GMV懇話会
先達に問う

毎週木曜日に開催されるリモートビデオ会議です。
出会い・交流・研鑽・憩いの場です。
コラバのカタチを体感・体得・体現する場です。
シニアの当面の課題をテーマとし、
当事者として、今すぐにできることを問い質して、
応えを集め、事業創生・活躍の場の拡大に
繋げていきます。

① Meet懇話会「先達に問う」の歩みver2.0
読書・独歩 目次 フォーカシング
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≪01≫  この手記の序に選ばれた言葉群には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能にあらず」の文句がある。そして、青年時代のぼくを驚かせた「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。

≪02≫  この「終わりを考えよ」という示唆は、文章ばかりが好きなテキスト派の知識人たちには見当のつきにくいことかもしれない。なぜ「終わり」が重要なのか。けれども、彫刻や建築を一度でも仕事にしたか、あるいは考えてみた者にとっては、ごくあたりまえのことになる。また、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になる。が、このあたりまえのことに最初に気が付いたのがレオナルドだった。

≪01≫  この手記の序に選ばれた言葉群には、「経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ」とともに「権威をひいて論ずるものは才能にあらず」の文句がある。そして、青年時代のぼくを驚かせた「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」が出てくる。

≪02≫  この「終わりを考えよ」という示唆は、文章ばかりが好きなテキスト派の知識人たちには見当のつきにくいことかもしれない。なぜ「終わり」が重要なのか。けれども、彫刻や建築を一度でも仕事にしたか、あるいは考えてみた者にとっては、ごくあたりまえのことになる。また、近代以前の絵画を学習した者にとっても当然な示唆になる。が、このあたりまえのことに最初に気が付いたのがレオナルドだった。

≪03≫  『手記』をモンテーニュやパスカルの随想録のように読むことは可能である。随所に「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」とか「想像力は諸感覚の手綱である」といった章句がちりばめられているからだ。

≪04≫   なかには、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」「点とは精神も分割しえないものである」といったヴィトゲンシュタイン顔負けの章句もあるし、「われわれをめぐるもろもろの物象のなかでも、無の存在は趣意を占める」といったハイデガー顔負けの章句も少なくない。

≪05≫  しかし、この『手記』に学ぶことはやはりその芸術論や視覚論である。芸術論といっても抽象的なものではなく、一種の名人の言葉や達人の言葉に近い。たとえば、レオナルドは彫刻と絵画を区別するにあたって、どうしたか。彫刻は上からの光に左右されるが、絵画はいたるところに光と影を携えられると見た。

≪06≫  「鋳物は型次第」というメモがある。なんでもないようだが、職人の達成を感じさせるメモである。とくにぼくが好きなのは「喉仏は必ずよっている足の踵の中心線上に存在しなければならぬ」といった“極意”のメモである。

≪07≫  絵画論のなかの白眉は、空気遠近法についてのレオナルドの見方がのべられている箇所だろうか。

≪08≫  ぼくにこの部分を読むように勧めてくれたのは、画家の中村宏であった。そして、ヴィルヘルム・ライヒの理論との相似性について語ってくれた。

≪09≫  レオナルドは空気遠近法の実際を指導して、遠くのものを青色で描くようにしなさいと言っているのだが、その青色を探求したのがライヒだというのである。ぼくはライヒについてはすぐに読まなかったようにおもうが、やがてライヒに出会って驚いた。なんとライヒは「青色物質」を天空に採取しようとして、オルゴン・ボックスなるものを“発明”していたのだった。

≪010≫  レオナルドの影響は、このようなライヒに見られる特異なものから、ヴァレリーや花田清輝の思索をへて、渦巻の科学やヘリコプターの開発におよぶまで、まことに巨大な光陰を発している。その万能の天才ぶりにあらためて言及するのがみっともないほどである。

≪011≫  しかし、一度はレオナルドの『手記』は手にとってみたほうがいい。おそらく、諸君に名状しがたい自信をもたらすだろうからである。

≪01≫  ミシェル・フーコーの話に入る前に、手前味噌の話を少々しておきたい。なぜこんな話をするかということはすぐにわかる。後半でも関連してくる。

≪02≫  編集工学研究所はいくつかのアーカイブをつくってきた。最初はプリントメディアのフルカラーの大冊『情報の歴史』(NTT出版)で、サブタイトルに「象形文字から人工知能まで」と銘打った。一万年の「情報」の変遷を綜合年表にしたものだ。これはのちに慶應大学の協力(金子郁容リーダー)でデジタルメディア化して「CRONOS」というデータベース・システムにした。

≪03≫  その後、いくつかの試作をへて、まとまったものとしては京都の歴史文化の事象・図像・テキスト・詩歌などを多重多層の構造で貯蔵し、連想検索に工夫を凝らした京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」をつくった。スタンフォード日本センター(今井賢一リーダー)とのコラボである。3×3の連想ボタンと「時の車」「四季床」「語り部」の機能などがついている。語り部は三人まで使えて、ユーザーもこの機能をつかえば、いろいろ長老や関係者にヒアリングしたものを自由に取り出せる。語り部が入ったアーカイブは世界初だった。

≪04≫  いまは密教アーカイブ「KUKAI」のプロトタイプを仕上げている。こちらは真言僧のグループ密教21フォーラムとコラボした。知をマルチメディアライクに動かすことはなかなかおもしろい。

≪05≫  ぼくがこうしたアーカイブづくりの仕事をするのは、「知の編集工学」の基礎には、知識や情報の集め方と分け方と引き合わせ方が必要であると確信できたからなのだが、そう確信するにあたっては、フーコーの方法が参考になった。

≪06≫  フーコーが『知の考古学』で書いたことは、主として三つある。

≪07≫  第一にはアルケオロジー(考古学)という方法とはどういうものであるべきかということだ。土に埋もれた考古学ではなく、フーコーは知に埋もれた考古学の確立をめざした。まさに「知の考古学」である。第二にはこのアルケオロジーにはアルシーブの使い方というものがあるはずで、アルシーブの奥にひそむ無意識的にさえ見える構造を取り出すことが重要であるということだった。フーコーは考古学者がそうするように、知の断片や破片を集めて、あるべき姿を再生してみせた。そして第三に、知を「言説の編成体」としてつかみ、その知を取り出せるようにしておくということである。

≪08≫  フーコーがフランス語で「アルシーブ」といっているのがアーカイブにあたる。資料集成体あるいは「知の貯蔵庫」というものだ。歴史の研究者たちは、当然なことに膨大あるいは特定の歴史資料にいつも当たっている。

≪09≫  しかしフーコーに言わせると、その当たり方は歴史の起源や因果関係を調べ、そこにたった一つのオーダーを探すというような作業に陥っていることが多い。そうではなく、それらの資料を縦横無尽に動きまわり、その資料と資料のあいだに沈みこんでいた社会や文化の動向に無意識的ともいうべき構造を見いだせるようにすることが、フーコーの「知の考古学」にとっては最も重要なことなのである。

≪010≫  つまりは知識や情報の「集め方」「分け方」「引き合わせ方」である。それなら、その単位をどうするか。

≪011≫  フーコーは知あるいは知的情報資料の最小単位として「エノンセ」(énoncér)に注目した。エノンセは「言表=発言行為」などと訳されているが、その資料がもともとどこで語られどのように記録されたかという、資料が出現し定着したときの状況を含む単位のことである。資料のトポグラフィックでコンテクスチュアルな状況をそのつど部分的に刻んだものといってよい。

≪012≫  このエノンセがいつも歴史の中から出入りして見えてくれば、情報はたんなる個別の資料ではなく、その背景にリンクとノードをもった「言説編成体」(フォルマシオン・ディスクルーシブ)の動的関連力をもった部分として生きてくるはずだった。このことが「知の編集工学」の大きなヒントになった。

≪013≫  言説編成体などというと、おおげさな名称のように見えるが、言説を形づくり、それを収めるための様式性や模式性のことだとおもえばよい。たとえば、「免疫は非自己によって自己をつくる」という科学者の言説があったとする。どこかでこの文章を読んで気にいった者がこの文章を自分の話や著述に引用した。それを聞いていたり読んだりした者が、また別の文脈の中でその文章を使う。それがまた次の文脈に組みこまれる。こうして、一つのエノンセは次々に新たなエノンセをえて、場合によってはまったく異なる文脈のなかに入っていく。

≪014≫  いま、新たな者がこの最後の文脈のなかの「免疫はときに非自己によって自己という内なるシンボルをつくる」と変化した文章を読んだとき、その背景をすべて知ることは不可能であろう。歴史のなかの知識や情報というものはほぼこのように「なってしまった状態」にあると見るべきなのである。では、どうすれば歴史の中から当時のエノンセの動向を取り出せるのか。

≪015≫  編集の仕事では、先行する知識や情報や現象を相手にすることが多い。ただし先行しているものは世の中に数かぎりなく待っている。学問の中にも溜まっている。そのため、いくつものフィルターをつかって対象情報を粗選りしたり、イメージサークルを絞ったり(広げたり)、大小の分類をしたりする。

≪016≫  このとき、既存の分類にもとづいていると、新たな展望に至らない。「集め方」と「分け方」そのものに攪拌センスが必要になる。編集力は分類の組みなおしにかかっているのである。

≪017≫ こうして知識や情報がニューマッピングされ、束ねられていくのだが、ここで止めてはいけない。新しいマッピングによって、それまでは既存の分類函にいた知的情報が新たに隣りあわせになったり、向かいあわせになったりする。この「引きあわせ方」に注目することこそ重要な編集なのである。マラルメの骰子が振られ、カイヨワのナナメが動き、ときにヴィトゲンシュタインの言語ゲームが進行して、ベンヤミンのパサージュの取り合わせが変化する。

≪018≫  フーコーはこれらの作業を歴史の中でやってのけ、エノンセの取り合わせに解読すべき意図を見いだした。こんなふうに書いている。「形成=編成の諸規則の考古学的分岐は、画一的に同時的な一つの網ではなく、時間について中性的なさまざまな関係・枝脈・派生が存在する」。中村雄二郎の難しすぎる翻訳だが、ここで「中性的な関係が派生する」というところが、すこぶる編集的なのである。

≪019≫  フーコーが『知の考古学』を書いたのは一九六九年だった。四三歳である。もともとフーコーは医者の息子だった。そこそこ医療は好きだったようだが、師範学校時代にマルクス主義者のルイ・アルチュセールの指導を受けた。

≪020≫  それもあって二四歳でフランス共産党に入党し、リール大学で心理学担当の助手をへて精神疾患の研究にとりくんでいた。それからスウェーデンに飛んでウプサラ大学、ポーランドのワルシャワ大学をへて、その間の思索研究の成果を『精神疾患とパーソナリティ』(一九五四 ちくま学芸文庫)、および『狂気の歴史』(一九六一 新潮社)に著した。

≪021≫  これらの活動をしているあいだずっと、フーコーは「狂気」という独得のエノンセがまきちらした記録をいったいどのように歴史としてとらえたらいいのかという問題に直面していた。資料の中で「狂気」がいろいろな使われ方をしていたのだ。そこでフーコーは、狂気の記録は記録の狂気かどうかということをずっと考えた。

≪022≫  三六歳のときジル・ドゥルーズと知りあい、その引きもあってクレルモン・フェラン大学の心理学教授となった。

≪023≫  ここでフーコーはこれまでの視点をちょっと変えて、『レーモン・ルーセル』(一九六三 法政大学出版局)では一人の奔放だが屈折した文学者の複雑なテキストからそこにひそむ構造をさぐり、『言葉と物』(一九六六 新潮社)では古典主義時代の「知」の構造化を試みた。そこへチュニス大学に転籍する話が入ってきた。

≪024≫  大学を移ったちょうどそのとき、パリのカルチェ・ラタンに火が噴いた。五月革命である。学生たちと警官隊は激突し、大学は次々に封鎖された。学生を支援することを決意したフーコーは、紛争後に外務省からチュニス大学を放逐され、ヴァンセンヌ大学の哲学科に転職する。『知の考古学』を著したのはその直後の時期にあたっている。フーコーは仕切り直すことにする。エノンセを歴史の中から取り出す方法の解発に向かった。そして知的情報の「中性的派生」に気がついたのである。

≪025≫  おそらくはエイズが原因で一九八四年に五八歳で死んだフーコーの思想をふりかえってみると、いっさいの「自己の領分」を見出そうとしない思想を貫いたことがよくわかる。

≪026≫  フーコーは主体というものの「外」に立ちたかった思想家だったのである。べつの言い方をすれば虚偽の主体や権威の主体の介入を認めたがらなかった。近代以降の社会を呪縛しているのは主体の過剰な根拠化にほかならないことを見抜いていたのだ。

≪027≫  まとめていえば、人間というものはおおむね次のような主体化の軸に頼りがちになると考えた。
(1)医学や人文科学のなかでの人間の主体化(これは「真理との関係」で主体化を強化した)
(2)狂気や病気や犯罪を排除しようとしておこなわれる主体化(いわば「権力との関係」における主体化だ)
(3)性的な欲望を通して試みられる主体化(すなわち「道徳との関係」における主体化とみなせよう)

≪028≫  これらはいずれも、何かに隷属的になりたがる主体性である。では、こういう従属的主体をどうしたら「生の様式」に引き戻せるか。それも「知」をつかって、どうするか。フーコーはそれには、従来のものではない「思考の場」のようなものが必要だと考えた。のちに「エピステーメー」(知の枠組)とよばれたもので、あえて図式的にいえば「コード化された知」と「つねに反映的な知」とのあいだにリミナルに、かつ多岐的に広がる「場」のようなものだ。フーコーはこのエピステーメーに向かって知を解放したかったのだが、意外にも手こずっていく。

≪029≫  エピステーメー(epistēmē)という用語は、古代ギリシアではドクサ(臆見)に対して学知的に切り込んでいく認識力のことをさしていた。ラテン語ではスキエンティア(scientia)という。スキエンティアは「サイエンス」(science)の語源になる。

≪030≫  だからもともとのエピステーメーは学知的認識力一般のこと、ときには科学知のことだったのだが、フーコーはここに新たな知的冒険を加え、時代や領域研究に「思考の場」(思考の台座)をもたらす相互連関性を発見していくことがエピステーメーの真骨頂だとみなしたのである。

≪031≫  そうだとすると、これは科学知や哲学知が安易に共通させたがってきた「合理」(ratio)などに代わる動的な知の枠組なのである。マラルメの骰子やヴィトゲンシュタインの言語ゲームやベンヤミンのパサージュやカイヨワの対角線が動いても、なおそこに見出せるエピステーメーである。

≪032≫  エピステーメーの枠組を確定する試みは、ついに『言葉と物』で実験された。「人文科学の考古学」というサブタイトルがつく。ぼくがいちばんおもしろがった著作であるが、一般には『知の考古学』とともにたいていの読者が面食らう錯綜感があるらしい。

≪033≫  『言葉と物』で主として抽出されたのは、十六世紀のルネサンス後期のエピステーメー(ドン・キホーテの悲劇の問題)、十七世紀後半からの古典主義のエピステーメー(ベラスケスの表象の問題)、十八世紀以降の近代のエピステーメー(科学からサドにおよぶ問題)である。

≪034≫  フーコーはこれらの時代に特有なエピステーメーから、「類似」(適合の類似、模倣の類似、対比の類似、共感の類似)、「タブロー」(情報が一覧できる表)、「標識」(外徴・概念・関係であらわされるもの)といった特質をたくみに取り出して、これらを今日的につなぐにはどうすればよいかを明らかにしてみせた。

≪035≫  すばらしい手際だった。たしかに「類似」と「図表」と「標識」の三つが揃えば、たいていの情報は知の枠組に取りこめるし、そのなかでの動的な関連も示すことができるはずだ。

≪036≫  ただ、ひとつ難点があった。それは、これらのエピステーメーが歴史的にも主題的にも不連続でありながら、メタレベルあるいは方法的には連続しているということを、さてどのように説明しきればよいかということだ。

≪037≫  いいかえれば、それらの知はわれわれがリンクを付したから関連したのか、そもそもリンクしていたのかの区別がつきにくい。ぼくの見方でいえば、その相互にわたる編集方法のしくみが突きとめにくかったのである。

≪038≫  しかしフーコーは『言葉と物』では、この方法論的な気づきを禁欲したままに叙述をおえた。ぼくにはこの禁欲こそがおもしろかったのであるが、世評は冷たかった。たとえば映画監督ゴダールは、「ぼくがフーコーを好きになれないのは、この時代は人はこのように考え、ある時期からはこのように考えるようになるといったことばかりを言うからだ」と揶揄してみせた。矜持が高いフーコーにとって、こうした批判は我慢がならなかったようだ。

≪039≫  かくてフーコーはその「方法」の提案に取り組むことを決意する。それが「知の考古学」という方法なのである。

≪040≫  「知の考古学」には、編集工学的な方法と重なるところがいくつもある。似ていないところもいくつもある。すでにのべたように、知の構造にアルシーブ(アーカイブ)を下敷きにしようとしているところは共通する。

≪041≫  そもそもフーコーは大の図書館好きで、知の構造は図書館や文書館によってこそ象徴されるべきだという見方をもっていた。この点では編集工学はフーコーと完全に一致する。「言説編成体」という掴まえ方にも近いものがある。編集工学ではしばしば「エディトリアル・オーケストレーション」という言葉をつかってきた。その言説編成体を構成する単位をエノンセやディスコースに見るのも、大筋は共通点があるのだが、ここには少し違いもある。

≪042≫  編集工学では言説というより「情報」という掴まえ方をする。情報はむろん言説も含むけれど、そこには宇宙の熱力学的情報も自然の生態的情報も入ってくるし、仕草も調度の置きかたもメロディやリズムも入っている。しかも、その情報を認知しようとするときの手続きや道具性(さらに知に対するアフォーダンス)も知の構造の範囲に入る。そのほか、あれこれの見方の違いがあるのだが、それをこえて『知の考古学』こそはぼくに勇気をもたらした一冊だった。それは、一言でいえば「方法は思想である」ということ、そのことを声高らかに言ってもいいのだという勇気である。

≪043≫  しかし、ぼくは「方法は思想である」を、フーコーに沿ってつくりはしなかった。ぼくはヨーロッパ人ではなく日本人であり、そうであるがゆえにフーコーの提案している方法があからさまな「ヨーロッパという方法」であることがよく見えた。ぼくはこれに対してあくまで「日本という方法」を思索したかった。

≪044≫  フーコーの「知」は一から十までがヨーロッパの知で埋め尽くされている。フーコーはその知を「ヨーロッパという方法」としての知に変えようとした。その試みの大半は、その後のフーコー・ブームを見ればわかるように、大きな影響力をもった。

≪045≫  実は「遊」第Ⅱ期を編集していたころに、さかんに「松岡さんの考え方はかなりフーコーに似ている。けれど、どこかが違う。その違いがうまく説明できない」と、各方面から言われていたことがあった。一番にそのことを言ってきたのは山口昌男さんと中村雄二郎さんだった。しかし、当時のぼくはフーコーをそれほど熱心に読もうとはしていなかった。それというのも、たいした理由ではないのだが、当時は「エピステーメー」という雑誌が登場してきて、それを「遊」と同じく杉浦康平がデザインをしていたのだが(「遊」は表紙まわりだけが杉浦さんだったが、「エピステーメー」は全面的に杉浦アトリエがデザインをしていた)、このような場面ではエピステーメー議論の本拠地であるフーコーやその周辺に、すぐ浮気をするわけにはいかなかったのである。

≪046≫  もっとも、「遊」と「エピステーメー」がいつまでも対立構造のなかにあるのもつまらないと思って、あるとき二誌の合同編集号をつくって、表1から読むと「遊」、表4から読むと「エピステーメー」になるような、〝遊ピステーメー〟を編集制作してみようよと提案してみたのだが、杉浦さんはすぐに賛成したけれど、「エピステーメー」の中野幹隆君はまったく靡いてこなかった。

≪047≫  そういう事情はともかくとして、その後、フーコーを読むようになったことと、ぼくが日本の歴史思想や芸術文化に深く分け入ることが一緒の時期になり、少しずつフーコーの方法とぼくの方法との違いが見えてきた。それはヨーロッパの歴史思想と日本の文化趣向の違いから来ていた。

≪048≫  ヨーロッパは「神」と「理性」の確立を通して、すべての合理と不合理の知を渉猟してきた巨大な領域である。フーコーはそういうヨーロッパの歴史観を、新たな「方法」によって批判したかった。それに対して、知の構築をしそこねてきた日本にそのままフーコーの方法をあてはめられるかどうか。「遊」をつくりながら、ぼくはそのへんのことを模索していた。

≪049≫  ふりかえって日本は古代から近世にいたるまで、「神」や「理性」を合理として確立してこなかった。神と仏は早くから神仏習合していたし、絶対王権は持続的に確立しない。自然科学や数学的な方法も開発してこなかった。日本は「知」を意識しないか、あるいは「知」を意識できないままに過ごしてきたのである。

≪050≫  けれども、フーコーの言う「類似」や「図表」や「標識」については、それをこそ文化の方法として磨いてきた。エノンセも自在につかってきた。和歌や連歌での、枕詞、縁語、見立て、本歌取り、付句、去嫌い、歌合わせは、エノンセの継続的再編成そのものだ。そうだとすると、日本には、知の歴史の編集や脱構築のためにフーコーの方法がそのまま適用されるのではなく、日本そのものの方法、すなわち「日本という方法」をフーコー的に掬いとることのほうがよさそうなのである。ぼくは「遊」を編集しながら、「呼吸+歌謡曲」「タオ+北斗七星」「仏教する」「日本する」などでそんな試みのほうに向かっていった。

≪051≫  
いま、『知の考古学』を読んだころのことを思い出してみると、フーコーからヨーロッパを差っ引いて読もうとしていた自分が思い出される。

≪052≫  ぼくがパリのフーコーの家を訪れたのは一九七八年のことである。スキンヘッドのフーコーは白いとっくりのセーターを着ていた。精悍で、笑顔がめちゃくちゃ魅力的だった。ただし通訳を頼んだS君のフランス語ではぼくの考え方がほとんど通じなかったため、当初予定していたインタビューはあきらめ、われわれは雑談に興じた。

≪053≫  やがてフーコーはぼくを誘ってどこかへ遊びに行こうと言い出した。ぼくがどうしようかとまごまごしていると、フーコーは「みんな一緒なんだよ」と言って、別室に声をかけた。このとき記憶にまちがいがなければ別室から出てきた男ばかり数人のうちに、かの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(集英社)のエルヴェ・ギベールが交じっていた。浅黒い褐色の男もいた。

≪054≫  それで、威勢よくみんなで出掛けようということになったのだが、S君がその勢いに押されたのか、ヤバイと感じたのか、時間がないと言い出した。S君がいなければ雑談もできないぼくは、これで諦めた。もし、あのまま遊びに行っていたら、どうなっていたか。そこは当然にゲイの溜まり場のようなところだろうし、そこで何がおこっていてもおかしくなかっただろうから、ぼくのその後はどうなっていたかはわからない。

≪055≫  この話をすると、みんながみんな「へえ、そうだったんですか。それは危なかったですね」と言う。そうなのかもしれない。しかしその一方で、このような局面がありうるという立場によって、すなわち「男たちの真の友情」とはどのようなものなのかという立場によってフーコーを見ることも、ますます重要になっているようにも思われた。

≪056≫  フーコーは多くの男たちと「真の友情」を結んだのだったろう。たとえば教員試験仲間のジャン゠ポール・アロン、作曲家のジャン・バラケ、映画作家のエリック゠ミハエル・ニルソン、そしてロラン・バルトとも愛しあい、別れた。そのなかで若いエルヴェ・ギベールは、フーコーのそうした「真の友情」がときにそうとう乱れたものになっていたことを暴きもした。しかし、フーコーのそうしたゲイの日々はいまこそ読み替えられるべきである。

≪057≫  フーコーの最後の大きな著作は『性の歴史』三部作(新潮社)となった。そこでは、一言でいえば「自己からの離脱」が謳われている。その三部作が綴られている最中の一九八〇年、ロラン・バルトが自動車事故で死に、師のルイ・アルチュセールが妻を絞殺して精神科病院に収容された。フーコーはそれらのことについても、自身のゲイの日々のことについても、なんら詳しいことを書かなかったけれど、四年後の死の直前に綴った『自己への配慮』(『性の歴史』Ⅲ)を読むと、そこからは深々と男のフラジリティともいうべきものが伝わってくる。

≪058≫  最後に加えておきたいことがある。フーコーは自分の仕事のすべては「知の道具箱」をつくることだったと言っていたということだ。その道具を、みんなで使ってくれればそれでいいんだと思っていたということだ。そういうミシェル・フーコーがいまとなっては格別にいとおしい。せめてアーカイブ(アルシーブ)を継ぐばかりである。 

≪01≫  勝海舟は明治32年まで生きていた。西郷・大久保が倒れ、帝国議会が生まれ、日本が日清戦争に勝って三国干渉で屈辱にまみれていたところまで見ていた。 

≪02≫  晩年は赤坂にいた。明治5年に静岡から戻ってずっといたのだから、25年も棲んでいたことになる。氷川である。松岡正剛事務所と編集工学研究所は赤坂稲荷坂に越してからは、毎年正月を氷川神社に挙って初詣をすることにしているのだが、その氷川神社のそばに寓居した。77歳で亡くなった。 

≪03≫  幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男は海舟しかいなかったから、その氷川の寓居には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで「氷川清話」という。 

≪04≫  新聞連載を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名だが、そのほかに巌本善治の『海舟余波』もある。子母沢寛や司馬遼太郎も海舟を描いて存分ではあるが、本人の言葉だけでできている清話は、もっと格別である。 

≪05≫  話は、自分が「海舟」という号をおもいついたのは佐久間象山が「海舟書屋」と書いたのを見て、それがよくできていたからだったというところから始まり、咸臨丸による渡航ののち浦賀に着いたとき、桜田門の変があったと聞いた瞬間に、これはとても幕府はもたないと見たというように進んでいく。  

≪06≫  なるほどそうかと思わせるのは、幕末維新で「広い天下におれに賛成する者なんて一人もいなかった」というくだりで、海舟はそういうときは「道」という一文字を思い描いて、ひたすら自分で自分を殺すまいと誓っていたらしい。その海舟の気持ちをわずかに理解していたのは山岡鉄舟くらいのものだったという。  

≪07≫  それから人物論に入っていく。おそらく聞き手があの人はどうでした、この人はどんなもんですかと聞いたからであろうが、海舟は大人物というのは百年に一人現れたらいいほうで、いまの御時世からするとあと二百年か三百年のちになるだろうというような見識なので、容易に人物批評はしない。  

≪08≫  なかで、「いままでに天下で恐ろしい人物がいるものだ」とおもったのが二人いて、それは横井小楠と西郷隆盛だという。小楠は他人には悟られない人物で、その臨機応変は只者でなく、どんなときも凝滞がない。つまり「活理」というものがあった。南洲はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩く度合いでしか動かない。  

≪09≫  それにくらべると、藤田東湖などは国をおもう赤心がこれっぽっちもなく、木戸孝允は綿密なだけで人物は小さく小栗上野介は計略には富んでいたものの度量が狭かった。榎本武揚や大鳥圭介なんてのはただのムキになるだけの連中だ。

 

≪010≫  そんな忖度のついでに、山内容堂には洒落があったから英雄になれたのではないか、近江商人は芭蕉の心を生かしている、芸者や職人と付き合えない奴はなにほどでもない、おれが放免してやった泥棒たちの話に時代を読めるものがひそんでいたねえ、などという炯眼キラリと光る雑談がまじっていく。 

≪011≫  海舟は「時勢が人をつくる」という見方を徹している。また、今日の時代(明治後半)は「不権衡」であるとみなしている。不権衡とは不釣合いという意味で、バランスがないということ、こんなときに何を焦ってもうまくはいかないというのだ。 

≪012≫  このあたりの清話はまさに政談で、今日の日本の政治家や経済学者にもよく聞かせたい。こういうことを言っている。 政治家の秘訣は何もない。知行合一をはかるだけである。ただ、国家というものは、1個人の100年が国家の1年くらいにあたるから、この時間の読みをまちがえてはいけない。内政については地方をよく見るべきで、昔なら甲州・尾張・小田原だ。そこに秘訣が潜んでいた。 

≪013≫  外交は、いったい誰が外交をするかということが重要で、その外交にあたった者はともかくいっさいの邪念を捨てて臨む。明鏡止水の心境をもたなければいけない。しかし、ひとつだけ外交の秘訣をいえば、それは「彼をもって彼を制する」ということだ。 

≪014≫  それから外国に安易に借金をしないこと、軍備を拡張しすぎないことである。軍備がなければ国は守れないが、軍艦ひとつ1マイル走らせれば1000両かかるのだから、よくよく気をつける必要がある。逆に軍備縮小については、これを吹聴してはならない。軍事はあんなに重装備のものだが、実は呼吸なのである。 

≪015≫  海舟の政談はまだ続く。 問題は経済で、と言う。たしかに経済がいちばんややこしい。しかし最初にはっきり言えるのは、まずもって経済学者の言うことなんて聞かないことだ。政治家が経済学者の言葉に耳を傾けるようになったら、おわりだというのである。そのうえで、言う。だいたい「日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはない」。理屈では何も変わらない、それが経済だ。人気と勢力がすべてをゆっくり変えていく。 

≪016≫  ただし、「然諾」(約束)というものだけは守らなくちゃいけない。この、経済の然諾を何にするかというのが難しい。人民が喜ぶからといって、おいしいこと、いいことばかりを最初に約束してしまっては、あとが困る。大切なのは根気と時機(施策のタイミング)なのである。 

≪017≫  海舟は実は経済施策につねに関心をもってきた。関心があるだけではなく、実際にもいくつもの手を打っている。 

≪018≫  金の配分にも絶妙なところがあって、いつもタイミングをずらしている。もともと海舟には貨幣とか通貨というものに国家の秘密を嗅いでいるようなところがある。『全国貨幣総数大略』などという著述があるほどなのだ。   

≪019≫  けれどもその一方で、経済の本当の活性化は、「待合や料理屋や踊りの師匠や三味線の師匠たちを繁盛させられるかどうか、そこにかかっているのだ」という。これはかなりの卓見である。江戸本所に生まれて赤坂に死んだ江戸っ子気質が言わしめたとは片付けられないものがある。実際にも、幕末の江戸の経済のため、海舟はそういった連中にお金をまわすのを忘れなかった。そのため、江戸は幕府倒壊の渦中ですら、おおいに繁盛していたのである。 

≪020≫  海舟は行政改革や地方自治についても発言をしている。 行革をやるのはいいが、その方針がたったからといって何もできはしない。ケチな連中を相手の行革なのだから、そのケチにケチを言わせないようにやらなければならない。方針なんてお題目で、それはそれで措いておきなさいというのだ。「それより改革者が自分を改革していることを見せるのが一番の行革なんだ」。 



≪022≫  もうひとつ注告がある。それは政治家はめったに宗教に手を出さないことだ。これはとんでもない大事をひきおこす。それこそ「祟り」が返ってきかねない。そんなことも言う。 

≪021≫

 もうひとつ、猟官を出さないこと、出したら取締まること、これである。 地方自治の問題だって、いまさら珍しい名目じゃない。徳川を見なさい、すべては地方自治だった。それを真似ろとはいわないが、上からの地方自治をいくら提案したってダメだろう。名主とか五人組とか自身番とか火の番とか、かつての工夫があったように、そういう工夫をもっと大きな仕組みで提案したほうがいい。 

≪023≫  こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。 

≪024≫  おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。 

≪025≫  そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。 

≪026≫  この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった。 かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。 

心とは何かということを説明するには、むしろ「心でないもの」が心になっていくしくみを説明するほうがよい。
その「心でないもの」をミンスキーは「エージェント」(agent)とよんだ。 

≪01≫  心とは何かということを説明するには、むしろ「心でないもの」が心になっていくしくみを説明するほうがよい。その「心でないもの」をミンスキーは「エージェント」(agent)とよんだ。 

≪02≫  カップを取って紅茶を飲みたいときは、掴むことを受けもつエージェントはカップを掴もうとし、平衡をとるエージェントは紅茶をこぼさないようにし、喉の渇きをうけもつエージェントは紅茶の温かい液体の潤いを想像し、手を動かすエージェントは口もとにカップを持っていこうとする。 

≪03≫  紅茶を飲むという行為には、これをロボットの動きの設計に移すとすぐわかるのだが、おそらく一〇〇回ほどのプロセスが動く。そのプロセスのひとつひとつにエージェントがあるわけではないが、人間の心の動きが適切なパターンを伴うには、いずれにしてもかなり多くのエージェントが連動してインタラクティブにはたらくのだろうと想定できる。重要なことは、その一つずつのエージェントには知能はないということである。しかし、いくつものエージェントが組み合わさっていくうちに知能や心が生じていくらしい。ミンスキーの言う心とは、おおむね「知能をもった心」といった意味である。本能的なものや動物的な反応は対象にしていない。 

≪04≫  マーヴィン・ミンスキーは早くから認知科学界のレジェンドだった。専攻はハーバードとプリンストンで学んだ数学だが、一九五七年にMITに来て、コンピュータ科学と人工知能研究のための研究所を創設すると、この分野のリーダーとなった。 

≪06≫  初期の開発としては、世界初のヘッドマウント型のGUIや共焦点顕微鏡があるけれど、シーモア・パパートと組んだLOGO(簡易プログラミング言語)やニューラル・ネットワークの解析回路を応用した「パーセプトロン」が話題を呼んだ。ぼくがいっとき夢中になったものだ。 

≪05≫  これで認知科学や人工知能が記念すべき産声をあげた。クロード・シャノンやハーバート・サイモンらが参加した有名なダートマス会議(一九五六)は、この研究所のための進軍ラッパのようなものだった。 

≪07≫  七〇年代に入って、ミンスキーとパパートは一挙に「心の社会」理論の組み立てに傾注した。これらの動向を見ていたアイザック・アシモフは「自分が出会った人物のなかで自分より聡明な者が、二人いた。一人はマーヴィン・ミンスキー、もう一人はカール・セーガンだ」と言った。よほどめざましかったのである。 

≪08≫  心を構成しているだろう「心でないもの」たちがエージェントとして動いているとして、たくさんのエージェントがあるだけでは心や知能は生じない。そこで「心の社会」理論は、こんなふうなことを推測した。 

≪09≫  第一にはエージェントにはきっといくつかの階層があるにちがいない。そこでは、下位のエージェントの動きが上位のエージェントに伝えられていく。その階層をまたぐたびに「意味」が見えるのだろう。 

≪10≫  第二に、エージェントは自分が何をしているかを知らないという性質をもっているのだろうけれど、そこに「自分が何をしているかを知っているエージェンシー」が組み合わさる必要がある。そのエージェンシーがどこに待ち伏せているかを突きとめるのは容易ではないが、もしそのようなエージェンシーがないと、われわれは自分が何をしているのかとか、何を考えているのかという自覚をすることがないはずだ。 

≪11≫  第三に、これらのしくみが動くうちに、おそらく仮りの「自己」のようなものが設定されるのだろう。しかし、心を探究するにあたって、この「自己」を探究してしまうことは避けなければなるまい。なぜなら、この「自己」はあくまで仮設的なもので、それによってエージェントのしくみが作動するための蝶番のような役割をはたしているにちがいないからだ。生物物理学における自己組織化理論やオートポイエーシス理論において想定された「自己」が思いあわされる。  

≪12≫  第四に、エージェントには考えを推進するためのエージェントばかりでなく、何を考えないようにしようとか(押さえ込み)、これまで考えてきたことはこれでいいのだろうかとか(点検)というような、つまりは「抑制のエージェント」や「検閲のエージェント」があるはずである。このことは従来の脳科学や心の理論では看過されてきた。 

≪13≫  第五に、これらのエージェントは「階層」や「自己」や「抑制」や「検閲」などの機能をフル動員しながらも、何かそのような進み方(これをミンスキーはKラインとよぶ)をすればいいのだという確信をもてるような“報酬”を受けられるようになっているのではないかと推測できる。すなわち、心というものは、つねに「もっとの社会」(Society of More)をめざしているにちがいない。 

≪14≫  このような説明をしておいたうえで、ミンスキーは(パパートも)「われわれはどのように心をつかって何かを考えようとしているのか」という複雑な課題に少しずつ向かっていった。心がどういうメカニズムをもっているかではなく、すでに機能しているであろう心をつかって、われわれは何ができるようになっているのか、そのことに向かったのである。 

≪015≫  本書が、いまだ人工知能の夢が潰えていないころの試みであることは、読んでいるとよくわかる。ミンスキーの指図にしたがって自分の思索の手続きが順番に見えてくる。つまりは、本書はデキのよい心理小説の構成プランを読んでいるような気分になれるのだ。ぼくはその特徴がよくあらわれていることに感心した。 

≪016≫  そのような特徴をもったことについては、おそらくもうひとつ理由がある。ミンスキーは心の社会の成立の仕方を「世界↓感覚↓知覚↓認識↓認知」というふうに順次的に見るのではなく、むしろ「感覚↓“記述”↓期待」というふうに見ようとしているからだ。人間というものが脳の中で何をいちいち記述しているのか、ミンスキーはあえてそこに集中して本書を構成プラン的に記述した。シナリオをあかし、ト書や場面転換の特徴や衣裳のことも書きこんだ。小説や映画を構成している監督のような気分で本書が読めるのは、そういうせいなのだ。 

≪017≫  そういう本書を読んで影響をうけたことがいくつかあるのだが、ミンスキーがノームとニームという用語(道具)を巧みにつかって思考のなかで動く情報の機能を説明したことに感心した。 

≪018≫  心は「心でないもの」をエージェントにしている。「心でないもの」をいろいろ組み合わせて「心っぽいもの」を構成している。これがミンスキーの仮説の根幹にある見方なのである。 

≪020≫  ノーム(nome)というのは、その情報を出力したときに一定のエージェントに決められた反応をおこさせるようになっている仕掛けのことをいう。いわば連絡係だ。この連絡係は知能のためのちょっとした制度化を受けもっている。  

≪019≫  エージェントには複数のエージェントがあって、それぞれが「どの情報をどのように処理するか」という役割をもっている。ただし、各エージェントがうまく動くには、各エージェントが扱う情報に「かたち」や「向き」や「性質」を用意する仕掛けが必要になる。その代表的な仕掛けがノームやニームなのである。 


≪021≫  これに対してニーム(neme)は、その情報の出力によって心のなかの状態がばらばらではあっても、とりあえずは断片的に表現できるようにする仕掛けをいう。まだ十全な知の組み立てができていなくとも、とりあえずの“試し運転”ができるようにする仕掛けである。このニームの役割をどのように見るかということについて、当時のぼくも刺激を受けながらあれこれ仮説をめぐらしたものだった。ミンスキーはニームの役割に、さらにいくつかのサブ機能が分担されていると見た。 

≪022≫  そもそもひとつながりの情報や知識は、われわれの意識の奥ではつねに多様なエージェントに分配されている。 たとえば「リンゴ」という情報は、色、形、おいしさ、故事、それにまつわる体験の記憶といったいくつもの情報断片としてそれぞれのスタック(棚)に分配されていて、それぞれのエージェントの管理に任されている。そこで、われわれが「リンゴ」と聞いたときは、これらのエージェントたちはほぼ同時に起動する。ということは、このように多くのエージェントを同時に動かす多発型の発信点のようなものが、きっとわれわれのどこかにあるはずなのである。ミンスキーはそういう発信点にあたるものを「ポリニーム」とよんだ。 

≪024≫  ミンスキーもそのことが気になるとみえ、ある情報の文脈がわれわれの前を通りすぎていくときに、われわれがたくみに何かを手掛かりにポリニームを発見したりわざと出没させないようにしているのは、きっと何かの兆候を見きわめる小エージェントの機能もあるのだろうと見て、それを「ミクロニーム」とよんだ。ミクロニームは偵察的な役割なのである。 

≪023≫  ポリニームは相手先に確認通信を送る役割をもつ。かんたんなコンファームをする。たとえば「天文学者はスターと結婚した」という文章を聞いたときは、一瞬だけだろうが、スターという言葉が星をめぐるスタックにも配信されているのだということを思い出す。ついで、この迷いを早々に打ち消していく。そういう役割だ。問題はこのようなポリニームが何をきっかけに突出し、逆にポリニームなどを気にしないで思考できるようになるかということである。 

≪025≫  これらはおもしろい見方だったけれど、このようにニームを分割してしだいに小さくしていくと考えたのは、ミンスキーの失敗だった。ニームはそこにもっと小さなニームをもっているのではなく、むしろなんらかの脈絡でトポグラフィックにネットワークされているはずなのだ。 

≪026≫  ところでノームについで、ミンスキーが「プロノーム」(pronome)を提案したのは、ぼくが編集工学を組み上げるにあたっての大きなヒントになった。 

≪027≫  プロノームは、われわれが喋ったり考えたりするときに、心のなかでいままさに活性化しつつある“あの流れ”をうまく取り出すために、何か一時的につかまっている思考の手摺りのようなものをいう。バレリーナが練習をするときに掴む鏡の前の手摺りバーのようなもの、それがプロノームなのだ。 

≪028≫  たしかにわれわれは、何をしているときも何を考えているときも、いろいろなプロノームを使っている。どんなプロノームを使えているかが、思索のちがいをもたらすといってもよいくらいだ。おそらくは跳び箱のようなプロノーム、吊り輪のようなプロノーム、自転車のハンドルのようなプロノーム、そういうものがいくつもあるのであろう。編集工学においても、手摺りとしてのプロノームをどのように独自につくりあげていくかというのが重要になった。 

≪029≫  ノームやニームとはべつに、もうひとつ印象に残ったのは「割り込み」(interruption)ということである。 われわれはあることを考えていても、誰かとある話をしているときも、それをいったん中断して、異なる注意を喚起させたり思考したりすることができる。そしてまた、元の思考に戻ることができる。これが「割り込み」だ。  

≪031≫  われわれはどんな言葉を喋っているときも、何かを考えているときも、実は多様な「言い換えの分岐ネットワーク」の渦中を進んでいるのであって、つまりスイッチをいろいろ入れながら言い換えの枝分かれのうちの一つを選択しているわけなのであって、いざというときは、そのネットワークの枝を別の枝が観察できるようになっているはずなのだ。ここでは説明しないが(詳しくは『知の編集工学』を読んでもらいたい)、ぼくはこのAの枝をBの枝から見るというエクササイズをかなり徹底してやってみたことがある。それで気づいたのは、アタマの中のA視点とB視点の相互関係を観察するのは、そんなに困難なものではないということだった。 

≪030≫  なぜ「割り込み」がおこせるかということは、一つの考えの流れを別の流れが観察しているということを暗示する。あたかも話し中の電話を保留して、回線を変えて別の話をし、また戻るようなものなのだが、われわれの脳のなかでは、その回線どうしが何らかの観察関係にある。ミンスキーはこの「割り込み」が各民族の言語に代名詞を発達させたのではないかと推理している。そうでもあろう。  

≪032≫ 

 つまり、われわれは「割り込み」ができるのではなく、もともと「割り込み」のような分岐性によって思考や認識をしているというべきなのである。
これを一言でいうのなら、思考というものは――「心は」と言ってもいいのだが――割れ目からできている、ということなのである。
ミンスキーは、遠いリヒテンベルクや寺田寅彦とつながっていたわけなのである。 

≪01≫  ビリビリビリ‥。リヒテンベルク図形はぼくの青春図形である。科学雑誌や図鑑にガラスに生じた電気放電や植物の根っこや稲妻などのリヒテンベルク図形の写真がちょっとでもが載っていると、一枚破いて壁に貼ったり、きっちりハサミで切り取って手元の大判ノートにスクラップした。見るたびにどぎまぎした。 

≪02≫  ガラスや樹脂やエボナイトなどの非導電性の板の表面に、電気が通る鋭い針をあてると、みごとな放射状の放電パターンができる。これがリヒテンベルク図形だ。1777年にゲオルグ・クリストフ・リヒテンベルクがゲッティンゲンの実験室の中で発見した。静電誘導で高電圧の電気を発生するつもりで直径2メートルの巨大な電気盆をつくり、絶縁体の表面に高電圧点を放電したところ、劇的な放射状パターンが生じたのである。 

≪03≫  チリチリチリ‥。リヒテンベルクはこの表面にさまざまな粉末材料をふりかけ、白紙にこれを押し付けることで図形像を転写させた。この転写の技術は今日のゼログラフィの基本原理にあたっていた。 

≪04≫  リヒテンベルク図形は電気の放電現象の転写だから、自然界では稲妻のパターンに代表されるけれど、そこには、エネルギーが一点突破して周囲に網状に拡がろうとする形状原理があらわれている。だからそれに似たパターンは自然界や生物界にはいろいろある。植物の葉脈、血管ネットワークの形状、脳の神経網、みんなリヒテンベルク図形に見えてくる。 

≪05≫  寺田寅彦(660夜)が「割れ目」に関心を寄せたのも、リヒテンベルク図形がトラ猫やシマウマの模様にもあてはまると思ったからだ。実際のリヒテンベルク図形にはフラクタルな相似性がひそむ。 

≪06≫  バリバリバリ‥‥。リヒテンベルク図形はのちに「遊」の相似律特集号を飾った。ぼくの相似律好みはリヒテンベルク図形から始まったのだ。 

≪07≫  ゲオルグ・リヒテンベルクは実験物理学を得意としたドイツの科学者だ。1775年にゲッティンゲン大学の物理学教授となると、ユニークな実験の取り組みと成果によって、たちまちその名声がヨーロッパに広まった。電池を発明したボルタ、数学者のガウス、銀河天文学のハーシェルが噂を聞き付けて、リヒテンベルクの講義を聴きにきたか、会いにきた。ゲーテ(970夜)やカントやレッシングとも交流した。  

≪08≫  1742年にダルムシュタットに生まれて1799年に57歳で病没したのだが、名物教授リヒテンベルクの死後、けっこうな分量のノートやメモが遺されているのが発見された。「控え帳」とか「雑記帳」と呼ばれる。本人は“SUdelbücher”と呼んでいた。簿記ノートといった意味だ。  

≪09≫  学生時代からのノートで、亡くなる直前までのメモや文章が残っている。Aが1765年からのもの、Lが最期の一冊だ。ノートは遺族たちが出版した。GとHのノートは紛失されたか、個人事情や関係実名が頻出するため伏せられた。 

≪010≫  この『雑記帳』がまことにおもしろい。おもしろいというより、啓発され、唸らされる。ショーペンハウアー(1164夜)、ニーチェ(1023夜)、トルストイ(580夜)、フロイト(895夜)、マッハ(157夜)、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、ベンヤミン(908夜)らが注目して、昔から「ドイツ・アフォリズムの原点」と称賛されてきた。 

≪011≫  時代は18世紀末、そうとうの激発時代だ。英仏七年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、イギリス産業革命が打ち続き、思想史的には経験哲学からカントをへて、ヴォルテール(251夜)やルソー(663夜)の啓蒙主義が拡張していった時期、科学分野でもキャベンディッシュの電気力学、プリーストリーの酸素研究、ハーシェルの天王星発見、ラグランジュの解析力学、クーロンの法則などが踵を接した。 

≪012≫  リヒテンベルクはゲッティンゲン大学で研究するかたわら、出版人ディーテリヒと懇意になってその館に住んで(印刷所と書店を兼ねた館)、思索に耽り、文筆活動にも勤しんだ。『ゲッティンゲン懐中暦』という雑誌も編集していた。そうしたなか、リヒテンベルク図形と、死後出版されたノートが遺った。 

≪013≫  今回(2018年)、作品社から刊行された本書はその驚くべきノートの、科学実験関係や旅日記などの記述を除いた翻訳版である。これまで筑摩の「世界人生論全集」第12巻ドイツ篇に、国松孝二が『わが箴言』として部分訳したり、池内紀が『リヒテンベルク先生の控え帳』(平凡社ライブラリー)で編訳したりしてきたが、ここまでの全貌(それでもまだ半分以下だろうが)がお目見えするのは初めてだ。 

≪014≫  本書を編訳した宮田眞治は『雑記帳』のノートAからLの片言節句を「自然」「人間」「思考」「宗教」といったふうに主題別に大きく区分けして、その区分けとともにそのつど解説と稠密な注を付した。なにしろドイツ語の原著は1800ページ本が2冊組になるほどの厖大なもの、それを日本版で600ページほどに絞るのだってたいへんな作業だ。どのくらい編訳と解説に時間をかけたのか知らないが、たいへんな労作だ。年表もついている。すばらしい編集だった。お疲れさま。 

≪015≫  リヒテンベルクはたんにノートを執ってきたのではない。アフォリズムになることを意識した。 アフォリズム(Aphorismen)は箴言集とか格言集のこととされているが、たんなる寄せ集めのことではない。哲学史においてはフランシス・ベーコンが称揚した思想表現様式をさす。ベーコンは1620年に『ノヴム・オルガヌム』(新機関)を書いて、アリストテレス(291夜)からスコラ哲学に及んだ論法が硬直してしまったことに文句をつけて、新たな思想表現様式としてアフォリズムに可能性があることを示唆した。1605年の『学問の進歩』においても、アフォリズムは「諸学の神髄からつくられるもの」という見方を提起した。 

≪016≫  推論哲学的にいえば、アフォリズムは演繹的ではなく帰納的である。ベーコンも帰納法を好んだ。しかし、帰納的作業には数多くの事例が必要になる。科学的には観察記録が多ければ多いほどよく、思索的な帰納的作業をするなら、さまざまな自分の思索メモや観察メモや連想メモが大事になる。それらはたいてい「覚え書」(Bemerkungen)として残っていく。 

≪017≫  リヒテンベルクはこの「覚え書」の中に、演繹的な論理説明や哲学的成果を超える「何か」が芽生えていると思ったのだ。そこにアフォリズムならではの力が創発すると思ったのである。 

≪018≫  そんなふうにかなり意図的なアフォリズムなのだが、アフォリズムがどのように確立されてきたかということは、文学史でお茶を濁すように検討されてきただけである。パスカル(762夜)の『パンセ』、モンテーニュ(886夜)の『エセー』などが先行し、これがラ・ロシュフコーの『箴言集』(1664以降)などをへて、しだいに洗練されていったのである。しかし思想史的なアフォリズムの研究は、ほとんど深まっていない。 

≪019≫  それゆえアフォリズムをめぐる思想事情についてはあまり研究書がないのだが、あるとき加納武が『アフォリズムの誕生』(近代文藝社)で少し追いかけた。ぼくも教職をしていた帝塚山学院大学のドイツ文学者だ。加納はリヒテンベルクの『雑記帳』を素材に、それらがのちにニーチェの『人間的、あまりに人間的』などになっていった経緯などにもふれているのだが、そんなに詳しいわけではない。 

≪020≫  これは加納のせいではない。そもそもアフォリズムを議論するのが難しい。大胆で警告に富んだアフォリズムは要約不可能なのである。「すでに要約がおわっている」からだ。そのためどうやって紹介したらいいか、どのように議論していいか、案外の難問なのだ。 

≪021≫  ぼくはエミール・シオラン(23夜・1480夜)のアフォリズムにぞっこんだったので、なんだかんだと感想は書いてきたけれど、アフォリズムという様式が何を旗幟鮮明にしているかということは、まだうまく触れられていない。ついついアフォリズムの紹介はアフォリズムを抜き出すのが一番だということになる。 

≪022≫  というわけで今夜の千夜千冊も、ぼくが気にいった箇所にマーキングをしてあるところから、ごくごく一部を選んで提示するにとどめたい。順番は適当に変えてあるが、ときどき( )内にぼくのコメントを付した。それでは不満だろうから、もっと全容を実感したかったなら、ぜひ一冊まるごとを入手されたい。一家に一冊、リヒテンベルクなのである。グリグリグリ‥。 

≪023≫ 
 K806 「私は考える」ということはできず、「稲妻が光る」と同じように「思考が生じる」と言うべきである。
 A123 ひょっとすると思考が世界のあらゆる運動の根拠なのかもしれない。
 A19 この世のどんな大いなる事象も、我々が気にも留めない別の事象によって生じる。
 A76 いい考えを読んだら、別の主題で似たようなことを考えたり言ったりできないか、試すことができる、そんなときは、別の主題にはこれに似たものが含まれているといわば仮定しているのだ。(→編集術のキホンだ)
 A34 どんな思考にも、それに関連して身体の諸部分がとる独自の配置があり、つねにこの諸部分に付随する。
 D468 メタファー的な言語は、恣意的ではあるが確定された語群から構築される一種の自然言語である。(→このことをIT屋が理解していない)
 F116 メタファーは新たな水路を掘る。一気に突き通ることもしばしばだ。
 A274 我々のメタファーを罵ることなかれ。一つの言語の強い特徴が薄れはじめるとき、メタファーはそれを再び鮮やかにし、全体に生命と体温を与える唯一の手段なのである。
 A276 表現は思想に対してだぶついている。これは本当か? 

≪024≫  リヒテンベルクの箴言は冴えている。なにもかもが冴えているわけではないが、ハッとさせられることが多い。短い片言節句だから冴えているのではない。その片言節句が懐中に抱く思想を、何度でも飛び出しナイフのように連打できるのである。何度でもその懐中の思想ナイフを持ち出せるのだ。 

≪025≫  これは教養から来ている。しかし教養から来てはいるのだが、その中身をプラトンやアリストテレスやデカルトやニュートンの論述まるごとでは語らない。リヒテンベルクが掴まえたエキスだけでナイフを使う。そのナイフは冗長を嫌い、ぐだくだしていないのだ。 

≪026≫  そうなったのは、おそらくリヒテンベルクに「機知」(Witz)と「想像力」(Phantasie)のはたらきについての深い洞察があったためだろうと思う。つまりは「類似性」の作用について圧倒的な確信をもっていたからだろう。リヒテンベルクは史上最初の「アナロジカル・シンキング」の持ち主となったのである。 

≪027≫
 J1620 機知は発見者(ファインダー)であり、悟性は観察者である。
 D332 理解するのに多くの機知が求められる書き方は、特に多くの機知なしでもできる。
 D469 明晰さが拡大鏡だとすると、機知は縮小鏡である。(→編集はその両方をズーミングする)
 J2154 我々が自然のうちに見ているのは言葉ではなく、言葉の最初の数文字でしかない。いよいよ読もうとすると、明らかになるのは、新たないわゆる「言葉」も別の言葉の最初の数文字でしかないということだ。
 J1242 ベーコンのオルガノンはそもそも発見術的な梃子であるべきだ。
 K45 「存在する」という観念は、我々の思考から借りられてきたものであると、私にはいつも思える。
 J1646 私に強みがあるとすれば、類似性を発見し、それを用いて自分が完全に理解していることを判明する能力をもっていることだろう。(→ここまで類似性に科学的な強みを主張したのはリヒテンベルクが最初だった)
 F54 世界のしっぽである我々は、頭が何を企てているか知らない。(この比喩はリヒテンベルクを有名にした)
 J520 いま自分が精神病院にいないかどうか、本当にわかりはしない。(→この実感は21世紀にこそあてはまる)
 J850 リンネが動物界で行ったように、観念界においても「カオス」と呼べるような分類項目を作れるかもしれない。 

≪028≫  不確かなことやカオスっぽいことに注目していたことは、リヒテンベルクの理学的センスのよさを告げている。そのセンスは理科学と言葉との両方を使いきるという姿勢から出てきたものだと思う。 

≪029≫
 K276 巧妙な考察の前に、まず自然な考察をする。いつも、何においても、とにかく簡単で自然な説明ができないかまず試してみること。
 D295 一つの命題を主張したら、ただちに、まだもっと実例があるのはどこかと考えよ。
 L886 新たな誤謬を発明すること。(→誤謬を避けるのではない。誤謬を発見するのでもない。誤謬を発明するのだ)
 A3 普遍記号を生み出すには、まず言語における秩序を捨象せねばならないはずである。(→これはライプニッツからウンベルト・エーコに及ぶ普遍言語学の要訣だ)
 I757 充足理由律は、たんに論理学的命題としては思考の必然的法則であり、そのかぎりで反論の余地はないが、それが客観的な、実在的な、形而上学的な根本命題であるかどうかは、別の問題である。
 I393 諸天体の運動を、自然におけるのと同じく正確に表現する時計を作ることができたら、世界は歯車で動いていなくとも、大きな貢献をしたことにならないだろうか。発明者自信、自分がこの中に入れたとは思えない多くのことを、この機械を通して発見するだろう。そして計算とはこうした機械仕掛けに似たものでないとしたら何か。それは計算機となる。(→チューリングマシンまで、もう少し) C157 パンチボウルを地球に喩えること。
 D244 我々の地球はひょっとすると雌かもしれない。(→この連想には驚いた。だとすると、文明はオスだったのである)
 E368 土星――なんというヒエログリフだ!
 J531 最終的にすべては一つの問いに帰着する。思考は運動から生まれるのか、それとも運動が思考から生まれるのか。 

≪030≫  当然ながら、リヒテンベルクはかなりの読書家だった。多読をへて、しだいに秀れた本をじっくり読みなおすというふうになっていった。 

≪031≫  戒めたのは、著者の思想をすぐに自分のものとくらべるような読み方だ。なぜそんな読み方になるのかといえば、読んだことの要約を怠るからなのだ。そう、リヒテンベルクは見ていた。ということは、リヒテンベルクは読むことと書くことをつなげていたのだ。 

≪032≫
 E215 本は鏡である。
 H154 他人によって何百回も読まれた本を、あらためてまた読んでみるというのは、とてもいいことだ。というのも客体は同じでも、主体は別物なのだから。(→まあ、その通り)
 G208 とても多くのことについて考えるのは簡単ではないが、とても多くのことについて読むことはできる。(→これが読書の真骨頂)
 E317 「熟考する」とは「本に当たる」ことと別物なのか。「発明する」とは「変形する」以上のことか。(→ぼくの考え方がこれにかなり近い)
 K27 私はダヴィデの詩篇を読むのが大好きだ。これほどの人間の心が、ときに私のものと同じようであったことがそこから見てとれる。 E326 ゲーテのものではなく、ゴートのもの(ゴシック)を読め。(→やったね。ゴシックがわからずしてドイツ思想はわからない)
 D159 ヤーコブ・ベーメの本は多くの人々にとって、自然という本と同じく有益でありうる。
 E70 バーク(エドマンド・バーク)が持っている議論の形式は、その演説にかぎっても、ゲーテが持っているシェイクスピアの形式よりはるかに完成されたものだ。(→同時代だが、さすがにバークを見落としていない)
 F7 読むことは借りること。それをもとに発明することは、返済することである。(→究極の読書論)
 J1057 毎日何かの描写をすること。風景や性格、人間の形姿、部屋や都市、家政の具合等々。
 I679 生き生きした語り口がなにより肝心なら、言おうとすることすべてを準備して、まずかみ砕いて説明できることはひたすら説明する、すなわちただ説明するために書くのがよい。それから、すべてをもう一度、今度は取り除くことに専念して書き直す。最初の作業は脱穀すること、二番目の作業は篩(ふるい)にかけることである。さて、さらに第三の作業が待っている。すなわち吹き分けることである。
 K197 ある対象について激烈に書くには、それについてよく理解していないことがほぼ必須である。
 G205 ドイツの学者は本を長いあいだ開いたままにしすぎであり、イギリスの学者は早々に閉じすぎである。 

≪033≫  リヒテンベルクは牧師の子である。父親はダルムシュタットの教区長であり、敬虔な子供時代をすごした。けれども聖書とスピノザ(842夜)は別格だったけれど、神学にはほとんど関心を向けていない。それどころかキリスト教の打ち立てるロジックには、つねに根底的な批判があったようだ。 そこには「根拠ならざるものを根拠とする誤謬」(ファラキア・カウサエ)が根付きすぎていると感じていた。リヒテンベルクは「神」のことより「心」のことを考えてきたのではないかと思える。。 

≪034≫ 
 J944 原因という曖昧な観念の上に神なるものへの信仰を打ち立てたのは、まことに驚くべきことだ。(→20世紀になってこのことを考究したのがホワイトヘッドだ)
 J354 今日、最も役立ずな文書は、道徳に関するものだと思われる。
 J1099 主の名において炙り、主の名において燃やし、悪魔に委ねる。すべては主の名において。
 J369 カトリックの宗教を、神を貪る女と呼ぶこともできるだろう。(→これは捨てセリフに近い)
 L113 神様がカトリックだなどと諸君は信じているのか?
 K237 神学は1800年をもって完結したとみなし、神学者がさらなる発見をすることを禁止する、というのは悪くないのではあるまいか。
 L952 人間は神についての観念を目的に合わせて織るということができるのではあるまいか。
 K268 一人の愚者が多くの愚者を作るが、一人の賢者はごくわずかの賢者しか作らないような世界に、我々は生きている。
 K195 人間の精神が、すべては無であるということを見出し、直視しても心穏やかでいられるということだって考えられる。ただしそれは、人間精神が最高に努力しつつ、さまざまな段階をへてついにこの認識に到達した場合にかぎられる。(→たしかにブッダや如来って、そういう意味だった)
 C249 正義と皮剥ぎの間に区別はないのか。
 L298 人間にとって天国の発明ほど簡単なものは、おそらくなかった。(→浄土も地獄も、ね) 

 万人の、万人による、万人のための模倣!
 今夜のキャッチフレーズは、これだけだ。
 ここに、パースが、ベンヤミンが、アドルノがいる。
 世阿弥が、利休が、芭蕉が、抱一がいる。
 アリステトテレスが、マルクスが、ニーチェがいる。
 空海が、重源が、梅園が、福沢諭吉が、鶴見俊輔がいる。
 カイヨワが、ドゥールズが、ジラールがいる。
 井上ひさしが、横尾忠則が、唐十郎が、タモリが、そして白川静が、松岡正剛がいる。
 万人の、万人による、万人のための模倣! 

 万人の、万人による、万人のための模倣!
 今夜のキャッチフレーズは、これだけだ。
 ここに、パースが、ベンヤミンが、アドルノがいる。
 世阿弥が、利休が、芭蕉が、抱一がいる。
 アリステトテレスが、マルクスが、ニーチェがいる。
 空海が、重源が、梅園が、福沢諭吉が、鶴見俊輔がいる。
 カイヨワが、ドゥールズが、ジラールがいる。
 井上ひさしが、横尾忠則が、唐十郎が、タモリが、そして白川静が、松岡正剛がいる。
 万人の、万人による、万人のための模倣! 

 ≪02≫  世の中で一番つまらない信仰はオリジナリティ信仰である。 世阿弥が「物学」を重視し、ジャン・コクトーが「ぼくの一番嫌いなこと、それはオリジナリティだ」と言ったはずなのに、世の中では「人をまねしてはいけません」と教え、芸術や思想は模倣を蛇蝎のように扱ってきた。これは寝苦しい。今夜はそんな寝苦しい残暑の夜の贈りものとして、ガブリエル・タルドの歴史的名著『模倣の法則』にまつわる話を少しばかりお目にかけたいと思う。 

≪03≫  『模倣の法則』は一八九〇年代に著されたものだから、チャールズ・パースが「アブダクション」を提案したほどに、そうとう早い。しかしパースにもそういう仕打ちが待っていたように、タルドの思想もながらく無視されてきた。無視された理由はあとで説明するけれど、それが一九六〇年代になって少しずつ注目されるようになった。最近はさらに話題になっている。 

≪04≫  きっかけをつくったのはジル・ドゥルーズだった。『差異と反復』(河出文庫)などである。なぜ注目されるようになったのかについては、むろんちょっとした経緯がある。そこにはぼくの編集的読書の経歴も絡んでいる。まず、そのことから説明する。 

≪05≫  ぼくには以前から、次のような考え方があった。世の中には抑圧しても抑圧しきれないものがあって、それは「自由」ではなくて、実は「模倣」や「類似性」なのだろうということだ。 

≪06≫  模倣や類似はどんな時代のどんな場所にも発生し、波及し、蔓延する。家庭にも学校にも、言葉づかいにも文体にも、絵画にも音楽にも、商品にも価値観にも浸透する。意識も社会も、模倣と類似によって成り立っているのではないかと思われるほどだ。それにもかかわらず、どんな権力も模倣を制限し、禁止しようとしてきた。「自由は束縛しませんが、模倣はいけません」というふうにした。  

≪07≫  はっきりいえば、「模倣の自由」はつねに抑圧され、収奪され、ひそかに独占されてきたのである。歴史の本質の中核には、この「模倣の自由」をめぐる闘争があったのではないか。ぼくはいつしかそう思うようになったのである。 

≪08≫  このことを明示的に最初に強調した(と、ぼくが感じた)のは、はなはだ文学的であるエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』(筑摩書房)をべつにすると、テオドール・アドルノの『否定弁証法』(作品社)や『美の理論』(河出書房新社)だった。ついではマックス・ホルクハイマーも『理性の腐蝕』(せりか書房)で、だからこそ文明というものは模倣を超越しようとすると書いた。アドルノとホルクハイマーは二人で共著して『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)に、こう書いた。「文明は他者への有機的な適応のかわりに、本来の模倣的なふるまいのかわりに、まず最初は呪術的な局面において模倣の組織的な操作をおき、最後に歴史的な局面において合理的な実践、労働をおいた」。 

≪09≫  何かを真似しようとしたこと、それが歴史的営為のスタートだったのである。幼児や子供の真似事を見れば、すぐわかることだ。言葉だって、遊びだって、学問だって、仕事だって、何だって真似から始まるのだし、真似が介在しないコミュニケーションもリプリゼンテーションもクリエーションもない。 

≪010≫  ところが、歴史とか社会というのはそうしたものなのだが、また世阿弥や宮廷詩劇に始まる芸能組織の社会史もそうしたものなのだが、そこに独占と管理と運用が加わった。これを最初に試みたのは王権と宗教である。それはキリスト教の歴史を見ればすぐわかる。模倣して、そして独占し、他者の模倣を禁止した。そのうちこれらのことをまるごと組み立て、その統合と管理と運用の制度をつくったのが近代国家と資本主義だった。軍隊は他の組織がつくってはならず、通貨も勝手に造幣してはならず、犯罪は国家こそが裁くものとなった。 

≪011≫  このようなことに気がついたのがアドルノたちだったのだが、模倣の本質的な動向をアドルノらに示唆したのは、そもそもはヴァルター・ベンヤミンだった。  

≪012≫  ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』(ちくま学芸文庫)に、人類と個人が文明と啓蒙にうだつを上げてから、世界は類似性の断片と模倣性の残骸で埋められるようになったと言った。また「ボードレール論」で、パリの遊歩道を歩くのはボードレールを模倣することだとも言った。アドルノはそうしたベンヤミンの先駆的認識に驚き、影響をうけた。とくにアレゴリー(寓意)がもたらす歴史的模倣性は近代的人間社会を論ずるには欠かせない思想軸だろうと感じたようだ。  

≪013≫  こうしてぼくはベンヤミン→アドルノという洗礼をうけ、模倣の何たるかを考えるようになったのだが(一方で類似とか相似とか連想とかアナロジーとは何かということを考えていた)、そこへ新たに切りこんできたのがロジェ・カイヨワだった。社会的本能のド真ん中に模倣論をもちこんだ。生物論から戦争論まで、擬態から文学にまで模倣論をもちこんだ。 

≪014≫  カイヨワは『遊びと人間』(講談社学術文庫)において、遊びには「アゴーン」(競争・試合)、「アレア」(賭け・運)、「イリンクス」(眩暈・一人遊び)とともに「ミミクリー」(模倣)があると指摘した。人間だけではない。ミミクリーは生物史と社会史をつなげる鍵と鍵穴を担っているとさえ見た。模倣の問題はどこにでも入りこんでいったのだ。『本能』『神話と人間』『聖なるものの社会学』『イメージと人間』『戦争論』『蛸』『石が書く』『反対称』などには、次のような指摘がいくつも出てくる。 

≪015≫  「似通った神話は似通った基礎から生まれている」。「人間の最大の誘惑は類似のものを見つけだすということにあった」。「類推こそが審美と叙情の両方に属する次元をもっている」。「場面が複雑で、類似が強ければ強いほど、イメージがコミュニケーションにもたらすものは大きい」。「擬態は空間への同化をおこしている」。「一方には行為が、一方には神話がある。この二つを類似が結びつけている」。「夢が現実を反映していると思えるのは、脳が脳を模倣したからである」。 

≪016≫  カイヨワの指摘の連打とその暗示力は驚くべきものだった。それは幻想小説の手法からヨーロッパにおける蛸の恐怖形成にまで及んだ。模倣は「類似性の母」だったのである。類似性は生物社会から人間社会におよぶ鍵と鍵穴をうめるものだったのだ。 

≪017≫  ぼくはこのカイヨワの指摘に勇気を与えられ、一九七八年十月に「遊」の「相似律」(シミラリティ)特集の準備をおえ、そのドラフトの紙束をもってパリのカイヨワの家を訪れたのだった。 

≪018≫  ベンヤミン、アドルノ、カイヨワがぼくのなかで渾然一体となってきてしばらくたって、ベンヤミンやカイヨワ以前に、それも十九世紀末に模倣の重要性に気がついて、『模倣の法則』などという嬉しくなるような著作をものしたフランスの哲人がいたことを知った。それがガブリエル・タルドだったのである。 

≪019≫  先に書いておいたように、最初にタルドを教えてくれたのはジル・ドゥルーズであって、ついで横山滋だった。ドゥルーズは『差異と反復』(河出書房新社)で、横山滋は『模倣の社会学』(丸善)で、タルドの先駆性を褒めちぎった。ドゥルーズは「タルドの哲学は、最後の偉大な自然哲学である」と称え、横山はタルドが通信や放送を含めたコミュニケーションの本質が模倣にあることを先取りしていたことを強調した。ただ、教えてもらいながらこんなことを言うのは気がひけるけれど、両書はとてもタルドの本気な紹介にはなっていなかった。  

≪020≫  そのうち村上隆夫の『模倣論序説』(未來社)に出会えた。一九九八年のことだ。この本は模倣論として独自の視点と視野に富んではいたが、あまりタルドを深めるものではなかった。むしろタルドの平板性を批判していた。そして、ベンヤミンやアドルノやホルクハイマーに戻って、またホッブスやニーチェやガダマーを取り出して模倣論を展開していた。示唆に富んだ著書ではあるが、タルドの凄みからは数歩離れた位置での試論になっている。そうこうしているうちに、本書の新訳が刊行されたのだ。二〇〇七年のことだ。新訳だというのは、『模倣の法則』はずっと以前の一九二四年に風早八十二によって部分訳が而立社から刊行されたままになっていたからだ。 

≪021≫  こうして、やっと『模倣の法則』を読んだ。たしかに議論の仕方や論証の仕方が古すぎる。村上隆夫が指摘していたように、歴史観もかなり平板だ。しかし十九世紀末に、ここまで「模倣」を社会の前面に押し出したその着眼力と分析力には、やっぱり驚いた。タルドを同時代のアメリカのパースとともに、大遊学者と呼ばれなければならないとも思った。 

≪022≫  以上が、ぼくがタルドに出会うまでのささやかな経緯だ。
では、さて、そもそも「模倣」とは何なのか。イミテートするとは何なのか。 

≪023≫  古代ギリシアの哲学や詩学は「アナロギア」(類推)と「ミメーシス」(模倣)と「パロディア」(諧謔)の三つが〝方法の王〟であることを見抜き、世阿弥は芸能の本質が「物学」にあると見抜いた。 

≪024≫  ぼくもずっと模倣や連想や相似性に関心をもってきた。編集の仕事の半分は広い意味で模倣に始まるわけだし、二二八夜(川瀬武彦『まねる』)に書いたように工学の半分も模倣によって成立してきたわけだ。そこには何らかの「モデル」や「型」が動いていた。 

≪025≫  しかしながら、ふつうは「模倣は他人のものを盗作しているのではないか」と思われるため、まっとうにその哲学や思想が論じられることはほとんどなかった。イミテーションはニセモノなのである。だいたい、模倣に哲学や思想があるなどとも考えられてこなかった。 

≪026≫  模倣は想像力の欠如なのである。独自の想像力に恵まれない者の慰みなのだ。その行為は卑劣であって、唾棄されるべきものなのである。社会はこのように模倣を糾弾した。ところがタルドはこれらの見方に全面的に反論してみせたのだ。反論どころではない。「社会の本質が模倣である」と言ってのけたのだ。そして、次のように説いたのだ。 「 」内はタルドの『模倣の法則』からの引用で、それをぼくがつないで編集的文脈を立て、理解を助けるべく多少を補った。 

≪027≫ ★社会においては、「すべてのものは発明か模倣かにほかならない」。「模倣は社会活動の基礎」であり、「模倣は本質的に社会学的な力」なのである。いいかえれば、「社会とは、模倣によって、あるいは反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を、互いに提示しあっている人々の集合」なのである。 

≪028≫ ★では、社会のなかで何が模倣されていると言えばいいのだろうか。「模倣されるものとはいったい何なのか。(実は)つねにひとつの観念や意志、判断や企図が模倣される」のだ。  

≪029≫ ★世間では、しばしば模倣の意図を問題にする。そしてオリジナリティや知的所有権を擁護する。しかし「模倣が意識的であるのか、無意識的であるのか、反省的か本能的か、あるいは意図的だったのかそうではなかったのか、ということを区別するのは意味がない」。なぜなら、オリジナリティを議論する以前に、「社会そのものが模倣から生じてきたもの」であったからである。それに、模倣の意図ではなく、意図の模倣こそが社会にとって本質的であるからだ。  

≪030≫ ★模倣の正体はなかなか見えにくい。しかしおそらく「模倣は、人間の内部から外部へと進行する」のであろう。模倣は「社会の内なる部分から社会の外なるものへと波及」し、かつ「表象されるものから表象するものへ移行する」というふうになっているにちがいない。そうであるのなら、「思想の模倣は表現の模倣に先行」し、「目的の模倣が手段の模倣に先行する」とみたほうがいい。 

≪031≫ ★したがって「歴史とは、ほとんど無用で模倣されない発明が、いつまでも有用で模倣される発明にたいしておこなう助力と妨害にほかならない」。「社会物理学におけるコミュニケーションの欠如は、物理学における弾性の欠如と同じ意味をもっている。前者は社会で模倣が生じることを妨げ、後者は物質界で波動が生じることを妨げている」。そのように言えるだろう。 

≪032≫ ★こうした事情から、次のような変化ももたらされることになる。「模倣が当初から帯びている深い内的特徴、つまり複数の精神をそれらの中心どうしで互いに結びつけるという模倣の特徴は、人類のあいだに一種の不平等を増大させ、さらには社会階層の形成をもたらした」のである。 

≪033≫ ★タルドはさらに次のように指摘する。そもそも「模倣は、それぞれ独立して存在しているのではなく、互いに支えあっている」。「模倣もまた発明と同じように連鎖している」ものなのだ。それゆえ「一連の創意と創始は、一連の模倣によって引き起こされ強められていく」というふうになっているのではあるまいか。 

≪034≫ ★タルドはさらに次のように指摘する。そもそも「模倣は、それぞれ独立して存在しているのではなく、互いに支えあっている」。「模倣もまた発明と同じように連鎖している」ものなのだ。それゆえ「一連の創意と創始は、一連の模倣によって引き起こされ強められていく」というふうになっているのではあるまいか。 

≪035≫ ★ひとつは、一族や共同体や家族を通した模倣だ。「家族が閉じた仕事場で、それだけで自足していた時代には、手作業や動物の飼育や植物の栽培のために、その方法や手順は、父から子へと伝達されていた。そこでは世襲による模倣しかおこらなかった」。 

≪038≫  なんと多くのことが、示唆的に、また予言的に語られていたことか。しかもタルドはこうした考察を通して、社会は模倣の法則によって成り立ってきたのだが、歴史的にはそれがつねに歪められてもきたことを憂慮したのだ。 

≪039≫  なぜ模倣は歪められてきたのか。その理由も検討している。 第一の理由は、模倣が本来は内面の模倣に依拠していたにもかかわらず、外面的な模倣ばかりが広まって、思想と趣向、慣例と要求とのあいだに大規模な均質化がおこってしまったことである。タルドはそのことを十九世紀末に観察していたのだが、これはいままた液状化し、フラット化するグローバル社会においても顕著になっている。 

≪040≫  タルドがそこで指摘したのは、大衆が烏合の衆になったということだ。この言葉はつかってはいないが、ポピュリズムが模倣と類似の本質をわかりにくくさせたということなのである。 

≪041≫  第二の理由は、巨大な戦争と巨大な企業が、勝手に模倣と類似を独占しすぎたということだ。タルドはそれを「機械が模倣と類似を食い尽くした」というふうに見た。ここにはカイヨワの『戦争論』(法政大学出版局)につながる問題が示唆されているだけでなく、戦争機械と産業機械の問題について、すなわちドゥルーズ゠ガタリのアンチ・オイディプスの問題さえ暗示されている。 

≪042≫  第三の理由は、さらに今日なお鋭いものとなる。戦争代行から政治代行まで、法務代行から生活代行まで、近代社会は個人の模倣力や連想力を放棄して、それを代行者に委ねすぎたのではないかというのだ。タルドはそこに「普通選挙」と「統計学」の功罪も加えた。 

≪043≫  これらの検討事項と、その大胆な推理については、いまなお唸らざるをえないものがある。しかし、こんな見方は早すぎたのだ。十九世紀末から二十世紀初頭というのは、列強が帝国主義段階に達して、世界中の植民地を帝国主義の支配体制に組み伏せていた時期であり、かれらが挙ってアフリカ分割に血道をあげていた時期である。国内では、そうした植民地から届く異質文化を買い物のようによろこんでいた。 

≪044≫  こういう時期に、社会の本質は模倣なのであると言ったところで、文明の突端を走っているつもりのイギリスやドイツやフランスやアメリカは、まるでどんな独自性もないかのように酷評されたとしか受け取れない。不幸にも、タルドは欧米思想のなかでも長らく無視されることになったのである。 

≪045≫  ガブリエル・タルドがどんな人物であったかということを、手短かに加えておこう。フランス南西部のサルラという小さな都会の、名家の生まれだったようだ。父親は判事や市長になった男だが、一八四三年にタルドが生まれた七年後には没した。 

 ≪046≫  タルドは少年期は数学や理科に惹かれていたものの、眼病に苦しんで、父親に倣ってトゥールーズの法科大学に進んだ。一八八〇年代に入って『比較犯罪論』や『刑事哲学』を著したのはそのせいだ。しかしそのうち、そのような現実社会の犯罪や社会動向を観察しているなかで、たちまち社会哲学にめざめ、『模倣の法則』を書くにいたった。タルドは司法統計局長の職についたこともあるのだが、真の犯罪が統計では説明できないことを実感したのである。そのころ『自殺論』(中公文庫)を準備していたエミール・デュルケムとも知り合っている。 

≪047≫  その後、コレージュ・ド・フランスの近代哲学講座の教授に推薦され、「精神間心理学」や「経済心理学」に着手した。そして一九〇六年には眼病が悪化して、六一歳で死んだ。 

≪048≫  そういうタルドであったのだが、生前で話題になったのは『模倣の法則』ではなくて、いまは『世論と群衆』の書名で知られる著書において提起した「公衆論」のほうだった。これは、当時、話題になったギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』(講談社学術文庫)があまりに無定形な群衆を扱ったのに対して、群衆の登場以前の社会の動向分析に注目したもので、そこには『模倣の法則』の視点がいかされていた。けれども、そのようには思われなかったのだ。 

≪049≫  いま、タルドの思想をふりかえってみると、ここからはさまざまな議論の可能性が噴出してくるだろうことを感じる。とくに「アナロジー」をどのように社会的な作用論のなかに組み込んでいくかということが大きい。 

 ≪050≫  たとえば、「連想力」や「アブダクション」の問題である。ここにはアリストテレスやライプニッツが提案し、空海や世阿弥や三浦梅園が実践した方法が躍動し、パースからミンスキーに及んだ推論の秘密が動きまわっている。 

≪051≫  また、「ミーム」としての人間文化にひそむ〝意伝子〟のことも関係してこよう。ミームは社会文化的な模伝子でもあるのだ。もう少し広げていえば、物語や神話にひそむ「ミュトス」とは、実は「ミメーシス」と同類のものなのだが、そのナラティブな模倣的連関には何があるのかという興味の尽きない問題もある。 

≪052≫  一方、すでに上記にもかいつまんだが、資本主義市場における「欲望」と「消費」の関係も、模倣論の組み立てによってはさらに深まっていく可能性がある。すでにタルドは『模倣の法則』第七章で、価格決定に関する大胆な仮説を綴っていて、そこでは需要と供給のバランスなどで商品価格が決まっているはずはない、そこにはむしろ「模倣価格の法則」とでもいうものがはたらいているはずだとも主張しているのである。 

≪053≫  世の中、オリジナリティ信仰ですむはずがない。いたずらに模倣全般を禁止するのは、いただけない。むしろ模倣の編集方法をまねぶべきである。深層・中層・表層のどこに注目するのか、アーキタイプ(原型)・プロトタイプ(類型)・ステレオタイプ(典型)のどこを吸収するのか、模倣の眼によって世界観を比較するにはどうしたらいいか、そういうことをまねぶべきである。とくに模倣の奥を動かしている「連想力」や「類推力」から離脱してはいけない。 

 ≪054≫  模倣力・連想力・類推力をどう見るかということが、今日のウェブ社会や検索社会に投げかける問題も少なくない。そもそも連想検索がどのようにあるべきなのかということは、「意味の模倣的構造性」をとりこまないかぎりは、新たな展望は生まれないはずなのである。連想検索だけでなく、連想再生も重要だ。 

≪055≫  いずれ千夜千冊するつもりだが、認知科学や認知言語学においては、「類似性と思考性」の関係が浮上していて、類似構造モデルや模倣構造モデルもいくつか提案されている。ジェームズ・マーシャルやダグラス・ホフスタッターの「アナロジー型高次知覚モデル」、クリストファー・チャーニアクの「最小合理性」の考え方、すでに千夜千冊したホランドやホリオークらの「擬同型モデル」など、タルドに戻ってあらためて検討したほうがいいことは、かなりある。 

≪056≫  たとえば、たんに蓄積可能なものを選ぼうとするより、模倣可能なものを選んだほうが蓄積可能になっていくというようなタルドの指摘は、今日のITコンテンツ時代の先頭を走りたい者ならば、よくよく心すべきことなのである。  

≪057≫  さらには、これもそのうち千夜千冊するつもりだが、「ミラーニューロン」の発見にまつわる話題も事欠かない。なんてったって「人のふり見て我がふりつくるニューロン」が見つかったのだ。模倣するニューロンなのである。こうなれば、「真似」や「模倣」は動物発生学にまで及ぶ。 

≪058≫ ともかくも今夜、どうしても言っておきたいことは、われわれは模倣について、これまであまりにも狭い見解のなかにいすぎたのではないかということだ。
そして、いじましくもオリジナリティや創造力を求めすぎてきたということだ。それよりも、いったんはこう言うべきなのである。
「万人の、万人による、万人のための模倣を!」。 

九相詩絵巻 - BIGLOBE

九相図 - Wikipedia


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