日本人とは

読書・独歩 宇宙の間隙に移居するParⅠガイド 情
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■開催日時 2月1日(月)午前10時30分~午後5時50分(予定)

■開催方法 WEBライブ中継・無観客開催・受講料無料

■URL   https://events.nikkei.co.jp/34125/【日経地方創生フォーラム】

■開催日時 2月1日(月)午前10時30分~午後5時50分(予定)

■開催方法 WEBライブ中継・無観客開催・受講料無料■URL https://events.nikkei.co.jp/34125/ 

参照資料(千夜千冊)

読書・独歩 目次 フォーカシング

天才に学ぶ    天才を知る

藤井翔太君

石川佳純さん

田中将大君

渡部暁斗君




≪01≫  ながらく読めなかった。手に入らなかったからだ。そのあいだずっと、遠い日々の白黒映像に動きまわっている大河内伝次郎を水戸光子が待っていた。

≪02≫  大河内伝次郎は墨襟の白紋付に髑髏を染め抜いている。水戸光子は藍の万筋模様に小柳の半襟、媚茶の博多を鯨仕立てできりりと締めている。その鯨仕立てが左膳を待ちきれない。けれどもなかなか原作にお目にかかれなかった。結局、痺れをきらして古本屋で入手した。

≪03≫  本書は「時代小説名作全集」全24巻のうちの三冊ぶんで、この全集には他に岡本綺堂『修禅寺物語』、長谷川伸『関の弥太ッペ』、大佛次郎『夕焼け富士』、野村胡堂『隠密縁起』、佐々木味津三『旗本退屈男』、三上於菟吉『雪之丞変化』に加えて、直木三十五・山手樹一郎・川口松太郎といった大衆時代小説の横綱級の名作がずらりと顔を揃えていた。

≪04≫  いまこういうものに熱中する読者がどのくらいいるのか知らないが、もしこのあたりの一冊も読んでいないのだとしたら、そのくせ時代小説は山岡荘八・村上元三・司馬遼太郎その他あれこれ好きだというのなら、その不幸にこそ同情したい。岡本綺堂・長谷川伸・大佛次郎・野村胡堂・直木三十五・三上於菟吉、そして林不忘は、何を犠牲にしようと読まなくてはいけません。

≪05≫  大河内伝次郎扮する丹下左膳は、わが少年期の絶対的なヒーローだった。もう一人いた。アラカンこと嵐寛寿郎扮する鞍馬天狗だ。こちらは幕末を舞台にして黒の覆面頭巾で馬に乗っている。大佛次郎原作である。

≪06≫  一方、丹下左膳は大岡越前守の世に徘徊した隻眼片腕の化けものだ。鞍馬天狗か丹下左膳かと言われると困るけれど、ともかく何度くりかえして真似をしたことか。それでものべつ「セイゴオちゃん、どっちが好きやねん」と、そんなことを聞く野暮な大人がいた。

≪07≫  丹下左膳は右腕がない。だからぼくも左手で棒をもつ。丹下左膳は右目もない。だから右目をつぶって絆創膏を貼ったり、手拭いで右目を覆ったりする。それで腰に紐を巻き、棒っきれを差し、左手でこれをズバッと抜く練習をする。これがなかなかむつかしい。何度も練習してやおら表の通りに出陣し、向こうからやってくる行商人の前で「姓は丹下、名は左膳。ぶっふっふ」と言って、パッと抜いてみせる。「なんや下手くそな丹下左膳やな」。

≪08≫  たいていは失敗だ。それでもまた棒っきれを腰に収め、ふたたび抜いて、そこで大河内伝次郎の真似をする。「あわわわ、そいつが苔猿の壼なのか、あわわわ」。母親は笑いころげてくれた。笑われようと何されようと、そこに大人の相手がいれば、すわチャンバラだ。新聞紙を丸め、呉服の反物の筒をもち、右目をつぶって左手で闘った。

≪09≫  剣怪という言葉がある。おそらくは林不忘の造語だろう。まさに丹下左膳はめっぽう妖しくて、異様に不死身な剣怪だった。ぼくのような戦後昭和少年には、こうした荒唐無稽の剣怪、ビー玉とメンコによる戦技、そして10円玉で何でも買える駄菓子が、どうしても必要だったのである。

≪010≫  長じて『丹下左膳』をオトナ用の文字でちゃんと読んでみたいと思ったのは、中里介山の『大菩薩峠』や国枝史郎の『神州纐纈城』を読んでからである。ながらく読めなかったすえに、やっと林不忘を読んでみると、物語の急テンポな運びや人物の出入りの映画的なところもさることながら、その小気味よく省略のきいた文章にあっというまに巻きこまれていた。

≪011≫  ともかく何にもとらわれていない。うまいのではない。勝手気儘なのに破綻していない。“操り文才”とでも名付けたい。おそらくは書き流しているのだろうが、破墨・潑墨の調子をどこかで心得ている。お主、もてなし上手の使い手じゃな。

≪012≫  舞台は徳川八代将軍吉宗の城内城下。そこに案配された手立ても器用にあしらっている。寒燈孤燭の城下町、達意の宗匠、人を狂わす金魚籤、これがいかにもという高麗屋敷、ルソン古渡りの茶器、とんがり長屋の嬌声罵声、板張り剣道指南の道場格子、大川端の邪険な風情、長襦袢から零れる下闇の奥……。

≪013≫  まあ、通俗時代小説にはおなじみの手立てだが、そこへ「植物性の笑いがおこった」とか「人事相談にはなりません」とか「こんなこと昨今のアメリカでもおこらない」といったチャチャが割りこんでくる。苔猿の壼が三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)の名物帳の筆頭に記載されていた天下の名器であることも、初めて知った。

≪014≫  なにしろ久々に遊びまわれる読書となったこと、いまやすでに懐かしい。これが噂の大正昭和のエンタテインメントの抜き身の出現だったのである。

≪015≫  林不忘が実は牧逸馬であって、また谷譲次であることはいつのまにか知っていた。本名は長谷川海太郎という。詩人長谷川四郎の兄貴にあたる。

≪016≫  明治33年に佐渡に生まれ、父親が「函館新聞」の主筆となったので函館で育った。やけに海っぽい。函館中学3年のときにストライキの首謀者として放校されると、大正7年には何かに見切りをつけてさっさとアメリカに渡り、6年間を皿洗いやらホテルボーイやらギャンブルやらカウボーイやらをして、遊んだらしい。このテキサス時代の海太郎が谷譲次なのである。

≪017≫  その谷譲次の『テキサス無宿』『めりけんじゃっぷ商売往来』はずっとあとで読んでみたが、これはとても林不忘と同一人物の作家が書いたとはおもえない文体だった。なにしろ「ジャップ」と揄われた日本人の無宿者が1920年代のアメリカの無知を大いに嗤っているのだ。なんという奔放無類の文意才々なのか。

≪018≫  牧逸馬のほうは翻訳者としてのペンネームでもあったが、いくつか作品も書いた。けれどもぼくは、『この太陽』『新しき天』などの、そのころ一世を風靡したという家庭小説は読んではいない。林不忘と谷譲次でも十分すぎる。

≪019≫  それにしても三様のペンネームを適宜に駆使して、それをそれぞれまったく別様の文体と物語に書き分けてみせるというのは、ぼくもペンネームを使い分け書き分けるのができないわけではないけれど、やはりよほどの技芸者だ。いや、長谷川海太郎においては武芸者の遊びにこそ近い(第517夜にぼくの昔のペンネーム一覧をリークしておいた)。

≪020≫  世の中の編集者も編集者、負けてはいなかった。おそらくは世界出版史上でも前代未聞の『一人三人全集』というものを、新潮社が昭和8〜10年に全16巻で刊行してみせた。それを縮めて、河出書房新社が昭和40年代に6巻集に仕立てたというのだが、これは残念ながら見ていない。新潮社、お主、やるではないか。

≪021≫  長谷川海太郎が原稿を書きはじめたのは、大阪のプラトン社の「女性」や「苦楽」であった。プラトン社は第三六四夜の直木三十五のところで少々案内しておいたように、化粧品会社の中山太陽堂が小山内薫や川口松太郎を顧問に、山六郎・山名文夫・橘文二の意匠と岩田専太郎の挿絵を擁した出版社のことで、「女性」「苦楽」はそのころ巷間を唸らせた大正末期の名物女性雑誌のことである。

≪022≫  大半の作家文人を籠絡し、幸田露伴には大枚15円もの原稿料を払っていた。日本のエディトリアルのモダンデザインの多くはここに発芽した。ただし例の改造社の円本が出てきて、凋落していった。

≪023≫  海太郎の文才を“発見”したのは中央公論社の嶋中雄作である。嶋中は「婦人公論」の投稿原稿を見て、林不忘として『新版大岡政談』を書かせてそそのかし、特派員として豪勢にもヨーロッパ旅行をさせている。海太郎はこういう待遇にはすぐに応えるほうで、こうして谷譲次となってはメリケンものを、牧逸馬となっては家庭小説と実録ものを、まことに器用に書き分けた。

≪024≫  五木寛之は牧逸馬名義のドキュメンタリズムこそおもしろいと言い、中田耕治は牧逸馬こそが自分にルクレツィア・ボルジアの耽美陰惨な生涯を教えてくれたのだと告白していた。

≪025≫  それで丹下左膳であるけれど、この妖怪剣豪はもともとは『新版大岡政談』のワキに出ていた忘れがたい剣客なのである。それがいつしかシテに躍り出て、「苔猿の巻」「濡れ燕の巻」「日光の巻」の奇想天外の連作になった。海太郎どの、お主、ずいぶん楽しませてくれたものじゃのう。あわわ、あわわわわ。ギラッ、バシャッ、ズバッ。

≪01≫  10年ほど前にホンダの久米社長から一年ほど話に付きあってほしいと言われた。意外にも生物物理学者の清水博さんによる紹介である。当時、ホンダは海外でもアコードで圧勝しつつあったのに、突如としてジャパン・バッシングの矢面に立ち、アメリカ市場で苦境に追いこまれていた。アコードの全米売り上げも急落した。

≪02≫  ホンダはF1からの撤退を決意し、「地球にやさしいクルマ」などというホンダらしくないメッセージを選択させられることになるのだが、当時のホンダ・ファンはこの選択を苦々しく見ていた。ホンダとしては日米経済戦争という大きなシナリオに巻きこまれてやむなく苦渋の決断をしたというのである。

≪03≫  ぼくが呼ばれたのはそのころで、久米さんはかなり腹をたてていた。しかし、アメリカが突きつけてくる「日本人は何を考えているのか」という質問にうまく答えきれない。なんとか「日本とはこういうものだ」という回答をぶつけたい、ついては松岡さんに一年ほど話に付きあってほしいというものだった。

≪04≫  ホンダのことは何も知らなかったので、少しは知ってみようと思って担当役員の人に何をベンキョーすればいいかと尋ねたら、「それは本田宗一郎です」である。そう言われても困るなと思っていたら、この本を勧められた。「なんといっても本田さんの『俺の考え』ですから」と担当者は慎重に笑った。

≪05≫  この本は1963年に出た。だから、この時期を念頭において読んだ。このころの日本の産業界は高度成長期の只中にいて設備投資が過剰気味で、ビジネスマンの多くが企業戦士扱いをされ、いささか疲れはじめていた。そんな時期にこの本が出た。松下幸之助のちょうど一まわり12歳年下のホンダの新風が吹き荒れはじめた時期である。下敷きになったのは「実業之日本」連載の「放言暴言」で、それに他のインタビュー・エッセイが加わっている。

≪06≫  本田宗一郎が何を考えていたのか、この本にはその原点が丸出しである。おそらく何も隠してはいない。戦前のことだけではなく、戦後の天皇主義にも文句をつけている。ともかくあけすけなのだ。

≪≪07≫  ホンダの社員が本田宗一郎の原点を熟知しているだろうことも、すぐ伝わってきた。だからこそアメリカでも例のない大成功を収めた。それだけによしんばジャパン・バッシングの矢面に立ったからといって、急に宗一郎スピリットを相手に叩きつけなくなったというのは寂しいかぎりだった。

≪08≫  なぜいまさら宗一郎イズムを引っこめる必要があるのか。なぜこの時期にあれほど心血を注いだF1から撤退する必要があるのか。どうもそこがよくわからない。「いや、オヤジさんの考え方は生きているんです。ただ、それだけでは乗り切れなくなった。いいクルマをつくっているだけでは勝てない時代になったんです」という説明があったけれど、どうも納得できなかった。本田宗一郎に従いたいのなら、徹してそうすればいいのだ。役員からは「まあ、ホンダも大企業病に罹っているということですかねえ」という他人事のような反応もあった。

≪09≫  そこでぼくは、本田宗一郎の思想をあえて日本人の考え方として読み替える必要はないんじゃないかと久米さんに進言したのだが、「いや、宗一郎さんの思想はわれわれには滲みこみすぎているんです。むしろそれを新たな言葉にしないと勝てないんですよ」とふたたび反論された。宗一郎の申し子がそう言うのではしょうがない。≪04≫  ホンダのことは何も知らなかったので、少しは知ってみようと思って担当役員の人に何をベンキョーすればいいかと尋ねたら、「それは本田宗一郎です」である。そう言われても困るなと思っていたら、この本を勧められた。「なんといっても本田さんの『俺の考え』ですから」と担当者は慎重に笑った。

≪010≫  結局、ぼくが久米さんに話したことは、本田宗一郎の思想とは切り結びが少ない日本の社会の特徴や日本人の思考の仕方についてのことになった。ようするに「日本人がかかえる問題点」のほうをあれこれ話すことにした。そういう話をしながらも、本田宗一郎のほうがずっと新しい日本人を象徴していると見えていた。

≪011≫  本田宗一郎が本書で語っていることは、堅固というか、頑固というか、断固というか、本気の哲学が前提にされている。

≪012≫  前提は、はっきりしている。敗戦後に価値観が転倒してしまった以上、日本にはクロウトがいなくなった、それなら自分の方法によってシロウトこそが企業をおこすしかないというものだ。敗戦後の日本が塩水になったのであれば、塩水のエラをつけた魚になるしかあるまい。真水の魚では死んでしまうに決まっている。誰が何と言おうと自分で塩水のエラをつけた魚になるしかない、そんな経験は誰もしていない、それを俺はやるんだというのが、大前提なのだ。

≪013≫  これは「真水の日本」を懐旧して、「異胎の日本」を詰った司馬遼太郎とはまったく逆に立つ思想だった。

≪014≫  本田はいままでの経験から出てきた原則をすべて御破算にした。こんなふうに言っている。「だいたい大人というのは過去を背負っている。過去に頼ってよしあしを判断するから、180度転換したときには非常に危ないイデオロギーで現在を見つめる。私はこれが一番危険であるとみた」。さらに言う、「設備なんてものはカネがあればどんどん変わるが、カネを出しても変わらないのが考え方だ。私はそこを変えようとした」。

≪015≫  本田はホンダをつくるための考えと方法を強くもつ。これを従業員に徹底する。ついでカネがあっても信用がなければいつか潰れるにきまっているから、信用をつける。信用をつけるには2つの条件を貫徹していく。ひとつ、約束を守ること、ひとつ、いい製品をつくることである。もうひとつ条件がある。「架空の信用をつくらない」ということだった。これは、いい。まさに人は「架空の信用」にみずから潰れていくものなのだ。

≪016≫  そのほか印象に残っているのは、「われわれは消しゴムのない日記をつけているんだ」「コストが高いか低いかは売りやすさで決まる」「社員は成長するのだから数で数えるな」「現在の偉人を一人にしぼって選ぼうとするな」「研究所に博士はいらない」「世の中で一番アテにならないものは市場調査だ」等々。

≪017≫  「デザインは芸術じゃない」と言い切っているのも胸がすいた。もしデザインが芸術のようなものだったら、そのデザインにゴッホのような価値が出てくる前に、商品も企業もなくなっているだろうというのだが、これには感服する。なるほど、そうだ。こうも言う。デザインには模倣性と独創性の2つがあるが、俺が選ぶのは模倣性を利用したデザインで、それによって流行がつくれる。個性なんぞをしょっちゅう発揮しようとしている連中のデザインでは、いつも車体のデザインを変えるしかなくなってきて、そんなことでは企業はやっていけないという独断なのである。

≪018≫  本田宗一郎は明治39年、静岡県磐田郡に生まれた。小学生のときに自転車に夢中になり、三角乗りでアート・スミスの曲芸飛行を見に行って興奮した。この飛行ショーのことについては、稲垣足穂が『ヒコーキ野郎たち』そのほかで、何度もその心を奪う光景を書いている。

≪019≫  高等小学校を出ると東京に出て、湯島の自動車修理工場東京アート商会に入った。半年は社長の子の子守りばかりだったが、六年勤めるうちに支店の工場主となり、社長の榊原郁三からのれん分けを許された。昭和14年、東海精機重工業という、そのころの日本を象徴する重たい名前の会社をつくった。ピストンリングの製造である。

≪020≫  ピストンリングはエンジンづくりには欠かせないモジュールだが、この性能を上げるのは経験だけではどうにもならない。本田はあえて浜松高等工業専門学校(いまの静岡大学工学部)の機械科の聴講生となり、三年間にわたって金属工業に打ち込んだ。それから「人間休業」と称して一年間の心の充填をした。

≪021≫  こうして本田技術研究所を設立したのが戦後すぐの昭和21年だった。大いにシロウト精神を発揮した。二年後、本田技研工業になった。それから十三年たって、昭和36年にオートバイのグランプリを制覇した。F1に乗り出したのが昭和39年だから、本書はその前年に出版されたことになる。すでに四輪による世界制覇の野望に燃えていた時期だ。そのときすでに、こう言っていた。「世界の市場に出てゆくものは、たんなる製品といった“物”ではない。それ以前にある“思想”だ、ホンダという企業の頭脳を輸出したいんだ」。

≪022≫  有名な話だが、本田は社印や実印を手にしなかった。すべて藤沢武夫が引き受けた。ぼくは晩年の骨董屋「高會堂」をしていたころの藤沢しか知らないが、なかなかの人物だったようだ。東京下町の鋼材店にいて、その後、日本機工研究所を設立したりしていたが、戦争激化を見て福島県の二本松に引っ込み、製材業などをしていた。

≪023≫  それが昭和24年に通産省技官の竹島弘の引き合わせで本田宗一郎に出会い、以降、絶妙なタッグを組んだ。本田は「会社は個人の持ち物ではない」という信念をもっていて、身内を一人も会社に入れなかったのだが、藤沢はそういう本田の「俺の考え」をうまく活かした。

≪024≫  本田は生涯、父親から教わったことを守ったようだ。父親は「一尺のものさしの真ン中はどこか」と問うたのである。宗一郎が右から五寸、左から五寸のところだと答えると、馬鹿野郎と叱った。右から四寸、左から四寸が真ン中だ。その二寸のところにあとからすべてが入ると言った。本田宗一郎はその「間の二寸」にホンダのすべてを賭けたのである。

≪025≫  ぼくは久米さんとの一年を通して、あることを確信した。「架空の信用」をつくってしまったのは、ホンダではなく日本株式会社だったのだ。そこでジャパン・バッシングに悩むホンダに対して、次のような提案をした。「ホンダはF1に勝って地球にやさしい、とアピールしたほうがいい」。

≪026≫  ちなみにこのとき常務だった岩倉信弥さんはイシス編集学校の第一号学衆になった。またこのとき以来、松岡事務所はホンダ(レジェンドとアコード)にしか乗っていない。

≪01≫  幸田文のこの作品は、生前には発表されなかったものである。短編ではない。長編小説といってよい長さがある、幸田文の最も自伝性が濃い作品といってよい。それなのに作者はこれをまるで反故にするかのようにほったらかしにしていたようだ。

≪02≫  実は幸田文には、いつしか小説という様式に対して期待をもてなくなっていたふしがある。『流れる』のような、あんなにすごい小説を書けた作者があっさり小説を離れるのを訝しむむきもあるだろうが、そこが幸田文の比類ない気性というものなのだ。持ち前の「気っぷ」というものなのかもしれない。

≪03≫  幸田文が小説を書くのは幸田露伴が死んでからのことである。それまでずっと抑制されてきた創造力の香気が一挙に吹き出した。ぼくは、ぼくの父が文さんと交流があったことも手伝って、幸田文という人にたいへん粋な親しみをもってきた。

≪04≫  実際に、文さんが父のやっていた呉服屋で着物を買ったことがあるかどうかは、知らない。文さんの趣味からいうと、うちの呉服ではまにあわなかっただろうとも思われる。それでも、文さんは京都にくると、ときどきは父を呼び出していた。ぼくも二度ほどくっついていったことがあるが、まさに「気っぷ」のいい、声も笑顔もすばらしいおばさんだった。

≪05≫  そんなわけで、青年のぼくが読むには好尚がよすぎる文芸ではあったのに、ぼくはしばしば幸田文の小説や随筆を読んできた。それはなんというのか、母の鏡台の匂いをこっそり嗅ぐようなものだった。

≪06≫  この作品は明治が終わるころに生まれた主人公のるつ子が、「お母さん」に着せられた着物の一枚一枚と、るつ子の相談役でもあった「おばあさん」の目を通して、時代とともにしだいにめざめていく物語である。女性の心身が育まれる物語というふうにもうけとれる。

≪07≫  そういえば、この本が単行本として死後刊行されて話題になっていたころ、ぼくは堤清二さんや下河辺淳さんと話す機会があり、当時は“旬の話題”だったこの作品のことを持ち出したところ、堤さんが「うん、あれは女性の本格的な教養小説ですよね」と言ったものだった。のちに辻井喬として堤さんが本書の解説を書いているときも、この作品がビルドゥングス・ロマン(精神の修成をたどる物語)であることを強調していた。

≪08≫  たしかに着物は女性の心身なのである。それは、今日のファッションが女性の関心の大きな部分を占めていることでもわかる。 しかし、着物は洋服よりもずっと心身を感じさせてくれる動機に満ちている。着物にはいくらでも妖精や魔物が、想像力や出来事が棲みこんでいる。いや、染みこんでいる。

≪09≫  そもそも「着換えがはじまった」という一行だけを書いて、そのあとたっぷりと着換えのことを綴っていて、それで存分な小説になることが貴重なのである。それはたとえばジョルル・カルル・ユイスマンスやヴィクトル・ユゴーが大聖堂やノートルダム寺院の大伽藍の一部始終を観察して、それをもって小説にしたことに匹敵することなのだ。 幸田文は、それができることを身をもって伝えてくれた希有の「日本のおばさん」であった。

≪010≫  そのやりかたは、泉鏡花が着物の柄や形を乱舞させて艶やかな女の妍を表現するという方法ではなく、また森田たまの『もめん随筆』や志村ふくみの『一色一生』のような、着物や染物が文化の腑に落ちるというための方法でもなく、いわば腑に落ちるも腑に落ちないも、そのすべてを引き取って人生を着て、人生に帯をしめていくという方法だったのである。

≪011≫  そのやりかたは、泉鏡花が着物の柄や形を乱舞させて艶やかな女の妍を表現するという方法ではなく、また森田たまの『もめん随筆』や志村ふくみの『一色一生』のような、着物や染物が文化の腑に落ちるというための方法でもなく、いわば腑に落ちるも腑に落ちないも、そのすべてを引き取って人生を着て、人生に帯をしめていくという方法だったのである。

≪012≫  参考¶幸田文については、文の娘である青木玉が綴っている本、たとえば『幸田文の箪笥の引き出し』(新潮社)などを読むと、いっそうその人生の感覚と粋の細部にふれることができる。この本には文さんの着物や小物も収録されている。

≪01≫  黙阿弥は文化文政期に遊蕩な少年時代をおくって勘当されたものの、貸本屋好文堂の手代(てだい)に入りこんで暇を惜しんで読書に励んだのが、結局は後世の戯作者としての下地をつくった。

≪02≫  20歳で葺屋町市村座に作者見習いになり、いっときは雑俳点者などしているが、小柄の七代目団十郎に認められたあたりから俄然意欲が出ている。河原崎座が猿若町に移転したのをきっかけに、28歳で二代目河竹新七を襲名して立作者となった。

≪03≫  黙阿弥については、大正時代に刊行されてのちに創元選書に入った河竹繁俊の伝記『河竹黙阿弥』を、歌舞伎狂いの父の本棚に見つけて読んだのが最初で、その後はまったく関心をもたなかった。ところが、あるとき小島政二郎の三遊亭円朝伝を読んだころから明治時代の講談落語のつくりかたに色気が出てきて、いつかは黙阿弥がどのように近代社会のなかで歌舞伎の脚色にとりくんだのか、そこを知りたくなっていた。

≪04≫  今日、歌舞伎語りでは他の追随を許さない第一人者の地歩をきずいた渡辺保による本書は、ぼくが期待したよりは「歌舞伎の近代」を描いていないのだが、そのぶん黙阿弥自身の近代的人間像の矛盾が描かれていて、そこがじわじわと伝わってくる。

≪05≫  たしかに黙阿弥の明治というものは、江戸と開化の折衷なのである。そこを突破するには淡島寒月から幸田露伴への江戸西鶴の真骨頂の引導まで待つしかない。あるいは荷風にまで視座を譲るしかない。黙阿弥にはそれは無理だった。渡辺保はそこを綴ろうとした。その方法はまさに“正解”だったのだ。本書が読売文学賞を受賞したのもその視点が評価されてのことだったろう。

≪06≫  次は誰かが坪内逍遥や島村抱月を離れて「川上音二郎の明治」を書くべきである。

≪07≫ 参考¶黙阿弥についての本は、河竹登志夫『黙阿弥』(文芸春秋)、同『作者の家』(講談社)、永井荷風『江戸芸術論』(岩波文庫)などがある。ちなみに渡辺保は何を読んでも参考になる。歌舞伎のおもしろさを知るにはこの人の案内に頼るのがいまのところはベスト。

≪01≫ 漱石は最後の漢詩人だった。 葛湯を箸で練るように詩作して、 親友の子規に見せた。 しかし子規が倒れてからは、 とに暗愁を詠むことを好み、 自身も血を吐いて倒れていった。 それでも漱石の漢詩には 残山剩水がたなびき、辺角山水が息吹した。 暗愁は風流に転じたのだ。 その漱石をぼくは風呂で読む。

≪02≫  10年ほど前から、ぼくのバスルームには「風呂で読むシリーズ」が常備されている。全冊、バスルームの片隅に置いてある。

≪03≫  このシリーズは表紙もページも合成樹脂でできているので、湯水に濡れても大丈夫、ベコベコしないのが最大の魅力なのだが、それだけでなく、実はけっこう内容が充実している。たしか島田修三の『近代の名歌』や藤田真一の『蕪村』を買ってきて、その夜、バスタブに浸かりながらぱらぱら捲ってたのしんだのが最初だったと思うのだけれど、そのうち刊行されているものすべてを常備してしまった。

≪04≫  全冊を常備したのは、このシリーズの出来がいいからで、たとえば『近代の名歌』といっても子規(499夜)、晶子(20夜)、茂吉(259夜)、白秋(1048夜)、啄木(1148夜)といったところに加えて、窪田空穂と釈迢空(143夜)が入っているのが上々なのである。

≪06≫  シリーズにはさらに、万葉から『万葉恋歌』『万葉旅情』『万葉挽歌』『万葉花歌』『万葉女流群像』が組まれ、漢詩集から『陶淵明』(872夜)『杜甫』『李白』(952夜)『唐詩選』『寒山拾得』『竹林の七賢』が組まれている。

≪05≫  空穂は「え忘れずとありし時に我が母を女と知りし物寂しさを」「其子等(そのこら)に捕へられむと母が魂(たま)蛍となりて夜を来たるらし」が、釈迢空は「見お下ろせば膿(うな)涌きにごるさかひ川この里いでぬ母が世なりし」が入っていて、そのころ母を亡くして少々そのことを考えていたぼくには、風呂が懐かしくも深いものに変じたものだった。

≪07≫  そのほか『西行』(753夜)『芭蕉』(991夜)『蕪村』(850夜)『一茶』(767夜)『良寛』(1000夜)から、『放哉』『山頭火』(330夜)なども入れてある。その選別も奮っていて、風呂で読むにしては選歌・選句も解説もけっこう本気な編集になっている。とくに『井月』(454夜)が入っているのは驚いた。大星光史の選句と解説だった。

≪08≫  河童をオカに上げるのもなんだからと思って、このシリーズを風呂以外のところで読むことはしていない。むろん風呂で読むのだから一度にじっくりとは読まない。それではのぼせる。ちょんちょんちょんと読む。ときには声を出す。それがかえっておもしろく、『多読術』(ちくまプリマー新書)にも書いたように、これによって本を読むパフォーマンスやアフォーダンスが決まってきて、風呂のなかでの絶妙な読書体験が刷りこまれていったのである。「浴読」と名付けることにする。

≪09≫  ということで、この浴読シリーズをいつか千夜千冊してみようと思っていたのだが、さて、何がいいかと迷っていたところ、先だって仄明書屋での小池純代が「やっぱり漱石は文章も俳句も漢詩も、何をやらせても一番力量が安定してますね」と言ったのを理由に、今夜は『漱石の漢詩』にすることにした。すでに松岡譲の『漱石の漢詩』、中村宏の『漱石漢詩の世界』もある。

≪010≫  漱石(583夜)には漢文的素養をつけるのが自身の性分に合うと思っていたふしがある。幼年時代から漢籍を教えられ二松学舎に学んだあとは、やがて漢詩にも挑むようになった。

≪011≫  もっとも漢詩についてはごく初期に長尾雨山(3夜)の指導をうけた以外は、ほぼ独学だった。独学であり、かつ発表しない漢詩でもあった。読者を想定しなかった漢詩なのである。そこを吉川幸次郎(1008夜)は、日本人の漢詩のなかで例外的にすぐれていると褒めたうえで、それは“思索者の漢詩”であるからだろうと言った。全部で208詩があった。けっこう多い。

≪012≫  漱石に漢詩を催させたのは子規(499夜)である。明治21年、子規は一高在学中の暑中休暇を向島の月香楼にすごして、その感興を漢文・漢詩・和歌・俳句・謡曲・擬古文などにした。これはこれでたいへんな若い才能の開花だった。「蘭(ふじばかま)之の巻」「萩之巻」「女郎花之巻」など7巻からなるもので、『七草集』と名付けた。それを友人たちに回覧し批評を求めたおり、漱石が漢文で応え、さらに漢詩を添えた。このとき初めて「漱石」の号が使われた。

≪013≫ 骸骨 化して成る 塚上(ちょうじょう)の苔

今に干(おい)て 江上 杜鵑(とけん)哀し

憐れむ 君が多病多情の処

偏(ひと)えに梅児の薄明を弔い来たる

≪014≫  謡曲『隅田川』の梅若伝説を下敷きにして子規の病いを慮ったもので、いまでも隅田川ではホトトギスの悲しい声が聞こえてくるが、病気がちの君も梅若丸の死を悼むためにここに来たのだろうというのだ。

≪015≫  翌年、漱石は4人の友人を伴って房総を旅行した。そのときの紀行文が明治を代表する漢文の名文として名高い『木屑録』(ぼくせつろく)で、そこに14首の漢詩が挿入されている。『木屑録』は日本人が一度は読むべき漢文というほどの名文である。やはり若い才能の開花だった。

≪016≫ 南の方(かた)家山を出でて百里程

海涯 月黒く 暗愁生ず

濤声一夜 郷夢を欺き

浸(みだ)りに故園 松籟の声を作(な)す

≪017≫  わが家をあとにして、はるか南の百里ほどのところにやってきた。海の向こうには月が暗く浮かび、言いしれぬ愁いが暗く染み出してくる。一晩中ずうっと聞こえている波の音は、ふと故郷に帰ったのかと思わせるような松風の音に似ている。

≪018≫  そういう意味の漢詩だが、このなかの「暗愁」が新しい。意識の底からやってくる理由が見えない愁いのようなものをいうのだろう。中国の漢詩には見えない熟語だ。おそらく漱石の造語であった。

≪019≫  この漢詩を綴るにあたって、漱石は「窓外の梧竹松楓、颯然として皆鳴る」と『木屑録』に示している。颯然と暗愁を感じてしまうということ、きっとこれが、漱石の生涯に去来しつづけた名状しがたい主調低音感覚であった。

≪020≫  明治23年8月、漱石は20日間ほどを箱根に遊んだ。そこで連作8詩を詠んだ。いずれも子規に送られたものだが、興味深いのはこのときの詩を前年の『木屑録』のときの詩とくらべると、どうも出来が劣ると子規が批評していることを、漱石自身があかしていることだ。そのうちの一詩は次のようなもの。

≪021≫ 

昨夜 征衣を着け 今朝 翠微に入る

雲深くして 山滅せっんと欲し

天闊(ひろ)くして 鳥頻(しき)りに飛ぶ

駅馬 鈴声遠く 行人 笑語稀なり

蕭々 三十里

孤客 已(すで)に帰らんことを思う

≪022≫  東京から30里もくると、なんだかもう帰りたくなっていると詠んでいる。子規はこれを読んで、「句々老練なり。然れども之を『木屑録』の中の詩に比すれば、彼は是れ天真爛漫、此れは則ち小心翼々」と文句をつけた。それを漱石は隠しもしなかった。そう批評されたことを嬉しがっているふしもある。

≪023≫  子規と漱石。二人は無二の親友でありながら、つねにこうした切磋琢磨をしていた。このことが漱石をあそこまで引き上げていく。

≪024≫  ついでながら、箱根に来たばかりなのに帰りたいというのは、きっと恋人への思慕のためではないかというのが、従来からの文学史家たちの憶測で、江藤淳(214夜)はその恋人というのは漱石の兄嫁の登世のことだろうと、大著『漱石とその時代』のなかで推理した。またちなみに「孤客」は漢詩にはよく出てくるが、ぼくはこれを「エコノミスト」連載巻頭言の『孤客記』という標題に援用した。

≪025≫ 快刀切断す 両頭の蛇

顧みず 人間(じんかん) 笑語の囂(かまびす)しきを

黄土千秋 得失を埋(うず)め

蒼天万古 賢邪を照らす

微風 砕け易し 水中の月

片雨 留め難し 枝上の花

大酔 醒め来たりて 寒 骨に徹し

≪026≫  明治28年4月、漱石は松山中学校に赴任して「坊ちゃん」になった。子規は神戸の病院に入院していた。さっそく漢詩を送った。上の詩がそのひとつである。まさに漱石の心情の中核を歌っていて、ぼくは痛く共感する。

≪027≫  「鋭い刀で両頭の蛇を切ってしまうように、僕は対人関係の煩わしさや功名心などは切って捨てたい。世間の者どもはどうにも、いつもさかんに笑いすぎるのだ。私はそれが嫌いだし、気にしたくもない。そもそも悠久の時間と空間においては、世間の連中とのかかわりや成功や失敗など、あっというまに埋もれてしまうもの、いずれ何が賢者で何が愚者かはあきらかになる。微風によってすら水面の月は砕け、驟雨によって花は散っていくように、世の中のことなどすべてははかない。ちょっと深酒をしてみて酔いがさめると、かくいう僕の骨身に寒さが沁みて、僕はまるで余生をこのまま松山で過ごすのかと思うと、うーん、寂しい」。

≪028≫  まあ、こんな感じの漢詩だが、30歳に満たぬ者がつくる心境としては、あまりに閑寂である。しかしぼくにも記憶があるが、しょせん男児の世間に対する気分というものはこんなもの、とくにぼくの気分として漱石に酷似するのは、世の中の連中が笑いすぎるということで、この世間に対する異和感はいまもって変わりない。帝塚山学院大学のキョージュになったとき、実は教室でちょっとした話をしてみて一番に感じたのは、この連中が笑いすぎるということだった。大阪のせいではない。その後も、この「笑語日本」はますます増長しつづけている。

≪029≫  漱石を千夜千冊するとき、ぼくは『草枕』を選んだ。そしてグレン・グールド(980夜)の『草枕』への傾倒を重ね、そこへぼくの思いをかぶせた。

≪030≫ そのときは書かなかったが、実は『草枕』にはいくつかの漢詩が挿入されている。綴りながら作ったのではなく、それ以前に作った漢詩を挿入した。『春興』や『春日静坐』などだ。

≪031≫  その『草枕』のなかで、詩を作ることの漱石なりの秘訣を書いている。葛湯を練るのに譬えているのだが、これがすこぶるおもしろい。上田三四二(627夜)は雑巾を絞るように短歌を作ることを教えたが、漱石の葛湯を練るようにというのは、なかなかのもの、文筆に関心のある者のため、あえて全文を引用しておく。

≪032≫  「葛湯を練るとき、最初のうちはさらさらして、箸に手応えがないものだ。そこを辛抱すると、漸く粘りが出て、攪(か)き淆(ま)ぜる手が少し重くなる。それでも構はず、箸を休まず廻すと、今度は廻し切れなくなる。仕舞いには鍋の中の葛が、求めぬのに先方から争って箸に付着してくる。詩を作るのはまさに是だ」。

≪033≫  「葛湯を練るとき、最初のうちはさらさらして、箸に手応えがないものだ。そこを辛抱すると、漸く粘りが出て、攪(か)き淆(ま)ぜる手が少し重くなる。それでも構はず、箸を休まず廻すと、今度は廻し切れなくなる。仕舞いには鍋の中の葛が、求めぬのに先方から争って箸に付着してくる。詩を作るのはまさに是だ」。

≪034≫  なるほど、なるほど、そうだろう。求めぬのに先方から争って箸に付着してくる、というのがいい。たしかにそうだ。歌や詩だけではない。文章もそうである。葛が箸にくっついてくるように文章も書くべきだ。

≪035≫  しかしながら漱石は、そのように葛を廻しつづけていたにもかかわらず、自身ではたえず苦悩したようだ。文章も漢詩もろくなものが書けていないと自戒していた。それも30歳をすぎるとますます苦悩した。とくにイギリス文学を学びながらこれに納得できず、そのぶん日本の文芸や趣向に加担している自分を感じて、そこで「両洋の視座」にどう踏んばるかという責任のようなものを感じるようになった。こんな漢詩を明治32年に書いている。

≪036≫ 眼識東西字  眼に識る 東西の字

心抱古今憂  心に抱く 古今の憂い

廿年愧昏濁  廿年(ねんねん) 昏濁を愧(は)じ

而立纔回頭  而立 纔(わず)かに頭(こうべ)を回(めぐ)らす

静座観復剥  静座 復剥(ふくはく)を観(み)

虚懐役剛柔  虚懐 剛柔を役(えき)す

鳥入雲無迹  鳥入りて 雲に迹無く

魚行水自流  魚行きて 水自ずから流る

人間固無事  人間(じんかん) 固(もと)より無事

白雲自悠悠  白雲 自ずから悠悠たり

≪037≫  「僕は東洋の文字と西洋の文字をおぼえてから、両方の文化を理解はしたが、その結果、かえって心に時間と空間をこえた憂愁を抱くようになってしまった。これまでの20年間、まったく愚かで乱雑なことばかりしてきて、愧(はじ)るばかり、やっと30歳になってその過去を顧みる気になった。そこで静かに反省してみると、少しは気分が落ち着いて、柔らかいものと剛毅なものとの両方に接していていいのだと思えるようになってきた。水も魚も雲も、どこにもとどまってはいない。僕もそうありたい‥‥」。

≪038≫  こんな気分であろう。まさにのちの「則天去私」を思わせる漢詩であるが、そのぶん苦悩の深さも窺い知れる。

≪039≫  しかし漱石はそう詠んだ矢先に、文部省から拝命を受けてロンドンに向かったのである。あまりにも憂鬱きわまりないロンドンへ。海外嫌いのぼくに、もしもそのような拝命が来ていたら、どうしただろうか。きっと断ったにちがいない。外つ国というもの、とくに体を運んでみるものではなくとも、詩歌の裡に隠されていってよいものなのである。

≪040≫  漱石が「日本に好(よ)きものあるを打ち棄てて、わざわざ洋書にうつつを抜かすことほど馬鹿ばかしいことはない」と考えていたことは、随所の感想に出ている。一般にはこの感想は、鴎外(758夜)の登場に対する驚愕と反発にもとづいていると憶測されてきたのだが、ぼくは必ずしもそうとは思わない。江藤淳も推察していたが、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』に主人公の名がないということに、すでに漱石の西洋文学の主人公主義に対する抵抗が見られていたはずなのである。主人公なんて誰だってかまわないのだというこの姿勢は、漱石の文学と人生を語るには、もっと注目されていい。

≪041≫  イギリスに留学して帰国してからの10年、漱石は漢詩を作っていない。いまや国民文学とさえなった『こころ』『三四郎』『それから』などの小説創作に傾注したからだが、自身ではその作品を決して気にいっているわけではなかった。漱石という人、自分の制作物が他人にどう見られるかということを振り払いたくて書いているようなところがあるのだ。

≪042≫  こうして明治43年の、43歳になった6月、胃潰瘍で内幸町の長与胃腸病院に入院した。入院は1カ月におよび、やっと退院できたその日に久々に漢詩を書いた。日記には「沈吟して五言一首を得た」と綴っている。

≪043≫  「来たり宿(しゅく)す 山中の寺 更に加う 老衲(ろうのう)の衣 寂然 禅夢の底(うち) 窓外 白雲帰る」。こんな平凡な詩だ。とても葛湯を練ったとは思えない。

≪044≫  平凡な詩ではあるが、ここには漱石がずっと空想しつづけた禅林生活のようなものが詠まれている。老衲の衣というのは禅僧が着る法衣のことで、寒かったのでそれを貸してもらって上に羽織ったというのだ。これがその後の漱石の“何か”を暗示していたことは、続く8月に伊豆修善寺に転地療養のために行って菊屋旅館に逗留したとき、大量の吐血があって危篤状態に陥り、それをやっと脱した9月20日と25日の日記に次のような2つの漢詩を詠んだことに如実した。

≪045≫ (9月20日の漢詩)

  秋風 万木を鳴らし 山雨 高楼を撼(ゆる)がす

  病骨 稜として剣の如く 一灯 青くして愁えんと欲す

≪046≫ (9月25日の漢詩)

  風流 人 未だ死せず 病理 清閑を領す

  日々 山中の事 朝朝 碧山を見る

≪047≫  ここには、九死に一生をえながらも刀剣のように痩せぎすになった漱石の、それでも青く愁炎しようとも、青山(せいざん)を見据えようともする、壮絶な静寂が歌われている。

≪048≫  とくにあとのほうの9月25日の漢詩は、自分はまだ死んでいないので修善寺の山中で清閑ともいうべき風流を感じることができているというもの、ぼくはおおいに注目している。ここに漱石の最後の日々に向かって良寛(1000夜)の書や詩に傾倒していくあの感触がはっきりと方がしていると感じるからだ。

≪049≫  それはその前の詩の「寂然 禅夢の底」にあきらかにつらなるもので、さらには菊屋旅館になお逗留しているときに詠んだ10月7日の次の一詩にもつらなるものとなっている。

≪050≫ 傷心 秋 已(すで)に到り 

  嘔血 骨 猶存す

  病起 何(いず)れの日を期せん 

  夕陽(せきよう) 還(ま)た一村

≪051≫  これを痛ましいと思って読んでは、こちらも変になる。漱石は自身の病骨をむろんのこと多少は愁いながらも、しかしそれをもって俗塵を離れて日本山水に思いを致すことができたことによって、その愁いを新たな風流に変じさせようとしているのであって、それがやがて良寛への傾倒となるのだから、そうであるのなら、こちらも湯船に半ばゆっくり沈みながらも、その「胸中山水」を思えばよいわけなのだ。

≪052≫  それを証かしている有名な『題自画』がある。『山上有山図』をみずから描いて、そこに書き付けた漢詩だ。大正元年11月のものだとされている。こういうものだ。

≪053≫   山上に山有りて 路 通ぜず

  柳陰に柳多く 水 西東

  扁舟 尽日(じんじつ) 孤村の岸

  幾度か 鵞群(がぐん) 釣翁(ちょうおう)を訪(と)う

≪054≫  漱石が自画に自身で賛を入れた最初のもので、なかなか愉快である。病身の漱石や病気上がりの漱石をつかまえて愉快とは何事かと思われるかもしれないけれど、愉快と思わないほうがかえって漱石に失礼なのだ。ここは漱石が新たな風流の愉快を知ったわけなのである。漱石自身も、そのことを「天来の彩文」と書いている。

≪055≫  本書には引用されてないが、『思ひ出す事など』に次のような箇所がある。ちょっと長くなるが、なかなかいい。次のような箇所だ。

≪056≫  「病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他(ひと)も自分を一歩社会から遠ざかった様に見て呉れる。(中略)さうして健康の時にはとても望めない長閑(のど)かな春が其の間から湧いて出る。此の安らかな心が即ち、わが句、わが詩である。

≪057≫  (中略)病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため閑に強ひられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むつちりとした余裕を得た時、油然(ゆうぜん)と漲り浮かんだ天来の彩文である。吾ともなく興の起るのが既に嬉しい。其の興を捉へて横に咬み堅に砕いて、之を句なり詩なりに仕立て上る順序過程が又嬉しい」。

≪058≫  実生活の圧迫を逃れた心が本来の自由に跳ね返って、油然と漲り浮かんだ天来の彩文をもらえる。これが風流だと漱石は悟ったのだ。それを俳句や漢詩をつくることによって手にできることを知ったのである。なかで「興」をことのほか大切にしているところは、漱石の流石(さすが)であった。「興」が何を意味しているかは、ぼくの『白川静』(平凡社新書)を見てほしい。

≪059≫  漱石は大正5年12月9日に胃潰瘍を悪化させたまま亡くなる。その2週間ほど前の11月20日に、最後の漢詩を綴った。絶筆だった。これまでの漢詩の集大成ともいうべき出来で、いよいよ禅味が漲っている。

≪060≫   真蹤(しんしょう) 寂莫として 沓(よう)として尋ね難く

  虚懐を抱きて古今を歩まんとす

  碧山碧水 何ぞ我有らん

  蓋天蓋地 是れ無心

  依稀(いき)たる暮色 月は草を離れ

  錯落たる秋声 風は林に在り

  眼耳(がんじ)双つながら忘れて 身も亦た失い

  空中独り唱う 白雲吟

≪061≫  真蹤は禅にいう真法のこと、いわゆる本来の面目である。それを求めたいのはやまやまだが、いまだに私心があっては、それもままならない。自分はいま『明暗』などとという小説でまことにつまらぬ俗塵のことを書き始めてしまい、これでは「何ぞ我有らん」と思わざるをえない。

≪062≫  ひるがえって古今の時空や碧山碧水は、この眼前の夕暮の景色のなかにもある。禅に「眼耳双忘」というけれど、この景色にだって心身を打失するような気分を感じることはできるにちがいない。自分はそろそろ死ぬかもしれないけれど、こういう気分でいられるのなら、空中で独吟するつもりのままでありたいものだ。

≪063≫  こんな気分の詩であろうか。しかし、この詩は淡々として平凡でもある。ぼくは何度か口ずさんでみたが、とくに驚く言葉は競っていない。それなのに、とてもよく響いてくる。

≪064≫  漱石がこのような漢詩を綴るようになったのは、修善寺以来のことだった。それから多くの詩を書いてきたわけではないが、しだいに風流は極まってきている。『明暗』を未完におわらせても、この漢詩は綴っておきたかったのだという思いが伝わってくる。やはりここには良寛がいる。

≪065≫  かつて、未詳倶楽部の面々と修善寺に遊んだことがある。いまなお悄然とその面影を保っている菊屋旅館とは目と鼻の先だった。その面々は別の日、ぼくの55歳の誕生日をまた修善寺で祝ってくれた。このとき、ぼくの漱石の漢詩が浮上した。

≪066≫  それより以前、ぼくの漢詩の好みはゆっくり中国のものとはべつに日本漢詩に動いていた。最初は五山僧たちの漢詩と蕪村にゆさぶられたのだが、やがて江戸の漢詩のおもしろみに移り、菅茶山、頼山陽(319夜)、広瀬淡窓などをゆらゆらしながら、ついに良寛におよんでおおいに感応した。

≪067≫  だからぼくにとっての漱石の漢詩は、もともと良寛の延長にある。それがいい読み方なのかどうかはわからないが、そう読むのが気分がとても落ち着くのだ。

≪068≫  今週末、久々に未詳倶楽部の面々と良寛の里を訪れようと想っている。寺泊(てらどまり)から出雲崎に入るつもりだ。漱石と良寛を眼耳双忘して感じたい。ちなみに寺泊にはかつて菊屋という旅籠があって、ここに渡海する前の順徳天皇や京極為兼が泊まった。修善寺の菊屋とは異なるが、何かを想わせる。寺泊にはまた、良寛が30代の終わりに越後で転々としていたときに逗留していた照明寺がある。 良寛は庭先の密蔵院に住んでいた。

≪069≫  その良寛のすべての原景はやはり出雲崎にある。いまは良寛堂となっているあたりに橘屋という生家があった。良寛はここで青年期までをおくるのだが、父親の山本以南が桂川に投身自殺してからは、ひたすら禅に向かい、そのあげくに越後に戻って風流に遊んだ。出雲崎はその原風景を孕んでいる場所なのである。

≪070≫  良寛となった漱石。その漱石に、良寛の漢詩「城中 食を乞い了り 得々として嚢を携えて帰る 帰来 知る 何れの処ぞ 家は白雲の陲(ほとり)に在り」を彷彿とさせる詩がある。大正5年10月22日のものである。

≪071≫ 
西隣乞食帰  西隣 食を乞いて帰る

帰来何所見  帰来 何の見る所ぞ

旧宅雨霏霏  旧宅 雨 霏霏たり

≪01≫  【知と編集】 大雑把にふりかえって申し上げると、ぼくは空海(750夜)の『三教指帰』(さんごうしいき)と富永仲基(とみなが・なかもと)の『出定後語』(しゅつじょうこうご)によって、「日本人の知」というものがどのように醸成されるべきか、錬磨されるべきか、編集されるべきかということをあらかた掴んだと思っています。この2冊をあまり時をあけずに読んだことで、何かがピンときた。

≪02≫  2冊ともに若い空海と仲基が一気呵成に書いたもので、日本人が海外思想を受けるときに使うべき「思考の型」はどんなものがいいのか、どんな「知の苗代」を用意していけばいいのか、二人はそこを追った。ここで言う海外思想とは、儒教・仏教・道教というインド・中国・朝鮮半島・アジアからやってきたものをさしています。

≪03≫  二人は共通の前提として、知や思想というものは時代の遷移とともに著述されてきた産物の「捩れた連鎖」だという見通しを提示しました。今日の知識情報社会では、そんなことは当然のことだと思われるでしょうが、そんなかんたんではありません。東洋の多神多仏的な知の潮流を前にしてこういう見通しを明確にもつのは、かなり大変なことだったと思います。

≪04≫  たとえば本居宣長(992夜)は、古事記などがまとめた「日本の知」の始原と本来をじかに訊ねるには、あえて「漢意」(からごころ)を排して臨むしかないという決断をしたわけですが、空海と仲基はそうではなくて、漢意をふくむ「儒意」も「仏意」も「道意」もすべて自身に通過させながら思考するという方法を採った。のみならず、これらを受容する過程でおのずから動くであろう日本側のフィルターである「神意」も入れこんで検討した。こういうことは、めったにできることではありません。

≪05≫  これはぼくの言い方で言いなおせば、世の中の大半の思想は編集的産物なんだから、その産物群に対してどんな編集力が試されるのかということになります。そうではあるんですが、ただ、そう見ただけでは足りない。その編集力に「日本語の知」や「民族の思い」や「土地の伝承」などがはたらいていくとき(しばしばそうなっていくのですが)、そこをどうするかという問題も解読しなければならないからです。これは面倒です。でも空海と仲基はその問題、今日なら文化人類学的な問題ということになるような、そういう問題にも向かったのです。

≪06≫  【日本の知というもの】 ぼくは多くの書物から影響を受けてきました。なかで「思考の型」や「思想の見方」についての影響がとても重要なのですが、それだけならライプニッツ(994夜)、ヴィーコ(874夜)、ヴァレリー(12夜)、シュレディンガー(1043夜)、サルトル(860夜)、カイヨワ(899夜)などからの影響はたいそう甚大でした。けれども、今夜話しておきたいのはそちらの話ではなくて、日本人が海外からやってきた外来思想をどう編集したのか、そのときの日本人の「思想の見方」こそが大事なのではないかということなのです。

≪07≫  このとき仏教が大きな思想潮流として浮上してきます。もちろん儒教も道教も老荘思想も海外から届いてきたものですが、儒教儒学を日本人が編集できるようになったのは藤樹、蕃山、仁斎(1008夜)、徂徠(1706夜)あたりからで、老荘思想となると禅林五山の受容プロセスとともに咀嚼されてきたものなので、容易には形成の手順がつかめない。

≪08≫  それにくらべると仏教ははっきりしています。インドに発して、敦煌などをへて北魏・漢・隋唐で漢訳されたものが日本に入ってきたのですから、これを漢音・呉音まじりで読解しながら、馬子や聖徳太子や道昭がその発想や意図がどういうものなのかを理解したわけなので、そこには「文字づかい」「言葉づかい」とともに仏教についての「思想の見方」ができあがってきたとみなせるのです。こういう思想潮流は日本の歴史の中では仏教だけではないか、それも延々と時間と流派と信仰をつないで理解しようとしてきたのは仏教だけではないかと思います。

≪09≫  つまり日本人にとっての仏教は、パウロの編集によって確立したキリスト教をドイツ人がどう見たのか、スラブ人がどうしたくなったのか、イングランドはどうしたのかということに匹敵するものだったのではないかと思われるのです。ドイツ人はプロテスタントを編集し、イギリスは国教会に組み替え、スラブ人はロシア正教をつくったわけでしょう。

≪010≫  このように眺めてみたとき、古代の空海と近世の仲基の二人が、仏教をどのように見たのかが大きなヒントになるのです。空海からは律令や南都六宗こそ始動していましたが、いまだ格式(きゃくしき)や仮名のない時代の見方がつかめます。仲基からは、空海の時代の日本仏教観が1000年を閲したのちに何を受け止めたのかが見えてくるのです。ちなみにこの二人にいちはやく目を付けたのは内藤湖南(1245夜)でした。明治期、空海にも仲基にも注目できたのは湖南だけでした。

≪011≫  【上方の異端力】 帝塚山学院大学の人間文化学部で教えていたころ、大阪の某所で「関西の知」をあれこれ話してみたことがありました。「上方伝法塾」として、毎月1回4時間ほどずつ話題を替えて1年ほど続けたもので、武内宿彌と崇神天皇と葛城襲津彦、言霊と一言主神と人麻呂、天台と山王日枝と隠棲思想、京都五山と近江永源寺の寂室元光、紹鴎の様式と蓮如の言動、近松の浄瑠璃と蕪村の俳句、清沢満之の改革とプラトン社の出版方針などにまつわる話を順にしたのですが、なかで懐徳堂と適塾、ならびに富永仲基と山片蟠桃(やまがたばんとう)のことを「あれは江戸や京都では生まれません」と強調しておいたものです。

≪012≫  知の編集にはその土地や風土のトポスと、言葉づかいのクセとが深く関係しています。これを無視しては知や思想の特色はつかめません。「関西の知」にもそこが微妙に投影していて、そこを読みちがえると当たり前の学術観しか手にのこらない、なかでも奈良・近江・京都・摂津(大阪)・播磨(兵庫)・伊勢などの違いはとてもたいせつなもので、たとえば近松(974夜)や西鶴(648夜)や木村蒹葭堂(1129夜)のセンスは大坂でしか生まれない。かれらは大坂の知を活した逸材なのですね。学び方そのものではなく、学びの博め方がちがっているんです。

≪013≫  五同志の町人たちが基金を出しあった懐徳堂もそのひとつで、とうていほかの地域では誕生しなかった学校です。4代学主の中井竹山、5代の中井履軒のころが絶頂期で、江戸の昌平坂学問所とはまったく異なる人材を輩出しています。『夢の代』を著して格物致知を踏査した山片蟠桃、『三貨図彙』で日本貨幣史にとりくんだ草間直方など、とびきりです。そういう渦中に仲基が登場します。

≪014≫  【痛快・懐徳堂!】 15歳のころまでの仲基は懐徳堂で意気は軒高、闘志は溌剌と学んでいた青年でした。ところが破門されてしまった。いまは遺失したままの『説蔽』(せつへい)を綴って「儒」を批判したからでした。まさに空海が『三教指帰』でやってのけたことと同じです、三宅石庵に儒を学びながら、その当の石庵によって破門されたんですね。きっと早熟で生意気で、クリティカルな才気の持ち主だったのだろうと思います。

≪015≫  懐徳堂で学んだのは、大坂北浜で醤油や漬物を営んでいた父親の富永芳春こと道明寺屋吉左衛門が、実は懐徳堂のそもそもの設立に与かった五同志の一人だったからです。仲基はそのお父さんの縁あって、弟の定堅とともに通っていたのです。石庵は初代の学主でした。

≪016≫  もう少し正確にいうと、石庵は浅見絢斎(けんさい)門下の陽明学者で、江戸や京都で塾を開いたものの成功せず、大坂に移っていくつか拠点を変更するうちに、仲基の父の道明寺屋の隠宅を借りるようになった。だから息子たちがそこに出入りするのはいわば家族パスポート付きのようなものだったわけです。ただ、それに増長して勝手なことを言いはじめたのでしょう。それで生意気を綴って、顔を洗いなおしてこいと言われたのでしょう。

≪017≫  まあこのへんのことは『説蔽』が失われているので、どこが生意気なのかなんとも言えないのですが、江戸の儒学は、林羅山から仁斎・徂徠・蕃山あたりのメインストリームの流れだけ見てもかなりの違いがあるのだから、15歳とはいえ才気溢るる仲基が「儒の限界」に気づいて文句を付けたとしても、おかしくはありません。

≪018≫  【一切経と東洋文化】 破門ののち、仲基は今度は池田の田中桐江(とうこう)の門に入ります。桐江は柳沢吉保(よしやす)に仕えた儒者で、徂徠などとも通じあったりしていたのですが、裂帛な気性のせいか、吉保の奸臣に刃傷(にんじょう)をはたらいて奥州に引かざるをえなくなったあと、しばらくして大坂の池田で呉江社を開きました。池田は昭和文化でいえばタカラヅカが生まれた場所ですね。

≪019≫  仲基はそういう桐江を尋ねて詩文の技を修め、何をどう書けば自分の直観や思想が表現できるのか、そのスキルを獲得していった。このあたり青年空海が最初に詩文漢文の技を磨いていたことと似ています。

≪020≫  しかしそのうち、もっと仏教の原典に当たりたいと感じるようになった。そこで宇治の黄檗山萬福寺で一切経の校合に従事する。これでたちまち仏典に夢中になって読みまくったようなんです。読みまくって読みまくって、しかしなんともいえない疑問をもったんですね。

≪021≫  儒教も儒教だが、仏教も仏教だ。これが「誠の道」を求める探求の歴史だったのか。きっとどこかに問題がありそうだ。こう感じた仲基は元文3年、まだ24歳ではあったけれど、さる翁があるとき自分に語った繰り言を紹介するという仕立てにして、『翁の文』を綴ります。儒教・仏教・神道についての不満の一端をぶちまけたのです。空海の三教比較の手法に似ていますが、空海が仏教に軍配を上げたのに対して、仲基は仏教にも文句をつけた。

≪022≫  ただし、この文句は理論的というものにはなっていません。日本の仏教はインドの真似をしているが、そんなことはやめなさいと言うばかりなんです。

≪023≫  たとえば、インドでは片肌を脱いで合掌するけれど、そんなことを踏襲して何になるんだ、国柄のちがいや時代のちがいを弁(わきま)えなさいと、そればかり言うんですね。仏教はインド的すぎるし、儒教は中国的すぎる。それは日本の道ではない。神道は日本の道だけれど、時代が変わってきたのだからそこを弁えたほうがいい、そう批判するのです。「仏は天竺の道、儒は漢(から)の道、国ことなれば、日本の道にあらず。神は日本の道なれども、時異なれば、今の世の道にあらず」と書いています。

≪024≫  仲基は日本が選択すべき道を示したいのです。ただ『翁の文』にその気概は大いに満ちているのですが、せっかく一切経に目を通したわりに仏教の思想性にふれていないのが、不満です。もっとも、釈尊は「インドの真似をしなさい」とは言ってはいないと指摘しているあたりが、たいへんおもしろい。かつてスーザン・ソンタグがぼくに向かって「日本の仏教はインドや中国にこだわっちゃダメよ。ソフィスティケーションで行きなさい」と言ったことが思い合わされるところです。

≪025≫  ちなみに『翁の文』は岩波の「日本古典文学大系」97『近世思想家文集』、中公の「日本の名著」18に入っています。

≪026≫  【出定後語を書く】 というわけで、『翁の文』はドラフトのレベルだったようです。仲基は7年後の31歳のとき『出定後語』を書いて、いよいよ持論を綴り、日本仏教の今後の編集可能性ともいうべきを示します。ちなみに原文はすべて漢文。

≪027≫  タイトルの『出定後語』の出定とは「禅定から出る」(悟りから出る)という意味で、したがって出定後語は「釈尊が禅定によって悟りを開いた後に語ったもの」といった意味になります。これはよほどの自負がないと言えない。仲基は自分のことを“出定如来”などと嘯いていたところもあって、そうとう自信に満ちていたようです。

≪028≫  鼻持ちならないといえば、たしかにそういうところはあるけれど、そう言いたくなる理由はわかる。仲基が「真理を発見したい」とか「発見した」ということには関心がないんです。それよりも真理を発見したという思想、それは世の中にいくつも並立したり、競いあってきたものでもあるのだけれど、そういう発見の言説を検討して新たな編集的未来を示したいのだと、そういうふうに思っているのですね。どんな編集的可能性を示したのかは、このあと説明します。

≪029≫  ところで、あらかじめ言っておきますが、仲基は『出定後語』を書いた翌年、病没してしまいます。32歳で夭折したのです。年来の病弱のせいだとも、3歳の娘を亡くして沈んでいたせいだとも、いくばくかの死因が議論されていますが、よくわかりません。ともかく『出定後語』が遺作になってしまった。もう少し長生きしていれば、きっとさらに瞠目すべき著作が綴られただろうと予想できますが、まあ、それは言いっこなしでしょう。

≪030≫  今夜の『出定後語』のテキストは漢文・訳文ともに隆文館版にもとづきました。ほかに「日本思想体系」43(岩波書店)、「日本の名著」18(中央口論社)があります。ただし中公版の加藤周一による解説はつまらないものです。

≪031≫ 【加上の理論】 仲基が一切経を流し読んで見抜いたこと、それは仏教が「加上」でできあがってきたということです。加上というのは、言説による思想は先行する言説を媒介にして、そこに新たな思想や主張を加えて進んでいくということを言うのですが、仲基は仏教がまさにこの加上によって構成されてきたというふうに喝破したのです。

≪032≫  歴史のなかで言説が変化してくるのは当たり前のことです。ギリシア哲学史や啓蒙思想史の教科書を見れば、さまざまな言説や主張がしだいにヴァージョンや分派を生み、そこに新説や異論が加わって変更がおこり、それがまたいくつか組み合わさって発展していったことは、すぐわかります。

≪033≫  しかし、これは内容重視、もしくは理屈(論理)重視の見方で、時代や思想者が一定の世界観のしくみに達した単位(ユニット)を観察しているものではありません。何であれ歴史的な言説はそういうふうに上書きされ、組み合わさっていったと言っているにすぎない。

≪034≫  しかし、これは内容重視、もしくは理屈(論理)重視の見方で、時代や思想者が一定の世界観のしくみに達した単位(ユニット)を観察しているものではありません。何であれ歴史的な言説はそういうふうに上書きされ、組み合わさっていったと言っているにすぎない。

≪035≫  このことはたんなる系譜の発展ではありません。レヴィ=ストロース(317夜)はそこには「ブリコラージュ」がはたらいていると見ました。ブリコラージュは「修繕する」という意味ですが、修繕は何かもともとの靴とか屋根とかのモデルがあって、なにかの綻びのたびに修繕するというふうになります。それと同様に、神話や伝説はたんに上書きされていったのではなく、そのつど主人公や脇役や部品を変えて、しかもそのたびに世界観のユニットの様子が変わって、組み立てられていったと見たのですね。

≪036≫  現代中国で北京大学哲学科を出て歴史研究に入った顧頡剛(こけつごう)も似たようなことを言っています。中国神話は周の時代、春秋時代、戦国時代、秦の時代にそのたびに古い皇帝の者が加わって形成されていったと見たのです。

≪037≫  仲基の言う「加上」もこちらに近い。仏教はたんに上書きされていったのではなく、ノンリニアな編集を加えながら補填・変更・組み直し・跳びうつりを重ねていったというのですね。ぼくは編集工学ではこれを「乗り換え、着替え、持ち変え」がおこっていくというふうに見ています。またそこには必ずや「アナロジー、アブダクション、アフォーダンス」という3つのAに代表される変容がおこっていると見ています。

≪038≫  では、なぜ仏教が神話や伝説のように加上されていったのか。問題は、ここです。仲基はそうとうに詳しくインド仏教と中国仏教の変遷を調べ、その変化をつぶさに見抜き、仏教にはいつしかブッダの言説が当初のものとはちがって、のちのち加上されたものに再設定されてしまったと指摘したのです。

≪039≫  【三物五類という見方】 仲基は、加上という現象が「三物五類」によっておこると見ました。三物というのは「言に人あり」「言に世あり」「言に類あり」のこと、言葉をつかっている以上、必ず人や時代やスクールによって説明が変わってくるということですが、これは言うまでもないことでしょう。

≪040≫  なかで「言に類あり」は用法による加上の重視です。用法には注目点が五つあると見ました。それが五類で、「張・泛(はん)・磯(き)・反・転」があるとした。概念の設定のぐあいや言葉づかいによって、言説思想には強調、誇張、毀誉、褒貶、比較不能、未熟、意味とりちがい、展開ちがい、反転現象がおこると見たのです。

≪041≫  また、異なる言説は和解しがたくなるので、ここをむりに突破しようとすると加上が歪んでいくとも指摘しました。「異部の名字は必ずしも和会しがたし」と書いている。もうひとつ重視したのは「国に俗あり」ということで、思想や信仰には「国ぶり」がある、それを捨象して議論を進めるのも加上を歪ませると見たのですね。日本ではもともと「風俗」と綴ってこれを「くにぶり」と読んできましたが、仲基は仏教史にも民族学的あるいは民俗学的な「くにぶり」の視点を導入するべきだと促したのです。

≪042≫  このあたり、内藤湖南を筆頭にして、村上専修、中村元(1021夜)、三枝博音(1211夜)、山本七平(796夜)らが腰を抜かして驚いた仲基の卓見です。

≪043≫  【大乗非仏論の仮説】 さて、仲基の加上理論で仏教の流れを見ていくと、大きな疑問が立ちはだかりました。それは「大乗非仏」という問題です。

≪044≫  これは大乗仏教はブッダが説いたものではないというもので、それを「大乗非仏説」と呼んでいます。インドにおいてもすでに何度か議論されていたもので、アサンガ(無着)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟の『大乗荘厳経論』でも採り上げられています。大乗仏教というのは菩薩道を重んじ、縁起や他力を重視する教えですが、そんなことはブッダは言ってなかったじゃないかという議論です。

≪045≫  実際はどうなのか。紀元前6世紀ころのブッダの言説から数百年たって、まずは小乗仏教が、ついでアショーカ王のころに大乗仏教が組み立てられたのですから、当然のことながらブッダは大乗仏教を説いていないのです。ブッダがじかに言明してることを仏教史では「金口直説」と言って、ビールの“金麦”のように”金口”というふうに扱うのですが、大乗仏教は“金麦”ではないんですね。これは言い逃れようがない。

≪046≫  けれども仏教徒、とくに大乗仏教徒はブッダの発想や構想には大乗のルーツがあるはずで、そこに大乗の華、菩薩道の華が咲いていた、少くとも「つぼみ」はあったはずだと考えたいわけです。大乗仏教の経典、法華経や華厳経はそういう「蓮」「華」をちゃんと説いている。そう確信したくなるのは人情です。けれども、実際にはブッダはそんな言説を放ったわけではなかった。

≪047≫  しかし、ここからが大事なところですが、仲基は時代がずれているから「大乗非仏」だと見たのではないんですね。むしろ仏教の思想史はそこをうまく加上していない、しっかりした編集ができなかったのではないかと見たのです。

≪048≫  たとえば華厳経はヴァイローチャナ(ビルシャナ仏)というスーパーイコンを想定して、そこに法界を説明しようとしたのだから、その華厳法界がブッダの認識や発想にあったなどと言わなくてもよかったのではないか。また密教はその華厳の法界に大日如来(マハーヴァイローチャナ)を想定して、独自の秘密曼陀羅荘厳心を説いたのだから、それでいいのではないか。それらは加上がうまくいったのだから、それをむりやりブッダに帰属させようとすると、三物五類が暴れだすのではないか、実際にもそうなってしまったじゃないかと、そのへんを指摘したのですね。

≪049≫  大乗非仏説は仏教に難癖をつけたい思想潮流には格好の武器になるため、さまざまな場面で持ち出されてきました。日本では明治以降に姉崎正治や村上専精や前田慧雲が大乗仏教の前提を検証し、増谷文雄や中村元や三枝充悳によってブッダの金口直説になりうるのは阿含経典であろうという中間結論を出しました。中村・三枝の『バウッダ』(小学館→講談社学術文庫)にはそのことが書いてあります。

≪050≫  しかし、まだまだ定説は出ていない。現代の仏教論や仏教史論においてはいまなお議論が続いているのです。ぼくはいったん仲基の裁断に戻ったほうがいいと思っています。世界観の部品構成のブリコラージュ的編集力によって仏教史を組み立てなおすという方法です。

≪051≫  【仏教史を解く】 『出定後語』は読めば読むほど示唆されます。科学や哲学のような真理に出会うための示唆ではなく、歴史や思想や文化や言語の変遷の見方についての示唆です。いくつかの例を出します。

≪052≫  仏教の流れを追う『出定後語』を書くに当たって、おそらく仲基はブッダ以前、ブッダ、ブッダ以降という最初期の3段階をどういうふうに加上理論でスタートを切るかということを考えたのだろうと思います。そこでまずバラモン教(ヒンドゥイズム)が生天(しょうてん)思想を加上したとみなします。インド社会は輪廻に悩んでいたので、なんとか天で生まれ変わりたい。そのためバラモン教はその天界に変化をつけるために加上していった。これが生天思想です、

≪053≫  これに対してブッダは「出家」という新たな立場あるいは界域を設けて、輪廻から天へ生まれ変わるのではなく、自分が解脱していくという方法を選んだ。天を加上するのではなく、意識(心)を加上していったのだろうと見ます。

≪054≫  続いてブッダ入滅後は、出家集団が残って三蔵(経・律・論)を分けながら前進していこうとしたのですが、そこで上座部と大衆部に根本分裂した。対立もした。そこで新たな加上をおこしたのが「般若経」を編集したグループだろう、そこに「空」という加上がおこったのだろうと解いてみたのです。

≪055≫  こういうふうに仲基は考えていって、以下、実に多くの示唆をもたらしていった。かなり斬新です。

≪056≫  経典の特徴や宗派の特徴についても仲基は独特の見方を示唆します。ぼくの見るところ、辻褄を合わせようとする経典や宗派には辛口で、矛盾を指摘するのを恐れず、「ちぐ」と「はぐ」をへいちゃらで議論するのを好んだ気がします。釈尊が三乗を説いたなどという説明は嫌いなんですね。どちらかというと、華厳や密教や禅に甘いようにも見えます。

≪057≫  仏教史を解くにあたって、「くにぶり」を見極めているところも仲基ならではのところです。ぼくはいろいろなところでこのことを紹介してきたのですが、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」と言い切っているところがたまりません。この「幻」「文」「絞」は実にうまい指摘です。インド的な神秘主義や幻想主義、中国的な文治主義や文例主義、日本的な縮み思考や細部重視感覚を強調したんですね。日本には「秘」も当てているのですが、これは日本人が「隠るること」に方法の醍醐味を感じる傾向があることを指摘しているのだと思います。

≪058≫  【仲基は天才か】 仲基は思想史だけにこだわっているわけでもありません。表象(リプリゼンテーション)についてのセンスもあったんだと思います。上巻第5章に、仏典にはたいてい「頌」が出てくるが、これは大事だ、韻を踏んで聖典を読誦するのはインドでも中国でも日本でも同じこと、教えというものはすばらしい歌唱に託されて学べるのだから、こういうものを軽視してはいけないと言うくだりがあって、ぼくはバンザイを叫びました。

≪059≫  実は仲基には『楽律考』という著作もあって、礼楽、雅楽、音律についてけっこう詳しいことを書いているんです。冒頭「およそ人は声なきに能はず。既に声あれば、律なきに能はず」と記して、ボーカリゼーションの大事さを強調していた。自分は音楽家だと思っていたふしもあって、弟と管弦を奏したこともあるらしく、横田庄一郎が『富永仲基の「楽律考」』(朔北社)という本で、その音楽性を論じています。横田さんは『「草枕」変奏曲―夏目漱石とグールド』(朔北社)を書いて、グールドが『草枕』に溺れていった理由を紐解いたノンフィクション作家です。

≪060≫  ぼくはこのへんこそに仲基の真骨頂があったんだったろうと見ています。仏教というもの、文字をどう声にするかということがやっぱり肝心要なんです。これは空海にも共通するところです。

≪061≫  こうして仲基はしばしば「夭折の天才」と呼ばれてきました。そうかもしれません。でも、どんなところが天才的なのか、そこを受け取っておくべきでしょう。そうでなければ、日本仏教はもたもたしっぱなしで、次世代に仏教の愉快を伝えられなくなってしまいます。

≪062≫  もちろん、仲基をなんとか伝えようとしている著作はいくつかあります。石浜純太郎『富永仲基』(創元社)、梅谷文夫・水田紀久『富永仲基研究』(和泉書院)、宮川康子『富永仲基と懐徳堂』(ぺりかん社)などなど。ごく最近、釈徹宗の『天才 富永仲基本』(新潮新書)という本も刊行されました。たいそうていねいに『出定後語学』をテキスト・リーディングしているもので、入門書としては最適です。ぼくがかつて『遊学』(中公文庫)に書いた富永仲基についてのエッセイをたびたび引用してくれていました。

≪063≫  たしかに仲基の著作や考え方には天才の片鱗がいろんなところに出ていると思います。それは知識の披露にあるのではなく、方法の開示に、とくに「日本語による仏教感覚」を開示したいという方法的冒険についての熱情が漲っていたことにあるのだと思います。ぼくは仏教思想をおもしろく語るには、むしろ思想の解読力よりも仏教感覚をもっと磨いたほうが高速になれるんじゃないかと思っているのです。

≪064≫  富永仲基、実際にはとても静かで、少し短気だったらしいのですが、それも天才の気質の領分だったでしょう。やはりもう少し長生きさせてみたかったと思います。

≪01≫  この本は、大学に入って最初に買った記念すべき一冊である。 ぼくは大学に入ってすぐに3つのサークルに入っている。「丹生の研究」の松田寿男さんのアジア学会、いまは鍼灸師であってセラピストになっているが、当時は有能な演出家だった上野圭一がリーダーをやっていた素描座(ここで照明技術を担当した)、それに週刊で「早稲田大学新聞」をつくっていた新聞会である(その後、グライダーとヘリコプターが好きだったので、航空倶楽部にも所属した)。

≪02≫  その3つのサークルのどこにいても、耳障りなように聞こえてくることがあった。誰もがハニヤ、ヨシモト、ハニヤ、ヨシモトと呟いていることだ。いったいハニヤやヨシモトとは何なのか。聞いたことがない。「それがな、ジドーリツなんだよ」「やっぱりマチューショだよね」などという感想もつきまとっていた。さっぱりわからない。

≪05≫  そのときの本が手元にある。ところどころに鉛筆の線が引いてあって、少しだけだが「パラノイア!」「これで非転向?」といった書きこみがある。  

≪06≫  最初に、マチューショこと「マチウ書試論」を読んで驚いた。ヨシモトは聖書の作者を問題にしているのだった。そして、「ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、マチウ書の作者の造型力から生まれたものだ」などと書いている。これはすごいとおもった。 

≪07≫  聖書の登場人物のすべてをフランス語読みしているのがキザであったが、高校時代に教会に通っていた者としては、聖書の作者の“造型力”を問題にするなどということは(いまなら“編集力”といいたくなるが)、それこそ驚天動地の発想だった。 

≪08≫  もうひとつ、こんなにのらりくらりと書いている文章が学生にウケていることに驚いた。 ぼくのそれまでの読書は、書き手の意識よりも内容の意識が先に立っていた。そういうふうに読んで、べつだん問題がなかった。それがこの本は、書き手が考えているスピードにあわせて読むしかないようになっている。そのぶん書き手の思索のなかのいくつかのポイントだけが突起してくる。そこで学生はヨシモトの論理の手順というよりも、ヨシモトが何をどこで取り上げているのか、たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」をどこで取り上げたのか、それだけを話題にできるようになる。 

≪09≫  奇妙なことだが、これこそ大学生になったあかし、その新鮮というものかとおもったほどだった。 ちなみに先輩が言った「関係の絶対性」は「マチウ書試論」の最後の最後に出てくる言葉であった。その意味が文脈からはみだしていて、当時のぼくにはさっぱり意味がわからなかった。 

≪010≫  ところで「マチウ書試論」にくらべると、本書に寄せ集められていた論文はどれもこれも政治的文学批判や文学的政治批判が多くて、つまらなかった。 そういう“意外なごった煮”の本に出会うのも初めてだった。だいたい本は一貫しているものとおもってきたからだ。 

≪011≫  もっとも、最後に収録されている「情勢論」、いわゆる文芸時評のたぐいだとおもうが、これはたのしんだ。当時ちょうど読んでいた安部公房をこっぴどくやっつけたりしているのだが、その批判の刃は誰に対しても似たようなケチのつけかたで、これはのらりくらりというよりもヨシモト印の焼印を押していく文章なのである。他人の作品や思想を病気扱いにしたり、その症状だけを問題にするという書き方があるということも、そのころのぼくの新鮮な驚きだったのであろう。 

≪012≫  ともかくも、この本ではぼくのアタマの中のいろいろな部分の目がさめた。なかでも、おそらく「書くこと」のおもしろさのようなものに気がつかされたのが、いちばん大きかったのではないかとおもう。

≪013≫  その後、ぼくは吉本隆明のよい読者とはなりえていない。『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』が大学時代に出て、あいかわらずサークルの話題になっていたので、ぼくも読んでみたが、どうしても著者と対話をしている気分になれないままに、終わった。  

≪014≫  そのかわり、大学時代は埴谷雄高にはしだいにのめりこんでいった。もう一人よく読むことになったのは谷川雁である。この三人は当時の反体制知識人の御三家だった。三人が講師のようなことをしていた自立学校というものも覗いていた。 

≪01≫  ぼくの山本周五郎遍歴は大学時代からである。先輩のゴリゴリのマルクス主義者が勧めてくれたのがきっかけだった。 彼がなぜ周五郎を読むのかは、最初に手にとった『樅の木は残った』を読みすすむうちにすぐにわかった。周五郎には人情あふれる御政談があるのだ。 

≪02≫  が、そのうち御政談ができる周五郎ではない周五郎に惹かれていった。それは黒澤明が『赤ひげ』や『どですかでん』の原作を周五郎に求めた気分とおそらく同様のもので、作者は何も主張していないにもかかわらず、そこにはすべてを感じとれる物語が路地の植木のように存分に用意され、しかもそこにはたっぷり水が注がれているということだった。 

≪03≫  『虚空遍歴』は、江戸で端唄の名人と評判がたった若き中藤冲也が、そういう評判に包まれて浮名がたつほどだったにもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれている物語である。 

≪04≫  さすがに才能のある冲也による浄瑠璃は、第一作がすぐに中村座にかかって好評を博するのだが、はたして冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていく。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまったからだった。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまう。 

≪05≫  こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていく。物語は江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転する。その変転に冲也に惚れるおけいがかかわって、独白の挿入が入ってくる。長い独り言である。おけいはもともとは色街育ちなのであるが、冲也の芸を聞き、毛虫が蝶になったような身震いをうけた女である。そのおけいが筋書の進展とは別に、淡々と胸の内をあかしていく。そうなると、そのおけいの独白が次にどうなるか、読者は居ても立ってもいられぬ気持ちになってくる。 

≪06≫  山本周五郎はこの作品を書くために40年を費やしたという。最初は『青べか物語』の一節に入れる予定だった。それがやがて「私のフォスター伝」というメモに変わっていき、さらにフォスターが時と所を越えて江戸の端唄師にワープした。こういうことができるのが周五郎の文学なのである。 

≪01≫  1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。こんな時期はその後の日本の近現代史に、まったくない。 その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”、新渡戸稲造の“Bushido“、岡倉天心の”The Book of Tea”である。 

≪02≫  内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で、内村が長らく極貧に喘いでいた34歳のときに書いた。この時期の内村は憑かれたように英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。 

≪03≫  新渡戸の『武士道』は1900年ちょうどのこと、漱石がロンドンに、栖鳳がパリに、川上音二郎と貞奴がニューヨークに向かっていた年である。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただしそこには「愛」だけが欠けていると結論づけた。天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中である。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書だった。 

≪04≫  いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著であり、このうち二人が、明治のみならず近現代を通じての日本のキリスト者を代表していることが、注目される。 なかでも内村鑑三のキリスト教は激越なもので、他の追随を許さない。それは、“Jesus”と“Japan”という「2つのJ」にまたがる異様な日本キリスト教というものであり、かつその著作は内村の代表作ともいうべき『羅馬書の研究』を頂点に、生涯の半分におよんだ個人雑誌「聖書之研究」などにも再三言及されたように、「日本人の生活信条の中にはキリスト教に匹敵するものがある」という基本モチーフを秘めたものだった。 

≪05≫  本書の書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。その変節は近代史や日本キリスト教史を研究する者には重要だが、ここでは省く。 

≪06≫  また、なぜこの時期に国際的に話題をよんだ3冊が日本人によって英文で書かれたかということも、言い出せばいろいろ書きたいことがあるのだが、ふれないことにする。ただひとつだけ言っておけば、ぼくはこの2年ほどのあいだ、この時期のこの3人について、少なくとも7、8回にわたって講義をし、4、5回にわたってこのことをいろいろな場で綴ってきた。3人3冊をめぐる話をしたのはもっと多かったろう。それほどこの3冊をめぐる日本ならびに日本人の思索と行動については、最近のぼくを激しく揺さぶっているのである。 

≪07≫  ついでに言えば、この「千夜千冊」の、この今日のぶんを書いているのは2001年3月15日なのだが、この時点で、ぼくにとっての内村鑑三は最も気になる日本人である。実はあまりに内村鑑三を感じすぎて、内村や新渡戸や植村正久や海老名弾正や、また有島武郎や志賀直哉や小山内薫や矢内原忠雄をぐらぐら動かした明治キリスト教というものそのものに、感染しつつある。この感染があまりに過度になれば、あるいはキリスト者を辞さない時がくるかもしれないと、本気でそう思うときもある。  

≪08≫  さて、本書に扱われているのは5人の日本人である。キリスト教に埋没しつづけた内村がこの5人を選んだことは、今日の読者には意外な人選であろう。時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村は逆に並べて一冊とした。 なぜこの5人が代表的日本人なのかということは、それを述べようとするだけで、結局は内村の思想と行動のすべてを議論することになる。それは適わないので、エッセンシャルなところだけをつまむことにするが、まず一言でいうと、この5人は内村にとってはキリスト者なのである。このことについては、本書のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。 

≪09≫  私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。 何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。 

≪010≫  もっともこれだけでは、この5人の日本人がキリスト者であるとは言っていない。5人を自分の宗教的先駆者だと見ているにすぎない。ところが『キリスト伝研究』(先駆者ヨハネの章)では、次のような説明があって、かれらとキリスト教とが深い絆でつなげられている。 

≪011≫  其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である。 

≪012≫  内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのである。おそらくいまどきこんなことを言えば、暴論あるいは無知として笑われるに決まっている。 

≪013≫  しかし、内村はこの見方を生涯にわたって捨てようとはしなかった。頑固といえば頑固すぎるほどの男、まさにその通りだが、しかし内村にはひとつのJ(イエス)を、もうひとつのJ(日本)に重ねる使命が滾(たぎ)っていた。「私は2つのJを愛する。第3のものはない。私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない」という有名な宣言にあるように、内村は自分自身のためにも日蓮や藤樹や西郷をキリスト者の魂をもつ日本人に見立てる必要があったのである。 

≪014≫  では、そのような見方をして、内村は何をしたかったのか。西洋に育ったキリスト教を非制度化したかった。キリスト教に真の自由をもたらしたかった。そのうえで日本的キリスト教を打ち立て、非武装日本をつくりたかった。つまりは、日本人の魂が解放される国をつくりたかったのだ。  

≪015≫  内村鑑三は国粋主義者だったのか。たしかに、そう見える。つねに武士の魂を褒め称えた。『代表的日本人』で西郷を称揚するにあたって、朝鮮との関係を見誤っているのも、そのひとつのあらわれである。けれども、内村はこうも書いた。 

≪016≫  「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」。 

≪017≫  内村鑑三は世界主義者だったのか。たしかに、そうも見える。内村はつねに日本を世界の動向とともに見た。そこには「太平洋の両岸の中国とカリフォルニアがほとんど同時に開かれて、ここに世界の両端を結ぶために日本を開く必要が生じた」という見方を原点にもっていた。 

≪018≫  しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。 

≪019≫  これでは内村は矛盾していると言われても仕方がない。実際にも、内村にはナショナリズムとグローバリズムが混じっている。混じっているだけではなく、それが交互に出て、交互に闘っている。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。 

≪020≫  ところが、内村は晩年になるにしたがって、この矛盾を葛藤のままに強靭な意志で濃縮していった。そしてついには「小国主義」を唱えるにいたったのである。これが内村の凄いところだった。愛国者・内村は日本を「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。 

≪021≫ そう、境界国である。
かくて「日本の天職は」と内村は書いた、
「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのである、と。 

≪022≫  こんな発想は、内村鑑三を除いては、なかなか生まれない。今日の日本人にもちょっとやそっとでは言えない発想である。さらに内村はそのためには日本が世界史上の宗教改革の「やりなおし」を引き受けるべきなのではないかとさえ、考えた。 

≪023≫  むろんここには、日本を世界の舞台の主人公として活躍させたいという愛国の情がある。それはそうなのだが、そのためにむしろ小国となって、境界者としての勤めをはたすべきであると考えたその道筋には、われわれがすっかり忘れてきた方針というものが芽生えていたのでもある。

≪024≫  
代表的日本人とは、内村鑑三だったのである。 

宮城谷昌光 『沈黙の王』 

≪01≫  のちに高宗武丁となった子昭に、幼児のころから言語障害があったという伝承のあることが気になっていた。武丁は甲骨文字の時代の王である。 

≪01≫  そこに句点や読点が落ちる場面を変えてみると、句読点は魔術になる。読点が「、」、句点が「。」だが、とくに読点が動くと意味が変わる。「いやよして」という五文字があって、どう読点を打つか。「いや、よして」にも「いやよ、して」にもなる。「よして」の否定文にも「して」の肯定文にも変わる。ぼくはかつて良寛をめぐる口述書物に『外は、良寛。』(芸術新聞社)という前代未聞の標題をつくったが、その句読点術はいまではついにJポップの「モーニング娘。」まで進んでしまった。 

≪03≫  子昭もそうした伝承のもとにいたのだとしたら、それはわれわれが甲骨文字の歴史を考古学的に教えられてきたことと、どのように関係するのか。喋れないことと文字の発明とは、どう関係しているのか。かつて白川静さんや中野美代子さんとそんな話題をときどき交わしたことがあったものの、ぼくはこの興味深い問題をそのままほったらかしにしてあった。 

≪04≫  そこへ宮城谷昌光の『沈黙の王』である。「文字をつくった王」と帯に謳っていた。 

≪05≫  宮城谷昌光という作家の旺盛な産出力に縋りついていくのは、容易ではない。ぼくよりひとつ歳下の、同じ早稲田の文学部出身であるが、ぼくのように4年にわたって学生運動に走った口と違って、ちゃんと「早稲田文学」などに作品を発表していた。 

≪06≫  しばらく出版社にいたあと、『天空の舟』で複雑な伊尹伝を書いて新田次郎賞を、『夏姫春秋』で直木賞をとったとおもったら、次の大作『重耳』では芸術選奨の文部大臣賞である。それがせいぜい5年間ほどのことだったろうか。 

≪07≫  その後も、この人の作品には書店店頭で新作の表紙を見るたび威圧された。それでついつい敬遠気味になっていたのだが、晏弱・晏嬰の父子の謎を追った『晏子』で、たまらず飛びついた。かの司馬遷が「かれの御者になりたい」と本音をのべた晏嬰の物語である。大いに堪能した。 

≪08≫  これで弾けるように、つづいて『重耳』を読んだ。海音寺潮五郎の『中国英傑伝』でヒントを得たというこの作品は、重耳を『三国志』の劉備や『水滸伝』の宋江をおもわせる理想的なリーダーとして描いている一方、重耳が43歳から19年にわたって1万里におよぶ彷徨をした亡命遊行者としても描いた。傑作である。  

≪09≫  本書はこの『重耳』の前に書かれた作品で、重耳同様に貴種流離する主人公の意外な運命を素材にしている。 

≪010≫  主人公の子昭は王子でありながら言葉をもっていない。言葉を奪われている。喋れない。失語者なのである。しかし、ほんとうは失語者なのか発話能力をそもそも奪われているのかは、わからない。あるいは理解能力をもっていないのかもしれない。 

≪011≫  父は商(殷)王朝21代の王の小乙である。その小乙がある夜の夢告に、言葉を失ったわが子は王の嗣子にふさわしくないから放逐せよと聞いて、これを実行する。  

≪012≫  実は小乙は大いに迷っていた。子昭は言葉がほとんど喋れない子なのだが、なぜか神霊への祝詞や呪詞だけをときどき発するからである。しかし、周囲の陪臣たちは次王がふつうの言葉をもてないようでは勤まるはずがないとみていたため、つねに小乙への注進が続いていた。そこで小乙は断腸のおもいでわが子の放逐を決断したのである。 

≪013≫  こうして子昭は旅に出る。 いわば「言葉をさがす旅」である。 

≪014≫  これはボルヘスやエーコの主題にこそ匹敵するきわめて独自な失語文学になる可能性がある。しかし宮城谷は、ボルヘスやエーコのようには壮絶な言語観念の迷宮には入らない。むろん作家の資質がボルヘスやエーコとはまったく違っているからだが、それだけではなかった。大きな理由があった。 

≪015≫  それは、この物語の舞台が、まだ文字がまったくなかった時代だということである。声だけの世界、オーラル・コミュニケーションだけの社会だったのだ。そこには、われわれが期待するような言語と文字の複雑な迷宮はない。 

≪016≫  そこで宮城谷はごく淡々と子昭が旅で出会ったらしいことだけを描いた。ストイックで悪くない。 

≪017≫  子昭は父からは青銅の剣を与えられ、母からは鈴を与えられて、あてのない旅を始める。 

≪018≫  剣と鈴が物語の象徴になっていることは暗示的である。剣は冒険を切り拓くための象徴であり、鈴は言語と逢着するための象徴である。アジアでは(アルタイ民族から日本民族まで)、鈴は言霊のメディアであり、言葉を降らす呪具なのである。タルコフスキーはそれをよく知っていて『惑星ソラリス』の宇宙ステーションにすら鈴を出した。が、子昭はそんなことは知らない。 

≪019≫  さて、噂では、野のどこかに甘盤という賢者がいて、人々に言葉を教えているという。それだけをたよりに、子昭のこころもとない旅が進んでいく。  

≪020≫  旅の途次の出来事は、ジョセフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』でまとめてみせたように、さまざまな艱難辛苦が待っていて、そこに意外な助言者があらわれるという順序になっている。大蛇に襲われた美しい娘を剣で助け、その母に結婚を勧められ、それを振り切って次の旅をつづけるという順序なのである。 

≪021≫  幾多の起伏をこえ、子昭はついに甘盤に会う。甘盤は甘盤族の首長で、子昭の国の商が東方の奄から黄河をこえて北蒙に遷都をしたときに、この民族大移動を助けたことがある。だから老いた甘盤は商の王子をよろこんで迎えるのだが、言葉を失っていることに呆然とする。 

≪022≫  子昭は言葉を学ぶべく、ここで3年を送った。あらゆる知識が得られたものの、しかし言葉は蘇らなかった。失望した子昭は国を出る。荒野をさまようヨハネになっていく。 

≪023≫  ある夜、子昭は夢告をうける。湯王のお告げであった。湯王は商の開祖。その湯王はおごそかに「汝は高祖が祭事をした都をめざすとよい」と言う。このとき鈴が鳴る。 

≪024≫  商民族にとっての高祖は舜である。舜は都安邑あたりで祭事(まつりごと)をおこなった。千里を辿って安邑に近づいた子昭は「説」と名のる若者に会う。若者は「あなたは湯王に似ている」と言う。うれしくなった子昭は、いつものように頭の中でこの若者に言いたいことを思い浮かべた。そのとき、若者は子昭が思い浮かべた言葉がわかったかのようにコミュニケーションをしはじめた。子昭は飛び上がるほど驚いた。 

≪025≫  子昭は言葉を得たのである。喋りはじめたのではない。子昭は説のテレパシックな能力を得て、説の言葉によって自分の思いを他人に伝えられるようになったのだ。説はその後、二人が出会った場所の傅巌をとって「傅説」とよばれる。 

≪026≫  こうして子昭は傅説との二人一組で”自由に思いを言葉に発する人格連合体”になったのである。 

≪027≫  子昭は商の国に戻る。小乙はすでに死んでいて、子昭がそのあとを継ぎ、武丁を名のった。  

≪028≫  ある日、武丁は一面の雪を眺めていた。そこに赤い足の鳥が舞い降り、雪原を歩きはじめた。鳥の足跡が美しく雪に残っていくのを見ながら、子昭はあることを深く考えていた。すかさず傅説が驚いて「王よ、あなたは天地の言葉をつくりたいとおっしゃっているんですね」と言った。 

≪029≫  そうなのである。武丁は人が喋るだけで消えてしまうのではない言葉、すなわち「目に見える言葉」をつくろうと決意していた。これは鳥の足跡を見て文字を思いついたという蒼頡の伝説を思わせる話だが、宮城谷はそのようなことにはいっさいふれないで、物語を終える。 

≪030≫  宮城谷は書く。武丁は百官の部下に「文字」づくりを命じ、貞人がそのディレクターに選ばれた。そうした武丁の事績や言葉は、いまでも甲骨文字で読める、と。 

≪027≫  子昭は商の国に戻る。小乙はすでに死んでいて、子昭がそのあとを継ぎ、武丁を名のった。  

≪028≫  ある日、武丁は一面の雪を眺めていた。そこに赤い足の鳥が舞い降り、雪原を歩きはじめた。鳥の足跡が美しく雪に残っていくのを見ながら、子昭はあることを深く考えていた。すかさず傅説が驚いて「王よ、あなたは天地の言葉をつくりたいとおっしゃっているんですね」と言った。 

≪029≫  そうなのである。武丁は人が喋るだけで消えてしまうのではない言葉、すなわち「目に見える言葉」をつくろうと決意していた。これは鳥の足跡を見て文字を思いついたという蒼頡の伝説を思わせる話だが、宮城谷はそのようなことにはいっさいふれないで、物語を終える。 

≪030≫  宮城谷は書く。武丁は百官の部下に「文字」づくりを命じ、貞人がそのディレクターに選ばれた。そうした武丁の事績や言葉は、いまでも甲骨文字で読める、と。 

≪031≫  本書が『沈黙の王』というタイトルを与えられたのは、いかにもふさわしい。 

≪01≫  幕末三舟という。勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟である。 いずれも変わっている。変人だ。猛烈に頑固だが群を抜く炯眼をもっていたのが海舟、槍しかつかえない武道者でありながら36歳でさっさと世を捨てたのが泥舟、掴みどころがないのに妙に”星一徹”だったのが鉄舟である。 

≪02≫  その掴みどころがない鉄舟が「武士道」をおこした。 なぜ鉄舟にそのことが可能であったかを考えたいと思っていながら、いまだに果たせないでいるのだが、その解答のすべては本書収録の文章から推し計るしかない。そのことはわかっている。ただ、はっきりしたことがわからない。 

≪03≫  鉄舟に「武士道」という万延元年に書いた文章がある。本書にも入っている。 

≪04≫  「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」とあって、鉄舟が初めて武士道という言葉をつくったか、あるいは初めて注目したということが宣言されている。 

≪05≫  このあと、武士道は「形か、心か」、「善を知ることか、善を行うことか」といったことが問われ、結局、武士道は「心を元として形に発動するもの」と書いている。 

≪06≫  仮に鉄舟が初めて「武士道」という言葉にして注目したのだとしても、万延の時代に心を重視する剣法をあえて強調しようというのは、ちょっと変わっている。鉄舟も別のところで書いているが、この時代は黒船が来て以来の”国勢”が激しく動こうとしている時期である。もし武士道が善を実行するのなら、鉄舟は行動を起こさなければならなかった。しかし鉄舟は、沈潜し、修行に徹した。 

≪07≫  一言でいえば、鉄舟は焦らない男である。あるいは晩成を惧れていなかった。 20歳で願翁禅師の門下に入り、「本来無一物」の公案をもらってまったく手が出なかったが、焦らない。そのまま公案をぶらさげて進んだ。手にした問題を捨てないのである。ついで天龍寺の滴水和尚からは「無字の公案」を投げつけられたが、これもひたすら受け止めて、そのまま体にかぶったままになった。 

≪08≫  さらに滴水は「両刃の公案」を与えた。「両刃、鋒を交えて避くるを須(もち)いず、好手還りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり」というものである。これも鉄舟は抱えた。そして、45歳でようやく大悟した。そこから悠々と禅の本来に入っていった。大器晩成といえばそうなるが、いわば、いつまでも青年なのである。 

≪09≫  剣も似たようなもので、明治に入って多くの武士が刀の使いようもなくなり、多くの士族が拗ねていたか、挫けていたにもかかわらず(だから西郷隆盛が全国の不平士族を慰めようとしたのだが)、鉄舟はそんなことはおかまいなしに独座独考して、奥義を極めようとした。 

≪010≫  そうなったのには、大きな契機があった。有名な話だが、浅利又七郎と手合わせをしてまったく勝てなかった。浅利は伊藤一刀斎の剣法を継承する明眼の達人で、鉄舟はその浅利に何度手合わせしても自分の未熟を知るだけだった。完敗なのである。 

≪011≫  それからというもの、寝ても覚めても浅利の姿が消えなかったというのは大袈裟であろうが、ある日、豪商の商売の話をゆっくり聞いているうちに何かの気合を会得し、道場に出て瞑想をしてみたところ、ついに浅利の幻影が消えていた。 

≪012≫  さっそく門人の篭手田安定を呼んで手合わせをしてみると、「参りました」という。「これまでの先生とちがいます。まったくスキがないんです。驚きました」という。鉄舟もそれを実感できた。そこで浅利又七郎に頼んで角技を申し込み、剣を構えあったのだが、浅利はたちまち一礼をして「余、及ぶところにあらず」と兜を脱いだ。それが明治13年3月30日のことだと鉄舟は『剣法と禅理』に記している。 

≪013≫  では、そのあいだ鉄舟は何をしようとしていたのか。国難と維新の時代に何を考えていたのか。ひたすら武士道とは何かということを実感しようとしていた、そういうことになる。 

≪014≫  鉄舟は文人ではない。だから遺された文章も少なく、本書に収められたもので、全文章のほぼ大半にあたっている。 

≪015≫  では、武人だったかというと、一刀流の十二代目を継いで、かつ「無刀流」をおこした開祖でもあるのだから、たしかに武人であるにはちがいないのだが、まったく戦闘性はなかった。ごく若いころを除いて切り合いの経験も少ない。それでもどことなく恐れられたのは、ひたすら研鑽していたからだ。 

≪016≫  結局、生涯、修行者のような男だったのである。いわば“精神の武人”だったのだ。別に何かの社会的活動に貢献するでなく、ただ自己実現をめざした。 

≪017≫  それでも若いころは清河八郎らと攘夷党をつくったりしたこともあるのだが、本気で政治活動をする気はなかったらしく、これも有名な西郷隆盛との駿府での談判をやってのけたという以外は、とくに政治活動も社会的な活動もしていない。魂胆というのか、それを鍛えることのほうがよほどおもしろかったのであろう。 

≪018≫  もっとも明治5年に勝海舟と大久保一翁の薦めで宮内侍従となって10年間にわたって明治天皇の側近の一人としての日々をおくったこと、その後も宮内省御用掛の身分を認められたことが、鉄舟の心身を強く支えるのに大きかった。しかしそれは維新以降のことになる。 

≪019≫  鉄舟は幕臣で御蔵奉行をしていた小野朝右衛門の四男として生まれて、9歳には久須美閑適斎の神陰流を習うのだが、父が飛騨高山の郡代になったので、高山で北辰一刀流の井上清虎にを学びなおした。ここで岩佐一亭について書も学ぶ。 

≪020≫  父の死で江戸に戻ると、安政2年に幕府の講武所に入って、千葉周作らの指南を受けた。ついで若死にした槍の山岡静山の家を継いだとき、静山の弟の高橋泥舟と親交を結ぶ。さらに清河八郎と攘夷党をつくり、さらに幕府が募集した浪士組の取締役となって近藤勇らを引きつれることになって、このあたりで大活躍をしそうだったのだが、浪士組がすぐに分裂して江戸に戻った。 

≪021≫  このころはかなり血気も盛んであったはずで、そのまま腕を磨いて自信をもてばよいものを、ここで先にも書いたように浅利又右衛門に完敗して、そのまま沈思して修養に入ってしまった。 

≪022≫  そしてひたすら武士道だけを考えた。武士道を心身に起こしきることを願った。 

≪023≫  鉄舟が安政5年に綴った「修心要領」は、鉄舟が考えた武士道が敵を討つためのものではないことが明白に述べられている。 

≪024≫  「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず。余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」。 

≪025≫  世の中で剣法といえばおそらく大半が敵を倒しこれを切るためのものであろうが、自分の剣法は人を切るためではなく、呼吸の神秘を会得するためだというのである。これは剣法が自分の大悟のためだけにあることを意味した。すなわち無敵、なのである。武士道に敵はないという主旨だった。鉄舟の剣法が「無敵の剣法」といわれたゆえんだ。 

≪026≫  こうした鉄舟のひたむきな純粋武士道ともいうべき探求が、やがて新渡戸稲造や内村鑑三に武士道をよびさまし、嘉納治五郎の講道館柔道やさまざまな明治武芸の引き金になったことは想像するに難くない。 

≪027≫  鉄舟が遺したのはあまりに文章が短いものばかりなので、詳細にその航跡を追うことはできないのだが、鉄舟が武士道を今日の日本に伝えた最初の一人であったことはまちがいない。しかし、その武士道は幕末維新の動乱さえ無視しうる、ある意味では没社会的な、ある意味では超個人的な熟慮がもたらすものだった。  

≪028≫  ところで、鉄舟は書人でもある。その書はその武道に似て、いかにも独断自在に富んでいる。明治18年の「書法に就て」を読むと、鉄舟自身が剣と書とを同一視していたことも伝わってくる。 

≪029≫  「書法に就て」には、鉄舟がその書を拓くにあたっては音羽護国寺の堂内に掛かっていた空海の書に強烈な衝撃をうけたことも明示されている。鉄舟はその空海の”字体脱俗”の書風に憧れて、書を独自のものとしていった。  

≪030≫  
その書もまた武士道だった。 

≪01≫  ヤンキーにだって本を読ませなきゃだめだ、そうじゃないと知性の裾野が痩せ細って知性そのものが崩壊してしまう。この一言から、本書が生まれた。2015年に「小説トリッパー」(朝日新聞社)の連載を始めたときの橋本と編集長が交わしたことだという。 

≪02≫  タイトルの『知性の顚覆(てんぷく)』はすぐに思いついたが、当時の2015年の橋本には体力がなく、ディテールを書き広げてもそれをまとめきっていける自信がなかった。3・11の一カ月前に長期入院から退院したあとに半病人状態が続き、短い原稿はともかくもちょっと長くなるとまとめられない。「体力がないと思考能力も落ちる」と知って愕然とした。そこをどうしたらいいか。 

≪05≫  ここから橋本は少しトンで、そうだとしたらヤンキーとトランプ大統領らが見せつけている「反知性主義」とは似たようなものじゃないかという論旨を張りたい。このトビをどう説明するか。 

≪06≫  反知性主義についてはホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房)を1638夜に千夜千冊したので、それを多少の参考にしてほしいが、アメリカはともかく、日本の反知性主義はわかるようで、わからない。日本では知性主義も反知性主義もタテマエとホンネの衣の中に隠れているからだ。しばしば「半知性主義」の国だとさえ揶揄される。 

≪07≫  しかし橋本にはこの半知性主義なんかにとどまっている日本がガマンならない。とんがった知性にも超反知性にも突っ込めない。だから勉強嫌いのヤンキーと反知性主義は同衾なのである。二つはつながっているはずだ。 

≪08≫  ところがこの二つの同衾性が急にはうまく説明できない。体力のせいではないかもしれないが、橋本の切れ味が鈍る。とはいえこの話をどこへもっていきたいかは見えている。反知性主義がはびこってしまうのは、最近の知性が劣化しているからで、知性が劣化しているのは勉強の仕方をまちがって教えてきたせいなのだ。  

≪09≫  こういうヨミの展開は以前からの橋本の得意な見方でもあるから、これでいきたい。けれども、その結論にもっていける力が、いまの自分には欠けている。そこをどう悪戦苦闘しているかを書いたというのが、本書なのである。どう書くかということを明かしながら書いた。 

≪010≫  この書き方は橋本独特のスタンスで、「体力・知力」「ヤンキー・アメリカ・日本人」「勉強・バカ・知性・反知性主義」という多項対比を意図的に持ち出したのは病気になってからのことだけれど、橋本にはずうっとこういう「対比」と「ひねり」と「批評」とが世の中に対しても、知の見方についても執拗に貫いていた。 

≪011≫  本書は、この以前からの橋本のスタンスが日本の知性の劣化を話題にするときにどのように介入していけるのか、そこを試みるための橋本ふう文章お手本のようになっている。そこがおもしろかった。 

≪012≫  橋本の卒論は鶴屋南北(949夜)だった。東大国文科でそれを書いた。南北の虚実皮膜の「綯いまぜ」の方法論を適確に掴まえているのは当然だが、江戸の戯曲や戯作の「語り」に加担した。加担しただけでなく、その後の橋本の文体がそこから派出していった。橋本治の執拗な文体は南北だったのである。だからきっと、大評判になった『桃尻語訳・枕草子』(河出書房)の準備はそのころからできていたのだろう。 

≪013≫  ぼくがそれまでおもしろい奴がいるなとしか見ていなかった橋本を(例の「とめてくれるなお母っさん」の東大駒場祭のポスターのコピーとイラストはへたっぴーだったけれど)、もっと評価したほうがいいかなと思ったのは、1993年に「芸術新潮」に連載が始まった『ひらがな日本美術史』(2007年完結・全7巻・新潮社)を拾い読みするようになってからだった。日本の「オーソドクス」を洗いなおしていた。オーソドクスとは基準ということ、「準」(なぞらえ)とは何かということだ。 

≪016≫  ソフィスティケーションというのは「ソフトにする」「洗練する」ということだが、日本は古代このかた当時のグローバルスタンダードだった中国の思想と文物と技法を輸入してきたものの、そのうちそこから苗代を用意したり、社稷(しゃしょく)にヒモロギを囲ったり、中国服ではない和服(着物)を工夫したり、漢字ではない仮名をつくったりした。 

≪017≫  水墨画も中国から入ってきたが、日本の水墨画は相阿弥や等伯の絵がそうだったように、うんとソフトにした。それが江戸では余白の多い文人画になった。 

≪018≫  橋本はそうした流れを観察して、日本のソフィスティケーションには格別のオーソドクスの誕生があると見た。だからこそ、みんなが岡本太郎的な縄文のエネルギーに目を奪われていくなか、むしろ弥生の様式美を重視してみせた。狩野派についても正面切って重視した。従来の美術史家たちは狩野派は様式主義として片付けたのだ。 

≪019≫  大作主義の川端龍子(651夜)を評価したというのも、よくわかる。座敷や床の間に似合う日本画に対して、どでかい会場でも威風を放つ大作を描いた。《潮騒》など14メートルになる。戦争に向かう日本人の姿も描いた。龍子はぼくの叔父が所属していた青龍社の主宰者で、加山又造と横山操という両極を生み出した。  

≪020≫  一方、作家の橋本自身は実はオーソドクスな表現者ではなかった。南北のような奇想を狙ったのではないだろうけれど、『桃尻娘』(講談社文庫)から『三日月物語』(毎日新聞社)まで、たいていウガチに富んだ変な小説を書いた。ただし決してうまくはなかった。美術史で「技」を見抜いてたわりに、自分の小説技法は確立できなかった。 

≪021≫  それでも『鞦韆(ぶらんこ)』(白夜書房→新潮文庫)、『巡礼』(新潮文庫)、『草薙の剣』(新潮文庫)などは読ませた。ソフィスティケーションを徹底していったからだ。  

≪027≫  話を戻して本書は、そういう橋本をあらためて感じるには打ってつけの一冊になっていた。ヤンキー的なるものがなぜモンダイなのかを説得するのに、著者として苦労しながら進んでいくところを包み隠さず見せているのが、参考になる。 

≪028≫  それというのも、橋本はヤンキーが「根拠もなく前向き」で「美意識がバッドセンスだ」という説明をしているうちに、これは自分にもあてはまるぞと思い、いやいやボクは反知性主義は嫌いだし、ヤンキーなYOSAKOIソーラン祭も解せないのだから、ということはヤンキーが問題なのではなくて、ヤンキーを狭いヤンキーに見てしまう何かにモンダイがあると言うべきだろうというふうに切り替えていくのだが、この持っていきかたが参考になるのだ。 

≪029≫  それならその「何か」とは何か。橋本が「何か」として持ち出すのは「表現とは何か」ということだった。 

≪030≫  そもそも表現は自分がするものではなく(自己表現なんて表現ではなく)、自分が獲得してしまった「社会的人格」をつかっていくものなのに、ヤンキー(あるいはヤンキー的な諸君)は自分を大事にして表現しようとする。これではかれらの自己表現として「不良」モードしか(あるいは本音ベースしか)オモテに出てこない。そこがヤンキーとトランプらの反知性主義とが結びついてしまうところなんだと説明する。石原慎太郎の『太陽の季節』も「不良」をオモテに出したのだし、その後の石原の言動が反知性主義になったのも、同様の理由だと説明する。 

≪031≫  そう攻めておいて、実は「不良」や「本音」をオモテにしてもそれが不良に見えなくなるインチキ社会もある。そこを警戒しなさいとも、釘を刺す。そのインチキ社会は80年代の途中から流行した「劇場型社会」というもので、社会やメディアが劇場化を用意しているので、そこで派手で勝手な不良をすると、百人に一人くらいがヒーローになる。不良で反知性の政治家だった小泉純一郎が劇場型社会のヒーローになったのは、当然だったというふうにもっていく。 

≪034≫  このあと橋本はやっと本題に向かう。本題というのは、反知性などがコワモテしているのは、もともとの知性がぐらついているか、へなちょこにしか語られていないからだという根本的な見方のことである。勉強が嫌いだということを罷り通らせているのは、若い世代が好きになれる勉強が日本に失われてきたからだということを本題にしていく。  

≪035≫  ここから橋本は矛先を替えて、まず大学を攻める。橋本がいたころの大学は大学紛争真っ只中の東大で、入試が中止され、橋本が専門過程に入るまで9カ月ほったらかしの大学だった。橋本はイラストレーターをやりながら学問したかったのだが、国文科では判で捺したようなカリキュラム以外まったく教えない。橋本は苛つく。不機嫌になる。そういう大学がその後はさらにひどくなっていった。 

≪041≫  ついに話は明治維新にまで時計の針を戻すことになった。「知性の顛覆」は明治からおこっていたと言うつもりなのだろうか。半分はそういう気分だが、半分はそれだけではない。   

≪042≫  福沢は当時の他の志士や先覚者たちと同様に、明治の日本を理想的にしたかった男だ。ただ、すでに明治の政治社会がそうはいかないと見て取った福沢は「されば一国の暴政は、必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず。その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり」と書いた。人民の無智のほうがモンダイになると見たのだ。そしてこの無智をバカ呼ばわりし、バカにならないためには学問をしなさいと言った。バカは学問で直せるだろうが、それができないバカは力で駆逐するしかないと言ったのだ。 

≪043≫  橋本も本音はそう言いたいのだけれど、そうは言えない。21世紀の日本ではパワハラになる。福沢もパワハラを勧めたいわけではない。「学問」をススメたい。そこで福沢のばあいは、次のように諭(さと)した。 

≪037≫  こうして、この「こつこつ」が橋本を幅広い知性の持ち主にしていったのだが、しだいに大学の体たらくに近いことが、日本のあらゆる場面に広がっていっていることも見えてきた。 

≪044≫  福沢は当時の日本人にはせめてモラルはあるだろうとみなしていた。モラルというのは倫理のこと、日本では「道理」や「道」のことをいう。これは新渡戸稲造(605夜)が『武士道』で書いたように、サムライの世の中で日本人のどこかに育まれてきたはずのものだった。けれども道理や武士道だけでは無智もかこつ。バカにもなりうる。福沢はそこを学問で埋めなさいというふうにした。学問とは知のことだ。すなわち「道+知」のススメにしたのである。 

≪045≫  橋本はそこをどう見るか。明治の端緒の「勉強のススメ」まで戻したいのかというと、そうではなかった。そうはいかないと考えた。福沢のようにはいかないと見た。なぜなら明治以降、あきらかに「道理」や「道」だって廃れてしまっていたからだ。「ゆとり教育」は道理の放棄に近いものだった。いまや日本ではその復活も議論しなければならくなっているのだ。 

≪046≫  さあ、こうなると知性の顛覆をどこでどう補うかというのは、かなりどえらい仕事だということになる。ヤンキーの勉強嫌いを直す話ではなかったのかもしれない。 

≪047≫  こうして橋本は本書を仕上げるにあたって、以上の「説明」のための準備を一挙に回収しながら、畳みこむ。  

≪048≫  日本人のモラルがセクハラ・パワハラやめましょう、お年寄りをたいせつにしましょう、コンプラ守りましょうというふうに「上からの提供モラル」になってしまったこと、それが経済社会の数値寄りの蔓延によって推進されてしまったこと、それを企業社会がブラック呼ばわりされるのが嫌で衛生消毒ばかりするようになったこと、そこにヤンキーの大本(おおもと)のアメリカが巧みに軍事と財政の仕組みを浸透させきってきたこと、これらが絡みあって日本がバカになったと告発するしかなくなったのだ。 

≪049≫  とくに橋本が切歯扼腕するのは、あげくに世の中でいま大事なことは「自己主張」ですという思いもよらぬものになってしまったことだった。この自己主張は福沢の「立身・立志・立国」に結びついている。橋本はそこを血祭りにあげて、本書を結ぶのである。 

≪037≫  こうして、この「こつこつ」が橋本を幅広い知性の持ち主にしていったのだが、しだいに大学の体たらくに近いことが、日本のあらゆる場面に広がっていっていることも見えてきた。 

≪050≫  以上が、本書を橋本が書き上げるにあたって苦労工夫したことだ。何かの参考になっただろうか。ぼくはうまく千夜千冊できただろうか。 

≪051≫  以上が、本書を橋本が書き上げるにあたって苦労工夫したことだ。何かの参考になっただろうか。ぼくはうまく千夜千冊できただろうか。 

≪052≫  バカが嫌なら誰かが継ぐしかないだろう。バカが好きならツイッターやコメンテーターなど、やらないことだ。 

≪01≫  与謝野晶子に『私の生ひ立ち』というすばらしいエッセイがあります。そこに少女のころに感じた寂しさについて書いている。「竹中はん」という一文はこういうものです。 

≪02≫  竹中はんは同い歳の女の子で、そのはんが晶子の家に遊びにくるという約束をしてくれたので嬉しくてたまらない。晶子はその日になると学校に行くのも嫌になって、そわそわ、そわそわして、お盆にお菓子をいっぱい入れて朝から待っているのです。でもなかなか来ない。欄干から何度も下を見たりしているうちに、学校を休んだせいもあるのか、なんだか悔恨や失望のようなものがこみあげてくる。そこを晶子は、こう、書きます。 

≪03≫  「色の白い竹中はんが女中と並んで東の方から歩いてくるのを見ました時、私の胸はどんなに高い動悸が打ったでしょう。私のいる二階の下まで来ました時、竹中はんは上をちょっと見上げたままでずっと通っていってしまいました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないと感じました通り、その人とそれきり遊んだおぼえはありません」。 

≪04≫  幼いながらもたいへんせつない気持ちを書いたものですが、この小さな晶子が感じた感情は大人がもつ失望や悔恨や嫉妬などと同じものなのか。それとも少女や子供だけが感じるものなのか。  

≪05≫  もし後者だとすれば、いったい子供はなぜこんなに高度な「やるせなさ」や「はかなさ」がわかるのでしょうか。 

≪06≫  少年少女がかかえている感情なら、かつて少年少女だったわれわれもわかるはずなのに、見当がつかなくなっている。それを童心というなら、われわれのなかにはその童心があるのか、なくなったのか。あるのなら、それはどこへ行ったのでしょうか。こういう問題は容易に説明の言葉が見つからないほど、難しい。しかしとても重要な問題です。そもそも子供に童心がいつもはたらいているのかどうかさえ、あやしいのです。むしろ子供が子供でなくなっているということさえありえます。 

≪07≫  今夜はそういう問題を考えるために、本書をとりあげた。『近代日本少年少女感情史考』と銘打たれているだけあって、日本の近代が対象になっていて、それが明治から昭和まで及んでいます。著者はかなりきわどい問題まで踏みこんでいる。 

≪08≫  いったい子供とはどういう存在なのか。子供心とか幼な心とか童心というものはどういうものなのでしょうか。  

≪09≫  名著の呼び声が高いフィリップ・アリエスの『子供の誕生』によると、ヨーロッパ中世には「子供時代」という観念はなかったといいます。社会はそのように子供を層として見ていなかったし、子供も自分が子供だとは思っていなかった。それが18世紀以降、近代家族社会の形成とともに自分のなかの「子供時代」がはっきりしてきたと、アリエスは言います。日本でも三橋修の心性史の研究では、18世紀の江戸社会後半になってからだいたい15歳以下を子供というふうに見るようになったとされている。 

≪010≫  このような見方が当たっているのかどうかべつとして、それでは実際の18世紀ころの江戸社会の子供たちはどんな状況にいたのか。子供はどのように扱われていたのか。もしまだ子供は子供でないというのなら、ではいつから子供たちは幼い晶子のような感情をもつようになったのか。著者はそのあたりから、近代の少年少女たちにひそむ感情を照射していこうとします。 

≪011≫  結論から先にいえば、日本は近世中期までの長らくのあいだ、「多産多死の社会」だったのです。たくさん子供が生まれて、たくさん死んでいた。死んでいったのは医療や食糧のせいでもあって、子供を生むことを押さえつけていたわけではありません。  

≪012≫  それが江戸中期から小農の自立化が進んで、家の構成員の数がへってくると、少子少産のこぢんまりした家族形態が定着し、単婚小家族型になってきます。これではたくさんの子供が育てられない。そこで子供をふやさないようにするための間引きをせざるをえなくなるのです。間引きとはつまり、子殺しです。むろん堕胎を含みます。柳田国男の『故郷十年』に間引きの絵馬に慄いたという体験が語られているように、その実態はなかなか恐ろしいものでした。ただし全国がすべてそうだったわけではなく、たとえば北関東では間引きが多く、越後地方では少なかった。けれども越後ではそのかわり、子供を売った。宿屋の飯盛りに出されるというのは売られたということです。 

≪013≫  こうしたことは由々しいことなので、土佐藩では宝暦9年に8回にわたって間引き禁止令が出ます。それでもなかなか止(や)まないので、共同体の相互監視としての「友吟味」ということも試みる。それでも間引きや身売りが絶えないと、ここに見方を変える人が出てきます。 

≪014≫  ひょっとしたら死んでいった子供たちはわれわれの社会のために何かを担ってくれて死んでいってくれているのではないか。そういう見方が出てくる。これは「死児のお返し」という見方で、子供は「常ならぬ存在」だと見るのです。それならば、共同体に対して間引きを厳しく戒めるのではなくて、むしろ残された大事な子供たちを存分に遊ばせる遊児蔽といったものがあってもいいのではないか。そういう提案をする経世済民家も出てきました。 

≪015≫  たとえば佐藤信淵とか大原幽学です。信淵は子供預かり所のようなものを、幽学は農業協同体のようなものを村々につくったらどうかと言った。しかし幕府は、こういう意見は農民を扇動しているのではないかと勘ぐって、さかんに詰問し、幽学は結局自殺に追いこまれてしまいます。 

≪016≫  ざっとこんなふうな事情の変化を背景に、いったい共同体のなかでどのように子供を育てるかということが、さまざまな工夫をもってあらわれてきます。たとえば子守歌や童謡です。 子守歌は幕末から明治にかけての社会変化のなかで、成立していったものが多い。商品経済が発展して高利貸し的資本が農村に入ってくると、一方では富を蓄えて肥え太る階層がふえ、他方では小作に転落する層がふえ、しかも維新後には堕胎禁止令が徹底されるので人口はふえていくということが同時におこっていきます。そういうなか、子守にたいする需要もふえる。そこに子守歌も発生していったのです。封建社会が崩れて資本制社会に移っていくときの矛盾が子守歌をつくらせたともいえる。  

≪017≫  赤坂憲雄がそういう研究をしたのですが、子守歌の多くの歌詞を見ていくと、そういう歌はどうも「群れの自浄文芸」ではないかと思えてきます。歌詞のなかにそれなりに悪意や憎悪をもった言葉を入れておくことで、子守の役目を負った者たちは「五木の子守歌」のような歌を唄うことによって、それまでに溜まった感情を吐き出せるようになっていたのではないかというのです。 

≪018≫  「竹中はん」に対する晶子がそうだったように、子供にだってそれなりの自浄作用が必要なのです。それを群れがうけとめる。いや、大人たちもそういうことを理解していく必要がある。でも、大人はそこをどう理解したらいいか。 

≪019≫  著者は、そもそも近代日本の子供の感情世界には、(1)受動的で許容的だった、(2)直観的で観察的だった、(3)献身的で自己投棄的だったという特徴がある、と見ています。これらは少年少女の感情世界というものが多様で多面的であることを示しているのですが、それを一言でいえば「けなげ」というしかないのではないか。著者はそういうふうに見ようとしています。本書のサブタイトルも「けなげさの系譜」というふうになっている。 ただ、この「けなげ」という正体はなかなか掴みにくい。いったいどこから「けなげ」が出てくるかよくわからない。掴みにくいのですが、けれども、その「けなげ」がどのように形成されたのかというところを、せめて社会変化のところから見ておかないと、近代日本の独特の少年少女の感情は見えてこない。子供の心性は必ずや時代状況や社会状況とどこかで深い関係をもっているのではないかと、著者はいうのです。子守歌はそれらの入口にある問題のひとつです。 

≪020≫  ほかにも近代社会の確立期には、子供の感情を形成させるに足ることがいくつも見えてきます。たとえば江戸社会では親への孝行や友人への忠義が重視されますが、明治近代では「立身出世」がクローズアップされる。こういう大人が考えた価値観が子供の感情に何かをもたらしていることは否めません。 では、近代日本ではそれらはどう動いたか。 

≪021≫  カール・ムンチンガーの『ドイツ宣教師が見た明治社会』という本があります。そこに日本人は具体的な思考はできるけれど抽象的な思考は弱い。また独創性に欠けるけれども、加工はうまい。また論理性は乏しいけれど、直観力がある。そういう指摘をして、ただし子供たちはとても親や目上を尊敬しているので感心するというようなことを書いています。 それはモーセの「汝、父と母を敬うべし」の教えに重なっているともいう。ただし日本の子供の「孝」は「愛」というものではないとも見ています。 

≪022≫  バジル・チェンバレンが明治23年に書いた『日本事物誌』にも、やはり日本の大人も目上を敬い、天皇を民の父母と見ているようなところがあって、これは好ましい「無邪気な服従」ではないかという見解がのべられています。 

≪023≫  外国人がなぜこういうところに関心をもつのかというと、これはコンラッド・ローレンツが『攻撃』という本のなかで書いているのですが、動物は種を保存するために攻撃本能を適度に抑制するメカニズムをもっているのだが、人間はそれがうまくはたらいていないというのです。ヨーロッパ型のユダヤ・キリスト教社会では、人間が全知全能の神に近付こうとする努力を評価します。ということは人間に根本的な欠陥があっては困るのです。ところが成熟社会では国家単位で正義や利益が決まってくるので、フルバージョンの力をいつも発揮できるようにしておかなくてはならず、ついつい全力でぶつかるということをしてしまいます。 

≪024≫  ローレンツも言っていることですが、このようなフルバージョンをすぐ使わないようにするには、そこには「遊び」というものが必要になる。それは大人になってからでは遅いので、十分に子供のころに練習しておかなくてはならない。その点、日本の子供はいろいろ練習しているのではないか、ムンチンガーやチェンバレンはそのへんのことを観察したのです。 しかし、そういう面はどこかにあったにせよ、明治社会はすでに子供の練習装置や練習期間をもてなくさせつつあったのです。 

≪025≫  司馬遼太郎も亡くなる前にしきりに指摘していたことですが、日本の共同体には子供組・娘組・若者組のような青少年の組織がありました。若衆宿というのもあった。こうした組や宿は大人社会のシミュレーションを「遊び」をとりいれてできるようになっていた。祭りや共同作業を通してシミュレーションできるようになっていたのです。 

≪026≫  ところが明治5年の「学制」によって小学校が全国津々浦々にできあがっていくと、子供の集団はいきおい学年別になっていく。学年でスライスされていく。そこへもってきて、大家族から小家族へどんどん移行していたので、おおまかで擬似的なファミリー・グループが共同体のなかに形成しにくくなってきて、「仮親」のような意識が大人のほうにも欠けてきてしまいます。たとえば「名付け親」というのは大事な擬似家族性のひとつのあらわれなのですが、そういうものが少なくなった。 

≪027≫  また、国民皆兵のための徴兵制が施行されるようになると、早くから共同体を離れて異なる生活と規律を余儀なくされる。さらに立身出世が謳歌されると、早くから社会システムに関心をもちコミットしなくてはいけなくなって、子供は子供でいられなくなってくる。こういうことが明治社会は子供に強要しているとも見られるわけです。 ただし、このような事情によって近代の少年少女の感情が疎外されたり、硬直したり、西洋化しすぎたりしたかというと、そうでもないのです。 

≪028≫  いまのべた徴兵制や立身出世は、おおむね男性社会のシステムが強調されていったということをあらわしています。いわば父性原理が社会的に大きくなっているということです。父性原理の本質は「切断」です。 しかし日本の家庭や共同体には、いろいろな意味で、けっこう母性原理がはたらいている。河合隼雄はそれを「母性社会日本」というふうに捉えています。母性原理の本質は「包容」です。第951夜に案内したように、古澤平作はそこから父的なエディプス・コンプレックスではない母的な阿闍世コンプレックスを導こうとした。 

≪029≫  こうした特徴があるのだとしたら、日本の子供はどのように母なるものとかかわるかということが、その感情形成にとっては大きいものになります。仮に社会が父性的なもので統括されていっても、母性的なものがうまくはたらけばバランスがとれる。そうも考えられるわけです。 

≪030≫  ところが実際には、明治社会は父性的に確立し、まさに父権的に拡張していきました。天皇を頂点にしていただいた大日本帝国というシステムとは、そういうものです。子供たちも「少国民」といふうに位置づけられる。明治21年には「少年圏」という、明治22年には「小国民」という雑誌が創刊されて、子供も立身出世のシステムの一員となることが鼓舞されるのです。 

≪031≫  本書はこうした父性的な明治社会がどのように天皇のイメージを拡張し、教科書を作り替え、小学校唱歌を構成していったかを、詳しく説明しています。まさに富国強兵のシステムは子供の心にまで染みこむようにつくられていったのです。では、「母なるもの」はどうなってしまったのか。  

≪032≫  明治社会の拡張と突進は日清日露をへて、明治天皇の死まで隙間なく進みます。しかし、大正に入ってくると、その行きすぎもそれに対する反省も、両方おこってきます。それでも第一次世界大戦による景気拡張ムードまでは引っ張られてしまう。 

≪033≫  けれどもここでやっと、新たな運動がおこってきます。鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊して、子供に向けられた唱歌や童話や昔話に反旗をひるがえす。そこに北原白秋や西条八十や三木露風によるまったく新しい少年少女のための童謡童話運動がおこってきたのです。詳しいことは省くとして、そこには「母なるもの」の復活が頻繁にとりあげられたのです。「この道はいつか来た道 ああそうだよ お母さまと馬車で行ったよ」(北原白秋)は、さんざしの花とお母さまが結びつき、「母さんお肩をたたきましょ 母さん白髪がありますね」(西条八十)は、肩たたきが父よりも母に向けられる。さらに野口雨情の「十五夜お月さん」にはとても多様な意味がこめられていて、食べていけない社会の人べらしのことと「母なるもの」が結びついています。 

≪034≫ 
  十五夜お月さん 御機嫌さん
  婆やは お暇 とりました
  十五夜お月さん 妹は
  田舎へ 貰れて ゆきました
  十五夜お月さん 母さんに
  も一度 わたしは 逢いたいな   

≪035≫  本書はさらに、こうした童謡童話運動が少年少女たちの自由な言葉に耳を傾けたことを評価する。三重吉の「少年自作童謡運動」や白秋の「児童自由詩運動」です。たとえば小学校2年生と4年生の詩。実に自由な言葉づかいになっています。 

≪036≫
  花が咲きました。  あかいはなです。
  三つさきました。  まめの花です。
  わたくしがまいたのです。  それでうれしいのです。
  私は不思議でたまらない。  りんごが日向にころげてた。 

≪037≫  ここには「けなげ」がある。何の衒いもない。しかも言葉が生きています。白秋は「今度ばかりは、ぼくの童謡に匙を投げざるをえなかった」と感嘆したといいます。同じ時期、山本鼎は「自由画運動」をおこして、白秋が言葉でおこした運動を自由画でおこし、やはり子供にひそむ自由度は大人によって抑圧されていることに気づきます。 

≪038≫  このように子供が遊びや表現を自在に発揮していることに耳を傾けることは、大人社会にとっても必要なことであるはずです。柳田国男は、子供の遊びを「目の前に保存せられたる人類のなつかしき過去である」と言い、長谷川如是閑は子供の遊びは「権力の外にある世界」と言いました。だから子供に教えられることも多いのです。 

≪039≫  けれども子供はつねに大人社会を反映しつづけるものでもあって、東北地方の「こかお」という遊び歌は「花いちもんめ」に似て、どの子がほしい、あの子がほしいという歌詞になっている。「こかお」は実は子を買おうなのです。こういうものは防いでも防いでも子供心に入ってくる。むしろ、子供の自由な発想と大人社会の反映は、その葛藤と矛盾こそが「けなげ」が発生してくる隙間になっているのかもしれないのです。 

≪040≫  本書は後半のそのまた後半には、日本が軍靴の音を高まらせて戦争に突入していった時代にまで入りこんで、そこで親をなくし、町を焼かれた子供の感情がどういうものになっていったか、学童疎開がもっていた意味、また、いまだ成人にもならない少年が満蒙開拓青少年義勇軍に駆り立てられていったときの心性、さらには神風特攻隊やひめゆり部隊で死を覚悟した若い男女の言葉などを抜き出して、そういう国と討ち死にするような「けなげ」というものもあったことに、読者を促しています。 

≪041≫  われわれの内なる少年少女の感情というもの、まことに扱いにくいものです。しかし、少年少女こそ、そういう大人の困惑を見せられるのは扱いにくく、困っているのです。いや、そういうことがはっきりおこっているわけでもないのに、少年少女は突如として、「はかなさ」や「わびしさ」に気がつくことも多い。  

≪042≫  与謝野晶子の『私の生ひ立ち』には「西瓜燈籠」という小さな話ものっています。10歳のころ、お父さんが西瓜燈籠をこしらえてやろうというので、どういう図柄がいいか聞く。晶子は「朝顔の花の青白く光っているのがいい」というようなことをいうと、それをつくってくれた。次の日は弟に馬の絵の灯籠を、その次の日は妹にカエデと短冊をあしらったものをつくった。 

≪043≫  晶子のものは最初につくったので、女中が水桶の中に入れて萎びないようします。そして夜になると軒端に吊るしてくれる。けれどもよく見ると、晶子の灯籠はもう錆色になり、形も小さくなり細長くもなっている。ほかの二つはまだ生き生きとしている。たったそれだけのことですが、晶子はこう書いています。私は生まれて初めて夜の涼み台のところで考えました。早く生まれたものは早く死ぬということが、どんなに悲しいか、どんなに遣瀬(やるせ)ないことか、私は西瓜灯籠をじっと見つめていました、というふうに。  

≪044≫  こういうこと、はたして近代史のなかだけで解けるかどうかです。ただ、はっきりしているのは明治大正の作家やアーティストたちは、なんとか少年少女感情に立ち戻って、時代や社会や日本を見ていこうとしていた、ということです。 

熊倉功夫 『後水尾院

≪01≫  ちょっと年齢を並べてみる。 寛永元年(1624)で線を引いて年長者から順に列伝してみると、88歳の南光坊天海から、板倉勝重、安楽庵策伝、本阿弥光悦、三斎細川忠興、金地院崇伝、伊達政宗、松永貞徳、沢庵宗彭、柳生但馬守宗旦、角倉素庵、岩佐又兵衛、千宗旦、徳川秀忠、烏丸光広、小堀遠州、春日局、林羅山、石川丈山、宮本武蔵、金森宗和、千宗守、後水尾天皇、そして21歳の徳川家光、9歳の野中兼山、3歳の天草四郎‥‥というふうになる。 

≪02≫  これだけの人士が顔を揃えた羅山・丈山・武蔵・宗和がほぼ同い歳の40歳、光広・遠州・春日局は45歳。後水尾は29歳である。顔ぶれをあらためて見ていると、文武・公武の多くの領域で新たな「型」を確立しようとした者たちがひしめいて並んでいたことを知る。「型」をつくるには、その前に「型破り」もしておかなければならなかった。寛永とはそういう時代なのである。 

≪03≫  寛永年間は20年におよんだ。ひとつの時代文化を形成するに足る年数である。そこで林屋辰三郎によって「寛永文化」という名を与えられた。ときに「寛永寛文」とつなげて呼ばれることもある。  

≪04≫  とはいえ、この独得の社会文化は突然に開花したのではない。「慶長文化」が先行した。慶長元年(1596)に後水尾院が生まれ、その4年後に関ヶ原の合戦が一日で終わり、さらに豊臣家の滅亡や公家諸法度などの制定を待ってじょじょに形成されていった。 

≪05≫  こうした時代の流れを一身にうけた象徴的人物をただ一人だけ選べといわれれば、秀忠も遠州も羅山もあろうけれど、ぼくなら後水尾に挙手したい。理由はあとにのべることでわかるだろうが、この時期、後水尾ほどに生涯を通して「時代」と「文化」の体現を迫られた人物はいなかった。 

≪06≫  本書は、その後水尾の日々を追って寛永文化前後の基部に光をあてた熊倉さんの名著である。林屋辰三郎の寛永文化論を”脱出”したことでも話題になった。熊倉さんには『寛永文化の研究』もある。 

≪07≫  熊倉さんが本書の起点にしたことは明確だった。天正19年に利休が切腹して「下剋上の精神」の凍結が宣言されたこと、それを肯んじない最後の勢力との拮抗と軋轢のあいだから、後水尾の宿命が始まっていたということ、そのことだ。  

≪08≫  山上宗二によれば、利休の茶とは「山ヲ谷、西ヲ東ト、茶ノ湯ノ法ヲ破ルモノ」だった。そういう「法ヲ破ル」者の象徴として利休が切腹させられた。秀吉は、時代がすべての下剋上を終焉させていることを宣言したかったのである。天下が完全なヒエラルキーになっていることを示したかったのだ。利休はその犠牲として晒された。その5年後に後水尾が生まれたのである。 

≪09≫  しかし秀吉はまもなく死ぬ。大陸制覇の夢は壊れ、秀頼に託した政権はまったく安定しそうもない。 

≪010≫  ようするに天下人が死んでみてわかったことは、いまだ天下は収まってはいなかったということだ。桃山は何も完成されてはいなかったのだ。それが露呈した。五大老に分散した権力システムは、一見すると豊臣家を守るような恰好をとりながらも、各所で軋みはじめていたのだし、当時最大の実力者ともくされていた前田利家が病没すると、覇権争いはまったく五里霧中であることが知れわたったのだ。 

≪011≫  こうした動向を見抜いたのが家康である。三成にはそこが読めてはいなかった。時代がくるりと変わった。 

≪012≫  こうして秀吉の死の直後、後水尾の父の後陽成天皇が譲位をしたいと言い出した。体の不調を理由にしているが、譲位ののちに院政を復活したいと思っていたのではないかと熊倉さんは推理している。もし院政が実現すれば鎌倉政権以来のことになる。ミカドの転身だった。 

≪014≫  後水尾はこういう状況の直後に、公家の頂点に立たされた青年天皇なのである。たんに和歌がうまかった、書が巧みだった、とりわけ花に執心した、修学院離宮を造営した、文化人とくまなく交流したという程度では語れない「負の宿命」を負っていた。それは、後鳥羽天皇がつねに「後鳥羽院」とよばれているように、後水尾がつねに「後水尾院」とよばれていることにあらわれている。 

≪013≫  そろそろ実権を手にしはじめていた家康は、譲位には反対である。それどころか、どうしたら禁裏の力を殺いでおけるか、公家の勢力にブレーキをかけておけるかということを入念に考えていた。のちにこの判断が『禁中並公家諸法度』の制定につながっていく。 

≪015≫  後水尾が早々に「院」になっていたことを語っておかなくてはならない。また、それによって徳川300年の天皇が失墜しつづけたこと言っておきたい。どうしてそんなふうになったのか。 

≪016≫  ごくかんたんに寛永元年という時代の前後を粗述するけれど、この年、そのころまで京都を牛耳っていた京都所司代の板倉勝重が死に、徳川秀忠の娘の17歳の和子(まさこ)が29歳の後水尾の中宮となったのだった。和子の入内は、家康が「公武合体」の計画をもっていて、それをいよいよ実行に移したことを物語っていた。 

≪017≫  入内が取り決まるまでには紆余曲折がある。家康の計画をうけて準備をすすめていたのは板倉勝重や藤堂高虎で、元和年間に14歳の和子を女御として入内させ、小堀遠州に作事奉行をさせて女御御殿を造営することまで決めていた。それがいろいろ事情があってうまく捗らず、やっとのことでの実現だった。  

≪018≫  和子はのちの東福門院。晩年は派手な衣裳好みとして洛中を唸らせ、いわゆる”御所染め”をはやらせた。 

≪019≫  紆余曲折があったとはいえ、和子入内と中宮決定は家康側の断然の”勝利”をあからさまに示していた。逆に、ミカドと公家たちの決定的後退を告げていた。徳川に屈せられた後水尾は拗ねている。翌年、八条宮智仁親王から「古今伝授」をうけるのだが、和歌の真骨頂を伝授されたということでは文化的には特筆に値するものの、この伝授は社会的に見ると、すでにミカドや公家に許されるのは「学問稽古」くらいなものだという諦めをあらわしている。天皇が学問稽古や慎ましい遊芸以外で自由にふるまうことは、もはや許されないものとなったのである。 

≪020≫  こうした天皇の失墜を象徴する最後の”仕事”が、寛永3年にとりおこなわれた。後水尾の二条城行幸だ。のちに「寛永の行幸」といわれるほど有名になったものだが、有名になった理由がさびしい。これ以降、天皇が禁中を出るのは幕末の幕府崩壊までただの一度もなかったからである。熊倉さんは書いている、「つまり中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちでうけとめ、支配のテコとするパターンは、この寛永3年の行幸をもって終焉となったのである」。 

≪021≫  これで寛永という時代がどのような社会的な意味をもって始まったかは、だいたい見当がつく。しかし後水尾にとっては、これはまだ抑圧の連打をうける序曲だったのである。締め付けはしだいに喉元をめがけていた。ついに決定的なことが寛永4年におこる。紫衣事件である。 

≪022≫  事件は、朝廷が臨済宗や浄土宗の住持に与えてきた紫衣を、幕府が違法として剥奪したことに始まった。すでに家康は14年前に朝廷に紫衣の勅許をするばあいは、幕府が承認してからにすることを決めていた。対象は大徳寺・妙心寺・知恩院・浄花院・泉涌寺・光明寺・金戒寺。その2年後の元和元年に発せられた『禁中並公家諸法度』でも同じことが厳命された。 

≪023≫  これに反発したのが大徳寺の強硬派、沢庵宗彭・王室宗柏・江月宗玩の3人だった。抗弁書を幕府に提出し、その方針を批判した。幕府はむろん黙っていなかった。とくに金地院崇伝は激怒し、穏健派を押さえて、反対派の処罰を決める。さっそく沢庵宗彭らが流罪になった。それから半年後の寛永6年11月8日、それまで幕府による屈辱に耐えかねていた後水尾がにわかに譲位したのである。こんな寂寞の歌を詠んでいる、「思ふ事なきだにいとふ世中に哀れ捨ててもおしからぬ身を」。ここからが後水尾天皇は後水尾院になる。34歳。 

≪024≫  こうして何がおこったかといえば、政治的にはこれ以降、天皇の力は幕末の光格天皇の登場まで300年間にわたってひたすら沈みっぱなしになったのである。 

≪025≫  本書には、後水尾院のことばかりでなく、その周辺がほどよく描かれている。いわゆる寛永文化の様子であるが、ぼくには二つの洛中サロンの結構がとくに気になった。 

≪026≫  ひとつは板倉屋敷のサロンである。京都所司代の板倉勝重と息子の重宗が仕切っていた屋敷で、ここに、公家の知識を代表する西洞院時慶、町衆連歌師の松永貞徳、貞徳の息子で京都儒学の礎石を築いた松永尺五、鷹ケ峯を拝領して工房村を営んでいた本阿弥光悦、落語創始者ともいわれる『醒睡笑』の安楽庵策伝らがしきりに集い、交わった。凄いメンバーだ。しかし、たんに交わっただけでなく、これらの才能に対して板倉親子が支援とディレクションをしていた。熊倉さんは、かれらは板倉家の御伽衆的な存在ではなかったかとも指摘する。 

≪027≫  もうひとつは鹿苑寺のサロンである。ここは後水尾の近縁でもある住持の鳳林承章がサロンの主で、詩文・芸能の才能が交流した。鳳林承章は勧修寺晴豊の六男で、終生、後水尾院のよき話し相手だった。そこへ、秀忠・家光の茶頭となった”綺麗さび”の小堀遠州、”わび宗旦”の異名をもつ千宗旦(千少庵の孫)、のちに”姫さび”の創案者といわれた金森宗和、茶家久田家二代目の久田宗利、遠州を継ぐ大名茶人の片桐石州、その家老の藤林宗源、のちに法橋の位をとった絵師の山本友我らが出入りした。承章はこれらの才能との交流を、厖大な日記『隔冥記』にことこまかに記した。 

≪028≫  二つのサロンは図抜けていたが、それ以上に、こうした洛中のサロンの頂点に立ったのが後水尾院なのである。各所のサロンに出向いたのではない。さきにも書いたように、ミカドは行動が厳しく制限されていた。禁中で自作自演のサロンをプロデュースしたのだ。 

≪029≫  後水尾院の禁中サロンを代表するのは立花の宴である。寛永6年1月からの半年だけで30回以上の花宴が催されている。のちに「後水尾院の禁中大立花」とよばれた。 

≪030≫  立花を指導したのは二代池坊専好であるが、それ以上に手も出し口も出したのは後水尾院だった。「立花は面白いもので、これが好きになりだしてからは他のことは耳にも目にも入らなくて、昼夜このことばかり考えている」と側近に語っていた。だから毎日でも花会をしたかった。お触れを出し、参加人数を決め、ときに十数人、ときに五十数人で立花の出来を争うのである。壮観だったろう。招待されるのは堂上・地下(じげ)・僧侶を問わない。身分を問わずに誰もが点取り立花で腕を誇れるようになっていたようだ。  

≪031≫  一方、後水尾院は「和学」の復興にも傾注した。儒学が嫌いだというのではないが、いっそう和学にとりくんだ。むろん和歌はプロ中のプロである。『後水尾院集』にはざっと二〇〇〇首の歌が収録されている。「鴎巣集」ともよばれる。アクロバティックな「蜘蛛手」にも長けていた。いまこれを回し読みしても、言葉の”綾”に異常に執着しているのが如実に伝わってくる。後鳥羽院以来の和歌好きで、狂言綺語に溺れることを辞さない「院」だったのである。  

≪032≫  慶安4年(1651)、後水尾院は落飾する。法名は円浄、突然の落飾で、その半月前に家光が没していたため、幕府は二重の驚きを隠せなかったようだ。 

≪033≫  おそらく幕府への見せしめというか、自分はほれこのように勝手なことをするのだという決意の表明だったにちがいない。かくて後水尾院がとりくんだのが修学院造営である。最初は衣笠山に山荘をつくる計画をもったのだが、岩倉の長谷(ながたに)に御幸した前後から、修学院に意向をかためた。 

≪034≫  プランの経緯は資料がのこっていないのだが、当然、八条宮智仁親王の桂山荘(桂離宮)のプランが気になっていただろう。智仁親王はすでに寛永6年に没し、桂山荘はしばらく荒廃していたのだが、二代智忠親王が中書院と新書院を完成させていた。記録によれば、後水尾院はその桂を3度にわたってお忍びで”視察”に行っている。 

≪035≫  しかし、熊倉さんは修学院のモデルは嵯峨院だったのではないかと見ている。嵯峨院とは嵯峨天皇が造営した離宮で、のちの大覚寺のことをいう。理由はひとつ、修学院山荘には浴竜池という人工の大池があることだ。 

≪036≫  修学院離宮は、広大な山麓に上・中・下の茶屋が小径でゆっくり結ばれるという、まことに宏壮で細心の独創的な構成になっている。 

≪037≫  下の茶屋は池の端をめぐって”数寄の書院”というべき「寿月観」が待ちうけ、いまはないのだが当時は「蔵六庵」があった。その東門を出ると田園風景が広がり、そこをへて中の茶屋の「楽只軒」(らくしけん)に入る。後水尾院が皇女朱宮(あけのみや)が出家したいというので贈った御所である。いまは林丘寺になっている。客殿に”天下三棚”のひとつ「霞棚」があって、いかにも女院御所の趣向に富む。 

≪038≫  この中の茶屋を出ると、ふたたび田園がゆるやかなスロープ状に広がって、しばらくすると突如として大池「浴竜池」があらわれる。ここを含んで約4万平米におよぶのが上の茶屋である。ぼくが最初にここを訪れたのは小学校5年のときだったが(俳句会だった)、なんだかこの世の光景とは思えなかった。最高位置に「隣雲亭」が、中の島には「窮邃亭」が、いまは失われているが「止々斎」なども配された。その向こうが比叡山である。 

≪039≫  おそらく日本のどこにもない光景だといってよい。かつて熊倉さんは「あれは、やっぱり霊域というコンセプトじゃないかと思うのね」と言っていた。たしかにこの世のものとは思えない。 

≪040≫  しかし修学院を造営してのち、後水尾院の体調はしだいに衰えていく。しばらく風流の極みを遊んでいるものの、もはや華麗な遊宴を主宰するというほどではなかった。池の舟遊びと茶の湯に遊宴の趣向が移っていた。寛文4年には窯が開かれ、いわゆる修学院焼きが始まっている。 

≪041≫  その陶芸風情を見ると、再晩年の後水尾院が寂寥の中にいただろうこと、あるいはあえて「侘び」から「寂び」への胸中の移行をはたそうとしていたのかもしれなかったことが、偲ばれる。 

≪01≫  宮沢賢治はカメラマンだと言ったのは草野心平だった。羅須地人協会に無一文裸一貫で飛びこもうとした草野らしい言い方だ。詩人にして賢治のシンパサイザーならではの炯眼だった。 

≪02≫  新宿に「学校」というバーがあって、そこは心平さんを中心にした「歴程」の詩人たちの溜まり場だったのだが、そこで賢治について心平さんや宗左近や高内壮介さんと雑談したことがあった。心平さんはその夜は上機嫌で胡麻塩頭をなでながら、ハハハ、君はまだ宮沢賢治を読んじゃいないんだよ、あれはね、縄文以来のカメラマンなんだよと、ぼくの質問を一笑に付した。 

≪03≫  その賢治を昨夜に綴って、ぼくはちょっと茫然としたままである。一夜をおいてもなんだかまだ目の中が霞んでいる。またまた風邪がぶりかえして、微熱のままに綴っていたこともあるだろうけれど、それよりもやはり賢治の未到の深さに入って、まだステーションに戻れないというのが正直なところだ。 

≪04≫  こういうときはどうしたらいいのだろうと思いながら、ああ、そうだ、北の人の続きは北の人がいい、それなら鈴木牧之や吉田一穂、北欧のカール・ブリクセンや『トナカイ月』のエリザベス・トーマス、あるいは山形の土門拳か秋田の土方巽だろうと思いはじめた。 

≪05≫  青森の太宰治や寺山修司も視界に入ってくるけれど、二人はすでに採り上げたし、『北越雪譜』ではまだ早く、一穂の『古代緑地』や土方の『病める舞姫』は別の日にしたい気分だ。それにやはり日本人がいい。そこで土門拳をこれから書くことにする。まさに縄文以来のカメラマンの本物だ。 

≪06≫  土門拳とは会えなかった。会えなかった人などいっぱいいるが、しまった、会っておくべきだったと思う人が、そのなかにまた何人も何十人も、何百人もいる。エディターとしての日々を思い返しては、そういうことをよく悔やむ。土門拳はその一人である。時期からいえば会えなくはなかった。 

≪07≫  大辻清司さんに「イメージとは何か」という話をしてほしいと言われ、ぼくが桑沢デザイン研究所の写真科の講師になったのは1972年だった。すでに内外のモノクロームの写真集を片っ端から見続けていて、自宅にはカメラマンを同居させていたし、自分でも写真を焼くのが好きだったので(撮るよりDPEが好きだった)、引き受けた。見続けた写真集はさすがに欧米のものが多かったが、浜谷浩・木村伊兵衛・土門拳などの大御所と、高梨豊・森山大道・沢渡朔らの新しい日本の写真もよく見ていた。 

≪08≫  写真集というもの、見方があって、パラパラ見てはいけない。ゆっくり1ページずつを繰る。眼が止まったら、飽きるほどそれを見る。見終わったら、今度は少しスピードをあげて見る。パッとめくって、急に前の写真が気になりだすことが必ずあるだろうから、そのときは前を繰らないで、そっと頭の中でその気になる写真を思い浮かべ、そのうえでそこに戻る。こういうことをしたうえで、また最初からパラパラやる。お勧めだ。 

≪09≫  土門拳の写真集では『江東のこども』と『室生寺』が好きだった。むろん『ヒロシマ』も『筑豊のこどもたち』も『古寺巡礼』もゆっくり見た。 

≪010≫  見ていると、しだいにこちらの喉がカラカラになってくる。そこには名状しがたいほどの他を圧する力があったということだ。押しやる力ではない。求心力に似た引きこむ力なのである。最近、土門拳写文集なるものが小学館文庫から6、7冊出ていて、これは便利なのでときどき見ているのだが、文庫サイズになってもその力は変わらない。やはりすごい写真家だ。 

≪011≫  では、その土門の何を採り上げようか。ちょっと迷ったが、あえて写真集をはずして、『死ぬことと生きること』を選んでみた。土門が車椅子で撮り始めてからのエッセイ集である。杉浦康平さんがこの本の装丁をしているときに、横で見ていたという因縁もある。 

≪012≫  本書は冒頭に、「日本人としてのぼくは、どこの国よりも日本が大好きである。そして、日本的な現実に即して、日本的な写真を撮りたいと思っている」とある。ついでに米と味噌汁とコーヒーが好きで、パンと紅茶はダメとも、「ぼくは正真正銘の東北人だ」とも書いている。 

≪013≫  こういうことは土門のどんな写真を見ても、すぐ伝わってくる。被写体が日本や日本人だからというのではなく、心の目がまさに日本になっていた。圧倒的な『室生寺』(1954)など、そこに無数の日本が肯定的に凌辱されている。室生寺橋本屋の奥本初代さんの話では、昭和14年から撮りはじめて30年後に雪の室生寺を撮るまで、土門は40回以上にわたって当地を訪れていた。 

≪014≫  カメラは室生寺が隠していたことまでを覗きこんでいる。カメラは光を待ち、呼吸を秘めている。カメラはいったん相手を掴んだら、雷が鳴っても相手を離さない。見ていると、さきほど言ったように、引きこまれ、ただただこちらは喘ぐだけになっている。こういう写真は日本の胸倉をつかむようにといえばいいのか、目で日本という対象をひんむいたといえばいいのか、ともかくそこには「日本」が誰も見たことのない息吹で躍如した。 

≪015≫  そもそも土門の写真は「とことん撮る」という本質に裏打ちされていた。写真においてとことん撮るとは、もうこれ以上は撮れないというところまで撮るということだ。 

≪016≫  とことん撮れば、当初のモチーフの条件や状態が変わってしまうこともある。光も変わってくる(土門はライティングは嫌いなので、たいてい自然光で撮っていた)。それでもかまわない。ともかく撮る。土門は「撮っても意味がなくなるまで撮る」と書いている。 

≪017≫  けれども、それだけ撮っていても、満足できない写真しかできないこともある。しかしながら、そこまでとことん撮っていれば、世の中には違った見方や異なった撮り方があるという格別のヒントにも、突如として出会えることが多いとも言う。その格別のヒントは、高僧の一言にあるかもしれないし、骨董屋のモノの持ち方や光のかざし方にあるかもしれない。あるいは誰かの無造作な写真の場合もある。 

≪018≫  その格別のヒントが一目でパッとわかるようになれればしめたもので、そのヒントによって次にまた「とことん撮れる」ようになる。新たなピントも合ってくる。土門は、いつもそういうことを考えていた写真家なのである。 

≪019≫  それにしてもわれわれは、何事も「とことん」をしていない。「とことん」していないから、決定的なヒントに出会えない。そこで自分がしていることにいつも自信がなくなり、それが写真であるなら、自分の写真がいつもぐらぐら、へなへなしてしまう。すべてのヒントに見放された一人よがりの写真になっていく。 

≪020≫  ところで土門は、こうしてとことん撮っていると、そのうちハッとする時があって、それが決め手の写真なのだということが瞬時に見えるようになるとも言っている。しかも、このときは瞬間的に題名まで浮かぶのだという。これには驚いた。自分が撮った写真をあとでベタ焼きを見てマーカーで丸をつけているようでは、その写真家はその場で何にも気がついていなかったということなのだ。 

≪029≫  ぼくは、昭和16年に32歳の土門が文楽を撮りはじめたことに、いろいろな意味で感服している。新橋演舞場が皮切りだった。 

≪030≫  まず、昭和16年という時代情勢だ。日米が開戦した年である。こんな時期に土門は文楽にこだわった。次にこのさなか、よりによって文楽を選んだことだ。たんに選んだのではなく、人形浄瑠璃というものだけを選び切った。いまでは歌舞伎も文楽も能も茶の点前も、なんでも適当に写真になっているからべつだん驚かないだろうが、この時期に報道写真家集団を出身した写真家が、わざわざ被写体としては退屈至極な文楽を選んだことは、とても恐ろしい。それも、動いてなんぼの文楽をモノクロームに止めてしまうのだ。しかも、注文で撮ったのではない。誰から頼まれたのでもなかった。 

≪031≫  しかし土門はあえて文楽に絞ったのである。そこからきっと「未知の日本」と「揺動する日本」が見えてくることを確信していた。 

≪032≫  実は、土門は見抜いていたのである。第301夜の有吉佐和子『一の糸』にも触れておいたように、この時期の文楽は分裂騒ぎのなか、名人たちが「最後の光芒」を放っていたのだった。その光芒は絶望的な光芒でもあり、また、まさしく「死ぬことと生きること」を問うた光芒でもあった。 

≪033≫  たとえば、昭和17年1月の大阪文楽座での写真。ここには豊竹古靱太夫の櫓下披露の手打ち式が写っている。太夫の古靱太夫と三味線の鶴澤清六が紋下の床に坐り、人形遣いたちが舞台に並んでいる。古靱太夫と清六はのちに訣別する仲である。もし二人が訣別すれば、吉田文五郎と古靱太夫の顔合わせも見られなくなる。この写真には、その暗雲の予兆が無言に張りつめて、不気味な緊張を訴えている。  

≪034≫  それほどの写真なのに、これらの文楽の写真はなんと30年をへて、昭和47年に田中一光の渾身の造本と構成によってやっと写真集になった。それまでのあいだ、「写された文楽」は土門の手元でじっと黙って眠っていた。ぼくはこの、土門にひそむ「時熟する待機」というものにも感服している。 

≪035≫  本書もそうなのだが、土門には豪語を吐くクセがある。雪がほしくて室生寺の宿屋で待ちつづけていたといったような伝説も、いくつもある。 

≪036≫  その豪語のひとつに、「アマチュア時代というものはぼくには一日もなかったのだ。ぼくは最初からプロだったのだ」があった。 

≪037≫  これは土門拳を知るうえでも、これから写真家をめざす者にも、また仕事に不満をもつ者にも聞かせたい豪語だ。いったい土門は、なぜ最初からプロだったのか。 

≪038≫  写真を始めたてのころ、土門は借り物のカメラを使ってはモノを撮り、町の一角を撮っていた。自分がモノを見たとたんに、そこにカメラがぴたりと吸いつくための訓練をしたかったからだ。それも半分は空シャッターで、しかも連日、ほぼ1000回のシャッターを切った。しかし近くのモノばかりでは訓練が足りないと気がついた土門は、空に突き出る広告塔を撮る。広告塔「ライオン歯磨」の「ラ」や「歯」にレンズを向け、手の構えのスピードを変えては何百枚も撮りつづけたのだ。やがて一瞬にして、広告塔の「歯」が切り刻むようなピントで撮れるようになっていた。 

≪039≫  これだけの準備のうえ、土門は初めて写真を撮る。それも好きなものを撮る。ここからがすでにして写真家土門拳なのだ。出来上がった写真は、すべて土門がそのように撮りたかったという写真ばかりとなった。これはまさしくプロなのだ。なるほど、土門は最初からプロとして写真を撮っていたということになる。   

≪040≫  これは「方法の発見」への執着ということでもある。また、対象にはアマもプロもないということなのである。 

≪041≫  土門はこういうふうにも豪語していた。有名な言葉だ。「いい写真というものは、写したのではなく、写ったのである。計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真が出来る。ぼくはそれを鬼が手伝った写真と言っている」。 

≪042≫  そうなのだ、鬼が手伝った写真なのである。鬼気迫る写真というわけではない。鬼気迫っていたのは土門拳であって、そこに去来する鬼気が何かを助けて、写真そのものが鬼の撹乱の外まで出てきたということだ。鬼とは「抱いて普遍、離して普遍」の、その普遍がやってくるギリギリの時空の隙間のことなのだ。 

≪043≫  助手たちの証言によると、土門はいつも「一番大事なことは、ギリギリまで待つことなんだ」と言っていたという。待機である。が、待機ではあるけれど、ただ待っているのでもない。何かと勝負しながら待っている。その勝負手を握っているのが鬼なのだ。そういうときは、鬼もうっかり手伝ってしまうものらしい。    

≪044≫  土門拳は肖像写真や人物写真にも独自の写風を出した。その前提になっていたのは、ポーズを注文しないこと、ライトをつけないこと、この二つだった。 

≪045≫  高見順の撮影に鎌倉の自宅に行った。書斎で撮ることをすぐ決めると、その部屋をすばやく観察する。光の具合などではない。そんなことは瞬間的に決められる。高見順らしさを象徴している特徴を見つける。ではそれを背景に撮ったりするのかというと、そうではない。ただ、その話題を振り向ける。 

≪046≫  高見順の机には槍の穂先のような尖った鉛筆が1ダース以上も筆立てに入っている。原稿用紙は200字詰だ。これは作家としてめずらしい。「へえ、200字詰をお使いですか」と話しかけ、「いや10年くらい前からで」と答えた瞬間にシャッターを切る。「鉛筆はHBですか」と聞いて、答えようとした瞬間にシャッターを切る。カメラはあくまで高見順の顔か、バストショットだけ。べつだん鉛筆や原稿用紙を入れたいわけではない。けれども、作家は自分の得意なものを喋ろうとすれば、それが作家の貌なのだ。 

≪047≫  土門はこうも書いていた、「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る」。土門はいつまでも、この声を撮ろうとしてきたのである。それも仏像の声さえも――。 

≪048≫  土門拳は昭和35年の51歳のときザラ紙で100円の定価で出版した『筑豊のこどもたち』を刊行すると、そのあと脳出血で倒れ、右半身が不自由になった。 

≪049≫  これで土門はカメラを大型カメラに切り替える。そのなかで生まれていったのが『古寺巡礼』である。言葉による和辻の巡礼(第835夜)とはとことん異なった巡礼だった。和辻は眼で掴んだ古寺を綴ったが、土門は手で掴める古寺を撮った。 

≪050≫  しかし59歳のとき(いまのぼくの歳であるが)、仕事先の萩でふたたび脳出血で倒れた。萩の乱だった。そのまま九州大学付属病院でのリハビリが1年間続いた。ついで長野の奥鹿教湯に転居した。誰もが再起不能を噂していたが、土門は不屈の力で蘇り、車椅子での撮影にがむしゃらに向かっていった。 

≪01≫  冬になると、湖北から若狭や越前に向かう旅路は寂しい。それなのに、ぼくにはその湖北が父の原郷(長浜)であって、そこに本家の中辻がいた。松岡は中辻家の分家にあたる。 

≪02≫  けれども中辻家はそのころ絶えつつあって、ただ一人、湖北木之本の大音にだけ若い跡取りがいた。中辻源一郎君といった。ぼくが子供時代に最初に遠出をして忘れられない幼童の日々を親しんだのは、その年上の源ちゃんのいる木之本と余呉の湖だった。 

≪03≫  読みさしの本から顔を上げ、母が振り向いた。「これな、源ちゃんの余呉の話やの」。水上勉の『湖の琴』だった。 

≪04≫  水上勉は福井県の本郷村岡田の宮大工の家に生まれた。竹薮の多い集落だったようだ。井戸もなく水貰い風呂で、電気も止められた少年期、口べらしのため京都の寺に小僧として送られた。 

≪05≫  寺は最初は相国寺瑞春院で、そこを脱走してからは等持院に預けられた。 その等持院には、ぼくの中学校の国語の恩師藤原猛先生が住んでいた。補聴器をつけた難聴者ではあったが、ぼくの日記に注目をした豪胆磊落な先生だった。

≪06≫  等持院は水上勉の名を広めた傑作『雁の寺』(第45回直木賞)の舞台である。母がそれをさっそく読んで「セイゴオの国語の先生のいやはるとこが舞台になってるようよ」と言った。藤原先生にそのことを言うと、そうやね、君も読んでみなさいと大声で言った。 

≪07≫  藤原先生はぼくが卒業するときに、なんと発禁本の伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』上下巻をプレゼントするくらい大胆な人だったので、青少年にちょっと妖しい『雁の寺』を読ませることなど平気の平坐だった。 

≪08≫  とはいえ、さすがに『雁の寺』はどきどきした。濡れ場とサスペンスが重なっているのも困ったし、そこに出てくる慈念が綾子に寄せる思いは、どうにも自分の気持ちを代弁しすぎているのにも困った。それで済んだかとおもえば、和尚殺しと綾子の顛末である。これは青少年には刺激が強すぎた。息を呑んだなんてものじゃない。しかし、こうした昂奮とは別に、読んでいるあいだずっと、ものすごく暗い空間を感じてもいた。 

≪09≫  その後、母はすべての水上作品を読みつづけた。読むたびに「ええなあ」と感嘆していた。父は「そやけど悲しすぎるな」と言っていた。  

≪010≫  母の美意識を一も二もなく信頼していた青少年セイゴオは、まるで盗み読むように水上勉を寝床で読んだ。その二作目が『五番町夕霧楼』である。綾子は夕子になっていたが、薄幸であることは変わりない。与謝半島の樽泊の貧農に生まれた19歳が五番町の遊郭に入って娼妓となり、すぐに身請けされる物語だった。 

≪011≫  その夕子にはどもり(吃音)の思慕がある。夕子のもとへ通う学生で、のちに金閣寺とおぼしい鳳閣寺に放火し、逮捕されたのちに自殺する。夕子は小さなころに遊んだ寺に行き、彼岸花を紅く染め抜いた浴衣のままに自殺する。 

≪012≫  寝床のなかで起き上がって最後まで読んだぼくは呆然とした。すでに三島の『金閣寺』を読んでいて、それはそれで男にはなるほど強靭な美学思想というものがあるんだということを感じていたところへ、『五番町夕霧楼』では遊女の美しさと弱々しさばかりが燃え上がる。このまま寝られるはずはない。 

≪013≫  こんなふうに腑分けをつけないほうがいいけれど、水上作品では女は薄幸で、男はだいたい劣等感をもっている。 

≪014≫  『越前竹人形』の折原玉枝は娼婦で目が切れ上がって美しく、夫の喜助は「ひっこんだ眼、とび出たうしろ頭、大きな耳、浅黒い肌、子供のように小さいが太い指」というふうになる。『雁の寺』の慈念はさいづち頭。ようするに異形の者なのである。 

≪015≫  女はどうしてそこまで観音のようなのかとおもうほどに、あまりに純粋に何もかもを負いすぎて、哀しい。『はなれ瞽女おりん』では、おりんは言い寄る男のすべてを受け入れる。 

≪016≫  これでは居ても立ってもいられない。こんな男と女の宿命がはかなく突き進むのでは、青少年セイゴオには得体の知れない異様な美が過剰に移って離れない。『越後つついし親不知』など、どうしようかと号泣させられた。 

≪017≫  おしんは杜氏の夫が留守のあいだに稼ぎ仲間の権助に犯される。けれども身籠ったおしんはそのことを夫に決して言おうとしないため、ついに夫に殺される。棺の中のおしんは白い綸子の裾を深紅に染めている。その血痕の所在をたしかめるべく裾をまくった警察の係官が「あっ」と声を上げるのだ。血に染まった嬰児がおしんの股間に顔を伏せている。 

≪018≫  それでどうなるかといえば、作者は何も語らない。「棺の中で生まれたおしんの子であった。母も子も物を言わなかった」という一行で物語は終わってしまうのだ。 

≪019≫  ぼくは水上文学では『一休』や『良寛』のファンでもある。この二作品は歴史上の人物としての禅僧の生きざまを扱っていながら、日本文学史に残る「感情」をもっている。 

≪020≫  それぞれ谷崎潤一郎賞と毎日芸術賞をとった。ぼくは『外は、良寛。』(芸術新聞社)を書いたときも、水上勉の“良寛綴り”に最も影響をうけたことをしるしておいた。 

≪021≫  しかし、ぼくが水上文学に仮託してきた哀惜は、結局は綾子や夕子やおりんやおしんに戻っていく。 

≪022≫  それがぼくのなかで決定的になったのは、あるいは『五番町夕霧楼』の夕子を佐久間良子が演じてからだったかもしれないし、あるいは寝床の中の読中感覚そのものの度重なる再演のせいだったかもしれない。 

≪023≫  どちらにしても不純な動機ではあるが、以来このかた、湖北にルーツをもって京都に生まれ育ったぼくには、夕霧楼に売られて西陣の織元に水揚げされながら、与謝の幼な馴染みの正順の絶望に身を投げていく遊女の宿命が、そのまま水上文学の離れがたい永劫の残香のようなものになってしまったのである。 

≪024≫  もうひとつ、これまた佐久間良子のせいか水上勉の文章のせいかはわからないのだが、女性の中の「紅」や「朱」がなかなかアタマを離れない。しかもその紅朱(べにしゅ)は百日紅(さるすべり)のように、小さな小さなものでなくてはならなかった。 

≪025≫  この後遺症はまったく恐ろしいほどで、いまぼくは西麻布の一隅に住んでいるのだが、いろいろ転居先を見回って引越し先を3つほどに絞ったときも、うん、ここだと決めた理由が庭に百日紅の紅い花が咲いていたという、ただそれだけのことだったという光景にまで連なっていた。 

≪026≫  百日紅は『五番町夕霧楼』にしばしば語られる紅い花である。夕子が故郷を身売りされて離れるときも、船から浄昌寺に百日紅が咲きほこっているのを見送っているし、その浄昌寺の墓場で夕子が自決するときも、夕子は百日紅の根もとにうつ伏せになって倒れ、その背中にはいつまでも紅い花が散っていた。 

≪027≫  辻村ジュサブローと人形町の店の奥で話したことがある。どうにも遊女になってほしい女のことを考えると、そこには紅や朱がほしくなるということを。 

≪028≫  水上勉。この稀有な人。 ぼくがいまさら口はばったいことを言わずとも、この人の作品は広く静かに慎ましく、凍てつくような心地をもって読まれていることだろうし、その訴えてくるものをほとんど誰もが過(あやま)たず受け取っているのだろうとおもう。 

≪029≫  それはそれ、母が買ってきた「別冊文芸春秋」に母の折り癖とともに読んだ『五番町夕霧楼』の印象は、18歳のぼくには嗚咽をともなうほどの、見棄てておけない女の宿命として、いまなお響いている。その宿命はしょせんは他界への旅立ちでしか贖われないのかという思いとして、まだ未解決なままにある。困ったことだ。  

≪01≫  こういう悲痛な文章はもっと読まれるべきだ。 この悲痛はわれわれの存在の印画紙にうっすらと感光しているものと、とてもよく似ている。われわれは「生まれ生まれ生まれて、その生の始めに暗い」(空海)はずの生をうけてこの世に誕生した者ではあるけれど、その印画紙はけっして無地ではない。そこには当初の地模様が感光されている。有島武郎は生涯を寄せて、その当初の感光が何であったかを問いつづけたやさしすぎる知識人だった。 

≪02≫  小さき者へ。いったい何を意味しての小さき者なのか。これは、母を失ったわが子に贈った有島の壮絶な覚悟の証文であって、何人をも存在の深淵に招きかねない恐ろしい招待状だった。また、冷徹な現実がつねに未来に向かって突き刺さるものだということを公開した果たし状のようなものだった。 

≪03≫  有島が19歳の陸軍中将の娘の神尾安子と結婚したのは31歳のときだった。一まわり年下だ。まだ本格的に作家になるまでには至っていないころで、創刊まもない「白樺」に短編や戯曲を書き始めた。 

≪04≫  ところが安子は5年ほどで肺結核になり、平塚の杏雲堂病院に入院したまま7年目に死んでしまった。幼い三人の男の子がのこされた。長男がのちの名優森雅之だ。安子は自分の死を子供たちには必ず伏せておくように、葬儀にも子供たちを参列させないように言い遺していた。その4ヵ月後に有能な明治の官僚だった有島の父親も死ぬ。 

≪05≫  有島はこの直後に猛然と執筆の嵐の奥に突入していった。大正6年(1917)は39歳だったが、その直後から『惜みなく愛は奪ふ』『カインの末裔』『クララの出家』『実験室』『迷路』などの問題作をたてつづけに発表した。ぼくは高校2年のときに『カインの末裔』(角川文庫)だけ読んだ。そして打ちのめされた。のちにのべるように、有島はわが子をわずかでも救うために、この物語を思いついていた。こうしてその翌年、「新潮」に発表したのが、あまりにも痛ましい『小さき者へ』なのである。 

≪06≫  有島がわが子に伝えたかったのは、母を失ったお前たちは根本的に不幸だということである。とても大切な何かが奪われたということだ。母を失っても元気でやりなさい、大丈夫だから、とは書かなかった。次のように書いたのだ。「お前たちは去年、一人の、たつた一人のママを永久に失つてしまつた。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪はれてしまつたのだ。お前たちの人生はそこで既に暗い」 

≪07≫  幼な子に向かって「人生は既に暗い」と書く父親がどこにいるだろうか。父がのこした文章を子供たちが読むのが10年後であれ15年後であれ、こんなものを読んだらその時点で、子供たちは自分が存在することの暗部を自覚しなければならない。こんな言葉を贈ることが子供への救済になるとは、ふつうは考えられない。 

≪08≫  いまでは精神医学や心理学があまりに安易に発達しすぎたので、子供を育てる親や教師たちはできるだけ子供の心に傷をつけないように、トラウマを残さないようにする。また、すでに傷を負った者にはできるだけそのトラウマを取り除いてしまおうとしたり、それを忘れさせようとしたりする。まるで君にはどんな負い目もないんだよと、忌まわしい過去を指一本で取り消しするかのように。 

≪09≫  しかし有島はそんなことをしなかった。かえって激越な言葉を突きつけた。「お前たちは不幸だ。恢復の途なく不幸だ。不幸なものたちよ」。 

≪017≫  有島武郎を読むばあい、勘定に入れておかなくてはならないことがある。有島の生き方と作品の生き方とが、あたかも生死の境界をどうやって跨げばいいのかという様相を呈して、互いに矛盾しあいながら立ちはだかってくるということだ。 

≪018≫  もともと有島は裕福な大蔵官吏の家に生まれ育った。そこから離れるためにあえて札幌農学校に入ってキリスト教を浴びた。にもかかわらずアメリカで体験したことは、師の内村鑑三の実感に似て「ひどい文明主義」と「人種差別」だった(有島はハーバード大学やハバフォード大学大学院にも入ってそうとうに優秀な成績を収めているのだが、自主参加した精神病院で患者たちから“ジャップ”呼ばわりされて悩んでいた)。 

≪019≫  時代も急速に社会主義の理想や白樺派の理想に包まれていた。ロダンやセザンヌの表現力にも接した。こういう有島をとりかこむ数々の事態そのものが、現実と理想の劇的ともいえる二極化を痛切に通過しつつあったのだ。そうしたなか、有島はたえず自身の立場というものに疑問を抱きつづけた。 

≪020≫  けれども、その立場をとことん倫理的に追求していけば、自分がおめおめと生きているという存在者の根拠への容赦ない否定ともなりかねない。それでも有島はその「否定」を選んだのである。わが子が母を失って恢復の途なく不幸になったのではなくて、有島自身が存在の不幸を背負っていると感じていたのだ。 

≪021≫  有島武郎は二度、心中を試みた。 一度目は21歳のときで、札幌農学校の級友森本厚吉と定山渓で死にそこねた。あまり取り沙汰されてこなかったことだが、これは男どうしの心中計画である。森本が「君との友情を大事にするために、他の連中を切っている」と言ったことを、有島がまっすぐに受けとめたのではないかと推測されているのだが、ぼくは有島に孤独な神的白虎隊のような気分がなかったとはいえないだろうと思っている。 

≪022≫  死にそこねた有島は、その直後にキリスト者になる決意をして、そのきっかけをつくってくれた内村鑑三を読み耽った。神への愛に切り替えようとしたわけである。しかしそれでも離れない森本と一緒にアメリカに渡ったのち、今度はアメリカのキリスト教徒たちの堕落を見て、キリスト者になることを断念してしまう(内村鑑三もアメリカのキリスト教に失望して日本的キリスト教を設計する)。すでにこれらの事態の推移に、有島がその後に抱えることになるいっさいの矛盾が噴き出ていた。 

≪023≫  二度目の心中は45歳のときで、相手は「婦人公論」のとびきりの美人記者だった波多野秋子である。二人はかねての計画通りに軽井沢の自分の別荘「浄月庵」で心中をはかって、思いを遂げた。大正12年6月9日のこと、新聞はこの大ニュースをスキャンダラスに書きたてた。関東大震災がおこる3ヵ月前のことだ。永畑道子の『華の乱』(文春文庫)がその一部始終を描き、深作欣二が松田優作を有島にあてて映画にした。 

≪024≫  2つの心中に挟まれた有島の生涯に接してみると、死ぬことは有島にとっては何でもなかったことのように見えてくる。 事実、有島はつねに生と死の境界に挑みつづけた思索と表現を試みてきた。その試みは創作意欲を満たすものなどではなく、まさに有島自身の生れ出づる苦悩を存在の印画紙に感光するためのものとなっていた。もっとはっきりいえば、有島の別の作品『或る女』(新潮文庫)や『宣言一つ』にあらわれているように、有島は理想を作品に託してはいても、自身はそれらの表現によって毫も救われていなかったのである。 

≪025≫  それは有島の心中以外の現実的な行動、たとえば北海道の狩太農場を小作人に解放して「共生農場」にするというような社会的行動によっても、なんらの充実や実感を引き出すことができなかった一事にもあらわれている。 

≪026≫  そこで、こんな有島武郎論も横行することになる。もし有島に溢れるようなフィクショナルな才能がほとばしっていたら、有島は婦人記者と心中する羽目などにはならなかったのではないか。農場改革も失敗しなかったのではないか。結局、有島には作家の才能が乏しかったのではないか。こういう感想だ。 

≪027≫  しかし、このような見方では、有島の存在の感光紙がもたらす「すさまじさ」にはとうてい迫れない。 

≪028≫  有島は、かつての王朝人が感覚した「すさまじきもの」の淵の上を、最初から明治の王朝人としてすれすれに歩んでいたというべきなのである。それは学習院予備科に入った十歳の有島が、早々に皇太子明宮(のちの大正天皇)の学友に選ばれていたことにも如実に投影されている。有島はそのように「上の人間」になることにほとほと嫌気をおぼえて育ったのだ。むしろ「上の人間」になればなるほど、差別の亀裂が深まっていくことを実感しつづけていたのだ。 

≪029≫  こうして有島は『小さき者へ』を書いて、自身につきまとうこのような宿命を、はたしてわが子にどのように伝えるべきかと呻吟し、あえて「存在は最初からなにものかに奪われている」という思いを突き付けることを決断するに至ったのである。 

≪030≫  ぼくは、ずいぶん早くに有島に引っぱられていた。「敗北の哲学」や「背教の人生」に惹かれたという気分ではなかった。そうではなくて、何をしてもアクチュアルな実感から遠くなるように自分を仕向けている生き方に引っぱられた。「濃いもの」よりも「薄めのもの」を選んでいるような生き方だ。 

≪031≫  卑怯者であることをどこかで隠せばいいものを、そのように「隠せそうだという思い」がおこること自体が許せない。また卑怯者であることをうまく告白もできそうにもない。そうした自分の実感からどんどん薄くなっていく考え方や生き方をしている有島の、薄めのものを選ぶような「宿世」の感覚にどこか共感していたのだろうとおもう。少なくとも、ぼくの『小さき者へ』の読み方はそういうものだった。ただ、有島自身にとってはそんなことをしたところで何の救いにもならなかったわけである。 

≪031≫  卑怯者であることをどこかで隠せばいいものを、そのように「隠せそうだという思い」がおこること自体が許せない。また卑怯者であることをうまく告白もできそうにもない。そうした自分の実感からどんどん薄くなっていく考え方や生き方をしている有島の、薄めのものを選ぶような「宿世」の感覚にどこか共感していたのだろうとおもう。少なくとも、ぼくの『小さき者へ』の読み方はそういうものだった。ただ、有島自身にとってはそんなことをしたところで何の救いにもならなかったわけである。 

≪033≫  「私」は、このような誰かが困っている場に臨んで傍観する者たちを、つねづね「卑怯者」とみなしてきた。ところがいざその瞬間になると、そこを黙って立ち去っただけではなく、いっときではあったとしても、その光景がおもしろくも見えた。そんな卑怯な一日があったという話だ。 

≪034≫  わざわざこんな話を書かなくともよかったろうに、有島は書いた。だからこの短い話は有島武郎の生涯の圧縮のようだ。きっと有島自身がそう思ってこの作品を書いたにちがいない。しかもここには、自分の幼い子に「真実」を伝えようとしてその書き方にさえ戸惑っている有島の、去りもせず進みもしない生死をゆれる根本衝動のようなものがあらわれている。  

≪035≫  きっと有島武郎は内村に従って徹したキリスト者になればよかったのである。それを拒否し「普遍の愛」を表現しようとしたときから、自分自身への懺悔を作品にしながらすべての苦悩の解放を表明せざるをえない「たった一人の旧約聖書の書き手」になってしまったのだ。 

≪036≫  こんなことは、なかなかできるものではない。神を除いて「普遍の愛」を自身の周囲に近づけたいとすれば、これは人間を相手にするしかないのだが、今度は誰かが神の代わりを演じるか、そのように演じてもらうための犠牲が必要になるばかりなのだ。有島は「神なき愛」などさっさとごまかせばよかったのに、ここで自身をこそ犠牲にし、自身をこそ卑怯者にすることを選んだのである。 

≪037≫  すでに有島が書きはじめた旧約の物語は、もう何十ページも進んでいた。書きつづけるか、中断するか。有島は迷っていた。そこへ波多野秋子が「中断の美」を煽った。有島自身も自分が書きはじめてしまった旧約の文章の、一行ずつの矛盾を引き受けたかったのだろう。そう、推測するしかない。 

≪038≫  『生れ出づる悩み』にこんな文章がある。「誰も気もつかず注意も払はない地球のすみつこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでゐる」。 

≪039≫  この一文の前半も有島武郎、後半も有島武郎である。前半と後半をつなげると、「尊いものが、苦しんでいる」というふうになる。前後はさかさまに対同しあっている。前は美しく、後は受苦からの脱出が待っているという、この脈絡。その脈絡が有島にとってはあっというまの根本対同なのである。これでは1週間とて生きられない蟬のようなもの、あんなに美しくを輝かせ、あんなに真夏を謳歌しながらも、その存在自体が宿命の刻印であるような蟬である。 

≪040≫  まさに『小さき者へ』には、その蟬のの光のような深い矛盾が宿ったのだった。蟬的なるものへの否定しがたい憧れが、いまなお残響することになったのである。千夜千冊650冊目。ぼくはさらにさらに「小さきもの」を慈しみたいとおもう。 

≪01≫  五木寛之という作家は若くして流行作家となり、その後も浮沈なくマスコミを賑わしているように見えるけれど、世間で思われているよりずっと、硬派である。 

≪02≫  硬派といっておかしいなら、たんに気骨があるとか超マジメ派といってもいいが、ようするに大より小を、中心より辺境を、上位より下位を選び、幸福より不幸に、強さよりも弱さに、デカダンよりデラシネに、激しい関心をもっている作家なのだ。マイナー思考だとかマージナル志向だとか、ふつうはそう思われるのを嫌うのに、あえてそこに踏みこんでいるともいえる。そういえば昨日の朝日新聞の広告に出ていた新著のタイトルも、『不安の力』というものだった。 

≪03≫  だいたい、いつもアウトローを徹底的に擁護する。なんといってもデビュー作が『さらばモスクワ愚連隊』なのだ。最初から愚者が選ばれている。ロシアの風土感覚が選ばれているのは早稲田の露文出身であること、デビュー直前にソ連を旅していることが関係している。 

≪04≫  もっとも、このアウトローに対する愛情は社会からの逸脱者にばかり向けられているわけではなく、もっと広くて優しいものだ。何度か一緒に仕事をしてみるとすぐに気がつくのだが、この作家は自分に対する位置付けよりも、たえず他者に対する処遇をばかり配慮する。だから中央の文壇を嫌っているだけでなく、故意ともいうほどに中央から逸れた作家や批評家を本気で応援している(ぼくが受賞した鈴鹿市の「斎藤緑雨賞」もこの作家の進言と価値観によって制定されていた)。 

≪05≫  やはり硬派、いわば「心の硬派」なのである。デラシネの気分が奥深くに脈々と流れている硬派だ。 

≪06≫  この作家は炭鉱町に近い福岡県の八女に生まれた。すぐに教職者の両親とともに京城や平壌に移って、そこで国民学校や中学時代を送った。敗戦が陸軍幼年学校に合格した直後にあたっている。 

≪07≫  昭和22年に帰国して福岡の高校に入り、そこから早稲田へ。そのあとは編集や作詞や台本などの仕事を次々にしながら(それゆえカメラワーク、レイアウト、舞台事情にやたらに詳しい)、ついに念願のシベリア鉄道によるロシア横断を果たした(同じコースを安藤忠雄が似たような時期に動いている)。ソ連・東欧から戻ったあとは夫人の郷里の金沢に住んで、そこから『さらばモスクワ愚連隊』や直木賞の『蒼ざめた馬を見よ』を問うた。 

≪08≫  このあとの派手にも見える活躍は、誰もがよく知っているところだろうが、けれどもそれもいささか無責任な印象で、ではどこに派手な証拠なんぞがあったかというと、実は五木さんから派手は探せない。あえて言っても地味派手というところだ。「日刊ゲンダイ」の6000回をこえる連載で書いていることや『大河の一滴』でずばり表明していることに顕著なように、人間の「弱さ」や「他力本願」をそうとうに正面からうけとめているところなど、とても派手では書きえない。もっとわかりやすくは藤圭子や山崎ハコらの暗い歌が大好きなところをあげればいいのだろうが、ともかくもこの作家には、あの人を魅きつける風貌の奥に、やっぱり異質なまでに硬派な人生観や無常感が突沸しているというべきなのだ。 

≪09≫  まあ、こういうことを並べたてても説明にはならない。それよりむしろ、ぼく自身が五木さんに会ってすぐに、このデラシネ硬派の感覚を直接に肌に感じたというほうがいいだろう。  

≪010≫  で、その五木さんが2度目の休筆期間をしばらくへたあとで(このときに東洋・仏教・日本の探索を自分に課したようだった)、久々に世に問うたのが『風の王国』だったのである。一読、これこそは五木さんが最も書きたかったことだと思った。 

≪011≫  では、以下はその話――。まず前フリから話してみたい。山本七平『現人神の創作者たち』~プラトン『国家』~大友克洋『AKIRA』~と辿ってきた流れもあることゆえに。 

≪012≫  世の中には、その正体をこれこれと名指しえない一群がいる。その動向、その歴史は数知れない。そもそも神々が「名指しえない正体」であったからこそ、マルドゥークとよばれ、アルテミスやディアーナとなり、迦楼羅、阿修羅、西王母、女娥となった。 

≪013≫  しかし、ここで話題にしたいのはそういう神々の時代が終わってなお「名指しえない正体」をもった実在の人々のことであり、実在の一群のことである。 

≪014≫  たとえば中国では逸民伝というものがあり、時代によって隠者、隠士、帰隠、逸士、高逸などとよばれた人々がいる。その起源はひとつには慕山遊仙につらなる者の系譜だが、ひとつには王朝の変更と遷都のたびに居住地を追われた者たちの系譜を含んだ。 

≪015≫  日本では柳田国男や宮本常一が定住型の「常民」を規定したのに対比して、非定住で道々の輩(ともがら)として動きつづける者たちを、「遊民」として一括りすることが多い。最近は「山の民・川の民・海の民」ともいわれるが、そこに芸能や信仰が関与するときはしばしば「遊行の民」といった。声聞師・鉦叩き・遊行聖・白拍子・木地師・杜氏なども含んだ。ときに「化外(けがい)の民」も含まれた。  

≪017≫  これらはひっくるめて流浪の者の流れというものだ。いまやノーマッドやノマドロジーへの関心も高まって、こうした遊民や流浪民を語ろうとする研究者やフィールドワーカーは少なくはない。しかし、流浪の民のすべてが「名指しえない正体」だとは言えないのである。 

≪018≫  役の行者とよばれた役小角とその一党、国栖とか土蜘蛛とよばれた一党は、おそらく国にまつろわぬ者だったろうし、アラハバキ、酒呑童子、安達ケ原の鬼女などとよばれてきた者は、殷賑の巷を訪れにくい理由をもっていたのであろう。  

≪019≫  いや、そのように舞台を古代中世に求めずとも、近世には多くの賤民や遊侠の徒が多く群れ、近代にも差別をうけた者から草莽・博徒・馬賊・乞食とだけよばれてきた者も多くいた。その動向は今日にもなお続いているというべきなのである。たとえば難民やホームレスは、いまなお定住の地をもてない者の群である。 

≪020≫  そうした一群のなかには、あえて定住を避けたい者たちもいた。かれらは何かの理由を背負って動き続けることを選択したか、選択させられた一群である。 

≪021≫  なぜ、そのような一群がいるのだろうか。五木寛之は青年時代からこの何かの理由を背負った一群に強い関心をもってきた。そこには炭鉱の町の近くや朝鮮半島に生まれ育った生い立ちが関係しているのかもしれない。『風の王国』はそのような一群が、いっときの“国なき国”をつくろうとした動向に光をあてた作品である。こんな話だ――。 

≪022≫  出版社の手伝いをしている速見卓が、ふとした機縁で二上山のレポートを頼まれる。さっそく現地に赴いた速見が仁徳天皇陵あたりから二上に向かっていると、そこを一瞬、異様に敏捷に歩く「翔ぶ女」が見えた。 

≪023≫  夜になって、山中の広場に再び「翔ぶ女」が現れた。俊敏な動きはダマスカス・ナイフのようだった。ところがその女は、やがて小さな老人と仲間を含む何人もの一行と一緒になっていく。一行は法被(はっぴ)を着ていて、襟には「同行五十五人」「天武仁神講」の文字が染め抜いてある。いったい何者たちなのか。 

≪024≫  冒頭、このように始まっている。取材者まがいの速見の目で、この異様な者たちの実態を証かしていこうという話だなと、すぐに見当がつくのだが、実はこの予想は裏切られる。 

≪025≫  まず速見は、いくつかの謎のような言葉やすぐには理解できない歴史の出来事に出会う。 最初に気になったのは、二上山をとりまく地形そのものだ。北から生駒山・信貴山・二上山・葛城山・金剛山とつづく山系を、一本の大和川が破っている。葛城川・高取川・初瀬川・飛鳥川・曽我川はすべて流れこんで、この大和川になっている。古代日本の幹線水路であった。小野妹子らが隋から帰ってきたときは、難波の津からまっすぐ大和川をさかのぼって大和の都に入ってきた。  

≪026≫  一方、この山系を走り抜けている何本かの“けもの道”のような街道がある。なかでも竹内街道は二上山の山麓を抉(えぐ)って、古代最も重要な輸送路となった。そこには武内宿禰の伝説がまとわりつき、数々の人間たちのドラマを運んできた。速見はこの地形と風土に惹かれる。 

≪027≫  しかし、なんといっても異様な出来事を暗示していると思われるのは、二上山そのものである。古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、西の二上山は日の沈む死の山とされてきた。二上の向こうには実際にも応神天皇から雄略天皇期までの大王・貴人・豪族たちの墳墓が集中し、その数は大小2500をこえている。二上山はその死者の国の西の奥津城(おくつき)なのである。 

≪028≫  それだけでなく二上山は鉱物宝玉の宝庫ともいわれてきた。石器人がヤジリをつくった黒い安山岩(サヌカイト・紫蘇耀石)、刃物を研ぐのにつかわれる金剛砂、さらには鋼玉(コランダム)も出るとされた。鋼玉は赤ければルビー、青ければサファイアだ。これらのことは二上山がかつては活発な火山であったことを物語る。  

≪029≫  その二上山に大津皇子の墓がある。無念の皇子の墓。「翔ぶ女」の一党はその二上山にこだわっているらしい。物語はこのような二上山にまつわる「負のイメージ」を背景に、しだいに核心に迫っていく。 

≪030≫  速見が見た「ダマスカス・ナイフのような女」は葛城哀といった。父親は葛城天浪という。かれらはときどき自分たちのことを「ケンシ」とも言った。かれらの口からは「へんろう会」「ハッケ」という呼び名のようなものも聞こえてくる。   

≪031≫  やがて二人が中心になって主宰する「天武仁神講」の意味が見えてくる。その昔、仏門の隠語に一のことを「大無人」(大という字から人を無くすという判じ読み)、二を「天無人」(天の字から人を無くす)、三を「王無棒」などと言い替えたことに因んで、「天武仁」で「二」を、「神」で「上」をあらわして、かれらは自分たちの講組織を「ふたかみ講」と名付けたのだった。 

≪032≫  葛城天浪はその二代目の講主にあたる。「へんろう会」はお遍路を「へんろう」ともいうのでそのことかと思ったが、初代の講主である葛城遍浪の名を採ったものだった。遍浪の時代、その講に参加した八つの家族がいて、その八家(ハッケ)に血のつながる講朋が「同行五十五人」とよばれた。かれらは遊行と学行を守り、遊行ではとくに歩行を鍛練しつづけた。しかし、なぜこんな講があり、こんな習練が今日なお継承されているのかは、速見はわからない。また、ケンシというのもわからない。 

≪033≫  物語はここで、速見の兄に恋をしている歌手とその業界との裏関係、その背後の興業界や暴力団めいた団体の関与、ボストン美術館の仁徳陵出土品盗難未遂事件、あるいは山野跋渉のバッグパッキングブームの話などが絡まって、しだいに複雑になる。 

≪034≫  そのうち葛城哀に東京から伊豆までを速歩で歩ききってみないかという挑戦をうけた速見は、それに応じてついに伊豆山中で「天武仁神講」の面々と出会う。そのあまりの決然とした生き方に速見は引きこまれそうになりつつも、なぜ自分がそこにいるかということが、まだ見えない。 

≪035≫  こうして意外なことが次々に露わになってくる。まずケンシはセケンシの略で、世間師であるらしい。山の世界の彼岸と里の世界の此岸との間の世間を動く民のことである。そうだとすると、この集団はサンカ(山窩)のことだということになる。 

≪036≫  ところが、ここからこそ五木寛之がこの作品を通して強く主張しているところになるのだが、この集団は「誤ってサンカと名指された一群」であって、実はそこにはこの一群・一族の「正体」をめぐる苛酷な歴史があったのである。 

≪037≫  この物語の主人公たちは、明治維新に廃藩置県があったとき、葛城山系に住んでいた「箕作り」の一族の末裔たちだったのだ。  

≪038≫  箕作りは穀箕・茶箕・粉箕・雑箕などを、桜皮・藤蔓・篠竹・杉皮などによって巧みに作る職能集団で、古代から一貫して農作業や村落の生活のための重要な用具を提供してきたネットワーク集団である。 

≪039≫  しかし箕はつねに綻びもあり、損傷も多いので、このチームは村から村を回ってその「箕なおし」や補給をするため、山林や渓流に「セブリ」(キャンプ)をはってきた。またそのようにしなければ、さまざまな地の村人から穀物や野菜を受け取ることは不可能だった。それがかれらのライフスタイルであり経済生活だったのである。 

≪040≫  ところが維新後の急激な社会変化によって、こうした非定住者は許されなくなってくる。近代の国家というものが国民に要求することは、徴兵と納税と義務教育であり、それを完遂するために国家が大前提にすることは住民登録を徹底することだった。 

≪041≫  そこでしばしば「ケンシ狩り」がおこなわれたのである。国家というもの、浮浪者狩り、乞食狩り、博徒狩り、アカ狩り、犯罪者一斉摘発、暴力団一掃、不穏者の調査、はてはテロリストのための戦争など、いつだって平ちゃらである。そこにはそのつどの大義名分がある。 

≪042≫  しかも、そうした一掃計画には、たいてい何かが抱き合わされていて、もうひとつの計画が見え隠れした。裏があったのだ。たとえば道路橋梁開発、ダム開発、護岸工事、大型住宅地開発、ゴルフ場建設、リゾート建設‥‥等々だ。明治期の「ケンシ狩り」にもそのような事情が絡んでいた。住民調査、実は一斉摘発、その実は開発計画、なのである。 

≪043≫  廃藩置県によって3府302県が3府72県となり、それぞれに県令が就いたとき、各県令が行使した権力には今日では想像がつかないほどの強大なものがあった。 

≪044≫  斎所厚が大阪府権判事、河内県知事、兵庫県知事をへて堺県令となり、さらに奈良県知事になった経過にも、そのようなケンシ狩りともうひとつの計画が抱き合わせになっていた。 

≪045≫  この物語の最初にしきりに竹内街道の話が出てくるのは、この街道をはじめとする大阪・奈良の連結開削開発工事にも、そのような目的がひそんでいたことの伏線だったのである。そして、それと抱き合わされるようにして、明治10年には最初の大和・和泉・河内での「サンカ狩り」がおこなわれたのだった。 

≪046≫  これは「山窩」という蔑称を押し付けて、この人々の正体を公然と刻印するためでもあった。警察が動き、ジャーナリズムもこの蔑称を使う。のちに三角寛の一連の“サンカ小説”が話題になって、ぼくなどもサンカのことはこの三角寛によって知ることになるのだが、実は三角の小説や報告の多くか、もしくは一部が、いまではこうした国家や警察がつくりあげた情報にもとづいていたのではないかとされている。この作品でも、五木は注意深く三角説に走らないサンカをめぐる説明をしようと心掛けていた。 

≪047≫  ちなみに『風の王国』には、尾佐竹猛が芥川龍之介や柳田国男らと座談をしている「文芸春秋」の記事が紹介されているのだが、尾佐竹はぼくが第303夜『下等百科辞典』の著者としてあげた“ケンシ社会”にいくぶん通暁していた法曹家でもあって、五木はその尾佐竹に斎所厚の“悪事”を語らせていた。 ついでにいえば、こうした明治期の裏と裏とが結びつく事情の一端は、第549夜の『博徒と自由民権』にもふれておいた。 

≪048≫  連打される「サンカ狩り」「ケンシ狩り」「浮浪者狩り」の区別はつきにくい。またその特定の区域を狙ったのか、畿内一斉の処分がおこなわれたのかも、正確なところはわからない。 

≪049≫  けれどもこの物語の主人公になる一族のオヤたちは、これらの一斉取締りのもと、ついに自身の「正体」をそのまま証かさずに「トケコミ」をはたすことになったのである。なぜ一族はオモテ社会への「トケコミ」をせざるをえなかったのか。五木はその理由を登場人物の一人をして、こんなふうに語らせている。 

≪050≫  「戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国にはすまわせないという、強烈な国家の意志を反映した無籍者への最後の一撃でした」「そしてトケコミが消滅でなく、地底に再生するもうひとつの王国の建設であることを、語り示したのです」「これによって千数百年の浪民の歴史は、表面的にその幕をおろすのです」と。 一畝不耕の流民は、こうして「名指されない正体」を近代国家から隠したのである。 

≪051≫  物語はこのあと、速見卓がこの一族の最も重大な「血」を帯びていたことが判明してくるのだが、そこは本書を読みたくなった読者のために、ぼかしておくことにする。それゆえ『風の王国』が、このあとどのように終結していくかも案内しない。 

≪052≫  そのかわりに、この作品が抱えたメッセージと、五木寛之その人がたんなるデラシネ硬派だけではなくて、そうとうの“フラジャイルな硬派”であること、つまりは筋金入りの「壊れもの注意派」であることを如実に示す場面をあげておくことにする。 

≪053≫  その一節は、「天武仁神講」と「へんろう会」に亀裂が生じ、講友の一部が肥大して勢力も経済力ももってきた現状に、講主の葛城天浪が娘の哀に、こんなことを問う場面である。 

≪054≫  まず八家の一人が、「国家は領土と人民を固定するところに成立するのだから、われわれは国家に埋没したくもないが、もうひとつの国家を作りたいとも思わない」という話をする。ついで天浪が言う、「世界の多くの人々の思想は勝つか負けるか、わたしはそのどちらも好かん」。 

≪055≫  そこで速見が「でも、もし勝つか負けるか、二つのどちらかの道しかないとしたときは?」と聞いてくる。天浪は「意外な道が必ずあるもので、それは見えないだけなんだ」と言うのだが、速見が半分納得しながらも、なお「それでも二者択一しか残されなくなったときは、どうされるのでしょうか」と尋ねる。天浪はそれには答えず、葛城哀に「おまえなら、どうする」と問いをふる。そこで哀が一言、こう言い放つのだ。「負けます」。 

≪056≫  天浪は「よく言った。それでこそ三代目の講主だ」と、目に歓びの光をたたえるというところで、この場面がおわる‥‥。 

≪057≫  以上、今夜のぼくはこれをもって『風の王国』の、それゆえ五木寛之の、真骨頂としておきたい。 

≪01≫  日韓共催FIFAワールドカップ2002の日本代表ゴールキーパーは、全試合を楢崎正剛がつとめた。 ぼくと同じ「正剛」という名前のゴールキーパーがいることは前から知っていたが、気持ちをこめて楢崎正剛君の雄姿をテレビ観戦したのは初めてだった。なかなかタッパもあって面構えもよく、真剣そのもののプレーだったが、どこか不器用に見えた。しかし、同名の誼みなのか、妙に愛着をおぼえた。 

≪02≫  楢崎正剛君がなぜ正剛という名をつけられたかは知らないが、日本中にいまいる正剛君の大半はおそらく中野正剛から採ったのではないかとおもう。 

≪03≫  ぼくのばあいは、父が「他人に殺されるくらいの気概の持ち主になれ」という乱暴な理由で中野正剛の名を選んだ。あとで述べるように中野正剛は暗殺されたのではなく自害したのだが、そのへんのことはどうでもよかったのだろう。 

≪04≫  ちなみに妹は敬子というのだが、これも原敬から採った。原敬はまさに東京駅駅頭で暗殺された。父は3人目もつくったが、この弟は流産まがいで死んだ。きっと利道とか有礼とか多喜二とかと付けたかったのではないかとおもう。わが子に「殺される者の名」をつけるなんて、まったく変な考え方をする父だった。  

≪04≫  ちなみに妹は敬子というのだが、これも原敬から採った。原敬はまさに東京駅駅頭で暗殺された。父は3人目もつくったが、この弟は流産まがいで死んだ。きっと利道とか有礼とか多喜二とかと付けたかったのではないかとおもう。わが子に「殺される者の名」をつけるなんて、まったく変な考え方をする父だった。 

≪06≫  しかし、父が正剛にこだわったのは(あるいはたんに思いついたのは)、ぼくが昭和19年の1月という戦争の渦中で生まれたことが決定的な背景になっていた。前年、中野正剛は東条英機との対立が激化していて、ぼくが生まれる3カ月前には東条の指金の憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。2日後の青山葬儀場には2万の会葬者が駆けつけた。そのなかに父も交じっていたらしい。 

≪07≫  とくに愛国主義者でもない一介の旦那衆であった父は、どうやら戦争反対者だったようだ。そこへ戦況悪化の昭和19年1月にぼくが生まれることになる。父は何かを託して正剛とつけたのではなかったか。 

≪08≫  父は中野正剛について一度だけだが僅かな説明をしたことがあった。きっとぼくが「中野正剛ってどんな人?」とでも訊いたのだろうが、父は「東条英機の戦争に反対して殺されたんや」と言っただけだった。ぼくが黙っていると、「中野正剛はそれを議会で弾劾して殺されたんや」と付け加えた。しかし、この父の説明は半分は当たっていたが、半分はまちがっていた。 

≪09≫  たったこれだけの会話。 しかもそれ以来というもの、ぼくはまったく中野正剛に関心をもたなかった。自分の名の由来など、またそれにまつわる人物のことなど、子供というものはたいして関心をもたないものである。 

≪010≫  けれどもそういうぼくにも、先の戦争の次第について学習するときがおっつけやってきた。戦争史についてはまったく読まなかったものの、橋川文三や丸山真男や吉本隆明の国家主義や超国家主義の論考をしきりに読んで、懐かしいというのか、こわいもの見たさというのか、照れ臭いというのか、久々に中野正剛の名に何度か出会うことになった。 

≪011≫  こうして、いつかは“原点正剛”を知らなくてはなるまいとおもうようになったのであるが、またまた時間がすぎた。 

≪012≫  やっと緒方竹虎の『人間中野正剛』に出会ったのは、工作舎を出て数年たったころのことだったろうか。すぐに正剛の四男中野泰雄の『政治家中野正剛』や『アジア主義者中野正剛』も併せて読んでみた。 

≪013≫  ところが読めば読むほど、中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。 

≪014≫  明治19年(1886)、世は鹿鳴館華やかなりし時代、正剛は福岡西湊の黒田藩の船頭方に生まれた。近くに同郷の貝原益軒が愛した山容が望めた。  

≪015≫  欧風政策一本槍の伊藤博文・井上馨の条約改正が失敗し、代って黒田清隆・大隈重信が交渉にあたることになった年である。その大隈は玄洋社の刺客来島恒喜に爆弾を投げられて隻脚になった。 

≪016≫  そのころはそういう歴史も知らなかった正剛は、9歳で日清戦争を知り、14歳で好きな柔道道場を仲間とつくるために玄洋社の平岡浩太郎に援助を頼んで、おもしろがられるようになっていた。このときの一級下にいたのが本書の著者の緒方竹虎(のちの第4次吉田茂内閣の官房長官・自民党総裁)である。二人は夜な夜な徳富蘇峰の『静思余禄』や松村介石の『立志之礎』を読み耽ける。 

≪017≫  ついで正剛と竹虎は早稲田大学へ。学長は鳩山和夫。ポーツマス講和会議に国民の不満が爆発して、日比谷に焼き打ち事件がおこって戒厳令がしかれている。19歳で日露戦争を体験するにおよんでアジアに目覚め、牛込の中国同盟会の事務所にあたる民報社に孫文や黄興や宋教仁を、さらに漢字新聞「泰東日報」の主宰者で振東学社の金子雪斎を、また末永節の紹介で頭山満を訪ねた。 

≪018≫  当時(明治43年)の雑誌「冒険世界」が発表した番付では、各界痛快男子の筆頭は、政治家は大隈重信、軍人は乃木希典、文士は大町桂月、学者が三宅雪嶺で、力士は常陸山、そして筆頭豪傑が頭山満であった。 

≪019≫  早稲田卒業後、正剛は日報社入社後に、朝日新聞の記者となる。竹虎も朝日に入った(のちに政治部長・編集局長・副社長)。そのころの主筆は池辺三山で、夏目漱石が『虞美人草』と『三四郎』を東西の朝日に連載していた。漱石の月給200円、正剛が60円。桐生悠々はそのころの正剛を「紋付袴で出社し、覇気横溢、犬養木堂を崇拝していた」と書いている。 

≪020≫  馬好きの正剛は筆名を「戎蛮馬」あるいは「耕堂」と称して、以来、徹底して痛快な記事を書きつづける。伊藤博文は「ビスマルクを気取る柔弱の鉄血宰相」、井上馨は「貨殖侯」、桂太郎が「閥族の禍根」で、原敬が「陰類悪物の徒」、山県有朋にぶらさがっていた林有造・竹内綱・大江卓については「政界の醜業婦」と罵った。「国民新聞」を主宰する徳富蘇峰についてさえ、その中国革命論を痛罵した。加えて、朝鮮を併合して総督府をおこうとする政府の政策を猛然と批判して、朝鮮における言論の自由と憲兵制度の撤廃を訴えた。このころの正剛のスローガンは「内なる民主主義、外なる民族主義」だったのである。 

≪021≫  かくしてまさに筆鋒逆巻くジャーナリストの先頭を走るのだが、これが朝日での立場を孤立させた。そこで正剛は東則正の「東方時論」に転出をして、そこで若山牧水・吉野作造・長島隆二たちを知る。アジアの民族自決を夢見る正剛は、ここを拠点に「東方会」を開き、財界の木村雄次・金子直吉、陸軍の林銑十郎・荒木貞夫、外務省の小村欣一・木村鋭一、大蔵の富田勇太郎、学界の塩沢昌貞・杉森孝次郎らと集って、アジアの未来を語りあった。顧問格には三宅雪嶺がいた。正剛はそのころ雪嶺の娘を妻に娶っていた。 

≪022≫  時代はやがて第一次世界大戦からロシア革命へ、米騒動からシベリア出兵へ、国際連盟成立から尼港事件へと進む。 そうしたなか、正剛は大正6年(1917)の総選挙に福岡から出馬する。しかし松永安左エ門・宮川一貫と争って敗北。やむなく1919年のパリ講和会議に「東方時論」特派員として随行するのだが、西園寺公望以下の日本全権たちの不甲斐なさに失望。これで世界における日本の位置の重要性を痛感した正剛は、大正9年にふたたび福岡から立候補、今度は松永安左エ門との一騎打ちに勝った。 

≪023≫  ここからが正剛の政界時代になっていく。 革新倶楽部に所属しての意気軒高のスタートだったようだ。尼港事件問題で議会で初演説したそうした中野正剛の面影を、マンガ家岡本一平は「おもいのほか荘重に論歩を運び、悲憤慷慨の推進力で演説を進行させた」と風評している。 

≪024≫  その後の正剛はシベリア出兵に反対したり、参謀本部の廃絶を主張するというような、さかんに激越な政策論鋒を見せ、ソ連からは「偉大なリベラリスト」と激賞されるようになるのだが、大正13年の選挙で再当選すると憲政会に入り、ここで崇拝する犬養木堂と離れてしまうことになる。加えてウラジオ・ハバロフスク・満州を視察して、心がしだいに満州に飛んでいく。世の中は護憲三派の蜜月から田中義一の陸軍機密費事件へと時代が急旋回しはじめた時期である。 

≪025≫  どうもこのあたりから中野正剛は、せっかくの恩義の哲学のようなものからさかんに逸脱するようだ。緒方竹虎もそこを頻りに残念がっている。とくに正剛は陸軍機密費事件を弾劾して、政友会と陸軍を敵にまわし、正剛本来の超然たる姿勢を失って政界抗争にも巻きこまれていったのがまずかった。 そんなおり、正剛は少年期からのカリエスを悪化させ、手術にも失敗して、左足を大腿部から切断してしまう。 

≪026≫  こうして時代は昭和に入る。 昭和2年の満州某重大事件(張作霖爆殺)にはあいかわらず弾劾をもって臨んで田中義一と正面対決をし、逓信省の政務次官となっては電信電話事業の民営案に積極的にとりくんだ中野正剛も、実際には軍部や関東軍の策謀であったにもかかわらず、ついに勃発した昭和6年の満州事変の前後になると、さすがに読み違えが目立ってくるようになる。 

≪027≫  ここには、若槻礼次郎内閣の弱腰外交に対する内務大臣安達謙造の動きがあった。安達は若槻にこのままでは日本は乗り切れないとみて(幣原外交の失敗と井上財政政策の失敗)、ここは一番、民政党・政友会を連動させた挙国一致内閣をつくるしかないと進言し、協力内閣構想をうちあけたのであるが、この協力内閣構想がまったくうまく進捗しなかった。しかもこの構想に関与した正剛も挙国一致内閣をヴィジョンにしながらもあえなく挫折するという体験をする。このディストーションがどうやらあとまで響くのである。 

≪028≫  かくて若槻に代わって犬養政友会内閣が出現したときは、もはやすべてが手遅れになっていた。 正剛も民政党を脱会、このあとは「ソーシャル・ナショナリズムによる社会国民党の結成」に夢をつなごうとするのだが、そのとき満州国の成立が伝わると、ついにそこにこそ自分の国家構想を移行できるのかという錯覚に陥ってしまったのか、ソーシャル・ナショナリズムはすっかりファシズムの様相を呈してしまうことになっていく。  

≪029≫  社会国民党の結成も幻想と消え、民政党脱党組による国民同盟ができただけになる。総裁は安達謙造、幹事長が山道襄一。その方針では安達と正剛もしだいに対立していった。そこで正剛は『国家改造計画綱領』を書いて東方会を復活させて、ついには安達とも袂を分かつのだが、これが中野正剛という人物がこのあとずっと孤立無援になっていく最後の分岐点だった。  

≪030≫  『国家改造計画綱領』は北一輝の超国家主義による改造計画に対する国家主義からの別案である。ぼくも吉本隆明編集の筑摩現代思想体系の『ナショナリズム』の巻の収録で読んだのだが、そのころは、超国家主義と国家主義と社会主義のどこが異なるイデオロギーの核心になっているのかさえ、見当がつかなかった。けっこう施策には似ているものが多かったのである。 

≪031≫  さて、ここから先の中野正剛の活動にはさすがに目を覆いたくなるものがある。一方ではヒトラー、ムッソリーニに傾倒するかとおもえば、他方では安倍磯雄・麻生久の社会大衆党と歩み寄って東方会との合同に向かうというような、かつて正剛に批判された徳富蘇峰さえもが自重を望んで軽挙妄動を慎むべきだと一文を寄せるにおよんだような、そういう独断専行に嵌まっていった。 

≪032≫  そういうときに、日本は日米開戦に踏み切ったのだった。すべては国家改造どころではなくなっていた。正剛は戦争よりも、なんであれ国をつくりたかったのだが、事態は戦争の仕方の選択だけに時代を押し流していった。 

≪033≫  しかし、ここにさらに独断専行を国家的に遂行した男がいたのである。それが東条英機であった。 

≪034≫  正剛はこの東条が許せない。東条もまた正剛が許せなかった。立場からいえば二人が鎬を削ったとはいえないのであるけれど、正剛からすればこれが最後の決戦場だったのだろう。三木武吉と鳩山一郎と語らった正剛は、数々の重臣工作を敢行しながら、早期講和内閣の道をさぐっていくことになる。ぼくの父が多少とも気にいった中野正剛がいたとすれば、この活動をした正剛である。 

≪035≫  けれども、大政翼賛会に渋々与しながらも断固として抵抗を続ける正剛を、東条は憲兵隊に連行させ、詰問を加え、そして自決に至らしめた。緒方竹虎は本書においてはこの東条と正剛の対立の詳細を綴っているのだが、ぼくにはいまのところその正否は判じがたいものになっている。  

≪036≫  はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。遺書は「護国頭山先生」という表書きで、仏壇に入れた。「頭山、三宅、徳富、盟友諸君。東方会、猶興居、感慨無窮」と始まっている。 

≪037≫  はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。遺書は「護国頭山先生」という表書きで、仏壇に入れた。「頭山、三宅、徳富、盟友諸君。東方会、猶興居、感慨無窮」と始まっている。 

≪01≫  京都市中京区姉小路東洞院。赤レンガの日銀支店の裏。初音中学校。各学年3クラス。職員室や音楽室のある棟は木造だった。小さかった。 

≪02≫  これがぼくの中学校である。ここに赤井先生という数学の先生がいた。胡麻塩アタマで、ユーモアもあるが短気で怖いカミナリ先生でもあった。 

≪03≫  しかし数学の教え方がユニークで、初音中学校からはソロバン大会や暗算大会ではいつもトップ入賞者が出ていた。ぼくもこの先生にはぞっこんで、すぐに数学に夢中になった。2年になるとクラス替えがあり、赤井先生が担任になった。 

≪04≫  そこで、もっと数学をベンキョーしてみたいなどという大それたことを言ったのだとおもうのだが、すかさず「はい、それならそうしなさい」「ただし、担任のワシが教えるわけにはいかないから、友人を紹介する」と先生は言い出して、こちらの事情などまったく無視して、ある数学教室に推薦されてしまった。 

≪05≫  おかげで、このおもしろくもない北大路河原町あたりの数学教室に1年以上も通うことになったのだが、以上の話は本書と何の関係もない。 

≪06≫  実はその赤井先生が坂井三郎の大ファンだったのである。 なにしろ授業の途中で10回以上も坂井三郎の名が出てきた。数学とは何の関係もない。ところが、これがものすごく記憶に残った。まあ、中学生が10回も一人の人物の話を聞かされれば、誰だって記憶に残る。 

≪07≫  坂井三郎はな、飛行機乗りやった。ゼロ戦に乗ってたんや。ゼロ戦ちゅうのはそのころで一番速い戦闘機や。しかも坂井三郎は敵も味方も褒め称えた天下の撃墜王や。百発百中。しかし戦闘機に乗るには眼がよくならなあかん。そのため、坂井はいつも飛んでるハエを箸でつかむ練習をした。これは、むかし宮本武蔵がやった練習やな。どや、すごいやろ。 

≪08≫  こんな話をしょっちゅう聞かされた。 いったいなぜこんな話をしてくれたのかはわからなかった。またゼロ戦に乗ることがどんなにステータスのあることなのかということも、まったくわからなかった。ただ、坂井三郎という天才的な飛行機乗りがいて、異様な訓練をしつづけ、その後日本が世界に誇る撃墜王になったということだけが印象に残っていた。 

≪09≫  その坂井三郎のことにもう一度出会うとは思っていなかった。ぼくが25歳のときである。そのころ初めてアパート暮らしをはじめたのだが、その三軒茶屋近くの三宿のアパート「三徳荘」の二つ隣りに古ぼけた床屋があって、そこでぼくは『遊』を創刊するにあたってすっぱり坊主頭になった。そうしたら、床屋のオヤジの栗原清司に大いに気にいられ、稲垣足穂の『ライト兄弟に始まる』の話をしたら、飛び上がるように抱きつかれた。 

≪010≫  このバーバー栗原のオヤジがとんでもない坂井三郎ファンだったのである。「そうか、松っちゃんも坂井三郎を知ってるのか。坂井三郎は神様だねえ」。そう言って眼を細める栗原のオヤジも飛行機乗りで、しかもカナキン貼りのプロペラ機しか乗らないという頑固者だった。 

≪011≫  本書は坂井三郎の自伝である。“SAMURAI!”というタイトルで英訳・仏訳・伊訳され、大きな反響をよんだ。もとは昭和28年に出版された『坂井三郎空戦記録』(出版協同社)という一冊だったが、これが絶版になり、やがて光人社から『大空のサムライ』として加筆増幅して刊行された。 

≪012≫  冒頭、坂井三郎が飛行した地域の地図が掲げられ、ついで「坂井三郎出撃記録」なるものが表示されている。昭和13年10月5日の漢口攻撃からなんと100回におよぶ出撃記録は、終戦直後の昭和20年8月17日(!)の東京湾迎撃で終わっている。 

≪013≫  この出撃記録表をじっと見ているだけで、なんとも名状しがたい感興が立ち上がってくる。そのうえで本文を読むと、その内容もひたすら出撃の模様ばかりを綴ったもので、この手の本をほかに読んだことがないぼくとしては、なんとも不思議な眩暈をおぼえた記憶がある。ロジェ・カイヨワのいう「遊び」の4分類のひとつ「イリンクス」である。一人遊びだけがもつ眩暈。戦火の中で大空の敵機を追って撃墜する一人の男の記録に、カイヨワの「遊び」の本来の議論を思い出すというのは妙なことだが、そうだったのだから仕方がない。 

≪014≫  坂井三郎は大正5年に佐賀に生まれた。小さな頃からスピードに異常に憧れた少年だったようで、上京したのちは少年航空兵になりたくて昭和8年に佐世保海兵団に入団した。 

≪015≫  ここで初めて戦艦「霧島」に乗った記念日をへて、それまでは劣等生だった坂井が200番中2番で卒業した話、昭和11年に憧れの操縦練習生となって霞ケ浦航空隊で憧れの三式陸上初歩練習機に乗ったときの体が震えるような話、さらには昭和13年に中国九江の第十二航空隊に配属されて、ついに宿願の九六式艦上戦闘機に乗って出撃し、のっけから空戦になって撃墜を体験することになった話などは、当時の「一人の青年」がしだいに形成されていく経緯として、なかなか味わいがある。 

≪016≫  それが、昭和16年12月8日の日米開戦の報を知ったのをきっかけに、坂井三郎は「一人の日本人」になっていく。 

≪017≫  ハワイ奇襲の知らせを聞いた瞬間、坂井たちは台南航空隊にいたのだが、隊員全員が味方の成功に喜んだ一方、すぐに不機嫌になったという。「我こそは一番乗り」と信じて疑っていなかった誇りが打ち砕かれたからだった。「してやられたという憤懣、そういう気持ちが、だれもかれをも不機嫌にしてしまったのだ」と坂井は書いている。 

≪018≫  ここから先、坂井は誰にも負けない「一人の日本人」として、また不屈の撃墜王としての、習練と実践に取り組んでいく。その記録はすべて零式戦闘機(ゼロ戦)の記録であって、また世界でも珍しい空中戦の克明な記録となっている。 

≪019≫  とくにガダルカナル上空でのグラマンF4FワイルドキャットやダグラスSBDドーントレスとの空中戦はすさまじい。20メートルの至近距離から敵弾が直進してきて、坂井の零戦が火炎を吹き上げた。頭をやられ、眼から血が吹き出した。坂井は母の声を聞きながら意識が消え入りそうになる。それでもなんとか左手でエンジンを増速しようとすると、左手がスロットル・レバーを掴んでいない。ダラリとしている。左手左足をやられて、坂井はもはやこれまでかと敵の編隊に突っ込んでの自爆を考える。 

≪020≫  ところが体のすべてが動かない。あまりに頭が痛いのでやっと飛行帽に右手を伸ばしてみると、帽子は割れていて手の先が頭の中に入っていく。頭がぐちゃぐちゃになっているらしい。顔に触ってみると膨れあがっている。無数の破片が突き刺さっているためだ。血が噴き出ては乾いたのだろう、顔はバリバリにも感じる。

≪021≫  ともかくこれでは出血多量で死ぬのは避けられない。前方に活路を見出そうとしてみると、右の眼が見えない。飛行機はぐらぐらと傾き、墜落寸前である。やっとのおもいでマフラーをナイフで切って止血を始めたが、ちっともまにあわない。 

≪022≫  以下、想像を絶する死闘の記録がえんえん十数ページ続く。どのように脱出したかは、ぜひとも本書を読んでほしいのだが、この場面はどんな人間の生死の記録よりも迫力もあり、説得力もある。 

≪023≫  とくに感銘をうけたのは、これほどの変動しつづける生死の境界線にいて、その描写が抜けるように澄んでいることだ。戦闘機乗りとしての覚悟がとっくにできている者の格別な感覚だといえばそれまでだが、実はこの抜けるように澄んだ描写は、本書の全編にも貫かれていて、『大空のサムライ』が世界中でのベストセラーになりえた要因にもなっていた。 

≪024≫  さて、赤井先生がぼくたちに語ってくれた坂井三郎の訓練についてだが、これまた読んで驚いた。まさに赤井先生の言う通り。 

≪025≫  まず、朝起きるとすぐに窓外の緑色を数分間、見続ける。またいつも遠目を効かすために遠い山の樹木の恰好を細かい枝ぶりが見えるまで凝視する。街を歩いていても、看板の文字は残らず眼に入るようにした。飛ぶ鳥があれば、できるだけその数まで数えるようにする。これは敵機は群れでやってくるので、その読み取り訓練になる。坂井によると、敵機の編隊の数はたいていのばあい、実数より多く感じてしまうそうである。 

≪026≫  こうしてついに昼間の星を見つけ出す訓練におよんでいく。大地に仰向けになり、30分ほど青空の一点を見続ける。やがて両目を横にちょっと振ったとたん、白い芥子粒ほどの光が見える。ところが一度目を離すと、二度と見えてはこない。そこで、この目をそらして戻す訓練を重ねる。そのうち立ったままでも星が見えるようになり、空気が透いている日には、見つけた星のまわりに数えきれないほどの星が瞬くのも見えるようになるらしい。 

≪027≫  ものすごい訓練だ。しかし、視力がよくなったからといって(視力は2.5にまでなった)、これでは終わらない。瞬間的な判断が行動に移せる必要がある。 

≪028≫  このため坂井はトンボをつかまえるエクササイズにとりかかる。止まっているトンボが百発百中になると、飛んでるトンボをつかまえる。次はハエ。飛ぶハエは10匹に1、2匹しかつかまらなかったが、止まっているハエはことごとく餌食にできた。秒速100メートルで飛来する戦闘機を撃墜するには、弾丸を敵機の動く先に撃たねばならない。この勘を鍛えるために坂井はトンボやハエを空中で鷲掴みにする練習を重ねたわけである。トンボやハエの速力を見て、その前方で空間をつかむのだ。そうするとかれらは坂井の手に落ちた。 

≪029≫  宮本武蔵のようにハエを箸でつかむ話は書いてはいなかったものの、それ以上のことも書いてある。食事のときは必ず二本の箸をあわせるたびに、左手を握る練習をしつづけたらしい。これは右手の動作を瞬間的に左手に伝えるための練習だ。聞きしに勝るとはこのことである。それだけではない。坂井は自動車に乗ったり駆け足をしているときに、交互に目の前をすぎる電柱や煙突がぴたりと重なる瞬間に手を握る訓練もしつづけた。操縦桿や発射桿を電光石火に握れる撃墜王の未曾有のスキルアップは、このように準備されていたのだった。 

≪030≫  もうひとつ、徹底した訓練がある。それはもうダメだと思ってからどのくらい力がふりしぼれるかという訓練だ。自分の残った最後の血を知る訓練だ。たとえば逆立ちをして、もうこれでダメだとおもってからどのくらい続けられるか。水に潜ってもうダメだとあきらめそうになってから、どこまで水中にいられるか。いつでもできるのは息を止める練習で、だいたい45秒あたりで苦しくなるのだが、ギブアップ寸前の1分をこえ、それを堪えて1分15秒をすぎると楽になる。そういうことをしょっちゅう繰り返した。坂井はなんと2分30秒の記録をもっているらしい。 こんな男がいたわけである。 

≪031≫  ともかくも驚愕の書であり、魂というものに向き合わされる一書でもある。 

≪032≫  しかし、その坂井三郎が意外に広範な思想の持ち主でもあったことを、ごく最近知らされた。前田日明が主宰している雑誌『武道通信』で坂井三郎が登場したのである。 

≪033≫  この雑誌にはぼくも「武道の中の日本」を連載していて、よくよく知っているのだが、坂井の登場は意外だった。しかもこの直後に坂井は84歳で亡くなっている。おそらく最後のインタビューなのである。ぼくは神妙に読んだものだった。 

≪034≫  テーマは戦争論。前田日明がさまざまな角度から切り込んでいくなか、まず坂井は戦争と戦闘は異なるものであること、小林よしのりの『戦争論』は戦争を知らない者の戦争論だということ、戦争の選択は国の選択であって戦闘者の選択ではないことを言う。 

≪035≫  ついで、日本人は吸取り紙のように良いも悪いも吸収しすぎて、このザマになった。軍人というものに対する認識も浅くなり、まったくまちがってしまった。軍隊は徴兵検査によって選ばれた者で構成されているのであって、その軍隊と職業軍人は区別して見なければならない。そこをごっちゃにするから、天皇が靖国神社に参拝しないし、政治家も参拝できなくなった。この問題は、敵が上陸したときに軍人は逃げてはならないのだが、民間人は逃げてもかまわないことをごっちゃにしていることに関係がある。千鳥ケ淵の平和の塔は軍人も民間人も同じだという主旨だろうが、これはおかしい。むしろ、われわれは敵の軍人の英霊も日本の軍人の英霊も、一緒に祈るべきなのである。そうでなければ戦争のもとに戦闘をやらされた者たちは浮かばれない。そういうことを言う。 

≪036≫  西尾幹二らの「新しい教科書をつくる会」の議論の仕方にも文句をつける。日本に開戦の大義があったとしても、日本人の戦争論には大きなまちがいがあると断じる。 

≪037≫  どこがまちがいかというと、内戦論と外戦論をとりちがえた。日本には応仁の乱から関ヶ原まで内乱が続いている。これを背景にして武士道ができたのだが、これは主君のために家来が命を捨てられるかという思想になった。これは内戦思想としてはかまわない。けれども外戦論はそういうものではない。外戦では敗ける戦闘をしてはいけない。勝つために闘うものだ。それを敗けてもいいから徹底して討ち死にしていいわけがない。山本五十六は、このままでは補給力も生産力もないから戦闘をやめたいと言うべきだった。それが言えない大将なんて名将ではありえない。 

≪038≫  戦争というのは国と国との総力戦である。それを神風特攻で切り抜けようとしたのがどだい誤っている。零戦の性能が上部は何もわかっていなかった。零戦は非常に軽く造ってあるので空中戦では華麗に動けるが、突っ込むと舵面積が550キロから560キロになり、片手で米俵一俵を持ち上げるほど操縦桿が重くなる。フットバーも同じようになる。こうなるということは操縦不能ということで、敵艦に突っ込む前に必ず撃ち落とされる。こんなことをやったって何にもならない。 

≪039≫  こういうことをいろいろ考えてみると、日本はまだまだ田舎者である。縄文以来の文化があるといっても、国家の興亡に慣れてはいない。 

≪040≫  太平洋戦争の責任だって、軍部に責任があるのは当然だが、天皇にだってある。開戦の詔勅が出て、敗けたのだから、詔勅を出した当人に責任があるのは当たり前で、ただしその責任の取り方をどうすればいいかといえば、それが日本国憲法になったのだから、そこから考えればいい。われわれは敗北の姿勢を憲法で示したはずなのだ。そこまではすんだ。 

≪041≫  しかし他方、これからの国際競争でいまの憲法だけで国が守れるかどうかはわからない。そこは戦争責任を果たしたこととは別に、新たに国が守れる憲法の条文を加えになければいけない。それにはおそらく国軍をつくる必要があるだろう。そのためにはちゃんと議論して憲法の一部を変える必要もあるだろう。 

≪042≫  けれどもそれだけでいいわけではない。国を守るとは何かという意味がわからなければ、また軍国主義になるだけだ。それには初頭教育・中等教育を徹底して変える必要がある。そうではないだろうか‥‥。 

≪043≫  だいたいこういう主旨の発言だったのだが、『大空のサムライ』の言葉として、ぼくはずいぶん唸った。 

≪044≫  対談後記で前田日明はこう書いていた。「明治以降、日本が一番に直面したのは東洋の精神性と西洋の合理性の融合だと思う。この試行錯誤の途中で不幸にも日本は西洋世界との全面戦争に突入してしまった。そしてその融合の軋轢が露呈した。(略)坂井さんはこの軋轢の極限だった大東亜戦争の最前線の戦闘員として、その中で死力を尽し行動した。それがリアリストの目を養ったと思う。この死線を生き抜いた人の価値をイデオロギーの範疇で見るのでなく、ニュートラルの立場に立って耳を傾けるべきだ」。 

≪045≫  まさに前田日明の言う通りである。坂井三郎は戦争のすべてを体の奥で体験した男だった。『大空のサムライ』は次の文章で終わっている。硫黄島から戦闘員が木更津に戻された直後のことだ。坂井は内地の水道の水を腹いっぱいに呑んで、自分がまだ生きていたということを実感する。しかし、はたしてそれが生きている実感なのかどうか。 

≪046≫  「私は急に、人間の生命なんて、まことにちっぽけな無価値なもののように思えてきた。(略)いまこうして、内地の冷たい水を腹いっぱい飲んでいる自分たちと、四時間前に別れてきた硫黄島の戦友たち、末期の水さえ充分に飲めない戦友たちとの、運命のひらきの大きさを、どう考えたらいいのか。私は迷うばかりだった」。 

≪047≫ このサムライの最後の迷いは、バカでかい。 

≪01≫  世の中の出来事やエピソードには、その後もさまざまなかたちで語り継がれるものがそうとうにある。それらは語り継がれるにつれ、潤色が加わり、登場人物がふえ、変貌がおこり、関連した場所やエピソードが膨らんで、ついに見違えるようなフィクションとしての一個の物語に至ることが少なくない。 

≪02  ヴァーチャル・キャラクターだけではない。稗田阿礼、源信、安倍晴明、空也、楠木正成、水戸黄門、清水次郎長のような実在の人物も顔を出す。実在者であっても、その人物がさまざまな物語の主人公になったり、勝手な伝承の尾鰭をつけていたりすれば、このリストにノミネートされる。かれらはすべて「もどき」としての面影領域を広げたキャラクターなのである。野史や稗史のなかで翼を広げ、架空の冒険と失意をくりかえし、誇張された喜怒哀楽をふんだんに発揮した。 

≪03≫ アの「愛護若」からワの「藁しべ長者」まで、ずらりと日本の神話・伝説・昔話・謡曲・お伽草子・絵本・歌舞伎などに登場するヴァーチャル・キャラクターが勢揃いしている。俵藤太もいれば彦市もいるし、かぐや姫もいれば弁慶もいる。観音、八百比丘尼、太郎冠者なども入っている。  

≪04≫  だから異類婚姻譚、宇佐八幡宮、檀風城、瀬田の唐橋、殺生石、伽婢子、重井筒などでも、スサノオノミコト、空海、比企能員、竹中半兵衛、髭の意休、飯岡の助五郎といった項目でも、引ける。ちなみにアは貴船神社に名高い「相生杉」ではじまり、ワは西鶴や紀海音が浮世草子や浄瑠璃に仕立てた「椀久」(椀屋久右衛門)でおわっている。大事典というだけあって項目数も多いし、解説もかなり詳しい。飯岡の助五郎でいえば平凡社版の2倍の解説である。 

≪05≫  だからぼくはこの両方を駆使して遊ぶわけで、とくにどちらのほうに編集力・執筆力の軍配があがるというものでもないが、ここでは人名にかぎってアーカイブの“棚揃え”をした平凡社のほうをとりあげることにした。べつに他意はない。 

≪06≫  世の中の出来事やエピソードには、その後もさまざまなかたちで語り継がれるものがそうとうにある。それらは語り継がれるにつれ、潤色が加わり、登場人物がふえ、変貌がおこり、関連した場所やエピソードが膨らんで、ついに見違えるようなフィクションとしての一個の物語に至ることが少なくない。 

≪07≫  レヴィ=ストロースはそれを神話段階におけるブリコラージュとよんだけれど、ブリコラージュすなわち修繕といったなまやさしいものではないことも少なくない。まさにラディカル・エディティングになったり、時空をまたいだ相互編集になったりする。編集者が無名であったり、多数であったり、時代も地域もまたぐこともある。そのため正史として記述される出来事と、語り継がれるうちにまったく新たな虚構の出来事となったことが、人々の記憶のなかでは区別がつかなくなることもおこっていく。 

≪08≫  そこへもってきて、たとえば近松門左衛門が曾根崎心中事件を戯曲に、上田秋成が西行を物語にしていったように、すぐれた作家の想像力がそこに加わると、これらの虚実皮膜の構造はまことにもって事実を上回るエディトリアリティに富み、燦然たる光を放つことにもなるわけだった。 

≪09≫  これは「面影の史学」ともいうべきものだ。ぼくはこういうことこそが「想像力の自由な行方」というものであると思っている。 

≪010≫  大森彦七という武士がいた。南北朝期の伊予の国の者だが生没年はわからない。歴史上の記録も『太平記』の巻23に足利尊氏の陣営に属して軍功をあげたというばかりで、そのほかの事歴はまったく詳細がない。 

≪011≫  ところがその軍功が、湊川の合戦で足利方の細川定禅に従って楠木正成を窮地に追いこんだということが、この大森彦七を伝説的な人物に仕上げていくことになった。なにしろ相手が楠木正成なのである。人々の想像力が逞しくなっていくのは当然だ。 

≪012≫  まず、正成が窮地に追いこまれたことを、自分で恥とおもっただろうと想像する。これは天下の正成ならありうることである。正成だったら恥を忍びそうだ。だいたいこういう「~するはずだ」という庶民的な判断が、幾多の伝説的想像力のきっかけになる。ついで、その正成が亡霊となって彦七にリターンマッチをする。恥を忍ぶだけでは正成らしくない。やはりもう一度、正々堂々とした勝負をしたい。これもありうることだ。彦七もそこは譲れず、応戦をする。正成は自分を苦しめた彦七の刀をとりあげようとするが、なかなか成功しない。そこで正成の亡霊は鬼女に変身して、さらに彦七に復讐をする。正成なら復讐までは似合わないが、鬼女ならば復讐こそがふさわしい。 

≪013≫  こうして物語は、正成の亡霊としての鬼女と勇猛果敢な彦七の呪術合戦に変わっていく。彦七は窮地に追いこまれ、辛うじて大般若経の功徳によって救われる。もともと彦七は正成を追いつめたのだから、こちらにも分が戻らなければならない。だからここでは仏教説話のパターンがつかわれることになっていくのである。 

≪014≫  やがてこの伝承は、時代物の浄瑠璃『蘭奢待新田系図』に発展した。こちらは近松半二・竹田平七・竹本三郎兵衛の腕にヨリをかけた合作である。明和2年に上演されている。それがまた明治に入って舞踊劇になった。福地桜痴の名作『大森彦七』だ。舞踊として振付を得てエレガントになっているだけでなく、彦七は業平の移し身になっていて、またまた新たな物語イメージが加わった。ついに楠木正成と在原業平という日本を代表する二大スターがつながったのだから、これ以上の尾鰭はない。 

≪015≫  ざっとこんなふうに伝承伝説が膨れあがって、それが作家の創作性にまで結びつくわけである。まことにもって、おもしろい。 では、もうひとつ例を出す。これはちょっと複雑になる。人名事典や伝説事典を何度も引きくらべなければならない。  

≪016≫  逆髪という名の異形の女性がいた。生まれながらに髪が空に向かって逆立っている。醍醐天皇の第三皇女ということになっているが、そんな風変わりな女性はどんな記録を見ても実在しない。謡曲の『蟬丸』だけに登場する。逆髪はまったくの虚構の人物なのだ。 

≪017≫  なぜこんな異形の女性が想定されたのかというと、醍醐天皇の第三皇女だという設定に妄想が渦巻いていく要因がひそんでいた。醍醐天皇の第四皇子といわれている人物に、蟬丸とよばれている謎の人物がいたのである。そうであれば、きっと逆髪は蟬丸の姉宮だろうということになる。 

≪018≫  このことを物語にしたのが謡曲『蟬丸』で、盲目の蟬丸が逢坂山の藁屋で琵琶を弾いているところへ、逆髪怒髪の業ゆえに遺棄されて放浪をしている姉宮が立ち寄り、薄幸の姉と弟が束の間の奇遇をよろこび、なぐさめあい、二人が名残りを惜しみながらふたたび離れていくという筋書きになっている。ここでは蟬丸は盲人の琵琶の名手として語られ、しかも捨てられた宿命を背負っているというふうになった。 

≪019≫  とりあえず、これだけでもさまざまな因数分解や積分が可能であろう。なによりも背景には醍醐天皇がいる。この天皇は延喜帝ともいわれる名君であって、ここからさまざまな人脈や事歴が浮かびあがる。醍醐帝の子息や皇女や后たちも物語に関与する可能性がある。 

≪020≫  問題は第四皇子とされている蟬丸だが、「百人一首」に選ばれているほどその名を知られているのに、まったく経歴がわからない。例の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」は『後撰集』に入っていて、「逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに」といった詞書がついている。名前からいって僧体である。だから、その名前から類推すれば、「丸」という名の日本文化史が引きずり出されてくるかもしれない。 

≪021≫  盲目であること、琵琶の名手であることからも、新たな想像力がかきたてられる。盲目の琵琶法師は当道座を組んで平家語りなどにかかわっていた。そこには何十人、あるいは何百人がいた。なかには名人もいたであろう。ひょっとするとこの話には、そうした名人が所有していた琵琶の名器がかかわっていたとも考えられる。楽器流転伝説というのも世の中ではつねに噂にのぼるものなのである。泉鏡花の『歌行燈』や夢野久作『あやかしの鼓』はその手のファンタジーだ。しかし当道座は南北朝のころにさかんになったもので、醍醐時代にはそんなものはなかった。 

≪022≫  そこで調べてみると、『江談抄』(平安時代の説話集)に「会坂目暗」という者の話があって、その者は宇多天皇の皇子の敦実親王の雑色だったとある。名前ははっきりしないが、蟬丸か、その前身にあたる者らしい。逢坂は会坂でもあったらしい。 

≪023≫  さらには『今昔物語集』二四に、源博雅という管弦の名手が逢坂山の盲目の蟬丸のもとに3年通って琵琶の秘曲を習得したという話が収録されていた。これはかなり劇的なエピソードで、博雅が習得した秘曲が《流泉》《啄木》だとまで書いてある。『世継物語』には宇治の木幡にいた卑しい盲目の法師のもとに童のころの博雅が百夜通って琴の秘曲を授けられたという話になっている。琵琶が琴に変化し、小町の百夜通いのような話が交じっているのだ。  

≪024≫  こうしたことを連結させてみると、醍醐天皇に近い者で落魄した者が、盲目となって琵琶の名人になっていたという流れが想定できそうだ。しかし、はたしてそうなのか。 

≪025≫  逢坂山というトポスにも、何かが生まれる要素が隠されているはずである。実はこの逢坂関は平安初期より道祖神が祀られていて、平安京から東へ向かったときの最初の重要な関所になっていた。そこが急坂でもあったので、道祖神は「坂神」ともよばれた。  

≪026≫  坂神? そうなのである。逆髪のサカガミは実は坂神のサカガミかもしれない。しかも逢坂山は病気の者や賤民や下層民とも密接な縁をもつ場所で、このあたりに一種の下層民のセンターか芸能者のセンターがあったと考えられている。かれらは賤視されてしばしば“坂の者”とか“所の者”とよばれた。 

≪027≫  どうも蟬丸があやしい。高貴の出身のくせに乞食のような日々を送っているし、盲目の琵琶法師になっている。しかしこれを裏がえして推理すれば、そのような盲目の琵琶名人があとから高貴の出身に見立てられていた、そのようにも考えられる。あるいは芸能者たちが自分たちのルーツを保証するために、高貴な人物を借りて仮託したのだろうとも想像できる。木地師や轆轤師たちはつねにそのように自分たちの職能が貴人との縁で起源したことを語ってきたものなのだ。 

≪028≫  まあ、こういったぐあいにあれこれ想像を逞しくしていくと、そこに広範な「蟬丸伝説構造」といったものがあったことが浮上してくるのである。おそらくは芸能の始祖を貴人に託したくて蟬丸が延喜帝の第四皇子に擬せられたのであったろう。 

≪029≫  最初は源博雅のような人物が逢坂山か木幡かの“卑しい所”で、琴か琵琶を習ったというような話があったのだ。やがてその“卑しい所”の者はたいへんな名人で、なぜ名人かというと高貴な生い立ちをもっているのだろうということになった。そして、その名も蝉丸ということになった。 

≪030≫  そのうち博雅が抜け落ちて、蝉丸のもとに通う者は坂神の加護がある者だということにもなり、その坂神がいつしかカーリーヘアもどきの「逆髪」という女性になったのだ。そして、その逆髪は醍醐天皇の皇女で、蝉丸もまたその隠れた弟だということになっていったのだ……。 

≪031≫  実際にも、逢坂関では中世になると蝉丸と逆髪を一対の男女神として習合させて「関明神」と称する信仰がおこっていた。『寺門伝記補録』ではそのように蝉丸の御霊を合祀したのは、朱雀天皇だということになっている。これが流れながれて、いまは大津市にある関蝉丸神社になった。 

≪032≫  本書には、このような蝉丸伝説が近松門左衛門の浄瑠璃『蝉丸』となり、さらに歌舞伎の『蝉丸二度之出世』『蝉丸養老滝』『蝉丸女模様』『蝉丸逢坂ノ緑』『相坂山鳴神不動』『若緑七種ノ寿』『梅桜仁蝉丸』などに変幻していったこと、『無名抄』に「関明神の事」があることなども添えられている。  

≪033≫  日本ではこういうヴァーチャル・キャラクターたちこそが、もうひとつの歴史、「面影の歴史」を支えてきた。今日のサブカルチャーを飾るキャラクターたちにも、そろそろ「面影の歴史存在学」がほしいところだ。 

≪01≫  江藤淳は愛妻の死を追って死んだ。1999年のこと、66歳の自殺だった。このニュースがテレビで流れたときはギョッとした。数日たってちょっとだけだが事情の断片が伝わってきて、むしろアーサー・ケストラーが老妻を伴って安楽死を選んだことを思い出すほうがよかったと考えなおした。 

≪02≫  本書は江藤淳の最初の随筆集である。したがってここに綴られた文章は1959年から1965年までのものになっている。これは江藤淳が生意気だった(ように見えた)26歳から32歳までにあたる。以前にも書いたように、ぼくはこのころ「文學界」「群像」「新潮」「文藝」を毎月の巡回雑誌でとっていて、江藤淳の文芸批評は36歳で始めた「毎日新聞」の文芸時評を含めてだいたい読んでいたとおもうのだが、ここに載っているような随筆はまったく読んでいなかったし、こんなことを書いていたとは予想すらしていなかった。 

≪03≫  それゆえ本書に顔を出すような愉快な江藤淳の相貌は、あの辛口で理屈っぽい憎まれっ子の江藤淳からはとうてい予想もつかないものだったのである。 

≪04≫  この随筆を綴っていたころの江藤はまだアパート暮らしだった。六畳・三畳に四畳半のダイニングキッチンという状態だ。なのに蔵書だけはどんどんふえていた。 

≪05≫  そんな江藤が部屋中を本だらけにしながらも、大きなペンギンのぬいぐるみを大事にしていただなんて、どうみてもテディベアが離せない中村歌右衛門のようで、おかしな話なのである。しかし、そこにこそもう一人の江藤淳がいて、その江藤淳があれこれの変転のうえ、老年になって夫人を追って自殺したわけだった。そのあれこれの変転という場面に、犬がいた。 

≪06≫  そんな江藤が部屋中を本だらけにしながらも、大きなペンギンのぬいぐるみを大事にしていただなんて、どうみてもテディベアが離せない中村歌右衛門のようで、おかしな話なのである。しかし、そこにこそもう一人の江藤淳がいて、その江藤淳があれこれの変転のうえ、老年になって夫人を追って自殺したわけだった。そのあれこれの変転という場面に、犬がいた。 

≪07≫  まずダーキイは江藤の顔を舐めた。ぷんぷんとした仔犬の匂いに覆われながら、江藤は奇妙な感動に嗚咽する。「これがおれの犬だ」「これはおれだけの犬だ」という私有と支配の勝利に似たそわそわした感動だった。次にダーキイは夫婦のあいだにすぐもぐりこんできた。夫婦ゲンカをしているときは二人の顔をのぞきこみながら部屋をうろうろした。これで江藤夫婦は人間以外に人間を動かすものがあることを知る。それにくらべれば、文学は人間のつくったものにすぎないのだ。 

≪08≫  ついでダーキイは等身大のペンギン人形に嫉妬した。江藤がペンギンを抱こうものなら唸り声をあげ、すぐに手放さなければ嚙みつかれそうだった。そこで江藤はペンギン人形を放棄するふりをするのだが、ダーキイは許さない。そのうちペンギン人形の片目が忽然と消えた。どこをさがしても見つからない。ある日、庭の一角にした自分のうんこに向かって吠えているダーキイの動作を不審におもって見にいくと、なんとそこにはペンギンの目玉が無残にもこちらを向いていた。 

≪09≫  まあ、ここまではペットを飼ったことがある者には早晩おこることである。やたらに自慢するほどのことじゃない。ぼくだってこのくらいの体験はそこそこ味わった。それにぼくのばあいは犬2匹とリス1匹と猫16匹だ。負けはしない。  

≪010≫  ところが、ここから江藤淳は妖しくなっていく。犬馬鹿になっていく。子母澤寛が猿馬鹿になったのはまだしも(何がまだしもかわからないが)、江藤淳が犬馬鹿になったのだ。犬のために奉仕し、犬の下僕となり、将軍綱吉もどきの犬に仕える最高権力者をめざしてしまうのだ。 

≪011≫  生活はほとんどダーキイの一挙手一投足のままに従い、そのたびの一喜一憂である。よくそんなことでオモテムキは文芸批評家の一方の雄でいられたなとおもうのだが、ウラムキは大騒動だった。獣医がダーキイの見合いの相手を選ぶのに、黒いみすぼらしい犬を選んだというだけで不機嫌になる。それなのに、ちょっと見栄えのいい相手と見合いをしたとなると、なんだか理由もなくこみあげるものがある。首尾よくダーキイが4匹の赤ちゃんを生んだとなると、これはもう極楽だ。 

≪012≫  さっそく江藤は目黒から麻布の巨大な邸宅に引っ越した。留守役だ、借家だとは弁解しているが、これが将軍綱吉でなくて何なのか。 そして、ついには次のような文章を綴る男になりさがって、ぼくを感動させる。外国に1年少々ほど滞在しなければいけないことが決まったときの随筆である。「犬の問題」というタイトルがついている。 

≪013≫  私は他人がそばにいると、原稿が書けないたちで、ことに女房がこっちをむいているとよく書けない。きっと、ものを書くということに、どこか犯罪に似たところがあるからにちがいないが、犬は容赦もなく書斎にはいって来て、私の顔を眺めている。昔はおしっこが出たいのかと思ったものであるが、今は何をしに来たのかよくわかっている。彼女は私を憐んでいるのである。そして、男というものは、何でこんなつまらないことにむきになっているのだろうか、と変に智慧のありそうな眼で、少し首をかしげて不思議がっているのである。 

≪014≫  犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。これは妻妾同居という意味ではなくて、まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない、犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。どちらかにしなければ、私の精神のバランスが崩れてしまうのです。 

≪015≫  ともかくこの本は心底感動的な本である。どれほど江藤淳の思想や顔付きに偏見をもっていようと、この本を読めばたちまち病気は治る。 

≪016≫  ここでは紹介しないが、本書の後半はダーキイが出てこないかわりに、人間の宿世というものが描かれていて、これがダーキイの顔に付いている瞳のようなのである。この一連の随筆がなかなかの則天去私で、渋いのだ。まあ、騙されたとおもって『犬と私』を読みなさい。なにしろ『犬と私』だけが志賀直哉も川端康成をも感心させた江藤淳であり、もう一人の女房を追って自害したもう一人の江藤淳なのである。 

≪017≫  そしてその次に五冊本『漱石とその時代』(新潮選書)を読むことだ。読めなくなったらば『荷風散策』(新潮文庫)で息をつぎ、また『漱石とその時代』を読んでみることだ。それでもやっぱりもう一人の江藤淳の体温に触りたくなったら、『犬と私』に戻るか、『妻と私』(文春文庫)に進むか、あるいは『南洲残影』(文春文庫)を読むとよい。こんな昭和の文人は、もう見当たらない。 

≪01≫  この一冊は、これまで「千夜千冊」でとりあげてきた164冊の本のなかでは、日本人として最も身に滲みた一冊である。 実は同じような感慨をもった本がもう一冊ある。それは同じ金子光晴の『詩人』である。どちらも自伝のようなものだが、「ユリイカ」に連載されていたときはまさに『自伝』と銘打たれていた。この『詩人』を“原型”とすれば、『絶望の精神史』のほうはその変形ヴァージョンで、日本人論になっている。 

≪02≫  ここでは『絶望の精神史』だけをとりあげるが、その読後当時の身ぐるみ剥がれて丸裸にされたような実感を、はたして今日のぼくが適確に綴れるのかどうかは、あやしい。あの20代のとき、貪るように読み進めながら寒気がしたり熱発したことを、いまそのような感情の起伏のままに綴れるのかどうか。 そこはまことに心もとないのだが、とりあえずは紹介がてらに書いてみる。 

≪03≫ その前に言っておかなければならないのは、第一には、この本は金子光晴が高度成長の絶頂期の70歳のときに綴ったものであるということ(『詩人』は62歳のときの出版)、第二にこの本は、日本を憂える日本人も、日本を楽観したい日本人も、そのいずれもが虚心坦懐に、ただし一気に読んだほうがいい一冊だということ、第三にこのような本を書ける世代は今日の日本にはもういないだろうということである。 

≪04≫  金子光晴が本書で書きたかったことは、「日本人のもっている、つじつまの合わない言動の、その源である」。金子は日本人がどうしてこんなにくだらない日本人になってしまったのかということを怒りながら観察して生きてきた。なぜそうなったのか、それはどこからきたのか、それでいいのか。 

≪05≫  しかし、その矛盾の多い“源”を突き止めるのは一筋縄ではいかない。なにより金子自身の生き方を通し、その生き方を問いつつ考えざるをえなかった。  

≪06≫ 金子はこの苦渋に満ちた試みを、恐るべき自己客観とすばらしい露悪趣味によって泳ぎきった。そのためにおそらく金子は、次の方針を貫いた。(1)書きたいことを書く、(2)身近な人間の生きざまを露出させる、(3)気にいらないことはあけすけに指摘する、(4)自分のなさけない人生の大半も隠さない、(5)それらを通して日本人と絶望の関係を徹底的にハッキリさせる、(6)あまり考えないで書く、(7)明治大正昭和を生きてきた実感に頼って書く。  

≪07≫  このようなことを貫いた意地に、20代のぼくは心底感服してしまった。当時のぼくにはとうてい予想もつかないような焦燥と苛立ちがぼくの血を逆流させたのだ。しかし、その「絶望」を金子以外の体験をし、金子の表現力のないわれわれはどのように受け継げるのかは、わからなかった。何が金子を追いつめてきたのだったろう。 

≪08≫  話は明治の日本から始まる。金子が生まれたのが明治28年だったからである。北村透谷が自殺した翌年だった。 生まれてまもなく口減らしのために養子に出た。虚弱な体だったが、10歳のころに「男女の区別なく、友人に、たんなる友情ではがまんのならない、激しい愛情の接触を求めていた」。男生徒と裸のまま一晩抱きあっていたこともあったという。 

≪09≫ その明治を「ひげ」が君臨し、「ひげ」が威張っていた時代だったと金子は見ている。天皇も政治家も役人も巡査も、たしかに「ひげ」をたくわえていた。その前の江戸の社会は「ひげのない政策」だった。武士や庶民に虚勢をはらせない政策である。それが明治で緩んだ。「ひげ」の虚勢が全面に出た。  

≪010≫ そういう時代に金子は暁星中学校に入り、銀座竹川町の教会で洗礼をうけ、そのキリスト教的道徳に反発して家出した。流行しつつあった自然主義文学を読んだのは性生活を覗き見するためで、本気で文学をするつもりなどこれっぽっちもなかった。自然主義文学なんて、「日本人の鼻先に汚れた猿股や靴下をつきつける、薄汚い小説」なのである。それでも金子はホイットマンをはじめとする文学の周辺をうろついた。 

≪011≫  以来、金子のまわりでは痛ましく傷ついていった男たちと驕慢な虚栄を嘯いていた男たちのいずれかが、頻繁に通りすぎていく。いや倒れていく。金子はその一部始終を見逃さない。立派な「ひげ」を生きた明治の父親たちが明治の息子たちを苦しめたのだ。  

≪012≫  次の大正の日本は、金子がうろついた浅草の「包茎をおもわせる十二階」に似ていた。この十二階が関東大震災でポッキリ折れたとき、大正の夢が錯覚だったことがバレたのだ。それはすでに「ひげ」の乃木大将とともに明治が終わり、「国民に睨みのきいた明治天皇」が「不幸な大正天皇」に代わったことにも象徴されていた。 

≪013≫  ありていにいって、大正文化は外来思想と外来文化でかためたようなものだった。金子も文学と恋愛を求めれば求めるほど、日本が醜く見えてきた。実は大正時代は「珍しく軍と官憲の弱腰の時代」だったのだ。それなのに、知識人はその正体を暴ききれず、民衆はまだ明治の夢を見ていた。 

≪014≫  金子はついに日本を脱出することにする。船の中ではアジア人たちの強欲だが赤裸々な生き方を見せつけられた。ヨーロッパではめちゃくちゃな仕事をして暮らしのカテにしていた変な日本人ばかりに会った。   

≪015≫  それでも、そんなことをしていれば、日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかは、あからさまに見えてくる。「彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じている。その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別し、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえない、サディズムの甘渋い味を知った」。 

≪016≫  大正の移入文化がいかに浅いものかは、ヨーロッパの「石と鉄の文明の深さ」を見れば一目瞭然である。  

≪017≫  けれども、日本人がヨーロッパでヨーロッパ人になることも不可能なのである。それはまたもっと滑稽だ。その滑稽はヨーロッパでさんざん見た。では、それに対抗するはずの日本がもつ「紙と竹と土の文化の幻想的な美しさ」が、金子を救ってくれたかというと、そこは、「大正を生きた僕には、もう、帰ろうにも帰れない滅びた世界」となっていた。「明治精神が、それを断絶してしまった」のだった。 

≪018≫  しかし金子はまだなお「不遜にも、西洋の模倣でない、新しい日本の芸術を、この身をもって作り出してみることが、必ずしも不可能ではない」とおもいこんでいた。ただしそれには、ひとつ条件があった。自分を「エトランゼ」と思い切ることだった。 

≪019≫  しかし金子はまだなお「不遜にも、西洋の模倣でない、新しい日本の芸術を、この身をもって作り出してみることが、必ずしも不可能ではない」とおもいこんでいた。ただしそれには、ひとつ条件があった。自分を「エトランゼ」と思い切ることだった。  

≪020≫  その目でみれば、たとえば次の3人などはそうとう奇妙な成功者だった。「大宅壮一をほんとうにがむしゃらにして、不幸せにしたような岩野泡鳴」、まるで「鼠が宝珠の玉の貯金箱を抱いているような姿が浮かぶ泉鏡花」、「爛熟と頽廃美にかけては、西欧のいかなる文化にも劣らぬ繊細で多彩で、調和のとれた江戸末期の亡霊の世界へ、安ペカな西洋まがいの新文化、新生活を尻目にかけ、ひとりさびしい後ろ姿をみせて帰っていった永井荷風」の3人だ。けれども、彼らもまたエトランゼであるのだから、日本の文化人は見放すしかないだろう。 

≪021≫  関東大震災で「大正人のきれいなうわっつらがひんめくられ、昔ながらの日本人が、先方から待っていたとばかりに、のさばり出てきた」。 

≪022≫  関東大震災で「大正人のきれいなうわっつらがひんめくられ、昔ながらの日本人が、先方から待っていたとばかりに、のさばり出てきた」。 

≪023≫  いや軍部ばかりではない。「無政府主義者を名のる若い詩人たちが、新宿、池袋から、白山あたりを横行し、詩をどなったり、飲んであばれたり、けんかをしたり、持てるものから金を強要したりしてあるいた」。 

≪024≫  そんななか、金子は生まれたばかりの長男をあずけて、母親と二人で上海にわたり、そこを振り出しに7年間にわたる二度目の海外旅行に出掛けてしまう。しかし彼の地で金子がしたことは、中国で無政府主義くずれの連中と、内外綿行などを相手に理由かまわぬ金を強要するようなことだった。そういうことを金子は赤裸々に告白しつづける。こうして金子は2年をかけてパリに舞い戻る。 

≪025≫  日本は昭和の時代になっていた。ふたたび浦島太郎のエトランゼの資格を得て日本に帰ってきた金子は、パリの日本人とは正反対の男たち、たとえば山之口獏と正岡容と知りあう。 

≪026≫  二人はそれこそ破天荒な貧乏を遊んでいた男たちにすぎなかったが、満州事変が世界の話題になってきた時代には、この二人にくらべると、多くの日本人に欠けているものが見えてきた。「日清、日露の戦争のときには、国の内部に軍の実力への半信半疑が湧いてくるのを、民衆がスバーしようとした若い情熱があった。しかし、昭和の民衆は、この情熱をもう持ちあわせていない」のである。昭和の日本人は軍というものから心が離れていたのだ。 

≪027≫  これがいいようで、実は悪かった。日本は軍部とテロルの花園となり、「昭和人は勘定高くなっていった」。そんななかで本物の戦争が動き始めたのである。満州帝国という“もうひとつの日本”がつくられつつあったのだ。金子は中央公論社の畑中繁雄のすすめもあって、自分の目で「戦争」と「満州」を見る必要を感じる。金子は輸送船で荷物となって神戸を出港した。 

≪028≫  そこで見たものはいろいろあったが、一言でいえば「日本軍が理想を失って、指揮者が戦争に熱がないくせに、兵士にむりに忠誠を誓わせたこと」、これである。 

≪029≫  三たび、擬似エトランゼとなって日本に戻った金子を待っていたのは文学報国会である。金子はずるずるとこれに出て、ずるずるとサボタージュをする。  

≪030≫  次に、息子が招集されることになった。金子は医師の診断書を入手して息子を戦地に行かせないために、とんでもないことをする。息子を応接室にとじこめて、ナマの松葉を燻す。いっぱいの洋書をリュックサックに入れて、これを背負わせ1000メートルを駆け足させる。「その難業を続けさせる自分が鬼軍曹のように思われてきて」、さすがに金子は閉口するが、このサボタージュはなんとか成功した。 

≪031≫  かくて、招集をぬらりくらりと逃げとおした息子と二人で、疎開先の山中湖で金子は玉音放送を聞く。すべては終わったのではなく、また同じことが再開するのかと思った。 

≪032≫  金子は綴る。「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ」。「日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」とも綴る。 

≪033≫  そして、この『絶望の精神史』は、次の言葉で結ばれる。「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」。 

≪034≫  こんなところがぼくなりにダイジェストした『絶望の精神史』だが、このダイジェストまがいを読んでもらってもわかるように、金子は自分の「絶望」に引きつけて日本人の絶望の仕方にひそむパターンを問いまくり、返す刀で、そうした絶望すらしない傲慢きわまりない日本人に疑問を投げつけた。 

≪035≫  こういう詩人の本は珍しい。坂口安吾でもないし、鮎川信夫でもない。歯に衣着せぬ社会批判が大好きな吉本隆明や谷川雁だって、こんな赤裸々に「日本人に対する文句」を言わなかった。仮に金子以上にめちゃくちゃな人生を送っていた者も、野口雨情や尾崎放哉や織田作之助もそういう人生だったろうが、こういうふうには書かなかった。これはやはり「絶望」を大声で言っている“芸”をもっている一冊なのである。 

≪036≫  しかし、久々に本書をふりかえってみてよくわかったのは、金子光晴は日本人に対して絶望しているのではなく、“絶望を問題にしない日本人”を問題にしたかったということである。 

≪037≫  自伝『詩人』ではまだしも“魂の放浪記”であった文章だったのだが、本書ではその文章の背後に蟠っていた“絶望を問題にしない日本人”に対する憤懣が爆発したのであった。いずれにしても、本書はこれまでの「千夜千冊」のなかで、ぼくが最も身に滲みた一冊だったことに変わりはない。 

≪01≫  銀河ステーションは「億万の蛍烏賊(ホタルイカ)の光をいっぺんに化石にして空に沈めた」というぐあい、「幻想第四次の銀河鉄道」の汽車の姿は「夜の軽便鉄道」そっくり、線路のへりには「芝草のなかに月長石ででも刻まれたような紫の竜胆」が咲いている。 

≪02≫  車室は黄いろい電燈がぼうっと並んでいて、腰掛は青い天蚕絨(びろうど)が貼ってあり、壁には真鍮の大きな二つのボタンが光っている。車窓の「向こうの河原は月夜」になっているらしい。そこに乗っていたカムパネルラは円板状の「黒曜石でできた地図」をぐるぐるまわしている。天体鉄道図だ。 

≪03≫  ジョバンニが「いまぼくたちが居るところ、ここだろう」と指さしたのは白鳥座の停車場。「二〇分、ていしゃー」の合図で降りてみると、改札口は水晶細工の銀杏に囲まれ、幅の広い道が銀河の青光の中に通っている。そこに近づくときらきらとした川が流れ、「銀河の水が燐光あげてちらちらと燃えるように」見えてくる。 

≪04≫  その先の崖の下はイギリス海岸のように白い岩でできていて、そこに「プリオシン海岸」という瀬戸物の標札が立っていた‥‥。 

≪05≫  その美しさに眼を奪われているとわからなくなるのだが、この物語には、少年の心にはすぐは見えないような驚くべき特徴がいくつも含まれている。 

≪06≫  なんといっても銀河鉄道は「死者の列車」であって、カムパネルラは「死者」なのである。いや銀河鉄道に乗り合わせた乗客はすべて死者なのだ。それどころか、この鉄道は死後の銀河をめぐっていた。 

≪07≫  そもそも『銀河鉄道の夜』においては、この目映い銀河鉄道の場面は「六、銀河ステーション」以降の光景であって、物語はそこに至るまでに「一、午后の授業」から「五、天気輪の柱」まで、まったく別の場面を展開させている。そこで、一転、銀河鉄道のファンタジーが奏でられる。けれども、ジョバンニが夢からさめると、カムパネルラが川に落ちた少年を助けようとして死んでしまったという話になる。  

 この構造はやさしくない。 だいたいジョバンニはカムパネルラと齟齬が生じた関係になっている。少年独特の“束の間の疎遠”というものだ。物語はジョバンニが活版所で働き、お母さんに牛乳を運ぼうとしたり、ケンタウル祭の夜の時計屋でアスパラガスの葉に飾られた星座早見を眺めたり、ザネリにからかわれたりしているものの、カムパネルラとはまったく口もきいていない。なぜかジョバンニはカムパネルラを避け、カムパネルラはそのジョバンニの気持ちをわかっているふうだ。 

 そのカムパネルラが“束の間の疎遠”の真っ只中、事故で死んでしまったのである。物語はカムパネルラの謎の死を知らせないまま、天気輪の柱の下の冷たい草の上に寝転んだジョバンニが、うつらうつらと遠くの汽車の音を聞きながら眠りこみ、「銀河ステーション、銀河ステーション」という声がして眼がさめるところから、さっきの銀河鉄道の目映い光景に入っていく。  

≪010≫  冒頭は、先生が黒板に吊るした星座図の天の川を指しながら、「この川とも乳の流れたあとだとも云われている白いものは、ほんとうは何ですか」と聞くところから始まっていた。童話文学あるいは少年文学きっての名場面だ。 

≪011≫  先生に当てられたジョバンニが立ってみると、天の川が何かを急に答えられなくなっていて、先生がさらに聞くたびに真っ赤になる。そこで忘れられない描写になっていく。 

≪012≫  「ジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。そうだ僕は知っていたのだ。勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。それどころでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、銀河というところをひろげ、真っ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした」。 

≪013≫  どうやら、この一冊の「巨きな星の本」の中で、ジョバンニはカムパネルラと銀河鉄道の旅をしたようなのだ。物語のなかでジョバンニとカムパネルラが銀河の旅をするのは、ここだけなのである。 

≪014≫  あとは教室でジョバンニが立ち尽くし、カムパネルラも親友の気持ちを慮って手をあげないようにし、ジョバンニがお母さんを思って活版所で働き、ジョバンニの夢の中で銀河鉄道の旅が繰り広げられ、そしてカムパネルラが死ぬ。それだけである。 

≪015≫  しかし、この削ぎきったような物語の顛末が『銀河鉄道の夜』を永遠にした。 

≪016≫  いったい宮沢賢治はどのように『銀河鉄道の夜』を構成し、いまわれわれが読むような格好に仕上げたのか。 

≪017≫  あとでもう少し詳しく指摘するつもりだが、この作品は実に10年にわたって構成と編集の手を加え続けられていた。それも大略4次におよぶ大幅な加筆訂正削除があった。驚くのは、冒頭の「一、午后の授業」をはじめ、「二、活版所」「三、家」はすべて第4次原稿の、それも最後の最後になって付け加えられたということだ。 

≪018≫  ということは、最初の物語では現実と幻想は最終稿のようには分かれていなかったのである。実際にも第1次稿を読んでみると、紛失した原稿があるせいでもあるのだが、物語はまことに錯綜していて、銀河鉄道に乗っている場面と、天体を夢想している場面とがごちゃごちゃになっている。そのかわりジョバンニとカムパネルラの少年っぽい葛藤も多く描かれていた。 

≪019≫  が、賢治は何年をもかけてそれらを次々に削除していった。そのうえで、別の場面と決定的なステージの区別を入れた。とくに意外なのは、最初の草稿ではカムパネルラは死んではいなかったということである。 

≪020≫  こういうことは、筑摩書房が総力をあげた『校本宮沢賢治全集』が多くの異稿をできるかぎり活字にしてくれたことによって、初めてあきらかになったことだった。 

≪021≫  ぼくはその壮絶ともいうほどの編集プロセスの渦中を、入沢康夫さんや天沢退二郎さんを通して知って、なんだか“幻想月界王子”のような賢治がたくさんの顕微鏡の下で大小の検査光にあてられて、しだいに正体があきらかになってしまうのではないかという気持ちをもったことがあるのだが、実際には、そうではなかった。むしろこのプロセスで宮沢賢治はさらに複雑に、さらに精緻に光り輝いた。 

≪022≫  その賢治について、賢治の童話を“イーハトーヴの星でできた鉱物の夢”のように読んでいる幻想的な読者には、ひょっとしたらあまり知られていないだろう話から、以下、書いてみる。 

≪023≫  尾崎紅葉が『金色夜叉』の連載を読売新聞で始めたとき、賢治は6歳になっていた。 赤痢に罹って花巻本城の隔離病棟にいた。大変の病弱だ。風邪をひいたようね、それ、お薬、熱があるようだ、さあ寝なさいと大事に育てられすぎたせいである。 

≪024≫  宮沢家は花巻一帯では「宮沢まき」とよばれたほどの代々の素封家である。父方は屋号をとって「宮右かまど」ともいわれた。母方は棟梁の家系だが雑貨商をしてから宮沢商店としておおいに発展して、花巻銀行・花巻温泉・岩手軽便鉄道の設立にかかわった。賢治はこういう家庭でタカラヅカ花組の主人公のように大事に育てられた。 

≪025≫  その、弱虫で泣き虫の、過保護だった賢治がちょっと変わってくるのは、花巻川口尋常小学校の2年になったころからである。ススキの野原に火をつけ、小舟で北上川の対岸に渡って瓜を盗んだりした。これは、とてもよくわかる。これは、少年ニュートンや少年ヴィトゲンシュタインが火付けをして遊んだ「いたずら」そのものだ。これをしない少年なんて、大人になっても面白くない。 

≪026≫  賢治はいつも誰かの影響をまっとうに受けとめている。3年の担任の八木英三先生からうけた影響は、五来素川が翻訳した『家なき子』を読み聞かされたことだ。八木自身が「私は噛みつくやうにこの少年小説を読んだ」と回顧していているほど、熱を入れたらしい。  

≪027≫  最初に感動した童話が『家なき子』であったことは、ジョバンニがカムパネルラに寄せる微妙な感情にもよくあらわれている。賢治は泣きじゃくり、勇気を鼓舞され、八木先生の言葉をひとつずつを心に刻んだことだろう。だから、八木先生が黒板に「立志」と書くと、当時の少年なら誰もがそうだったのだが、その2文字に心を躍らせた。この時代のキーワードはまさに「立つ」。立志・立国・立身なのである。 

≪028≫  いまはどうだか知らないが、ぼくが花巻に行ったときは朝の7時にチャイムが鳴って、賢治の『精神歌』が街に流れていた。歌詞はこういうものだ。 

≪029≫

   日は君臨し 輝きは 白金(はっきん)の雨 注ぎたり。

   われらは黒き土に伏し まことの草の 種まけり
   日は君臨し 穹窿に 漲りわたす青光り
   光の汗を感ずれば 気圏のきみは隅(くま)もなし。 

≪030≫  諸君、白金の雨の注ぐなかで「黒き土」となって「まことの草」のための種を撒きなさい。自身の意志に「光の汗」を流し、諸君は「気圏の者」になりなさいという歌詞である。遠野から下りてきて、花巻の宿でこのような歌詞であることを確認したときは、なんだか胸がつまってしまった。 

≪031≫  大正10年(1921)、25歳の賢治は稗貫農学校(その後の県立花巻農学校)の先生になる。このあと辞任するまでの4年間は賢治が創作に熱中した時期だった。妹のトシを失ったのも、『春と修羅』『注文の多い料理店』を出版したのも、この時期である。その農学校に着任早々、賢治は『精神歌』を作って生徒に歌わせた。その歌詞はまさに八木先生が教えた「立志」であった。 

≪032≫  こうして弱虫賢治は昆虫採集や鉱物採集をするようになっていく。小学校の教師の熱意は、必ずやこのような別の熱意を少年に発見させるものなのだ。 

≪033≫  よく知られているように、賢治はのちに法華経に傾倒する。もし賢治と法華経の関係を無視したり軽視したりしている読者がいたとしたら、その賢治は日本人ではないのだろう。 

≪034≫  たとえば『樺太鉄道』という詩に、「月光いろのかんざしは・すなほなコロボックルなのです・(ナモサダルマフンダリカスートラ)」と出てくる。この(ナモサダルマフンダリカスートラ)は、「妙法蓮華経」のサンスクリット読み「ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラ」である。この詩では何度もこのマントラが繰り返される。 

≪035≫  賢治が智学の法華精神論の虜になったことを論じている議論が極端に少ないのは、きっと賢治のような純粋きわまりない心情の持ち主に、戦闘的な青年仏教徒のイメージや法華国家主義のレッテルなど付与したくないからだろうが、ぼくなどはむしろそういう宮沢賢治だから、胸がつまるのである。 

≪036≫  明治後期から大正時代にかけて、法華経を確信して生命の力を謳歌し、そこに国粋主義とアジア主義と世界主義とを加味して台頭した日蓮主義運動ともいうべきものがダイナミックに動いたことがある。その原点が田中智学と本多日生で、高山樗牛・姉崎正治が智学に感化されて最初に動いた。それがたちまち井上日召や北一輝や石原莞爾や牧口常三郎の思想の底辺になっていった。井上日召は一人一殺のテロリズムを唱え、牧口は創価学会を唱える。 

≪037≫  賢治はそのような不穏な空気をのちにもたらした国柱会の入口を、あたかも青年が紅いネオンの奥の秘め事に魅かれるように、行ったり来たりしたのである。 なぜ、賢治は法華経に熱倒していったのか。 

≪038≫  もともと「宮沢まき」の宗旨は浄土真宗で、出戻りの伯母ヤギから『正信偈』を子守唄のように聞いていた。『正信偈』はぼくも子供のころから歌うように読経させられた。 

≪039≫  とくに賢治10歳のときに、大沢温泉に夏季仏教講習会のためにやってきた暁烏敏(あけがらす・はや)の世話を父親に命じられたときには、得意になってこの仏教改革者の身の回りにくっついていた。暁烏敏は、清沢満之に次いで近代浄土教に革新をもたらそうとした僧侶だが、その活動も精神もはなはだラディカルで、アナーキーだった。賢治にはどこか、このような革命家に一発で染まっていく気質があったようだ。が、だからこそ、宮沢賢治なのだ。 

≪040≫  この夏季仏教講習会は父親が力を入れていたものらしく、記録を調べてみると、暁烏のほかに鈴木大拙や夏目漱石をゆすぶった釈宗演、近角常観、村上専精などの錚々たる仏教者が来ていた。中学になって盛岡に行くと、北山願教寺の仏教講習会に顔を出すが、ここでも島地大等の口吻に接していた。ここで島地の大きさにふれたことが、のちに島地編『漢和対照・妙法蓮華経』を読んだときの衝撃につながっていく。 

≪041≫  もうひとつあまり知られていないことに、賢治の5年のときに担任が照井真臣乳に代わるのだが、この照井と斎藤宗次郎がかねてからの昵懇で、その縁で内村鑑三が花巻に来たときは宮沢家が内村にただならぬ敬意を払っていたことである。 

≪042≫  賢治にクリスチャンの雰囲気があることは以前から指摘されていたが、この当時、ラディカル・ウィルの持ち主であるのなら法華経もキリスト教も国粋主義もその精神の裏地はまったく同じだったのだ。それは内村鑑三が『代表的日本人』に日蓮をあげていることでも、察せられよう。まあ、このことについてはこのくらいにしておく。 

≪043≫  賢治は明治42年に盛岡中学校に入る。ここで「賢治の博物学」がめざめた。ナチュラル・ヒストリーにぞっこんになる。とくに鉱物採集と植物採集のためには方々を歩きまわっている。 

≪044≫  金槌をもった登山にもあけくれた。岩手山には中学時代だけでも8回にわたって登頂した(生涯では30回を数える)。その南麓の小岩井農場に足を向けたのもこのときだ。童話『グスコーブドリの伝記』のイーハトーブ火山は岩手山である。 

≪045≫  その名もずばりの『岩手山嶺』は、次のような詩句になっている。こんなふうに山を綴った山の詩人は他にいないのではないかというほどの絶顛を示していよう。 

≪046≫ 

   外輪山の夜明け方、
   息吹きも白み競ひ立ち、
   三十三の石神に、
   米を注ぎて奔り行く。 

≪047≫  北の脊梁山脈の精神をみごとに歌いあげている。こうして「賢治の博物学」は鉱物学、地質学、植物学、コロイド化学のほうに向かっていく。やがては自身がそこに身を投じて農業化学として結実したかったこの熱中は、もともとは“石っころ好き”に始まったものと思われる。賢治は子供の時分からみんなにそう呼ばれたような「石っこ賢さん」なのである。 

≪048≫  それとともに、このころから短歌の試作が始まった。これもよくわかることで、鉱物と短歌、植物と俳句は、ほとんど同じ「切れ」なのである。とくに鉱物や植物を”標本”するということが、詩歌とりわけ短歌と俳句の取捨と選択の手法に近いのだ。ぼくも鉱物採集に熱中したときの俳句が一番際立っていた。賢治はこんな短歌である。 

≪049≫

    鳶いろのひとみのおくになにごとか
     悪しきをひそめわれを見る牛    わが爪に魔が入り手ふりそそぎたる         月光むらさきにかがやき出でぬ    本堂の高座に島地大等の
        ひとみに映る黄なる薄明
    十秒の碧きひかりの去りたれば
        かなしくわれはまた窓に向く
    神楽殿のぼれば鳥のなきどよみ
        いよよに君を恋ひわたるかも 

≪050≫  3首目は島地大等の講演を聞いていたころの短歌。この「黄なる薄明」こそが法華経の光だった。 

≪051≫  4首目は有名な「十秒の恋」といわれる歌で、賢治が大正4年に盛岡高等農林学校に入る直前に、発疹チフスの疑いで岩手病院に入院したときの歌。賢治は看護婦に片思いの初恋をした。この初恋の思いはあとをひき、その後も何度もこの片思いを偲ぶ詩や歌が詠まれた。入院時の青少年の感情というもの、よほどのことがないかぎりは看護婦に憧れる。 

≪052≫  初恋に挫折し、病気が癒え、父が反対していた進学が許されると、賢治はいよいよ「立志の青年」になる。それまで学校の成績など気にもとめていなかった賢治も、盛岡農林学校では特待生であって、級長だ。賢治はすっかり変わっていた。 

≪053≫  大正7年、22歳になっていた賢治に、鈴木三重吉の「赤い鳥」と武者小路実篤の「新しき村」が創刊されたニュースが伝わってきた。短編小説をいろいろ試みている一方、しだいに賢治の胸中に“新しい社会”が芽生えていたはずだ。 

≪054≫  こうしてさきほど述べた大正10年、25歳の賢治は社会人として稗貫農学校の教師の職に就くことになり、生徒に向かって『精神歌』を作詞するという順番になる。農学校で賢治の創作はついに結晶化をおこす。『かしはばやしの夜』『注文の多い料理店』『春と修羅』の原型はここで醸成された。 

≪055≫  この農学校の跡はいまは花巻市の文化会館になっている。ぼくも訪れた。そこに「ぎんどろ」(銀白楊)が植えてある。賢治が小さいころから大好きだった木であった。ここでは夕方に、あの『星めぐりの歌』が流れていた。こちらは作曲も賢治である。 

≪056≫  ともかくも賢治を質朴派とか自然派とだけ捉えていたのでは、賢治はまったく見えてはこない。賢治はまさに十一面観音のように多様であり、かつルネサンス人のように多才だった。もし生涯がもっと長いものになっていたら、コロイド化学を大成していたかもしれず、農民革命をおこしていたかもしれない。 

≪057≫  このへんで、ぼくのほうの賢治体験を書いておく。ぼくの賢治は中学時代に読んだ『風の又三郎』に始まっている。いまでもひょっとすると一番好きな童話かもしれない。 

≪058≫ 「どっどど・どどうど・どどうど・どどう」の音連れの風がもつ青い胡桃を吹き飛ばす感じ、さっとやって来てさっと去っていく正体のわからない転校生の感じ、木造小学校の窓ガラスががたがたとモリブデンのように哭く感じ、それらの寒いけれどもセピア色に調色された懐かしい印象は、中学の時に読んだままに、いまもってぼくを去らない。『風の又三郎』こそ日本の『スタンド・バイ・ミー』なのだ。 

 ≪059≫  もっとも『風の又三郎』も複雑に再構成されて、ようやっと現状のかたちに仕上がった作品である。原型は奥羽北陸地方の“風の三郎様”の伝説にヒントを借りた「風野又三郎」というもので、これに「種山ケ原」や「さいかち淵」などの別の先行作品に黒インクで書きこんで手入れしたものをカット&ペーストし、さらにいくつもの紙片やノートにブルーブラックのペンで書きこんだ数々の一節をここへ盛りこみ、そのうえでまた削除した。 

≪060≫  おそらくはまだ未完成であるらしく、現在も又三郎、三郎、一郎、孝一などの異同が混在したまま活字になっている。 

≪061≫  衝撃をうけたのは高校生のときに開いた『春と修羅』だった。愕然として、どう言っていいかわからないほどだった。 

≪062≫  それまでは萩原朔太郎や中原中也や富永太郎を読んでいて、「雨ニモマケズ」の賢治など詩人とは見えていなかったのに、そこから何もかもが賢治色になってしまったことを憶えている。ともかく「雲はたよりないカルボン酸」とか「花巻グランド電柱の百の碍子にあつまる雀」とか「アンドロメダも篝りにゆすれ・青い仮面のこけおどし」とか言われただけで、高校生のぼくは泣きそうになっていた。 

≪063≫  それが「わたくしといふ現象は・仮定された有機交流電燈の・ひとつの青い照明です」の3行で明滅する賢治から発せられていると思うと、そのまま方晶化してしまいたかった。「おれはひとりの修羅なのだ」「まことのことばはここになく・修羅のなみだは土に降る」という覚悟も、ぼくの胸を騒がせた。 

 ≪064≫  おそらく『春と修羅』は日本人が到達した近代詩集のなかで、最も高みに近づいたものではなかったか。 

≪065≫  第1集の出版まもなくこれを読んで驚いた辻潤は、「この夏にアルプスに出掛けるなら『ツァラトゥストラ』を忘れても『春と修羅』を携へる」と書いた。これは心憎いばかりの褒め方だ。やはり第1集を読んだ若き草野心平は、「彼こそは日本始まって以来のカメラマンである、東北以北の純粋トーキーである」と感嘆した。そう、賢治はコロイド化学と銀塩化学に長じたカメラマンだったのだ。 

≪066≫  が、それらのことについては『遊学』にもちょっと書いたし、また別の機会にゆっくり書きたいので、ここでは省く。『風の又三郎』がぼくの年来のお気にいりであることは、『遊』創刊号に書いた『ミトコンドリア・カルテット』を“高田又三郎”の筆名にしたことでも察してもらえるのではないかと思う。 

≪067≫  むろん『春と修羅』も執拗な編集がされている。研究者たちは、最近では『春と修羅』の全体の配列がしだいに整うにしたがって、最後の手入れがそうとうになされたという見解をとる。 

≪068≫  当然だ。推敲とは「推して、敲く」(引っぱり上げ、捨てていく)というところにあるけれど、それを賢治は二重三重どころか、つねに多重なものと心得ていた。これは賢治がナチュラル・ヒストリーに傾倒し、鉱物や岩石や化石の観察に異常な情熱を燃やし、しだいにコロイド化学の大成に向かっていったことと深い関係がある。賢治の推敲とは、あたかも化学組成の劇的な変則に似て、そのような言葉の微細な構成成分を、次々に代えて、元から変えて、さらには別の視線に替えて見ることだったのである。  

 ≪069≫  第1集に「無声慟哭」という賢治らしい四字熟語の一連の詩が並んでいる。その『永訣の朝』は妹のトシとの永訣を歌った絶唱だが、その最終スタンザは、いまは次のようになっている。 

≪070≫
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが天上のアイスクリームになつて
  おまへとみんなとに聖い資種をもたらすやうに
  わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ  

≪071≫  この4行は最初は2行だった。しかも「天上のアイスクリーム」のところは「どうかこれが兜卒の天の食に変つて」だった。兜卒の天は弥勒兜卒天浄土のことだが、それが「天上」になり、「食」が「アイスクリーム」になった。こういう推敲はいくらでもあった。 

≪072≫  すでに「序」にして賢治自身がこう告白していたのだ。「これらは二十二箇月の・過去とかんづる方角から・紙と鉱質インクをつらね・ここまでたもちつづけられた・かげとひかりのひとくさりづつ・そのとほりの心象スケツチです」と。 

≪073≫  心象スケッチというのは、賢治が「詩」という言葉を嫌って最期までこだわっていた自分の言葉の作品に与えていた用語である。 

≪074≫  こういう“風又”“春修羅”派のぼくにも、やがて賢治を広く渉猟する日々がやってきた。アンデルセンを読んだときもそうであったように、ほとんどの賢治童話を連続して読んだので、ひとつずつの作品というよりも、そのイーハトーブ感覚の“内なる連鎖”に感染したといってよい。 

≪075≫  この連鎖感覚は、けれども世間のイーハトーブ賛歌があまりにかまびすしいので、実はいったん凍結してしまっていた。あまりに美化されすぎた賢治はぼくの好みではなかったのだ。けれども、この連鎖感覚が実は晶洞(ゲオード)のような複雑で屈折的な内部をもっていて、そこに投じられた言葉のハイパートポロジカルな変容過程にこそコロイド賢治がいることに気がついたのは、さっきも書いたように、その後に厖大な異稿を含む筑摩書房の「校本宮沢賢治全集」に出会ったときからだった。 

≪076≫  とくに、ノートやメモの数々を読んで、賢治の発想編集の現場が次々に見えてきたことは、ちょうど『遊』の編集にとりくもうとしているぼくに絶大なヒントを与えてくれた。たとえば、次のようなメモや草稿はかならずその奥でつながっている。 

≪077≫ 

  わがうち秘めし  異事の数 異空間の断片。     

  ぐっしょり寝汗で眼がさめて  鳴いているのはほととぎす

  新月きみがおももちを  月の梢にかかぐれば 
  凍れる泥をうちふみて   さびしく恋ふるこころかな 

  結論。われらに要するものは銀河を包む透明な意志、
  巨きな力と熱である。

  われはダルケを名乗れるものと つめたく最期のわかれを交はし 
  閲覧室の三階より 白き砂をはるかにたどるここちにて その地下室に下り来り   

一.異空間の実在。天と餓鬼。異構成―異単元。 幻想及夢と実在。
  二.菩薩仏並に諸他八界依正の実在。 内省及実行による証明。
  三.心的因果法則の実在。唯有因縁。
  四.新信行の確立。

  この残された推古時代の礎に
  萱穂を二つ飾っておこう 
  それが当分   東洋思想の勝利でもある 

≪078≫  最初のフレーズは「兄妹像手帳」のメモ、二つ目は『春と修羅』の異稿、3つ目と5つ目は文語未定稿から、次が『農民芸術概論』の最後の言葉、、6つ目は口語詩『東の雲ははやくも蜜の色に燃え』の下書き稿からとった。 

≪079≫  最後の引用は『春と修羅』では「盗まれた白菜の根へ・一つ一つ萱穂を挿して・それが日本主義なのか」となっているもの。ここにあげたのはその草稿である。きわめて興味深い訂正が見える。このあたりに、賢治が田中智学にゆらぎながらも、結局は故郷の農村コロイド社会に踏みとどまれた弾力が見えてくる。しかしあとで述べるが、賢治自身はそうは思っていなかった。 

≪080≫  どうも今夜が「千夜千冊」第900夜だということで、ついつい長く書きすぎたようだ。賢治について書きたいことなどいくらでもあるからそれでもいいが、これでは終わらない。では、もう一度、『銀河鉄道の夜』に戻ることにする。 

≪081≫  まずもって、いままで伏せておいた最も大きな問題を指摘しておきたい。3つにわたる。 

 ≪082≫  第1に、『銀河鉄道の夜』は長らく、「五、天気輪の柱」でジョバンニが草むらに寝っ転がって空を見ながら寝入って、その夢の中で銀河鉄道に乗る「六、銀河ステーション」になるのではなく、寝入ったあとに目が覚める場面が続いていた。 それが谷川徹三編の岩波文庫版で賢治の弟の宮沢清六氏の示唆により、「ジョバンニは目をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした」以下の旧版10ページほどを、「九、ジョバンニの切符」の最後の最後にもってきた。これは大きな変更だ。いまではこの構成が定番になっているのだが、どうしてこういうことがおこるかというと、賢治の草稿は、それも第4次の最終稿にも、まったくノンブル(頁付け)がなかったためである。 

≪083≫  第2に、このように大きな構成が変更されたのだが、それでも、たとえば谷川徹三の岩波文庫版と、いま出回っている天沢退二郎編集の新潮文庫版では、細部が異なっている。とくにジョバンニが草むらで寝入るところは、ぼくには新潮文庫のほうがいい。ジョバンニのカムパネルラへの思いが滲み出ている。このあたりは読みくらべてもらうしかない。ようするに『銀河鉄道の夜』は未完成なのだ。 

≪084≫  しかしいったい賢治はどう考えていただろうかというと、これが第3の指摘になるのだが、そもそも賢治の最初の構想では、ジョバンニが銀河鉄道の夢を見るのは、ブルカニロ博士の催眠術のせいだったのである。 

≪085≫  そのため第1次草稿では、ジョバンニは銀河の旅の途中にいくども博士の「セロのような声」を聞く。そのうちカムパネルラが銀河列車から見えなくなると、ブルカニロ博士が「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」の恰好で車内に出現し、不思議な地理と歴史の辞典を示しながら世界を解くというふうになっていた。 

 ≪086≫  ところが賢治は、このブルカニロ博士の登場する場面をすべて削ってしまったのだ。ここでは言及できなかったのだが、ブルカニロ博士とは、30代の賢治が昭和になって「羅須地人協会」による農村文化の再生活動に邁進しようと決意したときの、賢治の胸の中にひそんでいた象徴的人格像なのだろうと思う。賢治はこのころ(つまり『銀河鉄道』の初期稿を書いていたころ)、借財をしてでも「労農芸術学校」を設立しようとさえ考えていた。が、地人協会の活動は挫折する。 

≪087≫  こうして草稿『銀河鉄道』は、しばらくはジョバンニとカムパネルラの会話を中心の天体旅行だけになる。 

≪088≫  けれどもふりかえれば、賢治は最初からジョバンニとカムパネルラの「少年の束の間の葛藤」を香ばしく描きたかったのである。そのため以降は、この二人の描写の重心をちょっとずつ変えていく。そして最後になってジョバンニの日々と劣等感が冒頭に加わって、そのぶんカムパネルラの行方を考えこんだ。 

≪089≫  賢治が最終的にカムパネルラの不慮の死を想定したのは、以上の想像を絶する七転八倒の推敲編集の経緯からみると、考えられるかぎりの最も劇的な“悲劇の一撃”だったということになる。そのとたん、銀河鉄道のすべては世阿弥の橋懸かりのごとく、彼方に連なる蒼茫の鉄路となったのだ。 

 ≪090≫  そして、このような結末に向かった賢治は、この作品を公刊することなく、昭和8年、肺結核を悪化して37歳で死んでいく。日本が満州国を建てて、これに酔いはじめた矢先のことだった。 

≪091≫  さて、こうなると、『銀河鉄道の夜』は、ひょっとして賢治の「天路歴程」であったかと思えてくるし、また法華経に比するなら、これはさながらイーハトーブの「仮城喩品」なのかとも思えてくる。そう思うことも不可能ではない。 

≪092≫  また、多くの識者がすでに言ってきたことだが、賢治はついに「他者」のために生き、「他者」のために死のうとしていたのではないかということも、見えてくる。ここはさまざまな仮説も可能なところであろう。 

≪093≫  が、ぼくはここでほとんど知られていないことを示唆してみたい。それは、ある一通の手紙のなかに語られていた。 賢治は9月21日に、ちょうど風の又三郎が「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎」とガラス戸に音をたて、誰も知らないうちに学校を去っていった日付に、ついに帰らぬ人となるのだが、その10日ほど前に、柳原昌悦宛にこんなふうに手紙を綴っていた。 

≪094≫  なぜ、ここまで賢治が書いたのか、まことに悲痛なものがある。おそらくこれを読んで慟哭しない者は、いるまい。できるだけ静かに、ゆっくり読まれたい。 

≪088≫  けれどもふりかえれば、賢治は最初からジョバンニとカムパネルラの「少年の束の間の葛藤」を香ばしく描きたかったのである。そのため以降は、この二人の描写の重心をちょっとずつ変えていく。そして最後になってジョバンニの日々と劣等感が冒頭に加わって、そのぶんカムパネルラの行方を考えこんだ。 

≪089≫  賢治が最終的にカムパネルラの不慮の死を想定したのは、以上の想像を絶する七転八倒の推敲編集の経緯からみると、考えられるかぎりの最も劇的な“悲劇の一撃”だったということになる。そのとたん、銀河鉄道のすべては世阿弥の橋懸かりのごとく、彼方に連なる蒼茫の鉄路となったのだ。 

 ≪090≫  そして、このような結末に向かった賢治は、この作品を公刊することなく、昭和8年、肺結核を悪化して37歳で死んでいく。日本が満州国を建てて、これに酔いはじめた矢先のことだった。 

≪091≫  さて、こうなると、『銀河鉄道の夜』は、ひょっとして賢治の「天路歴程」であったかと思えてくるし、また法華経に比するなら、これはさながらイーハトーブの「仮城喩品」なのかとも思えてくる。そう思うことも不可能ではない。 

≪092≫  また、多くの識者がすでに言ってきたことだが、賢治はついに「他者」のために生き、「他者」のために死のうとしていたのではないかということも、見えてくる。ここはさまざまな仮説も可能なところであろう。 

≪093≫  が、ぼくはここでほとんど知られていないことを示唆してみたい。それは、ある一通の手紙のなかに語られていた。 賢治は9月21日に、ちょうど風の又三郎が「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎」とガラス戸に音をたて、誰も知らないうちに学校を去っていった日付に、ついに帰らぬ人となるのだが、その10日ほど前に、柳原昌悦宛にこんなふうに手紙を綴っていた。 

≪094≫  なぜ、ここまで賢治が書いたのか、まことに悲痛なものがある。おそらくこれを読んで慟哭しない者は、いるまい。できるだけ静かに、ゆっくり読まれたい。 

≪095≫  あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが、それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。 

≪096≫  私のかういふやうな惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します。 

≪097≫  僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが、何か自分のからだについたものででもあるかと思ひ、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して、却って完全な生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、従って師友を失ひ憂鬱病を得るといったやうな順序です。 

 ≪098≫  これが宮沢賢治の最期の言葉なのである。壮烈に懴悔を超えて、すべての表現者や活動者に突き刺さる。とりわけ、「慢といふうものの一支流に誤って身を加へたことに原因します」は、痛いほどに強い響きを放っている。 

≪099≫  「千夜千冊」第900夜。ぼくは宮沢賢治を世の幻想のままに放置しないためにも、拙いながらも以上のごとくに書いてみた。 言いたいことはまだまだあるけれど、一言でいうなら、宮沢賢治とは精神の極北における“編集化学の原郷”ともいうべきを、言葉のコンステレーションで示し続けようとした人だった。 けれども、その極北の編集化学の渦中に入って賢治を語るには、われわれはまだわれわれ自身の「慢心」にすら気づいていない。困ったことである。 すでに2番まで紹介した『精神歌』の4番は、次のような意味深長な歌詞になっている。こうなったらもはや、いつか気心の知れた面々と花巻・岩木あたりをめぐりたいと思うばかりになっている。ぼくだけでは賢治は語れない。道を踏むには一緒が、いい。  

≪100≫
   日は君臨し 輝きの
   太陽系は真昼なり
   険(けわ)しき旅の なかにして
   われらは光の道を踏む 

≪01≫ ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。 

≪02≫ 長明が遁世の方丈に求めたことは、ただ「閑居の気味」というこのひとつのこと、生と死を重ね結ぶことだけである。閑居して、その気味を感じてみたい。縮めればそれだけのことである。長明はそのことを実現して、やっと「空蟬の世をかなしむ」ことができた。そうすれば「観念の便り、なきにしもあらず」であった。 

≪03≫  古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。 

≪04≫  時代の転形期を読み切るのは容易ではない。肌で感じるのはもっと困難だ。まして予想もつかぬ地異や変動が次々におこった転形期にいあわせて、そのめまぐるしい動向の渦中で激しく揺動する天秤を、目を泳がせずにひたすら凝視するにはずいぶんの魂胆がいる。長明にその魂胆があったとしたら(あまりなかったとはおもうが)、それは長明が失意の人であって、典型的な挫折者であったからだ。内田魯庵のいう理想負け、山口昌男のいう敗け組だったからだ。 

≪05≫  知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。 

≪06≫  鴨長明は後白河がまだ天皇だった在位期に生まれた。死んだのは61歳で後鳥羽院の時代である。その半世紀のあいだ、日本史上でも特筆すべき大きな変化がつづいた。武家が登場し、その代表の清盛がまたたくまに貴族社会を席巻して新たな「武者の世」を準備したのもつかのま、その武家を大きく二分する源平の争乱が列島各地を次々に走った。 

≪07≫  予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やや度々になりぬ。 

≪08≫  源平の争乱は鎌倉殿によって仕切られ、それで収まるかとおもえば、初めて東国に幕府を構えた頼朝政権はわずか3代で潰えた。まさに「世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず」。平家があっというまに滅亡し、そして源氏がすぐさま政権からずり落ちたのである。見れば、「むかしありし家はまれなり」「古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり」なのだ。 

≪09≫  そのなかで法然や親鸞が、栄西や道元が、明恵や重源が新しい価値観を求めて立ち上がっていった。文芸史上では、俊成・定家の親子が和歌の世界を仕切って、いわゆる新古今時代をつくった。のちに本居宣長が言っていることだが、このとき日本語がはっきりと姿をあらわした。けれども民衆は悲惨だった。戦乱と災害と飢饉で苦しんだ。 

≪08≫  源平の争乱は鎌倉殿によって仕切られ、それで収まるかとおもえば、初めて東国に幕府を構えた頼朝政権はわずか3代で潰えた。まさに「世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず」。平家があっというまに滅亡し、そして源氏がすぐさま政権からずり落ちたのである。見れば、「むかしありし家はまれなり」「古見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり」なのだ。 

≪09≫  そのなかで法然や親鸞が、栄西や道元が、明恵や重源が新しい価値観を求めて立ち上がっていった。文芸史上では、俊成・定家の親子が和歌の世界を仕切って、いわゆる新古今時代をつくった。のちに本居宣長が言っていることだが、このとき日本語がはっきりと姿をあらわした。けれども民衆は悲惨だった。戦乱と災害と飢饉で苦しんだ。 



≪010≫  世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。 

≪011≫  長明はこういう転形期に人生を送ったのである。その半世紀におこったことは列島一国の中だけの激動ではあるものの、この国の最も大きな価値観の転倒をもたらした。最近の現代の事情とくらべるわけにはいかないが、あえて比較をすればソ連の崩壊やユーゴの解体などにあたる体験だったろう。 

≪012≫  が、その長明も、『方丈記』を綴る晩年にいたるまではただただ目を泳がせていた。目を泳がせていたからこそ、最後の出家遁世の目が極まったともいえた。 


≪013≫  すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし。いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげて計ふべからず。 

≪014≫  長明は賀茂御祖神社の禰宜の次男に生まれている。いまの下鴨神社である。ぼくも子供時代によく遊んだ糺の森が長明の実家のあったところだ。前半生はよくわかっていないのだが、清盛の子の徳子が入内したころ、父を失った。18歳あたりのことだったろう。長明はそういう喪失の境涯のみずからを「みなし児」とよんだ。 

≪015≫  その「みなし児」が父を継ぎ、禰宜になれれば、われわれの知る長明はいなかった。ところが、欠員が生じたにもかかわらず長明は禰宜に推されずじまいとなり、見かねた後白河院が鴨の氏社を昇格させてそこを担当させようとはからったのだが、長明は拗ねて行方をくらました。家職を継ぐことが長明の安定だったのに、それがかなわぬことを知ったとき、そこにわれわれの知る長明が誕生するのである。 



≪016≫  わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む。その後縁欠けて身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむることをえず。三十あまりにして、さらにわが心と一つの庵を結ぶ。 

≪023≫  長明はもともとの気質が数寄者なのだろうと思う。琵琶は中原有安について、けっこう腕自慢であった。和歌は俊恵に教わった。二人とも当代のトップクラスのインストラクターだ。とくに琵琶についてはよほどの自信があったとみえる。 

≪024≫  隆円法師の『文机談』によると、長明が秘曲の伝授を受けきらぬうちに師の有安が死んだ。そこで長明は絃楽の名人達人を集めてサロンを催し、みずから秘曲《啄木》を弾いた。参加者たちは「知らぬ国に来たりぬ心地」がしたという。そのことが楽所預の藤原孝道に伝わり、後鳥羽院に上奏された。「啄木を広座にほどこす事、未だ先例を知らず」という、長明にとっては予期せぬ非難が返ってきた。いたずらに芸道の伝統を乱したというのであった。 

≪019≫  この気取りは功を奏した。46歳で後鳥羽院の北面に召され、おりから建仁元年(1201)に設けられた和歌所の寄人となった。このときは首尾よく宮廷歌人33人の1人に入った。けれども、定家の『明月記』を見るかぎり、長明の歌は定家によって無視しつづけられた。長明はかくて歌人としての名声は得られなかったのである。 

≪025≫  きっと長明はいったん興じたら図に乗る性向をもっていた。啄木事件はそのことをあらわしている。数寄をかこつのに、その態度に度がすぎた。数寄とはどこか度がすぎることこそが本質なのだが、それが周囲の目を曇らせたのだ。長明はついてなかったのだ。歌人としての道もいまひとつ、まして禰宜への道もおもわしくない。 

≪026≫  そこで、そのような「無制限な数寄」の気分をさらに梳いて漉いて自身を「極小の数寄」となし、徹して捨てるべきものを捨てようとしたのが大原への幽隠であり、その5年後の日野への隠遁だったのである。だから、『方丈記』は長明の「最後の出発」と「最初の凝視」を表現したものとならなければすまなかったはずである。また、そのように『方丈記』を読むことがわれわれの身心を注意深くする。 

 ≪027≫  それ、三界はただ心一つなり。心もしやすからずは、象馬、七珍もよしなく、宮殿、楼閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。 

≪028≫  日本の文芸史上、『方丈記』ほど極端に短くて、かつ有名な文芸はない。目で追いながら読むには30分もかからない。声を出しても、せいぜい2時間くらいであろう。 

≪029≫  しかし、その「言語としての方丈記」には凝結の気配が漲っている。省略の極北があらわれている。それゆえ『方丈記』がつくった文体ほどその後の日本で流行した文体もない。それは、漢文の調子そのままを和文に巧みに移した和漢をまたぐ名文であり、それ以前の何人も試みなかった文体だった。 

≪030≫  長明は、この文体によって、初めて歌人であることと神官であろうとすることを離れたのである。けれどもそのためには、もうひとつ離れるべきことがあった。「世」というものを捨てる必要があったのだ。「閑居の気味」に近づく必要があった。それが長明の「数寄の遁世」の本来というものだった。 




≪031≫  そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。 

≪01≫  廃棄の中で鉄を盗み、鉄を食らって、保守反動国家に刃向かう。そんな連中が出没して、日本中が大騒動になった。そんなことを仕出かしたのは戦後の大阪にいっとき出現したアパッチ族だ。小松左京がその奇想天外な顛末を描いた。 

≪02≫  『日本アパッチ族』は昭和SF史の黎明期を飾った破天荒な傑作で、昭和39年(1964)の東京オリンピックの年にカッパ・ノベルスとして発表された。早稲田に入ってまもなくのころ、まわりの学生たちがざわついていたので、すぐ読んだ。カッパの本は活字も読みやすく、ハンディなのに盛りだくさんで、えらく興奮した。 

≪03≫  貧窮に喘いで屑鉄を盗む大阪のアパッチ族たちが鉄を食い、奇妙な連帯にめざめ、ついには国家に刃向かって殲滅していくという「そんな、アホな」という物語だ。なにもかもが法外で、異常なのである。のちに述べるように、ごく一部は事実にもとづいている話なのだけれど、ほぼ小松左京の想像力と妄想が生み出した展開と顛末になっている。その妄想がタダモノではない。アパッチ族が鉄人と化してしまう。「大阪はやるやんけ」と思った。たちまちオリンピック・ムードや新幹線開通など、吹っ飛んだ。 

≪04≫  いまはシャレたOBP(大阪ビジネスパーク)という名の「緑なすビル街」になっている一画は、かつては36万坪の陸軍砲兵工廠(大阪造兵廠)というアジア最大の巨大な兵器工場だった。 

≪05≫  明治3年に小屋掛けで発足し、少しずつ拡張されて、昭和の戦争期になると大日本帝国軍にとって最も重要な兵器や部品を製造する兵器工場になった。敷地もどんどん広がって、大阪城と猫間川(運河)に挟まれた杉山町にあたる区域を占めた。盛時は7万人近い就労者が勤務し、日本の命運を担う軍人たちが出入りしていた。 

≪06≫  その大阪造兵廠が1945年8月14日、アメリカ軍B29の徹底空襲と大量の焼夷弾によって焼き尽くされた。原爆投下の直後、ポツダム宣言受諾の前日である。 

≪07≫  これで、あたり一面が荒涼たる広大な廃墟となった。その後、工廠跡はGHQによって賠償指定物件となって使用可能な兵器や資材は搬出され、1952年には国有管理地区となったのだが、それでも約3万台にのぼる機械や機材が荒れるままに放置された。 

≪08≫  この「鉄の廃墟」に目を付けたのが、猫間川対岸のバラック小屋に住みつくようになった約800人ほどの朝鮮人中心の通称「アパッチ」だ。かれらは夜陰に乗じて廃墟の中に忍び込み、鉄機器の解体を試みて鉄屑を漁り、これを次々に売り飛ばしていった。朝鮮戦争の直後とあって、1トンあたり3万円から10万円で買い取られた。杉山鉱山と呼ばれた。 

≪09≫  不法行為だから、当然、警察が取り締まるのだが、イタチごっこが続く。それが実際にどんな事情だったかは、開高健の『日本三文オペラ』(新潮文庫)にも詳しい。「アパッチ」は約8カ月で掃討されたのだ。しかし、小松はこの経緯にもとづきながらも、そこにとんでもない妄想を加えていったのである。 

≪010≫  時代は1960年代の途中、日本国憲法に対する反動がすすみ、とんでもない政策が制度化されている「別社会」になっている。そういう舞台設定にした。SF手法でいえばパラレルワールドである。この手法は1934年のマレイ・ラインスターの『時の脇道』のアイディアに端を発していた。 

≪011≫  その別社会では「労働の権利」に対して「労働の義務」が浮上し、死刑を廃止したかわりに「追放」が制定されている。圧政日本なのである。 

≪012≫  語り手を兼ねた主人公はキィ公(本田福一)だ。失業罪によって追放刑に申し渡されたというふうに仕立てた。その追放地が工廠跡だった。B門から放り込まれた。キィ公は迷路のような廃墟で、どでかい壊れた鉄器、赤茶けた錆に覆われた鉄製部品に出会う。不気味な静寂だ。 

≪013≫  ただ容易ならざる気配がある。どうも先住者がいるらしい。やがて、それがアパッチだということがわかった。キィ公も追放者だが、アパッチたちもどうやら「無籍者」(無国籍者)なのである。小松はアパッチを「棄民の群」に見立てたのだ。 

≪014≫  次に、ここからが一気に荒唐無稽になるのだが、アパッチを「鉄を食うことにめざめた一群」にした。アパッチの何人かが飢えを凌ぐために細かい鉄屑を炙って醤油やソースをかけて食べてみたら、元気が出てきたからだ。ついではガソリンや塩酸を飲料にした。そんなアパッチたちのリーダーは二毛次郎(にもう・じろう)という男で、酋長呼ばわりわされている。ジェロニモ(次郎・二毛)のモジリである。 

≪015≫  この酋長のもと、アパッチたちの皮膚は鋼鉄化し、臓器は銅化して、だんだん「鉄人」になっていった。 

≪016≫  アパッチたちが鉄を盗み、鉄屑を売って生計をたてようとするのは事実通り、またそういう鉄泥棒を官憲が執拗に取り締まって逮捕をめざしたのも事実通りなのだが、小松左京はその官憲とのイタチごっこの闘いが、やがて国家に対する無謀な反権力闘争や革命闘争にエスカレートするように仕向けた。 

≪017≫  アパッチの群は大阪の一角から日本全国に広がって「鉄を食いまくる日本アパッチ族」になっていったのである。そのため鉄を“産業の米”とする産業界が支障をきたし、ついに政府は軍隊で鉄人たちを潰すしかなくなった。アパッチ族も反撃する。兵器を次々に齧って使用不能にしていくのだ。かくて全面戦争になる。 

≪018≫  それでどんな結末に向かっていったかということはネタバレになるのでさすがに伏せておくが、ともかくも一事が万事、左京ワールド全開なのである。 

≪019≫  ディストピア小説といえば、そうであろうし、ユートピア小説だといえば、そうだろう。ただし、どっちにしてもかなり荒唐無稽だ。  

≪020≫  棄民小説でもある。棄民小説はヨーロッパ文芸には多かったが、日本には島崎藤村(196夜)や北条民雄などの試みがあったとはいえ、ほとんど正面からはとりあげてこなかったテーマで、それもどちらかといえば『山椒太夫』型あるいは『破戒』型の、悲しさや差別感が立つものが多かった。棄民がやることが「おもろいもの」だったり、棄民たちが結束して反逆を企てる話はめずらしい。 

≪021≫  だからこの話は、アンドロイド蜂起の話、ロボット反逆の物語、あるいは超人小説でもある。なにしろアパッチたちは1日平均6キロの鉄と平均0・5リットルのガソリンを飲む。強靭にならないはずがない。けれどもそれで何かを破壊したり助けたいというわけではない。やむなくそうなっただけなのだ。そこには設計者もいないし、操作をしている者もいない。そこが左京的なのだ。鉄を食べて鉄化していくという発想は、のちのち塚本晋也の映画『鉄男』(1989)の原型になる。 

≪022≫  ついつい時代社会や国家権力に刃向かうようになるところは、半村良(989夜)の『戦国自衛隊』のようでもあり(映画は斎藤光正)、本宮ひろ志(659夜)のマンガ『男一匹ガキ大将』のようでもあるが、ただし『日本アパッチ族』には伊庭義明や戸川万吉にあたる英雄がいない。 

≪023≫  ジェロニモはただのおっさんで、牢名主にすぎない。ヒーローはすべてのアパッチ、みんなが「鉄食い」なのだ。主人公は反体制の「みんな」なのである。 

≪024≫  或る一画に共同体のようなものが出現したという点では、井上ひさし(975夜)の『吉里吉里人』のようだが、それともちがっている。日本アパッチ族は独立もしないし、共通言語もつくらない。コテコテの大阪弁を喋るだけなのだ。だからコミューン小説ではないし、アナーキーでもない。どだい、文化がない。ひたすら痛快無比な反乱小説なのだ。 

≪025≫  なんとも奇っ怪な小説を書いたものだ。いまなおこの話に匹敵するSFがない。先行していたのは1959年に発表された開高健の『日本三文オペラ』(新潮文庫)だった。 

≪026≫  ルンペンのフクスケがスカウトされてアパッチ部落を訪れるという設定で、その泥棒力、その朝鮮人部落性、その暮らしぶり、錆びた鉄の色やモツ焼きの匂い、擬似共同体としての活力のある生態、そういうものがテンポのよい群像劇として描かれ、哀愁を漂わせていた。しかし開高は妄想を加えなかった。 

≪027≫  ずっとのちの1994年に、梁石日(ヤン・ソギル 129夜)も『夜を賭けて』(幻冬舎文庫)でアパッチ族の実態を素材にした小説を書いた。こちらは本人が在日朝鮮人のアパッチ族として「あの現場」に実際にいたという決定的な経験にもとづいたもので、説得力があった。梁石日も参加していた同人誌「チンダレ」の金時鐘(キム・シジョン)の証言も反映されている。しかし小松は、こうした朝鮮人差別のことはほとんどふれなかった。 

≪028≫  大阪砲兵工廠がどういうところであったのかは、1999年に刊行された河村直哉の『地中の廃墟から――大阪砲兵工廠に見る日本人の20世紀』(作品社)が詳しい。大口径の大砲を量産していたようだ。初期は丸米蔵地(現大阪城ホール、太陽の広場など)だけだったのが、玉造口定番下屋敷跡(記念樹の森、市民の森)、京橋口(現OBP)などに拡張され、ピーク時の工員数は7万人前後、出入り業者や関係者はなんと20万人を超えたらしい。B29の空襲以降、ここが放置されたのは不発弾があるせいだ。 

≪029≫  では、このあとは小松左京本人のことについて話しておきたい。小松は生い立ち、関心事、作話才能、おもしろ主義、未来感覚、博識、世話好き、プロデューサー気質、技術過信、いずれも群を抜いて破格だった。 

≪030≫  オヤジさんが金属加工の町工場をおこし、4歳から西宮で育った(途中、尼崎にもいた)。昭和6年(1931)の生まれ。兄貴はオヤジの影響で京大の冶金工学を出て三洋電機のエンジニアになった科学技術屋気質だったので、弟には「科学の目と手」を仕込んだようだ。 

≪031≫  仕込まれたけれど、左京少年は映画や本やマンガや芸能(歌舞伎や文楽も)やお笑いのほうがずっと好きで、第一神戸中学時代は「うかれ」という徒名(あだな)をつけられていた。陽動派で、つまりはかなりの「いちびり」だったのである。 

≪032≫  その一方、戦時中だったので、当然ながらずっと戦争のことが気になっていた。少年は自分がいつ軍隊に入ってどこの戦場に行くのか、それが気掛かりで、実際には14歳のときに原爆が落ちて敗戦になったけれど、きっと自分も戦いに参加するのだと思っていたようだ。 

≪033≫  だから戦後しばらくは、沖縄で自分と同じ中学生が銃をとって死に、近い年齢の者たちが特攻隊になって散華していったことを知ってショックをうけた。それがトラウマにもなった。2008年の『小松左京自伝:実存をもとめて』(日本経済新聞出版社)がそのへんのことを証している。 

≪034≫  昭和23年に三高に入学、続いて学制改革で京大に入りなおし、イタリア文学科を選んだ。ダンテ(913夜)の『神曲』にえらく感動したためだ。  

≪035≫  在学中は日本共産党に入党すると京大作家集団に参加して、高橋和巳や三浦浩と交流し、そのころデビューしたての安部公房(534夜)を愛読した。共産党入党は戦争反対の意志のためだったらしく、ソ連の原爆開発に反対できない党の姿勢に疑問をもち、やがて離党する。卒論はイタリアの戯曲家ルイジ・ピランデルロ。狂気と正常を鏡の背面から取り出すような画期的な手法を開拓した作家だ。 

≪031≫  仕込まれたけれど、左京少年は映画や本やマンガや芸能(歌舞伎や文楽も)やお笑いのほうがずっと好きで、第一神戸中学時代は「うかれ」という徒名(あだな)をつけられていた。陽動派で、つまりはかなりの「いちびり」だったのである。 

≪036≫  昭和34年(1959)、早川書房が福島正実の編集による「SFマガジン」を創刊した。小松はすぐにロバート・シェクリィの『危険の報酬』(創元SF文庫「SFベスト・オブ・ザ・ベスト」所収)に衝撃をうけ、自分もSFを書こうと思い、第1回空想科学小説コンテストに応募した。 

≪037≫  2、3作書いたあたりで、福島がめざとく注目した。さすが福島だ。昭和37年(1962)、「SFマガジン」にデビューした。『易仙遊里記』である。これで一気にSF作家の仲間入りをはたすと、昭和38年には日本SF作家クラブの創設に参加し、『紙か髪か』『地には平和を』などを書いたのち、処女長編『日本アパッチ族』がカッパ・ブックスで大当たりした。 

≪038≫  『日本アパッチ族』の評判は予想以上にすごかった。梅棹忠夫(1628夜)が小松のことをおもしろがって自宅の梅棹サロンに引っぱりこんだ。「いちびりの左京」の才能がむくむくあらわれていった。おもろい左京、八面六臂の左京の登場だ。 

≪039≫  ラジオの「題名のない番組」「ゴールデンリクエスト」などで愉快なトークを発揮し、ベ平連の呼びかけ人になり、折からの大阪万博の準備会に加わり、日本未来学会の創設に力を入れたりした。いずれも梅棹人脈の発展だったろう。いっとき川添登、加藤秀俊、川喜田二郎、小松の4人が「KKKK団」を名のったこともあった。 

≪040≫  1970年、昭和45年、大阪万博は延べ6400万人の入場者となって大成功となった。小松は全体のサブテーマ委員で、太陽の塔の内部展示を石毛直道らとともに仕切った。同じ年に「国際SFシンポジウム」の開催にこぎつけて、アーサー・クラーク(428夜)、ブライアン・オールディス(538夜)、ジュデイス・メリルらを招いた。こうした出来事については『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』(新潮文庫)などに顛末を書いている。 

≪041≫  日本SF作家クラブの創設(1963)には最初から参加して、80年代には星新一・矢野徹につぐ3代目の会長に就任した。徳間書店をスポンサーにして日本SF大賞も創設した。 

≪042≫  ここまででわかるように、小松の発想製造元はすべからく「大阪」なのである。早口で大阪弁を喋り、関西文化人と徒党を組み、大阪のことなら何でも「うかれ」と「いちびり」で力を貸した。 

≪043≫  万博を皮切りに、全5回の「大阪咲かそ」のプロデューサーを務め、1990年の「花博」(花と緑の博覧会)では泉真也・磯崎新とともに総合プロデューサーになった。1977年から5年間は、大阪フィルハーモニー交響楽団の「大フイルまつり」の企画構成を引き受けた。「関西で歌舞伎を育てる会」の代表世話人は20年に及んだ。 

≪044≫  大阪バンザイである。この「大阪」は梅棹忠夫、京大人文研、ABC朝日放送、京都信用金庫、川添登、そして小松左京がおもしろくさせたものだった。それが開高健、藤本義一、筒井康隆、サントリー、桂米朝(1693夜)、タカラヅカ、松竹新喜劇、田辺聖子、花登筐、阪急文化、松下幸之助、富岡多恵子、阪神タイガース、吉本興業などの「やったるで」の発想や表現とあいまって、大阪文化史上最高密の複合起爆装置となった。そういうご時世だった。 

≪045≫  小松は「未来」派でもあった。「技術」大好き派でもあった。SF作家とすれば当然かもしれないが、実はそうではない。多くの作家はそれほど未来に楽天的ではないし、技術を過信していない。ところが小松は「未来に及ぶこと」「技術を導入すること」に目がない。未来学会に献身したのもそのひとつだが、電化製品にも目がなかった。日本では電卓が昭和39年(1964)に登場するのだが、すぐに使いまくった。当時、13万円の電卓だ。ワープロも東芝がJW10を発売した直後にすぐさま導入した。630万円した。 

≪046≫  こうした未来好き、技術好きは高度成長期の日本にはぴったりだったのだが、そういう小松がちゃんと評価されてきたかというと、小松本人が嘆いていたのだが、そうでもなかったのである。とくに作家としての評価が低かった。 

≪047≫  たしかに小松のSF作品はどれもが傑作とは言い難い。長編では『復活の日』(1964年書きおろし)、『果てしなき流れの果に』(1965年から「SFマガジン」連載)、『日本沈没』(1973年書きおろし)、『さよならジュピター』(1980年から「週刊サンケイ」連載)、『虚無回廊』(1985年から「SFアドベンチャー」連載)など、話題作を次々に発表した小松なのだが、ぼくにも『日本アパッチ族』が強烈すぎて、あとのものがやや萎むのだ。 

≪048≫  それでも10年ほど前に読みなおしてみて、見方を変えた。なかで『果てしなき流れの果』と『虚無回廊』がよかった。 

≪044≫  大阪バンザイである。この「大阪」は梅棹忠夫、京大人文研、ABC朝日放送、京都信用金庫、川添登、そして小松左京がおもしろくさせたものだった。それが開高健、藤本義一、筒井康隆、サントリー、桂米朝(1693夜)、タカラヅカ、松竹新喜劇、田辺聖子、花登筐、阪急文化、松下幸之助、富岡多恵子、阪神タイガース、吉本興業などの「やったるで」の発想や表現とあいまって、大阪文化史上最高密の複合起爆装置となった。そういうご時世だった。 

≪049≫  『果てしなき流れの果』は、葛城山の中生代の地層から砂時計が発見され、その砂時計が奇妙なことに砂がずっと流れ続けているという謎から始まる。理論物理学研究所の助手の野々村と番匠谷教授がこの謎に挑むのだが、やがて関係者が行方不明になったり、意識に変調をきたす。「クロニアム」というキーワードが浮上するものの、手掛かりが掴めない。たちまち時空が何億年ものスパンでめくるめいて、登場人物たちに絡むのである。大原まり子が「ワイドスクリーン・バロック」と名付けたけれど、まさに広域時空バロックだ。 

≪050≫  『虚無回廊』は、地球から5・8光年の宇宙空間に出現したバカでかい円筒体SS(長さが2光年)の正体をめぐる話である。超AIを研究する遠藤秀夫が、AI(人工知能)ならぬAE(人工実存)を開発した。第1号AEには遠藤の人格がインストールされた。このAEをSSに送りこんでみたところ、そこに複数の地球外知的生命体VPが活動していたという話になっていく。 

≪051≫  VPとはヴァーチャル・パーソナリティのことをいう。終盤、話の展開を失って小松が焦るのが見えてくるが、途中まではスタニスラム・レム(1204夜)やフィリップ・K・ディック(883夜)を超えたいという執念が結実していたのだろうか、かなり読ませた。 

≪053≫  『地には平和を』は太平洋戦争が終結しなかったらという話、『戦争はなかった』は太平洋戦争の記憶を喪失した男の話、『霧が晴れた時』は空襲で焼け出された少年が世話になった屋敷で見聞する驚くべき顛末の話、『召集令状』は人間蒸発とかつての召集令状が関係あったという話。これらには特攻隊になれなかった少年期が生きている。 

≪052≫  長編にくらべると、短編にはドキッとさせるものが多い。小松は「歴史解釈には“もしも”を入れるべきである」という主張の持ち主なのだが、その「もしも」がドキッとさせる。 

≪054≫  短編ホラーもいい。『骨』は庭を掘っていたら骨が出てきたのだが、さらに掘るとだんだん新しい骨が埋まっていたという地層の話、『くだんのはは』は開かずの部屋のヴァージョンで、その部屋には怪物の「件」(くだん)がいたという話、『すぐそこ』は静かなのに逃げ場のない場面に主人公がどうしても出会ってしまうという話だ。 

≪055≫  日本ものでは、家族に内緒で数寄三昧の別業をつくる男を描いた『宗国屋敷』、戦国の大坂にあった秘密の抜け穴を追った『大坂の穴』、浮世絵をヴァーチャル=リアルに探検する『ホクサイの世界』などが、愉しめた。そのほか、ファンタジーとしては『星碁』が、コメディとしては披露宴で酒を飲みすぎた男が初夜で勃たなくなる『異次元結婚』などがおもしろい。 最近、角川文庫が「小松左京短編集」を東浩紀や大森望にセレクションさせているが、ぜひ、読まれるといい。 

≪056≫  ところで短編の『アメリカの壁』(文春文庫)について、丸谷才一(9夜)と木村尚三郎と山崎正和が鼎談をしているものがあって、これが案外に興味深かった。 

≪057≫  話は、アメリカと日本をのべつ往復している男が、アメリカでの仕事をすませて帰国しようとしていたら、知日派の友人が「アメリカに定住しないか」と言う。ハハハと笑って飛行場に行くと国際線が次々にストップしている。国際電話も通じない。やがて原因がアメリカの周囲に「霧の壁」が生じたせいだとわかる。だから電波のコミュニケーションもできない。アメリカが孤立してしまったのだ。 

≪058≫  気象異変だと思われたのだが、そのうちこれが政治家・軍部・産業界・文化的知識人たちの陰謀だったことがわかる。アメリカが極度のモンロー主義を強行したのである。アメリカさえよければ、外の世界はどうなってもいいという政策の実現だった。そこで、この男と何人かの“外人”が超音速ジェット機を使って、不幸なる外の世界に飛び出して行く。そういう話だ。 

≪059≫  これを山崎は小松の日本的な抒情性によるものだと見る。ドライになりきれない。そこがいいと言う。丸谷はその抒情性が本格的じゃないからSFに逃げたと言う。だから小松作品はどれも「あらすじ」ばかりになっていると批評する。そこは中村真一郎もそうなのだが、日本の知的な作家がよくそうなる。中村の推理小説は長編の「あらすじ」で、アタマがどんどん先にいくので詳細が書けなくなっているのではないかとも指摘する。 

≪060≫  木村は、『アメリカの壁』はよく書けている。アメリカはアメリカで、ヨーロッパはヨーロッパで、日本は日本でやれようという気持ちがうまく出ている。そういう極端なモンロー主義からアメリカの擬似的な善良性と日本人の狼狽を描いていて、いいんじゃないかと発言する。それで山崎が、そうした見方は小松の日本的抒情力だというのだ。三人の知識人が小松左京をどう見ているのか、よく伝わってきた。小松一人がトランプの登場を予告できていたのである。 

≪061≫  小松作品についての見方は、おそらくこれからやっと本格化するのではないかと思う。すでに巽孝之が『SFへの遺言』(光文社)や『日本SF論争史』(勁草書房)で、長山靖生が『日本SF精神史』(河出ブックス)で大きな視点を投げかけて、さまざまな見方を披露してきたが、最近では東浩紀のゲンロン・カフェなども小松再評価の狼煙を上げている。 

≪062≫  片山杜秀の『見果てぬ日本』(新潮社)なども出色だった。やはり小松は日本人コマツサキョウあるいは大阪人コマツサキョウとして議論したほうがいいようにも思う。 

≪063≫  ちなみに「酔生夢死浪人日記」というブログが、小松左京の作品の際立つ特徴を、「極大と極小のつながり」「管理と本能の衝突」「環境からの逆襲」においていたが、当たっている。「管理と本能の衝突」というテーマから新たな小松に関する議論が広がっていくようにも思える。 

≪064≫  小松の日常やクセや考え方については、長らく秘書やマネジャーを務めていた乙部順子の『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』(産経新聞出版)が涙ぐましい。昭和の大きな知性がどういうものかを見たと書いている。とくに「未来をあきらめない」ということを何度も強調していた。 

≪065≫ 小松左京、2011年7月26日、肺炎で亡くなった。
80歳だ。猛然たるヘビースモーカーだった。
ぼくにはそこがなによりの同志なのである。
左京というペンネームは「左がかった京大生」からきているらしいが、左京というより「未京」というのがふさわしい。 

≪01≫  それが「日本思想史における問答体の系譜」「歴史意識の古層」で、俄然、光と闇の綾が眩しくなってくる。「問答体」のほうは、最澄『決権実論』と空海『三教指帰』を劈頭において、日本思想にとって「決疑」とは疑問に応えることだったという視軸にそって、夢窓疎石の『夢中問答集』、ハビアン不干斎の『妙貞問答』などにふれつつ、最終的には中江兆民の『三酔人経綸問答』にこの方法が近代的に結実していたことをあきらかにしたものである。丸山が方法に異様な関心をもっていたことがよく見てとれた。

≪02≫  しかし、もっと炎のようにめらめらと方法のセンサーが動いているのは論文「歴史意識の古層」のほうである。一九七二年の執筆だがその後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しい丸山思想を反映したものになっている。 

≪03≫  ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきほひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。 

≪04≫  世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。これらは一連の神々の動作のように見える。 

≪05≫  しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。生成とはそのことだ。 

≪06≫  これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。そこには自律性がある。現代思想ふうにいえばヴァレラやマトゥラーナのオートポイエーシス(自律的生成)がある。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。 

≪07≫  本居宣長が注目したのも「なる」である。『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には三つの意味があるとした。 

≪08≫  (1)「無かりしものの生り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born) 

≪09≫  (2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed) 

≪010≫  (3)「作す事の成り終る」(be completed) 

≪011≫  なかでも、「生る」(なる)をあえて「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。「なる」と「ある」とが一緒になるなんて、ヨーロッパ哲学ではまずありえない。 

≪012≫  丸山はめずらしくこれらの語彙語根を追っていた。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世には、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的な推移の説明にも積極的に使われて、そのような言葉の使いかたそのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。 

≪013≫  このように宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。それは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”などというものではないけれど、しかしそれにも近い思想心情のようなものだった。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を方法のセンサーで追いかけている。 

≪014≫  そのことは、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。 

≪015≫  そこで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が、中世近世では「いきほひ」(勢)にまで及ぶことをつきとめる。しかも「いきほひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきほひ」を見たものが「徳」をもつのである。 

≪016≫  これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福澤=丸山の立場からすると、かなり意外な展開であったとおもう。 

≪017≫  儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきほひ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきほひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはなかなか深いセンサーだった。 

≪018≫  こうして丸山は意を決したかのように、「イツ」(稜威)という言葉あるいは観念あるいは根本的な面影がそもそもは過去のどこかに胚胎していたのであろうことまで、降りていったのである。 

≪019≫  イツは、ぼくが第四八三夜の山本健吉『いのちとかたち』において、やや控えめにではあったが、しかしできるだけ象徴的に持ち出しておいた、日本にとってすこぶる重要な概念である。 

≪020≫  日本および日本人の根底にひそむであろう潜在的威力のようなもの、とはいえその正体が容易には明示できないもの、それがイツである。明示はできないけれど、イツは伝播した。 

≪021≫  たとえばスサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということ、それがイツである。そこではしばしば「伊都幣の緒結び」がある。日本の面影の奥でうごめく威力のようなもの、それがイツだ。 

≪022≫  論文を読むかぎり、丸山がイツを正確に捕捉しているとは思えない。しかしながら、イツこそが日本の歴史の古層に眠る独自の面影をめぐる観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきほひ」は大過去におけるイツの発生によって約束されていたわけなのだ。それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかと、丸山がそこまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。 

≪023≫  のちに丸山は、日本のどこかにこのような「つぎつぎ・に・なりゆく・いきほひ」を喚起する歴史の古層があることを、いささか恥ずかしそうにバッソ・オスティナート(持続低音)というふうにも呼ぶことになる。 

≪024≫  また、このバッソ・オスティナートを歴史的相対主義の金科玉条にしたり、歴史の担い手たちのオプティミズムの旗印にしたりするようでは、この古層がつねに復古主義や国粋主義と見まちがわれて、とうてい正当な歴史観になることが難しくなるだろうとも言っている。 

≪025≫  こんなふうに表明してけっして慌てないところが丸山眞男が思想界から信頼されている理由でもあるのだが、しかし今宵は、ぼくとしてはこれまで案外知られていない丸山眞男の方法のセンサーがふれたときめきのほうを、とりあえずは指摘しておきたかったのだ。このときめきは日本の最古層にあるだろう面影の強い始動にふれたときのものである。けれども、それは始動であるだけに容易には触れない。いっぱいに近寄ったとしても、なお触れないものなのだ。きっと丸山も、これを触ればその正体が壊れて、こちらにやってこないと感じたはずである。 

武田泰淳『ひかりごけ』

≪01≫  戦後文学の最高の実験作のひとつが『ひかりごけ』である。 まず、構成が意外なしくみになっている。 

≪02≫  最初は淡々とした小説のように始まっていて、文筆家の「私」が羅臼を訪れたときのことを回顧しているように見える。なぜ、こんな北海道の果てに来たのかわからないままに、その最果ての漁村の光景の描写がつづいたあと、これはヒカリゴケを見る途中の話だということがわかってくる。 

≪03≫  「私」は中学の校長に案内され、自生するヒカリゴケの洞窟に入る。ヒカリゴケはこの世のものとはつかない緑色の光をぼうっと放っている。 

≪04≫  帰途、校長が「ペキン岬の惨劇」の話をする。漂流した船の船長が乗組員の人肉を食べ、なにくわぬ顔で羅臼にやってきたという話である。「私」は札幌に来て、知人を訪れる。札幌ではちょうどアイヌに関する学会が開かれていて、そこに出席していた知人は、その学会で昔のアイヌ人が人肉を食べていたという報告があったことに憤慨していた。 

≪05≫  校長と知人の話に関心をもった「私」は『羅臼村郷土史』を読む。 

≪06≫  ここから話は昭和19年の事件の記録に入っていく。事件を報告している記録者の言葉に、「私」はどこかひっかかるものを感じる。  

≪07≫  ここで「私」は、現実の作家(これはまさに武田泰淳のこと)に戻ってしまい、野上弥生子の『海神丸』や大岡昇平の『野火』を思い出しつつ、この事件を戯曲にしようと試みる。ここが奇妙である。 

≪08≫  読者はすっかり事件に関心をもたせられるのだが、そのとき急に、この話はかつて野上弥生子が『海神丸』で描いてみせた話だということを知らされ(たまたまぼくはこれを読んでいたが)、さらに大岡昇平の『野火』のテーマにつながるという文学的な話題に転換させられるのである(ちなみに『野火』も、ぼくが衝撃をうけた小説だった)。 

≪09≫  これは妙なことである。 読者は作者の用意してくれた虚構の船から突然に降ろされて、武田泰淳の作家としての現実的な問題意識につきあわされるからだ。 

≪010≫  ところが、そこで武田泰淳は、ほんとうに戯曲を書いてみせ、読者はそれを読むことになっていく。まるで、ほんとうはこの戯曲が最初に書かれ、そのプロローグとしてここまでの物語があとから加わったというふうなのである。 

≪011≫  こうして息をのむような迫真の戯曲がはじまる。 それも意外な構成で、第1幕は難破した船で生き残った4人の船員が洞窟にいる。そのうち船長と西川が二人の人肉を食べると、西川の首のうしろにヒカリゴケのような淡い光が浮かび上がる。 

≪012≫  西川は罪悪感にさいなまれるが、船長が自分を食べようとしているのを察知して、海に身を投げようとするのだが、船長は結局のところ西川を追いつめて食べてしまう。 

≪013≫  第2幕は法廷の場である。船長が被告になっている。ところが、おそろしいことに、ト書には「船長の顔は洞窟を案内した校長の顔と酷似していなければならない」と指定されている。 

≪014≫  船長は検事や裁判長を前に、「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と奇妙なことを言う。一同が呆然としているなか、船長の首のうしろが光りはじめる。船長はさあ、みんなこれを見てくださいと言うが、誰も光が見えない。 

≪015≫  そのうち船長を中心に舞台いっぱいにヒカリゴケのような緑色の光がひろがっていったところで、幕。 

≪016≫  この作品のテーマは必ずしも新しくはない。 

≪017≫  しかし、『野火』や『海神丸』では人肉を食べる罪を犯さずに踏みとどまった人間が主人公になっていて、そこに一種の「救い」が描かれているのに対して、この作品では最初から最後まで安易な救済をもちこまず、徹して宿命の行方を描こうとした。 

≪018≫  そこに浮かび上がるのは不気味な人間の姿そのものなのである。これはひとり武田泰淳にして描きえた徹底である。 

≪019≫  その後、ずいぶんたって、日本人による人肉事件がおこって、世界中に報道された。 

≪020≫  フランスでドラムカンに人間を煮詰めて食べたという、いわゆる佐川事件である。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にした。 

≪021≫  人肉を食べること、これをカニバリズムという。 カーニバルとはそのことである。 

≪022≫  本書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつであろう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品である。 

≪023≫  ちなみに『海神丸』は1922年の作品で、ぼくが知るかぎりはカニバリズムにひそむ人間の苦悩を扱った文学史上初の作品だとおもう。野上弥生子は日本が生んだ最もスケールの大きい作家の一人で、いまこそ読まれるべき女流作家であろう。高村薫・宮部みゆきからさかのぼって、山崎豊子・有吉佐和子・円地文子・平林たい子らをへて野上弥生子に戻るべきである。 

≪024≫  さて、武田泰淳という人は、ぼくの青春期にとっては特別の文学者であった。 

≪025≫  べつだん高級な意味ではない。ぼくは武田家と親しくなって、しょっちゅう赤坂の家に出入りしていたのである。当時はまだ珍しいマンションだった。『富士』の連載がはじまるころだったろうか。そのように、ぼくが足繁く家に出入りした文学者は、あとにもさきにも武田泰淳だけである。  

≪026≫  当時、武田家は深沢七郎と親しくて、しばしば送ってくる深沢味噌がふんだんにあり、ぼくはときどきそれを分けてもらっていた。 

≪027≫  また、子猫をもらうことにもなった。何を隠そう、ぼくが最初に飼った猫は武田家の子猫なのである。大文学者にちなんで「ポオ」という名をつけた。茶色のトラの牡猫である。 

≪028≫  もっとも武田家でぼくのお相手をしてくれるのは、百合子夫人と写真が好きな花ちゃんで、大文学者はなんとなく雑談につきあうだけで、あえてわれわれが交わす話題に介入するようなことはしなかった。  

≪029≫  といって、なんとなくぼくの話を聞いていて、ときどき「君はそんなことを考えるんだね」というような口を挟んでくる。それが泰然自若、どこかで見透かされているようで、妙に怖かったものだった。 

≪030≫  花ちゃんは、その後、ぼくの後輩の写真家とつきあうようになり、そして別れたようだ。その後の花ちゃんのことは、彼女の写真集に詳しい。 

≪031≫  心に残っているのは、武田泰淳の本棚を自由に閲覧できたことである。 

≪032≫  ふつうの本屋ではお目にかかれない本ばかりを覗いてみたものだ。そして、「この本、お借りしてもいいですか」というと、たいていは「あげるよ、ちゃんと読みなさい」と言われたものだった。が、そう言われると、次に会ったときに「あの本、どうだったかね」と言われそうなので、だんだん借りにくくなっていった。 

≪033≫  武田泰淳という人、いまの日本の文学がすっかり失った文学者であった。 

≪01≫  京呉服「志ま亀」の女将の淡々とした半世紀である。「志ま亀」は文化7年の創業で、着物づくり一筋を守ってきた。着物に関心がある者にはその本格品揃えで、名高い。 

≪02≫  その女将が数十年におよぶ日々を綴った。呉服屋に生まれ育ったぼくとしては、婦人画報の季刊誌連載当時から、読まずにはいられなかった。実は母に「志ま亀さんの俊子さんが書いてはるえ」と促されて、手にとった。 


≪03≫  女将は大正3年に京都の知恩院の近くに生まれた。式台の玄関、使者の間、内玄関、供待などの部屋がある武家屋敷の構えの家だった。 

≪04≫  やがて昭和11年、二代目の大原孫三郎の媒酌で「志ま亀」に嫁ぐ。そのころの「志ま亀」は柊屋のとなりにあった。戦時中の御池通り拡張で潰され、いまはない。 

≪05≫  婚礼がさすがである。色振袖が錆朱の地に松竹梅模様、帯が黒に金銀の市松、黒留袖は「誰が袖百選」の中の沢瀉(おもだか)文様、黒振袖は土田麦僊の扇面散しに光琳松の帯をつけた。婚礼調度はすべて京都の「初瀬川」で揃えたというのだから、いまでは考えられない“姫の豪勢”だ。

≪06≫  昔の京都の呉服屋がどういうものであるかは、俊子さんの記述からも十分に窺える。  

≪07≫  そのころの呉服屋のお得意さんは、京都の娘さんたちであるが、なんといっても花柳界の注文が大きく、それがまた目立ったし、そこからまた流行も出た。「志ま亀」の屋号の入った俥が祇園の置屋に泊まると、あそこも志ま亀はんで着物を買うようにならはったと言われた。いまならタレントの誰それがベルサーチを着た、マルタン・マルジェラを着たという話である。が、当時の「志ま亀」は超高級絵羽ものを取り扱っていた。当時流行の秩父や銘仙などの気軽な着尺は扱わない、客の注文があれば、「千總」あたりから型友禅の着尺を仕入れたようだ。 

≪08≫  それだけでなく、都をどりの衣裳をすべて手がけたり、歌舞伎役者が衣裳を頼みにもきた。十五世羽左衛門と先代梅幸と延寿太夫が「累」(かさね)を復原したときは、御所解(ごしょどき)で与右衛門に切られる場面を、梅幸が血糊をつかわずに血糊の効果をあげたいというので、薄青の縮緬に真っ赤な紅葉を染めてみせたりしている。そんなことだから、二代目は川口松太郎の『芸道一代男』にも顔を見せている。 

≪09≫  店は大番頭・中番頭・丁稚とん・下女中が仕切りまわし、育てば別家さんに暖簾分けをする。うちもそうだったが、三度の食事は全員で食べ、漬物もお餅もすべて自家製である。   

≪010≫  加えて正月から大晦日まで、さまざまな年中行事をこなしていくために、店には書道のうまい執事さんがいる。そのたびに室礼(しつらい)が変わるから、畳・網代・障子・御簾・衝立から茶碗までの什器備品の蔵出し蔵入れがたいへんである。お斎(おとき)をともなう仏事も少なくはない。 

≪011≫  客がくれば、品選びが尋常じゃない。時間がかかる。そこでお昼は瓢亭の縁高(ふちだか)をとる。夕食となると仕出しがずらりと揃う。 

≪012≫  しかし、戦時中の呉服屋はどこもかしこも縮退させられた。「志ま亀」も例にもれず、主人も「たち吉」の富田さんらと並んで商業報国会の代表にとられてしまう。日本中が耐乏生活に入ったのだからしかたがないが、ついに着物の「下絵」すら燃料に消えていったようだ。 

≪013≫  こうして終戦、俊子さんは玉音放送を聞いてその場に倒れ、泣きくずれる。ここまでが話の半分である。 

≪014≫  戦後は「志ま亀」も小売に転じた。四条大丸の向かいに店を出したのが昭和22年、ついで河原町蛸薬師にも店が出た。花柳章太郎がしばしば立ち寄って、そこから「章太郎好み小紋」や、富本憲吉の見立てによる風呂敷なども生まれている。    

≪015≫  一方、戦後の繊維業界にはビニロン・ナイロンの“化繊の嵐”が吹きまくる。「志ま亀」もこれにとりくんだ。とはいえそこは「志ま亀」、いくつかの意匠は芹沢銈介(せりざわけいすけ)を領袖とする萌木会や柳悦孝に頼んでいる。けれども、このビニロンが当たった。昭和27年、主人は老舗の東京進出を決断する。家族も一挙に真砂町に引っ越すことになった。棟方志功からお祝いが届いた。 

≪016≫  かくて東京駅や西武に進出するようにもなった「志ま亀」は、いよいよ京友禅小紋や手描き友禅の創作にとりくんでいく。小紋の型絵染は稲垣稔次郎の弟子筋の川端高に頼んだ。生地は地紋のない一越縮緬。手描き友禅は、これこそが「志ま亀」が「きもの創り」とよんでいるもので、当時は瀬戸内晴美が「週刊朝日」の連載小説でとりあげたりもして、話題をよんだ。 

≪017≫ 
やがて大活躍をつづけた主人が亡くなる。そして俊子さんが有名になっていく。     

≪018≫  この『きものと心』も、後半は京呉服屋が“現代”に交じっていくさまが「~でございます」「~でございました」という口調で、ゆっくりと述べられていく。ときに『細雪』の一場面や新派の一舞台を見るようなはらりとした錯覚に襲われる。久々に京女の回顧を聞いたような気分であった。 

≪019≫  その後、林真理子が婚約の衣裳に振振模様を求めたり、中野翠が古代紫地花扇面散らしを求めたりしたことなど、どこからともなく風の噂で伝わってきた。いまは銀座に本店を構えている「志ま亀」の前を通ったときは、そんな昔ながらの呉服屋の歴史が風のように吹いていたことを、ふと思い出す。 

≪01≫ 本書で川島が意図したことは、明治の六つの法典がドイツとフランスを規範としてつくられたときにすでに生じていた西洋と日本のズレを視野にいれて、日本人の法意識にひそむ特徴を搾って考えてみようということである。 

≪02≫  きっと文章を書くのが苦痛ではない人なのだ。著作集も11巻がある。本書も岩波新書のあと著作集に入ったのだが、ずいぶん手が加わっていた。あきらかに加筆訂正をたのしんでいる。日本の法学者には堅い文章しか書けない人が多いなかで、これは注目すべきことである。 

≪03≫  ただしぼくが川島を読むのは、その考え方に共感するためではなく、法学者が現実と法とのあいだに何を見ているのか、そのことを記述できる能力が川島に備わっているせいなのである。かつて予見的法律学で名高い末弘厳太郎の大正期の著作を読んでいたときもそれを感じたが、ぼくのような法学門外漢には、このことは欠かせぬ魅力なのである。それに、このような本のほうがは我妻民法論などを読むよりずっと参考になる。またオンブズマンふうの社会ウォッチングレポートを読むより、ずっと考えさせる。 

≪04≫  本書で川島が意図したことは、明治の六つの法典がドイツとフランスを規範としてつくられたときにすでに生じていた西洋と日本のズレを視野にいれて、日本人の法意識にひそむ特徴を搾って考えてみようということである。 

≪05≫  明治の六つの法典とは憲法・民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法をいう。これらは短期間に驚くべき才能の結集によって作成された希有のものではあるのだが、ありていにいえば列強と伍するために明治の法典を“日本の飾り”にするためにつくられたものだった。そのため、日本人の社会や生活が形成してきた法意識とはかなりのズレをおこした。 

≪06≫  川島はまずそこに着目し、そのうえで日本の近代化が実際に進んで日本人の社会や生活に変更が生じたとき、このズレはどうなっていったのかを見る。ついで、戦後の“民主憲法”が登場したことによって、そのズレはさらにどのような特徴をもっていったのかを見る。それらを法意識の問題に限って浮き彫りできないか、そういう意図である。 

≪07≫  このとき川島は、法意識を「法という社会統制過程に関係する行動の心理的前提条件」とみなしたい。そのためには、法意識を法的認識と法的価値判断と法的感情の3つに分けて考えてみる。そういう提案をする。 

≪08≫  ぼくにはこの提案が妥当なものかどうかはわからないのだが、そのように法や法意識を法学者がハンドリングしていく手口がおもしろかったのである。川島がその手口をつかって何を浮かび上がらせたか、二つだけ紹介しておく。 

≪09≫  第1には、日本人には「権利」の観念が欠けているということである。 だいたい「権利」などという言葉が江戸時代まで日本にはなかった。オランダ語の“regt”を訳したもので、それも最初から法と結びつかなかった。西ヨーロッパにおいては、言語上、法と権利は表と裏の関係にあるのに対して、日本では最初から法と権利が言葉の上でも別々になったのである。西ヨーロッパでは「権利は法によって付与された意思の力である」か、「権利は法によって保護された利益である」なのである。 

≪010≫  では、なぜ日本に権利にあたる言葉がなかったかというと、そんな言葉をもちいる必要がなかったからだろう。権利を主張するかわりに、相互の謙譲から生まれた判断が重視された。そう見た川島はわかりやすい例として、アメリカと日本の自動車通行のための法をとりあげる。 

≪011≫  アメリカには「通行優先権」というものがある。道路にもしばしば“Yield Right of Way”という標識がある。通行優先権を有する車には道を譲れという意味である。そこで狭い道から広い道に出る箇所では、広い道を通る車は優先権をもつ。それが“Right of Way”という権利なのである。ところが日本の道路交通法では、個々の規定はしているものの、車の相互の関係を言及するにあたっては「当該車両等の進行を妨げてはならない」というふうになる。 

≪012≫  これは、日本人には「権利本位」よりも「義務本位」が重視されていることをあらわしている、というのが川島の見方である。 

≪013≫  川島が日本人の法意識の特徴として第2にあげているのは、この指摘にはちょっと膝を打つものがあったのだが、日本人には理想と現実を厳格に分ける意識がすこぶる希薄だということである。 

≪014≫  法曹界には「たとえ世界が滅びるとも正義はおこなわれるべきである」という冗談のような格言が生きている。これは法というものが現実の対策にそぐわなくとも、その法は守られるべぎてあり、その法を執行する者がいつづけるべきであるという、やはり欧米に特有の考え方を示している。1919年のアメリカ禁酒法などはその代表で、禁酒が非現実的な政策であったにもかかわらず、むりにでもこの法の執行が完遂されようとした。 

≪015≫  この考え方には「法における二元主義」とでもいうべきものがあり、そのこと自体はどこか滑稽なものがあるのだが、理想は理想、現実は現実だという見方からすれば、滑稽ではないものになる。けれども、この二元主義が日本人には通用しない。神による理想と人間における現実が二つに分離されていないからだ。 

≪016≫  このため日本では「手心」を加えることがときに美徳となり、交通違反の取締りにさえ「交通安全週間」などという“注意書き”を加えることになる。 これは何を意味するだろうか。日本人は法よりも「自制心」を重んじているということになる。そしてその自制心を失った者が罰せられるべきだという法意識になっているわけなのだ。 

≪017≫  こんな調子で川島の法意識をめぐる“裁き”ならぬ“捌き”が進む。法の“裁き”ではなく、文章の“捌き”である。その味がどこにあるかは読んでもらうしかない。 

≪019≫  ここには二つの視点がありうる。ひとつは、日本では「公のための法」と「私のための法」がはっきり区分けされないために、公私混同を明瞭にさせる法に対する態度が甘くなるということ、もうひとつは公金横領や公的資金の私的利用などがひきもきらない日本では、「公」と認められたものを任されたかぎり、そこでは「私」は私人ではなく公人であるという過剰な意識になりがちだということである 

≪018≫  ところで、ぼくが本書を読んだころに感じたことは、川島は必ずしもそうは書いていないのだが、日本人における法意識は結局のところは「公」と「私」の問題に帰着するようにおもわれた。以来、ぼくは日本における「公と私」の問題を漠然と考えるようになったものだった。  

≪020≫  しかし、なぜ日本にこのような公私の問題がはぐくまれてしまったかということは、日本人の法意識の起源を明治や江戸どころか、ずっとさかのぼらせる必要があるはずである。  

≪01≫  本書もそういう一冊で、体裁は主として森鴎外における日本と西洋の文化感覚の「あいだ」を検証するという恰好をとっているのだが、そして、それはそれで精査な鴎外研究でもあるのだが、通しては、和魂洋才をめぐる歴史的変遷や近代に突入した日本人の戸惑いと超克とそれらの思想編集の仕方をめぐっていて、とりどり考えさせられた。 

≪02≫  なお著者は鴎外だけではなく、ダンテやラフカディオ・ハーンやマテオ・リッチの研究者としても名高く、そちらはまた別にたのしませてもらっている。 

≪03≫  さて、日本には「中国を混入させた和魂漢才」から「西洋を折衷した和魂洋才」まで、長きにわたる混血児を宿命づけられたような歴史があった。その後の最近におよぶ流れを仮に「和魂米才」とでもよぶとすれば、この歴史はいまなお続いている。 

≪04≫  この宿命のような和魂漢才・和魂洋才・和魂米才の流れにずっと乗ってきた日本人は、ところが、漢才・洋才・米才から何を選択吸収するかはあまり問題にせず(聖徳太子・菅原道真・信長秀吉の時期など、いくつかの例外を除いて)、もっぱら「和魂をないがしろにして漢才・洋才・米才に走るな」という議論ばかりを突出させてきた傾向がある。和魂洋才論というと、いつもそのことばかりに血がのぼった。しかも実際には、漢・洋・米からの「才」は輸入してしばらくすると、むしろ「和才」になったのであって、いつも問われるのは「和魂」や「和心」だったのである。 

≪05≫  これは中国における「中体西用論」とくらべてみると、よりはっきりする。 中国でも近代化を前に張之洞らの「体」を中学に「用」を西学にという立場が芽生えたのだが、これは形而上を中国思想において、形而下にヨーロッパを利用するというふうになっていて、「中体」をないがしろにすることはあまりない。それは今日の中国にもまだ続いている中華思想である。 

≪06≫  それがどうも日本の和魂洋才論はたえずナショナリスティックな特殊な議論だとうけとめられてきて、結局は正面きって論じられてこなかった。 

≪07≫  若き福沢諭吉が弟子筋の馬場辰猪に送ったイギリスからの手紙には、その混乱がよく綴られている。福沢は「方今、日本にて兵乱既に治りたれどもマインドの騒乱は今尚止まず」と綴ったのだ。まさに「マインドの騒動」、すなわち和魂の雲散霧消がおこりかねない事態だったのである。 

≪08≫  このような問題に直截にとりくみ、真剣に論じようとしたのが幕末維新の青年や知識人や商人たちだった。というよりも、ここから和魂洋才論は噴煙をあげた。 

≪09≫  すでに橋本左内は「器機芸術は彼に採り、仁義忠孝は我に存す」と言っていたし、佐久間象山は「東洋道徳西洋芸術」とみなしていた。左内の言葉はさしずめ「儒魂洋才」というものであろうし、象山のは東西を道徳と芸術とに分けているものだが、どちらも和魂洋才の原型になる。 

≪010≫  ところがいざ維新政府を設けて、一方では古代天皇制に近い王政復古をして太政官・神祇官を配し、他方では洋才の導入をして富国強兵とお雇い外国人の受け入れに転じてみると、これがうまくバランスできなかったのである。圧倒的に片肺飛行ともいうべき欧化主義が驀進していった。  

≪011≫  これをそのまま発展させれば西洋一辺倒、東洋をも考慮から外す「脱亜入欧」にまで進む。こうして西学東漸を恐れないという立場は吹きまくって、そこからは森有礼のローマ字国語論までが主張された。中村正直は欧風を採用するならキリスト教の宗教精神がもっと日本で奨励されてよいと見て、それでも十分に日本人はやっていけるという“日本人不変説”を提起した。 

≪012≫  この傾向は井上哲次郎などによってさらに哲学化されるに至って、明治初期の“敵情視察”としての西洋研究の趣向は失われ、もっぱらオートマティズムのように西洋哲学を日本に植林するような空気に向かっていった。 

≪013≫  しかししばらくすると、鉄道や官営工場や電話や写真といった洋才を受け入れたからといって、だからといって、哲学の拠点に東洋や日本精神がなくってよいのかどうか、しだいに不安が高まった。「マインドの騒動」が“井ノ哲”(井上哲次郎のこと)の植林のごときで収まるものかということである。 

≪014≫  そこで、それではならじと登場してきたのが二つの結社を組んだ思想運動者たちだった。民友社における徳富蘇峰、政教社における三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南らである。 

≪015≫  このような思想は幕末にもあった。会沢正志斎の『新論』が打ち出した「国体」の概念の設定など、そのひとつである。いわゆる水戸国学がそのようなイデオロギーにはいちはやく着手した。けれども、そこには尊王攘夷はあっても「万機公論に徹すべし」はなかったし、洋才も洋魂も排除されていた。維新後の日本にはこれは通用しなかった。 

≪016≫  一言でいえば、蘇峰は「平民主義」という言葉をつかって『国民之友』を創刊、武備社会から生産社会に日本が向かうべきことを訴えて、明治初期のあまりに過度でエリート的な欧風主義に待ったをかけた。 

≪017≫  欧風化そのものがダメなのではなく、性急で専断的な維新の欧風主義がおかしいと見たのである。のちに蘇峰は変化するのだが、当初の25歳の蘇峰の意図はそういうものだった。ようするにスペンサー風の進化進歩思想と平民和魂を結びつけたのだ。 

≪018≫  蘇峰が東西の文化の混成を意図していたのに対して、29歳の三宅雪嶺と26歳の志賀重昂らは雑誌『日本人』を創刊して、さらに純度の高い「国粋保存」を主張した。「日本国粋ナル胃官」を「日本ナル身体」に固定強化しようというもので、至理至義だけではなく至利至益を標榜した。和魂に資本主義を接ぎ木したわけである。  

≪019≫  政論家の陸羯南は新聞『日本』で「国民主義」という名の日本主義を訴え、日本人が「国民」になるべきだと説いた。日本における国民思想の登場はこのへんにある。 二つの動きはやがて合流して『日本及日本人』になる。 

≪020≫  これらは、今日予想されるような国粋主義やウルトラ・ナショナリズムとはそうとうに異なるもので、どちらかといえば日本は「西洋の開化」をめざすのではなく「日本の開化」をめざすべきだというものだった。 

≪021≫  すなわち「外部の必要」ではなく「内部の必要」が説かれた。加藤弘之さえ「内養」と言った。けれども、日清日露の戦勝ムードのなかでは、このような受け取り方はなかなかされないままになる。  

≪022≫  こうした傾向は日本人優秀説を巻き起こし、日本人の民族性や国民性そのものの賛美として広まっていく。鈴木券太郎の「人種体質論」、法曹家桜井熊太郎の「ハイカラー亡国論」、そして芳賀矢一の「国民性十論」などである。これらはとうてい「和魂」を分析しているものとはいいがたく、ただ日本人の“血”を称揚するのみだったのだが、それに対する反論が、今度は綱島梁川・浮田和民・千葉江東・島田三郎らの“日本限界説・日本人ダメ説”になって、たとえば次のような自虐的な指摘に終始した。 

≪023≫  曰く、仏教の「寂滅」こそが日本人を陰湿な悲観主義をつくっている、まったく独立心がない、日本人は海外排撃思想をもつ民族である、主我のない没我的国民である、はては本来は義侠心がないのが日本人だ‥。 

≪024≫  ここで踏みとどまって議論を中央に据えたのが、森鴎外だったのである(というのが本書の見方)。 

≪025≫  鴎外は「混血児に似た一種の精神上の不安定」がこれらの右往左往におこっていると見て、『洋学の盛衰を論ず』そのほかで、複眼的な見方が急務であることをのべ、さらに日本が「二本足」で立つことを冷静に主張した。西と東の両足にしっかり立脚した思想の披瀝である。 

≪026≫  漱石も懸念を表明し、「単に西洋の批評家が言った事をそのままに解釈しなければならぬ、さう解釈したくはないが西洋人が言つたことであるからなどといふのは、西洋に心酔したもので随分馬鹿気た話である」(戦後文界の趨勢)と警告を発した。ただ漱石は鴎外のように論点をしぼらず、一方では、日本に容易に普遍主義も個人主義も育ちそうもないこと、あまりに一極から他極に左右しすぎる国民性を憂いていた。 

≪027≫  このほか本書にはふれられていないが、内村鑑三や幸徳秋水などのキリスト者や社会主義者による和魂洋才論もどっと出回った。それらの議論のほうがときに日本精神についても西欧精神についても、深く、熱烈なときがある。 

≪028≫  こうして議論の多くはなお核心を見いだせないまま、また両極に大きくぶれながら、明治を駆け抜ける。すでに中江兆民が日本人の「恐外病」は一転すれば「侮外病」になると喝破していた通りの推移となったのである。 しかし、この「核心を欠いた議論」だったということが、のちに日本軍部をしてウルトラ・ナショナリズムに走らせることになる。 

≪029≫  いったい和魂洋才が“思想”であるかどうか、あらためて眺めてみると、どうもはっきりしない。 時代的にみても、そもそも古代中世で和魂漢才の感覚が正確に捉えられてかどうか。『和漢朗詠集』は和魂漢才であったのか。紀貫之や菅原道真は和魂漢才の思想をもっていたのか。こういうことがわかりにくいのだ。そのため和魂洋才が近代以前の和魂漢才の横すべりかどうかさえ判定しがたいのである。 

≪030≫  では、鎖国が破られ、海外に門戸を開き、不平等な条約を改正して、軍事と重商を準備してなんとか近代国家を築いた「魂才」とはいったい何であったのか。 それがいまひとつ明示できないままに、そこに突如として降って湧いたように撒き散らされたのが、前代未聞の「黄禍論」(イエロー・ペリル)だったのである。これですべてがぐちゃぐちゃになっていく。  

≪031≫  こうして黄禍論はたちまち列強間の合言葉になっていく。その底辺には悪名高きゴビノーの『人種不平等論』がある。しかし先にものべたように、日本人もまた日本人優越論や日本人不変説を国内的にはさかんに喧伝しようとしてきたのである。ロシア人を露助(ろすけ)と呼んだり、「征露丸」の薬名を宣伝したりもした。つまりは黄禍論に対抗するには、当時の日本はあまりにも同じ陥穽にはまりかねないものをもっていた。 

≪032≫  いまでもなお、こうした人種差別イデオロギーをどのように、その差別を向けられた民族や国民が跳ね返せるかは、すぐれた脱構築がなされてはいない。 ぼくも橋川文三やハインツ・ゴルヴィツァーの著作をはじめ、黄禍論には関心がある。近現代の日本のナショナリズムには黄禍論を省いては考えられないことが多い。そこにはフランツ・ファノンの「黒い暴力論」を無視していっさいの黒人運動が語れないのと同様なものがある。しかも、この問題の当事者はなんといってもわれわれ日本人なのである。その黄禍論という問題に最初の最初に目を開かせてくれたのが、ぼくにとっては本書であった。 

≪033≫  根も葉もない黄禍論に内村鑑三や新渡戸稲造のようにすぐさま反論をした者は、多く海外経験者やキリスト教に詳しい者だった。また、ドイツにいた姉崎正治やドイツ人で日本に滞在していたベルツも、煮えくり返るように腹を立てていた。 ウィルヘルム2世の提唱が馬鹿げたものだということをすぐに指摘した海外の知識人も少なくない。日本の肩をもとうとした者もいた。アナトール・フランスやレーニンである。レーニンは日露戦争の渦中にいながら、むしろ小国日本が帝政ロシアを破ったことを評価した。 

≪034≫  しかし著者が注目したのは徳富蘇峰である。蘇峰はラドヤード・キプリングの『白人の重荷』をすっかり裏返して、あえて『黄人の重荷』を綴ってみせたのだ。黄禍に対して「白禍」を逆襲してみせたのだ。 

≪035≫  詩人キプリングが『白人の重荷』で何を書こうとしたかは言うまでもない。全面的なアングロサクソン賛歌であって、その詩がセオドア・ルーズヴェルトに贈られていたこともよく知られている。しかもこの詩の発表は1899年、明治32年のことだった。日清戦争と日露戦争のちょうどあいだのことである。  

≪036≫  蘇峰は7年後に『黄人の重荷』を綴って対抗した。白人が世界正義の重荷を背負っているというのなら、日本人をはじめとする黄人にだって、広大なアジアを背景にした世界を安寧にする責任があるという論旨のもので、裏返せば「白禍」だってあるじゃないかという舌鋒だった。 

≪037≫  むろん黄禍論と白禍論は、同じ舞台で論争できたわけではなかった。日本は日清戦争後にすでに三国干渉に屈したのだし、のちにはカリフォルニアの移民排除の対象にさせられる。 つまり黄禍論こそが世を制したのである。逆に白禍論や「黄人の重荷」はそのままくすぶって、日本が大東亜共栄圏や八紘一宇や五族共和を主唱するときに、世界中の非難とともに蘇えってきた。 

≪038≫  ところで黄禍論に屈せずに、白禍論をもって対抗できたのは森鴎外や徳富蘇峰だけではなかった。本書には登場していないが、岡倉天心もまた得意の英文をもって黄禍論に立ち向かっていった一人であった。 

≪039≫  天心の白人帝国主義批判は『日本の目覚め』の第5章に、文字通り「白禍」として綴られる。「多くの東洋民族にとって、西洋の到来はまったくの幸福とはけっして言えなかった」と述べた天心は、アジアの民族が通商の拡大を歓迎するうちに帝国主義の餌食になってしまったことを指摘し、西洋の黄禍の罪悪が東洋の白禍に対する号泣になっていることを訴えている。天心がこのなかで問題にしたことは、欧米が進歩を信じすぎているということだった。 

≪040≫  しかしいま、和魂洋才の流れをふりかえり、今後の和魂洋才の展望を予測しようとしてみると、日本人こそがつねに「漠然とした進歩」を信じて必死に列強と歩を同一にしようとしていたことのほうが目立っていると言わざるをえないようだ。これが正直な感想だ。 

≪041≫  あげくに何が和魂洋才か見えなくなっているばかりか、どこからどこまでが洋魂で、何が和才で、何が洋才なのかの区別すらわからなくなってしまったようなのだ。 おそらくは従来の和魂洋才論では、今後も事態は打開できないにちがいない。そこは残念ながら蘇峰でも天心でも無理なのだ。  

≪042≫  では、どうするか。ささやかながらぼくが『日本流』や『日本数寄』などを綴ってきたのは、むしろ新たな「負」をもって「方法」を考えなおすべきではないかという仮説であった。読者の和魂と洋才に問うてみたい。 

では、どうするか。ささやかながらぼくが『日本流』や『日本数寄』などを綴ってきたのは、むしろ新たな「負」をもって「方法」を考えなおすべきではないかという仮説であった。読者の和魂と洋才に問うてみたい。 

≪01≫

 『寅次郎サラダ記念日』で寅さんは信州小諸で出会ったおばあちゃんに次のバスはいつ来るのかと尋ねる。
 一時間先だなと言われる。 「まあいいか、俺の持っているものは暇だけだから」。
 おばあちゃんは「暇なら家に来ないか」と言う。
 寅さんは答えた、「俺はこう見えても忙しいんだ」。
 マタイ伝には、こうある。
 「明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日みずからが思いわずらってくれる」 

≪02≫  いま日本の出版業界では一連の「新書」ブームが終わって「選書」がプロの編集者のあいだの話題になっている。その選書ブームの火付け役ともなった筑摩選書の発刊記念のパンフレットには、ぼくも推薦文を書いた。 

≪03≫  その後、どんな本が配刊されるかと見ていたが、古澤満の『不均衡進化論』、リービ英雄の『我的日本語』、奥波一秀の『フルトヴェングラー』、渡邊義浩の『関羽』、榎村寛之の『伊勢神宮と古代王権』などなど、それなりの深彫りをめざした力作が続いている。 

≪06≫  著者は映画評論家でもなく、社会思想家でも世相批評家でもない。熱烈な寅さんファンのようではあるが、れっきとしたドミニコ会の神父さんで、清泉女子大のセンセイである。『神と人との記憶』(知泉書館)というなかなかの著書もある。 

≪07≫  米田センセイは大学の授業では、田川建三の『イエスという男』(作品社)、アルバート・ノーランの『キリスト教以前のイエス』(新世社)、大貫隆の『イエスという経験』(岩波現代文庫)などを使っているらしい。この選び方でなんとなく予想がつくのだが、これらはかなり独特のイエス論だ。 

≪04≫  なかで本書はいろいろな意味で興味深かった。いったいフーテンの寅とイエスの対比をもって何を語るのか、読む前から思わせぶりなタイトルが気になったし、だったらいいかげんな話じゃ済まないぜとも思っていたのだが、そこそこ予想を裏切られたのが心地よかった。そんなことでお茶を濁されたら困るようなこと、たとえば渥美清が最後にキリスト教の洗礼を受けたことについても、さらっと扱っていてホッとした。 

≪05≫  とくに「風天のイエス」という見方を何の躊躇もなく入れているのが、すがすがしい。『男はつらいよ』全48作をかなり詳細に比較して、そのストーリー性や場面性を論旨に沿ってそのつどシノプシスめいた抜き書きにしてもいるのだが、その採り上げる分量も角度もよかった。 

≪08≫  田川建三は教会関係者から田川節とも揶揄されるように、著書によってはその論旨がワインディングして迷わされることも少なくないし(たとえば『キリスト教思想への招待』や『書物としての新約聖書』)、大貫隆はグノーシスの研究者でもあって歴史の中でのイエス解釈の変質のほうに強い。 

目次に「『人間の色気』について」とあり、「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 」を思い出し、変らぬ残り香を嗅ぐことに・・・

≪09≫  きっと米田センセイは少々変わった神父さんなのだ。しかし、イエスを今日のわれわれ(とくにキリスト教に明るくない日本人)が捉えるには、こういった本のほうが人間イエスをめぐる魅力に富んでいて、かえって関心をもつかもしれない。 

≪010≫  田川は「イエスは実は人の家に招かれてわいわいするのが好きな男だった」と、ノーランは「イエスはけっこう愉快な男だった」と、大貫はイエスにはビッグバン理論で言う「宇宙の晴れ上がり」のようなところがあったと、そのイメージを形容する。 

≪011≫  たしかにイエスには故郷がないとか、イエスは当時の法秩序を平気で破っていたとか、イエスはいわゆる風来坊だったと言われたほうが、だったら共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの正典四書のうちヨハネを除く三書)やそこからはみ出たQ資料を読んでみようかという気になるだろう。 

≪012≫  そして、そういうイエスの魅力の幾つかを極端に敷延していくと、どこかで寅さんとも交差するのである。 

≪013≫  フーテンの寅こと車寅次郎とは何者かというと、父の車平造が芸者の菊とのあいだにつくった子で、菊の出奔後は父と暮らしていたのだが、16歳のときに家を飛び出したという設定になっている。その後はテキヤを生業(なりわい)とする渡世人である。だから妙に堅気(かたぎ)さんを別扱いにしたがっている。  

≪014≫  そのフーテンの寅を主人公とした『男はつらいよ』は、渥美清を起用したテレビドラマが延長されて、映画としてはギネスブックに載るほどの世界一長いシリーズになった。すべての脚本を山田洋次が書き、全48作のうち2作を除いて監督もした。 

≪015≫  第1作の『男はつらいよ』(1969)では、家を出た寅が20年後に異母妹のさくらと叔父のおいちゃん夫婦が住む柴又の草団子屋に転がりこむところから始まっている。 

≪016≫  その程度の出だしで、しかも話はすべて寅次郎がマドンナに出会ってホの字になり、やむにやまれぬ事情で恋破れるというパターンなのに、よくもまあ手を替え品を変えてきたものだ。山田洋次にしかできないことだった。それならそれでこの長大なシリーズはどんな特色をもっているのか。  

≪017≫  むろん各種の議論があっていいのだが、なんといっても車寅次郎という変な男が物語そのもの、特色はその物語様式そのものにあるということに、すべてがある。どういう物語様式なのか。幾つかの母型があったのだ。 

≪018≫  井上ひさし(975夜)が情熱をこめて監修した『寅さん大全』(筑摩書房)では、『男はつらいよ』には主として3つの物語母型が生きているという。 

≪019≫  一つ目は「貴種流離譚」の物語様式、二つ目は「道中記」あるいは「道行」の物語様式、三つ目は「兄と妹」にまつわる物語様式だ。ほぼ当たっていよう。 

≪020≫  ただし貴種流離譚は英雄の流離とはあべこべの様式になっていて、貧しく支えあっている者の象徴である寅さんが流離する。そして必ずや柴又帝釈天の「とらや」に帰還して、また流れていく。ジョセフ・キャンベル(704夜)が読み解いた英雄伝説では「セパレーション(出発・旅立ち)、イニシエーション(艱難辛苦との遭遇)、リターン(原郷への帰還)」の順に話が進むけれど、まさにその逆なのだ。逆の繰り返しなのだ。それでいて寅さんは誰にとっても無一物の英雄になっている。こういう物語様式だったから、寅さんは英雄かつ逆英雄になりえたのだった。 

≪021≫  道中記のほうは、寅さんのテキヤ性や高市(縁日)でバイ(商い)をする生活様式にあらわれているとともに、一作ごとに異なるマドンナと毎度はかない道行をする様式にもなっている。寅さんの道行はむろん心中ではないが、映画を見ている者にとってはほとんど“気持ちの上での心中”に近いものがある。寅さんの恋は決して成就しないからだ。近松(974夜)の心中物の原則も、この世では成就しない恋にこそあった。 

≪022≫  寅さんと妹のさくらが物語の中心になっているのは、ぼくもこのことについては何度か触れてきたが、柳田国男(1144夜)が「妹の力」の延長として、日本の村落では冠婚葬祭のたびに嫁いだ妹が実家の兄と協力しあうという習慣が目立っていると指摘した様式にのっとっている。そこでは義理の兄妹関係も少なくない。つまり『男はつらいよ』は、兄と妹の二人のダブル・アイによって出来事を語ることで、日本中の家族を疼かせたのである。寅とさくらの会話は日本の近世村落的な語り部の伝承様式に従っていたわけだ。 

≪023≫  こういう物語様式にいるフーテンの寅と、いったいどこがイエスと共通すると言うのだろうか。 

≪024≫  イエスの死後に仕上がったキリスト教のカノンでは、イエスはマリアが処女懐胎して生まれたメシアであり、十字架で処刑されて32歳で死んだのに、「神の子」として蘇っている。こんなとんでもないイエスと渡世人の寅さんに、共通点があるなどとはとうてい想像がつかないかもしれないが、実は不思議につながっている。 

≪025≫  本書はまず、イエスがガリラヤ地方の山間部のナザレで育ち、ガリラヤ湖畔の町や村で仕事をし、とくにカファルナウムを拠点としてそこで税金を渋々納めていながら、そこから離脱したことを挙げる。 

≪026≫  イエスは当時の社会からの離脱者であり、風変わりな逸脱者だったのである。寅さんが東京の中心など一度も行っていないこと(柴又周辺以外の東京は一瞬たりとも映されない)、何度も何度も下町の柴又に戻ってくること、それなのにそこをさえつねにセパレートしていたことは、カファルナウムのイエスといくぶん重なるところがある。 

≪027≫  ついで本書は、イエスが誰彼なく食事をともにしたことを挙げる。貧者も癩者も娼婦も厭わない。そこでちょっとした奇跡もおこるけれど、そこに居合わせた者からの誤解も、役人による取り締まりもおこる。おまけに最後の晩餐という一番大事な食事では裏切りにあう。 

≪028≫  寅さんも誰彼なく親しくなるが、そのうちの特定者と新たな関係をもつことがない。イエスは磔刑になるけれど、もし永らえていたらあるいは寅のように繰り返し遍歴したかもしれなかったのだ。そう思うと、二人にはどこかでまわりまわった「定め」において近いものがある。 

≪029≫  共食は古来から今日にいたるまで、さまざまな社会と生活の断面をあらわしてきた。ミサだってそのひとつであり、日本の神社や寺院での供物もそのひとつ、通夜や葬儀のあとの直会(なおらい)もそのひとつである。 

≪030≫  『男はつらいよ』でも草団子屋「とらや」の茶の間で、おいちゃん(車竜造)、おばちゃん(車つね)、さくら(諏訪さくら)、ヒロシ(諏訪博)、マドンナ(いろいろ)、通りかがりのタコ(桂梅太郎)を交えた賑やかな食卓が必ずといっていいほど出てくるのだが、その進行のどこかで必ずや亀裂や違和が生じることになっている。そうすると寅は「それを言っちゃあ、おしまいよ」とプッと旅に出る。 

≪031≫  けれどもその亀裂や違和は、次の「とらや」をかこむ社会生活力の源泉になっていくわけなのである。これはごくごくささやかだが、「蘇り」なのかもしれない。擬死再生なのかもしれない。 

≪032≫  イエスは洗礼者ヨハネを尊敬し、ヨルダン川で洗礼を受けるのだが、このヨハネは難行や苦行や断食をする。イエスはヨハネを尊敬しても、そういうことまではしない。ここにもフーテンの寅との奇妙な共通性がある。  

≪033≫  『男はつらいよ』には「アー、ウー、困った、困った奴じゃ」を連発する御前様(笠智衆)をべつにしても、毎回、寅さんにとってのさまざまな尊敬すべき人物が出てくる。8作「寅次郎恋歌」の大学教授(志村喬、マドンナ池内淳子)、9作「柴又慕情」の小説家(宮口精二、マドンナ吉永小百合)、16作「葛飾立志篇」の和尚(大滝秀治、マドンナ樫山文枝)、17作「夕焼け小焼け」の画家(宇野重吉、マドンナ太地喜和子)、29作「あじさいの恋」の陶芸家(片岡仁左衛門、マドンナいしだあゆみ)等々だ。かれらは寅さんにとっては苦行に励むヨハネのような隔絶した人物なのである。 

≪034≫  しかし、寅さんはこのセンセイがたがとても偉い人なんだとは感服しているけれど、その真似などはしない。それどころかしばしば揶(からか)っている。でも、一目おくのだ。 

≪035≫  一方、寅さんは一途な者たちにも尊敬を禁じえない。浅丘ルリ子が演じた歌手リリーにも(4作に登場)、下宿人の米倉斉加年にも、旅先で一緒になった一座の連中やバス待ちのおばあさんにも、寅さんは一目をおく。このことはイエスが民衆に対してみせた慈愛とぴったり同じではないかもしれないが、リリーを見ているとマグダラのマリアのことすら、ふと偲ばれるのだ。 

≪036≫  では、寅さんがあんなにもマドンナに憧れていながら、何も成就できなかったことは、イエスとの比較ではどう説明されるのか。この点についても、本書は「非接触」および「非破壊」ということを挙げて、意外な分析をしてみせた。 

≪037≫  映画を見た者ならみんな知っているように(これまで8000万人の日本人が『男はつらいよ』を見たらしい)、寅さんはいじらしいほどマドンナの体に触れはしなかった。またそれ以上に、マドンナの気持ちをちょっとでも壊さないこと、汚さないことを一心に心掛けた。 

≪038≫  情欲にかこつけてマドンナの体に触れるなんてことはとうていできるはずもない寅ではあろうけれど、「非接触」とはそういうことではない。「縋(すが)らない」ということなのだ。マドンナに縋(すが)らず、かつまた、これ以上は俺に縋っていちゃあいけねえよということだ。 

≪039≫  キリスト教には「ノリ・メ・タンゲレ」という有名な言葉がある。ラテン語で「我に触ることなかれ」という意味で、マグダラのマリアが十字架で死に瀕しているイエスに触れようとしたとき、イエスが洩した言葉だ。これもまた「触ってはいけない」という抑圧的な意味ではない。これ以上、私に縋り続けてはいけないという意味なのである。こうして、みんなが立ち上がっていけたのだ。 

≪040≫  寅さんも、これをもっていた。深い恋心がありさえすればマドンナとはいつも結ばれていたのだし、彼女らは彼女らで寅さんのまなざしを感じながらも、それぞれの道を歩んでいけたのだ。著者は、ここには「他者の未来の可能性」を確信するという寅さんとイエスの「志」の共通性があると言う。 

≪041≫  しかしとはいえ、寅さんはマドンナとの恋に破れるではないか。寅さんはいつだって傷つくではないか。失敗続きではないか。奇跡なんておこらないではないか。ときにはお笑いぐさではないか。そこはどう説明できるのか。 

≪042≫  これはちょっと難問であるが、著者は寅さんの「つらさ」こそがこのことを語りうると考えた。 

≪043≫  寅さんにはまず、恋の「つらさ」がある。第1に片思いのつらさ。第2にマドンナの切なる願いに自分が応えられないつらさ。第3に人妻に惚れてしまったつらさ。第4にマドンナを誰か他の男も恋していて、自分がキューピッドにならざるをえないというつらさ。いずれももどかしいほどじれったいのだが、この「つらさ」が寅さんのこのうえない純情を支えていた。 

≪044≫  もうひとつ、別離のつらさもあった。10作「寅次郎夢枕」の母と子の別れ(マドンナ八千草薫)、18作「純情詩集」の母と娘の別れ(京マチ子・檀ふみ)、27作「浪花の恋の寅次郎」の姉と弟の別れ(マドンナ松坂慶子)などだ。寅さんはこれらの別離を身に染みて感じる。 

≪045≫  こうして寅さんはいつも度し難い哀しみを負って「日本国」を歩く。映画ではそれが泣き笑いとなり、巧まざるヒューマニズムにもなっている。まさに「男はつらいよ」という「つらさ」なのだが、しかしそこには、明日から始まる将来を開いておくという規範がまことにピュアに貫かれているとも言えた。 

≪046≫  イエスもまた、こう言った。「だから明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日みずからが思いわずらってくれる。その日の凶事はその日だけで十分である」(マタイ6・34)。 

≪047≫  これは、イエスが「神もつらいよ」と言っているようなものだ。著者はこのことについて、次のようにも書いている。「寅とイエスの両者に共通する逸脱は、他者を生かすための他者への思いやりであり、表層の嘘を暴き真相を露(あらわ)にする、いわば道化の姿である」と。 

≪048≫  なるほど、逸脱、他者への配慮、虚偽の暴露、道化。そうだったのである。逸脱と道化が同列になっているのが、とてもいい。これはウンベルト・エーコ(241夜)が『薔薇の名前』で暴いてみせた教会キリスト教の限界を補っていた。 

≪049≫  以上、あまりうまく摘出できなかったかもしれないので、著者の意図を損ねたのではないかと惧れるが、ようするには本書は「風天のイエス」という見方がありうるということを通して、今日のキリスト教や信仰のありかたを、ヴィヴィッドに捉えなおそうとする試みなのである。 

≪050≫  それがフーテンの寅の生き方や考え方の一部始終の中に、幾つもの場面を通して見えてくるという可能性の示唆だった。 

≪051≫  ここでは触れなかったが、本書は冒頭で「人間の色気」について一家言を綴っている。イエスと寅さんには、われわれが失いかけている色気があることを示唆しているのだ。この色気には人格がともなっている。神にはない人格だ。それはぼくが千夜千冊してきた一冊でいえば森繁久弥(590夜)が『品格と色気と哀愁と』で語っていた、あの色気であった。 

≪052≫  40作『寅次郎サラダ記念日』(マドンナ三田佳子)に、信州小諸の駅で寅さんがそこに居合わせたおばあちゃん(鈴木光枝)に「次のバスはいつ来るのかねえ」と尋ねる場面が出てくる。  

≪053≫  おばあちゃんは「一時間先だね」と言う。寅さんはゆっくりとあらぬほうを見ながら、「まあいいか、俺の持っているものは暇だけだから」とへいちゃらに言う。そこでおばあちゃんは親しみをこめて「そうか、そんなに暇ならわしの家(うち)に来ないかねえ」と誘うのである。すると寅は「俺はこう見えても忙しいんだ」と言う。  

≪054≫  暇であって、忙しい。ゼッタイ矛盾的ジコドーイツ。なんとも痛快なやりとりだ。話はこのあとおばあちゃんの家に泊めてもらい、そのおばあちゃんが病気だったので、その入院のために奔走するというふうになる。 

≪055≫  本書はこの場面について、牧師の関田寛雄さんが山田洋次監督と対談をしたとき、「あの場面、楽しいですねえ。牧師も一人を追いかけることを寅さんに学んでいるんですよ」と言ったということを紹介していた。 

≪056≫  関田牧師はキリスト教や神学について柔らかな解読を提供してきた高齢の牧師さんで、ぼくも10年ほど前に代々木上原の教会で話を聞いたことがある。「逆転の福音」という話だった。ぼくはこのとき「遅ればせ」という言葉がアタマに閃いて、その後はマルセル・デュシャン(57夜)の「遅延」と並べ、たとえ「遅ればせ」であっても、いや「遅ればせ」であるからこそ、決行のための着手に挑むことの重要性を強調するようになった。  

≪057≫  それはまあ余談なのだが、本書はこの関田牧師の「あの場面、楽しいですねえ。私たちも寅さんに学んでます」に暗示されているように、思いがけないキリスト教の入口を屈託なく示した一冊になっているのである。そこが最近の選書としても好著たりえた理由だった。 

≪058≫  ところで、本書を読んでいるとき、すぐに思い出した本があった。笠原芳光の『イエス 逆説の生涯』(春秋社)だ。十数年前に京都の精華大学で講演をしたとき、主催者の一人でもあった著者自身から手渡された。 

≪059≫  この本は「史的イエス」に対して自由に「私的イエス」を論じたもので、早くもイエスが「離脱の人」だったろうことを縦横に述べていた。また、イエスはむろん神などではなくて「脱」をおこした人間であったこと、その思想は突き詰めていけばアナキズムにもなるだろうことにも言及していた。 

≪060≫  そのなかで本書につながる見方として、イエスの生き方は自力でも他力でもなく「共力」(ぐりき)であったのではないかというくだりがある。「共力」とはなんともいい言葉だ。本書を読みながら、寅さんもまた共力だなと思われたのである。 

≪01≫  村井さんは林屋辰三郎門下の学恩をうけた何人もの研究者群のなかでも、とびきり広い研究範囲を走破してきた人で、ぼくは『アート・ジャパネスク』のときにあれこれ労を煩わせたうえで、その正確で速度に富んだディレクションにずいぶん救われた。 

≪02≫  救われたのは、そういうふうに面と向かったときだけではなく、むろん多くの著作を通しての書物のうえでのことのほうが多い。本書もそのひとつで、同じく三一書房の『花と茶の世界』が伝統文化史論、『平安京と京都』が王朝文化史論だとすると、本書はこれにつづく生活文化史論にあたる3部作の掉尾を飾るもので、実はいちばん待望されていたものだった。 

≪03≫  何が待望されていたかというと、本書は同朋衆の発生と特質とその背景を扱った数少ない研究書なのである。各誌に発表したいくつもの論文の集大成なので、いくぶん論旨がだぶっているけれども、そのぶんかえって細部を視点を変えて組み立てて読むことが可能になっていて、いろいろ示唆をうけた。 

≪04≫  同朋衆(どうぼうしゅう)がどういう連中のことかという話は、これまでほとんど集中して議論されてこなかった。同朋衆が時衆を背景にして発生してきたことは、だいたいわかっていた。また阿弥号をもっていることもはっきりしていた。室町幕府の職制にくみこまれていた役割であることも判明していた。  

≪05≫  しかし、では観阿弥・世阿弥・音阿弥などの阿弥号をもつ能楽者が時衆や同朋衆と関係があったかというと、吉川清や香西精の研究がそのへんをあきらかにしていったのだが、どうやら関係がない。けれども観阿弥や世阿弥を足利義満に引きあわせた張本人は、海老名南阿弥という同朋衆なのである。また、義政に寵愛された作庭師として有名な善阿弥や立花(たてはな)で有名な文阿弥・宣阿弥・正阿弥も、時衆ではあったものの、同朋衆ではなかった。  

≪06≫  こういうぐあいで、どうもどこからどこまでが同朋衆なのかが明確にならなかった。しかしその一方、足利将軍のもとにあって、三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)をはじめとする同朋衆こそが目利きのクリエイティブ・ディレクターとして、当時の北山文化・永享文化・東山文化の経済芸術的な骨格をつくり、のみならずその継承者を育成する相伝文化のしくみの中心にいただろうことは、はやくから指摘されてきた。  

≪07≫  このような同朋衆が最近になって注目を集めはじめた。 このことについてはぼくにも多少の責任があるのだが、インターネットがはりめぐらされた今日のグローバル社会のなかで、かえって地域的なサロンやコミュニティ型の経済文化や大衆迎合をしないクラブ財などが話題になってきたためで、いわば21世紀における同朋衆的なるものの登場が期待されるからだった。 

≪08≫  実はネット社会のほうでも、いま評価システムをどうつくったらいいかという問題やどうしたら評価者を用意できるかという機能の問題が急浮上しつつある。 

≪09≫  多様な価値の乱立を、すぐって適確な評価のしくみに変えるにはいったいどうすればいいかということで、いわばネット型の同朋衆も期待されはじめているということである。 

≪010≫  今日の社会では、目利きや評価はマスメディアがその大半を先導していて、マンションから宝飾類まで、自動車・電気製品からラーメン・丼物まで、ともかくもマスメディアがその評価の内容を圧倒的な支配力によって決定づけている。しかしながら、それで熟した経済文化が育まれているかといえば、そんなことはない。むしろたいていの文物や人物が瞬時にして流行に飲みこまれ、そのまま消えていっている。 

≪011≫  こうしたなか、なんとかじっくりとした文物や人物を評価することが期待されているわけである。しかし、いったい誰がそのようなことができるのか。どこに同朋衆がいるのか。また、そのような同朋衆にどのように報い、どのように同朋衆の位置をつくっていけばいいのかとなると、まだ何も手がつけられていないといっていいという現状なのである。わずかにプロスポーツや一部アマスポーツの分野がコーチング・スタッフを重視して、"スポーツ同朋衆"ともいうべきを育て、その価値を向上させているといった程度なのではないか。 

≪012≫  しかし、このような問題に立ち向かうにも、まずは歴史的にどのように同朋衆が設立してきたかを知る必要がある。 

≪013≫  第1には、「座」の社会が用意されていた。 これを準備したのは、ひとつは村落社会のなかに生まれていった宮座、ひとつは信仰社会のなかに生まれていった念仏結社や別所、もうひとつは武家社会のなかに生まれていった会所である。これらの座のそれぞれに、寄合(よりあい)と雑談(ぞうだん)をたいせつにする「一座建立」と「一期一会」の心が育まれた。ここではそこに集った会衆の身分や出身を無視する「一視同仁」というコミュニティ意識も育まれた。  

≪014≫ 第2に、このような座を"サロンあるいはクラブの場"にしながら、そこで「寄合の遊芸」が尊ばれたということがある。 遊芸そのものは平安期の「あはせ」や「きそひ」、あるいは「つくし」や「そろひ」を前提としていたが、そこに遊芸をする者とこれを評価する者が交差した。のちにこれは茶の湯における主客の交流にまで発展する。とくに複雑な連歌の張行をくりかえして経験することで、どのように会衆たちが遊芸を複合的にたのしむかというロールとルールとツールが誕生していったことが大きい。 

≪015≫  第3に、すぐれた批評、すなわち評価をする者たちが主として連歌師から生まれていった。正徹や心敬がその批評を代表するが、兼好法師や鴨長明、あるいは貴族や武家にもそのような評価を重視する風潮が生まれてきた。 ただし、これらの評価者は座の「外」で生まれたのではなかった。座の「中」に生まれたのである。ここが重要である。すなわちかれらは、座を取り仕切る者であって、かつその評価を文化にしていく者たちだった。 

≪016≫  第4に、それとともに座のなかで「趣向」を重視する傾向が強くなってきた。これが「数寄」の心というものである。最初は唐物数寄が重宝され、中国からの舶来物の趣向を語りあうことが深化するのだが、やがて国物(国焼や大和絵)をもちこむようになった。そうなると、それらをどのように配分し、どのように見せるかというデザインの問題やプログラムの問題も出てきた。ここから「作分」や「景気」をもりこむという思想が派生する。  

≪017≫  第5に、こうしてこれらの「座の文化」をまるごとプロデュースし、パトロネージュする者があらわれた。ひとつはバサラ大名たちであり、ひとつは貴族たち、もうひとつは室町将軍家である。とくに義満・義持・義教・義政の会所重視の姿勢が拍車をかけた。 

≪018≫  同朋衆の誕生は、この将軍家の会所運営から直接には登場してきた。それは座敷や床の間や書院や石庭の発生と、また茶の湯と立花と能の確立と軌を一にした。 

≪019≫  会所と遊芸と同朋衆の関係が重要であることが、これでおおむね見当がついたとおもうが、ここで注目しておくべきは、この将軍家の会所では月例行事(月次)が確立していったことである。 

≪020≫  会所の行事は、もともとは幕府の月例行事の反映である。義満の時代以降、幕府は参内始・的始・旺飯始・御成始といったいくつもの行事を確立していった。それが会所に流れていく。 

≪021≫  なぜこんなことがとりたてて重要かというと、これらの会所には「座敷飾り」が必要になったからである。座敷飾りは狭い意味では「しつらい」(室礼)を意味するが、同時に「ふるまい」(振舞)と「もてなし」(持成)を意味した。この「しつらい・ふるまい・もてなし」を仕切る者として選ばれたのが同朋衆なのである。 

≪022≫  しかし、そのように同朋衆を持ち上げるまえに言っておかなければならないことがある。そもそも同朋衆は雑役からはじまったものであり、かつ法体だったということだ。 

≪023≫  同朋衆のすべてが阿弥号をもっているということは、同朋衆の起源が時衆から派生したことを物語っている。  

≪024≫  実際にも、一遍上人による時衆ネットワークの拡張は、一方で踊り念仏という芸能性を各地に広げるとともに、他方では賦算などによる"約束経済文化"の可能性のようなものを広げていった。そのなかから阿弥号をもつ者が次々に生まれていった。何かの職能性にすぐれた者たちである。ただし、かれらはいずれも法体である。僧体である。ということは遁世の者だったということだ。事実、「トモニツレタル遁世者」や「取次の御とんせい人」という言葉で、当時の文献はかれらのことを表現した。 

≪025≫  一方、将軍家や有力武家たちのあいだでは、殿中や会所の雑役にこのような阿弥号をもつ者たちを、最初は雑役に、ついでは庭者や配膳に使うようになっていった。とくに「憑」(たのみ)には目利きが必要で、文物をよく知っている阿弥が重宝された。「憑」とは贈答品のことをいう。武家社会は御恩奉公・一所懸命の社会であるとともに、贈与と互酬の社会だったのである。  

≪026≫  しかし将軍家が会所文化を充実させるには、こうした「憑」に従事する阿弥に、座敷飾りやそこに適用すべき文物の選定を任せるしかなかった。つまり奉行させるしかなかった。とくに当時は唐物数寄の時代で、中国からの文物を収集選定することが最も難しい仕事になっていた。 

≪027≫  同朋衆が唐物奉行として登用されるのは、ここからである。 なかでも毎阿弥・能阿弥・芸阿弥・相阿弥の4代の同朋衆がこの任にあたって、異常な能力を発揮した。かれらは「国手」「国工」「数寄之宗匠」などとよばれ、三具足(花瓶・香炉・燭台)の選択配置の仕方を定めた『君台観左右帳記』を著して、座敷飾りのマスタープログラムを作成するとともに、さまざまな造営・設営にかかわっていくことになる。かれらはインテリアデザイナーであって、またアートディレクターだった。そこには幕府における年中行事の確立が大きくあずかっていた。 

≪028≫  同朋衆の登場は、「唐物から和物へ」という価値観の転換にかかわったという意味でも特筆すべきものがある。 

≪029≫  それは、「座の文化」がどのように和風をとりこんでいったかという、その後の茶や花の道の遊芸文化を決定づける選択肢を握っていたということでもある。ほんとうはここに能も入れたいのだが、さきほどのべたように、観阿弥・世阿弥・音阿弥たちの猿楽者は同朋衆ではなかった。けれども、将軍家をはじめとする武家文化に同朋文化が充実していったことに呼応して能楽の大成が併立していたとみるのなら、能もまた同朋衆や阿弥との関連で論じられるべきなのである。 

≪030≫  ところで本書には、後半になって「伝書」の歴史や京料理の起源についての興味深い考察が出てくる。  

≪031≫  これらは直接には同朋衆と関係のないことなのだが、衣食住において日本の社会文化のニューウェーブがどのように萌芽していったかを知るには、さまざまな意味でヒントになっている。それらを読んでいると、どんな時代にも、日本には同朋衆的なるものが介在していたということに気がついてくる。 

≪032≫  それなのに、今日の日本に同朋衆が不在しているのは、なぜなのだろうか。「座の文化」が重視されないからなのである。ぼくは確信するのだが、われわれはやはり坐らないと話にならないのではあるまいか。 

一斎は30代半ばで林家の塾長になった。

その門下に渡辺崋山、佐久間象山、横井小楠、

安積艮斎、大橋訥庵、中村敬宇らが出た。

人生半ばから40年をかけて、4冊の言志録を書いた。

これを西郷隆盛が生涯にわたって愛読した。

『言志四録』は積年するにつれ、味わいが出てくる。

曰く「天下の事もと順逆なく、我が心に順逆あり」。

曰く「社稷の臣の執るところ二あり。すなわち鎮定、応機」。

曰く「己を喪えば人を喪い、人を喪えば物を喪う」。 

≪01≫  誰もが悩む。とくに何でもないことに、くよくよとする。ぐずぐずとする。この「くよくよ」「ぐずぐず」を自分の中から撃退することほど難しいことはない。諸君も思いあたることだろう。 

≪02≫  悩ましい期間が長引くと、自分の才能や境遇を疑い始め、さらには身近な者を疑うようになる。そのうち自分を失う。自分を失えば、人を失う。人を失えば、物を失う。しかし悩んでくよくよ・ぐずぐずしているときは、このことがわからない。せめても自身の中の「たくさんの私」の中の「いくつかの私」に自分を恃(たの)めればいいのだが、なかなかそのことに気がつかない。こうして、また悩む。 

≪03≫  こういう悩みを脱するにはどうすればいいのか。悩みを払うには志をもつことだ、志をもたないかぎり自分も人も失うと、一斎は言う。そして、志を利刃と清泉にすることを勧める。 

≪04≫  志があれば利刃のごとく百邪を払うことができる。百邪すべてが払えずとも数十邪が逃げていく。また、志は清泉のようなものである。自分という小川に泉がゆっくりと湧き出ていれば、そこへ向こうから濁水が入ってくることはない。清泉には緩まぬ湧出がある。清泉は悩まない。志をもつとは、この湧き水を絶やさないと決断することなのである。 

≪05≫  そういう志をもつには、ではどうするか。一斎は「学ぶこと」に徹するべしと言う。学べば志は利刃や清泉になる。学んで志を利刃とし、清泉としていくしかないではないか。「言志」とはこのことを表明することだった。ぼくも長らくこのことを左見右見してきた。 

≪06≫  一斎は不惑をこえた42歳のころから80歳をすぎるころまでの40年ほどをかけて、4冊の箴言集を綴った。『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』である。4冊目は「げんしてつろく」と読む。 

≪07≫  4冊をまとめて『言志四録』という。そこで、これが標題になっている。4冊いずれの語録にも「言志」がついているのが特徴だ。たんなる志ではなく、あえて言志とあらわした。この言い方には志を隠さず表明しつづける覚悟が見える。志をあらわすにあたって言葉を真剣に用いようという決心だ。その決心をもてるようにするにあたって、一斎は「世間」と「古今」を峻別することを提唱した。これがいい。 

≪08≫  一斎は、世の中に「世間の志」を「古今の志」とするのがいいと奨めるのだ。「世間の志」は散らばって報道される志だから、これにいちいち目を奪われて一喜一憂していると、せっかくの志も定まらない。 

≪010≫  先日、ぼくは愛媛県の内子町にいた。 日本パッケージデザイン協会の全国会議に呼ばれて話をするためだ。要望されたテーマは「日本流」だった。 

≪011≫  畳職人や簾職人や釜職人などの7~8の伝統技能の映像を数分ずつ見せながら、「型」と「間」の関係を話した。なぜスタティックな「型」から、動きや気配をともなうアクティブな「間」が生まれていったのか、その理由を丹念に説明した。とくに、そこにさざまな「隙」(すき)があって、その「隙」こそが次の調度の可能性をもたらしたことを強調した。こうして障子や屏風や壁代や簾といった「調べ」をもつ調度品が生まれたのだった。 

≪012≫  床の間なんて、いまでこそ生意気に座敷の大事を主張しているけれど、実際には、畳が板の間に重なり、廂に廻され、そのうえで座敷に敷かれたために、やむなく空いて生じた隙間スペースだったのである。それがみごとに自立していったのだ。 

≪013≫  われわれは、ついつい志や決心というものを堅いものだと思いすぎている。そのため何かがうまくいかないと、自信が揺らぎ、組み立てができなくなる。ついではその場から逃げたくなる。それをくりかえす。しかし志や決心にだって、もともと「隙」があったわけである。その隙間をつぶしてはいけない。逃げれば、その隙間ごとなくなっていく、決心とは、その隙間から何かを生み出せるというスタンスを、あらためて床の間を生じさせるごとくに立志することだったのである。 

≪014≫  さて、『言志四録』にはおびただしい言葉と短文が並んでいるのだが、その言葉やフレーズや文意は過激ではない。四書五経に打ち込んだ儒者たちがそうなるように、ほぼ中庸だ。 

≪015≫  が、中庸ではあるのだが、それは中くらいではない。万事と万端の例、心身と事情の例の双方をたえず比較して、その中央を突破している。実は、なかなかこのようにはいかない。 

≪016≫  西郷隆盛(1167夜)は一斎にぞっこんだった。おそらく最も敬愛した人物だったのではないか。きっと横井小楠(1196夜)あたりから「あの方はすさまじい」とでも教えられたのであろう。そこで『言志四録』を読んで、みずから101条を抜き書きして傍らにおき、後世に有名な『西郷南州手抄言志録』を遺した。 

≪017≫  この気持ち、よくわかる。あれほどの西郷であっても、迷妄を払うには一斎の中央突破の指南を身近に必要としたのだった。  

≪018≫  ぼくはといえば、必ずしも『言志四録』のよい読者ではなかった。父がもっていた表紙が色褪せた昭和10年版の岩波文庫をちらちらめくって、ふーん、貝原益軒の『養生訓』みたいなものかと感じたのがよくなくて、その後は手にとらず、やがて陽明学を読むようになってふたたび手にしたが、このときも抄読で、あまりラディカルなものと感じることができず、機会を逸してきた。つまり、ろくすっぽ読んでいなかったのだ。 

≪019≫  それがいつごろだったろうか、50歳をすぎてぼくにもやっと西郷南州の詩文が身に凍みるようになってからだと思うのだが、ようやく静座して両頁(りょうけつ)を繰るようになってから、なるほど、うんうん、やはりこのように人生を律していくしかあるまいと痛感させられた。 

≪020≫  モンテーニュ(886夜)やパスカル(762夜)を読むときは、そこまでしなくともいつも刺激を受けられる。ひょっとして他国の他人事のヒントとして読むからだろうかとも思うけれど。いやいや、我が事にしたくって読む『方丈記』(42夜)や『愚管抄』(367夜)だって、こんなふうに静坐しなくとも、けっこうな刺激がある。 

≪021≫  ところが仁斎(1198夜)や一斎はそうではない。そこそこの齢を重ね、そのなかで経験してきた人生の誤読や哀感を照らしあわせて読まなければ、実感が得られない。そういうところが多いのだ。これは、それなりに柔軟な志をもった者が、人生半ばにしてそれでも失望や痛痒を感じたり、人望から見放されてみなければ、この刺激を実感できないことだったのかもしれない。  

≪022≫  ところで一斎を読むようになって、あらためて読書に対する態度をこころすることにもなったのは、いささか意外だった。 

≪023≫  ぼくは60年間ほどにわたって、ほぼ一貫して本を読み、本を語りならわす日々をおくってきたのだが、それをいまではブックウェアの拡張にしてもいるのだが、それでも読書の姿勢をそれなりに新鮮にしつづけることは至難なことだった。とくに自分のコンディションと、相手(著述者)を知ること、知力を傾けること、それを伝えようとすることなどを、一挙につなげることがぴったりしないことが少なくないのである。 

≪024≫  一斎はそのへんの読書法を心得ていた。言四220に、こういう箇所がある。「天道は、すべてこれ吉凶悔吝(きっきょうかいりん)にして、易なり。人情は、すべてこれ国風雅頌(こくふうがじゅ)にして、詩なり。政事は、すべてこれ訓誥誓命(くんこうせいめい)にして、書なり。交際は、すべてこれ恭敬辞譲(きょうけいじじょう)にして、礼なり。人心は、すべてこれ感動和楽にして、楽なり。賞罰は、すべてこれ抑揚褒貶(よくようほうへん)にして、春秋なり」。 

≪025≫  この文章、よくよく吟味してほしい。いいですか。これは、この言葉のまま天道・人情・政事・交際・人心・賞罰についての要訣を突いた寸言と解釈しても存分なのだが、実は古典の『易経』『詩経』『書経』『礼記』『楽記』『春秋』という六経の読み方を会得する方法を指南しているというふうにもなっている。 

≪026≫  こういうふうに中身と読み方の両方を、これらをまだ熟読していない者に同時にブーツストラッピングしてみせるというところが、ぼくからするとなかなかなの技倆なのである。 

≪027≫  読書法については、言一235以降、言二46以降、言三42以降、言四6以降にも述べられている。「意義の筋道」と「文章の筋道」をごっちゃにしないこと、実践好きな行動派の連中こそ本を読むべきこと、好きな著書のものを「環読」(代わる代わる読む)すること、歴史書にいつも還って「還読」(ふり返って読む)してみること、読書にあたっては目が耳に、耳が心に響くようにすべきであることなどを強調している。 

≪028≫  佐藤一斎は安永元年(1772)十月、江戸浜町の岩村藩邸に生まれた。岩村の藩邸に生まれたのは佐藤家が代々の藩儒だったからで、父の信行も家老職だった。 

≪029≫  一斎は7歳で三井親和に門に入って書道を学び、13歳で林述斎(松平衡)とともに加冠した。この述斎がのちの林家の大学頭(だいがくのかみ)になった男だ。つまりは典型的な保守主義者なのである。 

≪030≫  その後、20歳をすぎての一斎は間大業(はざまたいぎょう)の紹介で、大坂の懐徳堂に入って中井竹山に師事をする。本格的に儒者の道を歩み始めたのだ。この時期、皆川淇園とも出会った。そのあとはしばらく京阪を逍遥し、江戸に戻って幕臣の娘の栞と結婚、3人の子をもうけたが、栞は30歳で死んだ。その間、一斎は松浦静山の招聘をうけて長崎に遊学しており、沈敬胆らの清国人と交わった。 

≪031≫  34歳、再婚後の一斎は林家の塾長となっていた。まさに保守本流の只中の頂点に立ったのだ。ただし、たんなる儒者たちの元締めになったのではない。ひたすら後輩をそだてることに専心した。案の定、この門下から渡辺崋山、佐久間象山、安積艮斎、横井小楠、大橋訥庵、中村敬宇らの傑物たちが育った。とくに象山、小楠を生んだのが大きい。よほどの教育者であったのだろう。西郷もそこに惹かれたのだ。 

≪032≫  こうして42歳の前後から一斎は『言志録』をこつこつと書き始めた。大江戸八百八町が百鬼夜行に舞い上がっていた文化文政の真っ只中だった。 

≪033≫  このあと、日本社会は軋んでいく。みりみり、みりみりと音を立てて割れていく。たとえば天保4年(1833)には62歳になっていた一斎のもとに、中斎大塩平八郎から『洗心洞箚記』が贈られてきた。大塩が大坂で決起する直前のことだ。一斎は心を動かされるが、体は動かさなかった。 

≪034≫  68歳のときは渡辺崋山や高野長英が投獄され、獄死した。このときも激震が胸中を襲った。それでも一斎はこの国の人士の来し方行く末を見続けることを選ぶ。82歳、ついにペリーの黒船が来る。一斎もペリーの国書の解釈に駆り出された。もはや日本は決定的な選択を迫られたのである。しかし一斎はその後の日本を見据えて、じっと『言志録』を綴り続けた。 

≪035≫  いまの日本が政治不信のなか、デフレ・不景気・日米同盟漂流のままに沖縄基地問題や尖閣・竹島に始まる日中や日韓の緊張にあるといっても、一斎はそれ以上の劇的な内外の変革期の渦中にいたわけである。 

≪036≫  そのなかで、あえて沈思黙考して綴った『言志四録』が幕末維新のリーダーたちに与えた影響が大きかったのは、当然だった。 

≪037≫  本書を校注した川上正光もその一人である。川上は儒学者でもないし、安岡正篤のような汎用陽明学主義者でもない。中国思想や日本思想の研究者でもない。東工大出身の電子工学の専門家なのである。のちに東工大の学長や長岡技術科学大学の学長になって、教育界のリーダーシップの一端に貢献したとはいえ、佐藤一斎の原典に全面的にとりくんで翻訳や校注にとりくむような背景はなかったはずである。 

≪038≫  それが、いったん『言志四録』を読んだとたんに、大きなうねりに取り込まれていった。そういう本なのだ。 

≪039≫  それではいくつか、ぼくが気にいった文言を拾っておく。 「憤の一字は、これ進学の機関なり」(言一5)。発憤こそ学のエンジンであるという意味だが、その「憤」は次のようになっている。「面(おもて)は冷(れい)ならんことを欲し、背は煖(だん)ならんことを欲し、胸(きょう)は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す」。なんともすばらしい。 

≪040≫  「少年の時は老成の工夫をあらわすべし。老成の時はまさに少年の志気を存すべし」(言一34)。これはぼくが最も心掛けてきたことだ。いいかえれば「得意の時候は最も退歩の工夫をすべし」ということ、また「天下の事もと順逆なく、我が心に順逆あり」ということにもなる。順逆を動かしているのが、一斎の編集的哲学なのである。だが、ぼくには次のことが欠けていた、「一気息、一笑話も、みな楽(がく)なり。一挙手、一投足も、みな礼なり」。  

≪041≫  一斎はさまざまな言い方でリーダーシップについての苦言を呈している。ぼくは世の中のリーダーシップ論のたぐいにあまり関心がないのだが、次のような一斎の指摘には頷きたい。 

≪042≫  ひとつ、リーダーたる者は早々に上の者を確信する気持ちがなくてはならず、いったんリーダーになったら、上下の言ではなく左右の言に惑わされないようにすること。ひとつ、禍(わざわい)は下より起こるというが、そんなふうに思ってはいけない。禍はたいてい上のほうからおこるものなのだと知ること。ひとつ、「己(おのれ)を喪えば人を喪い、人を喪えば物を喪う」(言一120)と思うべし。 

≪043≫  国のリーダーについてもいろいろ書いている。曰く「社稷の臣の執るところ二あり。すなわち鎮定、さもなくば機に応ずる」というふうに。国家に仕える者はまず海外からの蔑みを招かないようにしておき、ついで内なる混乱を鎮めることに勤め、あとはつねに臨機応変でいることだというのである。まさにその通りだろう。 

≪044≫  しかし、この国のリーダーたちに贈りたいのは、むしろ次の言葉だ。「国乱れて身を殉ずるは易く、世治まって身を斎するは難し」(言二91)。国家が乱れているときに一身をささげて粉骨砕身するのは当たり前、むしろ大事なのは世が治まっているときに身を砕くことである、という箴言だ。 

≪045≫  ふつう、一斎の思想は「克己の思想」だといわれる。ぼくは「克己」という言い方や「自己超越」という言い方があまり好きではないのだが、つまり自己を起点に滅私や無私に走るのは、しょせん自己にとどまっているように思ってしまうのだが、ところが、一斎の克己は意外にも高速をもって鍛えていなければならないものだった。 

≪046≫  一斎は「克己の工夫は一呼吸の間にあり」(言三34)などと言う。こういうような、“そのつど速くなる克己”なら、これはちょっと得難い。さきほども書いたが、克己も隙間でおこるというわけだ。これならば、いい。 

≪047≫  もっとも、克己の前に早々に実感しておくべきこともある。それは「得意と失意」をどうするかということだ。 

≪048≫  われわれはついつい得意を伸ばして、失意をなくそうと努めようとする。しかし、その逆を思ったほうがよかったのである。すなわち「得意との物件は懼(おそ)るべくして喜ぶべからず。失意の物件は慎むべくして驚くべからず」(言四32)というふうになる。 

≪049≫  ことほどさように、佐藤一斎を読むには多少のジンセーを積年するにかぎるのだが、そのように感じてしまうこと自体が、ほんとうはヤバイことだったのかもしれないとも思う。なぜなら崋山、象山、小楠、訥庵、西郷らは、『言志四録』を読んで発奮したのは20代後半から30代前半にかけてのことだったのだ。いいかえれば、一斎の言葉がいきいきと飛び込んでくるような国情だったのである。 

≪050≫  いま、日本の国情だってそうとうに憂慮すべきものである。それにもかかわらず一斎を老人たちばかりが読んでいて、いいものか。いいはずがない。ぼくとしても、このあたりのこと、いよいよ考えこまなければならないわけである。