俳句・和歌

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≪01≫  最初は「天つ風」「有馬山」だった。母が宝塚の天津乙女、有馬稲子、霧立のぼる、小夜福子の名を言いながら、百人一首のいくつかを教えてくれた。タカラジェンヌが百人一首の歌をもじった芸名をつけている慣例は数寄者であって作家でもあった小林一三の思い付きなのだろうが、言葉の組み合わせがつきたのか、その後はなくなってしまった。

≪02≫  母はたいていの歌を憶えていて、しかも早かった。府一の女学校時代は袴を着けて遊び競っていたという。ぼくはその母の影響で一字決まりの「むすめふさほせ」から丸暗記を始めた。

≪03≫  その後も百人一首にはさまざまに惹かれていて、正月に集まった者たちに百人一首をすすめては読み手を担当するとか、何か怪しげな百人一首の謎をめぐる本が出るとそれをすぐに買って読むとか、白洲正子が綴る百人一首の話はさすがに白洲さんらしいとか、石川淳はいかにも玄人読みだとか、ともかく「百人一首」と名がつくと気になるのである。実は『マンガ百人一首』などといった本まで読んでいる。

≪04≫  そういう下世話な百人一首マニアではあるのだが、丸谷才一が新たな百人一首の精選に乗り出して「新潮」をはじめとする各誌に選首評釈を書きはじめたときは、正直いって出し抜かれたおもいがした。

≪05≫  丸谷さんは河出が別冊文芸読本というシリーズをつくっていたころ、当時としては珍しい本格的な百人一首特別本を編集していた百人一首の研究家でもある。そこに「百人一首とわれわれの文明」という巻頭エッセイを綴っていたことも記憶にのこっている。

≪06≫  その丸谷さんがいよいよ新たに百人一首を組み始めたのである。なんだか羨ましかった。それに、なんだか悔しかった。それで各誌の連載を追うのはやめにしたのだが、あらためて一冊にまとまったものを読んでみて、これはただならない壮挙な企画であるとともに、丸谷才一の選者としての能力、さらには編集の才能というものにあらためて感服することになった。

≪07≫  歌の選び方については、いまはただあきれるばかりで批評など思いもつかない。第一歌が貫之の「み吉野の吉野の山の春がすみ立つを見る見るなほ雪ぞふる」、第百歌が紫式部の神祀歌「おいつ島しまもる神やいさむらん波もさわがぬわらはべの海」であることも、憎いというしかない。

≪08≫  それぞれの歌をめぐる評釈や解説も滋味も機知も含蓄もあふれていて、名人の料理を毎日いただいている気分になる。それもいちいち器がすばらしい。ひとつずつ大小器量の別がつながっていて、そこに景色がついている器なのである。わが身の非才をさておいていうのだが、ああ、こういう仕事こそ自分もいつかは従事し、ひそかに堪能すべき仕事なのだろうと思った。

≪09≫  まあ、そんな感嘆ばかりしていても何の紹介にもならないので、何かその料理の味をひとつふたつ言わなければならないのだが、さて、本書にふさわしい趣向でお返しをしなくてはいけないなどと思うとますます気が遠くなるので、ここはぼくが気になった歌人たちからどんな歌が選首されたのか、そのことだけをさらりと案内するにとどめたい。

≪010≫  順番は、『新古今』の部立てに応じて選者丸谷才一が並べた春夏秋冬・賀・哀傷・旅・離別・恋・雑・釈教・神祇にもとづいて、一番から番号がふえていくにしたがうことにする。

≪011≫  まず、二条后高子の「雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ」。

≪012≫  もともとは窪田敏夫の見識だというが、この歌は「雪・氷る・泪・溶く」が共鳴しあっているだけでなく、「うぐひす」にさえ「浮く」と「漬」とがひそんでいて、のちに契沖が『古今余材抄』で「鴬に涙あるにもあらず、こほるべきにもあらねど、啼く物なれば涙といひ涙あればこほるといふは歌の習也」と書いたように、そのうえに「うぐひすの泪」という鳥の泪を「型」にして歌の習いを懐に入れていた事情を暗示するものでもあった。選者はこの鳥の泪をめぐってたっぷり蘊蓄を公開する。

≪013≫  ついで宗祇。「これやそのわかれとかいふ文字ならん空にむなしき春のかりがね」である。この歌はタイポグラフィック・イメージを雁に託して歌に詠んだもので、もともと帰雁似字という題がある。宗祇は空を行く雁が「分」の字に似ていると見立てたのだが、こういう文字に見立てて景色を詠むというのはぼくが好むところ、葦手文字が歌となり雁となって空へ翻ったようで、好きなのだ。

≪014≫  正徹は「沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん」。すごい歌を選んだものだ。これについては選者が「和歌が亡んだゆゑ実は都でなくなつた都に秋が立つ日に、今となつては真の都である虚構の都の秋を思ひやるといふ屈折した構造」と書いていることで、すべてが言い尽くされている。

≪015≫  心敬の有心体からは何かと期待していたら、「世は色におとろへぞゆく天人の愁やくだる秋の夕ぐれ」であった。天人五衰の歌。選者はこの歌を正徹同様に、王朝和歌の弔いの歌として選んだようである。氷の艶はそこまで及んでいたか。

≪016≫  もう少しあげたい。鴨長明からは「山おろし散るもみぢ葉やつもるらん谷のかけひの音よわるなり」が選ばれた。

≪017≫  こういう歌を選者は「遠方推考歌」と名付けているらしい。眼前触目の景色を手がかりに遠方の消息を推るという歌である。これは後鳥羽院の好みが及んだもので、鴨長明だから特色したというのではない。長明としてはむしろ「よわるなり」を詠んだのであろう。

≪018≫  で、その後鳥羽院であるが、おそらくは選者が最も考え抜いて選首したであろう歌は「わたつみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる」。なるほど、なるほど。御子左家のお家芸ともいえる多義複相の歌法を下敷きに、海神幻想をいっぱいに開いた。この一首を選んだことに、選者の後鳥羽院への格別の心情が投影されている。知られるように、丸谷さんには『後鳥羽院』という著書がある。

≪019≫  意外なのは、定家が「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」だったことである。

≪020≫  本歌どりの規範ともいうべき歌ではあるが、定家の一首がこれに徹したというのではないのであろう。おそらくいろいろの意図がある。たとえば、『新古今』巻六の冬歌が、千鳥・鴨・霰とすすんで淡雪・初雪で雪になり、やがては山の雪になるという結構をとらえて定家のこの歌の位置を見定め、加えて俊成、後鳥羽院、長明などとの緊張の前後関係から選考し、そのうえさらに、この歌が源氏物語の構造のおもしろみに介入する定家の意識にも合点できるものであることなど、きっとあれこれを含んだのだろうと想像もしてみるが、しょせんはこのあたりの愉しみ方は、ぼくなどおぼつかないところ、ひたすら評釈を詠ませてもらっただけだった。

≪021≫  それは、西行から「あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん」が選ばれたことにも通じていて、選者はこういう選び方でそうとうに艶やかな趣向を遊んでいるのだ。これは、何というのか、通人が芸者に三味線の弾き語りを所望して、よしよし次は西行はこれだなどと盃を傾けているような風情なのである。

≪022≫  このあと「恋」の部に入って、その劈頭に人麻呂の「をとめごが袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひそめてき」がおかれる。この歌が定家・後鳥羽院時代の"本歌の王様"だったことによるのであろう。

≪023≫  藤原為氏の「乙女子がかざしの桜さきにけり袖ふる山にかかる白雪」などは、頓阿『井蛙抄』や幽斎『聞書全集』にも、宣長の『古今選』にも人麻呂歌の模範のごとく何度も採り上げられた。そのような歌が明治以降は音沙汰されなくなったのはなぜなのかというのが、丸谷さんの視点で、「神祇と恋との小暗い相関」がわからなくなってしまったからだというのが、丸谷流の穿った判定である。

≪024≫  人麻呂につづいては、百人一首でも馴染みの歌人たちが次々に登場する。重之(風をいたみ)、友則(ひさかたの)、業平(ちはやぶる)、道雅(今はただ)、光孝天皇(君がため春の野に)、清少納言(夜をこめて)、和泉式部(あらざらんこの世のほかの)、小野小町(花の色は)、式子内親王(玉の緒よ)、伊勢(難波潟みじかき蘆の)というふうに、まさに超有名どころ綺麗どころが連打されたのち、公任(滝の音は)、寂蓮(村雨の)、伊尹(あはれともいふべき人は)、俊頼(憂かりける)、忠通(わたの原)というふうに結ばれる。

≪025≫  これら百人一首の花たちの大量の歌群から丸谷さんが選んだのは、念のため次の歌。元の百人一首に入らなかった何人何首かを省いたが、人麻呂からあらためて並べてみると、意図が明るい。

≪027≫  最後が忠通の「おろかの恋ぞなほまさりける」なのである。なるほど、である。歌というもの、結局はリアル=ヴァーチャルであり、かつ色好みをこそその本来としているということなのだ。

≪028≫  ところで、この「新々百人一首」をもとに、光琳よろしく誰かがこれをカルタに装飾し、さらには一字きまりの新たな「むすめふさほせ」などをあげて、いつしか正月に丸谷カルタ(マグナ・カルタのようですね)が遊ばれることを想像すると、それこそ居ても立ってもいられない気分になるばかりである。

≪01≫  誰だって、何かに依存して生きている。家族に依存し、仕事に依存し、ペットやゲームに依存し、耳から入るイヤホン音楽や口の渇きを癒す缶ビールや、スマホの見聞やラインの応接や、サッカー練習や車のドライブや合コンに依存する。ぼくは本来がたいへんふしだらな心身の持ち主だから、親しい者やスタッフに依存し、本とノーテーションに依存し、連想と逸脱という方法に依存して生きてきた。

≪02≫  そんなぼくから、夜更かし、喫煙、あれこれ雑談、おかき、本の貪り読み、信頼スタッフ、俳諧味、憧れ主義、夏のソーメン、クロレッツ、A4ペーパー、お茶、よき友、神社仏閣、赤と青のVコーン、老眼乱視のメガネ、おにぎり、ノートパソコン、ダダとパンクな感覚、キンカン、何本かの毛筆、スイカと桃、冷暖房機、ヨウジの黒い服、ワープロ書院、葛根湯、陶芸を見る時間、ガリガリ君、かっこいい仕事相手、咳止めブロン、扇子、ゴルチェのサングラスを取ったら、すぐにひからびる。

≪03≫  誰だって、さまざまな習慣や嗜癖や趣向をもっている。なんらの依存もせず、どんな習慣もない人間生活なんて、ない。文化とは依存と習慣と嗜癖で成り立っているとさえいえる。

≪04≫  いや、人間の正体のかなりの部分が依存と習慣と嗜癖でできていると言ったほうがいいだろう。だから、いろいろな人物のそういう依存と習慣と嗜癖をつぶさに見ていけば、いくらだって小説が書けるだろうし、落語もコントもパスティーシュ(模倣作品)もどんどんつくれるだろう。宮武外骨はそういう雑誌づくりをし、井上ひさしはそういう作劇術を実践していた。

≪05≫  ところが一方、世の中では過度の依存や習慣を戒めてきた。麻薬だけでなく、広範にわたる薬物依存や飲酒習慣を咎めてきた。そういうものは中毒だというのだ。あるいは悪しき嗜癖だというのだ。

≪06≫  社会というもの、そうした習慣の依存症や嗜癖の常習犯にはきびしく接し、かれらがもたらす家族や法人や周囲への迷惑と危険を取り除こうとしてきた。依存と習慣と嗜癖で社会文化や生活文化が成り立ってきたというのに、さらにはさまざまなクセで表現世界が成り立ってきたというのに、依存しすぎや特定の習慣はいつのまにか社会問題になってしまったのである。

≪07≫  生物学的には習慣や嗜癖の定着は「進化」や「適応」や「分化」のひとつのあらわれである。動物の生きざまはほとんど習慣と嗜癖によっているし、たいていの生態系は動物たちの習慣や嗜癖によってニッチを分けてきた。ユクスキュルはそのことによって、生物と環境とは互いに「抜き型」の関係を持ち合っていると言った。

≪08≫  同じことが人間社会にも、けっこうあてはまる。適度な習慣と嗜癖がなければ、家の間取りや家具は決まらず、洋服やファッションの流行もなく、スイーツや焼肉屋もはやらない。イオンやセブンイレブンの品揃えはありえない。大半の芸術やスポーツだって、ピアノから野球やボルダリングにいたるまで、お絵描きから競輪やヒップホップまで、もともとは何かに依存してみたい衝動から発達してきたわけである。

≪09≫  精神医学や社会病理学では、このようなことを一応の前提にしていながらも、長いあいだ「嗜癖」(addiction)と「中毒」(poisoning)と「習慣」(habit)と「依存」(dependence)とを、ときに区別し、ときにごっちゃにしてきた。ぼくなら、すべてはアディクションとみなしていいと断言したいのだけれど、そうはいかないらしい。

≪010≫  かくていまでは、「お酒が好きだ」と「アルコール中毒」とが、「惚れっぽい」と「性愛過多」とが、仲を引き裂くかのごとくに截然と分断されるようになったのである。タバコ好きなどは、すべて危険な習慣だとみなされつつある。

≪011≫  清潔でありたいということと一日に二〇回も手を洗わないではいられない潔癖症になることとのあいだには、何の「隔たり」があるのだろうか。酒を嗜むということと毎晩浴びるように酒を飲む「アルコール中毒症」とには、何の「過ぎたるは及ばざる」が介在しているのだろうか。

≪012≫  ぼくの知人の奥さん(タレントさん)には、部屋の中に埃が少しでもあるとじっとしていられなくなる性分がある。だからしょっちゅう家中の掃除をし、そのため旦那(政治家さん)は家では何もできなくなった。泉鏡花がそうだったのだが、ずっと以前からバイキン恐怖症というものもあって、のべつまくなく手を洗ったり、オキシフルで消毒したりする。いまでは潔癖症とか不潔恐怖というらしいのだが、これらは正真正銘のビョーキなのである。

≪013≫  こういう例はいろいろあるのだが、それを何かの社会的オーダーの基準にして、隔離や治療の対象にする必要がどうして生じたのだろうか。かつての疫病隔離やハンセン病隔離とはちがう。依存症はあくまで個人のアディクションなのである。「おたく」がそうだったように、それらはたんなる趣味だったのだ。それがついつい清潔にしたくなりすぎたり、ついつい相手のことが気になりすぎたり、ついつい飲みすぎたりした。ところがこれを許さない社会がしだいに力をもってきた。

≪014≫  今日の精神医学や社会病理学の趨勢は、嗜癖と中毒を両方とも「オブセッション」(obsession)によるものだとみなす。もともとはオブセッションはシャーマニックな憑依や自然に対する恐怖などを含んでいた言葉なのだが、精神医学ではほぼ強迫観念をさす。手洗い強迫、掃除強迫には、「アルコール中毒」や「コカイン中毒」とともに強迫性障害(Obsessive Compulsive Disorder)という病名もつく。医師や看護師やセラピストたちは「OCDの患者さん」などと言う。

≪015≫  よせばいいのに、嗜癖にもいろいろな分類がつく。タバコや薬物や食物による過食症はサブスタンス・アディクション(物質嗜癖=摂取の嗜癖)で、ギャンブル依存や買い物依存やセックス依存は行為のプロセスに溺れるのでプロセス・アディクション(過程嗜癖)という。ワーカホリックはプロセス・アディクションの典型だ。

≪016≫  ストーカーや窃視症(覗き見)や強い猜疑心から逃れられないばあいは、リレーションシップ・アディクション(関係嗜癖)と呼ばれる。人間関係にこだわりすぎたということなのだが、犯罪にふれたのならともかく、人間関係の度が過ぎるといっても、その度合いなんて判定しがたいはずである。けれども過剰や過度はダメなのだ。こうなると誰かのことがむしょうに気になることを「恋闕」などとは言っていられない。

≪017≫  こうして精神医学界は、アメリカAPA(米国精神医学会)のDSM(精神疾患の診断統計マニュアル)などにもとづいて、さまざまなパーソナリティ障害の基準を次から次へと確立していったのである。こういう分類や病名にはどうにも釈然としないものがあるが、精神医学はここから一歩も引こうとはしない。

≪018≫  本書は、アメリカのセラピストであってフェミニストでもある社会病理学者のアン・ウィルソン・シェフが、ほぼ同時期の『嗜癖する人間関係』(誠信書房)、『女性たちの現実』とともに著した。

≪019≫  DSMに準拠した議論をしているのではない。「嗜癖は白人男性社会がつくったものだ」というかなり突っ込んだ見方から、独自の治療を展開している。それゆえ、白人男性が用意周到につくりあげた包囲網に対する反逆の気分も吐露されていて、そういう怒りの文章も目立っているのだが、さらに読んでいくと、彼女が本気で強迫依存症の治療にとりくんでいることがしんしんと伝わってくる。

≪020≫  アン・シェフはとくに、過度の依存症や過度の嗜癖症は「共依存の関係がつくっている」という見方に深く入りこんで、それによってOCDに陥った強迫依存症や強迫神経症からの脱出のためのプログラムをいろいろ模索してきたセラピストなのである。だから、どこかお節介だ。

≪021≫  「共依存」(co-dependency)という用語は聞きなれないかもしれないが、一九九〇年代のアメリカ社会で顕著に浮上してきた相互依存型の精神障害のことをいう。

≪022≫  愛情過多が憎悪に結びつくことは、誰もがティーンエイジのころからなんとなくはわかっていたことだろうが、最近はそれが憎みながらも離れられない関係になったり、愛憎がひっくりかえって虐待になったり、そのようなひっくりかえりが介護者にもおこったりすることがふえている。ときに家族間の殺人事件や恋人どうしの殺害に及ぶことも少なくない。複雑で痛ましいのは、介護される老人たちに対して介護者の愛憎が激しく動いていくときである。

≪023≫  こういう愛憎半ばする相互依存関係を「共依存」と言うのだが、アン・シェフはこの共依存専門の治療者なのだ。治療者であるということは介護者でもあるわけだから、当然、アン・シェフも愛憎を受ける。その感情の起伏を含めて、本書は過度のアディクションの実態を探索した。

≪024≫  今日、共依存もオブセッションであるとみなされている。自分と相手との関係が何かに向かって過度な依存性を増しているからだ。共嗜癖(co-addiction)ともいわれる。

≪025≫  共依存の見方は医療や医学の研究から提出されたものではなかった。看護の現場から提案された見方だ。アメリカではアルコール依存症を民間で治療することが広くおこなわれていて、その現場に携わってきたセラピストたちが自分たちの微妙な立場を入れこんで共依存の探索を始めたのだった。

≪026≫  共依存関係には、一見すると献身的な様相もある。実際にも献身的な行為が治癒を進め、人間関係やその関係が属するコミュニティを支えていくことは少なくない。ところが、それが過度になると急に厄介になる。危険にもなる。「だって、あの人は私が見捨てたら生きてはいけないでしょう」という思いが強くなり、それがしだいに生殺与奪の一端にかかわっていく。逆に、自分のせいで相手を悪くしていると思いすぎることもある。このばあいは介護者のほうにマイナスの自己強迫がおこって、強度のストレスがたまっていく。

≪027≫  高齢化が急速にすすんでいる日本社会でも、こうした問題が浮上してきた。日本では「境界性パーソナリティ障害」や「自己愛性パーソナリティ障害」とからめて議論されることもふえている。これらを含めて共依存が注目されるようになったのだった。

≪028≫  ところで、ぼくはこの手の心理学的議論がたいへん苦手なのである。冒頭に書いたように、もともとが周辺依存型で生きてきたからだし、アディクションやフェチを大いに肯定してきたからだ。はっきりいって、その「おかげ」でここまでやってきた。

≪029≫  ただ、依存してきた相手やアディクトしてきた「人・もの・情報」について、できるかぎり綴ったり、リスペクトしたり、おもしろいリプリゼンテーション(表象)に変換していこうとしてきた。ようするに、編集してきた。このことがなんとかここまでやってこられた理由でもあったのだろうと思う。いわば依存者やアディクション対象との関係を、インプリシット(暗黙)に内にこめないで、新たな表象にエクシプリシット(明白に)したり、エンフォールド(抱きこむ)したりしてきたのだった。

≪030≫  そんなことだから、ぼくには精神医療者のように他人の心理を覗きこんだり、他者どうしの関係を観察したりする才能が、からっきしなのである。ジャック・ラカンを応用して分析することも、すこぶる苦手だ。むろん救済力も乏しい。そういうことをする以前に、ぼくが関心をもつ相手や他者のどこかに、ぼく自身のアディクションが忘れ物のように落っこちていることが発見できて、そちらに夢中になっていくからだ。

≪031≫  ぼくが仮りに誰かを育てたり成長させたりすることができているとしたら、それはぼくが自分のアディクションの育みにもとづいて、その相手や他者におもしろくなってもらえるようにしようと思ったからなのである。

≪032≫  もっと決定的に「才能がない」と言えるのは、ぼくには基準値や標準値に戻すという発想がないということだ。世の中や相手を社会的な標準値に戻してあげたいとは思っていないのだ。そんな平均的なところへ行ってほしくない。そのため、ついついサブカルや「おたく」の肩をもつ。これではどうみても、治療の資格はないだろう。

≪033≫  というわけで、この手の精神医療的な微妙な議論はとても苦手だ。だいたい精神医療関係の本の何を読んでも、ぼくのほうが当該患者に見えてくるし、加害者にすら見えてくる。そもそもが「迷惑、かけっぱなし」の人生なのだ。

≪034≫  もっともそうであるだけに、ひょっとするとある種の「関係事情」がわかるところもあるかもしれない。一言、二言、そんなことを綴っておきたい。 こんなふうに思う。

≪035≫  われわれにはおそらく「何かをほしがる欲求」と「何かが手に入らない諦め」と「何かに見捨てられる不安」とがつねに同居しているのである。このことは、断言しておくが、すべてすばらしいことだ。困ることではない。このような感覚が動かないでは、歌も学習も、ファンタジーも信仰も、食卓もサッカーもない。仏教がこの三つから出発している。「ほしがる欲求」と「手に入らない諦め」と「見捨てられる不安」が、しばらくたって般若や菩薩道や空観や中観をつくっていったのだ。

≪036≫  だから、この三つを大事にしたほうがいいと言いたいのではない。欲望と諦念と不安を別々にしないほうがいいのではないかと言いたい。この三つがどんなトレード関係にも入らないようにしたほうがいいと言いたいのだ。モンテーニュふうにいえば、こういうことを「質」に入れないようにしなさい、と言いたい。

≪037≫  なぜならこの三つは、自分が律しようとすれば、すべて三つ巴の矛盾や循環になるばかりであるだけではなく、それを解決しようとしたとたんに、それらがことごとく誰かと関連していることになり、その相手ごとの(あるいは相手を避けるような)解決をむりやりにでも試みることになるからだ。こんなことはちっとも俳諧的ではない。おシャレじゃない。パンクでもない。自分に負担をかけるし、相手にも負担をかけるのだから、愉快にもファンタジーにもならない。小説やテレビの心理ドラマになるだけなのである。

≪038≫  それなら、そんな三つ巴を誰かさんとの関係にしないようにするにはどうするか。ぜひともお勧めしたいのは、「意識」を自分のものだと思わないことである。「意識」が自分の正体だと決めないことである。

≪039≫  意識はモニターだ。意識の動向はモデリング・モニターに表示されていることにすぎない。なぜそんなふうにみなしたほうがいいのかということについては、申し訳ないことながら、今夜は書かない。

≪040≫  もう一言、書いておく。「嗜癖する社会」や「フェチの文化」は決してなくなりはしないということだ。二一世紀がいくら進んでも、なくならない。それでも努力したいことはある。それは嗜癖を単純でわかりやすいもののほうに、なるべく振っていかないようにすることである。スマホもテレビ番組もラノベもSNSもわかりやすいものに向かいすぎている。これがよくない。本来のアディクションはもっと複雑で、わかりにくくたっていいはずなのである。そのほうが、気持ちは崩れにくいし、追い込まれない。

≪01≫  自分には詮索癖のようなものがある、と佐藤春夫は書いている。どの程度の詮索癖かは知らないが、ちょっとしたエピソードや歌の動機のようなものが気になるらしい。が、それだけではこの本は書けない。晶子に対する尋常ならざる関心がある。

≪02≫  佐藤春夫は『晶子曼陀羅』を読売新聞に連載する前年に、与謝野晶子の歌を一千首選ぶという仕事をおえ、新潮社から刊行している。そのおりに晶子に関するさまざまなおもいが渦巻いたのであろう。この連載はまことに一気に、淡々とはしているが、彫刻刀で削ったような名文で痛切に綴られていて、多くの晶子論とは一線を画した。昭和29年には新橋演舞場で新派上演もされ、さらに翌年に読売文学賞を受賞した。ようするに、当時の大向こうを唸らせた小説なのである。

≪03≫  この本は与謝野晶子の生涯を追ったものではない。少女晶子が浪漫にめざめて古典をむさぼり、歌を詠み、鉄幹と出会って恋に落ち、みずから時代を奔って「女」になるまでを扱っている。

≪04≫  だから、その後の晶子が平塚雷鳥に『青鞜』の序詞を頼まれ、その後は雷鳥からも伊藤野枝からも批判されて怯まず闘いつづけたとか、11人もの子供をどのように育てたとか、さらには西村二朗の文化学院の創立にどのようにかかわったとか、そういう事情にはいっさいふれられていない。あくまで晶子が有名になるまでの生涯の四分の一ほとが扱われている。

≪05≫  そこで、佐藤春夫の目はいきおい山川登美子にも注がれる。登美子は晶子ともに鉄幹を愛した女であり、鉄幹も登美子が夭折するまで心から離せなかった「明星」の歌人である。ときに晶子を上回る歌を詠んだ。

≪06≫  晶子もずっと登美子を意識した。いや、嫉妬さえしていた。その晶子の感情は長詩「ふたなさけ」によくあらわれている。佐藤春夫もその「ふたなさけ」に注目をして、晶子と登美子のあいだに蹲る意識に硝子のようなものを見つめている。

≪07≫  最近、晶子については、まったく新しい視点からその生き方が注目されるようになった。

≪08≫  そのひとつは、センセーショナルな売れ行きを示した永畑道子の『華の乱』と『夢のかけ橋』に集約されているのだが、晶子と有島武郎の関係に光をあてようとしたものである。いまのところ晶子と武郎がどのような関係であったかということについて、”文学史上の史実”が確証されているわけではないのだが、この視点は新たな晶子像を世に公開し、それが深作欣二の演出、吉永小百合と松田優作の主演で映画化されたことも手伝って、おおいに話題になった。ぼくもこの映画を大学の講義につかったが、それまで与謝野晶子などろくに読んでもいなかった学生たちの多くが、晶子に異様で新鮮なな興味をもちはじめたものだった。

≪09≫  もうひとつは俵万智が『チョコレート訳・みだれ髪』をあらわし、実は『サラダ記念日』が『みだれ髪』の衝動に直結していたことがあきらかになったことである。そんなことは短歌の近現代史を見ている者には最初から見えていたことだが、一般的には驚きをもって迎えられた。

≪010≫  いずれにしても、今日の女性にとって与謝野晶子はさまざまな意味での”原点”にあたるはずである。これはまちがいがない。

≪011≫  生き方が根本からちがっている。根性があって、それが叙情の果てまでつながっている。スーザン・ソンタグに近い。こういう女性はめったにいない。かの平塚雷鳥も及ばない。実際にも『青鞜』創刊号に寄せた晶子の巻頭文「山の動く日来る」は、雷鳥以下の女性たちを震撼とさせ、未曾有の勇気を与えたものだった。まず、晶子の歌を、ついで厖大なエッセイを読むとよいが、ぼくとしては、日本で最初に『源氏物語』(1569夜)の現代語訳にとりくんで、かつその後のどんな現代語訳をも凌駕している『与謝野晶子訳・源氏物語』を読んでもらいたいというのが、本音なのである。晶子の源氏にくらべれば、円地源氏も瀬戸内源氏もお話にならない。ぼくは吉本隆明の古典の読み方にはいささか文句があるのだが、吉本が「源氏は晶子のものが群を抜いている」と評価していることには一目おいている。

≪012≫  ちなみに佐藤春夫の『晶子曼陀羅』は、話が一区切りすすむたびに選び抜かれた晶子の歌が提示されていて、一種の歌垣にもなっている。

≪013≫  ぼくも、ここでは『みだれ髪』から「髪」を詠んだ歌を示しておいた。収録順である。いずれも女性誌か詠めない歌であることはむろんだが、その「髪」に何がさしかかり、何が残光し、何の残響を詠もうとしているかが、図抜けて冴えている。そこを感じられたい。次のものも、そうだ。

≪014≫  『みだれ髪』に敬意を表して「髪」の歌ばかりを選んだが、晶子の歌は当然にまことに広く取材し、つねづね深く遊び、ひたすら遠くに飛んだ。そうした多様な歌のなかで、「日本の精神」というか「女が嗅いだやまとたましひ」というか、あるいは「男神をねだる心」ともいうべきものを詠んだ歌も数かぎりない。ぼくはその面でも晶子に脱帽し、そのような晶子がさらに知られることを希っている。

≪015≫  その「をのこ神」を過敏にも幽遠にも走らせた歌を、やはり『みだれ髪』から示したい。他の歌集から選べばおそらくはさらに百首・千首にいたるのではないかとおもう。≪012≫  ちなみに佐藤春夫の『晶子曼陀羅』は、話が一区切りすすむたびに選び抜かれた晶子の歌が提示されていて、一種の歌垣にもなっている。

≪016≫  佐藤春夫についても一言二言、加えておかなくてはならない。春夫は新宮中学時代にすでに「明星」「スバル」などに短歌を投稿していた。鉄幹・晶子は師匠筋だった。上京して生田長生に師事して、ここで晶子から生涯の友を紹介された。堀口大學である。二人は揃って慶応義塾に入り、大逆事件に出会って社会の鉄槌を知った。ここからオスカー・ワイルドなどに惹かれて油絵を描いたり新劇女優と同棲したりの”芸術放浪”に遊ぶのだが、神奈川郊外の中里村に住んでからは『田園の憂鬱』につながる思索も始めた。

≪017≫  このあとの春夫はあれほど仲のよかった谷崎潤一郎との決別をへて、大杉の虐殺、芥川の自殺に感じて、しだいにぼくが好きな春夫になっていった。このころ春夫に師事したのが稲垣足穂だった。≪014≫  『みだれ髪』に敬意を表して「髪」の歌ばかりを選んだが、晶子の歌は当然にまことに広く取材し、つねづね深く遊び、ひたすら遠くに飛んだ。そうした多様な歌のなかで、「日本の精神」というか「女が嗅いだやまとたましひ」というか、あるいは「男神をねだる心」ともいうべきものを詠んだ歌も数かぎりない。ぼくはその面でも晶子に脱帽し、そのような晶子がさらに知られることを希っている。

≪018≫  6歳のときに、すでにこんな歌を詠んでいたというのだから、やはり天性の詩人というべきだ。「しらうをやかはのながれはおとたへず」。

≪019≫  参考¶与謝野晶子については、どんな出版社のものでもまずは『みだれ髪』である。が、その後の晶子の奔放な歌は晶子が自選した『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)が堪能できる。3000首が選ばれていて、これはさすがに佐藤春夫より豊富である。晶子は文章も抜群にうまい。説得力もあるし、センスもある。いろいろ読んでほしいところだが、ひとまず『愛・理性及び勇気』(講談社文芸文庫)を推しておく。山川登美子も最近はふたたび脚光があたっている。毎日芸術賞に輝いた竹西寛子の『山川登美子』(講談社文芸文庫)がいいだろう。有島武郎との関係云々は、時代背景を知るという意味でなら、やはり永畑道子の『華の乱』『夢のかけ橋』(新評論)がおもしろい。なお、芳賀徹に『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)という、晶子の黒髪感覚を幕末明治にさぐった好著がある。

≪020≫   夜の帳にささめき盡きし星の今を 下界の人の 鬢(びん)のほつれよ

≪021≫   髪五尺ときなば水にやはらかく  少女(をとめ)ごころは 秘めて放たじ

≪022≫   その子 二十(はたち)  櫛にながるる黒髪の  おごりの春のうつくしきかな

≪023≫         堂の鐘のひくきゆふべを前髪の  桃のつぼみに経(きょう)たまへ君

≪024≫  春の國戀の御國のあさぼらけ しるきは髪か梅花(ばいか)のあぶら

≪025≫  人かへさず暮れむの春の宵ごこち          小琴(をごと)にもたす亂れ亂れ髪

≪026≫ 春の夜の闇の中くるあまき風 しばしかの子が髪に吹かざれ

≪027≫ みだれ髪を京の島田にかへし朝 ふしてゐませの君ゆりおこす

≪028≫ 紫に小草(をぐさ)が上へ影おちぬ 野の春かぜに髪けづる朝

≪029≫ 春三月(みつき) 柱(ぢ)おかぬ琴に音たてぬ ふれしそぞろの宵の亂れ髪

≪030≫ あるときはねたしと見たる友の髪に 香の煙のはひかかるかな

 ≪031≫ たけの髪をとめ二人に月うすき 今宵しら蓮色まどはずや

≪032≫ 歌にねて昨夜(よべ)梶の葉の作者見ぬ  うつくしかりき黒髪の色

≪033≫ 夜の神のあともとめよるしら綾の 鬢の香 朝の春 雨の宿

≪034≫ くろ髪の千すぢの髪みだれ髪 かつおもそみだれおもひみだるる

≪035≫ 秋の神の 御衣(みけし)より曳く白き虹 ものおもふ子の額に消えぬ

≪036≫ 神の背にひろきながめをねがはずや 今かたかたの袖ぞむらさき

≪037≫ 百合にやる天(あめ)の小蝶のみづいろの 翅(はね)にしつけの絲をとる神

≪038≫ みどりなるは學びの宮とさす神に いらへまつらで摘む夕すみれ

≪039≫ 夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき 消えしともしび神うつくしき

≪040≫ 酔に泣くをとめに見ませ春の神 男の舌のなにかするどき

≪041≫ 春の虹ねりのくけ紐たぐります 羞(はぢろひ)神の暁(あけ)のかをりよ

≪01≫  永井荷風は「白魚や発句よみたき心かな」といった絶妙の俳諧味をもっていた。日野草城には「うぐひすのこゑのさはりし寝顔かな」がある。 こういう一句を抜け目なく拾う眼力は、よくよく俳句に親しむか、ないしは書や陶磁器を一発で選べる性来の趣味をもっているか、そのどちらかによる。加藤郁乎にはその両方があった。

≪02≫ 本書は厖大に出回っている俳句に関する本の中でも白眉の一冊といってよい。 それが加藤郁乎の初のエッセイ集であったなどとは、まったく信じられない。ぼくはまた、郁乎さんならもうとっくに何冊も俳諧論をはじめとする含蓄の書を出しているとばかりおもっていた。

≪03≫  ところが、そうではなかった。そのことをあらためて知ってみると、そうか、浩翰な本というものは、やはりむやみに執筆をしている連中にはとうてい書けないのかなどともおもえてくる。郁乎さんの親友でもある松山俊太郎がやはり、なかなか本を書かないインド哲学者なのである。

≪04≫  本書を読む愉楽は、選びぬかれた俳句を次々に見る醍醐味にある。そのうえで加藤郁乎が言葉を凝結して織りなす評釈に心を奪われる快感がやってくる。

≪05≫  ただし、この本はよほどの俳句好きか、さもなくば、よほどの江戸趣味、それも野郎歌舞伎くらいまでの時期の前期江戸趣味の持ち主ではないかぎり、また現代の俳句でいうなら、富沢赤黄男や永田耕衣ばかりがやけに好きな者でないかぎり、あまり遊べないかもしれない。けれども、そこが極上なのである。

≪06≫  では、加藤郁乎が本書に紹介した俳句から、ぼくが気にいった句を何句かあげておく。本書に出てくる順である。

≪07≫ 雪とけや八十年のつくりもの  竹島正朔

≪08≫ 西行も未だ見ぬ花の郭かな  山東京伝

≪09≫ 何の木の花とはしらずにほひかな  松尾芭蕉

≪010≫ 散花に南無阿弥陀仏とゆふべ哉  荒木田守武

≪011≫ 紅梅やここにも少し残る雪  中村吉右衛門

≪012≫ しらぬまにつもりし雪のふかさかな 久保田万太郎

≪013≫ 雪の日の世界定めや三櫓  細木香以

≪014≫ 竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな  永田耕衣

≪015≫ 沈丁もみだるるはなのたぐひかな  永田耕衣

≪016≫ しばらくは雀まじへぬ冬の山  永田耕衣

≪017≫ いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣

≪018≫ この道を向き直りくる鬼やんま  三橋敏雄

≪019≫ 柏手を打てば雪降る男坂  角川春樹

≪020≫ 露草のつゆの言葉を思うかな  橋間石

≪021≫ 憤然と山の香の付く揚羽かな  永田耕衣

≪022≫ 淋しさに二通りあり秋の暮  三橋敏雄

≪023≫ 猫の恋老松町も更けにけり  三橋敏雄

≪024≫ 何か盗まれたる弥勒菩薩かな  火渡周平

≪025≫ 襲名は熟柿のごとく団十郎  筑紫磐井

≪026≫ むめのはなきそのゆめみしゑひもせず 角川春樹

≪027≫ 秋天に表裏山河の文字かなし  加藤楸邨

≪028≫ 白扇のゆゑの翳りをひろげたり  上田五千石

≪029≫ おとろへてあぢさゐ色の齢かな  草間時彦

≪030≫ この国の言葉によりて花ぐもり  阿部青蛙

≪031≫ 一ぴきの言葉が蜜を吸ふつばき  阿部青蛙

≪032≫ ろはにほへの字形なる薄哉  西山宗因

≪033≫ 日本語はうれしやいろはにほへとち  阿部青蛙

≪034≫ 或るときは洗ひざらしの蝶がとぶ  阿部青蛙

≪035≫ うかんむりの空を見ながら散歩する  阿部青蛙

≪036≫ 炎天をゆく一のわれまた二のわれ  阿部青蛙

≪037≫ 尾を上げて尾のした暗し春雀  永田耕衣

≪038≫ むさし野のさこそあるらめ馬場の月  大田南畝

≪039≫ 五月雨やただ名はかりの菖蒲河岸  永井荷風

≪01≫  括弧付きで「さび」といちいち書くのは煩わしいので、サビと書く。本書は括弧付きの「さび」である。 

≪02≫  断りを、もうひとつしておく。ここでは著者が本書で展開したサビに関する深い思索の大半は扱えない。その鳥羽(賭場)口だけに光をあてる。それだけでも訳知りの日本贔屓を唸らせるにたる示唆が詰まっているはずであるからだ。さらにもうひとつ、ワサビに吉本興業を引き合いに出す。みなさん、あしからず。 

≪03≫  数年前、小沢かすみさんの要望で「時塾」(ときじゅく)という私塾を1年ほど引き受けたことがある。 

≪04≫  大蔵省のホープ官僚、「AERA」や「文春」の編集者、インテリアデザイナーや私立学校の経営者、のちに参議院に入った二人など、小沢さんが次代を担うとおもう聴講者を集め、それに編集工学研究所や松岡正剛事務所が推薦したメンバーが加わった。かなり大胆な講義をしてみた。 

≪05≫  小沢さんの要望は日本社会と日本文化の本質を切ってほしいというものだったが、ぼくはそこに東西文化の比較を加えたのである。たとえば、歌舞伎の世界定めの話とヨーロッパ修道院の禁書による世界限定の話をふいに並べるというふうに。 

≪06≫  その一回目だったとおもうが、ワビとサビの話を少し入れてみた。終わって、みんなで懇親することになり、挨拶に吉本興業の次代を担うと噂されるA君が感想をのべた。「すっごく難しくて、すっごくおもしろかったですけど、あのー、やっぱりワビ・サビはワサビの味に似てるということなんでしょうか」。 

≪07≫  ワビ・サビが日本人の到達した感性だとか、美意識の極限だと見るのは、ほとんどまちがっている。そのように言ったとたんに、ワビもサビも何のことやらわからなくなって、それこそワサビで唇が痺れてしまうだけである。 

≪08≫  ワビ・サビはそれ自体を総合的には見られない。ワビはもともと「侘び」であり、ということはお詫びしてなんとなく引き下がり気味になることであり、サビはそもそも「寂びしい」の「寂び」、周囲のなかで気持ち寂しくなって、どうしていいかわからなくなる風情のことだから、むしろ総合や正面や本体から零れるところに始まった感覚なのである。だから、ワビ・サビを全面に押し出して議論すること自体が、ワビでもサビでもなくなっていく。 

≪09≫  まさしくワビ・サビはワサビに近く、何か本体がないかぎりは動かない。そこについては、吉本のA君は正しかったのである。 

≪010≫  けれどもその本体が何であってもワサビがいつも効く、というものではない。やはり蕪菁(かぶら)蒸しのちょいワサビや、中トロのこってりワサビは効くけれど、鳥のささみをこんがり焼いた串や骨付きの手羽先には山椒のほうがずっと効いてくる。このあたり、ワビ・サビは案外、厳密なのである。そのため誰もがワビにもサビにも怖じけづく。 

≪011≫  厳密なだけではない。多少はワビやサビの正体を知りたいとおもう日本人や外国人にとって、もうひとつ困ることがある。  

≪012≫  ワビ・サビについてはこれまでろくな研究がされてこなかったということだ。おそらくこれほど知られたワビ・サビなのに、その専門的な研究者など一人もいないのではないかと思われる。 

≪013≫  理由はよくわからないのだが、とくにサビ研究がからっきしだった。ひとつ思い当たるのは、芭蕉こそはサビとシオリとホソミの人だったのに、その芭蕉がいっこうにサビの解説をしなかったのだ。喋らなかったのだ。 

≪014≫  そういうなかで、本書はことさらにサビを採り上げ、その内奥に入りこんでいる。これだけでも貴重であって勇敢なのである。しかも著書は「本質としてのサビ」と「変質のサビ」を分け、不易なサビと流行のサビをゆるやかに読者に提示した。 

≪015≫  そもそもサビという言葉が蕉門で語られた記録の中で有名になったのは、野明が去来に「句のサビはいかなるものにや」と尋ね、去来が「サビは句の色なり」と言ったことである。元禄15年の『去来抄』にある。   

≪016≫  そこで去来は「花守や白きかしらをつき合せ」という句を例示して、ここにサビの色があるのではないかと言った。花守の白髪がつき合っているという、変な句だ。しかし、この句に「さび色よくあらはれ悦び候」と言ったのは、芭蕉なのである。去来はこの師匠の言葉に乗って、「花守」の句をあげた。 

≪017≫  いまは、この話にまつわるところだけで本書を紹介し、サビの一端をワサビ醤油をやや添えて、少しだけ暗示しておきたい。 

≪018≫  実は去来には、それ以前に許六への手紙のなかで交わした言葉があった。「古翁の句は句ごとにさびてしほりの句になっている」と書いたのだ。    

≪019≫  古翁は芭蕉のこと、その芭蕉の句は一句ごとに寂びてきて、さらにシオリを漂わせていると言ったのだ。サビとは何かがはっきりしないのに、さらにシオリを重ねられても困るばかりだろうが、ともかくもこういう言いなりを前提に、去来は「サビは句の色」と捉えたのだった。そして、そのような「句の色」は「花守」の句にあらわれていると考えた。 

≪020≫  さて、ここからがやや難問である。問題は、なぜ「花守や白きかしらをつき合せ」に句の色があり、それがサビの色なのか、俳諧の色なのかということだ。 

≪021≫  まず、花守という言葉があえて俳諧に選ばれたということを知る必要があるだろう。  

≪022≫  謡曲の『田村』に「いつも花の頃は木陰を清め候ふほどに、花守とは申さん」というくだりがある。花守はキヨメであったと言っているわけである。連歌師の宗祇の『吾妻問答』では、花守や田守は連歌ではつかわない言葉だと書いている。 

≪023≫  つまりは、連歌では花守という言葉はタブーなのである。それを連歌では「よはし」(弱し)と言って極力避けてきた。連歌は「よはし」と「いやし」(卑し・賎し)をずっと避けている。そうした卑賎の職能につく者を歌わないように心掛けてきたわけだった。 

≪024≫  ところが俳諧は、その「よはし」「いやし」を持ち出した。俳諧のフラジャイルな特色がそこにある。俳諧は、差別され、卑しめられている職能や光景をあえて採りこんだのである。弱々しく、汚いものにも目を向けた。おそらく吉本の漫才やビートたけしのかつての毒舌にも、そのような「よはし」「いやし」を揄(からか)い気味に採り上げるということが頻繁だったはずである。 

≪025≫  しかし、ここが肝心なところだが、なるほど、俳諧とは弱者に目を向けたものなのかと理解するだけではまにあわない。そうではなくて、そのような際どいものや名指ししにくいものを、さらにきわどく細めていったところが俳諧なのだ。「よはし」「いやし」をしおれさせたのだ。 

≪026≫  芭蕉の弟子に尚白という俳人がいて、
「はな守と見れば乞食の頭(かしら)かな」という句を詠んでいる。
これなど、かなりきわどい細りをやっている。 

≪027≫  そうすると、去来が花守を詠んだこと自体が、まず俳諧的冒険なのだということになる。これが前提だ。 

≪028≫  そのうえで、賎業の花守とはいえ、そこには「花」がみごとに咲いているというイメージの引き込みが加わっている。このとき、花の明るさと花守の白髪が対同し、ひとまず多少のサビ色が見えてくる。白髪は「よはし」であって、寂しさである。けれども、これで一句がサビ色になったわけではなかった。ここにはさらに奥のほうから到来する色があったのである。 

≪029≫  そこで、さらに知っておくべきことがある。当時の俳人にとっては、謡曲は「俳諧の源氏なり」であったということだ。ほとんどの俳人が謡曲を知り尽くしていたということだ。 

≪030≫  したがってこの一句を聞いて、謡曲『嵐山』を思わない者はいなかった。どういうことかというと、そこではシテが「これはこれは嵐山の花を守る夫婦の者にて候ふなり」と言うと、ワキが「不思議やな、これなる老人を見れば、花に渇仰の気色の見えたり。おことはいかなる人やあらん」と尋ねる場面があったのである。 

≪031≫  詳しいことは省くけれど、この花守の夫婦は、謡曲では「尉」と「姥」とに見立てられている。えっ、そうだったのかというくらいに、こういうところが謡曲のいつもすごいところだが(謡曲のすごさについては別の機会に語りたい)、それはさておき、去来が詠んで、芭蕉が褒めた花守とは、この「尉」と「姥」との白髪が重なって動いたという、そういう花守の光景だったのだ。 

≪032≫  これで多少は事態が見えてきたのではないだろうか。 サビとは、歴史のサビなのである。そのうえで引用のサビなのである。しかし、そこまでなら新たな俳諧はいらなかった。俳諧はそこから一歩はみ出して、そのような事情のいっさいを忘れさせる光景を切り取らなければならなかった。これは江南山水画にいわゆる「辺角山水」というほどの切り取りだ。 

≪033≫  しかも芭蕉は、そのように切り取った句の中の光景の言葉がサビてほしかった。それがシオリというもの、ホソミというものだ。あるいはヒエ(冷え)やヤセ(痩せ)や、あるいはフケ(更け)というものだ。 

≪034≫  本書はまさにこのサビの背景に、ひとつは藤原俊成の、ひとつは心敬の、サビやヒエが出来(しゅったい)していたことを証かしていく。ここで案内したのは、その賭場口だけである。 

≪035≫  どうだろうか。吉本の滑稽は、いまや江戸の俳諧に遠く及ばずというべきか。それとも今日の俳諧は吉本の毒舌の裏にある俳諧の色を忘れたというべきか。 

≪036≫  芭蕉はこんな句を詠んでいる。
    「月さびよ明智が妻の咄しせむ」。
 芭蕉は咄し家ではないが、ワサビをつかわずに咄しをも寂びさせた芸人でもあったのである。 

物名賦物 

≪01≫  おととい、銀座の一隅で話をした。「文化パステル」という銀座を拠点にした変わった会の主催で春の特別講演会と銘打たれていた。福原義春さんの紹介だった。ぼくはちょっとパステルなというか、散りはじめた桜の風情を枕に山本健吉と丸山眞男を引きながら、「稜威の消息」をめぐって話した。外は小雨だった。 

≪02≫  その朝、家を出てタクシーで銀座に向かうと、あちこちの桜が小雨のなかで明るく悄然としている姿が窓外を走っていた。ああ、今年の東京の桜も終わったなという気分だったので、桜と稜威をつないでみたかったのである。 

≪03≫  桜が咲き始めるころは、今年も桜が咲いたか、どこかに見に行くか、どうしようかなと思い、桜が真っ盛りのころはその下で狂わなければなあ、去年もゆっくり桜を見なかったなあと感じ、そのうち一雨、また二雨が来て、ああもう花冷えか、もう落花狼藉かと思っていると、落ち着かなくなってくる。寂しいというほどではなく、何かこちらに「欠けるもの」が感じられて、なんだか所在がなくなるのである。何かが欠けたのか。そうではないようだ。求めていた面影が少し遠のいたのだ。ぼくの所在は面影にあるのだから、そこが遠のくと何かが欠けたと感じるのだ。 

≪04≫  そういう欠けた気分になると、決まって思い出されるものがある。西行の歌である。ふだんは思い出さない。何かが欠けているような気分になると、そこに西行が「雨にしをるる」とか「梢うつ」「惜しき心を」というふうに声をかけてくる。これは日本人における「所在」というものだろう。 

≪05≫  梢うつ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへむ 

≪06≫  いまや東京では、雨の日の自動車がアスファルトに散った桜の花びらを轢きしめていくのが、なんともいえぬ「哀切」である。もともと自動車のタイヤの音は、驟雨や霧雨や雨上がりのときが最も美しい。 

≪07≫  かつて松濤の観世能楽堂の近くに住んでいたころ、小型テープレコーダーをONにしたまま手にぶら下げて、あのあたりをよく歩いた。しばしば眼をつぶって歩いた。このテープを再生してみて、意外なことに自動車が雨のアスファルトをしびしびと走っていく音が一番きれいだった。それがいまでは「雨と桜とタイヤ」という取り合わせに、心が動くようになっている。 

≪08≫  桜が人の心を乱すのは世の常のこと、いまさら言うべきこともないはずなのに、ちょっと待て、いま何かを感じたのでちょっと待て、と言いたくなるのはおかしなことである。それも、開花から落花まで僅か1週間か10日ほどのことなのに、そのなかで桜への思いはめまぐるしく変わる。そのくせ結局はいつも何もできないうちに、花はいよいよ無惨とも、平然とも、婉然とも、はらはら散っていく。 

≪09≫  せいぜい10日あまりのことだったのに、何かがまた終わってしまい、何かが欠けていくと感じてしまうのだ。こうして、その年にたとえどれほど花見をしようとも、たとえどれほど桜の宴を催そうとも、花は花が散ったところからが、今年も「花の所在」なのである。だから西行を思い出すのもきっとそのころからのことになる。 

≪010≫   風に散る花の行方は知らねども 惜しむ心は身にとまりけり
      散る花を惜しむ心やとどまりて 又来む春の誰になるべき 

≪011≫  王朝期、花といえば桜のことをさすようになった。万葉期は梅だった。万葉集で詠まれた植物は、①萩、②梅、③橘、④菅、松、⑤、⑥浅茅で、桜は10位なのである。その桜が平安から鎌倉にかけて一挙にふえた。日本列島の植生のせいではない。桜をたくさん植樹したからでもない。歌人の「心ばえ」が桜に向かったのだ。そしてなにより、西行のせいでもある。 

≪012≫  窪田章一郎によると、西行には桜の歌が230首あるという。植物では次の松が34首、第3位の梅が25首というのだから、桜への傾倒は断然である。西行自身も「たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける」と詠んで、すなおに桜を筆頭にあげた。 

≪013≫  西行が自選して俊成に贈ったという『山家心中集』は、その書名を誰がつけたのかはまだわかっていないのだが、俊成の筆と推定されている冊子の表題の下には「花月集ともいふべし」と書かれている。西行はついついそういう花と月の歌ばかりを俊成に選んだのである。 

≪014≫  芭蕉は『西行上人像讃』で、「捨てはてて身はなきものとおもへども雪のふる日はさぶくこそあれ」という西行の雪の歌に、「花のふる日は浮かれこそすれ」と付けてみせた。まさに芭蕉の言うとおり、西行は花にばかりあけくれた。西行がいなかったなら、日本人がこれほど桜に狂うことはなかったと言いたくなるほどだ。ぼくはあまり好きな歌ではないのだが、「ねがはくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」という有名な歌が、西行のよほどの桜好きをあらわしている。 

≪015≫  西行は桜を詠んだ。年々歳々、桜の季がくるたびに、西行は乙女のように花と戯れ、翁のように花の散るのを惜しんだ。そのくらい桜を詠んだ西行だから、咲き初めてから花が散り、それがまた葉桜にいたって若葉で覆われるまで、ほとんどどんな風情の桜も詠んでいるのだが、そのなかでぼくがどの歌の花に心を動かされるかというと、これは毎年、決まっている。 

≪016≫  花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上なのである。ぼくはそういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた。 

≪017≫ 
  散るを見て帰る心や桜花 むかしに変はるしるしなるらむ
  いざ今年 散れと桜を語らはむ 中々さらば風や惜しむと 

≪018≫  これが西行の「哀惜」ないしは「哀切」というものだ。面影を惜しむということをしている。哀しくて惜しむのではなく、切って惜しむ。そのことが哀しむことなのである。これは「惜別」という言葉が別れを哀しむのではなく別れを惜しんでいることを意味していることをおもえば、多少は理解しやすいにちがいない。 

≪019≫  こうして西行の花は、一心に「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」というものになっていった。おそらく西行にとっての桜の心はこの一首の裡にある。桜を見るだけで、べつだん理由などはっきりしているわけではないのに、なんだか心の内が苦しくなってくる。そう詠んだ歌である。その「いはれなき切実」こそが西行の花の奥にある。 

≪020≫  西行にとって「惜しむ」とは、この「いはれなき切実」を唐突に思いつくことなのである。それが花に結びつく。月に結びつく。花鳥風月と雪月花の面影がここに作動する。なかで花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、人知を見捨てる「いはれなき切実」なのだ。 

≪021≫  西行はなぜ「いはれなき切実」に生きたのだろうか。生涯の事蹟には審らかではないことが多く、奇妙奇ッ怪な西行伝説も各地にいろいろのこるのだが、総じては実際の日々に「いはれなき切実」が出入りしていたのだと思われる。 

≪022≫  出自は武士だった。佐藤義清といった。秀郷流武家藤原氏の血をうけて、代々の佐藤家は衛府として何の愁いもない日々をおくっている。西行も16歳で徳大寺家に仕え、保延元年(1135)の18歳のときは左兵衛尉の官位をもらい、2年後には鳥羽上皇の「北面の武士」に取り立てられた。清盛や文覚と同じ職分である。 

≪023≫  ところが23歳で出家する。妻子は捨てた。都の北麓の鞍馬山あたりに隠棲して円位を名のり、その後は西行と称して諸国をめぐる漂泊の旅を続けた。高野山に入ったり、奥州を歩いたり、四国讃岐の善通寺にいたこともわかっている。けれどもなぜ出家を決断したのかは、わからない。失恋説、友人急死説、政界失望説、仏道発心説などが議論されているが、はっきりしない。 

≪024≫  ひたすら歌を詠んだ。それだけは、はっきりしている。ただし、人知れず詠んだのではない。西行の出家遁世のニュースは都ではリアルタイムに注目され、その歌もほぼリアルタイムに届いていて評判を集めつづけた。『新古今和歌集』に94首が採られているのだが、これは新古今集中で一番多い採用だった。 

≪025≫  西行の遁世の主な動向は中央がキャッチしていたし、西行も都のめまぐるしい変化をほぼ知っていた。そういう御時世だった。三九歳のときに保元の乱がおこり、天皇家も摂関家も割れて、これに新興の源氏と平家が微妙に分かれて天下二分の乱になった。後白河側が勝利をおさめると、西行もよく知る崇徳上皇は讃岐に流され、そこで死んで怨霊となった。西行は讃岐の地を訪れて「よしや君 昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」と鎮魂の歌を詠んでいる。 

≪026≫  こういう腥い話は西行の桜の話にはふさわしくないと思うかもしれないが、そうではない。これもまた「いはれなき切実」に編み込まれていたことなのだ。 

≪027≫  59歳になって伊勢の二見浦に住むことにした。日本の祖霊の面影の地だから安住もしたいと思ったが、すぐに源平の争乱が始まって、津々浦々どこにも血と炎と死が絶えることがなくなった。 

≪028≫   死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ 

≪029≫  源平の動乱は平重衡を奈良に追い、東大寺に火を放つことになった。焼け落ちた堂塔伽藍を復興するべく、勧進の聖に重源が立った。プロジェクト・リーダーになった。けれども大仏を造像する鍍金(メッキ)のための金がなかなか調達しきれない。思いあぐねた重源はすでに遁世していた西行を訪ねて、奥州の藤原秀衡に協力を願い出ることを頼んだ。西行と秀衡は旧知なのである。 

≪030≫  斯界の長老に頭を下げられては断れない。西行は40年ぶりに奥州へ行く。六八歳のときである。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」。奥州へ向かっての途次、まさか年老いてから夜半の中山を越えるなどとは思いもしなかったと詠んだ歌だ。 

≪031≫  このとき西行は鎌倉に立ち寄って、頼朝とも会っている。存外、そういうことは平気だったのだ。驚いたのは頼朝のほうだったろう。館に招いて歌のことやら流鏑馬のことやらの教えを乞うたと、『吾妻鏡』は書いている。 

≪032≫  そのほかいろいろ生涯のエピソードがあって、それらは『西行物語』として案外早くにまとまっているのだが、さあ、それで西行の歌が沁みてくるかといえば、そういうことではあるまい。 

≪033≫  それなら、どんなふうに西行の歌を味わうか。ここでいささか大仰な西行学を披瀝すると、もともと西行には「心を知るは心なりけり」という見方があった。歌において「有心」とは風情に心を入れることで、それを「心あり」とも評するのだが、西行はそれでは満足しなかったのである。「心は心だ」というのは同義反復か自同律のようなものではあるけれど、しかし西行はそのようにしか言いあらわせないものがあることを早くから見定めていた。ぼくはこの「心は心だ」という認知論を高く評価するのである。『山家集』に次の二首がある。 

≪034≫   心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり
  惑ひきて悟り得べくもなかりつる 心を知るは心なりけり 

≪035≫  これなのだ。ここに西行の根本があったのではないかと思う。心のことは心にしかわからないと言っているのではない。ジャック・ラカンではないが、心は心に鏡像されていると見抜いたのだ。試みにこの二首をつなげてみるとよい。「心から心にものを思はせて→心を知るは心なりけり」。これが西行の見方の根本にあることなのである。これはまさに今日の認知科学がやっと到達した見方に近い。西行はそれを端的に喝破していた。 

≪036≫  このように心を心に見て、その心を心で知ってみるというのは、そもそも何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。いいかえれば、つねに境界に消息していく生きかたに徹するということだった。そこを西行は「見る見る」という絶妙な言葉の重畳をつかって、次のようにも詠んでいた。「見る見る」は今日にいう「みるみるうちに」の「みるみる」ではなく、まさに見たうえで見ているのである。目で見て心で見たのである。 

≪037≫  世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな 

≪038≫  はかなくたって驚かない。はかないのは当たり前なのだ。そういうふうに見定めた。ここでは夢と浮世は境をなくし、花と雨とは境を越えている。「世の中を・夢と見る見る・はかなくも・なほ驚かぬ・わが心かな」。 

≪039≫  また西行学を持ち出していえば、「わが心かな」で結ぶ歌は、西行の最も西行らしい覚悟を映し出している歌だった。以下、『山家集』に「わが心かな」を拾ってみた。五首目の「梢まで咲くわが心かな」はまさに春信の浮世絵にすらなっている。 

≪040≫   花と聞くは誰もさこそはうれしけれ 思ひしづめぬわが心かな
  日をふれば袂の雨のあしそひて 晴るべくもなきわが心かな
  涙川さかまく水脈の底ふかみ 漲りあへぬわが心かな
  逢ふまでの命もがなと思ひしは 悔しかりけるわが心かな
  色そむる花の枝にもすすまれて 梢まで咲くわが心かな 

≪041≫  ここまでくると、西行の「いはれなき切実」や「わが心かな」をすべて表象しきっているのは、次の一首にとどめをさすというべきである。 

≪042≫  次の一首がどういう歌かをあかす前に、ここで5年前のことに一言ふれておきたい。その日、ぼくはふと思いついて「未詳俱楽部」を結んだのであるが、その最初の会合を箱根芦ノ湖の畔に呼びかけたのだった。その時その所に集まってほしいと、ただ招待状にそう書いた文面を縁に、全国から38人が集まってくれたその山道に、小雨のなかを箱根に特有の高根桜が小さくキリリと咲いていた。 

≪043≫  初めて出会う面々が、10部屋に分かれて荷を下ろし顔を合わせる刻限を思って、ぼくはその部屋に一首ずつ西行の桜の歌を色半紙に認めておいた。その夜は満月だったのである。 すでに紹介した歌のほかは、次の歌と、そして一首。 

≪044≫   月見れば風に桜の枝なべて 花かと告ぐる心地こそすれ
  雲にまがふ花の下にて眺むれば 朧に月は見ゆるなりけり
  おのづから来る人あらばもろともに 眺めまほしき山桜かな
  あくがるる心はさても山桜 散りなむのちや身にかへるべき
  花も散り涙ももろき春なれや 又やはと思ふ夕ぐれの空 

≪045≫  この10首の桜の歌の頂点に立つともいうべき歌が、ぼくにとっては次の極上の一首なのである。この「胸のさわぐなりけり」という歌こそが西行のすべての桜の絶巓に散る歌である。もはや何も言うことはない。たんに胸がさわぐのではない。「さめても胸のさわぐなりけり」なのである。 

≪046≫   春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり 

 ↓いそのかみ ふりにし御世に ありといふ 
 ↓猿(まし)と兎(をさぎ)と狐(きつに)とがとが 
 ↓友をむすびて あしたには 
 ↓野山にあそび ゆふべには 林にかへり 

 ↓いそのかみ ふりにし御世に ありといふ 
 ↓猿(まし)と兎(をさぎ)と狐(きつに)とがとが 
 ↓友をむすびて あしたには 
 ↓野山にあそび ゆふべには 林にかへり 

≪02≫  良寛の書について一冊書き下ろしてくれませんか、と言ってきたのは古賀弘幸君だった。 彼はぼくが良寛に惚れきっているのをよく知っていて、おりふし、良寛の書は打点が高いんだよ、良寛はグレン・グールド(980夜)やキース・ジャレットのピアノによく似合うよねといったような感想を言っていたのを、おもしろがってくれていた。チック・コリアはどうですかというので、うーん、それは比田井南谷かなあと言ったら、手を叩いておおいに喜んでくれた。 

≪03≫  こういう言い方は、古谷蒼韻による「マイヨールとジャコメッティから水分を涸らしていくと良寛になる」といったたぐいの感想と同様で、当たっているとも当たってないともいえる。この蒼韻の感想にしても、マイヨールとジャコメッティ(500夜)が一緒になっているところがよくわからない。 

≪04≫  それでも古賀君は、そういう感想が書道界にはあまりにも足りなくなっているので、ぜひ書けというのだった。 たしかに良寛を評して、昭和三筆の鈴木翠軒の「達意の書」や日比野五鳳の「品がいい」や手島右卿の「天真が流露している」だけでは物足りない。そもそも良寛の書は達意ではない。焦意(焦がれた筆意)であろう。 

≪05≫  書の批評というもの、たしかにあまりに言葉が足りない。禅がおもてむきは「不立文字・以心伝心」といいながら「修行の禅」にくらべて「言葉の禅」が劣らぬように、存分に言葉を豊饒高速にしていたように、書も「見ればわかる」「この三折法はなっていない」「純乎たる書風だ」などというのでは、とうてい埒はあかない。 

≪06≫  そこには水墨山水をめぐって多大な言葉が費やされてきたように、また江戸の文人画に幾多の言葉が注がれてきたように、それなりに多彩でラディカルな「言葉の書道」というものが蓄積されていかなければならず、とくに良寛の書ということになると、これは究極の相手なのである。よほどの言葉さえ喉元でつまってしまう。 

≪07≫  それを急に期待されて、一冊にしてほしいと言われても困るのだった。 

≪08≫  ↓かくしつつ 年のへぬれば ひさがたの
    ↓天(あま)の帝(みかど)の ききまして  

≪09≫  ぼくが良寛の書に親しめたのは、樋口雅山房さんによっていた。樋口さんは薬剤師をかたわらでめざす墨人会所属の書家で、はやくから森田子龍と井上有一(223夜)のあいだにいて、その書魂というべきを継承しようとしていた。 

≪010≫  その墨人会が、会誌の「墨美」で1959年から10年にわたって良寛を連載しつづけた。それを見たのが大きかったのである。良寛こそが日本の懐素や黄谷山であることが、たちまち誇りのようなものになってきた。 

≪011≫  また、良寛は大仙和尚に伴われて備前の円通寺で12年ほどを曹洞禅の修行におくったのだが(じっさいにはいろいろ遊行に出ていた)、その円通寺時代に寂巌の書を見ていただろうことが、ぼくの良寛像を広げていた。寂巌もぼくが好きな書人だった。 

≪012≫  そのうえで良寛は日本でもあった。万葉に浸り、故郷の国上山(くがみやま)の神奈備を慕い、「いろは」を仮名にするのを一心に書け抜けた。それは懐素であって佐理であって、しかし越後の良寛そのものだった。 

≪013≫  しかし、その良寛の書をめぐって一冊を書くとなると容易ではない。うん、まあ、そのうちと言っているうちに、これ以上を待たせるのはまずくなってきた。 

≪014≫  どんなことでもそうだが、依頼を受けたままほったらかしにしていても、そのほったらかしの臨界値というか、節度というか、犯罪すれすれの限界というものがあって、プロの著者たちはこの「すれすれ」がいつ近づいてきたかを正確に察知する。 

≪015≫  ぼくは書き手であるとともに、他方においてはエディターシップを仕事としてきたから、この「すれすれ」が平均よりは早くやってくるのだが、それでも自分でもこれはまずいなという気持ちになるときもある。 

≪016≫  文章を綴るという仕事は、最初の2~3のパラグラフのところでいくつもの切り口に割れているといっこうに次に進まない。ささくれだった筆の先のように、文章が割れていく。あるいはノズルがつまっていて、それをむりに押すから、文章が細く切れたり掠ったり、ところどころで血瘤のように溜まってしまう。長年、こんなことを経験していると、書き出す前に微妙な予兆がやってくるものなのだ。  

≪017≫  このときもそんな気がして、なんだかうまくない。そこで、まずは口述したいと申し入れた。古賀君もいろいろ質問してみたいと言う。  

≪018≫  彼は雑誌「墨」の編集者なので、日中の書道文化史にも書法にも詳しい。それだけに片寄った質問になりかねない(実際にはそんなことはなく、とても広げた質問をしてくれた)。もう一人、あまり書にも良寛にも交わってこなかったが、ぼくを知る聞き手がほしいということで、太田香保さんも加わった。これで、のっぴきならなくなってきた。 

≪019≫
  ↓それがまことを しらんとて 
  ↓翁となりて そが許(もと)に よろぼひ行きて申すらく  

≪020≫  何度くらい質問を交えた口述をしたろうか。ワープロ・プリントで上がってきたものを見ながら(上手に構成されていた)、書きすすめた。それでもやはり冒頭の毛先と切り口が、一本に絞れない。 

≪021≫  これは「書」の話をにもってくるのでは無理だなとおもって、良寛の歌か漢詩をもってくることにした。 

≪022≫  最初にすぐに或る漢詩が浮かんだが、捨てた。捨てた理由はあるのだが、しかし、その漢詩については、本当は書きたいこともあった。次のような話である。 

≪023≫  田辺元が群馬の大学病院で亡くなったのち、教え子が遺品を整理していたら、二百字詰原稿用紙7枚に良寛の漢詩が30回も書き写されていた。それがぼくが思い浮かべた漢詩だったのである。 

≪024≫
  生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
  嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
  誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
  夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす  

≪025≫  このことは唐木順三(85夜)が筑摩の日本詩人選『良寛』に紹介していたことで、唐木はそこで、田辺元と良寛など、堅い楷書と柔らかい草書くらいの差があって、門人の誰も二つをむすびつけることなど思いもよらなかったと書き、「先生には生涯、草体のやうにくづれたところ、流れたところ、騰々然たるところは無かつたが、晩年にはその外貌は鉄斎や安田靫彦が遺した良寛像にやや似て来てゐた」と付け加えていた。 

≪026≫  それにしても死期を間近かに控えた田辺元が、良寛の同じ詩を30回も丹念に浄書しようとしていたというのを知って、ぼくは胸に何かが迫ってきてしょうがなかった。 

≪027≫  それでそのことを冒頭に書こうと思ったのだが、それをやめたのは、これでは良寛ではなくて別の角度からの話での出発になると思ったからだった。 

≪028≫
  ↓汝(いまし)たぐひを 異(こと)にして
  ↓同じ心に 遊ぶてふ ↓まこと聞きしが 如(ごと)あらば 

≪029≫  良寛を慕っている文人墨客や作家や詩人歌人は数多い。あるとき五木寛之さんが言ったことだが(801夜)、良寛に出会わなくて、どうして無事に晩年を過ごせる日本の知識人がいますかねえと、たしかに言いたくなるくらいなのだ。 

≪030≫  漱石(583夜)もこの漢詩に魅せられて、自分でも良寛を慕う漢詩を作っている。漱石の「則天去私」は修善寺で療養しているときの着想だが、良寛の生き方や考え方にもつながっていた。とくに大正3年に良寛の書を入手したときの感激といったらなかった。  

≪031≫  子規(499夜)も良寛に驚いたようだが、それを示唆したのは良寛と同じ越後出身の会津八一(743夜)だった。良寛は漢詩も和歌もよくしたが、中国の唐詩選の五言絶句74首、七言絶句165首をこくごとく和語による歌ぶりにしてみせた八一には、良寛が深く見えていたのではないかと思う。すでに第一歌集『南京新唱』の自序に良寛を引いて、「良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果たして何を評すべきか」と書いた。 

≪032≫  その八一に、坪内逍遥が熱海の別荘の門額「雙柿舎」を揮毫してもらったときも、逍遥は良寛風を望んだ。あの逍遥にして、こうだったのだ。 

≪033≫  日本神話の場面を描きつづけた安田靫彦と、『大愚良寛』を著した相馬御風が良寛に傾倒していたことも有名で、もし靫彦と御風がいなければ、これほど良寛が人口に膾炙したかどうかはわからない。  

≪034≫  北大路魯山人(47夜)においては崇拝に近く、書を真似てさすがに良寛の風姿花伝を香らせていた。今夜とりあげた『良寛全集』は東郷豊治の編集と解説になるもので、いま刊行されている良寛の詩歌集では最大のものなのだが、この校閲は堀口大学(480夜)が望んで担当している。大学の良寛論はとても耳が澄んでいるもので、ぼくはずいぶん影響されたものだった。 

≪035≫  だいたい良寛は「知音」(ちいん)と「聞法」(もんぽう)がある人なのだ。“耳の禅”をもっていた。それは道元に学んで、空劫以前の消息に耳を澄ましてきた曹洞宗の禅僧としての、一種の極意ともいえる。堀口大学はフランス文学者であるが、その耳を澄ます言葉に過敏であった。 

≪036≫  ↓翁が飢をすくへとて 杖を投じて 息(いこ)ひしに ↓やすきこととて ややありて ↓猿はうしろの 林より  ↓栗(このみ)ひろひて 来りけり 

≪037≫  このほか、良寛に憧れた者はたくさんいた。松岡譲、亀井勝一郎、吉野秀雄は良寛の普及に貢献し、唐木順三が「最も日本人らしい日本人」と言ってからは、川端康成(53夜)の「良寛は日本の真髄を伝えた」にいたるまで、良寛は日本人の「心のふるさと」とさえ結びついた。 

≪038≫  しかし、そのように良寛を褒めちぎっていって、良寛の何が伝わるかというと、これは案外に心もとない。 

≪039≫  さきほどの田辺元書写の漢詩にして、この詩句から良寛の生活思想を「騰々任運」とか「任運自在」の一言でまとめる議論が陸続とあとを断たなかったのであるけれど、そうなるとこれは良寛が浸った道元禅の精神そのものと分かちがたく、それはそれで良寛ではあるけれど、半分は道元にもなってしまうのだ(988夜)。 

≪040≫  そんなことを感じつつ、いや漢詩をもってくるのはどうかと思い、それで選んだのが、次の歌である。   

≪041≫  淡雪の中にたちたる 三千大千世界(みちあふち)   またその中に 沫雪(あわゆき)ぞ降る  

≪042≫  この一首を措いて、「ぼくの良寛談義はこの一首に始まり、この一首で終わる」と書いた。そうしたら、そのとたん、すべてが良寛に舞いこみ、そこから立ち上がって、雪のように舞い散ってくれたのだった。 

≪043≫  こうして書き上げたのが『外は、良寛。』(芸術新聞社)だった。1993年に上梓した。「、」と「。」が入った書名は日本で初めてのものとなったが、これは表紙からノンブルまで、ページ構成から挿入図版まで、一冊すべてをデザインしてくれた羽良多平吉君の示唆によっている。 

≪044≫  この本は、いまでもそうとう気にいっている。良寛についてそのとき言いたかったこと、感じていたことをあらかた書き入れたという気分だし、それ以上のものを積みこむと、良寛が硬直してしまうか、すたすたとどこかへ去っていくような、そういう「すれすれ」も書いたように思えた。 

≪045≫  去来の良寛、加減の良寛、ずれ、連字連音、化外、フラジリティ、買い物、ハイパーカリグラフィ、文字上一味禅、香ばしさ、残年を払う耳、融通無碍の塵、真から行して草々、無常迅速の書‥‥。 

≪046≫  新しい言葉もふんだんに織りこんでみたが、いずれも風が吹けば、さっと動向を攫(さら)うものばかりにした。良寛を書いて、見方や思いが安定してしまっては良寛ではない。良寛はいつだって「そめいろの風」なのだ。 

≪047≫  ↓狐は前の 川原より 魚をくわへて あたへたり
     ↓兎はあたりに 飛びとべど
     ↓何もものせで ありければ
     ↓兎は心 異なりと ののしりければ はかなしや 

≪048≫  あれから10年がたった。 『外は、良寛。』は版元の事情で再版もなく、古賀君も編集部を去った。 

≪049≫  ぼくのほうは、そのあいだに良寛についての見方が変わるということはなかったものの、良寛についての書物はずいぶんふえた。 

≪050≫  ときどきそれらを読んで、何度か良寛を思い出すこともしばしばのことではあったが、ぼくの中の良寛はあまり変わっていない。こういうことはちょっとめずらしい。しかし、何か一陣の「そめいろの風」がそこにほしいときは、やはり良寛を持ち出していた。 

≪051≫  とくに雪の降る日は、なんだか良寛なのである。「淡雪の中にたちたる三千大千世界」がほしくなる。また「その中に沫雪」を、見たくなる。 

≪052≫  そのひとつ、その日は大雪となった新潟の鍋茶屋で未詳倶楽部を催したときは、大倉正之助君を招いて鼓を打ってもらったのだが、そのときの会題「舌鼓」を、ぼくは初めて良寛様に和紙に書いてみた。ぼくが良寛の書に似せて書いたのは、いまのところその雪の日の鍋茶屋でのことだけである。 

≪01≫  吉田一穂は、熱情といふものは砂すら燃やすものだ、と一人で呟いた。「砂」という文章の劈頭におかれた一文である。自我系の暗礁めぐる銀河の魚。コペルニカス以前の泥の擴がり‥‥睡眠の内側で泥炭層が燃え始める、とも謳った。「泥」という詩の冒頭である。垂直の声、無の対立、意識の天体が好きな詩人だった。ふる郷は波に打たるる月夜かな。こういう俳諧も詠んだ。 

≪02≫  こんな詩人はもういない。加藤郁乎は「北原白秋ですね、次が西脇順三郎で、そして吉田一穂ですよ。日本の詩人はこの三人ですべてです」と言った。この評定は、西の知と東の無をひとしく重ねられた詩人としての本質を穿っている。郁乎さんらしい評定だ。たしかあと二人加えると、そうですねえ、滝口修造と飯島耕一でしょうかねえとも言っていたように記憶する。郁乎さんの好みと他の詩人のことはともかく、一穂はたしかに西としては幾何精神の詩人であり、同時に東としては半眼微笑の詩人だったのである。 

≪03≫  ぼくはぼくで、早くから「ブラキストン線の向こう側の詩人」というふうに『遊学』で名付けていた。北海道上磯に網元の子に生まれ、札幌北海中学で読書に耽っていた詩人だったからである。ブラキストン線とは津軽海峡の地質学的別名のことをいう。西と東を重ねたというより、北にいて東西南北を引き寄せた詩人なのである。 

≪04≫  こんなエピソードがあった。北海中学で友人を殴った不良を代わりに殴ったあと、13歳の一穂がどうしたかといえば、積丹(しゃこたん)半島の鰊場(にしんば)で漁師と暮らしていたのである。 

≪05≫  いや、この小さなエピソードを膨らませようというのではないのだが、こんなふうに一穂のように何かがあればさっさと北方の座標に座りこんでしまうような詩人はいなかった、そのことを言いたかったのである。しかも、このことをこそもっと強調したいのだが、その北方性は、一穂の詩語そのものの究極成分でもあったのだ。 

≪06≫    月しづむ境(はて)に眠らん。
     深夜の朱金、商ふあり。
     虚しきと抗ふ、わが渇き。
     太古を降(くだ)る砂鉄の滸(ほとり)。 

≪07≫  これは『暗星系』のなかの「天隕」という作品である。月が沈む境涯を凝視して、そこに深夜の朱金を思う。それが存在の渇きのごとく高じて、そこから自分の精神が太古をくだる砂鉄の滸(ほとり)に向かうというのだ。 

≪08≫  なんという詩語であろうか。いやもっとわかりやすくは、暗星系といい、天隕といい、こんな凍てついた言葉の一つや二つですら、吉田一穂にしかない吐けなかったものだった。文章も、そうである。こんなふうに、書く。「道元は坐れといふ。人間的連続の切断に於ける表現停止である。それは絶対の場を示唆する。不立文字の無位の相として、混沌に背骨をまつすぐたてることは、一つの天体たることである。人は社会的に憑れかかつて、歴史必然に流されてゆく。生とは強引にふりむいた時の意識である」。 

≪09≫  これは『古代緑地』のなかの「あらののゆめ」の一節だ。道元禅師を語っているのに、その奥から一穂の手が星座を動かしている。その動かしている座標の中心はゼロではない。座標の中心がすでにして極北なのである。いわば、偏極することが座標の正位置なのだ。そこから道元をひょいとつかまえる。とんでもない方法だ。  

≪010≫  このように一瞬にして「系」というものを動かしてみせる一穂の幾何学神楽のような詩には、独自の詩語が分布されている。こういう詩語に、ぼくは後にも先にもいまだお目にかかったことがない。 

≪011≫  思い出してみると、ぼくが吉田一穂の詩を最初に集中して読み耽ったのは27歳の春だった。仮面社の西岡武良君が加納光於装幀の函入り『吉田一穂大系』全3巻を刊行した直後のこと、まだ印圧の籠もる詩語たちを、貪るように、呑みこむように、眼光に射られるように、読んだ。そのときの一穂の詩語たちは、いまもってぼくの脳裡から聖刻文字のごとくに消え去らない。  

≪012≫  のちのちのことだが、実は一穂に関するある作業をしたことがあった。田中泯に頼まれて、白州アートフェスティバルの土舞台で上演するための舞踏台本『古代緑地』を創作したのだ。舞踏台本ではあったが、ぼくは複数のダンサーたちに言葉を与えた。一穂の言葉を、である。このとき、あたかも鋲打ちをするかのように久々に『吉田一穂大系』のなかの言葉の数々を精査することになったのだが、そんな"言葉の大工仕事"をしているときも、27歳の春に読んだときの詩語が脳裡からまだ消えてはいないことを知ったのだ。 

≪013≫  それほど一穂の詩語は聖刻的なのである。たとえば、たとえばであるけれど、『未来者』では、こんなふうだった。 

≪014≫   これは神と我れとの對話である。 
 竟(つひ)に彼は答へず、我れの獨白に了(をは)る。
 詩は垂直の声であり、絶對者の言葉である。
 それは紙や石に書くが如きものではなく、ユークリッド星座とも謂ふべき、言語に據る一體系としての、獨立な次元、まさしく人間現極に於ける自然荘厳の、ディオニソス全圓でなければならない。 

≪015≫  これは詩というよりも詩語そのものの座標分布である。未来者、神、我れ、獨白、垂直の声、絶對者、ユークリッド星座、一體系、獨立な次元、人間現極、自然荘厳、ディオニソス全圓‥‥。 

≪016≫  ここに冒頭からあげてきたいくつかの詩語たちをさらに加えてみるとよい。熱情、自我系、暗礁、銀河の魚、コペルニカス以前の泥の擴がり、睡眠の内側、泥炭層が燃え始める、垂直の声、無の対立、意識の天体、波に打たるる月夜、月しづむ境、深夜の朱金、太古を降る、砂鉄の滸、暗星系、天隕、人間的連続の切断、表現停止、絶対の場、一つの天体、時の意識‥‥。 

≪017≫  ポーラリゼーションとは、地球が北極や南極のような極性をもつことをいう。一穂は北海道という自身の生まれ立つ原郷を偏愛して、その地質学的叙情に多くの想像力をめぐらし、その原郷がもつ無窮の時空に多くの思索を費やした。そして、かつて地軸が30度傾いていたころ、地球は現在とはまったく異なる相貌をもっているはずであることを確信して、そこに「古代緑地」や「黒潮回帰」という壮大な詩的構想を得た。白鳥伝説にも心をくだいた。 

≪018≫  それを一穂自身は「現極論による詩の原理」とか「偏極的方法」などとよんでいた。傑作『古代緑地』には次のようにある。「地球を太古へと三〇度傾けた極の心軸に描かれる緯度の位相差は、現亜寒帯の凍土や氷雪の地蔽を透して、旧温帯の燦たる緑地を現像する」。 

≪019≫  吉田一穂とは、このように、存在自身を現極者としたかったポラリゼーションそのものの詩人なのである。吉田一穂の詩語は、地軸の傾斜に抗して生まれ出てくる生ッ粋の測定概念なのである。 

≪020≫  どうだろうか。こんな詩人がかつていただろうか。 いるわけはない。自身で「詩法の幾何学」に達しようとした詩人なんて、日本のどんな現代詩壇においても招かれざる客だったのだ。僅かに西脇順三郎や鷲津繁男がいたばかりだろうが、そのような名をぼくが示そうとしていること自体、それを示すべき天空の渡り鳥の線そのものが詩天の空から消えかかっているのだから、ここに誰をどのように持ち出しても説明にならないのである。 

≪021≫  だからむしろ、一穂はただ一人の孤絶の立脚者だったというしかないのだが、ふつうならそのくらいの孤絶者ならば、もっと地鳴りのような噂が立っていたはずなのである。それなのに吉田一穂はかくも忘られたままにある。なぜ、こんなふうになったのかは、ぼくにはさっぱりわからない。おそらく世の中では「極限」というものがあまりにも辛いと思いすぎているためだろう。みんながみんな「極限」から逃げ出しているからだろう。本当は「極限」だけが重要なのに。 

≪022≫  しかし、こんなふうに切り上げては、またまた吉田一穂を極北に置いてけぼりにしてしまうことになる。ぼくは一穂が一見、極北や極限を離れているように見えたときも、なお一穂でありつづけたことを、以下にごくごく簡略に紹介しておくことにする。 

≪023≫  先にも記したように、吉田一穂は明治31年に北海道上磯に生まれた。8月15日である。早くから老子・陶淵明・鴨長明に惹かれていた。一穂はその存在の当初から「無」が好きだったのだ。 

≪024≫  札幌に出て中学校を途中までおくるのだが、大正12年に北原白秋の『桐の花』一冊をかかえて出奔、白秋の詩語が響く早稲田界隈に吸い寄せられるように下宿して、予備校に通った。ここでアイルランド文学を知った。ケルト神話やダンセーニやイエーツやパウンドだ。はやくも西の知と東の無とが、北海道とアイルランドという北方軸で交わったのである。 

≪025≫  やがて早稲田英文科に入ると、級友の佐藤一英・横光利一・中山義秀と胸襟をひらく仲になり、ボート部に所属して舵手をつとめ、短歌を詠んで若山牧水を紹介された。こうした一穂はきっとわかりやすいはずである。しかしこのころ家業が急速に没落し、送金が絶えたのを機に早稲田を放逐してしまう。そして自活のために著作に専念する決意をした。このときに詩歌や随筆を推敲して綴る一方で、実業之日本社や研究社の「中學生」「女學生」などの雑誌に、心ばかりの童話や童謡を書いた。これが、のちに知る人の知る一穂の童話作品群の礎になっている。名作『海の人形』『氷島漂流記』の原型はほとんどこの時期にできていた。  

≪026≫  これはちょっとホッとする一穂だろう。一穂の童話はこの『大系』第3巻にも35篇ほど収録されているのだが、いずれも優しく、寓意と飛躍に富んで、そこにちょっぴり異常が挟まれている。その最も初期の『もも』は、子供が桃を食べながらお父さんに「桃太郎ってほんとうにいるの?」と聞くところから始まって、お父さんがその種をまいて育てれば桃太郎になると言うので、それを楽しみにするという、ごく短い物語になっている。ところが桃の木が育つよりも子供のほうが大人になるほうがずっと早い。成長した子供はそれでも父の話を確認したくて、お父さんに聞く。父が笑って「おまえが桃太郎なんだ」と言うと、子供は「あ さうか とうなづいて あたまを かきました」というものだ。 

≪027≫  そんな日々を送っていた一穂がやっと小田原の白秋を尋ねたのは24歳のときだった。これが機縁で、つづいて島木赤彦や岩波茂雄に紹介されるのだが、まだ出版界は一穂の才能を認めようとはしなかった。今日同様に、あまりに難解、あまりに形而上的に映ったらしい。岩波茂雄もさっさと逃げた。 

≪028≫  しかし一穂は世間との交信がうまくいかないことなど、すでにどうでもよかったようである。そのかわり、3人の詩人たちとの交信だけは絶やさなかった。  

≪029≫ 吉田一穂が白秋に兄事しようとしたことは一穂の起爆を知るうえで特筆される。白秋はのちに岩波文庫の詩集の解説を一穂に頼んだのだが、そこに一穂はこう書いた。「開版、匂ふばかりの『桐の花』は、霙(みぞれ)ふる夜の津軽海峡を、北へ渡る少年の手にあつた。これが北原白秋を知る始めであつたが、新鮮な触感は装幀ともに感覚の分光彩(スペクトラム)として、私に詩集であるとの錯覚を与えた」。 

≪030≫  少年期の一穂が白秋に憧れた事由を語っているとともに、その『桐の花』が歌集であったことを語ろうとしている。この、わざわざ歌集を詩集だと錯覚したということを書いているのが一穂なのである。また、こうも書いていた、「内から噴き溢れる生命の歓喜に虹の圓光を放つて明るく豊かな童心白秋は、黄金の楊子を銜へて生れてきたと云はれるほどの天恵の詩人であつた」「この美の享受者は、基督教徒に非ずして邪宗門のエキゾティシズムに惑溺し、浪漫主義の火酒に酔ひ、無頼に非ずして江戸情緒のデカダンを装ふ」と。 

≪031≫  美辞を並べてはいるが、白秋の詩語を褒めているわけではない。ただひたすら、白秋の先駆性が自分にとってありがたかったということを述べた。しかし、それが一穂なのである。またここには、一穂が世渡りが下手だった雰囲気も吐露されている。恩義のある白秋に、あえて詩集と歌集のとりちがえなど語らないほうがいいに決まっているのに、そんなことをした。では、これはどういうことか。つまりは、一穂にとって白秋は桃太郎の話を最初にしてくれたお父さんだったのだ。一穂を鼓舞させた支柱ではあったのだが、詩質という点では一穂は白秋とはかなり異なっていたことを知っていたわけである。けれども一穂は最後の最後まで白秋を評価し、擁護する。 

≪032≫  白秋とともに一穂が私淑したのは福士幸次郎だった。福士幸次郎は鉄の古代を推理した『原日本考』の思索者であって、時代を切り裂く詩人であった。 

≪033≫  福士幸次郎のことを知る人は、これまた、いまはまことに稀少だが、絶対に忘れてはならぬ思想者であって、日本詩人だった。化石学者で地球科学者の井尻正二がその弟子筋になる。だから井尻さんは終始一貫して福士と一穂とを称えた。称えたのは仲間だったという理由だけではない。福士が日本人らしからぬ弁証法的思考をもっていたこと、一穂が「地軸の変動」についての詩人らしからぬ大胆な科学的仮説をたてたことに、それぞれ驚嘆したせいでもあった。しかし、一穂が福士幸次郎に傾倒したことは、その後の一穂をますます孤独にしていくことになる。福士幸次郎もまた、いっさいの学説にもいっさいの詩壇にも背を向けた孤立者だったからだった。 

≪034≫  もう一人、一穂が交信しつづけた詩人がいた。金子光晴だ。大正11年、24歳になっていた一穂は、この年に金子が主宰して創刊した「楽園」に加担して詩を発表した。また、28歳のときは金子と組んで「日本詩会」を結成したりした。その後、白秋と福士が企画主宰した「新詩論」の編集を一穂は34歳のときに引き受けるのだが、このときも金子は良き相談相手になっている。 

≪035≫  けれどもこの金子との真摯な友情の重なりも、一穂のポピュラリティを奪うほうにはたらいた。金子はその後、第165夜に案内したように「絶望」と「異邦性」を歌う詩人になって、日本が飽食でいぎたなくなったときにはそのデスペレートな発言が話題になった。日本を捨てた金子は日本の社会に受け入れられたのだ。しかしだからといって世間に向かって何も言う気がなく、ひたすら極北の詩語を座標に点滴することだけが仕事であった一穂のことをメディアが理解するはずはなかったのだ。メディアは、金子の奔放な無頼性だけをよろこんだ。   

≪036≫  というわけで、こうした3人との交信は続いたものの、しかし、吉田一穂は生涯にわたって孤絶を貫いたとみたほうがいい。が、そう言ったきりでは、やはり一穂を知るにはまだ不足していよう。 

≪037≫  では、そろそろ決定的な"一言解説"が必要だろう。吉田一穂には比類なきアナキズムがあったのである。アナキズムといってびっくりするのなら、もうちょっとだけ正確にいえば「無位の思索」があったのだ。 

≪038≫  これは、「どこにも属さない意味を発見するために、いまはここにいる」という思索のことをいう。そのことを最後にごく少々、付け加えおきたい。 

≪039≫  吉田一穂の詩で最も有名になったのは「母」である。澁澤龍彦がやけに好きだった。この『大系』第1巻の冒頭に収録されている。こういうものだ。 

≪040≫ 
 あヽ麗はしい距離(ディスタンス)、
 つねに遠のいてゆく風景‥ 

 悲しみの彼方、母への、
 捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。 

≪041≫  この詩は「遠のくディスタンス」と「打点するピアニッシモ」が併存しているところが独特である。そして、そこに「母」がいる。最も弱々しい打点が奏でる風景は、つねに遠のいていく風景なのである。しかし、それをいま「母」と呼ばずして、どうして現在などあるものか、どうして時空はあるものか。そういう詩である。 

≪042≫  これが一穂のすこぶるアナーキーな、しかし座標を失わない「無位の思索」の表現なのだ。無始と無終のあいだに座りこむ表現なのだ。最弱音は消えるのではない。全き否定に向かいつつあるかのようで、最も微細な音を鳴らしつづけて、その微かな音量によってこそ広大無辺なディスタンスを呑みこんでいるのである。 

≪043≫  了解してもらえるだろうか。了解してもらわなくたってかまわないけれど、せめて、「どこにも属さない意味を発見するために、いまはここにいる」という思索のために、いったい何をするべきかということを感じてもらえば、多少は吉田一穂が「母」にも「座標」にも「古代緑地」にも見えてくるのではないかと思う。こんな歌もある。ぼくもそうなのだが、この一点が、誰だってほしいはずなのだ。 

≪044≫ 



水底の静かなるかも一點の
ノスタルヂアは魚のごとくも 

≪01≫  20年ほど前につくったエディトリアル・ゲームに「ミメロギア」がある。イシス編集学校をつくったときに基本プログラムにとりいれてみたところ大評判になった。 

≪02≫  お題に「珈琲・紅茶」「人類学・社会学」「トヨタ・ニッサン」などという対比の言葉が出ると、回答者はこれに「午前の珈琲・午後の紅茶」とか「足の裏の人類学・口の端の社会学」とか「安定のトヨタ・探偵のニッサン」といった形容をつけて、それらの対比をいっそう穿って強調するというゲームだ。ミメロギアとは、ミメーシス(模倣)とアナロギア(類推)という2つのギリシア語による修辞法の用語をくっつけた造語である。いまでは編集稽古の定番になっている。 

≪03≫  寺田寅彦にこのミメロギアの原型がある。俳句仕立てになっている。「客観のコーヒー、主観の新酒かな」というものだ。これはコーヒーと新酒をくらべるふりをして、客観と主観の区別をめんどうな論理などで説明せずに、その2組の本質的なイメージにふわりとした対同をおこさせる芸というもの、そのくせコーヒーと新酒の暗示的本懐を告げてみせているのである。 

≪04≫  客観と主観というめんどうな概念をどう扱うかは科学者の腕の見せどころ、それを苦もなくコーヒーと新酒に振り当てた。理科は言葉に、言葉は理科になって、一緒にネクタイをしているのだ。 

≪05≫  寺田寅彦にはまた、「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手して宇宙見物」という有名な三十一文字もある。当初はローマ字で記されていた。 

≪06≫  ぼくが大好きな戯れ歌で、寺田寅彦の芸当がすべて言いあらわされている。それとともにここには、『枕草子』このかた連歌俳諧で極め尽くされてきた「物名賦物」の伝統がたくみに集約され、しかもそれが近代化され、科学化されている。任意に物の名をあげて、そこから連想されるお気にいりを少々連打するのが「物名賦物」で、清少納言『枕草子』もそのでんだった。「山は」「小さきものは」「好きなものは」と措定して、それをただ並べるだけだが、そこに愉快な編集術が遊ぶ。 

≪07≫  寅彦は好きなものに「イチゴ」と「珈琲」を並べあげ、そこで「花美人」と振って愛嬌を見せ、そこからが独壇場なのだが「懐手して宇宙見物」というふうに一挙に望遠をズームして飛び上がった。寺田寅彦こそ編集学校の初代名誉校長だったのだ。 

≪08≫  寺田寅彦の『柿の種』に「連句の独自性」という随筆がある。 いまさら強調するまでもなく、漱石門下の寅彦の随筆は天下一品で(ときに吉村冬彦の名義)、この言葉の料理を一度でも口にしたらその味が忘れられない。忘れられないというより、のべつ食べ続けたくなるという中毒的なおいしさがある。かくいうぼくも10年くらいに一度はこの中毒にたっぷり罹りたくて、寅彦を何度もつづけさまに読んできた。 

≪09≫  で、この「連句の独自性」では、最初にチェンバレンの日本文化論、「この国で純粋に日本固有なものは風呂桶と俳諧である」を引いて、では、いったい俳諧っていうのは何だろうという随筆にしている。そして俳諧とはこれだと言わないのが俳諧だから、寅彦はまずドイツ人がいかに俳諧的ではないかという説明をする。  

≪010≫  ドイツ人を引き合いに出したのは、寅彦が学んだ物理学がドイツ流のものだったので、ドイツ的思考のクセはよく見えるからだ。 

≪011≫  たとえば、ドイツ人は呼鈴の押釦の上に「呼鈴」と貼り札をする。便所の箒の柄には「便所の箒」と書く。寅彦はこういうやり口は俳諧ではないと言う(もっともこういうことは日本人もその後やるようになったので、日本人もずいぶん俳諧から遠ざかったということになる)。これにくらべればフランスにはセーヌ河畔の釣人やマチスの絵や蛙の料理など、ちょっと俳諧がある。ただしシャガールの絵のように雑然といろいろなものを散らばらせて夢の群像にするものもあって、これは寅彦にとってはとうてい俳諧ではないらしい。とくにあんなものを真似た日本人の絵はさらにひどい。 

≪012≫  だからドゥ・ブロイの波動力学には俳諧味があるが、デンマークのボーアやドイツのハイゼンベルクの物理学になると「さび」「しをり」を白日のもとに引きずり出して、隅から隅まで注釈してしまうことになる。 

≪013≫  こういうことをしないのが俳諧なのである。そう言って、寅彦はこれは日本には多様な自然の変化がありながら、その宗教と哲学に自然的制約があること、それをうけとる日本人に無常迅速という感覚が根を張っているからだと転じる。そうすれば「五月雨」とか「時雨」という、それ自体ですべての自然との関係を集約する言葉に自分を捨てられる。こうなれば、おのずから俳諧が出てくるのだと言う。 

≪014≫  もうひとつ、『雪月花の定座の意義』では、連歌の附合を尊んで、この心理的機巧には「不知不識の間」というものができるので、これこそが俳諧ではないかと書いた。科学の袖の隙間から俳諧をのぞかせたのだ。こういう随筆もコンペイトウの話をはじめ、寅彦が当初から見せていた名人芸だった。 この芸当は科学においても発揮された。寅彦の科学は附合の科学であって、間の科学なのである。 

≪015≫  寅彦については、その人生があまり知られていないようなので、少々ながらその肖像を添えておく。何歳くらいで死去したのかも、知られていないかもしれない。  

≪016≫  明治11年に麴町に生まれるのだが、3歳のころに高知に移って尋常中学校に入り、明治29年に熊本の五高に進んだ。ここで二人の師にめぐりあう。一人が英語教師の夏目漱石で、もう一人が物理の教師の田丸卓郎だ。田丸は東京帝大の理科大学物理学科の初期の修学者である。ハイデルベルク大学に留学したのち、東大の理論物理学のセンセーになった。弟の田丸節郎も有名な化学者だった。 

≪017≫  寅彦は漱石と田丸が大好きで、すぐに自分の好奇心はこの二人に即してこそ進捗すると決めた。惚れっぽかったのか、早熟だったのか、五高時代に阪井夏子(陸軍中将の娘)と学生結婚をすると、漱石を主宰とする俳句結社「紫溟吟社」を始めた。 

≪018≫  ついで東京帝大の理科大学に入り、田中舘愛橘と長岡半太郎の教えに触れた。これまた巨きなセンセーである。ただ、妻の夏子が病死した。大学院を出たあと、母校の講師となり、浜口寛子と再婚して、明治41年に理学博士号をとった。研究テーマは「尺八の音響学的研究」である。このあたりで地球物理学に関心をもち(地球全体が鳴り響いているように感じていた)、ベルリン大学に留学、ストックホルムでスヴァンテ・アレニウスに会えた。アレニウスは物理化学の創始者で電解質の電離理論でノーベル賞を受けた大立者だ。 

≪019≫  明治44年にパリ、イギリス、アメリカをまわって欧米のダンディズムを存分に吸って帰国すると、農商務省から水産講習所で海洋学を研究するように嘱託された。そのころの役所は新進の学問に飢えていたのである。 

≪020≫  かくて大正2年が寅彦の研究本格化の節目になった。マックス・フォン・ラウエのラウエ斑点発見に刺戟されてX線回折実験にとりくみ、「ネイチャー」に「X線と結晶」を発表した。 

≪021≫  ラウエはX線の正体が波長の短い電磁波であることを証明したのだが、この現象を逆に利用すれば物質の結晶構造を明示することが可能になる。寅彦が結晶に関心を寄せたこと、ぼくにはアンリ・ポアンカレとの強い類似力を感じさせる。 

≪022≫  大正6年、夫人がまた亡くなり、翌年に酒井しん子と3度目の結婚をする。大正11年はアインシュタインが来日して、石原純が公私にわたってエスコートするなか、寅彦も講演を聴講し、歓迎レセプションに参加した。そのわりにはかの数々の随筆にアインシュタインについての言及がほとんどないのは、ぼくが思うには、寅彦は嗜癖的でオブジェクティブな見方が大好きで、茫漠たる時空連続体には関心をもてなかったのではないか、あるいは幾何学よりも実際のパターン形成(割れ目)に心躍っていたからではないか、そんな気がする。 

≪023≫  そこへ関東大震災がきた。寅彦は地球科学者として地震に向かい、東京帝大の地震研究所に属すると、例の「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残した。 

≪024≫  大河内正敏に誘われて理研(理化学研究所)でも研究をするようになった。これらの研究所で、中谷宇吉郎、坪井忠二、平田森三らの後進が育ったのである。多くの名随筆も書いた。昭和10年の暮れ、大晦日に転移性骨腫瘍で亡くなった。57歳である。師の漱石の死は49歳だった。ずいぶん短い生涯だったのである。 

≪025≫  ところでぼくは、岩波の小ぶりな『寺田寅彦全集』を少しずつ買って、やっと全巻を書棚に並べたときの、各枝の蕾がふくらみきったときのような感慨の瞬間をいまでもよく憶えている。30巻ではなく新書サイズの例の16巻ものだ。 

≪026≫  やっと揃ったのである。それから何度も何度もその書棚を見て、なんともいえない至福感を味わってきた。どれか1冊だけを取り出すのが惜しい。それほどにこの寅彦全集の「揃い」は百人一首の札を全部とってしまったような快感をもたらしてきた。 

≪028≫  これを「粋の科学」との逢着とも、「茶碗の宇宙」を手に取るとも、一緒に「松葉牡丹の線香花火」を眺めるとも、言っていいだろう。それほど寅彦は極上なのだ。 

≪027≫  揃えてみると、それからがいそいそしてきた。窓際に椅子を出す。1巻ずつ函からクロス貼りの本を取り出してくる。渋茶をすする。次にペラペラ、パラパラ、何度も同じページを行き来しながら、その日その時、1番読みたくなった随筆を捜し当てるのだ。いそいそする。けれどもその1巻に今日の照準器にぴったりするものがないと、次の1巻を取り出し、また同じことをする。捜し当てるといっても、それは前に読んだものであったり、何度もページを繰っているうちに半ば読了感のあるものであったりするのだが、それでもその日その時にぴったりする随筆とめぐりあえると、やっぱりいそいそする。無上の幸福なのである。 

≪029≫  そもそもぼくは当初から寅彦の「割れ目の科学」が好きで、これを継承した平田森三の『キリンのまだら』(中央公論社→ハヤカワ文庫)や、寅彦の最後の継承者ともいえる樋口敬二さんのエッセイに至るまで愛読し、世に揶揄されている寺田物理学を本気で復活させたいと思っている寅彦血盟団の一味なのである。 

≪030≫  「割れ目の科学」というのは、シマウマや虎猫の斑模様とか大地に割れ目をつくっている河川のパターンなどがどうしてできたかを考える科学のことで、まさに寺田物理学の面目が躍如する。ぼくはそれを復活させたかった。 

≪031≫  だが、いつもそう思っているうちに、またまた窓際の椅子で寅彦随筆を何度もパラパラ、ペラペラ、いそいそと読んでいると、その俳諧味に引っ張られてしまい、ついうとうとと「寅彦不知不識の間」に滑り落ちていく血盟団失格者でもあった。 

≪032≫  もうひとつ白状しておかなければならない。寺田寅彦には「牛頓」(中国語でニュートン)といった俳号による俳句がそれなりの数あるのだけれど、なかなか名句に出会えず、寅彦は俳句はヘタだといっとき思っていたことだ。  

≪033≫  しかし、あるとき「山門や栗の花散る右左」にいたく心を動かされて、それから二度と「寅彦先生は俳句がヘタだ」とは言わないようになった。寅彦の俳句から寅彦の随筆が見えてくるようになってきたからだった。 

≪034≫  とくに「哲学も科学も寒き嚏かな」の一句に脱帽してからは、ぼくは俳諧編集のスクナヒコナとして、あるいはミメロギアの名手として、あらためて牛頓寅彦先生を崇拝しなおすことにしたのである。実は今夜、数ある寅彦全集からの一冊ではなく本書を選んだのも、この『俳句と地球物理』という寺田寅彦の著書にはない標題をつけた角川春樹事務所の編集感覚に敬意をあらわしたかったからと、巻末に寅彦の全句が付録収録されていたからだった。 

≪035≫  昭和5年の2月中ごろ、伊豆の伊東付近で地震があった。寅彦はそのときの地震の頻度と椿の花が落ちるデータをグラフ化してみて、その模様が似ているのに気がついた。地震と椿の落花のオシログラフの模様が似ているなんて、とうてい寅彦以外には発想しない。 

≪036≫  これは寅彦が自然界における相互の「寄与」(コントリビューション)ということをつねに感じ、つねに考えようとしていたことをよく物語っているエピソードであろう。寅彦は喫茶店で珈琲にしようか紅茶にしようか迷っているときにさえ、宇宙線の到来を感じる人だったのである。 

≪037≫  寅彦が虎猫の割れ目や線香花火のパターンや煙の乱流に関心をもったのは、自然が不安定で不確実だと見ていたからで、それとともに芭蕉の「風流は寒きものなり」を実感していたからだった。漱石はそういう寅彦を『吾輩は猫である』には水島寒月として、『三四郎』には野々宮宗八として描いた。そこには、みんなが本気にしていないことに好奇心をもつことこそを信条としている科学者の姿が出入りする。かつての日本にもそういう「懐手をする科学」があったのである。 

≪038≫  やはり金米糖の話をしておきたい。寅彦はあるとき金米糖のツノツノがどうしてああいうふうにできるのかに関心をもつ。製法を聞いてみると、純良の砂糖に少量の水を加えて鍋の中で熱してどろどろの液体にし、心核に芥子粒をいれて杓子で攪拌しながら何度もすくいあげていると、ああいうツノツノが出てくるらしい。 

≪039≫  中心に心核があって砂糖が成長することは不思議ではない。しかしツノツノがだいたい平均的な数で非対称に成長するということは、ふつうの統計物理では解けない。平均的球形から偶然の統計的異同が生じるプロセスと、一定の数のツノツノになる相互作用を発見しなければならない。  

≪040≫  そんなことを考えながら、寅彦はしだいに個体のフラクチュエーション(ゆらぎ)の問題に翼をのばし、物理学がいまだに「一つの石によって落さるべき二つの鳥」を相手にしていないことに思い至る。さらに生命の有機的多様に対して物理学がまったく無力であることを慨嘆する。 

≪041≫  そうしてふと窓外に目をやると、そこには顔も服装もちがうたくさんの人々が往来している。寅彦はこの人々の内側に、いったいどのような分子的統計異同がおこったかと想う。そして物質も人間も、個性とはすべからくアナロジーに関係していることに思いを深めていく。 

≪042≫  こういう味わいのあるエッセイは100も200もある。ただわれわれがそれらを書店の片隅に置きざりにしているだけなのである。
まだいろいろ言いたいことはあるのだが、ドイツ人に似ていると言われないうちに、今日は次の一句だけをあげておく。
   粟一粒秋三界を蔵しけり 牛頓 

昔、「がっがっが鬼のげんこつ汽車がいく」という小学生の俳句に腰を抜かしたことがある。
教えてくれたのは初音中学の国語の藤原猛先生だった。
難聴の藤原先生は「がっがっが」と大きな声でどなり、「どうや、こういうのが俳句なんや」と言った。 

≪02≫  トンボを手づかみするように、桃をほおばるように、子供は言葉を五七五にしてしまうのだ。本書にもそういう句がいっぱいある。腰を抜かしたものもある。この本と同じ版元で同じ金子兜太監修の『子ども俳句歳時記』という有名な本があって、そこにもびっくりする句が多かったが、この本の句もすごい。あらきみほのナビゲーションも絶妙である。 

≪03≫  ともかくも、以下の句をゆっくり味わってほしい。すぐに俳句をつくりたくなったらしめたものだが、おそらくそれは無理だろう。あまりの出来に降参するというより、しばし絶句するというか、放心するにちがいない。とくに理由はないが、季節の順や年齢の順をシャッフルしておいた。 

≪04≫ あいうえおかきくけこであそんでる(小二女)
★最初からドカン!これはね、レイモン・クノーか井上ひさしですよ。 

≪07≫ ねこの耳ときどきうごく虫の夜(小四女)     
★「ときどきうごく」と「虫の夜」がエントレインメントしています。 

≪010≫ 座禅会むねの中までせみの声(小六男)      
★座禅もして、蝉しぐれを胸で受けるなんて、なんとまあ。胸中の山水だ。 

≪013≫ ドングリや千年前は歩いてた(小五男)      
★縄文学の小林達雄センセイに教えたくなるような悠久の名句でした。 

≪016≫ 春風にやめた先生のかおりする(小四女)      
★うーん、まいったなあ。中勘助あるいは川上弘美ですねえ、これは。 

≪019≫ なのはなが月のでんきをつけました(小一女)      
★これは未来派のカルロ・カッラかイナガキタルホだ。今回の最高傑作。 

≪022≫ つりばしがゆれてわたしはチョウになる(小三女)      
★「あなたに抱かれて私は蝶になる」なんて歌、こうなるとはずかしい。 

≪025≫ しかられたみたいにあさのバラがちる(小二女)      
★朝の薔薇が散る。そこに着目するとは、利休? 中井英夫? 

≪028≫ いなごとりだんだんねこになるわたし(小一女)      
★「だんだんねこ」→「段々猫」→「だんだらねえ子」だね。 

≪031≫ あかとんぼいまとばないとさむくなる(小一男)      
★飛ばない蜻蛉。小学校一年でウツロヒの哲人? 

≪034≫ あじさいの庭まで泣きにいきました(小六女)      
★こういう子を引き取って、ぼくは育ててあげたいなあ。 

≪037≫ 話してる文字が出そうな白い息(小六男)      
★はい、寺山修司でした。イシス編集部に雇いたいくらいだ。 

≪05≫ ぼんおどり大好きな子の後につく(小六女)     
★トレンディドラマの青春ものなんて、これを超えてない。 

≪08≫ くりごはんおしゃべりまぜて食べている(小三女)      
★ぼくのスタッフでこんな昼食の句をつくれる奴はいない。 

≪011≫ かいすいよくすなやまかいがらすいかわり(小一女)      
★単語だけのタンゴ。漢字にすると、海水浴砂山貝殻西瓜割。 

≪014≫ 海の夏ぼくのドラマはぼくが書く(小二男)      
★おいおい、ミスチルやスマップよりずっと男らしいぞ。 

≪017≫ ガリバーのくつあとみたいななつのくも(小一女)      
★雲を凹型で見ている。空に押し付けた雲だなんて、すごい。 

≪020≫ せんぷうき兄と私に風分ける(小五女)      
★扇風機は羽根のついたおじさんなのです。 

≪023≫ 水まくらキュッキュッキュッとなる氷(小五女)      
★知ってますね、「水枕ガバリと寒い海がある」西東三鬼。 

≪026≫ かっこうがないてどうわの森になる(小三女)      
★「桃色吐息」なんて小学三年生でもつくれるんだねえ。 

≪029≫ 夏の日の国語辞典に指のあと(小五女)      
★完璧です。推敲の余地なし。辞典も引かなくなった大人は反省しなさい。 

≪032≫ 青りんご大人になるにはおこらなきゃ(小六女)      
★よくも青りんごを持ち出した。大人になんかならなくていいよ。 

≪035≫ 天国はもう秋ですかお父さん(小五女)      
★いやはや。何も言うことはありません。そう、もう秋ですよ。 

≪038≫ えんぴつが短くならない夏休み(小六女)      
★鉛筆も思索も短くならない夏休みを大人は送っています。 

≪06≫ まいおちる木の葉に風がまたあたる(小五男) 
★とても素直だが、こういう詠み方にこそ斎藤茂吉が萌芽するんです。 

≪09≫ あきばれやぼくのおりづるとびたがる(小一男)      
★おい一年生、おまえは山村暮鳥か、それとも大手拓次なのか。 

≪012≫ 風鈴に風がことばをおしえてる(小四女)      
★あれっ、これは渋めの草田男か、日野草城にさえなっている。 

≪015≫ ぶらんこを一人でこいでいる残暑(小六男)      
★ふーっ、てっきり種田山頭火か黒澤明かとおもってしまった。 

≪018≫ なつみかんすっぱいあせをかいちゃった(小一男)      
★「なっちゃん」なんて商品でごまかしている場合じゃないか。 

≪021≫ 転校の島に大きな天の川(小四男)      
★まるでボグダノヴィッチや新藤兼人が撮りそうな風景でした。 

≪024≫ そらをとぶバイクみたいなはちがくる(小一男)      
★見立てもここまで音と速度が入ると、立派な編集術だ。 

≪027≫ 星を見る目から涼しくなってくる(小四男)      
★マックス・エルンストが「星の涼風を目に入れる」と書いていた。 

≪030≫ 墓まいり私のごせんぞセミのから(小四女)      
★おお、虫姫様の戸川純だよ。まいった、参った、詣りたい。 

≪033≫ あきまつりうまになまえがついていた(小二女)      
★この句はかなりすごい。談林派の句風がこういうものなのだ。 

≪036≫ 台風が海をねじってやって来た(小六女)      
★ちょっとちょっと、このスケール、この地球規模の捩率感覚! 

≪039≫ 秋の風本のページがかわってる(小二女)      
★石田波郷か、ピーター・グリーナウェイだ。風の書物の到来ですね。 


≪041≫  無邪気とはいいがたいけれど、たとえば「去年今年貫く棒のごときもの」(虚子) 

≪042≫ 「春の夜や都踊はよういやさ」(草城)、「買物のやたらかさばるみぞれかな」(万太郎)というふうに。 

≪040≫  どうだろう? そこいらの俳人や詩人も顔負けだ。われわれはときに小学一年生の感性に向かってバネに弾かれるごとく戻るべきだとさえ思わせられる。もっとも、大人も負けてばかりはいられない。ヘタうまには逃げず、その気になって子供のような句をあえて詠むときもある。 

≪043≫ なかには「さくらんぼ鬼が影曳くかくれんぼ」の坪内稔典のようなこの手の句の達人もいる。 


≪044≫ また、多田道太郎の『おひるね歳時記』(筑摩書房)がそうなのだが、軽い句を集成して遊んだ本もある。 

≪045≫ そもそも西脇順三郎にして、この手の名人芸を発揮した。「大人だって負けていられぬ季語遊び」。

≪01≫  一茶は28歳の「山寺や雪の底なる鐘の声」で、その句風を芽吹かせた。同じころの「五月雨や雪はいづこの信濃山」にも通じる一茶めく芽吹きだ。かつてぼくはこの二句が好きだった。 一茶は宝暦13年(1763)の信州柏原に生まれて、15歳で江戸に出て何度か故郷とのあいだを往復し、寛政享和文化の変動の江戸事情を片目で見ながら、ふたたび柏原に戻って「これがまあつひの栖か雪五尺」と定住したのが51歳である。その後は長男長女次男三男と妻を失い、新たな妻とも離縁して、3度目の妻を得たものの、最後は家も柏原大火で類焼して、「焼け土のほかりほかりや蚤さわぐ」の句を遺し、文政10年に死んだ。蕪村より約半世紀あと、良寛の5歳年下になる。 

≪02≫  そういう慌ただしいというか、ほとんど安寧もなく恵まれない人生がつづいた一茶、のちに「俳諧の地獄はそこか閑古鳥」とか「花の影寝まじ未来が恐しき」とかと激越に詠んだ一茶の境涯のなかで、28歳の一茶といえば唯一といってもよいほどに前途に何かをイメージできたころかとおもわれる。この二句にはそのような人生や時勢の先触れに煩わされていない「構える目」が生きている。自分の原郷を見る目だ。 

≪03≫  藤沢周平に『一茶』という淡々とした佳作がある。そのなかに、江戸に行って葛飾派の二六庵竹阿などに付き、いよいよ俳諧師になることを決意した一茶が、故郷の信州柏原にようやく帰ってくる場面が描かれている。そこまでは満を持しての周平節である。 その場面、一茶を久々に迎えた油屋の主人の立砂が「あんたもえらくなったなあ」と言いながら、「山寺や雪の底なる鐘の音」、あれなどとくにいいですなとおべっかを言う。一茶がちょっと照れくさそうに、それは「鐘の音」ではなくて「鐘の声」だと訂正する。「鐘の音」と「鐘の声」ではまったく風情がちがってくるが、そういう句の姿を通して藤沢は一茶の句のありかたを示唆した。 藤沢はこの小説で「只の非凡」とは何かを書いたのだと思う。いいテーマだし、そのために一茶を選んだのはさすがだが、「音」と「声」の差は「只の非凡」ではなく、かなりの非凡である。「雪の底なる鐘の声」「雪はいづこの信濃山」などと詠める俳人は、そうざらにはいない。おまけに一茶はそのころはまだ業俳の駆け出しにすぎない。早々の時熟、「時の非凡」といってよかった。 

≪04≫  一茶については、どうも一茶は軽視されすぎているか、誤解されているように見える。戦後の日本人は日本を知っているようでまったく知らないと言ってよく、あるいは棒のように一事を知っているだけで(信長とか芭蕉とか)、たとえば一休、雪舟、一茶、良寛となると急にわからなくなるらしい。 

≪05≫  理由がないわけではない。つまらぬ喧伝ばかりが行き渉るからである。頓知の一休、涙で鼠を描いた雪舟、手鞠の良寛というぐあいで、一茶についても8歳のときを思い出して50代に詠んだ「我と来て遊べや親のない雀」、同じころの「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」、晩年の「やれ打つな蝿が手をすり足をする」などの人口に膾炙した句が、いかにも思いやりがありそうで、心優しい孤独を表現しているように見えるせいなのだ。 

≪06≫  たしかにこの句を漠然と見ていると、そこにはぼんやりと子供や動物を眺めている温和な一茶像が浮かぶ。眼前をそのまま素直に詠んだ句に見える。また、渾身を吐露したはずの『おらが春』も、その題名だけからは何の屈託もない田舎っぽさが伝わってくる。 たしかにこの句を漠然と見ていると、そこにはぼんやりと子供や動物を眺めている温和な一茶像が浮かぶ。眼前をそのまま素直に詠んだ句に見える。また、渾身を吐露したはずの『おらが春』も、その題名だけからは何の屈託もない田舎っぽさが伝わってくる。 しかしこういう一茶像は、研究者たちが証した一茶とも、またぼくが好きな一茶ともかなりちがっている。 

≪07≫  これらの著名な句にしても、推敲の前の句は「我と来て遊ぶや」であり「やよ打つな蝿は手をする足もする」だったのだし、「雀の子-お馬が通る」は謡曲の「馬場退け退れ御馬が参る」を踏まえている。「お馬」は「御馬」であって、馬がそこのけと言っているのではなく、高貴な馬の従者が威張っていたのを言い換え、雀を庶民に見立てての考え抜いたうえでの句作なのである。 しかも一茶には、こうした思索や推敲のあとを消す技能さえかなり周到に用意されていた。だからぼくには、こういう知られた動物の句よりも、同じ生き物の句でも、たとえば「猫の子がちょいとおさへる落葉かな」や「一つ蚊のだまってしくりしくりかな」のほうが、ずっといい。 

≪08≫  そこで既存の一茶像を変えるためにも、ややわかりやすく意外なことを言うことにするけれど、一茶はまずもって読書家で、勉強家だった。かなり若いころから老荘を読んでいたし、富永仲基や荻生徂徠などにも目を通していた。 また、ニュースが好きなメモ魔の観察者だった。業俳とはそもそもそうした情報をネットワークする職能をもっていたのだが、とりわけ江戸での一茶は克明に世事を観察した。たとえば「うら店や青葉一鉢紙のぼり」「うら町は夜水かかりぬ夏の月」「うら住や五尺の空も春の蝶」など、鋭く都会の日々の「裏」を詠んだ。 裏店(うらだな)とは棟割長屋のこと、そこに住むことが「裏住み」である。そんな裏町では「江戸住みや赤の他人の衣(きぬ)配り」といった晴れがましいこともおこる。一茶はそういう情報俳諧をことこまかく詠んだのだ。 

≪09≫ 
店賃(たなちん)の二百を叱る夜寒かな 
雪散るやきのふは見えぬ借家札  
おもしろや隣もおなじ計り炭  
穀値段どかどか下るあつさかな  
米値段ばかり見るなり年初状 

≪010≫  最後の二句など、物価の句といってよい。それほどに世事の動向には過敏だった。 一茶は海外の力が日本に及んでくる情報にも耳をそばだてた。ぼんやりなどしていない。たとえば文化元年(1804)に、ロシア使節のレザノフが長崎に威容を着岸したビッグニュースが江戸に聞こえてきた。それを一茶は次のように詠んでいる。「春風の国にあやかれおろしや舟」「日本の年がおしいかおろしや人」「梅が香やおろしやを這はす御代にあふ」。  

≪011≫

  俳句というより情報を織りこんだ批評であり、ロシアに対して日本国の在り方を象徴的に問うているようなところがある。ロシア人に文句さえつけている。こういう一茶は小動物を見守る一茶ではなくて、窮鼠、猫を噛むなのである。 さらに一茶を知らぬ者には意外だろうと思われるのは、「日本」を詠んだ句が多いということだ。それだけでなく「神国」や「君が代」を冠した句もかなりある。詠んだ時期の順に主だった句を拾ってみると、こんなふうだ。 

≪012≫

君が世や風おさまりて山ねむる
これからは大日本と柳かな
君が代は乞食の家ものぼりかな
日の本の山のかひある桜かな
花おのおの日本だましひ勇ましや
日本と砂へ書きたる時雨かな
桜さく大日本ぞ大日本
日本の冬至も梅の咲きにけり
神国は天からくすり降りにけり
日本の外ケ浜まで落穂かな
君が代やよその膳にて花の春
日の本や天長地久虎が雨
神国は五器を洗ふも祭りかな 

◆◇ 栞 ◇◆ 7/14に「一茶俳句集」を此処に上梓し、左記の「日の本や天長地久虎が雨」を賞味した。「季語になっている「虎が雨」は、曾我兄弟によるあだ討ちに由来する。建久4(1193)年5月28日(新暦では6月28日)の出来事である」と知り、曾我兄弟の仇討の日が私の兄の誕生日と重なっていることを知った。私のセカンドネームは十五郎である。 これも日本昔話の一つでした。

≪013≫  まさに日本論。神国論である。このように、一茶は決してのほほんとした俳人ではなかったのである。むしろ逆に「蝿」も「日本」も同じサイズで観察できた俳人だった。ぼくはそのように見えている。 たとえばの話、「これからは大日本と柳かな」「日本の外ケ浜まで落穂かな」「日の本や天長地久虎が雨」といったやけに大きな句は、実のところは「足元へいつ来りしよかたつむり」「寝姿の蝿追ふ今日が限りかな」「ここから信濃の雪に降られけり」などと同寸なのだ。   

≪014≫  しかも一茶は芭蕉を愛し、蕉風に学び、そのうえで芭蕉と拮抗したかった。そういう激しいところもあった。いろいろ例があるのだが、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」には「夕空をにらみつめたる蛙かな」「もとの座について月見る蛙かな」なのだ。睨みつけるなんて、一歩も譲りたくないという気構えがあらわれている。また「閑かさや岩にしみいる蝉の声」に対しては「しづかさや湖水の底の雲の峯」というふうに、湖の深さと雲の高さをもってきた。 

≪015≫  こういう句はまことに多い。だいたい一茶自身が「芭蕉翁の臑をかじって夕涼み」「芭蕉翁の像と二人や初時雨」というふうに、そうした自分の臨模移写を笑ってみせている。 そのほか遺産争いを弟たちと闘ってちゃんと勝ち抜いたとか、継母が来て継子となった子供時代の境涯を執拗に詠み込みつづけるとか、いわば「負け惜しみ」の気概ももっていた。 しかし、そのような「負」を「惜しむ」という感覚こそは、俳諧においては一茶の卓抜な透徹ともなったのである。  

≪016≫  こうした一茶にニヒリズムがなかったといえば、それは当たらない。ニヒトも無為自然も食(は)んでいた。しかしもっと正確にいえば、不耕の遊民としての自虐があって、それが感覚の律動に転位して、独自の俳諧のリズムとなったのだ。 

≪017≫  信州の田園に生まれた一茶は、そもそもは父親の継母と継子を引き離そうという配慮で江戸へ奉公に出されたのである。父親は当然に手に職を得て帰ってきてほしかった。それなのに一茶はあえて俳諧師になった。そのころの江戸は「初時雨俳諧流布の世なりけり」と一茶も詠むほどに、俳諧師が雨後の筍のように流行していた時期である。その実情を見て一茶はそちらに賭けてみようとしたのであろう。    

≪018≫  それに業俳もまた職業のひとつではあった。だからこれは一茶なりの職業選択だった。が、情報を売るだけではそれほど食えるはずはない。まして信州に戻れば、まだそこは田畑を耕し森林を伐採して日々の糧を得る生活が続いている。ところが一茶は不耕の遊民たる身を変えられない。こうした生き方を選んだことに一茶は自虐もし、自戒もした。 

≪019≫  しかしながら、そのような身であるからこそ江戸にも故郷にもなじめぬ感覚を、それより「さらに小さいもの」と「さらに大きいもの」に託したのである。そして、その「あいだ」を空けたのだ。その空けた間が、一茶の俳諧なのである。ぼくはそのように思っている。 

≪020≫
天ひろく地ひろく秋もゆく秋ぞ
雲に鳥人間海に遊ぶ日ぞ
花の世や出家さむらい諸あきんど  

≪021≫  一茶の「小」と「大」には「一茶のあいだ」がある。句作のうえではこの「あいだ」は律動によって占められた。一茶は言葉のリズムをそうとうに確信し、もともとの五七五という律動をさらに自分の律動で埋め、その律動で外へ出た。 

≪022≫  こんな変な句がある。「なまけるなイロハニホヘト散桜」。手習いと花の行方がイロハニホヘトで一緒になっている。こんな句もある。「初雪やイロハニホヘト習い声」「イロハニホヘトを習ふいろりかな」。イロハニホヘトが一茶なのだ。 一茶でなければこんな「あいだ」は詠めないが、そのリズム感やリフレイン感については、実は先行者がいた。 

≪023≫  このところぼくがずっと注目している惟然坊である。広瀬惟然(いぜん)という。芭蕉の弟子で、美濃の関に生まれた。奥の細道が終焉したときも大垣に駆けつけた。蕉風に学んだが、芭蕉の死後は全国行脚してがらりと句風が変わり、「何のその何のと梅にならへども」「梅の花赤いは赤いあかいわさ」「水鳥やむかふの岸へつういつい」というふうに、まるで翻然と俳諧に遊んだ。 

≪024≫  この惟然坊がオノマトペイアやリフレインが旨かった。それを一茶がどのように注目したかは知らないが、ぼくが見るかぎりはそうとうに吸収した。 とはいえしかし、一茶はこれを一茶の律動感にして、自分の好きな「あいだの律動」を擬音にし、擬態にしていった。実は「蝿が手をするのも」「雀の子」も、擬態というふうに見たほうが一茶に近かったのだ。 以下、そのような一茶の堪能で大胆きわまりない擬音擬態を駆使した律動的俳諧だけを抜粋しておこう。おそらくこれらを読めば、旧来の一茶観はさらにさらに大きく一変するにちがいない。句作順に並べておいた。 

≪025≫
ざぶりざぶりざぶり雨ふる枯野かな
艸山のくりくり晴れし春の雨
うそうそと雨降るなかを春の蝶
ほちゃほちゃと薮あさがほの咲きにけり
木枯にぐすぐす豚の寝たりけり
陽炎のづんづと伸びる葎かな  

≪026≫
花散りてゲツクリ長くなる日かな
夕風呂のだぶりだぶりとかすみかな
花の月とちんぷんかん浮世かな
あのくたら三百文の桜かな
雁ごやごやおれが噂を致すかな
下々も下々下々の下国の涼しさよ 

≪027≫
うまさうな雪がふうはりふはりかな
麦に菜にてんてん舞の小てふかな
かげらふにくいくい猫のいびきかな
竹の子のウンプテンプの出所かな
風ひやりひやりからだの〆りかな
寝た下を木枯づうんづうんかな 

《1》 颯爽たる一冊だった。いまは「歌の道の詩学」のⅠが『花鳥の使』に、Ⅱが『縁の美学』になった。Ⅰがいい。序文からよかった。

《2》 宣長を引いて、言葉には2つの種類があるという話から始めている。2つとは「ただの詞」と「あやの詞」だ。「ただの詞」は世のことはりをあらわし、「あやの詞」は心のあはれをあらわす。「あやの詞」は「ただの詞」のあらわす内容をより巧みに表現するのではなく、「ただの詞」ではあらわしえないものを語る。この「あや」をもってあはれをあらわす文学様式が、すなわち和歌なのである。

《3》 古代語の「あや」とは文であって綾であり、またあやかしであってあやかりである。物事や現象にあらわれる文様や表飾が「あや」である。文身も「あや」だった。そこから妖しいも怪しむも操るも肖るも躍り出た。船が嵐に翻弄されるときに海にあらわれるものをあやかしと名付けたのも「あや」のせいである。中世人にとっては道理や条理の理ですら「あや」だった。

《4》 その「あや」をもって言葉をつかうとは、そこに見えてはいないものやことをあらわす作用を発するということである。見えないから見えさせる。それが和歌の動向になる。この見方が秀抜だった。

《5》

《6》 尼ヶ崎は以上の顚末を本文で少しずつ膨らませる。もともと歌論の研究者でもあるから、そのフィールドへ話をもっていく。

《7》 たとえば、「ただの詞」はことはりしか書けないので、「こころ」を表現するには「あやの詞」を用いるのだが、それによって1つの歌が発表されると1つの「こころ」が文化のなかに共有される。『古今集』が一千首の和歌を世に送り出したということは、一千の「こころ」を公共化したということなのである。

《8》 その「こころ」を歌人らは正確に掴まえた。掴まえた対象のフィーリングは気味であり、主体のフィーリングは気持である。たとえば「ものがなし」は気味で、「悲し」は気持であった。では「秋の夕暮」は「ものがなし」なのか「悲し」なのか。その分かれ目から、王朝の花鳥の使が羽ばたいていった。尼ヶ崎はそう進めて、花鳥の使の意味に分け入っていく。

《9》

《10》 和歌というものが人の「こころ」を詠めるものだと実感できたのは、日本のばあいは「あや」の言葉を扱えるようになってからである。

《11》 紀貫之が「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と書き、さらに「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり」と書いたのは、和歌が心に思うことをことはりにするのではなく、言の葉によって物事に心が「つく」と考えられたからである。その「つく」とは漢字であらわせば「託く」になる。

《12》 何がどのように託くかは、すでに中国の『詩経』に六義という先例があった。「風」「賦」「比」「興」「雅」「頌」の六義だ。「賦」は事態を直叙することで「ただの詞」にあたる。「比」と「興」が物事に託けて語る技法であった。これを『古今集』仮名序は「比」を「なずらへ歌」、「興」を「たとへ歌」というふうに和ませた。いずれも付託の方法といえばだいたい当たっていようが、貫之は中国の詩論を借りてきたとはいえ、このときすでに日本の「やまとうた」のための「あや」を意識していた。

《13》

《14》 貫之が何を意識していたかということを明確に取り出すことはむずかしいが(第512夜におよそのことは書いておいたが)、一言でいうなら、やはり付託しかない。日本の歌人は和歌が和歌であることだけで十分で、その他の目的や価値を求めなかったのである。和歌そのものが付託の相手であって価値そのものだったのだ。

《15》 古今以前にも付託の方法はあった。万葉でも「譬喩」や「寄物陳思」や「正述心緒」が試みられた。「物に寄せて思いを陳る」という方法、「心に緒いで正に述べる」という方法である。

《16》 このうち「正述心緒」はむしろ付託を避ける方法をさしていた。ストレートな表現のお勧めだ。「譬喩」や「寄物陳思」は「なずらへ歌」や「たとへ歌」に近く、何かに付託するのはその通りなのだが、付託することで別のこと(生活や大君や時勢のこと)を歌っていくことに重点がおかれた。

《17》 これに対して貫之以降の古今の和歌は、付託そのものが歌の本質なのである。これは著者の指摘ではなくぼくが勝手に言うのだが、王朝の和歌はいわばチャールズ・パースのアブダクションあるいはレトロダクションそのものなのだ。そのアブダクションやレトロダクションそのものをもって、日本人は「歌」を考えたのである。

《18》

《19》 本書は中盤から後半にさしかかって、だんだん深くなる。時代の変遷を大きく追って論考が並べられているせいもあるが、著者の思索もそれにつれて深まっている。

《20》 最初は藤原俊成の歌論をとりあげ、俊成の『古来風体抄』の本質は貫之を逆から見たところにあると指摘した。俊成はこう書いた。「かの古今集の序にいへるがごとく、人のこころを種として、よろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、何をかはもとの心ともすべき」。

《21》 これは、花や紅葉のもつ色香に心が感動して歌が生まれると貫之が書いたのに対して、あらかじめ歌というものがなければ、人は花や紅葉を見てもその色香はわからないだろうという、逆転させた論法である。しかしたんに逆転させたわけではなかった。俊成は何を強調しようとしていたかといえば、「型」というものに従って価値の体験を反復することが、やがて必ずや花や紅葉に新しい意味をもたらすにちがいない、それが和歌というものだと説いたのだ。

《22》 この「型」は和歌そのもののことだった。けれどもそれでは説明にならないので、俊成は少々工夫する。『古来風体抄』は式子内親王の求めに応じて書かれたものだったから、何らかの和歌の極意の説明をしなければならない。俊成はそこで天台智顗の『摩訶止観』を引いた。「歌の深き道を申すも、空仮中の三体に似たる」というふうに。

《23》 ぼくもいろいろのところで『摩訶止観』の空・仮・中の三体止観の発想と構想のおもしろさについて書いてきたが、このロジックはまことに東洋的で、何かが日本人には納得できる。俊成は、この「空」と「仮」と「中」をつかって歌の心性を説明した。

《24》


《25》 天台教学では空・仮・中の三諦三段階による止観を重視する。意識や心性がまず「空」に入り、ついで「仮」に出て、そのうえで「中」に進む。

《26》 当初の「空」では、世界の一切も目の前の一切も、いったんは空なりとみなしてみる。これはナーガルジュナ(龍樹)以来の空観である。一切が「空」なら何も実在しないではないかというとき、次に一切は「仮」でもあると見る。ここでは言葉が肯定されていて、一切は言葉によって仮に見えていると見る。「やっぱり実在がある」というのではなく、ただ「有としてたちあらわれている」と見る。仮観にあたる。「実在」と「非実在」や「無」と「有」を比較して説いているようにもおもえるかもしれないが、そうではない。続いて、空観と仮観のいずれでもない「中」に向かって、いまの「空」と「仮」をも読み替えていく。「空」でも「仮」でもないが、その両方の属性を孕んだところから世界を見るわけだ。これが中観になる。つまり「中」においては「空仮中」は共相する。

《27》 これが「一心三観」ともよばれる天台止観の方法だが、俊成はこのロジックをつかって、歌の道というものも一心三観に近いものがあるというふうに説明した。

《28》 たとえば歌枕である。歌枕の多くは都を離れて、これを詠んで歌を作る者もそれを聞いて感動する者も、実際にその光景を見たことがないか、仮に見ていたとしても、いまはそこにない。しかし歌とは、その面影をも共相しているもので、そこには現実のトポスや現実から生じるイメージ以上の「中」が入ってくる。そう説いた。

《29》 われわれは日常の日々では花と雪とをとりちがえはしないけれど、花が雪として降り、雪が花として舞うことは、「空仮中」の一心三観においては可能になっていく。歌もそういうものなのだ。こうして俊成以降、和歌は「心」「詞」「姿」の一心三観によって歌の世界観を広げていったのである。

《30》

《31》 敷島の道は容易に広がっていったのではない。西行や定家の登場するころになると、世の中に保元の乱や後鳥羽院の承久の乱のような一言で説明しがたい事態もしばしばおきて、歌の世界にも難渋を突破する必要が出てきた。

《32》 たとえば定家が源実朝に与えたといわれる『近代秀歌』には、「やまとうたのみち、あさきに似てふかく、やすきに似てかたし。わきまへしる人、又いくばくならず」というふうに、その容易ならざる事情が訴えられていた。さらに、歌をうまく詠むことはできずとも悟ることはできるはずだという見方も提出されてくる。定家はそこを「心よりいでて、みづからさとる」と書いた。

《33》 尼ヶ崎はこうした定家の見方から、和歌がそれまで継承されてきた「詞」に新たな「型」を託けようとした試みを読みとっていく。そこに「型」と「型」の新たな結びつきを求めた歌道のようなものを感じていく。それは「型と型の関係のコノテーション(共示)」によって和歌が育まれていくという流れになっていく。このことは定家が「本歌取り」を特段に重視した理由にもなった。

《34》

《35》 さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫

《36》 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫

《37》

《38》 右が本歌で、左が定家の本歌取りである。定家においては本歌の統辞関係が解体されているのがわかる。「風・ふけて」「月を・かたしく」などという言葉の結びつき方は、かつては意味をもっていなかった言いまわしである。定家はそれをやってみせた。文脈のなかで語の機能があきらかではないものをもつということは、語の意味が既存の文脈による限定を逃れる可能性を示した。

《39》 新たな歌は古い本歌という型のなかにある。ダダイストやシュルレアリストのように好き勝手に言葉を解体して並べたわけではない。定家は本歌の型にいながらそこに使われた言葉を組み替えて、新たな関係を創出させた。型から出て型へ出たのだった。

《40》


《41》 第17夜にものべたように、定家の時代、つまり新古今の時代、御子左家と六条家とが「歌の家」の主導権を懸けて争っていた。定家・寂蓮らの「今の世の歌」(新風)は密宗あるいは「幽玄体」というふうに、また従来の「中古の体」「中比の体」(旧風)は顕宗というふうに見られていた。歌風が顕密の宗派になぞらえられていたわけだ。

《42》 これらと離れて中立を保っていたのが歌林苑の鴨長明だった。長明は歌風によって優劣を決めるのは意味がないという立場をとった。そのうえで中古体の風情主義が風情という美的現象の型に着想のすべてを懸けたのに対して、幽玄体は風情の型から見えない風情を取り出していると見た。この「風情の型から見えない風情」が、長明が『無名抄』で「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と書いた、かの有名な「余情」なのである。

《43》 これはそれまでの和歌では表現されていなかった「隠された心」ともいうべきものだった。長明は定家らの歌には、その「隠された心」があらわれたと見た。「詞に現れぬ余情」「姿に見えぬ景気」とはそのことである。現代人がいう余情ではない。

《44》 一方、定家自身は『毎月抄』において「有心体」というコンセプトに達しようとしていた。これは詠む心のことではなく、詠みつつある心のことをいう。その心の所有者は現実の歌人でもなく、その歌に指定された人物の心でもなく、その歌の外部からその歌にやってきて、また去ろうとする心である。

《45》 そのあとはどうなったのか。本書も佳境にさしかかる。著者はいよいよ連歌師の心敬を持ち出してくる。冷泉派の歌僧の正徹に歌を学び、のちに「からびたる体は心敬の作にしかず」と称えられた、かの心敬である。

《46》


《47》 二条良基は連歌と和歌とを区別して、連歌のもつ「当座の興」に光をあてた。心敬は和歌と連歌はひとつのものであるというほうへ深まっていった。「心」「詞」「姿」は和歌も連歌も同じく胸の内にあり、連歌が多くの人のネットワークによって成立しているにもかかわらず、そのような一つの胸の内をもちうるということに気がついた。心敬が発見したのはそのことだ。

《48》 しかしこれは、心敬が発見したことの前提にすぎない。一座建立された連歌の座でも、一首一首の和歌の心は失われないという中世のコモンズの心を指摘したにすぎない。心敬が『ささめごと』で問うたのは、もっと過激なものだった。いったい自分がこれまで詠んできた歌というものは、人生の戯れ事ではないと言い切れるのだろうかという痛烈な問いなのだ。「このさまざまの跡なし事も、朝の露、夕の雲の消えせぬ程のたはぶれ也」と書く。

《49》 心敬は歌の本来を問いたかったのである。人の心というものは仏道に言うごとく「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」にまさるものはないのだから、歌はそこにはとうてい及ばない。それにもかかわらず、歌は仏教からすれば幻のようなものを追っていながら、何かがそこに残響しつづけている。「ただ幻の程のよしあしの理のみぞ、不思議のうへの不思議なる」というものがある。

《50》 世の中には「よしあし」も「ことはり」もあるが、歌はそういうものにとらわれつつも、そこにとどまらないものを詠んでいく。それはしばしば「あはれ」と感じられるものになる。そうであるのなら、歌とはまさにその「もののあはれ」を残すためのものではないかと、心敬は考えたのだった。そのことを『ささめごと』では「此の道は、無常述懐を心言葉のむねとして、あはれ深きことをいひかはし」とも綴っている。

《51》 心敬は「あはれ」は詠嘆にとどまるものではなく、さらに心に深く滲み入って、さらに意味をも深まらせると考えたのである。その意味の深みを心敬は「艶」と名付けた。まことに意外なコンセプトである。一番意味が深いところに、なんと「艶」があると言ってのけたのだ。いったい「艶」とは何か。それがいったいどうして無常とかかわるものなのか。「艶」はどうしてあはれでありうるのか。

《52》

《53》 そもそも「艶」は『古今集』真名序にもあるように、中国六朝の艶詞の盛行をうけて日本に入ってきた詩歌のコンセプトで、そのころは浮華な官能美を意味していた。それが貫之の『新撰和歌』序で「花実相兼」「玄の又玄」といった曰く言いがたいニュアンスに入り、壬生忠岑の『和歌体十種』では「高情体」のニュアンスに進み、さらに『源氏物語』以降は、俊成や定家によってしみじみと余情に深まっていく感覚をさすようになっていた。それを心敬は一歩も二歩も極限にもっていきたかった。

《54》 たとえば『源氏』藤袴では「月隈なくさしあがりて、空のけしきも艶なるに」なのである。これはほのぼのとしている。『更級日記』でも「星の光だに見えず暗きに、うちしぐれつつ木の葉にかかる音のをかしきを、なかなかに艶にをかしき夜かな」なのだ。これを定家らが歌の姿の官能にまで運んだ。後鳥羽院はその定家の「詞、姿の艶にやさしさを本体とする」と評価した。心敬はそれをなんと、枯木や冬の凍てついた美や氷結の様子にさえあてはめようとしたのだった。

《55》 そのため心敬はみずから難問をかかえるのだが、その直後、まさに「空・仮・中」の止観のごとく、「氷ばかり艶なるはなし」とずばり言ってのけるのだ。「だって氷が一番の艶でしょう」と言ったのだ。あっというまの極限だった。

《56》 この「氷ばかり艶なるはなし」は日本の中世美学の行き着いた究極の言葉である。ここまで簡潔で、かつ最も面倒な深奥の美意識を表現しきれた例はない。あの冷たい氷が一番に艶をもつ。心敬の艶は「冷え寂び」の出現の瞬間だった。

《57》


《58》 連歌についてはいくつもの連歌論が説明を試みてきた。そのなかで「冷え」に言及している箇所は、著者によると、「寒き」の10回、「痩せ」の11回とそれほど変わらない9回の用例であるという。しかしながら心敬は「冷え」をもって極上の「艶」とした。氷こそが「あはれ」で「艶」であるとした。

《59》 のちにこの「冷え」は茶の湯の村田珠光において「冷え枯るる」と、武野紹鷗において「枯れかじけて寒かれ」というふうに極端に愛された。心敬はいったいどのようにして「冷え」や「氷」に達したのであろうか。

《60》 心敬の弟子に連歌師の宗祇がいる。飯尾宗祇である。飛鳥井雅親・一条兼良・宗砌・東常縁らに歌や有職故実を学んで40歳をこえて連歌を大成した。その宗祇が師の心敬に自分の歌の批評を希望したことがあった。その判釈のしかたに心敬の考え方がよく見える。

《61》

《62》 山ふかみ木の下みちはかすかにて

《63》 松が枝おほふ苔のふるはし

《64》

《65》 前句に宗祇は「松が枝おほふ苔のふるはし」と付けた。心敬はこれを批評して、「松が枝は、前句の木をあしらひ給候歟。松が枝、こけなども打捨て給て、ただ橋ひとすじにて、山ふかき木の下路はすごく侍べく哉」と書いた。宗祇の句には「松が枝」「苔」「古橋」という3つの句材が盛りこんである。心敬はこれを1つにしなさいと言った。他を捨てなさいと言ったのである。そのほうが深山の「すごさ」が感じられるというのだ。心敬は「心言葉すくなく寒くやせたる句のうちに秀逸はあるべしといへり」とも書いた。

《66》 恐るべきかな心敬、だ。おそらくこうした推敲と引き算のすえに、「冷え」と「氷」が見えてきたのであったろう。この「冷え」や「氷」は世の中に無常を見たから見えてきたものではない。歌そのものがあはれになる瞬間に見えたものである。すべてをなくしてしまう直前にのみ残響する「艶」なのである。それを歌のなかでは「冷え寂び」という。そうじゃないですか、それ以外に何が言えますか、心敬はそう言い残したのだ。

《67》 著者はかくして、中世の美意識をあえて2つに絞るなら、「うつくし」と「冷え」に集約されるのではないかと結んだ。花紅葉の「うつくし」と、そして、氷の「冷え」である。

《68》


《69》 このあと本書は本居宣長と富士谷御杖をとりあげて、宣長が「もののあはれ」を論じた視点と、御杖が歌を神道とさえよぼうとした意図をさぐる。同じように『縁の美学』においても、最終章に宣長と御杖が配置されている。

《70》 御杖については、ぼくも話したいことがいろいろある。とくに今日の芸術論や言語論でどのように語っていくか、ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)などで御杖の言霊論にふれたので、気にならないわけではないけれど、今夜はこれで擱筆することにする。

《71》 では追伸。先日、世田谷パブリックシアターで田中泯の《透体脱落》を見たあと、ロビーで尼ヶ崎君の姿を見ながら声をかける機を逃したことへの、これは出し遅れの証文だった。田中泯は道元や寺田透の言葉の奥を踊ろうとしていたのだったけれど、さて、そこに尼ヶ崎君は「艶」を見たのか、「あや」を見たのか、あるいは「有心」を見たか。今度会ったら忘れずに聞いてみたいものである。では、よいお年を!