和室-魂

風情・居心地を味和う

棲・済・住・澄・

参照資料(千夜千冊)

読書・独歩 目次 フォーカシング

≪01≫ 「私は屋根裏の借部屋で啞であっても、また一本の苔であっても差支えないような日々を送っている」。「私は枯れかかった貧乏な苔です」

≪02≫  こんなことを書ける少女は、かつて一人しかいなかった。小野町子こと尾崎翠だ。小野町子を主人公に仕立てた『第七官界彷徨』(岩波文庫)では、町子の兄に「みろ、人類が昼寝のさめぎわなどに、ふっと蘚の心に還ることがあるだろう」といったセリフも吐かせている。この兄は「じめじめした沼地に張りついたような、身うごきならないような、妙な心理だ。あれなんか蘚の性情がこんにちまで人類に遺伝されている証左でなくて何だ!」とも言う。

≪03≫  尾崎翠の実際の三兄が東京帝大の農学科で肥料研究をしていたのである。翠は鳥取県の岩井(現在の岩美町)の生まれ育ちで、その名も不思議な面影小学校などの学校や女学校を出たあとは代用教員などをしていたのだが、この兄(史郎)を頼って上京すると、渋谷道玄坂の下宿に入って文章を書き始めた。そして昭和8年には『第七官界彷徨』をひっそりと世に問うた。

≪04≫  たとえば「蕗のような女」なら一葉がいた。長谷川時雨は「蕗の匂いと、あの苦み」というふうに、樋口一葉を形容した。ぴったりだ。けれども「苔のような少女」はなかなかいない。尾崎翠がひとり先駆した。翠は、苔たちが一斉に胞子を飛ばして「遂ニ其ノ恋情ヲ発揮スル」という幻想的で大胆な様子すら綴ってみせた。

05≫  尾崎翠のような感性の女性はめったにいないだろうな、もう再来しないんだなと思っていたら、いっとき戸川純に苔少女の風を感じた。《玉姫様》や《蛹化の女》などを聞かせてくれた。そこに、ごく最近になって苔少女ならぬ苔ガールがあらわれてきた。田中美穂である。

06≫  本書は『苔とあるく』という。その75ページの左上に、デレク・ジャーマンの庭のコケを撮った小さなカラー写真が載っている。ドーバー海峡に程近いダンジェネスの、あの家だ。稀代の映像ホモセクシャルらしく、大きな鉄鍋のような容れ物に多肉植物やら石ころやら雑草やらとともに、ついでに苔たちも「飼っている」ふうだった。

07≫  本書はれっきとしたコケボン(苔本)である。苔の育つ日々を丹念にフィールド観察している心優しい本であって、初心者にもわかりやすく苔に親しむ手立てがルーペ片手にいろいろ綴られている。微小な苔を見つめる写真も多い。そういうコケボンにデレク・ジャーマンの妖しい生態趣味を示す写真がこっそり載っているのが、気にいった。

08≫  この著者はそういうことができる苔ガールなのだ。この人には本はネコで、ネコはコケなのであるらしい。ついでにコケはカメで、カメは本なのだ。「本=ネコ=カメ=コケ=本=デレク・ジャーマン=コケ」という式である。

09≫  ちなみに出久根達郎は直木賞作家でもあるが、杉並の古本屋「芳雅堂」の店主として名高い。中卒の集団就職で上京して月島の古書店に勤めたのが病み付きになって、その後は古本に関する含蓄と洒落に富んだ著作を次々に綴っていった。『古本綺譚』『古書彷徨』『古書法楽』(いずれも中公文庫)をはじめ、『本のお口よごしですが』『佃島ふたり書房』(いずれも講談社文庫)など、出久根本を一度読んだらどうしても古本屋をやりたくなるようなエッセイだ。きっと女性たちには『本があって猫がいる』(晶文社)や『半分コ』(三月書房)など、とてもじっとしていられまい。

010≫  きっかけがあった。「彷書月刊」の編集長の田村治芳がやっていた古本屋の風情をテレビの画面で偶然に見て、何かに打たれて付けたのだという。「なないろ文庫ふしぎ堂」という古本屋だ。この感覚を店のお名前に頂戴したかったようだ。まさにこのあたりが小野町子を受け継ぐ苔ガールっぽいところだろう。「彷書月刊」はぼくもときどき愛読してきた小雑誌で、かつて「遊」についての原稿を書いたこともある。

≪011≫  その「なないろ文庫ふしぎ堂」の映像は、出久根達郎の仕事を特集している番組に登場した。田中さんは大いに感じ入リ、これがきっかけで大原美術館の近くの古民家を借り、かなり「好きずくめ」の古本屋に仕立てていった。ネコもカメもしっかり同居した。そんな古本屋づくりの決意と苦労の一部始終は『わたしの小さな古本屋』(洋泉社→ちくま文庫)に書いてある。あまり儲かっていないようだけれど、「意地をもって維持する」というつもりでやっているらしい。

012≫  ちなみに出久根達郎は直木賞作家でもあるが、杉並の古本屋「芳雅堂」の店主として名高い。中卒の集団就職で上京して月島の古書店に勤めたのが病み付きになって、その後は古本に関する含蓄と洒落に富んだ著作を次々に綴っていった。『古本綺譚』『古書彷徨』『古書法楽』(いずれも中公文庫)をはじめ、『本のお口よごしですが』『佃島ふたり書房』(いずれも講談社文庫)など、出久根本を一度読んだらどうしても古本屋をやりたくなるようなエッセイだ。きっと女性たちには『本があって猫がいる』(晶文社)や『半分コ』(三月書房)など、とてもじっとしていられまい。

≪013≫  ぼくはまだ「蟲文庫」を覗いていない。この10年、倉敷に行く機会は何度かあったのだが、うまく立ち寄れなかった。けれどもウェブや写真で見るかぎり店の雰囲気はたいへん好もしい。編工研の小西静恵は訪れていた。

≪014≫  倉敷市役所に勤めてイシス編集学校の師範代をやってくれている香西克久クンの話では、いまや倉敷では知る人ぞ知るお店で、友部正人・あがた森魚・杉本拓らのミニライブも粛々とやってきたようだ。そういう店主のそこはかとないセンスに女性読者や若いファンが誘われているのだという。だったらこの店の片隅にデレク・ジャーマンの本があるのは当然だろうし、コケボンにイギリス苔の写真が紛れ込むのも当然だった。

015≫  慌てて訂正しておくが、この人は妖しい本ばかりを綴ったり売ったりしているのではない。さっきも書いたように田中のもともとのネイチャーは「本=ネコ=カメ=コケ」なのだから、『亀のひみつ』(WAVE出版)という愛おしい著書もある。ネコとカメとホンとコケ。この4つ揃えセットで暮らしを営んできた。こういう人のコケボンだから、ぼくも千夜千冊に摘まみたくなったのだ。

≪016≫  なぜだかは知らないが、最近になって急にコケに関する本がふえてきた。いい兆候である。ぼくのセーショーネン期は、せいぜい保育社の文庫サイズのカラーブックスとちょっと大きな厳しい植物図鑑くらいしかなかった。文庫サイズは長田武正の『こけの世界』(保育社)で、カラーブックスには同じ著者の『人里の植物』ⅠⅡなども入っていた。あとは植物図鑑の蘚苔類のページを時計職人のように凝視するしかなかったものだ。あのころの図鑑というと、岩月善之助・水谷正美コンビの『原色日本蘚苔類図鑑』(保育社)とか井上浩の『日本産苔類図鑑』『続・日本産苔類図鑑』(築地書館)とかだ。

017≫  盛口満さんの『シダの扉』を千夜千冊したときに書いておいたように、ぼくは元来の「シダ派コケ党」だ。20代半ばまではどこかの林や森に入ると、たいていシダかコケかを引っこ抜き新聞紙に包んで持って帰ってきた。でも、詳しく苔調べをするようなことはしなかった。

018≫  そのうち気がつくと、新しいコケボンが目に付くようになってきた。定番となった井上浩の『フィールド図鑑・コケ』(東海大学出版会)や秋山弘之の『コケの手帳』(研成社)が出回って便利になってきたからだろう。とりわけ2004年に秋山さんの『苔の話』(中公新書)が登場したときは、これで地べたが好きなコケミン(コケ派の市民)がだんだん出てくるだろうなと思わせた。超マジメに蘚苔植物学を案内した本なのだが、新書になっているのが新しい。

≪019≫  かくて、この数年はコケボンが目立ってふえてきた。樋口正信の『コケのふしぎ』(SBクリエイティブ)、このは編集部の『コケに誘われコケ入門』(文一総合出版)、モコモコ・うるうる感覚でコケ浸りを誘う大石善隆の『苔三昧』(岩波書店)、はては戸津健治・佐々木浩之の『苔ボトル』(電波社)なんていう卓上に苔を飾るための案内書などなどが、書店に並んだ。苔もついにアイドルになったのである。

020≫  田中さんも『苔とあるく』の次に『ときめくコケ図鑑』(山と溪谷社)を上梓した。「ときめくシリーズ」の中の一冊で、この人にしてはとてもオーソドックスな一冊だったけれど、やはりのこと伊沢正名のすばらしい写真がふんだんに載っていた。

021≫  さて、苔はどこがカッコいいかというと、これは議論の余地なんかない。「やたらに小さい」「万事万端、水っぽい」「みんなで暮らしている」「光を取るくせに光を避ける」「地球史を知っている」。

≪022≫  苔のしくみもかなりユニークである。まずは根がない。かりそめの「仮根」が控えめにあるだけだ。だからすぐに土から抜ける。根だけでなく維管束もクチクラ層もない。一般的な植物とはそこが違っている。仮根は水分や栄養分を吸うためではなく、土やコンクリートにへばりつくためのものなのだ。こんな根っこのない植物なんて、めったにない。独創的だ。

≪023≫  そもそも陸上植物は、海中のシアノバクテリアに始まった藻類が古生代シルル紀で陸上化してシダ植物になっていったのが、すべての発端だった。このシダ植物時代のどこかから、地面にへばりつくような蘚苔類が分岐した。シダとコケがなかったら陸上植物はなかった。そういうふうに登場してきたコケだから、育ち方も妙である。1個の胞子が水と光で発芽すると糸状の原糸体を伸ばし、これが何度も分枝をくりかえして地面に広がっていく。この原糸体のところどころに芽がはえて小さな茎になる。

≪024≫  茎が成熟してくると生殖器官ができて、造卵器には1個の卵が、造精器には多数の精子が用意される。精子は鞭毛をもって水の中をちよちよ泳いでいく。のちに発達する種子植物ならば花粉が精子の役割を担って空気中を飛んで交配が進むのだが、コケの精子は水中をちよちよ泳ぐだけ。コケが水分のある地面を這うようにしか繁茂しないのは、このせいだった。

≪025≫  受精した卵は細胞分裂しながら胚になる。胚は成長して胞子体になり、その先端をふくらませて「蒴」となって胞子囊をつくり、そこで育った胞子たちが原糸体をつくり、そこからまたコケの芽が出てくる……。こういう循環のくりかえし。

≪026≫  こうしたプロセスの中で、いったい蘚苔類はどうやって栄養をとっているのかが気になるが、どうやら水以外の養分には無頓着なのだ。田中美穂は「霞を食っている」と言いあらわしていた。なるほど、それならコケ仙人だ。たしかに根がないところも、霞を食うところも仙人じみている。こんなふうに考えていると、老壮思想こそコケにふさわしい。

≪027≫  わが家はときどき法然院(京都・東山)で法事や句会をしていた。冬なら椿の落ちているのが目を奪ったが、ふだんは緑の苔が美しい。母が「スギゴケとかオキナゴケと言うんよ」と教えてくれた。スギゴケは感じが摑めたがオキナがわからなかったのでキナコのようなものかなと思っていたのだが、のちに「翁」のことだと知った。正式にはホソバオキナゴケという。

≪028≫  オキナゴケ(翁苔)めいたものは苔寺こと西芳寺にもびっしりうねっていた。こんなに美しく波打つ植物群はほかにはないことを初めて知った。京都にいた頃はちゃんと見ていなかったので、大学時代に銀閣や青蓮院や詩仙堂のコケなどとともにとっくり眺めた。尾崎翠ではないが「恋情」が一斉に地面に降りてきた。

≪029≫  虚子はそんな苔寺で「禅寺の苔をついばむ小鳥かな」と詠んだけれど、たいした句ではなかった。句にならなかったのではないか。虚子ならまだしも「水打てば沈むが如し苔の花」か。実際には苔には花はないが、「苔の花」だと季語になる。蒴が「苔の花」に見えたりするのだ。

≪030≫  苔寺のような「苔庭」に棲息しているのは大半が蘚類である。そのなかでもスギゴケが多い。今日、新たに苔庭をつくろうとする作庭師たちもほとんどの場合、オオスギゴケかウマスギゴケを使う。

≪031≫  コケは植物分類上は蘚苔類に属して、菌類・藻類・地衣類と区別される。キノコやカビの菌類は「菌糸」という糸状の細胞からできているが、光合成はしないから従属栄養体だ。シダやコケは独立栄養体なのである。藻類は見かけがシダやコケに似ているようでも、大半が単細胞で、多細胞で胚をもっているコケとはちがう。同じく胞子で繁殖するコケとシダは、シダが維管束をもっているところが大きな違いなのである。

≪032≫  蘚苔類は蘚類と苔類とツノゴケ類に分かれる。蘚類にはスギゴケやオキナゴケやハマキゴケや、町の中でもよく見るハイゴケなどがある。苔類を代表するのはゼニゴケやウロコゴケやジャゴケや、ちょっとファンタジックなコマチゴケなどだ。ゼニゴケはこびりつくような印象なので評判が悪く、母も庭のゼニゴケには警戒していた。

≪033≫  ツノゴケ類はあまり名前が知られていないが、ひゅるひゅるっとマッチ棒のようなツノ(胞子体)が出ているのですぐわかる。よく見ると、ツノは成長してくるとねじれて、そこから胞子が外出する準備をする。蘚類は胞子体のちがいによって、苔類は体制のちがいによって特徴分類されてきた。1つの胞子から複数の茎葉体が仕上がっていくのが蘚類で、「弾糸」がなくて「帽」がある。そこにちょっと立ち上がっていくタイプと、匍匐していくタイプとができた。苔類は弾糸があって葉緑体がない。分類には茎葉体と葉状体の形のちがいが決め手になってきた。

≪034≫  日本にはざっと1700種ほどのコケが生息する。世界にはこの10倍の2万種が分布する。とくに亜熱帯から熱帯にかけてはモッシー・フォレスト(蘚苔林)が繁茂して、ネジクチスギゴケをはじめ巨きなコケが波打つ。日本なら屋久島だろう。

≪035≫   いま、ぼくが住んでいるのはマンションの一階の角で、北と東に面したL字の幅庭がある。白梅、サルスベリ、カエデ、椎の木、モチの木などが植えられている。とくに苔むしているわけではないが、それでも調べてみるとギンゴケ、ホソウリゴケ、北側にはタチゴケやウロコゼニゴケなどが着々と生きている。なぜか3匹の猫たちは、この苔のところにはほとんど立ち寄らない。ネコ派の苔ガールの田中さんは、この苔が苦手のネコたちをどう見るのだろうか。

≪036≫  ところで、やや異色な本ではあるが、ぼくがこれまで読んだ苔本のなかで最も瑞々しい体験をさせてくれたのは、ロビン・ウォール・キマラーの『コケの自然誌』(築地書館)だった。この著者はニューヨーク州立大学の環境森林科学のセンセイで、学生たちに植物学を教えている。ポタワトミ族の出身でもあって、アメリカ中の都市生活に混じっているネイティブ・インディアンの末裔たちの習慣や生態と交流しつづけてきた。だからどんな植物にもどんな野生の自然にも強いのだが、そのキマラーが一番ぞっこんなのがコケなのである。  

037≫  キマラーの苔学はたいへん興味深い。なかでも2つの観察態度を貫徹するところがとびぬけている。ひとつは「苔は看るのではなく聴くものだ」という態度、もうひとつは「岩から入って苔に至る」という視点だ。日本ふうに言うのなら「岩清水の苔学」ともいうべきフィーリングだろうが、キマラーはこの見方に徹した苔学者なのである。しかも文章がやたらにうまい。『コケの自然誌』は19章になっているけれど、いずれもが珠玉の短編小説のようなノンフィクションなのだ。

≪038≫  アメリカにはヘンリー・ソローやラルフ・エマソンこのかた、「ネイチャーライティング」(nature writing)という確固たる文芸分野がある。これは自然観察文学ともいうべきもので、長らくトランセンデンタルでロマンチックな文芸としての伝統をもってきた。この分野に関するトーマス・ライアンの『この比類なき土地―アメリカン・ネイチャーライティング小史』(英宝社)という案内本もある。日本では『たのしく読めるネイチャーライティング―作品ガイド120』(ミネルヴァ書房)などがカバーする。

≪039≫  名だたる文学賞もある。有名なところではアメリカ自然史博物館が1926年以来、ジョン・バロウズ賞を贈ってきた。最近の受賞作ではソーア・ハンソンの『羽』(白揚社)やマイケル・ウェランドの『砂』(築地書館)などがよかった。存分に知と心をゆさぶってくれた。キマラーの『コケの自然誌』も2005年度のジョン・バロウズ賞の受賞作だった。

040≫  ついでながら『沈黙の春』のレイチェル・カーソンは『われらをめぐる海』(ハヤカワ文庫)などの、『本を書く』のアニー・ディラードは『ティンカー・クリークのほとりで』(めるくまーる社)などの、アメリカン・ネイチャーライティングの代表者の一人だった。環境哲学は、やはりシダやらコケから始まったほうがいい。

≪01≫  陳舜臣のものは食わず嫌いだったような気がする。それがいつのまにか嵌まった。 たしか『青玉獅子香炉』を読んで嵌まったような気がする。故宮博物館の文物疎開をあつかった香り高い話であった。直木賞の受賞作だった。

≪02≫  その後は、著者の中国ものをいろいろ読むことになったのだが、そのうちの初期に読んだ『小説十八史略』などは、なんだか中学生のときに三国志に夢中になったような気分にさえさせられた。

≪03≫  むろん何でもがおもしろいわけではなく、たとえば空海を描いた『曼陀羅の人』などはつまらなかった。が、中国ものはだいたいうまい。われわれが知らないことがさすがに突きとめられている。著者の名を高らしめたアヘン戦争についての小説やエッセイは、とくに考えさせられた。

≪04≫  この本は昭和46年にノンブックスの一冊として刊行されて、話題をよんだ。 イザヤ・ベンダサンこと山本七平の『日本人とユダヤ人』の大ベストセラー化にあやかって、おそらくは編集者がもちこんだ企画だったのだろうとおもうが、それを陳舜臣はまことにうまく料理した。

≪05≫  うまく料理しただけではなく、まえがきに「あとで嗤われるかもしれないのに、私はあえてこの本を書く」という決断にも満ちている。当時、日本人を中国人から比較してみせて、その限界や特質をはっきりさせるなどという試みは、まったくなかったからである。まして中国人の特質を簡潔に言い当てるなど、当時の日本人には至難の技だった。なにしろ文化大革命が失敗してまもなくの状況だったのだ。

≪06≫  いろいろなことが書かれている。 たとえば、無礼講は日本にあって中国にない。中国人は他人に見えるところで食事をしたがる。中国人はカタログ・マニアで、日本人は保存したがりである。日本よりも中国のほうが格段にメンツ(面子)を重視する、すなわち徹底した形式主義である。日本は役に立つものをすぐ入れたがるが、中国では実用性だけでは文化をつくらない。ようするに新しいものを入れるのについて、中国人は慎重すぎる、つまりは用心深い。日本人は気心を知ることを重んじるが、中国人は説得を重んじる。

≪04≫  この本は昭和46年にノンブックスの一冊として刊行されて、話題をよんだ。 イザヤ・ベンダサンこと山本七平の『日本人とユダヤ人』の大ベストセラー化にあやかって、おそらくは編集者がもちこんだ企画だったのだろうとおもうが、それを陳舜臣はまことにうまく料理した。

≪05≫  うまく料理しただけではなく、まえがきに「あとで嗤われるかもしれないのに、私はあえてこの本を書く」という決断にも満ちている。当時、日本人を中国人から比較してみせて、その限界や特質をはっきりさせるなどという試みは、まったくなかったからである。まして中国人の特質を簡潔に言い当てるなど、当時の日本人には至難の技だった。なにしろ文化大革命が失敗してまもなくの状況だったのだ。

≪06≫  いろいろなことが書かれている。 たとえば、無礼講は日本にあって中国にない。中国人は他人に見えるところで食事をしたがる。中国人はカタログ・マニアで、日本人は保存したがりである。日本よりも中国のほうが格段にメンツ(面子)を重視する、すなわち徹底した形式主義である。日本は役に立つものをすぐ入れたがるが、中国では実用性だけでは文化をつくらない。ようするに新しいものを入れるのについて、中国人は慎重すぎる、つまりは用心深い。日本人は気心を知ることを重んじるが、中国人は説得を重んじる。

≪07≫  まあ、こういったことがいろいろ列挙されている。列挙されているといっても、文脈がちゃんと展開されていて、そのなかで議論されているといったほうがいい。

≪08≫  けれども、これらのことはそれほど重要なことではない。民族のちがいや習慣のちがいなど、どんな民族間にもあるものだ。そういうことばかりに注目しすぎると、日本人は顔を拭くのにタオルを動かすが、中国人は顔のほうを動かす、ええっ、ホントー? ウッソー! ということでおわってしまう。

≪09≫  著者が言いたかったことは、このようなオモテに見える両国の特徴のことではなく、日本と中国は意外なほどに相互理解をしてこなかったのではないかということなのである。 ただし、なぜそのようになったかということは、本書ではあきらかにされてはいない。その問題はわれわれが考えるべきことであるようだ。

≪010≫  ところで、中国人による日本論というものは、驚くほど少ない。 最も有名なのは黄遵憲の『日本国志』『日本雑事誌』と戴季陶の『日本論』あたりだろうが、これとて1887年と1928年のものだった。黄遵憲は明治のはじめに日本に来た清国公使館の書記官で、詩人でもある。

≪011≫  後者を書いた戴季陶は、16歳で日本に来て法政大学に学び、のちに孫文の秘書と中日通訳をつとめた。宮崎滔天が「日本人より日本語がうまい」とほめたほどの日本通だった。

≪012≫  それ以来、充実した本格的な日本論は書かれていないのである。やっと最近になって日本文化論や日本史論が出てきたばかり。どうもこのへんの日中事情には、かなり急がなければならない問題がはらんでいるようだ。

≪013≫ 参考¶この本には『日本的・中国的』(祥伝社)という続編もある。こちらもなかなかおもしろく、とくに田岡嶺雲と嘉納治五郎にふれたくだりなど、多くの日本人が知らないことがよく示唆されている。なお、中国人と日本人を比較している本で、中国側が書いたものとして、孔健の『日本人の発想・中国人の発想』(PHP文庫)や『日本人は永遠に中国人を理解できない』『日本人と中国人、どっちが馬鹿か』(講談社)があるが、どうも正確な評価がしにくい。

≪01≫  高城剛は1964年に葛飾柴又に生まれた。よく動く。いつも変装している。深く考えこんでいる。

≪02≫  ふだんは「フューチャー・パイレーツ」という100人ほどのソフトハウスを従えるベンチャー企業のリーダーだが、一人で世界を飛びまわって、誰とでもよく話しあっている陽気なネットワーカーでもある。拠点も表参道とロスアンジェルスの二つがある。

≪03≫  いまをときめくデジタル・プロデューサーであって、かつ体感派であるだけに、自分のシナリオをもっている。世の中のメディアがふりまく踊り文句には騙されない。話していると、いつもメリハリが効いていて、短期・中期のドリブン・メッセージが明確である。調査力と推理力にも一方ならぬ背景がある。

≪04≫  本書はそのような著者が「デジタル時代のポスト日本人」を模索した書き下ろし本で、ふつうならこの手の本は紹介しても1、2年で腐ってしまうことが多いのだが、おそらくは10年後の日本にも光っているとおもわれる。

≪05≫  ただし、あっというまに読めるものの、その提案と感覚を実行に移すには、人によってはちょっと時間がかかる。大胆なシナリオが練りこまれているからだ。たとえていえば、歌舞伎のシナリオは見ているだけでは掴めないが、自分でコンテかコマ割りかツリー構造を描いてみると、いろいろ見えてくる。いわばそういう内容なのである。

≪06≫  著者のコンセプトは「ポジティブな不安定」と「日本人らしい生き方」にある。そのうえに、リアルとヴァーチャルな独自の「庭」が確保され、好きな「移動」を自由におこしたい。どうすれば、そうなるか。著者が描くシナリオは次の通り。

≪07≫  まず、新しい世代が獲得しつつあるデジタル感覚を摘出する。ここをまちがうと全体のヨミがまちがってくる。それは、頭(感覚・感性)が「サビアタマ」をいちはやく引き出し、目と指(技法)がそこにいたる手続きをおぼえるという、すでにケータイ高校生が獲得しているものである。「サビアタマ」とは小室哲哉以降のJポップ・ミュージシャンがさかんにやっている作曲方法のことで、一曲のサビを冒頭にもってくることをいう。

≪08≫  なぜ、頭と指の連動が大事なデジタル世代の前提になるのか。ここには、連続的なツマミ型の感覚から非連続な早出しボタン型への決定的な飛躍があるからだ。これが本来の「オン・デマンド」ということなのである。つまりは「おいしいものを最初から食べられるシステム」ということだ。

≪09≫ そのおいしいものは、外にある。情報コンテンツは外にある。自分で培う必要はない。インターネットでいくらでも集まってくる。これによって長らく情報家電の到来と喧伝されてきた流れは、「家電」から「個電」へ、さらに「外電」(そとでん)へと向かっていく。“おたく”が“おそと”になっていく文化の可能性が、ここにある。このとき、システムの側はできれば“おそと”を手伝うエージェントを内蔵してほしい。

≪010≫  そこで高城が提案するのは、消費者・ユーザーの日々に出現しているフローティング・タイムを活用した時間ビジネスである。

≪011≫  すでに時間ビジネスはコンビニエンス・ストアが大成功をとげている。1、2時間ごとに商品の組み立てを変えている。利用者も自分の空いた時間にいつでも行ける。

≪012≫  これをデジタル世代のしくみにもっと生かしていく。そしてそこに、単発型のヒット商品ではなく、何度でもヒットが生まれうる複合型の「ヒット構造」をこしらえる。

≪013≫  そのためにはアメリカばかりを真似していたのではダメである。むしろ徹底して日本人らしい好みや価値観をはっきり掴む。たとえば、日本には今後とも在宅勤務はありえない。日本人は狭い家に住み、アメリカとはちがって遠くても2時間程度で通学や通勤をする距離感の中にいる。その「狭さ」を生かすのだ。その「狭さ」の中に「スマート・ガーデン」をつくるのだ。このスマート・ガーデンがシリコンバレーのガレージに代わるものになる。

≪014≫  また、日本人はギャンブルが好きで、性風俗が好きである。ラスベガスのようなものはないが、パチンコ屋と麻雀屋に代表されるように、どこにもギャンブルが待っている。つまり日本人は分散型で近隣有効活用型なのである。これは「狭さ」の特権である。それを生かしたい。アメリカのデジタル・モダニズムにばかり倣っていてはダメなのだ。

≪015≫  もうひとつ日本が得意なことがある。それは短所とも言われているものだが、メッセージの内容をちゃんと言うよりも、言い方を気にするという性質だ。「おまえ、その言い方はないだろう」というアレである。このことにがっかりする必要はない。これは、日本人がステップを重視するということであり、手続きのうまさに敏感だということなのである。これをデジタル日本人にも生かしたい。

≪016≫  だいたいこんなぐあいに、高城剛はデジタル社会における「一人でもがんばるポスト日本人」のシナリオを組み立てる。

≪017≫  かなりラフなものではあるが、それぞれの考え方や絞り方にコネクティビティがある。グローバル・スタンダードなど気にしていない。したがって、用語もおもしろい。

≪018≫  きっと高城は日本人が好きなのだろう。寅さんの町に育ち、ファミコンで遊び、コンビニで暮らした感覚が生きている。以前、高城と雑談をしているときに、「ぼくの日本人論は武士道なんです。いや、新武士道なんですよ」と言っていた。たしかにわれわれは、このところ“電装武士”というものに会ってみたくてしょうがなかったのである。

≪01≫  エンゲージド・ブディズムという言葉がある。「関与する仏教」とか「参加しあう仏教」といった意味だ。この言葉を世界にもたらしたのがティク・ナット・ハンだった。老師とよびたい。

≪02≫  名は体をあらわすという。ティク・ナット・ハンは体が名をあらわしている。語ること動くことが、まさに老師なのである。ベトナム禅の老師、世紀末と新世紀をまたぐ老師。鈴木大拙、ダライ・ラマと並び称される老師。

≪03≫  老師のことを、ベトナムではタイ(先生)という。過日、その老師先生の講演をゆっくりと聞いた。1995年のことである。禅を媒介にしたリトリートメントに近かった。老師先生は心に滲みる言葉と心を動かす行為と、そしてウィットをもっていた。こういう人物が“アジアの現在”にいることに、久々に誇りをもった。

≪04≫  著書も、格別にいい。本書でも、おもてむきは禅への入門を説いているようで、ときにハイデガーやレヴィナスをはるかに凌駕する哲学的思索を開示してみせ、ときに名状しがたい測度と深度をもって存在の内奥に連れ去る禅僧特有の加速力を見せている。ただならない。

≪05≫  ベトナムにはいくつもの禅寺院がある。ティク・ナット・ハンは16歳のときにそのひとつ、慈孝寺(トゥヒゥ)に入門した。

≪06≫  修行をおえてからは、禅僧としてベトナム社会福祉学校、ヴァンハン仏教大学の充立に与して、さらにティエプ・ヒエン教団(英語ではインタービーイング教団)の設立にあたった。これは仏教にいわゆるサンガ(僧伽)にあたる(いまこの教団は世界に少しずつ広まっている)。その一方で、コロンビア大学とソルボンヌ大学で教鞭をとった。

≪07≫  それだけでもたいへんな業績だが、教団設立後、ベトナムはアメリカとの壮絶なベトナム戦争に突入し、ナット・ハンは禅僧として苦悩した。が、当時の老師は仏教指導者であるよりも、自身、その僧衣にこだわらず、敢然と反戦運動に立上がった。そして『ベトナム――炎の海に咲く蓮華』や『ベトナムの叫び』といった真摯な本を次々に著して、ベトナム戦争に対する非暴力主義によるガンジー的闘争を呼びかけるに至っている。本書にも書いてあることだが、老師はガンジーを尊敬していた。ただ、「ガンジーはその思想よりもその存在こそが思想だった」と見ているように、老師もこのときは、仏教者というより反戦平和の闘志としての存在自身であることを選んだ。

≪08≫  しかし、状況はナット・ハンに有利とはかぎらない。老師は孤立する。

≪09≫  そのへんの事情の一端は、長年の弟子だったシスター・チャン・コン(真空)の自伝『真の慈愛に学ぶ』がヴィヴィッドに描写しているが、1966年にアメリカで和平提案のスピーチをしたため、ベトナム政府から“反逆者”の烙印を押されたことがきっかけで、結局はベトナムへの帰国が不可能になったようである。かくて老師はパリで亡命生活をおくることになる。

≪010≫  その亡命中のパリ生活のなかで書きおろされたのが本書である。ベトナム戦争を勝利に導いた英雄ボー・グエン・ザップ将軍がパリにいたころのこと、ベトナム戦争平和協定締結前後の日々だった。

≪013≫  老師がつかうキーワードはいくつもあるが、いちばん多くつかわれるのは「マインドフルネス」である。禅はつねに一瞬一瞬がマインドフルネスだというふうに説明される。ぼくの語感ではこの言葉はいまひとつ乗れないのだが、老師がつかう文脈でいうと、実際の語感は「気づき」といった意味になっている。

≪014≫  次によくつかわれるのが「インタービーイング」という言葉で、これは教団の名称にもなっている。いまふうに「相互依存的存在」と訳せるが(本書もそう訳している)、古典的な仏教用語でいえば「縁起」ということだ。縁起というも相互依存性というもインタービーイングというも、ともかくも今日の社会や人間にとっても最も重大な「はたらき」である。ナット・ハン老師の禅は「インタービーイングの禅」なのである。

≪015≫  老師は、仏教で「ひとつのもの」がダールマになりきってしまうことに危惧をおぼえ、むしろ「いくつものダールマ」がインタービーイングすることの必要を説いたのであったろう。ぼくは知らないのだが、12世紀のベトナムの禅林に活躍したダオ・ハンがやはりそういうことを言っていたらしい。「いくつものダールマ」が相互流入しあうというイメージは、ぼくも長いあいだ抱いてきたイメージである。ただし、ぼくは「縁起」という言葉をつかいまくってきた。そして、「縁起というのは互いにめくれあがってくるものだ」と言ってきた。

≪016≫  本書にはベトナム禅のエッセンスを告げるチャン・タイトン(陳太宗)の『課虚』が巻末に紹介されている。これは珍しい。「虚」は「空」のことである。

≪017≫  チャン・タイトンは13世紀の陳王朝の最初の王で、41歳で王位を息子のチャン・ホアンに譲り、2冊の著作『禅宗旨南』と『課虚』の執筆にうちこんだ。このあたりのことはティク・ナット・ハンの『ハミタージ・アマング・ザ・クラウド』(雲の中の庵)に時代背景とともに解説されている。

≪018≫  もうひとつ、本書の英文版の序文はフィリップ・カプローが書いている。カプローは日本で長期にわたって原田祖岳・安谷白雲に参禅して、1966年にニューヨーク州ロチェスターに禅センターをつくった。著書も多い。ぼくも会ったが、ふくよかな人格で、アメリカ禅を象徴する人物である。アメリカにおける禅運動のリーダーの一人だが、最近はフロリダに引退しているらしい。

≪019≫ 参考¶日本語で読めるティク・ナット・ハンには、本書のほか『ビーイング・ピース』(中公文庫)、『生けるブッダ、生けるキリスト』(春秋社)がある。訳者の藤田一照さんは東大で教育心理を学んだ後に、兵庫県浜坂の曹洞宗の紫竹安泰寺に入った人で、その後アメリカのマセチューセッツ州のヴァレー禅堂の住持として渡米、いろいろの指導にあたっている。ティク・ナット・ハンが来日したときは通訳をつとめていた。よく『大法輪』にアメリカの禅運動を紹介している。ティク・ナット・ハンの活動を詳しく知りたい向きは「プラム・ヴィレッジ」のホームページを見るとよい。

≪01≫  手元の岩波新書の第19版奥付は昭和35年になっている。わが高校2年のときにあたる。そうだった、これを布製のナップザックに入れて鎌倉を歩いたのだ。このとき居士林や覚園寺で座禅にも遊び、大量の鎌倉の写真も撮ったのだ。 

≪02≫  それにしてもこの年頃に禅を知ったこと、ほぼ同時に大拙を読んだこと、それが英文で書かれたものの和訳であったこと、これらはいま思うとかなり濃厚な“大拙禅ミーム”をぼくの体に染みこませていた。 

≪03≫  その後、禅語録は10冊以上に目を通し、禅の歴史にも禅の美術にも禅の庭にも、ようするに禅林文化のあれこれにそれなりに詳しくなったのだけれど、最初期の大拙禅のミームはいまもって生きている。ミームはちっとも廃れない。これが、青き時代の読書というものの影響の大きさをあらわしているのか、鈴木大拙という特異な禅学者がもたらす言葉の象徴作用の大きさなのか、そもそも禅というものはそのように最初のインプリンティング(刷りこみ)の体験に左右されるものなのか、いまとなってはそのあたりは因数分解しがたくなっている。 

≪04≫  ひょっとして本書が英文和訳の一冊だったことに何かの「染め色の秘密」とでもいうべきものがあるように思われるのは、ぼくが岡倉天心の『茶の本』や小泉八雲の『怪談』にやはり同様の染め色ミームを感じたからでもあろう。いや、実際にも本書は他の大拙の著作にくらべて、けっこうバイリンガルな禅味に富んでいた。 

≪05≫  いまでもよく憶えているのは、こういう語り口だった。 禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかというと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。 

≪06≫  そうやってやっと事物や現象にとらわれなくなったあるとき、ふっと大悲が自在に作用する。そのコンパッションの作用は禅仏教では無生物にさえ及ぶのだ。 

≪07≫  そんなふうに言っていたことをよく憶えている。こんなことを感受性の高い高校生が初めて聞いたら、身震いして感動するのは当たり前のこと、そのうえさらに、本書の大拙は次のように畳みかけたものだった。 

≪08≫  人間はそもそも「無明」と「業」の二つの密雲にはさまれて生きているものである。禅はこの密雲に抗って、そこに睡っている般若を目覚めさせる方法なのである、トランセンデンタル・ウィズダムはその間隙に出現する方法の智恵なのだ。諸君、その方法を知りたいなら、まず学校で習ったような順で物事を考えることをやめなさい。なぜなら、禅は「認識のコースを逆にした特別の方法」をもっている。そう言って大拙は突如として、だからこそ、「禅は夜盗が夜盗に学ぶようなものなのだ」と言った。 

≪09≫  これはのちにぼくも読むことになる『五祖録』からの引用だったのだが、突然に夜盗になれと言われても戸惑うだろうから、説明しておく。 

≪010≫  ある夜盗の父親が息子から夜盗のコツを教えてほしいと言われ、二人して目星の屋敷に忍びこんだ。父親は大きな長持を明けて息子にこの中の衣服を取り出せと言っておいて、そのまま蓋を閉め、庭に出るとやにわに「泥棒だ、泥棒だ」と大呼した。 

≪011≫  家人があわてて起き出したが泥棒はいない。困ったのは息子のほうで、長持から出るに出られない。そこでやむなくネズミが齧る物音をたて、家人が長持を開けたとたんに飛び出し、命からがら逃げ出した。 

≪012≫  這々の体で息子が戻って父親にひどいじゃないかと言うと、まあ憤るな、どうやって逃げたか話してみろというので、息子が一部始終を話すと、そう、それだ、お前はこれで夜盗術の極意をおぼえたのだ、と。 

≪013≫  こういう奇想な話を紹介し、大拙はすかさず「禅は不意を打つものだ。それが禅の親切というものだ」と説いたのである。親切が不意を打つことだなんて、わーっ、カッコいい、ものすごい。こんなことニヤリともせずに茶碗を片手で出すように言われれば、一介の青年、すぐに禅や禅林に憧れるのも無理はない。 

≪014≫  大拙が禅を英文で説いたことが世界に禅を広めた。それが同時にその後の現代日本人にやっと禅の入口と出口を指し示す好機ともなったことは、いまさらいうまでもない。 

≪015≫  ちょうど英語にも夢中になっていた高校生には、禅と英語が一緒にやってくるのは、なおさらにどぎまぎする未知の魅力になっていた。また、例をあげておく。たとえば、こうである。 

≪016≫  禅では、スピリットとソウルの行方だけが、ようするに気分の行方だけが焦点の課題なのである。それゆえ世間で通用するフォーマリズム(形式主義)、コンベンショナリズム(慣例主義)、リチュアリズム(儀礼主義)などは、これを捨てるところをもって、自己の精神を裸出させる。 

≪017≫  そうすれば、その本来にひそむアローンネス(孤絶性)とソリタリネス(孤独性)に裸形のものが還ろうとする。このアブソルートな孤絶が禅独得のアスセンチシズム(清貧と禁欲)の精神となるはずだ‥‥云々。 

≪018≫  こうした英日両用のチャンポン禅の説明は、当時、ぞくぞくするほど痛快だった。とくにぼくは本書によって、禅というものの本来が「一即多、多即一」であることを刷りこまれたために、こうしたチャンポン禅の説明が効いた。 

≪019≫  もう少し続けると、大拙はこう言った。禅が「一即多」になるのは、一方ではプリミティブ・アンクースネス(原始的無骨)やライフ・インパルス(生の衝動)を好むからである。けれども他方で、たえず師家が雲水たちをダイナミック・アイデンティフィケーション(動態的同一作用)の動揺に導き、たえず陥りがちになるロジカル・アンパス(論理的袋小路)を突破させている。この苛酷な稽古がやはり必要なのである、と。 

≪020≫  そこでは雲水が「一」に着こうとすると「多」が暴れ、「多」を引き取ろうとすると、それが奪われる。こういうことをくりかえしていると、「一が多であり、多が一であること」など、至極当然になる。そう言うのだった。 まったくカッコいい。それでいて、一切が本来無事である。 

≪021≫  こういうぐあいに、本書が鎌倉に遊んでいた高校時代のぼくに与えた一陣の風濤は、まことに迅速、かつ待ったなしの趣きだった。よくぞこの一冊をナップザックに入れたとおもう。 

≪022≫  しかし、のちに禅林文化に分け入り、大拙の著作を次々に読んだうえでふたたび本書に戻ったとき、なんだ、ぼくはまったく本書を読みこんではいなかったことも痛打させられた。 

≪023≫  読みこんでいなかったことはいくつもあったのだが、いまは二つに絞れば、そのひとつは、華厳哲学と禅の著しい親近性をすでに大拙が指摘していたことだった(華厳と禅とは「アマルガメーション=合金作用」になっていると大拙は本書で書いている)。これについてはその後のぼくも「華厳から密教へ」「華厳から禅へ」という二つの変化の“大研究”としてとりくんだ。その一部の成果が『空海の夢』(春秋社)の第26章になっている。 

≪024≫  もうひとつは、大拙が能・水墨画・茶・俳諧・日本刀などを例にして、日本文化のエステティック・アスピレーション(美的思慕)をずいぶん踏み込んで解明していたことだった。『禅と日本文化』という本書の表題からして、こんなことは当然に予想されることなのに、なぜかぼくは、禅そのもの唐突で根本偶然に満ちた未知の魅力には多大な関心をもったにもかかわらず、本書に日本文化のエステティック・アスピレーションにひそむ禅を嗅ぐということをしなかったのだ。しかし、改めて読んでみて、参った。とくに俳諧と禅である。 

≪025≫ 芭蕉のエピソードにこういう話がある。佛頂和尚のもとで参禅していたときのこと、和尚が突然に芭蕉の庵を訪れ、「近頃はどうしておられるかな」と問うた。それがきっかけで「今日」(today)とは何かという話になった。 

≪026≫  芭蕉は「今日」とは「雨が通り過ぎて青苔が潤っているようなもの」と答えた。和尚は「その青苔がまだ芽も生えていない時も、いま、あろう」と突っこんだ。ここまではよくある禅の公案に近い。が、このとき芭蕉がぽつんと放った言葉が、「蛙とびこむ水の音」だった。 

≪027≫  大拙はこのエピソードについて、キリスト教なら「アバラハムの生まれ出でぬ前より、我はいる」という神の回答に芭蕉がぶつかったようなものだと説明する。そして、キリスト教ならばここで「我は在るなり」(“I am”)ですむかもしれないが、禅仏教ではそうはいかない。その“am”の未生以前が問われる。それに応えようとしないかぎりは禅にならないと言う。 

≪028≫  キリスト教はどこかでポラリゼーション(分極)をおこせばよいわけである。神と人とは結局はどこかで分離する。だからこそ絶対唯一なる神がいつまでも残る。けれども禅はそうはしない。神も人も青苔も水音も、たちまち一緒になって、またそのそれぞれの「元々の時」に戻ってくる方法をもつ。これが道元の「有時」である。そう説明していた。 

≪029≫  大拙は、俳諧には禅の方法に達していることがしばしばおこっていると見たのである。それは、禅や俳諧が最初から「不確実性」ということを体現しているからである。だから禅はけっしてディスクリミネーション(分別)にはとらわれない。 

≪030≫  そう言って大拙は、芭蕉の「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」と、蕪村の「釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな」とをあげた。ぼくはかつて、このあたりを読んではいなかったのだ。 

≪031≫  大拙は、茶や能や俳諧が思想の表現に進まずに、直観の提示に徹したことを評価したのである。日本文化に出入りするワビ・サビ・シオリは「禅定のシノニム(同意語)」だろうと見たのである。 

≪032≫  それゆえ「寂び」を試みに“tranquillity”とも訳しているのだが、これをもう一度日本語にあてるなら、きっとそいつは「妙」とか「三昧」になるのだろうとも言っている。このセンスこそ大拙であり、日本文化はこのように扱うべきだったのである。 

≪033≫  ぼくは初読時には、こういうことに関心をもたなかった。いま考えると、俳句や能や茶は小さなときから慣れていたし、なぜにまたそこを禅で解いてみせた大拙に共感しなかったのか不思議だが、気がつくときは一気に気がつくことも、気づかぬときは何を言われても馬の耳に念仏だということなのだろう。 

≪034≫  以上、ここではただひとつのこと、ぼくが最初に出会った一冊とのかかわりだけを書いたにとどめたが、鈴木大拙についてはいくらでも書いてみたいことがある。 

≪035≫  とくに華厳と禅の関係は大拙の初期に宿っていた炯眼で、その後のぼくはこのヒントにどれほど鼓舞されたものだったか。いや、それ以外にもたくさんの叱正と教唆と震動をもらってきた。いずれそれらを禅語録体験などともに、まとめたい。 

≪036≫  鈴木大拙と西田幾多郎のことも深く突っこんでみたい。同じ金沢の生まれで、同じ明治3年の生まれだ。西田の『善の研究』は、大拙が好んで色紙に書く次の英文の2行そのものである。“To do good is my religion ; The world is my home” 

≪037≫  ビアトレス・レーンのことも書いておきたい。学習院と東京帝大で英語を教えていた婦人、のちの大拙夫人のことである。このベアトリーチェがいなかったら、大拙はリアルタイムの速度で世界に届かなかったろうし、ぼくもここまで大拙に溺れなかったかもしれなかった。 

≪038≫  きっとエーリッヒ・フロムを大拙の側から批判しておくことも必要なのだろう。いまはそのような作業をする気はないけれど、いっときぼくはフロムによって禅とフロイディズムに傾倒していたのだから、ここはいつまでも放っておけるものでもなくなっている。ようするに、いったい内なるレヴェレーション(啓示)とは何かということだ。外なる啓示なら天使ガブリエルさえ必要なのに、禅者の天使はカラス・カだけでいいのはどうしてなのか。そこをフロムにもフロイトにも、さらにはユングにも突き付けなおすということだろう。 

≪01≫  で、1700夜は何の本を選ぼうかなと思っていたのだが、しばらく前から華厳に関する一冊をとりあげようと決めていた。すでに681夜で『華厳経』をとりあげたのだけれど、これは韓国の高銀(コ・ウン)が善財童子による「入法界品」(にゅうほっかいぼん)を下敷きにして書き上げた小説の作品名だった。今夜は鎌田茂雄さんの『華厳の思想』にした。華厳全般の特色に及んでみたいのである。 

≪02≫  鎌田さんは中国仏教の専門家で、ぼくはずいぶん影響も受けたし、指南もうけた。ぼくの華厳理解はほぼ鎌田さんの導線と回路によるものだ。ちなみに1300夜は『法華経』を、1400夜は『アラビアン・ナイト』を、1500夜は柿本人麻呂をとりあげた。 

≪03≫  ちょっとしたウォーミングアップから始めるが、「華厳」(けごん)という不思議な響きの言葉はむろん漢語である。サンスクリット語では「ガンダ・ヴューハ」(Ganda-Vyûha)という。ガンダはたくさんの咲き乱れる華々のことを、ヴューハはそれらを思い切って飾り付けることをさす。 

≪04≫  この思いをまとめて「雑華荘厳」(ぞうけしょうごん)とか「雑華厳飾」(ぞうけごんじき)と漢訳してきた。「華厳」はこの四文字熟語を二字に縮めたものだ。咲き誇る多様な華々を荘厳することで「諸節における示現」をあらわした。華厳宗を大成した唐の法蔵に『探玄記』(華厳経探玄記)という、ぼくが夢中になった著作があるのだが(今夜は何度も覗くことになるが)、そこに「仏とはすなわち、果、円(まどか)にして覚、満ずるを言い、華とき万行を開敷するに譬え、厳とはこの本体を飾るに喩う」とある。 

≪05≫  ようするに多様性と複雑性を孕んだ仏教思想を飾りつけた極致が華厳なのである。飾りつけた世界は「蓮華蔵世界」と言った。今日風にいえば「華厳ネットワーク世界」だ。この多様性と複雑性に充ちたネットワークは生物学や物理学が言うように何かが分岐していって複合的なネットワークになったのではない。そのネットワークをつくる結び目の雑華の「宝果」や「つぼみ」のひとつひとつが相互に照応しあって複雑多様なのだ。複雑多様の部品が互いにつながりうるのである。 

≪06≫  かくて華厳といえば「相即相入」や「相依相関」ということになる。互いが互いに入りあう。それぞれが映しあって、融通しあう。縁起(密接な関係力)がめくれあい、重なっていく。だから華厳世界の特色を「一即一切、一切一即」とも「一入一切、一切一入」などとも言ってきた。 

≪07≫  こういう思想はヨーロッパの哲学や科学には、まず見られない。ホロニックとも言えるけれど、そうだとするとかなりのハイパーホロニックだし、複雑系とも言えるけれど、そこにアトラクターや特異点があるわけではない。ホロニックであるとすれば、それは如来のあらわれのせいで、アトラクターや特異点があるとしても、それらは信仰のスキルが生み出すものなのである。  

≪08≫  あらかじめ言っておくと、華厳学ではそんなふうになっていくことを円教(えんぎょう)に入るという。入るとどうなるか。「体」と「相」とが入りあい容れあって、「主」と「伴」とが隔てをなくし、多重にネットワークされた結節点(つぼみ)のすべてが円融で無礙(むげ)になる。そうなることが円教(完全なる教え)なのである。まことに香ばしく、まったく屈託がない。 

≪09≫ 

 だから華厳は、一言でいえば融通無礙の教えなのである。「礙」(碍)というのは「さまたげ」や「傷」や「邪魔」のことだから、華厳の世界観で円教無礙になるとは、妨げる礙が互いになくなっていくことをいう。相互に柔らかく交じりあっていくことが融通で、無礙なのである。 

≪010≫  思考のモジュールを動かしていくので、華厳思想はたくさんの思考言語を使いまくるのだが、その言語(概念)自体もダイナミックに相即相入をくりかえす。 

≪011≫  さきほどぼくが夢中になったと言った法蔵の『探玄記』に、華厳の円教の第一歩に入るというのは「総別・同異・成壊(じょうえ)」の三対が六相を見せながら隔てをなくして融け合っていくようなものなのだという説明がある。これは「華厳六相」とか「六相円融義」とよばれてきた有名なものなのだが、このへんが華厳の思考言語の代表的な使い方のひとつになる。  

≪012≫  華厳六相についてはあとでももう一度説明するけれど、「総別・同異・成壊」の三対とは「総=別、同=異、成=壊」のことをいう。「総じるか、別するか」「同じくするか、異なるとみなすか」「成していくか、壊していくか」、そこを問う。 

≪013≫  問うのだけれど、総か別か、同か異か、成か壊かを選ぶのではない。選ばない。放ってもおかない。それぞれを表裏一体に見て、その表裏ごと入ったり出たりさせる。そうなるように考え方を動かすのである。ヨーロッパ思想的にいえば、両義的に捉えるということなのだが、実は捉えるのではなく、そういうふうに仕向けていくわけだ。 

≪014≫  華厳はそういう相互相似的な世界観をあらわすために、「総別・同異・成壊」を組み合わせる宗教言語を使いつづけた。一読、まるで得体の知れない共鳴言語によるカレイドスコープのように思われるかもしれないが、それこそが華厳独特のポリフォニックな円融無礙の円教のあらわし方というものだった。その柔軟きわまりないハイパーシステムの円教が、如来をめぐる心身を自由に出入りするのが華厳というものなのである。 

≪015≫  このように華厳では、言葉づかいの上でも「相即相入=相依相関」の柔構造みたいなものをやたらに重視する。法蔵や澄観の華厳学を読むと(法蔵は華厳宗の第3祖、澄観は第4祖)、似たような用語がたえず接合と重合をくりかえして乱舞しているのがよくわかる。 

≪016≫  華厳になじむにはこの言葉づかいの雑華に分け入る必要がある。繁雑そうで微妙な文字づかいにもピンとくる必要がある。ぼくはそういうところに惚れたのだった。想定しうるかぎりの総合編集の極みに思えたのだ。 

≪017≫  ここで、驚くべき一枚の図をお目にかけたい。字図(文字ダイアグラム)である。新羅の義湘(ぎしょう)の「華厳一乗法界図」という図印だ。一枚の紙に総計210文字の漢字をタテヨコにきっちり並べてマトリックスにしたもので、華厳思想を自在に辿れるようにした。見ているだけで、溜息が出る(→図)。 

≪018≫  よく見ると、同じ文字がいくつも登場し、かつタテ・ヨコの連携が厳密に選択されている。ぼくはこれを最初に見たとき、たちまち心を奪われた。ライプニッツ(994夜)が陰陽易象パターンの組み合わせを初めて見たときも、そんなふうに興奮したにちがいない。が、華厳一乗法界図は易以上なのだ。 

≪019≫  驚くべき華厳字図をつくった義湘(ウィサン)のこと、その周辺の動きのことを書いておく。 慶州に皇龍寺という寺があった。1970年代に鋭意発掘されたのだが、結局は広大な寺址が広がるだけだった。瓦解して埋もれていたのだろう。 

≪020≫ 皇龍寺はかつては新羅で一番大きな寺で、日本でいえば東大寺にあたっていた。その裏に狼山(ロンサン)という山があって、皇福寺の三層の石塔がある(いまでもある)。義湘はこの狼山で20歳のときに出家した。生まれは新羅の真平王47年(625)である。 

≪021≫ 兄弟子に元暁(がんぎょう)がいて、お前は中国に行って本格的に華厳を学んでこいと勧めた。実直な義湘は必死の旅程で入唐して長安に着くと、終南山の至相寺で智儼(ちごん)のもとで華厳学を学んだ。智儼はのちに中国華厳宗の第2祖と謳われた。 

≪022≫ その弟子に法蔵がいた。義湘は法蔵とも学びあったと思われる。さきほども記したが、法蔵はのちに第3祖になった。その法蔵の弟子に新羅の審祥(しんじょう)がいた。この審祥から華厳の歩みは日本に向かってもいく。 

≪023≫ 審祥は聖武天皇に招かれ、金鐘寺(東大寺の前身)で日本で初めて『華厳経』を講じた華厳僧なのである。審祥のもとに良弁(ろうべん)が学んで、東大寺(金光明四天王護国之寺)の初代別当になり、日本の華厳宗が始まった。 

≪024≫ 義湘の入唐の様子は、明恵(みょうえ)上人とその一門のグループが丹念に描いた華厳絵巻こと『華厳宗祖絵伝』の義湘伝にやや悲恋ふうに讃えられている。 

≪025≫ それで「華厳一乗法界図」に話を戻すと、この210文字のマトリックスは華厳の世界観を示す画期的なマトリックスの試みで、それは『華厳経』が告示していた華厳の法界のアピアランスなのである。 

≪026≫ 華厳思想では、このような世界観と一体化している超越的な境地を昔から「法界」(ほっかい)といい、その究極の境地を「事事無礙法界」といった。ジジムゲホッカイと読む。 

≪027≫ なんとも奇妙な「事事無礙法界」という捉え方は澄観による表現だが、華厳の境地をこのような6文字であらわした。義湘はその法界を漢字一文字ずつの迷路のような脈絡図であらわしたかったのだ。 

≪028≫ 華厳思想は「法界」(dharma-dhâtu)という言葉をよく使う。法界(ダルマダートゥ)は華厳独特の世界現象すべてのことをいう。「真如、法性、実際」と訳すこともある。法界が華厳縁起の結実そのものなのである。だから華厳思想の最大の特色は法界縁起そのものにあるというほどだ。 

≪029≫ しかし法界はたんなる世界のことではない。うまく説明するのが難しいが、法によって界がつくられ、界によって法が充ちて真理の領域となった世界が法界なのだ。法界の「法」はもちろんダールマのことで、もともとは「ドゥフリ」という語根から出てきた。「保つ」とか「支える」という意味をもつ。仏教名詞になると、深遠な真如そのもののことになる。法界の「界」のほうは世界を動かしている「因」のことである。 

≪030≫ それゆえ法界は、因果をさまざまな界としてあらわしている法による真如の世界だということになる。一真法界などとも言う。 華厳宗初祖の杜順(とじゅん)は『法界観門』で、法界には真空の法界、理事無礙の法界、周編含容の法界があるといい、法蔵は『華厳五教章』で、その法界に4種の段階があると考えた。①事法界 ②理法界 ③理事無礙法界 ④事事無礙法界 という四法界である。華厳の法界はこの4つ目の事事無礙法界に向かっていくのであって、それによって華厳の円教が縁起の極みに進んでいると解説した。 

≪031≫ ぼくはこれを知って大いにたまげたのだ。「理」と「事」が無礙であるのはまだありうるとして、「事」と「事」とが融通しあう「事事無礙法界」だなんて、あまりにもたまらない。華厳ってとんでもない方法的世界観だぞと思ったのはこのときだ。事法界にはじまる4つの法界についてはのちにまたふれたい。 

≪032≫ ではここいらで、ぼくが華厳世界に導かれていった昔日の経緯について多少ふりかえっておく。いささか懐かしい話になる。 華厳のことを知りたいと思ったのは、禅と書に遊んでいたころのことだ。ある日、大乗禅の師家である秋月龍珉さんが「あのね、大拙の本質は華厳にあるんですよ」と言った。ぼくは高校生の頃から大拙の仏教の掴まえ方や説明っぷりが大好きだったので、へえ、そうなのかと思っていろいろ読んでみると、たしかに晩年の鈴木大拙(887夜)は文章や講演の中で華厳世界と禅の関係のことをたびたび言及して、「禅は華厳の子である」とか「大乗禅は華厳をやらなければ見えてこない」といった説明をしきりにしていた。 

≪033≫ もともと禅宗の歴史の初期に神秀(じんしゅう)の華厳禅のようなものがあったのだから(明恵も華厳禅だった)、華厳と禅は歴史的に密接な関係があるのだが、どうもそれだけではない。 

≪034≫ なかで、法蔵はこんなふうに言ったと大拙が紹介する文章があって、そこに華厳は「挙体全真」という言葉であらわせる。自身の全存在を挙げて真理たらんとするという意味だが、その反対の「挙体全妄」は全身まるごとまちがっていることになる。けれども、実はそれは挙体全真と同じことなのだ。華厳学はこのような真妄交徹(しんもうきょうてつ)をもって、肯定と否定を重ね会わせ、正と負を自在に入れ替え、世界と自分の大きさを透いて考える。ここがおもしろいのだとあった。 

≪035≫ びっくりした。それとともに即座に官能した。いや感応した。これこそは、ぼくがとりくむにふさわしいと思ったのだ。 なんとか華厳学を齧って、その世界観に遊弋したい。しかし、どうすればいいのか。秋月老師にお伺いをたててみると、「坐るか、読むか」と言われた。うーんと唸っていたら、「松岡さんなら、読み耽ることかな」と言われる。 

≪036≫ これで弾けた。少し本気で分け入ってみると、途方もなく深みが広く、とんでもなく衒学的な概念工事が待っていた。安易な「読み」が通じない。最近はAIでディープ・ラーニングということが重視されているが、まさにそれなのだ。言葉や思考の組み合わせをディープなところでかなり動かさないと、華厳はわからないと思った。厖大な華厳情報に浸るしかないと思えたのだ。 

≪037≫ しかしだからこそ、それこそは待ってましただったのである。まずは蓮華蔵世界の衒学に徹するしかない。 

≪038≫ 衒学的になることを、華厳は排除していなかった。そこがありがたかった。華厳ではその衒学を「玄学」というふうにみなし、そうなっていくことを「捜玄」とか「探玄」とか「重玄」(十玄)とも、あるいは老子(1278夜)ふうに「玄之又玄」などとも呼んでいた。これはタオっぽいし、禅語録に分け入ることにも似ている。華厳では分け入ることが「玄」なのだ。それなら玄月松岡正剛にはもってこいの世界ではないか。そう、思えた。玄月はぼくの俳号なのだ。 

≪039≫ 華厳思想のもとになるそもそものテキストは『華厳経』である。サンスクリット語では略称を「アヴァタンサカ・スートラ」と、正式には「ブッダ・アヴァタンサカ・ナーマ・マハーヴァイプリヤ・スートラ」という。「大方広仏華厳経」と訳してきた。大方広な仏によってさまざまな華で飾られた教えを示したという意味だ。 

≪040≫ 経典の出現の仕方からみると、紀元前後に結集(けつじゅう)された初期の大乗仏典グループに入る。『般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』『無量寿経』などが初期大乗仏典で、古代インドにおける華厳経の原型はおそらく法華経のあとの、なんらかのコレクティブ・ブレインたちによって編集的に登場したのだと思われる。 

≪041≫ わかりやすくいえば、法華経(1300夜)が菩薩道を説き、華厳経がその方法や道程を説いたのだろう。そういう順番になる。華厳経は菩薩道が見いだすべき方法的世界観を提示したものだったと位置付けられる。 

≪042≫ 別の見方もできる。妙法蓮華経としての『法華経』が妙法すなわち「法」を説いたというふうにみると、大方広仏華厳経としての『華厳経』は「仏」を説いたというふうにもみなせる。どういう仏かといえば、大方広な仏、すなわち時空的に広大な仏を説いたのだとみなせた。 

≪043≫ この華厳の仏は宇宙大、世界大で、想像を絶する仏の出現だった。広大無辺な仏には、むろん名前がついている。ヴァイローチャナ(Vairocana)である。正確にはヴァイローチャナ・ブッダという。 

≪044≫ ヴァイローチャナは音訳して漢字にすると「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)というふうになり(あるいは盧遮那仏)、意訳すると「光明遍照」(こうみょうへんじょう)となる。無限無比の光が遍く世界大に照らし出されているというコズミック・イコンだ。仏教史上最大のイコンだった。雲崗や龍門の石の大仏、韓国の法住寺の大仏、奈良東大寺の大仏(毘盧遮那仏)、タリバンが破壊したバーミヤンの大仏などは、いずれもヴァイローチャナ・ブッダだった。  

≪045≫ 華厳経はこのヴァイローチャナ・ブッダが説いた「蓮華蔵世界」での覚醒をめざした教えなのだが、そんなイコンは仮想なのである。実在していない。けれども、そんな途方もないヴァーチャル・イコンに法界を語らせたというところに、華厳経の壮大な意図があった。 

≪046≫ というわけで、華厳を知るには『華厳経』を読めばいいのだが、ところが意外なことに、サンスクリット語やパーリー語ではその全テキストが残っていない。今日にいたるまで「十地品」「入法界品」「性起品」などしか見つかっていない。 

≪047≫ それなら全貌はどこで知れるのかというと、4世紀以降の漢訳にしかない。東晋時代の仏陀跋陀羅(中国名は覚賢)による「六十華厳」(旧経)、唐の則天武后の時代の実叉難陀の「八十華厳」(新経・唐経)、空海を驚かせた般若三蔵による「四十華厳」である。四十華厳は「十地品」と「入法界品」だけの漢訳なので、ひょっとするとテキスト・ルート(執筆の手順)が別だったのかもしれない。  

≪048≫ ともかくも全容を示すのは漢訳の六十華厳(旧経)と八十華厳(新経・唐経)、それにチベット語訳だけなのだ。  

≪049≫ こうして華厳を読むには漢訳華厳経を相手にするしかないということになるのだが、さあ、この漢訳が難しい。 ぼくが華厳に関心をもった時期、日本では漢訳華厳経は昭和初期の『国訳一切経 華厳部』が大東出版社から、昭和9年に江部鴨村訳の口語全訳が篠原書店からそれぞれ刊行されていたものの、手に入らない。第一書房の復刻版(1974)を日比谷図書館で眺めるばかりだった。 

≪050≫ そこでとりあえずは解説書を調べた。日本の華厳宗の本山は東大寺だから、まずはその方面の解説書を調べてみたが、当時のものはパンフレットの域を出ていない。研究書もまだ少なかった。部分的な解説や評釈にとどまっていた。 

≪051≫ それでも坂本幸男の『華厳教学の研究』(平楽寺書店 1956)、川田熊太郎が監修して中村元(1021夜)が編集構成した共著型の『華厳思想』(法蔵館 1975)、小著ではあるがパノラミックで参考になった末綱恕一の『華厳経の世界』(春秋社 1957)、主に澄観の華厳思想を解読していた鎌田茂雄の『中国華厳思想史の研究』(東京大学出版会 1965)などを入手して、首っぴきで鉛筆なめなめ左見右見した。 

≪052≫ 華厳テキストを読むというより、蓮華蔵世界の概念の構成力や、法蔵・澄観・宗密らの独創的な視点に引き込まれたといったほうがいい。 

≪053≫ そんなところへ、角川書店から梅原猛(1418夜)と上山春平(857夜)を配して「仏教の思想」という画期的なシリーズが刊行されはじめた(いまは角川ソフィア文庫に入っている)。その6巻目に『無限の世界観〈華厳〉』が登場した。鎌田茂雄と上山春平がマッチアップされて、初めて華厳を噛み砕いていた。 

≪054≫ これはわかりやすく、たいへんありがたい本だった。とはいえ、華厳思想のあまりに深遠な縦横無尽の概念工事ぶりには、あいかわらずたじたじのままだったことを憶えている。 

≪055≫ しばらくしてバークレーでフリッチョフ・カプラに会って、主著の『タオ自然学』(工作舎)を翻訳刊行することになった。量子力学と東洋思想の接点を求めたもので、第1部で「自然学のタオ」を、第2部で「東洋思想のタオ」を、第3部で「共振するタオ」を書いている。カプラはジェフリー・チューのブーツストラップ理論と華厳の両方に注目していた。 

≪056≫ 素粒子たちは世界を編み上げブーツの靴紐をギュッと結びながら自分を引っ張り上げているようにしているのではないかというのがブーツストラップ理論の骨子だが、この考え方が華厳世界観にいうインドラ・ネットワーク(帝網)の考え方にきわめて似ていると言ったのだった。 

≪057≫ 素粒子たちは世界を編み上げブーツの靴紐をギュッと結びながら自分を引っ張り上げているようにしているのではないかというのがブーツストラップ理論の骨子だが、この考え方が華厳世界観にいうインドラ・ネットワーク(帝網)の考え方にきわめて似ていると言ったのだった。 

≪058≫ 仏教学者にもそういう反応をする人がいるのかと驚いて、さっそく駒沢大学でお会いすることにした。これが鎌田さんとの最初の出会いだ。 

≪059≫ 鎌田さんは恰幅があって、眼が澄んでいた。武道者のように毅然として、陽の気が放たれていた。中国仏教の研究者で、華厳学を専門としておられた。ぼくは最高の先達にめぐり会えたようなのだ。今夜とりあげた本書『華厳の思想』は、その鎌田さんが『無限の世界観』第1部に続いて、細心の注意をもって華厳の真骨頂を解読したものである。のちに鎌田さんは『華厳経』の抄訳も試みた。 

≪060≫ カプラが注目したインドラ・ネットワークというのは、帝釈天が世界に放った広大な網のことである。帝釈天(インドラ)の網だから「帝網」(たいもう)という。 

≪061≫ この網のすべての結び目はピカピカの宝珠でできている。しかし「真如のつぼみ」なのである。宝珠は鏡面のような球体なので、それぞれの宝珠に他のすべての宝珠がホロニックに鏡映する。相互に照らしあい映しあって、どの部分にも全体が宿る(影響する)ことになる。インドラ・ネットワークには「相即相入」「相依相関」や「一即一切、一切一即」「一入一切、一切一入」が成立していた。 

≪062≫ このネットワーク(帝網)はそれぞれが相互に鏡映しあっているので、しばしば「重重帝網」とも言われた。素粒子たちもそうなっているのではないか、カプラはそう解釈したのだった。 

≪063≫ ぼくはさっそく鎌田さんのところへ言って、「重重帝網」について根掘り葉掘り聞いた。鎌田さんは、まさにそうですねと言った。素粒子の奥の状況に華厳を想うなんてすばらしい暗合だと褒めた。ただし、そうではあるが、二つの点を留意したほうがいいとも付け加えた。ひとつは、華厳世界は「重重帝網」ばかりを説いているのではないということだ。もうひとつは、カプラは物質の相互関連性や相補性を融通無碍に見たいと言っているが、華厳は人間の心に重重帝網や融通無碍があるとみなしている。そこがちがってくる。この二つを留意したほうがいいと言われた。 

≪064≫ これで、やっと華厳を解(ほぐ)せる気がした。そのうち、ぼくは工作舎以外の版元での最初の本『空海の夢』(春秋社)を書くことになって、その第26章に「華厳から密教に出る」を入れた。禅も華厳から発したのだろうが、密教も華厳をもとにつくられた、とくに空海密教はそうなっていると書いたのだ。 

≪065≫ 空海(750夜)の『秘密曼荼羅十住心論』には、十段階にわたる東洋的精神による密教的な「めざめの階梯」が提示解説されている。 

≪066≫ ざっと概略だけ示しておくにとどめるが、まずは煩悩にまみれた①「異生羝羊心」(いしょうていようしん)で端緒につき、ついで儒教的境地の②「愚童持斎心」(ぐどうじさいしん)を知り、つづいてインド哲学あるいは老荘的な③「嬰童無畏心」(えいどうむいしん)をへて、ここで仏教にめざめる。しかしそのステップは当初は小乗仏教的な声聞(しょうもん)が自我にこだわるレベルの④「唯蘊無我心」(ゆいうんむがしん)、および縁覚(えんがく)のレベルにあたる⑤「抜業因種心」(ばつごういんしゅしん)にとどまっている。まだ自分のことばかりが気になっている段階だ。 

≪067≫ やがてふとした他者との機縁で大乗仏教の躙口をくぐって、ひとたびその門に入ってみると、そこでやっと唯識思想の⑥「他縁大乗心」(たえんだいじようしん)に、また中観思想にもとづいた⑦「覚心不生心」(かくしんふしょうしん)などを通過することができる。 

≪068≫ けれどもそれではおわらない。ここにいよいよ菩薩道として八段階目の法華の世界の⑧「一道無為心」(いちどうむいしん)が待っていて、そのうえでついには九段階目の華厳の世界のヴァイロチャーナによる⑨「極無自性心」(ごくむじしょうしん)に到達するというのだ。  

≪069≫ このように空海は十住心の九番目に華厳を見据えたのである。そして、その華厳をくるりとクランインの壷のように仕立てなおして、十段階目の⑩「秘密荘厳心」(ひみつしょうごんしん)を最終提示した。そしてそれを曼荼羅密教の最高境地だというふうにした。ヴァイロチャーナ(毘盧遮那)もマハー・ヴァイロチャーナ(大日如来)と呼び換えられる。 

≪070≫ 読んでみるとすぐわかることだが、最後の⑩「秘密荘厳心」には空海にしてはめずらしいほど、濃度の高い言葉によるロジックはほとんど出てこない、大半の本質は⑨「極無自性心」の華厳の境地に述べられていたからだ。密教はその先に行く、その先で脱構築するというだけなのだ。 

≪071≫ これでわかるように、空海はそうとうに華厳主義的な世界理解の方法に惚れ抜いたのである。8世紀から9世紀の時点では、華厳以上の仏教思想には出会えなかったのだ。だから華厳を頂点に捉えた。空海密教は即身成仏を説くのであるが、そのことについても『即身成仏義』にズバリ「重重帝網を即身と名づく」と書いたほどだった。 

≪072≫ まさに「即身成仏とはインドラ・ネットワークに入ることだ」と言ったのだ。かくして当時のぼくには、空海はまるごと華厳を換骨奪胎したな、だとしたらよほど華厳は凄いんだなと思えたのである。 

≪073≫ 以上が華厳思想についてぼくが30代に辿ったあらかたの進入路である。どきどきしっぱなしで愉しかったけれど、けっこう暗中模索だった。だから、ここからが大変だったのである。「坐るか、読むか」の「読む」ばかりだったので、ひたすら目眩(めくるめ)くことになっていく。その目眩くところを、以下に案内してみたい。  

≪074≫ ちなみにいま、ぼくの手元には昭和9年初版の江部鴨村(えべおうそん)による口語全訳『華厳経』全2巻がある。ありがたくも国書刊行会が平成8年に復刻したもので、たいへん分厚い。 

≪075≫ その後に読んだ華厳思想ものはいろいろあるが、鎌田さんのもの以外では竹村牧男の『華厳とは何か』(春秋社)がよくまとまっていて(竹村さんは唯識学のトップの研究者)、そのほかでは藤丸要構成の『華厳』(龍谷大学仏教学叢書)、中村薫の『親鸞の華厳』(法蔵館)などが参考になった。 

≪076≫ さて、さきほども書いたことだが、『華厳経』は古代インドで大成されたものではなかった。「十地品」や「入法界品」や「性起品」など別々にまとまりつつあって、その他のものはおそらく西域のクチャ(亀茲)かホータン(干闔)あたりで執筆され、それらが編集大成された。 

≪077≫ 誰が書いたはわからない。他の仏典の多くもそうであったように、集団的に執筆編集したのだろう。自発的なコレクティブ・ブレインが編集知を組み立てたのだろう。クチャやホータンにそういう華厳編集団がいたのだと思う。そしてそれらが仏陀跋陀羅による「六十華厳」(完成420年)として、また唐の則天武后の時代の実叉難陀の「八十華厳」(完成699年)として漢訳されたのである。さきほども書いたように、全訳された漢訳華厳経はこの二つしかない。  

≪078≫ 華厳経はどんなふうに構成されたのか。 訳を見るしかないのだが、六十華厳でいうと、その全容は全部で八会の会座での34品の話で成り立っている。構成が進むにつれ、会座(ステージ)が地上から空中へ、また地上へ、そして善財童子による道行(入法界品)へと変化する。七処八会という。 八十華厳も構成趣向はほぼ同じだが、時代がくだったぶん詳細がややふえて七処九会になり、全部で39品になる。 

≪080≫ どうだろうか。なかなか壮大で仕掛け充分の壮麗なもので、たじたじになるかもしれないが(大乗仏典の多くはたいていそういうものだが)、それよりも特徴的なのは、この経典にもとづいて説諭される後世の華厳思想がことごとくネステッドで深彫りで雑華繁く、はなはだハイパーホロニックになっていったということである。のちにそのハイパーホロニックな表象ぐあいの妙に遊弋したい。 

≪081≫ その前に経典の核心部についてふれておくと、『華厳経』(八十華厳)の中の拠点は、さきほども書いたように、第6会=他化自在天宮会の26「十地品」と、第7会=重会普光法堂の37「如来出現品」あるいは「性起品」と、そして最後に構成布置された第9会=逝多園林会の39「入法界品」とにあった。「入法界品」はとても長く、全体の4分の1を占める。  

≪082≫ これらが核心部になったのは、初期に先行的に著述編集されたものだというせいでもある。3世紀に活躍したことがわかっているナーガルジュナ(竜樹)がこれらについて言及しているので、3世紀以前に原型がまとまったのものだとみなされる。 

≪083≫ なかで「十地品」は菩薩の十地を説いていて、華厳経が菩薩道の解説のために著述されたことを証している。十地とは菩薩道を感じる10のステップのことである。第1歓喜地、第6現前地、第10法雲地というふうに進む。とくに第6現前地のなかの「三界唯心偈」(さんがいゆいしんげ)がハイライトになっている。 

≪084≫ 三界(さんがい)とは、欲界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人の六道)、色界(淫欲と食欲を離れた衆生がいる世界)、無色界(物質にとらわれずに受・想・行・識の四蘊だけに委ねられている世界)のことをいう。「三界は火宅のごとし」とか『三界に家なし』とか言うのは、三界も決して安寧の居所ではないことを喩えた。 

≪085≫ 現前地は般若の知慧の完成をみるべきところで、次のステップの第7遠行地で利他に入り、最後の法雲地で利他行の成就に及ぶのだが、そのターニングポイントにハイライトの三界唯心偈が掲げられたのである。 

≪086≫ 縮めて「三界虚妄但是一心作」という唯心偈だが、フルバージョンでは「三界はただ貪心(とんじん)に従って有りと了達し、十二因縁は一心の中に有りと知る。かくの如くなれば即ち生死はただ心より起る。心もし滅することを得ば、生死も即ちまた尽きん」というふうになる。 

≪087≫ ちなみに先に紹介した角川「仏教の思想」の『無限の世界観〈華厳〉』は、第1部を鎌田さんが、第3部を上山春平が書いているのだが、上山さんは十地品をベースに解説しようとして、上っすべりしていた。ぼくは第1部の鎌田さんのところを何度も読んだものだ。 

≪088≫ 仏教はどんな者(あらゆる衆生)にも仏性(ぶっしょう)が備わっていることを前提にする。仏になる可能性が仏性である。仏性を問うこと、それが仏教のすべてだと言ってもいいくらいだ。 

≪089≫ その可能性としての仏性がどこかから立ち上がってくることを、仏性現起という。この四文字を縮めると「性起」(しょうき)になる。「性起品」(如来出現品)はその仏性現起すなわち性起のモチベーションを説いたもので、『華厳経』のコアコンピタンスにあたる。  

≪090≫ どこがコアコンピタンスであるかというと、『華厳経』は仏が深い三昧(海印三昧という)に入ったまま説いたものだから、ブッダの本来の仏性がそのまま説かれたとみなしたのだ。メタ・モチベーションだ。 

≪091≫ すでに華厳経以前の仏典では『涅槃経』が仏性を説き(一切衆生悉有仏性)、『法華経』もまたさまざまに仏性を説いていたのだけれど、華厳経はそれを本来に立ち戻ってみせたのである。「性起品」は独立した経典としては『如来興顕経』となり、華厳経の中でも「宝王如来性起品」とか「如来出現品」とも称ばれてきた。こういうタイトリングがされるのは、華厳経で言う性起が如来の出現そのものであったからである。 

≪092≫ 十門の性起が出現し、その仏性が十門百門に及んで十身如来の性起円融になっていること、それが華厳の性起だった。このコアコンピタンスからのちの如来蔵思想が生まれていったこと、なかなか得心できることである。 

≪093≫ インターネットは華厳ネットワークに似ているんじゃないでしょうかという見方をする者がいたが、華厳はワールド・ワイド・ウェブというよりワールド・ワイド・ハイパーグリッドというもので、なんといっても「性起」に依って動くのである。 

≪094≫ 善財童子の「入法界品」については、681夜の高銀『華厳経』でも案内しておいたので、今夜は説明を省くことにするが、華厳経の4分の1を占めるだけあって、さすがに読ませる。 

≪095≫ 仕立てとしては善財童子が沙羅双樹の林にいるとき、忽然と文殊菩薩があらわれて「善財よ、われまさに汝がために普照一切法界修多羅を説くべし」と告げ、これに従って童子が「十地品」の十住、十行、十回向、十地という順に修行をするべく53人の善知識(カルヤーナミトラ)を訪ねて、ついに最後の普賢菩薩のところで究極の悟りに至るというふうになっている。 

≪096≫ 長者の子に生まれ育った善財童子(スダナ・クマーラ)は自分が貪愛にとらわれ、疑惑ばかりが募って智慧の目を曇らせてしまっているので、文殊に煩悩からの脱却の教えを乞う。文殊は「円満ナル無上ノ悲」(大悲)と「清浄ナル智慧ノ日」(大智)を求めるのなら、53人の善知識を歴訪しなさいと言う。53人のうちの20人は女性、なかには長者も仙人も医者も遊女も、国王も外道も夜神もいる。22番目に訪ねた青蓮華香長者はアロマテラピーの達人だし、28番目の寂静音夜天は波羅蜜エクササイズのプロだった。 

≪097≫ 42番目に出会う摩耶夫人はブッダのお母さんであるが、ブッダ誕生後1週間ほどで亡くなっているので、仏典には詳しいことがあまり出てこない。「入法界品」にはめずらしく摩耶夫人の自分語りが展開されている。自分はブッダの母であるが、ビルシャナ仏の母でもあり、またあらゆる過去仏・現在仏・未来仏の母でもあると言って、そのグレートマザー性をあきらかにする。 

≪098≫ こうして善財童子は53人を歴訪して、普賢菩薩のところへ辿りつく。その旅は東洋を代表するビルドゥングス・ロマン(修養物語)であり、中世ヨーロッパにおけるバニヤンの『天路歴程』である。ぼくはノヴァーリス(132夜)の『青い花』やヘッセ(479夜)の『シッダールタ』に比較もできると思っているが、日本では『華厳五十五所絵巻』や『善財童子華厳縁起』などの絵巻で広く知られ、義湘のところでふれたように、とくに明恵上人か善財童子に憧れていたことが有名だ。 

≪099≫ まあ、「入法界品」は一度は読んだほうがいい。『西遊記』というわけにはいかないが、話もおもしろい。おもしろいだけではなく、たいへんシンボリックでもある。徳川幕府が東海道を「五十三次」にしたのは、善財童子の旅を模したものだった。そんなところにも華厳は投影されていたのだ。大角修の『善財童子の旅』(春秋社)が現代語訳していて、わかりやすい。  

≪101≫ ところで、中国仏教ではしきりに教相判釈(きょうそうはんじゃく)ということをする。仏教の宗派的教相の発展を時期に分けて判釈(評価判定)する。 

≪102≫ 最初にこれを試みたのは天台大師の智顗(ちぎ)だった。五時八教に分けて、仏教が華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華涅槃時というふうに発露されてきたと見た。 

≪103≫ ブッダは成道(じょうどう)するとすぐに『華厳経』を説き、次に『阿含経』を、ついで『維摩経』(1530夜)を、『勝鬘経』を、さらに智慧をめぐる『般若経』を説いたのちに、菩薩道利他行のための『法華経』(1300夜)と『涅槃経』を説いたというのである。華厳を当初においたところが眼目だった。これは実際にそういう順に説いたというのではなく、ブッダの発露が本質的にそういう順だったはずだというのだ。 

≪108≫ 智顗(538〜598)はぼくが鈴木大拙の次に心酔した仏教学者である。『摩訶止観』(岩波文庫・上下)に痺れまくったのだ。「遊」をつくっていたころは、誰彼なく『摩訶止観』を奨めまくっていた。いつか千夜千冊したい。 

≪109≫ ついで慧光が三種教による教相判釈した。大乗仏教は「漸教→頓教→円教」という順に進むというものだ。 

≪110≫ 未熟な衆生のためにまず無常や空を説き、そのあとに常・不空を説くのが「漸教」で、少し仏教に縁が深くなった者にはこの無常・常、空・不空を同時に説くので、これが頓教になる。「頓教」では漸次に説かない。どんな学習のプロセスもつねに段階的に深まったり高まったりするのではない。ある段階にくると、一挙に全貌を同時に提示する必要がある。それが大乗仏教では頓教にあたる。  

≪111≫ 

この一挙提示で混乱するようでは仏教者は挫折だ。けれどもそこを突破してくるものもいる。そこでその突破修行が深まった者に、最後に全容を見せる「円教」を説く。円教によって如来の無礙解脱と自在法門に浸ってもらうのである。この円教が華厳の役割だった。 

≪112≫ これらの教相判釈を継承して、法蔵が『華厳五教章』を書いて「五教十宗判」を提唱した。仏教は「小乗教→大乗始教→大乗終教(だいじょうじっきょう)→大乗頓教(だいじょうとんぎょう)→大乗円教(えんぎょう)」というふうに発展してきた、と再構成した。まだ密教が入っていないけれど、当時のすべての宗派の特色がくまなく系統化されていた。 

≪113≫ こうして華厳学は円教とはどういうものかを深彫りする宗学に向かって、どんどんアクロバティックになっていったのだ。いよいよの独壇場である。 

法蔵(644-712) 

≪114≫ 華厳が教相判釈の頂点に立ったことは、円教として華厳の教えを激しく内燃させていった。中身が濃く構造化されていったのだ。これを「十重唯識」とか「十玄縁起」とか「重玄学」と言ったわけである。華厳の唯識が充実していったのだ。 

≪115≫ ここでいう唯識とは、大乗仏教の基本的な認識論の見方のことをいう。われわれにとってのあらゆる存在が唯だ8種類の「識」によって成り立っているとする考え方だ。 

≪116≫ 8種類の「識」とは、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)の五感による五知覚にあたるもの、および意識(第六識)と、その奥に動く末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)をいう。八識という。眼・耳・鼻・舌・身・触を前五識、前五識と意識をあわせて六識あるいは現行(げんぎょう)とまとめ、根本にあたる阿頼耶識以外のものを七転識とまとめることもある。 

≪117≫ なぜこういう八識がまとまったかというと、ここで注意しておきたいのは、もともと仏教では心(個人の心)を一つのものとは見ないということである。一つの心が種々雑多に作用するのではなく、別々の心がその個人の縁起に応じて作用すると見る。唯識はこの見方を徹底していったもので、それゆえ認識の主体をたんに「心」とは言わないで「能変の心」だというふうに見た。同様に、認識の対象を「境」とみなして、その境はたえず「能変の心」によってあらわされているのだから、たんに「境」とは言わずに「所変の境」と言うようにした。 

≪118≫ このような「能変の心」と「所変の境」が組み合わさって、華厳が唯識観をとことん濃くしていったのである。 代表的には、法蔵の『華厳五教章』や『探玄記』に示された「十重唯識」がそれにあたる。華厳認識を段階的にめぐる動的なフォーマットによってさまざまに組み合わせ、重ね合わせたもので、次のようになっている。まことに眩惑的だ。とりあえずの解説を付しておいた。 

≪119≫ 唯識観図作成 

≪120≫ ふーっ、ふーっ、だ。これだけでもお腹がいっぱいになりそうだが、法蔵はまだ超編集の手をゆるめない。智儼(ちごん)の「一乗十玄門」を足場に、さらに次のような「華厳十玄門」という華厳十門のハイパーステージを構築してみせる。なぜ法蔵がここまで手を尽くすのかということについては、あとでちょっと言及したい。 

≪121≫ ふたたび『探玄記』から華厳十玄縁起のハイパーステージを掲げておく。これまたけっこう目眩く。解説は鎌田さんのものを要約した。 

≪123≫ いささか急いだかもしれないが、これで四法界を説明するための、だいたいの準備ができたのではないかと思う。 あらためて掲げると、四法界は次のように提示された。①事法界、②理法界、③理事無礙法界、④事事無礙法界、である。この四段階によって華厳法界が「事法界」から「事事無礙法界」に向かっていく。 

≪124≫ ①事法界とは、現実や事実にそのまま向き合っている世界のことをいう。現象界あるいは存在界にあたる。森羅万象はそのままで事法界なのだ。われわれはそもそも事法界に包まれている。カラダの世界だ。②理法界は理性が捉えた世界である。事法界の森羅万象をなんらかの理性が解釈し、分離し、別々に記述する。アタマに投影された世界であるが、仏教的にはアタマはそのままではないので、「空の世界」になる 

≪125≫ ③理事無礙法界は、①の事法界と②の理法界とのあいだに区別や差別(しゃべつ)をとっぱらって、そこの隔てをなくした世界あるいは世界観のことをいう。理と事が無礙になっている。これはヨーロッパ的な考え方では捉えられまい。 

≪126≫ ④事事無礙法界はこれらの手立てを尽くしたうえで、③から理をなくすのである。ここが華厳的なハイパーテクニックになる。理をなくせば、事だけでも無礙になる。インドラ・ネットワークの粒々が光りあい、ホワイトヘッド(995夜・1267夜)のポイント・フラッシユではないが、それぞれが照応しあう。これが④の事事無礙法界だ。 

≪127≫ 

仏教思想史的には、①事法界、②理法界、③理事無礙法界、④事事無礙法界の四法界の4段階は、小乗仏教から大乗仏教への階段にもあたっている。 

≪128≫ ①事法界が小乗仏教にあてはまり、かつ大乗の初期にあたる。仏教思想としてはアビダルマの対象になる。②理法界は中観や空観をもった仏教意識の段階である。「諸行無常、諸法無我」と捉える。③理事無礙法界は大乗仏教としてはいったん頂点に達したもので、如来蔵のレベルである。善悪や聖俗などにとらわれない。最初から神も悪魔も、自も他も呑みこんで色即是空で世界に生まれてくる。 

≪129≫ しかし、④事事無礙法界はこれらをも超えた全き円教なのである。事と事が融通しているのだから、色即是空とする必要(空ずる必要)すらもない。すべてがヴァーチャル=リアルで、居ても立ってもハイパーホロニックなインドラ・ネットワーク状態なのである。 

≪130≫ 華厳が事事無礙法界で事そのものに融通性をもたせたことは、従来のどんな唯物論でも唯心論でも描きえなかった。以前はライプニッツ(994夜)のモナドロジーに似ていると言われたこともあるが、どうして、どうして、華厳の事事無礙法界はモナドロジーをはるかに超えている。もはや名状しがたいとしか言いようがない。 

≪131≫ では、このような目眩く華厳的世界観がどのように西域から中国へ、韓半島や日本へ波及していったのか。それはやっぱり東洋思想の独特の展開だったのか。それともかなりの紆余曲折があったのか。実際は両方だったのだが、最後にその流れをかいつまんでおきたい。 

≪132≫ 華厳宗の歴史と華厳思想の展開は重なるところもあるし、そうでないところもある。中国華厳宗は第1祖・杜順、第2祖・智儼、第3祖・法蔵、第4祖・澄観、第5祖・宗密というふうに継承されるのだが(杜順の前にインドの馬鳴=アシュヴァゴーシャと竜樹=ナーガルジュナをおくこともある)、このあとに強いセンター性を失っていく。さしもの唐帝国に大きなゆらぎが出てきたこと、宗密の時代に禅学が勃興して華厳をとりこんだことが大きい。 

≪133≫ 中国華厳は早くに韓国に流れた。韓半島では先にふれたように新羅の元暁や義湘が活躍して、さらに法蔵門下の審祥が大きく動いた。勝詮や梵修も出て、韓国華厳は北岳派と南岳派に分かれた。なかで審祥が聖武天皇の大仏建立プロジェクトときに、日本に来て華厳講義をした。良弁はそれを学んで初代別当になったのだ。今日の韓国の華厳論はそうとう物足りないものになっているけれど、古代新羅の華厳僧の活躍はかなりめざましかったのだ。 

≪134≫ 一方、日本の華厳宗は良弁のあと、実忠・等定・通進から基海・良緒をへて、光智・凝然(ぎょうねん)・高弁というふうに引き継がれていった。凝然の『法界義鏡』など、かなり精緻なものだった。このうちの高弁が明恵上人である。  

≪135≫ 明恵は独自の華厳観の持ち主で、日本華厳宗の系譜からは大いにはみ出た。かなり特異だ。ぼくがずっと気になってきた上人なので、そのプロフィールとともに別に千夜千冊したいので、今夜は明恵さんについては省く。 

≪136≫ 結局、日本華厳宗の流れは今日にいたるまで東大寺の管長をトップにおいてきた。明恵をはじめとする各華厳流派は野に生きることになる。そこから良忍や良尊の融通念仏宗などが生まれていったのだと思われる。 

≪137≫ こうした流れのなかで、ぼくが気になってきたのは、ひとつは華厳斎会や華厳結社の動向と、もうひとつは法蔵以降の澄観と宗密の考え方である。鎌田さんの『中国華厳思想史の研究』(東京大学出版会)などを参考に、そのあたりのことを少しだけ書いて、今夜の1700夜を締めたい。 

≪138≫ 法蔵(643~712)が活躍したのは唐の高宗から則天武后にかけての時代である。高宗は「道先仏後」(道教優先・仏教後塵)で、則天武后は逆に「仏先道後」で仏教政策を国家のアジェンダに使おうとした。 

≪139≫ ただ女帝は妖僧とおぼしい薛懐義(せっかいぎ)を懐刀にし、みずから弥勒菩薩の生まれ変わりを称して武周革命を指導すると、「大雲経」といった偽経をつくって全国に大雲経寺を配置させたりした。そうとうのワンマン女帝だったのだ。それでもその余勢は華厳思想の取り込みにも及んだのだ。華厳理念が武周の国家革命の理に適っていたからだろう。 

≪140≫ あれほど専制をふるった則天武后が仏教融和政策をとっただけでなく、華厳思想に共鳴したのはやや理解しがたいことかもしれないが、華厳のコスモポリタニズム(世界宗教性)が当時のグローバルな唐には必要だったからである。 

≪141≫ ところがこのあと唐帝国は変質し、玄宗皇帝の不首尾や安史の乱などもあって弱体化する。 そういう時期に登場してきたのが澄観(738~839)だった。澄観は若いころから各種の宗学を学んでいたのだが、しだいに華厳に近づいていた。法蔵を継ぐ第4祖としての実力もたくわえていた。宮廷もそういう澄観の知識や説明力を活用しようとした。  

≪142≫ ただ澄観の名声が高まり清涼大師として尊崇されるようになったときには、各地に華厳講(華厳斎会)や華厳結社ができていたり、他方では各地に禅林が営まれて禅と華厳が習合し、華厳社会は精神的な牙城というよりも、社会共同体とまじっていたのである。このことは華厳思想の変遷からみると、かなり特異なことだったと思う。華厳は言語革命の象徴ではなく、社会改革の実践性を問われることになったのである。折しも禅の各派が「言語道断・不立文字」をもって新たなムーブメントをおこそうとしていた。 

≪143≫ さあ、華厳どうするかというときに、宗密(780~841)が登場してきた。澄観に師事していたけれど、儒教にも華厳にも老荘思想にも禅にも明るかった。  

≪144≫ 宗密(しゅうみつ)は華厳第5祖になった人物だが、その思想はきわめてユニークで、これまで述べてきた華厳思想とはそうとうに違う。だいたい荷沢神会(かたくじんね)と親しかった。神会は老荘思想から禅の一派(荷沢宗)を築いた者だ。  

≪145≫ なかでも主著の『原人論』(げんにんろん)はかなり特異なもので、儒教と道教を批判したうえで、小乗仏教を斥けて、新たな大乗として老荘思想・華厳・禅をシャッフルしたような華厳存在学を提唱した。いわば華厳人間論なのである。それを知ったとき、ぼくは空海の『三教指帰』(さんぞうしいき)にはじまる思想は宗密から採ったのではないかと思ったほどだった。 

≪146≫ とくに宗密が「円教」を頂点にもってこないようにして、途中に円教の段階をおき、進むべき先を如来蔵のほうに仕向けていることに驚いた。これは華厳の脱構築だった。 

≪147≫ 宗密がどんなふうに書いているかは、鎌田さんが訳した『原人論』(明徳出版社)や小林圓照の『原人論を読む』(ノンブル社)があるので、読まれるといい。たぶんあまり参照されていない本だとおもうが、華厳がこういうふうになったのかというほどに現代的である。 

≪148≫ かつてピーター・グレゴリーは宗密と本覚思想の検討こそ、日本のクリティカル・ブッディズムの新たな拠点になるのではないか、宗密にはアポファシス(不了義)をカタファシス(了義)に転回させる言語的な才能があるのではないかと示唆していたが、これはそこそこ当っていた。 

≪149≫ 以上、華厳の思想というもの、すぐれて超編集的であり、各時代においてハイパー・エディトリアルがめざされていたということなのである。 

小川道明 『棚の思想』を読んで  面陳に現われる棚の思想

≪01≫  本というものは知的なファッションなのではなく、ファッションそのものである。また食べ物なのだ。モードであってフードなのである。実際にも着たり食べたりするものだ。そのように実感するには、ひとつはマラルメやラングあたりを読むのもいいのだが、もうひとつは本をつねに複数の組み合わせで見たり、何冊もまたいで接したりするようにしておくとよい 

≪02≫  ジーンズのような本、パスタのような本、戦闘服のような本、携帯電話のような本、ワイングラスのような本……。
こういうものはいくらでも本屋に並んでいる。ところがこのような本を組み合わせて遊んだり、読んだりすることがない。ジーンズの上に毛皮を着て戦闘帽をかぶった女性が、ワインを飲みながらイカ墨のパスタを食べていて、そこにケータイがかかってきた……なんてことはあるのに、それを本の組み合わせに転換できないのである。 

≪03≫  本を「組み合わせファッション」や「皿に盛った料理」にするには、洋服や小物やスニーカーのように取っかえ引っかえ本を着脱する必要がある。それから本を読んでいるときに、他の本から電話がかかってきたという感覚をもつ必要がある。5、6冊の本がベンチに座っているところへ割りこむ必要がある。すぐにそれができないのなら、まずは本屋をよく知ることだろう。 

≪04≫  本屋、つまり書店には、本たちが所狭しと並びあい、姸を競いあい、互いにひそひそ声で喋りあっている。われわれはこの中のお気に入りを着るために本屋に入ったのである。タイトルが目に飛びこみ、著者の名が浮かび、それにブックデザインがメッセージを発している。版元(出版社)がどこなのかということも、つまりはエルメスかプラダか無印かというメーカーの違いなのだから、これもよく見たい。 

≪05≫  そこで禁じ手が必要になる。本屋に入ってついつい本をすぐに手にとりたくなるのだが、これをなんとか我慢する。諸君がブティックに入ったときのことを思い出せばわかることだが、やたらに洋服を手にとってはいないはずだ。よく見くらべているはずだ。それが似合うかどうかを目で判断しているはずだ。すべての靴に足を突っ込んだりはしないはずだ。だいたいの当たりをつけているはずだ。 

≪06≫  本を見くらべるには、どうするか。ブティックの洋服の選びかたや並びかたに、そのブティックの売り場思想があらわれているように、それをまた諸君はすばやく見抜いているように、本のばあいもそれを選び並べている「棚」の思想を見ることになる。町の小さな書店と大型書店を比較すれば、同じ1冊の本でも、どこにどのような棚組みで置いてあるかによって、目立ちもするし、埋没もする。 

≪07≫  こうした棚組みを前後左右に存分にたのしみ、自分なりの「見方」を確立する。このとき著者のほうの思想に負けてはいけない。本はそれ自体がモードやフードなのだから、自分がほしい(自分の関心と好奇心にふさわしい)モードとフードの思想のほうを感じることなのである。 

≪08≫  本書の著者の小川さんは、最初は理論社という小さな版元の編集部にいて、次に合同出版社に移り、そこで西武に引き抜かれて有名な池袋の西武ブックセンターを立ち上げた。その後はリブロ、リブロポートに移ってさらに独自の「棚の思想」を先駆的に展開してきたギョーカイ名物の人である。 

≪09≫  時代の変遷はめまぐるしく、いまや西武も凋落し、リブロポートもなくなった。大型書店も各地各所にできあがったが、小川作戦がもたらした日本の書店空間に与えたインパクトは大きかった。1985年ころ、西武ブックセンター(リブロ)には“今泉棚”というものがあって、それを見るために読者だけではなく数々のギョーカイ人が押しかけた。
今泉正光クンという専門書の担当者が独自の棚組みを開発したのだった。 

≪010≫  このように、おもしろい書店というものは、さまざまな棚組みやフェアや組み替えに躍起になってとりくんでいるものだ。もしも、行きつけの書店にそういう雰囲気がないようなら、そういう書店には行かないほうがいい。アマゾンやbk1でネット注文すればいい。しかし、本を着たり食べたりしたいなら、ネットに頼っていたのでは感覚に磨きはかからない。ぜひとも本屋遊びをし、「棚の思想」を嗅ぎ分けたい。ただし、注意点あるいはヒントがある。 

≪011≫  第1点。文庫本の棚はベンキョーにならない。あれは最近はアイウエオ順の著者並びになっていて、何の工夫もない。たんなる電話帳だ。だから、ここは捨てる。  

≪012≫  第2点。本の並べかたには平積みと棚差しというものがあって、手元の台に平積みしている本はたいてい“売れセン”ばかりなので、それに気をとられないで、ちゃんと棚差しのほうを考査する。 

≪013≫  第3点。棚の本を見るときは(スキャニングするとき)、できるだけ3冊ずつ目をずらして見ていく。だいたい本は1冊だけ手にとるのはよくない。その両隣りの本を必ず認知するようにしたい。これだけでも3倍のスキャニングができる。 

≪014≫  第4点。財布の都合にもよるが、本はできるかぎり“複数買い”をする。図書館で棚から本を閲覧室にもってくることを考えればわかるように、一冊だけとってくるのはあまりにも非効率だ。そもそも本を一冊ずつ読むということは、小説を除いて、しないこと。いろいろ取り替え読み替えしているうちに、本の味も値打ちも見えてくる。 

≪015≫  第5点。あえて本を買わずに出てきたとしても、その本屋の棚に並んでいた本をあれこれ思い出してみるのがよい。近くに喫茶店でもあるのならいったんそこで思い出してみて、できればまた本屋に戻って気になる本を確かめることだ。ぼくは何度もこのエクササイズに耽ったものだ。 

≪016≫  そのほかもっといろいろあるのだが、ともかくも本を「一冊から多冊に」して付き合うこと、これに徹するのがよろしい。そもそも一冊の本というものは、それ自体で他の多冊とリンクされている。一冊にはつねに多冊を対応させなさい。 

≪017≫  もっとも、以上のようなことは本書にはまったく触れられていない。1970年代後半から80年代の本屋まわりの出来事が、実直に報告されているだけである。しかもその中身は今日では古くなりすぎて、データの数字などもとうてい使えない。それなのに今夜なぜこの本を選んだかというと、本書はぼくにとってのファッションだったのである。どこがファッションになったかというと、『棚の思想』というタイトルと平野甲賀のデザインで買ったのだ。 

≪018≫  われわれは、ボタンがかわいいとかバックル(留め金)がおもしろいとか、ステッチが気に入ったとかで、洋服やバッグを買うものだ。それと同じだ。試しに、本書の表紙をもう一度、よく眺めてほしい。この本の表紙を前にして自分の本棚に置いておくだけで(面陳という)、きっと元気が出る。「棚」というタイプフェイスが本棚になりそうで息づいている。 

≪01≫  古典や名作文学にそういう本が多いのは当然であるが、それ意外にもエッセイや批評や日記にもそういう本はある。シーモヌ・ヴェイユなど、その典型だ。そういう本はむろんいろいろのことが書いてあるにしても、その中の一つの魂の言葉を探しあてて、その言葉からすべての行を思い出せるように読みたくなるときがある。「沖仲仕の哲人」とよばれてきたエリック・ホッファーの本はそういう本である。 

≪02≫  最初にホッファーを読んだのが『波止場日記』だった。なんとなく(理由もなく)ボリス・ヴィアンのようなものかと思って読んだのだが、だいぶんちがっていた。次が柄谷行人が訳した『現代という時代の気質』(晶文社)で、引きこまれすぎるほど考えさせられた。時代が気質を変化させるのではなく、気質の動向が時代を動かすこと、そういう変化がどのようにしておこるか、考えさせられた。 

≪03≫  その後、数年おきに、『大衆運動』(紀伊国屋書店)や『初めのこと今のこと』(河出書房新社)や『自伝』(作品社)を読んで、あるときふと久々に『波止場日記』を開いていたら、ふわりと「思いやり」という言葉が浮かんだ。ふーん、そうかと思って、とくに気にすることもなく、他の本をパラパラめくってみると、ごく僅かだが、「思いやり」という言葉をホッファー自身もつかっていることに気が付いた。 

≪04≫  そう思って、またしばらくたって読んでみると、やはりそうなのだ。思索の核心は「思いやり」にある。“compassion”である。 ホッファーはつねに「自己認識を深く」と言い続けた男である。たいていの問題は当人の自己認識の甘さに起因することが多いと指摘していた。しかし、「自己認識を深く、さもなくば思いやりを」と言ったのではなかった。「思いやりを、それが自己認識を深くする」と考えたのだ。 

≪05≫  あいかわらず、ラディカルである。「すぐに行動したがる性向は、精神の不均衡を示す兆候である」とか、「自立した個人は慢性的に不安定な存在である」とか、「われわれは自ら創造したものよりも、模倣したものを信頼する」とか、あるいは「感受性の欠如はおそらく基本的には自己認識の欠如にもとづいている」といった、そうそう、それが言えるのがホッファーだという警句に富んでいる。 

≪06≫  が、その一方で、「思いやり」についての深い哲学がはっきり作動しつづけているのを感じた。 実際に「思いやり」に言及した章句もあった。たとえば、「他人に対する不正を防ぎうるのは、正義の原則よりもむしろ思いやりである」。「思いやりは、おそらく魂の唯一の抗毒素であろう」。なんだかすごくホッとした。やっとホッファーと友達になれたような気がした。 

≪07≫  エリック・ホッファーは7歳のときに母と視力を一緒に失った。8年にわたる失明ののち奇跡的に視力を回復した。学校はまったく出ていない。そのかわり一日10時間、いや12時間、本を読みつづけた。 20歳前後で父が死に、長らく養育役を買って出てくれたマーサ・バウアーがドイツに帰っていくと、正真正銘の天涯孤独になった。残った300ドルをもってバスでロスに行き、スキッド・ロウ(どや街)に入った。「まるで幼稚園から、いきなり貧民窟に入ったようなものだった」。 

≪08≫  1930年、28歳までスキッド・ロウでその日暮らしを続けた。死んでみようかと思ったがそれはならず、ロスを出てカリフォルニア中を動きまわった。1934年の冬、こういう自分がいったい社会の中の何にあたるのか、やっと思い知った。「ミス・フィット」(不適格者)という階層に属するということだったのだ。ミス・フィットは白人とか黒人とか、富裕者とか賃金労働者とはべつに、ひとつの階層をつくっていた。それがアメリカという社会だった。 

≪09≫  ホッファーはそのあと農業労働に近い仕事を転々としながら、またまた読書に没入していった。あるとき砂金掘りに出掛けるときにモンテーニュをかばんの中に持って行ったのが、ホッファーを変えた。「モンテーニュは俺のことを書いている!」と思えたのである。こういうときは、あるものだ。ぼくが最も鮮烈にそのことを感じたのは稲垣足穂の『男性における道徳』だったろうか。ぼくはそれを読みながら、これはてっきり自分のことを書いているんだと思った。 

≪010≫  この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のようにわれわれに知られるに至ったきっかけをつくったのはマーガレット・アンダーソンという「コモン・グラウンド」編集長である。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。 

≪011≫  こうしてやっと世に出た著書は、おおむね好評という程度だったようだが、だからといって注目されたわけではなかった。ホッファーはたんに“著者”になったにすぎない。1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で一週間一度の学生たちとの放談講義も担当するようになったときも、とくに話題が話題をよんだというのではなかった。ホッファーのような変わった人物を呼ぶのは、バークレーならやりかねないことだった。しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、少なくとも一カ所はあるものなのだということを。 

≪012≫  ホッファーが圧倒的な人気をもつことになったのは、テレビのせいだった。1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映されると、ものすごい反響になった。それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。 ホッファー自身はつねに“陰の存在”であることを望んだらしかったが、そして事実、どんな評価もどんな名声もホッファーの生活を豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかったのであるのだが、社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”を必要とした。 

≪013≫  こういうホッファー・フィーバーのなかで、ホッファーがほとんどというか、まったく変わらなかったというのは、ぼくはよくわかる。稲垣足穂もいっときメディアにフィーバーされたものだったけれど、その褌(ふんどし)一丁で畳に横になっている日々は毫も変わらなかった。メディアが動かせない人間なんて、いくらもいるものなのである。なぜならメディアは「思いやり」なんて持ち合わせていないし、たとえあったとしてもその「思いやり」が表明されてはいけないものなのだ。 

≪014≫  ホッファーが「思いやり」を重視した背景には、いろいろな思索が用意されている。それを、ほら、ここがそのことを言っている箇所だと指摘するのは、ホッファーにふさわしくない。 けれども、ホッファーもときどきたまらず絶叫している。このことはどうしても言っておきたいと書くときがある。そのひとつに、たとえば、こういうものがあった。 「世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある」。 

≪015≫  人はいつだって自己嫌悪をしているものである。けれどもその自己嫌悪をできるだけ隠そうとする。そのぶん自己愛をふやそうとする。そして、手痛い失敗をする。ホッファーは、だから次のようにも言う。「驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。自分自身にすることを他人に対して行う。われわれは自分自身を憎むとき、他人も憎む。自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである」。 

≪016≫  これはホッファーの「思いやり」についての最も深い部分を振動させている言葉であろう。ぼくはいつのころからか、このホッファーを読んできた。そして、自分を戒めてきた。ホッファーは次のようにも言っている、 「他人と分かちあうことをしぶる魂は、概して、それ自体、多くを持っていないのだ」。 

≪01≫  さて、中国における気の思想史をかいつまむのは、複雑すぎるし、その範囲は儒教・道教・仏教の三教にかかわるし、サマライズといったって容易ではないので、かなり乱暴に粗略していくことになる。が、今夜はそのほうがかえってわかりやすいかもしれない。 

≪02≫  いったい中国で「気」が俎上にのぼったのはどんな前史があるかといえば、歴史の順にいうと、まずもって甲骨・金文時代の「气」には思想的な気の意義はなかったと見たほうがいい。卜辞には「雨を气(もと)めんか」とあって、いわゆる気象的な意味合いしかもたせてはいない。気はだいたいにおいて山野を流動する雲気めいた現象のことだったのだ。許慎の『説文解字』でも気宇を雲気とし、雲を「山川の気」だと解釈している。 

≪03≫ 馴染みやすいといいんだけれどね。いまの日本人はタオを本格的に見るというより、健康術や神秘学の一環のように見るからね。そうでなければ風水の親戚みたいに思っている。 

≪04≫  いや、その前がある。老荘以前の歴史がある。導引や漢方も老荘以降です。そもそも殷周時代までの古代中国人の思考に著しいことはね、「生と死」「心と身」とが二つの別々の世界に属すると感じていたことなんです。人は生まれたからには死ぬもので、死ねば肉体は滅んで、精神や霊魂は別の世界で彷徨しているとみなしていた。そのため、そこから二つのプリミティブな考え方が生じていったと見るといい。ひとつは、「生きているあいだにできるかぎり生命と身体の神秘をしっかりつなげておこう」というもので、もうひとつは「心身が分断された死後においてもなんらかの方法で、その分離をくいとめよう」というものです。 

≪01≫  「標治」の西洋医学に対して、鍼灸や漢方薬を駆使した「本治」の中国医学を、今日の中国では「中医学」という。 著者は上海の中医学院に学んでWHO上海国際鍼灸センターで治療にあたったのち、北里研究所の東洋医学総合研究所に招かれた当代きっての中医学者である。大学院時代の恩師には、1960年に中国で初めて鍼麻酔を試みて世界的話題をまいた金舒白がいた。 

≪02≫  ぼくは自分の主治医が重野哲寛さんという漢方系の医師であることもあって、ずっと東洋医療に親しんできた。早稲田の劇団「素描座」の先輩演出家で、ぼくが憧れていた上野圭一さんがフジテレビの名ディレクターの座を捨てて一介の鍼灸師になったことも、中医学にさらに惹かれる要因になった。何人もの漢方医、東洋医学者、中国から来日した中医学者とも出会ってきた。 

≪03≫  中医学にはいろいろ特色があるが、最初の診察にしてすでに四診がある。 皮膚の色・顔色、目の色、舌の状態などを診る「望診」、体臭・口臭とともに声・呼吸音を診る「聞診」、患者の訴える言葉を診る「問診」、手の脈をとり、腹部の堅さや柔らかさや脚の張りなどを触って診る「切診」である。 

≪04≫  西洋医学とまったく異なる観察というわけではない。かつては医者というもの、このような観察を怠ってはいなかった。ぼくは京都中京堺町押小路の高木小児科病院に猩紅熱そのほかあれこれでお世話になったのであるが、いつも先生に目をむかれ、舌を出し、手のひらを触られた。それがまた気持ちがよかったのだ。いまは大半の病院・医院がこうした診察に怠惰になっているだけなのだ。 

≪05≫   が、四診には中医学独得の診察もあり、とくに「望診」では目や耳や爪を見ることを重視する。なかでも耳は「耳穴」に体各部の出先が"出張"していると考えられているので、じっくりと見る。耳に紅い点があらわれているときは体内に熱がこもっているとき、耳に黒点や紫点が見えるときは癌の前兆を疑うという。原発性肝臓癌のばあいはたいてい耳の「肝」に黒い隆起があるらしい。アトピーとのかかわりもほとんど耳の状態が訴えているとされる。 

≪06≫  脈診にも「関」「寸」「尺」があり、片手で6カ所、両手で12カ所にわたる脈を見る。そのうえで弦脈・軟脈・濡脈の区別、沈脈や伏脈の区別、さらには細脈・滑脈・渋脈の区別をする。脈の種類だけで十数種類があるというのだから、ものすごい。名医は脈診で大半の診断ができるらしい。NIRAの理事長として世界をまわっていた下河辺淳さんはアジアの各地をくまなく訪れている人だが、各地で必ず脈診だけはしてもらってきたようで、その体験によると、脈診では中国の医者よりもチベットの医者がすばらしかったと言っていた。 

≪07≫  四診の次に弁証法をたてる。治療方針の立案である。 大きくは「八綱」「気血津液」「臓腑」「病因」「外感熱病」などがあり、外感熱病がさらに六経、衛気営血、三焦などの弁証法に分けられる。 

≪08≫  もともと中医学では患者の表面にあらわれた自覚的他覚的な症状を「標」といい、その奥の原因にあたるものを「本」という。弁証法をたてるにはこの「本」をめざし、「標」を落とす。まるで孫子の兵法かゲリラ戦術をおもわせる。標治は対症療法、本治は根本治療にあたる。 

≪09≫  こうしていよいよ経穴(つぼ)をいくつか選んで、これを圧したり、をあてる段階になる。これが「打診」だ。予診でもある。 

≪010≫  いわば当たりをつけるわけで、本格的な治療にかかったわけではない。ところがこれでずいぶん多くの症状が和らぐ。そこでこのレベルの打診を拡張してそれたげの治療にあたる専門師がしだいにふえてきた。これが「指圧」である。われわれも日ごろ体験しているように、名人達人鉄人クラスの指圧師はいくらもいるだろうが、中国医学ではこれを医療とはよばない。 

≪011≫  本格的な鍼灸が始まるのはこのあとなのだ。経絡と経穴を選びこみ、ここに鍼を選んで直刺、斜刺、横刺を施す。経絡をまちがわないようにするのが根幹である。そこに鍼を刺し、また打っていく。ここにも微妙な多様性がある。 

≪012≫  たとえば鍼を刺す角度にもいろいろあるのだが、鍼にはまわしかたもあり、左にまわす「補法」、右にまわす「瀉法」とでは効果がまったく変わってくるものだという。それだけではなく、炙った鍼による焼鍼、隆起部分に集中させる斉鍼、患部組織の周囲を刺鍼する囲鍼などもある。恐るべし中医学。 

≪07≫  四診の次に弁証法をたてる。治療方針の立案である。 大きくは「八綱」「気血津液」「臓腑」「病因」「外感熱病」などがあり、外感熱病がさらに六経、衛気営血、三焦などの弁証法に分けられる。 

≪08≫  もともと中医学では患者の表面にあらわれた自覚的他覚的な症状を「標」といい、その奥の原因にあたるものを「本」という。弁証法をたてるにはこの「本」をめざし、「標」を落とす。まるで孫子の兵法かゲリラ戦術をおもわせる。標治は対症療法、本治は根本治療にあたる。 

≪09≫  こうしていよいよ経穴(つぼ)をいくつか選んで、これを圧したり、鍼をあてる段階になる。これが「打診」だ。予診でもある。 

≪010≫  いわば当たりをつけるわけで、本格的な治療にかかったわけではない。ところがこれでずいぶん多くの症状が和らぐ。そこでこのレベルの打診を拡張してそれたげの治療にあたる専門師がしだいにふえてきた。これが「指圧」である。われわれも日ごろ体験しているように、名人達人鉄人クラスの指圧師はいくらもいるだろうが、中国医学ではこれを医療とはよばない。 

≪011≫  本格的な鍼灸が始まるのはこのあとなのだ。経絡と経穴を選びこみ、ここに鍼を選んで直刺、斜刺、横刺を施す。経絡をまちがわないようにするのが根幹である。そこに鍼を刺し、また打っていく。ここにも微妙な多様性がある。 

≪012≫  たとえば鍼を刺す角度にもいろいろあるのだが、鍼にはまわしかたもあり、左にまわす「補法」、右にまわす「瀉法」とでは効果がまったく変わってくるものだという。それだけではなく、炙った鍼による焼鍼、隆起部分に集中させる斉鍼、患部組織の周囲を刺鍼する囲鍼などもある。恐るべし中医学。 

≪013≫  体系的な中医学の出発点は紀元前5世紀の『黄帝内経』にまでさかのぼる。それ以前にすでに鍼灸に誓い治癒法があって、骨鍼・竹鍼・石鍼などが先行し、紀元前10世紀ころから銅鍼や鉄鍼があらわれた。 

≪014≫  これらによる原始古代期の鍼灸治癒成果を集大成したのが『黄帝内経』で、現存本では「素問」「霊枢」の2部構成になっている。そのうちの「霊枢」全81篇に経絡経穴学説がまとめられ、俗に『針経』とも『九霊』とも尊重された。理論付けには陰陽五行説が駆使されているが、実際的な十二経脈・十五絡脈・十二経別・十二経筋がすでに列挙された。この『黄帝内経』をうけて後漢のころに『難経』が著された。それを克明に注解したのが宋の王惟一の『難経集注』や元の滑寿による『難経本義』で、おおいに巷間に流布した。 

≪015≫  ちなみに日本には平安時代にこの『難経』が入っている。このあたりのこと、小曽戸洋さんの『中国医学古典と日本』(塙書房)という大著に詳しい。 

≪016≫  ともかくも、こうして体を経絡と経穴で見るという見方が広まった。いまでは経絡を「経脈」と「絡脈」に二大別し、その経脈のほうに十経脈と奇経八脈を、絡脈に十五絡・孫絡・浮絡をあげているのが定番らしい。ただし『黄帝内経』では経穴はまだ160穴しかあがっていない。 

≪017≫  その経穴が時代がすすむにつれてしだいにふえていったわけである。皇甫謐の『鍼灸甲乙経』で349穴、宋の時代で354穴になり、明の楊継洲がまとめた『鍼灸大成』(1601)で359穴、清の呉謙『医宗金鑑』(1742)で361穴になる。いまでは1000穴を越えているという。 

≪018≫  鍼医学では、経絡を流れる経気を経穴から拾い、その響きを得気して、全身の有機性に返していくということをする。だから基本は瀉法というもので、体内の過剰状態を解消することを治療哲学としているわけなのである。 

≪019≫  東洋医学には鍼灸医学だけが発達したわけではない。古代中国にすでに『黄帝内経』とともに、本草学のバイブルで漢方薬の原点を示した『神農本草経』、その漢方の湯液医学のバイブルである『傷寒論』があり、古代インドにアユール・ヴェーダ医学、イスラムにユナニ医学があった。 

≪021≫  が、そんなことよりも、いったいこのような東洋医学がどのような治癒力をもっているのか、いまだ医学理論や医療技術は解明していない。だいたい経絡やナーディ管に何が流れているのかさえ、わからない。中医学ではその流れているものを「経気」というが、その「気」がわからない。また、その経気が集約される経穴が何だかわからない。西洋医学ではこれらはさっぱりお手上げなのだ。 

≪020≫  これらに今日性があるかどうかは、いま議論されている最中である。たとえば経絡はインドではナーディ管とよばれているが、中医学にはチャクラにあたるものがなく、インド医学には経穴にあたるものがない。これからの研究が待たれる。 

≪022≫  しかし、多くの中国人・日本人・韓国人にとって、また一度でも指圧や鍼灸をうけた欧米人にとって、経絡や経穴の"存在"には確固たるものである。原因結果の医学理論が介在しなくとも、効き目や治癒をめぐる"合理"というものはあるものなのだ。 少なくとも、鍼灸はともかくとして、ぼくは指圧なしにはこの世の日々を送れない。