日本とは何か()


≪01≫  ひとつは久々に奈良に行った。コシノジュンコさんに頼まれての仕事であったが、駅を出たとたんに深い古都の呼吸がゆっくり遠近(おちこち)にゆきわたっているのがすぐ伝わってきて、やはりここにはときどき来なくてはいけないと感じた。 べつに聞きまわったわけではないが、京都の者は奈良にはちょっと言い難い感情のようなものをもっている。古くさい、辺鄙やね、行きにくい、じじむさい、それに、ええ店がない、おいしいもんがない、人がようわからん、そやけど、静かやな、懐かしい、空気がきれい、ただ、好きなとこが決まらへん、もの申してへんからや、侘びというより寂しいな。 

≪02≫  こういう印象が入り交じっている。ぼくはこのような感情に違和感をもってきたけれど、おそらく京都と奈良のあいだには、いまなお何かが融和していない。 ぼく自身は奈良で正月をおくるのが好きだったほど、この古都の風情が京都には絶対にないものだという確信があるのだが、さて、これをどう伝えるかとなると案外に難しい。その奥には、そもそも五感に響いている奈良が、修学旅行体験や学生時代の旅の中にうずくまったままになっていて、あまりに「遠いもの」の思い出のようになってしまっていることがあるからなのだろう。 そんなことを思い出しているうちに、和辻哲郎の『古寺巡礼』を久々に開く気になったのだった。 

≪03≫  もうひとつはこの二週間の数日を、中公文庫に入ることになった『遊学』のゲラ校正にあてていたのだが、何度か「若書き」ということを考えざるをえなかった。 ぼくが『遊学』のもととなった「存在と精神の系譜」を『遊』に書いたのは31歳のときである。古今東西の哲学者・科学者・芸術家たち142人を相手に、1日を読書にあて1日を執筆にあてるという日々だった。数カ月にわたったものの、一気に書いたという印象がある。当時、それなりに話題になったものではあったけれど、これを大和書房が大冊として刊行したいと言ってきたときに10年ぶりに読んで、そこに渦巻く渇望感や断定力や速度感に「若書き」を感じ、さあ、これはどうしたものかと思った。  

≪04≫  そこで少々の手を入れたのだが、今度、それをまた今度文庫にするにあたってゲラになったものを読むと、またまた「若書き」を感じてしまった。考えこんでしまうほどだった。文庫の解説を担当してくれた高山宏君によると、その「若書き」の清新なところがいいんだと言ってくれるのだが、どうも本人は変な気分なのである。そこで、文庫化にあたってもまたもともとの文意を活かしたままで加筆訂正をした。これが予想外の難行苦行だったのだ。 

≪05≫  和辻の『古寺巡礼』が出版されたのは大正8年(1919)で、30歳のときである。前年の5月に友人たちと奈良を旅行して、その感想を『思潮』に5回連載したものをまとめた。ぼくが「存在と精神の系譜」を書いたときとまったく同じ年代の執筆なのだ。 しかも和辻もまたこの文章の「若書き」が嫌だったようで、何度か手を入れ、結局、昭和21年の全集には書きなおした文章のほうを収録した。われわれはそれを読んでいるわけである。   

≪06≫  ところがあるとき、谷川徹三が元の文章と改訂後の文章とをくらべて、こういう感想を述べた。 「たしかに改訂版の方が段ちがいによくなっている。しかし和辻さんが削除した言葉には、感激による誇張があるにせよ、実感の生なましさが素直に出ていて、捨てがたいものがある。と同時に、後に学者として大成した和辻さんが、生来感覚の鋭敏な、感受性の豊かな、さらに感情量の豊かな大きな人であったことを証している点で、学者としての和辻さんの理解に資するものをも含んでいる。学者としての和辻さんは、それに溺れ、それに身を任せることを厳しく拒んだ。しかし、和辻さんの学問を豊饒にしたものが、ほかならぬ、その学者として和辻さんが拒んだものであったことを私は信じざるを得ない」。 

≪07≫  和辻の『古寺巡礼』は名文ではないし、伽藍塔頭や仏像に関する感想も、特段に鋭いというものではない。しかし、そこに漲る感受性といったら、これはたしかに説得力があるし、なんといっても自分の感情を偽っていない。ぼくは旧版は知らないが(ほとんどが知らないはずだが)、察するに、もっとナマ感受性をナマな言葉で書きつけていたのだろう。それはしかし本人には居ても立ってもいられなかったわけである。 

≪08≫  まあ、こういうようなことが重なって、今日の本を和辻の『古寺巡礼』にしたわけである。さっきざっと読み返してみたが、いまではぼくのほうが詳しいことも多く、その感想に教えられることは少なかったけれど、きっとここは「若書き」ではもっと直截で生硬な言いまわしだったのだろうなと感じられるところが多々あって、そういう箇所ばかりに奇妙な感慨をおぼえた。 

≪09≫  しかしあらためて感じたこともある。それは、古寺仏像をめぐって何かを語るという様式を、和辻が自分でオリジネートしたということである。和辻はイデーとエチカの人である。哲学者としては抽象を好み、感覚はモダン(近代)そのものにある。その和辻が“じしむさい”奈良の古寺仏像を前に、リアルタイムで何かを語る。いや正確にいえば、「そのように語っているような文章」を書いた。これは当時から大評判になったのであるが、このような様式と方法をおもいついたということが、画期的だった。 イデーとエチカの思索に耽るモダンの旗手が、古びた奈良で何を感じたか、そのことをどうにかしてでも書いてみようと思ったところが、和辻の発見なのである。 

≪010≫  なんであれ、新しい様式と方法に挑んだ者こそもっと評価されてよい。歴史はそこに拓いていく。蒸気機関車やウィリアム・クルックスに、桑田佳祐やたらこスパゲッティに、そして、徳富蘇峰や和辻哲郎に。 

≪011≫  和辻はその後も、『風土』と『鎖国』において、それまでだれも気がつかなかった問題を俎上にのせて、ひとつの「型」をつくりあげた。その主旨がその後の知識人にどのように継承されたかではなく(それをやっと継承したのは日本人ではなく、フランス人の風土学者オギュスタン・ベルクだった)、そのような「型」があることを最初に披瀝したことが評価されるのである。和辻は『日本精神史研究』で本居宣長の「もののあはれ」にふれたのであるが、これも宣長以降は誰もふれてこなかった話題だった。九鬼周造は、この和辻の開示があったから、「いき」をめぐる仕事にとりかかる気になれたと言っている。 そうした和辻の勇気のなかで、そろそろそのことを議論する者が出てきていいと思っているのは、和辻が「日本精神」を問題にしたことである。 

≪012≫  和辻がそのことを持ち出したのは昭和9年の「日本精神」という論文が最初なのだが、そのなかで、明治中期の日本民族主義の高揚は何だったのかを問うた。 日本人の「国民的自覚」はなぜ度しがたい保守主義のイデオロギーになってしまうのかということを問題にし、とくに日本人の衝動性を批判した。そして「日本精神」とは、そういうものではないのではないかという疑問を呈し、自分でひとつの答えを書いてみせたのだ。それは「日本を重層的にとらえることが、むしろ日本人の日本精神を明確にすることになる」というものだった。  

≪013≫  実はこの論旨はかなり不備なもので、いま読むとそれこそ「若書き」ではないかとおもえるのだが、また、この手の議論にありがちの「日本の特殊的性格」を言い出しているのが残念なのだが、それを別にすると、この議論の仕方もその後にずっとつづく日本人論のひとつの「型」をつくったものだった。 こういうところが和辻には随所にあったのである。日本人の「町人的性格」を問題にしたのも和辻だった。石田梅岩の心学をとりあげた最初であった。 これらの“発見”が、結局は『風土』では日本人のモンスーン性を浮き上がらせ、『鎖国』では誰もが目を伏せて語っていた鎖国に積極的な意味を持たせることになった。 

≪014≫  アインザームカイトというドイツ語がある。孤独のことだが、どちらかというと「ひとりぽっち」のニュアンスがある。漱石の『行人』の主題がこれだった。しかしこのアインザームカイトは世界に向かって「ひとりぽっち」なのであって、世界と無縁な孤独なのではない。 

≪015≫  和辻哲郎が生涯をかけたのは倫理学だった。『倫理学』全3巻を仕上げた。そこで追求されたのはアインザームカイトにいる人間がどのようにして「構造的契機」をもつかということだった。和辻倫理学の特色は、無知や孤立や絶望そのことを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なのである。これは和辻の『古寺巡礼』にすでに書かれていたことだった。  

≪016≫  和辻は、奈良は1500年の古都ではないと書いたのだ。むしろ奈良は、何度にもわたる焼亡をへて再建され、再興されたのだと書いた。それでいて古都の趣きを失わなかったのである。京都人たちはこのような奈良をいまなお“発見”できないでいるのかもしれない。 

≪01≫  大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。 

≪02≫  驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。 

≪03≫  たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。 

≪04≫  そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。 

≪05≫  そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。 

≪06≫  けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。 

≪07≫  それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。 

≪08≫  かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。 

≪09≫  五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。 

≪010≫  若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。  

≪011≫  それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。 

≪012≫  それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。 

≪018≫  明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第98夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。  

≪019≫  明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身である。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたした。さらに高橋健三とは日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつけた。まだなお28歳である。 

≪020≫  東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったかは省略する。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから、あとは想像がつくだろう。ともかくもここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽した。それまで日本画という言葉はなかったのだ。大和絵か国画か和画だった。 

≪021≫  ぼくが感嘆したのは、この美術学校時代の天心の美術史講義である。帰国したフェノロサに代わって担当した。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』はごく端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるのだろうが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。 

≪022≫  ともかくもこのころの天心の境涯、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ(あまり知られていないが第758夜鴎外を美術解剖学の講師として招いたりもして)、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催した。ここにおいて、天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させたのだ。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」なのである。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだったのである。 

≪023≫  ここまでまとめていえば、天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させていた。いわば文化行政のすべてにおいて試行しなかったものはなかったのである。なぜここまで手を打てたかということは、うまい説明がない。おそらくは天心が「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていたこと、すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていたためではないかと、ぼくは読んでいる。 

≪024≫  しかし、そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。その後の経緯ははぶくけれど、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。 

≪025≫  これでは学校は蛻(もぬけ)の殻である。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったのだが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師であってコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。 

≪026≫  この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」である。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を、ときどきもったという。 

≪027≫  その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。 

≪028≫  またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものである。いずれも天心は世界と対峙したという実感をもったにちがいない。 

≪029≫  しかし天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明するのである。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ。西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいである。 

≪030≫  けれどもどんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくていよいよ五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移ったのは大観・観山・武山・春草である。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だったという。 

≪031≫  この先の点景は書かないですますことにする。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていくのだが、今夜はどうもそれを書く気分になれそうもないからだ。 

≪032≫  むろんその寂寞は天心が望んだことだった。それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。とはいえ、この寂寞は天心ほどの者をも静慮させるのだ。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をしたものだ。それでもハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴がじょじょに大きな空洞になっていくだろうという予感をもたらした。つまりは天心は日本の将来に不安をもったのであり、ということは日本の本来が失われていくであろうことを直観したのであり、そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていたのだった。  

≪033≫  それを天心の言葉で端的にあらわすなら、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになろう。想像力が負の花を咲かせるのである。ほんとうは、ここから先こそぼくが書かなければならない天心なのだが……。 

≪034≫ モナドロジー 

≪035≫ なお、本書はいろいろの版が出ているが、日本語としては岩波文庫が、英文が併設されているものとしては学術文庫が入手しやすくよくできているので、二冊を併記しておいた。また、その後に五浦は修改がおこなわれ五浦美術館として(内藤廣設計)、また茨城大学五浦美術文化研究所による五浦美術叢書の刊行も始まった。実は『岡倉天心アルバム』というものすらこれまでなかったのだが、これも五浦美術文化研究所の監修で、やっと中央公論美術出版から陽の目を見ることになった。 

≪01≫  こんな魅力のある人は少ない。民族音楽の探求者としても、日本音楽の再発見者としても、その楽器愛においても、声の柔らかいところも、笑顔が最高だったことも、みんなとの遊び方も。 

≪02≫  残念ながらぼくは3度しか会っていないし、家に遊びにいって民族楽器をいじらせてもらったのも1回で終わってしまった。もっと会っておきたかった。 

≪03≫  小泉さんは急に死んでしまったのである。56歳だった。 少なめの著書は残っているし、ビデオもある。多くの者が影響をうけてもいるから、後継者も少なくない。けれども、もっと生きていてほしかった。ぼくが民族音楽に関心をもち、そのまま日本音楽にも現代音楽にも入っていけたのは、順にいえば杉浦康平(参考:自著本談『遊』)と小泉文夫と、そして武満徹のおかげだった。 

≪04≫  その小泉さんの紹介に本書が一番ふさわしいかどうかはわからない。ぼくは小泉さんの本をすべて読んできたが、いまの気分で『音楽の根源にあるもの』がいいか、『呼吸する民族音楽』がいいか、『音のなかの文化』がいいか、ともかく全部読んでもらいたいのだから、一冊を選べない。とりあえず『日本の音』にした。小泉さんの短すぎたけれど貴重きわまりない生涯については、岡田真紀さんの『世界を聴いた男・小泉文夫と民族音楽』(平凡社)を読んでもらいたい。坂本龍一が帯を書いている。 

≪05≫  本書は「世界のなかの日本音楽」というサブタイトルがついている。最初に「普遍性の発見」とあって、日本音楽は特殊でもないし未発達でもないことが強調される。 

≪06≫  このテーマは小泉さんの独壇場のもので、とくに4種のテトラコルドをもってさまざまな日本音楽の特質を”発見”したことが有名だった。「民謡のテトラコルド」「都節のテトラコルド」「律のテトラコルド」「琉球のテトラコルド」である。テトラコルドというのは2つの核音にはさまれた音階の枠のことをいう。 

≪07≫  日本音楽は主に5音音階をつかうのだが、わらべうた・三味線・尺八などの音楽ではこの4種のテトラコルドを絶妙に組み合わせてつかっている。5音音階とは1オクターブの中に5つの音があるということで、その成り立ちからみると、2つのテトラコルド、すなわち4度の枠でできあがっているというふうになる。 

≪08≫  「民謡のテトラコルド」では、下から数えて短3度のところに中間音がくる。わらべうたや民謡で最も重視されているテトラコルドだが、小泉さんはそれが朝鮮・モンゴル・トルコ・ハンガリーにも共通していることを“発見”した。のちにこれは「ラレ旋法」とも名付けられた。 

≪09≫  「都節のテトラコルド」では中間音が短2度のところにくる。このテトラコルドを二つ積み重ねると、いわゆる「陰音階」、すなわち都節になる。わらべうた「ひらいたひらいた」にはこの陰音階が最初に出てくる。 

≪≪010≫  ぼくが最初に惹かれていったのが、この都節のテトラコルドだった。ここからほくは常磐津に、富本に、さらに清元へと入っていったものだったけれど、小泉さんはそれがインドネシアやアフリカにもあることを、手元の楽器をつかってにこにこしながら説明してくれたものだ。そういうときの小泉さんは陽気な魔法使いのおじさんのようだった。 

≪011≫  「律のテトラコルド」は雅楽を成立させている枠組で、長2度の中間音をもつ。律というのは、古代中国の音楽理論であった「宮・商・角・微・羽」の5音音階で構成した「律」(ドレファソラ)と「呂」(ドレミソラ)の音階システムから派生して日本に定着したもので、しばしば「呂律がまわらない」などと日常にも言われる、その律である。『越天楽』『君が代』(言葉の景色『陸達唱歌』もどうぞ)が律の音階の代表だろう。いわば「ソレ旋法」である。 

≪012≫  この「律のテトラコルド」がひとつ落ちていって、のちに確立してきたのが「都節のテトラコルド」なのであることも、小泉さんが最初に言い出したことだった。 

≪013≫  「琉球のテトラコルド」は長3度の中間音をもつもので、日本では沖縄にしか見られないが、アジアに耳を澄ますと、台湾・インドネシア・インド・ブータン・チベットに同じテトラコルドが生きていることがわかる。元ちとせの歌がそうであるように、これは「ソド旋法」である。 

≪014≫  日本の伝統音楽は、たいていこれらのテトラコルドを組み合わせている。 

≪015≫  たとえば『通りゃんせ』は空間的にいえば、下に「民謡のテトラコルド」をおき、その上に「都節のテトラコルド」を櫛の歯のように差していった。上下の真ん中に共通の核音があることをいかした工夫なのである。こういう方法をコンジャンクションという。 

≪016≫  これに対して、沖縄の『たんちゃめ節』のように1音離れて接続させる方法をディスジャンクションという。 

≪017≫  このコンジャンクションとディスジャンクションの話もよくしてくれた。たしか、観世流の弱吟(よわぎん)は民謡と同じコンジャンクトからディスジャンクトに移っているところに特徴があるんですよといったふうに。 

≪018≫  このときは、もっと話が脱線していって、たとえば「松岡さんが好きだという森進一ね、あれは新内なんでです。西洋音楽のいっさいから自由になってますね」とか、「ピンキーとキラーズの『恋の季節』はね、あれは何だと思います? 『あんたがたどこさ』なんですよ。ラドレミソラのね」といった話も次から次に出て、ぼくはもう感心したっきりだったのである。 

≪025≫  ぼくもこんな話をよく聞いた。 「いま手鞠唄が唄われなくなったのはね、それは手鞠がゴムボールになったからですね。だってゴムボールはポンポン撥ねて速いリズムになっていく。これでは手鞠唄は合いません。あれは糸を巻いてつくったものなんですから」。 

≪026≫  「エスキモー(イヌイット)の歌を収集したんですが、あれはまさに呼吸音楽ですね。寒いからゆっくり息を吐いていたら凍えてしまうんです。だから早い呼吸で口元からリズムを出していく。エスキモーの人は体を鞴(ふいご)のような楽器にしているということなんですねえ」 

≪027≫  こういう話をする人がいなくなってしまったのだ。誰かがこんなことをまた言ってほしいものである。たとえば、こんなぐあいに。 

≪028≫ 「ねえ、浜崎あゆみっていますね。あれはちょっとブルースをまぜた豊後節ですね。でも豊後節にしてはハリがない」。 

≪01≫  そこでついつい華やいだ気分で花街を眺めたくなるのだが、しかるに本書は、全10章が起承転結の4部構成になっていて、それに附章「男色の世界」がつき、さらには古今の有名遊女芸者の名前一覧から詳細な参考図書案内まで、ついでに天平2年から昭和末年におよぶ「日本花街年表」が加わって、徹底して花街気分を殺して資料づくめで眺めようという集大成なのである。 

≪02≫  本書は資料厖大だが、全体の視点の軸は京都花街の歴史においてある。 これは藤本箕山の『色道大鏡』が「何事も、まず京を手本としてみれば、諸郭のことはそれぞれの作配にて、これをわきまふるにかたからず」と述べているところと同じ視点ということで、実際にも日本の公式遊郭は天正17年に京都二条柳町(その後に六条三筋町)をもって嚆矢とするのだし、そのずっと前の貞和3年の『師守記』には下北小路西洞院に傾城屋があった記録もある。京都の花街はその後も島原・墨染をはじめ変遷はしてきたものの、今日の祇園・先斗町に代表される華やぎが衰えたことはなかった。 

≪03≫  むろん江戸の吉原・元吉原をはじめ、全国には花街はそれこそ網の目のように張られていたけれど、さて歴史を通して一貫したものが今日まで流れているところというと、やはり京都の花街が視軸になってくるのだろう。 

≪04≫  こうした遊里の歴史は、かつては中山太郎『売笑三千年史』か、上村行彰の『日本遊里史』か、滝川政次郎『遊女の歴史』か、と相場が決まっていた。 みんなこれらをどこかで入手して読みこんだ。 ところが敗戦後の民主主義、男女平等の掛け声、さらには売春防止法あたりをきっかけに、しだいに遊里も廃れ、ついではフェミニズムが台頭するなかで、遊女を男の勝手なロマンティシズムのままに綴るテキストに非難が集中して、花街遊郭の研究などまったく学問の場からは追いやられていた。 それがやっと復活してきたのは江戸文化ブームあたりからで、そういう意味では田中優子や杉浦日向子たちの陽気で妖しい活躍が大きかった。二人は自身が遊女そのものの応援者でもあった。 

≪05≫  で、京都の花街であるが、なぜ今日にいたっても廃れていないかというと、いくつか理由がある。 まずは明治3年に東京遷都となって京都が死都と化すのではないかと心配されたとき、「万亭」の一力杉浦治郎右衛門と京都府知事になった槇村正直の乾坤一擲が大きかった。 

≪06≫  槇村・杉浦コンビの最初の乾坤一擲は、第2回京都博覧会の附博覧で「松之家」を会場とした明治5年の「都をどり」である。井上流八千代こと片山春子の振付は伊勢の「古市おどり」にヒントを得たものだったが、これが大当たり。すぐに毎年の行事となり、井上流は篠塚流に代わって祇園町の芸の指南を担当した。 

≪07≫  槇村・杉浦はさらに婦女職工引立会社を設立、娼妓解放令を徹底するとともに婦女子の就職運動に乗り出した。建仁寺裏の敷地を祇園町に払い下げたのも大きく、ここに歌舞錬場、婦人寮、病院、女紅場、茶園、養蚕場などが次々に建てられた。 

≪08≫  先斗町のほうは娼妓の多い色街だったのが、明治になって芸妓を中心に転換をはかったのがよく、明治28年からは「鴨川おどり」を継続させ、祇園が甲部・乙部に分かれたあとは乙部や宮川町とくんで芸妓救済所を設立したり、昭和2年には温習会の翠紅館をはやくも鉄筋コンクリートにして、たえず革新をはかってきた。 

≪09≫  このほか京都には、最も古い島原をはじめ、宮川町、五番町、上七軒、七条新地、辰巳新地、中書島、墨染、撞木町などの花街がずらりと揃っていた。 客も多かった。大正初期で宮川町だけで年間遊客が27万人、大正後期は宮川町が40万人をこえ、祇園乙部で30万人に達している。ちなみに同時期の甲部が15万人、五番町が3万6000人、上七軒で1万3000人になっている。迎える側も、昭和6年で芸妓娼妓の数は5000人をこえていた。これらが鎬を削りあい、妍を競いあって、つねに栄枯盛衰をくりかえしたのが、京都に花街風情を廃れさせなかった理由なのだろう。与謝野晶子や吉井勇には、そんな花街の歌が頻繁に詠まれた。 

≪010≫  昭和33年の売春防止法の実施以降は、その京都もさすがに廃業するところがどっとふえ、バーやスナックに転向するところも多かった。仕方がないことだ。いまでは祇園の舞妓といっても地方出身者ばかり、これも仕方のないことだ。 数年前、この男が祇園で遊ばなくなったら祇園も終わりかなと言われていた若旦那のM君が、もうつまらんわと言って祇園通いをやめた。古い女将の転業も相次いでいる。こんなぐあいなので、花街文化史とはいっても、京都にも大きな危機がおとずれている。 

≪011≫  けれども他方で、井上三千子さんは八千代さんになってますます芯が立ち、京舞も新たなウェーブを迎えているようだし、ぼくが贔屓の女将かつのさんは「山形」をあんじょうに賑わせている。歌舞錬場も改装されて座りやすくなった。二、三度寄ってみたところ、金沢の東の郭に出入りする芸者さんの意気地も、どうやらふたたびハリをもってきた。 きっと花街が日本からなくなるなんてことは、ありえないにちがいない、と思いたい。 

≪09≫  このほか京都には、最も古い島原をはじめ、宮川町、五番町、上七軒、七条新地、辰巳新地、中書島、墨染、撞木町などの花街がずらりと揃っていた。 客も多かった。大正初期で宮川町だけで年間遊客が27万人、大正後期は宮川町が40万人をこえ、祇園乙部で30万人に達している。ちなみに同時期の甲部が15万人、五番町が3万6000人、上七軒で1万3000人になっている。迎える側も、昭和6年で芸妓娼妓の数は5000人をこえていた。これらが鎬を削りあい、妍を競いあって、つねに栄枯盛衰をくりかえしたのが、京都に花街風情を廃れさせなかった理由なのだろう。与謝野晶子や吉井勇には、そんな花街の歌が頻繁に詠まれた。 

≪010≫  昭和33年の売春防止法の実施以降は、その京都もさすがに廃業するところがどっとふえ、バーやスナックに転向するところも多かった。仕方がないことだ。いまでは祇園の舞妓といっても地方出身者ばかり、これも仕方のないことだ。 数年前、この男が祇園で遊ばなくなったら祇園も終わりかなと言われていた若旦那のM君が、もうつまらんわと言って祇園通いをやめた。古い女将の転業も相次いでいる。こんなぐあいなので、花街文化史とはいっても、京都にも大きな危機がおとずれている。 

≪011≫  けれども他方で、井上三千子さんは八千代さんになってますます芯が立ち、京舞も新たなウェーブを迎えているようだし、ぼくが贔屓の女将かつのさんは「山形」をあんじょうに賑わせている。歌舞錬場も改装されて座りやすくなった。二、三度寄ってみたところ、金沢の東の郭に出入りする芸者さんの意気地も、どうやらふたたびハリをもってきた。 きっと花街が日本からなくなるなんてことは、ありえないにちがいない、と思いたい。 

≪01≫  船坂弘の道場で剣道着を半ば脱いだ三島由紀夫と話したのは、泉鏡花のこと、月岡芳年のこと、そして志賀重昂のことだった。この三人のところで日本が変わったというのである。 

≪02≫  「この三人のところ」というのは、この三人は少なくとも三島のいう「日本」を死守しようとした者たちだったが、この時期に他の「日本」は失われはじめたのではないかということである。この時期とは「明治20年代がおわると」という意味だ。 

≪03≫  「明治20年代がおわると」とは、明治33年が1900年だから、日本は20世紀に突入することになる。当時はそういう西暦感覚はいまほど強くなかったので、これはいいかえれば1900年の前が日清戦争、後が日露戦争なので、この日清と日露のあいだあたりから「佳き日本」が失われはじめたのではないかという意味になる。 

≪04≫  しかし、これは三島が感じていたというよりも、当時の日本人がなんとなく感じ、かつ何人かの勇猛果敢な思想者たちが痛切に焦慮していたことでもあった。 

≪05≫  志賀重昂が、三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南・井上円了・島地黙雷ら13名と政教社をおこして、「日本人」という雑誌を創刊したのが明治21年(1888)である。  

≪06≫  雑誌名は主宰格の三宅雪嶺がつけた。「日本人」創刊祝いの日、徳富蘇峰も加わって、全員が後藤象二郎の邸宅に招かれた。このとき後藤が全員に大同団結を勧めた。勧めたというより煽ったのであろう。煽る理由があった。この3年前、福沢諭吉が「時事新報」に有名な「脱亜入欧」を唱えていた。鹿鳴館に象徴される洋風文化をかれらが嫌ったわけではないが、そうした風潮の底流に「日本」が軋みはじめているという感想を全員がもっていたからだ。 

≪07≫  もっと政治的に緊迫した事態も迫っていた。条約改正をどうするかという懸案の問題が急激に浮上していて、時の黒田清隆内閣の大隈外相がどのように条約改正にとりくむかということが風雲急を告げていた。すでに松方内閣の外務卿井上馨の改正案のときは、領事裁判権の撤廃の主張まではいいのだが、それとひきかえに外国人法官の任用を約束したという裏取引がすっぱ抜かれ、すでに日本の国力の脆弱が暴露されたばかりなのである。 

≪08≫  雑誌「日本人」はそのような風潮に「待った」をかけるためのものだった。 

≪09≫  つづいて帝国憲法が発布された明治22年に、陸羯南が日本新聞社をおこして新聞「日本」を創刊した。これは弱腰の条約改正案に鮮明な反対の狼煙をあげるためのもので、蘇峰・雪嶺も応援にかけつけたし、日本新聞社には池辺三山・中村不折・正岡子規らも入社してきた。杉浦重剛が編集監督をひきうけた。 

≪010≫  このような「日本」を標榜する思想や運動は、その後の歴史観からみると国粋主義あるいは日本主義ということになるのが”常識”なのだが、当時はこれを「国民主義」と言った。 

≪011≫  志賀重昂の『日本風景論』はこの国民主義の台頭と軌を一にしていたのである。 

≪012≫  こうして日本は日清戦争に向かって突進していった。条約改悪派もその反対派も、自由民権派もいよいよ生まれつつあった若き社会主義者たちも、ともかくもこの戦争だけは突破しようと一致した。まさに戦争の最中に発売された『日本風景論』は大ベストセラーになった。 

≪013≫  しかし、1900年をまたいで、日本が今度は日露戦争にとりくむところにくると、「日本及び日本人」にも「日本の社会主義」にも変質がおとずれる。かつて日清には賛同した内村鑑三や堺敏彦をはじめ、日露には「非戦」の立場をとる者が続出した。では、何が日本の主張で、何をもって日本人の社会というべきかということが、三島のいう「この三人」の明治20年代がおわると、一挙に問われることになったわけである。 

≪014≫  剣道場の三島の話から始めたせいで、なんだか明治の大所高所の話になってしまったが、志賀重昂を読むにはむろん、以上の大所高所も重要である。  

≪015≫  実際にも志賀重昂の生い立ちが、そもそも明治の大所高所と深い関係がある。父親が昌平黌に学んだ学者で、幕末に岡崎藩を脱藩して榎本武揚の五稜郭に奔ったため、藩邸に蟄居させられたような人物だったし、志賀重昂自身も明治7年に上京して、最初は芝の攻玉塾に入って英語を学び、東京大学予備門の入学試験に合格してもこれに従わず、大望を抱いて札幌農学校に入って「世界主義」とでもいうべきを抱いている。 

≪016≫  その意志は大きく、卒業後は同郷の玉置政治の丸善に勤めることになるのだが、明治18年にイギリスが朝鮮全羅南道の巨文島を占領したというニュースを聞くと、居ても立ってもいられなくなって、軍艦筑波に便乗して対馬へ、さらにはフィジー、サモアの南洋諸島からオーストラリア、ニュージランドまで赴いた。 

≪017≫  この世界体験は終生、志賀を動かしたようで、その後、志賀は3回にわたって世界周遊を企てた。 

≪018≫  しかし、そうして世界を見れば見るほど、志賀の心は「日本」に戻っていたようである。そういう志賀重昂をかつて土方定一は「国を愛するが故に故国にとどまった者は多いが、国を愛するが故に遠くに赴いた者は少ない」と書いた。 

≪019≫  ぼくはいっとき岡崎の美術館のオープニングの仕事をしたことがあって、頻繁に岡崎を訪れていたことがあるのだが、そのとき中根岡崎市長に案内してもらって、志賀重昂の遺品の数々をつぶさに見せてもらった。ぼくがひとつひとつをゆっくり見ていると、市長は「志賀重昂っていったって、いまは岡崎の人間も知りませんで」と言っていた。なんといってもボロボロになった「重昂世界旅行鞄」とでも名付けたい大きな鞄が印象に残っている。 

≪020≫  ぼくはいっとき岡崎の美術館のオープニングの仕事をしたことがあって、頻繁に岡崎を訪れていたことがあるのだが、そのとき中根岡崎市長に案内してもらって、志賀重昂の遺品の数々をつぶさに見せてもらった。ぼくがひとつひとつをゆっくり見ていると、市長は「志賀重昂っていったって、いまは岡崎の人間も知りませんで」と言っていた。なんといってもボロボロになった「重昂世界旅行鞄」とでも名付けたい大きな鞄が印象に残っている。 

≪021≫  わかりやすくいえばガイド。もうちょっと正確にいえば日本各地の地質風土気象植生をめぐる地理学的分析書。難しくいえば、きわめて精神主義的な日本論なのだ。 

≪022≫  こんなことが山岳や湖水や植物動物のいちいちと一緒に重なって書けるかとおもわれるかもしれないが、当時の猛者にはこういうことこそ書けたのだ。フィジカルな解読とメンタルな説得が同時進行できたのである。 

≪023≫  かつてぼくがとくに気にいったのは、日本風景の根本を水蒸気と火山岩に絞って説こうとしたところ、およびそのような日本風景を観照する眼を「瀟洒」と「美」とそして「跌宕」(てっとう)から説こうとしたところで、とくに「跌宕」が炯眼だった。 

≪024≫  これはまさに雪舟が描こうとした日本の「真景山水」そのものと通底する眼であったとおもわれたからである。 

≪01≫  さあ、どう書くか。相手は青山二郎だ。「俺は日本の文化を生きているんだ」というのが口癖の青山二郎である。「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と小林秀雄に言わしめた。こんな男はそうそういない。いまでは、すっかりいない。 

≪02≫  だいたい青山の前で日本の美術や文化を語ってみせるというのがたいへんなことだった。たいていは一喝されるか、馬鹿にされる。大岡昇平がそういう場面に参入して揉まれることを「青山学院」と名付けたのも、頷ける。なにしろ10代後半にすでに古美術を買っていた。早くに中川一政に絵を習っていた。柳宗悦とは当初から組んでいたが、さっさと民芸を捨てた。 

≪03≫  武原はんと結婚してからは、そういう青山のところへ作家たちが次々に教えを請うた。そこには中原中也も河上徹太郎も中島健蔵もいた。宇野千代も秦秀雄も永井龍雄もいた。生徒代表は小林秀雄である。その「青山学院」にあたるものが、いま皆無となった。 

04≫  そんな青山二郎を、どう書くか。白洲正子さんが「芸術新潮」に『いまなぜ青山二郎なのか』を連載しはじめたばかりのときは、よくよく考えてのことだろう、洲之内徹の『セザンヌの塗り残し』から入っていった。 

≪05≫  小林秀雄が「いま、一番の批評家」とよんだ洲之内の文章から入るというのは、よほどシャレている。しかし、さんざん青山二郎と付き合って、青山をジィちゃんと親しく呼んできたあの白洲さんにして、そういうふうに青山二郎の語りはじめを慎重にしたくなるというのが、怖い。 

≪06≫  白洲正子にして青山二郎には何度も叱られてきた。ある日、壷中居で手に入れた紅志野の香炉を見せたとたん、「何だこんなもの、夢二じゃないか」と一喝されている。紅志野が夢二だというのではなくて、白洲が夢二の描く夢見る少女まがいになっているという意味である。 

≪07≫  若き白洲さんが何かのとき、「私、親孝行でしょ」といささか自慢げに言ったときは、「馬鹿野郎、親なんて借りものだ」と叱られた。これは小林秀雄にも「そいつは正子さんがダメだ」とこっぴどく叱られた。そういうことを一言でも言ってはいかんというのだ。仮にも日本文化だ、骨董だという者が親孝行なんぞを口にしてどうするか、という叱正である。 

≪08≫  が、こんなことはいまは通じない。青山二郎は現在から離脱した人なのだ。 

≪09≫  青山二郎がほとんど解読可能な文章をのこさなかったのも、やりにくい。とくに陶芸についての文章があまりない。いや、いろいろ書いているが、すこぶる暗示的か、別のことを書いて煙に巻くような見立て文なのである。 

≪010≫  どんな調子かというと、「見れば解る、それだけの物だ。博物館にあればたくさんである」という具合で、とりつくシマがない。「民芸の理論を抽象化した物は、一つ見ればみな分かるという滑稽な欠点をもっている」と言われても、困るであろう。そういう調子が多いのだ。 

≪011≫  たとえば、桃山の陶芸について、「長次郎と光悦が茶碗に手を付けた。彼らは最後に美に手を付けたのである」と書く。その通りだが、この意味を敷衍するのは難しい。また、長次郎らが「茶を犠牲にしても、茶人の身になって見たかったのだ。これが鑑賞家の芸術である」と続けた。これもよくわかる言葉だが、その意味を説明しろといわれると、困る。青山二郎がたいそう昵懇だった北大路魯山人についても、「魯山人も最高ではないが、他の連中が人も作品も引っくるめて魯山人以下なのである」と書く。これでわかるといえば全部わかるが、その青山を批評する手立てはない。 

≪012≫  どうして青山が陶芸についてストレートなことを書かないのか、むろん文章の職人ではないのだからうまくは書きにくいのだともいえようが、もっと別な気分があったにちがいない。ぼくはしばらくその理由が見えなかったのだが、こんな一文があった。  

≪013≫  「陶器に就いてこれまで書いたことがないのは、私の見た眼と言ふか、感じ方と言ふか、私の考へが一度も固定してゐた事がないからである」。 なるほど、これは見事な弁明である。 

≪014≫  そもそも青山二郎は陶器を見ていない。見るのではない。観じるのである。何を観じるかというと、陶器の正体を観じる。「見るとは、見ることに堪えることである」とも言うし、「美は見、魂は聞き、不徳は語る」とも言った。 

≪015≫  これでは鑑賞の言葉なんて一息に呑みこまれてしまう。外へ出てこない。語るようではオワリなのだ。禅僧に「貴僧が悟られた説明をしてください」と聞くようなもので、これでは「馬鹿野郎」と一括されるのがオチである。 

≪016≫  そういう青山二郎なのである。そして、そこがぼくが惹かれる青山二郎なのである。そういう青山がときに光を洩らすようにつぶやく文句は、まことに極上。とうてい文筆家はかなわない。そのひとつに、こんな名文句がある。「眼に見える言葉が書ならば、手に抱ける言葉が茶碗なのである」。 

≪017≫  青山の文章は『青山二郎文集』に尽きているのかとおもったら、「利休伝ノート」という未発表のものがあった。これが本書には収録されている。おもしろい。 

≪018≫  利休は誰にも理解されなかったというのが、青山の基本的な視点である。また、利休の根本思想には茶道も礼儀もなく、その“なさかげん”が茶碗に残ったというふうに見た。鑑定を強いられ、それに我慢がならなくなったという見方もする。 

≪019≫  まさに青山らしい。最もおもしろいのは利休をトルストイに見立てたところである。どうも青山にはカトリシズムに対する共感があるようなのだが、一方で高潔なアナキズムにも共感をもっていたようだ。きっとそういうところが出たのであろう。 

≪020≫  なんだか何も書けなかったような気がするが、最後にひとつ。中原中也が「二兎を追うものは一兎も得ず」ということを言ったときの青山二郎の返答をしるしておきたい。「一兎を追うのは誰でもするが、二兎を追うことこそが俺の本懐なのだ」。 

≪022≫  ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。 

≪023≫  そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。 

≪024≫  では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。 

身長160センチに満たなかった縄文人。顔は上下に小さく、受け口だった。
弓矢をもち、イヌを飼い、狩猟と採取と栽培に挑み、数々の土器を作って、精霊と交換していた。
縄文文化は一様ではない。原始的でもないし、たんにアニミスティックなのでもない。
そこには縄文人独自の「物語」があった。そこにすでに「聖呪」があったのである。
この原日本のルーツ。はたしてどう見ればいいのか。小林達雄ふうに見ればいいのだ。 

≪01≫  そのころぼくは、年に一度の“M's Party”(のちに玄月會)というものを催していたのだが、小林さんや土取さんや桃山さんはそのパーティでも多くの参会者と交じり、ときには朝まで残ってスタッフらと親しく交わってくれたりもしていた。パーカッションの異能者である土取さんが「縄文土器は楽器である」と確信できたのも、そのころだったと憶う。 縄文というと、このように、ぼくにはまず土取さんと桃山さんの生き方が思い出されるのである。二人が小柄だったことにもまつわっているのかもしれない。縄文人は男が157センチ、女は149センチほどだった。

≪02≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1283-01-g02.jpg 

≪03≫  どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。 

≪04≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。 

≪05≫  ただ縄文文化というもの、あまりにスケールが大きく、あまりに詳細で、かつあまりに多くの仮説が飛び交っていたので、われわれはすべからく達ちゃんファンでありながらも、その全体観を掴みかねていた。それが、小学館の大著『縄文土器の研究』と朝日選書の『縄文人の世界』によって、やっと小林縄文観に埋没できるようになった。そのあとは『縄文人の文化力』『縄文人追跡』などをへて、昨年の『縄文の思考』(ちくま新書)に至ると、もはや小林縄文観こそがゆるぎない定説になったことを感じたものだ。 

≪06≫  どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。 

≪07≫  たとえば土偶について、佐原真はヒトの形であると見ているのだが、小林さんは土偶はもっと抽象的で、あえてヒトの形になることを避けているんじゃないかと言うのだ(これは鋭い)。そうすると佐原さんが「顔を作ったのだっていくらもあるじゃないか」と切り返す。しかし、小林さんは「でも最初はない。中期の初頭までない。山形の西ノ浦遺跡の大きな土偶でもわざと顔をなくしている。顔が出てくるのはそのあとからだ」と反論する。 佐原さんもも引かない(二人とも意地っぱりである)。「幼児や子供はヒトをまず顔から描くように、縄文人もそうしたはずだ」と言うのだが(つまり稚拙にすぎないと言うのだが)、小林さんは「それなのに縄文人はあえて顔を避けている。だからこそここには何かの意味がある」と言い、「それって何?」と迫る佐原真に、「あれはヒトではなくて、精霊なんですよ」と言ってのけるのだ。  

≪08≫  これはどうみても、達ちゃんの勝ちである。佐原真は「だったら神なんだね」と意地悪く念を押すのだが、そこには不満そうに「うーん、神でもいいけれど‥」と先輩をたてつつも、さらにミミズク土偶・山形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶の当部はたとえ顔に見えたとしても、たえず人の顔から離れようとしている造作になっていることを強調するのである。 ぼくはこういう小林縄文論が好きなのだ。たんなるアニミズム論にも片付けないし、たんなる文化人類学にもしていない。 

≪09≫  約15000年前、地球は長い氷河期の眠りからさめて、しだいに温暖期に向かっていった。日本列島も12000年前には今日とほぼ近い気温環境に落ち着いた。人類は遊動的な旧石器時代から定住的な新石器時代にゆるやかに入っていくことになる。 このとき日本列島では同時に縄文人の定住が始まっていた。縄文生活は世界史的な新石器時代と並列していたのである。“同格”なのである。したがって人類が遊動的な旧石器時代をへて最初に突入したのは、世界各地の定住的な新石器文化と、そして日本列島における定住的な縄文生活だった。 

≪010≫  ただし、各地の新石器文化の多くが農耕を開始していたのにくらべ、日本の縄文文化は栽培力をもってはいたが、いわゆる農耕をしなかった(縄文期から農耕があったという研究者もいるのだが、小林さんはあくまでその説には抵抗している)。そのかわり土器と漆と弓矢とイヌと丸木舟を駆使した。そこに特色がある。縄文人は弥生人のような農耕複合体をめざしてはいない。多種多様な資源をできるかぎりまんべんなく活用して、生活の安定をはかっていた。それを小林さんは「縄文姿勢方針」という。 

≪011≫  この生活方針を束ねていたのは「物語」である。縄文コミュニケーションのすべてを支えた物語だった。それゆえ、一般には縄文土器が装飾的で、弥生土器は機能的幾何学的などと評されることが多いのだが、小林さんに言わせると、必ずしもそうではない。 むしろ縄文土器は物語的で、弥生土器こそ装飾的なのである。なぜなら、縄文土器は土器であることそのものが物語的であるからだ。これに対して弥生土器はまさに実用の上に装飾を表面的にくっつけている。そのため、縄文土器から文様を剥がそうとすれば、土器そのものを毀すしかなかったのである。 縄文生活と縄文土器と縄文文様と縄文物語はひとつながりなのだ。以上が小林縄文論の当初からの出発点である。まことに明快だ。 

≪012≫  もちろんのこと、土器の発明は日本列島だけのことではない。東アジア、西アジア、アメリカ大陸にもこの順でおこっている。しかしながら、なかで日本列島の土器製作は最も早くから始まっていて、しかも貯蔵用ではなく、もっぱら煮炊き用として広まっていった。せいぜい8000年前にしかさかのぼれない西アジアの土器は、貯蔵用の深鉢か盛付け用の浅鉢なのである。 

≪013≫  初期の縄文土器が煮炊き用であったのは、ドングリや貝類などを食用にするためであった。煮炊き用だから、そのころの縄文コンロの形とあいまって丸底や尖った底でよかった。土に突っ込んでおけた。ごく初期の縄文土器に平底がないのはそのせいだが、それでもすぐに縄文人は方形平底にも挑戦した。ここには土器以前に先行していた編籠や樹皮籠の形態模写があったと思われる。 

≪014≫  これでもわかるように、縄文土器の出現というもの、実に独特なのである。日本のその後の歴史から見て独特なだけではなく、世界に先駆けて独特であり、かつ他の地域との共通性を断っている。旧石器・新石器という世界史的な流れだけでは説明がつかないことが少なくない。これはなんとしてでも「日本という方法」の起源になりうるところなのだ。 

≪015≫  しかし、そのような縄文研究は、さきごろになって手痛い挫折に遭遇することになった。2000年11月5日のこと、各新聞が大事件を報道した。東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一が石器を捏造していたことが発覚したのだ。当初の報道では捏造は2件だったが、その後の調査で疑惑は深まり、藤村のかかわった186カ所の遺跡に捏造の可能性があるということになってしまったのだ。 

≪016≫  というわけで、牛歩の小林さんの縄文構想が縄文研究者たちにやっと舞い降りつつあった2000年前後に(研究成果を画した『縄文人の世界』は1996年発行)、日本考古学界は未曾有のターニングポイントを抱えたのである。が、だからこそ、ここからは縄文研究再生の大きな基礎が問われることになる。実証主義だけではかえって怪しいのだ。ぼくはそこにこそ小林達雄の縄文世界観にもとづいた物語編集力が必要なのだと思っている。 

≪017≫  ふつう縄文土器は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期といふうに区分する。貝塚は早期にあらわれ、縄文海進は10000年前くらいの早期のおわりにおこり、このころには漆の使用が始まっている(図表参照)。 6000年前の前期には円筒形の土器文化が登場し、前期のおわりには大規模集落が出現した(三内丸山遺跡など)。中期に入ると関東・中部に環状集落が発達していった。クリの栽培が始まるのはこの中期の5400年前あたりだ。当時はおよそ26万人くらいが列島に定住していたと算定されている(小山修三の推計)。 

≪018≫  こうして4000年前の後期になると、土偶などの祭祀具があらわれ、環状列石(ストーンサークル)が各地に出現する。水場でトチのアク抜きなどもおこなわれるようになった。かくて約3000年前、亀ケ岡文化が花開いて、越後の一角に火焔土器が躍りだし、そして消えていくと、縄文時代は晩期に入っていくのである。 

≪019≫  考古学的にはこのようになっているのだが、では、世界観としてはどうなのか。そこで小林さんはこれらの変化と遷移を縄文人の世界観から見て柔らかく区分けした。縄文人の観念の発動によって分けたのだ。草創期を「イメージの時代」に、早期を「主体性の時代」に、前期を「発展の時代」、中期・後期・晩期をまとめて「応用の時代」に。  

≪020≫  ごくかんたんにいうと、「イメージの時代」というのは、編籠などを模しながら土器の可能性をさぐっていた時期で、文様も先行していた編籠などからの援用が目立つ。次の「主体性の時代」の大きな特色は、いったん挑戦した方形平底を捨てたことにある。大半が不安定な円形丸底になる。これは土器の製作能力からみると退行現象のように見えるのだが、小林さんはここに先行容器からの脱却という主体性の確立があったとみなしたのだ(日本にはこういうことは歴史的にしばしばおこっている。たとえば鉄砲を捨てたり、活版印刷をしなくなったり)。 

≪021≫  それゆえ、撚糸文などの文様が低調なのは、装飾ではなく土器製作の自立に必要な粘土を堅くしめるためだったという説が出ているのだが、むしろここにはのちの「物語文様」につながる“未発の意味”が萌芽していたと見たほうがいい。それは押型文や貝殻沈線文でも同様なのである。小林さんは、そう、見たのだ。  

≪022≫  「発展の時代」では、煮炊き用だった縄文土器にいよいよ盛付け用や貯蔵用が登場し、用途が一挙に多様化していった。文様にもさまざまなモチーフが登場し、文様帯とともに区画があらわれる。こうした特色は以前から指摘されてはいたのだが、小林さんはそういう分類だけではどうしても満足できなかった。これらは相互に何かを物語るためであったろうと見たのだ。 

≪023≫  かくて中期以降、「応用の時代」が開花する。注口土器、壷、釣手土器などとともに甕棺や埋甕炉もあらわれ、後期には香炉形土器や異形台付土器が加わって、さらに異様な火焔土器や土偶が次々に出現したわけだ。まさに爛熟である。爛熟ではあるのだが、それはそれぞれの土地にもとづき、それぞれの集落の人々の観念と物語にもとづき、それぞれの時期にディペンドされた爛熟だったのである。 

≪024≫  小林さんが「物語」にこだわったのは、小林縄文論が縄文コスモロジーの構想にもとづいているからだった。 そもそも縄文のモチーフは、「発展の時代」に文様を描く施文の方法や順序によって規格性をもちはじめ、その規格性が縄文土器の形態を固有なものにしていったのだが、小林さんはその定着した文様モチーフにはそれなりの「名」がついていただろうと想定した。つまり文様の各所に「意味」が発生しはじめたのだ。そうなると、その「意味」たちのアソシエーションがさらに文様の形態を指図していくというふうになっていく。 

≪025≫  ここに特別の加工と加飾が「意図」をもってきた。S字文、剣先文、トンボめがね文などは、対称性よりも非対称性やデフォルメをめざし、いわば「観念の代弁力」をもっていったのである。縄文ゲシュタルトが動きはじめたと言っていいだろう。それは縄文人が「観念」の動向に関心をもち、その動向を「文様による物語」として記憶し、再生しはじめていたことを暗示する。 

≪026≫  このように小林さんが縄文世界観の内に「物語」を発見したのは、もともとは後期の土器がモチーフの繰り返しに拘泥していないことに気が付いてからだった。器面を区画するにあたっても、その区画内を同一モチーフで埋めなくなっている。もっと驚くべきは、器面を一周することによって初めて構図の全貌が成立するようにもなっていることだった。 

≪027≫  ぼくはかつて小林さんが勝坂式土器を手にしながら、その波状文の6つの山が一つの視野では見えなくなっていて、土器をまわすことによって初めてその意図があらわれてくるように作られているんですよと説明されたとき、アッと声をあげたものだった。そのとき小林さんは、「きっとここには物語だけではなく、それを歌ったり語ったりするためのメロディもひそんでいたんでしょうね」と言っていた。  

≪028≫  その後、小林さんはこのような物語土器には、各地にそれぞれの「流儀」があること、その流儀のちがいこそが「クニ」の単位であったのではないかということも展望していった。 岡本太郎(215夜)が縄文力に感嘆し、そこに日本の原エネルギーの炎上を見抜いたことは、いまでは縄文学者にとっても語り草になっている。奔放な想像力にめぐまれた岡本太郎ならではの直観的洞察だった。 しかし、その後の日本人の多くはその縄文的原エネルギーを“漠然とした塊の力”のように受け取っていて、そこに何が発端し、何が終焉していったかということはほったらかしにしてきた。あえていえば直観ばかりが強調されすぎた。 

≪029≫  たとえば火焔土器である。この異様な土器を日本人の大半が自慢をするのだが、この土器は縄文時代全体に及んでいるのではないし、日本列島の全域に発現したものでもない。全期を通して縄文土器の文様様式には、いまでは約70ほどの異同が確認されているのだが、なかで火焔土器はほぼひとつの「クニ」だけがある時期に生み出し、そして消えていったものだったのである。 このクニは小林さんが生まれ育った越後新潟を中心に、西南は越中富山を、東北には出羽山形を控えた範囲にまだかるクニである。信濃川沿いにみるとその領域は信濃の脊梁山脈までであるが、阿賀野川沿いには意外にも会津盆地までもが入っていた。このクニにのみ、火焔土器と三十稻場式土器が苛烈に燃え立ったのだった。 

≪030≫  すでに中期、信濃川や阿賀野川の河岸段丘には中央広場をとりまくようにして竪穴住居を擁するいくつものムラがあった。このとき、一つの文様様式が壁にぶちあたっていた。諸磯式土器が十三菩提式をもって文様の細密化に行きづまり、なんらかの打開に向かう必要に迫られていたのだ。既存の観念力の衰退であろうか。それとも戦争で敗北したのだろうか(小林さんは縄文時代には戦争もあったことを仮説している)。 そこで越後縄文人は、さまざまな隣接のクニの様式を参考に、また遠方から運ばれてきた土器なども参考に、新たな土器創造に乗り出した。わかりやくくいうのなら大木式・阿玉台式・勝坂式などを“編集”して、新たなクニの物語とシンボルを形成することになった。おそらくはリーダーの交替もあったのだろう。 

≪031≫  こうして中期から後期にかけて、あの強烈な火焔土器の原形が出現するのだが、そこではまず、新保式や新崎式が重用していた縄目文様を器面から追い出してしまうということをやっている。縄目に代わって隆線を偏重した。それとともに「突起」を燃え上がらせた。突起は4つに定まった。会津の火焔土器には3つの突起の土器があるのだが、それとも異なっていた。かつ、「鶏冠型」と「王冠型」の2種類を併用させた。 

≪032≫  小林さんは、この2種類の突起は決して装飾過剰から生まれたものではないと見た。これらは越後縄文人の観念の独自性を物語るための、比類のない「記号」なのである。むろんそれがどんな物語記号や観念記号であるかは解明されていないのだが、ともかくもそのように見ないかぎりはこのクニの特別な事情は解けないと見たのだ。 しかしとはいえ、縄文のクニの独自性は土器のみでは決まらない。住居や言語や技法とも結びついている。とくにこの「火焔土器のクニ」では翡翠(ヒスイ)との関係が大きかったはずだった。 

≪033≫  縄文人の生活は「炉」と切り離せない。ところが、この「炉」がクセモノなのだ。なぜならこの炉は意外なことに、暖房用でも調理用でもなかったからだ。調理は戸外でしていたのである。 遺跡をこまかく調べると、暖房用でも調理用でもないのに炉の火は、しかしたえず燃やし続けられた痕跡がある。そうだとすると、ここには実用だけではない「意味」があったことになる。何かの「観念」か「力」かが去来していたのであろう。そうとしか考えられない。ということは、すでにこれらの炉をもつ「イエ」そのものがなんらかの観念の住処であり、また祭祀の場でもあったはずである。 

≪034≫  実際にも中期の中部山岳地帯の縄文住居の奥壁には、石で囲った特別な区画が設けられ、中央に長い石を立てている例もある。それも採石したばかりの山どりの石である。埋甕も入口近くの床面に埋められていた。ときには底を抜いたりもしてある。かつて金関丈夫(795夜)は胞衣壷か乳幼児の甕棺だったのではないかと推理した。木下忠もそういう推理をたてている。 ぼくが最も驚いたのは、こうした住居にはほとんど何も置いていなかったということだ。土器の小破片が稀に見つかる程度で、縄文人はあれほどの土器類をイエの中には持ち込んでいないらしいのだ。ウツなのである。ウツロであって、かつウツツなのである。ただし煮炊き用の土器にかぎっては、ときに床面にジカ置きしていたようだ。 

≪035≫  多孔縁土器が2個1組で床面から発見された例もある(長野野々尻遺跡・岐阜糠塚遺跡)。素焼きの縄文土器は破損しやすいのに、完形品でそういうものが床面で保存されていたのは、よほど丁重な扱いを受けていたのであろう。 こうなると、「イエ」は「聖なる空間」で、そこに持ち込まれた少数の土器は聖器だったということになってくる。小林さんは、それらを「第二の道具」と総称した。 

≪036≫  実は「火焔土器のクニ」では翡翠が採れた。日本における翡翠の原産地は新潟県糸魚川の山中に局限される。翡翠はそれまで身体装飾品につかわれていた滑石などと異なって、歯が立たないほど堅い。入手も困難だし、加工も難しい。それにもかかわらず糸魚川の翡翠は「火焔土器のクニ」のシンボルとして特産され、そして全国に流通した。火焔土器が流通しなかったにもかかわらず。 いったい、なぜこのようなことがおこっているのだろうか。まことに興味深いことばかりだ。 

≪037≫  しかし、残念ながらそれらの謎はほとんど解けてはいない。小林縄文観にして、推理がつかないところは、まだまだヤマのように残っている。縄文学はこれからが本格的な本番なのだ。 ぼくが思うには、このような謎を解くには、もはやマルセル・モースやレヴィ・ストロース(317夜)の推論をあてはめているのではまにあわないだろうということだ。日本人が原日本の解明のために、独自な理論を仮説するべきなのである。そしてそのうえで、新たな歌を物語るべきなのだ。 

≪038≫  小林達雄の縄文論はそのための「花伝書」であり、「梁塵秘抄」なのである。大きな出発点がここにあることはまちがいない。ただ、この「能」を、この「歌」を、誰かがもっともっと実感すべきなのである。たとえば土取利行さんのように、たとえば桃山晴衣さんのように。そういえば晴衣さん、昔、そんな話をしたことがありましたねえ。いささか懐かしい日々のことではあるけれど――。 

 日本という国家が気になるなら、議論の仕方をおぼえなさい。
 国家に縛られたくないのなら、「日本という方法」を学びなさい。
 どちらも嫌なら、えらそうな話をしなさんな。
 勝手に給料もらってるか、フリーターしているか、家族と一緒にロハスしてなさい。
 今夜は、あえて「国家の条件」をめぐって、正面切りたい者のための一書からのご案内。 

日本という国家が気になるなら、議論の仕方をおぼえなさい。
 国家に縛られたくないのなら、「日本という方法」を学びなさい。
 どちらも嫌なら、えらそうな話をしなさんな。
 勝手に給料もらってるか、フリーターしているか、家族と一緒にロハスしてなさい。
 今夜は、あえて「国家の条件」をめぐって、正面切りたい者のための一書からのご案内。 

≪02≫  藤原正彦の『国家の品格』(新潮新書)が売れて、そのあとそれが横にすべって坂東真理子の『女性の品格』(PHP新書)になったけれど、北京オリンピックの女子ソフトボールが金メダルで、星野ジャパンが韓国にもアメリカにも完敗し、なでしこジャパンが4位で、反町ジャパンは全敗しているのを見ていると、これは現在日本というもの、むしろ斎藤茂太(803夜)の「女は鼻息、男は溜息」なんである。 

≪03≫  それはともかくとして藤原の本についてだが、これは「欧米の論理と日本とは合わない」「英語で日本は語れない」「祖国愛をもつといい」「武士道を復活したい」「美意識は戦争を超える」といったことを平坦に書いていて(語っていて?)それが愛国の心情の発露の本として受けたらしい。心情は心情でそれで結構だが、「国家」についての説明は、誤解を招きやすい安易な説明ばかりに終始していて、何が国家の品格かがわからないだけでなく、何をもって国を愛する精神としているのかさえ説明できていなかった。とくに日本文化の説明は表面を撫でてすらいない。 

≪04≫  著者は数学者で、新田次郎の子息。ぼくはこの人の数学エッセイを3冊ほど読んでいるけれど、そっちはそれなりにおもしろかった。だから、この本も武士の惻隠の情とでもいうものを発揮したかったのだろうと思ってあげたいのだが、そのわりには武士道についての解説がひどかった。新渡戸稲造(605夜)の真意になんら接近していないし、近世の武士道(実際には士道とか武芸論)にも及んでいない。山本常朝の『葉隠』(823夜)など、ちゃんと読みなさい。 

≪07≫  が、今夜は今夜、ずいぶん前に読んだ鷲田小彌太の『日本とはどういう国か』をあえてとりあげて、これを下敷きにした国家日本の議論案内を試みることにした。視点はできるだけぶれないようにするが、以下は議論の仕方の案内であって、議論を深めるつもりも、議論をふっかけるつもりでもない。では、適当なところから話を始めよう。 

≪08≫  その前に、本書をとりあげたもうひとつの理由について一言。この本は五月書房の橋本有司君の編集で、橋本君はぼくを網野善彦(87夜)さんと出会わせてくれた恩人でもあり、かつぼくの『山水思想』(いまはちくま学芸文庫)の熱心な担当編集者でもあった。しかし、この2冊を最後にガンで亡くなってしまった。だから哀悼を兼ねたいのでもある。 

≪05≫  とはいえ、いまどき日本という国家を論ずることは、オリンピックについてすらすこぶる厄介なことになっていて、読者の多くがこの手の本を読みたくなることには、バカバカしいほど同情したくもなる。が、こういう本を読んで「日本がわかった」などとは決して思わないほうがいい。 

≪06≫  ぼくはふだんは、日本という国家を議論しはしない。国家という主題を論(あげつら)わない。ぼくの関心はあくまで「日本という方法」にある。 世界史上の国家の相互関係についてならば、大いに議論する。かつて70年代の終わりに「遊」誌上にその名もずばりの『国家論インデックス』というものを発表したことがあるのだが、そのときは世界のさまざまなステートを歴史をまたいで25ステートに及ばせてとりあげ、しかも「生命の国家」や「情報の国家」や「無名の国家」などを相互にダイナミックに動かした。国家を論ずるのに、日本だけを議論したいとは思わなかったのだ。それがぼくのラディカル・スタンスだ。今夜は言挙げしないけれど、「日本という方法」は日本という国境には決して縛られないのである。 

≪09≫  国家とは何か、とくに日本という国家はどういうものなのかという問題は、一筋縄の議論では語り尽くせない。 たとえば、一国の首相の靖国参拝は国家の意志なのか。北朝鮮を経済封鎖しないのは国益なのか。憲法改正や女帝の設定は国家の国事行為なのか。株主主権と新自由主義のために日本という国家も必要な制度をつくらなければならないのか。今日の政治家が、こういう問題を日本という国家の問題としてちゃんと説明できるのかといえば、おそらくお手上げだろう。 

≪010≫  政治家だけでなく、知識人の多くもマスメディアも「国家」を主語とした議論は避けている。政治家は「是々非々」といい、知識人は「枠組」を取り出し、マスメディアは「失態」と「結果」ばかりを窺う。『国家の品格』もそうだが、「国家の正義」や「国家の信条」などを持ち出すのは、いまどきそうとうにおかしな議論のやりかただと、日本では思われている(中国はあいかわらず「国家としての中国」だが)。 

≪011≫  とくに日本の来し方行く末を睨んで国家を議論することには、多くの者にひどい躊躇揺動がある。できればみんな「市民」とか「この国」とか「県民」とか「われわれ」「私たち」とか、そうでないばあいはなるべく「地球」とか「環境」とかと言っていたいのだ。 

≪012≫  が、本書の著者はそういう多くが躊らう問題にやや野蛮なほどにとりくんだ。「国家とは何か」「日本とは何か」という二つの壁に同時登攀を挑んだ。ただし、きっと一気に書いたのだろう。そのためか展開はかなりラフで、いくつもの曲折もあるのでいちがいに批評しにくいのだが、とりあえず日本が国家でありつづけるための条件、また日本が国家でありそうでそうなりえない事情をあげることには、けっこう徹していた。 

≪013≫  もっとも、この本は小泉時代前半の執筆だったので、情況認識が当時のものに影響されている。そこは差し引きしておいたほうがいい。また、本書の見方は「歴史教科書を考える会」の連中とも微妙に共鳴しているので、そのあたりは納得しがたいところも少なくない。そのことをアタマに入れておいてもらったうえで、今夜は著者の議論の仕方に沿いながら、ぼくの見方も多少は交えつつ、議論の視点を整理して並べてみる。 

≪014≫ ① 国家とは歴史的な存在である。 歴史から切り離された国家はありえない。日本は敗戦したが、国家は存続した。ドイツも敗戦したが、連合国に無条件降伏したのではない。敗戦にともなう政府交渉は許されず、征服されて国家は崩壊した。したがって、戦前のナチス・ドイツと戦後に東西分裂したドイツとは、国家としての連続性はない。 

≪015≫  日本ではその連続性がいまだ問題として残されたままになっている。そのことをアジア諸国に指摘されると(その後はアメリカの下院からも言い出された)、目くじらをたてて怒る連中が少なくないのだが、もし分断したいなら「戦後憲法による日本」と「大日本帝国憲法による日本」とを完全無欠に切り離すしかない。この二つの間にポツダム宣言受諾と東京裁判という、ドイツとは異なる事情が介在したからだ(東京裁判については1150夜参照)。戦前と戦後の分断は容易ではないのだ。 

≪016≫  それなのに日本人は万世一系はともかくも、明治以来の200年ほどの日本というナショナル・ステートあるいはネーション・ステート(国民国家)の継続を、国民的に感じすぎている。もしどうしてもそうしたいのならその歴史観のままに戦前・前後をつなぐ見方を新たに確立しなければならないのだが、それがまったくうまく繋がらないままになっている。そうならばむしろ、その前の徳川社会や北条社会や藤原社会と繋げてみたほうがいいのだ。 

≪017≫ ② 国家は国民である。国民は共通言語を話す国土にいる。 日本語と日本の関係はきわめて国家的で、かつ国民的である。『世界と日本のまちがい』(春秋社)にも少し語っておいたことだが、たとえばイギリスは11世紀にフランスのノルマンディ王に抗戦して征服され、宮廷も共通言語もいったんフランス化された。300年後、百年戦争を勝ち抜いて、14世紀にやっと英語を取り戻した。けれども11世紀以前の英語と14世紀以降の英語には断絶と相違が生じた。イギリスには“二つの英語”があるわけだ。  

≪018≫  これは日本に古文と現代文があることでも理解できるだろうが、しかし日本にも、この二つのあいだには極端な断絶があり、イギリスのようには共存していない。もしもつなげたいなら、リービ英雄(408夜)よろしく古語(よく大和語とか倭語といわれる)を現代生活にもっと採りこんでいくしかない。そこは白川静(987夜)さんが、つねに「日本の漢字は国字である」とあえて強調してきたところなのである。 

≪019≫  またイギリスには、これも『世界と日本のまちがい』に書いておいたことだけれど、ヘンリー8世以降はイギリス国教会というローマ・カトリックとも、むろんプロテスタンティズムとも異なる宗教がずっと大きな下敷きになってきた。それが揺らいできたのは1960年代からで、それを心配したのが、かつて紹介したジョン・ヘリックの『神は多くの名前をもつ』(1227夜)だったのである。 こうして日本という国家を論じるには、まずもって日本語あるいは国語を議論できなければならないということになる。 

≪020≫ ③ 国家とは国家権力のことである。 日本国家と日本社会は異なっている。これをごっちゃにしてはいけない。国家は社会そのものではないし、社会を超越することもある。国民に財産の一部を拠出させる納税の義務を負わせ、他国の侵略に備えるために兵役の義務を負わせるとき、国家は社会の上に立つ。 

≪021≫  このように国家が「権力」(パワー)をもつのは、軍事力・経済力・教育力を保持しているためである。この権力には、必ずいくつもの「権威」(オーソリティ)と、国民の「義務」がつきまとう。一般的なネーション・ステートの場合は、権力は軍事力・警察力・司法力に象徴され、義務は「納税の義務」「兵役の義務」に代表される。このことは国家があきらかに社会より超越したものだということをあらわしている

≪022≫  そもそも権力はいくつかの国家装置によって支えられている。直接的な国家装置は軍隊・警察・刑務所などの「暴力」にかかわっている。間接的な装置は立法府(議会)、行政府(内閣)、司法府(検察庁・裁判所)、地方行政体が管理する。これに、最近はやたらに問題になっているさまざまな特殊法人がくっついている。 もうひとつある。国家装置は公立学校とつながっている。義務教育も国家装置だし、国立大学も国家装置になっている。これは国家がいまでもイデオロギー構造に深くかかわっていることを示す。とくに義務教育をコントロールして、教科書検定に文部科学省が100パーセント介入しているのは、日本の教育が国家装置であることを証左する。それを、かつての教育勅語の時代にくらべてずっと民主的になっているではないかなどとは、思うべきじゃない。 

≪023≫ ④ 国家は国益をめざしている。 トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』(944夜)以来、国家にとっての最大の国益は国民の生命と財産を守ることである。これがなければ他の国益は何の意味もない。つまり戦後憲法ふうにいえば基本的人権を保証すること、これが国益の大前提になる。そのうえでさまざまなことが国益に適うかどうかを判断していく。 

≪024≫  国益とはそういうものだ。地球温暖化を防止するための京都議定書にアメリカが批准を拒否しているのは、アメリカの国益(国内産業のトータルな利益)にそぐわないからであり、イランが核保有を撤回しないのもイランの国益にそぐわないからなのだ。 

≪025≫  いま、日本は国益を見失っているのか、国益の何を守っているのか、わからなくなっている。証券化されたサブプライムには手を出し、国内の家畜飼料の高騰には手をこまねいた。そうなってしまっている理由には、ひとつはグローバル・キャピタリズムと新自由主義に政府の方針が埋没したということがある。これについても『世界と日本のまちがい』に説明したことなので、ここでは省くが、このことをどのように議論したらいいかということは、まだほとんど確立されていない。反グローバリズムでもナショナリズムでも国益についての勝ち目はないだろう。 

≪026≫ ⑤ 国家は自立する。自存する。その自立自存のための道義をもっている。 道義とはモラル・プリシプルのことをいう。日米開戦は敗北必死だった。アメリカは日本を戦争に引きこむことを国益とした。イギリスも同意した。日本はこの包囲網の前で戦争回避も努力した。が、ハル・ノートの前後、開戦に踏み切った。包囲網の前で屈服して戦争を回避することは不可能ではなかったが、戦争を選択した。 

≪027≫  これが道義である。その道義によって日本は無謀な戦争に突入してしまった。真珠湾を急襲した山本五十六は日本がアメリカと戦っても勝ち目がないことを知っていたが、最終的には道義を選択した。 

≪028≫  戦争をするかどうかという場合であれ、国家においてはこうした道義が動くときもあると覚悟していなければならない。いかに惨敗しようと、星野ジャパンにもこの道義はあった。これは福沢諭吉(412夜)が西郷隆盛(1167夜)を例に持ち出した大義名分がどこにあったかという問題であって、はっきりいえば「痩我慢」をするかどうかなのである。が、そうやって通した道義が何をもたらすかといえば、戦争に勝利しようと敗北しようと、自立自存の心を残すだけである。それを星野仙一は「みんなオレの責任だ」と言い、福沢諭吉は「一身立って、一国立つ」と言った。それでよければ、国家は道義を立てるべきである。 

≪029≫ ⑥ 国家は道義でもあるが、意志ももつ。国家意志は目的をもつ。目的のない意志は無意志だ。 アメリカが朝鮮戦争の勃発にそなえて日本に再軍備を迫ったとき、吉田茂は憲法9条とソ連の介入を盾にとって、これに強硬に反対した。結果は自衛隊(最初は警察予備隊)の設置となったものの、この吉田ドクトリンの発動によって、アメリカは日本の軍事力を予想以上に肩代わりせざるをえなかった。  

≪030≫  わかりやすくいうのなら、これが軍事費の負担を軽減させ、日本を国内の安定と高度成長に導いた。このことはひとつの国家意志の発動であるとみなせる。一方、石橋湛山(629夜)は早くから「小国主義」を唱えて、病気のため実際の首相時代は短かったが、日本は拡張主義を戒めた方針をもつべきだと考えた。ところがそれは「一国主義」でもあって、実際には国際関係の緊張から逃れられなくなってしまった。が、これもまた国家意志のあらわれのひとつなのである。 

≪031≫  国家意志には自己判断と自己決定と、そして自己責任がともなう。かつての東欧諸国はどんな決定にもクレムリンり承諾を得なければならなかった。そこには国家意志はない。いま日本は自衛隊のインド洋派遣についても、北朝鮮に経済封鎖をしつづけるかどうかについても、牛肉の輸入の仕方についても、あいかわらずアメリカの承諾をもらおうとしている。これは日本に国家意志が欠如していることを物語る。もっとも、日本は対米従属であるというのがいまや一部の連中の国家意志になっているというなら、何をか言わんや。 

≪032≫ ⑦ 国家の意志の発動や目的の遂行には責任がともなう。この責任をはたすには「力」がいる。 国家における最大の責任は国民の生存を守るという国益を保持することであるが、そのためには地震の被害を早急に回復させ、外国の脅威から自国を防衛する責任をはたさなければならない。だから軍事力も必要になる。   

≪033≫  日本は戦後憲法で「交戦力としての軍事力」を放棄したが、国を守る軍事力を放棄したわけではない。しかも国防力においては、現在の日本は軍事大国である。しかし、それは日本の単一軍事力で成立しているのではない。10をこえるアメリカの軍事基地との組み合わせによって、キマイラのごとくに成立しているにすぎない。しかもアメリカの駐留軍は、沖縄問題やその地での暴行事件で顕著なように、ほとんど日本政府や地方自治体の意志には決して従わない。アメリカが日本に基地を置いているのは、日本の国防のためではなく世界戦略上の軍事上の必要性のためであるからだ。 

≪034≫  他方、国家の責任は、国家が国民に何を強いるかということと裏腹になる。すなわち国民にどのような義務を生じさせるかということが、国家の責任になる。日本は兵役義務を国民に強いていないが、納税の義務は強いている。ここに日本が日米安保同盟を破棄できない理由と、その結果、経済大国をめざすしかなくなった理由があった。 

≪035≫ ⑧ 国家は国際関係である。 かつてはインターナショナリズムが、いまはグローバリズムが流行している。インターナショナリズムはソ連によって指導されたコミンテルンが提案実行し、これにわずかにウィルソンの提案の国際連盟が別案を出した。 

≪036≫  インターナショナルなシステムは、ナショナルな単位をインターさせるわけであって、その単位は一国ずつの国家にある。一方、グローバリズムは一国ずつから発しないシステムのことで、それゆえ自由市場による金融資本主義が最も典型的なグローバリズムだということになる。しかし、今日のグローバリズムはいまなおグローバル・ワンによるグローバリズムで、本来の、たとえばバックスミンスター・フラー(354夜)が提唱したような、宇宙船地球号的なグローバリズムなどではない。二酸化炭素の排出量を取引の材料にするためのグローバリズムなのである。 

≪037≫  それゆえ今日のグローバリズムは、どこかの国家がグローバル・ワンであることを標榜し、それが各国に国家の壁をこえて波及していくことをいう。アントニオ・ネグリ(1029夜)らはそれを「帝国」と名付けているが、この帝国は20世紀のアメリカ型グローバル・ワンの帝国で、かつての帝国ではない。 

≪038≫  まだいろいろ規定しうるけれど、とりあえずざっとあげた。むろん、このような国家の条件は単立しているわけではない。当然、組み合わさっている。したがって、国益の決定にもさまざまな問題が複合的に絡む。けれどもその前に、やはり国家とは何かということを問いつめておく意識がないかぎり、その組み合わせはちっともおこらない。 そこで、以上の条件をもう少し詳しく見ることにする。すべてを俎上にあげられないが、いくつかをとりあげたい。 たとえば、②の国民と日本語の関係だが、これは国家と国民と国語という問題とみなせる。3つははたして完全に重なっているのかというと、そうはなりえない。そこが議論の難しいところなのだ。 

≪039≫  国語については、第1080夜にイ・ヨンスクの『「国語」という問題』を、第955夜に柄谷行人の『日本精神分析』を、さらに第992夜の『本居宣長』でも多少のことを論じておいたので、ここでは本書の著者があげている視点だけを検討するが、このばあい、日本語が中国語や朝鮮語などの近隣諸国の国語とまったく異なる特色をもっていることが大前提になる。それを国語学では孤立語ともいうのだが、言語学では日本語は膠着語とみなされている。 

≪040≫  そのほかいろいろの特色はあるが、結論をいえば日本の言語は変遷してきたと見たほうがいい。少なくとも「国語」は明治中期以降に確立したもので、それ以前は国語ではなく、また国民生活上のフォーマットでもなかったといったほうがいい。そのことを早くに議論したのが契沖から富士谷成章をへて宣長におよんだ国学的国語論とでもいうべきものだったが、これは明治近代ではほとんど無視された。 

≪041≫  ということは日本の「国語」は近代国家とともにできたということで、これは認めたほうがいい。さきほど引いた例でいえば、イギリスの国語だって14世紀以降の英語が国語なのである。それ以前は、日本もそうなのだが、地域言語の複合体だったのだ。 ところが近代国語はこれらを統合する。ルールもつくる。1963年にマレーシアが国語をつくったときは、マレー語のしくみの上に英語の語彙を直訳して移植した。日本語のばあいはヘボン式でローマ字対応させ、その発音で国語を取り決めていった。当用漢字や仮名遣いも近代国語ゆえに決まったことである。 

≪042≫  が、しかし、こういうふうに国語が確立したことと、それが日本にふさわしいかどうかということは、別問題なのである。ウォルフレンは日本の「システム」が曖昧だということを問題にしたが(1131夜)、それはシステムの問題ではなく、国語の問題でもあったのである。だから日本語が曖昧だからといって、また逆に単純だからといって、それで日本語や日本人の思考がおかしいということにはならない。今日の国語で源氏や西行や近松は読めないし、説明できないからといって、それで日本語がおかしいということにはならないわけなのだ。 

≪043≫  近代国家や現代国家が規定している国語は、そういう日本語本来の特色とは別のものなのである。もし国民の歴史というものが百年単位で続いているとするなら(むろんそうであるが)、日本人と日本語の本来と、国民と国語のフォーマットとは、必ずしも重ならないのだ。それでいいのである。日本語は変遷しているし、実は国民意識だって変遷している。そういうことを無視して、国民や国語を論じてもダメである。ということは、それをちゃんとやらないで日本という国家を論じても何も方針は出てこないということになる。 

≪044≫  次に、④の国益についてだが、日本の国益については、しばしば議論されるのが鎖国であろう。これまで何度も鎖国は是か非か、新たな鎖国はありうるのか、部分的鎖国は可能なのかといった議論がされてきた。 なぜそんなふうに鎖国が気になるかといえば、日本の歴史のなかで鎖国ほど国益を確保したものとみなせるものがなかったからだった。しかし、日本人の多くは徳川幕府が選択した「国策としての鎖国」の意味をあまり考えない。 

≪045≫  1038夜の『秀吉の野望と誤算』のときにも、『日本という方法』(NHKブックス)にも書いたように、そもそも鎖国対策は、秀吉がまきちらした戦後処理から出たものである。秀吉は“日明戦争”をおこそうとして朝鮮半島に攻めのぼったのだが、連戦連勝のあげく海戦で敗退した。これは道義から出た戦争ではない。1590年に関東の豊饒が滅んで信長が天下一統をはたすと、国内戦争がなくなった。これで万々歳かというと、そうはいかない。正規軍だけでも100万人といわれる膨大な戦闘要員が残った。いわば戦争エネルギーである。秀吉はこれを海外に向けたのである。ルソン討伐も計画した。それが秀吉のシナリオだった。むろん無謀な侵略戦争であった。 

≪046≫  家康はこの秀吉がまきちらした戦後処理に徹した。軍備を縮小し、あれほど開発され、技術も磨いてきた鉄砲隊を解消し、「武家諸法度」によって武力縮退を実現した。交易はオランダと組んで有効な作戦を展開し、あとはアウタルキー(自給自足)に徹した。これが徳川日本における「国益としての鎖国」なのである。家康は戦費の封印もはたしたわけである。 これに対して、1990年の湾岸戦争で日本は110億ドルにのぼる戦費を支出した。戦闘員の出兵の代わりに支払ったのだが、これが国益にならなかったことは、いまや自明になっている。 

≪047≫  ⑦の国家の責任という問題も厄介だ。戦後社会にとって、日本が問われた最大の責任は「戦争責任」だった。日本は戦争責任をとっただろうか。 日本は開戦をして、敗北した。国際法では、勝っていれば国家の責任は問われない。勝利国に問われることがあるとすれば、戦争中の相手国での犯罪であるが、その責任は国家はとらない、その犯罪行為をおこした個人や機関の責任当事者がとる。 

≪048≫  これに対して敗戦国は責任を国家が負う。賠償金の支払いもそのひとつである。しかし、そのときは国家の最高責任者も敗戦の責任を負う。大日本帝国憲法では天皇が最高責任者である。それなら天皇が戦争責任を負う。天皇は責任をとっただろうか。とらなかった。とろうとしたかもしれないが、とれなかったというべきかもしれない。天皇は黙して語らなかったということにおいて責任をはたしたという見方もあるが、実際には、戦勝国が天皇の責任を免除したのである。  

≪049≫  天皇の戦争責任を免除したのはGHQのもとに開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)である。ここで別の被告たちが決定された。その被告を裁くことによって、連合国側は国際法によって日本の国家としての戦争責任を断罪することにした。その被告に天皇は入らなかった。天皇だけでなく戦時内閣の首相や大臣で入らなかった者も多くいた。そして被告が裁かれた。これがいわゆるA級戦犯である。戦争犯罪者である。 1150夜の『東京裁判』にも書いたように、ここまでが事実経過だった。しかし、この事実経過の結論の解釈をめぐって、日本のその後の国家の責任や国益や道義がたえずゆらぐことになった。たとえば靖国参拝問題である。 

≪050≫  靖国神社にはA級戦犯が合祀されている。それを一国の首相が参拝するのは、戦争責任をごまかすものだと非難されるわけである。戦争責任とは侵略戦争をしたということだから、靖国参拝は侵略戦争を認めようとするのかということになる。一国の首相は、戦没者を慰霊しているだけだと言う。これではまったく議論は噛み合わない。 

≪051≫  いや、噛み合っていないのは議論ではなく、東京裁判で日本という国家が受けとめた結果についての問題なのてある。そうだとすると、東京裁判で日本は国家として何を問われ、何の責任をはたしたのかということを理解しておかなくてはいけない。 

≪052≫  東京裁判以前、国際法は戦争遂行のプロセスで生じる戦時法規から逸脱した行為を戦争責任と規定していた。ところが東京裁判では「平和に対する犯罪」と「人道に対する犯罪」が加わった。これはポツダム宣言後に加わった法規だった。これはきわめて異例のことである。戦争犯罪のみならずどんな犯罪の責任も、あらかじめ規定された法規以外でこれを裁くことはできないはずなのだが、ところが東京裁判ではその慣例が破られた。パル判事がそのことを指摘して裁判の無効を訴えたことは有名だが、すでに採決は下されたのだ。日本はいまだこの異例の中にいるままなのである。 

≪053≫  もうひとつだけ、ふれておく。⑧の「国家は国際関係」だが、これはいまやインターナショナリズムに代わってグローバリズムの問題ということになっている。 グローバリズムとは、グローバル・キャピタリズムのことである。なぜこんなものを日本がまるごと受容することになってしまったのかというと、1970年代に日本は高度成長を終えて、低成長時代に入った。それまでの日本は「下請け制・終身雇用制・年功序列・親方日の丸主義」の4本柱で“日本的経営”を拡張し、工夫して、やっとこさっとこ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とよばれる日本的経済構造をつくりあげていた。ところが、これが「二重構造」だと批判されていった。現代資本主義と前近代的な家内制ふう産業構造が溶接されていて、こんなものはやがて日本の発展を阻害するだろうというのだ。 

≪054≫  日本はいまでも中小企業や零細企業が支えている。それがかつては大企業に組みこまれて機能していた。それを中小企業は大企業に従属しているとか搾取されてるとかと見ることもできるのだが、実際にはそれでうまく機能していた。そこで日本的経営だっていいじゃないかと思われてもいたのだが、それが破棄されてしまったのだ。けれどもここに注意しなければならないことがある。 

≪055≫  この日本的経営による日本的資本主義は、そもそもは戦時中の「戦時経済」(国家総力戦体制)が産み落としたものだった。1940年に発足した第2次近衛内閣が「新経済政策」を掲げ、株主の権利を制限するために商法を改正し、所有と経営を分離した。 実は「下請け・終身雇用・年功序列・親方日の丸」の4本柱は、この商法のもとにこそ発展してきたものだった。これがいわゆる「日本株式会社」の実態なのである。一言でいえば「民有国営」の国家社会主義に近い。これを下敷きに1960年に池田内閣が「国民所得倍増計画」に踏み切った。立案者は下村治だった。実質GDPを2・7倍に、工業生産を3・8倍に、輸出を2・6倍にしようというものだ。これは「戦時経済」の延長なのである。日本は戦時型で高度成長をやってのけたのだ(いまの中国と同じである)。  

≪056≫  しかしながら、この日本株式会社の成就は軍事面をアメリカが肩代わりするという日米安保同盟が片方にあって成立するものでもあった。そのアメリカが日米株式会社のやりかたに文句をつければ、たちまち変更を迫られるものでもあった。 

≪057≫  アメリカは世界経済を支配するためには、アメリカによるドルを中軸においたグローバル・スタンダードを押し付ける。これを日本は受容した。ジャパン・バッシングがおこったのは、そのときだった。日本のバブル景気はあえなく潰え、「失われた10年」が始まった。そこへ日米構造協議がくまなく作用して、いつのまにか日本はグローバル・キャピタリズムの一翼として会計監査をうけるコンプライアンスの奴隷になっていったのである。  

≪058≫  本書を素材に議論したいことはまだまだあるが、北京オリンピックの聖火が消えた名残りの話としては、このくらいにしておく。本書そのものはもっと多くの論点をラフに提供しているのだが、ただ、それらを総合すると、なんだか「強い矛」と「強い盾」とが組み合わさっているようで、よくわからないところもあるので、あとは読者の判断にまかせたい。   

≪059≫  たとえば著者は本書でどんな日本国家を提案しているかというと、日米同盟を維持し、「脱亜入米」をまっとうし(アジアとは組むなというのである)、そのうえで憲法第9条を破棄しなさい。自衛隊を国軍に編成しなさい。つまり「平和はタダじゃない」というのだが、これでは国軍の確立だけが新規の提案で、あとは大半が現状維持なのだ。日本を洗濯したということにはならないだろう。 

≪060≫  ちなみに星野ジャパンは“国軍”ではあったが、それで負けたのである。日本が国の勝負に出るにはまだ早すぎるということだろう。そうでなければ上野由岐子のように、手のマメを潰しても剛球を投げつづける主戦級が国家の先頭を走るしかない。 

≪061≫  本書を素材に議論したいことはまだまだあるが、北京オリンピックの聖火が消えた名残りの話としては、このくらいにしておく。本書そのものはもっと多くの論点をラフに提供しているのだが、ただ、それらを総合すると、なんだか「強い矛」と「強い盾」とが組み合わさっているようで、よくわからないところもあるので、あとは読者の判断にまかせたい。 

≪062≫  たとえば著者は本書でどんな日本国家を提案しているかというと、日米同盟を維持し、「脱亜入米」をまっとうし(アジアとは組むなというのである)、そのうえで憲法第9条を破棄しなさい。自衛隊を国軍に編成しなさい。つまり「平和はタダじゃない」というのだが、これでは国軍の確立だけが新規の提案で、あとは大半が現状維持なのだ。日本を洗濯したということにはならないだろう。 

≪063≫  ちなみに星野ジャパンは“国軍”ではあったが、それで負けたのである。日本が国の勝負に出るにはまだ早すぎるということだろう。そうでなければ上野由岐子のように、手のマメを潰しても剛球を投げつづける主戦級が国家の先頭を走るしかない。 

≪01≫  最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の研究』などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解で、論旨も不均衡な一書でもあるのだが、あえてそうした。 

≪02≫  本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。 

≪03≫ 

 このとき幕府は藤原惺窩や林羅山らを擁して儒教儒学を政治思想に採り入れようとしたのだが、要約していえば中国思想あるいは中国との“3つの交差”をなんとかして乗り切る必要があった。慕夏主義、水土論、中朝論、だ。いずれも正当性(レジティマシー)とは何かということをめぐっている。 

≪04≫  慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。 

≪05≫  ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。  

≪06≫  なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。 

≪07≫  この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。 

≪08≫  しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたということを前提にしている。そこに”筋”がある。 

≪09≫  けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこして将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。 

≪010≫  どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。 

≪011≫  これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。 

≪012≫  こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。 

≪013≫  一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。 蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要しているバカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと言ったのだ。 これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。 

≪014≫  ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。 

≪015≫  もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象となる「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てくるようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。 

≪016≫  これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。 

≪017≫  中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。 もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これなら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということになる。 

≪018≫  これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということになれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。 

≪019≫  それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。 

≪020≫  これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。 

≪021≫  けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみようとすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのだ。  

≪022≫  それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。 

≪023≫  しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。 

≪024≫  もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。 

≪025≫  以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。 これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。   

≪026≫  当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。 

≪027≫  幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。 山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。 

≪028≫  いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。 しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。 

≪029≫  日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、第409夜の高取正男の『神道の成立』や第777夜の黒田俊雄の『王法と仏法』にも述べておいたように、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。 

≪030≫  しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。 

≪031≫  ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。 

≪032≫  天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。 

≪033≫  考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るかもしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。 

≪034≫  幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。 闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や第741夜に紹介した野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。 

≪035≫  闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にしていながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったのだ。 

≪036≫  闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。 

≪037≫  闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。  

≪038≫  内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。 が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。 

≪039≫  山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ)のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。 

≪040≫  いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティマシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。 

≪041≫  では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。 

≪042≫  で、ここからが重要な“転換”になっていく。 絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。 

≪043≫  これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。 が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。   

≪044≫  むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないところは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。 

≪045≫  この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰した。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝帝室から亡命した日本乞師・朱舜水(第460夜参照)の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。  

≪046≫  しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。 もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。 

≪047≫  安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。 

≪048≫  この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底して、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。  

≪049≫  しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。 

≪050≫  話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、このあたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。 

≪051≫  天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。 

≪052≫  こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。 

≪053≫  「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。 

≪054≫  徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。 

≪055≫  このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。 

≪056≫  山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。 

≪057≫  が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。 

平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。

日本の歴史ももちろんそうだった。

ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。

中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、その俘囚を王民として取り込んだのである。

それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。

そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、「国の有事」を仕切ることになった。

天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが全国を統率する大権をもつようになったのか。

ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が有事の名のもとに見え隠れする。 

≪01≫ 平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。 日本の歴史ももちろんそうだった。 ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。 中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、その俘囚を王民として取り込んだのである。 それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。 そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、「国の有事」を仕切ることになった。 天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが全国を統率する大権をもつようになったのか。 ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が有事の名のもとに見え隠れする。 

≪02≫  世界は、平時を有事が破り、有事が平時に組み込まれていくことによって多様な歴史をつくってきた。 平時が「常」で「ふだん」、有事が「非常」で「まさか」。平時が柔らかい「日常」だとすれば、有事が激しい「異常」であった。 

≪03≫  東日本大震災は25000人近い死者・行方不明者を呑みこみ、津波の及ぶところすべての住宅・仕事場・公共施設をことごとく打ち砕いた。船は数千艚が瓦解あるいは陸に乗り上げて、いつもは陸をわがもの顔に自在気ままに動きまわっていた自動車たちは、数万台が木の葉のごとく揉みしだかれ、あっというまに使い物にならなくなった。生活と仕事が根こそぎ奪われたのだ。 

≪04≫  そこへもってきてレベル7の福島原発事故がいまだ止まらない。1号機のメルトダウンは早々におこっていたようだし、これでは2号機・3号機・4号機だって、このあとどんな“想定外”の事態が勃発してもおかしくない。 

≪05≫  自衛隊が出動し、大半は無言の隊員たちではあるけれど、終始、不屈で劇的な活躍をした。被災者と放射線汚染圏の住民は避難施設に移動した。こちらも無言に近い。この無言は「無念」に裏付けられている。作物は乱され、牛馬は飼糧に見放され、福島の風評被害は日本中どころか、世界をかけめぐった。 

≪06≫  まさに国家危急の有事。国難である。 しかし、こうした事態のすべては、福島原発事故を含めて「北の有事」に発したものだった。普天間基地問題の「南の有事」では腑抜けになった日本政府も、この「北の有事」には驚天動地した。 

≪07≫  古来、有事とみなされてきたのは、戦争・自然災害・疫病流行・飢饉・財政危機・革命・クーデターなどだった。けれども有事は、それだけじゃない。ほかにもさまざまにあり、さまざまに歴史を動かしてきた。 

≪08≫  気候の変異、株価の暴落、通貨の変動、流民の移動、民衆の暴動のいずれもが有事だし、火事・殺人・政変・テロ・企業スキャンダル・鳥インフルエンザも、それぞれ有事なのである。そもそも世の中のニュースというニュースが「有事さがし」しかやってはこなかった。そのニュースが気になるようなら、文明というものは有事をおこしたがっていく方向にばかり、歴史をつくってきたとしかいいえない。 

≪09≫  それでも何をもって有事とみなすかは、時代や民族によって、地域や習慣によって、社会情勢や経済水準によって、さらには技術リスクの判断基準や為政者の資質によって、おおいに変化する。たとえばレイチェル・カーソン(593夜)が『沈黙の春』で一羽の鳥の変事を書いたときは、誰もその背景にとてつもない環境有事があるとは思っていなかった。 

≪010≫  一方、有事はいつまでも有事にとどまらないともいうべきである。世間を驚愕させ、危機に陥れた有事は、やがて平時の中に組み込まれ、過去を現在に縫い直していったのだし、ノアの洪水やポンペイがそうであり、原爆ドームやベルリンの壁がそうであったように、平時と有事はさまざまなかたちで歴史共存するようになってきた。 

≪011≫  個人の日々の中にも平時と有事がある。 誰がいつ、どこで交通事故や火事に出会うかわからないし、いつなんどき家族や恋人に変事がおきてもおかしくはない。「まさか」の偶然事は有事の兆候で、「たまたま」は有事の予告なのである。  

≪012≫  だからといって、個人の有事がいつもは個人的であるとも、生活的であるとも、かぎらない。個人はしばしば、気候や環境や社会や国家の有事と無縁ではいられない。地震も公害も口蹄疫も、戦争も自爆テロも、首切りも会社の危機も失業も、個人の有事はすぐさま公共の有事にも、隣接の有事にもなっていく。 

≪013≫  漱石(583夜)はそれらのことをはやくも見越していて、『私の個人主義』(岩波文庫など)に、大意、次のように書いたものだった。「日本はそれほど安泰ではない。貧乏である上に、国が小さい。従っていつどんな事が起こってくるかもしれない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです」。 

≪014≫  漱石がそうしてきたように、国の行方を案じて、自身の脳天に有事の鶴嘴を打ちこむということは、必ずしも少ないことではなかったのである。大伴家持は「北の有事」のなかで個人の平時を狂わされていった古代人であるけれど、それでも「すめらぎ(天皇)の御代さかえむと東(あづま)なる みちのく山に金(くがね)花咲く」と詠まざるをえなかった。 

≪019≫  征夷大将軍は「征夷する大いなる将軍」という意味で、なんとも奇怪な名称であるにもかかわらず、建久3年(1192)の頼朝着任から慶応3年(1867)の慶喜の大政奉還にいたる約800年にわたって、日本の国政の中心を担うことになった。 

≪020≫  日本には倭国時代から天皇がいた。「治天の君」として院政を仕切る法皇もいた。関白も摂政もいた。執権や天下人も太閤もいた。けれども、鎌倉殿このかたは日本社会の実質システムの中心に、本来は有事と臨時のリーダーである将軍こそが君臨しつづけてきたわけである。将軍が「日本国王」であり、「デファクト・スタンダードの主権者」であったのは、紛れもない事実だったのだ。 

≪021≫  そもそも将軍という官位は「有事の大君」だった。「有事の大権」を発動できるプレジデントだった。そのことを如実にあらわしているのが征夷大将軍という格別な名称なのである。 それが何がきっかけで「征夷する大いなる将軍」が国の大政の中心を担うのかといえば、「北の有事」が「国の有事」とみなされたからなのだ。 

≪022≫  本書はその「北の有事」が「国の有事」になっていった理由を、征夷大将軍の変遷を通じてさまざまな角度と背景から解読した最初の本だった。東北史研究の最もラディカルな研究者であった高橋富雄さんならではの、しばしば唸らせるような独自の分析がいろいろ詰まっていた。 

≪023≫  高橋さんの学問的な業績については文末を見ていただくとして、ここでは省くけれど、その研究姿勢は一貫して凄かった。東北を背負い、蝦夷(エミシ)を愛し、奥州藤原氏や平泉文化を解明しつづけた。ぼくが30代半ばに『辺境』(教育社新書)でガツーンときたことは『蝦夷』(1413夜)のところでも書いておいた。 が、その高橋さんでも言及できなかったことは、いろいろあった。 

≪024≫  そこで以下では、本書のほかの高橋富雄著作とともに、高橋崇(1413夜)の『蝦夷の末裔』(中公新書)や『坂上田村麻呂』(吉川弘文館)を、新野直吉の『古代東北の覇者』(中公新書)を、また、工藤雅樹の『古代蝦夷の英雄時代』(新日本出版社・平凡社ライブラリー)や『平泉藤原氏』(無明舎出版)、たいへんよくまとまっている「戦争の日本シリーズ」の鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』や関幸彦の『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)を、さらには安田元久の『源義家』(吉川弘文館)や大石直正・入間田宣夫ほかの『中世奥羽の世界』(東京大学出版会)などを参照しながら、「北の有事」と征夷大将軍の関係を概略的に案内する。 

≪025≫  征夷の「夷」は夷狄(いてき)すなわち外国の敵ということである。古代日本は中華思想を輸入して、この名称を外敵にあてがった。 しかし本来の海外の外敵の対処にはもっぱら太宰府があてられていて、それとはべつの“国内の外敵”にのみ征夷将軍や大将軍の名がつかわれた。陸奥の蝦夷にのみ征夷の対象が向けられたのだ。 

≪026≫  ということは、つまりは「北の有事」に備える軍事総司令官が征夷大将軍だったのである。 ただし、この官職は頼朝から始まったことではない。最初の征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂で、これが延暦12年(793)のことだった。『日本紀略』に「征東使を改めて征夷使となす」と説明されている。征東使や征東将軍を改めて征夷使とし、その長官に征夷将軍を、さらにそのトップに征夷大将軍が設けられたわけだった。 

≪027≫  二代目が坂上田村麻呂である。大伴弟麻呂が征夷大将軍になったときの征夷副使近衛少将だった田村麻呂が、4年後の延暦16年に征夷大将軍に抜擢された。その田村麻呂が新たに胆沢(いさわ)城を築き、ここに多賀城から鎮守府を移して、勇猛果敢なアテルイ・モタイらの蝦夷(エミシ)の反乱を平定したことは、前々夜(1413夜)にも書いた。 

≪028≫  というわけで、征夷大将軍の初登場は平安初期のことだったのである。そしてそれは、「征東使を改めて征夷使となす」と説明されていたように、その前の時代の征東使のころの役割の強力なヴァージョンアップだったのだ。 

≪029≫  征東使とは何かといえば、これは征夷使ともいわれ、蝦夷征討のために臨時に派遣された者をいう。その長官が征東将軍とか征夷将軍とかとよばれた。  

≪030≫  この名でわかるように、あくまで臨時の軍事リーダーだった。最初の征夷将軍は和銅2年(709)に任命された佐伯石湯にまでさかのぼる。 

≪031≫  つまりは蝦夷討伐のための臨時長官が征夷将軍であり、プレ征夷大将軍だったのである。では、蝦夷を討ったのは臨時の軍事リーダーやその一団ばかりだったかというと、そうではなかった。そこにはいくつかの前史があった。そのへんのこと、本書にもいろいろ説明がなされているが、鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』にさらに詳しい。 

≪032≫  そもそも日本の古代国家は、律令制にもとづいて「国・軍・里(郷)・保」という国内行政機構をもっていた。その行政機構にあわせて全国に公戸皆兵制を敷くことにより、その基盤を成立させていた。 すべての「戸」から兵士一人を徴兵して、これをもって軍制・軍団・軍令を形成し、発令するのが原則だったのである。これを日本歴史学では軍団兵士制という。 

≪033≫  『令義解』などでみると、この軍団の編制は兵1万・5千・3千を単位にして、1万軍には将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4をおき、その上に大将軍が立つようになっていた。3軍もろともの編制であれば、大将軍の下に将軍3・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8がついた。  

≪034≫  将軍や大将軍は非常大権をもち、大毅(たいき)以下が軍令に従わなかったり軍務に怠慢であったりすれば、死罪以下の刑に処してよいとされた。大毅は千人の兵を率いるのだから、将軍・大将軍は文字通りの生殺与奪の大権を行使できたのである。 

≪035≫  もっとも将軍・大将軍に非常の大権があるからといって、将軍・大将軍がその地の平時の軍政に当たるわけではない。それをするのは鎮守府の鎮守将軍で、平時の管轄をするのは国府であった。平時の軍政は鎮守府の将軍・軍監・軍曹が担当した。だから将軍の官位は国司に準じ、軍監は掾(じょう)に準じ、軍曹は目(もく=さかん)に準じた。 

≪036≫  これで古代律令下の軍団兵士制はうまくいくはずだった。 けれども、どうしても徴兵がゆきわたらない。数が揃わない。そのため、何度かのルール変更がなされていった。最初は陸奥・出羽・壱岐・対馬などの辺要諸国以外の全地域に健児(こんでい)をおいて、30人から100人程度の郡司の子弟を中心にした精鋭を選抜によって補完するようにした。これはいわゆる「健児制」だ。 

≪037≫  が、それでは不十分だった。そこで導入されたのが「編戸(へんこ)制」あるいは「柵戸(きのへ)制」だった。戸主のもとに造籍を通じて「戸」をふやすことにした。造籍とは水増しだ。とはいえ水増しにも限界がある。10年たっても各地に新しい子がふえてはこない。成長してこない。これでは軍事力強化にならない。 

≪038≫  かくて踏み切られたのが「俘囚(ふしゅう)制」だった。 ヤマト朝廷の宇内の領域に入らない者たちを、まずはネゴシエーターが征圧し(この先蹤が阿部比羅夫だったろう)、それでも言うことをきかないなら軍事的に征圧し、そのうちの服属を誓った者たちを俘囚として取り込み、これを編戸や柵戸にまわすというものだ。 

≪039≫  王化されていない土地の民を取り込んで、これを煽(おだ)てて“王民の兵士”に仕立てていくというやりかただった。 ここにおいて、いよいよ蝦夷の地と蝦夷の民こそが俘囚編戸の大きな対象になったのである。そのぶん陸奥東北一帯は「化外(けがい)「境外」「外蕃(げばん)」などと呼ばれ、そこは「まつろわぬ民」がいる“外国”とみなされた。 

≪040≫  その内域と外域を分け隔てるためにつくられたのが「柵」(城柵)である。王民化した俘囚が「和(にぎ)蝦夷」などとよばれ、それでも抵抗をつづける蝦夷たちが「荒(あら)蝦夷」とやや懼れられてよばれたことについては、1413夜でも説明した。 古代国家はヤマト朝廷の支配にまつろわぬ者たちを制圧し、この「俘囚の民」をもって軍事組織の底辺にあて、とりわけ陸奥・出羽の蝦夷を服属させた「俘囚の民」が駆り出したのである。「和(にぎ)蝦夷」がさかんに公戸皆兵制に次々に組み込まれていったのである。 

≪041≫  こうして陸奥の地に国府とはべつの鎮守府がおかれるようになり、そこに将軍・副将軍以下の兵団が設置されていくようになった。 

≪042≫  天平宝字年間には、鎮守府の官員に国司なみの給与がわたされたとあるから、そうとうに優遇されたはずである。ちなみに大伴家持は最晩年に陸奥に赴任してそこで死んでいったのだが、それは鎮守将軍に任命されたため、その役割をはたすためだった。藤原氏による大伴一族追い落としの計略だったにちがいない。 

≪043≫  按察使(あぜち)という制度もあった。特別に按察使が設定されて、出羽国を含めた陸奥全体の管理を兼ねた広域行政指導府の面倒をみた。これはさしずめ3・11以降の岩手・宮城・福島3県の上に、“東北日本臨時統括府”といった上部ボード機能が置かれるようなものだろう。坂上田村麻呂のあとをうけて東北経営を任せられた藤原緒嗣は、そういう陸奥出羽の按察使だった。 

≪044≫  ついでにいえば鎮守府の和名は、本居宣長(992夜)の『歴朝詔詞解』によれば「えみしのまもりのつかさ」と読まれたらしい。鎮守府とはいえ、そこには北の蝦夷を統括するという意志がはたらいていたことを物語る。 

≪045≫  これらが平時の蝦夷管理システムだった。 ところが、これに対して緊急有事のシステムがさらに用意されていったのである。それこそが征東使や征夷使という臨時のリーダーで、その統括長官が征夷大将軍なのである。 

≪046≫  征東使や征夷使は、国の非常事態に処するための有事のリーダーだった。日本の国事というものは朝廷が体現していたから、征東使や征夷使はその出征にあたっては朝廷のシンボルである天皇から節刀(せっとう)が親授された。節刀があるということは、天皇の大権が臨時委任されたことを意味した。 

≪047≫  そういう役割の征東使や征夷使の呼び名には、古代においては二つのジグザグとした前史があった。 ひとつは、和銅2年には征蝦夷将軍、養老4年には持節征夷将軍、養老5年には征夷将軍、神亀1年には征夷持節将軍の名が冠せられたという前史で、もうひとつは、和銅2年に陸奥鎮東将軍が、宝亀11年のには征東大使が、宝亀12年に持節征東大使が、延暦3年に持節征東将軍が、そして延暦7年には征東大将軍という官職が発令されたという前史だ。 

≪048≫  実は征夷大将軍とは、これら二つの前史の名称の“統合”なのである。そして、征東使や征夷使がいよいよ征夷大将軍になったとき、「北の有事」は「日本の有事」にすっかり吸収されることになったわけである。 高橋富雄は「ここで東北経営の歴史が切り替わった」と書いている。 

≪049≫  以上をまとめると、平時の軍政のトップに仮の将軍としての按察使なるものがいて、その下に陸奥守としての将軍と、副将軍格の鎮守将軍がいたということになる。位階も按察使が正五位上(のちに従四位下)、陸奥守が従五位上で、鎮守将軍は従五位下だった。 

≪050≫  だいたいは、そういうことだ。そしてこれが全面的に有事の臨時システムに切り替わったとき、征東使や征夷使を強化した有事のトップリーダーとしての征夷大将軍の出征が発令されたのである。 

≪051≫  しかしながら意外にも、この古代的な征夷大将軍の歴史は短いものにおわった。早くも延暦23年(804)、坂上田村麻呂は2度目の征夷大将軍に任命されながら、その征夷計画の実施は中止されたのだ。 

≪052≫  桓武天皇晩年に重大な御前会議が招集され、エミシ征討か平安教造営かの論議がされたうえで、「都の造営」が採択されたのだ。「北の有事」が「都の造営」に吸収されたのだ。いってみれば、東北大震災や福島原発問題より、東京オリンピック開催予算や東京電力の組織充実のほうが採択されたようなものだったろう。 

≪053≫  この中止された征夷計画は、それでも6年後の弘仁2年に文屋綿麻呂によって実行に移されている。綿麻呂は“陸奥の中の陸奥”ともいうべき、閉伊(へいい)と弍薩体(にさたい)に向かった。ここは岩手東部山岳地帯と青森南東部で、綿麻呂の軍は奥入瀬川を渡るところまで進軍した。 

≪054≫  ただ、このときの綿麻呂は征夷大将軍ではなく、征夷将軍だった。実際にも、その後の元慶2年(878)に秋田城下で「俘囚の大乱」があって、出羽国最大の有事となったにもかかわらず、朝廷は従5位上右中弁の藤原保則を正5位下に叙し、出羽権守に任じて鎮定にあたらせたにすぎなかった。平安王朝の征夷政策は、律令国家の支配領域をほぼ北上盆地にまで拡大したところで、一応のピリオドを打ったのだ。 

≪055≫  というようなことで、古代律令制下の征夷大将軍の役割は、ここでいったん途切れたわけである。高橋富雄は、このときに「古代征夷大将軍の役割が中断された」と見たわけだ。 

≪056≫  古代律令型の征夷大将軍が田村麻呂と綿麻呂の出征をもって中断されたのは、東北38年戦争がようやく収まったと判断されたからだった。  

≪057≫  ところが、ところがだ、それから80年ほどすると、源頼朝が征夷大将軍をまったく新たな制度にして蘇えらせたのだ。その前には木曾義仲がその官職を名のった。征夷大将軍が“復活”したのだ。 

≪058≫  なぜ、こういうことがおこったのか。 いろいろ理由が考えられるけれど、一番に見るべきことは、そこにふたたび「北の有事」が認められたということである。そこには安倍一族や清原一族の動向が、奥州藤原4代の動向がおこっていて、それを源氏の棟梁が収拾することになったからだった。 

≪059≫  古代律令制がくずれ、平安朝の“規制緩和”がすすむと、各地の支配は地方官の受領(ずりょう)に委ねられるようになり、9世紀を通して中央集権力が衰えるとともに受領の国内支配における裁量権が拡大していった。受領というのは任国に赴いた国司の長官で、多くは「守」(かみ)、あるいは「介」(すけ)の名をもった。 

≪060≫  これらは宇多・醍醐朝の「延喜・天暦の改革」によって大いに進行し、それにもとづいて、①中央財政の構造改革、②土地制度の改革(荘園整理令)、③富豪層と王臣家の指摘結合の分断、④受領による国衙機構の改編などに向かっていったのだが、それが一方では各地に群盗の出没や在地領主や任官たちの武装反乱を促進してしまった。 

≪061≫  朝廷はすぐさま令外官(りょうげのかん)として押領使などを派遣したものの、そんなことでは事態はいっこうに収まらない。もはや中央からの鎮圧では無理だったのである。平安期の貴族社会では考えられない武力勢力が台頭していたからだ。 

≪062≫  なかでも平将門や藤原純友などの猛者によって朝廷に対する謀反が勃発し、これが大乱の兆しをもたらすと(承平・天慶の乱)、この不穏を平定する力としては、“武力に対しては武力を”ということで、東国や西国からのしてきた「兵」(つわもの)の軍団にその解決を頼むしかなくなっていた。 

≪063≫  平将門は下総で決起し、常陸の国府を襲撃したのち上野・下野の国府も占領して新政権の樹立を狙った。藤原純友は伊予の日振島を根拠に瀬戸内海の海賊を率いて、伊予の国府や太宰府を襲った。どちらも、とうてい中央でも受領でも抑えられない力になっていた。 

≪064≫  ここに登場してくるのが、新たな勢力のイニシエーターとなった平高望(高望王)、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)たちだった。なかで藤原秀郷(ひでさと)はのちのちの「奥州藤原四代」につながっていく。 

≪065≫  この承平・天慶の乱(935~941)のあと、頼朝が征夷大将軍を“復活”させるまでに、実は時代社会を変更させる“何か”がおこっていったのだ。  

≪066≫  まずは列島各地で多田源氏(源満仲)、伊勢平氏(平維衡)、武蔵七党(横山党・児玉党)などの武士団が、次々にあらわれた。 ついで武蔵の押領使だった平忠常が房総半島一帯を巻き込んでおこした大きな反乱(1028~31)を、源頼信が平定して源氏の東国進出の橋頭堡をつくることになった。これがきっかけで兵(つわもの・もののふ)のパワーはふたたび東北に舞台を移し、いわゆる前九年・後三年の役(1051~1087)の奥州十二年合戦になっていく。 

≪067≫  ふたたび東北が「有事の戦場」になったのだ。 前九年・後三年の役は、奥州安倍一族と清原一族の主導権争いに、源頼義などの源平を代表する武将が絡んだ合戦である。承平・天慶の乱とともに日本の中世の本質を見極めるにあたっても、また「兵」(もののふ)の登場という点からも、そして「北の有事」の新たな意味を知るうえでも、前九年・後三年の役はきわめて重大な経緯をもっている。  

≪068≫  発端は、胆沢の鎮守府を掌握した安倍氏が多賀の国府にあった中央政権の出店を侵犯したことにあった。これを「奥六群」をめぐる争いという。胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手が奥六郡である。 

≪069≫  奥六群のことは奥州藤原氏や平泉文化の謎を解く重要な背景になることでもあるので、次夜以降でも詳しく書きたい話題のひとつなのだが、その地がなぜ重要かというと、ここが「北の有事」を「国の有事」として引き取った頼朝を棟梁とする源氏勢力起爆の大きなトリガーになっていったからだ。 

≪070≫  ごくかんたんに案内しておくが、前九年の役は「北」の安倍一族と「東」の源頼義との出会いと合戦である。 

≪071≫  安倍頼時の祖父の時期に安倍氏の勢力が奥六群におよび、それが安倍頼時の時期に衣川の外に向かって広がり、しかも租税も収めず力役も務めないという勢力になっていた。そこで源頼義が追討将軍に任ぜられ、頼時を継いだ安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)と壮烈な合戦を交わしていった。勝敗はなかなかつかない。源頼義はここで「出羽の俘囚」のリーダーであった清原武則と連携して戦力を増強して、これをもって安倍氏を滅亡させたという戦役だ。その物語は『陸奥話記』(むつわき)がしるして、安倍一族の最期を語り、読む者を躍らせる。 

≪072≫  後三年の役のほうはその清原一族の内紛に発した戦役で、そこに陸奥守に赴任した源義家(八幡太郎義家)が介入して清原清衡を応援し、家衡・武衡を討ち取っていくという合戦だった。 

≪073≫  これが前九年・後三年の奥州十二年合戦のあらましなのだが、この結果、何がどうなったかというと、(A)源氏の戦果がめざましく全国に鳴り響き、(B)これによって陸奥の「奥六郡」と出羽の「山北(せんぼく)三郡」の支配権を得た清衡が清原姓から藤原姓に代わり、(C)新たに藤原清衡として支配地南端の平泉を拠点に奥州藤原4代の基礎をつくったわけである。 

≪074≫  さて、このあと時代は「西の平家」と「東の源氏」による源平争乱が続くわけで(すなわち保元・平治の乱)、それがとどのつまりは源氏の勝利になっていくのだが、その最終場面で次のことがおこったのだ。 ①頼朝と弟の義経が対立した。②義経が平泉の藤原秀衡を頼った。③秀衡が途中で死んだ。④泰衡が義経を衣川に討った。⑤そこへ頼朝軍が攻めこんで奥州藤原一族の終焉がおとずれた。 

≪075≫  中世奥州最大のドラマである。いったい奥州藤原氏とは何なのか、平泉文化とは何だったのかというドラマだ。 1週間前、平泉が世界遺産に登録されるだろうという報道があった。これは、3・11以降の岩手県の“蘇生”にとっても、奥州藤原氏の物語と中尊寺や毛越寺などの中世浄土の景観、および平泉を中心とした陸奥文化の歴史が21世紀に何をもたらすのかということを日本と世界が理解するにあたっても、すばらしい契機になると思われる。 

≪076≫  だからここでも、そのことをぜひとも源平の争乱のもうひとつの意味として議論していきたいところだが、それはいずれ千夜千冊するとして、ここでは頼朝がこの直後に征夷大将軍になっていったということを、おおざっぱな論点だけを追って説明しておきたい。 

≪077≫  頼朝が征夷大将軍を復活させた経緯の背景で、高橋富雄が最初に注目するのは、木曽義仲が征夷大将軍を名のったことである。このことはあまり歴史家のあいだで議論されてこなかったことだった。 

≪078≫  木曽義仲こと源義仲が征夷大将軍に任ぜられたのは寿永3年(1184)である。その直前、義仲は平氏打倒の兵を挙げ、寿永2年に倶利加羅峠で勝利を収め、京都に入って後白河法皇の治世を回復させる試みに着手した。その功で左馬頭(さまのかみ)に任ぜられ、さらに「朝日将軍」の号を下賜されると、翌年に半ば強引に征夷大将軍となった。 

≪079≫  このとき義仲は平氏をこれ以上は追討せず、むしろ平氏とともに頼朝に向かうことを決意していた。 ところがその後、法皇は頼朝と連携するほうを重視した。そのため義仲は法住寺殿を襲撃して法皇を幽閉するのだが、ここから源平さまざまに入れ乱れ、ついに義経によって宇治川に追われ、近江粟津にわずか30歳で戦死した(巴御前はその後に行方を消した)。 

≪080≫  高橋富雄はこのとき義仲が「頼朝という東の棟梁を征夷する」としたことこそ、次にその「征夷」のシンボルを頼朝が逆転して握ることになるきっかけになったと見た。 

≪081≫  頼朝はどうしても征夷大将軍の官位がほしかったのだ。そのためにこそ義経をして義仲を討ったのだ。 そこで後白河法皇に願い出るのだが、朝廷はこれを許可しなかった。なぜなら、鎌倉の地においてそこを動かぬ者が、有事の非常大権である大将軍の官位を得ることはできないと判断したからだった。 

≪082≫  そこで頼朝は次の手を思いつく。奥州平泉を征討したい、ついては勅許を願いたい。そういう申し入れを思いついた。文治5年(1189)のことだった。朝廷は泰衡追討使の宣下を与え、頼朝はこれを首尾よく果たし、「北の有事」に凱旋したことを誇示できた。 

≪083≫  こうして建久1年(1190)についに上洛すると、頼朝は権大納言を、続いて右近衛大将の任命を受ける。右大将になったことによって、「幕府」を開くことを決断し、あとは征夷大将軍の節刀を受けるだけというところまでこぎつけた。かくて建久3年(1192)に征夷大将軍の任命がくだり、頼朝にすべての軍事公権が与えられたのだった。 

≪084≫  しかし、ここでよくよく考えておくべきは、そこにはもはや「北の有事」はなかったということだ。征夷大将軍の名は幕府のプレジデントとしての名称になっていったのだ。そのかわり、頼朝は、新たな4つの権力の上に君臨することになる。 

≪085≫  この4つの権力を滝川政次郎は、①征夷大将軍としての軍事権力、②日本66カ国の総守護・総地頭としての権力、③関八州の分国主としての権力、④鎌倉御家人の封建的主従関係の棟梁としての権力、と見た。 

≪086≫  高橋富雄はこれを、①征夷大将軍としての幕府主権様式、②諸国総守護職・総地頭職としての諸国総追捕使の軍事警察権、③東海・東山両道に固有宗主支配を行使する東国行政権、④鎌倉御家人を従者としてコントロールする鎌倉殿の支配権、という4つの権力の支配を得たと見た。 

≪087≫  いずれの言い方でもいいのだろうが、これはその後の日本の武家の支配体制の根本方針になるものだった。すなわち「将軍」あるいは「将軍家」がこの4つの権力を掌握し、それをさまざまに発展させることこそ、「国の有事」を司るということになったのだ。 

≪088≫  それなら、「北の有事」はどうなったのか。また、鎌倉幕府以降の「将軍」はどんな変遷を遂げたのか。いずれも高橋富雄が生涯をかけて探求した問題であったけれど、今夜はこのへんまでにとどめておく。いずれ、どこかでぶり返して案内してみたい。 

母国とは何か。

それは探し続けるものである。

九州宗像に住む森崎和江は、その母国を北上の果てに探した。

安倍一族の原郷である。

なぜ陸奥の北上川の奥にまで母国のかけらを探しに行ったのか。

前九年の役で滅びた安倍一族の魂が北九州の宗像の杜にまで届いていたからだ。 

≪02≫  このところ「母国」という言葉をときどき発してみている。かつて「母なる空海」という言葉を突如として思いついて以来、ぼくのなかではしばしば出入りしていた“母系カテゴリー”なのだが、それを「母国」というふうに切り出すようになったのは、3・11以降のことだ。 

≪03≫  たとえば「東北復興は母国再生にならなくちゃね」「これは東北と沖縄を一緒に母国として見るということなんだと思う」というように。けれども、多くの反応はこの言葉をやんわり通り過ぎさせるだけで、そこに佇まない。いまさら母国ですか、おおげさ、うーん母国ねえ、東北は東北だろ、愛国っぽい、松岡さんもそういうことを言うようになったか、結局は日本論でしょ、お母さんで行きますか、ナショナリズム? 祖国じゃなくて母国なんだ、「方法日本」のほうがいいと思うけど、ちょっとめめしい‥‥。そんな感じだ。 

≪04≫  母国という言葉に慣れないのか、何かが嫌なのか、坐りが悪いのか、照れくさいのか。どうもまともに受け止めない。 

≪05≫  20年ほど前のことになるが、ぼくは高橋秀元や田中優子(721夜)や高山宏(442夜)らと物語の「型」を研究していた。そのなかで、世界中の物語にはそんなに多くはない数の「母型」があることに気づき、これを「ナラティブ・マザー」とか「物語のマザータイプ」と名付けた。  何をもってナラティブ・マザーとしたか、その一端については『知の編集工学』(朝日文庫)に案内してある。 

≪06≫  一方、ユング(830夜)がその心理学のなかで、民族や宗教にひそむ「アーキタイプ」(元型)と呼んだものがあるのだが、それについては典型(ステレオタイプ)や類型(プロトタイプ)に対する原型(アーキタイプ)のほうに分類し、それらいずれにも共通していながら、もうちょっと漠然とした時空間に漂っていたり、どこかに埋め込まれているイメージの母体のようなものをあえて母型と呼び、これを「マザータイプ」とか、たんに「マザー」と捉えるようになっていた。 

≪07≫  文化人類学などでは、ふつうは母型をマトリックスと見るのだが、それだけでは不十分だと感じたのだ。あまり厳密なものではないし、むしろ厳密に規定しないほうがいいと思うけれど、しかし、われわれにはどうしてもこうした母型やマザーに逢着するときがあったり、その近くをうろうろしたくなることがあるはずなのである。 

≪08≫  他方、ぼくはグレートマザー(太母神)の伝説が好きで、これは最初は『ルナティックス』(ちくま学芸文庫)を連載しているときにのめりこみ、小アジアのディアーナ(ダイアナ)伝説を月女神や月知学に敷延していたのだが、その後にバッハオーフェン(1026夜)の大著『母権論』を読んでからは、世界中のマトリズム(母的思考)に対するパトリズム(父権的思考)の圧迫を知るようになった。 

≪09≫  そうしたなか、「母国語」や「母国」や「母なる大地」や「母音」「母体」「分母」という言葉に、しだいに深遠な愛着をもつようになっていったのだ。ぼくはいつかこの言葉を強く発しなければならないと感じてきた。 

≪010≫  これらの用語は、毫も民族主義的なニュアンスや国家的ニュアンスを含まない。ひょっとするとフェミニズムですらないのかもしれない。われわれの「胸の津波」を直撃する“何か”なのである。 

≪011≫  どうやら、みなさん勘違いをしているようだが、母国とは、必ずしもたんに生まれ育ったクニや民族性の中だけで見いだせるようなものではないのだ。母国は何も告示してはくれない。母国というのは探さなければ見つからないものなのである。 

≪012≫  ここに取り上げた森崎和江の『北上幻想』には「いのちの母国をさがす旅」という副題がついている。「いのちの母国」「母国をさがす」「さがす旅」というふうに。  

≪013≫  そうなのである。母国は探していくものなのだ。ときに容易に見つからず、ときにあてどもなくもなり、ときに見失う。それがふいにどこからか顕現もする。とても小さな母国に触知することもあるし、とても大きいときもある。見えないままのときもある。それが母国というものなのだ。 

≪014≫  森崎さんは生まれは韓国慶尚北道で、育ちは久留米で福岡県立女子専門学校の出身である。すでによく知られてきたと思うけれど、詩誌「母音」の同人となって詩を書きはじめ、谷川雁と出会って炭鉱労働者たちと「サークル村」の活動を開始、「無名通信」などを出し続けた。 

≪015≫  だから森崎さんの故郷といえばおそらく慶州でも福岡でもあって、実際にも『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本もある。いまは宗像神社のすぐ傍らに住み続けられている。 

≪016≫  しかし森崎さんはそれでも母国をずっと探してもいて、『北上幻想』では東北にひそむ安倍一族の行方を尋ねたのだった。前九年の役で滅びたあの安倍一族の母国を‥‥。 

≪017≫  実はおとといの5月28日の「連塾ブックパーティ」巻2で、ぼくはほぼ冒頭にこの『北上幻想』を紹介した。そうしたかったのだ。 

≪018≫  舞台のスクリーンにこの本の表紙を映し出し、たった2分程度ではあったけれど、なぜ3・11以降の東北に母国を探すことが必要なのか、その重要性を訴えた。 

≪019≫  この連塾はまた、これまで連塾に“出演”してもらった多くのゲストたちに3・11メッセージ「百人百辞百様」を提供してもらう場にもなっていて、青山スパイラル1階のガーデン回廊にそれらのA4判1枚ぶんのメッセージをやや拡大して、美柑和俊君のデザインによってずらりと公開もしていたのだが、そこへのぼくのメッセージも「母國」を墨書したものだった。「國」という字の「戈」の上部を囗(くに)がまえの上に突き出した書になっている。けっこう思いをこめた。 

≪020≫  それほどにここのところ、ぼくは母国にこだわりたかったのである。それは森崎和江がずっとずっと以前から静かに叫び続けていたことでもあったのだ。 

≪021≫  森崎さんが住んでいる宗像の社には、宗像の女神たちが祀られている。海の沖津宮、島の中津宮、浜の辺津宮があって、それぞれが宗像三神にあてがわれている。「みあれ祭」では、沖津宮からイチキシマヒメを舟に迎え、中津宮からタギツヒメを迎えて宗像七浦の海人族がお供をして、辺津宮に鎮座するタゴリヒメに合流する。 

≪022≫  宗像三神はすべてが海の女神であり、アマテラスがスサノオと誓約(うけひ)をしたときにアマテラスの吐く息から生まれた女神たちである。その末裔は海流に乗り、海人たちの活動に応じて、日本の列島・群島のそこかしこに散っていった。 

≪023≫  その逆に、宗像三神と交流した記憶が九州に届いてもきた。そのひとつ、中津宮の大島は「お言わずさま」ともよばれ、そこにはなぜか安倍貞任と宗任の墓がある。森崎さんは長らくそのことに名状しがたいものを感じてきたようだ。陸奥(みちのく)の俘囚の物語に消えたはずの安倍氏の末裔がここに流れてきたのだろうか。それとも宗像神と安倍氏とはもともとどこかでつながっていたのだろうか。あるいは、その後の歴史にわれわれが失った母国の一族を結びつける何かの動向があったのだろうか。 

≪024≫  こうして森崎さんの宗像三神の相方(あいかた)を求め、そこに母国の脈絡を尋ねる旅が始まったのである。途中、若狭の小浜にも安倍一族の墓があったけれど、森崎さんの母国幻想が最もふくらんだのは、北上の安倍一族の消息だったのである。 

≪025≫  安倍一族の消息はたしかに日本列島各地に残響している。『筑前国風土記』には安倍宗任には3人の子があったと記され、長子は肥前松浦に渡って松浦党の祖になり、次男は薩摩に行き、そして三男が筑前大島に渡ってきて、宗像の杜に拠点をおいたと説明されている。 

≪026≫  一方、宗任たちは前九年の役で坂上田村麻呂に捕縛され、いったんは京中に連れてこられようとしたのだが、都には入れず、伊予に流されたときに逃亡を企てたので、治暦3年(1067)に太宰府に再配流されたなどという記録もある。『再太平記』では後三年の役の折に、八幡太郎義家が宗任を筑紫に下らせたというような物語をつくっている。 

≪027≫  これらは、たんなる安倍一族の伝承にとどまるものではない。津軽のアラハバキの伝説や悪路王の伝説とともに、われわれの北方伝承を組み立てている母国のモジュールそのものなのである。そこには、山内丸山の産女(うぶめ)の土偶から、安倍一族の子孫という安倍康季が「奥州十三湊日之本将軍」を標榜した物語までが含まれて、われわれの“北なる母国”を形成してきたわけなのだ。 

≪028≫  森崎さんはそのような思いの一端を「歌垣」という詩では、こんなふうに詠んでいる。  降りつむ雪と響きあう  北東北の山のエロス  いのちの子らが光ります 

≪029≫  ところで、今夜はもう一冊、『北上幻想』に並べておきたい本がある。それは谷川雁の『北がなければ日本は三角』(河出書房新社)だ。 

≪030≫  谷川についてはいずれじっくり千夜千冊したいので、ここでは詳しくはふれないが、さきほども書いておいたように、森崎とは闘う同志としてしばらく筑豊にいた。1958年に森崎が筑豊の炭坑町に移住をしていたとき、谷川は上野英信や森崎や石牟礼道子(985夜)らと文芸誌「サークル村」を創刊しつつ、大正炭坑に行動隊を結成し、ラディカルきわまりない戦闘を辞さなかったのである。 

≪031≫  谷川自身は熊本県水俣の生まれで、熊本中学・五高をへて東大の社会学科に入り、戦後は西日本新聞社にはいるのだが日本共産党に入党したことで解雇され、大西巨人や井上光晴らと左翼活動をしながら「九州詩人」「母音」などに詩を書いていた。 

≪032≫  そのあと中間市に移住して、そのときから炭坑労働者たちと活動をともにするのだが、やがて60年安保のときに共産党を離脱、吉本隆明らと「六月行動委員会」をつくり、大正炭坑の争議では大正行動隊を過激に組織したりした。 

≪033≫  ぼくはそういう谷川に、早稲田時代からかなりの影響をうけてきた。『原点が存在する』『戦闘への招待』『影の越境をめぐって』など、いずれも貪り読んだ。実は「遊」を創刊するためにつくったちっぽけな母体に「工作舎」という名をつけたのも、谷川雁の『工作者宣言』にかぶれたところも多かった。そこに「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」と書いてあったことは、いまなおぼくのアクティビィティの中核に唸り声のように響いている。  

≪034≫  しかしその後の谷川は詩も書かず、思想書も、文人としての活動も、社会批評もしなくなった。TECという情報教育システムにとりくんで、なぜかいっさいの沈黙を守ったのだ。  

≪035≫  そうした事情についてもいずれ書きたいが(実は子供向けの創作や表現活動をしていたのだが)、その谷川が70歳になってやっと書いたのが『北がなければ日本は三角』だったのである。 

≪036≫  これは「西日本新聞」に連載されたもので、谷川が初めて幼児期と少年期をふりかえったエッセイだった。まことに淡々と「です・ます調」で綴られた回想記ではあるのだが、このタイトル『北がなければ日本は三角』が異様にも突き刺さる。   

≪037≫  これは谷川が小学生のときに、転向してきた女生徒から掛けられた謎なのである。いや、女生徒はもっと単純な意味で言ったのかもしれないが、谷川はこれを終生大事な謎にしてきたようなのだ。いったいどういう意味かは、谷川も証していない。しかし、たしかに日本は、北がなければ三角なのである。 

日本という方法   松岡正剛著

まず「おもかげ」についての歌をあげます。

『万葉集』巻三に、「陸奥の真野のかやはらとう けども面影にして見ゆといふものを」という笠女郎の歌がある。大伴家持に送った歌です。実 際の陸奥の真野の草原はここから遠いから見えないけれどそれが面影として見えてくるという 歌です。 もう少し、深読みすると、いや、遠ければ遠いほど、その面影が見えるのだとも解釈でき る。「面影にして見ゆ」という言い方にそうした強い意味あいがこもっています。

家持が女性に贈った歌にも面影が出てきます。「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかも せん人目しげくて」。家持が坂上青梅郎女に贈っている。人目が色々あってなかなか会えない けれど、面影ではいつも会っていますよという恋歌です。

また紀貫之には「こし時と腰つつ居 れば夕暮れの面影にのみにわたるかな」という歌がある。今来るぞ、もう来るぞと思っていれ ば、恋しい人が夕暮れの中に浮かんでくると言う歌意でしょう。これもまるで、面影で見た方 が恋しい人がよく見えると言わんばかりです。

今引いた三つの歌は、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように浮かん で見えるということを表しています。これは突然に何かが幻想として出現したとか、イリュー ジョンとして空中に現出したということではありません。そのことやその人のことを、「思え ば見える」という、そういう面影です。 プロフィールといっても人とは限らない。景色もあれば言葉もある。思い出や心境もある。 それゆえこの面影は美しいこともあれば、苦しいこともあります。『更級日記』の作者は、 「面影に覚えて悲しければ、月の興も覚えずくんじ臥しぬ」と、面影が見えることが恋しくて 眠れない様子を綴っています。面影が辛いのです。

26 08 次にうつろいの歌を見てみます。「うつろい」は古くは、「うつろひ」と表記し ます。再び『万葉集』を引きますが、「木の間よりうつろふ月のかげを惜しみ徘徊に小夜更け にけり」という作者未詳の歌があります。早くも「月のかげ」という「かげ」が出てきまし た。歌の意味は、木々の間から漏れる月影を見ているうちに、小夜が更けたということです。

ここで「うつろふ」と言っているのは、月の居所が移っているということで、その移ろいに応 じて自分の気分も移ろっているわけです。ではもう一つ、また家持の歌。「紅はうつろうもの ぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも」

27 02 このように「うつろい」はつきかげや花の色の変化の様子を示しています。とい うことは、元々の「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと 関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落としているうちに変化し てしまうもの、そういうものに対して「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本 質とみなしたものと関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落とし ているうちに変化してしまうもの、そういうものに対して「うつろい」という言葉が使われて いる。容易に編んでアイデンティティが見定めがたい現象や出来事、それが「うつろい」の対 象なのです。

21 18 これらの言葉の使われ方をよく見ていると、対象がその現場から離れている時、 また対象がそこにじっとしていないで動き出している時に、わざわざ使われていることに気が つきます。すなわち面影が「ない」という状態と面影が「ある」という状態とつなげているよ うなのです。つまりは「なる」というプロセスを重視しているようなのです。 私はそこに注目します。

この「面影になる」ということは、そこに「面影がうつろう」とい うこと、「ない」と「ある」を「 なる」がつないでいることに注目するのです。そこに「日本 という方法」が脈々と立ち現れていると見るのです。


次の時代をつくる「志」の研究 奈良本辰也著

はじめに――なぜ今陽明学なのか

高潔な日本人はどこへいった

幕末の志士の「狂」を学ぶ

陽明学――時代の変革を促す「知行合一」の思想

中江藤樹が追求した「孝の道」

人間関係を重視する学問

行動のない知は、知たりえず

大塩平八郎の知行合一

行動の中で真理を見出す

「狂」の意味するもの

新しい時代をつくる力とは

社会とのかかわり合いをもとうとする学問

例1 吉田松陰――幕末を駆け抜けた「狂」の先駆者

十有五にして学に志す

みなぎる気魄

遊学で志を高める

富士山が崩れ落ち、利根川の水が涸れようとも

例2 高杉晋作――幕府を滅亡にみちびいた たった一人の反乱

革命児の誕生

松下村塾の暴れん坊

晋作、江戸へ出る

志の芽生え

やらなければいけないことはやる

志が同志を呼ぶ

例3 坂本龍馬――回天の舞台回しを演出した海をみて育った男

動乱を「わが天地」とする自由人のセンス

「落ちこぼれ」に自信を与えた剣の腕

龍馬丸進水――「国際認識」の大転換

藩を超え「日本」を丸ごととらえる視点を教えた勝海舟

回天の事業を成し遂げる男の「器量」

〈コラム〉「志」を遂げるために必要な同志のつくり方と付き合い方の研究

よき師友との出会いが人生の命運を握る「鍵」

周囲が放っておかない光る男の「底力」とは

他人の感化で開かれる能力

人をひきつける魅力をつくるのは苦労

自分を磨く方法は 結局第一級の人物と出会うこと

例4 山形有朋――陸軍を設計・施行した男の意志

吉田松陰が認めた「小助の気」

騎兵隊の軍監

戊辰戦争の華々しい戦果

陸軍創設への道

例5 乃木希典――時代に準じた武人の「志」

乃木の殉死に対する評価

文学志望から武人へ

青年時代の武人乃木

蜂起する反政府軍と乃木

殊勲者の経歴

日露戦争の偉業

例6 西郷隆盛他――戦略・戦術を欠いた「志」

反乱の論理

相克する理想

西郷起たず

参謀に人を得ず

第Ⅰ部 司馬遼太郎から梅棹忠夫へ 4

司馬遼太郎の手紙 4

大きな幸福――梅棹学について 4

第Ⅱ部 民族と国家、そして文明 4

21世紀の危機――少数者の反乱が地球をおおう 4

バスク独立運動の背景 4

国家誕生と同時に発生した 4

世界冷や飯組の蜂起 4

人間の分類感覚 4

文化が少数者を生む 4

「日本人はけったいな奴や」 5

仏教、キリスト教も部分的普遍 5

「世界紛争地図を作ろう」 5

民族の現像、国家のかたち 5

少数民族を脅かしてきた旧ソ連と中国 5

両刃の剣を素手でつかんでいるようなもの 5

文化とは「不信の体系」だ 6

イランとトルコの対抗意識 6

民族主義は引火性に富んでいる 6

個別的な解決しか方法はない 6

日本人には言語の格闘術がない 6

アイヌやオホーツク人の位置 6

先進国から帝国主義は消えたが 6

地球時代の混迷を超えてーー英知を問われる日本人 6

民族の時代 6

崩壊した帝国 6

ヨーロッパと民族 6

一神教とアニミズム 6

恨みと差別 6

民族と言語 6

ふたつの国 6

実体のない「アジア」 7

日本文明の危機 7

第Ⅲ部 日本及び日本人について 8

日本は無思想時代の先兵 8

国民総大学出になったら 8

史上最初の無層化社会 8

軍事能力に秀れた日本人 8

思想というのは伝染病 9

室町時代の日本に戻る 9

大企業は昔の藩と同じ 10

解散経営学のすすめ 10

戦争をしかけられたら 10

世界の交差点で酒盛り 10

日本人の顔 11

幕末志士の顔 11

写真の迷信 11

絵に描かれた日本人 11

くの字型の基本姿勢 11

時代で違う美人 11

表情とポーズ 11

和服の着付け 11

侍の衣食住文化 11

一九二〇年の前とあと 11

留守居役のサロン吉原 11

写真資料の重要性 11

大阪学問の浮き沈み 12

町人が支える学問 12

喧嘩堂と山片番頭 12

不経済の経済性 12

大阪下町、京山の手 12

虚学の世界 12

創造への地熱 12

つねに世界へ窓開く 12

破壊力が形成力に 12

文化と経済力 13

理屈よりもセンス 13

拡大する西日本 13

第Ⅳ部 追憶の司馬遼太郎 13

知的会話を楽しめた人、司馬遼太郎 14

司馬遼太郎さんとわたし 14

「語り」の名手、「知」の源泉は・・・ 14

一人ひとりの人間への愛情があった 14

日本文明は今が絶頂では・・・・ 14

司馬遼太郎を読む――『韃靼疾風録』など 15

壮大な構想 15

遊牧民への共感 15

「公」の意識を 15

コメント1 同時代の思索者――司馬遼太郎と梅棹忠夫   米山俊直 15

同時代の二人 15

司馬遼太郎の終戦まで 15

梅棹忠夫の終戦まで 16

戦後の活躍 16

司馬の明治-昭和観 16

梅棹の明治-昭和観 17

二人の違い 20

コメント2 知の饗宴 20

であい 20

時代の中で 21

旅の効用 21

交点とベクトル 21

なぜ民族問題か 21

日本論の方向 21

語り残したことなど 21

仏教のこころ    認知社会心理学への招待  五木寛之著


第一部 仏教のこころ

仏教ブームとはいうけれど

睡眠薬より仏教史

仏教を求めるこころ

ブッダは論理的に語った

ブッダが答えなかったこと

乾いた論理と湿った情感

人々は仏教に何を求めるか

いのちを救うことができるのか

あまりにも定説化したブッダ論

悲泣するこころの回復

今仏教のこころを求めて

第二部 仏教をめぐる対話

河合隼雄さんとの対話

神と仏はずっと一緒に信仰されてきた

”パートタイム・ブディスト”ではない

カルロス・ゴーン対エコノミック・アニマル

心の働きか?念仏の経験か?

「ゆく年くる年」に宗教意識を感じてみる

玄侑宗久さんとの対話①宗教は「雑」なもの

仏教の中の俗なもの

自力の限界に他力の風が吹く

宗派の垣根は消えつつある

地域社会の中の「隠し念仏」

テロリストは救われるか

うさん臭さは宗教の生命

グローバル・スタンダードと洋魂

はかないものをいとおしむ

玄侑宗久さんとの対話② 死後のいのち

平易な言葉で語る仏教

日本人に欠け落ちてきた身体性

身体から脳を活性化する

循環・回帰の道へ

第三部 わがこころの仏教

仏教の受け皿

意識の深部のツケモノ石

すべては民衆のなかからはじまる

空海はすでに密教を知っていた

親鸞の夢告げ

親鸞が苦しみぬいた瞬間

再び親鸞の夢想を思う

親鸞が描いた物語

煩悩を抱えて救われる道

蓮如への旅

蓮如へのふたつの思い

浄土は地獄に照り返されて輝く

蓮如の不思議な人気

夕暮れの〈騙り部〉の思い

寛容と共生をめざして

ミックスされた文化の中で

「シンクレティズム」の可能性

「アニミズム」は二十一世紀の新しい思想

「寛容」による他者との共生

あとがきにかえて

日本人の神     大野晋

Ⅰ 日本のカミ 3

カミ(神)の語源 3

カミ(神)観念 3

日本のカミとは 3

支配する神 3

恐ろしい神 3

神の人間化 3

神の人格化 3

カミへの日本人の対し方 3

Ⅱ ホトケの輸入 3

ホトケの語源 3

仏像と仏神 3

仏教の受容 3

神の祭祀 3

僧尼令の禁止事項 3

カミとホトケに対する人間 3

Ⅲ カミとホトケの習合 4

神宮寺と天皇 4

御霊会と権現 4

『源氏物語』のカミとホトケ 4

本地垂迹 4

神道とは 4

両部神道と山王神道 4

伊勢神道 4

吉田兼倶と卜部神道 4

Ⅳ カミとホトケの分離 4

林羅山と山崎闇斎 4

国学の日本研究 4

契沖 4

荷田晴満 4

賀茂真淵 4

本居宣長と日本語 4

『古事記』とカミ 4

ホトケから「神の道」へ 5

平田篤胤 5

仏教排撃と尊王論 5

Ⅴ ホトケのぶち壊しとGodの輸入 5

開国と王政復古 5

神仏分離令 5

廃仏毀釈 5

ゴッドとゼウスの翻訳 5

天主・上帝・神 5

Godと神の混同 5

Ⅵ カミの輸入 5

稲作と弥生時代 5

古代日本語の特徴 5

タミル語と日本語 5

神をめぐる言葉 5

人に害をなすモノ(鬼) 5

化物と幽霊との違い 6

ツミ(罪)・ワル(悪)・トガ(咎) 6

ミ・ヒ(霊、日・昼)・イツ 6

ヲ(男)・メ(女)・ウシ(主人)・ムチ(貴) 6

カミの対応語 6

南インドのカミと日本のカミ 6

Ⅶ 日本の文明と文化 カミの意味は変わっていくか 6

文明の輸入 6

風土と文化 6

日本の文化の特徴 6

神と自然 6

こころと社会    認知社会心理学への招待  池田謙一・村田光二

Ⅰ (こころ)の仕組みと働き 3

第1章 認識する〈こころ〉 3

一 認知ーー世界の能動的構成 3

二 記憶の働きーー 生きている「過去」 3

三 知識の構造ーーネットワークとスキーマ 3

第2章 働く知識 3

一 社会的知識の形成ーー「人」を知ること 3

二 人のカテゴリーかと社会的スキーマ 3

三 社会的スキーマの活性化とステレオタイプ化 3

第3章 推論する〈こころ〉 3

一 社会的推論の働きーー「新しい世界」を描く 3

二 社会的推論の制約ーー前提とヒューリスティーー 3

三 共変の認知と帰属と予期ーー因果を推論する 3

第4章 決める〈こころ〉 3

一 目標と動機づけーー経験の質に向けられた目標 3

二 「決める」と「 決まる」ーー 意思決定の二面性 3

三 シュミレーションーー可能的事故と行動のシナリオ 3

四 選択可能な世界ーー「夢と現実の落差」を埋める 3

五 意思決定の社会性 3

第5章 働きかける感情 4

一 感情の多次元性ーー感情の情報処理 4

二 感情の状況性・社会性 4

Ⅱ (社会)に関わる〈こころ〉 4

第6章 〈こころ〉と〈こころ〉 4

ーーコミュニケーションーー 4

一 コミュニケーションの目標ーー他者との接点 4

二 コミュニケーションの制御ーー相手の反応を予想する 4

三 メッセージとインターフェイスーー意味を通じ合わせる道具立て 4

四 コミュニケーションと認知的制約ーー協調的な会話が可能な理由 4

五 コミュニケーションと意味の共有ーーコミットメントが心を通わせる 4

第7章 集団の中の〈こころ〉 4

ーー同調・規範・勢力ーー 4

一 同調の及ぼす影響力ーー「裸の王様」の”シースルーファッション” 4

二 規範形成と社会的制約ーー赤信号、渡れますか 4

三 パーソナルな影響力としての勢力ーー「決 まる」勢力・「決める」勢力 4

第8章 〈こころ〉をつなぐ〈社会〉 4

ーーコミュニケーション・ネットワークとマスメディアーー 4

一 社会的な情報の流れーー「情報環境」の多層性 5

二 コミュニケーションネットワーク 5

三 マスメディア 5

四 対人コミュニケーションとマスコミュニケーション 5

第9章 〈社会〉を動かす〈こころ〉 5

ーー社会過程と社会変容ーー 5

一 シンボルと社会的カテゴリー化ーー世論形成とシンボル過程 5

二 システム認知と社会受容ーー社会を見る「目」 5

三 価値の変容をめぐる社会の心理ーー社会目標について

活眼活学      安岡正篤