磨、東は三河などと遊行する。三河には友の大江匡衡(まさひら)がいた。妻が歌人の赤染衛門である。その匡衡の従兄弟の大江定基(さだもと)の最近の噂を聞いた。美しい力寿に入れあげて、古女房を捨てて暮らしはじめるのだが、うまくいかない。力寿も死ぬ。悲嘆にくれた定基はすべての役職を捨てて出家した。

≪05≫  その定基が寂心に接してきて寂照の名をもらうと、ひたすら道心道行に励み、さらなる境地を求めて源信に弟子入りをした。源信は「天台宗疑問二十七条」を撰述して、その吟味を宋の知礼に質そうとしていた。自分は彼の国には行けない。そこで見込みのありそうな寂照を選んで渡宋させたところ、彼の地で「さすが神州の高徳」と言われ、ぜひにと逗留するように説得されて、そのまま客死した。

≪06≫  寂心(=保胤)は長保4年に往生をとげた。寂心に帰依していた御堂関白藤原道長が布施をほどこし、匡衡が哀悼文を認(したた)めた。のちのち、匡衡の血をひく大江匡房は『日本往生極楽記』の続編ともいうべき『続往生伝』をものした。

≪07≫  いったい此岸に別々に生まれ育った者たちは、はてさてどのようにして彼岸に連環したまうものなのか‥‥。

≪08≫  だいたいはこんな話だ。露伴の傑作として、ぼくは学生のころから愛読してきた。だからのちに『往生要集』を読むようになったときは、露伴のヴィスタと名文がしばしば蘇ってきた。

≪09≫  あらためて紹介する。 源信、幼名は千菊丸。天慶5年(942)に奈良葛城郡当麻で生まれ、7歳で父を失う。9歳で良源に入門して鍛えられた。良源はのちの18代天台座主である。正月三日に示寂したので元三大師(がんざんだいし)と敬われた。猛然として当時猛威をふるった厄災と対峙した様子から厄除大師(やくよけだいし)とも、そのときの夜叉ともおぼしい形相から角大師(つのだいし)とも称ばれた

≪010≫  この猛然たる良源の教えが効いたのか、源信は15歳で村上天皇の法華八講の講師の一人として呼ばれ、「おぼえ」よろしくミカドから褒美の品を下賜され、また僧都(そうず)の位をもらった。よろこんで母にそのことを伝えるべく布施の品を送ったところ、母はその品をすぐさま送り返して、息子を諌める和歌を添えてきた。「後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき」。

≪011≫  これで愕然として横川に隠棲した源信は、首楞厳院(現在の横川中堂)に念仏三昧の日々を送り、やがて恵心院に移った。念仏結社「二十五三昧会」が結ばれたのはこのころである。永観2年、師の良源が病いに冒され、それを機会に『往生要集』の撰述に入った。完成版行したころ、すでに寂心こと慶滋保胤が念仏結社の文化サークルの中心にいた。

≪012≫  源信65歳のときの『一乗要訣』がラディカルである。大乗仏教の根幹としての「一乗真実」が三一権実論争(最澄と徳一の論争)このかた、いささか曖昧なままにあったので、法相の仲算との論戦に挑んだことを述べた。たとえば「仏性(ぶっしょう)に遭ふといへども、仏意を了せず。若し終(つい)に手を空うせば、後悔なにぞ追はん」と書いている。

≪013≫  晩年は体調を崩し、76歳の6月、阿弥陀像に結んだ五色の糸をその手に持ったまま往生した。

≪014≫  少しく私事にふれておく。

≪015≫  源信については、露伴の『連環記』の不思議な調べから入ったせいもあるが、師の元三大師良源が湖北浅井の出身であることも手伝って、なんだかたいそうな親近感をもってきた。浅井(あざい)はいまは長浜市になっているが、ぼくの父の原郷なのである。松岡家の菩提寺の願養寺も墓も長浜にある。

≪016≫  わが家は根っからの浄土真宗で、小さなころから父の『正信偈』の読誦の声で育ち、蒲団を並べていた母が就寝前にふうっと溜息をつき、ややあって「ああ極楽、ごくらく。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、なむあみだ」と呟くのを聞いて眠りに落ちていた。

≪017≫  その一方、『往生要集』については心身を傾けて読むことができずに困っていた。これは露伴のせいではなくて、こう言っては申し訳ないが、梅原猛(1418夜)のせいだったかもしれない。1967年のセンセーショナルなデビュー作『地獄の思想』(中公新書)が邪魔になったのだ。

≪018≫  どう見ても『往生要集』は「厭離穢土」(おんりえど)を「欣求浄土」(ごんぐじょうど)に転じていくところが真骨頂で、とうてい地獄の解明などに焦点などないのだが、梅原は傲然と地獄が現世に陥入していることを強調していた。だったら梅原など気にしなければいいのだが、これを読んだのは父が胆道癌で黄疸を併発して死んでいった直後のことで、ついつい絡まった。

≪019≫  そんな邪魔が払拭できたのは中村元(1021夜)の『往生要集を読む』(岩波同時代ライブラリー→講談社学術文庫)をインド以来の大乗仏教の言説を組みこんで解義しているのを読んでからのこと、薫習から少し脱出できた。

≪020≫  ただし念のため言っておくと、ずっとのちになって『地獄の思想』や梅原の他の本をあらためて読んで、梅原の指摘には耳を傾ける必要があることも感じた。光と影、あるいは光と闇で仏教思想を捉えるのはあいかわらずどうかと思ったが、随所に奔放で屈託のない切り込みや展望があることには、いくつか共感できた。ただ、穢土(here)と浄土(there)がつながっていないままだった。

≪021≫  以下の千夜千冊は『往生要集』をごくごく圧縮したノートにすぎない。細部をほとんど案内していないけれど、あしからず。テキストは花山信勝の山喜房版や石田瑞麿の東洋文庫版・岩波文庫版、中公「日本の名著」に入った川崎庸之訳が夙に有名だが、あえて新訳の梯信暁版にした。

≪022≫  構成がすべてを語っている。たいへんうまい。記述はほとんどが問いに対する答えという格好をとっていて(問・感・応・答・返)、問答と料簡というスタイルを外さない。

≪023≫  おびただしい仏典・経典が参照されているので、全容自体が壮大かつ緻密な仏教エンサイクロペディアになっている。末法に脅える当時の読み手にはそういう浄土手引きが必要だった。構成は次の通り。ぼくの感想も交えておいた。

≪01≫ こういう辞典が読まれるべきである。著者は長年にわたって流行語を追跡した国語学者。だから、蓄積がずっしり、選択がぴっしりしている。

≪02≫  何が扱われているかというと、大蔵省から芸者まで、株屋から暴走族まで、映画業界から風俗業界まで、ヤクザからスチュワーデスまでの、ともかく集団という集団の隠語辞典なのである。

≪03≫  ちなみに「ら」のところを少しだけご披露しておくことにする。

≪04≫ 
羅漢=睡眠中の人物あるいは逃亡者、行方不明者。 
楽=千秋楽。 
らくだ=芸者用語で連れ立った夫婦のこと。 
らさ=「さら」(新品)のこと。香師用語。 
ラジオ=学生用語。所持金がないこと。 
無銭=無線 
LAX=都市空港コードでロスアンゼルスのこと。 
らてめん=ラジオ・テレビ欄。 
ラビット=囚人言葉で「おから」。 
らむちゃん=ゲーム用語で「色気なし」。
「ムラっとこない」の逆倒語。 
ランスルー=テレビ用語で本番同様のリハーサル。 
乱手=証券用語。市場混乱を狙う取引。 
ランド屋=旅行用語。現地の手配屋。

≪05≫  だいたいジャーゴンの量が多い業界ほどすたれないという。その理由ははっきりとはわからないが、そのぶん体に染みこんでいる連中が、体から体へ、何か重要なものを伝播してきたということなのだろう。

≪06≫  その「何か重要なもの」というのは、それこそがさしずめ「ミーム」(意伝子)というものなのである。

≪07≫ 参考¶ 米川明彦による流行語探求には目をみはるものがある。ざっと著書を紹介しておく。『明治大正新語俗語辞典』(東京堂出版)、『若者語を科学する』『手話言語の記述的研究』(明治書院)、『新語と流行語』(南雲堂)、『男と女の流行語』(小学館)、『女子大生からみた老人語辞典』(文理閣)、『現代若者ことば考』(丸善)。

≪01≫ 読むとは声を出すことだ。分かるとは声を自分の体で震わせることだ。分かるは声を分けることなのである。言葉や文字から声を抜いてはいけない。多くの言語学者や書家たちは声を忘れすぎている。空海はこれを一言で「声字」と言ってのけた。 

≪02≫  日本の文字。日本のボーカリゼーション。すべては高野山や比叡山で考え抜かれたことだった。ということは、日本語という独自のシステムを構成していった功績のかなりの部分に、真言僧や天台僧がかかわっていたということになる。日本語という秘密のまことに重大な胎盤が密教僧によって充血していったということになる。 

≪03≫ ぼくには日本のことや日本語を考えるときに、いったん契沖に戻ってみることがしばしばある。そこに分水嶺があるからだ。とくに契沖が浄厳と深く交流していたことが気になっていた。 

≪04≫  この交流は、歌学者であって国学者の嚆矢でもあった契沖がそもそも仏教学者であって、しかも高野山に十年にわたって学んだ悉曇学者でもあったことを示している。浄厳は当時の真言宗第一の学者である。その浄厳とほぼ同時期に高野山にいた契沖は、真言僧たちの悉曇学の深さを知ってたちまちこれに共鳴したのであろう。やがて自ら悉曇学を拓くうちに和字や和音に関心をもっていく。その最初の成果が元禄八年(一六九五)の『和字正濫鈔』になる。

≪05≫ ここに「契沖の五十音図」ともいうべきものが登場するのだが、いろいろ調べてみると、その半ば以上の成果を悉曇学から貰っていた。 

≪06≫  悉曇学とは日本の国語史を代表する文字と声の学問である。けれども、その対象はあくまで字であった。その字と漢字の関連を考えようとする学問だった。 

≪07≫  それが仮名の発達によって、悉曇学においても仮名との対応関係が追究されるようになってきた。そうなると、そこには「国語」や「和音」が浮上する。契沖が考えたことは、そこだった。契沖は悉曇学からこそ歌学と国学の主柱を冬虫夏草のごとくのばそうとした。それゆえ、あえていうのなら契沖の密教が歌学と国学を準備したわけだ。五十音図の歴史においても、契沖のところがひとつの大きな分水嶺だったのである。  

≪08≫  五十音図の発生は従来から『金光明最勝王経音義』と『孔雀経音義』の二つにルーツがあると言われてきた。山田孝雄の名著『五十音図の歴史』(一九三八)が最初にあきらかにしたことだ。 

≪09≫  いまのところこれ以上古い五十音図は見つかっていないので、たしかにここにルーツがある。二十年ほど前は、この表図を『アート・ジャパネスク』(講談社)の編集のために眺め回していた。けれども、その後にいろいろのことを知ってみると、醍醐寺所蔵の『孔雀経音義』の巻末図はア行とナ行を欠いて四〇字しか並んでいない音図で、母音の順も「キコカケク」「シソサセス」というふうになっているし、『金光明最勝王経音義』は漢字に和訓をあてはめたもので、五十音図の原型ではあるけれど、いわゆる五十音図ではない。濁音借字に重心がおかれているのも、かなり不完全である。実際にも当時は「五音図」とよばれた。またその一方で「いろは表」の試みもされていた。 

≪010≫  こうした試みを声字音義システムとしての五十音図に一挙に引き上げたのは、明覚である。天喜四年(一〇五六)の生まれで康和三年(一一〇一)ころに没しているから、ちょうど『源氏物語』が読まれ出したころにあたる。天台僧だった。 

≪011≫  明覚には『反音作法』『字形音義』『悉曇大底』『悉曇要訣』『悉曇秘』『語抄』というふうに、著作がかなりある。そうとうの大学者だったとみてよいだろう。しかし、明覚にはどこか〝かぶせ音素〟とでもいうべき処理があって、いまひとつ五十音図は確定しきれないままのところがあった。 

≪012≫  明覚を批判し、発展させたのが興福寺の兼朝と高野山東禅院の心蓮である。心蓮は『悉曇口伝』『悉曇相伝』で新たな一歩を踏み出した。心蓮でおもしろいのは、日本語の音の発生のしくみを順生次第・逆生次第・超越次第などに分け、これをさらに本・末に組み合わせているところ、さらに発音には「口・舌・脣」の三つがあると説いているところで(これを「三内」と名付ける)、こういう発想は世界の言語学を見てもない。密教的というか、日本的というか。 

≪013≫  心蓮は語の発音を漢字や日本語の発音と結びつけようとして、新たな五十音図に挑戦したのだが、そこにはまだオとヲの発音のちがいなどを明確にする方法が出きっていない。こうして五十音図の完成はまた先にもちこされることになった。 

≪014≫  あらためてふりかえってみると、日本にはずうっとボーカリゼーションの悩みというか、文字と音(声)をめぐる多様な選択というものがあった。 

≪015≫  ひとつは倭人(先住日本人)が古来もってきた発音の仕方である。次に中国朝鮮から渡ってきた発音法があった。これは文字をまったくもっていなかった日本人にとっては青天の霹靂のようなもので、ともかく文字というものの組み合わせで自分のオラルな言葉を表示できることに心底驚いたのだが、その渡来の文字がほかでもない漢字であったことで悩むことになる。 

≪016≫  漢字にはもともと中国人の発音(読み方)が備わっていた。しかし日本人の言葉とその発音とは、当然のことだが、ほとんど合いそうもない。おまけに中国人のネイティブな漢字の発音にも大きくいっても二つの流れがあった。それを漢音と呉音というのだが(さらに唐音がある)、その二つが仏教とともに日本にどっと入ってきた。「正」をセイと読むのが漢音(北方系)、ショウと読むのが呉音(南方系)である。これは紛らわしい。そこで日本人はいろいろのことを決める。工夫する。 

≪017≫  まず、中国の発音法(読み方)のうちの漢音を「正音」とし、呉音を「和音」とした。ついで、それまでの日本語(倭語あるいは大和言葉)の発音に近い漢字の読みをさがして、たとえばアには麻や安や阿を、ソには素や曾や蘇をあてた。万葉仮名の登場である。もうひとつ、中国の漢字による漢文の読み方も工夫した。 

≪018≫  漢文を中国人のように読むには中国語を習う以外はない。しかし、もしそうすれば、その時点で日本人は中国語文化そのものにとりこまれていく。これでは日本人が中国人になってしまう。そこで、漢文を「反切」という方法によって和風に読めるようにした。ある漢字の音を比較的やさしい別の二文字に分解して示せるようにしたのである。日本が中国になるかならないかの瀬戸際だった。 

≪019≫  こうして奈良時代人たちは、漢字から二つの読み方を引き出すことに成功する。ひとつは、漢字を中国の発音にちょっとは近いけれどあくまで日本的な読み方をする「音読」と、もうひとつは従来からの倭語の読みかたをその漢字にあてはめて読む「訓読」である。こうして「音」はオンともネとも、オトとも読めるようになった。 

≪020≫  けれども、このままでは漢文(とくに経典)を前にして読み方が分かれる。そこをどうするかが、とくに仏教界にとって大きな課題だった。僧侶は日々読経をしなければならず、そのたびに漢字の読みには苦労する。仏教界はボーカリゼーションの規則と例外をつくることに躍起になっていく。朝廷にとってもそれは見過ごせない。なぜなら当時の仏教は鎮護国家のための仏教であったからだった。  

≪021≫  そこへ空海と最澄が入唐して、新たな密教体系とともに文字と発音のしくみを持ち帰ってきた。それが空海が将来した中天音(中央インド系の発音)と最澄が将来した南天音(南インド系の発音)である。これを漢音・呉音にうまく適合させなければならない。が、そうそううまくはあてはまらない。四つもの異なる発音例がある。このためいろいろ苦労した。たとえば今日の真言密教で『理趣経』を読経するときに、「一切如来」のところを「イッセイジョライ」と読むのは、真言ではめずらしい漢音読みなのだが、そういう個別的な工夫もいろいろ組み立てられた。 

≪022≫  密教僧がこのような苦労をしたことが、結局は日本人の日本語に五十音をもたらしたのである。そこには第三の媒介項が加わった。密教僧たちは漢字の読み方を工夫精通しつつ、新たな「真言」とは何か「真音」とは何かということに取り組んでいくのだが、このときに語が浮上したのだ。 

≪023≫  もともと密教はインドのどこかで次々に発祥したもので、そこにはサンスクリット語やパーリ語が君臨していた。それが仏教が中国に入るにつれて漢訳されていったわけで、日本ではその漢字だけによる漢訳経典をテキストにした。 

≪024≫  漢訳経典にはインド伝来の「奥のボーカリゼーション」があった。そこは翻訳しなかった。たとえば玄奘の漢訳では「ギャーティ・ギャーティ」などの陀羅尼の部分はそのまま音写した。現代日本語が「ラジオ」「プレーボール」「シミュレーション」といった外来語をそのままカタカナ表記していることに似ている。こういうことに最初に気づいたのが空海なのである。 

≪025≫  空海はすぐさま語や字の研究に入っていく。中国語の経典の奥にあるインドの文字と音の介在に気づいたのだ。それが字や語である。それを媒介に中国語から日本語システムの独自性が組み立てられていった。 

≪026≫  このような密教的な字語研究が悉曇学というものになるのだが、その悉曇学が充実していったころに、他方で日本語の文字と発音の確立が時代的なテーマになってきたわけである。そこには日本人が初めて〝発明〟した日本文字である平仮名と片仮名の定着が待っていた。 

≪027≫  日本語の表記システムと発音システムが生まれるためには、こうした工夫がいくつも準備されたのだ。空海以降も、さまざまな工夫がおこっていった。一方では仮名の登場が、他方では語の研究が、またべつのところでは条例や官職に使用する漢字の意味の把握などが、さらにべつのところでは和歌と漢詩の比較が一挙に進んでいった。 

≪028≫  おそらく日本語の将来にとって、こんなにすごい時代はほかにない。明治維新にも森有礼が日本を英語やローマ字の国にしようとする動きがあったけれど、これは外国語にあわせて日本語や日本をつくるようなもので、比較にならない。さいわいにも、潰された。反対したのはアメリカのホイットニーで、彼は森のその提案を聞いて、ほとほと呆れて次のように言った、「とんでもない。一国の文化というものはその国の国語でつくらなければなりません!」。 

≪029≫  こんな体たらくの明治初期にくらべると、菅原道真や紀貫之や小野道風の時代は、まさに言葉と文字と発音(声)と書に関するすべての多様な事情を睨みつつ、新たな日本語の文字システムと発音システムを起爆させる必要があった時代だった。このとき、密教僧たちの、とりわけ真言僧たちの独特の研究が次々に芽吹いたわけなのである。 

≪030≫  兼朝から心蓮へ、そのあとの寛海から承澄、さらには承澄から信範、その弟子の了尊へと継がれた真言僧たちによる五十音図の精緻化の努力は、そういう時代背景の波動のなかに位置づけられる。 

≪031≫  本書はこうした五十音図の歴史を倒叙法的に簡潔にのべたものであるが、著者が専門とする韻学史の視点がぞんぶんに生かされていて、そこがおもしろい。しかも問題を五十音図だけに絞っている。 

≪032≫  五十音図は、ぼくも試みに学生や知人たちに尋ねてみてショックをうけたことがあるのだが、多くの日本人が〝明治以降の産物〟だと思っている。ひどいときには、欧米の言語システムに合わせて作成されたものとさえ思われている。そうではない。五十音図は奈良平安の苦闘を通過した日本人がつくりあげた文字発音同時表示システムなのだ。つまりは空海の声字システムのひとつの到着点なのだ。そのプロセスには冒頭にあげた契沖をへて本居宣長にまで及ぶ国学の発生も含まれる。また、その後は大槻文彦や吉田東伍や山田孝雄の考究も含まれる。五十音図とは日本を考えるための歴史上最初のソフト・プログラムだったのだ。  

≪033≫  このようなプログラムを日本人は五十音図以外にもうひとつ用意した。「いろは歌」である。やはり真言僧たちがつくりあげた(空海作といわれているのは俗説)。たいへんよくできている。今夜は「いろは歌」についてはのべないが、ここにも多くの試作がのこっている。「五十音図」と「いろは歌」、その奥に何重もの対比と相克と離別をくりかえした「真名」と「仮名」。これらのことを語らないで、どうして日本を問題にできるだろうか。 

≪01≫ 今夜は勝手な旧仮名遣ひで綴ることにする。 かねて福田恆存については『日本を思ふ』や『日本への遺言』(ともに文春文庫)をとりあげようと思つてゐたのだが、ぼくの昨日今日の体調からして、なんだかかういふときは、前に進むよりは後ろ向きにラディカルであることのはうがいいかと思ひ、かつて文壇に衝撃を与へたこの本の感想を綴ることにした。 


≪02≫  本書は、以前から日本列島を制圧してゐる「現代かなづかひ」の度し難ひ迷妄を詳細かつ徹底して衝いたもので、相当の名著でありながら、その後はまつたく読まれてこなかつた。そればかりか、この本に指摘されてゐる重大思想を別のかたちで継承する者もほとんどゐないといふ有り様で、たとへば丸谷才一のやうにみづからこの思想を実践してゐる人をべつにすれば、いつたい福田恆存がなぜにまたこんなことを書いたのかといふことさへ、つひに忘れられてしまつたといふ不幸な名著でもあつた。 

≪03≫  不幸な名著であるのは、この本が昭和三五年に新潮社から刊行され読売文学賞を得たのち、新潮文庫、中公文庫と引つ越し先を移して収められたにもかかはらず、なぜか次々に絶版となり、やつとこのたび文春文庫に入つたといふ運命にもあらはれてゐる。 

≪04≫  敗戦直後の昭和二一年十一月十六日のこと、「現代かなづかひ」と「当用漢字」に関する忌まはしい内容が内閣告示された。いはゆる「新かな・新字」の指令である。 

≪05≫  この日は憲法の公布から十三日目にあたつてゐて、いはば時を同じうして戦後日本人は憲法と国語の強い変更を迫られたわけだつた。その後も国語審議会を中心に「国語改革」が次々に実行され、この勢ひにはだれも抵抗できないといふ情勢だつた。 

≪06≫  そこに敢然と立ち向かつたのが福田恆存で、執拗に国語改良に批判を加へていつた。福田の怒髪天を衝く猛威に大半が怖れをなしたなかで、あへて反論を買つて出た金田一京助との論争も、当時は話題になつた。しかし多勢に無勢、福田は賛意を集められない。そこで福田は論争にとどまることなく、国語問題協議会も組織して、その後もたへず日本語の表記を正統表記に戻すことを訴へつづけた。 

≪07≫  かうしたゲリラ戦線とでもいふ闘ひのなか、福田はたんに歴史的仮名遣ひ(旧仮名づかひ)に戻すことを主張するだけではなく、「現代かなづかひ」の矛盾も暴いていつた。 

≪08≫  そもそも「現代かなづかひ」は現代人が慣行してゐる発音に従つて表記しようといふもので、「おめでたう」を「おめでとう」に、キウリはキュウリに、氷は「こおり」とする方針になつてゐる。しかしそれならなぜ、扇を「おおぎ」でなく「おうぎ」とし、狩人を「かりゅうど」でなく「かりうど」としたのか。かういふ矛盾がいつぱいにある。もつと決定的なのは「私は」「夢を」「町へ」の、「は」と「を」と「へ」だけは残したことである。それを残すなら、なぜ他の大半の表記をことごとく〝表音主義〟にしてしまつたのか。どうにも理解できないといふのが福田の出発点なのである。 

≪09≫  われわれはいまでも、「こんばんわ」なのか「こんばんは」なのか、いつも迷はされてゐる。その一方、おそらくは椎名誠や糸井重里などが流行らせたのかとおもふのだが、「と、ゆーよーな」とか「ふつーの人々」といつた表記が乱舞する。しかし、問題はそのやうな出発点にとどまらない。ここには深い問題が大きく横たはつてゐた。 

≪010≫  福田恆存は「語に随ふ」といふことを訴へる。これが福田の基底の考へ方である。同じイの音だからといつて何でもが「い」になつていいわけではなく、石は「いし」、井戸は「ゐど」、恋は「こひ」であることの重要性を訴へる。「おもひ」(思)と「おもい」(重)はこの仮名遣ひによつてこそ意味をもつ。それでピンとくるものがある。 

≪011≫  かういふ感覚が日常の眼と耳の関係の中でしだいに鍛へられてこそ、日本語の音読と黙読との本来の関係が保たれ、それが本来の表記として維持されるはずなのである。表音主義にばかり走るのは過ちだと言ふのだ。そのことが理解できて初めて、たとへば「くらゐ」(位)、「しばゐ」(芝居)、「まどゐ」(円居)、「もとゐ」(基)などが、ひとつの同じ「ゐ」の世界をもつてゐることにも気がつけるのであると言ふ。さうでないと、出雲は「いづも」であつて「いずも」では決してないこと、小豆はあくまで「あづき」であり、梓が「あづさ」で、静御前は「しづか」でなければならない感覚が養へない。  

≪012≫  たとへば「訪れ」は「おとづれ」と綴るからこそ、そこから「音連れ」といふ文字が見えるのであつて、これが最初から「おとずれ」では、何かがずれてしまつて、古代も依代もヒモロギもサナギもなくなつてしまふのだ。「ひざまづく」は膝と突くとが一緒になってゐるのに、「ひざまずく」ではそのすくが変なのだ。 

≪013≫  福田恆存は何もかもを旧仮名遣ひにしなさいと言つてゐるわけではない。それなりの法則をつくつてもいいと考へてゐた。また、そのための古典教育に身を投じてもいいと覚悟してゐた。福田は教育のために言語があるのではなく、言語のために教育があると考へてゐるのである。  

≪014≫  しかし、本書を通してむしろわれわれが考慮するべきだとおもふのは、このやうな仮名遣ひの問題を内閣や文部科学省の上からの指令で無定見に守らうとするのではなく、またそれに従ふマスコミの表記にいたづらに溺れるのでもなく、かういふ指令の前でしばし立ち止まり、これを機会に日本語の仮名遣ひの歴史や変遷や、その奥にひそむ日本語といふものの本体の意味を考へてみるといふことなのである。 

≪015≫  いま、「あやふい」(危)を「あやうい」と書く。たしかに「危ふい」はアヤウイと発音する。しかし「危ぶむ」はアヤブムと発音するから「あやぶむ」と綴れば、なんだか何かを踏んでゐるやうである。かういふ矛盾がいくらでもおこる。福田はこれに耐へられなかつた。それなら、「危ふい」にはもともと「ふ」が入つてゐたのだから、それを継続させておいたはうがいいはずなのだ。  

≪016≫  われわれは古来、「ふ」をそのやうに時に応じていろいろの発音に変化させる能力をもつてきたのである。だからこそ「てふてふ」をチョウチョウと読めたのだ。それが「ふ」は「フ」でしかないとしてしまつては、何かが抜け落ちていく。 

≪017≫  ぼくは「いろは歌」をたいそう愛してゐる者である。「色は匂へど散りぬるを」では、色即是空から諸行無常までが六曲屏風の折りごとに見えてくるし、「わが世たれぞ常ならむ」からは大原三寂や誰が袖屏風がすぐ浮かぶ。「有為の奥山けふこえて」はただちに数十首の和歌とともに蝉丸も花札もやつてくる。最後の「浅き夢みしゑひもせず」はまさに百代の過客としての芭蕉をさへおもふ。 

≪018≫  かうした「いろは歌」から旧仮名遣ひを奪つたら、何が残るであらうか。何も残らない。「匂」が「にほふ」であつて、「ゑひもせず」が「酔ひもせず」であることが重要なのである。 

≪019≫  本書は、実のところは福田恆存が得意とする馥郁たる文体で綴つたものではなく、国語審議会を相手にまはして憂慮に暮れずに実際の戦闘を挑んでゐるものなので、どちらかといへば実用の文章になつてゐる。それゆゑ、もつと福田らしい憂慮を感じたければ、『日本を思ふ』や『日本への遺言』を読んでもらつたはうがいいだらうと思ふ。 

≪020≫  たとへば『日本を思ふ』だが、そこでは「みえ」といふことが議論されてゐる。戦後の日本人は外国とのことが気になつて「みえ」ばかり繕ふやうになつて、それが浅薄きはまりない民主主義や個人主義を作つてしまつてゐるのではないかといふのである。この「みえ」は田山花袋が『蒲団』において〝自我をどり〟をして人間の善を取り違へたことから始まつたもので、それがかつては文人としても文士としても恥ぢらひを伴つていたはずなのに、戦後はつひに当然のやうになり、「みえ」の本当の意味がわからくなつてしまつたのではないかと、福田は綴つてゐる。 

≪021≫  かつて江戸時代のころは、「みえ」はもつと大事な「張り」や「意気地」のことで、それによつて単なる個人を超える意思が動いたのに、それが「みえ」を悪徳とみなす西洋倫理主義が壊してしまつた。それはよろしくない。福田はむしろ日本人は「非人格」を作れる思想と美意識を持つてゐるのだから、かへつて「みえ」を本気で持つはうが重要なのではないかと書いたのである。まさに国語表記の問題とつながつてゐることだつた。かういふ福田の見方はときどき思ひ出すべきものだらう。 

≪022≫  しかし、一人の文学者が一国の国語問題に立ち向かふといふ壮挙を知るには、われわれは彼の地のドレフユス事件の記録ばかりでなく、ときにはかういふ本にも目を通すべきなのである。後ろ向きにラディカルであることは、かつてマルクスが「後方の旅」と名付けたものであるけれど、現代保守思想の代表といはれた福田こそはマルクスの意思を知つてゐた人でもあつた。 

≪01≫  そこに句点や読点が落ちる場面を変えてみると、句読点は魔術になる。読点が「、」、句点が「。」だが、とくに読点が動くと意味が変わる。「いやよして」という五文字があって、どう読点を打つか。「いや、よして」にも「いやよ、して」にもなる。「よして」の否定文にも「して」の肯定文にも変わる。ぼくはかつて良寛をめぐる口述書物に『外は、良寛。』(芸術新聞社)という前代未聞の標題をつくったが、その句読点術はいまではついにJポップの「モーニング娘。」まで進んでしまった。 

≪02≫  英語では句読点のことをパンクチュエーション(punctuation)という。カンマ、ピリオド、ハイフンなどで読みが変わる。〝eats, shoots and leaves〟(食って撃って逃げる)と〝eats shoots and leaves〟(芽と葉を食べる)ではガラリと意味がちがう。 

≪03≫  逆に、句読点をあえてつかわない表現法もある。それが短歌や俳句である。詩は句読点を嫌わない。けっこう多い。短歌や俳句にも句読点が登場することがないわけではないが、短すぎてあまり効果があるとはいえない。外山滋比古はその句読点をつかわない俳句に、昔から注目していた。句読点がないぶん切れ字を句読の調子にしたことに注目したのである。 

≪04≫  句読点も切れ字も、言葉づかいの「間」のようなものである。そこには一瞬の沈黙がある。それによって言葉がないところに、もうひとつの表現が生まれる。俳句の終わりぐあいに切れ字がくれば、文中ではないのに新たな効果が生まれる。 

≪05≫  それとはべつに、「秋深しとなりはなにをする人ぞ」の「ぞ」に始まるものもある。ギリシア以来のヨーロッパの修辞学ではこれをアポジオペーシスといって、頓挫あるいは頓絶ととらえた。尻切れとんぼなのだ。俳句の切れ字はそこをあきらめない。  

≪06≫  外山滋比古の著作と仕事については、みすず書房の『エディターシップ』という書名にひっかかってこのかた気になっていた。外山自身が雑誌「英語青年」の編集者であったことも、そのとき知った。けれどもそのエディターシップ論は、ぼくが感じはじめていた編集的世界像とはいささかちがうものと見えたので、そこからわざわざ外山に入る気にはならなかった。それが外山の日本語へのこだわりを少しずつ知るようになって、気が向くとぽつぽつと読みはじめた。 

 日本語は膠着語である。とくに仮名をつかいはじめて膠着性がますます強まった。その日本語をどうつかうか。これは日本語をつかう者にとっては最も愉快で最も冒険を誘うものになる。 

≪08≫  たとえばギリシア語やラテン語系の言葉は屈折語であり、中国語は孤立語である。孤立語は一字一字の文字が独立して並んでいる。だから断切的になる。そこで「新人類進歩研究会」という漢字の並びは「新・人類進歩研究会」か「新人類・進歩研究会」か「新・人類進歩・研究会」なのかを憶測しなければならない。こういう一種の心理負担ともいうべきが、かえって孤立語の表現をおもしろくさせる。漢詩がそうであるように、頭韻や脚韻も独自に発達する。絶句という形式もこのような性質から発達してきた。   

≪09≫  日本語はそうした断切性をもっていないぶん、助動詞や擬態語でいろいろな補いをする。「そこを何とかスッキリさせてくれないかなあ」というふうになる。そこへ割って入ったのが切れ字という断絶力で、そのような意外な使い勝手をつくった日本語というものの総体が注目されるのだ。 

≪07≫  日本語は膠着語である。とくに仮名をつかいはじめて膠着性がますます強まった。その日本語をどうつかうか。これは日本語をつかう者にとっては最も愉快で最も冒険を誘うものになる。 

≪08≫  たとえばギリシア語やラテン語系の言葉は屈折語であり、中国語は孤立語である。孤立語は一字一字の文字が独立して並んでいる。だから断切的になる。そこで「新人類進歩研究会」という漢字の並びは「新・人類進歩研究会」か「新人類・進歩研究会」か「新・人類進歩・研究会」なのかを憶測しなければならない。こういう一種の心理負担ともいうべきが、かえって孤立語の表現をおもしろくさせる。漢詩がそうであるように、頭韻や脚韻も独自に発達する。絶句という形式もこのような性質から発達してきた。   

≪09≫  日本語はそうした断切性をもっていないぶん、助動詞や擬態語でいろいろな補いをする。「そこを何とかスッキリさせてくれないかなあ」というふうになる。そこへ割って入ったのが切れ字という断絶力で、そのような意外な使い勝手をつくった日本語というものの総体が注目されるのだ。 

≪010≫  外山には「修辞的残像」という見方がある。同名の本も書いている。一言でいえば、俳句はその修辞的残像を最もよくいかした表現世界である。とくに切れ字はそれをつかうことで空間を限り、時間を飛ばし、そこにちょっとした余剰の空間や余情の時間をつくる。これはおもしろい。なぜそんなふうになるのか、いろいろ考えてみたくなる。 

≪011≫  外山も長いあいだ、そのおもしろさを考えてきた。芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」が、いったい雁が旅寝をしているのか、旅人が旅寝をしているのか、「かな」の切れ字でその二つのイメージがあえて重なっていくのはなぜかというようなことを、考えてきた。 

≪012≫  ここからは、日本語の言葉の本質にはそもそも「不決定性」というようなものがあったのではないかという推理や、日本語はもともと「とりあわせ」を重視してきたのではないかという推理がはたらいていく。それが俳句だけではなく、日本語のいわゆる曖昧表現に修辞的残像をつくってきた要因になっているふしがある。外山は必ずしもそこを強く攻めこんではいないものの、ぼくはここからの推理が好きだった。ぼくが外山をぽつりぽつりと読んできたのは、この推理を勝手にたのしむためだったかもしれない。そういう読み方で本が読めるのは、読書の快楽のひとつであり、そういう読書を許容するような書き方ができるというのは、著者の並々ならぬ手腕なのである。 

≪013≫  本書では、ポアンティイスムに言及しているのが、記憶にのこっている。ポアンティイスムというのは点描画法のことで、スーラがシュヴルールの色彩理論をヒントに工夫した。このポアンティイスムが俳句にもあるのではないかというのだ。俳句は「線」や「面」ではなく、巧みに「点」を隣りあわせているのではないかというのだ。言葉の点描画法が修辞的残像をつくっているというわけである。 

≪014≫  たしかにそういうところはある。ただし、俳句は絵画のように鑑賞者が距離をおいて見るものとはいえない。むしろリズムのほうで知覚的な距離をとっている。だから、俳句はリズム距離をもったポアンティイスムなのかもしれず、だからこそリズムが好きな子供は意外な名句を作れるのであろう。 

≪01≫  誰にだって言いまわしのクセがある。地域や時代や状況によって異なる。それは単なるクセではない。言いまわしこそが思想の脈絡とテイストを同時に支えてきた。そう、見たほうがいい。 

≪02≫  日本語の例にするが、たとえば「片腹痛い」は「腹が痛い」とはまったく異なるニュアンスを告げている。片腹という部位があるわけではない。その言動をそばで見ていて困るほどちゃんちゃらおかしいのが「かたはら・いたし」で、実は古語では「傍ら、いたし」だった。「ちゃんちゃらおかしい」は笑止千万という意味だが、これも「おかしいけど、おもしろい」ということではない。茶化したことをこちらから切り捨てたくなるのが「ちゃんちゃら」で、チャンバラ同様にばっさり切り捨てたのである。 

≪03≫  もっと微妙な言いまわしも、いろいろある。「お祭り騒ぎ」は「祭りの騒ぎ」とは違うし、「下がりもの」と「お下がり」とは違う。「お」がつくだけで何かが変わる。だから「おっさん」は叔父さんでなく、「おばはん」は伯母さんではない。「負けてあげる」と「おまけ」は違うのだ。「お」のもつ力が変わってくる。「わびしい」と「わび」、「夜が更けた」と「小夜更ける」、「やりすぎ」と「やたらめったら」はかなりニュアンスが異なるのだ。 


≪04≫  こういう言葉づかいにはひょいひょい「日本の姿」があらわれる。この日本は、日々に出入りする「思いのほか」という日本だ。言霊というほどのものではないが、ついつい「言(こと)よさし」というものがはたらいたのである。しかし、この多くは「語り」のなかで生まれていったものだった。 

≪05≫  われわれはのべつ語っている。喋っている。語りながら、そこに「話」が出入りする。「話」はそこだけ切り離せることもあるので、「はなし」は独立しているものをさすように感じるが、それはどうやら「かたり」のほうが下敷きになっているからなのである。

≪06≫  だから「話にならない」とは言うけれど、「語りにならない」とはあまり言わない。「話の筋」が通っていたとか通っていないとは言うけれど、めったに「語りの筋」とは言わない。逆に「語るに落ちる」とは言うが、「話が落ちる」とは言わない。それでは落語になる。 

≪07≫  こうした言いまわしには、何かが隠れている。「かたり」と「はなし」はどこかが違うのだ。なぜ「かたり」のほうが「はなし」を支えていると感じられるのか。そういうことに気づいた坂部恵は、いつしか「かたり」を人文科学したいと思うようになった。  

≪08≫  坂部恵(さかべ・めぐみ)はちょっと変わった哲学者だった。東大の哲学科の出身で、主にカント、九鬼周造(689夜)、和辻哲郎(835夜)、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、メルロ=ポンティ(123夜)などに多く言及したが、つねに「もどき」を意識した。  

≪09≫  初期に話題になった『仮面の解釈学』(東京大学出版会 1976)では、パーソナル(個別性)やパーソナリティ(個性)にひそむ「もどき」としての仮面(ペルソナ)の意味を解いていた。『ペルソナの詩学』(岩波書店 1989)ではそれを一転させて「かたり・ふるまい・こころ」にあてはめた。日本語の様子に対する鮮やかな言及ぶりだった。これがきっと、当時の弘文堂のユニークな企画シリーズ「思想選書」の編集部に請われて、翌年の『かたり』(1990)になったのだろう。 


≪010≫  西洋の歴史にも詳しく、ぼくが読んだものでは『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店 1997)がたいそう示唆に富んでいた。カロリング・ルネサンスを扱っているようでいて、ヨーロッパ思想の深層を衝いたのである。少々気取ってはいたが、『モデルニテ・バロック』(哲学書房 2005)は現代精神史序説と銘打っていたように、言葉の奥にひそむ霊性のようなものを扱って、そこにバロックの多重性と歪みをさぐるというものになっていた。  

≪011≫  これでなんとなく見当がつくだろうが、坂部が注目するのは、たいてい「おもて」から見えない「ふかみ」なのである。深層といってもそれが言葉の「ふるまい」として表層にもあらわれているものなのである。そのリバースモードの考察に耽ってきた哲学者だった。 


≪012≫  本書『かたり』は「物語の文芸」とサブタイトルにはあるが、いわゆる記号論的な物語論(ナラトロジー)ではない。そういう知見もそこそこつかってはいるが(その配慮をしすぎているようにも感じるが)、言葉の作用によって「かたり」と「はなし」が行き来する様子を観察して、坂部独特のニュアンス分け、スタイル分けから議論を展いている。 


≪013≫  だから冒頭の例題には折口信夫(143夜)の『身毒丸』をおいて、折口がこの「語りもの」を書くにあたって、次のような方針をたてたことに注目した。「この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手といふ立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、わりあひに、はつきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴はるべきものだけは這入つて来ても、決して生々しい作為を試みるやうなことはありません」「この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便風な分子をとり去つて、最原始的な物語にかへして書いたものなのです」。

≪014≫  折口は「昔語り」を試みたのである。折口にはそれをやってみせるだけの自信と教養と古代性と調査力があった。

≪015≫  坂部はこの折口の方針に、そもそもは「かたり」こそが「はなし」を運んでいくのだという物語発祥の構造を見たのである。これは卓見だった。「はなしの筋」はあるが「かたりの筋」はないというのはこのことで、そこは語り手が歴史の片隅から「昔語り」とともに発祥しなければならなかったのである。

≪016≫  こうして坂部は「のる」「つげる」「うたう」「となえる」「いのる」などが「かたり」を孕ませていたこと、それらの語り方や述べ方には「はなし」を分散させたり局在させることができること、しかしそれらは「かたり」においてこそ律せられるものであることを、説明していく。 

≪017≫  それを解説する途次でハンス・ゲオルク・ガダマーの「理解」(intellectio)、「説明・敷衍」(explicatio)、「適用」(applicatio)の3段階の解釈学が示しているものに近いともみなすのだが、そこはいささか現代の物語解釈学に配慮をしすぎたようだった。 

≪018≫  坂部が折口などの方法を通して「かたり」の奥にうごめくものとして発見したのは、「しるし」というものだった。すでに『仮面の解釈学』で「しるし」に着目していた坂部は、日本における「しるし」が別の言葉でいえば「徴」や「兆」であって、かつまた「効」「験」や「著」「標」でもあることに驚き、物語とはこの「しるし」をこそめぐるもので、そこには「しらす」「しらしめす」「しろしめす」も入ってくるのだということに行き着く。 

≪019≫  それにしても、なぜ「しるし」は、一般的には見えないものとおもわれてきたような「きざし」(徴候・前兆)や「ききめ」(効験・効果)にもなりうるのだろうか。いわゆる霊験だって「しるし」だったのである。それはまた、どうして口述や著述や顕現を意味する「あらわし」にもなりうるのだろうか。「あらわす」とは内示された「しるし」の束を必要な順序のものにして、外示することだったのだ。  

≪020≫  ここで坂部は、これらの「しるし」のヴァージョンにはひょっとして「うつし身」というものが関与するからではないかと想像していく。 

≪021≫  「うつし身」とは「移し身」「写し身」であって「現し身」であり、ときに「うつせみ」や「顕し身」にもなるものだ。そういう変転しやすく、うつろいやすい身が「しるし」を受けるのではないか。逆に、さまざまな「しるし」はそのような「うつし身」を通してあらわれてくるのではないか、そう感じたのである。 

≪022≫  そこで坂部は、いったい「うつし」とは何かということを解明したくなる。ここはぼくが『日本という方法』(NHK出版→ちくま学芸文庫)で自説を述べているところともけっこう重なるので、やや口はばったいのだが、坂部の説明もそこそこ当たっていた。

≪023≫  そもそもは「何もないウツ」(空)と「何かが顕在してくるウツツ」(現)とが対応しているのだ。「ウツ」は太初のウツロ(空洞)やウツホ(空穂)の状態であって、「ウツツ」は現実であり、現況である。  

≪024≫  このウツからウツツへの進行の途中に、ウツリやウツロイやウツシが動く。それは「移」であって「映」であり「写」であるような、何かを移ろわせつつ映し写されていく絶妙のプロセスである。こうしてウツリやウツロイが進捗していくと、そこに突如として「顕し」が現れてきて、世の中から見ればこれが紛うかたなきウツツとしての現実に見えてくる。  

≪025≫  ということは、ここには最初から何かが隠れていて、それが徐々に顕われてきたのだというふうにも推理できる。ウツは何もないカラッポのようでいて、そこには何かが胚胎していたのである。密せられていたのだ。それが少しずつ動きだし、何かのきっかけで映るものや映されるものとして見えるようになって、やがて現実に顕在してきたのであった。 


≪026≫  これらのプロセスには何が共通しているのだろうか。まさにそれぞれの「しるし」がかかわっている。共通しているものは「しるし」なのだ。その「しるし」が移ろい、映写され、転移していったのだ。坂部はそのことを如実に示している一文として、『日本書紀』巻3の「今、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)を以て、朕親ら(われみずから)顕斎(うつしいわい)を作(な)さむ」を引いて、この顕斎には見えないものがうつし身に向かって斎き祭られていくプロセスがあらわれているとした。ここには「顕し事」の本来が示されていると見た。

≪027≫  おそらく折口がめざした「かたり」とは、みずから語り手となって「顕し事」を見せることだったのである。それは本来ならば「みこと」(御言)を伴ってあらわれてくるものなのだろう。そのような「みこと」はのちに「みことのり」として伝達されていくものになった。

≪028≫  物語とは、この「みことのり」が「しるし」の変化や変転を保持したたまま、さまざまな別様の可能性をもって育まれていったものである。しかし、高貴なものたちの伝承のためだけに、物語は発達していったわけではない。ふいに霊験を得たもの、俗世で病いに臥したもの、思わぬ異人に出会ったもの、こういったところからも「顕し事」は「しるし」となってあらわれた。   

≪029≫  そこで坂部は考えた。いったいこのようなことは、今日にいう「複写」や「転写」や「コピー」や、また「模作」や「シミュレーション」とはどこが違うのか。あるいはアウエルバッハが考察した「ミメーシス」とはどこが違うのか。 

≪030≫  いろいろ考えていくと、事情ははっきりしていた。「うつし」はこれらをすべて含んだもので、かつそこにさまざまな「しるし」のさまがわりを示しうる方法だったのである。ただ、アウエルバッハもボードリヤール(639夜)も、その「さまがわり」を説明できなかった。こうして坂部はこの「さまがわり」に言及できた思索者をさがし、それがチャールズ・パース(1182夜・1566夜)にあったことに思い至るのである。 

≪031≫  パースについては何度か千夜千冊したのでここではくりかえさないが、坂部はパースの言う表意体(representation)が、何らかの「しるし」を代表して(stand for)いること、その代表の組み合わせが解釈体(interpretant)になっていること、および、そこにはたいていイコン(類似記号)、インデックス(指標記号)、シンボル(象徴記号)が顕われては変容していくものであることが、やはり重要だったと結論づけるのである。 


≪032≫  まさにそうだろう。そうなんだと、ぼくも思う。つまりは物語とは、イコン・インデックス・シンボルという「しるし」によって「はなし」の単位をウツからウツツに向かって仮留めしつつ、これを「かたり」によって淵源からのアブダクション(仮説形成)にしていくものだったのである 

≪033≫  ところで、本書にはハラルト・ヴァインリヒの『時制論』とローマン・ヤコブソンの言語学についての分析と解釈がのべつ出てくるのだが、こちらはイマイチだった。坂部恵ともあろうもの、いまさら二人に依拠することなどなかったのてある。余談だが、先だってウェブのヴァインリヒの項目を見ていたら、奥泉光が『時制論』をアマゾンで追ったところ、15000円もしてウウッと思ったと書いていた。

≪01≫  本書はよくできた一冊だった。六人の「日本語をつくった男」を軸に日本語の表記をめぐる変遷を近代まで読み継がせた。 著者の小池清治は国語学者である。確固たる日本語観と日本語史についての見識がある(すでに亡くなっている)。その小池に、あるとき筑摩の井崎正敏が「日本語の自覚の歴史」といった視点の本を書いてみませんかと勧めた。小池はそれならかねて敬意を払ってきた永山勇の『国語意識史の研究』(風間書房)や時枝誠記の『国語学史』(岩波書店)に代わるものを書いてみたい、できればそこに山本健吉の『詩の自覚の歴史』(筑摩書房)の趣向を加えてみたいと言ったという。 

≪02≫  このセンスがよかった(山本健吉を加えたところがいい)。いろいろ思案したすえ、日本語を創った代表的な六人をフィーチャーして、大きな歴史のうねりを浮き彫りにする構想をたてた。すなわち、太安万侶=「日本語表記の創造」、紀貫之=「和文の創造」、藤原定家=「日本語の『仮名遣い』の創造」、本居宣長=「日本語の音韻の発見」、夏目漱石=「近代文体の創造」、時枝誠記=「日本語の文法の創造」の六章立てである。 

≪03≫  構成はすこぶる端的で、かつ国語学にありがちな委曲を尽くすあまり大筋を失うという致命的な難点を逃れている。一九八九年に「ちくまライブラリー」の一冊に迎えられ(ぼくはこれで読んだ)、その後にちくま学芸文庫に入った。その文庫版のあとがきに、六人が六人とも男になってしまったのが心残りになった、できれば紫式部か清少納言を入れたかったと書いていたが、なるほどそうだったかもしれない(世阿弥や芭蕉も入れてほしかったが)。だからといってそれが本書の瑕瑾になったとは思わない。 

≪04≫  以下、ざっと狙いどころを紹介したい。最初は「文字をもたなかった日本人は、どのように日本語を表記できるようになったのか」ということだ。ぼくなりに咀嚼した案内にする。 

≪05≫  言葉は社会環境や集団環境の中で喋りあっているうちに習得できることが多い。ただしこれはあくまで「発話力の習得」であって、そこから「文字の習得」に至るにはそれなりの飛躍や相互作用が必要になる。言葉は文字をともなって生まれたのではなく、あとからできあがった文字表現システムが過去の言葉を〝食べていった〟のだ。その文字表現システムは集団やコミュニティではなく、文明のエンジンや文化の陶冶がつくりだした。 

≪06≫  だから文字のリテラシーは容易には習得できない。それなりの努力がいる。幼児や子供がどのように言葉と文字を関係づけられるのかということを想えばおよその見当がつくように、言葉と文字のあいだにはびっくりするほど複合的な関連性がたくみに結びついているからだ。その複合性のうちの複数の何かがパシャッと結びつかないと、うまくいかない。しかもそれは、スラブ語はキリル文字での、タイ語はインド系表音文字での、英語・フランス語・ドイツ語はアルファベットによる綴り文字での、南太平洋のイースター島でのラパヌイ語はロンゴロンゴ文字での、それぞれの国語(母語)ごと、民族文字ごとの工夫なのだ。 

≪07≫  わかりやすくいえば、言葉を喋りはじめた幼児が文字を習得するまでには、次のようなプロセスが待っている。 ①知覚しているモノやコトやヒトが単語になりうることを理解すること、②その単語は文字であらわすことができるということがわかること、③喋っている言葉(母語)はそれらの単語をつないで成立していたのだということを納得すること、④一方では、文字の群を読んでそこに意味(文意)を感じられるということ、⑤その文字群は自分だけではなく他者にも同様の理解を伝えていると感じられること、⑥そうだとすると、自分の思いを言葉にして文字群によって綴ることができると確信できること。 

≪08≫  これらが前後関係はともかくも、さまざまにつながって「言葉と文字の関係」が成立する。のみならず、このプロセスには段階ごとに異なる才能が要求され(よく喋る子がよく書けるとはかぎらない)、このプロセスのいずれかを示唆できる「教師モデル」が先行して、言葉と文字の関係を外側から教えるしかないのである。 

≪09≫  長らく文字を知らなかった日本人が、縄文以来の母語である日本語(倭語)を文字におきかえるにあたって、どんな工夫と苦労があったかを知るということは、以上のような学習と工夫がどのようにおこったかを、どう説明するかということに重なっている。 

≪010≫  日本人は縄文このかた、長いあいだ文字をもたなかった。長期にわたるオラル・ソサエティだった。縄文社会もそれに続く弥生稲作鉄器社会も、それなりの充実したコミュニケーション文化と表現文化が継続されたのに、なぜ一万年以上にもわたって文字をもたなかったのか、言葉と文字をつなげるリテラシーを発達させなかったのか。 

≪011≫  その理由についてこれまで本格的に議論されてこなかったのはたいへん遺憾だが、おそらくは縄文弥生社会の造形力や生産力のほうが勝って、文字による伝達が浮上しなかったのであろう。また白川静が断乎としてそこを指摘するのだが、統一王や絶対王が出現しなかったからでもあろう。文字とは非民主的な出現物なのである。 

≪012≫  そんな無文字列島にあるとき「漢字」がやってきた。「漢倭奴国王」の金印がその到来の劇的な前触れだとすると、中国の光武帝の時期、西暦五七年のことだ。実際にはそれ以前から新の王莽が鋳造した「貨泉」などが来ていたから、弥生晩期にはちらちら半島や大陸からの商人などによって漢字面はやってきたのだろうが、それらは「言葉と文字の関係」を示唆するものではなかった。やがて大和王権が形成されていくにつれ、「文字」がもつ力についての認知革命がおこっていく。 

≪013≫  応神天皇十五年、百済の王が阿直岐に託して良馬二匹を贈ってきた(日本書紀)。応神天皇の絶対年代は確定できていないが(応神天皇実在も疑問視されている)、四世紀末か五世紀初頭のことだろう。 

≪014≫  阿直岐は「能く経典を読む」という才能をもっていたので、太子の菟道稚郎子が師と仰いで、文字の読み書きを習った。これでわかるように、古代日本にとって最初の文字文化は半島からやってきた馬飼いからついでに教えられた程度のものだった。小池は「当時の倭人にとって、文字は馬と同程度のもの」と書いている。  

≪015≫  この事情を見て、応神天皇は宮廷で交わしているささやかな言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があることを感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねた。阿直岐が「王仁という秀れた者がいる」と言うので、さっそく上毛野君に属する荒田別、巫別を百済に遣わした。王仁は辰孫王(出自は不明)とともにやってきて、『論語』と『千字文』併せて十一巻を持ってきた。 

≪016≫  当然のことながら「文字」だけがやってきたのではなく、書物としての「儒教の言葉」がやってきたのだが、日本側(初期大和朝廷)は、それが読み書きできる文字テキスト(文字言語の束)としての「万能にも感じられる呪能力」をもっていることに驚いた。 

≪017≫  招かれた王仁の活躍もすばらしかったようで(お雇い外国人第一号だ)、その後も王仁は応神朝以降の言語文字の教習に寄与して、「書首」の始祖となったと『書紀』は記す。継体天皇七年(五一三)に百済から来朝した五経博士の段楊爾、継体十年の漢高安茂、欽明十五年(五五四)の王柳貴などは、みんな王仁の後継者だった。 

≪018≫  以上の出来事は、日本(倭国)に中国語の文書や経典とその読み書きができる者がやってきたということであって、ふつうならこれを起点に日本人の有識者のほうに中国語や漢字の読み書きに習熟する者が少しずつふえ、日本は中国語を用する国に向かってスタートを切ったという、そういう展開になってもおかしくなかった。文章を書けるようになったとしても、漢文のみで書くというふうになるはずだった。 

≪019≫  以上の出来事は、日本(倭国)に中国語の文書や経典とその読み書きができる者がやってきたということであって、ふつうならこれを起点に日本人の有識者のほうに中国語や漢字の読み書きに習熟する者が少しずつふえ、日本は中国語を用する国に向かってスタートを切ったという、そういう展開になってもおかしくなかった。文章を書けるようになったとしても、漢文のみで書くというふうになるはずだった 

≪020≫  皇太子は聖徳太子のこと、嶋大臣は蘇我馬子のことである。二人が意を決して『天皇記』と『国記』を編述させ、一八〇部を臣や連、伴造、国造たちに配った。漢文に翻訳したのではない。そういうところもあったけれど、縄文以来の倭語の発音と意味をいかした表記を試みた。 

≪021≫  残念ながら『天皇記』も『国記』も乙巳の変(大化改新)のさなかに蘇我蝦夷の家とともに焼き払われたので(『国記』は焼失する直前に一部持ち出された可能性がある)、いまのところいっさい中身やその記述ぶりがわからないのだが、それが日本人のための日本についての初めての重要な記録であったろうことは見当がつく。そして、これをきっかけに日本人は文字言葉に漬かっていくことになる。それはきわめて独創的なものに変じていった。 

≪022≫  天武天皇のとき(六八一)にも新たな編述が試みられた。川島皇子と忍壁皇子が勅命によって『帝紀』と『旧辞』を編纂した。皇統譜とその関連語句集のようなもので、日本各地に君臨した日本人の名称や来歴を記述したものが組み立てられた。のみならず稗田阿礼がこれを誦習して、半ば暗記した。稗田阿礼は中国語で暗記していたのではない。日本語で誦んじた。 

≪023≫  ついで和銅四年(七一一)、元明天皇の命で太安万侶が『古事記』上・中・下三巻を著した。漢字四六〇二七字による仕上りである。漢字ばかりだが中国語ではない。一見すると漢文に見えるが、すべて日本語文なのである。目的は「邦家の経緯、王化の鴻基」を記しておくことにあった。 

≪024≫  四万六千字はどのくらいのものかというと、四〇〇字詰め原稿用紙にすると一一五枚ほどで、手頃な小説一篇くらいにあたる。これを四ヵ月で仕上げた。いま読むと、その編集構成力にほとほと目を見張るが、それを四ヵ月で駆け抜けたとはなんとも驚くべきスピードだ。 

≪025≫  すでに先行するテキストがあったことが大きい。そのテキストは三十年ほど前の『帝紀』と『旧辞』であるが、安万侶は「序」に「既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり」と書いているように、そのままでは使えなかったようだ。そこで「帝紀を撰び録し、旧辞を討ね覈め、偽りを削り実を定めて後葉に流へむ」としたのだという。 

≪026≫  心強い協力者がいた。稗田阿礼だ。この人物がいまなお男か女か、個人か集団の名なのかがはっきりしないものの、『帝紀』『旧辞』を誦習暗記していたというのだから、ありがたい。安万侶は阿礼の音読力を聞き確かめて文字を選んでいけた。ぼくは長らく阿礼(あるいはそのグループ)のことを神話や歌謡を諳んじていた超有能な語り部と思っていたのだが、最近の研究によって『帝紀』『旧辞』というテキストの読み方も暗唱していたアコースティック・リテラルな才能の持ち主とみるべきだと思うようになった。 

≪027≫  安万侶はこれらをどのように日本式の記述語や記述文にしていったのか。使う文字は漢字ばかりである。それを中国語ではなく日本語文としてどう書きあらわすか。 

≪028≫  すでに『帝紀』『旧辞』には(またそれ以前の銅鏡や鉄剣などに付された銘文などには)、そこそこの数の漢字による倭人風の音読みと縄文以来の日本語による訓読みの試みとがあったと思われるのだが、それをヒントに思い切った独創を加えることにした。「序」には、その工夫が容易ではなかったことが述べられている。「然あれども、上古之時は言と意と並に朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於ては難し。已に訓によりて述べたるは、詞心に逮ばず。全く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し」。 

≪029≫  上古の出来事や名称を伝承する言葉は、「言」と「意」とが素朴に混じりあっていたので、漢字の音訓を一様に使えなかったというのだ。こうして安万侶は大胆にも「音訓交用」という方法でいくことにする。その基本的な作戦としては、今日の漢文学でいう「仮借」による音づかいと「転注」による訓づかいを自在に組み合わせた。 

≪030≫  こんなことができたのは安万侶がけっこう「漢文が読めていた」からだったと思う。ネイティブ・チャイニーズの発音はあまりできなかったろう。それがよかったかもしれない。これは、英語やフランス語を学んだイマドキの日本の中学生が英語やフランス語のちゃんとした発音はできないのに、英文や仏文をそこそこ〝読解〟できるようになるのと同じことである。同じことではあるが、安万侶は〝読解〟したのではなく、のちに日本人が読解できるような構想的文章を新しく創り上げたのだ。つまり上古のオラリティを残しつつ、それを漢字音訓表記のリテラシーに劇的に変換してしまったのだ。まったくもって、とんでもない才能だった。 

≪031≫  ただ、その日本語表記構築能力があまりに深かったか、あるいは複合的で複雑だったせいで、また随所に多様な「注」を入れ込んだので(訓注・声注・音読注・解説注など)、その後の日本人は『古事記』を〝読解〟するのにかなり苦労した。すらすら読めた者などいなかった。このためのちのちまで、本居宣長は『古事記伝』を書くのに三五年がかかり、昭和四五年に始まった岩波の「日本思想大系」第一巻に予定された『古事記』訓読さえ、小林芳規はその作業に十三年を費したのである。 

≪032≫  日本最古の和歌はスサノオが須賀の宮で詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」だとされている。これを安万侶は「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微尓 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁」と表記した。

≪033≫  一七個の漢字と六個の仮名で計二三個の文字が連なっている。一個の漢字と日本語音一音は、夜(や)、久(く)、毛(も)、多(た)、都(つ)、伊(い)、賀(か)、麻(ま)などというふうに対応する。これは万葉仮名のハシリである。ハシリではあるが、対応は定着していない。たとえば「か」は「賀」だけではなく、「下・加・可・仮・何・価・河・架・花・香」なども流用された。 

≪034≫  万葉仮名は真仮名、真名仮名、男仮名(男文字)とも呼ばれたもので、用法としては仮借(音による当て字)にあたる。安万侶が発明したわけではない。すでに稲荷山古墳出土鉄剣(四七一)にワカタケル(雄略天皇)を示す「獲加多支鹵大王」や宮処をあらわす「斯鬼宮」が、隅田八幡の人物画像鏡(五〇三)に「意柴沙加宮」「斯麻」が、難波宮跡から発掘された木簡(六五二以前)に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」などが、先行していた。 

≪035≫  このような音仮借は日本人のオリジナルでもない。インドの陀羅尼を中国語翻訳するときに音写や仮借が使われていた。だから安万侶は万葉仮名のハシリではなく、万葉仮名多用のハシリだったのである。 

≪036≫  かくてこれらを受けて『万葉集』の表記が確立していった。誰か特定の人物が確立したわけではなく、柿本人麻呂や大伴旅人らの万葉歌人たちが歌集を編むときに万葉仮名による表現表記を試み、これを奈良末期に大伴家持が集大成したのだったろうが、そのプロセスのあいだに、まさにオリジナルな工夫が誕生していった。それでどうなったのか。万葉仮名から草仮名や女文字が、草仮名や女文字から平仮名が生まれた。 

≪037≫  日本人が仮名を発明したことは、日本語の歴史にとっても世界の言語史においてもすこぶる画期的なことだった。表意文字(真名=漢字)から表音文字(仮名=日本文字)をつくったのだ。ドナルド・キーンは「仮名の出現が日本文化の確立を促した最大の事件だ」と述べた。 

≪038≫  とはいえ、これは書記という文字を書くプロセスで生まれたもので(スクリプト・プロセス)、もともと中国漢字のカリグラフィ(書道)に真行草のスタイルがあったこと、つまり楷書・行書・草書の書法変化があったことが作用して、それを日本の書き手が好んで試みているうちに草仮名が「いろは」五〇文字ほどに定着したものだった。 

≪039≫  最初の兆候は天平時代の正倉院文書にも二、三の例が見られ、貞観年間にその兆候がだんだん拡大したのだが、草仮名が平仮名という新しい「文字」に定着していったのは、やはり十世紀になってからである。その記念碑的な結実が紀貫之を編集主幹として練り上げた『古今和歌集』(九〇五)だ。以降、和歌は漢字仮名まじり表記に定着する。  

≪040≫  安万呂の日本文字第一次革命が貫之の第二次革命に継がれたのは幸運なことだったけれど、いくつかの時代文化の充実がかかわっていた。 

≪041≫  まずは宇多天皇が菅原道真を重用して譲位し、醍醐天皇がこれを受けて次の村上天皇とともに「延喜・天暦の治」という和風文化の機運をつくっていたこと、その菅原道真が『三代実録』『延喜格式』の編纂とともに漢詩と和歌を対にした『新撰万葉集』を「春夏秋冬恋」という部立で編んでいたこと、しかし道真が失脚し、貫之が御書所預となり、醍醐天皇から勅撰和歌集の編集勅命を受けたこと、そこに紀氏という「家」の名誉・栄達がかかっていたこと(その後に藤原摂関政治とともに紀氏は没落する)、さいわいにもこういうことがうまく絡んでいた。 

≪042≫  貫之はずいぶん鮮やかな手際を見せた。紀淑望が書いた「真名序」(漢文)と自身の手による「仮名序」(仮名書き)を和漢に並列させ、日本の風土と貴族文化にふさわしい部立を工夫し、「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」と言ってのけた。  

≪047≫  貫之の登場や仮名日記の普及の次に日本語の言葉づかいに画期をもたらしたのは、藤原俊成と藤原定家の父子だった。第三次革命とまでは言えないかもしれないが、歌人グループによる日本語革命だ。父子は御子左家に属して、和歌におけるニューウェイブの風をおこした。いわゆる新古今調である。 

≪048≫  オールドウェイブは藤原公任が『新撰髄脳』に示しているのだが、「古の人、多く本に歌枕を置きて末に思ふ心をあらわす」というふうに、歌枕を先に掲げて叙景を前に出し、そのうえで下の句で叙心に入っていくというものだった。ニューウェイブの新古今派はそこをひっくりかえし、上の句に叙心をあらわし、そのあとは心の動きなどにふれずに叙事を詠む。俊成はこれによって歌に「余情」があらわれるとみた。 

≪049≫  こうした「風」がおこったのは、九条良経の文芸サロンを俊成が仕切れたことが大きい。建久四年(一一九三)に良経邸で開かれた空前の「六百番歌合」がターニングポイントになった。俊成が率いる御子左家系の良経・家隆・慈円・寂蓮・定家らが、オールドウェイブ派の六条家を圧したのである。かくして御子左家の和歌は良経サロンから後鳥羽院のサロンへ、その日本語の歌語の精華を尽くした表現は「有心」から「幽玄」へ、さらには正徹や心敬の「冷えさび」へと向かっていく。 

≪050≫   本書はこのあと、三七歳をすぎた定家が次から次に歌集や物語や経典などを書写していったことに注目する。ぼくはその夥しい数の書写一覧に驚いた。ほぼ毎日、書写に徹したのではないかと思うほどだ。 

≪051≫  小池は、定家がこの作業を通して独自の「方法」に達したと強調する。その方法とは「定家仮名遣」というものだ。その頂点に定家が綴った『下官集』があった。大野晋も小松英雄も小池清治も、『下官集』においてこそ日本語はその後の仮名遣いや言い回しを決定的なものにしていったのだとみなした。下官(下っぱの役人)とは定家のことである。 

≪052≫  縄文以来オラル・コミュニケーションに遊んできた日本語は、仮名の発明によってその表現性を文字にも「分かち書き」や「散らし書き」などの書にも示せるようになったのだが、それは法則や方式をもって出現したのではなかった。そのことに気づいたのが書写をしつづけていた定家だったのである。  

≪053≫  仮名の革命は女文字がふくらんでいった平仮名だけではなく、漢字の扁や旁を部分的に自立させた片仮名においても進行した。 これは経典を音読するときの声符やヲコト点から変じて派生したもので、便利な音節文字として主に僧侶たちが好んで活用した。アは「阿」の、イは「伊」の扁を自立させ、ウは「宇」のウカンムリを、エは「江」の旁を自立させた。もともと読経のときの音便記号にもとづいていたので、平仮名とは異なって音声力に富む日本文字として、日本的な経典解読には欠かせないものになった。 

≪054≫  仮名文化は仏教界にも及んでいる。仏教界も日本語の表現や仮名遣いに新たなものをもたらした。なかで注目すべきなのが「仮名法語」である。すでに源信の『横川法語』にその試みが始まっていた。 

≪055≫  源信の『往生要集』は、「夫往生極楽之教行濁世末代之目足也道俗貴賤誰不帰者」というふうに、立派な漢文で綴られている。「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん」というふうに読み下す。しかし漢文では広く民衆に極楽世界の教えを伝えられないと見た源信は、やがて五〇〇字あまりの『横川法語』を示すのである。「それ一切の衆生は三悪道をのがれて、人間に生まる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや」というふうに。 

≪056≫  このような仮名によって教えを伝えるという方法は、法然や親鸞の和讚によってさらに広まった。それも初期の漢文訓読調からしだいに和文調へ、七五調へと変化した。そこには今様に通じる親しみやすい歌謡性が芽生えた。他方、慈円の『愚管抄』がそうだったのだが、漢字片仮名混淆の文章を綴る者もあらわれた。「一切ノ法ハタダ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ハナニモナキ也」というふうに。ちなみに「二文字ガモツナリ」の「が」の遣い方には近代的な用法が芽生えている。 定家と慈円は友人でもあったが、この二人が平仮名と片仮名をそれぞれ究めようとしたのは、まことに象徴的なことである。 

≪057≫  ところで、古代日本人が出会った文字は実は漢字だけではない。八世紀前後からのことだが、しばしば「字」にも出会っていた。字は古代インドのブラーフミー系の文字のことで、このうちのシッダマートリカー系の文字が西域・中国・東南アジアを経由して、字あるいは悉曇文字として入ってきた。独特のカリグラフィによる音素文字である。字を研究する学問を悉曇学といった。 

≪058≫  日本に字にもとづく悉曇学をもたらしたのは、林邑(ベトナムのチャンパ国)の仏哲である。長安にいた。遣唐使の多治比真人広成と学問僧の理鏡が渡唐したおりに仏哲と出会い、ぜひわが国に来て教えを広めていただきたいと懇願して、道璿とともにやってきて何冊かの漢訳の悉曇学を紹介した。 

≪059≫  これにいちはやく関心を示したのが空海だ。長安から戻ってさっそく『字悉曇字母並釈義』を著した。のみならず自身で毛筆や板筆をとって字書や字擬書を認めた。ついで円仁が入唐して開元寺の宗叡に字を教えられ、全雅から『悉曇章』を授かり、さらに空海が恵果から密教灌頂を受けていた青龍寺の宝月からは北インドの発音を学んだ(このことはのちに『在唐記』に報告されている)。 

≪060≫  空海と円仁がとりくんだのは言葉や文字が秘めた「真言」の力というものである。この真言とは何かを求めて真言密教と天台密教が示された。 

≪061≫  真言は言葉ではあるが、言葉の最も奥にひそむ真如の「音」を示すものとみなされたからだ。また字の形象は仏尊たちをあらわす「種字」ともみなされた。真言を短く連ねれば陀羅尼となった。マントラやダラニにはどんな真実が象徴されているのか。そこを字の解明を通して読もうとした。これらは仏教の奥をさぐる学問であり、宗教であった。こうしたことを言語学からみると、空海と円仁によって初めて日本における音韻の本質が覗かれたということになる。 

≪062≫  もともと言葉はオラル・コミュニケーションから始まっている。オラル(口語)とはいえ、そこには口と耳と舌と唇と歯による音声と、身ぶりが伴った。やがて身ぶりを適当になくしていっても音声言語だけでコミュニケーションが成立することがわかっていった。その音声の定着を求めて文字が発生した。石や板や紙の上に「記せる言葉」ができていったのだ。こうして言葉の多くが発音を秘めてふえていったのである。 

≪063≫  それなら、文字になった言葉をもとの音声に戻すにはどうするかというと、ここで表音文字と表意文字のメリットとデメリットの差異が出る。アルファベットのような表音文字ならばそこそこ発音の見当がつくのだが、表意文字の漢字はそこがなかなかわからない。そこをどうリバースさせればいいか。 

≪064≫  漢字といえども、もとはチャイニーズ(中国民族)の話し言葉や占術から生まれた。しかしつくられた漢字が扁や旁やウカンムリやシンニョウなどの組み合わせで発達し、その字数が膨大になっていくと、中国人だからといって或る文字を見て、ただちにこれらを発音できるとはかぎらなくなったのである。ここに工夫されたのが「反切」というリバース・エンジニアリングの方法だった。当該文字の発音(字音)を示すにあたって、よく知られた既存の二文字を参照するという方法だ。 

≪065≫  漢字のチャイニーズ発音は複雑ではない。声母(子音・父字)と韻母(母音・母字)であらわすことができる。 そこでたとえば「成」という漢字の字音は、声母を「是」で、韻母を「征」で示すのである。古い『広韻』という韻書では、これを「是征切」と説明する。最初の「是」を反切上字、「征」を反切下字といい、「成」は「是」(シ shi)と「征」(セイ sei)と発音するというふうにヒントを出すのだ。これが反切だ。反切法は二世紀の服虔と応劭の『漢書注』にあらわれ、六〇一年の陸法言の『切韻』で広まった。中国ではこれらによって多くの漢詩の押韻が可能になった。漢詩で頭韻や脚韻を踏むたのしみだ。 

≪066≫  日本でもこの反切法が生きた。悉曇学と結び付き、日本の音韻研究に役立った。安然の『悉曇蔵』、明覚の『反音作法』『悉曇要訣』、東禅院心蓮の『悉曇口伝』などがまとめられ、これらから日本語独自の音韻字表「五十音図」が生まれていった。十一世紀の『孔雀経音義』(醍醐寺蔵)には、「呬キコカケク 四シソサセス 已イヨヤエユ 味ミモマメム 比ヒホハヘフ 利リロラレル」などの提示が見える。 

≪067≫  その後、五十音図は真言密教僧の音韻研究によっていろいろ工夫がされ、江戸初期の契沖の『和字正濫鈔』によってまとまっていった。すでに五四四夜の馬渕和夫『五十音図の話』(大修館書店)に案内しておいたことだ。 

≪068≫  契沖の日本語研究は、やがて「国学」の流れとなって賀茂真淵をへて本居宣長の日本語論探求に結実していく。宣長といえば、三五年にわたって書き継いだ『古事記伝』による「からごころ」(漢字にもとづく日本語感覚)を排した壮大なフルコト研究こそが偉大な成果であるが、本書はそちらにはふれないで、宣長の音韻研究がのちの国語学にもたらした功績を評価する。 

≪069≫  宣長の音韻を重視した日本語研究の成果は明和八年(一七七一)から安永五年(一七七六)にかけて、『てにをは紐鏡』、『直毘霊』、『字音仮字用格』にあらわれる。漢音と呉音のちがいがもたらす仮名遣いの問題、「お」と「を」、「え」と「ゑ」などの遣い方のちがいを究めつつ、その後の国語学で「上代特殊仮名遣」と総称される分野を踏破した。 

≪070≫  宣長は言葉があらわす「事」には必ず「意」があると確信して、「かがみに見えぬ心」を見つめることに徹したのだった。それが「古意」の発見につながった。同郷の谷川士清の『倭訓栞』などの先駆にも恵まれた。 

≪071≫  皆川淇園の弟であった富士谷成章は宣長とほぼ同じ時代の日本語グラマーの研究者である。とくに『あゆひ抄』(一七七三)がすばらしい。ぼくが日本語の奥に本格的な関心をもったのは成章の『あゆひ抄』と、その子の富士谷御杖の『古事記燈』や『真言弁』を読んでからのことだ。 

≪072≫  成章とこれを承けた御杖は、用言のことを「装」、動詞のはたらきを「事」、形容詞を「状」、形容動詞を「在」、そして助詞・助動詞のはたらきを「脚結」と名付けた。また「装図」によって品詞分類を試みて、「名」(体言)、「装」(用言)、「挿頭」(副詞・接続詞・感動詞)、「脚結」(助詞・助動詞)の四つに分けた。みごとな分析だ。初めて「文」や「文節」を捉えたのである。 

≪073≫  宣長の長男である本居春庭もすばらしかった。父を継いで用言の活用を研究した『詞八衢』で「詞」のはたらきを描いてみせた。こんなふうに綴る。「詞のはたらきは、いかにとも言ひ知らず、いともいとも奇しく妙なるものにして、一つの言葉も、その遣ひざまによりて事かはり、はたらきに随ひつつ意もことに聞こえなどして、千々のことを言ひ分かち、よろづのさまを語り分かつに、いささかまぎることなく……」。

≪074≫  『詞八衢』の二十年後に綴った『詞通路』では構文論を展開した。ここで春庭が辿りついたのは、日本語はどんな言葉もどこかに掛かって文章をなすものだということだった。「かかる」ということ、これが日本語の特質だというのだ。このあたりのこと、千夜千冊では足立巻一の『やちまた』(一二六三夜)で案内しておいた。 

≪075≫  さて、このような日本語についての見方の変遷をへて、日本はいよいよ明治維新に、近代国家づくりに突入していった。ここからは近代日本語が遭遇した紆余曲折とその乗り切り方の話になっていく。 

≪076≫  徳川後期、すでに蘭語や蘭学などの洋学は入っていたが、明治期の日本人は文明開化の勢いにのって英語・フランス語・ドイツ語などと一挙に出会い、その翻訳語を次々に浴び、新たな近代日本語がどんな「国語」に向かうのかという言語ゲームに入っていった。それとともに明治日本の作家たちは、このさい新たな「言文一致」をめざすべきなのか、古きよき日本語との折衷を試みるのか、それとも幕末明治の「口語」を文学するべきなのか、さまざまに迷うことになる。  

≪077≫  たとえば樋口一葉や尾崎紅葉や幸田露伴は、あえて雅文体や職人的な言葉づかいを好んだ。淡島寒月の影響が大きい。他方、岸田吟香や二葉亭四迷や夏目漱石は新たな日本語の表現に向かっていった。 

≪078≫  慶応三年にヘボン(ヘップバーン)の『和英語林集成』を手伝った吟香は上海にいたときの日記に、はやくもこんな文章を書いている。「もうぢきお正月だ。けふのやうな日は、湯豆腐に、どぜう鍋かなにかうまいもので、くだらねェ冗談でも言つて、四、五人集まつて、酒でものむほうが、から(中国)にいるよりか、よささうだ。ここにゐてはおもしろくねェ。はやく日本へかへつて上野へいつて、格さん、とみさん等と一盃のみたいもんだ」。 

≪079≫  これは口語そのままで、のちの現代日本語を先取りしている。一方、四迷は『浮雲』の内海文三にもう少し言文一致な文体を押し着せた。「心理の上から観れば、智愚の別なく人咸く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解らう」というふうに。四迷は「国民語」をめざしたのであるが、この文体は成功はしなかった。 

≪080≫  明治の作家たちは「お話」を思いつけばそれでいいというのではなかった。「どのように綴るか」「どの漢字を使うか」「翻訳語をどのくらい入れるか」「旧仮名遣いはどうするか」ということにも腐心した。 

≪081≫  漱石も苦労はしたが、一人称視点による会話体の限界の中から三人称の視点による言文一致にこぎつけ、こんなふうに綴った。「吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述しうるかと疑ふものがあるかも知れんが、此のくらいな事は猫にとつては何でもない、吾輩はこれで読心術を心得てゐる」。なんとも言いわけがましく、うまいともへたともつかない文章だ。しかし、ここには近代日本語の懊悩と却来があらわれていたのだと思う。  

≪082≫  漱石は「彼」という三人称代名詞をあえて駆使してみることも心掛けた。『吾輩』で一一一例、『それから』で三〇九例、『明暗』では一三四一例も使った。近代日本語の中に「彼」をつくったのである。 

≪083≫  比較していうのなら、四迷は「文」を「言」に近づけるように試みて苦労したのだが、漱石は「言」と「文」との折衷に向かって切り抜けていったのだ。漱石がこんなふうにできたのは、『将来の文章』に「私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考へた事がどうしても充分の日本語では書き現はされない。これは日本語には単語が不足だし、説明法(エキスプレッション)も面白くないからだ。反対に日本の思想で考へた事は又充分西洋の語で書けない」とあるように、外国語と日本語のはざまにいたからだったろう。 

≪084≫  徳川時代、西洋語に使用文字が極端に少ないことに本気で驚いたのは、日本の将来に関心をもっていた新井白石や本多利明である。司馬江漢も漢字を乱用しないほうがいいと思いはじめた。  

≪085≫  長いあいだ、日本で「読み書き」といえば寺子屋で漢字をお習字することだった。やがてそのような漢字学習を有害だとみなす者があらわれた。幕府開成所の前島密だ。慶応三年に将軍慶喜に「漢字御廃止之議」を奉った。句法語格の整然たる日本語があり、簡易便利な仮名文字があるにもかかわらず、繁雑不便で難解な漢字によって教育をおこなうのは漢字の害毒に染まりすぎると主張した。これにはアメリカ人宣教師ウィリアムズの提言があった。 

≪086≫  同調する者が次々に登場する。明治五年、大弁務官の森有礼は「国語として英語を採用すべき」というとんでもない主旨の提案を、イェール大学の言語学者ホイットニーに送った。ホイットニーは「国語を他国語に替えることは、他国の属国とならない以上はするべきではない」と一笑に付したのだが、それなら日本語の表記を英文字に切り替えたらどうかという提案がおこってきた。西周、上田万年、外山正一、矢田部良吉らはこのアイディアには将来の稔りが多いとした。 

≪087≫  明治十八年に「羅馬字会」が発足し、ローマ字によって日本語を書くべきだという風潮が広まった。ローマ字表記には和英辞典を編集していたヘップバーンによるヘボン式と、物理学者の田中館愛橘による日本式が競いあったが、ヘボン式が標準式になった。これらの風潮はあきらかに欧化主義の過剰な旋風ではあったけれど、英文字と漢字とのちがいが歴然としすぎていたため、多くの論争が絶えなくなった。 

≪088≫  案の定、ローマ字がむりなら仮名文字ばかりでいくのはどうかと、住友商事の山下芳太郎のように「カナモジ会」をつくる者も出てきたし、哲学者の井上哲次郎や言語学者の藤岡勝二などがそうだったのだが、新たに国字をつくったらどうかという議論も出てきた。志賀直哉などはいっそフランス語の国にしたらどうかという暴論を吐いた。 

≪089≫  当然、漢字廃止に反対する者も少なくない。三宅雪嶺、井上円了、杉浦重剛などが率先して論陣を張った。ここに「日本の国語」の将来は大いに揺れたのだ。 

≪090≫  近代日本には、日本語とはそもそもどういう国語なのかを研究する者たちが登場している。明治二四年に『言海』を、明治三十年に『広日本文典』を世に問うた大槻文彦は、日本語の構文がどのようにできあがっているかに初めて分析の目を致し、山田孝雄は明治三五年に『日本文法論』で初めて英文法やドイツ文法に比較して日本語の文法の仕掛けの解明にとりくんだ。山田の国語文法論は国学の流れを汲むもので、『奈良朝文法史』や『俳諧文法概論』はいまなお新しい。ぼくは山田の『櫻史』(櫻書房→講談社学術文庫)に耽ったことがある。  

≪091≫  松下大三郎は海外の文法書を読めば英文でも独文でも仏文でも書けることに瞠目して、外国人の誰もが日本語を書けるようになる文法書をつくろうとして、一種のグラマー主義に徹した。ぼくもその一端を覗いたことがあるが、これはとうてい使いものにならない代物だった。日本語は欧米的な文法知識をかためてもつくれないのだ。 

≪092≫  橋本進吉はもう少し別の視点をもっていた。橋本の国語学は音声や形態から「陳述」を見ようとしたもので、日本語の文節に注目して、日本語がどこでどのように区切られてきたかを研究した。日本語には「連文節」が動いていると見たのだ。山田は日本語を「タマネギ型」に、橋本は「扇型」に見て、日本語の文章が述語中心構造にあると言いたかったのである。これらは当たらずとも遠からぬ指摘になっていた。 

≪093≫  大正十四年、若き時枝誠記が「日本ニ於ル言語観念ノ発達及ビ言語研究ノ目的ト其ノ方法」という卒業論文を東京帝国大学国文科に提出した。時枝は西欧の文法にもとづいて日本語を見ることに不満をもっていて、むしろ国語にはその民族なり国民なりの言語観念があるのだから、それを研究すべきだと主張したのだった。 

≪094≫  新しかった。時枝が持ち出したのは、日本語は「詞」と「辞」でできているというもので、それを視点にして日本語の文章を見ていくと、それは「タマネギ型」でも「扇型」でもなく、むしろ「入れ子構造型」というものになっているのではないかということだった。 

≪095≫  時枝は日本語の「語」「文」「文章」はたんなる集合関係にあるのではなく、それぞれがいちいち「質的統一体」になっていて、それぞれにおいて入れ子をほしがっているというのだ。このような日本語には、イェスペルセンやソシュールの言語学の説明はあてはまらない。それをアテにするよりも、われわれは独自の国語学を世界に見せていくべきだと主張した。時枝国語学の誕生である。 

≪096≫  時枝は言葉を人間の生きざまやふるまいに匹敵させたかったのだ。主著『国語学原論』(岩波文庫)や『国語学史』(岩波書店)に躍如した思想は「言語過程説」とも言われる。いっとき吉本隆明などが時枝国語学に関心を寄せていたが、いまこそあらためて注目されるべきだろう。昭和三五年に書かれた『文章研究序説』(山田書院)には、次のような一節がある。日本の言語学者の国語観として誇り高いものを感じる。 

≪097≫  
「文章が、一つの統一体であるといはれるのは、それが何ものにも従属せず、それ自身、完全に自立してゐるところから、文とは区別される。(中略)もし一つの文であつて、それが何ものにも従属せず、完全に自立したものである場合、例へば、〈天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも〉の如きは、一つの文であると同時に、一つの文章であると云つて差し支えない」。 
 今夜は、この時枝の言いっぷりをもって、ぼくの日本語案内の平成最後の化粧だったとしたい。 

≪01≫  
白眉は「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」という一文にある。
この、何でもなさそうな一文こそ、ルロワ=グーランの思想と研究の目的のすべてをあらわしている。
この一文こそ、ぼくをして「遊」を継続させ、編集工学研究に向かわせたエンジンとなった。 

≪01≫  白眉は「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」という一文にある。この、何でもなさそうな一文こそ、ルロワ=グーランの思想と研究の目的のすべてをあらわしている。この一文こそ、ぼくをして「遊」を継続させ、編集工学研究に向かわせたエンジンとなった。 

≪02≫  目標をたてて行動計画を実行するのではない。「思い」をもつこと、その「思い」にひそむ言葉を紡ぎ、それを採り出していく。そこに「その思考を実現できる」ものが見えてくる。ルロワ=グーランはそのことを証すための研究にとりくんだ。 

≪03≫  本書は、言葉の起源と進化をめぐる研究書にみえて、それをはるかに上まわる展望と推察を駆使した一書である。それまでぼくは凡百の言語文化論の数々にほとほと失望していたのだが、本書によって初めて「言語というものが技能のひとつであること」にやっと自信がもてた。ということは、ぼくの言語観はソシュールやチョムスキーによってではなく、また時枝誠記やクリステヴァによってではなく、ルロワ=グーランによって開眼させられたわけなのである。 

≪04≫  ルロワ=グーランは『身ぶりと言葉』の冒険的な記述を、あたかも偉大な科学者のように、左右対称性や前部強調などの動物の力学的体制の特徴から始めた。 

≪05≫  ついで、四足動物の歩行と把握の発達が人類の頭蓋や大脳皮質の発達を促したプロセスをのべると、最初の言葉の萌芽が石器の分化と並行していたこと、住居や衣服の発生が知的言語の基礎とつながっていること、あるいは死骨にたいする信仰や埋葬の慣習が一種の内言語を促していたことなどを次々にあかした。さらに旧人から新人にいたってようやく芽生える社会組織的なるものにふれ、そこに「リズムの進化」や「時空の構造化」という特質があったことを指摘した。 

≪06≫  ここまででも充分に刺激的なのだが、これはまだ序の口で、ルロワ=グーランはこれらの一連の知的な技能のおおもとに「共生の意思」「交換の利得感」「種から収穫にいたる周期性に対する感謝」などが踵を接して育まれていったことを見抜いたのだ。大当たりだった。 

≪07≫  のみならず、定住と遊牧の分化による格差が階級や階層をつくっていったこと、そのなかで運動機能に長けたものから表現技術の飛躍がおこり、詳察機能が得意なものによって図示表現の飛躍がおこったことも説明してみせた。そのうえで、その図示表現の一部から書字能力が拡張していって、それが爆発的に言語能力を複雑にしていったのではないかと推理した。なんという堂々たる透徹であったことか。 

≪08≫  いまではルロワ=グーランの言語文化観(といってもここではパロールを中心にしているのだが)に関する推理のすべてが必ずしも正しいとはいえなくなっている。けれどもそんなことは、このさい、大目にみたい。 

≪09≫  もともと、このフランス人は推理の途中にふれた一つずつの現象に足を止めたいのではなく、それらをつなぐ推理の筋書きを重視したのだった。だからこそ、言語を「思い」を実現するための技術ととらえ、その周辺に線的な刻印技術や絵画表現がどのように隣接していったかといった視点を配することができたのである。 

≪010≫  第二部はさらに二一世紀的だった。「記憶と技術の世界」というはなはだ魅力に富む内容で、人間がどのようにして記憶を外部に保存し、その保存された記憶の貯蔵庫のしくみをどのように工夫していったかということを明らかにする。 

≪011≫  ぼくの「遊」(工作舎)に始まって『情報の歴史』(NTT出版)に及んだアイディアの基礎は、ここにひしめいていた。ことに第八章「身ぶりとプログラム」が当時のぼくを奮い立たせた。証書・一覧表・文章・物語・辞典・目次・注解・カード検索といった編集機能の進化の歴史を、ぼくはこの数十ページではっきり自覚できたのではなかったかとおもう。 

≪012≫  一方、第三部「民族の表象」は、イメージの古生物学というものがありうることを攻めた。民族のそれぞれがもつ価値観には必ずやリズムと身体の関係が埋めこまれているのだが、そこでは、「欠乏と制御」こそがその源泉になっていることをたっぷり示唆したのである。その通りであろう。リズムは何かが欠けていることから生まれ、そうであればこそ、そこにまだ見ぬ価値が派生するものなのだ。価値とリズムは「欠乏と過剰」を親とするものなのだ。  

≪013≫  それに付随して、いまでも鮮やかにおぼえているのは、道教と仏教の結びつきが現世の円環的リズムから脱却するための方向をつくったのではないかといった意外な指摘とか、人間がまわりの世界を知覚するには二つの方法があって、ひとつは動的に空間を意識しながら踏破することだが、もうひとつは静的に未知の限界まで薄れながら広がっていく輪を自分は動かずに次々に描くことではないかというような指摘をしていたことだった。 

≪014≫  とりわけこの後者の指摘は、世の中には「巡回する道筋によって得られる世界像」(循環的世界像)と、「二つの対比する表象によって得られる世界像」(対比的世界像)とがあって、そうであるのなら、それはオオカミの世界認識にもマンダラによる世界認識にも共通するものであるという確信をぼくにもたらした。それ以来というもの、「巡回」と「対比」は編集工学的な方法が最初に試みる楽譜になったのだ。 

≪015≫  本書の最後は、第一五章「想像上の自由、およびホモ・サピエンスの運命」となっている。ここではぼくの編集エンジンなど、問題にもならない。J・G・バラードは「人類に残された最後の資源は想像力だ」と言ったけれど、まさにその想像力のためのエンジンが仮想設計されていた。 

≪016≫  これは、まいった。やっぱりこういう着想を筋立てて表明できる思索者というものがいるんだと、素直に脱帽した。しかも、そのエンジンから出力されるのは、技術論のルイス・マンフォードやメディア論のマーシャル・マクルーハンの出力表には書きこまれていない内容が多かった。 

≪017≫  たとえば、ラジオとテレビは手の退行とともに手の解放を意味しているのではないか。エレクトロニクスの発達はむしろ口頭文字の復活をもたらすのではないか。伝統文化とは出身母体の行動記憶との同一化のことではないか。われわれは新たにメディアに転移された人間像を考えざるをえなくなっているのではないか。このような逆マクルーハン的な〝予言〟も連打されるのである。 

≪018≫  かくてルロワ=グーランは、まとめていえば、われわれの想像力が選択する枝を次の三つに絞りすぎているのではないかと問うたのだ。

≪019≫  チョイス1。
多くの人間が結果を知らないで考えている技術(たとえば原子爆弾)に自分たちを委ねることをやめ、もっともっと結果がわからない人間そのものに未来を賭けたらどうなのか。 

≪020≫  チョイス2。
人間も地球もいずれ終末を迎えるのだから、いまのうちにその終点からすべてを逆算して考えてみたほうがいいのではないか。 

≪021≫  チョイス3
あらゆる技術が個人に向かっているのだから、個人の単位の中に少しずつ世界を注入できるようにして、集団や社会のことを忘れられる人工世界に未来を託す時代に期待するのもいいではないか。 

≪022≫  二一世紀はこのうちのどのチョイスを選ぶだろうか。諸君はどうか。ルロワ=グーランはこのいずれにも与しない。
こんな程度の選択肢は「想像力をつかっていない」と吐き捨てたのだ。 

≪023≫  もっと個人性と社会性の関係を根本から捉えなおしたい、もっと地球の管理を偶然と必然のあいだにおきたい、もっともっと生活の細菌的な活動から脱したい。そこから想像力エンジンをつくりなおしたいと言うのだ。 

≪024≫  ぼくの三十代に起動した編集エンジンは、こうして、ルロワ=グーランのメタプログラムを搭載して走ることになったのだった。 

≪01≫  いま地球上にはおよそ六〇〇〇の言語がある。地球のどこかで話されている言葉の数だ。世界中の言語名、方言名、別呼称を総計すると三万九〇〇〇語にのぼる。けれども、国は二〇〇くらいしかない。それでも単純に平均すれば一国あたり約三〇の言語が使われていることになる。 

≪02≫  言語というものは猛烈に多様なのだ。ただし近現代になるにしたがって、地域によって疎密ができてしまった。実際にはアフリカやポリネシアのように、地域によってものすごい数の言語たちが隣りあってひしめいているところと、ヨーロッパのように寡占状態のところがある。だから、この「一国三〇言語」という平均像はいつわりの数字であるが、しかしその程度に言語というものは数が多いのだ。 

≪03≫  実情はもっと複雑だ。世界に六〇〇〇言語があるといっても、この数は五〇〇年前の半分にすぎない。この五〇〇年間で世界の言葉は約半分が死滅してしまったからだ。しかも、その半分になった言語のほぼ二〇パーセントが、いままた瀕死の状態にある。それも加速的に消滅しつつある。 

≪04≫  本書はこのような広域でおこりつつある言語消滅に関する克明なレポートであり、かつ、その要因を政治・経済・社会の過激な変動に探して告発しようという提案になっている。 

≪05≫  本書はこのような広域でおこりつつある言語消滅に関する克明なレポートであり、かつ、その要因を政治・経済・社会の過激な変動に探して告発しようという提案になっている。 

≪06≫  こういうことがのべつおこっている。それも毎年だ。一九八二年にオーストラリアのムババラム語の最後の話者が死んだ。その二年後にはマン島語の最後の話者が死んだ。オーストラリアでは先住民言語が一年に一言語ずつ滅んでいるらしい。ヨーロッパ人と接触する以前のオーストラリアには、確認されているだけでも二五〇以上の言語が生きていた。 

≪07≫  コロンブス到着以前の北米大陸だって、推計三〇〇言語が話されていた。いまはそれが一七五言語になった。ざっと半分が死滅した。半分が残っているとはいえ、話者がたった十人以下の言葉が五一言語にものぼる。これらがまもなく死滅していくだろうことは目に見えている。ワッポ語の最後の話者のローラ・サマーサルばあさんが死んだのは一九九〇年のことだった。 

≪08≫  なぜ言語(語り言葉)は消えていくのだろうか。駆逐されるのか、それとも自滅するのか。その両方ともいえるし、そんなふうに単純には説明できないともいえる。事情は複雑なのである。 

≪09≫  たとえば一九三二年にエル・サルバドルでおきた事例は、まことに悲しい事情を物語っている。農民暴動がおきた。そこで服装や体つきでインディオと見なされた連中が片っ端から殺されることになった。その数、約二万五〇〇〇人におよんだ。三年後になってもラジオや新聞はインディオの暴動を警告し、暴動がなければ先進国からの援助も得られるというキャンペーンをしていた。そこで多くの先住民たちが、インディオと見られないようにするために自分たちの言語を放棄していったのだった。 

≪010≫  こういう事態が各地でおこっているわけなのである。差別の激しいケニアの作家ングギ・ワ・ティオンゴは、果敢に自分の言語であるキクユ語による文章をあえて発表しつづけたため、投獄された。 

≪011≫  服装なら変えられるし、髭なら剃ればすむ。髭はまた伸ばせばはえてくれる。けれども皮膚の色や言語の特徴はなかなか変えられない。言葉ははえてこないのだ。それらは身体の内側からつくられている。だから、北部同盟がタリバンを放逐したところで、北部同盟にパスティン人が残っていれば、その言葉はまだ続く。しかしかれらが死ねば、言語も死んでいく。ボスニア・ヘルツェゴビナやチェチェンやウイグルで、民族や部族が抑圧されたり殺されたりするような事態が進行すれば、その言語はひとたまりもなく壊滅してしまう危険性をもっているわけなのだ。 

≪012≫  さらにもっと恐ろしい事情もある。英語がますます広まっているという問題だ。少数民族の言語を研究する者たちは、英語を「殺し屋の言語」とよんでいる。「アイルランド語は英語に殺された」というのは、かれらのなかでは合い言葉になっている。 

≪013≫  一九六六年、すでに世界の七〇パーセントの郵便物が英語に、ラジオ・テレビの放送言語の六〇パーセントが英語になっていた。はっきりしたデータはないのだが、国際政治の場面や教育の現場でも英語がそうとうにふえている。インターネットによってさらに英語の殺傷能力は増してきた。英語をつかう者には加害者の意識はない。それなのに英語は殺し屋なのである。 

≪014≫  英語という言語自体の文法や発音や言いまわしに殺し屋の要素があるわけではない。英語をつかう場面の強引と暴力が英語を強くしているにすぎない。ごく最近、日本でも英語を公用語にしようとか第二公用語にしようといった提案が出て、一部の者たちの〝国語の良心〟をいちじるしく傷つけたことがあったが、そのような提案に呆れることができる人数があまりにも少ないことにも、ぼくは呆れたものだった。 

≪015≫  今日、使用頻度の最も高い一〇〇程度の言語を、世界総人口の九〇パーセントが話している。国連には六つの公用語しか用意されてはいない。ひどい寡占状態である。残された一〇パーセントの多くはアジア・アフリカにいる。とくに熱帯地域に多い。  

≪017≫  それなら、これらの言語は消滅するのもやむをえないほど特徴の薄い言語なのかといえば、そうではない。むしろ逆なのだ。たとえば、八一個の子音とたった三個の母音でできているウビフ語、五個の母音と六個の子音しかもたないパプアニューギニアのロトカス語など、多くの言語が言語学上でもいちじるしく興味深い特徴をもっている。イヌイットの言葉はたいていは犬の重さやカヤックの大きさと氷や雪の種類とが対応できるようになっているし、北米ネイティブ・アメリカンのミクマック語は樹木の種類を風が通る方向や音によって呼称できるようになっている。まことに雄弁なのだ。 

≪016≫  なかでもアフリカは重症で、すでに五四言語が絶滅し、さらに一一六言語が絶滅の危機にある。多言語地帯としてとくに有名なナイジェリアでは、いままさに一七言語が涸れつつあるという。アフリカはまた、全体としては二〇〇〇言語があるにもかかわらず、二〇語系にしか仕切られていないという状態にある。 

≪018≫  ぼくが注目しているオセアニア系の言語の多くは、「譲渡可能な所有物」と「譲渡不可能な所有物」という区分けによって言語が分類できるようになっていて、世の中の品詞というものが男性名詞と女性名詞でできているわけでも、自然名詞と固有名詞に分かれているわけでもないことを、誇り高く告げている。 

≪019≫  そもそも言語には、拡張しつつある特定言語に接触すると、しだいに単純化していくという性質がある。シンプルになる。単純な言語が複雑な言語を駆逐するというのではなく、特定の言語が政治力や経済力を背景にして大量に流れ、その大量言語に他の少数言語が接すると、その言語が単純化する傾向があるということだ。英語が殺し屋になるのはそのせいである。 

≪020≫  しかし、エル・サルバドルの事例がそうであったように、言語というものは言語だけが自立しているのではなく、その言語が使える生活状況や政治経済状況がまとわりついて次々に生病老死をくりかえしているものだ。また、そこには侮蔑や差別や嘲笑がつきまとう。いくら方言がすばらしいからといって、テレビで訛りのなおらない言葉づかいをしていたら、とたんに仲間から冷やかされて、そのまま意気消沈して芸能界を降りたタレントも少なくはない。 

≪022≫  本書は、「生物多様性」というものがあるのなら、それに匹敵する「言語多様性」があるということを、ほとんど喉を嗄らすほどに訴えている。本書はだから、グローバリズムに対する徹底抗戦を謳った一書でもある。しかしながら、どうも、このような絶叫に似た言語学者や言語生態学者たちの訴えは、ほとんどの政策決定者や知識人には届いていないようである。とくにグローバリズムやコンプライアンスが「言語多様性」を奪っている。逆にナショナリズムのほうも母語の多様性を単純化してしまう。 

≪021≫  言語は多様であるにもかかわらず、その言語がもたらす文化の多様性を手放しでは確信していられない。その言語を使う文化の場面がしだいに少なくなっていけば、そのまま言語の多様性も削られていく。そういう宿命をもっている。それにもかかわらず、生物が絶滅の危機に瀕していることには先進国はやかましく言うわりに、こうした「絶滅途上の言語種」については、まったく対策がたてられてはいない。 

≪023≫  ぼくは本書を読んでずいぶん寒気をおぼえたけれど、そのように寒気を感じる読者数もおそらくはものすごく少ないのだろうとおもう。ぼくは以前から好きな造語を文中や会話の中につかうのが平ちゃらなのだが、新聞や出版社の校閲者からはたいてい訂正を求められるし、テレビ番組では「言いなおし」を強いられる。これでは、ぼく自身の言語感覚が絶滅種に近づいているというふうに言われてもおかしくないということになる。ああ、無情。ああ、無常。 

音読をしてみること、これに勝る学習はないと言われながら、なかなか誰もこれをやりたがらない。 われわれはいつしか“だんまり助平”になっている。 ではいったい、黙読と音読とのあいだで、何が失われてしまったのか。
 それは「脳」の出来事だけなのか。「文化」そのものの喪失ではなかったのか。
 今夜は本書にかこつけたセイゴオ・エッセイだ。 

④ ミルマン・パリーのホメーロスの研究以来、このことについてはウォルター・オングやマーシャル・マクルーハンやアンドレ・ルロワ=グーランが注目し、なかでもマクルーハンはその理由を活版印刷の出現と結びつけたものだった。活版印刷の普及が黙読社会を広げていったという説だ。また、このこと(音読社会から黙読社会への移行)が、ひょっとしたら人類に「無意識」を発生させたのではないかとも推理した。黙読するようになって、アタマのどこかに無意識の領分ができてしまったというのだ。ギョッとする仮説だった。 

⑦ 逆にいうのならこういう問題を軽視したとたん、その民族、その部族、その国の言語文化は急速に衰え、結果としてその民族文化や部族文化そのものが消滅しかねない。そのことについては、「千夜千冊」ではネトルとロメインの『消えゆく言語たち』のときにもふれておいたことである。 

⑩ この二つのことをもっと横断的に重ねて考察すれば、幼児がどのように音読学習から黙読慣習へと成長(あるいは転倒)していったのかというような、新たな学習の秘密をめぐる研究も浮上するはずだろう。けれどもそうなるには、音読をすることが複合知覚力ともいうべきを励起させているのだといったような、そういうこともあきらかになってこなければならない。いや、音読だけではない。筆写にも複合知覚力を励起させるものがある。 

① そもそも音読と黙読の関係や、音読から黙読への読書知覚体験の発展は、世界の文明と文化にとっての大きな転換をあらわす出来事だった。そこにはオラリティとリテラシー、話し言葉(プラクリットやパロール)と書き言葉(サンスクリットやラング)の独特のちがいが含まれてきた 

② われわれは古代より長らく「音読社会」(オラル・ソサエティ)のなかにいた。その後に文字を発明したり移入移植したりして、その文化圏の識字率(リテラシー)が伸びていったのちも、これらをたえず声を出して読んでいた。 

⑤ けれども、このような説明や推理だけで言語社会文化の実態の解明になっているとは、とうてい言いがたい。また、パリーやオングやマクルーハンはアルファベット文字のような表音文字の社会文化的活用のみを追ったのだけれど、表意文字をもつ古代漢字社会などが、いったいどのような「目の解釈」と「耳の思考」と「口の表明」とで複合されていたのかとか、あるいは分離されていったのかといった問題はほとんど研究されてはいない。日本語の社会文化史のなかの音読と黙読を研究した例もない。 

⑧ そもそも音読・黙読問題は、人類が長きにわたってオラル・コミュニケーションと音読社会を体験してきたということ、および、幼児や子供が会話と音読からこそ言葉のコミュニケーションの習得を深化させているということに関係がある。 

⑪ ひるがえって、そもそも認識(IN)と表現(OUT)とは、そのしくみがまったく異なる知的行為になっている。「INするしくみ」と「OUTするしくみ」とはそうとうに異なっている。そのため、いろいろのことを見聞きし、いろいろ体験したことがいくら充実したものであっても、それをいざ再生しようとすると、まったく別の困難に出会ってしまう。アタマの中のスピーチバルーン(吹き出し)に浮かんだ実感や感想をいざ言葉や絵にしてみようとすると、どうもその感想どおりではなくなってしまうのだ。 

③ それがしだいに黙読(目読)するようになった。リテラルな文字群を目で追うだけになった。そのうち、すべての近代社会は「黙読社会」になっていた。そのうちみんながみんな、“むっつり助平”ならぬ“だんまり助平”になった。それでもそうなるには、文字文化を獲得してからざっと千年近くを要した。なぜ音読から黙読への移行がおきたのか。 

⑥ だから音読の効果がどこにあるのか、黙読には黙読のそれなりの効果がどのようにあるのかということは、いまのところ決定的な評価の決着がついていないと見たほうがいいのだが、しかしそれでもなお、音読と黙読の関係は、言語習得のプロセスに密接な影響をもたらしてきたとみなせるし、また、コミュニケーション能力の大きなキャスチングボートにもなってきたともみなせそうなのだ。とりわけ音読が「国語力」と交差することによって、言語能力は深長もし、また希薄にもなっていく。 

⑨ ということは、第一には、その民族や部族やその国の文化に、いったいどの程度の「声の文化」や「耳の文字」が重視されているかということが問われるべきなのだ。それとともに第二に、その個人やその家族やそのコミュニティが、幼児期や子供のころにどのくらい「声による言葉」や「耳による学習」をインプリンティング(刷り込み)してきたかということも問われるべきだった。 

⑫ その別々のしくみになってしまっている認識INと表現OUTを、あえて擬似的にであれ、なんとかつなげて同時に感得してみようとするとき、ひとつには音読が、もうひとつには筆写が有効になってくる。
 なぜ有効なのかといえば、おそらく音読行為や筆写行為が千年にわたってINとOUTの同時性を形成してきたからだ。音読や筆写をしてみると、その千年のミームともいうべきがうっすらと蘇るからなのだ。ぼくはそうおもっている。 

⑬ このことについては、『日本数寄』(ちくま学芸文庫)の長めのエッセイ「編集文化数寄」にも書いておいたことで、記憶の再生にはそもそもトポスが関与しているからだった。また、そのトポスが関与した事柄こそがホメーロスの詩や万葉の歌となり、それがくりかえし音唱・音読・筆写・筆読されてきて、われわれの言語感覚の奥に継承されてきたからだ。そこには認識のジェノタイプ(遺伝型)に対するに表現のフェノタイプ(表現型)とでもいうものが、鍵と鍵穴の関係のように「抜き型」になっているとおぼしい。音読や筆写をすると、それがうっすらとではあれ、リリース(解発)されるのだ。 このことは、先だっての爆笑問題との番組「ニッポンの教養」でも少々話しておいた。またこのことは白川静さんが、甲骨文字や金文をいつもGペンでトレース(筆写)しつづけていた行為にも似ているはずなのだ。 

⑯ それより、本書に戻るのだが、ぼくには安達センセーが「素読」をもちこんだことがおもしろかった。素読というのは、『論語』や『大学』などの漢文や李白や杜甫の漢詩などを、意味をいちいち教えたりする以前に、徹底して棒読みさせることをいう。寺子屋でやっていたあれである。できれば大きな声を出す。棒読みだから、中身の理解は必要がない。ただ読めばいい。しかし、この棒読みを重ねることがあら不思議、中身の理解の立派な素地をつくっていく。 

⑭ というようなわけで、音読・黙読問題は意外にも文明史や文化史の深いところまで問題を誘ってしまうのであるが、それはそれ、やっぱり音読は断乎として試みるほうがいいだろう。 ぼくも、音読が重要なことは折りにつけ強調してきた。たとえばイシス編集学校では師範や師範代のために年に数度の「伝習座」というものが設けられていて、そこで指南の方法をあれこれ伝授するのだが、そこはまたぼくによる音読学習の場でもあって、師範も師範代も「千夜千冊」などの音読をたのしむことになっている。編集学校「守・破・離」のうちの「離」では、もっと音読のことを考える。 

⑰ 安達センセーはこの素読こそ、音読と黙読の関係にひそむ何かの能力にかかわっているのではないかと推測した。おそらく当たっているだろう。国語の能力は幼児や子供が棒読みのような会話をしているうちに身につくもので、それは英語やフランス語を身につけるときだって同じなのである。それを読書にいかしたらどうなのか。いや、読書の前にいろはカルタで音読習慣を身につけたらどうなのか。そういう提案だ。 そのことにちなんで、ぼくにも直近で感じたちょっと興味深い出来事があった。そのことを話して、今夜の紆余曲折をおわりたい。 

⑮ もっとも、音読の奨めについては、一言いちゃもんをつけたいこともある。例の大ベストセラー、齋藤孝の『声に出して読んでみたい日本語』(草思社)や、その後の類書のことだ。齋藤センセー、たしかに音読は奨励しているものの、あの本はとんでもない代物だった。音読のもつ意味をとりちがえているし、例文もよくない。あれはむしろ演劇やパフォーマーのための訓練に使ったほうがいい。 

 先月の三月二二日とその翌日のことだが、未詳倶楽部でこんなことを試みた。能楽師の安田登さんと能笛の槻宅聡さんを招いて、『羽衣』の一節をみんなに予告なく素読・音読してもらったのだ。会員の大半は謡曲など読んだことがない。黙読したこともない。それを最初から音読してもらった。 安田さんはこのエクササイズを予告なくやってみることを提案し、三十数名のみんなも大声を出してみた。『羽衣』のキリの一節、「東遊の数々に、その名も月の宮人は、三五夜半の空に又、満願真如の影となり云々……」。そのあと、みんなはバスに乗り、いくつかの観光地をまわったのち、富士を遠望する「美保の松原」に行った。まさに『羽衣』の舞台だ。トポスそのものだ。 そこにはすでに安田さんと槻宅さんが和泉佳奈子とともに先回りして待っていて、衣裳を整えて座している。羽衣の松の前には、ぼくがちょっとした言葉を毛筆で書いた布帛が風にはためいている。みんなはそこを囲み、しばらく“開演”を待った。 やおら槻宅さんの風を切る能管の一吹きとともに、安田さんの能仕舞が向こうの松を橋掛りと見立てたところから始まった。ゆっくりした舞だ。そのうち安田さんはさあっと布帛を体にまとう。それとともに、みんなは謡曲本をコピーした一節を手にもちながら、一斉に『羽衣』を声を揃えて謡ったのである。