仏陀の世界

参照資料(千夜千冊)

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全ての生物は自己複製を行う実体の生存率の差に基づいて進化する(R・ドーキンス) 

末木文美士『日本仏教入門』角川選書 2014

『日本仏教入門』 ①

≪01≫  あれは慈円(624夜)、山崎闇斎、清沢満之(1025夜)を続けさまに読んでいたころだった。ある確信がやってきた。日本の思想史や文化史はできるかぎり「抜き型」で語られるのがいい!

≪02≫  「抜き型」というのは知覚環境学のフォン・ユクスキュル(735夜)の生態学的な用語なので、知らない諸君も多いかもしれないが、たとえば昆虫には昆虫独自の触覚などの知覚があるわけだが、昆虫はそういった独自のフィルターを抜き型にして環境世界を捉えている(ユクスキュルは「環世界」と呼ぶ)。それが昆虫にもコウモリにもキツネにもチンパンジーにもおこっている。抜き型によって動物の知覚環境は異なってくる。「抜き型で語る」とはそういうことをいう。ユクスキュルは抜き型が世界に関する「トーン」をつくっていると考えた。

≪03≫  おそらく、われわれの文明文化にも「抜き型」がある。技術文明という抜き型、進化と淘汰という抜き型、王制や国民国家という抜き型、ジェンダーという抜き型、キリスト教という抜き型、グローバル資本主義という抜き型、「おたく」という抜き型、オリンピックという抜き型、メキシコやロシアという抜き型、いろいろだ。これらによって世界はトーンを変える。

≪04≫  二つ以上の抜き型で抜き合うことも少なくない。いやむしろそういうほうが多い。西欧文明はもともとユダヤ・キリスト教という大きな抜き型で象られていて、そこにいくつもの抜き型が組み合わさって出来てきた。

≪05≫  では、仏教という抜き型によって日本を眺めるとどうなるのか。また仏教を日本という抜き型で射貫いていくと、どうなるのか。日本仏教にはインド仏教や中国仏教や東南アジア仏教と異なる「トーン」があるはずだが、それをどう語ればいいのか。今夜は末木文美士(すえきふみひこ)を選んだ。

『日本仏教入門』 ②

≪06≫    日本思想の大きな特徴は、   常に外来思想に決定的に規定されながら、   その中でどのように独自なものを打ち出せるかということが   求められてきたところにある。その外来思想は、   前近代においては中国思想であり、   近代においては西洋思想であった。——『日本思想史』

≪07≫  日本を眺めるための仏教は、インド的な原始仏教やシルクロード仏教や中国仏教を通してスクリーニングされてきた。これが日本仏教というものだ。スクリーニングというのは、さまざまな抜き型によって日本仏教が編集されてきたことをいう。

≪08≫  6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。

≪09≫  すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。

≪010≫  大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。

≪011≫  そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。

≪012≫  そこを問うたのが末木文美士だった。歴史の中の日本仏教だけでなく、近代仏教や今日の仏教の在り方まで、日本語や神祇神道との関係から生死の哲学としての仏教まで、いろいろ問うた。とくに宗教史を通しては、「顕と密」よりも「顕と冥」を問うた。このことについては今夜の最後に説明する。

『日本仏教入門』 ③

≪013≫    既知の世界とそれを超えた領域とを結ぶ   中間的なところに立って、   我々をもう一つ広い世界に導いていくのが、   仏ではないかと思います。——『日本仏教の可能性』

≪014≫  末木さんは甲府の出身で(中沢新一と同じ高校)、東大のインド哲学科に学んで大学院では天台の安然(あんねん)を突っ込んで研究した。その成果が『平安初期仏教思想の研究』(春秋社)である。最澄・円仁・円珍を継いだ安然の研究に本格的に取り組んだのは末木さんが初めてだったようだ。東大、東方研究会、京都の日文研で教鞭をとった。

≪015≫  最もよく知られた本で、多くの読者がいるであろう本は、1992年刊行の『日本仏教史』(いまは新潮文庫)だろう。あの本には痺れましたという知人が何人かいる。日本仏教の特色をどう書くか、何かが極端に欠けているところや薄いところがあるのではないか、それらを加味してどんな通史になりうるのか、そこを彫塑した。

≪016≫  ぼくも『日本仏教史』から読み始めた。とくに天台本覚については末木さんのものをずっと追った。しばしば目から鱗が落ちた。あのころは後に「失われた十年」と言われたほど不毛の時期で、世界は湾岸戦争が、日本はバブル崩壊がおこったあとの十年で、グローバリズムに擦り寄る日本の姿があまりに醜悪だったので、ぼくはできるかぎりメディアから遠ざかり、ひたすら沈潜して「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」をたて、それらを解読するにあたって読み込むべき数十冊のキーブックにとりくんでいた。

≪017≫  文化人類学系のもの、複雑系に関するもの、遺伝科学や脳科学の本、チューリングマシンもの、グノーシスから神秘主義に及ぶもの、いろいろな著作や問題作を選んだが、そのうちの一冊が『日本仏教史』だった。サブタイトルは「思想史としてのアプローチ」。日本思想史を日本仏教のボラタリティでフィルタリングするという見方だ。『図説日本の仏教』全6巻(新潮社)の思想解説を担当執筆したものも散りばめられていた。論考版は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版)にまとまっている。

≪018≫  その後、多くの著作をものされたが、末木さんの本はできるだけいろいろ読んだほうがいいように思う。仏教思想の網目が歴史的かつ俯瞰的に見えてくるだけではなく、日本思想の骨法がわかる。シンタクスとセマンティクスの両方がわかる。『草木成仏の思想』(サンガ)、『日本仏教の可能性』(新潮文庫)、『浄土思想論』(春秋社)、『中世の神と仏』(山川出版社)、『近代日本と仏教』(トランスビュー)など、お勧めだ。

『日本仏教入門』 

≪019≫  もっと複合的に通史をマッピングしたいなら『日本仏教史』とともに、『日本宗教史』『日本思想史』(いずれも岩波新書)、『日本思想史の射程』(敬文社)、『仏教:言葉の思想史』(岩波書店)を併読するのがいいだろう。

≪020≫  ちなみに末木さんの父上は論理学者の末木剛博で、「遊」創刊前後のころ、ぼくはこちらの末木さんの『東洋の合理思想』(講談社→法蔵館)の影響を受けた。ヴィトゲンシュタイン(833夜)、分析哲学、西田幾多郎(1086夜)、東洋思想にとりくんでおられた。父子ともに短歌や茶道に明るい。

≪021≫  ついでながら弟の末木恭彦は東海大・駒沢大の中国哲学の研究者で、子供時代は兄ともどもに「ガロ」や少女マンガに夢中になっていたらしい。兄貴はタカラヅカのファンでもある。

≪022≫  今夜はそうした末木さんの試みを、比較的最近の『日本仏教入門』を通して、ざっと紹介したい。その話に入る前に、ぼくが日本仏教を考えなおすきっかけになった少しエピソディックな話を挟んでおく。

≪023≫  こんなことがあった。80年代はじめにニューヨークのスーザン・ソンタグ(695夜)の書斎にいたときのことだ。「セイゴオねえ、日本人はせっかく仏教をソフィスティケーションしたのに、なぜにまたジョン・レノンやヨガブームなどに煽られて野卑なインド仏教などにこだわったの? 中国の漢字仏教より日本の仮名仏教をちゃんとやったほうがいいんじゃないの?」。そう言われたのだ。

『日本仏教入門』 

≪024≫  ソフィスティケーション? そう見えるのか、なるほどと思ったが、さてその理由をうまく説明するのは至難の業だろうとたじろいだ。たとえば法然の「専修念仏」や一遍の「遊行」が易行(いぎょう)という意味ではソフィスティケーションだったとしても、そこに併存する「他力本願」はソフィスティケートされているとは思えない。

≪025≫  でも、中世の無常観と結びついた「草木悉皆成仏」という感じ方はいかにも日本的でこまやかなだ。『沙石集』の無住は畿内の寺々で修行を積んで、そのうえであんなに柔らかい説話集を編んだ。浄土教系や神仏習合を許容してきたところにもソフィスティケーションがあらわれてはいるとは思うけれど、とはいえそこが日本仏教の特色とどのように関係づけられるのか、実はあまり研究されてこなかった。ソンタグは日本の中世に詳しいわけではなかったが、その勘はわれわれの虚を突いていたわけだ。

≪026≫  虚を突かれてみると、それが気になって、あれこれ考えるようになったのだが、とはいえ分け入る竹薮は密生する熊笹で切り傷が絶えず、けっこう険しい。そんなとき、こういう問題を拾えるスクリーニング・フィールドが末木文美士の中に用意されていたと気がついたのである。

≪027≫  たとえば、丸山真男(564夜)が日本では「古層」のホモジェニティ(等質性)が何度も蘇るようにくりかえされてきたと主張したことに疑問をぶつけて、日本の「古層」は歴史の中でじょじょに形成されてきたとみるべきで、そこに神祇信仰と仏教思想との頻繁な交流と相互の解釈と変換がおこって、その後はそれらを古代に発生していた「古層」とみなすようになったのだと説明した。

≪028≫  このような見方は、記紀神話や万葉歌謡に日本思想の原型を見いだそうとする潮流に抗しているように見えるけれど、こういうふうに組み立てなおしたほうがずっと説得力に富んでいた。

『日本仏教入門』 

≪029≫  後日談。ソンタグは3度目に日本に来たとき、ぼくの仕事場を訪れてこう言った。「二つのことを言います。ひとつ、セイゴオの今度の『フラジャイル』という本の構想はすばらしい。大いに期待しています。ひとつ、あのオウム真理教の事件は何なの? 日本人の仏教観なの? それともアサハラ独自のものだというなら、どうしてあんなふうになったのか答えなさい」。

≪030≫  またもや難問である。佐藤清靖の勧めで、『空海の夢』(春秋社)の増補版に序文をつけてとりあえず暫定的な考え方を示しておいたけれど、ちゃんと書けたかどうか。事は新興宗教や新々宗教をどう説明するかではない。こういう問題は日本仏教が始まったときから、ずうっと続いてきたスクリーニングやフィルタリングの問題なのである。

≪031≫  われわれは、縄文1万年を文字を知らないままオラル・コミュニケーションで過してきた。そこへ稲・鉄・馬とともに漢字が入ってきた。その漢字は儒教の四書五経や仏教の経典や『千字文』(357夜)に載っていた。だから仏教を知るとは、漢籍を読むことになった。

≪032≫  読むとはいっても、当然、先達が必要で、かつその文字群が発する意味を縄文以来の倭語に照らし合わせる必要があった。さまざまなフィルターを使わざるをえなかった。ヲコト点や万葉仮名も用意した。ところがそれで読解が進捗してみると、そこがわれわれの欠陥なのだが、自分たちがどんなスクリーニングやフィルタリングを使ったのか、それによってどんな編集をしてしまったのか、その方法を総括するのを忘れてしまうのだ。

≪033≫  ソンタグは、あの独特の勘でそこを突いてきたわけだ。かつてなら富永仲基が突いたことだった。

『日本仏教入門』 

≪034≫    かつては古典の中に近代に通ずる同質性を   読み込もうとしていたが、   近年の研究は、古典を僕たちとは違う異質の他者と見て、   その異質性を捉え直そうという方向に進んでいる。——『仏典を読む』

≪035≫  それでは、本書の骨格に沿って少しばかり問題点を浮き彫りしてみるが、話の都合上、まずは日本仏教史を代表する初期の論争から見ていくことにする。論争には安易なスクリーニングに踏みとどまる結節点が隠れている。

≪036≫  南都六宗がほぼ確立するのは大仏開眼のあとの天平宝字4年である。平安初期になって、そこに天台宗と真言宗という密教が加わった。従来の六宗の枠を打破するものであったが、朝廷からも南都からも抵抗なく承認され、年分度者が割り当てられた。それならそこはすんなり含意されていったのか、たいした議論がなかったのかといえば、そんなことはない。諸宗は論争していた。末木さんは4期に分けた。

≪037≫  第1期(8世紀後半)では法相宗と三論宗が論争し、第2期(9世紀はじめ)になると、最澄と南都が論争した。最澄がすべての教えは「唯一の仏になるための教え」に帰着するという一乗主義を唱えたのに対して、法相宗の徳一(とくいつ)が「声聞・縁覚・菩薩の悟りはそれぞれ別々のものだ」という三乗主義をぶつけてきた。三一権実論争という。

≪038≫  徳一は空海にも絡んだ。若い空海のことはおもしろがっていたようなのだが、その即身成仏による密教論の展開に「あなたには慈悲が欠けている」と指摘し、『真言宗未決文』をもって疑義をはさんだ。空海は得意のレトリックで徳一を捌いたが、長引く対立もあった。

≪039≫  こちらは最澄が延暦寺に大乗戒壇を設けようとして南都を難じたことに始まった。最澄は東大寺の戒壇院は小乗戒だと批判し、そんな言いがかりをつけられた南都が反撃した。これで比叡山と東大寺が全面対立状態になった(最澄には対立する気はなかったが)。

『日本仏教入門』 ⑧

≪040≫  第3期(9世紀前半)、平安仏教界に「八宗」体制が確立し、諸宗派が優劣を争った。とりわけ空海の『十住心論』(その縮約版の『秘蔵宝鑰』)が第六住心以降を法相・三論・天台・華厳・真言の順に教判(教相判釈)し、密教を上位にランク付けたため、のちのちここに顕密仏教論が炎上することになった。

≪041≫  八宗という言い方は便宜的だ。いくつかのグルーピングがある。中国八宗は法相宗・禅宗・密宗・法華宗・天台宗・三論宗・律宗・華厳宗をさす。平安時代までに日本に伝わった南都六宗に天台・真言を加えた八宗は、凝然(ぎょうねん)の『八宗綱要』がとりあげた。一方、「八宗兼学」の対象とされたのは天台・真言・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗だった。

≪042≫  第4期はその後の議論が展開する結節点になった。三論の道詮が『群家諍論』でインド以来の諸宗の師資相承を整理し、天台の蓮剛が『定宗論』でこれらの中での天台優位の八宗を位置づけて天台主導の八宗併存を訴えた。これを円珍が『諸家教相同異略集』で追い撃ちし、これらを仕上げるように安然の『教時諍』『教時諍論』『教時問答』が連打されたのである。四一教判といわれる。一切諸仏の説法を「一仏・一時・一処・一教」に集中しようというもので、密教による顕密の統合を強調した。

≪043≫  こうした論争をへて、何がどうなったのか。比叡山は天台の本山だけではなくて、天台・真言・禅を含む顕密の一大センターであることを勁く打ち出すことになった。末木さんはそこを、「宗」は大学やセクトやデノミネーションではなく、比叡山においてスクール(学部)になったと説明する。

『日本仏教入門』 

≪044≫    日本の仏教の大部分では、他の仏教圏の仏教と違って、
   基本的に部派の律を採用しません。   何を採用するかというと、
   日本の仏教の大部分が採用しているのは、   大乗戒だったのです。 
   そして、この大乗戒を採用したのは誰かというと、   実は最澄でした。
   その意味で、最澄こそ、日本仏教の戒律観を   根本からひっくり返した人だと言えます。——『浄土思想論』

≪045≫  建久9年(1198)、栄西の『興禅護国論』と法然(1239夜)の『選択本願念仏集』が発表された。両著とも立宗を計ってのマニフェストである。

≪046≫  二度の入宋をはたした栄西は、臨済宗黄龍派の禅を会得して、帰国後はこれを九州で広めようと試み、先行していた大日能忍の達磨宗が弾圧されつつあるのを見て、禅による国づくり(興禅護国)に乗り出すことを決意する。安然の教判を参考にしながら禅の系譜を述べ、その理論化を試み、新たな禅宗の勅許を願った。そこには『日本仏法中興願文』にみられるような「日本仏法」という大きな視野が設定されていた。栄西の禅はソフィスティケートされてはいない。けっこう、ごつい。

≪047≫  一方、法然は浄土宗を専修念仏(称名念仏)によって立宗するべく、聖道門と浄土門の二門をもって諸宗を俯瞰し、阿弥陀仏の本願による他力信仰のすばらしさを説いた。それまでの「観仏」(観想念仏)から「念仏」(口称念仏)への転換は、すでに空也などにも芽生えていたし、そこには中国における慧遠(えおん)や善導の先行例もあったのだが、法然の場合は阿弥陀仏の名号を専らにしたことに独特の軋道転回があった。法然はまた、あまり論証はできていないようだが、みずからを菩提流支・曇鸞・道綽(どうしゃく)・善導・懐感・少康につらなる系譜の者と位置づけた。

≪048≫  法然の試みはすぐに理解されたわけではない。さっそく法相唯識の知識に長けた貞慶(解脱上人)が二宗の成立の条件が満足できるものかを検討し、栂尾高山寺の明恵(みょうえ)は『摧邪輪(さいじゃりん)』をもって、法然の立宗は「小宗」にもとづくものばかりが多く、「大宗」をめざすほどの論拠が提示されていないと批判した。批判は法然には届かなかった。すでに亡くなっていたからだ。

『日本仏教入門』 

≪049≫  ここに親鸞(397夜)が登場する。『摧邪輪』を読んだかどうかはわかっていないが、論争を引き受けたのではなく、おそらくは法然の『選択集』と明恵の論法の両方を吟味して『教行信証』を著した。「教・行・信・証・真仏土・化身土」の6巻からなる。

≪050≫  当時の法然の門下は安心(あんじん)派と起行派に分けられていた。その安心派にいたとおぼしい親鸞は、法然の専修念仏を「行」とみなし、『無量寿経』の阿弥陀仏の本願に説かれる「至心・信楽(しんぎょう)・欲生」の三心を「信」の中核においた。また、浄土に向かって往生する「往相」と、浄土からこの土に還って世の人に救いを与える「還相」を、相互に行ったり来たりする「回向」(えこう)の思想を構想した。

≪051≫  こうして浄土教に向かった日本仏教は、そう言っていいなら「菩提心」を問題の中心におきはじめたのである。他力のしくみに言及したのだ。親鸞は菩提心には「竪」(じゅ)と「横」(おう)があり、そこにそれぞれ「出」(しゅつ)と「超」とがくっつくと見て(そういう二つのスタイルがあると見て)、明恵の大乗聖道門の菩提心は「竪超」(じゅちょう)だが、阿弥陀仏の絶対他力を願う信心は「横超」(おうちょう)の菩提心だと切り返していった。

≪052≫  そうなるには、ただちに弥陀の浄土に生まれようと思うのではなくて、仮の浄土(化土=けど)にひとまず生まれていていいのだと、親鸞は考えた。これはかなり新しい環世界の提示だった(仏教では「器世間」という)。独特のソフィスティケートも動きはじめていた。

『日本仏教入門』 

≪053≫    しばしばいわれるところでは、   栄西は密教や律を並修させるところが少なく、   法然は専修念仏の立場を徹底しているとされるが、   どうであろうか。——『日本仏教史』

≪054≫  いったい何が始まろうとしていたのか。鎌倉新仏教の動向を彩る創師たち、渡来の開山僧、同時代の傑僧たちを生年でみると、ざっと次のようになる。

≪055≫  覚鑁(1095)、大日能忍(不祥)、重源(1121)、法然(1133)、栄西(1141)、貞慶(1155)、俊荐(1166)、明恵(1173)、親鸞(1173)、道元(1200)、叡尊(1201)、円爾弁円(1202)、蘭渓道隆(1213)、忍性(1217)、円照(1221)、日蓮(1222)、無学祖元(1226)、南浦紹明(1235)、一遍(1239)、凝然(1240)、一山一寧(1247)、夢窓疎石(1275)、関山慧玄(1277)、虎関師錬(1278)、恵鎮(1281)、宗峰妙超(1282)‥‥。

≪056≫  生まれ年とその当人の主たる活動期はずれていることは少なくないけれど、この錚々たる顔ぶれを眺めていると、根来寺(ねごろじ)を開いた真言の覚鑁(かくばん)の改新活動へのとりくみがかなり早かったのと、13世紀半ば以降の蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧(いっさんいちねい)の来日僧の役割、禅の日本化に踏み切った高峰顕日の重要性、ならびに応燈関(大応国師=南浦紹明、大燈国師=宗峰妙超、関山慧玄の3人)の果敢な禅林づくりが目立つ。

≪057≫  覚鑁から大燈まで、わずか200年。ものすごいムーブメントがおこったものだ。これらに挟まって法然、栄西、明恵、親鸞、道元、そして日蓮と、および真言律宗の叡尊と忍性(にんしょう)、時宗の一遍らが「攻め」に転じて動いたわけである。いずれも際立つ信仰と言動の持ち主で、前半は浄土系が、後半は禅宗の連続的起動がめざましい。

『日本仏教入門』 

≪058≫  原勝郎はこれは日本の宗教改革だと捉え、親鸞をルターのプロテスタンティズムに比肩した。鈴木大拙(887夜)はそこに「日本的霊性が発揚された」とした。

≪059≫  大拙の見方は、それまでの日本人の宗教観がアニミスティックでシャーマニックな原始的習俗の延長にいたままだったのが、鎌倉期の文化高揚(武家の抬頭)のなかで外来仏教の刺激を強烈に受けることによって、日本人の中にひそんでいた霊性がめざめたという捉え方をした。この捉え方はのちの日本仏教史の解釈に影響力をもたらした。とくに浄土系と禅系の仏教者たちが個人の救済に向かって「超越性」や「超越者」という視野(大拙は「超個己性」と名付けた)を獲得したと捉えたことは、その後の鎌倉新仏教についての定説になった。

≪060≫  しかし、『日本的霊性』(岩波文庫)は昭和19年の刊行で、当時の日本人がに日中戦争や太平洋戦争に血道をあげて「日本精神」を謳歌しているのに対して警告を発する意図(そういうものが日本精神じゃないという意図)を含んでいて、必ずしも鎌倉新仏教の特色が明確に指摘されたというふうには読めない。ソフィスティケーションというわけでもない。どちらかというと、大拙好みの思想というべき「即非の論理」による新仏教説明になっている。これは親鸞の「造悪無礙」や道元(988夜)の「修証一如」にはあてはまりそうではあるものの、説明の全体がどこかパラドキシカルだった。

≪061≫  いずれにしても鎌倉新仏教はひとまとめには語れない。すこぶる複合的であり、かなり多様なのだ。とくに明恵、叡尊、忍性、日蓮、一遍、および応燈関らの禅僧たちをどう捉えるか、大拙や原勝郎の説明では把握できないものがあった。

『日本仏教入門』 

≪062≫    日蓮の唱題は、専修念仏のように、さまざまな行の中から   選び取られたというのではなく、   真理そのものがそこに顕現しているのであって、   選び取るというような作業は不要であった。——『日蓮入門』

≪063≫  日蓮の活動は佐渡流罪を挟む「佐前・佐中・佐後」に分かれる。佐前は法華経の喧伝に邁進し、鎌倉にとどまって『立正安国論』をアピールした。途中に伊豆流罪があった。

≪064≫  佐中は律宗の忍性(にんしょう)の祈雨の祈祷を批判したのが引き金となって龍口(たつのくち)で危うく斬首されそうになったのを逃れたのも束の間、佐渡に流された。佐中はここからの時期で、「なぜ自分はこうも迫害を受けるのか」を省みて法華経を読み込み、実は迫害されるというそのことに自分が真の行者であることが示されているにちがいないと思いいたると、『開目抄』『観心本尊抄』を綴ってその確信の所以を説いた。

≪065≫  法華経は大きく前半部の「迹門(しゃくもん)」と後半部の「本門」に分かれている。迹門では三乗(声聞・縁覚・菩薩)それぞれの悟りは唯一の一乗に帰着するということを歴史上の釈尊が説いたと説明し、本門では歴史上の釈尊は実は方便であって、真実の釈尊は歴史を超えた永遠の存在のブッダであることを説くというふうに解釈されてきた(1300夜、千夜千冊エディション『仏教の源流』参照)。

『日本仏教入門』 

≪066≫  日蓮は本門のほうを圧倒的に重視して、かつ永遠の釈尊の功徳は「妙法蓮華経」という経題(題目)に集約されているとみなした。経題を受持すれば絶対の世界が体得されるはずだという方針をもったのだ。とくに本門で法華経を受持する菩薩がさまざまな苦難をこえて経典の功徳を広めていくことには、信仰者にかぶさってくる苦難をのりこえる覚悟を迫るものがあると確信した。

≪067≫  佐後は鎌倉に戻って身延に籠もる晩年である。それまでの活動からするとやや消極的な日々であるように感じるが、弟子たちに宛てた膨大な消息を綴っている。その中身は決して消極的ではなかった。

≪068≫  ちなみに、よく知られているように、日蓮には、しばしば「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)と言い放つような、他宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を痛烈に非難する傾向がある。そのため日蓮の排他性が強調されることが少なくなかったのだが、末木さんはかならずしもそう見ない。『日本仏教史』や本書や『日蓮入門』(ちくま学芸文庫)でそうした見方をほぐし、変更を加え、むしろ天台が重視した「一念三千」による一貫した仏教的実践思想が漲っていたことを解いた。

≪069≫  中国天台宗の基本テキストは、南北朝期に智顗(ちぎ)が著述した『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』という天台三大部である。なかでも『摩訶止観』は天台止観を示したものとして慄然とした威容を誇っている。「一念三千」もそこで展容される。一念はわれわれ一人ひとりの思考のはたらきのことをいう。三千はそのはたらきが、十界・十如是・三世間におよぶことをいう。百界×十如是×三世間」で三千。日蓮はこの「一念が三千に貫かれていく」という気概をもっていた。

『日本仏教入門』 

≪070≫  こうした日蓮にくらべると、一遍の活動は踊り念仏と賦算に徹していてわかりやすいもののように見える。これこそソフィスティケートされたものを感じるかもしれないが、いやいや、実は決して軟らかくはない。そこには熊野信仰と深く結びついた死生観が貫かれていた。

≪071≫  入宋した俊荐(しゅんじょう)の影響をうけて戒律の復興をめざした叡尊とその弟子の忍性の活動は、どうか。ソーシャル・ケア化した。しだいに難病・貧困に喘ぐ民衆を救済することに向かっていった。そのため鎌倉に極楽寺を開いて大規模な救済活動を展開した忍性のように、日蓮と正面から衝突することもおこすのだが、そのゆるぎない実践性は世俗社会に訴えて、新たな中世文化を切り開くものを秘めていた。

≪072≫  これらの事情を左見右見、掘り起こしながら鑑みていくと、鎌倉新仏教が宗教革命や霊性革命だったとは括れない。ソフトな「トーン」でも括れない。むしろ多様な「抜き型」が地と図をもって複雑に絡み合ったのである。なぜ、そこまでできたのか。図はさきほど列挙した覚鑁から宗峰妙超におよぶ祖師たちが描いたとして、そこにどんな地がつかわれたのか。

≪073≫  大きな「抜き型」があったはずだった。天台本覚が地になっていたのである。

『日本仏教入門』 

≪074≫    日本天台における本覚思想の発展は、   それ自体思想的に甚だ特異で注目されると共に、   鎌倉仏教との関係、中世文化の諸領域への影響など、   その重要性が知られている。——『日本仏教思想史論考』

≪075≫  これでだいたいの準備ができた。末木さんは、鎌倉新仏教の多様性は天台本覚思想との「抜き合わせ」から出てきたという見方をとったのだ。ぼくはそこに惹かれてきた。ただし、その見方はかなり強靭な研究と洞察にもとづいているので、容易には説明しにくい。そもそも天台本覚とは何なのか。

≪076≫  少しわかりやすそうな順を追って言うと、本覚思想とは、かんたんにいえばこの世の現象界をそのまま悟りの下敷きとして肯定していこうという見方のことをさす。悟りが現象界に散らばっているというのだから、はなはだ現実肯定的な見方だ。生きとし生けるものに仏性(ぶっしょう)があり、草木虫魚とともに悟りを実感できる可能性があるというのだから、はなはだ楽観的でもある。誰もが使いやすい日本流の仏教OSめいてもいる。

≪077≫  仏性とは「成仏する可能性」のことをいう。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)と説明されている。一切の衆生に仏性が芽生えて、みんな成仏できるというのは、このままそこだけを採ると「成仏の平等主義」のようにも見えるし、もっとありていにいえばずいぶんラクチンな見方だというふうにもなる。

『日本仏教入門』 

≪078≫  仏教の世界観では衆生は六道をさまよっている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天が六道で、衆生はこれらをぐるぐると変転しつづけている(六道輪廻)。衆生は誰のことかというと、われわれのことだ。サットヴァというサンスクリット語を鳩摩羅什(1429夜)が「衆生」と訳した。玄奘は「有情」と訳した。

≪079≫  玄奘は「心のはたらき」をもつものを有情と捉えて、岩石や草木の非情と区別した。ところが日本では、このあと説明するけれど、草木のような非情にもそれぞれ発心や成仏の可能性があるとみなすようになった。これを「非情成仏」の問題という。

≪080≫  そのためこの見方からは「草木国土悉皆成仏」という言葉が使われるようになり、さらにそれが変化して昭和平成の世では「山川草木悉皆成仏」という新たな言い方が罷り通ったものだった。梅原猛(1418夜)が言い出し、中曽根康弘が拡声したのではないかとおぼしい。

≪081≫  しかし、話はラクチンなままであるわけではなかった。そんなはずもない。現象界と悟りがつながると感じられるには、本覚が動かなければならない。本覚という言葉は『金剛三昧経』や『仁王般若経』に初出が見えるもので、その後の『大乗起信論』において「始覚」(しがく)と「本覚」(ほんがく)が対応してから、さまざまな議論がされるようになった。

≪082≫  始覚は初めて悟ることをいうのだが、悟りを体験したというのは、もともとその身に悟りの芽のようなものが備わっているからだろうから、その備わっているものを本覚と名付けた。「本来の覚性」が本覚なのである。そういう本覚に気づかないままになるのは「不覚」だった。

『日本仏教入門』 

≪083≫  このように人間に本来の覚性(かくしょう)があると見るのは、とどのつまりは衆生(われわれ)にはもともと仏性が備わっているということでもあろう。そこで唯識思想などでは本覚は「本有」(ほんぬ)とか「始有」とも呼ばれた。これはまた衆生にはいわば如来が胎蔵されているとも解釈できるので、「如来蔵」(にょらいぞう)とも言われた。

≪084≫  如来蔵はサンスクリット語のタターガタ・ガルバの漢訳である。タターガタは如来を、ガルバは母胎あるいは母胎の中の胎児を原義とする。ということで、仏性や如来蔵は、われわれは「如来を母胎にもっている」、あるいはわれわれには「如来となるべき胎児がいる」ということを提示した概念となった。

≪085≫  それでここからが日本の話になるのだが、このような本覚思想が比叡山の延暦寺や園城寺で育くまれていったのである。

≪086≫  なぜ比叡山に本覚思想が育まれたかとみなされたかというと、最澄が入唐したとき、道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)の二師から天台法門を学び、道邃からは本覚門を、行満からは始覚門を得たと伝えらたと口伝があったからだ。本覚門はその後、恵心院源信が、始覚門は檀那院覚運が継承したので、天台には恵心院流と檀那流という恵檀二流が口伝されてきたともみなされた。口伝だから文書にのこっているわけではない。

≪087≫  けれども末木さんはこれは後代の捏造にすぎず、実際には天台本覚は法華経の本門思想に注目していくことからしだいに深まっていったもので、それが眼前の現象世界のすべての事実性の重視につながり、本門が「事常住・事実相」をあらわす永遠の真理を説いているというふうに解義されるにつれて、そこに天台独自の教判(教相判釈)が加わって天台本覚がかたちをあらわしてきたというふうにみなした。

『日本仏教入門』 

≪088≫
 安然はあくまでも非情である草木がそれ独自で発心・修行する草木自成成仏説を主張する。
 どうしてそのような主張がなされ、その主張にどのような意味があるのか、その探求が本書の課題である。——『草木成仏の思想』

≪089≫  日本仏教の議論のなかで天台本覚思想という括りは古くから控えていたわけではない。明治大正期に島地大等や村上専精が話題にしたことはあったけれど、1973年に岩波の「日本思想大系」が第9巻に「天台本覚論」をまとめ、田村芳朗がその解説に当たってから活発に議論されるようになった。

≪090≫  田村は、天台本覚には「生死即涅槃、煩悩即菩提、凡聖不二、生仏一如」などの見方を徹底させるところがあって、その特色はいちじるしく相即不二的で、かつ絶対的一元的だというふうに解説した。そして「本覚が現実界の内在原理とされている」とみなした。現実界の内在原理とは難しい言い方だが、わかりやすくいえば本覚の土台を「ありのまま」に措いたということだ。

≪091≫  「ありのまま」などというとなんとも芸がないようだが、それだけならたしかに芸がない。しかし天台思想が真如は「ありのまま」にあると考え、仏性は現実界に遍在していると考えているのだとすると、まさに天台本覚は本気で「ありのまま主義」を標榜したのである。それが鎌倉新仏教でOSのように使われたのだ。

≪092≫  田村の解説を受けて、多くの議論と研究が広まっていった。そこには「ありのまま主義」など仏教ではない、これでは修行など不用になるではないかとする袴谷憲昭の天台本覚思想批判から、もし天台本覚が如来蔵思想を一歩も出ていないのならそこには天台の深まりがないのではないかという松本史朗の見方まで、それなりに憤然とした議論が噴出した。

≪093≫  これらに対して、天台本覚の是非を問うにはこれまで研究されていなかった安然の思想をもっと検討しないかぎりは見えないものがあるとしたのが、末木文美士だった。

『日本仏教入門』 

≪094≫  すでに紹介してきたように、末木さんの仕事は天台僧・安然の研究から始まっている。安然(841〜915?)の生涯は審らかにならないところも多いのだが、最澄・円仁・円珍を承けて台密(天台密教)を完成させるにあたって、山科の元慶寺の遍昭に学んだ。百人一首「天つ風雲の通い路ふきとじよ乙女のすがたしばしとどめん」の、あの僧正遍昭だ。密教僧であった。

≪095≫  その後の安然は入唐するべく太宰府に向かったという記事が「三代実録」の記述にあるので、彼の地で学びたかったらしいのだが、実行はしなかったようだ。中止ないしは断念の理由はわからないが、末木さんは「唐なにものなるぞ」という気負いがあったのではないかと推理している。

≪096≫  その後の安然は入唐するべく太宰府に向かったという記事が「三代実録」の記述にあるので、彼の地で学びたかったらしいのだが、実行はしなかったようだ。中止ないしは断念の理由はわからないが、末木さんは「唐なにものなるぞ」という気負いがあったのではないかと推理している。

≪097≫  なぜ安然は「草木国土悉皆成仏」という言い方をしたのだろうか。おそらくは時代が関係していると思われる。安然の著作活動期は9世紀になるのだが、この時期は日本が遣唐使を廃止し、藤原摂関政治を準備していた。天台の活動もやや低迷していて10世紀の良源(元三大師・厄除け大師)の登場まで復興力をもっていなかった。また即身成仏をめぐる思想を天台がうけとめる時期にもあたっていた。

≪098≫  安然はこうした時期、『教時問答』『即身成仏義私記』『斟定草木成仏記』などの著作に没頭し、草木即心についての思索を追求した。どんなふうに安然が思索をしていったかは、いろいろな紆余曲折があるので今夜は省略するが、まとめて知りたい諸君には末木さんが2015年にまとめた『草木成仏の思想』(サンガ)を読んでみることを薦めたい。かなり詳しく述べられている。それを一言で集約することはできないけれど、ごくごく縮めていえば、天台宗・華厳宗・三論宗の草木成仏説を検討し、『大乗起信論』を引きつつ「随縁真如」という立場にもとづいて、有情と非情の区別をなくし、草木すら成仏しうると説いたのだった。

『日本仏教入門』 

≪099≫  安然ののち、草木自成仏説は良源の『草木発心修行成仏私記』や源信の『三十四箇事書』(枕双紙)などに受け継がれ、覚鑁によってその身体論化が、道元によってその山水論化が試みられた。これらは安然の意図とはべつに展かれていったに近い。けれども、そここそが日本仏教の大きな特色の「トーン」となったのだとみなしたい。

≪100≫  しかしながら、こうした起爆や着床の意味は、日本仏教史としては、また仏教を背景とした日本思想史や日本言語思想の展開としては、残念ながらほとんど語られてこなかった。なぜ、語られなかったのか。日本仏教を話題にするのが人気がなかったのだと言うしかない。また、近現代の日本人は仏教思想を持ち出すというリベラルアーツに慣れてこなかったか、その力を発揮してこなかったと言うしかない。

≪101≫  これはまずい。今夜はそのことを述べるのは控えるけれど、ぼくは21世紀の日本をおもしろくするには、仏教と新たなリベラルアーツが結びつくことこそが最も有効だろうと見ているので、この現状はできるかぎり打破したいと思っている。打破するには多少の準備が必要だ。

≪102≫  そこで「近江ARS」と銘打ったグループの諸君とともに、三井寺(園城寺)を学びの場として、末木さんに2年ほどにわたって日本仏教の特色を解(ほど)く会で語ってもらうことにした。三井寺長吏の福家さんは、長らく末木本を読み込んできた人でもあった。世話役には「百間(ひゃっけん)」の和泉佳奈子が立った。

≪103≫  三井寺に来ていただく人数には会場の都合で制限があるが、そのうちネットなどで参加可能な機会を拡げたいと思っている。

『日本仏教入門』 

≪104≫    仏教はその原点以来、ずっと死者と関わり続けてきました。   主要な大乗経典は死者との関わりを   最も主要なテーマとしていました。   生があって死があるのではありません。   死があってはじめて生があるのです。——『現代仏教論

≪105≫  ずっと前から「7万5000の寺院、約8000万人の仏教徒、30万体の仏像」というふうにおぼえていた。堂々たる数だ。ビヨンセが数百人の黒人ダンサーを引き連れているようで、とても誇らしかった。しかし、この数字はたいそう漠としたものでもあって、7万ケ寺の寺院、8000万人の仏教派、30万体の仏像が群をなしてわれわれに胸騒ぎを迫っていくようにはまったく見えてこない。なんらの唸りをあげてはいない。いまの仏教界にはビヨンセもイチローも大谷もいない。

≪106≫  仏教の現状がそうなっているだけではない。2020年の文化庁「宗教年鑑」では、神道系が8895万人、仏教系が8483万人、キリスト教が191万人、諸教が740万人というふうになっている。なかで仏教の宗教団体としては13宗28派が認められているが、すべて大乗仏教系である。それなら13宗28派の日本大乗仏教系が何かの活動性や象徴性やなんらかの社会活動を世に発しているかというと、そういうこともない。≪100≫  しかしながら、こうした起爆や着床の意味は、日本仏教史としては、また仏教を背景とした日本思想史や日本言語思想の展開としては、残念ながらほとんど語られてこなかった。なぜ、語られなかったのか。日本仏教を話題にするのが人気がなかったのだと言うしかない。また、近現代の日本人は仏教思想を持ち出すというリベラルアーツに慣れてこなかったか、その力を発揮してこなかったと言うしかない。

≪107≫  平成30年間で、キリスト教系は5万人増えたが、仏教徒の数は4000万人ほど減ったという数字もある。令和元年の調査では、仏教系は4724万人だ。4割が減った。

≪108≫  数字はともかく、日本人が仏教徒であるという自覚をあまりもっていないのは、とっくの昔からの常識だ。もっとも日本人には自分たちが神道信仰者であるという自覚もない。結婚を神式にして葬儀を仏式にしているにすぎない。このことは日本人の宗教意識の欠如として指摘されてきた。しかしそうだとしたら、どうしてそうなのか。この常識をどういう説明で切り抜けるのか。


≪109≫  かつてNHKの教養番組のチーフディレクターだった阿満利麿は『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)を書いて、日本人は創唱宗教よりも自然宗教的なるもののほうに関心があり、宗教的な強い思想が人生の前提を疑ったり否定してくることを避けているのではないかという見通しを述べていた。

≪110≫  これはソンタグが「ソフィスティケーションとしての日本仏教」をぶつけてきたことに似て、当たっているように思えるが、思想史としては説明できていない。また、それなら僧侶はそのへんをどう見ているのかというと、そこがよく見えない。なんとかしたいのだろうか、それとも忸怩たる思いにいるのだろうか。≪103≫  三井寺に来ていただく人数には会場の都合で制限があるが、そのうちネットなどで参加可能な機会を拡げたいと思っている。

≪111≫ 「宗教年鑑」では日本の僧尼は37万人である。この数は多くもないが、少なくもない。タイは人口が7000万人弱で3万の寺院、30万人の僧侶がいる。だから、日本の僧尼の数は十分だ。けれども活動が見えているかというと、そうではない。たとえば日本のサッカー人口は436万人、野球人口は700万人で、そのうちのプロのサッカー選手は1800人程度、プロ野球選手は1000人にも満たない。それでもどんな人材やプレーがあるかは刻々見える。僧侶もプロ級が何かをすればかなりの選抜力が見せるプレーにお目にかかれるはずなのである。

≪112≫  安土の宗論はいまこそパブリックビューで行われるべきなのだ。文治元年、大原にいた顕信が勝林院に20人のトップ・ディベーターを集めて法然の話を聞く会を開いた。300人近いオーディエンスがいた。こういうことがもっと時期を画しておこなわれる。WCRP(世界宗教者平和会議)の日本版も試みられるべきだろう。女性宗教者たちもLGBTQも集まるべきだ。石山寺の鷲尾龍華さんや立正佼成会の庭野光祥さんに期待している。

『日本仏教入門』 

≪113≫   人間の現象として現れているこの世界「顕」の裏側には、   「冥」(みょう)と呼ばれる世界があり、   「冥」の世界に死者や神仏がいる。この感覚は、   中世には広く共有され、神道が形成されていく中でも   重要な意味をもつようになります。   この世の秩序の外にある暗闇の世界が、   この世の秩序と密接に関わっているのです。——『日本仏教入門』

≪114≫  以上、日本仏教を「抜き型」で見るという視点から末木さんの本が語る主旨の一端を急ぎ足で辿ってみたのだが、本書の序文をはじめ、このところ末木さんが自身でクローズアップしているのは「顕」と「冥」というテーマなのである。最後にその話をしておきたい。

≪115≫  末木さんの本ではやや異色な著作にあたる『哲学の現場』(トランスビュー)がある。「日本で考えるということ」というサブタイトルが付いている。前半、日本人が西洋の哲学を相手にした近代の思想家たちの流れを瞥見し、半ばの第5章「他者の壁」でブーバー(588夜)、レヴィナス、清沢満之(1025夜)を比較しながら、他者を存在一般の延長で捉える限界を指摘しつつ、関係こそが存在に先立つのだから、他者の問題については「私もまた私にとって他者であり、私の外」であるような見方がこれからは重要になるだろうことを持ち出している。

≪116≫  そこから、他者は範型が異なることが多いので安易な類型化はふさわしくないこと、そのような多様な他者がいるところにも思いを致すべきであること、そのことを日本では「顕」に対する「冥」の存在の認知として理解する方法をもったという考察へと入っていく。

≪117≫  天台座主でもあった慈円(624夜)が書いた『愚管抄』このかた、歴史や現在や将来を語るには「顕わるるもの」とともに「隠くるるもの」を同時に見なければならないという見方が断続的に重んじられてきた。それが「顕」と「冥」である。たんに光と影を語るというのではない。

≪118≫  これは光と影、顕と冥、生者と死者は別々のことを別の言葉で語っているという認識をもつということだ。そうしないと日本の歴史はわからないと、慈円は言ったのだ。それなら「顕」に対するに「冥」の言葉をある程度はふんだんに扱えるようにしなければならない。とくに顕冥にかかわる言葉、顕冥から逸れる言葉についての比較と比肩が重要だ。

≪119≫  のちに本居宣長(992夜)は歴史や現実の「顕」の現象を見るには「ただの詞(ことば)」でも役立つが、「冥」を見るにはそれなりの「あやの詞」が必要になると訴えた。「顕」に回収できない「冥」の言葉や意味の世界が厳然とありうるということである。

≪120≫  さかのぼって、天台本覚が仏性・真如・如来蔵を動かすには、経典などを検証したうえでの仏教的な「あやの詞」が必要で、安然の作業はまさにそのためのものだったとも言えたのである。それをすることで、仏教思考が既存の魔術から脱して、新たな再魔術化がおこせるのだった。

≪121≫  末木さんは別の本、『現代仏教論』(新潮新書)にこう書いている。「私が最近提案している「顕」と「冥」の世界観は、ある意味では、まさしく脱魔術化の後の再魔術化の一つの提案ということもできます」と。

≪122≫  この再魔術化という言い方は、デカルトが物心を切り離した哲学を構築したのに対して(デカルトは物質と精神を別々に扱った)、のちのちベイトソン(446夜)らがこれを統合して、デカルトが中世的な魔術思考を否定して近代哲学礎を築いたことを、あらためて再魔術化して今後の哲学や科学や思想を議論するべきだとしたのにもとづいている。モリス・バーマン(1241夜)の『デカルトからベイトソンヘ』(国文社)に詳しい。

≪123≫  再魔術化ではないが、量子力学のデヴィッド・ボーム(1074夜)が『全体性と内蔵秩序』(青土社)で明在系(エクスプリケート・オーダー)だけでは物理の真理は語れない、暗在系(インプリケート・オーダー)の語りこそがカギを握っているという議論をしたのも、顕と冥との関係を思い合わさせた。 しかし、このことをもっと如実に秘めていると思われるのは、仏教の変遷であり、とりわけ日本仏教の転移のありかただったのである。

≪124≫    中世においては「顕」なる領域は、   常に「冥」の世界に囲まれていた。   「冥」は神仏や死者の世界であり、それは   我々にはうかがい知れず、   それだけにどんな厄災をもたらすか知れず、   どのように対応するかが重要な問題になった。——『哲学の現場』

『日本仏教入門』 

≪134≫  では、こんな状況の中でどんな方針がもてるのかというと、はなはだ心もとないけれど、21世紀の日本に「顕」と「冥」がもっと語られていくようにするには、以上のような「開け伏せ」を今後にも企んでいくのがいいだろうと思われる。伏せながら提出し、少しずつ開いていくようにする。そうするには末木さんがそうしてきたように、仏教をふんだんに活用することなのである。

≪125≫  編集工学では「開ける」と「伏せる」を方法的に重視する。もともと歴史の中には早くから「開けられたもの」と、グノーシスや新プラトン主義やカバラのように「伏せられたもの」があった。

≪126≫  それらを「開ける」のは学問的には大事な作業だが、そうしたからといって、それらがなぜ「伏せられた」かはわからない。むしろ、今日のわれわれはそのような「開け伏せ」のあった歴史の文脈に学びつつも、新たな「開け伏せ」に向かわなければならない。ぼくはこのような考え方をずっとしてきた。

≪127≫  そうしてきたのは、「顕」の方法と「冥」の方法とは、その根底の表象力や伝達力において異なるものを操業させてきたということに学びたいからだった。たとえば、出雲神話は高天が原神話の表象力では解けない。それを平田篤胤らが指摘した。

≪128≫  なぜこんなことがおこるのか。わかりやすい譬え話にすると、盗られてはならないものを隠すには、どうするかというと、容易に見当がつかない場所を選ぶか(ポーの推理小説のように)、隠し場所に鍵がかかっていてその鍵が見つからないか(コンピュータならコードナンバーがわからないか)、そもそも何が鍵で何が鍵穴なのかの関係が見いだしにくいか、このいずれかの処方をするはずである。永久に見つからないようにしたいのなら、そんなものは棄却してしまえばいいのだが、そうはしたくない。そこには秘密や真実の根拠がひそむので、なんらかの方法で解錠にたどりつかせたいわけなのだ。

≪129≫  出雲神話の成立を想定すると、そのような鍵と鍵穴が「冥」の言葉で綴られていた。オオナムチ、スクナヒコナ、クエビコは「顕」のイコノロジーでは説明しがたい。

≪130≫  そのため篤胤のような壮大な仮説が、きっと鍵と鍵穴はこれだろうと指し示しながらいつしか登場することになるのだが、そこにはどうしても「冥」の世界の全き想定が必要なのである。そういう世界を想定しなければ出雲も解けなかったのだし、出雲神話をつくったほうからすると、本来の秘密や真実を全面的に(あるいは暗示的に)共有してもらわなければならないからだ。

≪131≫  この共有の謎は、ギリシア的な『ユリシーズ』には薄く、インド的な『バカヴァッド・ギーター』(1512夜)に、はるかに深かった。

≪132≫  話を日本仏教に戻すと、なぜ日本の寺院は葬式仏教を重んじたのか。そこには「冥」の世界の土台やネットワークが必要だったから、お寺と死者が相互陥入していてほしかったからだというふうに解釈できる。ただし、近代以降の仏教はそのようには日本仏教の「冥」を重視したり、説明したりできるようにはしてこなかった。これは怠慢による。

≪133≫  いま、日本における「冥」はかなり後退させられ、粗末に扱われ、また多くの者が誤解するように位置に貶められている。そのかわり前面化しているのがコンプライアンスというものだ。

≪134≫  では、こんな状況の中でどんな方針がもてるのかというと、はなはだ心もとないけれど、21世紀の日本に「顕」と「冥」がもっと語られていくようにするには、以上のような「開け伏せ」を今後にも企んでいくのがいいだろうと思われる。伏せながら提出し、少しずつ開いていくようにする。そうするには末木さんがそうしてきたように、仏教をふんだんに活用することなのである。

≪135≫  これはパース(1182夜)が「アブダクション」(仮説形成)と名付けた方法に近いとも思われるけれど、もっと仏教史的に言うのなら、仏性や如来蔵が「ありのまま」のところに措かれているにもかかわらず、そこを開けようとすると、よほど本気でかからないと鍵も鍵穴も見つからなくなっていくというような、そんな「開け伏せ」になっていくような気もする。

≪136≫  まさに末木さんは、そういう「開け伏せ」を著作を通してやりつづけてきた。これからもそうされていくだろう。 なんだか勝手な案内になってしまったが、では、ごめんなさい、この続きは8月21日の三井寺で末木さん本人からの話で深めていただくことになる。

『最澄と天台教団』

≪01≫  奈良博の《久隔帖(きゅうかくじょう)》を今井凌雪さんと見た。NHKの書道講座をお手伝いしていたころだ。尺牘(せきとく)は「久隔清音 馳恋無極傳承 安和且慰下情」と始まる。

≪02≫  いつものことながら、すぐに「恋無極」の字配りに目が吸い込まれていく。王羲之(おおぎし)の《集字聖教序》が見せる勁(つよ)いけれども懐ろが柔らかい間架結構が、最澄の書では端正なストロークやピッチに転じて律義になっている。そんな感想を呟くと、今井さんは「いやあ、伝教大師の書は王羲之より誠実ですよ。懸命ですよ」とボソッと洩した。

≪03≫  なるほど誠実で懸命である。筆と言葉と意味とが一字ずつきっちりと詰まって、そのまま乱れない。端正で、行儀がよく、そこがたしかに懸命だ。懸命が端正なのか、端正が懸命なのかは問えない。おそらくそのどちらも最澄なのだろう。

≪04≫  《久隔帖》の文面は弟子の泰範(たいはん)に頼み事を託して、空海殿にこういうことを尋ねてきてほしいという内容になっている。こういうことというのは、先に空海殿から送られた詩の序の中に知らない書物の名が出ていたけれど、あれはどういうものなのか、その大意を教えてほしいということだ。冒頭で「久隔清音」と書き出しているのは、久しく御無沙汰をしていましたという空海への挨拶である。

『最澄と天台教団』

≪05≫  空海から最澄に宛てた尺牘のほうは《風信帖(ふうしんじょう)》として、これまた世に名高い。3通ある。ぼくも昔は少々ながら臨模した。 弘仁3年(812)、最澄は空海に天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を送り、そのとき添えた手紙に比叡の堂宇に遊びにきてくださいと書いたのだが(この尺牘は残っていない)、空海は丁寧に『摩訶止観』のお礼を述べ、いまそちら(一乗止観院=比叡山寺、のちの延暦寺)には都合が悪くて伺えないけれど、近いうち互いに仏道の根本を語りあって仏恩に報いたいものですと返信した。これが《風信帖》の1通目で、このときの空海の書は「風」や「恵」の字が王羲之の《蘭亭序》そっくりで、そこに運筆の速さを感じさせる。

≪06≫  2通目は最澄がお香などを送ったことへの返礼である。最近は忙しいけれど法要がおわったら、あなたの送ってきた左衛士(さえじ)の督(かみ)の手紙を読みますというもの、書風は覇気に充ちている。3通目は空海から最澄にお香などを送ったこと、『仁王経』を借りたいというお申し越しについては、いまは別用で使っているので後日お貸ししましょうということなどを綴る。こちらは鮮やかな草体を見せている。

≪07≫  最澄の律義と一途、それに対する空海の応接の翩翻。二人の書風はどちらも王羲之を手本としていながらも、まったく異なっている。最澄が端正で律義な書であるのにくらべると、空海はそのつど変化変容する。この対照ぶりに、平安仏教以降の動向を決してみせた二人のすべてがあらわれている。

≪08≫  まあ、こんなふうに、日本の書文化をめぐるさまざまなことが思いあわされてくるのだが、一方、それとともに二人の手紙からは当時の日本仏教をめぐっての大事な「あること」が暗示されていたことが伝わってくる。二人はいずれも入唐し、いずれも密教の灌頂を受けて帰ってきた仲である。そうでありながら、天台密教と真言密教に分かれた。しかし「あること」については深く共通していた。「あること」とは何か。

≪09≫  最澄は空海から、大同4年(809)に『大日経略摂念誦随行法』を借覧した。二人のあいだにはこのような関係がその前から始まっていて、最澄はその恩義に報いるために、空海に和気真綱(和気清麻呂の5男)を紹介し、高雄山寺の入住を斡旋していた。

≪010≫  真綱は早くから史伝に通じていた浩瀚な人物で、このあと真言宗と天台宗が官許されるのは、真綱と兄の弘世の和気兄弟の尽力だったと言われるほど、二人にとってのキーパーソンになる。

≪011≫  続く弘仁2年(811)7月ころ、最澄は経蔵を整理していて、いろいろ補充するべき経典があることを痛感していた。とくに密典だ。『大日経略摂念誦随行法』を入手したいと思ったのも、密典の全容を目配りしたかったからだった。空海も同じだ。《風信帖》の1通目は『摩訶止観』を借りられたことへのお礼だった。このように二人は「本」を必要としあっていたのである。

≪012≫  当時の最先端の日本仏教とは、新たな経典やその評釈などの「本」を率先して読むことであった。これが二人に共通していた「あること」だ。たんに読むのではない。まずその本に出会わなければならず(これが当時の最大の求法だ)、ついでその「本」にどのような解釈をほどこして読むのか、そこに食いいる。ぼくは古代仏教は「本の仏教」だと思っている。

≪013≫  ちなみに《久隔帖》は昨年(2021)に東博の伝教大師1200年大遠忌記念特別展「最澄と天台宗のすべて」でも、「請来目録」「羯磨金剛目録」「年分縁起」などとともに出品されていた。どの書をものしても最澄の誠実や懸命は変わっていない。

『最澄と天台教団』

≪014≫  さて、今夜の千夜千冊は木内堯央(ぎょうおう)の『最澄と天台教団』にした。木内さんは東京墨田の天台寺院・如意輪寺の長男として生まれ、西巣鴨の大正大学に進み、天台密教の研究者になった。最初の著書が『伝教大師の生涯と思想』(第三文明社)で、次が教育社歴史新書の本書だ。本格的な研究書には『天台密教の形成 日本天台思想史研究』(渓水社)などがある。同じく天台教学研究者の木内堯大は息子さんである。

≪015≫  本書は最澄とその門流の動向を知るにはもってこいなのだが、「始原としての最澄」を語るには少し足りない。そこでもう一冊、最澄のダイナミックな端緒に戻った本を紹介しておく。昨年刊行されたばかりの師茂樹の『最澄と徳一』(岩波新書 2021)だ。刊行まもなく話題になった。最澄と徳一(とくいつ)のあいだで交わされた激越な論争を通して、最澄の仏教思想の背景にひろがる問題を見定めたものだ。

≪016≫  徳一は法相宗の学僧で、はやくから東国とくに会津に拠点を広げていた。ポレミックな学僧で、最澄に対しても空海に対しても論争を挑んだ。

≪017≫  最澄との論争は昔から「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)とよばれてきたもので、三乗説と一乗説のどちらが仮(=権)で、どちらが真(=実)なのかを決めようという論争をいう。三乗説の徳一がふっかけ、一乗説の最澄が受けて立った。論争は5年に及んだ。

≪018≫  なぜそんなことが平安初期の日本で争われるのかというと、『法華経』の読み方をどうするか、どこに注目するかということをめぐったのである。結果、三乗説と一乗説が対立した。なぜ、そうなるのか。話はインドまでさかのぼる。

『最澄と天台教団』

≪019≫  紀元1世紀前後、ブッダ以来の数世紀にわたった原始仏教教団のいくつかの部派活動の中から、いわゆる大乗グループが登場した。大乗グループはそれまでの部派仏教時代の活動を「小乗」と貶称して、小さな乗りもの(乗=教法)に乗っている連中だとみなした。そのうえで大乗グループは小乗グループとの区別をあきらかにするため、新たな経典(大乗経典)をつくろうとしていた。

≪020≫  その手の試みはすでに般若経の編纂グループが先行していたのだが、それに続くもので、できれば決定版にしたい。『法華経』である。

≪021≫  ひるがえって、もとからの小乗グループは、仏教の教えを伝え導くことができるのはブッダただ一人、釈迦仏だけだと考えてきた。それゆえ修行者はブッダを理想のモデルとして、一人ひとりがさまざまな執着を断ち、輪廻から解脱するために阿羅漢(あらかん)をめざす。なかで、その境地にかなり近づいた者は菩薩、すなわちボーディサットヴァ(菩提薩埵、略して菩薩=悟りを求める人)と称ばれるところにまでは達するが、とはいえブッダになるわけではない。そう、考えてきた。

≪022≫  これに対して大乗グループは、釈迦仏以外にもブッダ(覚者)はありうると主張した。菩薩もブッダをめざしつつ、自分だけではなく衆生(多くの他者)を悟りに導こうとしているのなら新たに「菩薩乗」とみるべきだと主張し、たんに教えを聞く修行者はブッダになろうとしていないのだし、自分だけの覚醒にこだわっているのだから「声聞乗」(しょうもんじょう)にすぎないとみなした。また、教えを聞くことなく独力で解脱をめざす者たちもふえてきたようだが、かれらは別して「縁覚乗」(えんがくじょう)などと称ばれるべきだとした。

≪023≫  こうして、修行者を教えを聞いて悟ろうとする声聞乗(小乗)、自身の悟りを求める縁覚乗(中乗)、一切衆生のために仏道を広める菩薩乗(大乗)という「三乗」の見方ができあがっていったわけである。このうち声聞・縁覚乗を「二乗」とも名付け、大乗を進む者を「一乗」と名付けた。

≪024≫  大乗グループは、これらのことがブッダの語りによって展開されている経典が存在するべきだと考えて、かなり長い時間をかけて『法華経』を仕上げた。そこではブッダは「私が小乗や二乗の道があると説いたのは、大乗に導くための方便だった。本来の道は一乗なのだ」と語っているようにした。前半の迹門で二乗を重視しておきながら、後半の本門では一乗を重視させたのである。

『最澄と天台教団』

≪025≫  大乗グループはその後も大乗経典のヴァージョンをいろいろ編纂し、しだいに大乗仏教という大きな仕組みをつくりあげた。アショーカ王やカニシカ王がこれを採用し、大乗仏教は菩薩乗を広げるムーブメントになっていった。

≪026≫  やがて時代がたって、大乗仏教にもいくつかの考え方の差異が出て、宗派がいくつも分立していくと、新たな問題が出来(しゅったい)してきた。いったい『法華経』に語られた「三乗は方便、一乗が本当」というメッセージは文字通り受け取っていいのかどうかということだ。とくに中国に入って経典が次から次へと漢訳されていったことで、解釈のちがいや混乱が錯綜した。

≪027≫  漢訳経典に混乱が出てきたのは致し方がなかった。インドでの経典成立の順に漢訳されたわけではないからだ。ただし混乱したままではまずい。どの経典を原型とみなし、どの経典がそれに続いたのかを判定する必要が出てきた。これを仏教史では「教相判釈」(きょうそうはんじゃく、略して教判)という。

≪028≫  竺道生や慧観による教判が試みられ、天台智顗の「五時八教」説でおよその流れが確立した。ブッダは「華厳→阿含→方等→般若→法華」という5段階で説いていったとみなすのがいい、それが仏教を最も深く理解していくのにふさわしい順番であるという説だ。これは歴史的な経典成立の順ではなく、仏説を理解する認識の順によるもので、そこがユニークだった。

≪029≫  智顗の五時八教説によって、『法華経』を学修するすべての信仰者が「法華一乗」になっていくというスコープが提出されたのである。智顗はそのように認識するためのベーシック・テキストにあたる『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』も書いた。天台三大部だ。ここに天台法門が確立した。

≪030≫  この見方が日本にも踏襲され、最澄はこの説に従って日本の天台をまとめたいと決断した。法華一乗である。しかし法相宗では、それとは別に「五姓各別説」を唱えて、一乗でまとめるのではなく、あくまで三乗それぞれの悟りを追求するべきだとした。ここにおいて法相の徳一から「天台の法華一乗の解釈は納得できない」というクレームが投げかけられたのである。

≪031≫  論争のいきさつは猖獗をきわめるのでここでは省くけれど(師茂樹『最澄と徳一』を読まれたい)、最澄は徳一の掲げた疑問にかなり対応して、自身の天台教学の形成に与かった。それは、青年最澄が仏教に向かうにあたって発願した思いと一致するものだった。

『最澄と天台教団』

≪032≫  最澄は近江の生まれである。琵琶湖のほとりの大津の古市郷、いまの生源寺のあたりに俗姓を三津首(みつのおびと)、俗名を広野として育った。

≪033≫  14歳(宝亀11年)で近江の大国師であった行表(ぎょうひょう)のもとで出家して、近江国分寺で得度、延暦4年4月に東大寺で具足戒を受けた。行表が器量の大きい人だったようだ。

≪034≫  木内さんは行表が最澄に示教したことは、ただひとつ「心を一乗に帰すべし」だったろうと書いている。そうではあったが、ただ具足戒が気になった。

≪035≫  仏教では本格的な僧尼になるためには、「自分は戒律を守ります」(持戒)という約束を果たさなければならず、そのための授戒を受けなければならない。「戒」(シーラ)は仏教三学の「戒・定・慧」の必須要件のひとつで、仏法に帰依する者の大前提のことだ。具足戒はその戒の中の小乗戒で、200項目ほどの規則が示されている。日本には請われて鑑真が具足戒をもたらし、東大寺にそのための戒壇院ができた。

≪036≫  最澄も授戒してもらったものの、小乗戒では満足できなかった。「一乗に帰すべし」がないように感じられたのだ。そこで授戒後の7月、意を決して比叡山に入ると草庵を結び、山林修行を始めた。座禅に励み、四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)のために『法華経』『金光明経』『般若経』などを読誦し、自身の覚悟をしるすべく「願文」を認(したた)めた。

≪037≫  これが名文だ。「悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患いて楽しからず」に始まり、「生けるとき善を作(な)さずんば、死するの日、獄のたきぎとならん」とあって、「我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ」と顧みる。出仮は現実の世界にはたらき出ることを言う。

≪038≫  このあと次のように決意を述べる。「願わくは、かならず、今生の無作無縁の四弘誓願(しぐせいがん)に引導せられて、周(あま)ねく法界を旋(めぐ)り、遍(あま)ねく六道に入り、仏国土を浄め衆生を成就して、未来際を尽すまで、恒に仏事を作さん」。

≪039≫  最澄は何を願ったのか。木内さんはこの願文はまさに「菩薩の発願」で、「法華一乗」に向かってすべての仏事を仕上げたいという決意に願いを懸けたのだと説明する。

≪040≫  なるほど、菩薩たらんとする決意ではあったが、たんに理念的な願文ではなかった。実践プランがいくつもあった。一切経(主要なすべての経典)を書写し、大乗戒のための戒壇をこしらえ、もっと天台法門を広く実践したい。そういう思いが募っていた。延暦7年(788)、最澄は山中に一乗止観院を建てると、自刻の薬師如来像を安置した。この一乗止観院を本堂とする寺院の総称が比叡山寺で、それが弘仁14年に延暦寺と改称された。

『最澄と天台教団』

≪041≫  ここから先の最澄の活動は仏教知に対してのひたむきな渇望がすさまじい。この渇望が最澄の「菩薩の発願」を動かしてきたエンジンだったろうと思う。渇望は渇愛でもあった。とくに智顗がいた天台山への憧れはただならないもので、結局、このことが最澄を遣唐使船に乗せて入唐求法に至らしめた。

≪042≫  36歳で還学生に応募して2年後、苦難の末に入唐し、天台山に参って国清寺で灌頂を受け、台州の龍興寺では円教(完全円満の教え。天台宗では法華の教え)の大乗戒も受けた。さらに越州龍興寺の近くの鏡湖の峯山道場では三部三昧耶の密教灌頂を受けた。そして金字7巻の『法華経』をはじめとする経典、多くの典籍、密教法具を携えて戻ってきた。一番弟子の義真が求法訳語(通訳)として随行していた。

≪043≫  すばらしい入唐体験であったはずだが、不足不満もあきらかになってきた。最澄が受けた密教灌頂は「雑密(ぞうみつ)」のものにすぎず、別途に入唐していた空海が長安青龍寺の恵果(けいか)阿闍梨から受けた「金胎両部の純密(じゅんみつ)」の灌頂ではなかったのである。こうして帰国後は空海との「本」と「灌頂」をめぐる交流が始まり、徳一との三一権実論争が続くことになったわけである。

≪044≫  空海との交流はしばらく続いたが、最澄が『理趣釈経』を借り受けたいと申し込み、これが断られたあたりから疎遠になっていった。当時は「本」そのものが認知哲学であり、その秘法であったのである。本の貸し借りこそ「懸命」なのである。『理趣釈経』が動かなかったこと、ここに天台密教と真言密教の分かれ目が生じた。

≪045≫  そうした活動のなか、最澄は九州と東国への天台法門の拡大をめざした。九州では宇佐八幡宮、豊前の香春(かわら)神宮寺などを訪れ、法華を講じたりしている。

≪046≫  弘仁8年の春からは東国に向かった。円澄・円仁・徳円を伴い、道忠の門下や孫弟子がいる寺々を巡っている。道忠は鑑真の弟子で、関東一円を布教して「東国の化主(けしゅ)」とうたわれた傑僧である。入唐前の最澄が一切経の書写をしたとき、二千余巻を助写したのが道忠だった。

『最澄と天台教団』

≪047≫  最澄が同行を促した三人がいずれも東国出身者だったことは興味深い。円澄は武蔵国の生まれで、第2世の天台座主になった(第1世は入唐に随行した義真)。円仁は下野国生まれ、15歳で比叡山に入り、のちに第3世座主になっている。二人はもともと道忠の門下にいた。三人目の徳円は道忠門下ではないが、下総の出身だ。

≪048≫  最澄は栃木の大慈寺で円仁と徳円に菩薩戒と三部三昧耶を授けた。なるほど、行く先々で天台法門の苗床をつくっていくのである。律義で端正なだけでは、ここまではできない。最澄は一所ずつに懸命であったのだ。最澄の天台教団のモデルはこうして「同行」の中でつくられたということだろう。

≪049≫  東国巡行には、各地に『法華経』一千巻を収める宝塔を建てたいという計画もこめられていた。この計画は全国6カ所に宝塔を造立する「六所宝塔」というプロジェクトとして、その後の天台宗に受け継がれていく。

≪050≫  先だって三井寺の福家長吏とともに学芸部の皿井舞さんの案内で拝見した東博の「最澄と天台宗のすべて」展で、ぼくはあらためて全国に散らばった天台寺院にまつわる仏像や屏風絵や文書の実物にお目にかかった。最澄の「願文」が聞こえてきた。

≪051≫  最澄にはどうしても生前に成就したかったことがあった。大乗戒のための戒壇院を造立すること、そのための専門の大乗寺を創建すること、その大乗戒を受けた未来の学生たちが挑むべき「忘己利他(もうこりた)」のルールブックをつくること、このことだ。

≪052≫  大乗寺建立のことは弟子の光定から藤原冬継を通じて嵯峨天皇に奏上する予定だったが、南都の僧綱たちの反対にあってしばらく待たされることになった。十二年籠山を規定したルールブックは六条式、八条式、四条式というふうにドラフトを重ねていったので、文書としての仕上げはまにあった。これらを束ねたものが有名な『山家学生式(さんげがくしょうしき)』である。日本仏教の「戒」を代表する。山家は比叡山のことをいう。

『最澄と天台教団』

≪053≫  学生式の認定についても光定らが南都にはたらいた。すぐに裁可は降りなかった。どうも僧綱トップの護命が反対しているらしい。最澄は『顕戒論』を綴って断乎たる意図を奏上するものの、このときすでに体が危うくなっていた。死期が迫っていた。

≪054≫  弘仁13年(822)、「我、鄭重に此の間(けん)に託して一乗を習学し、一乗を弘通(ぐつう)せん。若(も)し心を同ぜん者は、道を守り、道を修し、相い思うて相待て」と言い残し、また「心形久しく労して、一生ここに窮(きわ)まれり」と言うと、右脇を下にして示寂した。

≪055≫  享年、いまだ57歳。その7日後、大乗戒壇の独立、山家学生式が勅許された。翌年に比叡山寺が延暦寺になった。さぞかし無念であったろう。

≪056≫  本書はこのあと、最澄亡きあとの天台教団がどのように発展変化し、また山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)がなぜ内訌(ないこう)をくりかえしていったか、あげくにどうなっていったのかを粗述している。天台座主3世の慈覚大師円仁と5世の智証大師円珍については、さすがにページを割いているが、ここでは印象深いことだけを抜いておく。

≪057≫  円仁においては、最澄が「俗諦の不生不滅を心するべき」を託したことが大きく、円仁自身は現実社会の上に仏法が厳然と実現されていくには、日々何をとりはこべばいいかを苦心したとおぼしい。止観業に徹してきた円仁にとって、このプロジェクト・マネジメントは少しく難題だったろう。

≪058≫  そこで一躍、入唐を企てた。無事、入唐は果たせたが、天台山に参る許可が得られなかった。しかしながら代わって五台山で五会念仏の行儀を知ったことが大きかったのではないかと、木内さんは書いている。

≪059≫  むろん世界に比類ない『入唐求法巡礼行記』4巻を綴ったこと、その円仁の研究を専門にした日本生まれのハーバード大学東洋史のエドウィン・ライシャワーが、のちに駐日アメリカ大使となって日米コミュニケーションの橋渡しを担ったことなども特筆されるべきであるが、ぼくにはやはり五台山で得た念仏が比叡山に移されて、韻律がきわめて華麗な「山の念仏」を生んでいったこと、それが藤原文化の中での浄土信仰を促し、また引声(いんぜい)や梵唄(ぼんばい)などの邦楽の基礎となっていったことを注目したい。横川(よかわ)に新たな拠点をつくったのも円仁である。

『最澄と天台教団』

≪060≫  円珍については、三善清行が引き受けた伝記『天台宗延暦寺座主円珍伝』がある。そのためけっこういろいろのことがわかるか、推察ができる。

≪061≫  故郷の讃岐で母方が空海と縁つづきの佐伯氏であったこと、叔父の仁徳に連れられて比叡山に入ると義真に出会い、天長10年(833)から12年におよぶ籠山の修行に徹したこと、円仁の入唐があったにもかかわらずあえて入唐を果たして金胎両部の密教灌頂を受けられたことなどは、よく知られてきたことだ。

≪062≫  しかし、なぜ円珍が入唐にこだわったかということは、三善清行も説明していない。木内さんは、すでに義真派と円澄派の軋轢が円仁派と円珍派の関係に及んでいて、円珍としては円仁派に拮抗しうる成果を唐から持ち帰る必要があったと説明する。ただこのことは、円珍が天台別院としての園城寺(三井寺)に拠点を移して、その後の山門派と寺門派の対立を生んだことにはあまり関係がないとも言う。円珍は延暦寺5世の座主となって、むしろ天台比叡の最もゆるぎない円密一体の頂点をきずいたのではないかと見ているのだ。

≪063≫  それならどうして山門派と寺門派が反目し、なぜにまた園城寺は延暦寺の僧兵に何度も襲われたり焼き打ちされたりしたかというと、これは18世座主の良源(慈恵大師・元三大師)の晩期、園城寺長吏の余慶(謚号は智弁)が法性寺の座主に指名された折に、円仁派の門徒が反対して、朝廷に余慶の就任を取りやめさせてからの確執によるものだった。

『最澄と天台教団』

≪064≫  それまで良源は両派の反目を極力抑え、無頼の僧兵を取り締まり、むしろ絢爛たる祭礼を催して(地主三聖の祭り)、2700人の僧徒のうちに不穏分子があれば、その僧籍を剥奪するような処置を施していたのである。それが朝廷が余慶を天台座主に推して両派の対立に火を付けることになった。円仁派が猛然と反意を示し、余慶は三カ月で座主を辞さざるをえなかった。

≪065≫  これでしばらく円仁派が座主を独占するのだが、22世の暹賀のときに今度は円珍派が赤山禅院を包囲して、山上への物資を遮断するという挙に及んだため、山上の円珍派の拠点である千手院などが焼き打ちされ、円珍派は円珍の御影を守って園城寺に逃れたのだった。正暦4年(993)のことだ。

≪066≫  こうなると円珍派としては独自に戒壇院をつくらざるをえない。けれどもこれこそは延暦寺には許容できない。襲撃や焼き打ちがしだいにくりかえされるようになった。

『最澄と天台教団』

≪067≫  山門と寺門の軋轢には、ざっと以上のような経過があった。しかし本書は、こうした軋轢が天台教団を変質させたのではなく、それ以前から平安貴族が天台僧にも真言僧にも、さまざまな不安の解消や解決のため、祈祷を頼み、験力を競い合わさせたことが変質を生んだのではないかと述べている。

≪068≫  加えて摂関政治を推進する藤原良房のように、円仁を自身の権勢のために巻き込んで法力を身近かで示そうとしたり、良房の弟の良相(よしすけ)のように相応(円仁の弟子、回峰行の創始者)の法力を活用するというような傾向も強くなっていった。このことが、天台教団を変質させていくトリガーを引いたのではないかと指摘する。

≪069≫  それなら変質した天台教団は藤原貴族に巻き込まれていくだけなのかといえば、そうではなかった。最澄が比叡山を開いてから200年、横川に登場した源信(1803夜)は比叡山から貴族に向かって新たな呼びかけをおこした。『往生要集』である。円仁の「山の念仏」は「都の念仏」に及んだのである。

≪070≫  このことは鎌倉新仏教の祖師たちがほぼことごとく、いったん比叡山に学んでから、独自の仏教思想や仏教行為に転じていくという習慣をつくりだした。延暦寺は一方では日本有数の最高学府にはなったものの、他方ではそこをドロップアウトしたくなるところともなったのである。このこと、最澄が望んだことだったろうか。望んではいなかったろうが、最澄はなにもかもを抱き込みたいなどという「卑しさ」は一塵も持ち合わせていなかったとも思える。

≪071≫  あらためて強調しておきたい。最澄は日本仏教の始原なのである。どんな日本仏教の問題もいったんは最澄に戻る。いいかえれば、日本仏教のこと、何か問題があるときは最澄へ戻って考えなおしてみるのがいいということだ。今夜は、その理由をうまく紹介できなかったようなので、いつか挑みなおしたい。

『日本仏教の礎』 ①

≪01≫  ぼくには30代半ばからのほぼ10年間、同時通訳グループと一緒に仕事をしていた時期がありまして、そのため日本にやってきた文化人や学者やアーティストを神社仏閣に案内することをけっこうしていました。ところが白状すれば、そういうガイジンさんたちにどんな説明をしても、自分で「これはつまらない説明だよな」と思わざるをえなかったんです。

≪02≫  ガイジンさん相手だから、ややロジカルに説明するのですが、それがつまらない。そこにぼくなりの言葉を乗っけても(多少は知識もふえてましたから)、既存の説明に接ぎ木しているようで、かえってうまくいかない。そこで神社仏閣については、とりわけ仏教については、できるだけ歳をとってから大きく柔らかく包みこみたい、そのほうがそれらを拙速で相手にするよりいいだろう、きっと自分でも納得できる説明をする気になるだろう、そういうふうにしようと思うようになったんだと思います。

≪03≫  これは敗戦日本とか米軍基地のある日本を説明したり、教育の現状の原因を指摘するときの逃げ口上のようなもので、はっきりいって「あとまわし」です。だからモラトリアムじゃんかとも思いもしましたが、いやいやきっと日本仏教にはそうした「時熟」が必要だろうとなんとなく言い聞かせてきたのです。

≪04≫  でも、その歳もすっかりとってしまった。いまや78歳の後期高齢者です。仏さんから呼ばれているほうです。もう時間切れです。なんとも困ったもんです。以上が前置きです。

『日本仏教の礎』 

≪05≫  わが体たらくのことはさておき、日本仏教のことを歴史的に掴むということについては、21世紀に入る前後からの研究者たちの努力によって、しだいに納得できる説明がふえてきたように思います。何かが稔ってきた。その暫定的な集大成のひとつが本書を含むシリーズです。

≪06≫  本書は「新アジア仏教史」全15巻のうちの11巻目で、千夜千冊で採り上げるのは2回目です。1430夜に『仏教の東伝と受容』を採り上げました。そこに、ぼくがいかに旧シリーズの「アジア仏教史」全20巻のお世話になっていたかということとともに、新シリーズがとてもよくできていることを書いておいた(→千夜千冊エディション『仏教の源流』所収)。それはもちろん本書についても言えることで、なぜ出来がいいかというと、新たな執筆陣が新たな研究成果にもとづいて書いているからです。ぜひみなさんも目を通してみられるといい。「何」がわかれば日本仏教の特色と出会えるか、そこが如実に書いてある。

『日本仏教の礎』

≪07≫  たとえば、次のようなことです。インド発祥の仏教はシルクロードをへて中国で漢訳され、仏像も中国化や朝鮮化をおこして、それが蘇我馬子や聖徳太子の日本で受容されました。そのときすでに日本化がおこっていたと説明されてきたのですが(たとえば太子の仏教ニヒリズム)、さあ、はたしてそうなのかどうかということです。

≪08≫  このプロセスで重要なのは、中国化された仏教は北魏のような鮮卑拓跋民族群ともいうべきノンチャイニーズ(非漢民族)の部族王の受容力を媒介にしていたのだということです(杉山正明説)。半島でいえば高句麗の小獣林王、百済の枕流王やその子の阿莘王、新羅の法興王などが受容して、それが少し遅れて百済の聖明王から日本(倭国)の欽明天皇のような大王(おおきみ)に入ってきた。つまり、東アジアのメインストラクチャー(主要思潮)のエンジンによって仏教が日本に来たわけではないのです。

≪09≫  これは不満なことではありません。歴史にはよく見られる。別の例でいえば中国のお茶は煎茶の葉として日本にちらりと来ただけですが、それがまわりまわって珠光や紹鴎や利休のところで「侘茶」になった。これは決して不満ではない変化です。

≪010≫  そこでまずとりあえず言っておきたいのは、このようなことがわかるといろいろなことが新たに見えてくるということです。本書はこうした見方をわかりやすく提供してくれます。

『日本仏教の礎』 

≪011≫  またたとえば、日本では仏教受容に関する蘇我と物部による崇仏・排仏論争が有名ですが、ではなぜ崇仏派が勝ったのか、ヤマト朝廷はなぜこのことを重視したのか、いまひとつ納得のいく説明がなかったように思います。

≪012≫  本書では、欽明天皇が仏教を知った年は「正法五百年・像法千年説」の数え方をすると末法第1年に当たっていて、そのあとの敏達天皇がうっかり廃仏をしたところ災害や厄災がおきた。そこで仏教を大事にするようになったという解釈を採用します。

≪013≫  このことは「日本書紀」に書いてあることなんですが、問題はどうして欽明天皇このかた日本で崇仏派がメインストリームになったというふうに説明されてきたのか、その理由です。これはおそらくそういうストーリーをつくった書き手かグループがいたのではないか。本書では道慈(三論宗)があらまほしいシナリオを用意したのではないかと推理しています(井上薫説)。また聖徳太子をあれほどの仏法帰依者と仕立て上げたのは、藤原不比等、長屋王、道慈たちの企画に富んだグループワークによるものだろうというのです(大山誠一説)。道慈は道昭の弟子で、道昭のもう一人の弟子が行基でした。

≪014≫  これらのことは本書では第1章「仏教の伝来と流通」で吉田一彦がたいへんわかりやすく解説しています。もっと詳しくは『日本古代社会と仏教』『古代仏教をよみなおす』『仏教伝来の研究』(吉川弘文館)が雄弁です。

『日本仏教の礎』 

≪015≫  こういうように、日本仏教が日本に入ってきた入口のところを東アジアの事情や日本の事情に照らし合わせておかないと、氏族仏教の意味もそのあとの奈良仏教が南都六宗に広がったことも、ひいてはその後の日本仏教の流れも説明がつかないことが少なくありません。

≪016≫  奈良仏教は教科書で「白鳳天平文化」というふうに一括りに呼ばれてきて、日本人にはすこぶる人気が高く、その仏像も「フローズン・ミュージック」などと言われて共感を呼んできました。しかし奈良仏教というのは「如法仏教」です。経典・儀礼・教学を揃えてナンボの仏教です。その中身はすべて中国仏教の寄せ集めです。それでもその寄せ集めがばらばらにならなかったのは、大和朝廷や天皇をとりまく高官がこれを統括していたからです。

≪017≫  そこでかつては奈良仏教のことを鎮護国家のための「国家仏教」というふうに理解していました(井上光貞・田村圓澄)。お寺のほうもその管理体制から逸脱しないようにしていた。だからこそ、聖武天皇のときの大仏開眼のような国家プロジェクトも成功した。

≪018≫  そう考えられていたのですが、大仏開眼プロジェクトは行基(ぎょうき)のような図抜けてアクティブな僧の活躍がなければまとまらなかったということも知られていて、従来の研究ではその理由があまり説明できなかったのですね。また東大寺の初代別当になった良弁(ろうべん)はそれ以前は雑密(ぞうみつ)の修行僧でした。神秘的なことや呪術的なことをやっていた。そんな行基や良弁がどうして国家プロジェクトの中心を担ったのか、いちがいに説明がつきません。

≪019≫  ところが一方、景戒(きょうかい)の『日本霊異記』などを読むと、当時の仏教社会では必ずしも中央権力に迎合しないこともいろいろおこっていたことがわかります。『日本霊異記』は因果応報と霊異の話を集めた説話集のようなものなので、各地で変なことがおこったり、変な力によって因果と応報が出会っていることが見えてきます。それによると、行基はいろいろ「霊異」(りょうい)をおこせる神異僧だったらしく、だからこそ民衆の人気が高いカリスマ性をもっていたんだということになる。奈良仏教は画一的には語れないのです。

『日本仏教の礎』

≪020≫  最初の話のつづきになりますが、日本仏教の掴み方がむつかしい理由は、いくつもあります。ぼくがかつて帝塚山学院大学で教えていたときに320人ほどの学生に仏教イメージについて書かせたところ、お寺さんは聖地なのか、修行道場なのか、心の救済センターなのか、葬儀屋なのか、お坊さんは何をしているのか、お経には何が書いてあるのか、そのお経を法事や葬儀などで人前で読むのは何のためなのか、まったくわかっていませんでした。

≪021≫  そういうわかりにくさを抱えこんでいるお寺が、けっこう広い敷地に立派な堂塔伽藍を構えていること、多くの権力者や素封家が仏法に帰依し、施設を寄進してきたこと、それにしてはものすごく多くの宗派や本山が分かれていることなどもわかりにくいことに挙がっていました。

≪022≫  そこで多くの坊さんはたいてい「ブッダの心」や「釈尊の教え」を説明して深甚なる難問には答えないようにしているのですが、これがまたありきたりな話が多くて(たとえばNHK「こころの時間」ふうの説法)、学生たちもイライラするし、眠くもなる。とはいえもともと宗教というものは、どこか「受信装置」のようなところがあるので、そんなわかりにくいものに心を寄せたくなるわれわれのほうに大半の責任があるといえば、まあ、ハイそれまでよです。

≪023≫  ぼくはそういうお寺さんに、子供のころから「昆虫アイスキャンデーをどり」の親近感をもってきたのですから、これらのことは自分でちゃんちゃんと解決していかなければなりません。

『日本仏教の礎』 

≪024≫  ありていに言うと、日本仏教の一番わかりにくいところは、インドに生まれたブッダの教えが大乗仏教その他として広まり、それが東南アジアに向かうとともに、他方ではシルクロードをへて中国や朝鮮半島を通って日本に入って氏族仏教となってから、いったい何を骨格にして定着し、どこを革新的に変化させてきたのかということだろうと思います。

≪025≫  奈良貴族には鎮護国家の仏教として、平安貴族には西方極楽浄土に往くための念仏仏教として、そして武家社会では禅仏教として、農村社会では寺請仏教として機能してきたのは、どうしてなのかということでしょう。だいたい骨格はあるのか、どうか。

≪026≫  骨格ではごつごつしすぎるというなら、思考と行動の方針はどういうものなのか、もう少し現代ふうにいうなら仏教はどんな認知哲学をもっていて、日本仏教はそのインド・中国経由の認知哲学を日本人のライフスタイルや日本語の語法によって何にしているのかということでしょう。

≪027≫  けれどもこの骨格と変化の関係こそ掴みにくい。仏教の認知哲学あるいは認識哲学は歴史的にいえば、とっくにインドのものと中国化されたものとして、きわめて高度に組み立てられていました。ぼくの拙い比較によっても、仏教哲学は世界のさまざまな哲学潮流のなかでも(現代思想を加えてもなお)、かなりの一級品です。

≪028≫  とくにブッダの「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」の哲学、法華経の思想、維摩経の存在学、ナーガルジュナの「空」の思想、ヴァスバンドゥの倶舎論、浄土三部経のテキスト、法蔵(ほうぞう)や澄観(ちょうかん)の華厳思想、天台智顗(ちぎ)の仏教止観、不空の密教、宗密(しゅうみつ)の原人論などなどはとびきりです。

≪029≫  ただ、それはものすごくたくさんの議論と論議の中で右にも左にも検討されて、中国仏教では「一切経」というような厖大すぎるものになっていました。自在に仏教を語るということはどんどん困難になっていったのです。

≪030≫  そういう面があって、べらぼうな質と量の漢訳仏教を前に、日本仏教はその解釈や日本への適応に汲々とせざるをえなかったのだろうと思います。適応に苦慮したのです。そう言わざるをえません。しかしそうではありながら、そこから最澄や空海(750夜)の、法然(1239夜)や親鸞(397夜)の、道元(988夜)や日蓮(1805夜)や一遍の独特の言動が生まれていったのだから、あんなすばらしいことがおこったのはどうしてなのかということも説明したくなります。そこにはどんな「礎」(いしずえ)が活かされたのか、インド産なのか、中国産だったのか、そこが知りたくなる。実は中国産が使われたのです。ただ全面的にではなく、その一部が特定されて使われていったのです。

『日本仏教の礎』 

≪031≫  話を戻して、奈良の如法仏教というのは何だったのかというと、仏の教法に適(かな)うようにすること、また仏の法式に合っているようにすることを重視する仏教システムです。だから奈良仏教では大事なことのほぼすべてが、本家の中国仏教がどのような解決策を用いたのか、そこを点検することにディペンド(依存)します。

≪032≫  こういう仏教はまとめて「顕教」とみなされます。教えをオープンに顕(あらわ)れるものにするから顕教です。もともとは釈尊が教えをすべて明らかに説いたところから、この用語が使われるようになったのですが、その後は明示した教法と法式を守っているかどうかということが重視され、コンプライアンス型のものになっていったきらいがあります。

≪033≫  奈良末期、そんなことでいいのかという疑問をもった者が登場してくるのは当然でした。それが若き最澄や空海でした。なぜいちいち中国方式の点検をするのか。ほんとうに中国でもそんなふうになっているのか、確かめずにはいられない。それで実際に確かめたくて入唐し、すでに中国仏教が顕教から一部脱していることを知った。密教では釈尊ではなく、大日如来が真如(真理や真実)を伝えているというふうになっていたことも知った。

≪034≫  釈尊が説いた教えについては、ふつうなら歴史的なブッダが説いた教えというふうになるのですが、小乗仏教から大乗仏教が組み立てられ、それが広まるにつれ、釈尊には三身による教えがあると考えられるようになっていました。宇宙の真理や真如と一体となっている法身(ほっしん)があらわす教え、釈尊がもっている仏性をあらわす報身(ほうじん)がもたらす成仏の教え、この世において悟った姿としての応身(おうじん)が人々に見せる教えという。そういう法身・報身・応身の三身です。

≪035≫  たいへんややこしい見方をしたもので、とくに生身の釈尊が三身それぞれを発現あるいは発信しているというところが難解です。へたをすると、いろいろごっちゃになりかねない。実際にも、華厳教では法身が真如を説いたとして毘盧遮那仏の教えを重視して、浄土教では報身を重視して阿弥陀仏が浄土への往生のための真如をといたと考えました。密教はそうした三身ではなく、大日如来というまったく別のスーパーイコンを想定して、その大日如来がすべてを認識しているというふうにした。最澄や空海はそこに驚いたのです。

≪036≫  ともかくも密教は、こういう構想を如法仏教とは別のものとして持ち込んだ。第3章「最澄・空海の改革」(大久保良峻執筆)にこのことが述べられています。

≪037≫  そうなるとどうなるか。日本仏教は顕教と密教が対比対立したまま進んでいくということになりかねない。実際にもそういう可能性があったのですが、そうではなかったというのが、黒田俊雄(777夜)の研究以来の見方です。日本仏教は「顕密体制」として相互に補完しあってきた、そのように権勢の力(権門)が仕向けてきた、それは顕密あわせた「八宗兼学」のシステムとして機能した。中世仏教はそういうふうになっているという見方です。第4章「仏教の日本化」(上島亨執筆)でこのへんのことをまとめています。

『日本仏教の礎』

≪038≫  それでは顕密体制で万事が進んだかというと、それがそうでもない。その後の仏教を理解するには、もうひとつ考えておかなければならないことがあります。それは「神仏習合」のことです。

≪039≫  仏教は日本の地に育くまれていた意識との相性がよいらしく、中国仏教の方法とは異なる変化を比較的早くからおこしていました。日本にはもともと神祇(じんぎ)信仰が芽生えていて、そのルーツはアニミズムやシャーマニズムにつながるものなので、いつどこから神祇信仰が生まれ育ってきたかという説明はできませんが、いつしか「産土」(うぶすな)や「産霊」(むすび)や「憑坐」(よりまし)という考え方が確立してきていました。そこにアマテラス信仰や伊勢信仰やスサノオ信仰が重なってきた。

≪040≫  神祇信仰は明示的なイコンや教義をもつものではなかったので、外来する思想や信仰と結びつきやすく、外来の仏教的な信仰心情からしても神祇信仰とは結託しやすいところがありました。これが「神仏習合」の正体ですが、神宮寺や神前読経や護法善神(寺院の守護神として祀られる神)などについての事例研究によると、この動向は9世紀のころにはかなり進んでいたというほどの早期から、アマルガメーション(化合)をおこしています。

≪041≫  こうして中世日本では「神と仏」は「顕と密」以上に融合しあっていたのです。いずれもタテヨコナナメ、多様に絡んでいった。このことは一方で神祇信仰に仏教側からの強烈な刺激をもたらして「神道」をつくらせ(神道五部書など)、他方では「本地垂迹説」というまことに大胆でアクロバティックな考え方をもたらします。

≪042≫  本地垂迹説は、日本の八百万(やおよろず)の神々はもともとさまざまな仏たちが化身として日本にあらわれたのだとする説で、神は仏の化身として日本の地に権現したとみなしました。本地というのは本来の境地のこと、垂迹とはその本地が形をのこして各地に迹(あと)を垂れるということです。また権現の「権」とは「仮に」という意味ですから、仏は仮の姿をとって神々になっているということになる。

≪043≫  まったくもってとんでもない説で、でたらめに近いほど御都合主義の考え方ですが、これが大流行した。それだけではなく逆の「神本仏迹説」も出てきて、神々が主で仏たちが従っているという見方も流布していきます。では、こんな発想はとんでもないままなのかというと、ある時期から天台本覚思想とも習合して「神はそのまま仏である」というところまで突き進んでいくのです。

≪044≫  第5章「神仏習合の形成」(門屋温執筆)は、この厄介な様相と事情をたいへんダイナミックに解きほぐしています。千夜千冊では、ぼくはぼくなりに伊藤聡の『神道とは何か』(中公新書、1581夜)を通して解きほぐしておきました。

『日本仏教の礎』 

≪045≫  以上のように、本書の議論の中からほんの少しポイントを取り出しただけでも、日本仏教の説明は一筋縄ではいきません。しかも本書は院政期までの事情を扱っているだけで、このあといわゆる「鎌倉新仏教」が登場して、本シリーズも第12巻「躍動する中世仏教」に移っていくわけで、ここからこそ日本仏教は多様多彩なものとなっていくのですから、そうなると法然と明恵(1804夜)と日蓮とは、道元と応燈関と五山僧とは、覚鑁(かくばん)と忍性(にんしょう)とは、とうてい同列のままで語ることはむつかしくなって、もっといろいろな説明をオンパレードさせなければならなくなっていくのです。

≪046≫  むろんそれでわかりにくくなるとはかぎりませんが、がばっと掴むのはかなりむつかしくなるでしょう。たとえば明恵と日蓮はそれぞれの立場から法然の念仏思想を全否定したのです。これらを並び立たせるうまい解説の手立てはありません。

≪047≫  では、どうするといいのか。「みんな仏教なんだから」などとは言ってはいけません。並列をしつづけるのもモンダイです。オッカムの剃刀を使えばどうか。日本仏教はすでに細(こま)切れになっているのだから、さらにミンチ状態になるだけでしょう。やっぱり齢(よわい)を重ねるまで待てばよかったかというと、その齢はもうリミットに来ているので、こんな暢気なことを言っていてはいけないのです。

『日本仏教の礎』 

≪048≫  というわけで、話は最初に戻ることになります。ぼくはどうしてお寺が好きなのかということです。

≪049≫  それでは、このところ考えていることを紹介して、今夜の千夜千冊を閉めたいと思います。それは、日本仏教を「文化」あるいは「日本という方法」として徹底的に組み上げなおして語っていくということです。中国茶が侘茶になる話をしましたが、そういう文化として日本仏教をもっと語り切っていくのがいいのではないか。ぼくはだんだんこちらに向かってきたのです。たとえば水墨画は雪舟のような東福寺の画僧が腕を磨いて独自の水墨山水に達していったわけですが、日本仏教にはそういう可能性がいくらでもあったのです。等伯や光悦は法華衆として陶芸や画業のアートを磨きあげたのです。

≪050≫  いやいや、絵画や陶芸ばかりが文化だというのではありません。日本語の読経の仕方、僧堂の建築の工夫、五山版のようなメディエーションも仏教文化です。空海の世界観の編集力、最澄の法華一乘、明恵の夢綴り、忍性の社会事業、一休(927夜)や白隠の生き方、契沖の解読力、宣長の国学仏教、慈雲飲光の雲伝神道、日本仏教を語る文化はそうとうにあります。ぼくは日本を語るのに仏教を下敷きにしてはきたのにもかかわらず、仏教を「日本という方法」で語りきるということはしてこなかったのはミスったなと自戒しているのです。

≪051≫  どうしてこれをしてこなかったかというと、ひとつは日本仏教が「昆虫アイスキャンデーをどり」だったからですが、もうひとつは仏教全般を「文明」というふうに捉えすぎていたからだろうと思います。しかし仏教を文明と見て「仏教文明」を語るのは、ぼくには向いていそうもありません。それは、然かるべき方々に任せたい。それよりも「文化」「方法」「日本」としての「仏教文化」にやはり関心があるのですから、残る日々にはできるかぎり日本仏教を「文化」や「アルス」として語っていきたいと思っているのです。あまり時間はありませんが、もう少し組みなおして考えてみます。

『日本仏教の礎』

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『近代仏教スタディーズ』①

≪01≫  よくぞこういう“近仏”本が仕上がった。狙い、構成、執筆陣、編集、似顔絵、コラム、写真・図版、参考文献、施設案内、年表。だいたい揃っている。憶えば、吉田久一の『日本近代仏教史研究』(吉川弘文館)や『講座近代仏教』全六巻(法蔵館)から半世紀以上をへて、ここに至ったのである。愉快な成果だ。念のためいえば、立派な成果は「新アジア仏教史」第14巻の『近代国家と仏教』(佼成会出版)に感じた。

≪02≫  体裁は日本近仏ガイドブックふう、ないしは日本近仏カルチュラル・スタディーズふうに見えるだろうが、たんに便利なトリセツではない。たしかに誰が手にとっても読みやすくはあるが、存分な研究陣による彫琢を活かしたうえでの満を持してのプレゼンテーションだった。

≪03≫  編集稼業をしてきた者から見るとすぐわかるけれど、構成執筆も編集作業も苦労が並大抵ではなかったはずだ。「あとがき」によると大谷栄一と吉永進一が仕掛け人で、近藤俊太郎がこれに加わってから充実加速したという。母体は1992年設立の日本近代仏教史研究会で、本書の執筆陣もこのメンバーが中心になった。“近仏”研究の母体だ。学識者たちの成果というと、ついつい理論的成果を云々したくなるかもしれないが、日本仏教の将来にとってはスタンドアローンな研究者の屹立もさることながら、ぼくはむしろ多様性と複雑性の時代にふさわしいグループワークの横議横行こそがほしいと思っていたので、こういう成果のほうが嬉しい。

≪04≫  近仏、すなわち近代に突入した日本仏教がとりくんだ問題はそうとう多岐にわたる。そこでそれを、国家と宗教の問題、仏教者の苦悩と深化と冒険、伝統性や宗派性との案配、識者たちの記述力、結社の動向、メディア化の試み、ユニークな人物像、著作物の内容、海外雄飛の仕方、大学での取り組み、キリスト教との関係、その他あれこれを加味して、かつエンサイクロペディックでフーズ・フー的な項目を並べたのである。

≪05≫  だからこの本はうまくは紹介できない。何かしようとすれば、全項目におよぶ。だからできない。けれどもそれでは千夜千冊にはならないので、今夜は大きなメルクマールがどういうふうになっているかということだけを、粗々(あらあら)ながらスコープとして浮き彫りすることにした。本書によって、新たにわれわれが問うべきこと、また問われるべきことは、次のようなことだったろうと思われる。

『近代仏教スタディーズ』②

≪06≫  第1には、維新の文明開化によって欧米列強世界にじかに接することになった近代日本で、仏教が「世界宗教」あるいは「宗教学」という枠組に晒されて、さて何を考えられたのか、何をおこせたのかということだ。

≪07≫  これを見るということは、さしずめ進化論が入ってきたけれど丘浅次郎はどうしたのか、二葉亭四迷(206夜)は通信技師とロシア文学と自分の創作をどのように並立させたのか、明治には近代数学も入ってきたけれど高木貞治はヒルベルトに出会ってどんな世界数学を理解したのか、物理学の深遠を知った寺田寅彦(660夜)はどうして物理と俳諧をつなげる気になったのか、などということとまったく同様に、日本が近代世界の一員になっていったとき、仏教者たちは世界の目をどう受けとめたのか、それによって仏教者のアタマの中に何が去来したのか、そこを見るということになる。

≪08≫  けれどもインドに発した諸行無常・諸法無我の仏教は理性や理知を超えて仕上がって、それがアショーカ王以降は大乗仏教化がおこり、そこに中国の漢訳仏教が加わり、それが日本化して「本覚」に及び、また「念仏」に及んで変奏されてきたのだから、その日本仏教のアタマの中なんて、もともと覗きにくいものだし、そこへロジカルで進歩史観に富んだ西洋知がやってきたからといって、何がどこで接合されるのか、それとも取捨選択されるのか、その「変容」はすぐには観察できない。

≪09≫  そこで、こうなった。当時においては福沢諭吉(412夜)や明六社が真っ先に西洋哲学や西洋文明の解釈と導入にとりくんだように、仏教界もまずは知識人が登場してこの対応に臨んだのである。ということは日本の近代仏教はまず「知識化」されたということになる。仏教者たちのアタマの中は「知識の組み立て」の近仏工場になっていったのである。

≪010≫  それに与(あず)かったのが、南条文雄、高楠順次郎、島地黙雷、村上専精、原坦山、井上円了たちとその門下の動向、前田慧雲、常盤大定(ときわだいじよう)、木村泰賢たちだ。いずれも勇敢な学識を発揮し、揺籃期の日本アカデミズムの一角に食い込んだ。急造のアカデミーへの人材登用にあたっての村上・原らの配慮も大きかった。

≪011≫  しかしこれらはあくまでも「知識化」であって、西洋知を受容してアタマを近代に立て直したということではなかった。インド仏教から八宗兼学までまずは並べなおしたにすぎないともいえたし、なによりそういう「知識」をどうするかは仏教者の心身がどうなるかということにかかっていた。

『近代仏教スタディーズ』③

≪012≫  第2に、神仏分離や廃仏毀釈の衝撃をどういうふうに受けたのか、もろに傷ついたのか、それなりに衝撃を避けたのか、ずうっと曖昧に対処したのか、その対応によって近仏を見ていくということである。高楠順次郎は明治5年までに仏教に「形式破壊」がおこり、それ以降は「内容破壊」が連続的におこったと見た。そうとうな打撃だったのである。

≪013≫  それで何が始まったかというと、保守化と革新化の両方が始まった。保守は伝統仏教の中にいて、徳川社会の延長で村の安寧や檀家の日常的信仰をサポートしていた。そこへ衝撃波がやってきた。伝統派は失望し、寺の維持に困惑し、切歯扼腕はしたものの、打開策を打てなかった。

≪014≫  革新派はどうか。クーデターや革命思想を仏教にとりこんだわけではない。真宗大谷派の清沢満之(1025夜)や暁烏敏(あけがらすはや)や曾我量深(そがりようじん)の「浩々洞」グループに象徴されるように、また、その浩々洞に場所を貸した近角常観の求道活動のように、かれらの身を呈した新しい風のための活動は、仏教が保持してきた東洋あるいは日本で育まれた「精神性」に心を向けることだった。

≪015≫  それでも暴れたいと思った連中は保守にも革新にも少しはいた。本書から拾えば、中西牛郎の「システマチック・ブッヂーズム」のような汎仏教主義、山崎弁栄の光明主義運動、田中智学に始まる日蓮主義運動、椎尾弁匡(しいおべんきょう)の共生(ともいき)運動などなどが、ときどき数発の打ち上げ花火のように夜空を焦がした。これらは保守と革新が表裏一体になっているような、独創的ではあるが、欧米思想と合体するものでもなく、刺し違えるものでもなかった。ひとり近仏日蓮主義がしだいに変質して、仏法をしまいこんだ王法と軍法をつなげていって、昭和のテロリズムに偏重したけれど、それを仏教と呼べるかどうか。

≪016≫  それにしても、近仏はなぜそうなったのか。思うに仏教界には、不平分子を受け入れる西郷隆盛(1167夜)がいなかったのである。また仲間どうしが激突する西南戦争がなかったのである。多くの切歯扼腕はあらかた心の奥にしまいこまれていったのだ。

『近代仏教スタディーズ』

≪017≫  第3には、明治政府は維新とともに神仏分離や国家神道や大教院を用意して、それとともにキリスト教を解禁したわけだけれど、それで仏教界は東西のブリッジをどんなふうにつなげたのか、あるいは橋の架橋に寄与したのかどうかということだ。

≪018≫  これについては、南条文雄・笠原研寿・高楠順次郎のオックスフォード大学への留学をはじめ、数々の渡欧や欧米遊学が続いたけれど、橋渡しに貢献したのは当初はヘンリー・オルコットやポール・ケーラスやアナガーリカ・ダルマパーラらのガイジンたち、次は海外布教に向かった仏教者たち、およびその後の移民の一群たちだったのではなかったかと思う

≪019≫  オルコットは神秘主義者ブラヴァツキーを佑けて神智学協会を設立したプロデューサー型の宗教活動者で、世界各地を訪れてその広宣と国々の主要信仰との接合に努めた。明治22年に来日して、かなり多くの仏教者と交流した。ケーラスは『仏陀の福音』を著して仏教が科学と矛盾しないことを説いた。ダルマパーラはセイロン(スリランカ)の非僧非俗のテラワーダ仏教の伝道者で、来日後の講演は全国33都市、76回を数え、延べ20万人を動員した。

≪020≫  この3人に匹敵する日本人は見当たらない。あえていえば鈴木大拙(887夜)くらいだろうか。大拙は日米での講演活動もさることながら、禅と日本仏教の紹介のための英文執筆も多い。ケーラスの『仏陀の福音』を訳したのは大拙だったし、夫人のベアトリス・レインは神智学協会の会員だった。

≪021≫  海外布教については、本書が集約してまとめてくれている。なかで真宗本願寺派のウラジオストック・樺太・台湾・朝鮮・満州・中国・南洋への布教が特筆される。少し後のことになるが、大谷光瑞(こうずい)の西域探検、黄檗宗の河口慧海(えかい)の未曾有チベット遊学、ラサでの青木文教(ぶんきょう)や多田等観(とうかん)の活動、ユーラシアを横断調査して築地本願寺などを仕上げた伊東忠太(730夜)の建築デザインの功績、のちの藤井日達の日本山妙法寺の活動などが見逃せない。

≪022≫  しかし、東西のブリッジをどうつくるかという問題は、仏教界だけが無聊をかこったわけではない。岡倉天心(75夜)や川上音二郎のような僅かな例外をのぞいて、日本人は「内」に籠もったのだ。英語が堪能な漱石(583夜)や内村(250夜)ですら「内観」を選んだ。むしろ、その漱石や内村を論じるような近代仏教論が、いまは足りないのではあるまいか。

『近代仏教スタディーズ』

≪023≫  第4に、近代仏教は国際舞台の中に身を躍らせたことによって、その渦中で何を変化させていったのかというスコープが問われよう。

≪024≫  総じるに、グローバル化に寄与した活動はそれなりに目立った。たとえば明治26年(1893)9月にシカゴで万国宗教会議が開かれて、延べ15万人が集まり、そこに臨済宗の釈宗演、真言宗の土宜法龍(どきほうりゅう)、天台宗の蘆津実全(あしづじつぜん)、真宗本願寺派の八淵蟠龍(やつぶちばんりゅう)、アメリカ在住の平井金三らが日本代表として参加した。初めて日本仏教の面目が躍如する絶好の機会となった。そうではあったわけだけれど、これらはグローバルの宗教舞台に臨席したというだけで、評判がよかった講演をした釈宗演のアシスタントとなった大拙がそのときのアクチュアリティをのちのちフルに仏教解説に活用したという程度であって、とくに何かの主題を提出できたわけではない。

≪025≫  また、日本人による翻訳著作物が評判をとったこともなかった。清沢満之の論文「宗教哲学骸骨」はシカゴの大会で英文配布されたけれど、一部で注目されただけだった。清沢も海外からの評判に迎合しようとはしなかった。

≪026≫  では、日本近代仏教は何を世界に放ったのかというと、残念ながら放つというより、防衛にまわったという印象が強い。ただし念のため言っておくが、これはオリンピック競技で日本選手がどれほど通用したかとか、日米野球でどのくらい日米選手が活躍できたかという問題とは一緒にならない。野茂やイチローや大谷がいなかったという話ではない。

≪027≫  日本と諸外国では別のゲームをしていたのである。そのゲームの特色をこそ誇ったほうがいいように思われる。たとえば、相撲や柔道のように。けれども、近代仏教者たちは自分たちがどんなゲームをしているのか、あまり説明しようとはしなかった。

『近代仏教スタディーズ』

≪028≫  第5に、近代仏教は原始仏教以降の仏教思想の中の「何」を中心課題としてあらためて採り上げたのかということである。その「何」によって。その後の方向や近代仏教をめぐる議論の方向が決まっていった傾向があった。クローズアップされたのは「大乗非仏論」や「一乗平等主義」や「聖徳太子の重視」や「仏教救済論」あたりだ。

≪029≫  なかでも姉崎正治(あねさきまさはる)の『根本仏教』、村上専修の『仏教統一論』、前田慧雲の『大乗仏教史論』などによって、主として大乗非仏論に注目が集まったのがクローズアップされるのだが、ぼくには近現代仏教はいささか大乗非仏論にとらわれすぎていったように思われる。富永仲基(1806夜)のせいか、それとも別の理由があるのかどうかはわからないのだが、なんだかアリバイ証言をやらされてしまったようにも感じる。

≪030≫  本書を海図に、新アジア仏教史の『近代国家と仏教』(佼成出版会)、末木文美士(1802夜)の『思想としての近代仏教』(中公選書)、オリオン・クラウタウの『近代日本思想学としての仏教史学』(法蔵館)などをひっくりかえしていたときに、大乗非仏論にひっかかる必要などなかったはずだと気がついた。もっと多様な変遷を波乗りしてきたのに、なぜか大乗非仏に立ち止まるのはおかしかったのである。これは井筒俊彦(1773夜)の大乗起信論重視にもあてはまる。井筒の知をもってすれば、あそこにとどまる必要はなかったはずなのだ。

≪031≫  では、どうしてそうなってきたのか。日本の思想史が「表象論」をひっこませてしまい、信仰がアートやアルスに投影して「変容」をおこしてきたことを語らなすぎるようになったからではないか。そんな気がする。日本は仮名や修験道や七福神をつくった国なのだ。ヒルコを恵比須像に変え、密教にとりこまれたシヴァ神マハーカーラを大黒さんにしてきた国なのである。べつだん民衆の知恵から考えなおしてほしいとは言わないが、知識人の「知」はかなり前からぎちぎちなのである。

『近代仏教スタディーズ』

≪032≫  第6には、このことがやっぱり欠かせない。近代仏教はどうして日本主義化していったのかということだ。なかでも日蓮主義が台頭したのはどうしてかということだ。

≪033≫  この問題は本書の企画構成者である大谷栄一によって『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館)、『日蓮主義とはなんだったのか』(講談社)などを通してかなり詳細に検討されてきたので、加えることはあまりないように思われるのだが、そのうえであらためて考えるべきは、このような傾向は日本仏教がいつの日にか仏教ナショナリズムに陥っていたということなのか、それとも日本仏教には仏教皇国主義に走っていく要素が歴史的にどこかにあったのかという議論につながっていく。

≪034≫  法華経にそのような要素があるのかといえば、そんなことはない。インドでもシルクロードでも中国でも新羅仏教でも、そのような「読み」が膨れていったことはない。では日蓮にそういう要素があったかといえば、「王仏冥合」の可能性を重視していたという面ではその傾向が芽生えていた。芽生えてはいたが、日蓮やその後の日蓮宗や新興仏教系宗団に王仏冥合思想が際立ったことは少なく、ましてそのことが皇国主義につながるわけではなかった。

≪035≫  これはむしろ明治維新が王政復古を称揚し、国家神道を中心においたことによる反映だろうと想定される。明治イデオロギーが田中智学という格別な知性に法華経と日蓮をそのように読み込ませたのだろうと想定されるのである。

≪036≫  ただしそうだとしても、日蓮主義が過激なナショナリズムや国家主義につながる最も大きなエンジンになったとは言いきれない。なぜなら日本主義化の動向を形成していたのは、(一)田中智学・山川智応・里見岸雄らの国柱会型の日蓮主義運動、(二)三宅雪嶺らの政教社の言論活動、(三)井上円了、曽我量深(そがりょうじん)、紀平正美(きひらただよし)がそれぞれ説いた日本主義、(四)機関誌「日本主義」を刊行した大日本協会の言説、(五)日清・日露戦争に便乗した日本主義、(六)頭山満(896夜)の玄洋社経由の「やらずぶったぎり」な日本主義、その後の(七)北一輝や武田範之らの改造日本主義などなど、それなりに多様であったからだ。これについては大谷の著書のほかにも、石井公成監修の『近代の仏教思想と日本主義』(法蔵館)などが興味深い視点を提供しているので、本書であらかたのマッピングをもらったうえで、とりくんでみるといい。

≪037≫  ついでに一言。ぼくとしては幕末の「勤王僧」がどんなふうに近代日本主義にかかわったかも気になる。清水寺の月照、妙円寺で西本願寺派の月性、吉田松陰(553夜)に討幕を促した宇都宮黙霖、また「護国仏教」を主唱した伊予大隆寺の韜谷(とうこく)、京都興正寺の摂信(せっしん)、相国寺の荻野独園、回向院の福田行誡(ぎょうかい)たちである。

『近代仏教スタディーズ』

≪038≫  第7に、本書も重視しているメディアの動向から近代仏教を見るということだ。この役割はそうとうに大きい。明六雑誌がはたした役割は仏教界でもおこったのである。西本願寺普通教校生の「反省会雑誌」(のち「反省雑誌」)、仏教清徒同志会(のち新仏教徒同志会)の「新仏教」、これらを古河老川が統合した「仏教」、浩々洞の機関紙「精神界」、いずれも時代を画した。版元の努力も見逃せない。もし鴻盟社(こうめいしゃ)や哲学書院や法蔵館や文昌堂や平楽寺書店がなかったら、近仏のテキストはまったく読むことさえ叶わなかったのである。

≪039≫  本書では僧侶が民衆に教えを伝えた節談説教に注目し、時の自由民権運動、落語・講釈・女浄瑠璃・浪花節などともにその話術が磨かれていたこと、また時代の変遷に応じて改良説教が試みられたことを紹介している。これはのちにラジオの発達とともにラジオ説教にも転じていった。高嶋米峰の日本初のラジオ説教は「日本文化の淵源」というものだった。ほかにも加藤咄堂(とつどう)、友松円諦(ともまつえんたい)、高神覚昇(たかがみかくしょう)がはりきった。

≪040≫  仏教活動ではニュースを知らせることも大きい。いまでも刊行されている「中外日報」は明治30年に真渓涙骨が「教学報知」として創刊したもので、半年後に隔日刊、4年後には日刊になった。ぼくもいっとき購読していた。

≪041≫  宗教はコミュニケーションであって、メディエーションなのである。そこには仏典やお経などのテキスト、パンフレット、公示広告、講演録づくりとともに、法会や法事への民衆参加の工夫も含まれる。護符やお守りや最近流行の御朱印もメディアなのだ。ただ、これは近代仏教にかぎらず今日にいたる仏教活動全般にいえることなのだが、そういうメディアやツールがほとんど工夫されてこなかった。ぼくはかつて築地本願寺の輪番からインターネット上の仏教ポータルの計画を相談されたことがあったのだが、その若いチームのメンバーからは、「これが別の宗派の相乗りになることは、とうてい不可能なんです」という説明を受けたものだった。

≪042≫  一方、一般メディアのほうは仏教を扱うとなると、急に慎重になった。忖度しすぎてきた。政教分離ルールのせいだけとは思えない。これがつまらない。今日の雑誌やテレビやSNSでどのように仏教を扱うのか、このことには仏教界からの提案もかかわりも必要だろう。

『近代仏教スタディーズ』

≪043≫  だいたいこんなところが『近仏スタディーズ』が投げかけている問いであるように思った。何かの参考になっただろうか。

≪044≫  さてぼくは、長らく日本人の多くが仏教にも日本仏教にも熱い関心をもたないこと、あるいはもちにくい情況の中にいつづけていることに疑問と失望と憤懣を抱いてきた。なぜそうなっているのか、その理由がいっかな説明つかないことに苛立ちも焦りもあった。

≪045≫  仮に日本仏教の歴史と内実が薄っぺらなものだったとするのなら、そうなるのも致し方ないのだが、実際はまったく逆で、日本仏教にはまことに真摯でかつソフィスティケートな潮流と思想と個性が躍如してきたのである。しかもその結実の結節点の質と量はそうとうに多くて、深い。つまり、おもしろい。コードとモードの組み合わせの種類はコンピュータ・ソフトのように多彩で、その言説と意匠の展開の仕方は料理メニューのごとくにたいへんヴァラエティに富んでいる。端正なものから逸脱まで、包括的なものから戦闘的なものまで、理知的なものから幻想に飛んだものまで、だいたい揃っている。それもかなり粒よりだ。

≪046≫  それなのに、日本仏教の潮流と思想と個性を、戦後の日本人はおもしろがれないままになってきた。著作物が刊行されていないわけではないし、それなりの研究もあるし、通史もある。史跡や寺院も辿れるようになっている。その佇まいはとても心が落ち着くものだ。それにもかかわらず、まるで何かが閊(つか)えているように、日本仏教に対するエールが聞こえてこない。なぜなのだろうか。

≪047≫  エールがなかったわけではない。体験的な仏教感覚はしばしばすばらしい文章やアプローチによって語られてきた。たとえば白洲正子(893夜)の『十一面観音巡礼』(新潮社→講談社文芸文庫)である。近江の寺々の十一面観音を訪れて去来する思いと推理と風土感覚を綴って卓越していた。また、いとうせいこうとみうらじゅん(198夜)の『見仏記』(中公文庫)である。各地の仏像を2人が訪れては勝手な妄想と空想を交わし合うというスタイルで何冊も続いたシリーズになったのだが、仏教がもたらした感覚のほぼすべてをあまり「仏教知」をつかわずに醸し出していた。

≪048≫  2つの例ともに巡礼記によるエールのようなのだが、ここに21世紀の日本仏教が心に滲みていくためのソフト・アプリのようなものがあるのだろうと思う。これらは和辻哲郎(835夜)や亀井勝一郎の古都めぐりや仏像めぐりとは、何かが大きくちがっている。どちらかというと會津八一(743夜)の感想とその表し方に近い。

≪049≫  八一はこういう歌を詠んだ。「くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」。これは漢字を交えれば「観音の白き額に瓔珞の影うごかして風わたる見ゆ」になるのだけれど、八一はそうはしないようにした。「くわんおん の しろき ひたひ に」と平仮名を並べることによって目が動き、このアーティキュレーションで仏像も仏法も、また八一の心も動いたのである。

≪050≫  こういう仏教感覚がいまこそ表象されていくのがいいのではないか。日本仏教をおもしろがれるには、新たな表現スタイルが必要なのではないか。最近、近江に行くたびにそのことを思っている。

『近代仏教スタディーズ』

『近代仏教スタディーズ』

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『萌えの研究』①

≪01≫  著者の大泉実成は、一九八九年に『説得―エホバの証人と輸血拒否事件』(現代書館→草思社文庫)で講談社ノンフィクション賞をうけた。本格派の呼び声が高いノンフィクションライターである。

≪02≫  一九八五年に川崎で「大ちゃん事件」がおきた。自転車に乗っていた十歳の大ちゃんがダンプカーに轢かれ、聖マリアンナ医科大学病院に救急搬送されたのだが輸血できず、出血多量で死亡してしまったという痛ましい事件だ。輸血ができなかったのは両親が「エホバの証人」の熱心な信者だったからで、断固として輸血を拒否したためだった。当時、大学生だった大泉は潜入ルポを試み、体当たり的なノンフィクションにした。

≪03≫  大泉がこの事件に関心をもったのは、母親が「エホバの証人」に入信していて、子供時代にその信仰コミュニティのあれこれが突き刺さっていたからである。母親だけでなく、大泉の祖母も劇的な宿命を背負っていたようだ。満州から引き揚げる途中で夫を殺され、ロシア兵には身ぐるみ剥がされて、小さな息子は列車の中で亡くなったため路傍に埋めた。三人いた子供の一人を養子に出さなければ日本に帰ってこられなかったほどだったようだ。生き残った長女が大泉のお母さんだった。

≪04≫  母親が「エホバの証人」に通っていたことは、大泉に「暴力のない絶対平和」や「永遠の命」というアナザーワールドに対する複雑な刷り込みをもたらした。おばあちゃん子であった大泉は、そういう「永遠の世界」の誘いから離れるのにずいぶん苦闘したという。

≪05≫  そのせいかどうかはぼくにはわからないが、大泉はノンフィクションライターになってからも、この「永遠の世界」と紙一重になっているかのようなテーマに次々にとりくんだ。『麻原彰晃を信じる人びと』(洋泉社)、『人格障害をめぐる冒険』(草思社)、『消えたマンガ家』(太田出版)などだ。

≪06≫  その大泉が「萌え」の探索に向かったのである。講談社の担当編集者・浅川継人の仕掛けだったようだが、大泉はおよそサブカルにもオタクにも萌えにも縁がない日々をおくってきたらしい。唯一「綾波萌え」(《新世紀エヴァンゲリオン》の綾波レイに対するフリーク)だった時期があったと告白しているが、その時期の体験は「自分は綾波に壊れている」という感覚にいたようだ。

≪07≫  編集者の浅川のほうも、いっさいの萌え体験のない男だったらしい。オタクにも関心がない。こんな二人だったのに、それでも本書が成立したのだから、ノンフィクションとは恐ろしい。

『萌えの研究』

≪08≫  「なぜ萌えは二次元キャラに恋ができるのか」。この謎解きを宿題に掲げて浅川と大泉は萌えを探求することにした。二人がとった戦略はひたすら取材とインタヴューをするということ、それだけである。

≪09≫  このやりかたは必ずしも無謀ではない。エディターシップとは「既知にこだわらず、無知を恐れず、平気で未知に向かっていく」ということに発するのだから、多少の事前調査とヒアリングとインタヴューをすればなんとかなるという方針は、それで大いに上等なのである。ただし取材先の選び方にセンスが出るし、もちろんその纏め方の腕は問われる。浅川の取材先の選択の仕方、その後の大泉の纏め方は、本書を見るかぎりなかなかだった。

≪010≫  エディターシップの発揮でもうひとつ大事なのは、その分野やその相手についての勝手なイメージや解釈を取材や表現の編集過程でどのように崩していけるかということにある。大泉のばあい、二次元キャラに恋をすることを、カール・ユングのアニマ論で説明できるのではないかと勝手に思っていたようだ。

≪011≫  アニマというのは夢にあらわれる女性のことで、人間というもの、たいてい無意識のうちにそうした女性的なもの(アニマ的なもの)と夢の中などで出会い、戯れている。ユングはそのアニマ(男のばあいはアニムス)があるからこそ、やがて実際の人間形成力を補ってその当人を成長させるというふうに見た。だとしたらマンガやアニメのキャラはそれにはうってつけだろう。アニメとはまさに「アニマ・メーション」なのだから。

≪012≫  ところが萌えたちはそういうキャラにアニマを感じていながらも、実際の社会的人間としてはどこか成長を拒んでしまっているようなところがある。これではユング仮説はあてはまらない。

≪013≫  そこで大泉はジャック・ラカンに頼ることにした。以前、新宮一成の『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)を読んだのでそれを足がかりにしてみようと思ったらしいのだが、ラカン心理学ではそもそも「そこに女がいる」と思うこと自体が強迫神経症のあらわれで、そうだとすると恋愛のプロセスがなにもかも神経症になってしまって、全員が萌えだということになる。

≪014≫  こんな解釈では広すぎる。斎藤環がラカン理論でオタクを分析していたことを思い出して、あらためて斎藤の『文脈病』(青土社)や『解離のポップ・スキル』や『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)などを読んでみた。『戦闘美少女の精神分析』(太田出版→ちくま文庫)に綾波レイのことが書いてあった。

≪015≫  「彼女の空虚さは、おそらく戦う少女すべてに共通する空虚さの象徴ではないか。存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如……。彼女はその空虚さゆえに、虚構世界を永遠の住処とすることができる」とある。うっ、なんだ、これは。斎藤は「きわめて空虚な位置に置かれることによって、まさに理想的なファルスの機能を獲得し、物語を作動させることができるのだ」というのだ。

≪016≫  しかしこれまた、綾波レイが無根拠だというのではなく、斎藤は《新世紀エヴァンゲリオン》の作者(庵野秀明)の内面やファンの内面の動機を問うているにすぎないように思える。ここからも萌えを導き出すことはできそうにもない。

『萌えの研究』

≪017≫  どうやらユングやラカンでは萌えはわからない。途方にくれて「はてなダイアリー」を開いてみると、萌えキャラについて、こうあった。

≪018≫  「コンテンツ上のキャラクターへの抽象的愛情表現。またはそれらのもつ外見または行動上の特徴への偏愛」。また「主に幼女や美少女などといった、かわいらしいもの、いじらしいものを目にしたとき、心で判断するよりも早く、脊髄反射のような感覚でおこる、非常に原始的な感覚。魅了され、激しく心が動くこと」とある。例としてメガネっ娘、バニーガール、ネコ耳などが示されている。

≪019≫  な、なんだ、なんだ、萌えは「脊髄反射のような感覚」や「非常に原始的な感覚」なんじゃないか。ずいぶんストレートじゃないか。これではユングもラカンもお手上げなのは当然だ。しかし大泉はこの定義のほうがいいだろうと思う。

≪020≫  こうしてたいして役立たなかった事前のお勉強をおえた大泉と浅川は、まずは勇躍三十年の歴史をもつコミケ(コミック・マーケット)を取材することにした。コミケは大泉が『消えたマンガ家』を書くときに毎回通った大雑踏だったから、少しは勘もヨミもあるはずだった。

『萌えの研究』

≪021≫  二〇〇四年のコミケに駆けつけた。今野緒雪の『マリみて』(マリア様がみてる)を軸に予算のゆるすかぎりの同人誌を買ってみた。エロが少ないのに驚いた。もはや性行為はおヨビではないらしい。

≪022≫  コミケ全体では「Fate」や「げんしけん」などが盛りまくっていた。人気ゲームの「Fate」は或る町に集結した七組のマスターとサーヴァントたちが願いを叶える聖杯をめぐって争うという物語で、「げんしけん」とは物語の舞台となる大学のサークル「現代視覚文化研究会」(現視研)のこと、そこに巣くうオタクたちの日々が描かれるマンガである(アニメ化もされた)。しかし、これらからも萌えの本質は抜き出しがたい。

≪023≫  とりあえずコミケで知り合った二十歳ほど(一九八四年生まれ)のオタクに取材してみると、アニメからこの道に入ったのだと言う。小室ファミリー、コギャル、ルーズソックスなどの流行が嫌いで、現実の女性が髪を染めているのを見るのも避けるようになり、しだいにアニメ世界に耽溺していったらしい。

≪024≫  この脊髄反射はわかる。彼の説明では、女性の「かわいい」にあたるのが、ぼくたちの「萌え」じゃないですかということだった。だからこの青年は萌えとエロとをゼッタイに切り離したいと断言した。

『萌えの研究』

≪025≫  ついでラノベ(ライトノベル)に深入り調査することにした。日経BP社の『ライトノベル完全読本』を見ると、二期連続で『マリみて』がランキング一位になっていた。大泉は全巻を読んでみたが、何がおもしろいのかどうしてもわからない。お嬢さま学校で上級生と下級生が「百合している」(女どうしの色恋沙汰)のだけれど、それがどうして萌えになるのかが合点できない。

≪026≫  これはやっぱり古典ラノベに戻ったほうがいいと思って、水野良の『ロードス島戦記』(角川スニーカー文庫)に挑んだ。全七巻だが、一気に通読してみると、過不足のないファンタジーとして好感がもてた。ついでに同じ水野の『魔法戦士リウイ』(富士見ファンタジア文庫)、『漂流伝説 クリスタニア』(メディアワークス・電撃文庫)も読んだが、けっこうゆるぎないものがある。作り方に自信をもっているようだ。

≪027≫  調べてみると、水野はアイディアのプロットをいったんRPGのシナリオにして、それをグループSNE(安田均を中心としたゲームデザイナー集団)の仲間とプレイをしてみて、その反応をいかしてラノベに仕上げていくという手法をとっていた。しかし、これは萌えというよりSFの一種だし、最近のラノベがそんなふうに書かれているわけではあるまい。大泉がそのへんに疑問をもっていたら、浅川が奈須きのこの『空の境界』(講談社ノベルス)を薦めた。

≪028≫  両儀式という名の女子高生がヒロインで、和服を着たまま通学をして冬にはその上に赤いレザーのブルゾンを羽織る。そんな時代錯誤な恰好なのだが、性格は読みにくく、まったく人を寄せ付けない。

≪029≫  物語は或るビルからの飛び降り自殺がふえているなか、主人公の黒桐幹也が両儀と出会い、その魅力に引き付けられるのだが、周囲では次々に怪奇な事件がおこっていって、殺人を含む異様な出来事や呪能的な人物が錯綜するというふうに進んでいく。上下二巻だったので、ぼくも読んでみたが、なるほど、なかなか凝っていた。

≪030≫  大泉は武内崇が描いた絵が萌えしているのが気にいって、あとは読み耽ったようだ。武内はもとは同人結社だったTYPE‐MOONのグラフィックデザイナーだ。

『萌えの研究』

≪031≫  思いのほか『空の境界』が気にいった大泉は、次には奈須と武内(二人とも一九七三年生まれ)がつくったゲーム「月姫」を試してみた。こちらにもけっこうハマった。だったらこの線を追っていけば、萌え文芸のルーツに辿り着けるだろうと思い、大泉は奈須の周辺を調べていく。

≪032≫  奈須はどんなふうにこのセカイに到達したのだろうか。最初は菊地秀行の『エイリアン秘宝街』(ソノラマ文庫)や『魔界都市』シリーズ(祥伝社)などのホラー伝奇ものから入ったようだ。菊地はめちゃくちゃ多作で、とても全貌までは手がまわらなかったが、弟のミュージシャン菊地成孔ともどもの異才であることはわかった。ついで綾辻行人の『十角館の殺人』(講談社)でショックを受けた。

≪033≫  当時、綾辻や法月綸太郎などのミステリーは島田荘司を総帥とする系譜として「新本格」と呼ばれていたのだが、奈須きのこはその新本格にどっぷり耽溺し、その路線で作品づくりをすることにしたようだった。なるほど、このルートなのか。

≪034≫  新本格ミステリーは綾辻のデビュー以降が第三波にあたっていて、これは講談社編集部の宇山日出臣が講談社ノベルズで仕掛けて売り出していった路線だった。東京創元社の戸川安宣も新本格の新人発掘に乗り出した。

≪035≫  こうして綾辻、有栖川有栖、法月、我孫子武丸、北村薫、京極夏彦、西澤保彦、森博嗣、黒崎緑、山口雅也、太田忠司、奥田哲也らが次々に売れていった。かれらは新本格第二世代ともいわれるのだが、こちらの売り出しは講談社の唐木厚がプロモートした。ぼくも綾辻、我孫子、京極、森博嗣くらいは摘まみ読みしてきたものだ。 けれども、やっぱり新本格はとうてい萌えではない。奈須のルーツがそこにあったというだけのことなのである。

『萌えの研究』

≪036≫  このあと大泉はラノベを一〇〇冊近く読む。そんなに同工異曲のスィートキャンディばかり短期に食べられるものかと呆れるが(感心するが)、仕事がらみの短期決戦だから読めるものなのだろう。

≪037≫  なかで、うむっと唸ったのが秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』(メディアワークス・電撃文庫)だったという。ヒロインの伊里野加奈はUFOを操れるパイロットの最後の生き残りという設定で、恋の相手の浅羽直之ともども中学二年生である。二人の恋の鞘当てには鉄人定食合戦が挿入されたり、新聞部の水前寺が発行する学内新聞「太陽系電波新聞」などが奇妙なニュースをまきちらしたりする。

≪038≫  さまざまな謎と謎解きも愛と悲しみの交錯もちゃんと描かれていて、大泉は村上春樹のファンでもあるらしいのだが、無人島に何を持っていくかと言われれば、村上のものより『イリヤ』を選びたいというほど、出来をほめている。

≪039≫  秋山は一九七一年生まれ。父親が戦争映画やガンダムや宮崎アニメが好きな軍事オタクで、秋山はそのコタク(これは大泉の造語)だった。当然、対戦ゲームにもはまって、のちに格闘シーンがみごとな『猫の地球儀』(電撃文庫)なども書いた。

≪040≫  小説の技能は法政大学社会学部の金原瑞人のゼミで学んだ。金原は芥川賞の金原ひとみの実父でもあって、若い頃にはハーレクイン・ロマンスの翻訳をしていた。大学のゼミからは秋山のほか、古橋秀之、早矢塚かつや、瑞嶋カツヒロ、高野小鹿、山岡ミヤらが輩出した。

≪041≫  このほか、ラノベで目に付いたのは築地俊彦『まぶらほ』(富士見ファンタジア文庫)、おかゆまさき『撲殺天使ドクロちゃん』(電撃文庫)、豪屋大介『デビル17』(富士見ファンタジア文庫)あたりだったという。

『萌えの研究』

≪042≫  かなりラノベを渉猟したわりに、まだ萌えの正体には迫っていない浅川と大泉は、次にテーブルトークRPG(TRPG)に取材参加することにした。

≪043≫  TRPGは部室やカフェなどで数人が集まって、サイコロを振りながらRPGを遊ぶテーブルゲームである。水野良や奈須きのこがTRPGの影響を受けていたし、ここには「萌えの源流」があると聞いていたからだった。

≪044≫  御徒町でTRPGの店「デイドリーム」を営む槙村さんにすべてを任せた。古典的傑作の「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(D&D)と最新傑作の「ダブルクロス」(DX)を用意してくれた。「D&D」は世界で最も早くデリバリーされたRPGで、ここから「ウィザードリィ」も「ウルティマ」も生まれた。「ドラクエ」はこの孫だ。

≪045≫  魔法と剣のファンタジーで、ワールドモデルが自由に設定できる。今回のワールドモデルは「ニュースモール・ロック」ということになった。直訳すれば新小岩だった。参加者は五人、GM(ゲームマスター)は槙村さん。キャラクター・シートが配られ、丸いボールを面妖に削った二〇面体サイコロを振ってゲームとトークを進めていく。能力値(力・知性・敏捷性・強靭さなど)やキャラ属性などをサイコロで決め、場面ごとにそれぞれがディスカッションしながら進展をつくっていく。

≪046≫  「DX」ではGMがハンサムな岡田さんに代わった。十九年前に遺跡の発掘調査から未知のウィルスが発見され、空輸中の飛行機が爆撃されたため、ウィルスが世界中に散った。このウィルスに感染すると超常能力が得られるのだが、そのかわり共感力を失う。ゲームは、超常能力で覚醒したオーヴァードと共感力を完全に失って暴走するジャームとのあいだに繰り広げられる。

≪047≫  そういう設定なのだが、始めてみると議論がさまざまに右往左往しておもしろい。けっこうな緊張感もある。セカイとの接触感がある。だからTRPGには不思議な高揚感があったのだが、とはいえこれまた萌えの正体を生んでいるとは思えなかった。

『萌えの研究』

≪048≫  こうして大泉は業を煮やした浅川によって、二〇〇五年の夏のすべてを美少女ゲームに費やすことになったのである。講談社の第一別館にとじこもり、来る日も来る日も美少女ゲームにしこしこ没入した。

≪049≫  美少女ゲームといえば少しは聞こえがいいが、つまりはエロゲーだ。別室でなければ、できっこない。エロかわいい幼女やとびきりの官能美少女で抜けるのかどうか。それだけが集中力を保証してくれる。

≪050≫  まずは伝説の「To Heart」を賞味した。自分の氏名を入力し、電気紙芝居が始まると、毎朝、自分の名前に「ちゃん」を付けて起こしてくれる神岸あかりが出てきてくれる。この子と毎日学園に登校し、試験勉強をしたり、遊んだりする。弁当もつくってくれる。大泉はとても入っていけないと感じた。

≪051≫  ところが、こういう日々をどんどん繰り返していくと、なんとなく神岸あかりがかわいく見えてくる。髪形を変えたあたりでターボがかかる。そこへロボメイドのマルチが登場する。これがマジかわいい。犬と敬語をつかって会話をしているところなど、食べたくなる。そんなときバスケ部の矢島というやたらにカッコいい男があらわれて、あかりと付き合っているのじゃないなら俺にアタックさせろと言ってくる。断固、拒絶することにした。大泉はこのあたりでまんまとハマっていった。

≪052≫  こうして大泉はマルチに接近し、ロボメイドとの甘くて切ない快楽を堪能し、めでたく抜け切ったのである。

≪053≫  なるほど、東浩紀が『動物化するポストモダン』で明言したとおりだった。東は「『エヴァンゲリオン』以降、男性のオタクたちのあいだで最も影響力のあったキャラクターは、コミックやアニメの登場人物ではなく、おそらく『To Heart』のマルチである」と言い切っていた。

『萌えの研究』

≪054≫  東の『動物化するポストモダン』は、オタク論および萌え論の思想化が本格的に試みられた最初の一冊である。

≪055≫  大塚英志が『物語消費論』で、八〇年代の日本は商品よりも物語を消費しているのではないか、その物語はポストモダンが否定した「大きな物語」に近いものではないかと解読したことを受けて、東は九〇年代のオタク文化では「大きな物語の消費」ではなく、むしろ「データベース消費」がおこっていると指摘した。その現象を「動物化」と呼んだのはアレクサンドル・コジェーヴの用語を借りたからだ。

≪056≫  九〇年代の日本の若い世代が、物語消費ではなくてデータベース消費に傾いていったというのは、SNSの波及にともなって始まりかけていた現象で、東はいちはやくその傾向を読み取ったのだった。

≪057≫  物語は出っ張った形象をもつものだが、データベースは情報のメタレベルのレイヤーにまみれている。それがオタクにおいて顕著になったというのは、電子ゲームの波及によっている。とくに美少女ゲームがプレイヤーをキャラクターに召喚するという動向をつくっているところが、物語的というよりデータベースのオブジェクト選択に近い現象だった。

≪058≫  東は続いて『ゲーム的リアリズムの誕生』において、日本のサブカルチャーには小説などの「自然主義的リアリズム」でも「まんが・アニメ的リアリズム」でも捉えられないものがあって、それはすでに「ゲーム的リアリズム」としてメタリアルに滲み出しているということを論じた。このとき、その作品例として美少女ゲーム「ONE」「AIR」などが象徴的な役割をはたしていると説明した。

『萌えの研究』

≪059≫  大泉は東浩紀の先見の明に敬意を表しつつ、また「White Album」や「ONE」に遊びつつ、自分の「綾波レイ萌えからマルチ萌えへ」と至った萌えの正体は、ひょっとしたら彼女たちの「自己犠牲性」に宿していたのではないかと思うようになっていた。なんとなく当たっているような気がした。

≪060≫  綾波レイの半分は、主人公である碇シンジの母(碇ユイ)のクローンである。それなら綾波の自己犠牲性は母の自己犠牲を含んでいるはずなのだ。一方、ロボメイド・マルチの自己犠牲は主人に尽くす全きものである。その究極には打算もなく、償いもない。大泉は、この「自己犠牲する美少女」にこそ萌え感覚の発芽の秘密がひそんでいるのではないかと考える。

≪061≫  このことは、押井守の《イノセンス》でメイド型のガイノイド「ハダリ」を見たとき、ピンときたものだったようだ。ハダリはセクサロイドという半面をもつガイノイドである。ぼくも感心した映画作品だ(二〇〇四公開)。物語は、草薙素子が失踪してから四年たった二〇三二年、ロクス・ソルス社製のハダリが一斉に暴走して大量殺人をおこして自死したことが発端になっている。話は複雑だが、やがてハダリの正体は素子が自分自身の一部をダウンロードしていたことがわかってくる。しかしこれからの文明で、セクサロイドが氾濫したり暴走したりしたら、どうなるか。押井守はその問いに答えるためにハダリを描いたのではないか。だからハダリには萌えの要素を与えなかったのではないか。そう、大泉は考えたのである。

≪062≫  かなり穿った見方だが、もともとハダリがヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』の自己犠牲っぽいアンドロイドをモデルにしていたことを勘定に入れると、この想定は当たっていなくもない。

『萌えの研究』

≪063≫  美少女ゲームの仕上げは「Kanon」と「AIR」にした。「ONE」をつくったグループKeyが一九九六年と二〇〇〇年に発表したもので、両方ともに一〇万本を超えた爆発的ソフトだった。

≪064≫  「Kanon」は大泉には不得手のキャラ絵だったが、月宮あゆというメインヒロインにハマった(結局、なんだかんだと言いながらハマる)。「AIR」のほうは三部作になっていて、第一部では人形遣いの青年が海辺の村で出会った三人の少女たちと夏の物語を紡ぐというもので、プレイヤーは少女を選択してヒロインを攻略する。神尾観鈴ルートを選んだところ、トラウマ語りがベースになっていた。第二部は一挙に千年前にとんで、最後の翼人であるらしい神奈という少女が時の権力争いに巻き込まれる物語になる。神奈が母をさがすのに付き合いつつ、高野山に幽閉されていた母と出会うのだが、随身の柳也と裏葉を助けるためにオトリとなって神奈は死ぬ。第三部は方法の冒険が試みられる。神尾観鈴が体験したストーリーが、今度は観鈴が飼っていたカラスの視点でリバース・エンジニアリングされるのだ。なかなか憎い展開だ。

≪065≫  まあ筋書きはともかくとして、やはり東浩紀が言うように、このあたりが美少女萌えのクライマックスだったのである。このあと大泉はラノベや美少女ゲームを離れて、念のためマンガやアニメの萌え探しに向かうのだが、これは蛇足だった。本書もこのへんは萌えしていない。

『萌えの研究』

≪066≫  ざっと、以上が大泉の「萌え潜入探検記」である。ぼくにはさっぱりのラノベやソフトがふんだんに紹介されていたが、なんとなく「萌えの正体」を矯めつ眇めつした気分になった。

≪067≫  その後、大泉は『オタクとは何か?』(草思社)を上梓するが、そこでは「オタクは存在しない」という宣言に至っている。萌えの原理ともいうべきオタクが存在しないとはどういうことかと思ったが、オタクについて言及すること自体がオタク文化の自己矛盾にかぶれてしまうことに、ほとほと嫌気がさしたようだった。

≪068≫  個人的な事情もあったらしい。大泉の息子が大学時代の二一歳で病死をするのだが、彼はオタクであることで高校時代にいじめを受けたのである。その息子のためにもオタクはいないんだと言ってやりたかったようである。

≪069≫  ちなみに本書には、最後のページに《エヴァ》のヒロインで、水色の髪と赤い瞳をもつ綾波レイについての六〇以上の“定義”が列挙されているのだが、これを見ると、結局のところ綾波こそが大泉の唯一の萌えの正体だったということが如実にわかる。紹介しておくが、だったら大泉は潜入探検などしなくってもよかったのである。

≪070≫ 綾波レイとは、決して解かれることのない謎。 綾波レイとは、日本中のマザコン男とサディストのために供された贄。 綾波レイとは、かつて誰からも心の底から愛されたことのない孤独。 綾波レイとは、はにかんで頬を染める十四の女の子。 綾波レイとは、無意識の底にひそむパンドラの函の鍵穴。 綾波レイとは、本物より美しいフェイク。 綾波レイとは、使徒の流す涙。 

「吉原と島原」①

≪01≫  意外におもうかもしれないが、島原・新町・吉原の三郭は、秀吉から家康に移った30年たらずのあいだに、次々に生まれた。 それ以前にも遊里はたくさんあった。遊女もいた。中世、長者の館というものが各地にあって、子君(こぎみ)とよばれる遊女がいて、そこに馴染み客の子夫(こづま)が通った。そういうところに白拍子が交じることも、追われた平家一門の女官の姿が交じることもあった。曽我の仇討ちで有名な虎御前は大磯の長者の娘であったし、その曽我兄弟の宿敵にあたる工藤祐経が泊まっていた宿の妻戸の鎹(かすがい)をはずしておいたのは、寵妓の鶴亀だった。遊女は度胸があったのである。 

≪02≫  室町に入ると、足利義晴のときになんでもお金にしたくって、幕府は傾城局をもうけて遊女から年間15文の課税をした。これが日本の公娼制の始まりになる。けれどもいつの時代でもこんな縛りはいくらでも抜け穴があったから、室町末期には辻に立つ君や風呂屋の湯女(ゆな)が繁昌して、料亭なども妓楼と化していくところも多かった。 

≪03≫  遊女たちは港町にも集まった。小田原、柏崎、敦賀、下関、堺などは中世から栄えた“女の街”だった。なかでも難波の港をいくつもかかえた大坂にはたくさんの遊里が早くから栄え、東に行けば江口・神崎・蟹島・河尻が、西に泉州堺の乳守・高須などが点在し、ちょっと中へ入れば天満・玉造・阿波座には早くから傾城屋があった。 ただし、これらは正式には遊郭とはいわない。歴史学では遊里や岡場所というふうに区別する。もっと穿っていうなら楽や公界ということになる。 

「吉原と島原」

≪04≫  遊郭などに正式も勝手もなにもなさそうだが、そうでもない。岡場所や遊里とちがって、遊郭は許可制のものをいう。わが国の集娼制がおこるのは遊郭からなのである。 それは天正17年に京の万里小路に、原三郎左衛門と林又一郎が傾城街をつくるのを秀吉が許可したことに始まった。「新屋敷」とよばれた。原は秀吉の厩付奉行をしていたようで、商才もあった。この子孫が桔梗屋八右衛門、その家筋が島原をならした桔梗屋治助である。 

≪05≫  やがて新屋敷の範囲が広まると、この界隈は二条柳町の里とよばれ、それが秀吉没後に六条三筋町のほうに移り、さらに寛永18年に朱雀野にごっそり転じて島原遊郭となった。島原という名は地名ではない。洒落である。ちょうど島原の乱のあとの移転だったので、遊客たちがここに向かうのを戯れに“島原攻略”といったのが俗称となり、しまいに地名になった。だいたい日本の地名はこんなふうに定着する。 

≪06≫  島原は東西99間、南北133間、周囲には幅1間半の堀がめぐらされ、正門にあたる東口の前には「思案橋」と「衣紋橋」がかけられた。男たちはちょっと思案して、ついで意を決すると衣紋をなおして一夜の夢を求めて入っていったわけである。帰るときは門のそばの「さらば垣」を見送った。島原は「暗(やみ)なき里」であり、「ともしび曲輪」であったのである。羨ましい。この島原から吉野太夫、八千代、藤枝、三笠、薫、小太夫、金山、高雄、長門、花巻らの名技・太夫が育った。 

「吉原と島原」

≪07≫  大坂の遊郭は大坂城が完成した天正13年のときにできた。新町細見の『みをつくし』には、木村又次郎という浪人者が郭(くるわ)の庄屋を仰せつけられたと書いている。当初の場所は島の内だったというが、それが元和3年に新しい町割りで新町に移された。その新町に越してきたのがしばらく島原で経営の才能を磨いた林又一郎で、寛文年間に有名な「扇屋」を開いた。その後、瓢箪町、新京橋町、新堀町、佐渡島町と傾城屋がふえたので、のちにはこれらを総称して新町といった。五曲輪ともよんだ。 

≪08≫  江戸の吉原開設前後のことは斎藤月岑の『武江年表』から推理する。そこに喜多村信節の言葉が出てきて、それによると、そもそも江戸の地には「和尚」とよばれた遊女が34人、名だたる遊女だけでも百人をこえていたのが、いったんその活動が禁止され、そのあとで江戸普請が始まったのだという。遊女を追っ払って江戸城ができたといえば、当たらずとも遠くない。 

≪09≫  だから江戸の町ができたばかりは傾城屋は少ししかなくて、麹町に京の六条柳町からやってきた遊女がいくつかの傾城屋を開いていた程度だった。ところがその後はぞくぞくと遊女がふえて、麹町の遊女や大坂瓢箪町の遊女が京町に集まり、そこに総元締めのような三浦屋ができると、幕府は遊女の管理のためには三浦屋を使うようになっていたらしい。  

「吉原と島原」

≪010≫  やがて慶長17年に、小田原出身の庄司甚内(のちに甚右衛門)が遊女屋をなんとか一カ所に集めるから、遊郭の許可をほしいと願い出た。この願書が町奉行の米津勘兵衛から老中に上申され、本多佐渡守から主旨はわかったから追って沙汰をすると言われ、それから5年もたって認可が降りたことまでは史実にのこっている。けれどもその謎の5年に何があったかは知られていない。そこで隆慶一郎が想像力をふくらませて、例の『吉原御免状』を書いた。第169夜に紹介した通りだ。 

≪011≫  庄司甚内は下賜された二丁四方を町割りし、楼主を募って1年半をかけて家並をそろえて、元和4年に営業開始にこぎつけた。それが、のちの江戸町・京町・角町にあたる「吉原」である。 ところが明暦2年に幕府は移転を命じて、年寄たちに浅草寺裏の地を選ばせた。その直後に明暦の振袖火事が江戸を焼きつくし、これらの異変をこえて誕生したのが「新吉原」だった。いま吉原と総称しているのは、この新吉原のことである。 

≪012≫  新吉原には日本堤から衣紋坂・五十間道を通って入る。入口に大門(おおもん)、大門からは仲の町の通りがのびて、左右に茶屋が並び、その背後に妓楼が構えた。初期は揚屋がいくつか散っていたのだが、これはのちに一カ所に集まった。仲の町にはのちに『助六由縁江戸桜』で有名な桜が植えられた。江戸の夜桜はここから名物になっていく。 突き当たりが水道尻、そこを天神河岸といって下級女郎屋が25軒ひしめいた。周囲には島原を真似て幅5間の「おはぐろどぶ」がめぐらされ、大門口の外側は外茶屋である。 

「吉原と島原」

≪013≫  遊郭にはさまざまな「格」がある。妓楼は遊女を抱えて見世を張る。総籬(そうまがき)・総格子の「大見世」は太夫の人気と座敷料で商っていて、ここで新造(遊女)を扱うようになるのは後期のことだった。半籬の「中見世」は呼び出しも新造も扱って、散茶見世ともよばれた。正面の格子の上半分をあけているのが「小見世」で、昼見世とか切見世ともいった。 

≪014≫  遊女にもピンからキリまで等級がある。太夫・花魁(一番多い寛政時代で13人)、格子(島原では天神)、呼び出し(仲の町の茶店に出ている)、囲(かこい)、散茶・昼三(以前の湯女)、座敷持(片仕舞)、部屋持、梅茶・埋茶、新造、局女郎・端女郎、鉄砲女郎などというふうになっていた。あんな小さなところにこれだけの上下の区別があるのは、日本文化としては坊主と遊女の世界だけである。 

≪015≫  このような自立したアジールともいうべき遊郭から、濃くて多様な「悪所の文化」が生まれた。 符丁や「ありんす言葉」や百太夫信仰などの、ほかではまったく見られない一時的民俗や、のちのちまで座敷文化に影響をおよぼした数々の風習が育った。賑やかで哀調をおびた三味線の清掻(すがかき)で始まり、限太鼓や引け四つの拍子木で締まるまでの遊郭の一日は、男も女も一度は覗いてみたい“名所”だったのである。 狂歌の名人だった石川雅望は『吉原十二時』で、その独特の一昼夜を鮮やかに描いている。歌麿の『青楼十二時』もさすがに艶やかだ。 

「吉原と島原」

≪016≫  ところで、ぼくが叶うことならどこかの座敷で頬杖ついて浸ってみたいのは、島原の投げ節、新町の籬節(まがきぶし)、吉原の継節(つぎぶし)である。 投げ節は島原の柏屋又十郎が抱えた引舟女郎の河内が唄いはじめたものらしく、貞享・元禄の京ではこの歌を聞きたくて島原に通った町衆も多かった。弄斎節のバージョンともいわれるが、節回しそのほか、よくわからない。けれども伴蒿蹊の『近世畸人伝』にはゆかしいエピソードが紹介されている。 

≪017≫  白隠が京に逗留したおり、かつての名妓の大橋は法話を聞くためにその逗留先を毎日訪れていた。そこへある日、冷泉寂静が来て、白隠は大橋が昔日は島原の売れっ子太夫だったことをあかす。興味をもった寂静がそれならぜひにと投げ節を唄ってみせてほしいというと、大橋はもはや老いて声も嗄れていると辞退するのだが、たっての頼みに一節を唄ってみせたところ、白隠も寂静も遊郭に伝わる日々がもたらした風情の深さに感嘆して、しばし胸を詰まらせたというのである。 

≪018≫  白隠が京に逗留したおり、かつての名妓の大橋は法話を聞くためにその逗留先を毎日訪れていた。そこへある日、冷泉寂静が来て、白隠は大橋が昔日は島原の売れっ子太夫だったことをあかす。興味をもった寂静がそれならぜひにと投げ節を唄ってみせてほしいというと、大橋はもはや老いて声も嗄れていると辞退するのだが、たっての頼みに一節を唄ってみせたところ、白隠も寂静も遊郭に伝わる日々がもたらした風情の深さに感嘆して、しばし胸を詰まらせたというのである。 

「吉原と島原」

≪019≫  一方、新町の籬節のほうは、新地の遊女まがきが唄いだしたもので、元禄・宝永に流行したという。これがいったん廃れたのに、島原の夕霧太夫が招かれて新町に赴いたおり、ふとこれを唄ってみせたという話がのこっている。夕霧はまた伏見から淀川を下った船の中でも、即興の歌詞で籬節のようなものを聞かせたらしい。都半太夫の半太夫節に似ていたという話だ。 

≪020≫  夕霧太夫は書も和歌もそうとうの腕前だったというが、こうなると花魁や太夫というのは日本文化の「もうひとつの精華」でもあったということになり、しかも三都それぞれで粋と野暮との基準が異なっていたことが、なかなかなのだ。 『守貞満稿』や土佐浄瑠璃『通俗傾城三国志』にはこんなおもしろい比較が謡われている。 【京の太夫、たとえば吉野太夫や花月】髪に三つ笄、二つ櫛。黄小袖に緋繻子を重ね着。遊君らしくなく茶の湯にも連歌にも通じている。【大坂の花魁、たとえば夕霧太夫や梅が枝】二つ笄、三つ櫛で兵庫髷。決して上品ぶらずに客の持て成しに徹する。別れ方がうまい。【江戸の高尾太夫や小紫】洗い髪に大形の一つ櫛、簪(かんざし)は左右に3本ずつ。紅綸子の打掛の下に白衣裳。舞がうまくて唄が粋である。 

『三教指帰・性霊集』

≪01≫  30歳代のおわりころ、空海の夢をたてつづけに見た。樹木の中にいたら、子供が外から樹皮に電気ドリルで文字をコツコツ彫りはじめた。そこへ弘法大師がやってきて子供を褒めた。そういうような夢のいくつかである。 

≪02≫  そんなことがあって1984年に『空海の夢』(春秋社)を書いた。空海については20代に『声字実相義』を読んだのがきっかけでいろいろ読んではきたが、司馬遼太郎が『空海の風景』を発表したあとだったこと、かつ、ぼく自身も工作舎を離れて最初に書きおろす本だということもあって、かなり入念な構想を練った。叙述の仕方も章立てによって少しずつ変えた。仕上がりはいまでもけっこう気にいっている。 

≪03≫  刊行まもなく、そのころまだ面識のなかった宮坂宥勝さんが「週刊朝日」に、すでにいろいろ教えを乞うていた松長有慶さんが「朝日新聞」に、秋月龍珉さんが「中外日報」に、かなり好意的な書評をしてくれた。 

≪04≫  そこに何を書いたかということを、全体は28章にわたっているのだが、『三教指帰』にかかわる第9章までのぶんまでを、ごくごく短縮してかいつまむ。なおここでは都合により岩波版『日本古典文学大系』を採ったので、空海の厖大な漢詩文をのちに真済が編集した『性霊集』(遍昭発揮性霊集)も一緒に一冊になっているが、これはここでは言及しないことにする。 

『三教指帰・性霊集』

≪05≫  さて『空海の夢』の冒頭、モンスーン下における砂漠型の二者択一の行動思想に対して、森林型の沈思黙考型、いいかえれば優柔不断型のインド思想というものがあるということを指摘した。  

≪06≫  これを一言でいえば「坐って考える」という思想が、アジアになぜ生まれたかということだ。 

≪07≫  砂漠型の行動思想では坐ってなどいられない。オアシスを求めて右へ行くか左へ行くか、つねに決断が迫られる。まちがった判断をすれば、それはそのまま死につながる。ユダヤやアラブやイスラム諸国の底辺には、いまなおこの二者択一的な行動選択がある。旧約聖書やコーランのスタイルだ。神や指導者もこのばあいに何人もいたのでは困る。だから一神教が多くなる。 

≪08≫  他方、森林では雨季が多く、こういうときに焦って動いては事態の成り行きが眺められない。むしろじっとしているほうがよい。また森林では火の意味がきわめて大きい。そこで森林的東洋では(ガンジスの森がその代表のひとつだが)、「坐」の思想のほうが胚胎し、時間をかける瞑想が発達した。乾季に歩き、湿季に坐るというやりかただ。また火神アグニの信仰が重視された。  

≪09≫  これがヴェーダや仏典に説かれたスタイルである。こういう風土では森の多様性にしたがって多くの神が必要になる。東洋が多神教になったゆえんであろう。  

≪010≫  その多神多仏型の思想が流れ流れて分化して、結局は江戸の仏教学者の富永仲基の言い草によれば、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」というような仏教思想の特質が流露していった。密教はこのヒンドゥ・ブディズムが分化していく途中に南インドから中国で発酵し、さらに日本で結晶したものである。 

『三教指帰・性霊集』

≪011≫  そもそも仏教とはせんじつめれば、意識をどのようにコントロールするかという方法のことである。暴れる意識、疼く意識、狡猾な意識をいったいどうすれば鎮めることができるのか。そのコントロールの方法によって仏教各派に特色があらわれる。 

≪012≫  では、その意識がどこから発生したのかといえば、当時は脳のことまでは理解が及ばなかったものの、生命現象の一部が意識になったとは理解された。プラトンは胆汁さえ思考の要因であると考えたし、ヨーガでは体の各部にチャクラというものがあると考えた。いずれにしても、そのような生命意識の一部が心や精神や欲望という“お化け”をつくっていったと考えた。 

≪013≫  生命の一部として突出した意識は、自分(=意識の起源)がよってきたる生命の本来を庇(かば)うとはかぎらない。目の前の欲望を消費し、市場を育くみ、ときには自らの死をさえ選択するような意識の動きも強い。初期の宗教者はこのような問題にぶつかって、みんな苦労した。 

≪014≫  しかし、生命そのものは自然からなんらかの理由で突出してきたものであるはずなのだから、母なる「自然の森」や「生命の海」のほうに向かう意識のはたらきもあってよかったのである。コスモスをもつ意識があってよかったのだ。 ぼくはそこらあたりのことを、こう書いた。 

『三教指帰・性霊集』④

≪015≫ 生命の一部として突出してきた意識が、虫や鳥にはありえなかった「自己の未来」を発見し、それが端的には死の輪廻にほかならないことをも知って、哲人たちは「死の到来」の前に、意識の内実をふたたび生命のよってきたる母体、すなわち大自然や大宇宙と合一してしまうことができるのではないかと構想したのであった。 

≪016≫  そこで古代インド思想では、すなわちヒンドゥイズムやブッディズムでは、そういう大なるものに意識が向かうものを「梵」(ブラフマン)とみなし、小なるものに向く意識を「我」(アートマン)とみなした。 

≪017≫  ただし、これを分断したままではいられない。なんとか梵と我をくっつけて“梵我一如”にしたかった。 

≪018≫  そのことをじっくり試みるべく案出されたのが、いまでは当たり前になってしまった「出家」というライフスタイルである。その方法をめぐってバラモンのヒンドゥイズムに批判をもったブッダから「大乗仏教」が生まれた。 

≪019≫  けれども、日々の煩悩が出入りする「我」についても放ってはおけない。なにしろ自我意識なんてなかなかなくならない。ジコ虫とはそういうものである。そこで、そういう面倒な「我」をこそもう少し解明したいという一派もあって、これが「小乗仏教」を形成していった。唯識などはそのようなひとつである。そのほかいろいろな分派がそれぞれ出るうちに、5~6世紀ごろに密教が名のりをあげた。とりあえずは、ざっとこういう順番だ。 

『三教指帰・性霊集』⑤

≪025≫  それで空海はどうしたか。 15歳くらいで平城京の大学に入っている。そのころの入学試験は旬試と歳試があって、「読」と「講」に分かれていた。「読」ではテキストの文字1000字ごとの3字が隠されて出題され、それを回答しなければならず、「講」では2000字ごとに口頭試問にこたえなければならない。 

≪026≫  明経科の博士筆頭(大学頭)は岡田牛養だった。同じ讃岐寒川の出身だった牛養は空海に目をかける。直講の味酒浄成も五経の一部始終をたたきこもうとした。 

≪027≫  しかしこれらは、すでに叔父の阿刀大足などから十分に教わっていたこと、空海はこれをなんなくこなし、論語・孝経・礼記・春秋左氏伝そのほか9科目をマスターする。あっというまのことだったろう。ところが空海はそうしたテキストに正直に感応したというよりも、実はそこに付与されている「註」にこそ関心をもつ。 

≪028≫  久木幸男の『大学寮と古代儒教』によると、そのころの大学のテキストは『春秋左氏伝』をのぞいて、すべて鄭玄(じょうげん)の註をつかっていた。鄭玄とは何者か。空海は鄭玄の比較と折衷をめぐる方法論に惹かれ、そのグラマトロジーに没頭した。 

『三教指帰・性霊集』⑥

≪029≫  ところで、明経科の授業につかわれたテキストのようなものを儒教的な「経書」というのだが、空海はそれ以外の道教的な「緯書」をも読み尽くそうとしたふしがある。正典とは認められていないテキストということで、神仙タオイズムや陰陽タオイズムに関する雑多な漢籍が多かった。 

≪030≫  すでに日本では吉備真備のような陰陽道の研究者も出ていて、藤原仲麻呂は陰陽寮を太史局と改称して、国家重大事を緯書によって記録し判定するという視点を導入していた。 

≪031≫  空海はこのような流れも逃さなかったのだ。この天才には最初から、インサイダーの思想とアウトサイダーの思想の両方を必ず点検していくというバランスが備わっていたというべきだろう。緯書を読み、タオイズムに関心をもったのはそのせいだ。 

≪032≫  そして、そのようなバランス探求の姿勢こそが早々の「密教発見」につながったのである。 

『三教指帰・性霊集』⑦

≪033≫  そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経である。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺)を中心にしたホストマシンのための総合データベースのようなもので、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していた。この予測こそ鋭かった。  

≪034≫  ほかにも空海が注目したものがある。雑密(ぞうみつ)である。のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。 

≪035≫  空海はそのことを知って、なるほど華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。この察知がものをいう。『空海の夢』では後半の第26章に「華厳から出て密教に出る」という一章をもうけ、華厳のヴァイロチャーナ(ビルシャナ)がマハーヴァイロチャーナ(大日如来)に劇的に審級していった謎を解いておいた。  

≪036≫  しかしここまで視野を広げてみると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。それに時代社会そのものが大きな変転をとげつつあった。 

≪037≫  だいたい政治の舞台が平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲である。そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。 

≪038≫  一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。これはさしずめ都会に厭きたヒッピームーブメントのようなものであるが、なかで聞きずてならないのは、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院という庵を組んだことである。 

『三教指帰・性霊集』⑧

≪039≫  空海はめぼしい情報を集め、大安寺の戒明や三論宗の勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない。 

≪040≫  ついに空海はドロップアウトを決意する。大学を捨て、山林に飛びこむことにした。  

≪041≫  これこそは空海の“山林出家”というものである。自身のライフスタイルを、インドに発したブッダに照準をあわせ、その出家者の末裔に連なることを選んだのである。正式な出家でない。そもそもブッダだって勝手に山に入ったのだ。   

≪042≫  空海は勇んで畿内四国の山野を跋渉し、虚空蔵求聞持法を駆使して森羅万象・経書緯書を体に巻き付けていく。 

『三教指帰・性霊集』⑨

≪043≫  こうして24歳の空海が、いよいよ最初の著作の『三教指帰』(さんごうしいき)にとりくむことになったのである。 

≪044≫  延暦16年、西暦797年のこと、中国では澄観が華厳哲学を、陸羽が茶経を仕上げ、バグダッドにはハルーン・アル・ラシッドの大図書館「知恵の宝庫」が完成し、アーヘンにはカロリング朝が設けられてアルクインの宮廷哲学が開花していたころである。空海も負けていなかった。 

≪045≫  この著作は戯曲仕立てのレーゼ・ドラマというべきもので、当初は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)と表題されていた。漢の枚乗「七発」に「瞽(めし)いたるを発(ひら)き、聾(みみつぶ)れたるを披(ひら)く」とあるのに由来する。 

≪046≫  五段構成になっている。亀毛(きもう)先生論、虚亡(きょむ)隠士論、仮名乞児(かめいこつじ)論、観無常賦、生死海賦の、三論二賦だ。これまで空海が収集検討した諸家諸見に対するすべての反駁は、ここに爆発し、結晶した。 

≪047≫  ここで空海は何を書きたかったのか。阿刀大足や岡田牛養や味酒浄成らには儒教批判としての亀毛先生論を、ただ神仙に遊ぼうとする青年たちには道教批評としての虚亡隠士論を、そして大安寺や東大寺の僧と我と我が身の佐伯真魚に対しては、仏教思想仮説としての仮名乞児論をつきつけたのだ。 

≪048≫  空海は執筆にあたっての感情を、序文に「ただ憤懣の逸気をそそぐ」というふうに書いている。かつて『史記』の著者がやはり「憤懣を舒ぶ」と自序にしるしたものだった。かくて天才の憤懣の連爆はとどまるところを知らないものとなっていく。 

『三教指帰・性霊集』⑩

≪049≫  八五〇〇字の漢文である。それがみごとな四六駢儷体で綴られ、驚くほどの該博の知が縦横に披瀝されていく。その大半は中国の漢籍漢文漢詩からの自由自在な引用になっている。 

≪050≫  その一字一句の出典を調べた福永光司さんによると、とくに『文選』『芸文類聚』『初学記』を辞書代わりにフルにつかい、そこに『史記』『漢書』『三国志』『世説新語』『顔氏家訓』などからの語句を組み入れ、さらに儒教論では四書五経を、道教論では老荘をはじめ『准南子』『抱朴子』を駆使し、仏教論では『法華経』『金光明最勝王経』をそうとうに精読している跡が見えるのを筆頭に、ほとんど南都六宗の経典のすべてが動員されているという。もって恐るべし。 

≪051≫  ユーモアにも富んでいる。登場人物が5人いるのだが、最初に舞台があくと中央に館がセットされていて、そこでは主の兎角公子が母方の甥の蛭牙公子の粗暴・賭博・女色・傲慢におよぶ非行ぶりに手を焼いている。そこで3人の賢者をよんで蛭公に教唆教誨をたれてもらおうというのだが、その主が兎角(とかく)で、甥が蛭(ひる)なのである。 

≪052≫  招かれた儒者の亀毛先生は舌で枯れ木の花を咲かせるほどの弁舌人士、タオイストの虚亡先生は蓬髪でボロボロ、なんであれ仙人の身に託して話す。仮名乞児はツルツルの頭でおんぼろ錫杖と破れた木鉢を手にする乞食のような坊主。空海はこのように登場人物すべてを徹底してカリカチュアしてみせた。 

≪053≫  もっともこの配役立てにもモデルがあった。司馬相如の「子虚上林の賦」というものだ。そこに子虚・烏有・亡是の3人が登場していた。 

『三教指帰・性霊集』

≪054≫  空海の『三教指帰』はさまざまな意味において日本思想の開闢を告げるものである。 

≪055≫  第1に、日本で最初の儒教論を萌芽させた。このことについてはほとんど指摘がなかったことだが、これはもっと評価されてよい。中世に“和学としての儒教論”が出るまで(これを和儒というのだが)、日本は儒教思想を儒学としてうけとめたことはなかったのである。それをわずか24歳の空海がやすやすとやってのけていた。 

≪056≫  第2に、タオイズムについてこれほど深い理解を示した著述は、その後の日本思想界にはまったくあらわれなかったといってよい。ぼくも厳密には調べていないけれど、おそらく明治の岡倉天心や内藤湖南まで、日本人はタオイズムを理論的につかめなかったのではあるまいか。 

≪057≫  第3に、ここには最初のブッダ論がある。仮名乞児に託して語っているものであるが、空海がブッダに連なりたい者であることが断固として示されている。『三教指帰』が出家宣言書であるといわれるのは、このためだ。  

≪058≫  第4に、『三教指帰』は日本最初の「無常の思想」の表明をなしとげた。「無常の賦」という漢詩も挿入されている。これは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」につづく表明である。日本仏教がつねにこうした「無常」を媒介にして転換していったこと、すでに太子と大師において実験済みだったのである。 

≪059≫  そして第5に、ここには空海の圧倒的な編集方法が縦横無尽に駆使された。これこそはのちの空海がいたるところで発揮する“方法の魂”の実験だった。それを一言で特徴づけるなら、やはり「断片から総合へ」「一から多へ」、そして「いかなる部分にも全体を響かせる」というものだった。 

『三教指帰・性霊集』

≪060≫  こうして『聾瞽(三教)指帰』を書きあげた空海がどうしたかというと、そこからの消息がまったくつかめないままなのだ。次に空海の事績が記録にあらわれるのは、延暦23年(804)に藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船したということなのだ。 

≪061≫  それが31歳だから、実にそこには7年の空白がある。空海にとっての7年はわれわれの7年ではない。なにしろ20年間の入唐留学をわずか2年に圧縮できる人である。よほどの7年が送られたといってよい。 

≪062≫  では空海は何をしていたのかということは、われわれがその後の空海をどのように理解するかということにかかっていく。ぼくにもいくつもの想定はあるけれど、それは『空海の夢』をじっくり読んでもらって判断してもらいたい。 

≪063≫  いずれにしても、空海思想の原点は『三教指帰』にすべてある。ここでは、それを日本最初の「総合編集思想の試み」と言っておくだけにする。 

道元  『正法眼蔵』

道元  『正法眼蔵』①

≪01≫  道元の言葉は激しくて澄んで、蹲っている。一切同時現成である。 

≪02≫  高速でいて雅量に富んでいる。刀身のようでいてその刀身に月が映じ、さらにその切っ先の動きは悠久の山水の気運に応じたりもする。言葉そのものが透体脱落して、観仏三昧を自在に往来する。漢語が日本語になろうとして躍っているようにも感じる。こういう仏教哲学はほかにはない。 

≪03≫  しかし困ることがある。道元を読みはじめたら類書や欧米の思想書を読む気がしなくなることだ。それほどに、いつも汲めども尽きぬ含蓄と直観が押し寄せてくる。湧いてくる。飛んでくる。深いというよりも、言葉が多層多岐に重畳していて、ちょっとした見方で撥ねかたが異なってくる。水墨画には破墨と潑墨という技法があるのだが、それに近い。墨が墨を破り、墨が墨を撥ねつける。だから、道元の読みかたは2つしかない。よほどに向き合いたくてゆっくりと道元に入っていけるときに読むか、聖書を読むように傍らにおいて呟くように読むか。 

≪04≫  ぼくも、その両方で読んできた。聖書のように読むのには、昭和27年発行の鴻盟社の『本山版正法眼蔵』縮刷本を愛用した。本山版というのは95巻本をいう。これはソフトカバーで手にとりやすく、読みやすい。あれほど大部の『正法眼蔵』が片手に入る。こういうハンドリング感覚というものはアフォーダンスがよいので妙なもの、『正法眼蔵』をコンサイスの辞書のように読んでいると、道元に入るというよりも、自分の前の何かの器に道元のミルクを移し変えているような気分になる。 

道元  『正法眼蔵』

≪05≫  ゆっくり読むときは、校注本や訳注本あるいは現代語の訳文がついている対訳本を見る。最初のうちは岩波日本思想大系をベースキャンプにしてきたが、道元の言葉はあたかも複合文様のごとくにいかようにも読めるので、テキストを変えることも多い。また道元には『永平広録』や『永平元禅師語録』も、さらに『正法眼蔵随聞記』もあって、これも見逃せない。良寛が「一夜灯前 涙とまらず 湿し尽す永平古仏録」と感想を書いたのは、おそらく『道元禅師語録』である。そういうものも読む。 

≪06≫  関連書も多い。だから、そのまま研究書や評釈本に進んでしまうこともあるが、それはそれで夢中になれるのだ。二年ほど前には何燕生の『道元と中国禅思想』(法藏館)を読んだばかりだった。道元は中国で如浄に出会えて「眼横鼻直」を問われ「単伝正直」を知り、それなのに「空手還郷」をもって帰朝したのだが、これだけの話ではどうも中国禅との関係が見えきらなかったので、読んでみた。やはり道元は中国禅にあまり詳しくはない。また一年前には山内舜雄の大冊『道元禅と天台本覚法門』(大蔵出版)を読んだのだが、これは失望した。 

≪07≫  こういうぐあいだから、道元を読むといってもいつも右往左往だ。けれども、そこまでしてでも道元にさんざん振り回されることはなによりの快感で、これが親鸞や日蓮ではそうはいかない。明恵、栄西、疎石もこうではない。道元から一休にまで跳ぶ。 

道元  『正法眼蔵』

≪08≫  向こうから道元がスタスタ歩いてやってくることもある。 最近のことでは、かつて現代思潮社の社主として澁澤龍彥とともにサド裁判などでならした石井恭二さんが、1990年代に入って『現代文正法眼蔵』の大翻訳を敢行し、その書評や対談を頼まれたのがきっかけで、道元を現代哲学のように読み返すことが続いていた。そこへ、知人の平盛サヨ子が大谷哲夫『永平の風』(文芸社)のエディトリアル・ライティングを担当して、また道元にふれることになり、さらに大阪の講演会で一緒になった立松和平ともなぜか道元の話になって、さっそく『道元』(小学館)を送ってきた。ある版元から「道元を書きませんか」とも言われている。正直いって、とうてい書けそうもない。なにしろ四十年にわたる密会の恋人なのだ。 

≪09≫  思い返すと、最初に道元を読んだのは学生時代のこと、森本和夫が早稲田での談話会で『正法眼蔵』の話をして刺激をうけたときのことだ。寺田透の校注で、「有時」の一節、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」に惹かれた。 

≪010≫  道元にアランやハイデガーやベルクソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、反面、道元の禅者としての格闘を等閑視することになり、その後は、むしろ現代性をとっぱらって、いわば直面あるいはすっぴんで道元を読むほうに傾いた。 

≪011≫  そういうときに大乗禅の師家である秋月龍珉さんがぼくの前にあらわれて、「君の空海論や大拙論は出色だ」と言い出したかとおもうまもなく、なにかにつけては呼び出されるようになるうち、道元と西田幾多郎の読み方のお相手をさせられるようになった。ちょうど秋月さんが、そのころはまだ一般向けがめずらしい『道元入門』(講談社現代新書)を書いたあとだったと憶う。 

道元  『正法眼蔵』

≪012≫  道元を読むと、そこに浸りたくなる。その峡谷から外に出たくなくなっていく。それを道元は望んでいないともおもえるが、だったらその浸るところはどこかも考えたくなる。似たようなことを感じた人は当然いくらもいるようで、岩田慶治の『道元の見た宇宙』(青土社)のばあいは、“flow”という一語をあげた。そのフローに浸るというか、そこを漂うというか、自身をフローさせつつ道元とともに生の世界像に一身を任せるのが道元を読むことだという主旨になっている。 

≪013≫  寺田透の『透体脱落』(思潮社)は、道元ばかりを扱っているのではないけれど、やはり主旨の中核を道元が占めている。寺田は「僕に残す光それ自体であるやうな虚無、しかし意力の充満した美しい虚無のかんじにさそはれる」と書いた。寺田は道元が放った光に浸った。それが吉田一穂では、自身の脊髄を道元と合わせて極北の軸を自らに突き刺すことをもって道元に浸るのだから、これは苛烈な道元との合体だ。 

≪014≫  みんながみんな、道元を好きに読んできた。それが道元の「逆対応」という魅力であった。そこには禅のもつ魅力もむろん関与しているが、それだけではなく、道元の文才や言葉づかいや独自の用法もあずかっている。すでに井上ひさしが『道元の冒険』でもあきらかにしたことだ。 

道元  『正法眼蔵』

≪015≫  さて、このようなことを綴ってばかりでは、いつまでたっても『正法眼蔵』には入れないので、周縁余談はこのへんにして、では、以下にはごくごく僅かな隙間から洩れ零れる道元の裂帛の言葉を案内しておきたいとおもう。もっとも、こんなことをするのは初めてで、やりはじめてみてすぐわかったのだが、もっと早くにこういうノートを何種類も作っておけばよかったと悔やむばかりなのである。 

≪016≫  5年におよんだ入宋の日々を終えた道元は、安貞元年(1227)に帰国すると建仁寺に身を寄せて、『普勧坐禅儀』を書いた。坐禅の心得と作法の一書である。しかしそれが、従来の仏教のいっさいの贅肉を鉞で殺ぐたぐいのものであったため、天台本拠の延暦寺に刃向かう誹謗非難とうけとられ、建仁寺も道元を追い出しにかかった。鎌倉以前の仏教は今日と同様に、贅肉だらけだったのだ。 

≪017≫  やむなく深草極楽寺の安養院に退いた道元は、「激揚の時をまつゆゑに、しばらく雲遊して先哲の風を聞く」という覚悟をするのだが、このとき30歳をこえたばかりの道元はさすがに憤懣やるかたない。 

≪018≫  そこで比叡山を無視して潔く説法を開始してみると、学衆が次々に集まってくる。天福元年(1233)、宇治に道場の興聖寺を作って正式に法話を語ることにした。それが『正法眼蔵』の最初の「現成公按」と「摩訶般若波羅蜜」の2巻になった。以降、年を追って巻立てがふえていく。 

≪019≫  すでに書いたように、この『正法眼蔵』にはいくつかの写本があるのでどれをもって定番とするかは決めがたいのであるが、ここでは75巻本をテキストとして以下に列挙した。ところどころに勝手な解説をつけた。全部を埋めなかったのは、そういうやりかたが道元流であるからだ。 

道元  『正法眼蔵』

≪020≫ 序「辨道話」。 これは『正法眼蔵』本文に序としてついているのではないが、長らく序文のように読まれてきた。「打坐して身心脱落することを得よ」とある。この言葉こそ、『正法眼蔵』全75巻あるいは全95巻の精髄である。  

≪021≫ 一「現成公按」。 有名な冒頭巻だが、「悟上に得悟する」か、「迷中になお迷う」かを迫られている気になってくる。道元は、仏祖が迷悟を透脱した境涯で自在に遊んだことをもって悟りとみなした。それが「仏道を習ふといふは自己を習うなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」の名文句に集約される。 

≪022≫ 二「摩訶般若波羅蜜」。 『正法眼蔵』は般若心経を意識している。しかし道元は「色即是空・空即是色」をあえて解体して、「色是色なり、空是空なり」とした。『正法眼蔵』はあらゆる重要仏典の再編集装置であるといってもいい。 

≪023≫ 三「仏性」。 

≪024≫ 四「身心学道」。 

≪025≫ 五「即心是仏」。 

≪026≫ 六「行仏威儀」。 

≪027≫ 七「一顆明珠」。 39歳のときの1巻。道元の好きな「尽十方世界是一顆明珠」にちなんでいる。よく知られる説教「親友に譲るものは最も大切な明珠であるべきだ」というくだりは、仏典の各所にも名高い。ぼくは親友(心友)に何を譲れるのだろうか。  

≪028≫ 八「心不可得」。 

≪029≫ 九「古仏心」。 

道元  『正法眼蔵』

≪030≫ 十「大悟」。 いったい何が悟りかと、仏教に遠い者も近い者もそれをばかり訊ねたがる。しかし悟りは意味を問わない。道元は、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」と言ってのけた。これでわからなければ、二度と悟りなどという言葉を口にしないほうがいいという意味だ。  

≪031≫ 十一「坐禅儀」。 

≪032≫ 十二「坐禅箴」。 

≪033≫ 十三「海印三昧」。 

≪034≫ 十四「空華」。 ここは世阿弥の「離見の見」を思い出させるところ。道元はそれを「離却」といった。 

≪035≫ 十五「光明」。 ここにも「尽十方界無一人不是自己」のフレーズが出てくる。尽十方界に一人としてこれ自己ならざるなし、である。華厳の世界観は十方に理事の法界を見たのだが、道元は十方に無数の自己の法界を見た。 

≪036≫ 十六「行持」。 「いま」こそを問題にする。「行持のいまは自己に去来出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず。行持現成するをいまといふ」。さらに「ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり、これ行持なるべし」とも書いた。一方、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず」は、露伴の連環につながっているところ。 

≪037≫ 十七「恁麼」。 「いんも」と読む。「そのような、そのように、どのように」というようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼あるなり」というふうに。  

≪038≫ 十八「観音」。 

≪039≫ 十九「古鏡」。 鏡が出てきたら禅では要注意だ。きっと「君の禅を求める以前の相貌はどこに行ったのか」と問われるに決まっているからだ。 

道元  『正法眼蔵』

≪040≫ 二十「有時」。 道元はつねに「無相の自己」を想定していた。その無相の自己が有るところが有時である。これを、時間はすなわち存在で、存在はすなわち時間であると読めば、ハイデガーやベルクソンそのものになる。 

≪041≫ 二一「授記」。 

≪042≫ 二二「全機」。 

≪043≫ 二三「都機」。 ツキと読む。月である。『正法眼蔵』のなかでは最もルナティックな一巻だ。「諸月の円成すること、前三々のみにあらず、後三々のみにあらず」。道元は法身は水中の月の如しと見た。 

≪044≫ 二四「画餅」。 ここは寺田透が感心した巻だ。「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずは仏法も実にあらず。仏法もし実になるには、画餅すなはち実なるべし」という、絶対的肯定観が披瀝される。 

≪045≫ 二五「渓声山色」。 前段に「香巌撃竹」、後段に「霊雲桃花」を配した絶妙な章だ。百丈の弟子の香巌は師が亡くなったので兄弟子の潙山を訪ねるのだが、そこで、「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前に当たって何かを言ってみよ」と言われて、愕然とする。何も答えられないので、何かヒントがほしいと頼んだが、兄弟子は「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前はいつか私や自分を恨むだろう」と突っぱねた。そのまま悄然として庵を結んで竹を植えて暮らしていたところ、ある日、掃除をしているうちに小石が竹に当たって激しい音をたてた。ハッとして香巌は水浴して禅院に向かって祈った。これが禅林に有名な香巌の撃竹である。「霊雲桃花」では、その竹が花になる。 

≪046≫ 二六「仏向上事」。 

≪047≫ 二七「夢中説夢」。 

≪048≫ 二八「礼拝得髄」。 41歳のころの執筆。きわめて独創的な女性論・悪人論・童子論になっている。ぼくも近ごろはやっとこういう気分になってきた。7歳の童子に向けても何かを伝えたいなら礼をもってするべきだというのだ。 

≪049≫ 二九「山水経」。 ぼくの『山水思想』(五月書房→ちくま学芸文庫)はこの一巻に出所したといってよい。曰く、「而今の山水は古仏の道、現成なり」「空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり」「朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり」。これ以上の何を付け加えるべきか。 

道元  『正法眼蔵』

≪050≫ 三十「看経」。  

≪051≫ 三一「諸悪莫作」。 ふつう仏教では「諸悪莫作」を「諸悪、作す莫れ」と読む。道元はこれを「諸悪作ることなし」と読んだ。もともと道元は漢文を勝手に自分流に編集して読み下す名人なのだが、この解読はとりわけ画期的だった。諸悪など作れっこないと言ったのだ。 

≪052≫ 三二「伝衣」。  

≪053≫ 三三「道得」。 禅はしばしば「不立文字」「以心伝心」といわれるが、それにひっかかってはいけない。言葉にならずに何がわかるのかというのが道元なのだ。それを「道得」という。道とは「言う」という意味である。 

≪054≫ 三四「仏教」。 「仏心といふは仏の眼睛なり、破木杓なり、諸法なり」と、三段に解く。道元得意の編集だ。そのうえで「仏教といふは万像森羅なり」とまとめた。ここでは12因縁も説く。 

≪055≫ 三五「神通」。 

≪056≫ 三六「阿羅漢」。 

≪057≫ 三七「春秋」。 しばしば引かれる説法だ。暑さや寒さから逃れるにはどうしたらいいかという愚問に、正面きって暑いときは暑さになり、寒いときは寒さになれと教えた。絶対的相待性なのである。  

≪058≫ 三八「葛藤」。 かつてここを読んで愕然とした。「葛藤をもて葛藤に嗣続することを知らんや」のところに刮目させられたのだ。煩悩をもって煩悩を切断し、葛藤をもって葛藤を截断するのが仏性というもので、だからこそ仏教とは、葛藤をもって葛藤を継ぐものだというのである! 

≪059≫ 三九「嗣書」。 

道元  『正法眼蔵』

≪060≫ 四十「栢樹子」。 

≪061≫ 四一「三界唯心」。 

≪062≫ 四二「説心説性」。 心性を説く。しかしそこは道元で、1本の棒を持たせて、その棒を持ったとき、縦にしたとき、横にしたとき、放したとき、それぞれを説心説性として自覚せよとした。デザイナーの鉛筆もそうあるべきだった。そこを「性は澄湛にして、相は遷移する」とも綴った。これはまさにアフォーダンス論である。 

≪063≫ 四三「諸法実相」。  

≪064≫ 四四「仏道」。 

≪065≫ 四五「密語」。 密語とは何げない言葉のことをいう。その微妙に隠れるところの意味がわからずには、仏心などとうてい見えてはこないというのだ。たとえば、師が「紙を」と言う。弟子が「はい」と寄ってくる。師が「わかったか」。弟子は「何のことでしょうか」。師「もう、いい」と言う。これが曹洞禅というものである。 

≪066≫ 四六「無情説法」。 

≪067≫ 四七「仏経」。   

≪068≫ 四八「法性」。 道元は34歳で興聖寺をおこしたが、比叡山から睨まれていた。そこで熱心なサポーターの波多野義重の助力によって越前に本拠を移す。そして44歳のとき、この一巻を綴った。「人喫飯、飯喫人」。人が飯を食えば、飯は人を食うというのだ。飯を食わねば人ではいられぬが、人が人でいられるのは飯のせいではない。飯を食えば飯に食われるだけである。道元はこれを書いて越前に立脚した。 

≪069≫ 四九「陀羅尼」。 陀羅尼の意味を説明するのだが、それを道元は前巻につづけて、寺づくりは「あるがままの造作」でやるべきこと、それこそが陀羅尼だというメタファーを動かした。たいした事業家なのである。 

道元  『正法眼蔵』

≪070≫ 五十「洗面」。 

≪071≫ 五一「面授」。 いったい何を教えとして受け取るか。結局はそれが問題なのである。いかに師が偉大であろうと、接した者が「親の心子知らず」になることのほうが多いのは当然なのだ。しかし面授は僅かな微妙によって成就もするし失敗もする。道元は問う、諸君は愛惜すべきものと護持すべきものを勘違いしているのではないか。 

≪072≫ 五二「仏祖」。 

≪073≫ 五三「梅花」。 「老梅樹、はなはだ無端なり」。老いた老梅が一気に花を咲かせることがある。疲れた者が一挙に活性を取り戻すことがある。「雪裏の梅花只一枝なり」。道元は釈迦が入滅するときに雪中に梅花一枝が咲いた例をあげ、その一花が咲こうとすることが百花繚乱なのだということを言う。すでにここには唐木順三が驚いた道元による「冬の発見」もあった。 

≪074≫ 五四「洗浄」。 

≪075≫ 五五「十方」。 

≪076≫ 五六「見仏」。 自身を透脱するから見仏がある。「法師に親近する」とはそのことだ。相手を好きになるときに自身を解き、相手に好かれるときに禅定に入る。が、それがなかなか難儀なのである。  

≪077≫ 五七「遍参」。 仏教一般では「遍参」は遍歴修行のことをいう。しかし道元は自己遍参をこそ勧めた。そこに遍参から「同参」への跳躍がある。 

≪078≫ 五八「眼晴」。 

≪079≫ 五九「家常」  

道元  『正法眼蔵』

≪080≫ 六十「三十七品菩提分法」。 

≪081≫ 六一「竜吟」。 「竜吟」。あるときに僧が問うた、「枯木は竜吟を奏でるでしょうか」。師が言った、「わが仏道では髑髏が大いなる法を説いておる」。それだけ。 

≪082≫ 六二「祖師西来意」。  

≪083≫ 六三「発菩提心」。 越前に移った道元はいよいよ永平寺を構えるという継続事業に乗り出した。その心得をここに綴って、その事業の出発点を「障壁瓦礫、古仏の心」というふうに肝に銘じた。素材が古かろうとも、そこにあるものを寄せ集めた初心を忘れるなということだ。 

≪084≫ 六四「優曇華」。  

≪085≫ 六五「如来全身」。 

≪086≫ 六六「三昧王三昧」。 仏教が最も本来の三昧とする自受用三昧のことである。道元は三昧を一種としないで、つねに多種化した。 

≪087≫ 六七「転法輪」。 

≪088≫ 六八「大修行」。 

≪089≫ 六九「自証三昧」。 岩田慶治が好んだ「遍参自己」が出てくる。「遍参知識は遍参自己なり」と。先達や師匠のあいだをめぐって得られる知識は、自分をめぐりめぐって得た知識になっているはずなのである。  

道元  『正法眼蔵』

≪090≫ 七十「虚空」。  

≪091≫ 七一「鉢盂」。 鉄鉢は飯器のようなものだが、禅林ではこれを仏祖の目や知恵の象徴に見立てて、編集稽古する。このときたいてい「什麼」が問われる。「什麼」は「なにか」ということで、この「なにか」には何でもあてはまる。何にでもあてはまるから、何でもいいわけではなくなってくる。その急激な視野狭窄に向かって、道元が「それ以前」を問うのである。 

≪092≫ 七二「安居」。  

≪093≫ 七三「他心通」。 

≪094≫ 七四「王索仙陀婆」。 寛元四年(1246)、大仏寺は日本国越前永平寺となった。開寺にあたって道元は寺衆に言った、「紙衣ばかりでもその日の命を養へば、是の上に望むことなし」と。   

≪095≫ 七五「出家」。 道元は53歳の八月に入滅した。あれだけの大傑としてはあまりの早死にであろう。芭蕉や漱石の没年に近い。遺偈は「五十四年、第一天を照らし、趺跳を打箇して大千を触破す。咦、渾身もとむる処なく、活きながら黄泉に陥つ」というものだった。 

『ブッダが考えたこと』 ①

≪01≫  20世紀半ばにいたるまで、ヨーロッパにおいて「ブッダの教え」がどのように受けとめられてきたかという歴史は、一言でいえば惨憺たるものだ。多少は仏教に興味をもった知識人たちの理解もかなり心もとないもので、おおむねは「仏教は無神論だ」「仏教は哲学であって宗教ではない」「仏教は汎仏論、ないしは汎心論にすぎない」とみなされた。 

≪02≫  仏教が宗教ではないというのは、ヨーロッパ知によるユダヤ教やキリスト教などの普遍宗教に達していないという意味で、普遍主義(universalism)をカノンとして重視するヨーロッパの宗教者や知識人からすると、仏教は世界認識から退却あるいは撤退しているような思索と行動にとらわれていると見えたのだ。消極的にも貧弱にも見えた。 

≪03≫  ローマに向かってシルクロードを渡ってきた仏教は、十字軍遠征前後のちょうど盛んになっていたキリスト教の圧倒的な力とビザンティン文化の前では、ひどく色褪せたものだったのである。 

≪04≫  近代になって仏教に関心を寄せた連中も、けっこう誤解したし、曲解に終始した。ヘーゲル(1708夜)はヒンドゥイズムを「幻想の宗教」と捉え、仏教を「自己内存在の宗教」とみなし、東洋宗教として儒教とともに仏教を調べたはずのマックス・ウェーバーも「仏教には社会性が欠けている」と批判して、ブッダや大乗仏教が何を構想したのか、また実践したのか、まったく考慮しなかった。

≪05≫  東西の道徳の源泉に言及しようとしたベルクソン(1212夜)でさえ、きっと後期仏典のフランス語訳をいくばくか齧った程度だったろうと思うのだが、「仏教が神秘主義であるとするのに躊躇しない」と述べるにとどまっている。 

『ブッダが考えたこと』②

≪06≫  少しは仏教の肩をもったとおぼしいショーペンハウアー(1164夜)やニーチェ(1023夜)にあっても、仏教にはペシミズムやニヒリズムがあるが、それは世界や社会に貢献しようとしない消極的すぎるものであるとみなした。 

≪07≫  なかでヤスパースが世界と人間の「限界状況」を哲学して、苦(ライデン)、争い(カンプ)、死(トート)、負い目(シェルト)の4つの限界が人間の逃れられないものとしてあることを強調し、そこから仏教の「一切皆苦」や「空」の考え方に接近したことがあるのだが、1935年の『理性と実存』で、この限界状況を脱するには実存から包括者に向かうしかないと見て、仏教の渦中には投じなかった。 

≪08≫  いまはティク・ナット・ハン(275夜)の登場で、スピリチュアリズムやマインドフルネスに注目する精神医学界や心理学者たちも、20世紀の半分くらい、仏教に関心をもたなかった。ユングは道教とマンダラに注目したものの仏教心理には及ばず、フロイトは仏教を一瞥もしなかった。思うに、フロイト主義者で仏教を重視したのは「阿闍世コンプレックス」を提案した日本の古澤平作だけだろう。  

≪09≫  西洋の知識人たちには、仏教はひどく厭世的なもの、もしくは消極的なものと映ってきたのである。それでもぼくはショーペンハウアーの「ミットライト・ペシミズム」に仏教との多少の共通性をみとめるけれど、とはいえ大半の西洋哲学は仏教に抉(えぐ)られることなく、ましてブッダを独創的な宗教者や思想者としてみることなく、いたずらに1000年を費やしたのだった。思想史として、まことにふがいない。 

『ブッダが考えたこと』③

≪010≫  1959年にイギリスで、簡潔だが凝縮された一冊の本が刊行された。ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』である。以来、この本は「英語で書かれた最良のブッダ入門書」と言われてきた。3年ほど前に今枝由郎が訳して岩波文庫に入った。 

≪011≫  ラーフラはスリランカ出身で、テラワーダ仏教(東南アジアに伝播した南伝仏教=上座部仏教)で育ち、セイロン大学で仏教史を学び、カルカッタ大学で大乗仏教研究に専心したのち、ソルボンヌ大学でポール・ドゥミヴィルの指導のもとに近代の哲学と科学にもとづく仏教研究に従事した。 

≪012≫  『ブッダが説いたこと』はソルボンヌ期のあとの著作で、四諦(したい)、八正道、縁起、苦(ドゥッカ)を中心にブッダの教えを解説して、西洋人向けにわかりやすく書けている。わかりやすいだけではなく、それまで西洋思想が掴みそこねてきた仏教観を大きく訂正した。ブッダに戻って解説したことに説得力があった。ブッダは世間(社会)を「苦」とみなし(一切皆苦)、安易な幸福など求めるなと説いたのだが、それはきわめて積極的なものだったとラーフラは書いた。 

≪013≫  今夜とりあげた本書は、そのラーフラの弟子のリチャード・ゴンブリッチが著した。ラーフラの『ブッダが説いたこと』に倣って、これをさらに『ブッダが考えたこと』に進めた。 

≪014≫  ゴンブリッチはパーリ語にもサンスクリット語にも明るく、オックスフォード大学仏教学センターの所長などを長く勤めた。『インド・スリランカ上座仏教史――テーラワーダの社会』(春秋社)、『仏教はいかにして始まったか』(未訳)、共著の『スリランカの仏教』(法蔵館)などの著作がある。 

≪015≫  リチャードの父親は美術史家また美学者として名高いエルンスト・ゴンブリッチである。息子はその香しい血をひいたのであろう。なかなか瑞々しい。ちなみに父ゴンブリッチはワールブルク研究所の凄腕として鳴らし、日本語訳があるものでいえば、『シンボリック・イメージ』(平凡社)、『美術の歩み』上下(美術出版社)、『規範と形式』(中央公論美術出版)などの大著をのこした。ぼくはいずれのお世話にもなった。 

『ブッダが考えたこと』

≪016≫  本書は、ブッダには超自然的な思考や神秘的な観点がまったくなかったことをまっこうから論じたもので、ブッダが何を訴え、どのように語ったかに絞って議論する。ゴンブリッチはまず、ブッダが善巧方便によるメタフォリカル・コミュニケーションをつかって、ソクラテス同様の対機説法(anti-machine sermon)に徹したことを強調した。 

≪017≫  知られていることだろうけれど、ブッダには著作がない。ひたすら話すだけだった(それがのちに後継者たちによって編集され、厖大な仏典群になっていった)。話すときには対機説法に徹し、相手の資質・能力・欲望の度合いに応じて、話し方を変えた。それゆえ比喩も多い。ブッダは語り部型のコミュニケーターだったのである。 

≪018≫  ブッダは主として3つの方法を駆使した。第1には「存在」と「生成」を対義語として、対偶的につかった。第2には三宝印をうまくつかった。3つの印とはアニッチャ(無常、変化)、ドゥッカ(苦・不満足・不足)、アナッタ(我、私、自己)である。ふつうは「一切皆苦・諸行無常・諸法無我」を三宝印という。第3には意識(サンカーラー)の本質に肉薄するため、カルマ(業)と「蘊」(うん)をできるだけ一緒に解釈した。蘊についてはあとで説明するけれど、当時は五つの蘊、すなわち五蘊のとりくみのうち、このサンカーラーの正体をめぐる思索や議論がいちばんヘビーだったと思われる。 

≪019≫  ゴンブリッチはブッダがこれらに着目し、今日の科学哲学や複雑系科学の一端にくいこむノンランダム・プロセスによる思索に達したのではないかと見た。 

『ブッダが考えたこと』

≪020≫  ブッダの時代、信仰社会ではバラモン教と初期インド哲学と六師外道がとりまいていた。そこでは、大なるブラフマン(梵)と小なるアートマン(我)の合致が至上のものとされていた。いわゆる梵我一如だ。  

≪021≫  当時はマクロコスモスとミクロコスモスがなんらの情報処理もなく、意図の力によって合体できると信仰され、そう信じれば魂が汚染されていることを浄化することができると考えられていた。汚染によって魂に煩悩やカルマ(業)がまとわりついているとみなされ、その浄化のためには梵我一如が理想とされ、そのためには苦行(タパス)が役に立つと考えられたのだ。しかしブッダはこのことに大きな疑問をもち、あえて別様の可能性に挑んだ。 

≪022≫  ブッダは30代に、バラモンたちの修行の仕方やインド哲学の真理の説明に不満を感じて、マクロコスモス(宇宙原理)とミクロコスモス(個我原理)のあいだには、この世を実感している身体意識をもつ厄介なメゾコスモスがあると実感していたはずである。メゾコスモス(メゾスコピックなコスモス)とは中間体としての身体まわりのことだ。あるいは生活身体のことだ。 

≪023≫  身体意識は一瞬にして変化するものではない。日々の生活や欲望によって少しずつ変化する。そのため遠い過去から生成されたものは変化しながら、現在の自分という意識に及んでいる。ブッダは、そうであるのならマクロとミクロのあいだにいる自分の中道的実感にこそ律するべきだと感じていた。 

『ブッダが考えたこと』

≪024≫  ヨーロッパ哲学では、古来「何が存在するのか」、および「われわれは何を知りうるのか」という主題が一貫して流れてきた。ゴンブリッチは、ブッダが「何を知りうるのか」とは考えなかったことを強調する。   

≪025≫  ブッダは知りえないものがあったっていいと思っていたのだ。これを仏教では「不記」とか「無記」(アヴィヤーカタ)という。記せないものや、記しても仕方のないことがあってもいいという見方だ。そうすることによって、ブッダは「生から生に連続するものとは何か」という新たな問いのほうに向かった。その「生から生に連続するもの」がメゾコスモス(メゾシステム)としての身体意識である。 

≪026≫  もしもカルマが絡まるアートマンの解放(ウィムッティ)があるとすれば(それがのちに「解脱」という用語になるのだが)、ブッダはそこに「存在」と「生成」をめぐる思考を挟みこんだのである。 

『ブッダが考えたこと』

≪027≫  ブッダが「生から生に連続するもの」という問題意識をもったのは、古代インドにおいてはサンサーラ(輪廻)とカルマ(業)が大半のインド人にとっての通常観念になっていたからだ。   

≪028≫  サンサーラは「輪廻転生」と訳されるように、生きとし生けるものがもつ宿命である。生けるものが死ねば別のものに転生するというおそろしい観念だ。古代インド人はここから抜け出せないでいた。 

≪029≫  このことはヴェーダ信仰が進むなか、ブラーフマナ文献やウパニシャッド初期文献に言及されて、当初は「五火説」として説明されていた。死者は月にいったんとどまり、雨となって大地に戻り、植物がこれを吸収して雑穀となり、それが雑穀を食べた男の精子となって女と交わって胎児になり、そして生者として誕生(再生)するという考え方だ。それがくりかえされる。くりかえされるだけでなく、転生のたびに植物や動物になる。 

≪030≫  なぜこんなふうな輪廻転生がおこるかということは、生きとし生けるものがもつカルマのせいだとみなされた。古代インド社会でカースト(ヴァルナ)が宿命的に決まっているのも、このカルマとサンサーラによるものだった。 

≪031≫  これらはまとめて「因果応報」(因中有果)の出来事だと解釈された。因(原因)によって果(結果)が決まる。この因果応報によって善因業果、悪因苦果、自業自得がおこる。いまでも日本人がよく口にする「自業自得」とはカルマが付着しきった状態のことをいう。因果応報は英語では“casual retribution”という。 

≪032≫  当初、青年ブッダにも因果応報という見方は大きく投影していた。いったいどうしたらそうした因果の循環から脱却できるのか。そこでブッダはわれわれがサンサーラの循環にあることそのものを「苦」の本質と捉え、輪廻転生の観念からの根底的な離脱をはかっていくことにした。それが仏教の最初のコンセプトになった「一切皆苦」(世界はもともと「苦」でできている)というものになるのだが、しかしながらそうするには、もともと輪廻の主体になっているものとしてのアートマンを、またアートマンにもとづいて確立したかに見える「我」のようなものを、できるかぎり想定しないようにしなければならない。 

≪033≫  こうしてブッダはとっておきの「無我」(アナートマン)を持ち出したのである。「非我」ともいう。「我がない」のではなく、「無我というものがある」とみなしたのだ。それとともに「我」のルーツともいうべきアートマンに別れを告げた。 

『ブッダが考えたこと』

≪034≫  ブッダの決断は、とんでもない思想あるいは行動思想に向かおうとしていた。アートマンを認めないということは、そのとたん、ガウタマ・シッダールタという本人自身が全世界に対してのいっさいの責任を負うことを、ただちに意味するからだ。  

≪035≫  のみならず、この決断の先の思想あるいは行動思想では、つまり「仏教」としては、それに奉じる者たちにはカルマが通用しないことも、示さなければならない。これはとんでもない難問だった。シッダールタがブッダ(覚者)になるときがあるとしたら、そのブッダとはサンサーラやカルマから自由な者であるということになる。 

≪036≫  カルマは「生から生に連続するもの」を妨げ、ジーヴァ(生のモナドのようなもの)にまとわりついてくる。そのカルマから自由になり、輪廻の悪夢から脱却する状態を示すには、どうするべきなのか。青年から壮年にかけて、ブッダはこの問題のブレークスルーを見つけださなければならなかった。 

≪037≫  いずれも途方もない難問ではあったが、ゴンブリッチは、ブッダがこれらにとりくむにあたっては、ジャイナ教にヒントを得たのではないかということを強調している。ジャイナ教はマハーヴィラ(=ヴァルダマーナ)が大成した教義に則(のっと)って結ばれた信仰集団だが、そのころすでにバラモン教の教えを批判し、ヴェーダの権威を否定し、世間の価値はすべて相対的であろうという見方を提示していた。真理は多様に言いあらわせると言っていたのだ。白衣派と裸行派がいた。 

≪038≫  はたしてどのくらいブッダがジャイナ教からヒントを得ていたか証拠はないのだが、本書ではその可能性がさまざまな角度でアプローチされている。ぼくは埴谷雄高がジャイナ教に関心をもっていたことを知ってからというもの、ひそかにジャイナ教に親近感をもってきたのだが、本書を読んで、あらためてやっぱりそうだったんだろうなと思えた。 

≪039≫  しかし、ジャイナ教ではままならないところも多かったはずである。かれらは苦行を辞してはいなかったのだ。ブッダは以上のことを「苦行(タパス)抜き」で実現したかった 

≪055≫  ブッダが説いた仏教は、世界と自分が余分な知識によって「無明」(アヴィドヤー)に陥っていることに注目し、実は世界と自分をちゃんと見れば、それぞれが「縁起」(プラティーティヤ・サムトパーダ=十二縁起)によって相互関係をおこしていることがわかるはずだという説法から始まっている。  

≪056≫  そこで4つの基本的なスタンスを説いた。苦諦、集諦、滅諦、道諦の「四諦」(したい)である。苦諦はこの世は迷いばかりなのだから、なにもかもを苦(ドゥッカ)と感じるだろうことを、集諦は苦の原因が煩悩や妄執や渇愛が集まってくるということを、滅諦はだから世の中を無常だとみなさい(変化するものとみなさい)、執着を断ちなさいということを、道諦は以上のことを諦められる心をもちなさいということを、説いている。 

『ブッダが考えたこと』

≪040≫  梵我一如ではない覚醒をめざすには、同時期に少しずつ深化をとげつつあったインド六派哲学の考え方とも差し違える覚悟が必要だった。これも難問である。サーンキヤでは知識による洞察をもって、ヴァイシェーシカでは自然に対する観照をもって、それぞれ特有の解脱(覚醒)の方法が模索されていた。それらは当時、そうとうに雄弁になりつつあった。とくにサーンキヤ学派が独創的だった(ぼくは木村泰賢によってかなりハマっていた時期がある)。 

≪041≫  けれども壮年ブッダは頑としてこれらに与(くみ)さないことにした。与さないためには、まずもって知識洞察や自然観照を作動させる元の元にある「自己」から離れるしかないと思った。 

≪042≫  そこでなんとしてでも「無我」「非我」に徹することが最大の眼目だろうということに気づくのだが、それだけではこれらの哲学的成果の影響を排除しきれず、きっとなんらかの侵襲もうけるだろうから、一方ではヴェーダ思想や六派哲学が持ち出した概念力(言葉の意味と意図の力)を変更させておかなければならないとも決断したはずである。  

≪043≫  どうすればサーンキヤらの考え方を“脱構築”したらいいのか。そこでブッダがとりあげたのが「五蘊」(ごうん)の扱いだった。五蘊をインド哲学的な特徴をもつ概念の牢獄から解き放って、あくまで覚醒のためのプロセスとして扱い、そのプロセスを通してその「実体のなさ」を明言することにした。  

『ブッダが考えたこと』⑩

≪044≫  五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊のことをいう。「蘊」(スカンダ)は活性するものの集まりや炎の束やクラスターのことだから、五蘊は「色・受・想・行・識」(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)という知覚作用と意識作用すべての因果の総体のことをさす。 

≪045≫  色蘊は認識の対象となる「もの」の総称で、一定の空間や場所を占め、たえず変化する。受蘊は肉体的で生理的な感覚がとらえる感受作用のことで、根(六根)・境(六境)・識(六識)を孕んで、われわれに苦楽の印象をもたらす。想蘊は表象作用の全般で、概念が想起させるものはすべて想識だ。行蘊はわれわれの意識にはたらきかける意志作用全般のことで、心が何かに向くことをいう。識蘊は区別によって得られるすべての認知作用をあらわしている。 

≪046≫  この「色・受・想・行・識」の五蘊は、もともとヴェーダ以来のインド哲学の基本になってきたすこぶる知覚論的な構成原理だったのだが、ブッダはそのようにあらかじめみなすことこそがわれわれに深い苦しみ(ドゥッカ)をもたらしているのだとして、五蘊がそもそも「煩悩がらみ」になっていることに警鐘を鳴らしたのである。 

≪047≫  五蘊がないと言ったのではない。五蘊にとらわれるな、五蘊をプロセス(過程的変化)にもちこんでしまえと言ったのだ。 

『ブッダが考えたこと』

≪048≫  近代以降の日本人は仏教思想には詳しくないが、なぜか『般若心経』には親しんできた。玄奘が『般若経』のエッセンスを特別に濃縮編集をした。みごとな手際の、とても短いエッセンシャル・スートラだ。英語では“Heart Sutra”という。 

≪049≫  その『般若心経』は「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」というふうに始まる。そのあとに「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という有名なフレーズが続く。冒頭3句目に「五蘊皆空」(ごうんかいくう)と出てくる。 

≪050≫  冒頭2句は「観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じたまいし時」というのだから、タイトリングのようなもので、その観音が「五蘊はみな空なり」と照見し(見通し)、「一切の苦厄を度したまう」と報告されているのである。 

≪051≫  『般若心経』はブッダの言葉をあらわしているものではない。初期仏典の大般若思想をのちになって濃縮したものだ。けれども玄奘の翻案力によってすばらしいメッセージにまとまった。観音菩薩(観自在菩薩)がブッダの弟子だった舎利弗(舎利子)に語ったメッセージというかっこうをとっている。そのメッセージが冒頭で「五蘊皆空」を謳っている。 

『ブッダが考えたこと』

≪052≫  五蘊皆空とは何か。「五蘊はすべて空だ」という意味ではない。五蘊それぞれをそのつど空じてみれば世界と自分が変わって見える、だから五蘊をそれぞれそのつど空じてみなさいという意味だ。そうすれば、一切の苦厄から解き放たれるだろうとメッセージした。 

≪053≫  それが「照見五蘊皆空、度一切苦厄」の意味である。五蘊を皆空と照見していけば、一切の苦厄が度されていくだろうというのだ。度されるというのはプロセス処理されるという意味だ。ぼくなら「編集していく」とも言い換えたい。 

≪054≫  ゴンブリッチは、ここに五蘊をノンランダム・プロセスにもちこんでみせたブッダの方法の際立ちがあると見た。そのことによってサンサーラやカルマからの解除が可能になることを示したと見たのである。 

『ブッダが考えたこと』

≪055≫  ブッダが説いた仏教は、世界と自分が余分な知識によって「無明」(アヴィドヤー)に陥っていることに注目し、実は世界と自分をちゃんと見れば、それぞれが「縁起」(プラティーティヤ・サムトパーダ=十二縁起)によって相互関係をおこしていることがわかるはずだという説法から始まっている。

≪056≫  そこで4つの基本的なスタンスを説いた。苦諦、集諦、滅諦、道諦の「四諦」(したい)である。苦諦はこの世は迷いばかりなのだから、なにもかもを苦(ドゥッカ)と感じるだろうことを、集諦は苦の原因が煩悩や妄執や渇愛が集まってくるということを、滅諦はだから世の中を無常だとみなさい(変化するものとみなさい)、執着を断ちなさいということを、道諦は以上のことを諦められる心をもちなさいということを、説いている。

≪057≫  これらをまとめて「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」の三宝印にあらわし、それらが実感できれば、きっと「涅槃寂静」に導かれるはずだと諭した。ブッダの思想をいちばんかんたんに集約すれば、「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の四宝印になる。 

≪058≫  ゴンブリッチは五蘊のプロセス処理の方法に、「ブッダが考えたこと」の基本を析出させたのである。べつだん新しい解釈ではない。このような見方は、東方仏教界ではずうっと大前提になっていたことだ。しかし、欧米の知識界に仏教をブッダの原点に戻って説明するには、このようなことをできるだけ明快に強調する必要があったにちがいない。 

『ブッダが考えたこと』

≪059≫  本書は、ゴンブリッチがラーフラ以降の欧米や東南アジアの仏教研究者の最新成果を引きながら、独自のブッダ思想論をまとめたものである。 

≪060≫  だからジョアンナ・ジュレヴィッチ、スー・ハミルトン、ウィル・ジョンソン、エーリッヒ・フラウヴァルナー、ガナナート・べーセーカラ、マイケル・ウィリス、ジュリア・ショー、ピーター・ハーヴェイらの研究成果や見解がさまざまに引用されているのだが、随所にゴンブリッチの興味深い推理が盛りこまれていてユニークなブッダ論になった。 

≪061≫  ぼくは今夜の冒頭で、西洋思想史が仏教を看過してきたことを書いておいたけれど、ワールポラ・ラーフラのブッダ論以降はけっこう多くの仏教研究者が登場してきて、それなりの高揚を見せるようになったのだ。ゴンブリッチはその一人だった。 

≪062≫  翻訳者の浅野孝雄は東大の医学部出身の脳神経学の研究者で、ウォルター・フリーマンの『脳はいかにして心を創るのか』(産業図書)に出会ってからは(浅野はこの本の翻訳もした)、仏教の唯識思想や古代インド哲学を渉猟するようになって、ゴンブリッチの本書の翻訳をへて、自身で『心の発見』(産業図書)を上梓するにいたった。仏教と心脳理論と複雑系とが語られたのである。『心の発見』には「複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性」という勇ましいサブタイトルが付いている。  

≪063≫  はたしてブッダの思想に脳科学やカオス理論をあてはめたほうが、その特色がうまく説明できるかどうかは、なんとも言えない。なんとも言えないけれど、フリーマンが脳の大域的アトラクターが自身を更新しながら意識をつくっていると仮説したことは、ブッダが悩みながら考えたことに関係がないとは言えない。 

『ブッダが考えたこと』

≪064≫  戦後になって、西側の仏教理解は急激に変化していった。仏典の各国語訳がふえたこと、パーリ語による研究が進んだこと、欧米に仏教センターができていったこと、ヒッピーやニューエイジ・サイエンティストが仏教に関心をもったこと、認知科学や脳科学が仏教的瞑想の解明に向かったこと、身体思想としてヨーガや禅が注目されたことなどが大きい。 

≪065≫  しかし、それでも「ブッダを考える」ということは、あまり深化しなかった。最近は、たとえばケネス・タナカの『アメリカ仏教』(武蔵野大学出版会)やロバート・ライルの『なぜ今、仏教なのか』(早川書房)などが話題になっているけれど、あいかわらず禅メソッドや瞑想心理学の観点にとどまるものが多く、その主張の多くがイマイチ、いやイマサンなのである。仏教的自覚の全容と細部がマインドフルネス(気づき)に噴霧化されたかのようなのだ。 

≪066≫  ぼくはいっとき日本の哲学者たちが提唱した比較思想学に期待したけれど、こちらのほうも残念ながら中村元(1021夜)の『比較思想論』(岩波書店)から峰島旭雄の『西洋は仏教をどうとらえるか』(東京書籍)まで、ぐっとくる成果をほとんどもたらしてくれなかったと感じている。 

≪067≫  世界観の脱構築をめざしたポストモダン思想も、まったく仏教を考慮しなかった。ひどい手抜きだった。ぼくは機会あってフェリックス・ガタリ(1082夜)に二度にわたってそのことを強く訴えたけれど、通じなかった(ガタリには「菩薩」の行為的身体行について考えるべきだと言った)。そこで日本側の井筒俊彦、秋月龍岷、鎌田茂雄(1700夜)、中沢新一(979夜)、仲正昌樹、佐々木閑、下田正弘らに期待したものだったが、その後はどうか。 

≪068≫  何かが欠けたままなのだ。おそらく「ブッダを考える」ということがずこっと欠けてきたのである。西側の諸君はブッダの観照に、さもなくばいったんラーフラやゴンブリッチ以降の研究成果を覗くべきだろうし、われわれは日本仏教が中国仏教をへてどういう世界観や人間観をもったのかということに、もっと深い関心をもったほうがいいだろう。 

『ブッダが考えたこと』

≪069≫  もうひとつ気になることがある。それはなぜ仏教はインドで廃れ、ひとつは東南アジアでテラワーダ仏教となり、もうひとつはシルクロードをこえて中国化した五時八教となり、さらに日本化して専修念仏化していったのかということだ。またインドに発した仏教は、なぜヨーロッパに定着しなかったのか、なぜヨーロッパの地で変化しなかったのか、異種配合されなかったのかということだ。 

≪070≫  この問題はユーラシアの文化圏を大きくまたぐので、さすがに容易にはまとまらないことだろうけれど、やっと「人新世」(アントロポセン)の発動に気がついた21世紀の今日では、そろそろ本気でとりくむ問題になっているはずである。 

≪071≫  ちなみにユーラシアに広がった仏教の変容については、彌永信美(いやながのぶみ)の『幻想の東洋』(青土社→ちくま学芸文庫)や、その後の仏教神話学がスケッチした『大黒天変相』『観音変容譚』(法蔵館)などに詳しいのだが、あまり注目されてこなかった。日本側も彌永が何を議論したかったのか、まともに検討していない。このあたりにも光が当たってほしい。 

≪072≫  ブッダの思想は、その後の大乗仏教の思想とは同じではない。密教や禅の成果をそのままブッダにあてはめられるわけでもない。法然(1239夜)や親鸞(397夜)や道元(988夜)の日本仏教とも異なっている。ぼくは仏教が21世紀思想の新たな「中道」になることに大きい期待をもっているけれど、そのためにもあらためて、ブッダの原始仏教に(できればインド六派哲学とジャイナ教にも)、あえて獰猛な関心を寄せたほうがいいのではないかと思っている。 

『ブッダが考えたこと』

『ブッダが考えたこと』

「空の思想史」

「空の思想史」

「空の思想史」

「空の思想史」

「空の思想史」

「空の思想史」

「空の思想史」①

≪01≫  色即是空、空即是色――。『般若心経』のこの言葉は、日本人なら誰でも知っている。おそらく仏典中で最もよく知られたフレーズだろうが、誰もが意味がわからないフレーズでもあろう。 

≪02≫  たとえば、「色」は物質的な実在のこと、「空」はそれがないことをいうのだが、それでは「世の中、なんにもありません」というだけで、さて本当にそういう意味なのか、気になってくる。仏教はそんな「空」や「無」を持ち出して、どうするつもりだったのかと思えてくる。 

≪03≫  ぼくもけっこう悩まされたものだった。いったいこれは東洋のニヒリズムなのか、まったく西洋が気がつかなかったものなのか――。青年時代、ブッダは「諸行無常」と「諸法無我」と「一切皆苦」を説いたと知って、いったいこの空漠たる思想は何なのか、人間はこんな空虚と苦渋に耐えられるのかと思ったものである。そして、それでもなお「空観」におよんだ仏教というのは、なんと強引で、かつ否定に富んでいて、かつ論理において自在なのかと思ったものだった。 

「空の思想史」

≪04≫  実際には、「空」という概念や「空」という意味は、時代によってかなり動いてきた。仏教史は「空」をどのように解釈してきたかという歴史だったといってよい。 

≪05≫  ところが、このような「空」をひたすらめぐって各時代を一気に貫いて語る書物は、あるようで、なかった。「空」を哲学談義するものは多かった。「空の思想」の最初の歴史的な出現となった『大般若経』や、「空の論理」の根源的な思索者ともいうべき2世紀の哲人ナーガルジュナ(龍樹)についても、中村元の名著『龍樹』をはじめ、それなりの取り組みがある。が、時代を貫くものはあまりない。だから、本書は(いまだわかりにくいところも多いのではあるが)、得がたい一冊だということになる。 

≪06≫  著者によると、本書は2002年の愛知学院大学と名古屋大学の講義をもとにしたらしい。それを吟味して推敲したようだ。ぼくもかつては千葉大学の特別講義を『情報の歴史を読む』(NTT出版)として、また最近は『帝塚山講義』というブックレットを「松岡正剛編集セカイ読本」(デジタオ)に5冊にわたって入れているが、ときに講義というのは執筆よりも大胆な試みをすることがある。つい1カ月ほど前の涼しい真夏に読んだばかりだが、本書からもさまざまな示唆を得た。 

「空の思想史」

≪07≫  空とはカラッポということである。たんにカラッポのものがあるというのではない。仏教における空は、すべての実在性を空じて、いっさいがカラッポだと言っている。空でわかりにくければ、無だと言っている。 

≪08≫  ふつうなら、こんなばかなことはありえない。われわれはすべての実在とともにあるのであって、どう考えても机も眼鏡も音楽もあるとしか思えない。それらを燃やしても灰がある。CDの音楽が消えてもCDはあり、CDを捨てても楽譜が残る。人も実在だが、その人が死んでも物質は残る。宇宙ですらカラッポではない。ダークマターに満ちている。  

≪09≫  しかし仏教、とりわけ初期大乗仏教は、すべてが空だと言ってのけたのだ。そればかりか、神の存在も自己の存在も否定した。神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。 

≪010≫  そして、神もなければ、人もないというふうに考えた。そのあからさまな全否定に身を乗り出した。いや、そのように考えることで何かが変わると考えた。 

≪011≫  しかし、そんな「空漠の連打」を修行や思索にもちこんだことがどうして成立したのかということになると、いまひとつはっきりしない。いったい仏教はどうしてこんなとんでもない空虚を相手にするような、稔りのなさそうな発想に至ったのか。そこを考えようというのが、また仏教の本懐なのである。 

「空の思想史」④

≪015≫  もうひとつ、インド哲学と仏教を分けた見方がある。基体(ダルミン)と属性(ダルマ)のあいだにどのような区別があるのかという議論のとき、インド思想一般では、明確な区別があるという実在論の立場と、それは名前の付け方の違いだとする唯名論の立場とがあった。   

≪016≫  ぼくが30代前後に熱中したインド六派哲学という哲学全盛時期があるのだが(第96夜参照)、なかでミーマンサー、ヴァイシェーシカ、ニヤーヤが実在論派、ヴェーダンダが唯名論派、ミサーンキヤやヨーガはその中間の立場をとっていた。 

≪017≫  実は大乗仏教は、このヴェーダンダ派の唯名論をおおまかには踏襲する。踏襲するのだが、そこにまったく新たな展望を加えていった。「空」はそこから出所した。 

≪018≫  ヒンドゥ哲学から仏教が出てきて発展していったインド仏教思想の前半史は、おおざっぱに3段階が設定できる。第Ⅰ期はブッダから1世紀くらいまで、第Ⅱ期が1世紀から600年くらいまで、第Ⅲ期インド大乗仏教の消滅までである。 

≪019≫  このうち第Ⅰ期の前期のアショーカ王までの時代を、ふつう「原始仏教」といい、後期の大乗仏教成立までは「部派仏教」という。原始仏教での特徴は、ヴェーダの権威を認めなかったことにある。したがってブッダは、ブラフマン(梵)もアートマン(我)も否定した。だからブッダの弟子たちは、この考え方を前提に三蔵(経・律・論)をつくっていった。 

≪020≫  それが後期の部派仏教では、宇宙原理としてのブラフマンについてはあいかわらず認めなかったのだが、小さな多数のブラフマンを認めようとした。いわば個我宇宙のようなものを認めた。これがその後に小乗仏教になる。自我を含んだ認識仏教だ。しかし、いくつもの多数の個我宇宙というのは、へたをすると言葉の数だけの個我宇宙になりかねない。 

≪021≫  そこで、これを痛烈に批判する仏教思想家があらわれた。それがナーガルジュナ(龍樹)である。ナーガルジュナに始まる空の思想を「中観」という。さらに続いてマイトレーヤ(弥勒)やヴァスバンドゥ(世親)が出て、「唯識」をおこした。唯識はどこかで個我宇宙とも絡んだが、中観はいっさいを空じた。 

≪022≫  ナーガルジュナ登場以降、ヴァスバンドゥの出現までを、第Ⅱ期の大乗仏教時代という。25年前の『遊学』(存在と精神の系譜)では、このナーガルジュナとヴァスバンドゥにぼくはかなりの肩入れをしたものだった。 

「空の思想史」

≪023≫  ナーガルジュナの中観思想は、「空」と「縁起」の思想を同時化したものである。これが独創的だった。 

≪024≫  そもそも「空」は、サンスクリット語の形容詞「シューニヤ」と抽象名詞「シューニヤター」の合成的な訳語である。漢訳では「空性」(くうしょう)と訳されることも多い。 

≪025≫  シューニヤは、厳密にいうと「あるもの(y)において、あるもの(x)が存在しない」という意味である。それゆえ「yはxに関して空である」とか「yにxが欠けている」「xがyにない」というふうに使われる。 

≪026≫  こうして「空」とは、いったんは「xがyにない」ということになる。 

≪027≫  一方、「縁起」とは、「yはxに依っている」と言う意味をあらわしている。「xはyの原因にあたる」という意味をいう。ナーガルジュナはこれをさらに、「xはyに依り、yはxに因っている」というふうに相互同時にみたけれど、ともかくもそこにはなんらかの因果(因縁)関係がある。 

≪028≫  さてそうだとすると、「空」と「縁起」はどのようにxとyの関係をあらわすことになるのだろうか。縁起しあっているxとyが、互いに空じあっているとはどういうことか。そのところ、ナーガルジュナの『中論』では次のような偈になっている。 

≪029≫ (1)どのようなものであれ縁起なるものは、
    (2)われわれはそれを空性とよび、
    (3)それゆえそれは仮のもの(仮に言葉で述べたもの)で、
    (4)だからそこには中なるものがある。 

「空の思想史」

≪030≫  これではわかりにくいだろうから(ナーガルジュナの書き方は、ふつうの論理ではわからないようになっている。とくにテトラレンマとよばれる四句否定法を駆使していた)、ざっと結論をいうのなら、ナーガルジュナはxとyの空の在り方も、xとyの縁起の有り方も、実は言葉の過信を捨ててかからないかぎりは議論できないことを見抜いたのである。 

≪031≫  すなわち、「空」を感じるにはその「空」をめぐる言葉を捨てながら進むしかなく、そのときなお、仮の言葉の意味を捨てながらも辛うじて残響しあう互いの「縁起」だけに注目すれば、本来の「空」を感じる境地になるだろうと説いたのだ。 

≪032≫  これは、仏教思想において初めて言語の虚飾を払った哲学として特筆される試みで、中観とは「空の思想」であって、「言葉を空じる試み」であったわけである。 

「空の思想史」

≪033≫  仏教の「空の思想」は、ナーガルジュナの時代に一方で累々と編集されつつあった『大般若経』や各種般若経典によっても、澎霈と立ち上がっていった。般若思想の時代である。 

≪034≫  詳細は略すけれど、この般若思想が漢訳され中国の仏教に入ってきたとき、「空」はナーガルジュナとは別の方途で苛烈になってきた。それは、中国語の「空」が「空(す)いている」という意味をもち、漢訳仏典はこの「空(す)く」という語感をもつ「空」をこそシューニヤの訳語に選んだことと関連した。 

≪035≫  それで何がおこったかといえば、ちょっとはしょって言うが、たとえば玄奘が漢訳した『般若心経』において、「五蘊皆空」(照見五蘊皆空)という大胆きわまりない表現に達したのだった。これは「空の思想史」における大きな飛躍である。ここがわからないと、インド仏教と中国仏教が切断され、かつまた日本仏教における「空の思想」が見えなくなってくる。 

≪036≫  玄奘の「五蘊皆空」を字義通り訳してみると、「世界と人間を構成する五蘊(色・受・想・行・識)は五種にすぎず、それはしかしそれでも本来は空である」というふうになる。玄奘はこう言ってのけたのである。 

≪037≫  のみならず、ここでふたたび冒頭の「色即是空」の話になるのだが、もともとは「色」と「空」とが近づくためには相当相応の修行が介在していたのに、この両者も一挙に近づくことによって、つまり「色即是空」の「即」が入ることによって、「空」の速度は俄然高速になったのだった。「空」はじっとなどしていない。つねに高速で動きまわれる行為者なのである。  

≪038≫  実は玄奘は、サンスクリット語の「スヴァパーヴァ」を「自性」と訳さずに、「皆」というふうにした。「自性」をすっとばしたのだ。これは大きかった。余談になるが、日本の坊さんの多くは、この「なくなった自性」のほうにばかりとらわれていて、いっこうに「色即是空」の説明がつまらない。 ともかくもこうして「空」は中国において新たな発展をとげることになる。 

「空の思想史」

≪039≫  中国仏教における「空」は、天台と華厳と禅においていっそう独得のものになる。 

≪040≫  天台では北斉の慧文がナーガルジュナの『中論』を読んで愕然と悟り、「一心三観」を会得した。われわれの心にはつねに瞬間瞬間で三つの観点が集中しているという見方である。これが天台大師智顗をへて、「空・仮・中」の三諦止観や三諦円融の思想になった。空から形やはたらきがあらわれるときは、それは「仮」となり、形やはたらきが隠れるなら「空」となり、この両者が融和しているときは「中」となるという、有名な摩訶止観である。「仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中」などという。 

≪041≫  華厳の法蔵による「空」の議論はさらに大胆で劇的である。またまた色即是空の話を例にすると、法蔵の『般若心経略疏』は「色即是空」を二別して止揚するという方法をとっていた。『般若心経』の色即是空は、よく知られているように、次の4段階のステップを踏んでいる。法蔵はこの4ステップそのままに「空」の議論をそこへ内蔵してみせた。 

≪042≫   (1)色不異空(色は空に異ならず)  (2)空不異色(空は色に異ならず)  (3)色即是空(色はすなわち、これ空なりて)  (4)空即是色(空はすなわち、これまた色なり) 

≪043≫  法蔵はこの四句を「空をもって色をのぞむ」と「色をもって空をのぞむ」に分けて考察し、そこにそもそも自と他の関係が、「合わせれば全部となるような関係」のように潜在して、その自他を補償しているとみた。まるでメルロー=ポンティである。 

≪044≫  その考察ぶりを集約すると、(1)では、自は「空」を他は「色」をさす。こうすることで、法蔵は自である空を否定することが、他である色を成立させると考えた。(2)では他である色が“眠っている”とみなし、自としての空があらわれると考えた。それが(3)では自と他、すなわち空と色とが同時に成立し、(4)ではその自他がともに“眠る”とみた。 

≪045≫  ようするに、最初に空が隠れて色が現れ、色が隠れて空が出現し、色と空がともにあらわれ、ともに隠れていくという展開を想定したのである。この色即是空が出没するところが、華厳にいう「法界」になる。 

「空の思想史」

≪046≫  華厳の空観はインドの中観とはちがっている。むしろ属性(ダルマ)に応じる基体(ダルミン)をあえて復活させて、その基体そのものが対応力をもたせた。華厳はそのような“一対”の相互的な柔構造の提案によって、その後の空の思想をダイナミックなものに変えていったのである。 

≪047≫  この華厳の影響を初期に強くうけたのが中国禅である。最初こそボーディ・ダルマの面壁坐禅に始まった禅林も、五祖の弘忍から一方に慧能が出て、他方に華厳禅ともいうべき神秀が出たことで、一方では中国独自の「無」の思想(老荘思想など)の仏教化をもたらすとともに、他方ではつねに空観をともなう天台禅と華厳禅の併走をつくっていった。 

≪048≫  こうして華厳禅の登場は、たとえば日本における明恵のような、また道元のような、すぐれて「空」に放下した逸材を輩出させることになったのである。 

≪049≫  だいぶん急いだが、「空」は東洋の思想の底辺をゆさぶりつづけたラディカルな高速の正体だったのだから、まぁ、これでいいだろう。 

『インド古代史』 ①

≪01≫  しばらく前は「人間4人集まれば1人はインド人である」と言われた。「インドは巨大にして複雑な文化圏である」と中村元は書いた。そのインドの古代もまた複雑で巨大である。だいたいインドとは呼んでいなかった。インドという呼称はギリシア人による。アリアネスやメガトステネスがそういう呼称を使っている。インダス河をあらわすサンスクリット語の"Sindhu"に由来する呼称だった。それを古代中国では音写して「身毒」とか「信度」と綴った。 

≪02≫  古代インド人は自分たちの住む国のことを「バーラタ」とか「バーラタヴァルシャ」と言っていた。『プラーナ』では9つの地域世界があって、その第9がバーラタである。第9番目であっても、パキスタンやバングラディッシュ分離以前のインドの全域にあたっている。途方もなく広い。その王がバラタである。『リグ・ヴェーダ』ではバラタ王はアーリア人の一族だということが、はやくも謳われている。母がシャクンタラーだった。そのバラタ王の統治する世界が、すなわちバラモン教発祥の地となった。ということは、この国は政治領域として確立されたのではなく、宗教領域として形成されていったのだということをあらわす。 

『インド古代史』

≪03≫  実際の古代インドがどこから始まるかといえば、むろんハラッパーやモヘンジョダロなどの都市文化を擁したインダス文明を発端にしている。すこぶる高度な文明である。潅漑施設も水道施設も暑さをしのぐ住宅施設も、そうとうに発達していた。文字があったし(まだ解読されていない)、十進法と六十進法を併用した計算処理もこなしている。けれども帝王崇拝の痕跡はない。そのかわりいくつかの進化した信仰が重なるように発展していた。 

≪04≫  そうした信仰をかたちづくっていた原住民はムンダ人やドラヴィダ人である。母系制の社会だった。父よりも母を重んじた。プーナの陶工たちのあいだでは最も大きな陶器は女によって作られるが、これは古代からの伝統らしい。このことは古代インド史を見るにあたって重要な視点を提供するもので、のちの古ウパニシャッドやジャイナ教や『マヌの法典』にも、この母系制が残響した。 

≪05≫  紀元前2000年ころ、そのインダス文明の地域にアーリア人がくりかえし侵入して、しだいに切り崩していった。侵入は500年くらいにわたり、アーリア人はパンジャーブ地方に定着する。ヴェーダ神話にはインドラ神が金剛杵をふるって悪魔が造った障壁を破壊して河水を流したという話が出てくるのだが、これはインダス都市のダムをアーリア人が破壊したことを暗示する。それとともにヒッタイトから学んだ鉄器を使っていたことが暗示される。金剛杵とはヒッタイト譲りの鉄器なのである。 

≪06≫  紀元前18世紀になると、アーリア人はガンジス河流域にまで進出して、ここで定着した。森林に入ったのだ。ここで編集されたのが古代インド最古の文献の『リグ・ヴェーダ』を嚆矢としたヴェーダ集であり、ヴェーダ神話である。これが厖大にある。『リグ・ヴェーダ』だけで『源氏物語』くらいの量だ。そのヴェーダ神話の中心には猛威をふるったインドラ神が坐った。それとともにしだいに階級社会いわゆる「カースト社会」を形成していって、多数の都市国家を次々に群雄割拠させていった。かくて紀元前600年前後、ガンジス支流を拠点にした北インドに「十六大国」が出現し、なかでマガタ国・コーサラ国・ヴァツァ国、アヴァンティ国の四国が強大になっていく。 

『インド古代史』

≪07≫  中村元の古代インド史を読んだのは26歳くらいだったと憶う。たいへん分厚いものだったが、古代インドの密林に初めて分け入っていく興奮が高まって、詳細な記述が前後する書きっぷりもものかは、熱にうなされるように読んだ。 

≪08≫  よくぞ読んだとおもう。すでに『東洋人の思惟方法』4巻と『原始仏教の思想』4巻をざっと読んだあとのことで、そこに登場する中国人・日本人・インド人・その他のアジア人のなかで妙にインド人に惹かれ、原始仏教をおこした古代インドの背景と事情をもうすこし知りたかったからだった。実際にはあまりに詳しすぎて、いまひとつ特徴を掴めきれなかったようにおもう。 

≪09≫  ぼくにとって仏教は京都の少年の日々の光と闇の襞のなかにまじっていて、最初から仏教感覚のようなものには異和感はない。お寺も好きだったし、お経も好きだった。宗派は浄土真宗である。歌祭文のように読誦する父の『正信偈』を聞いて育った。しかし仏教とはどういうものかなんてことは、まったくわからない。仏教という堅い言葉にも馴染めない。お寺さん、お経、坊(ぼん)さん、ぶったん(仏壇)、お墓、お彼岸なら、馴染めた。 

≪010≫  やっと仏教に関心をもったのは高校時代に鎌倉の禅寺をめぐったり座禅をするようになってからであるが、それでも仏教史はまったく皆目見当がつかなかったし、それが古代インドに発して中国でどうなったのか、日本に来た仏教がアジアのなかでどんな意味をもつのかということは、無知に等しかった。 

≪011≫  それよりなにより「お釈迦さん」がわからない。ブッダのことを何も知らなかったのだ。いまおもえば、どうして坊さんたちはもっと早くにブッダのことを教えてくれなかったのか。「お釈迦さんはえらい人やった」ではわからない。せめてゴータマ・ブッダが歴(れっき)とした実在の人物で、キリストよりだいたい500年以上も前のカピラ国の王城の王子であって、そこから青年時代に脱出して激越な森林修行したことくらいは、子供のころに植えつけてほしかった。京都は教会の一千倍もお寺さんがあったのである。僧侶は宣教師ではないものの、もっとブッダのことを知らせる情熱が滾(たぎ)るべきである。 

『インド古代史』

≪012≫  ぼくがどこでブッダの生涯や思想を、またそれをとりまくヒンドゥイズムのことを知っていったのかということは、いまとなっては順序がつけがたい。中村元さんの著作をはじめ、次から次へと片っ端から仏教関連の書を通過していったというほかはない。 

≪013≫  それでも全貌があらかたあきらかになったのが『アジア仏教史』全20巻を入手してからだった。手間どった。しかしほんとうに手間どるのはそれからで、たとえばヒンドゥ=ブッディズムを世界思想のなかで把握しなおすこと、日本仏教というきわめて特異なムーブメントに親しむこと、その背景にあった中国仏教、とりわけ浄土教と密教と禅の交差に分け入ること、インド仏教が廃れていった原因に立ち会うことというような問題は、それからずいぶん時間がかかったのである。さらに、こうしたことが多少とも身についたのは中村元さんや鎌田茂雄さんと親しく話すようになってからだった。 

≪014≫  しかし正直なことをいうと、中村さんや鎌田さんの著作だけでは仏教もヒンドゥイズムも、またインド哲学の全般も鎌倉仏教も槍衾(やりぶすま)のように突き刺さってはこない。中村さんや鎌田さんから教わったのは、アジア宗教に接する呼吸と覚悟のようなものだったのだ。 

『インド古代史』

≪015≫  さて、話を戻すことにするが、十六大国が栄えていた時代、カースト社会の上層部たちが信仰していたのがバラモン教である。最初期のヒンドゥイズムにあたる。ヴェーダ文献を根本聖典としたバラモン層(ブラフマーナ)は貴族を中心に、一方ではきわめて汎神論的な思索に耽り、他方ではきわめて呪術的な解脱術に傾倒していた。 

≪016≫  こうした動向のなか、しだいに確立されてきたのが宇宙原理ブラフマンと個人原理アートマンを統合しようとする「梵我一如」の思想である。不変原理と固体原理をつなげようとしたものだ。数々のウパニシャッド書がこの思想を書きのこしている。この思想はすこぶる高遠であり深甚でもあったのだが(ぼくはけっこう好きだが)、どんな思想や哲学にもそういう時期がくるように、「梵我一如」をめざした修行や苦行や祭式を連打しても、必ずしも解脱は得られないのではないかという疑問が広がる時期がやってくる。そういう疑問を多くの修行者がもったのだ。 

≪017≫  なかでこれらを説いて先駆したのが、バラモン階層からは「六師外道」と蔑称されたジャイナ教のマハーヴィラたちだった(埴谷雄高に示唆されて、ぼくはいっときジャイナ教にはまっていたものだ)。6人だけが先駆したのではなく、きっと大勢いたのだろう。ブッダはこの「外道」のなかから登場してきた。 

≪018≫  ビンビサーラ王が王舎城をもって治めるマガタ連邦のひとつにコーサラ王国があり、そのコーサラに藩属していたカピラ国の王子シッダールタが、のちのゴータマ・ブッダこと釈迦である。だいたいの年代しかわからないが、紀元前650年前後か紀元前450年前後に生まれた。クシャトリヤというヴァルナ出身のゴートラ(同姓不婚の血縁集団)「シャーキヤ」の一族の王子である。「釈迦」の呼称はこのシャーキヤから採られている。 

『インド古代史』

≪019≫  バラモンたちが苦行ばかりしているなか、青年シッダールタは問うた。仮に「梵我一如」をめざすとしても、そもそもその「我」や「自己」にあたるアートマンとは何なのか。われわれにはもともと身体や感覚や知覚がそなわっているが、それは何なのか。 

≪020≫  身体や感覚や知覚はおそらく五蘊(ごうん)のようなものでできている。色・受・想・行・識である。それぞれ、物質的なるもの・感性的なるもの・観念的なるもの・心理的なるもの・認識的なるものをあらわしている。では、これらのどこかにアートマンがあるのか。物質はアートマンなのか。そうではあるまい。感性や観念がアートマンなのか。そうでもあるまい。これらを足し算すれば、それがアートマンなのか。きっとそんなことはないだろう。足し算しているうちにブラフマンが入りこんでこないとも言い切れない。 

≪021≫  シッダールタはこうして問いを重ねていって、結局はブラフマンとアートマンを分離してから統合しようとしていたバラモンの教義がまちがっているのではないかと気がついた。そもそもアートマン(自己)があると思って突きつめていくことがおかしいと気がついた。むしろアートマンなんてないと思ったほうがいいのではないか(諸法無我)。かえって、これらの個々にとらわれずにこれを消し去ってみて、そのうえですべてが相互に関係しあいながら動いていると見たほうがいいのではないかという考えに到達する。 

≪022≫  この「関係しあいながら動いている」という考えかたを「縁起」というのだが、この縁起を発見したことこそが、菩提樹の下であったかどうかはべつとして、青年シッダールタが苦悩のすえについに大いに目覚めた者ブッダ(覚醒者)になったことを証す"悟り"だったのである。以降、この覚醒者はブッダと尊称される。 

『インド古代史』 ④

≪023≫  ここでブッダの生涯や思想を安易にのべることはやめておく。あえて一言でいうのなら、世界を「一切皆苦」とみなして自己を世界に向かって突き放し、そこにそれぞれの「縁起」という関係の哲学を発見したということだ。もう一言加えれば、「四諦」(苦・集・滅・道)と「十二縁起」を説いて行動方針としての「八正道」を示唆し、無明に対するに明(ヴィドヤー)を対置した。 

≪024≫  説明すればキリないし、ブッダをとりまく事情もかなり研究されているが、本格的な中村元『ゴータマ・ブッダ』から大作マンガの手塚治虫『ブッダ』までいろいろの案内があるので、それを読まれたい。増谷文雄の『この人を見よ』や早島鏡正の『ゴータマ・ブッダ』がわかりやすいだろう。ぼくなりの要約は『花鳥風月の科学』や『情報の歴史を読む』にある。いずれもっと痛快なものを書きたい。  

『インド古代史』 ⑤

≪025≫  ブッダの活動は思索・黙想をべつとすれば、ほとんど説法である。おそらくそれ以上のことはしていない。文字による著作も書きのこしていない。 

≪026≫  けれどもその説法に応じて生前にすでにいくつかの小さな教団をもつ信者(サンガ=僧伽)ができていった。のちに十大弟子となるミドルリーダーもあらわれた。やがてブッダは弟子に見取られて惜しまれつつも死ぬ。いわゆる真の涅槃寂静だ。そこでミドルリーダーたちは原始仏教教団を形成しながら各地に精舎(しょうじゃ)を建設し、手がつけられるところからブッダの言葉と考え方を編集しはじめた、これが第1回仏典結集である。 

≪027≫  ついでアレクサンダー軍の西北侵入後の、紀元前4世紀のマウリヤ朝のチャンドラ・グプタの時代にブッダの教えをさまざまな角度で議論する風潮がさかんになって、その議論の成果を「アビダルマ」(阿毘達磨)とよぶようになった。アビは「~に関して」を、ダルマは「法」を意味する。そこで第2回仏典結集がなされたのだが、ここで宗教活動にはよくあること、教団が保守的な上座部と進歩的な大衆部に分裂し、これが部派仏教を生んだ。  

≪028≫  部派仏教はアビダルマ仏教とも小乗仏教ともいう。このアビダルマの議論の上座部から有力な勢力をつくったのが説一切有部だった。 

≪029≫  紀元前3世紀のアショーカ王の時代になると、王が仏教に帰依したため、全国に仏教の教えが広がった。サーンチーの大塔はこのとき建立されている。大々的なブッダ研究も始まって、さしもの部派仏教の分裂もしだいにおさまってくる。それが紀元前1世紀ごろで、ここに一挙に興ってきたのが大乗仏教のムーブメントだった。 

『インド古代史』⑥

≪030≫  そもそも原始仏教は出家することから始まっていた。生まれ育った家を出ることだ。出家者には僧院に住持して修行する「声聞」(しょうもん)と、一人で山野に修行する「縁覚」(えんがく=独覚)とがあるのだが、ともに阿羅漢という聖者になることを最高の理想としていた。 

≪031≫  ところが大乗仏教を唱えた者たちは、あえてブッダの心身と一体となることを理想として、自身を菩薩としての悟りを待つ「有情」とよびはじめ、その悟りのくるあいだは、衆生(大衆)を救済することのほうが大切だと言いはじめたのである。その立場からすれば、部派仏教は個人の救済を求める小乗(小さなヴィークル)だというのだ。のみならず大乗仏教徒は、アビダルマではブッダ(覚醒者)の再来は没後から遠い未来の弥勒菩薩が成仏するまではありえないと考えられていたのを、現在ただいまでも十方の世界に無数のブッダが存在しうると説いた。 

≪032≫  こうして大乗仏教のムーブメントが大きなうねりをおこす。それが紀元前後に集中しておこなわれた大乗仏教経典の編集、すなわち「仏典」の編集成果になった。『般若経』関係を筆頭に、『維摩経』『華厳経』『法華経』および浄土経典の大半はこのときにほぼ結実している。それがパウロらによる「新約聖書」の編集時期とはからずも一致していることが興味深い。 

『インド古代史』

≪033≫  一方、紀元後1世紀ころはバラモン派の哲学と思索も再興した時期だった。そこに立ち上がっていったのがインド六派哲学である。サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ヴェーダンタ学派、ミーマンサー学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派の六派をさす。  

≪034≫  仏教側のアビダルマ教義にもあったのだが、六派哲学は、ひとつには世界構造とは何かということを、もうひとつには「事態のなかに原因と結果はどのように含まれるか」という議論を徹底した。とくに4世紀、チャンドラグプタ1世によってグプタ朝が成立するとその支配権が南北インドに拡大し、そこへもってきてサムドラグプタがサンスクリット語を公用語とし、バラモン教に帰依したため、六派哲学は大いに栄えた。 

≪035≫  ヒンドゥ哲学はこの時期が頂点である。ぼくは1970年代の半ばは、もっぱら六派哲学に夢中になっていた。 

≪036≫  これに刺激されて大乗仏教側も理論活動を多様に深めていく。3世紀のナーガルジュナ(竜樹)の大胆な「空観」と「中観」の哲学の披露、その直後の『如来蔵経』、『大般涅槃経』、『勝鬘経』、『解深密経』などの成果をもたらした第2期大乗仏典の編集、5世紀のヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』やそのあとの『大乗起信論』などの展開は、その代表である。 

≪037≫  しかし、このあたりが古代インド思想の頂上だった。すでにグプタ朝のころに西域に仏教は流れ出し、4世紀末には中国に慧遠が登場して廬山東林寺に入って浄土教をおこしたし、5世紀初頭にはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が長安に来ている。インド仏教はしだいに中国仏教に移行しつつあったのである。また、7世紀になるとマホメットのイスラム教がインドに押し寄せてヒンドゥイズムを凌駕した。 

≪038≫  それでもまだ古代インドは最後の華ともいうべき密教を発芽させるのであるが、これがタントリズムとしてエロスとタナトスに走るようになると、これまた中国密教に移っていった。禅はその当初からボーディ・ダルマが中国に来てから覚醒したものだ。 

『インド古代史』

≪039≫  古代インドの思想史や哲学史や宗教史には、汲めども尽きないものがある。根本には「縁起」が「空」がある。こんな思想は古代ギリシアにも中世神秘思想にもまったく見当たらない。   

≪040≫  インドにはヴェーダ以来の須弥山宇宙観があるのだが、このような世界構造論はキリスト教には見当たらない。拮抗しうるのはわずかにダンテの『神曲』であろうけれど、天国も地獄も異なっている。円形や円球の西に対し、インドは方形でも円でも球でもあって、なお対数的であり級数的な宇宙なのである。 

≪041≫  カースト社会についても、深く見ていくといろいろな啓発がある。カーストは「族内婚・職業世襲・食卓共用」という3つのルールがあるのだが、たとえば食卓共用はカーストをこえて食事を一緒にしてはならないという禁止をしているとともに、同一カースト内では下の者が上から市で食物や物品をもらうことを許していた。だからこそ、この社会から布施や托鉢という行為が派生したのである。ブッダがカーストの2番目にあたるクシャトリヤの出身であったことにも意味がある。 

≪042≫  古代インドをめぐる研究もぼくが初対面したころにくらべると、まことに広がりも深みも増している。かつて金倉圓照さんの『インド哲学史』や『インドの自然哲学』をそれこそ鉛筆なめなめ読み拾っていたことが、その後は高速で理解できるようにもなった。しかし、古代インドはいつまでたっても「わかった!」とは言えないものがいっぱいつまっている。いや個々の仏教論やアビダルマならなんとかなる。全体が鷲づかみにできないのだ。 

≪043≫  いつぞやら、中村元さんがこんな話をしてくれたことがあった。「松岡さん、サンスクリット語をやらないとインドはわかりませんよ。だって『流れる』という動詞がないんですからね。静止・動向・流路・介入・流出それぞれを自分でつなげるんです。それだけでもヘラクレイトスとはちがうんです」。 

『インド古代史』

大乗エッセイである。

ということは菩薩とは何かということだ。

そのために観音を眺めたい。たとえば不空羂索観音だ。

そのことを三枝さんが淡々と解いている。

今夜はその三枝さんの解き方を、炭男に戻り、火元になって応えることにした。

そのことで三枝さんの感覚的抱握を尋ねることにした。

畏れ多いことだけれど、事由あって、そんな夜にした。

そこで、わが愛すべき別番にちょっと手伝ってもらうことにした。 

『大乗とは何か』①

≪02≫ 別番 お呼びですか。 

≪03≫ 松岡 困ったときの別番頼み。 

≪04≫ 別番 火元からのお呼びじゃしかたないですね。いつでも、どうぞ。それでお聞きしますが、松岡さんはいつから「火元」(ひもと)なんですか。だいたいどうして火元なんてネーミングになったんですか。 

≪05≫ 松岡 かつてぼくは「炭男」(すみおとこ)と称していたことがあるんだね。「半巡通信」というたった8ページのパーソナルメディアを、最初は300人に、最後は4000人に無料で送っていたころのことです。7年ほど続けたかな。その「半巡通信」のなかで、「ぼくは炭男だ」と書いた。その炭男が発火すると火元になる(笑)。 

≪06≫ 別番 へえ、炭男? 火元以上に変な名称ですね。 

≪07≫ 松岡 炭男というのは、お望みならぼくを使っていつでも火をおこしていただいて結構、ときには消し炭になってさえマッチ一本で火がつくように準備しつづけて進ぜようということで、ふだんは真っ黒けの炭化物だという意味ですね。ただの炭。しかも折ったり割ったりしようとすれば、すぐ粉々になる。フラジャイルなんですね。そんな気分をあらわしている。その炭男がいつのまにか火元になった。じっと黙っているときが炭男の松岡正剛、点火されているときが火元の松岡正剛‥。燠火(おきび)こそ、ぼくの理想だからね。 

≪08≫ 別番 ああ、燠火‥‥。そういうことですか。でも、ちょっと危険な火元ですね。放火魔みたい(笑)。 

≪09≫ 松岡 そんなところだよ。「黙って炭男、放って火元」だもんね。そのことを知っている諸君がかっきり100人か150人くらい、いるはずだよね。いまのところはそれ以上はいないけど。でも、これはヒ・ミ・ツ。 

≪010≫ 別番 はいはい、わかってます。で、その炭男の火元が、今夜とりあげる本は何なのですか。 

≪011≫ 松岡 今夜は、三枝充悳(さいぐさ・みつよし)さんの『大乗とは何か』という一冊をとりあげようかと思っている。燠火です。 

≪012≫ 別番 おっ、いよいよ大乗仏教ですか。 

≪013≫ 松岡 そうなんだけれど、この本は大乗仏教を大上段に解説したものじゃないんです。どちらかといえば大乗エッセイという感じ。だからこそとりあげたくなった。 

≪014≫ 別番 はい、どういうことですか。 

≪016≫ 松岡 三枝さんは大正末期の1923年に生まれて、一部始終をインド哲学と仏教哲学の研究に捧げた人です。初期仏教に詳しく、大乗仏教を徹底して解明されようとされていた。集約すれば「空と縁起」の思想の本格派です。「空」というのは『般若経』を基本テキストとした中観派のナーガルジュナなどの哲学のことだよね。846夜の『空の思想史』にも概観した。「縁起」は知ってのとおり、大乗仏教思想のメインコンセプト。三枝さんは東京大学の印哲に入り、宇井伯壽や宮本正尊に傾倒して、こういう中観思想や縁起思想を主に研究されたんだけれど、ところがね、本書もそうだし、本書の直前に上梓された『縁起の思想』(法蔵館)もそうだったんだけれど、三枝さんはどこかに「切ない仏教観」を持っておられる。今夜はその三枝さんの香りを含めて話したいなと思っているんだね。  

≪017≫ 別番 「切ない仏教観」ですか。 

≪018≫ 松岡 ぼくは縁あって三枝さんのお宅に伺うことになって、幸運にもまさに空や縁起についてのオラルな手ほどきを受けることができたんだけれど、その当時の三枝さんはなぜか“自身の危機”のようなものを語られていた。仏教研究者がフラジャイルな自己を語るなんて、ちょっと意外だったんだね。それが何であるのか、当時のぼくにはよくわからなかったのだけれど、それがかえって切々とした三枝さんの哲人ぶりを“せつない霊波”のように感じさせたんです。そうか、仏教もやっぱりフラジャイルな出発点を何度ももつべきなんだと思った。それから三枝さんの本を読むたびに、その「切ない仏教観」とでもいうものに共感するようになったんだね。。 

≪019≫ 別番 じゃあ、三枝さんがもともとの炭男じゃないですか。 

≪020≫ 松岡 うんうん、そうかもしれない。三枝充悳こそ、ぼくなんか足元にも及ばない真剣な炭男だったかもしれないね。 

≪021≫ 別番 松岡さんはいろいろな僧侶や仏教研究者とは何人も出会われているんですよね。 

≪022≫ 松岡 深くお付き合いできたのは、華厳の鎌田茂雄さんが早かったかな。それから禅の秋月龍珉さんとか、いま高野山の管長になられている松長有慶さんとか。みなさん、炭男のまま何かを貫徹しようとされましたね。しかし、ぼくはいったん事を構えれば、落花狼藉の火元にもなってきた。 

≪023≫ 別番 ラッカローゼキ(落花狼藉)、ジユーローゼキ(自由狼藉)。 

≪024≫ 松岡 うんうん、そこで炭男としては三枝さんに倣いつつ、その思想研究の一端を、火元松岡正剛からちょっとばかり照らしたいというわけです。 

≪027≫ 別番 どこから話してもらえますか。 

≪028≫ 松岡 東大寺三月堂(法華堂)に不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像があるでしょう。ぼくが学生時代に最初に打ちのめされた仏像です。けっこう大きな仏像で、最初に見たときから、ずっと偉大なものを感じてきた。去年も未詳倶楽部の面々と、この観音像の前で「ものおもい」に耽ったものです。小島伸吾は直立して仰ぎ、相京範昭はオペラグラスで眺め、中野由紀昌は潤んだ目で見上げ、中道明美はアンリ・ミショーしていたね。で、本書の冒頭で、三枝さんはその不空羂索観音像を昭和17年8月の夕刻に訪れたときのことを書いているんです。ぼうっと見ていたら、年輩の僧侶に「あんたはんも戦争に行かれるんかいな」と言われ、「いえ、まだ20歳になっていませんから」と青年の三枝が答え、そのまま黙って観音像を見上げつづけていたという話です。 

≪029≫ 別番 なんだかイミシンですね。 

≪030≫ 松岡 燠火だよね。それで三枝さんはそのときのことを思い出しながら、いったい観音って何なのかという話に入っていく。 

≪031≫ 別番 ふーん、なるほど。そういう本ですか。 

≪032≫ 松岡 観音ってどういうものか、わかる? 

≪033≫ 別番 「音を観る」なんて、カッコいいですよね。男か女かわからない超越的なところも感じます。モノセクシャルで、バイセクシャルで。 

≪034≫ 松岡 観音はね、サンスクリット語ではアヴァロキテシュヴァラ(ava-lokita-svara)というんです。なんともすばらしい名称だけれど、もともとはどういう意味をもっているのかというと、接頭辞の ava は「離れて、遠く」という意味でね、lokita は「光る・輝く」の lok から派生していて、これは「見る、受けいれる」という意味になっている。ということは、ここまでで、「離」をもって見る、その光景を受け入れるということなんだね。 

≪035≫ 別番 うーん、そうか。その話をしたかったわけですか。それならそれと早く言ってもらえばいいんです。 

≪036≫ 松岡 うん、まあね。でも、最初から言うのはね。しかも、これで話は終わらない。次の svara は「響く」の語幹が変化したもので、声とか音という意味になるわけだ。ということは、ね、ava-lokita-svara とは、「離」をもって遠くに響きを見て受け入れるとなって、それを縮めれば「遠くに音を観る」となるわけです。それゆえ「観音」とか「観世音」とかと漢訳できることになる。だから観音は、遠い音でも聞きとどけてくれるイコンなんです。それを「音を観る」ともみなした。なんだか世阿弥(118夜)の「離見の見」を思わせもするよねえ。 

≪037≫ 別番 観音は「離見の見」ですか。 

≪038≫ 松岡 でも、これまた簡単じゃない。仏教では、観音が聞く音は妙音とはかぎらないからね。美しい音とはかぎらない。仏教が重視した本来の音は「苦」の音です。 

≪039≫ 別番 そうですね、ブッダの仏教は「一切皆苦」という認識をもって始まりますからね。 

≪040≫ 松岡 そうだよね。仏教は、まず「苦」の音を聞けるかどうかから発進する。でも、その苦境も単純なものじゃない。「四苦八苦」というように、いろいろの苦があった。四苦というのはちゃんと名前がついていて、「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」というものです。それを放っておくと八苦にさえいたる。人生、苦ばっかりなんだよね。  

≪041≫ 別番 もともとブッダの原始仏教の出発点に謳われた「四諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のトップに、苦諦が上がっていたほどですよね。 

≪042≫ 松岡 そうだね。では、その苦って何かといえば、むろん苦しみのことです。苦しみのことではあるけれど、仏教ではどういうことを苦しみと見るかというと、「うまくいかない」「望みどおりにならない」と思ってしまうことが苦しみなんです。 

≪043≫ 別番 望みどおりにならない苦しみ‥‥。 

≪044≫ 松岡 三枝さんに『宗教のめざすもの』(佼成出版社)という本があって、そこにサンスクリット語で「苦」をドゥフカというのだが、それは自分の内部に自己矛盾がおこってしまうことなのだという説明がされているんです。これはまことに深い解釈です。「私が私自身で背いてしまっている」ということ、それが苦しい。ドゥフカとはそれなんだというんです。 

≪045≫ 別番 自分で勝手に自己矛盾をおこしていることが、それが「苦」の本質なんですか。 

≪046≫ 松岡 そうです。つまりはいっとき「欲」をもってみたのに、それを自分で達成できなかったことが苦しみなんだね。これって、よくあることだよね。 

≪047≫ 別番 よくあるどころじゃないですよ。しょっちゅうです。このことこそ、今日の社会でも一番の問題ですよ。「アイデンティティ・クライシス」も「引きこもり」も「癒しの社会」も。 

≪048≫ 松岡 ということは、つまり「苦」の問題は「欲」との裏返しにあるんだね。それが仏教の基本的な見方です。けれども仏教なんて、ふつうは高度資本主義にも高度情報社会にもまったく無縁だと思われているため、今日のわれわれは「欲望が苦悩をつくっている」とはほとんど感じられなくなっているよね。その欲望はほとんど商品になり、その商品にわれわれはびっしり囲まれていて、しかも社会の大半がドゥルーズ=ガタリ(1082夜)のいう「欲望機械」になっているわけだから、処置がない。だからこそ、ときにはそろそろ仏教を、観音とともに本気で見たほうがいいということです。仏教では欲望に関知しない苦しみなどないというほどに、「欲」と「苦」の関係を突き刺して見つづけたんだから。 

≪049≫ 別番 「欲と苦」はくっついていたものですか。 

≪050≫ 松岡 そうです。そして、そういう世の中の苦境の声を、観音は聞くんだね。遠くからの声も「離」において聞く。 

≪051≫ 妙法蓮華経観世音菩薩普門品(ふもんぼん)第二十五(浅草寺蔵)https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-03-g02.jpg 

≪053≫ 別番 観音って、そもそもはどういう仏さんなんですか。 

≪054≫ 松岡 『法華経』の第25章に「普門品」(ふもんぼん)があるでしょう。観音がよく出てくるので、別名を「観音経」と呼んできた。三枝さんも昭和49年に『法華経』の現代語訳を出されたのだけれど、これはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が漢訳した『妙法蓮華経』ではなくて、サンスクリット本にもとづいていた。それはともかく、「普門品」には13回も同じフレーズがくりかえし出てくるんです。何だか、わかる? 

≪055≫ 別番 「念彼観音力」(ねんぴかんのんりき)ですか。  

≪056≫ 松岡 おっ、さすがだね。そうだ、「念彼観音力」というフレーズだ。かつて泉鏡花(917夜)が好いた言葉だったよね。最近では美輪明宏(530夜)さんが「私、苦しいときはいつも念彼観音力を唱えるの」と何度も言っている。 

≪057≫ 別番 でも、意味はわからない。 

≪058≫ 松岡 念彼というのは「彼方を念じる」ということで、there を感じることです。here には苦境のわれわれがいる。there に観音さんがいる。だから念彼観音力とは、「彼方におはします観音の力を念じる」という思いをあらわしているわけだ。では、もしもその観音さんがわれわれの声を聞きとどけてくれるなら、どうなるか。すぐに救ってくれるんじゃないんです。観音はまず魔物を退散させてしまう。 

≪059≫ 別番 闘ってくれるんですか。 

≪060≫ 松岡 そうなんだ。障害を取り除いてくれる。それが観音力なんです。一種の浄化作用力と言っていいかと思うけれど、その力がきわめて多様で、ダイナミックで、変幻自在なんだね。いざとなれば苦境の元凶との戦闘を辞さないし、また、姿をいろいろ変えて障害を取っ払うために協力をしてくれる。そういう力。 

≪061≫ 別番 ということは、観音さんはわれわれ世間の者たちの苦境の声を聞いて、それがまっとうな叫びなら苦境の対象を打ち砕いてくれるというわけですか。アキハバラでダガーナイフをふるう前に、観音さんに会うべきでしたね。 

≪062≫ 松岡 妖面を取り払ってくれたかもしれないね。どのように破砕してくれるかというと、「普門品」には、時と所に応じて三十三の姿に変化(へんげ)して救済に乗り出すとある。 

≪063≫ 別番 変化する。姿を変える。ヘンシーン!ですね。 

≪064≫ 松岡 それがなんとも驚くべき変身力です。化けものじみているとも言えるし、それでこそ念彼観音力の正体だとも言える。だからこそ観音さんは泉鏡花のお気にいりだったんだよね。鏡花にとっては化けものこそが神聖だったからね。今夜の話に我田引水すれば、観音こそふだんは炭男で、変じて三十三の火元にならんというわけです。 

≪065≫ 観音三十三応身図(東京国立博物館蔵)https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-04-g03.jpg 

≪067≫ 別番 どういうふうに三十三変化するんですか。 

≪068≫ 松岡 三十三変化するだけじゃなくて、いろいろ変身する。かつてはね。たとえば『千光眼観自在菩薩秘密法経』では二五化身が、『首楞厳経』では三十二応現が、『阿婆縛抄』では二十八化身が語られている。それがいつしか、『法華経』の普及と根本経典化がすすむにつれて、「普門品」の三十三変化が定着した。 

≪069≫ 別番 ああ、そういうことですか。で、どういう観音の姿に変化するんですか。 

≪070≫ 松岡 もちろん、いろいろだ。三十三観音には楊柳観音・白衣観音・魚籃観音・水月観音・岩戸観音から蛤蜊(はまぐり)観音・一葉観音・滝見観音までがズラリとありますね。これでは、まるで何でも合体ロボのごとく観音さまになってしまっているとおぼしいんだけれど、これはきっと、庶民に愛された物語が曲がり角にさしかかったときに何かが出てきそうなトポスやキャラクターとして、三十三の観音があてがわれたのであったからだろうね。  

≪071≫ 別番 魔界の曲がり角に姿を変えた観音さんが待ってくれている。まさに物語の真骨頂ですね。  

≪072≫ 松岡 そうね。そうして、こういうふうにいったん変化が定着すれば、そこからはいくつもの発想や企画が生まれていったんだね。その企画の代表例が、ひとつは三十三観音のヴァージョンで、もうひとつは三十三の観音霊場。中世の僧侶たちは案外、PDS(プラン・ドゥ・シー)が好きなんですよ(笑)。 

≪073≫ 別番 そうか、観音霊場はそうやって企画されたんですか。 

≪074≫ 松岡 観音霊場が三十三ケ所になるのは、12世紀に園城寺の覚忠というお坊さんが西国の33ケ寺を選んだことから広まったようだね。それまでは、そんなものはなかった。覚忠もPDSが好きだったんだ(笑)。そのうち観音霊場はどんどん拡張されて、西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十三所などというふうに、各地にいろいろ組み上がっていった。すでに100カ所をこえているとも聞いてます。 

≪075≫ 別番 観音さまだらけ。  

≪076≫ 松岡 君たちもいろいろ企画するといいよ。「三冊屋」だけじゃなくて「三十三冊屋」とかね(笑)。それらが札所(ふだしょ)となったのも近世になってからです。もっとも『梁塵秘抄』(1154夜)にはすでに、「観音誓ひし広ければ、普き門より出でたまひ、三十三身に現じてぞ、十九の品にぞ法は説く」などと歌われている。平安期には、熊野や長谷寺や清水寺が観音信仰の霊験あらたかな霊場だった。 

≪077≫ 西国第五番・葛井寺参詣曼荼羅図 https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-05-g04.jpg 

≪079≫ 別番 観音には千手観音とか如意輪観音とかもありますね。あれは三十三変化とはちがうんですか。 

≪080≫ 松岡 六観音とか七観音とかいうものだね。もともとの観音のイコンの母型です。日本では七観音が篤く信仰されてきたよね。これは聖(しょう)観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝(じゅんでい)観音、如意輪観音、そして東大寺三月堂の、あの不空羂索観音だね。 

≪081≫ 別番 なぜ6体とか7体なんですか。  

≪082≫ 松岡 三枝さんは、観音にこういう多様性が与えられたのは、天台智顛(ギのフォントがない)の『摩訶止観』に、六観音の功徳が説かれているからだと言っている。ではなぜ六観音かというと、6は実は「六道」の6に照応しているんだね。六道は、わかる? 

≪083≫ 別番 六道輪廻の六道ですよね。 

≪084≫ 松岡 そうだよね。六道は「地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界」という六つの段階にいる衆生(しゅじょう)の境遇のことです。衆生って、ぼくたちのことだよ。これ、六凡ともいいます。この境遇にいる者たちは、何かに救われないかぎりはいつまでも六道輪廻する。先へ進めない。どこかで慈悲に出会わなければ、のたうちまわる。つまりわれわれは放っておかれれば、みんな、ひたすらのたうちまわる六道の者たちなんです。  

≪085≫ 別番 はい、そうです。 

≪086≫ 松岡 そこで、観音の慈悲によって六道抜苦されることを希う。もちろん切に希わなければならないけれど、一心にそう祈っていれば、その衆生の苦境に応じて、六観音が声を聞いてくれるということです。念彼観音力は、この六道をも引き上げる。 

≪087≫ 別番 六道にいても、まだ大丈夫? 

≪088≫ 松岡 いやいや、そういう横着はダメです。本当は自分で六道を脱さなきゃいけないんだけれど、そして、それを切に希わなきゃいけないんですが、そうすれば、なんとか次の段階に進める。 

≪089≫ 別番 次の段階? 

≪090≫ 松岡 そう。ネクストステップがある。次の段階というのは、縁覚(えんがく)、声聞(しょうもん)、菩薩、仏(如来)です。この、以上の、六道と次の四つの段階をまとめて「十界」というんですね。「地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界」という十界。そのうちの前6段階が六道で、後の4段階が四聖です。これ、「六凡四聖」ともいうね。 

≪091≫ 別番 10段階のマインドステップ。 

≪092≫ 松岡 まあ、そういうことだね。四聖のうちの声聞と縁覚が小乗で、菩薩と仏(如来)が大乗にあたる。 

≪093≫ 別番 だんだん向こうに近付いていく。 

≪094≫ 石山寺縁起 https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-06-g05.jpg 

≪096≫ 松岡 いまさらいうまでもないだろうけれど、観音の変化(へんげ)は、魔物退散や障害物除去のためだけではなかったんです。そもそもは「慈悲」の無償提供だった。男性的な観音が女性的な観音としてトランスジェンダーふうになっていったのも、「慈悲」のヴァージョンアップです。詳しいことは、ぼくがリスペクトしている彌永信美さんが『観音変容譚』(法蔵館)という、とても分厚い研究成果を発表したので、それを読むといい。『大黒天変相』(法蔵館)に続く“仏教神話学”という、彌永さんならではのニュージャンルの成果です。 

≪097≫ 別番 「慈悲」って、仏教の根幹ですよね。  

≪098≫ 松岡 そうだよね。無償提供の慈悲。この無償の慈悲を仏教では「憐愍」(れんみん)ともいう。仏教の眼目って、そもそもが「智慧」と、そして「憐愍」なんです。   

≪099≫ 別番 憐憫じゃなくて、憐愍か。いいなあ。 

≪0100≫ 松岡 で、ここからがやっと本論になっていくのだけれど、こういう念彼観音力のルーツのことをよくよく考えていくと、これは大乗仏教そのものがもっていた根本思想だったわけです。いいかえれば、念彼観音力は観音だけがもっていた力ではなかったんだね。これは「菩薩道」のあらわれだった。つまり観音は大乗仏教の根本思想を、最もわかりやすくコミュニケートする先兵のイコンだった。 

≪101≫ 別番 そういえば、観音さんは観世音菩薩とか観音菩薩といいますね。観音も菩薩ですよね。じゃあ、観音の正体は菩薩ですか。 

≪102≫ 松岡 そうです。菩薩です。いっときは観自在菩薩とも光世音菩薩とも漢訳された。では菩薩というのはいったい何かというと、もともとはボーディサットヴァ(bodhi-sattva)を漢訳した「菩提薩◎」(ぼだいさった=タのフォントがない)の略語です。まあ、今夜は菩薩でいきましょう。でもわかりやすい話にしておこうね。大乗思想もそうとう深いからね。三枝さんも、この本ではそうされている。 

≪103≫ 別番 菩薩っていろいろいらっしゃいますよね。観音菩薩だけじゃなくて、弥勒菩薩とか文殊菩薩とか。普賢菩薩も地蔵菩薩も菩薩ですね。日光菩薩も月光菩薩も菩薩だ。ああういう菩薩は仏なんですか。 

≪104≫ 松岡 そこが微妙でね。菩薩の正体は何かというと、それこそ三枝さんが一貫して求められてきたことであるんだけれど、ボーディ(菩提)とは「悟り」そのもののことです。サットヴァは「気持ちがある人」という意味をもつ。だから菩薩というのは、まとめると「悟りを求める人」ということになる。そういう気持ちをもった者、それが菩薩の原義です。 

≪105≫ 別番 気持ちをもつ、か。魂胆とか覚悟とか。 

≪106≫ 松岡 その「そういう気持ち」のことを、仏教ではサットヴァ、訳して「有情」ともいう。そこでボーディにサットヴァ(有情)をつけて、ボーディサットヴァ、すなわち「菩提薩◎」と綴った。菩薩は「悟りを求める有情の人」ということになる。でも、最高のライセンスをもったサットヴァだね。そして、このような菩薩の気持ちをもつことが、大乗仏教の根本にある行動理念ともいうべきものになったわけです。ということは、大乗仏教は「菩薩の仏教」だということだ。それに尽きます。ちょっと説明が必要かな。 

≪107≫ 別番 そのためにわれわれを呼んだんでしょう(笑)。 

≪108≫ 阿弥陀聖衆来迎図 https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-07-g06.jpg 

≪110≫ 松岡 仏教では、悟りを求めて覚醒しきってしまえば、実は「如来」という名がつくことになっています。釈迦如来とか阿弥陀如来とか薬師如来は、そうした如来だね。もう向こうへ行っちゃった人。ところが菩薩は、如来になるほどの本格的な修行も覚醒もちゃんと果たしているにもかかわらず、つまり最高のライセンスをもっているにもかかわらず、あえて如来にならずに菩薩にとどまった。なぜ、とどまったのか。衆生を救うためにとどまった。それが菩薩です。その菩薩とともに衆生に当たるのが大乗仏教。三枝さんはそこに惹かれたわけです。 

≪111≫ 別番 仏さんというふうに一くくりにできないんですね。   

≪112≫ 松岡 できないね。このことは仏像としての如来像と菩薩像をくらべてみても、察しがつく。如来像はほとんどが裸に一枚の法衣を身につけているだけだよね。すっからかんだし、重ね着もしない(笑)。西郷さん(1167夜)や中西悟堂(1247夜)のように、ハダカ同然。これが仏さんのほうです。いわゆる本来の仏像。ところが菩薩像は、さまざまな道具や法具や装飾や武器をつけている。のみならず十一面になることもあれば、千手をのばすこともある。その手にいろいろのものも持っている。千眼もつけるし、武装していることもある。これは衆生の救済のための行動をおこそうとしているからなんです。 

≪113≫ 別番 なるほど、そういう違いですか。以前、松岡さんから如来の指には水掻きがあるとも聞きました。  

≪114≫ 松岡 それは二河白道(にかびゃくどう)を渡るからだね。浄土に行ったからだ。でも、菩薩は浄土に住んではいないんです。かくして菩薩の行動理念は、一言でいうなら「上求菩提・下化衆生」(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)というものになる。上も求めるが、下にも向かう。ただ座しているだけではなかったわけだ。これを現代思想のほうからいえば、菩薩にはたえず「他者」というものが想定されているということになるだろうね。自他を同時に覚醒しようとしている者なんです。 

≪115≫ 別番 でも、そのような「菩薩の仏教」はブッダのころからあったわけではないですよね。だいぶんあとに大乗仏教がおこってからですね。 

≪116≫ 松岡 ブッダによって創始された仏教は、まだリテラルな仏教じゃないからね。ちょっとずつのグループがオラリティのなかで信仰していたにすぎない。そこで、しばらくはブッダが語ったことを伝承しつつ、9部12部経といったマスター・アーティキュレーションを進めていたんです。これをまとめていうと、経蔵・律蔵・論蔵の「三蔵」(トリ・ピタカ)があったというふうになる。そこで「十事」が議論された。これが原始仏教段階です。 

≪117≫ 別番 三蔵は最初からですか。 

≪118≫ 松岡 そうです。やがて紀元前の3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王が登場して、仏教の国教化が進む。そうするとそのころになると、出家者たちが出家集団をつくり、それなりの部派に分かれていった。部派教団はそれぞれがブッダの教えを「アーガマ」(伝承コンテンツ)と呼び、そのアーカイブ作りにとりくんだ。 

≪119≫ 別番 アーガマって「阿含」ですよね。 

≪120≫ 松岡 漢訳されると阿含です。ついで、そのアーガマに詳細な注解と編集を加えていって、「アビダルマ」(論)を作成し、切り出していった。仏教史ではここまでが初期仏教ですね。仏教経典としては、この時期のものを初期経典という。『阿含経』がそうだし、『法句経』やブッダの前生を語った『ジャータカ』などがある。 

≪121≫ 別番 でも、分裂がおこった。 

≪122≫ 松岡 部派仏教がそれぞれ勢力を増していくと、どんな世界宗教史にも必ずおこることだけれど、大きな分裂がおこったわけだよね。2派に大別するとすると、いささか保守的な「上座部」といささか革新的な「大衆(だいしゅ)部」だ。まあ、自民党と民主党みたいなものかな。 

≪123≫ 別番 それは古代仏教に悪いですよ(笑)。  

≪124≫ 松岡 あっ、そうか。カトリックとプロテスタントでもないしね。だいたい宗教改革として分かれたんじゃなくて、世界認識の方法のちがいで分かれたんだからね。そりゃ、そうだ、で、これらはさらに離合集散をくりかえして、およそ18部の分派となった。これが「小乗仏教」です。小さい乗り物に乗った人たちという意味だね。部派仏教ともいう。  

≪125≫ 別番 さっきの十界でいうと、声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)の段階ですね。でも小乗ってけっこうおもしろいですよね。 

≪126≫ 松岡 おもしろいどころか、すごいところもいっぱいある。ぼくはけっこう夢中になった。だって「自己」の問題はすべてここに議論されているからね。でも「他者」のこととなると、そうはいかない。いずれ千夜千冊しようと思っているんだけれど、ヴァスバンドゥ(世親)なんていう大哲人は、だからこそ小乗から大乗にまで移っていったわけです。コンヴァージョンだ。 

≪127≫ 別番 『遊学』(中公文庫)でとりあげられていましたね。 

≪128≫ 松岡 うん、あれはヴァスバンドゥのほんの序の口だけれどね。で、そういうふうに小乗の教義があまりに細分化されていくと、仏教に帰依しようとする者たちはこの理屈っぽい動向を疎んじて、むしろ仏教全般の連携を求めるようになったわけです。そこには「他者」がいた。こうして、これに呼応する中期仏教がおこってきて、「大乗仏教」というムーブメントになった。まあ、ざっとはそういうことだね。 

≪130≫ 別番 大乗仏教の発展ってけっこうダイナミックだし、それにものすごい編集力を駆使していますよね。 

≪131≫ 松岡 そうだねえ。大乗仏教の出発そのものが、まずはブッダ以降の伝承アーカイブの大掛かりなディコンストラクションとリロケーションによって発進したからね。それで、2世紀初頭にクシャーナ朝のカニシカ王が即位するでしょう。そうすると多くの編集グループが組織され、また自主的に編集を開始する者たちもいて、その結果、大々的な仏典結集が次々におこったわけだよね。それが『般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』、そして「浄土三部経」の『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などになっていった。100年とか200年くらいかけてね。これらが連発された。すごいねえ。どのスートラも完璧なほどに、よくできている。これをぼくは、初期大乗経典のナラティブ・スートラ化と言っているんですが、これって、わかりやすくいえば大乗仏教エンジン群の勢揃いですよ。 

≪132≫ 別番 大乗仏教というシステムを動かすエンジンですか。 

≪133≫ 松岡 そう、高性能エンジン。いつも思うんだけれど、こういうスートラ型のエンジンって、実に物語性に富んでいるよね。徹底した部立(ぶだて)と文巻(ぶんかん)と式目(しきもく)をびっしり内在させている。まさに絶品のナラティブ・スートラですよ。これらの経典の一貫性と多様性を見ると、そのみごとなアルス・コンビナトリア(結合的編集術)に、ほとほと感心させられる。いずれ、このうちの『法華経』か、それとも『華厳経』か『維摩経』を千夜千冊したいねえ。 

≪134≫ 別番 韓国の高銀の『華厳教』(681夜)はとりあげられましたね。 

≪135≫ 松岡 あれは現代小説として、ね。でも、やっばり原典のスートラをとりあげなくちゃね。 

≪136≫ 別番 大乗仏教のエンジンって、そんなに性能がいいんですか。いわばナラティブ・エンジンですよね。 

≪137≫ 松岡 そう、抜群によくできている。『旧約聖書』もナラティブとしてよくできているけれど、それ以上でしょう。ただしこの時代、これらの大乗仏典をすべてを連携させ、総合するマザーシステムは、まだ生まれてはいなかったんです。もしそういうものがあるとしたら、それはおそらく「縁起のマザーシステム」ともいうべきものだろうけれど、仏教はその後もついにそうしたマザーシステムを完成させなかったんですね。したがって、これらのナラティブ・スートラとしてのエンジンはあくまでも、その後の仏教史のどんな時代にも火を噴くごとく活用されつづけた大乗仏教エンジン群なんです。いわば、その連立方程式そのものなんだね。 

≪138≫ 別番 エンジンを相互につなげるという発想がなかったんですか。一個ずつのナラティブ・エンジンの出来がよすぎたからですか。 

≪139≫ 松岡 そういうことになるかもしれないね。そのかわり、これらの運用のなかから、どんな思想を結晶させるのかという研究がしだいに高まっていった。それをまとめて大乗仏教思想というわけだが、仏教史はここからこそ本格的な思想段階に突入していくんです。つまりは三枝さんの出番ですね。燠火です。 

≪140≫ 般若心経 https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-09-g07.jpg 

≪142≫ 別番 ちょっと怖れずに言いますが、大乗思想って「色即是空・空即是色」ですよね。 

≪143≫ 松岡 菩薩の般若波羅蜜の行から観ずればそうとも言えるし、「生死即涅槃・涅槃即生死」とも言える。「有」と「非有」を行ったり来たりするからね。でも、もっと決定的なことをいえば、意識とか認識の「識の境」が「識」そのものになっているような思想ということだろうね。 

≪144≫ 別番 えっ、どういうことですか。境界そのものが意識ということですか。 

≪145≫ 松岡 うん、「識の境」が「識」にほかならないということ。対象領域をもたないめざめが大乗なんです。 

≪146≫ 別番 それって、めざめていくと境界がなくなるということですか。 

≪147≫ 松岡 そうじゃなくて、境界そのものがめざめるんです。それを唯識哲学ではかっこよく「唯識無境」と言ったりする。境にめざめがジゲンする。 

≪148≫ 別番 ジゲン? 

≪149≫ 松岡 似て現れるという似現。その「似現」が境界においてあらわれる。ということは境界は気がつけば“無境”だったということです。ついつい唯識論のとっかかりを説明しはじめちゃったけれど、これ、ちょっと難しいよね。だからこのへんのことは、いずれヴァスバンドゥをとりあげるときに話そう。それより順番でいえば、大乗仏教の思想化はね、まずはエンジン『般若経』にもとづいてグループ中観派が「空思想」を進捗していったところから立ち上がっていくんだね。諸君、知ってのとおりの、「空」をメインコンセプトとした思想の形成です。「空思想」は「中観思想」とも言いますね。 

≪150≫ 別番 最初の成果は、2世紀のナーガルジュナ(龍樹)によって大成されたものですよね。846夜の『空の思想史』にまとめられてもいました。われわれも商量でベンキョーした。 

≪151≫ 松岡 そこで、仏教史ではここからを中期仏教というのだけれど、ここに新たな大乗経典を生み出したり、作成したりするというオーサリングの活動が活発になるんですね。あるいは、新たなエンジンの設計だと見てもいいでしょう。めんどうくさい呼び方だけれど、これを仏教史では中期大乗経典第1期という。経典でいえば『勝鬘(しょうまん)経』『如来蔵経』『大般涅槃経』『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などだ。これはさっきの初期大乗仏典より、一層も二層もディープになっている。 

≪152≫ 別番 いつごろですか。  

≪153≫ 松岡 だいたい3世紀あたりからの成果だね。なかでニューエンジンとしての『解深密経』(げじんみつきょう)にもとづく一派が登場して、そこに、かの「唯識思想」が組み立てられたんだね。この一派を瑜伽行派という。ヴァスバンドゥの唯識はここから出発した。その最高到達点がアーラヤ識だよね。これは井筒俊彦さんから清水博さん(1060夜)にいたって、いま日本でも深まりつつある議論になっている。これもいずれとりあげましょう。清水さんはとりあげたから、井筒さんかな。ついで中期大乗経典の第2期がやってきましてね、これは5世紀後半くらいにとりかかっていて、そこに『薬師如来本願経』『地蔵菩薩本願経』『金光明経』『金光明最勝王経』『楞伽(りょうが)経』『密厳経』『孔雀王呪経』、そして最近のぼくが気になっている『大乗起信論』などが結実した。だいたいここまでが大乗思想のムーブメントです。  

≪155≫ 別番 そういう大乗思想を、三枝充悳という先生はどう説明されているんですか。  

≪156≫ 松岡 一言でいえば「一人から一切へ」と言われている。 

≪157≫ 別番 いい言葉ですね。「一人から一切へ」。  

≪158≫ 松岡 一切というのは五蘊(色・受・想・行・識)のすべてということだね。これをいいかえれば、つまりはその一切合切を「空と縁起」の思想、「智慧と憐愍」の思想で説くのが大乗ですよ。それなら、なぜ大乗が「空」を重視したかといえば、部派仏教が実体をいじりすぎていたからです。そこでナーガルジュナがごつんとやった。実体を空じろと言った。そのごつんの「空」を、三枝さんは「カラ」だというふうに見るといいと言っている。 

≪159≫ 別番 カラッポのカラ。ウツのウツツ。 

≪160≫ 松岡 たとえば、このコップを例にすると、コップがカラになっているところがコップである“ゆえん”なわけだけれど、そういうふうに事象や存在の“ゆえん”をカラのほうから見るのが空観だ。三枝さんの説明はふういうふうになっているんだね。  

≪161≫ 別番 空隙の存在学。 

≪162≫ 松岡 そうそう、そのとおり。次の「縁起」については、三枝さんはずばり「関係の同時性」だと思えばよろしいと言われる。三枝さんはまたコップを例に持ち出して、コップをガラスとか容器とか日用品とか物体とかと見られるように、さまざまな関係を同時に感じられるかどうか、それが縁起思想の根本になると言う。 

≪163≫ 別番 えーっ、それは編集稽古そのものじゃないですか。 

≪164≫ 松岡 そうだよ。いけなかった? 

≪165≫ 別番 いえ、いけないとかじゃなくて、編集の「言い換え」って大乗思想だったんですか。 

≪166≫ 松岡 大乗じゃいけない? 

≪167≫ 別番 ダイジョーぶ(笑)。編集乗なんですね。それにしてもコップは大乗にも編集乗にもなるんですね。 

≪168≫ 松岡 なるほど編集乗か。それもいいね。ちょうと畏れ多いけれど。で、あとは「智慧」だけれど、これは般若波羅蜜の「般若」のことだね。般若といっても般若のお面の般若ではなくて、サンスクリット語ではプラジニャーの、パーリ語ではパンニャーの訳です。プラジニャーはどういう意味かというと、プラというのは「あまねく」で、ジニャーが「知る」だから、プラジニャーとしての般若というのは、「知るもの」と「知られるもの」を分けない智慧ということだね。 

≪169≫ 別番 シニフィアンでもシニフィエでもない智慧、ですか。鍵と鍵穴が一緒になっている。 

≪170≫ 松岡 そう、そう、そのとおり。そこにはヴァイツゼッカー(756夜)の回転扉がまわるだけ。それで、般若波羅蜜の「波羅蜜」のほうは原語がパーラミタなんだけれど、これは英語の訳をみるとすぐわかる。パーフェクションという意味なんだね。ということは般若波羅蜜というのは「最高の智慧」ということになる。菩薩道というのは、こういうふうに、般若を波羅蜜にもっていく作業に全面的に没頭するということになりますね。 

≪171≫ 別番 それが六波羅蜜の6つのパーラミタというわけですか。 

≪172≫ 松岡 そうだね。 

≪173≫ 別番 いままで一番わかりやすい般若波羅蜜の説明でした。 

≪174≫ 松岡 でも、どこか切ないよね。 

≪175≫ 別番 やっぱり編集乗なんですよ。 

≪176≫ 松岡 ところで三枝さんは、このような般若波羅蜜を行ずる菩薩道は、結局は「他」のほうへ行こうとするという意味にほかならないとも言われています。ここが「切ない仏教」だ。とてもいい。 

≪177≫ 別番 他のほうへ。浄土かどうかわからないけれど、そのほうへ。 

≪178≫ 松岡 如来がいるかもしれない、その燠火のほうへ、だね。 

≪179≫ 別番 それって、ひょっとすると『般若心経』の最後の「故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦。波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」ですか。あの最後で、「行ける者よ、彼岸に行こう」と言っているのと同じですよね。あの、ギャーティ・ギャーテイが‥‥。 

≪180≫ 松岡 ギャーティ・ギャーテイがね。うん、そうだね。「行こう、行こう、他のいる向こうへ行こう」です。今年の冬の2月24日の「感門之盟」で、夕凪アルケミストの渡辺恒久君が、そのことを静かに絶唱していたよね。あれは、よかったね。 

≪181≫ 別番 たいへん印象的でした。胸がつまった。 

≪182≫ 松岡 で、これはね、いいかえれば「到れり、到れり、ここに到れり」でもあるんだね。さらにいいかえれば、「ここまで来たね、ここまで来たね」ですよ。これって、「離」をもって遠くに響きを見て受け入れるという、観音さまの意味と同じなんです。そして三枝さんは、これを一言、「これがあるとき、かれがある」とも言われた。何ともいえない表現だ。大乗菩薩道とは、きっとこれなんだろうね‥‥。 

≪183≫ 蓮華王院(三十三間堂)本堂に並ぶ千一体の千手観音像 https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1249-11-g08.jpg 

法華経を読むと、いつも興奮する。

その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。

こういう経典がしだいに人を変えるのだということも、何度も実感され、ぼくの脇腹にも刻印されてきた。

それなのに、仏典編集の快挙が現代から忘却されていることに暗澹ともする。

法華経はいま、社会の前面には躍り出ていない。

にもかかわらず、なぜ法華経には魅力があるのか。

なぜここには魔力が棲んでいるのか。

その生い立ち、その組み立て、そのメタファーの一端を、ごく少々ながら覗いてみたい。 

梵漢和対照『法華経』

梵漢和対照『法華経』

梵漢和対照『法華経』

梵漢和対照『法華経』①

≪01≫ 法華は仏の真如なり 万法無二の旨(むね)を述べ 一乗妙法聞く人の 仏に成らぬはなかりけり 

≪02≫  今夜は「千夜千冊」1300夜にあたる。すぐる日曜日の早朝は、ぼくに近しい羅漢さんたち数十人で表沙汰「陶夜會」を打ち上げた。そしてモンゴル力士日馬富士の初優勝があけての1300夜になった。なんとなく記念したい。そこで以前からとりあげようと思っていた法華経にした(今夜は繁雑になるので『法華経』というように『×××』の二重カギ括弧でくくらない。他の経典名もそうする)。 

≪03≫  法華経だけでなく、般若経や華厳経も維摩経も浄土三部経も、また大乗起信経や理趣経などもとりあげたいのだが、やはり法華経からだろう。もっとも華厳経については、高銀の小説『華厳経』を2003年12月の681夜にとりあげた。 

≪04≫  テキストは梵漢和対照の『法華経』上下巻にした。植木雅俊さんが訳したばかりの最新版だ。梵漢和が対照されて一般書になったのは初めてなのではないか。植木さんは九州大学の理学科の出身で、一転、東洋大学をへて中村元さんの東方学院で研鑽されたのちは、仏教にひそむ男性原理と女性原理の研究などに勤しむかたわら、法華経サンスクリット原典の現代語訳と解明にとりくんできた。 

梵漢和対照『法華経』

≪05≫  ぼくはまだ親しく話しこんでいないのだが、福原義春さんの紹介で「連塾」に来られてもいる。そんな縁もあり、本書は植木さんから恵送された。 

≪06≫ 妙法蓮華経 書き込み持(たも)てる人は皆 五種法師と名づけつつ 終(つい)には六根(ろっこん)清しとか 

≪07≫  日本人は長らく法華経を、僧侶ならば漢訳経典を音読で、在家の多くはその漢訳を読み下して読誦してきた。しかし、もともと法華経はサンスクリット語で書かれていた。いまはその写本のうちのネパール本・中央アジア本・カシミール本の写本が残る。原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』で、すなわち『白い蓮華のように正しい教えの経典だ』。 

≪08≫  それが漢訳・チベット語訳・ウイグル語訳などをへて、近代になると英訳・仏訳・日本語訳などとなってきた。漢訳は「六訳三存三欠」とよくいうのだが、笠法護(じくほうご)や鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)らの6種類の翻訳となり、さらにそのうちの3種だけがいま現存する。『妙法蓮華経』というのは鳩摩羅什の訳だ。笠法護は『正法蓮華経』とした。  

≪09≫  日本人は長きにわたって漢訳仏典に従ってきたが、これはさしずめシェイクスピア(600夜)やゲーテ(970夜)を最初から漢訳で読んできたというようなもの、いったんはシェイクスピアの英語やゲーテのドイツ語の原典に当たったうえで、日本語訳もそこからの訳で読んだほうがいいのは決まっている。  

≪010≫  そこで仏典にあっても、サンスクリット原典からの法華経日本語訳がゼッタイに重要になるのだが、これを最初に試みたのは南条文雄(1913)だった。ただしこの訳文は、ぼくも覗いたことがあるけれど、漢訳文語調でそうとうに堅い。これをもう少し現代日本語に近づけたのが岩本裕のものなのだが(1962)、やはり漢文読み下しふうだった。それが長らく、岩波文庫版として流布していたので、たいていの法華経ファンはこれを読んできた。 

≪011≫  それよりずっと現代語っぽいのは、レグルス文庫の『法華経現代語訳』3冊(第三文明社・1974)で、三枝充悳(1249夜)さんの思いきった訳だった。ぼくはこちらでやっと法華経の大概を知った。津島さんと対話したときは、ちょうどこの三枝訳に接していたときなのである。最初は漢文読み下しにくらべると格調がないのが気になったけれど、理解はおおいに進んだ。 

≪012≫  ほぼ同時期、中央公論社の『法華経Ⅰ・Ⅱ』(松濤誠廉・長尾雅人訳・1975)も出た。以来、その他の試みもいろいろ出たが、かくして今度、植木さんの徹底したサンスクリット原典からの現代語訳がいよいよお目見えしたわけだ。 

≪013≫  むろん経典の字句を点検しようとするわけではないのだから、おおざっぱな法華経議論をするならどのテキストでもいいのだが、本書のような梵漢和対照訳を見ているとやはり何かがちがう。何がちがうかというと、字句の問題をべつにすると、熱砂の時空を越えてきたという実感が湧く。 

梵漢和対照『法華経』

≪014≫ 一乗妙法説く聞けば 五濁(ごじょく)我等も捨てずして 結縁(けちえん)久しく説き述べて 仏の道にぞ入れたまふ 

≪015≫  新宿番衆町のローヤルマンション10階でのこと、ぼくが「聖者はオートバイに乗ってやってくる」と言ったら、ちょっと間をおいて津島秀彦が「うん、松岡さん、それなら法華経に速度を与えよう」と応えた。ついでに「釈迦とマッハをつなげたいね」とも加えた。なんと鮮烈なことをズバリと言うものかと驚いた。 

≪016≫  1975年に二人で対話した『二十一世紀精神』(工作舎)の冒頭だ。ぼくは痩せぎすの31歳。だからそういうふうに津島さんと出会って、もう30年以上がたっているのだが、このときに「法華経に速度を与えよう」と言った津島さんの言葉は、その後も川辺で聞こえてきた異人の口笛のように忘れられない。いまでもときどき思い出す。今夜、好んで見出しにつけている『梁塵秘抄』法文歌(1154夜)や、また宮沢賢治(900夜)の「月光いろのかんざしは・すなほなナモサダルマ・フンダリカ云々」の詩句のように。 

≪017≫  そのころ津島さんは、アメリカ仕込みの生体量子力学をひっさげて大陸書房でいろいろ本を書くかたわら、「エコノミスト」誌上で何人もの新宗教の開祖や2代目との対話シリーズを連載していた。それが一段落したところで、ぼくと対話したいということになった。おかげで、津島さんのせいで風変わりな法華経ファンになった。仏教経典として読むというより、最初から高速の思想テキストとして読む。いや、ちょっと気取っていえばハイパーテキストとして読むようになった。 

≪018≫  一方、ぼくの法華経がらみの好奇心は、そのままいったんは日蓮や宮沢賢治に、天台本覚や北一輝(942夜)に向いていった。とくに日蓮である。しかし、こんなふうな法華経の読み方をするようになったのも、ひとえに“法華経の速度”に引っ張られたせいだと憶う。 

≪019≫  それにしても、生体量子力学と法華経を一緒に語るだなんて、そんな無謀なことを平気で言うような科学者や仏教学者は、そのころまったくいなかった。 

≪020≫  たとえば、松下真一が『法華経と原子物理学』(光文社)を書いたのは1979年で、その前にわずかにフリッチョフ・カプラが『タオ自然学』(工作舎)で華厳経とタオイズムと量子物理学を交差させているのが目立っていた程度だった。津島さんはそういう“流行”の先頭さえ走っていた。 

≪021≫  松下真一は数学者としては、ハンブルク大学理論物理学研究所の位相解析学の研究員だった。作曲家としては声明(しょうみょう)や和讚(わさん)に早くからとりくんでいた。東西本願寺・高田派・光明寺派などが真宗連合を結成したときにはオラトリオ『親鸞』を作曲し、さらに阿含経(あごんきょう)にもとづいたシンフォニー『サムガ』などもつくっていた仏教研究者でもあった。レコード9枚におよぶ『妙法蓮華経』という超大作もある。けれども、あまり理解されないままに1990年のクリスマスに亡くなった。 

≪022≫  津島さんも今日にいたるまで、ほとんど理解されてはいない。本格的な著書もない。そのうえあろうことか、津島さん自身がいつのまにか行方不明になった。行方をくらますなど、まるで中世の禅僧や歌僧のようだけれど、そういうことをしかねない信条の持ち主でもあった。そういう人って、いるものだ。十数年後、娘さんがお母さんと訪ねてきて、ぜひ松岡さんのもとで働かせたいと申し出られた。お母さんは「だってこの子にとっては松岡さんが津島の代わりなんですから」と言う。デザインが好きな娘さんだったので、しばらく手伝ってもらった。 

梵漢和対照『法華経』

023≫ 法華経このたび弘めむと 仏に申せど聴(ゆる)されず 地より出てたる菩薩達 その数 六萬恒沙(ろくまんごうしゃ)なり 

≪024≫  津島さんの「法華経に速度を与えよう」で始まったぼくの風変わりな法華経青春縁起は、その後はちょっとばかり落ち着いて、そのかわり日蓮の影響も手伝って、だんだん質的に変化して、いつしか自分でも手に負えないほど巨きくなった。  

≪025≫  理由ははっきりしている。大乗仏教における「菩薩」や「菩薩行」とはいったい何かということが気になってきたからだ。 

≪026≫  このことに関してはいまならいろいろのことが言えそうなのだが、それを今夜はとりあえず端的にいえば法華経が演出した「地湧(じゆ)の菩薩」の満を持した覚悟の意味と、「常不軽(じょうふきょう)菩薩」の不思議なキャラクタラリゼーションの意図を追いかけたいということ、このことに尽きている。

≪027≫  地湧の菩薩は法華経の15「従地湧出品」(じゅう・じゆしゅつほん)に登場する。その名の通り、大地を割って出現した六万恒河沙の菩薩たちをいう。ブッダが涅槃に入ったのち、その教えが伝わりにくくなり、その信仰の本来の意図の布教が躊めらわれていたとき、ついに地面から出現したのが地湧の菩薩たちだった。たいそう劇的なことには、この地湧の菩薩が出現してくる瞬間、法華経全巻がここで大きく転回していくのである。 

≪028≫  この構成演出はすばらしい。それとともに、ここに菩薩の意味がついに明示されていた。かれらは「知っての通りの待機者」だったのだ。  

≪029≫  お恥ずかしいことに、ぼくは長らく仏教における菩薩とは何者なのか、何を担っている者なのかということがわからなかった。なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。こんな宗教はほかには見当たらない。菩薩はエヴァンゲリオンではない。他者にひっこむものなのだ。凹部をもったものなのだ。 

≪030≫  そういう謎が蟠っていたのだが、それを払拭したのが法華経の「地湧の菩薩」だったのである。いや、法華経における「地湧の菩薩」の巧みな登場の“させかた”だったのだ。つまりはこれは、法華経におけるブッダが示した鍵に対する凹んだ鍵穴だったのである。 

≪031≫  実際には菩薩(ボーディ・サットヴァ)とは、ブッダが覚醒する以前の悟りを求めつつある時期のキャラクタリゼーションをいう。しかし法華経においては、その格別特定のブッダの鍵がカウンター・リバースして、いつのまにか菩薩一般という鍵穴になったのだ。  というふうには感じているのだが、まだこのことに関してはぼくの思索が現在進行形している途次なのである。 

梵漢和対照『法華経』

≪032≫ 不軽大士(ふきょうだいし)ぞ あはれなる 我深敬汝(がじんきょうにょ)と唱へつつ 打ち罵り悪しき人も皆 救ひて羅漢と成しければ 

≪033≫  一方の常不軽(じょうふきょう)菩薩のほうは、法華経20の「常不軽菩薩品」に登場する。鳩摩羅什の漢訳では「常に軽んじない菩薩」(不軽)という漢名をもっているのだが、サンスクリット原典では一見、「常に軽蔑されている菩薩」とも読めるようになっている。 

≪034≫  植木さんはそこを、こう訳した。「常に軽んじないと主張して、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」というふうに。うーん、なるほど、なるほど、これならよくわかる。ネーミングの意図を汲み上げた訳になっている。そうであるのなら、この菩薩は鍵と鍵穴の関係をさらに出て、菩薩と世界の、菩薩と人々との“抜き型”そのものになったのだ。フォン・ユクスキュル(735夜)ふうにいえば、その“抜き型”のトーンそのものになったのだ。 

≪035≫  常不軽菩薩がこのような、比類なくアンビバレントな名前をもっていること自体も意味深長なのだが、そのうえでこの菩薩は何をするかというと、乞食のような恰好のまま、誰だって成仏できますと言い歩く。そこがまたもっと不思議なのである。だいたい、そんな安直なことを急に言われても、誰も納得するはずがない。かえってみんなに罵られ、石を投げられ、打たれたりする。それなのに常不軽菩薩はあいかわらず誰に対してもひたすら礼拝をする。あるいはひたすら菩薩の気持ちを述べる。それしかしない。そればかりする。 

≪036≫  この常不軽菩薩のキャラクターが法華経全巻において燻し銀のごとく光るのだ。これは「愚」なのである。「忍」なのである。いわば常不軽菩薩は「誰も知らない菩薩者」として法華経に登場してきたのだった。それゆえ、ひっくりかえしていえば、この菩薩こそ“何の説明もないすべての可能性”だったのだ。  

≪037≫  もしもドストエフスキー(950夜)やトーマス・マン(316夜)が常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)。 

≪038≫  というわけで、ぼくはいま「地湧の菩薩」と「常不軽菩薩」のあいだを行ったり来たりしているのだが、それはそれ、今夜はそろそろ法華経という構造がもっている本質的な編集構成の妙義について、以下、ちょっとだけのピクニックをしてみたい。 

梵漢和対照『法華経』

≪039≫ 釈迦の誓ひぞ頼もしき 我等が滅後に法華経を 常に持(たも)たむ人は皆 仏(ほとけ)に成ること難(かた)からず 

≪040≫  世界宗教としての仏教(ブッディズム)にはいくつもの特色があるが、そのひとつにキリスト教やイスラムなどの宗教では、教典はバイブル一冊やコーラン一冊に集約されているのに、仏教が多くの経典をもっていることがあげられる。俗に「八万四千の法門」という数だ。べらぼうだ。 

≪041≫  ところが法華経は、そういう多種多様な経典を生み出した仏典のなかで、「万善同帰教」というふうにみなされてきた。「諸経の王」ともいわれてきた。すべてのブッディズムの教えはことごとく法華経に入っているという見方なのである。そう、法華経は思われてきた。 

≪042≫  そもそも仏教は、ブッダ亡きあとに長い時間と多くの信仰者と人士をもって複合的に組み立てられた宗教システムである。当然、経典もさまざまな編集プロセスをもって成立していった。それゆえ、のちには「万善同帰教」とみなされた法華経もその出自からすると、もとより一筋縄ではありえない。 

≪043≫  仏典結集(けつじゅう)の試みは、おそらくブッダ没後の直後からオラリティをもっておこなわれていた。きっと200年間ほどは口伝のままだったろう。だいたいブッダが喋っていたのはマガタ語というものなのだが、それがどんなものであるかは、さっぱりわかっていないのだ。それがしだいにリテラシーをともなって、紀元前250年前後のアショーカ王のころの第三結集に及んだ。ここで初めてサンスクリット語とブラフミー文字(アショーカ王碑文文字)が使われた。ほかにカローシュティー文字も使われた。 

≪044≫  このことは決定的である。記録にのこるリテラルな文書性が交わされたことは、ついついリテラシーの対立を生み、それが思索の対立にもなったのだ。アショーカ王の時代、すでに仏教教団の内部や信仰者たちのあいだには議論や論争や対立がたえず、仏教活動は激しく分派していったのだ。ブッダの教えを守るのか教団の規律を重視するのかという、よくあるコンプライアンス問題による対立がきっかけで、大きくは伝統順守派の上座(じょうざ)部と時代適応派の大衆(だいしゅ)部に分かれた(=根本分裂)。 

≪045≫  その対立部派が紀元前1世紀ころは20くらいの部派になって定着して(=枝末分裂)、いくつものアビダルマ(論書)が編集された。これを「部派仏教」(のちに小乗仏教と蔑称される)というのだが、それぞれのリテラル・ロジックはそれなりに強烈だった。ぼくもずいぶん惹かれた時期がある。 

≪046≫  ただ、そうした部派仏教はもっぱら自己解脱をめざしていて、そのようになるために自己修行をし、自己思索を深めていくことを主眼としていたので、やがてそのような態度を批判する連中が出てきた。いや、乗りこえようとする動きが出てきた。 

≪047≫  これが大乗のムーブメントである。そのムーブメントがもたらした大乗仏教のあらましは、大筋についての流れを1249夜の『大乗とは何か』にもふれておいたので省略するが、ここに般若経から法華経をへて浄土三部経におよぶ大乗経典の執筆編集がとりくまれたわけである。 

≪048≫  けれども、この執筆編集は決して容易なことでは組み立たない。当然、それまでの部派仏教とは異なる解釈や展望がなければならないし、部派仏教の信徒やアビダルマの研究者たちだって、むろんのことブッダの教えにもとづいた熱心な者たちなのである(かれらの理想は羅漢になることだったのだ)。そういうかれらを排斥するわけにはいかない。 

≪049≫  そこで大乗ムーブメントの推進者たちは、かれらをひとまず「声聞」(しょうもん)と呼ぶことにして、そこからさらに解脱をめざしながらも独りごちしている者たちを「縁覚」(えんかく)として位置づけて、その二乗(声聞・縁覚のこと)をさらに開いて「利他行」に転じていった者を「菩薩」と位置づけることにした。  

≪050≫  そのようにしたうえで、法華経の編者たちは大乗以前の考え方と大乗以降の考え方を、コンセプトにおいてもリプリゼンテーションの方法においても、うまくつなぐことを試みた。 

梵漢和対照『法華経』

≪051≫  法華にまします所には 諸仏神力拝みつつ 皆これ仏の菩提場 転法輪の所なり 

≪052≫  かくて西暦50年ころ、奇しくもキリスト教が確立していった時期にちょうどあたるのだけれど、今日の法華経構成でいう2「方便品」から9「授学無学人記品」までの3分の1くらいが書かれ、いったん流布していったのだ。 

≪053≫  しかしこれだけでは、小乗から大乗への転換はまだまだうまくはたせない。折しも時代状況の変化やヒンドゥイズムとブッディズムの確執もあった。そのため西暦100年前後に、さらに10「法師品」から22「嘱累品」と「序品」が加わり(ここに15「従地湧出品』や16「如来寿量品」が入る)、最終的には150年前後あたりで23「薬王菩薩本事品」から28「普賢菩薩勧発品」が添加編集されて、ほぼ今日の構成にできあがった。途中さまざまな書き換えも着替えもあったろう。 

≪054≫  ざっとはこういう多様な編集プロセスがあったのだが、これらのなかでの最も重要な転換は、なんといっても「菩薩行」としての大乗思想を提案することだった。これを法華教学では「一仏乗」の思想達成というのだが、ただしその達成がおこるには、思想だけを提案していてもダメなのだ。その担い手の仏法的な意味をあきらかにする必要がある。 

≪055≫  こうしてここに登場したのが「地湧の菩薩」だったのである。総称して菩薩群、あるいは菩薩団。その一般化。 

≪056≫  これよって声聞・縁覚の小乗的ブッディズム理解を「一仏乗」に向かって一挙に止揚することにした。大乗仏教以前と大乗仏教以降は、まさに菩薩行の関係的介在によってなんとかつながりそうになる。 

≪057≫  しかしながら、それだけではまだ不具合もおこる。副作用がおこる。たとえば、なぜブッダが教えを説いたときからそのような菩薩たちは登場していないのか。なぜ声聞や縁覚は出遅れたのか(つまり自己発見プログラムの開発ばかりに向かったのか)。どうしたら自分の自覚と他者の救済を同時にできるのか。それらについての説明はできてない。なにより、このままでは経典中でのブッダの教えが小乗時代の説法と大乗時代の説法とで変節しているように見える。実際に変節しているのだとしても、その理由を説明できない。  

≪058≫  では、どうするか。ここにおいて「ブッダの方便」という格別の編集術が披露されるのだ。あるいは「法華の七喩」(法華経には有名な7つの譬喩が用いられている)といわれる数々のメタファーが駆使されたのである。ここからが法華経編集独特のアブダクションになっていく。 

梵漢和対照『法華経』⑧

≪059≫  空より花降り地は動き 仏の光は世を照らし 弥勒文殊は問ひ答へ 法華を説くとぞ予(かね)て知る 

≪060≫  よく知られているように、法華経にはいろいろのレトリックがある。メタファーがある。それを総じて「方便」という。現在の日本人には方便は「嘘も方便」というようにあまりいい言葉と映っていないようだけれど、ぼくはそれを編集思想のたいへんよくできたラディカルきわまりない概念工事だと思っている。 

≪061≫  方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。 

≪061≫  方便のない思想なんてありえない。アナロジーのない編集はなく、メタファーのない表現はない。法華経は早くもそこを存分に活用した。なかでも方便活用の最大の編集思想の妙は、ブッダの歴史性と永遠性とをどのように関係づけて説明するかというところにあらわれた。 

≪063≫  では、この、いささか接ぎ木のようになっている二つのことを、うまくつなげて説明するにはどうするか。そこで、ブッダが菩提樹のもとで成仏したというのは方便であって、ほんとうのことをいえばブッダはずっと昔の久遠のときに成仏していたのだというふうに、法華経は後半部に進むにしたがって説き方を変えるようにしたわけだ。 

≪064≫  衆生(しゅじょう)を救済するために、私(=ブッダ)はいったん涅槃に入る姿を示すけれど、実は実態としての涅槃に入るのではありません。それが証拠に、この法華経をいま説いているリアルワールドの霊鷲山(りょうじゅせん)にあって(法華経の序品はこの霊鷲山でブッダが説法をしている場面に始まっている)、ほれ、ブッダはいまもなおこのように説教しつづけているのですよ、というふうにした。 

≪065≫  これは驚くべき解釈視点の転換だ。いわば“意図のカーソル”とでもいうものを大きく動かした。法華経はその文脈が進むにつれて、説得のコンテンツが相転移をおこすようになったのだ。それを法華経は、15「従地湧出品」に続く16「如来寿量品」のところで説明してみせるのである。しかも、その方便活用のメソドロジカルな下地は、2「方便品」や3「譬喩品」でちゃんと用意されていた。かくしてここに、「久遠仏」としてのブッダの存在学が確立していくことになる。 

梵漢和対照『法華経』

≪066≫ 三身仏性 珠(たま)はあれど 生死(しょうじ)の塵にぞ汚れたる 六根清浄(ろっこんしょうじょう)得てのちぞ ほのかに光は照しける 

≪067≫  いささか教学的な用語をつかうけれど、歴史上のブッダは生身(しょうじん)という。これに対して永遠のブッダは「法身」(ほっしん)である。しかし、ブッダは生存中に成仏・成道し、偉大な智慧を獲得した者でもあったのだから、その、至高の智慧となったブッダという覚醒の内容は生身でも法身でもない。これを「報身」という。  

≪068≫  他方、生身でなくなったブッダとは何者か。たしかに死んで涅槃に入ったようだった。けれどもそれはまた、たんなる死ではないはずだ。悟ったまま涅槃に入ったからである。そこで、そのブッダを「応身」というふうにする。 

≪069≫  そうすると、ブッダは法身・報身・応身の三身にわたって過去・現在・未来をまたぐ時空を変化していたということになり、そのように変化するためには、もともとそのような変化を見せる永遠性がすでにどこかで準備されていたということになる。そう、法華経は編集的相転移を進めていったのだ。それで、どうなったのか。久遠仏としてのブッダという、フィクショナルではあるけれど、しかしとんでもないアクチュアリティをともなって巨変しつづけるブッダ像がつくられた。 

≪070≫  もっとも、こんなアクロバティックな説明はすぐには納得できないだろうとも予想された。実際にも、この説明を聞いていた者たちはなんとなく疑問をもった。いや、法華経のテキストはそういうふうに、法華経を読む者たちが疑問をもつ場面があるだろうことも先取りをする。 

≪071≫  想定される疑問は、こうだ。釈尊が菩提樹のもとで悟りを開いてから教えを広めて、そこから数えて40年程度にしかならないのに、どうして久遠の昔から教えを説けるということになるのでしょうか。 

≪072≫  そこで当のブッダがいよいよその意味を証していくというのが、法華経の後段になったわけである。「従地湧出品」とそれに続く「如来寿量品」は、そのブッダ存在学の核心部にあてられる。かくて法華経はみごとに前半部と後半部を並列処理できるように構成されて、いよいよ大乗仏典の「万善同帰教」として君臨することになったのである。  

梵漢和対照『法華経』

≪073≫ 法華経八巻は一部なり 拡げて見ればあな尊(とうと) 文字ごとに 序品第一より 受学無学(じゅがくむがく)作礼而去(さらいにこ) 読む人聴く人皆(みな)仏(ほとけ) 

≪074≫  法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。 

≪075≫  次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。 

≪076≫ 法華経28品 

≪078≫  図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。 

≪079≫  こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。 

≪080≫  ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。   

≪081≫  いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。 

梵漢和対照『法華経』

≪082≫ 仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず 始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり  

≪083≫  こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。 

≪084≫  その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。 

≪085≫  4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきたが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。 

≪086≫  この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。 

≪087≫  そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。  

≪088≫  つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。 

≪089≫  またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。 

≪090≫  大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。 

≪091≫  法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。  

≪092≫  それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。 

≪093≫  だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。 

梵漢和対照『法華経』

≪094≫ 釈迦の御法(みのり)は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける 三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる 

≪095≫  さて、まとめていえば、法華経の外観はよくできた物語だった。ドラマ仕立てのスペースオペラなのだ。場面も移っていくし、登場人物も多い。『レッドクリフ』の比ではない。だからまさに物語になっているのだが、そこには別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしているのが、よく見える。つまり編集の苦労のアトがよく見える。 

≪096≫  そのことを説明するには、ここで1「序品」→2「方便品」→3「譬喩品」というふうに、1品ずつの内容をかいつまむべきだろうけれど、今夜はよくある法華経入門書のようにそれを踏襲することはやめておく。そのかわり、最も構成が絶妙なところだけをあらためて指摘する。 

≪097≫  法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。 

≪098≫  つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本仏(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。 

≪099≫  この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。 

≪0100≫ ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。 

≪101≫  それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と 

梵漢和対照『法華経』

≪102≫ 我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け 衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし 

≪103≫  ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。 

≪104≫  覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。 

≪105≫  これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。 

≪106≫  「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。 

≪107≫  それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。 

≪108≫  これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。 

≪109≫  さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。 

梵漢和対照『法華経』

≪110≫ 古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも 仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ 

≪111≫  法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。 

≪112≫  法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれた。父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読むようになった。 

≪113≫  その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。ところがそのころ関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。このあたり、けっこう血腥い(もともと宗教は血腥い)。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興(ようこう)が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招くことにした。 

≪114≫  ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳にとりくむというふうになる。その質量、35部294巻におよんだといわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だったのだ。鳩摩羅什はほかにも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深いものだった。 

≪115≫  ところで姚興が羅什の出奔をおそれて美女十人をあてがったのというのは有名な話だが、羅什のほうもそれを拒むこともなく悠然と美女と遊んで暮らしたというのだから、なるほど仏典翻訳編集の難行と愉悦とはこういうものでもあるかと思わせる。いやいや、仏典翻訳がつねにそういうふうであるというのではありえません。鳩摩羅什はそうだったということだ。 

≪116≫  さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。 

≪117≫  こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。 

梵漢和対照『法華経』

≪118≫ 仏に華香奉り 堂塔建つるも尊しや これに優れてめでたきは 法華経もてる人ぞかし 

≪119≫  こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国においては仏法は王法に匹敵できたのである。ただし、そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなった。 

≪120≫  また、中国では最初から大乗仏教が優先された。インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教のなかの何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定をうけつづけたのだ。それを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)というのだが、たとえばさきほど述べた「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされたのである。 

≪121≫  こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れこんできた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をこそもちこんだのだ。 

≪122≫  一方、知られるように、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まっている。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになると、ここに日本独特の法華美学のようなものが立ちあらわれてきた。 

≪123≫  法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。 

≪124≫  そこに、法華経を歌謡に転じる釈教歌(しゃっきょうか)や、今夜は見出しにおいてみた『梁塵秘抄』の法文歌(ほうもんか)や、法華二十八品歌なども加わって、公家も女房も武門さえ、ひとしく法華経賛歌に酔ったのだ。日本の法華経はずいぶん官能的であり、また美の対象とされたのだ。 

≪125≫  このことについては、近世の狩野派や等伯や光悦や宗達らのトップアーティストの多くが法華衆であったことなどともに、いずれ論じたい。 

≪126≫  しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきに、突如として雷鳴のような一閃を食らわし、独自の法華経思想を旋風のごとく確立していった法華経行者があらわれた。藤末鎌初に登場してきた日蓮である。日蓮についてはいつか『開目抄』か『立正安国論』かをとりあげて千夜千冊したいけれど、ここではとりあえず一言だけふれておく。 

≪127≫  ともかく凄い。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動をいっさい除いても、こんな法華経の見方をした者はインドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目を設定したことが、インドにも中国にもない。また法華経そのものとその菩薩行において仏法を統一するという構想に徹したのみならず、日本という国家を法華経によって安国できると見たのも、凄かった。とくに10「法師品」から22「嘱累品」あたりをつぶさに検証して、そこに殉教・殉難の精神の系譜を見いだしたことは、すこぶる独創的だった。 

≪128≫  日蓮の孫弟子の日像、舌を切られ灼熱の鍋をかぶらされた日親、不受不施派に徹して対馬に流された日奥、さらには明治近代の田中智学や内村鑑三(250夜)北一輝や石原莞爾におよぶ流れにも、日蓮の法華経世界観の投影を議論すべきであるけれど、今夜はそこまで足をのばさないことにする。 

梵漢和対照『法華経』

≪129≫ 達多五逆の悪人と 名には負へども実(まこと)には 釈迦の法華経習ひける 阿私仙人 これぞかし 

≪130≫  では、こんなところで、今夜の法華経談義を仕舞いたい。なんだか何も説明できなかったように思うけれど、まあ、しかたない。キリなく書きたいことばかりが押し寄せて、これでも書き換えたり、削除したりするのが精一杯だったのだ。  

≪131≫  そこで最後にちょっとばかり12「提婆達多品」(だいばだったほん)のことを、付言する。なんとなくそういう気分になってきたからだ。 

≪132≫  法華経はこの直前の11「見宝塔品」で、法華経の弘通に力を尽くす者がどんなにすばらしい功徳を得られるかということを説くのだが、第12品では、その弘通を阻もうとする提婆達多さえ、悪人成仏の可能性をもっていることにつなげてみせる。もとより提婆達多(デーヴァダッタ)は仏法を迫害する悪魔であって魔王のようなものである。キリスト教ならサタンやアンチ・キリストにあたる。ところがブッダはこの提婆達多に感謝した。  

≪133≫  話の顛末は、こうである。ある国の国王がその国の人々を救いたいと考えた。しかしそのためには法を求めなければならない。それには国王の座を捨てたほうがいい。けれども、その法をどこで学べばいいか。もしそのようなことを教えてくれる者がいるのなら、自分はその召使いになってもいいと考えた。そのとき阿私仙人という男がやってきて、自分は法をよく知っていると言うので、国王はよろこんで仙人の身のまわりの世話をした。いくら仕えても飽きることがない。なぜなら、それが法を会得するためだったからだ。 

≪134≫  と、いうところでブッダが、この話の裏を言う。国王とは実は自分のことなのだと明かす。そして、その仙人とは提婆達多であったとも明かす。もともと提婆達多はブッダの従兄弟(いとこ)にあたっていて、その弟が多聞第一といわれた阿難であった。これでも見当がつくかもしれないが、ブッダと提婆達多は若いころからのライバルだったのである。ブッダはソ―ダラを妃に迎えたが、提婆達多もソ―ダラに思いを寄せていた。しかるにブッダは提婆達多の成仏の可能性を説く。  

≪135≫  だいたいはこういう話が前半にあり、ついで後半に8歳の龍女にも成仏の可能性があるというふうになっていく。 

≪136≫  当時、女性は垢穢(くえ)のために法器にあらず、成仏を志す器ではないと言われていた。この第12品でも舎利弗が龍女に向かって、おまえはとうていそんな資格がないと言う。しかし龍女が黙って身につけていた宝珠をブッダにさしあげると、たちまち龍女は男子に変成した。有名な「変成男子」(へんじょうなんし)だ(『17歳のための世界と日本の見方』参照)。 

≪137≫  この、二つの奇妙な挿話で「提婆達多品」はできているのだが、さて、この章が鳩摩羅什の『妙法蓮華経』ではバッサリ落とされている。サンスクリット原本では前章の「見宝塔品」に入っていて、笠法護の『正法蓮華経』もそうなっている。それなのに、なぜ鳩摩羅什はこれを消したのか。実は仏教界では、その理由がいまなお取り沙汰されているところなのだ。そのため、ここは“法華経の謎”とも、また悪人成仏と女人成仏を説いたということで、“大乗仏教そのものの謎”ともされてきたところなのである。 

≪138≫  ぼくは、この「提婆達多品」こそ、その後の法華経の運命を左右するものとして仕込まれたのだと思っている。付け加えておく気になったのは、このことだ。それ以上でもそれ以下でもないが、この話、やはり法華経全巻の「負」を背負っているように思う。 

≪139≫  諸君はどう思うだろうか。あれほどの鳩摩羅什も、いささか美女と遊びすぎたのだと、そんなふうに結べれば、それもまたオツなところになるけれど……。 

≪140≫  諸君はどう思うだろうか。あれほどの鳩摩羅什も、いささか美女と遊びすぎたのだと、そんなふうに結べれば、それもまたオツなところになるけれど……。 

梵漢和対照『法華経』

梵漢和対照『法華経』

シルクロード仏教が中国仏教に変格していった。

ユダヤ教からキリスト教が出陣していったほどの事件だ。

その画期的プロセスを用意したのは、パルティア(安息)の安世高、クシャーン(大月氏)の支謙、敦煌の竺法護、そしてクチャ(亀茲)の鳩摩羅什だった。

ただのバイリンガル漢訳者なのではない。

驚くべき言語編集力と構想力の持ち主たちである。

とくに鳩摩羅什において中国仏教が着床し、その先で朝鮮・日本の仏教装置が起爆した。 

【ノート01】

≪01≫ かつてぼくは横超慧日・諏訪義純の共著による大蔵出版の『羅什』という本を読んだことがある。80年代の前半のこと、10年続いた工作舎を離れて4、5人で松岡正剛事務所を自立させたころだ。 

≪02≫  ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥ、クマーラジーヴァの3人が気になっていた時期だった。ナーガルジュナ(竜樹)は中論を知りたかったからだが、ヴァスバンドゥ(世親)とクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)については、二人が小乗から大乗に転向あるいは転換した理由や経緯、それとともに周辺の状況が知りたかった。 

≪03≫  ブッダの教えは第二結集のころに出家教団サンガの対立によって、厳格な長老をコアメンバーとした「上座部」と柔らかい信仰をつくりたい「大衆部」とに分かれた。インド仏教史にいう“根本分裂”である。その後、マウリヤ朝のアショーカ王の時代をへて仏教が西域(もうひとつはスリランカから東南アジアに)に広まっていくまで、上座部は正量部や経量部や、とりわけ「説一切有部」によって理論的な深まりを見せていった。「小乗の力」だ。 

≪04≫  シルクロード仏教はその「小乗の力」に席巻されていた。そういうときにクチャにクマーラジーヴァが登場した。そして中国(後秦)に招かれる前後に大乗化し、中国仏教の基礎を築いた。 

≪05≫  本書は『高僧伝』の焼き直しではなかった。詳しい分析がなされていたというほどではなかったが(とくに後半はつまらなかったが)、それでもクマーラジーヴァの「言語編集力」に驚嘆した。この本を読んでしばらくして、ぼくは春秋社の『空海の夢』に執りかかった。 

≪06≫  ◎横超慧日=明治39年生。東大印哲、『中國佛仏教の研究』法蔵館、『北魏仏教の研究』平楽寺書店。◎諏訪義純=『中国中世仏教史研究』大東出版社、『中国南朝仏教史の研究』法蔵館。大谷大学。 

【ノート02】

≪07≫ 羅什はむろん鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)のことだ。この略称はよくない。マクドナルドがマクドで切れるみたいだ(笑)。ときに「什」とも綴る。これは池袋をブクロと言うみたいだ(笑)。マクドやブクロはいいけれど、この男についてはちゃんと鳩摩羅什かクマーラジーヴァと言ったほうがいい。 

≪08≫  父の鳩摩羅炎はインド出身である。シルクロードをクチャ(亀茲)に上って国師として迎えられた。やがてクチャ王の妹の耆婆(ジーヴァ)を娶って、あるいは娶らされて(?)、多言語の可能性にとりくんだ。  

≪09≫  鳩摩羅炎の母国語はインド語、文字はグプタ・ブラフミーである。クチャではクチャ語がつかわれていた。同じインド・ヨーロッパ語族だが、ケンツム語群系(ギリシア語・ヒッタイト語・トカラ語系・ラテン語系)とサテム語群系(インド語・イラン語)のちがいがあって、互いにさっぱりわからない。鳩摩羅炎はそこを突破していった。聡明な妻のジーヴァの助けがあったのだろう。この両親の異文化交流能力は、息子のクマーラジーヴァにも乗り移る。 

≪010≫  言語と仏教、文字と仏教の関係は密接だ。インド仏教・シルクロード仏教・東アジア仏教におけるオラリティとリテラシーの変化と変容と変格を、看過してはならない。ヘブライ語やアラブ語が文明史を大きく変革していったように、アジアにおいては仏教言語が文明の歯車をつくっていった。これはもっともっと強調されるべきだ。 

≪011≫  ふりかえればブッダの時代はおそらく文字がなく、仏典編集に文字が本格的に使われるのはアショーカ王の治世になってからである。それらがシルクロードでは多種多様な言語として花開いた。しかし、その多様多彩はいずれ「漢訳」という一大言語編集機能に集約されたのである。これをなしとげた連中に敬意と驚異を表したい。 

≪012≫  ◎紀元前4世紀頃に、文法学者パーニニが北西インドの言語習慣を整理して「サンスクリット語」を成立させた。サンスクリットは比較言語学では古代インド・アーリア語に属する。やがて口語の表記ができる「プラクリット語」が成立した。中期インド・アーリア語に属する。 

≪013≫  ◎アショーカ王の碑文には、アラム文字の影響を受けたカロシュティー文字(向かって右から左に読む)と、インド固有のブラフミー文字(左から右に読む)が使われている。◎グプタ文字・クシャーン文字・デーヴァナガリー文字といった呼称はブラフミー文字の中のフォントの種類だった。 

≪014≫  ◎インドの仏典写本に使われたのは椰子の一種のターラ(ターラ椰子)の葉だった。それを短冊状に切って書写に用いた。これを「貝葉」(ばいよう)という。貝多羅葉(パットラ)の略だ。というわけで、インドやシルクロードの“本”は横長短冊形だったのである。 

【ノート03】

≪015≫【ノート03】クチャの340年(or350)、クマーラジーヴァが生まれた。母は比丘尼となり、そのとき7歳の少年クマーラジーヴァも出家した。稽古始めや修行見習いというならまだしも、出家というにはやや早すぎるようだが、『太子瑞応本起経』(→調べること)には悉達太子が7歳のときに仏門学習に入ったというし、当時のクチャでは『十誦律』が広まっていて、そこに「仏曰く、今より能く烏を駆うれば沙弥となるを聴(ゆる)すも、最下は七歳なり」とあるので、鳩摩羅什伝もこれに倣ったのだろう。

≪016≫  当時のクチャは寺院や僧院が500ケ寺を越えていた。止住する僧侶や僧徒たちも百人程度はザラで、なかには数千人がいた大寺院もあった。そうだとすると、のちの中国寺院に見られるような「三綱」(寺主・上座・維那)や「僧官」(僧正・悦衆・僧録)といった役割が機能していたとも想定される。のちに玄奘が『大唐西域記』に綴ったところでは、クチャ仏教はまことにすばらしく、僧徒たちは持戒をちゃんと守り、全員が清らかで、寺院の中の仏像も人工のものとは思えないほど精緻だったらしい。 

≪017≫  クチャの仏教界では仏図舌弥(ぶっとぜつや 生没未詳)が有力僧として知られていた。いくつもの寺院を統括していたようで、中国からやってきた僧純・曇充という学僧がこの仏図舌弥の名声について触れている。 

≪018≫  ◎クチャの殷賑は『北史』西域伝や『晋書』四夷伝に詳しい。硫黄・石炭・細氈・饒銅・鉄・鉛・毛皮・饒沙・塩緑・雌黄・胡粉・安息香・良馬・牛・孔雀などに恵まれていたという。松田寿男センセーの『古代天山の歴史地理学的研究』(早稲田大学出版部)では硫黄と石炭と鉄を重視している。◎風俗はイラン風の断髪が流行していたようだ。 

≪019≫  ◎いっときクマーラジーヴァ一家はクチャ王の白純が新たに建立した伽藍に住していたという説がある。その寺には90人近い僧侶がいた。古くに建てられた雀離大寺にもいたとか(このことについては未詳)。 

【ノート0

≪020≫ 【ノート04】358年前後のこと、母は息子を国外で修行させようと思い、トルキスタンのカシュミールに留学させた(首都スリナガル)。クチャにいても充分な修行もできるだろうに、またそのころはすでにグプタ朝下で新たな仏教が隆盛していたのだから本格的な留学ならこちらだろうに、カシュミールを選んだ。なぜか。

≪021≫  4~5世紀のカシュミールはクチャ同様の小乗仏教活況期で、なかんずく説一切有部のアビダルマが支配的だった。母はわざわざそこへ息子を行かせた。凄いお母さんだ。これはあくまで推測にすぎないが、クマーラジーヴァと同じクチャ生まれの仏図澄(232~348)がやはりカシュミールに留学しているから、これに準じたのだろうか(これは白鳥庫吉説)。

≪022≫  カシュミールで師事したのは槃頭達多(ばんずだった)という高僧だった。説一切有部に属し、のちに薩婆多部第48祖に数えられた。カシュミール王の従兄弟にあたる。母のジーヴァが王族出身だったから同じ王族出身という誼みで息子を預けたのかもしれない。大きなお母さんだ。

≪023≫  槃頭達多は午前写経一千偈、午後読誦一千偈を日課としていた。少年クマーラジーヴァもただちに暗誦を日課とさせられた。『雑蔵』と『阿含経』を読んでいる。クマーラジーヴァの人生はまさにブックウェアそのものだったのだが、それはこのときから始まっていた。

≪024≫  ついで『六足発智論』のような阿毘曇(アビダルマ)を学んだ。ともかくも、少年あるいは青年クマーラジーヴァの瑞々しい知性は、当初は全面的に「小乗の力」に満ちたアビダルマ仏教で覆われたのだ。

≪025≫  ◎どうもカニシカ王時代のクシャーン仏教あるいはチャンドラグプタ時代のグプタ仏教とシルクロード仏教との関係が、イマイチはっきりしない(→要点検)。◎当時のクチャは小乗仏教。クチャのみならずシルクロード仏教の初期はだいたい小乗的な説一切有部だった。みんなアビダルマに強かったのだ。

≪026≫  ◎仏図澄が五胡十六国期を代表する。後趙から晋の洛陽に入ったのは80歳の頃だ。仏図澄は一本の経典も訳さなかったけれど、後趙の石勒・石虎に「国の大宝」「大和尚」と称えられた。日本における鑑真和上のような存在だったと見ればいいか。

【ノート0

≪027≫ 【ノート05】クマーラジーヴァ以前、すでに西域には何人もの訳僧が出身し、中国に入っていた。シルクロード仏教の中国化はすでに始まっていた。  

≪028≫  かれらは中国読みで「安」「支」「竺」「康」といったカンムリ呼称をもって呼ばれていた。安世高や安玄は安息(パルティア)の出身、支婁迦讖や支謙や支曇龠(龠はタケカンムリ付き)は月氏あるいは大月氏(クシャーン)の出身、竺法護や竺仏朔や竺法蘭は天竺(インド)の出身、康僧淵や康僧鎧は康居(サマルカンド)の出身である。 もっとも260年代から次々に経典の漢訳を手掛けた竺法護(じくほうご)は、月氏の血を継いだ敦煌の生まれだった。 

≪029≫  これらの訳出僧を受け入れた側の、中国の同時代僧も重要だ。なかで最も注目されるのは、なんといっても、クマーラジーヴァより40歳ほど年上の道安(釈道安 312~385)である。永嘉の乱の渦中に衛氏として生まれ、早くに両親を亡くして12歳で出家、修学の途次に後趙の都で仏図澄に師事して一番の弟子となった。その後は華北を転々としながら安世高が訳出した経典の注釈をしつつも、しだいに禅定の研鑽に励むようになった。 

≪030≫  道安は40歳をこえて太行恒山に移り住んで、もっぱら門下の指導にあたった。このとき、それまではタオイズムに走っていた21歳の慧遠(えおん 334~416)が道安の『般若経』の講義を聴いて画然として出家を決意するのである。 

≪031≫  道安については、いわゆる「五失本三不易」といわれる翻訳編集術の極意の提案がめざましく、のちのクマーラジーヴァの傑出した訳僧としてのみごとな活躍も、この道安の「五失本三不易」のガイドラインに導かれるところが大きかった(→後述)。 道安とクマーラジーヴァと慧遠。この組み合わせがすべての東アジア仏教の起爆装置をつくったといっていい。 

≪032≫  ◎パルティアの太子でもあった安世高(あんせいこう= 2世紀半ば)は阿毘曇と三昧経典に精通して、後漢の建和2年(148)に洛陽に入った。『安般守意経』『陰持入経』『人本欲生経』などを漢訳。数息観や禅定についての言及がある。◎大月氏出身の支婁迦讖(しるかせん=ローカクシェーマ)は後漢の桓帝(在位146~167)の時期に洛陽に入り、『道行般若経』や『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)や『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)などを訳出。ここに「般若」や「空」の思想の中国化がちょっぴり始まった。『首楞厳経』はその後クマーラジーヴァによっても新訳された。 

≪033≫  ◎支謙(3世紀)=叔父が大月氏の出身。支婁迦讖の弟子の支亮に師事し、後漢末の混乱を避けて呉に入った。黄武・建興年間(252前後)に『大明度無極経』『法句経』などの多くの経典を漢訳した。やはり般若思想の初期導入になる。ぼくとしては支謙が三国時代の清談に関心や憧憬をもったことに関心がある。『無量寿経』の異訳も試みた。◎竺法護(じくほうご 239~316)=月氏の両親、敦煌出身。竺高座に師事。『光讚般若経』『正法華経』『無量寿経』などの大乗経典を漢訳した。竺法護が『無量寿経』の訳出後に記録から消えたあと、仏図澄が洛陽に来た。 

【ノート0

≪034≫ 【ノート06】クマーラジーヴァはカシュミールに3年ほどいて、その後はギルギット、フンザ、タシュクルガン、カシュガルなどを遊学ののち、クチャに戻っていった。この間、もって生まれた才能もあったのだろうが、急速に、かつ有能に多言語に慣れていく。その経緯は本書では詳しくは触れられていないけれど、察するにあまりある。 

≪035≫  とくに疏勒(カシュガル)での刺激のことが気になる。カシュガルに仏教が伝来したのはおそらく紀元前70年頃だろうし、クシャーン朝の仏教ともかなり深い交流をもっていただろうから、ここでの体験は大きいはずだ。他のシルクロード・オアシス同様に小乗の説一切有部のアビダルマが強かったカシュガルではあるが、それともここにはインドのヒンドゥー哲学もかなり入りこんでいて、クマーラジーヴァはその外典にも目を見張ったはずだ。このあたりのことは宮元啓一の研究が参考になる。  

≪036≫  『出三蔵記集』鳩摩羅什伝には、かの「仏鉢の話」を伝える。クマーラジーヴァが仏鉢を頂戴したとき、ふーんずいぶん大きいものだが軽そうだと思い、それで仏鉢を手にとったところうまりに重くて上げられなかった。これは自分の心に軽重の分別がありすぎるからだと感じたという話だ。 

≪037≫  カシュガルでのクマーラジーヴァは博学をもって名声を上げた。僧の喜見が時のカシュガル王にクマーラジーヴァに会うことを勧めている。そこで『転法輪経』を講じた(『転法輪経』は小乗阿含部の経典)。カシュガルでは仏陀耶舎とも面受した。 

≪038≫  ◎トルキスタン(西域)の言語はトカラ語、コータン語、ソグド語など(いずれもインド・ヨーロパ語)の混交である。羽田亨『西域文明史概論』(弘文堂書房)。◎クチャ語はトカラ語のケンツム語群に属する。トカラ語Bなどとも言われる。  

≪039≫  ◎仏鉢信仰はクマーラジーヴァのエピソード以来、シルクロードをへて中国にまで至っている。法顕の『仏国記』にはペシャワールでも仏鉢説話がゆきわたっていたとある。法顕がペシャワールに行ったのは400年前後のこと。◎セイロン経由の南伝仏教では仏鉢説話は弥勒信仰につながった。 

≪040≫  ◎宮元啓一『仏教誕生』(筑摩書房)、『インドはびっくり箱』(花伝社)、『わかる仏教史』(春秋社)など。 

【ノート0

≪041≫ 【ノート07】カシュガルには須利耶跋陀(すりやばっだ)・須利耶蘇摩(すりやそま)という兄弟がいて、このうちの弟の須利耶蘇摩が早くも大乗の教学に通じていたらしく、クマーラジーヴァはこの弟のほうから『阿耨達経』(あのくだつきょう)を講読してもらっている。すでに308年に竺法護が『弘道広顕三昧経』として訳出したものにあたる。 

≪042≫  これはクマーラジーヴァにとっての初めての大乗との出会いだ。どんな主観も客観も空であると説く「陰界諸入・皆空無相」の教義を須利耶蘇摩の講読で聞かされて、これまで「三世実有・法体恒有」(過去・現在・未来に及んですべての諸法も本体も実在している)を説く説一切有部ばかりを学んできたクマーラジーヴァはかなりびっくりしただろう。 

≪043≫  しかしクマーラジーヴァは早くも何かがピンときたようだ。本書にはこの直後からクマーラジーヴァが『中論』を読み耽ったとある。どこまで深まったのかはわからないが、ついにナーガルジュナ(竜樹)の「空」や「中」に接したのだ。『十二門論』『百論』も読誦した。『十二門論』は『中論』入門書、『百論』はナーガルジュナの弟子の聖提婆の著述作。いずれもテキストはクチャ語を含むトカラ語系だった(→リチャード・ガード『印度学仏教学研究』)。ともかくも、ここに「空」がシルクロードを東漸して、東アジアから中国へ驀進していったのである。 

≪044≫  こうしてクマーラジーヴァはクチャに帰ってくる。すでに英明が聞こえていたから、クチャ王が温宿まで迎えに出た。鳴り物入りだった。すぐさまクマーラジーヴァを迎えてのシンポジウムやディベート会議が開かれた。 

≪045≫  ◎ナーガルジュナについてはここではメモしないけれど、一言でいえばシルクロード仏教を大乗に切り替えていく原動力になっていったのが『般若経』の理解とナーガルジュナの「空」の論法だった。だからこそ、このあと大乗が漢訳されていったとき、「空」が「無」とも訳された。 

≪046≫  ◎クチャに帰ってきたクマーラジーヴァの講義を聞いて、阿竭耶末帝(あかつやまてい)という尼僧が感激したという話がのこっている。一説にはこの女性こそ母親のジーヴァだったとも言われる。 

【ノート0

≪047≫ 【ノート08】370年、21歳のクマーラジーヴァはクチャの王宮で三師七証のもとで受戒した。戒和上は卑摩羅叉(びまらしゃ 337~413)だった。カシュミールの人である。卑摩羅叉はのちにクマーラジーヴァが長安に招致されたとき、その地で活躍する弟子の噂をよろこんではるばる長安に赴き、師弟の交わりを温めた。 

≪048≫  クチャでのクマーラジーヴァは、カシュガルでの須利耶蘇摩による大乗般若の一撃にもとづき、一心不乱に大乗教学に向かう。王新寺での大乗経典の読書、なかんずく『放光般若経』を読んだ体験がことに大きかったようで、大いに開眼した。世に「鳩摩羅什の開眼」とみなされる。 

≪049≫  ここからのクマーラジーヴァは強靭だ。カシュミールでクマーラジーヴァを教えた槃頭達多が噂を聞いてやってきて、「一切皆空」という大乗思想はちょっとおかしいのではないかと難癖をつけた師弟問答をしたときも、クマーラジーヴァは臆せず応酬し、その論議の往復は1カ月に及んだ。槃頭達多はそれなりにクマーラジーヴァの大乗開眼を認め、「和上は是れ我が大乗の師にして、我は是れ和上の小乗の師なり」と言った。この噂は中国から来ていた僧純・曇充によって中国にも伝わっていった。 

≪050≫  しかしこのあとまもなく、五胡十六国の激しい出入りのなか、これを華北に統合しつつあった前秦の苻堅(ふけん 338~385)が派遣した将軍呂光によって、クチャは384年に陥落してしまう。 

≪051≫  このとき、苻堅は自身が統括するべき国の命運を占った。「星が外国の分野に現わる。まさに大徳、智人、秦に入りて輔(たす)くべし」と出た。苻堅はただちにこの“情報”を調査させ、大徳が西域のクマーラジーヴァであること、智人が襄陽の道安であることを確信した。 

≪052≫  こうしてクマーラジーヴァは苻堅の差配によって、そして道安の進言によっていよいよ長安に招致されたのである。が、その直前に苻堅も呂光も没し、前秦は姚興(366~416)によって後秦になっていた。 

≪053≫  ◎三師七証=戒和上・教授師・羯磨(こんま)師の三師と、受戒を証明する七人の僧侶のこと(→平川彰『原始仏教の研究』、佐藤密雄『仏教教団の成立と展開』)。 

≪054≫  ◎僧純・曇充が中国に伝えたクマーラジーヴァの評価は、「年少の沙門あり、字は鳩摩羅なり。才大にして高明、大乗の学にして仏図舌弥とは師と徒なり。而れども舌弥は阿含の学者なり」とあった。 

【ノート0

≪055≫ 【ノート09】クマーラジーヴァが、新たなリーダー姚興の治める後秦の長安に入ったのは401年12月20日。52歳になっていた。 

≪056≫  姚興は儒教にも奉じていたが、仏教にも熱心だった。クマーラジーヴァが長安に入ったとき、姚興は即位して7年目、36歳だ。沙門5千人を集め、仏塔(浮図)を起造し、波若台を立ててその中に須弥山を造容した。すでに父の代から弘覚法師を迎えて竺法護の『正法華経』の講義に聞きほれたり、僧略という師に帰依して、後秦の仏教教団の統括を任せて国内僧主を託したりしていた一族だった。 

≪057≫  クマーラジーヴァのお迎えには長安から僧肇(そうじょう 374~414)が出向いた。のちに有能な愛弟子になる。長安に入ったクマーラジーヴァのことは、これまたのちに愛弟子になる僧叡(378~444)が「ついに歳(ほし)は星紀に次(やど)る。豈に徒らに即ち悦ぶのみならんや」と書いている。招致を待ち望んでいた道安はもとより、遥かに廬山にいた慧遠もこの入閣をよろこんで、親書を送った。この慧遠とのその後の質疑応答記録こそ『大乗大義章』として知られる有名な3巻18章になる。 

≪058≫  かくてクマーラジーヴァは、姚興が用意した国立仏典翻訳研究所ともいうべき訳場を「逍遥園」(もしくは西明閣)の所長に迎えられた。すぐさま漢訳団が結成され、僅か5年で次の仏典群が訳出された。  

≪060≫  なんと35部294巻にのぼる。これは西晋の竺法護の154部309巻や、のちの玄奘の75部1335巻より劣るものの、その内実において遜色がない。それよりなにより、その流麗な翻訳力や言語編集力こそ画期的だった。中国仏教はここに開闢したと言ってよい。 

≪061≫  ◎慧遠がクマーラジーヴァに送った親書には、クマーラジーヴァの評判がすでに十全に伝わってきていたこと、自分は貴兄が宝をもって長安に来たことを知り、早く親しく会いたいと思い続けていることなどがていねいに述べられている(京大人文科学研究所『慧遠研究・遺文篇』)。 

≪062≫  ◎逍遥園は終南山の北麓の草堂寺にあった、いまはここにはクマーラジーヴァの舎利を収めた舎利塔がある。 

【ノート10

≪063≫ 【ノート10】クマーラジーヴァの言語編集力はたんなる漢訳力・翻訳力にとどまっていなかった。今日では漢訳仏典の歴史をクマーラジーヴァ以前を「古訳」、クマーラジーヴァ以降を「旧訳」、玄奘以降を「新訳」と区分けする慣わしになっているが、それほどにクマーラジーヴァの翻訳編集は時代を画期した。自在きわまりなかった。 

≪064≫  すでに竺法護が『正法華経』でどんなふうに訳経をしたのか、その手順がわかっている。本人が「経記」としてのこしている。たいへん興味深い。それによると当時の訳業は、①執本、②宣出、③筆受、④勧助、⑤参校、⑥重覆、⑦写素、の7段階に分けられていた。 

≪065≫  まずは①胡本を執り、②口述によって『法華経』を宣出し、これを③数人の優婆塞(うばそく)たちに授けて共に筆受させ、さらに④数人の目を通して勧助勧喜させて、ここから⑤文字に強い者たちの参校が加わって、⑥いよいよこれらを重覆(トレース)して、最後に⑦素(きぬ)に写して解(おわ)る、という手順だ。 

≪066≫  いったいクマーラジーヴァがどんな手順をとったのかはぴったりした記録がないのだが、ほぼこれに近かったろう。またどんな役割がどんなチームに割り振られたかは、玄奘の『大般若波羅蜜多経』のときの後記から推しはかると、中心の玄奘のほかに、筆受4名、綴文3名、証義4名、専当写経判官1名、検校写経使1名などがいたと思われる。これを宋時代の翻経院のシステムで見ると、次のようになる。 

≪067≫ 写経システム 

≪068≫  うーん、すばらしい。これはイシス編集学校だ。小池純代や中村紀子や小西明子に伝えたい。しかしクマーラジーヴァはこれらの分業手順をもっと集約して一人で何役も担当していただろう。本書では、胡本(原典)を手にするとクマーラジーヴァ自らが漢語でただちに口訳し、これをすぐに弟子たちが筆録していただろうと推測している。ぼくもそんなふうだったろうと思う。 

≪069≫  が、それだけでもなかっただろう。クマーラジーヴァはきっと試訳した漢文を原文対比するときに「講経」や「対論」をしたにちがいない。なんども伝習座を開いたはずなのだ。そこから主旨にあったリズムのよい訳経を編集していったはずなのだ。 

≪070≫  ◎『大品般若経』の場合では約1ケ年を要したようだ。それでもクマーラジーヴァは納得せず、いろいろ推敲を重ねて書写を許さなかった。この徹底ぶりには弟子たちが痺れを切らして、こっそり筆写を始めたという話がのこっている。 

≪071≫  ◎クマーラジーヴァが逍遥園あるいは西明閣で大翻訳編集に従事しているとき、姚興は国内に僧官をつくり、仏教教団の監督制度を用意した。これは北魏が396年に導入した「道人統」の応用だった。姚興はときに筆受を担当していたらしい。 

【ノート11

≪072≫ 【ノート11】仏典・経典の漢訳はすこぶる編集的だ。それはコンパイルではなくエディットである。クマーラジーヴァはその言語編集力をいっぱいに生かした。そこには先行者たちの努力、とくに【ノート05】にあげた道安の「五失本三不易」のガイドラインが生きていた。 

≪073≫  「五失本」とはインドに発した原典の漢訳にあたっては、当然言語的な変形がともなうことになるのだが、とくに次の5点は変えてもいい(=失本)と判断できる指針をいう。以下のように判断された。 

≪074≫  ①語順がインドの原典と漢文では逆になる。②原典は質を好むが漢語は文を好むから、経文は美しい表現になる。③原典は人を何度も称賛するが、それは省いてよい。④同じ意義を長い語句の装飾で繰り返している場合は、これを削ってもいいだろう。⑤原典が次に進むときに前の語句を再掲するが、これも略せる。 

≪075≫  次の「三不易」は安易に変えてはいけない方針のことをいう。①経文の原意を変えてはいけない。②時代背景による表現を変えてはいけない。③難解を捨て安直を採ってはいけない。なかなかのガイドラインだ。 

≪076≫  ◎道安の「五失本三不易」は『出三蔵記集』の「摩訶鉢羅若波羅蜜経抄序」に説明されている。 

≪077≫  ◎例。たとえば『般若心経』の「照見五蘊皆空」は、それにあたるサンスクリット文を訳主が読み、まず音による漢字があてられ、それを筆受がチャイニーズに語訳して「照見五蘊彼自性空見」などとする。これでは中国語としての意味が通じないので、これを参訳や綴文が「照見五蘊見彼自性空」→「照見五蘊見皆空」→「照見五蘊皆空」などとし、最後に潤文がこれでもまだ漢文のすわりがわるいと判断して、締めの語句を加えて「照見五蘊皆空、度一切苦厄」などと決めるのである。 

【ノート12

≪078≫ 【ノート12】クマーラジーヴァは409年に亡くなった。いまから1600年前の8月20日である。その生涯はまさに「エディトリアリティ」に富んでいた。長安に入ってまもなく女人と交わって「破戒」するのだが、そういうことにもほとんどこだわっていない。 

≪079≫  上座部の説一切有部から大乗へ。シルクロード仏教から中国仏教の確立へ。逐語訳から意訳の世界の編集へ。インド思想律の中国律動化へ。のちの玄奘の翻訳編集力のアーキタイプもプロトタイプもステレオタイプも、みんなクマーラジーヴァが用意したようなものだ。よくもこれだけのことを成就したと思うけれど、そこには中国側の学衆たちの受容力と編集的呼応力を発揮したことが大きかった。 

≪080≫  もともと道安がいた。クマーラジーヴァの招致の提案者でもある。廬山の慧遠との交流交信も厚かった。訳場でクマーラジーヴァを扶けた僧たちもすぐれていた。惜しくも夭折した僧肇は天才的な才能を発揮した。その僧肇と僧叡を別当格とする門下の一群は3000人に及んだという。 

≪081≫  なかで道生(笠道生 ?~434)が格別にすばらしい。廬山の慧遠のところで7年ほどアビダルマの研鑽を積み、長安に来てクマーラジーヴァに師事して、クマーラジーヴァ没後は建康に帰って実に自由な経義の研究をした。一闡提(いっせんだい)の成仏、すなわち法然(1239夜)や親鸞(397夜)の悪人正機説の母型ともいうべきイッチャンティカの信仰可能性を切り拓いた。とくに道生の『涅槃経』注解が見せる独創的な仏教論は、ぼくとしてはクマーラジーヴァの飛躍的継承だと思いたい。 

≪082≫  ◎道安→仏図澄→慧遠→クマーラジーヴァ→道生という流れを、あらためて強調すること。 

≪083≫  ◎それにしても、ここまで中国が仏教の漢訳に徹底したのに対して、なぜ日本は仏典の和訳にとりくまなかったのだろうか。日本人には漢訳仏典を読誦することが、かえってアタマの中の吹き出しをジャパナイゼーションさせたのだろうか。この難問、いずれ解かなくてはならない。 

≪084≫  ◎いま、ぼくの信頼すべき仲間たちが「纏組」(まといぐみ)として「目次録」の新構成と解説編集にあたってくれている。ネット上の「逍遥園」もしくは「西明閣」である。ぼくもそろそろクマーラジーヴァしなくては。 

仏教は北インドに興った。

その前にアーリア人がインドに入り、ヴェーダの宗教とバラモン教をつくっていた。

そこへ初期仏教が確立して広まり、やがて上座部と大衆部に分かれると、そのうちの説一切有部の思想がシルクロードに伝わり、そこに大乗仏教が交じって、中国に流れこんだ。

東伝仏教は、以上すべての流れの中国化だった。

いったい何が“漢字の仏教”になっていったのか。

それがわからなければ、日本仏教も見えてはこない。 

『仏教の東伝と受容』①

≪01≫  本書は「新アジア仏教史」という全15巻シリーズの一冊だが、このシリーズはごく最近に完結したばかりである。この刊行完結をぼくはいささかの感慨をもって迎えた。 

≪02≫  というのも、本シリーズ名に「新」がついているように、これはもともとは「アジア仏教史」全20巻を1972年に同じ佼成出版社が刊行していて、ぼくはその各巻各章を頼りに、アジア仏教のあれこれをずっと啄んできたからだ。やはり「インド篇」「中国篇」「日本篇」などと構成されていた。佼成出版社というのは立正佼成会の出版部門のことをいう。 

≪03≫  わが仏教史学習時代としてはまことにたどたどしい時期だったけれど、しかしそのころは、アジアまるごとの仏教史を思想研究や経典研究ではなく、地域別通史的に総なめしてくれているものはほかになかったのだ。多くは仏教思想のとびとびの解明に傾斜していた。やむなく宇井伯寿や木村泰賢(96夜)まで戻ったこともあったほどで、が、それではとうていまにあわなかった。 

『仏教の東伝と受容』

≪04≫  今回のシリーズ「新アジア仏教史」はそこそこ斬新な組み立てになっている。 

≪05≫  インド篇が「仏教出現の背景」「仏教の形成と展開」「仏典からみた仏教世界」で、スリランカ・東南アジア篇が「静と動の仏教」、中央アジア篇が「文明・文化の交差点」となり、これに中国篇の3巻の「仏教の東伝と受容」「興隆・発展する仏教」「中国文化としての仏教」が続く。 

≪06≫  さらにチベット篇の「須弥山の仏教世界」、朝鮮半島・ベトナム篇の「漢字文化圏への広がり」が各1巻あって(これがユニークだ)、そして日本篇の5巻が別格として控えるというふうなのだ。編集委員は奈良康明・沖本克己・末木文美士・石井公成・下田正弘だが、この顔触れ同様、執筆陣もかなり若返った。そのぶん全巻構成とともに、1巻ずつの視点も刷新された。 

≪07≫  ただし各章を分担執筆にしてあるので、なかには重複が煩わしいところ、ややありきたりな展開になってしまったところもある。 

『仏教の東伝と受容』

≪08≫  今夜とりあげることにした本書は、タイトルに「仏教の東伝と受容」とあるように、東伝仏教としてどのように仏教は“中国化されたのか”ということ、すなわち中国仏教史の“発現”のところを扱う重要な1巻になっている。これまでこの手のものを詳細に構成しているものはあまりなかった。 

≪09≫  ぼくの例など引き合いにも出せないが、かつてはせいぜい塚本善隆の『中国仏教通史』(春秋社)や鎌田茂雄の『中国仏教史』(東京大学出版会・岩波書店)のたぐいを、何度も読み返さなければならなかったのだ。それらも、すでに中国に定着した中国仏教の内実が主軸になっていて、インド仏教やシルクロード仏教がどのようにアウトサイドステップやインサイドステップをおこしながら“中国化”という劇的な変容の出来事をなしとげていったのか、その多言語型異文化インターフェース上の苦労にはふれていなかった。 

≪010≫  とくに南北朝時代に安世高からクマーラジーヴァ(1429夜)に及んだ訳経僧がインド・シルクロードをへた仏典や経典をどんなふうに扱ったのか、それがどんな経過で集合的な訳業や分業的な訳場にいたったのか。こうした問題は、われわれ日本人が読んできた仏典が漢訳仏典であったことからすると、最も大事な仏教思想上の編集的要訣を「謎」のように握っているところであり、かつまた、それは小乗仏教が大乗化するユーラシア的なスケールにおける宗教戦略的転換にもあたっていたはずなのだ。 

≪011≫  ところが、その両方が重畳的にはなかなか見えてこなかった。「新」シリーズはそのような視野を比較的柔軟に開いて構成されていた。 

『仏教の東伝と受容』

≪012≫  本書の中のぼくなりの注目点に話を進める前に、インドに始まった仏教がシルクロードをへて中国に入ってくるにあたって何が眼目になったのか、ちょっとだけ大きな流れを俯瞰しておきたい。本シリーズでいえば第1巻・第2巻にあたるところだ。 

≪013≫  仏教はむろん北インドのゴータマ・ブッダの覚醒に“創発”したものである。しかしそこをユーラシアという大きな視野で見ると、そもそも「アーリア人が先住インドの業と輪廻の考え方を継承した」という大きな流れがかかわっていた。生きとし生けるものは「業」(ごう)によって生と死と再生をくりかえすという輪廻観は、やがて東アジアを根底で貫く因果応報観となり、また自業自得観になっていった。このことは、今日の日本人の諦念(あきらめ)観にまで及んでいる。 

≪014≫  しかし日本人とちがって、もともとインド・アーリア人は言葉においても思考においても論理的だった。そこで輪廻の正体にも切りこんだ。輪廻の原動力は善(功徳)であれ悪(罪障)であれ、「おこない」にもとづいているのだろうから、その「おこない」の基層にある真の問題を考えるべきだと推理して、そこに欲求と渇愛が蠢いているということを突き止め、真理を邪魔しているのはそういう欲求や渇愛がからんで捩れた「煩悩」(ぼんのう)や「無明」(むみょう)だろうと考えたのだ。 

≪015≫  そして、そこからの脱却が必要だと考えた。仏教が解脱(げだつ)をめざした宗教だということが、ここにあらわれる。仏教は、それには「智慧」(プラジニャー=般若)が必要だとみなした。これらが一言でいえばブッダの仏教(=ブッディズム)が生まれてくる背景思想の流れだった。 

『仏教の東伝と受容』

≪016≫  ふりかえって、そもそもインドでは2000年ほど続いたインダス文明のあと、中央アジアからやってきた遊牧アーリア人の集団がひとつにはイラン地域へ(1421夜)、もうひとつにはヒンドゥークシュ山脈を越えてインドのパンジャーブ地方に入ってきた。紀元前1500年くらいのことだ。 

≪017≫  インド・アーリア人は父系的な氏族社会を営みながら、先住ドラヴィダ人の習俗をとりこみつつ新たな言葉の文明を築いていった。これがいわゆる「ヴェーダの文明」である。膨大な讃歌群として「サンヒター」(本集)、「ブラーフマナ」(祭儀書)、「アーラニヤカ」(森林書)、「ウパニシャッド」(奥義書)などのヴェーダ文献がのこされた。なかで「サンヒター」の最古の中心を占めるのが『リグ・ヴェーダ』だった。 

≪018≫  ヴェーダの宗教は33神とも3339神とも数えられる多神教だったが、この多神教は、たまたま讃歌の主題になった神がその讃歌の中で最大級の賛辞で称えられるという多神教だったので、たんなる多神教ではなかった。19世紀の宗教学者のマックス・ミュラーは「交替多神教」と名付けた。なかなかうまいネーミングだった。 

≪019≫  とはいえ、その多神教を管理する階層がいた。ヴェーダは「知る」という語根から派生して「知識」を意味しているのだが、その知識を牛耳るのはもっぱら祭官階級のバラモン(ブラーフマナ)だったのだ。紀元前8世紀ころのことで、このバラモン層を中心に「業」や「輪廻」を知識として処理管理するという思想が芽生えたのである。それとともにカースト(種姓=ヴァルナ)が組み立てられていった。 

『仏教の東伝と受容』

≪020≫  アーリア人の祭官階級のバラモンたちが律していった思想は「ウパニシャッド」(「近くに坐る」という意味)として構築されていった。紀元前5世紀までを「古ウパニシャッド」期あるいは「ヴェーダンタ」期とよんでいる。 

≪021≫  ウパニシャッド哲学は「梵我一如(ぼんがいちにょ)」を主張した。ブラフマン(梵)とアートマン(我)は究極的に同一(一如)であるというもので、この原理によって世界と人間と知識のあいだを詰めていったのである。 

≪022≫  マクロコスモス(梵)とミクロコスモス(我)を一体化するという意味では、「梵我一如」にはすばらしいロジックが芽生えたのであるが、しかしながら、父系制とカースト制と知識管理を律するバラモンたちの社会は広がりを欠いていた。 

≪023≫  それにパンジャーブ(ドーアーブ)地方は小麦以外に収穫物が少なく、大きな王権国家を築けず、やむなく部族連合国家のような体裁をとるしかなかった。 

『仏教の東伝と受容』

≪024≫  一方、これに対してガンジス中流域は米を中心に安定的な収穫物に富んでいた。そのためこちらには国家や富裕階層が誕生する余地があった。そこにバラモン支配やカーストに対する不満が立ち上がっていき、ガンジス型の新興勢力層となっていった。 

≪025≫  かれらは、バラモンだけに富が集中するブラフマニズムよりも新たな宗教文化を求めて出家して、いわゆるサマナ(シュラマナ=沙門=努め励む人)となることを好んだ。 

≪026≫  かれらは、バラモンだけに富が集中するブラフマニズムよりも新たな宗教文化を求めて出家して、いわゆるサマナ(シュラマナ=沙門=努め励む人)となることを好んだ。 

≪027≫  かれらは、バラモンだけに富が集中するブラフマニズムよりも新たな宗教文化を求めて出家して、いわゆるサマナ(シュラマナ=沙門=努め励む人)となることを好んだ。 

≪028≫  そうしたサマナの中のひとつからゴータマ・シッダールタ、すなわちブッダが登場したわけである。 

『仏教の東伝と受容』

≪029≫  今夜はブッダについてはごくごく簡潔にすませるが、カピラヴァストゥの王家に生まれてすぐに両親を亡くし16歳で結婚した王子シッダールタは、しだいに人生の無常を感じて29歳で出家すると、従来型のアートマン(我)が常住不変の自己の本体だという見方に疑問をもった。  

≪030≫  バラモンの教えに反発したのだ。そのため「非我」や「無我」を考えるようになり、世間や社会というものは「苦」で成り立っているという「一切皆苦」の見方をとった。これを仏教史に広げると「苦諦・集諦・滅諦・道諦」という四諦になる。ベナレス郊外の鹿野苑でブッダが最初に説いた説法(初転法輪)の中身も、このことだったといわれる。わかりやすくいえば「生のニヒリズム」を説いたのだ。 

≪031≫  やがてすべての現象の根源は「縁起」(相互関係)で成り立っているとみなしたブッダのもとに、だんだんブッダの人格を慕う者、その教えに帰依する者、その活動に寄進する者があらわれ、ここに原始仏教が芽生えた。仏教はサマナ(沙門)のような出家者によって唱導され、ガンジス型の富裕層の在家信者からのパトロネージュを受けつつ独特の集団を形成していったのである。  

≪032≫  たとえば、ブッダの教えに早くに帰依したカッサパ3兄弟、マガダ国王ビンビサーラ、祇園精舎を提供したスダッタ(須達長者)などは、いずれも大富豪か権力者だった。ブッダ自身はきわめて禁欲的であり、深い思索にも瞑想にも集中できた異能者ではあったけれど、その活動を支えたのはもっぱら富裕層や商工業者だったのだ。 

『仏教の東伝と受容』⑨

≪033≫  諸説はあるが、ブッダはおそらく80歳前後で亡くなった。敬して入滅(にゅうめつ)という。 

≪034≫  けれどもこの偉大なリーダーを失っても弟子(仏弟子)たちは弱体化しなかった。「サンガ」(僧迦=教団)を組んで、その教えを伝えることを誓った。ふつう、原始仏教教団とよばれる。このように仏教は、その最初からあくまで出家至上主義の教団によって進められていったのである。  

≪035≫  こうして王舎城に篤実な仏弟子たちが集まって、まずは第一結集(けつじゅう)が試みられた。合言葉に「一切皆苦」と「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の三法印をおきつつ、ブッダが得意にしていた対機説法や応病与薬の成果と、それにまつわる言葉の数々が編集されたのだ。 

≪036≫  編集にあたっては晩年のブッダの説法をしょっちゅう聞いていた多聞第一のアーナンダ(阿難陀)や智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)がコアメンバーになった。これが“初期仏典”である。そのためこの時期の経典の多くが「如是我聞」(私はブッダからこのように聞いた)の言葉で始まっている。 

≪036≫  編集にあたっては晩年のブッダの説法をしょっちゅう聞いていた多聞第一のアーナンダ(阿難陀)や智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)がコアメンバーになった。これが“初期仏典”である。そのためこの時期の経典の多くが「如是我聞」(私はブッダからこのように聞いた)の言葉で始まっている。 

≪038≫  長老派は十事審査をしたうえで第二結集に踏み切るのだが、改革派はこれに満足せず分派することを選んだため、ここで守旧派(長老派)の「上座(じょうざ)部」と改革派の「大衆(だいしゅ)部」が大きく対立した。これがのちのちまで続く「根本分裂」である。 

≪039≫  これ以降、仏教は長いなが~い「部派仏教」時代に突入する。この部派仏教のストリームはのちに大乗派(大乗仏教)の連中から蔑称され、「小乗仏教」ともよばれた。 

≪040≫  部派仏教はマウリヤ朝のアショーカ王時代をあいだにはさみ、さらに「枝末分裂」していった。上座部は説一切有部(せついっさいうぶ)が主流となりながら、犢子(とくし)部・正量部・経量部・法蔵部などへ分化し、またセイロン(スリランカ)から東南アジアへの伝播とにおよんだ(テラワーダ仏教)。大衆部のほうは一説部・説出世部・説化部などの9部派などへ小さく割れていった。 

『仏教の東伝と受容』

≪041≫  これらのなかでもっとも大きな潮流となったのは上座部系の「説一切有部」のエコールである。 

≪042≫  たいへん理論的なエコールなので多くの言説(エクリチュール)をもたらしているのだが、あえて一言でいえば「三世実有」「法体恒有」を主唱した。主観的な我は空であるが、客体的な事物や現象は過去・現在・未来の三世にわたって実在するという考え方で、それが人間存在においては「五蘊」(ごうん=色・受・想・行・識の5つの意識の集まり方)が瞬間瞬時に変化しながら持続されいく。そう、みなしたのだ。我空法有・人空法有、五蘊相続説などという。 

≪043≫  これに対して経量部や大衆部は「現在有体」「過未無体」を主張して、あくまで現在に重きをおいていった。この考え方はやがて大乗仏教のうねりとともにその中に組みこまれていく。 

≪044≫  けれども全体のストリームからみると、当面の流れは説一切有部の勢いがはるかに強く、また大きく、それゆえこの上座部系の小乗仏教的な理論や知識こそが五胡十六国やシルクロードの仏教思想を占めていくことになっていったのである。 

≪045≫  他方、東漸する仏教に対して、インドでは六派哲学に代表されるインド哲学が深まり、民衆にはバラモン教に代わって、その衣裳替えともいうべきヒンドゥー教が広まっていた。 

≪046≫  かくて、ここからはやや複相的になるのだが、1世紀前後におこる大乗ムーブメントが「般若経」「維摩経」「法華経」「華厳経」などの新たな“大乗仏典”のかたちをとるにつれ、またそこにナーガルジュナ(龍樹)の中論や「空の思想」の論述著作が加わっていくにつれ、そうした大乗経典や研究書が上座部系より遅れながらも西域や五胡に入って、相互に交じることになった。 

≪047≫  そして、その大乗著作群の西域流入期とちょうど相俟って、ここに安世高からクマーラジーヴァに及ぶ「仏教の中国化」(漢訳の試み)がさまざまなルートでおこっていったわけだった。 本書にいう「仏教東伝」とは、ごくごくおおざっぱにいえば、まさに以上のことをさしている。 

『仏教の東伝と受容』

≪048≫  さて、ここからやっと本書の内容案内になるのだが、仏教が中国に伝わった事情は、金人伝説あるいは白馬寺説話と呼ばれてきた物語の裡にある。 

≪049≫  ある夜、後漢の明帝(在位57~75)が金人が空から宮殿に飛来する夢をみて、これはかねてから伝えられている西方の聖者が漢に来る前兆だろうと思い、使者を西域に遣わした。使者一行は大月氏にいたって迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)という二人の僧に出会ったので、二人を伴って永平10年(67)に漢に戻った。明帝はこれをよろこび、洛陽に白馬寺を建て、経典の漢訳を要請した。このとき完成したのが『四十二章経』である云々‥‥という物語だ。 

≪050≫  伝承ではあるが、この話は中国仏教が独自の漢訳作業から始まったということをよく伝える。大月氏がクローズアップされているのも注目される。 

≪051≫  では、これらは伝承だけかというと、そうでもない。実際にも『三国志』魏志の注に『魏略』西戎伝の一節が引用されていて、そこには前漢の哀帝のとき(紀元前2年)、大月氏の使者の伊存が漢の朝廷で仏教経典の口授をしたという記述があり、この時期になんらかのかっこうで仏教初伝があったろうと思われるのだ。大月氏とは、漢の武帝の指示ではるばる西域に及んだ張騫(ちょうけん)が入ったクシャーン朝のことをいう(1425夜参照)。念のため。 

『仏教の東伝と受容』

≪052≫  中国はそもそも「文の国」であって「文字の国」である。いったん伝わってきた“文章としての経典”には異常なほどの関心をもった。 加えて中国人にとっては、未知なるものはなにがなんでも既知なるものにならなければならなかった。 

≪053≫  ゾロアスター教は拝火教に、ネストリウス派のキリスト教は景教に、イスラームは回教に。いやいや、核実験もIBMもマイクロソフトも新幹線も‥‥まして仏教においてをや、なのだ。だからこそ、ここに訳僧や渡来僧の大活躍がおこったのである。 

≪054≫  かくして前夜(1429夜)にもあらかた紹介したように、初期のパルティア(安息)出身の安世高が後漢の148年に洛陽に入って『安般守意経』『陰持入経』などの説一切有部系の経典を訳出して以来、シルクロード経由の部派仏教(小乗)と大乗仏教の経典はほぼ同時に入り乱れつつ、中国化することになったわけである。 

≪055≫  とはいえ、この中国化は時まさに漢帝国が解体し、三国時代や五胡十六国時代などの、ようするに魏晋南北朝時代になっていた乱世中国での中国化だったため、初期中国仏教はおおいに混乱することにもなっていく。“いろんな中国化”が併存していったのだ。 

≪056≫  このように混乱しつつあった南北朝時代の初期中国仏教のことを、仏教史ではちょっと気取って「格義仏教」とよぶ。中国的な古典文化にもとづいた教理解釈法あるいは教義理解法による仏教といった意味だ。 

≪057≫  「教理」はギリシア哲学でいえばドグマのことで、明治時代の仏教学者がつくった日本版用語だが、インド仏教ではこれをもともと「教義」といって重視した。「教」が教えの方法で、「義」がその内容になる。また「教」は衆生(しゅじょう)のための具体的な教説だから「事」に属していろいろ変化するのに対して、「義」は普遍的な「理」(真理)そのものだともみなされた。 

≪058≫  ちなみにのちの華厳ではこの「事と理」をことのほか多用して、「教義理事」とか「理事無礙」とか「事事無礙法界」などと言った。 

≪059≫  こうした教義を仏教東伝の過程で、初期の中国仏教側が中国なりの教説に即して解釈しようとしたわけだ。それが格義仏教であった。 

『仏教の東伝と受容』

≪060≫  中国に入った仏教はむろん漢訳された。「漢字の仏教」になった。仏教はついにインド・アーリア語から離れたのだ。それゆえ中国人は仏教の言葉を当初は儒教や老荘思想で受けとめた。当然だろう。 

≪061≫  そこで、たとえば「空」という概念を「本無義」「即色義」「心無義」などとしてみたり、たんに「無」としてみたりしていたのだが、そもそも中国は皇帝を最高権力者とする中央集権的専制国家であって、それゆえ儒教は国の現状や将来に資するか憂うかのものだった。儒学儒教のみならず、諸子百家のいずれもが、そういうものだった。これは、出家集団が担う仏教が政治を超えているという特色をもっていることとは、まったくちがう。  

≪062≫  そのため当初の漢訳経典を解釈していくうちに、たとえば「仁」や「礼敬」(らいきょう)や「気」をどのように仏教が扱っているかということが問題になってきた。そこでこれを調整しようとしたのである。それが「格義」というものだったのだ。  

『仏教の東伝と受容』

≪063≫  そこへ、もうひとつの動向が重なった。 魏晋南北朝時代の東晋に知識人が多く出て、かれらがもっぱら玄学に興じていたため、仏教教義が老荘に引っ張られていったこと(1427夜参照)、その余波でそのころ隆盛中だった道教の影響を受けたということだ。そのため仏教の教説と道教とが混淆したり、対立したりした。 

≪064≫  たとえば、安世高(あんせいこう)が訳した『安般守意経』には数息観や導引術めいた用語や「存思」「坐忘」といった荘子(726夜)の用語が多く使われていたし、仏図澄(ぶっとちょう)や曇無讖(どんむしん)は周囲からは仏教僧というよりもオカルティックな神異僧と見られがちだった。曇鸞が曇無讖の『大集経』の注をつくろうとして自分の病身を恐れ、長寿法を求めて道教の大家であった陶弘景のもとを訪れたことも、よく知られている。 

≪065≫  もっと極端なのは西晋の王浮が書いた『老子化胡経』で、これはなんと老子が夷狄の胡の地に行ってそこで胡の人々を教化するために説いたのが実は仏教だったというものだ。『老子化胡経』はいくつものヴァージョンが出回って、道教的仏教論を広げた。その逆に、北周ではそういう道教を非難する『笑道論』なども取り沙汰された。他方、仏教を弾圧したり排仏したりする動きも少なくなかった。  

≪066≫  いずれにしても、仏教の中国化には難産がつきまとったのだ。生みの苦しみでもあるが、それは仏教の歴史にとって必要なことだった。ここで大きな異文化トランスファーの問題と言語編集力の可能性が試されたのだ。 

≪067≫  とはいえしかし、こうした格義仏教ばかりが俎上にのぼっていたのでは仏教本来の独自性を損ないかねなかったので、ここについに道安(1429夜)が登場して大鉈をふるったのである。 

『仏教の東伝と受容』⑮

≪068≫  道安(釈道安)がふるった大鉈のことを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)という。 道安以降もずっと続けられていく作業なのだが、何をしたかというと、おおむね以下のようなことにとりくんだ。 

≪069≫  第1には、中国に入ってきた経典があまりに前後無関係、軽重無頓着であったので、これをちゃんと並べ替える。第2にその場合、ブッダが成道(じょうどう)して涅槃に入るまでの45年間にどんな順で説法したかということを枠組みとする。そしてそこに中国的な仏伝解釈を加えていく。第3に、その仏伝の順にそって教時と教相をあきらかにできていければ、その原則から派生していったヴァージョンの教説をていねいに分類する。第4に、それらを通して中国語による仏教の根本真理と修行目的を明示していく。第5に、今後の漢訳にあたっては、以上のことが見えやすくなるような手立てを講じた翻訳作業に徹する。こういうものだった。 

≪070≫  第5点については、すでに道安が「五失本三不易」というルールをつくったことを、『羅什』(1429夜)のところで説明しておいたのでここでは省くけれど、そのほかの第1点から第4点までの教判(教相判釈)の作業は、まとめていうとこのようになっていった。  

≪071≫  これらの作業は道安、クマーラジーヴァ、その弟子の僧肇(そうじょう)、道安の弟子の慧遠とその弟子の慧観らによって組み立てられた。道安教団がだいたいのお膳立てをしたとみればいい。 

『仏教の東伝と受容』

≪072≫  お膳立てをかんたんにいうと、ブッダの説法を5つの段階で分け、それを「頓教」(とんぎょう)と「漸教」(ぜんぎょう)に振り分けたのだ。 

≪073≫  その場合、華厳経を頓教としておいて、そのほかを漸教とした。そして漸教に阿含経などの三乗別教、般若経などの三乗通教、維摩経などの抑揚教、法華経などの同帰教、涅槃経などの常住教をあてはめた。 

≪074≫  もっともこれは5世紀に慧観がまとめたプランAのほうで、その後のプランBでは、漸教を人天教(提謂経など)、有相教(阿含経など)、無相教(般若経など)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の5つに分かれている。  

≪075≫  ようするにブッダがどのような順に教えを説いたかと決めることが、経典のテクスト解釈を浮き立たせることになるという、そういう教判なのである。 

≪076≫  この作業はさらに隋唐に向かって、天台宗によって「五時」説と「八教」説というものに組み上げられ、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時と、化儀の四教(頓教・漸教・秘密教・不定教)および化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)の八教(教え方の分類)として定式化されていった。まとめて「五時八教」という。 

≪077≫  そのほかまだいろいろの教判があるが、その多くは唐仏教界でのことになるので、これまた今夜は省く。  

『仏教の東伝と受容』

≪078≫  ではここからは、本書の白眉ともいうべき菅野博史(創価大学教授)の第3章「東晋・南北朝の仏教との思想と実践」と、沖本克己(花園大学名誉教授)の第6章「経録と疑経」を、少々かいつまんで案内したい。 

≪079≫  道安については前夜を含めて何度か書いてきたのでいいだろうが、あらためて強調しておきたいのは、中国仏教がクマーラジーヴァ(1429夜)期の一連の漢訳経典によって面目を一新したのは、道安の力によるところが大きかったということである。 

≪080≫  そういう道安に影響をうけたのはシルクロード僧だけではなく、当然ながら中国僧も多かった。その一人に慧遠(えおん)がいた。道安の教相判釈を継いだ一人は慧遠だったのである。 

≪081≫  道安が43歳のときに弟の慧持とともにその門に学んだ学僧だった。しかし前秦の苻堅が道安を長安に連れていったので、そこで独り立ちをして廬山に入り、修禅道場(仏影窟)と念仏道場(白蓮社)をつくった。これはのちの中国禅や中国浄土教の原型になる。 

≪082≫  慧遠は最初はアビダルマ(阿毘曇)に熱中したのだが、やがて格義仏教の限界をおぼえて、そもそもブッダが挑んだ輪廻と因果応報の問題とはどんなものだったのかという問題にとりくんだ。これは慧遠なりの教相判釈だったし、古代インドがアーリア人の思想になって以来の根本問題でもあった。そのことについてクマーラジーヴァとの詳しい問答も交わした。 

『仏教の東伝と受容』

≪083≫  ところで実は、中国人が仏教に関心をもったのは、中国人が長らく徳と福の矛盾や過去・現在・未来(三世)にまたがる報恩がありうるのかという問題に悩んできたからだった。 

≪084≫  現世において積んだ徳は死後の福につながるのかという悩み、また、因果応報は三世(さんぜ)をまたぎうるのかという悩みだ。これは、すでに述べてきたように、インド古来の業と輪廻の問題だった。 

≪085≫  中国人は業と輪廻を考えるなどということをしてこなかった。かれらにとって大事なのはあくまで「仁」や「孝」や「気」や「義」であった。まとめていえば五常であった。ただし、そこには徳や福や報恩をもたらせるのかどうか、個人がマスターした五常を生死をこえて伝えられるのかどうかという解答はなかったのだ。 

≪086≫  しかし、いよいよ中国人が本気で仏教を受け入れようとするなら、この問題は避けられない。避けられないどころか、このことがわかれば中国人の思考の矛盾の悩みを仏教で解決できるかもしれない。こうして慧遠は、かつてブッダがそこを正面から考え抜いて解脱したのだとしたら、その問題にこそ自分も向き合おうと決断したのである。 

≪087≫  慧遠は仏教経典を調べ、『三報論』を著した。インド人であれ中国人であれ、人間にとって業(ごう)は必ずついてまわる。けれども現世で報を受ける現報、来世に報恩がやっくる生報、その両方をつなぐ後報というふうに、業というものを三種に分けて考えてみれば(これを三報といった)、これらの業に心が感応するはたらきにズレがあるのだから、報においても軽重がおこると見たほうがいい。ということは、中国の仏教解釈では、因果応報が三世(過去・現在・未来)にまたがるとしても、そのズレをいかせば対応できる。 

≪088≫  ざっとはこういう教判をしてみせたのだ。これらは「三世輪廻論」の問題として本書では扱われて、これに慧遠だけではなく孫綽(そんしゃく)や慧遠の弟子の宗炳(そうへい)などもかかわっていたことが説明されている。 

≪089≫  なお慧遠については念仏道場の白蓮社を拠点に、阿弥陀仏を本尊とする念仏三昧と浄土往生が特筆されるのだが、これはのちの唐時代の善導(613~681)がそこに「他力」を加えていった発展系とは異なっていることを付け加えておきたい。法然(1239夜)、親鸞(397夜)による日本浄土宗は善導のほうの系譜にあたる。 

『仏教の東伝と受容』

≪090≫  道安、慧遠とともにもう一人フィーチャーをしておきたい僧がいる。廬山の西林に7年間を過ごした道生(?~434)である。 

≪091≫  道生は慧厳、慧観とともに長安に入ってクマーラジーヴァの薫陶もうけた。その後、建康に行き、20年ほど龍光寺に住した。『五分律』を翻訳したり、法顕(ほっけん)がもたらした梵本を『泥浬経』(ないおんきょう:浬のツクリは亘)6巻として訳出したり、『法身無色論』を書いたりした。 

≪092≫  その道生を特色づけるのは、第1には「一闡提(いっせんだい)は成仏できる」と主張したことにある。一闡提というのはサンスクリット語のイッチャンティカを音訳した言葉で、漢語の意訳では「断善根」「信不具足」などとなっているが、この字面でも憶測できるように、仏縁から見放されている者や善根をもっていない者をいう。つまりは成仏の機根がない者のことをいう。にもかかわらず道生はそんなことはないと主張した。  

≪093≫  たとえば『涅槃経』には一闡提は不成仏者と規定されているのだが、よく読むと最終的には仏性(ぶっしょう)をもつと書いてある。それなら一闡提も成仏できるのではないかと道生は考えたのだ。 

≪094≫  イッチャンティカの問題は仏教史においては難問である。のちの唐仏教界で天台宗と法相宗と華厳宗との意見が分かれたのも、この問題だった。だから道生がこの時期に早くも一闡提成仏説を唱えていたということはまことに驚くべきことで、それが道生が建康の仏教教団から排斥されてしまったことを含め、きわめて独創的であり、また判釈においてそうとうに勇敢であったというべきである。  

≪095≫  ちなみに、ぼくにイッチャンティカの問題を教えてくれたのは西田長男さんだった。西田センセーは日本で唯一の神道学を切り拓いた方であるが、仏教におけるイッチャンティカの問題は日本神道における「よさし」と同じ問題に属するということを指摘されていた。その後、このことは何度も鎌田茂雄さんにも教えられた。いずれ千夜千冊したい。 

『仏教の東伝と受容』

≪096≫  第2に、道生には「理」と「悟り」をめぐる推察の独創性もあった。これは『涅槃経』の注解を通して披露した思想で、「理」は作為されたものではなく真そのものとなりうること、および、そのような「真なる理」には変化しない本体が宿るということを説いていた。ここには古代ギリシア以来の西欧哲学に匹敵する“理法”が芽生えている。 

≪097≫  第3に、道生は他に先んじて「頓悟論」も説いた。悟りはくねくねと得られるものなどではなく、どこかで一挙に加速して得られるものだという説だ。漸悟を退けて頓悟を示した。 

≪098≫  これはのちの禅宗が重視した“禅機”のようなものを早々に提案しているもので、同時代の謝霊運はおおいに賛同して『弁宗論』を著したほどだったのが、やはり早すぎて周囲からの理解は得られなかったようだ。しかしぼくは、のちのち中国がインド仏教には見られなかった禅思想を展開できたのは、道生のような思想が魏晋南北朝期に先行できたからだと思っている。つまり中国人にひそむ“感応思想”は、道生によってこそ刺激されたと見たいのだ。 

『仏教の東伝と受容』

≪099≫  ざっとこんなところが道安、慧遠、道生が先駆した中国仏教の特色であるのだが、もうひとつ、中国仏教に顕著なことが魏晋南北朝時代に始まっていた。それは「偽経」(疑経・擬経)がつくられていったということだ。 

≪100≫  仏教の典籍は「三蔵」によって分類される。経典・律典・論典である。ブッダの説法は結集(けつじゅう)のたびに、三蔵として編集されていったとみるわけだ。 

≪101≫  しかし中国では、さまざまな時期にさまざまな地域で作成された仏教典籍がランダムな順に漢訳された。そこで教相判釈とともに「経録」(きょうろく)が試みられ、目録の整備とアーカイブの整理が必須になった。ところが、あろうことか、そこにかなりの偽経が交じったのだ。 

≪102≫  偽経には、①仏教を儒教と道教と比較したもの、②権威のために書かれたもの、③俗信を仏教のレベルに引き上げるために著述されたもの、④インド思想を脱するために書かれた中国独自のもの、がある。かくて代表的な偽経だけでも、『金剛三昧経』『首楞厳経』『仁王般若経』『法王経』『十王経』『父母恩重経』などが執筆された。 

≪103≫  ぼくはこれらが偽経だと知ったときはびっくりした。よくぞこれらを著作したとも思った。中国というのはけっこう勝手なことが許されるのだとも感じた。もっとも実際には、偽経はのちの中国仏教界では厳しく点検され、排斥されて、それゆえ「一切経」(大蔵経典集)の整頓がすすむにつれ、すべて葬り去られていくことになる。 

≪104≫  しかし、いちいちホンモノとニセモノを区別していくことが、中国仏教にとって時間をかけるべきことだったのかどうかというと、いささか不満がある。よくよく考えてみると、こうした偽経をつくりだしたことこそ中国仏教の面目躍如だったともいえたからだ。 

≪105≫  ぼくがこんなことを感じるのは、そもそも仏典にして、すでにオラリティの中にあったブッダの言葉を独自にリテラル編集したものだったという思いがあるからだ。これはパウロやペテロによって新約聖書が編集されたことにも言えることで、とくに仏典や経典だけに言いうることではないけれど、つねづねぼくの念頭から離れないことなのである。 

今夜は大晦日。この去年今年の機に乗じてかねて憧れ続けていた維摩の超哲学を少しく案内して締めくくりたい。

不可思議解脱法門。不二法門。

この独特は、維摩居士にして初めて可能な菩薩道をめぐる破天荒な方法である。

ここには瀬戸際という「瀬」と「際」がある。

そこを維摩は誰彼かまわず突っ込んでいくものだから、仏門の訳知りな連中はことごとく翻弄された。

翻弄、歓ぶべし。本楼、賑わうべし。あとはひたすら維摩の一黙が響きわたるのみ。では諸君、よいお年を存分にお迎えください。 

『維摩経』①

≪01≫  本年、平成25年もあと数時間に押し詰まりました。大晦日というもの、時が切り替わるだけなのに、善悪硬軟いろいろ押し詰まる。でも明ければ元朝。「いかのぼりきのふの空のありどころ」(蕪村)。妙なものです。 

≪02≫  かの一葉(638夜)が「勝手は北向きに師走の空の空っ風ひゅうひゅうと吹き抜きの寒さ、おお堪えがたきと竈(かまど)の前に火なぶり一分と一時」とみごとに描いた大つもごり、虚子がずばり「去年今年貫く棒の如きもの」と詠んだ去年今年(こぞことし)です。 

≪03≫  あと1カ月ほどするとぼくも70歳になります。そのわりには、あいかわらず大小さまざまな仕事に追われたままにある。義理にも義務にも、カネにもスネにもコネにも縛られている。困ったものですが、むろん仕方ありません。この渦中で古稀を迎えるしかなく、またこの渦中でぼくがめざすことを実現していくしかないのです。 

『維摩経』

≪04≫  この歳になりますと、やっと見えてくること、やはり違っていたんだと思うこと、もう少し整えたいこと、とっておきの方面に向かいたいこと、いろいろ混じります。これは「際の多様性」が実感できるからです。 

≪05≫  自分がどの程度の荷物を持って、どんなカーブを曲ってきたのか、気力が体力を超えるところがどこそこで、何をしたときに濡れ手が粟となり、どうすれば深く納得できるのか、諦めはどこでつくのか。かなり幾つものこうした“際”が見えるようになってくるからです。 

≪06≫  世間の躱(かわ)し方、思想の出来ぐあい、仲間との折り合い、ぶっちぎりの仕方、アートの切れ味、黙って事態を見送ること、闘いの転じ方、こういう場合のどこかにひそむ“際”がちょっとしたメタセンサーだけで測定できる歳なのです。 

≪07≫  しかしメタセンサーが効くということは、さまざまな仕事や兆候やアイディアにそれなりの価値がありうると、いちいちその“出来”が感じられるということでもあるので、へたをするとこれは「みんな我が子」のように目を細めることになりかねず、これは便利のようでいて、必ずしも深い判断になっているわけではありません。もっと深いところで何事にも同様の対応をしたくなる。 

≪08≫  ぼくも10年ほど前から、そろそろそういうふうに淡々ディープに生きようか、それじゃ隠逸の日々を半分ほどおくることになるけれど、それでいいかななどとも思っていたのです。 

『維摩経』

≪09≫  人間は数々の矛盾をかかえています。これは物心がついたときから誰にも付きまとっているものです。しかし長じるにつれ、矛盾は環境や個性や運に応じてさらに膨らんだり、かたまりにもなっていく。それを歴史や社会のせいにするか、脳と心と体の食い違いのせいにするか、境遇や報酬や才能のせいにするか、ここが問題です。 

≪010≫  自分がうっかり言わずもがなの新矛盾やムダ矛盾をふやしてきたのか、それとも頑固なものにしてきたのか、あるいはぐちゃぐちゃにしてきたのか、そこを見極める必要があるわけです。ふつうは、物心ついてからの矛盾の継承物となんとはなしの折り合いをつけていることが多いのですが、それではいかんと思うようになるのです。 

『維摩経』

≪011≫  歳をとってくると、こういうことを不覚な日々を迎える前に結像させておきたくなります。そういうとき、またぞろ自分を覗くのではなく、むしろ別のモデルを覗きたくなります。もう自分のことはめんどうくさい。 

≪012≫  では、別のモデルはどこにいるのか。それはアナザーセルフやアルターエゴというものではありません。いまさら人格は変えられない。そうではなくて、かつてから自分の中に寄り添いながら出入りしていたコンティンジェントなものが見えていたはずなので、そのモデルと昵懇になりたくなるのです。コンティンジェントというのは「別様の可能性」ということです。 

≪013≫  ぼくには、こういうこともあろうかと、実はずっと前からいささか憧憬をもって付きあってきたコンティンジェント・モデルがありました。古代の老人です。仏門の野人です。 

≪014≫  というわけで、今夜の大晦日をちょっとした区切りのセレンディピティにして、ぼくのとっておきのモデルの話をしたいと思います。それは維摩居士(ゆいまこじ)の話です。 

≪015≫  一見すると傍若無人なのに、やたらに深く、みんなのことを考えているのに論争を怖れないそうとう変な男です。今夜は諸君も、この男と付き合っていただきたい。 

『維摩経』

≪016≫  維摩居士は『維摩経』(ゆいまきょう)の主人公です。『維摩経』は仏典ですが、あとで説明するように、大乗仏典のなかでもかなり初期に編集されたきわめてユニークなお経です。 

≪017≫  そもそも主人公の維摩居士が仏僧ではない。出家したプロの僧侶ではありません。在家なのです。古代インドの大商人で、しかも富豪です。 

≪018≫  富豪なんですが、惜しみなく喜捨をする。誰彼かまわず援助する。なんとも羨ましいことですが、富の贈与と知の互酬性に徹することが身上なのです。それも、仏道の根本に従ったまでだという達観でやっているらしい。そういう男です。  

≪019≫  維摩居士がぼくのとっておきのモデルなのは、気っ風がよくて気前がいいからだけではありません。仕事をしたまま仏道をいとなみ、それなのにそんじょそこいらの出家者をいつも手玉にとるほどに、訳知りたちを翻弄した。その生き方や世間との付き合い方がめっぽうおもしろい。 

≪020≫  この男にはさしものブッダの名うての弟子筋たちも、並みいる菩薩たちも、きりきり舞いさせられた。そういう維摩居士の噂は当時から四方に知れわたっていたようです。 

『維摩経』

≪021≫  ともかく変わっている。変わっているのに、ある意味ではどんな菩薩道を踏んだ高僧や高潔たちより高く深く、かつざっくばらんです。意外性に富んでいるのに、なんだかやたらに説得力がある。大胆思考の仏者なのです。 

≪022≫  プロではないのだからアマなのですが、たんなるアマちゃんでもない。商人なのに仏者なのです。そういう維摩居士を「仕事をする仏教者」とか「マーチャント・ブディスト」とか、もっと今風にいえば「仏教する仕事人」と言っていいかもしれません。 

≪023≫  このような維摩居士を主人公にした経典が『維摩経』です。 経典ではあるけれど、ほとんどドラマ仕立てになっているレーゼドラマです。主人公がそうとう変わっていて、経典が読みやすいドラマ仕立てになっているのだから、このドラマはおもしろくないわけがない。半沢直樹なんてものじゃない。活殺自在なプロットとエピソードがいっぱい詰まっている。つまらない100冊の小説を読むなら、『維摩経』をゆっくり3度くらい読んだほうがずっと興奮するでしょう。 

『維摩経』

≪024≫  どんな話になっているのか、あらかじめ『維摩経』の筋立ての眼目をバラしておきます。 

≪025≫  商人でありながら高徳の士であって、きっと高額の布施や喜捨を躊うことなくふるまってきたであろうに、決して出家しようとしない維摩居士が、このところ病気で臥せっているらしいというのです。 

≪026≫  そこでブッダが気になって、弟子たちに「私の代わりに居士のお見舞いに行ってほしい」と言う。むろん大師匠の言うことだから弟子は受けざるをえません。次々に見舞いの候補者がたてられます。 

≪027≫  ところが、最初の代役立候補になった舎利弗(しゃりほつ:シャーリプトラ)は、これを辞退した。苦手なことはしたくないと言うのです。苦手なこと? どうも意味がわからない。そこで次に大目連(だいもくれん:マハーモッガラーナ)に命じると、私もあの人を見舞うのはごめん蒙りたいと言う。それだけではなく次の摩訶迦葉(まかかしょう:マハーカッサバ)も須菩提(しゅぼだい:スブーティ)も、釈迦十大弟子のことごとくが苦りきって辞退するのです。 

≪028≫  いったいどういうことかとブッダが訝ると、みんなどこかで維摩居士にやっつけられた経験があるからだと言う。全員が痛い目にあっている。 

≪029≫  『維摩経』の前半4分の1くらいは、こうした弟子たちや菩薩たちが維摩居士に「やっつけられる過去の場面」を次々に紹介するのです。 

≪030≫  こうして、最後の最後に指名を受けた文殊菩薩(文殊師利:マンジュシュリー)が見舞いを引き受けます。天下第一の智慧を代表する文殊が行くならというので、これまで尻込みしていた連中も様子を見たくってついていく。そんな連中をぞろぞろ引き連れた文殊が維摩の家に行ってみると、居士の家はなんと“もぬけの殻”だった。 

≪031≫  どうも本人が病気だなんて、ウソだったようなのです。呆れる文殊に、ここでいよいよ登場してきた維摩がとんでもない弁才縦横の説法をしてみせる。そのやりとりが思いもかけないほどに、大胆でおもしろい‥‥。ざっとはこういうふうに話が展開していくのです。 

『維摩経』

≪032≫  維摩居士は漢訳名で、維摩詰(ゆいまきつ)ともいいます。本名(インド名)はヴィマラキールティ。それゆえ『維摩経』は「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」(Vimalakirti-nirdesá-Sûtra)という。 

≪033≫  長らくサンスクリット語の原本は紛失したままにあると思われていた経典なのですが、ごく最近の1999年7月、チベットのポタラ宮殿の一隅でサンスクリット原典の忠実な写本が、発見されました。ターラの木の葉(貝多羅葉、略して貝葉)79枚に墨で筆写されていた。 

≪034≫  大正大学総合仏教研究所の学術調査団が発見したものです。さっそくその翻訳にとりくんだ植木雅俊さん(1300夜)は「仏教学史上20世紀最大の快挙」と言っています。 

≪035≫  それまでは長らく鳩摩羅什(1429夜)の漢訳経典が、もっぱら日本人の信仰者や研究者が依拠する経典でした。羅什はサンスクリット語の「ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ」を「維摩詰所説経」と訳し、これが日本にも伝わったのです。聖徳太子に『維摩経義疎』があるのはその最も早い受容例ですし、その直後には斉明天皇が藤原鎌足の病いを平癒させるために、法明尼に『維摩経』問疾品を読誦させたという記録がのこっています。  

≪036≫  そのため鎌足はたちまち回復して、熱心な『維摩経』の信者となり、高僧の福亮を招いて維摩講義をさせた。これが「維摩会」(ゆいまえ)の最初で、以降は興福寺が10月10日からの7日間の維摩会の法会を開いています。 

≪037≫  ひるがえって鳩摩羅什の弟子だった僧肇(そうじょう)が、そもそも漢訳注釈の泰斗でした。『註維摩』を書いた。それから天台や三論や法相の中国仏教各宗派の大成者たちも維摩に浸って注釈しています。 

≪038≫  ぼくはなかでも、南朝の士大夫(したいふ)たちが「竹林の七賢」と維摩詰のイメージをだぶらせたあたりの顛末が興味深く、それが中国絵画史を画期した王維(おうい)をして「王摩詰」と名のらせた経緯となっていったところに、ひとつの維摩居士像の頂点を見ています。 

『維摩経』

≪039≫  維摩居士という男がはたして実在したのかどうかはわかりません。おそらく近いモデルはいたはずです。リッチャヴィ族の長者の一人だったろうということまでは、歴史学上の見当がついています。  

≪040≫  だいたい『維摩経』は『般若経』よりもあと、『法華経』(1300夜)よりも前に編集著作された初期大乗仏典ですから、おそらく紀元1世紀くらいに原型ができて、そのあと100年ほどで完成形になったとみられます。ということはキリスト教の「新約聖書」の成立期とほぼ相前後していたということですが、大編集者パウロについての研究がだいぶん進んでいるようには、『維摩経』編集集団の詳しいことはさっぱりわかっていない。 

≪041≫  でも、舞台は古代インドのヴァイシャーリー(毘耶離)という町であって、維摩居士ことヴィマラキールティはその町に住むお金持ちの商人だったという設定になっていますから、まあ、紀元前1~2世紀あたりにそういうモデルに当たる人物がいたのだろうと思います。それがずっと噂や話題になって仏教徒のあいだであれこれ伝聞され、あるとき(この「あるとき」というのが重要ですが)、『維摩経』としてまとまった。  

≪042≫  ということは、経典にはブッダの十大弟子が維摩居士を訪ねたというふうに書いてあるものの、ブッダ没後のだいぶんあとの話だったわけです。このあたりは適宜、場所・時代・人物・因果関係を入れ替えて編集したのでしょう。なにしろ仏典の古代編集力は、その実態はまだわかっていませんが、できあがった経典群から見て、アジア随一のものなんです。 

『維摩経』

≪043≫  維摩居士が住んでいたというヴァイシャーリーという町は、現在の中インドのベンガル州パトナの北のベーサール付近に同定されます。   

≪044≫  ここは仏教史においても甚だ由緒あるところで、仏典の第2期結集(けつじゅう)がおこなわれました。ブッダ入滅から100年ほどのちのこと、紀元前3世紀前後のことで、この結集のあと、紀元前3世紀半ばにはアショーカ王が仏教に帰依して第3回の仏典結集がなされます。 

≪045≫  この第2回の仏典結集の前後、それまでの戒律(これを十事という)があまりに厳しすぎるので、ヴァイシャーリーの出家者たちがその緩和を要求しました。けれども戒律こそが仏道なんだと確信している連中は、そんなことを認めない。とくに高僧たちが許さない。よくあることです。 

≪046≫  そうこうするうちに、ブッダ教団は伝統を重んじる保守派の「上座部」(じょうざぶ)と、現実的で生活的な「大衆部」(だいしゅぶ)とに分裂します。これが仏教史上に有名な「根本分裂」ですが、その後も分派と分裂はもっと進み(枝末分裂)、初期仏教の結社の大半が「部派仏教時代」になります。 

≪047≫  こうしていわゆる「小乗仏教」が広まって、自己中心の解脱をめざす方向に初期仏教の全容が凝りかたまっていく。 

『維摩経』

≪048≫  しばらくたつと、時代社会というのはいつだってそういうものですが、どうもそれはおかしいんじゃないかという連中が出てきます。   

≪049≫  この新しい連中は、仏道というものは自分だけが救済されるのではなく、他者も一緒に救済するものなのではないか、修行だって自分のためだけではなく他人のためにおこなうのじゃないかと考えます。つまり「利他行」(りたぎょう)を主張する。そのほうが真の菩提(悟り)になると主張する。 

≪050≫  やがてこのような他者救済を唱える連中がだんだんふえて、その教えや行いを「菩提薩埵」(ボーディサットヴァ)と呼ぶようになります。「菩提」とは真の悟りのこと、それをやっているのが菩提薩埵、略していわゆる菩薩たちに当たります。この、他者を含む菩提を重視するムーブメントが「菩提乗」(菩薩道)で、そのことに矜持をもった連中が自らを「大乗」(マハーヤーナ)と呼称します。自分たちでそう名のったので、これに対してあいかわらず自己覚醒にこだわる部派仏教の連中を「小乗」(ヒーナヤーナ)と蔑称しました。 

≪051≫  こうして大乗仏教と小乗仏教とが分かれるのです。最近の仏教学は小乗仏教という名称が語弊があるというので部派仏教と呼んでいる。 

『維摩経』

≪052≫  おそらく維摩居士は、こうした大乗仏教の勃興期の社会でそうとう目立っていた人物だったろうと思います。小乗と大乗のリミナルな分かれ目で目立ったのだろうと思います。 

≪053≫  それというのも、菩提乗はたとえば「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の「六波羅蜜」をまっとうするのを本来の活動の主旨とするのですが、維摩は在家にありながらも、この六波羅蜜に徹しているからです。六波羅蜜は六つの波羅蜜(パラミター)ということで、彼岸に到達するための六つの行目(ぎょうもく)です。“param”(彼岸)に“ita”(到った)という語源です。 

≪054≫  ところが、ここがおもしろいところなのですが、『維摩経』に次から次へと出てくる登場人物の多くも大半が菩薩たちで、当然ながら六波羅蜜をはじめとする彼岸修行をしてきたのに、それゆえのちのちの大乗仏教史を飾るほどのお歴々になったのに、それが維摩の前ではさっぱり立つ瀬がないのです。ウダツが上がらない。それどころか、仕事人でマーチャントな男にこてんぱんにやられ、その説教にほとほと聞きほれているのです。 

≪055≫  いったいなぜこんなふうになっているのか。維摩居士のどこが凄いのか。 一言でいえば、矛盾を怖れていないからです。矛盾を「内」に感じるのではなく、「外」に使えるからです。矛盾というもの、よく見ればリバースモードになっています。行って来たり、入ったり出たり、表になったり裏になったりしている。それが絡まってどこかに止まってしまうのが矛盾です。だったらこれを内外に動かせばいい。 

≪056≫  ただしそうできるには、自分にも付着しているはずの諸矛盾を怖れていては、いけない。どうすればいいか。修行も大事だけれど、維摩は矛盾を怖れないだけでなく、自身の矛盾めく姿をあえて相手に見せるという方法に気がついたのです。 

≪057≫  維摩はこうすることによって、相手の立つ瀬の「瀬」や「際」をずばずば問うていくのです。自分の諸矛盾や弱さを平気で外に出し、それをもって相手に編集をかけるのです。そして、このときには容赦をしない。 

≪058≫  いったい維摩は相手に対してどんなふうにその「瀬」や「際」に迫るのか。『維摩経』を読む醍醐味は、その「瀬」や「際」をめぐる謎に擽られていくところにあります。 

『維摩経』⑩

≪059≫  『維摩経』は全部で14章立てになっています。仏典ではチャプターのことを古来から「品」(ほん)と訳してきたので、14品。長い経典ではありません。読み出すとあまりにおもしろくて、息継ぐ暇なくあっというまに読めるはずです。とりあえず構成一覧を示しておくと、次のようになっています。  

≪060≫ 構成一覧 

≪061≫  これでだいたいの流れがわかるでしょうが、このうちの第4品までを序分、後半を正宗分(しょうしゅうぶん)といいます。文殊がご一党を引き連れて居士の家を訪れた第5「問疾品」からが正宗分というメインディッシュです。 

≪062≫  かんたんなドラマの仕立てとテーマ展開をかいつまんでおくと、冒頭の1「仏国品」はかなりおおげさです。仏典はどんな経典(スートラ)も開闢シーンがたいていおおげさで、あまり本気で読まないほうがいい。ハリウッド・アドベンチャーの冒頭シーンだと思って、お気楽に読めばいい。 

≪063≫  『維摩経』もヴァイシャーリーのアームラパーリー(菴羅樹園)の一角にどっかと坐ったブッダ(世尊)が、8000人の大比丘衆と32000人の菩薩を前に説法をしているという、一大ページェントから始まります。サッカー場か野球場並の群衆のごとく阿羅漢たちが集まったというべらぼうな話ですが、むろんそんなことはない。大きくケタを変えてある。菴羅樹園はマンゴーの森のことです。 

≪064≫  そこへ宝積(ほうしゃく)菩薩がしずしずとあらわれて、長者が多いリッチャヴィ族の500人の若者たちとともに日傘を捧げてブッダに供養します。すると、ブッダがたちまち500の傘を一つの巨きな傘に変じるという幻術のようなことをおこす。これも仏典にはよくあるマジックショーのようなもので、インド人特有の針小棒大な光景の描写によって、これからおこることが有り難いことなのだと知らせているわけです。いまでも東京ドームや武道館のイベントの開幕シーンで見せていることです。今夜の紅白歌合戦もそういう演出でしょう。 

≪065≫  こうして仏国土とは何か、理想の世界とは何かという説法がじょじょにくりひろげられ、ブッダは理想世界の建設のためには「直心・深心・菩提心」という三心が肝要だと言います。三心だけでなく、六度、四無量心、四摂法(ししょうぼう)、十善など、次々に九行ものメルクマールを説く。これらを認識して実行すれば、世界は浄化されて浄土になると言うのです。 

『維摩経』⑪

≪066≫  しかし、こんなことばかり並べられても、まさにお題目ばかりでよくわからない。実際にも舎利弗(シャーリプトラ)がブッダに質問をします。世尊はそんなことをおっしゃるが、この世界は浄土どころか穢土(えど)ばかりではないですか。これは矛盾しているのではないか。 

≪067≫  ちなみに実際の歴史上の舎利弗は釈迦十大弟子のトップを切る者で、ブッダよりも年長者だったためブッダの後継者になるだろうと期待されていたのですが、先に死んでしまいます。だからこの場面では、舎利弗はまだ悟りを開けないでいる段階の舎利弗ということで、小乗仏教が好きな声聞(しょうもん)の立場から質問しているという設定になっています。 

≪068≫  ともかくも、このように舎利弗は正直な質問をしたのですが、ブッダはこのとき自分の足指で地面をほぐして、三千大千世界を無数の宝飾でキラキラに輝かせましたとあって、ほかには何ら説得力がない。 

『維摩経』⑫

≪069≫  そこで『維摩経』は2「方便品」に移ります。ここはやっと維摩居士の姿があらわれるはずの章なのですが、実際に登場してくるのではなく、維摩がどういう人物なのか、その噂が語られるだけなのです。たいへん巧みな編集です。 

≪070≫  こんなふうです。「毘耶離城に長者にして維摩詰と名づくる者あり。かつて無量の諸仏を供養して、深く善本を植え、無生忍(むしょうにん)を得て弁才無碍なり。神通に遊戯(ゆげ)し、もろもろの総持を逮して無所畏を得て、魔の労怨を降(くだ)す。深法(じんぽう)の門に入り、智度をよくし、方便に通達し、大願成就す」。 

≪071≫  ニーチェ(1023夜)に『この人を見よ』という快著がありますが、まさにこの章は「この人を見よ」というふうになっている。維摩というとんでもない在家の仏者がいる、その男はいまは病気で臥せっているのでこの場には姿を見せられないが、これこれしかじかの凄い男なのだということが語られるのです。 

≪072≫  それにしてもやっと維摩が出てきたのに、その姿がなく、病気の維摩を通してその偉大がヴァーチャルに語られるのは、意外です。なぜこんなふうになっているかというと、これは維摩の方便なのです。作戦であり、魂胆なのです。 

『維摩経』⑩

≪073≫  というわけで、ここからはブッダが次々に弟子たちを見舞いに行かせようとする3「弟子品」、続いて菩薩たちを行かせようとした4「菩薩品」というふうになっていきます。 

≪074≫  しかし、さきほども紹介したように、全員がことごとく維摩に恐れをなして辞退してしまうことになる。これまたまことに奇妙な展開です。奇妙な展開だけれど、その理由を各自が次々に述べるという構成になっているので、その各自の体験報告から「見えない維摩」の驚くべき弁才無碍がしだいに立ち上がってくるようになっていきます。憎い編集構成です。 

≪075≫  たとえば、かつて維摩は大目連には「法(ダルマ)を説くなら混じりっけなしでいきなさい」と言い、摩訶迦葉には「かっこつけて貧者ばかりを応援するな」と言ったらしいのです。貧者ばかりというのは、慈悲心を示すために富者を避けて貧しい者ばかりのところで説法しているという批判なのですが、これはかなりきつい批判です。維摩は偽善を許さない。そんなことでメセナやCSRをやっていると思いなさんなよ、それより矛盾を吐き出しなさい、という勢いです。 

≪076≫  須菩提には、君は行乞(ぎょうこつ)をしているようだが、本気で物乞いするのなら君自身が落魄しなければいけないと諭したようです。これもかなりのパンチアウトです。そして、かの弥勒菩薩に対してさえ、あなたは未来の世でブッダ(覚者)になることを約束されているようだが、ではいったいその悟りのモデルはどこから得たものなのか、それが過去だと言うなら、未来とは何かと問い、弥勒を困らせたらしい。 

『維摩経』⑪

≪077≫  こういうことをみんながかつて維摩から言い渡されたので、それで誰もが怖じけづいてしまったのでした。

≪078≫  ぼくが気にいっているのは光厳童子のエピソードです。光厳童子が毘耶離の大城を出ようとしたとき維摩に出会ったので、「どこからいらしたのですか」と訊いたところ、「道場からやってきた」と答えた。そのころ道場といえばブッダガヤの道場のことだから、ずいぶん遠いところからお見えになったのですねと訝ったところ、維摩は「どこもかしこも道場だ」と答えたというのです。まさにその通り。ジンセー、どこもかしこも道場です。

≪079≫  このたぐいの話が次から次へと提示されるのですが、読めば読むほど引き込まれるとともに、維摩とはどんな男なのか、好き勝手を言っているだけじゃないか、実はそれほどたいした男じゃないのではないか、これで大乗仏教や菩薩道を説明することになるのだろうかとか、それにしてもつねに大胆不敵で、電光石火の問答を切り結むものだとか、いろいろ興味や疑問や期待が沸いてきます。

『維摩経』⑫

≪080≫  こうして4「問疾品」で、いよいよ最後の切り札の文殊菩薩が満を持して見舞いに行くということになるのですが、行ってみたら、なんと仮病だった、維摩はウソをついていたという意想外の事態が待っていたわけです。 

≪081≫ 『維摩経』のレーゼドラマ全篇の進行を劇的なものにしているのは、この、病気で臥せっている維摩のところへ見舞いに行ったところ、それが仮病だったという最初のどんでん返しです。これですべてが劇的効果満点になっていく。これ、「伏せて、開ける」というぼくが大好きなやりかたでした。 

≪082≫  はたしてヴァイシャーリー(毘舎離)にいた維摩が実際にもそういう手を使ったのか、それとも仏典のハイパーエディターたちがそのように脚色したのかははっきりしませんが、おそらくは似たようなことがあったのだと思います。 

≪083≫  利休が秀吉に「庭の朝顔がみごとに咲いています。どうぞ明日の朝茶へお越しください」と言って、秀吉が行ってみたところ、その朝顔が全部ちょん切られていた。ムッとした秀吉が躙口(にじりぐち)から入ってみると、薄暗い茶室の床に一輪だけ朝顔が活けられて光輝くようであったという、あの話に通じる劇的効果です。いや、価値の本来を気付かせる方便です。 

≪084≫  この仮病の仕立てによって、維摩が文殊と問答をする「際」が俄然切り立ってきて、「問疾品」がぐいぐい迫ってくるのです。 

『維摩経』

≪085≫  文殊との問答には、ぼくもいろいろヒントをもらいましたが、そのひとつは維摩が文殊に「不来の相にして来たり、不見の相にして見る」と言った場面です。 

≪086≫  これは文殊がたくさんの連中を引き連れてやってくるというので、部屋という部屋をからっぽにしておいて、ひとつだけ寝台をのこしてそこに悠然と横たわっていたので、文殊たちがびっくりしたとき、言い放った言葉です。  

≪087≫  維摩は「文殊たちよ、よく来たね。諸君は来ないで来て、見ないで見ているのだよ」と言ったのです。まったく怖いことを言うものです。ところがその意味が一同にはわからない。ついつい「なぜ部屋はからっぽなんですか」とか、「椅子ひとつないのはどうしてですか」と聞かざるをえなかった。 

≪088≫  すると維摩は「君たちは椅子がほしくて来たのか」「からっぽなのはこの部屋だけか」と強い問答を強いてくる。これにはみんなギャフンです。 

『維摩経』

≪089≫  しかし、そう言われれば、そうなのです。誰も椅子に坐るために来たのではなく、維摩の話を聞きたくて来たのだし、部屋がからっぽだからといって維摩居士がそこにいればそれでいいはずでした。 

≪090≫  それにからっぽなのは、その部屋のことだけであるはずもない。からっぽは、どこにでもありうる。ブッダはとっくに「諸行無常、諸法無我」と言っていたのです。しかし菩薩たちは維摩を前にしては、そこをそのように単刀直入できないでいるのです。 

≪091≫  かくて維摩はここで「空」とはどういうものか、「席」とはどういうものかを説明する。たんにその主題を訳知りに論じるのではなく、まさに目の前で「空の部屋」「なくなっている席」を見せたうえでの菩薩道の議論です。『維摩経』はここに大乗仏教最大のテーマである「空」をとりあげたのです。 

≪092≫  それでも文殊たちは、まだどうしてもわからないことがある。それは、なぜ維摩が仮病の手をつかったのかということです。そこで維摩は、病気が真実か虚偽かをどこで決めるのかを問います。そもそも虚妄に陥る心だって病気かもしれないのです。実際、現代の精神病理学ではそうした虚妄を精神病とみなしている。つまり、病気は誰かが決めた席の症状にすぎないのです。  

≪093≫  こうして維摩は菩薩たちに「客塵煩悩」(かくじんぼんのう)を説き、諸君の心の中ですべての塵(矛盾)を“客なるもの”とみなせば、ふだんから煩悩から離れられるはずなのだと言い放つのです。 

≪094≫  以降の『維摩経』でも、ぼくが気にいっているところは幾つもあるのですが、とりわけ6「不思議品」と9「入不二法門品」が白眉です。 

≪095≫  『維摩経』が説いていることを仏教学的に集約すると、「空」と何か、「不可思議解脱」とは何か、「不二法門」とは何か、という3点に尽きています。そのうちの最大のテーマ「空」(空観)については、つまり大乗仏教がおこった最大のエンジンとなった「空」については、一応は『空の思想史』(846夜)や『大乗とは何か』(1249夜)にも千夜千冊してみたので、いまは省きます。 

≪096≫  そのかわり今夜は諸君を「不可思議解脱」と「不二法門」に向けて大晦日の行方知れずを誘い、除夜の鐘とともにおわりたいと思います。 

『維摩経』

≪097≫  6「不思議品」のドラマは「問疾品」を受けて、舎利弗との「椅子」と「席」をめぐる議論に始まり、維摩が「無住」また「本来無住」を示唆すると、そもそも師子座とはどういうものかと問うところから、一気に加速します。 

≪098≫  師子座というのは古代インドで国王や貴人や高僧が坐る台座のことですが、仏教ではブッダの座をさします。それならば、このブッダの座はいつからあったのか。ブッダがいたからその座になったのか、だったらそのブッダはいつから覚悟していたのか。 

≪099≫  いろいろ推理してみると、この座は前世のブッダが雪山童子と呼ばれていたころから想定されていたというふうになります。しかし、過去にそういう座が物理的にあったわけではない。そうだとすると、師子座は何かの想定の中にあるもので、それが現在まで続いている。その想定には五蘊(ごうん)や三界や十二処や十八界がくっついているはずですから、現在まで引っ張ってくるうちに、これは世界大というものになるわけです。たんなる「椅子」なんて、どこにもないのです。 

≪100≫  ということは、何かを悟るということ、すなわち解脱(げだつ)するということは、このように部分をあまねくものの想定にすることができるかということにほかならず、それはさまざまなことが同事=同時であるように自身を仕向けることなのです。 

『維摩経』⑬

≪089≫  しかし、そう言われれば、そうなのです。誰も椅子に坐るために来たのではなく、維摩の話を聞きたくて来たのだし、部屋がからっぽだからといって維摩居士がそこにいればそれでいいはずでした。 

≪090≫  それにからっぽなのは、その部屋のことだけであるはずもない。からっぽは、どこにでもありうる。ブッダはとっくに「諸行無常、諸法無我」と言っていたのです。しかし菩薩たちは維摩を前にしては、そこをそのように単刀直入できないでいるのです。 

≪091≫  かくて維摩はここで「空」とはどういうものか、「席」とはどういうものかを説明する。たんにその主題を訳知りに論じるのではなく、まさに目の前で「空の部屋」「なくなっている席」を見せたうえでの菩薩道の議論です。『維摩経』はここに大乗仏教最大のテーマである「空」をとりあげたのです。 

≪092≫  それでも文殊たちは、まだどうしてもわからないことがある。それは、なぜ維摩が仮病の手をつかったのかということです。そこで維摩は、病気が真実か虚偽かをどこで決めるのかを問います。そもそも虚妄に陥る心だって病気かもしれないのです。実際、現代の精神病理学ではそうした虚妄を精神病とみなしている。つまり、病気は誰かが決めた席の症状にすぎないのです。  

≪093≫  こうして維摩は菩薩たちに「客塵煩悩」(かくじんぼんのう)を説き、諸君の心の中ですべての塵(矛盾)を“客なるもの”とみなせば、ふだんから煩悩から離れられるはずなのだと言い放つのです。 

≪094≫  以降の『維摩経』でも、ぼくが気にいっているところは幾つもあるのですが、とりわけ6「不思議品」と9「入不二法門品」が白眉です。 

≪095≫  『維摩経』が説いていることを仏教学的に集約すると、「空」と何か、「不可思議解脱」とは何か、「不二法門」とは何か、という3点に尽きています。そのうちの最大のテーマ「空」(空観)については、つまり大乗仏教がおこった最大のエンジンとなった「空」については、一応は『空の思想史』(846夜)や『大乗とは何か』(1249夜)にも千夜千冊してみたので、いまは省きます。 

≪096≫  そのかわり今夜は諸君を「不可思議解脱」と「不二法門」に向けて大晦日の行方知れずを誘い、除夜の鐘とともにおわりたいと思います。 

『維摩経』⑭

≪097≫  6「不思議品」のドラマは「問疾品」を受けて、舎利弗との「椅子」と「席」をめぐる議論に始まり、維摩が「無住」また「本来無住」を示唆すると、そもそも師子座とはどういうものかと問うところから、一気に加速します。 

≪098≫  師子座というのは古代インドで国王や貴人や高僧が坐る台座のことですが、仏教ではブッダの座をさします。それならば、このブッダの座はいつからあったのか。ブッダがいたからその座になったのか、だったらそのブッダはいつから覚悟していたのか。 

≪099≫  いろいろ推理してみると、この座は前世のブッダが雪山童子と呼ばれていたころから想定されていたというふうになります。しかし、過去にそういう座が物理的にあったわけではない。そうだとすると、師子座は何かの想定の中にあるもので、それが現在まで続いている。その想定には五蘊(ごうん)や三界や十二処や十八界がくっついているはずですから、現在まで引っ張ってくるうちに、これは世界大というものになるわけです。たんなる「椅子」なんて、どこにもないのです。 

≪0100≫  ということは、何かを悟るということ、すなわち解脱(げだつ)するということは、このように部分をあまねくものの想定にすることができるかということにほかならず、それはさまざまなことが同事=同時であるように自身を仕向けることなのです。 

『維摩経』⑮

≪101≫  仏教では四摂法(ししょうぼう)といって、布施・愛語・利行・同事を重視します。布施は与えること、愛語は優しい言葉、利行は思いやりの行為、そして同事は相手と同じ立場に入って何かの先に導くことをいう。 

≪102≫  『維摩経』にはこう書かれています。「諸仏菩薩に解脱あり。不可思議と名づく。もし菩薩、この解脱に住すれば、須弥の高広を以て芥子の中に入るるに増減するところなし」。どんなに部分と全体を入れ替えても、そこには不可思議という「不」が関与して、万事平気になるものだというのです。 

≪103≫  ひるがえって、維摩の仮病もからっぽ作戦も「不」の介在に果敢であったということなのです。かくして、ここから「不二法門」へ話がとんでいく。 

『維摩経』

≪104≫  われわれはつねづね精神と物質とか、生と死とか、黒白つけるとか、組織と個人のどちらを優先するとか、現実感と想像力をくらべるとか、勝ち組と負け組に分けるとか、罪と罰、優美とがさつ、思慮と行動、「きれい」と「ぶさいく」とか、都会と田舎とかとか、理系と文系とかとか、何であれ二つのものを対立させて見がちです。ダイコトミー(二分法)です。 

≪105≫  対立して見ているうちに、どちらかに加担しすぎたり、その絡みぐあいに巻き取られます。これが新たな矛盾や葛藤になって自分を襲ってくるのですが、仏教ではこれを「分別」と呼んで要注意に扱っている。 

≪106≫  当然、われわれの思惟や思考は世の中向けになっていますから、ふだんの基本活動は分類的にできていて、それゆえ物事や仕事を進めるには分別知は欠かせないのですが、だからこそ法や科学やスポーツなどの勝負事が確立してきたのですが、とはいえ、そのどちらかが絶対化される必要はないはずです。そもそも分別は「差別」(しゃべつ)だったのです。 

≪107≫  ですから二分法的に物事や仕事を考えていくと、どうしてもそのどちらかを選択するだけになります。この分別にのみ陥ってしまうところから抜け出るにはどうすればいいのか。ここをあえて高次に脱出しようというのが維摩の言う「不二法門」という方法です。二つのものをダイナミックな一つのものの動きやはたらきと見るのです。高次に見るというのが維摩の眼目です。 

『維摩経』

≪108≫  維摩は不二法門の一挙的把握のための例示や比喩や説得などを、9「入不二法門品」だけではなく、『維摩経』のそこかしこでぶっとばすがごとくに連打します。これが禅問答めいていてたいへん痛快なのです。 

≪109≫  たとえば、健康と病気。これも二分です。むろん健康であることや「亭主元気で留守がいい」のがいいに決まっているようですが、では健康であろうとしてそれに囚われるのはどうか。病気だからといって落胆してしまうのはどうか。 

≪110≫  ぼくの体験からしても、病気や手術はいろいろなことを気付かせてくれました。だから健康がマルで、病気がバツとは言えない。そのどちらでもありうるところにいるといい。これはまさしくリバース・エンジニアリングの高次編集状態が必要なのです。こういうとき維摩は、健康でも病気でもない「不二法門」に入ると言うのです。 

『維摩経』

≪111≫  不二法門は、いいかえればコンティンジェントであるということです。コンティンジェントとは「別様の可能性をもっている」ということですから、二者択一を超えているのです。 

≪112≫  またたとえば、仕事がうまくいくか、いかないか。これを売上高でみればコトの黒白が決まるけれど、スタッフの働きぐあいやクライアントの学習ぐあいからすると、成功とも言えないし、失敗とも言えない。そういう仕事はしょっちゅうあります。でも、これを最初から効率のいい仕事ばかりを前提にしてしまうと、すべてがルーチン化して、市場や技術の動向による転換ができなくなりかねない。 

≪113≫  こういうとき、あらかじめ不二法門に入っておいて、そこから次を窺うようにする。そのほうがずっと高次になっていく。 不二とは「2にあらず」ということです。2ではないというのは、2になったら1に戻るか、もっと多くの数に入ってそこから「不二」という新たな自信をもつか、それともふだんから2が来たら、どんな2も1、1というふうに、別の2が来たらそれも1、1と見るようにするか、このどれかです。 

≪116≫  この3つ目の言い分は、われわれはついつい報酬を求めることで何かをなそうとしているが、「取」と「捨」を同一の次元にとらえる高次な立場に立てば、取捨の区別なく、したがって報酬と無報酬を超えられるはずだというのです。 

≪117≫  かつて幸田露伴(983夜)は『閑窓三記』に「捨」というエッセイを綴り、「取ることを知りて、捨つることを知らぬは、大いなる過ちなり」と記しました。さすが、古典日本と近代日本を分割しなかった露伴です。 

『維摩経』

≪118≫  不二法門については、文殊もこう言います。「我が意の如くんば、一切の法において言(ごん)もなく、説(せつ)もなく、示(じ)もなく、識(しき)もなし。これら諸々の問答を離るる。これを不二法門に入るとなす」。 

≪119≫  これは不二に入るには、まず守って、次にこれを破って、さらにそこから離れるという「守・破・離」に似たことを説明しています。しかし、文殊の理解は不二のために言語からも離れようとしている。言語を離れるために言語を用いた。これは不二なのか、不二ではないのか。 

≪120≫  のちの経典『大乗起信論』では、絶対の真如は言葉で解くことはできないが、「言説(ごんせつ)の極、言(ごん)に依って言(ごん)を遣(や)る」と説明します。ぼくも30代半ばに、『遊学Ⅰ』(中公文庫)に「言葉から出て言葉へ出る」と書きました。道元(988夜)についての文章でうっすら見えたことでした。 

≪121≫  では、では、そこで維摩はどうしたかというと、これこそ『維摩経』全篇のなかで最も有名な場面になるのですが、悠然と、黙っていたのです。ただ黙したのです。一堂は凍りつきました。これが後世に有名な「維摩の一黙、響き雷の如し」と言われてきた、驚くべき結末です。 

≪122≫  維摩居士は一黙した。たんに沈黙したのではありません。一黙という凝然不動を見せたのです。鈴木大拙(887夜)はこれをずばり「維摩拠坐」と名付けたものでした。座禅の境地と同じだというのです。 

≪123≫  いやいや、たいへんな結末です。こういうところが維摩居士という男の変なところであり、不抜にものすごいところなのです。ぼくはそういう維摩にコンティンジェント・モデルを感じてきたのです。 

『維摩経』

≪124≫  以上、大晦日の告解でした。維摩居士が「仏教する仕事人」であったことに、すべてのヒントがあります。ぼくもそんな居士でありたいとも思っています。それでは、諸君、くれぐれもよい年を迎えてください。そして一黙。あけましておめでとうございます。 

『ブッダたちの仏教』①

≪01≫  ぼくは確信しているが、仏教は21世紀の世界思潮のいくばくかの思考領域や行動領域に食いこんで、何事かを少しずつおもしろくさせていくだろう。きっと、そうなると思う。そうなって、ほしい。 

≪02≫  ぼくは確信しているが、仏教は21世紀の世界思潮のいくばくかの思考領域や行動領域に食いこんで、何事かを少しずつおもしろくさせていくだろう。きっと、そうなると思う。そうなって、ほしい。 

≪03≫  もともとわかりにくいところが多いからだと思う。むろん宗教にわかりにくいところがあるのは当然で、そういうミスティシズムを含めて宗教の真骨頂があるのだが、現代仏教は世界的にも大きな潮流になっているわりに、仏教関係者による説明不足が目立つのだ。説明の順序もヘタッピーだ。 

『ブッダたちの仏教』

 ≪04≫  うまく説明されていないところはいろいろあるが、仏教の大筋は説明しにくいと思われすぎている。たとえば世の中を「一切皆苦」と捉えるところや「空」を重視するところは、西洋からは過ぎたニヒリズムと感じられるだろうが、これはかまわない。西の連中のほうの認識が甘いのだから、かれらにベンキョーさせればいい。 

≪05≫  ヒンドゥイズムから継承した「輪廻」(サンサーラ)や「縁起」(プラティーティヤ)は、西洋神秘主義でも、最近のネットワーク社会観からでも類推がつく。だから、このへんも自信をもって“東の説明”をすればいい。 

≪06≫  それより、大きくはユダヤ=キリスト=イスラム教が「一神教」で組み立てられてきたのにくらべて、東のヒンドゥ=ブッディズムは徹して「多神多仏」であることが最大のわかりにくさになっている。これがうまく説明できていない。 

≪07≫  ユダヤ=キリスト=イスラム教にも「預言」「約束の地」「処女懐胎」「復活」「啓示」「三位一体」など、ふつうの理解では納得できないところが多々あるのだけれど、それをかれらは一神教的ヒエラルキーとロジックで巧みに充填してきた。どんなふうに充填したのか、千夜千冊でもオリゲネス(345夜)やアウグスティヌス(733夜)などを例にして、角川の「千夜千冊エディション」では『文明の奥と底』(角川ソフィア文庫)で、そこのあたりのことを解説しておいた。 

『ブッダたちの仏教』

 ≪08≫  実は仏教だって、仏教史をみればわかることだが、そうしたわかりにくさをさまざまなヒエラルキーとロジックで乗り越えてきたのである。そう、思ったほうがいい。 

≪09≫  だから経典も厖大にある。旧約、新約、クルアーンどころではない。ただし、そのヒエラルキー(三界や三身説)は仏教独自のものであり、その説明のためのロジック(縁起や般若)もかなり独特になっている。 

≪010≫  独特なのは宗教の教説だから当然だが、日本人にはそれらを読む(理解する)ための大きなブラウザーがちゃんと据えられていないようなのだ。スコープだ。そのスコープをもったブラウザーが示すべきは、ブッダその人が多神多仏ならぬ多身多仏だということなのである。 

≪011≫  ブッダは一人とはかぎらない。ブッダは多身で、多仏なのである。そのことをこのあと説明するが、この、ブッダの捉え方が多身で多仏になっているというスコープがわからないと、仏教の深みは掴みにくいだろうし、そこを前衛的なソフトウェアのアプリのように説明してきた仏教のよさが見えてこない。 

『ブッダたちの仏教』

 ≪08≫  実は仏教だって、仏教史をみればわかることだが、そうしたわかりにくさをさまざまなヒエラルキーとロジックで乗り越えてきたのである。そう、思ったほうがいい。 

≪09≫  だから経典も厖大にある。旧約、新約、クルアーンどころではない。ただし、そのヒエラルキー(三界や三身説)は仏教独自のものであり、その説明のためのロジック(縁起や般若)もかなり独特になっている。 

≪010≫  独特なのは宗教の教説だから当然だが、日本人にはそれらを読む(理解する)ための大きなブラウザーがちゃんと据えられていないようなのだ。スコープだ。そのスコープをもったブラウザーが示すべきは、ブッダその人が多神多仏ならぬ多身多仏だということなのである。 

≪011≫  ブッダは一人とはかぎらない。ブッダは多身で、多仏なのである。そのことをこのあと説明するが、この、ブッダの捉え方が多身で多仏になっているというスコープがわからないと、仏教の深みは掴みにくいだろうし、そこを前衛的なソフトウェアのアプリのように説明してきた仏教のよさが見えてこない。 

『ブッダたちの仏教』

≪014≫  Aの「ブッダによる教え」というのは、ブッダその人が覚醒したことを追う。 

≪015≫  歴史上の一時点に北インドで生まれたゴータマ(ガウタマ)・シッダールタという実在者が、修行のすえに菩提樹のふもとでゴータマ・ブッダとして覚醒を遂げたのである。この歴史的な出来事と、そのブッダが説いた教えを探求する。これが、大文字のブッダ(Buddha)自身によって示されたブッダの教えをめぐるブッダ論になる。A「ブッダによる教え」だ。 

≪016≫  Bの「ブッダになる教え」のほうは、そのゴータマ・ブッダによって到達されたブッダ(buddha)という心身状態が、仏教的にどんな様態をとりうるか、修行者や信仰者がどうしたらそこに達することができるかということを広く議論するブッダ論だ。 

≪017≫  この小文字のブッダのほうは「覚醒するもの」「真理を悟ったもの」という意味で、原則的には誰もがなりうる高くて深い精神的な状態をさす。 

≪018≫  仏教成立以前、『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』でも、聖者・賢者という意味での「ブッダ」という言い方がされていた。仏教最古の経典『スッタニパータ』や詩集『テーラ・ガーター』では、ゴータマ以前からブッダと呼ばれていた修行者が何人もいたのだということを伝えている。多くの者がブッダへの道をめざしたのだ。 

≪019≫  したがって、こちらのブッダ論はA「ブッダによる教え」というよりも、B「ブッダになる教え」なのである。「よる」と「なる」ではずいぶんいろいろのことが異なってくる。それで、後者Bの「なる」ためのブッダ論がたいへん幅広いのだ。 

『ブッダたちの仏教』

≪014≫  Aの「ブッダによる教え」というのは、ブッダその人が覚醒したことを追う。 

≪015≫  歴史上の一時点に北インドで生まれたゴータマ(ガウタマ)・シッダールタという実在者が、修行のすえに菩提樹のふもとでゴータマ・ブッダとして覚醒を遂げたのである。この歴史的な出来事と、そのブッダが説いた教えを探求する。これが、大文字のブッダ(Buddha)自身によって示されたブッダの教えをめぐるブッダ論になる。A「ブッダによる教え」だ。 

≪016≫  Bの「ブッダになる教え」のほうは、そのゴータマ・ブッダによって到達されたブッダ(buddha)という心身状態が、仏教的にどんな様態をとりうるか、修行者や信仰者がどうしたらそこに達することができるかということを広く議論するブッダ論だ。 

≪017≫  この小文字のブッダのほうは「覚醒するもの」「真理を悟ったもの」という意味で、原則的には誰もがなりうる高くて深い精神的な状態をさす。 

≪018≫  仏教成立以前、『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』でも、聖者・賢者という意味での「ブッダ」という言い方がされていた。仏教最古の経典『スッタニパータ』や詩集『テーラ・ガーター』では、ゴータマ以前からブッダと呼ばれていた修行者が何人もいたのだということを伝えている。多くの者がブッダへの道をめざしたのだ。 

≪019≫  したがって、こちらのブッダ論はA「ブッダによる教え」というよりも、B「ブッダになる教え」なのである。「よる」と「なる」ではずいぶんいろいろのことが異なってくる。それで、後者Bの「なる」ためのブッダ論がたいへん幅広いのだ。 

『ブッダたちの仏教』

≪020≫  本書『ブッダたちの仏教』は、この「ブッダによる仏教」と「ブッダになる仏教」がどのように議論されてきたかを、さまざまな証拠を並べてまとめた。 

≪021≫  タイトルがいい。仏教がいくつもの「ブッダたち」、すなわちいくつもの「ブッダ状態」によって成立してきたことを、うまく象徴している。 

≪022≫  著者の並川孝儀(なみかわたかよし)は京都生まれの佛教大学のセンセーで、「正量部の研究」でデビューした。『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版)、『ゴータマ・ブッダ:縁起という「苦の生滅システム」の源泉』(佼成出版会)、『スッタニパータ 仏教最古の世界』(岩波書店)などの著作がある。岩波の『スッタニパータ』は若い日本人や一般読者の評判がいい。この問題を展開するにふさわしい研究者だ。 

『ブッダたちの仏教』

≪023≫  仏教学では、ブッダが在世中に説いた仏教のことを「原始仏教」という。まだまだ未熟ではあったが、原始仏教教団もできた。サンガ(僧団)である。そこにゴータマとその「教え」を理解した仏弟子(ぶつでし)たちがいた。ゴータマの教えを最初に聞き、最初に実践したのが仏弟子(サーヴァカ)だ。漢訳では「声聞」(しょうもん)と呼ばれる。 

≪024≫  原始仏教期の「ブッダによる教え」はひっくるめて「仏説」(ヴァチャナ)という。仏説(ぶっせつ)はブッダ自身が生存中にさまざまな機会に法(ダンマ)と律(ヴィナヤ)と教え(サーサナ)を説いたことをまとめたもので、当初のものは『大般涅槃経』などに散文的に載っている。  

≪025≫  仏弟子のアーナンダ(阿難)が「法」を暗誦でき、何人かのウパーリ(優婆塞)が「律」を記憶していたので、長老たちはカッサパ(迦葉)を統率者としてこれらをまとめることにしたのだった。ゴータマの語りが、これで少し物語になった。仏教史ではこの最初期の編集作業を第一結集(けつじゅう)と言っている。 

≪026≫  そのなかには修行者たちが聞いた言葉が雑然と集められているものも、少なくない。ほんとうにブッダ自身がそういうことを言ったのかどうか、訝しいものもある。そこで原始仏教教団は、それらの言葉とのちに経典(スッタ/スートラ)としてまとまったものとを照らしあわせ、相互に齟齬がないかどうかをラフにチェックした。このチェックに合格したものが仏説にふさわしいものになる。 

≪027≫  この作業が第二結集で、アーナンダの弟子の8人の長老たちがかかわった。アーナンダは新約聖書の大編集を指導したパウロにあたると思えばいい。 

『ブッダたちの仏教』

≪028≫  ブッダが亡くなって100年ほどすると、教団は上座部と大衆部の二つに分かれて「部派仏教」の時代に入った。どんな組織もこういうことはおこる。まして古代信仰集団だ。いっときは説一切有部をはじめ、20グループ前後の部派が林立した。 

≪029≫  部派仏教では「ブッダになる」ことではなく、もっぱら阿羅漢(アルハット/アラハント)になることがめざされた。学ぶべきものがない境地に達した者が阿羅漢だ。 

≪030≫  かれらは熱心な修行者ではあったが、他者の救済よりも、もっぱら自己の探求を極めるほうに関心があったため、のちに大乗仏教がおこってからは、あんたたちはあまりに小さな乗り物にこだわったねという意味で「小乗仏教」の活動者だったともみなされた。そのため、それまでは仏弟子全般を声聞と呼んでいたのだが、大乗仏教側はかれらを声聞と呼び、大乗仏教者を「菩薩」と呼ぶようにした。 

≪031≫  一方、阿羅漢にも徹底した修行や思索をした者たちもいたので、のちにすぐれた阿羅漢を総称して「十六羅漢」などとして称揚した。羅漢さんである。 

『ブッダたちの仏教』

≪032≫  部派仏教の各部派は、自分たちの考え方こそが仏説に近いんだということを主張しあっていた。それぞれが理論化を深めていったので、どこの部派の主張が仏説からずれているとは言いがたい。しかし、すべてを同じように認めていっては混乱を呼ぶ。どうするか。 

≪033≫  部派仏教の各部派は、自分たちの考え方こそが仏説に近いんだということを主張しあっていた。それぞれが理論化を深めていったので、どこの部派の主張が仏説からずれているとは言いがたい。しかし、すべてを同じように認めていっては混乱を呼ぶ。どうするか。 

≪034≫  こんな判断をしたのは、当時勢いを増していた仏教ムーブメントの機運を損なわないように、論師たちがやむなく振り分けたせいなのだが、これによって各部派は、かえって、なぜブッダが完全な言葉で真意をあらわさなかったのか、そこにはどんな意図があったのかということに興味をもった。 

≪035≫  こうして部派仏教は未了義の研究に打ちこんでいったのである。これが、若いころにぼくが夢中になった「アビダルマ仏教」というものだ。アビダルマとはブッダの教えの解釈や研究に耽ることをいう。 

≪036≫  やがてそのような解釈研究が論書というかたちになり、そのアーカイブを「論蔵」と名付けるようになると、経典を集積した「経蔵」よりも、むしろ論蔵のほうが仏説の中身を伝えるものだと位置づけるようになった。アビダルマはそうしたテキスト研究に没入していったのである。ぼくは、これはこれでたいへん重要な作業だったと思っている。 

『ブッダたちの仏教』

≪037≫  紀元前後に「大乗仏教」が立ち上がってきた。ブッダが説いた救済の思想を重視して、自己の解脱よりも他者の救済をめざすムーブメントが大きなうねりをもちはじめたのである。いわゆる「菩薩道」だった。利他行をめざした。

≪038≫  この救済型の菩薩道を提唱した大乗仏教が、このあとのブッダ観に大きな転換をもたらしていく。

『ブッダたちの仏教』

≪039≫  大乗仏教は東洋文化史全般のなかでもかなり新しい思潮なので、もちろんその特色は多彩にあるのだが、今夜強調しておきたいのは、まずもって宗祖ゴータマ・ブッダを永遠の存在とみなすべく、複数に見立てたということがとても大きい。これはブッディズムにとっては大転換だった。 

≪040≫  遥かな過去の時空にも未来永劫の時空にもブッダ(ブッダたち)がいらっしゃるとみなしたのだ。この構想は「過去仏」や「未来仏」の想定につながった。 

≪041≫  『相応部経典』の第6章「梵天相応」には次のようにある。「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」。 

≪042≫  実際にも、その「ブッダと言われる方々」の名前もあきらかにされた。毘婆尸仏(ヴィパッシン)、尸棄仏(シキン)、毘舎浮仏(ヴェッサブー)、拘留孫仏(カクサンダ)、拘那含牟尼仏(コーナーガマナ)、迦葉仏(カッサパ)という六ブッダが想定されて、これにゴータマ・ブッダを加えたブッダたちが「過去七仏」に認定されたのだ。 

『ブッダたちの仏教』

≪043≫  わかりやすくいえば、大過去のブッダ(覚醒者たち)と永遠存在としてのゴータマ・ブッダが時間と空間をこえて概念的に同一視されたのである。 

≪044≫  過去七仏は同一人物ではない。しかし、何かの深い共通性があってしかるべきである。そこで七仏たちは「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪をなさず善を行い、みずからの心を浄めることが諸々の仏の教えである)を共通の教えにして、世界の救済を確信していたのだとみなされた。この共通のコモンセンスを「七仏通戒偈」という。 

『ブッダたちの仏教』

≪045≫  インドからセイロン(スリランカ)をへて南方に伝承したパーリ語の聖典系では(南伝仏教=テラワーダ仏教)、過去仏の見方がさらに広がって、過去になんと24ものブッダたちがいて、ゴータマ・ブッダはその25番目だったというような、過去二五仏説が提唱されるまでになった。べらぼうだ。あまり知られていないことかもしれない。 

≪046≫  一方、未来仏についても『転輪王経』で、今後の荒廃した時代にサンカという転輪王が出現して正しい法を求めることになるのだが、そのときゴータマ・ブッダはかねての計画通り、弥勒(メッテッヤ)という世尊を正等覚者として世にさしむけるはずだと説いた。『増一阿含経』も、未来久遠の時代に兜率天にいた弥勒菩薩(菩薩行をしていた弥勒)がこの世に編まれた無上道を悟って弥勒仏になると説いた。 

≪047≫  遠い未来に弥勒仏が想定されたのだ。このような見方はのちに『弥勒下生経』といった偽経にまで発展する。菊地章太『弥勒信仰のアジア』(1313夜)を読まれたい。 

≪048≫  なぜ、こんなアクロバティックな見方を通したのか。過去仏といい未来仏といい、大乗仏教はブッダをなんとかして永遠の存在として絶対化したかったのだ。ぼくはこれも宗教としては当然の編集構想だったと思っている。 

『ブッダたちの仏教』

≪049≫  ふえすぎたブッダをめぐっては、さまざまな議論が噴出した。それもやむをえないことだろう。なかで、もともとのゴータマ・ブッダはそんなにも広大な過去・現在・未来をまたぐ時空で、いったいどんなような在り方で君臨しているのかという問題が浮上した。  

≪050≫  ブッダがマルチバースになったことをどう説明するかという問題だ。ここに新たに「仏身論」という見方が登場する。  

≪051≫  仏身(ぶっしん)とはブッダの体のことである。実際の肉体のこともあるが、理想化された身体のこともある。しかし、何人ものマルチバースなブッダがいるとなると、話はややこしい。 

『ブッダたちの仏教』

≪052≫  まずはゴータマ・ブッダが涅槃に入ったからには、その身体をどう解釈するかという問題があった。死者なのである。磔刑になったキリストの身体が長らく議論の対象になったように、ブッダの身体も容易には語れない。 

≪053≫  そこで初期経典の『如是語』(イティヴッタカ)では、二種類の涅槃が説かれた。涅槃(ニルヴァーナ)とは「吹き消す」という意味の言葉で、煩悩を吹き消した状態が涅槃なのだが、その涅槃に二種類があるとしたのだ。 

≪054≫  ひとつは「有余依涅槃」(うよえねはん)というものだ。ブッダは修行のうえ煩悩を滅して解脱したけれど、いまだ五種の感官はのこっていて、そのため楽と苦を感じている涅槃の状態にあるとするという見方である。もうひとつは「無余依涅槃」(むよえねはん)というもので、解脱をしたのちはなんらの執着の束縛をうけていない涅槃状態だということにした。  

≪055≫  あまりにも便宜的ではあるが、執着の残余によって涅槃を区分することにしたわけだ。肉体に束縛をうけた涅槃と、その束縛をこえた涅槃的身体とがあるとしたわけだ。 

≪056≫  これは肉体には不完全性があるという見方の強調でもあって、このあとの仏身論にさまざまな影響を与える。この工夫もキリスト教における三位一体論などに匹敵するもので、ぼくはどうしても必要な仮説だったろうと思っている。  

『ブッダたちの仏教』

≪057≫  少し解説を加えておくが、ブッダ在世時の原始仏教では、涅槃は死とは関係なく、生存中に体得できると考えられていた。けれどもブッダの現実の死に臨席した仏弟子たちは、その死はたいへん感動的なものだったので、涅槃(ニルヴァーナ)であったとみなすふうになったのである。 

≪058≫  当時は「般涅槃」(はつねはん)とか「大般涅槃」と言っていた。「般」とは完全を意味する接頭辞で、煩悩を完全に滅却させたという意味をもつ。弟子たちはブッダの死(=涅槃)こそがその完成だとみなしたのだ。いいかえれば、ゴータマ・ブッダにあっても、生きているあいだは肉体が煩悩への執着を切り離せなかったとみなしたのだ。 

≪059≫  さあ、そうなると、ここにゴータマ・ブッダの体は最低でも二つあることになる。奇妙なことのようだが、キリスト教でいえばイエスの身体とキリストの霊性を同時に想定したようなものだ。二つあってもおかしくはない。仏教のばあいは「生身の仏身」と「解脱された仏身」の二つである。 

≪060≫  しかし、ゴータマを分断したといえば、分断したのだ。それなら、この二つの分断をどのように説明するか。そこでついでは、生身の仏身を「色身」(しきしん)とみなし、深い真理に到達して涅槃となった仏身のほうを「法身」(ほっしん)とみなすことにした。そう見れば、過去にも未来にもブッダの法身はあまねく広がれる。ということは法身が複数に遍在しているということになる。 

『ブッダたちの仏教』

≪061≫  そのうち、そんなふうにあまねく遍在する数々の法身にまったく区別がないままでいいのか。みんな同じ法身なのか。そんなことはあるまいという議論が出てきた。 

≪062≫  大乗仏教に『法華経』や『華厳経』などの大乗経典が生まれ、4~5世紀になると、華厳の巨大なビルシャナ仏(ヴィロチャーナ)などが崇められる信仰が発展していったのだが、その影響も大きかった。では、そういうビルシャナ仏とは誰なのか。仏身だとしたら、どういう変化をおこした仏身なのか。 

≪063≫  こうして仏身には、法身のほかに「報身」(ほうじん)と「応身」(おうじん)があるということになった。 

≪064≫  法身は法性(ほっしょう)ともいうべき真理体そのもので、人格を有しない仏身である。報身はブッダになろうと修行を重ね、それによって完全な功徳を備えた仏身のことだ。応身は衆生(しゅじょう)の救済のためにこの世にあらわれた人格をもった仏身のことをさすというふうにした。このように法身・報身・応身というふうに仏身が変化する見方を「三身説」という。 

≪065≫  苦肉の策のようだが、これがみごとに功を奏した。ほかに「法身・解脱身・化身」に分ける説、「自性身(じしょうしん)・受用身・変化身(へんげしん)」に分ける説も唱えられるに至った。少々レトリカルにもアナロジカルにも見えるだろうが、むしろ、ぼくはこのあたりの説明こそ21世紀にもっと露出するべきだろうと思っている。 

『ブッダたちの仏教』

≪066≫  仏教はインドでのみ発展していったのではない。さまざまな土地と時代で信仰され、そのつど編集されていった。南伝して東南アジアで編集され、北伝して西域・中国・朝鮮半島をへて日本でも編集された。 

≪067≫  西域から中国に向かった信仰の中からは浄土教のムーブメントがあらわれた。もともとはインドで編まれた『無量寿経』と『阿弥陀経』にもとづいた信仰なのだが、これに西域あたりで編纂された『観無量寿経』が加わって(浄土三部経と総称される)、新たに阿弥陀仏と西方極楽浄土と往生思想をアピールしたのだ。詳しいことはリチャード・フォルツの『シルクロードの宗教』(1428夜)などで紹介しておいた。 

≪068≫  浄土信仰は、またまたこれまでにない仏教動向だったのだ。仏教はついに「他方仏」と「他方世界」をもったのである。 

『ブッダたちの仏教』

≪069≫  浄土信仰や阿弥陀信仰は、のちの密教の出現とともにかなり斬新だ。もともと仏教には「三千大千世界」や「須弥山世界」という世界観があった。ヒンドゥイズムから継承したところもある。  

≪070≫  その三千大千世界のすべてに普遍的に君臨するとみなされたのが華厳のビルシャナ仏である。日本では東大寺の大仏がその姿をあらわしている。大仏(毘盧遮那仏)は蓮弁に坐しているのだが、その蓮弁にはことこまかに三千大千世界や須弥山のディテールが毛彫りされている。 

≪071≫  のちに密教はこのビルシャナ(ヴァイロチャーナ)をさらに普遍巨大化して、さらに普遍的な大日如来(マハー・ヴァイロチャーナ)を登場させた。 

≪072≫  これらは全世界に君臨する仏だが、各方面にいらっしゃる仏もいるのだと考えられたのだ。それが東方の薬師仏や西方の阿弥陀仏になった。それぞれ東方瑠璃光浄土、西方極楽浄土をマネジメントしているとした。これを「他方仏」という。地方仏ではなく、他方仏だ。ブッダたちはついに近所の山の向こうにおはしますことになったのだ。 

『ブッダたちの仏教』

≪073≫  浄土教は敦煌などの浄土観とともに中国に入り、さらに日本にやってきた。阿弥陀信仰はとくに日本で重視される。浄土教や浄土真宗だ。千夜千冊では、法然(1239夜)などを通して説明しておいた。 

≪074≫  そこからは「往生」という「向こうへ行って生きる」という見方が普及した。一人一人の衆生(しゅじょう)、すなわち個人が浄土に行けることになったのだ。それも称名念仏を唱えるだけでも約束された。日本仏教にこのような特色があらわれたことも、正真正銘のブッディズムなのである。きわめてソフィスティケートされた仏教だ。 

≪075≫  というわけで、仏教は「たくさんのブッダたち」を、時間と空間をともなって、また数々の仏身をともなって、つくりだしてきたのだった。ぼくは仏教関係者たちがこのことについての説明を、もっとしやすいようにしていったほうがいいと思ってきた。  

≪076≫  日本にはどこにでも仏像がある。そのいちいちの背景をそろそろ愉しむようになったほうがいいのではないか。そのうえで、あらためて言うけれど、21世紀はぜひにも仏教の世紀であってほしいのである。 

本日の一冊

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