グローバルな課題を共有し、生抜く為に

世界を包摂していたら

日本という方法
(ツール篇)

新企画 「サステナブル・ライフ・プラン」 Sept
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≪01≫ 小さい頃から仏眼仏母を祈っていた上人。文覚に気にいられた上人。夢日記を綴る上人。歌詠みだった上人。栂尾に植えたお茶を飲む上人。天竺に渡りたかった上人。自分の耳を切って無耳法師を嘯く上人。松の樹上で座禅をする上人。華厳密教を編みたかった上人。北条泰時が慕っていた上人。

≪02≫  いろいろの明恵上人がいるが、これらを足しあわせても上人像は容易に結像しない。どこかシュールすぎていた。こんな話が伝わっている。

≪03≫  栂尾の上人が入唐渡天を志し、しばしの暇乞いのため春日神社に参ると、一人の翁に出会ってこんなことを言われた。釈迦在世の頃ならば天竺に渡るのもいいだろうが、いまさら仏跡を尋ね歩いて何になる。志があるのなら春日の山が霊鷲山になり、比叡が天台山となり、吉野筑波が五台山になるだろう。そう言うと翁は消えた‥‥。

≪04≫  能《春日龍神》の一場面だ。ワキが明恵上人、前シテが翁(尉)、ワキツレに上人の従僧、アイが春日社の社人。間狂言で見渡すかぎりの春日野が金色(こんじき)に輝き、草木が一斉に仏たちに変じると、黒髭赤頭の面(おもて)を付けた後シテの龍神が出てきて、霊鷲山での釈迦説法のスペクタクルな場面などを見せたのち、上人が仏跡を訪ねないことを確かめると忽然と猿沢の池に去っていくという筋立てだ。

≪05≫  夢見が大好きで『夢ノ記』を綴りつづけていた上人が実際に見た夢か夢告かにもとづいたとおぼしい曲なので、いろいろ感じさせるものがある。世阿弥(118夜)以前の古能だろうと思う。似た話が『古今著聞集』や『沙石集』にも出てくる。

≪06≫  本地仏が春日の神としてあらわれたという本地垂迹の曲でもあろうけれど、そう見るだけではつまらない。当たらない。だいたい明恵上人については、どんなエピソードも一筋縄では収まらない。「ゆめ」(幻)と「うつつ」(現)がまざっているし、ヴィジョンとリアルが頻繁に交錯しつづける。それなのに神秘主義にもポゼッション(憑依)にも走らない。

≪07≫  明恵は若いころから、唐天竺(から・てんじく)に渡ってみたいと心から望んでいた。釈尊への並々ならない思いが慕りに募ったのである。信仰心によるものとはかぎらない。ボーイズラブふうの恋闕(れんけつ)に近いものがある。スーパーブッダに本気で「会いたい」と思いつづけたのだったろう。

≪08≫  こういう仏教者は日本仏教史上でもめずらしい。唐天竺に渡りたい僧は少なくないが、彼の地に渡って経典を勧請したいというのでもなく、地歩やキャリアを築きたいというのではなく、過去の聖地の空気を浴びたいというのでもない。ひたすら永遠仏としての釈尊に出会ってみたい。この恋闕だ。どこかホモセクシャルな思慕だったようにも思われる。

≪09≫  けれども渡航計画は、建仁2年(1202)のときは病気つづきで断念し、その後もあきらめきれずに『大唐天竺里程記』なる格別のツァープランをひそかに準備していたのだが、春日明神の神託があって思いとどまった。元久元年(1205)のことだ。《春日龍神》はその顛末を能に仕立てたものだった。

≪010≫  なかで、翁と龍神が彼の地に行かずともいいではないか、春日山を霊鷲山と、比叡山を天台山と、吉野山筑波山を五台山と思いなさいと上人を説得するというふうに脚色されているところが興味深い。これを「仏よりも神の言うことを聞いた」というふうに解釈すると方角があやしくなってくる。ここは「見立て」を重視した日本らしい脚色なのであって、そういう「見立て」の趣向が関与するところこそ、が明恵上人にふさわしかった。そう感じたいし、そう感じたくなるシミュレーショニズムが、日本仏教にはあった。

≪011≫  明恵は歌を詠む。10歳ほど年上の定家(17夜)とは同時代人に属する。弟子の高信が編んだ巻子歌集の写本一軸が国宝指定になっている。

≪012≫  歌は「身を捨てて住まばやと思ふ山の奥に あまりさびたる松の風かな」「外道論師の声常住とたてけるは 松のあらしを惜しむあまりか」「くまもなき心のうちの光こそ まことの付きのかげにありれめ」といった、いささか道歌のような和歌が多く、お世辞にもうまいとはいえないし、定家ほどの技巧もないけれど、随所に「見立て」が出入りしていた。

≪013≫  たとえば、「色に出でて書く言の葉もかはらねば袖のしぐれも雨とこそ見れ」「空色の紙にゑがきて見ゆるかな霧にまぎるる松のけしきは」「豆の子の中なるもちゐと見ゆるかな白雲かかる山の端の月」、そして有名な「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」。

≪014≫  見立てというか、見まごうばかりというか。明恵はそういう歌を好んで詠んだ。歌だけではない。明恵にあってはたえず神仏が見立てとしてあらわれ、自身の思いがどれもこれも神仏の示現と見まごうばかりだった。

≪015≫  日本仏教には聖徳太子や空海(750夜)このかたさまざまな「神仏見立て」が付きものだった。百済からやってきた金銅仏は蕃神で、僧形神や神前読経も早くから併行して、神と仏は根っから仲がよく、神仏習合は日本仏教史当初からの大きな特色ですらあった。

≪016≫  とくに菩薩や如来の意味が、長らく摑めなかったのではないかと思われる。それでべつだん、かまわなかった。インドの「空」も中国の「無」も、仏教と儒教と老荘が漢字や梵字とともに一緒くたに入ってきたのだから、日本仏教は最初から「習合仏教」で「編集仏教」だったのだ。

≪017≫  それらことについてはいずれあれこれ書いておきたいことであるのだが、とりわけ明恵には「仏の教え」に従うということそのものが、天竺から遠い日本の地にいる者にとっての「見立て」だったのである。

≪018≫  それは、明恵が好んだ「あるべきやう」の仏教的世界観にあらわれていた。「あるべきやう」の仏教的世界観というのは、上人「遺訓」の冒頭に記された次の一節、「我は後世たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世に先づあるべきやうにあらんと云ふ者なり」から採った言い分で、ぼくが勝手に名付けたものであるが、明恵の生き方や在り方を過不足なく示していた。

≪019≫  この一節の前には、まるでテーゼのように、こう示されている。「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヤフハ)と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり」。

≪020≫  この一文を文字通りには、仏の道はみんなそれなりに、と読める。それが「あるべきやう」だと解釈できる。けれども、そうではなかったのである。明恵はその「あるべきやう」をこそ詰めに詰めていった。

≪021≫  今夜の千夜千冊はこの「あるべきやう」をまっとうしたであろう明恵上人の「様」のことだけを書いておきたいと決めているのだが、その前にお断りしておかなければならないことがある。

≪022≫  実は、ぼくが書きたいことのほとんどは白洲正子さん(893夜)の『明恵上人』(新潮選書)が文藻の冴え香ばしく、そのあらかたをとっくに伝えていたということだ。

≪023≫  この本の元の原稿は昭和40年からの数年に「学鐙」と「古美術」に綴られていたもので、昭和49年(1974)にまとまって刊行された。初めて読んだとき、ほれぼれするほど感服した。それからも何度か目を通したが、今夜の千夜千冊が白洲さんの書きっぷりを半歩も超えられないのはわかっているので、そこは勘弁していただきたいのだ。

≪024≫  また上人の伝記は鎌倉時代からすでに充実していて、喜海そのほかが仕上げた上人伝や行状記が3冊もある。白洲さんが柔らかくも自在に綴れたのもそのせいだろう。そのことも断っておきたかった。

≪025≫  とはいえ、その白洲さんがあまりフィーチャーしなかったことが二つほどあった。ひとつは、明恵の時代がかなり理不尽な葛藤と激動に見舞われていて、日本社会が武門と禅の登場によってどんなふうに変質していったのかということである。

≪026≫  明恵はその様子を背中や肌でぴりぴり感じ、天竺に渡りたく思いながらも、荒れていた神護寺や高山寺に留まったのである。また生まれ育った紀州で深々とした瞑想に耽ったのである。明恵をそんなふうにさせた当時の社会について、言わずもがなではあるもの、一言ふれておきたい。

≪027≫  もうひとつは、明恵が華厳と密教を日本的に「付け合い」(連歌の技法)の状態にして独特の仏教観を育んでいたということである。これは宗論にも宗派にもならなかった「華厳密教」とでもいうべきもので、顕密にも八宗にもあてはまらない。けれども明恵はそこに深い思いを向けていった。なぜなのか。そのことについても少しカバーしておきたい。

≪028≫  明恵は承安3年(1173)、紀州の有田の里に生まれてまもなく母と父を喪い、紀州と都を何度か行き来しながら高雄や栂尾に棲み、都が承久の乱のすったもんだでひっくりかえり、後鳥羽上皇が隠岐に流されるのを間近かに見聞しながら、貞永元年(1232)までの60年の生涯を了えた。

≪029≫  この60年は、同じ年に生まれた親鸞(397夜)の日々とぴったり重なっている。ただ親鸞は80歳くらいまで長生きしたけれど、明恵は早々にこの世から退いた。またこの60年は、NHK大河ドラマでいうと《鎌倉殿の13人》の北条泰時の時代にも重なっていた。

≪030≫  泰時は10歳ほど年下で、承久の乱後に六波羅探題になって都に住んだころから如実に明恵を慕い、3代執権になってからも上人の体の不調をたえず案じるほどに気を揉んだ。三谷幸喜の《鎌倉殿の13人》はそういう泰時をほとんど扱っていないようだが、実は泰時から見た明恵については、歴史学のほうも仏教史のほうも覗きこんではこなかった。

≪031≫  これは落ち度である。ほんとうは、たとえば清盛がなぜ平家納経のような仕事を重視したのかというようなこと、またたとえば鎌倉の禅が北条一族の帰依を縦(ほし)いままにしたこと、安土の宗論の詳細な顛末など、それぞれ日本仏教の特色を解く大きな鍵と鍵穴になっているのだから、ときにはそういうことにも介入しなければならないはずなのに、看過されてきた。

≪032≫  はっきりいって明恵の60年とは、日本史が初めて武人たちによる相互テロの横行にまみれることになった「武者ノ世」であって「乱逆ノ世」であったのである。保元平治の源平の争いは、殺戮のかぎりを尽くして明恵の時代に「武者乱逆ノ世」に至ったのだ。明恵も親鸞も泰時も、この乱逆(らんげき)の真っ只中にいた。法然(1239夜)や栄西は少し前の乱逆幕開きの1ベルや2ベルから、その価値転倒を見ていた。

≪033≫  明恵の場合は、両親がすでにそういう「世」を背負っていた。いわば乱逆リハーサルの中にいた。

≪034≫  父は伊勢平氏の家人だった平重国である。高倉上皇の武者所に伺候していた。もともとは渋谷重国といい、今日の東京渋谷をつくったのは渋谷一族だった。その父が上総の戦さで倒れたときに、鎌倉で頼朝が挙兵した。母は紀伊の湯浅宗重の4女で、宗重は平治の乱のときに清盛に加勢した武人だった。

≪035≫  明恵はこういう「源平に裂かれた両親」のもとに幼名薬師丸として生まれたのだが、9歳で高尾山の叔父の上覚のもとに預けられ、神護寺あたりに住んで16歳で出家した。成弁といった(のちに高弁、さらに明恵)。そうした当初の学びの時期に『華厳五教章』を精読した。騒然たる乱逆ものかは、あえて華厳にとりくんだということだ(このことはあとでふれる)。

≪036≫  そのうち釈尊の子でありたいと念じるようになり、あまりの寂しさに仏眼仏母(ぶつげんぶつも)を自分なりの本尊と見立て、19歳のころからは『夢ノ記』を綴りはじめた。逃避といえば逃避、おたく化といえばおたく化、メタヴァースに向いたといえば、そうしたくなったのである。

≪037≫  夢や夢告を記録した宗教的幻視者というと、すぐにベネディクト修道院のビンゲンのヒルデガルトが思い浮かぶけれど、明恵はヒルデガルトが没するころに生まれているので、ここには東西をまたぐ幻視と夢告がユーラシアを駆けていたわけである。

≪034≫  父は伊勢平氏の家人だった平重国である。高倉上皇の武者所に伺候していた。もともとは渋谷重国といい、今日の東京渋谷をつくったのは渋谷一族だった。その父が上総の戦さで倒れたときに、鎌倉で頼朝が挙兵した。母は紀伊の湯浅宗重の4女で、宗重は平治の乱のときに清盛に加勢した武人だった。

≪035≫  明恵はこういう「源平に裂かれた両親」のもとに幼名薬師丸として生まれたのだが、9歳で高尾山の叔父の上覚のもとに預けられ、神護寺あたりに住んで16歳で出家した。成弁といった(のちに高弁、さらに明恵)。そうした当初の学びの時期に『華厳五教章』を精読した。騒然たる乱逆ものかは、あえて華厳にとりくんだということだ(このことはあとでふれる)。

≪036≫  そのうち釈尊の子でありたいと念じるようになり、あまりの寂しさに仏眼仏母(ぶつげんぶつも)を自分なりの本尊と見立て、19歳のころからは『夢ノ記』を綴りはじめた。逃避といえば逃避、おたく化といえばおたく化、メタヴァースに向いたといえば、そうしたくなったのである。

≪037≫  夢や夢告を記録した宗教的幻視者というと、すぐにベネディクト修道院のビンゲンのヒルデガルトが思い浮かぶけれど、明恵はヒルデガルトが没するころに生まれているので、ここには東西をまたぐ幻視と夢告がユーラシアを駆けていたわけである。

≪038≫  その後はどうだったか。20代の明恵は現状の仏教学習にそうとうの不満をもった。もっと心身ともに得心できることがしたいと思ったはずである。

≪039≫  当時すでに法然が専修念仏を称揚して『選択本願念仏集』を書いていたが、このやりかたではない(のちに『摧邪輪』を書いて念仏一辺倒主義を批判した)。明恵はハイパーブッディストでありたかったのである。ペシミスティックに世を憂い、シュルレアリスティックに仏国土を幻想し、ハイパーアクティブに天竺へ赴こうとした。

≪040≫  23歳で神護寺を出て故郷紀州の白上の峰に結庵修行をしていると、文殊菩薩が金色の獅子に乗って出現した。明恵はこういうヴィジョンとはしばしば出会っている。むろん幻視幻覚でもあったろうし、アルタード・ステートに入っていたのでもあろう。けれども明恵にとっては、こういうときこそが、イメージング・ブッディズムの真骨頂でもあった。ふいに耳を切りたくなった。「モロトモニアハレトヲボセ御仏ヨ キミヨリホカニシル人モナシ」と戯れ歌を詠むと、右の耳たぶを刀で落として「無耳法師」を自虐した。

≪041≫  26歳のとき、文覚(もんがく)から神護寺を復興するように託されたのだが、なかなか気が乗らない。十数人の弟子たちとともに何度かに分けて紀州の山中に籠もり、糸野での瞑想のときはしきりに釈尊の地をヴァーチャルに夢想して、明恵なりのメタヴァースに耽った。

≪042≫  文覚の注文から免れたかったのでもあろうか。寵愛もされていたのであろうか。それに困っていたのだろうか。なにしろ稀代の怪僧である。頼朝とも後白河法皇とも妙に昵懇で、何かを画策するクセがある。《鎌倉殿の13人》では市川猿之助が演じていたが、演出上の意図が不鮮明で、猿之助ももてあまし気味だった。だから文覚の注文はできれば聞きたくないのだが、叔父の上覚の師にあたるので、知らん顔はできない。

≪043≫  それより明恵がしたいことは本気の遁世(とんせい・とんぜ)なのである。あとで説明するが、それはなんと「数寄の遁世」なのだ。すでに出家しているのだから、いまさら遁世でもあるまいに、明恵は仏門仏教そのものからも出家したかった。

≪044≫  30代、いよいよ天竺への出奔を計画する。隠密裡だったかどうかは知られていないけれど、しかし先にも書いたように、この計画は二度にわたって挫折する。タケミカヅチの霊験が揺動する。春日明神の神託には逆らえない。

≪045≫  代わってというわけではないのだが、後鳥羽上皇から高山寺を賜った。荒れてはいたが、栂尾に移った。栄西と出会って、茶を植えた。それでも紀州との行き来は欠かさなかった。頼朝が死に、親鸞が法然のもとに参じ、栄西が建仁寺を興し、北条時政、義時が相次いで執権になった。

≪046≫  40代になると実朝が殺され、時代の舞台は鎌倉と京都とそのあいだが危険なほどにつながった。49歳の5月、前代未聞の承久の乱が勃発した。そのとき明恵は賀茂に住んでいた。たちまち後鳥羽上皇が配流された。そんななか道元(988夜)は入宋したらしい。そして「空手還郷」と言って帰ってきた。日本仏教は承久の乱をその懐中に孕んだのである。

≪047≫  50代、泰時が執権となり、北条政子、慈円(624夜)、上覚が相次いで死んだ。乱逆ノ世は混乱の極みにあったままだが、明恵の口にはもう食べ物が入らなくなっていた。それでも紀州の施無畏寺の本堂供養に出掛けたところ、病状が悪化した。寛喜4年が貞永元年となった年の1月19日、弥勒の法号を唱えながら遷化した(空海も弥勒を呼んだ)。その八月、泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定した。

≪048≫  はなはだ粗雑に明恵60年の略歴事情を摘まんでみたが、さて、こういう乱逆の中世社会の脱兎の進捗とのかかわりのなか、明恵は早くから華厳に打ち込み、しばしば解読や講義を引き受け、その密教化にとりくんだのである。

≪049≫  なぜ華厳だったのか。またなぜ密教との重なりを志向したかったのか。このことについて、一言申し述べておく。

≪050≫  明恵のよく知られた肖像画に《樹上座禅画像》がある。弟子の恵日房成忍が描いた。明恵は下賜された高山寺の山を気分をこめて楞伽山(りょうがさん)と名付け、そこの木や石を選んで座禅していたのだが、この絵では松籟が聞こえてきそうな二股の松の根元に座って瞑想をしている姿が描かれている。傍らには数珠が掛けられ、香炉が置かれている。

≪051≫  松の枝はまるで華厳の法界を暗示する「重々帝網」のようである。成忍はそのつもりで描いたのではないかしれないが、ぼくにはそう見える。

≪052≫  ふりかえって明恵は、十代はじめから上覚に倶舎を学び、仁和寺の尊実に弘法大師の著作を教えられ、同じく仁和寺の華厳院の景雅の指南で『華厳五教章』を読んでいた。ついで16歳で東大寺戒壇院で具足戒を受け、19歳のときには勧修寺慈尊院の興然から金剛界と胎蔵界の密呪を伝授してもらっている。興然は小野流の真言密教僧だった。

≪053≫  このように華厳と密教は早くから明恵の知を出入りしていたのだが、やがて何度かにわたって『探玄記』を読み込むようになるうちに、独自に華厳と密教が融合していったのだと思われる。

≪054≫  『華厳五教章』も『探玄記』も華厳宗第3祖の法蔵の著作である。法蔵の華厳解釈は『華厳経』に溢れる世界が如来の海印三昧に示される透徹した瞑想意識の深層であることを称揚したもので、華厳をもって顕教最高の位置付けをするために綴られていた。

≪055≫  これを承けたのが空海の『十住心論』や『秘蔵宝鑰』、第九住心「極無自性心」に華厳をすえ、そのうえで第十住心「秘密荘厳心」に密厳浄土を展望した。ところが第十住心の説明はあまりない。ほとんど第九華厳で目一杯なのだ。ぼくはそこに注目して『空海の夢』(春秋社)の26章を「華厳から密教に出る」と銘打って、法蔵の華厳世界観がほぼ空海密教の臨界に達していたと説明したものだった。

≪056≫  空海は『即身成仏義』に「重々帝網なるを即身と名づく」と書いた。また『弁顕密二教論』には「密厳華厳」という造語も用意していた。空海密教の即身成仏観は華厳そのものにぴったり内接していたのである。ただ空海は『探玄記』を読みこんだか、どうか。明恵はそこにくまなく入りこんで、明恵なりの「華厳密教」像を描いていったのであろう。

≪057≫  法蔵は華厳を一乗とみなしていた。すでに天台智顗(ちぎ)が三乗を仮りのものとして一乗優位を説き、「遮三(しゃさん)の一乗」を提唱していたが、これは「三を遮(す)てて一を採る」というものだった。法華縁起のためのものである。

≪055≫  これを承けたのが空海の『十住心論』や『秘蔵宝鑰』、第九住心「極無自性心」に華厳をすえ、そのうえで第十住心「秘密荘厳心」に密厳浄土を展望した。ところが第十住心の説明はあまりない。ほとんど第九華厳で目一杯なのだ。ぼくはそこに注目して『空海の夢』(春秋社)の26章を「華厳から密教に出る」と銘打って、法蔵の華厳世界観がほぼ空海密教の臨界に達していたと説明したものだった。

≪056≫  空海は『即身成仏義』に「重々帝網なるを即身と名づく」と書いた。また『弁顕密二教論』には「密厳華厳」という造語も用意していた。空海密教の即身成仏観は華厳そのものにぴったり内接していたのである。ただ空海は『探玄記』を読みこんだか、どうか。明恵はそこにくまなく入りこんで、明恵なりの「華厳密教」像を描いていったのであろう。

≪057≫  法蔵は華厳を一乗とみなしていた。すでに天台智顗(ちぎ)が三乗を仮りのものとして一乗優位を説き、「遮三(しゃさん)の一乗」を提唱していたが、これは「三を遮(す)てて一を採る」というものだった。法華縁起のためのものである。

≪058≫  法蔵は華厳経を追求し、一が三に影響されることなく三を包摂しているのが華厳(蓮華蔵世界)だとみなして、ここに「直顕の一乗」を提唱した。巧妙にも一には実は「一、一」があって、片方の一は三乗に同ずる一となり、他方の一は三乗に別する一を形成しているとみなしたのだ。「同教の一」と「別教の一」を分け、かつ融合させたのである。

≪059≫  ここから法蔵は「性相決判」という独特の認識方法を用いて、相分(しょうぶん)と見分(けんぶん)が互いに寄り添って世界を無礙(=礙なく区別がつかない)なるものとしていると見聞できる高度な意識状態を想定した。性(しょう)は心象のことを、相(しょう)は現象のことをいう。

≪060≫  法蔵はこれらのことを十門の理事にわたって探求する思索の方法を総合編集した。同時具足、広狭自在、一多相容、諸法相即、隠密顕了、微細安立を通過して、いよいよ重々帝網のインディラ・ネットワークがあらわれると、事物相互に区別がなくなり(託事顕法)、過去現在未来がつながり(十世隔法)、主客が消滅して円融華厳の世界が充ちていく(主伴円明)‥‥。こう説いたのだ。それが『探玄記』である。

≪061≫  若き明恵は目をまるくし、どぎまぎしたのではないかと思う。明恵にとっては華厳と密教の境い目は最初からなくなっていただろう。ひたすら華厳=密教の充満を心身に満たしたいと念じたにちがいない。しかし念じたではあろうが、そういう教義を日本に打ち立て、仏法社会に一石を投じたいとは思わなかった。宗派などにこだわりたくはない。ではどうしたか。明恵は「数寄」に向かったのである。それが「あるべきやう」としての仏教というものだった。

≪062≫  今夜とりあげた岩波文庫の『明恵上人集』には、「明恵上人歌集」「明恵上人夢記」「梅尾明恵上人伝記」、そして「梅尾明恵上人遺訓」が載っている。いずれも興味津々、一言一句も見逃したくなくなる。

≪063≫  ほかにも、弟子の喜海が仮名で綴った『高山寺明恵上人行状』、それを仁和寺の隆澄が漢字仮名交じりに改め、高信が加筆した『漢文行状』、さらには『明恵上人神現伝記』『高山寺縁起』などもあるのだが、そしてそれらの大半が同時代から時を移さずに綴られたものであるのだが、これだけ揃っているのは、われら明恵フリークにはたいへんありがたい。

≪064≫  加えて平泉洸による『明恵上人伝記』(講談社学術文庫)をはじめ、校注・現代語訳も充実し、富士川游の『明恵上人』(厚徳書院)、潁原退蔵の『明恵上人』(生活社)、田中久夫の『明恵』(吉川弘文館人物叢書)、奥田勲の『明恵:遍歴と夢』(東京大学出版会)、そして白洲さんの『明恵上人』などの評伝や研究書が控えている。ぜひとも多くの読者が遊弋してもらいたのだが、少々意外なのはこれだけ史料が揃っている上人を、小説や映画やテレビやマンガがほったらかしにしているということだ。そのためかどうか、多くの日本人が明恵上人に馴染んでいない。もったいない。

≪065≫  そこはまことに残念なのだが、そういう上人像にとって実は最も欠かせないと思われるのが「あるべきやう」という「様」に徹したことなのである。「様」とはスタイルのことである。明恵の仏教スタイル・ブッディズムでもあったのだ。さきほど引用した遺訓には次のようにあった。弟子の高信がまとめた文章だ。

≪066≫  人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヤフハ)と云ふ七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗はぞのあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪(わろ)きなり。 我は後世(ごせ)たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世(げんぜ)に先づあるべきやうにあらんと云ふ者なり。

≪067≫  これでだいたいのことが理解できるだろう。いろいろ説明したいけれども、次の遺訓の一節をよくよく読んでもらえれば、さらにすべてが察せられるのではないかと思う。こういうものだ。

≪069≫ ここにすべての「様」が示されている。「心の数寄たる人」こそ明恵が惹かれていた気高い「様」なのである。ここで「数寄」とは「透く」であって「鋤く」「漉く」であり、「好く」であって「空く」であることをいう。訳せばスクーリングしていくということだが、くだいていえば「凝って、しかるのちに抜き去る」ということだ。詳しくはぼくの『日本数寄』(ちくま学芸文庫)を参考にしてほしい。

≪070≫  明恵はこの「心の数寄たる」を仏道に求めた。いや、仏道がそうなることを望んだ。こんなふうにも遺訓は伝えている。

≪071≫  心の俗に成りぬるほどの者は、稽古の力を積めばさすがなる様なれども、何にも利勘(かんが)へがましき有所得にかかりて、拙(つたな)き風情を帯するなり、少(をさな)くよりやさしく数寄て、実(まこと)しき心立てしたらん者に、仏法をも教へたて見るべきなり。

≪072≫  この一文は数寄と学習を重ねたもので、日本思想文化史的にもはなはだ画期的である。しかもこの数寄は「他力の数寄」である。自力のスキルアップを期待するだけではなく、弱小の才能をうまく漉いていくことがうんと重要だと言っている。

≪073≫  こういう数寄の思想は近世の茶の湯の数寄の手立てにも、唐木順三(85夜)の中世文化論にも、乏しかった。ひとり明恵上人こそに言及できた様相である。

≪074≫  明恵はかくて、「仏道修行には何の具足もいらぬ也」と言い、「松風に睡(ねむ)りを覚まし、朗月を友として、究め来たり究め去るよりほかの事なし」と言ってのける。来たって、去る。そこに華厳密教の香りをのこす。ただ、それだけ。

≪075≫  まさにここに明恵上人の出家仏教あるいは菩薩道が去来した。今夜書きたかったことは、このことに尽きている。「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」。

≪01≫  小林秀雄を書きたいのか、本居宣長を書きたいのかといえば、今夜は宣長をめぐりたいのである。 

≪02≫  それなら宣長の『古事記伝』や『排蘆小船』(あしわけのおぶね)や『玉くしげ』などをとりあげればいいだろうに、そうしないのは、ひとつには、まだ宣長を書くにはとうてい読みきれていない個所が多すぎるということがあり(たとえば宣長には72年間におよぶ日記がある)、もうひとつには、今日の時代に宣長を問うには現在者を少なくとも一人は介在させたいからである。 

≪03≫  その一人には小林秀雄こそがふさわしかった。いや、津田左右吉や保田與重郎(203夜)に、あるいは石川淳(831夜)や丸山真男(564夜)に伴走してもらいながらでもよいのだが、そういうことはこれまでにもある程度やってきたことなので、今夜は是非にも小林秀雄なのだ。 

≪04≫  それに、なんといっても小林にあっては、ランボオ、モーツァルト、ゴッホ、ドストエフスキー、ベルグソンなどを回遊し、その長きにわたった批評の変遷のあげくをへて、最後に辿りついたのが宣長だった。 

≪05≫  小林は昭和40年(1965)に「新潮」6月号に『本居宣長』の連載を始めて、実に11年にわたってこれを書き継いだ。そのときですでに74歳であったが、さらに3年後にも『本居宣長補記』の連載をして78歳まで書き、その3年後に青山二郎(262夜)や河上徹太郎を追うように亡くなった。 

≪06≫  小林が最後に辿りついたのが宣長だったといえば、小林のそれまでの「批評という思想」の総決算が宣長に向かったと思われそうだが、必ずしもそうではない。 

≪07≫  小林が総決算をしたかったとすれば、それは日本人としての自分の考え方を総決算したかったのであって、それには宣長に向かうことがふさわしかったのだろう。けれども、小林は何かの総決算をしたくて『本居宣長』を書いたのでもなかった。小林にはそういう清算主義はない。 

≪08≫  それに、小林には「民族」という視点が欠けている。いや、そういう視点を注意深くあえて欠かせてきた。「日本人」という言葉もめったに使わない。 

≪09≫  小林には民族とか日本人というよりも、「自己」という言葉のほうが広かった。自己の精神は国家や民族を超えるばあいのほうが多いと考えてきた。小林には自己のほうが国家より大きかったのである。 

≪010≫  だから、つねに「自己」を問うてきた。それは小林がすべての批評を通じて最も大切にしてきた節操。それゆえ、小林は自己という思想の一番深いところを最後の最後になって、十数年をかけて宣長に向かいながら考えようとした。そう、見たほうがあたっている。 

≪011≫  ところが、である。ところが宣長にとっては、「自己」は「日本」や「日本の古意」であり、まさに「日本という自己」を解明することが、その思想のすべてだったのだ。それ以外の個々の自己など、どうでもよかったのである。 

≪012≫  ここにおいて、小林から見た宣長を、さらに宣長をもって批評するという見方が、俄然、おもしろいものとなって浮上する。今夜は少々そこを交ぜてみたいのだ。 

≪013≫  小林の思想は最初から「無私」に向かっていた。ドストエフスキー論やゴッホ論はその最初の表明である。小林は無私をもつ者こそを真の自己とみなしたかったのだ。 

≪014≫  無私をもつ者が自己であるだなんて、まったく言葉の矛盾ではないかと思える者がいるとしたら、それは小林をちゃんと読んだことがないか、あるいは小林のみならず、秀れた哲学や芸術をちゃんと見てこなかったせいである。本物の思想や芸術には、よく見れば必ずそこに「無私」が露出する。そんなことは、道元(988夜)からイサム・ノグチ(786夜)まで、荘子(726)からシオラン(23夜)まで、持ち出すのも億劫なほどに歴然としているはずだ。 

≪015≫  無私とは、小林が何度も説いてきたように、「得ようと思って得るもの」であり、「そうしないかぎりは自己も出てこないもの」なのである。小林が『本居宣長』で、伊藤仁斎や荻生徂徠をめぐって、「自己を過去に投入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となつてゐた」と書いたのも、そのことだ。

≪016≫  ところが、宣長においてはたとえそのような「無私としての自己」があるとしても、それは日本そのものの本来であって、宣長その人の自己となどというものではなく、その無私はつぶさに「神」や「惟神(かんながら)」に直結するものだったのである。 

≪017≫  かつて宣長の『うひ山ぶみ』を現代語に移した石川淳は、そういう宣長を「人格脱出した男」とか「無意識の名優である」とさえ言ったものだった。 

≪018≫  さあ、どうするか。小林にとっては人格はともかくも、無意識そのものを相手にする気など、ない。石川とちがって、小林は宣長が「無意識の名優」だとも見たくない。  

≪019≫  しかし、宣長は自己には毫もこだわらない。自己が一気に日本大ないしは日本小になっていて、そこにしか「まごころ」がないと言っている。しかも宣長は、そういう見方だけが学問や思想をひらく唯一の方法だと考えた。  

≪020≫  一方、小林は正直に告白しているのだが、他の思想家にくらべても、宣長の学問的方法にはそうとうの、いや抜群卓抜な説得力があると感じている。けれども、それがすべて日本の思想の根幹であると言われると、困る。 

≪021≫  こうして小林が格闘することになったのだ。自問し、自答することになったのである。  

≪022≫  小林の『本居宣長』は、小林が自己に問うて自己に答えようとするその自問自答が、つねに宣長を介在させながら進むところが、興味深い。 

≪023≫  本居宣長が32年をかけた『古事記伝』には(岩波文庫で全4冊)、巻一の末尾に『直毘霊』(なおびのたま)という序がついている。 

≪024≫  本居宣長が32年をかけた『古事記伝』には(岩波文庫で全4冊)、巻一の末尾に『直毘霊』(なおびのたま)という序がついている。   

≪025≫  「道といふことの諭(あげつら)ひなり」という副題がつく。これは一言でいえば儒学批判にあたる。 

≪026≫  この儒学批判は、のちに宣長が「漢意」(からごころ)を離れて「古意」(いにしえごころ)に投企していく最大の契機となったのものであるのだが、まだこのときはそこまで徹底していない。それで平気だった。なぜなら、宣長は漢語漢文による思考を離れれば、それで古道に入れると決断するまでに、歌の本質や物語の本質についての用意周到な思索を練り上げて、それからこの投企を実現するほうに向かったからである。   

≪027≫  たとえば、である。物語には「儒仏にいう善悪にあづからぬもの」があるというような洞察は、当時も今も、びっくりするほどにすごい洞察である。宣長はこういう周到な前提を積み重ねて、『古事記伝』を不朽の記述にまで高めるだろうことを、予知していたにちがいない。 

≪028≫  そういう宣長を相手に小林はどうしたかというと、このように宣長が、執筆著作のたびに確実にステップを踏んで、儒から和へ、そこから和の歌へ、その和の歌の自己から歌の無私へ、また、歌の無私から歌の本来へ、さらに歌の本来からふたたび儒から和へ、そのうちすべてを日本の本来へと、まったく率直に深化していく姿に、ほとんど目を見張る思いをもちつつも、その手順というのか、テンポというのか、絶対に見誤らない古道へのアプローチの強みというのか、そういうものをまるで小林流に再生するかのように、『本居宣長』を綴っていったのである。 

≪029≫  しかしながら、それだけ記述の目を慎重にしていた小林も、結論からいえば、宣長の本当の思想のごく一部をしか書きあらわせなかった。 

≪030≫  これは、小林の責任ではない。宣長の途方もない深さに出会っては、小林も石川も、丸山も津田も、少なくともぼくが齧った宣長論者のすべてが、その本質を言葉で書ききることなど、不可能なことだったようにおもわれる。 

≪031≫  仮にそうだとすれば、小林はそのことも計算に入れて、あえて宣長には近接しにくいということを書きつづけたのかと、言いたくもなってくる。 

≪032≫  きっと小林は思索者ではなかったのである。失敗も成功もあったろうが、おそらくは「思索そのもの」であろうとした人だったのである。 

≪033≫  こうして小林の『本居宣長』は、縮めていえば、宣長の「古道の思想」をあえて感覚的にのみ徘徊できるように、宣長の源氏論にひそむ「もののあはれ」をところどころ突っ込むことによって、一個の宣長像を六曲数双屏風の絵のように一扇一扇に描いたのだ。 

≪034≫  ぼくには、この書き方は好ましい。小林のすべてが見えるような書き方になっているとおもわれる。 ところが本書は発売しばらくして10万部も売れたにもかかわらず、実のところはあまり評判がよくなくて、ぼくの知るかぎりはろくな評判記も書かれてこなかった。その理由は、小林は宣長をちゃんと書いていないのではないかという漠然とした感想が、読者や評者のがわにあるからだろうとおもう。 

≪035≫  それはないものねだりなのである。なぜなら小林は宣長を書いたのではなく、宣長の目による思索をしたかったからだ。それは小林がたとえば、「言霊といふ古語は生活の中に織り込まれた言葉だつたが、言霊信仰といふ現代語は、机上のものだ」とか、もっと本書をめぐってのポイントでいえば、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考へるといふ、宣長の肉声だけである」とかと綴っている文章にも、うかがえる。 

≪036≫  小林は宣長を書いたのではなく、宣長の目になろうとして、自問自答したのだった。 

≪037≫  そこに気づいたのは山本七平(796夜)の『小林秀雄の流儀』(新潮文庫)や細谷博の『小林秀雄論』(おうふう)あたりかもしれないが、やはりそれだけは不満だ。 いまの日本はこういう本をこそじっくり書評すべきであって、それが小林秀雄が日本にもたらした莫大な文化遺産に返礼する唯一の方法だとおもうのだ。 

≪038≫  ところで、小林は『本居宣長補記』のなかで、格別に痛快な比較を引用だけですませていた。それは『石上私淑言』(いそのかみのささめごと)が引いた新古今の一首と『アンナ・カレーニナ』(580夜)の冒頭とを比べてみせた箇所である。こういうものだ。 

≪039≫  歌は、「うれしくば忘るることも有なまし つらきぞ長かたみなりける」というものである。『アンナ・カレーニナ』のほうは、「幸福な家庭というものは、どれもこれも互いに似たようなものだが、不幸な家庭の不幸は、それぞれ趣きを異にしている」というものだ。 

≪040≫  これが小林の「もののあはれ」についての提出の仕方なのである。ぼくはこの扇子にさらさらと書きしるしたような二つの引用の、軽重いずれも譲らない様子が示されたのを見て、ああ、これで小林の宣長はいいんだと得心できたものである。 

≪041≫  さて、ここからは宣長にディペンドした書き方に変成(へんじょう)したいので、ひとまず、国学の流れがどのように宣長に至ったかということを、見ておくことにする。そのほうがいいだろう。 

≪042≫  小林の見方も、多少は交ぜていくが、ただし、かなり急ぎ足で眺めるにとどめたい。それでもなかなか複雑だ。 

≪043≫  一言でいうのなら、国学も宣長の原点も、どこから始まっているかといえば、契沖に始まった。 契沖の評価が定まったのは宣長によっている。宣長は師の堀景山に示唆されて契沖の『万葉代匠記』を読み、ここで最初のパラダイム・チェンジをおこしたのだった。宣長がいなければ契沖を深く読むことはできなかったし、契沖がいなければ国学はおこっていなかった。 

≪044≫  契沖は武家の出身で、出家して空海を慕う真言の求道僧となった。そのため高野山で修行して、大坂生玉の曼陀羅院の住持になった。ただし、ありきたりな寺院生活に不満をおぼえて出奔すると、室生山で死のうとしたり、山村に隠棲したりした。けれどもそのあいだ、つねに古典研究をしつづけた。 

≪045≫  それでいてつねに斬新を極めて、因習的な和歌の見方や国語の見方には決して与しなかった。この契沖の研究の態度に、のちの国学者のすべてが国学アーキタイプを発見していったのである。 

≪046≫  国学者のアーキタイプも契沖にあった。たとえば、徳川光圀に請われて万葉注釈をしていた下河辺長流が病気になったので、頼まれてそのバトンタッチを引き受けたのが代表作の『万葉代匠記』であるのだが(だから「代匠」と表題した)、光圀が出仕をもちだすと、契沖はこれを固辞して、生涯を孤高におくった。 

≪047≫  契沖は「俗中の真」を求めた秋霜烈日の人、まさに「無我」「無私」の人でもあったのである。 

≪048≫  小林秀雄もそのことにはよく気がついていて、契沖の無私の精神に惹かれ、それが宣長に本気に入る最初の動機になっていたとおもわれる。 

≪049≫  もうひとつ、あらかじめ注意を促しておきたいことがある。長流や契沖が武士の出身であったことが(契沖の家は加藤清正の遺臣だった)、国学ムーブメントの大きな背景になっているということだ。 

≪050≫  この時期の武士は宮本武蔵や由井正雪や丸橋忠弥がそうであったように、たとえ「武の魂」を求めても、それをもはや戦場に生かすことができなくなっていた。そこで、それを内乱か、それとも内面かに求めるようになる。 

≪051≫  この「武の魂」が一途に「歌」や「文」に向かって昇華していったのが、歌学の長流や契沖の国学化だったのである。ついでにいえば、前夜にふれた談林をおこして芭蕉に影響をもたらした大坂の西山宗因も、やはり武家出身だった(いうまでもなく芭蕉も武家の出身である)。 

≪052≫  江戸初期、これらの魂の発揮は、封じられ、転じて、磨かれて、江戸の歌学や俳文の骨髄となったのだ。 

≪053≫  ふたたび話を国学の流れに戻すことにするが、すでに契沖には「本朝は神国なり」とか「上古は神の治め給ふ国」という皇道的思想の萌芽があらわれていた。 

≪054≫  それを「神道」として歌学の中央に浮上させた研究者がいた。荷田春満である。 

≪055≫  春満は伏見稲荷の祀官家の出身で、当然のことながら、神祇をもって歌学にあたり、古語をもって精神教化にあたろうとした。その熱情にはただならぬものがあり、一種の“国学の学校”を起草した『創国学校啓』には、「神皇之教」「国家之学」という言葉がしばしばつかわれている。この学校は幕府に願い出て許可もされ、京都東山の一隅に卜(ぼく)したまで計画が進んだのだが、あと一歩のところで病没のため実現しなかった。 

≪056≫  春満の学は、甥で養子ともなった荷田在満に受け継がれる。その在満に声をかけたパトロンがいた。徳川吉宗の子の田安宗武である(このとき国学運動はついに幕閣の頂点にまで届いたのだ)。宗武は古典を好み、有職故実に明るく、和学を復興させたかった。そこで在満に和学御用を務めるように命じた。 

≪057≫  在満は自分は有職故実は専門にしたけれど、歌のことはよく存じませんと遠慮したのだが、宗武の切望に押され、それで書いたのが『国歌八論』であった 

≪058≫  それが波紋を呼んだのである。国学はここで新たなステージに突入する。 

≪059≫  詳しいことは省いて結論をいうと、在満の『国歌八論』は田安宗武には気にいらなかった。 

≪060≫  在満は歌源・翫歌・択詞・避詞・正過・官家・古学・準則の8項目をたて、それぞれで歌の役割を論じたのであるが、その主張は、歌というものは六芸(礼・楽・射・御・書・数)とはちがって、天下の政務にはなんらあずからないもので、日用常行の助けにもならない。むしろ詞華言葉の翫びをこそ美とするので、それには上古の質朴な古語にこだわらずに、古今以降の優美な雅語によって風姿幽麗な風体を深かめればいいとした。 

≪061≫  この主張は宗武を憤らせ、宗武に『国歌八論余言』を書かせるにいたった。しかも宗武はこれを賀茂真淵に提示して、その意見を求めたのである。これが前期国学運動史における最も大きな“事件”となった。 

≪062≫  が、そのことを理解するには、真淵がどのように国学運動に登場してきたかという話をかいつまんでおかなくてはならない。 

≪063≫  荷田春満の門に、遠州の諏訪神社神官の杉浦国頭と五社神社の森暉昌がいた。この二人に、同じく遠州浜松の賀茂真淵が出会ったのである。 

≪064≫  とくに国頭(くにあきら)は浜松の国学サロンの中心になっていて、春満の教えにしたがって、「真心もて思をのみ述べる歌風」を育てていた。真淵がそこに没入していった。遠州国学の芳醇がここに発した。 

≪065≫  真淵が育った岡部家は、賀茂新宮の禰宜の家だった。真淵が「賀茂県主」とよばれたのはそのせいである。このあたり、国学が神官ネットワークによって広がり、支えられていたことが見てとれる。ここではふれないが、その後に真淵を継承した内山真龍が遠州国学にもたらした人脈こそ、驚くべきものがあった。 

≪066≫  それはともかく、この真淵に田安宗武が『国歌八論余言』を示したのである。真淵はそれを読んで、『国歌八論余言拾遺』という所見を書いた(真淵は在満の後任として和学御用を担当し、田安家に15年にわたって出仕した)。  

≪067≫  真淵の所見はどういうものだったかというと、和歌の政教的意義についても、古歌や古語を重視することにおいても、おおむね宗武の見解を認めるものではあったのだが、ひとつ決定的なちがいがあった。 

≪068≫  宗武では朱子学的な「理」がなお強く残響していたのに対して、真淵では「理」(ことわり)では解けないものがあるとしていたことだ。 

≪069≫  真淵の学は「わりなきねがい」に出発していた。歌は「ことわり」ではなく「わりなきねがい」として生まれたもので、そこには治めようとしても、治めきれない人の心があるとした。 

≪070≫  「わりなき」とは「割りなき」で、「ことわり」が「言・割り」であることを前提にした見方になっている。 

≪071≫  この「割らない」という真淵の見方こそ、のちに宣長に継承される。 

≪072≫  もともと真淵は、新古今よりも古今を、七五調の古今よりも五七調の万葉を偏愛していた。その真淵が契沖の『万葉代匠記』に接したのは41歳前後のときである。強い衝撃をうけて、『冠辞考』『万葉解』『万葉新採百首解』を、そして『万葉考』を著した。   

≪073≫  そこに追求されたのは、集約すれば、「まごころ」「まこと」「ますらをぶり」である。「ますらを」とは大丈夫と綴る。われわれはいまも「大丈夫ですか」「大丈夫だよ」と言いあっているけれど、その大丈夫の心底を真淵は考えた。それは万葉に戻れという叫びでもあった。 

≪074≫  こうして真淵が到達した心境は、『にひまなび』と『国意考』にあらわれる。 

≪075≫  そこには、「おのがじし得たるまにまになるものの、つらぬくに高く直きこころもてす」という直覚が貫かれ、その「高く直きこころ」には「ひたぶるに、なほくなむありける」という心情が傾倒された。 

≪076≫  その“新しい学び”の到達点で見極められたのが、「安波礼」(あはれ)の詠嘆である。 

≪077≫  しかし、万葉に学んだ「直き心」が安波礼に達するには、どうしても対決すべき邪魔があった。それは「からごころ」というものである(387夜)中国的思考というものだ。真淵は古言(ふること)を求め、その奥に「直き心」を認めたのであるから、異国の儒仏による言葉は排除されるべきものだったのだ。『国意考』はその「からごころ」と対決するために、文意、歌意、語意、書意の上位に国意がかぶる著作となっている。 

≪078≫  真淵は「あはれ」を感じるには、「からごころ」に惑わされない国意が必要だと考えたのである。しかし国意とは何なのか。日本のナショナル・インタレストのことなのか、日本語の特徴ということなのか。    

≪079≫  真淵が「からごころ」に対決したのには、むろん儒学・朱子学に対する警戒心がはたらいている。 

≪080≫  しかし、ここできわめて大事なことを言っておかなければならないのだが、実は真淵の国学も宣長の国学も、儒学がこの時期にめざしたものに大いに引っぱられていたということである。このことは小林もつねに念頭からはずさずにいた。そこにはむろん“中国” がいた。 

≪081≫  この儒学の先頭を切っていた思想には、いくつかの波頭がある。 

≪082≫  いまその全貌を案内することはできないが、あえて大きく二つの潮流として切り出しておけば、ひとつには伊藤仁斎と荻生徂徠に達した「古学派」あるいは「古文辞学」の波頭と、もうひとつには中江藤樹、熊沢蕃山、山崎闇斎、山鹿素行らの「日本聖学派」とも「経世済民派」ともいうべき波頭があった。  

≪083≫  これらはいずれも中国を模倣しようとした幕府の朱子学イデオロギーに反発し、そこから鬼っ子のように出生した日本儒学の精髄である。ここにいう幕府の朱子学とは林羅山らの林家がおこしたもので、明徳をもって「上下定分の理」や「名分」をあきらかにし、「修身斉家治国平天下」のイデオロギーを確立しようとしたものをさす。  

≪084≫  このほか、貝原益軒らの本草学、野中兼山(741夜)の倫理、水戸の修史学や新井白石(162夜)の独自の歴史観、さらには士道や武士道につらなるものなど(823夜)、日本儒学思想はいろいろ多様だが、ここでは省く。 

≪085≫  便宜上、後者の波頭からかいつまむと、中江藤樹は“近江聖人”の名があるように、「聖」を求め「孝」を説いて、福善禍淫や応報妙理を謳った。陽明学にひそむ「心法の学」をめざし、『孝経』中にある「生民」の概念をほりさげようともした。 

≪086≫  いま、藤樹を読む者などほとんどいないと思われるけれど、内村鑑三が『代表的日本人』(250夜)の5人のなかに藤樹を入れたことは忘れないほうがいいだろう。 

≪087≫  意外にも小林は、『本居宣長』の前半で契沖を追ったあと、藤樹にたっぷりな思索をめぐらしている。いや、意外ではない。小林はまっすぐに藤樹を綴っている。 

≪088≫  「藤樹の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらひたい」「藤樹の独走は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了つたところに、学問のは一たん死ねば、生き返らないと見極めたところにある」というふうに。 

≪089≫  この藤樹の門に、岡山藩で池田光政に仕えながら花畠教場をおこした熊沢蕃山が出た。友誼に厚く、かつ、ごつい思想の持ち主だった。陽明学流儀の「講学」をリードして集団的学習の可能性を説き、「朋友」による政教社会の実現がありうることを仮説した。しかし、これらにはまだまだ“中国” がいる。 

≪090≫  のちに崎門とよばれる一派の祖となった山崎闇斎は、敬愛と道統を重視した「道学」をおこす。 

≪091≫  闇斎はこの敬愛を「無名ノ敬」に求め、そこに秘められた心法ともいうべきものがあると主張した。「敬」を「無名」のトポスに持っていったところが、闇斎にしかできなかったところなのである。それが吉川惟足の神道論に接して深まり、ついに「垂加神道」に及んだ。これはいよいよ“中国離れ” をおこしている。 

≪092≫  山鹿素行についてはその『中朝事実』の主張について第796夜に若干のことを示しておいたので、それであらかたの見当がつくだろうが、素行は「日本こそが中華になればいい」と結論づけたのだ。 

≪093≫  他方、今夜の文脈で強調しておかねばならないのは、主著『聖教要録』をはじめとするその聖学思想には、伊藤仁斎に通じる「古学」の探求の主張があったということだ。今夜はそのほうの指摘にどとめる。 

≪094≫  それで、仁斎であるが、この人は京都堀川の商家に育った。境遇だけは、ぼくにも通じる。 

≪095≫  しかし、旧来の朱子学をまっこうから批判しようとしたという意味で、この人ほどラディカルな立ちあげをした人はいなかった。その『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『童子問』などに掲げられた方法とは、ひたすらに「古」に遡及することで、そこで『論語』にのみこだわった。 

≪096≫  それゆえ仁斎に始まった学問を古義学というのだが、ただ仁斎はその古義こそは人倫日用に流出するべきもので、それを古色蒼然たる形而上に鎮座させておくことを嫌ったのである。 

≪097≫  こうして、仁斎の古義学から荻生徂徠が躍り出る。徂徠は柳沢吉保に仕えて、5代綱吉の学問御用にも8代吉宗の下問に対する上表にも応えた儒者であるが、その「古学」のアームの深さがついに宣長を動かした。  

≪098≫  徂徠については、小林も何度も何度もふれている。もっと宣長ばかりを言及していればいいのにとおもうような箇所でも、ついつい徂徠を引き合いに出している。 

≪099≫  もちろん、その気分、まことに手にとるようにわかる。徂徠が仁斎の「孔子の道」に対して、さらにそれより深い「先王の道」を理想としたということがひとつ、『論語』より六経の言辞に依拠したことがひとつ、さらに小林を感動させたことがもうひとつあった。 

≪100≫  それは、漢文訓読を排して口語による解読や華音直読を提案し、究極の「読み」とは反復してその奥に脈動する意表をそのまま呑みこむことだという徂徠の方法の提示が、小林に、自分も日本人も、それをやってきたのだという思いを喚起させ、あまつさえ、いま自分はそのように宣長を読んでいるのだという実感に浸らせたということだ。 

≪101≫  一言でいうのなら、たしかに徂徠の方法とは、人間が理想をもって原初に描いた「場」に立ち返り、そこに立ち上がったであろう最古層の「文」によって思考できないものなのか、という提案なのである。 

≪102≫  これなら中国も日本もない。そして、それが徂徠の「古学」というものだった。(ちなみに「古学」という名称は、明治になって井上哲次郎が素行・仁斎・徂徠・益軒に対してつけた)。 

≪103≫  この方法はものすごい。ものすごいのだが、はたしてそんなことが可能なのだろうか。 

≪104≫  徂徠のものを読んでいくと、必ずしもこの方法が実践されているとはいいがたい。それは、徂徠が和訓読みをしながらも、ついに漢語漢文を離れなかったからである。 

≪105≫  むしろ徂徠の思想は、井上哲次郎に先立って明治初期の西周や加藤弘之が“発見”したように、ホッブズの『リヴァイアサン』(944夜)に東おいて匹敵して、礼楽による倫理国家を想定したことのほうで、評価されていった。徂徠が天の道と政事とを峻厳に分けたことが明六社(592夜)の思想家たちに評価されたのである。 

≪106≫  しかし、こういう徂徠には小林の関心はない。むろんのこと、宣長にあってはなおさらに――。 

≪107≫  それゆえ宣長は、その「古層の場」には漢語漢文を捨て、思索のいっさいから漢意(からごころ)を外して、ひたすら古意(いにしえごころ)と古言(ふること)だけで、あとは素手で臨んだのであり、その宣長を小林は追いながら、自問自答したかったのだった。 

≪108≫  だいぶんはしょったが、こうして宣長は、一方では真淵の歌学に出自したけれど、他方では徂徠の古学からも出自していたのである。

≪109≫  では、話を戻す。真淵から宣長へは、もう一歩が、あいている。断絶もある。 

≪110≫  真淵の門流は実に300人を超えた。『万葉考』を手伝った加藤宇万伎、その子の加藤千蔭(師とは異なって古今の調べを称揚した)、万葉学を推進した荒木田久老、江戸十八大通の一人ともなった遊芸派の村田春海ら、いずれも真淵の流れを汲んだ。 

≪111≫  真淵自身はどうなっていったかというと、当初の「ますらをぶり」に安住することができなくなっていた。何かが足りないと思うようになっていた。しかし、そこから先には真淵は進めない。真淵の寿命が尽きる。 

≪112≫  宣長は、その真淵に宝暦13年(1763)5月25日、伊勢松阪日野の旅館「新上屋」で出会い、すでにその託宣ともいうべきメッセージを確固として掌中にしていた。それは「からごころを清く離れよ」というものだった。 

≪113≫  ここから宣長は、たった一人の冒険探索に出向いていく。宣長34歳、真淵は67歳。いよいよ「日本」が始まった。 

≪114≫  この宝暦13年は、宣長が真淵とまみえたというだけで記憶されるべきではなく、その1カ月後に『紫文要領』と『石上私淑言』を書き上げたことでも、また翌明和元年の2月には『源氏物語和歌抄』を、さらにはついに『古事記伝』の起稿に突入したことでも、特筆されるべきである。 

≪115≫  ひるがえって宣長が松阪に戻って医を開業したのは、真淵の『冠辞考』を読んだ宝暦7年のこと、27歳のときである。すでに堀景山に入門して契沖を教えられ、和歌も学びはじめていたが、真淵の一書を手にするまでは素人同然だった(言い忘れたが、堀景山は荻生徂徠とはかなり深い親交をむすんでいた)。 

≪116≫  それが真淵を読んだ翌年からは、源氏を、古今を、伊勢を、土佐日記を、百人一首を講じはじめている。真淵がすべては源氏ですよと言ったからでもある。それが宣長の起爆となったのだ。 

≪117≫  実は、小林もこの「源氏ですよ」に参ってしまったのである。『本居宣長』は、冒頭にその話がおかれていて、そこから始まっているのだ。ただし、「源氏ですよ」と小林に言ったのは、むろん真淵ではなくて、折口信夫だった。 

≪118≫  戦時中のこと、小林は大森の折口宅を訪れたことがあるらしい。何かのはずみに話が『古事記伝』におよんだところ、折口は橘守部の批判的宣長評を話してくれた。  

≪119≫  宣長に詳しくなかった小林は、それでもちょっとした読みかじりの印象から、「宣長の仕事は、批評や非難を承知のうえのものだつたのではないでせうか」と言ってしまった。 

≪120≫  「折口氏は、黙つて答へられなかつた。私は恥かしかつた。帰途、氏は駅まで私を送つて来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に」と書いて、小林はそのときの折口の言葉を書きとめている。「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」。  

≪121≫  このエピソードは、小林の本書の印象を決定づけている。もはや詳しいことは書かないが、この折口の言葉によって、小林は宣長の源氏論の「もののあはれ」から古道を“謁見”することにしたのであったろう。 

≪122≫  では、ここからはぼくの感想を書く番だ。2週間ほど前に伊勢松阪へ行ってきた。『伊勢人』の堀口裕世さんに仲介を頼んで、本居宣長記念館の吉田悦之さんに案内を乞い、あれこれ見せてもらった。   

≪123≫  そのとき、愕然としてしばし凝視した絵図があった。宣長が19歳のときに描いた“理想の王国”としての架空の城下町である。異様に精密な街区構想がびっしり隙間なく描きこんである。架空の住人の系図まで用意されている。 

≪124≫  そこには宣長がそのあと50年近くにわたって取り組むべきマスタープランがどのような精緻なものでなければならないのかが、予知されていた。 

≪125≫  その架空絵図ともつながるのだが、宣長は青春期には「私有自楽」をモットーとしていた。自分の王国をつくること、宣長が好きなのは、このことだったのだ。   

≪126≫  それが契沖を読んで「自然の神道」に惹かれ、和歌を道徳的道義的に見るのが誤りだと直感できた。まずこのことが重要だ。 

≪127≫  契沖は『勢語臆断』で伊勢物語を解きながら、たとえば細川幽斎の「伊勢は好色を綴ったのではなく、男女の情に託して政道の本を描いている」といった解釈を斥けたのである。契沖はむしろ男女の情愛こそ自然の神道なのであって、それを読まなくては伊勢など読んだことにならないと喝破したのだった。 

≪128≫  これで宣長に「和歌と人間の本来的関係」ともいうべき問題を考える火がついた。そう思って、いいだろう。 

≪129≫  宣長は驚いた。空想の王国をつくらずとも、ありのまま、そのままの社会がそこに歌われていけば、それが王国なのだと知ったのである。そこで宣長が京都遊学中に書いたのが『排蘆小船』である。 

≪130≫  「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふことをいふより外なし」と書いている。 

≪131≫  では、その「心に思ふこと」はどこから生まれてきたのだろうか。その「心に思ふこと」の本体をどう評価すればいいのだろうか。 

≪132≫  ここから「もののあはれ」を論ずるには、宣長はたいして苦労をしていない。  

≪133≫  真淵のものを読んでいたせいもあるが、ともかくもこのことだけは見極めたいという思いで、記述しているからだ。それが『石上私淑言』だった。  

≪134≫  「すべて何事にても、殊にふれて心のうごく事也」「阿波礼といふは、深く心に感ずる事也」が、宣長の「もののあはれ」のとりあえずの橋頭堡なのである。 

≪135≫  ただし、このとき宣長は「わきまへしる」ということをメモしている。この「わきまへしる」が「もののあはれ」と決して分断されないで、一緒に動きまわってくれるかどうかということが、このあとの宣長の命懸けになっていく。 

≪136≫  宣長は、和歌の本質には神代の世界が内在していると考えていた。 

≪137≫  記紀神話については、「神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやと読みつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざしありしかど」(玉勝間)と書いていた。 

≪138≫  宣長は伊勢神宮とは地続きの松阪に生まれ育っている。おまけに両親が、宣長のことを吉野水分神社の申し子だと言い聞かせて育ててきた。神は少年宣長の体の中にあったといっていいだろう。 

≪139≫  そういう宣長が『古事記』にとりくんだのである。これは心からやりたかったことであって、かつ、どんなに壮絶な作業となっても宣長の全身を泡立たせるにふさわしい夢中な作業だった。ついに最後まで論争の相手に終わった上田秋成は、そういう宣長をからかって“古事記伝兵衛”と名付けたが、宣長はそれをこそしたかったのだ。 

≪140≫  宣長にとっての最大の関心事は、原初、神々の出来事がどのような言葉で語られたのかということと、その神々の出来事が皇租とどのようにつながっているのかということである。 

≪141≫  宣長はそこには、「おのずからしからしむるみち」というものだけがインターフェースになるべきだと考えた。 

≪142≫  こうして宣長の古事記読解が始まっていく。その方法にはいくつもの脱帽したくなるような工夫があるのだが、その根幹にあったのは、「言」は「事」であるという信念と、断固として漢語を用いないで読み切ってみせるという信念だけだったかとおもわれる。しかし、それが壮絶なのである。 

≪143≫  全44巻にわたる溜息がでるような解読の、その、たった一カ所だけをここに援用するにとどめるが、たとえば「神代一之巻」の冒頭、「天地初発之時、於高天原成神名‥」である。  

≪144≫  宣長は最初の2文字から考え抜いていく。 いったい「天地」はアメツチで、「阿米都知」であるはずなのに、なぜ天地と漢字のままで綴ってあるのだろうか。宣長は『古事記』の第1行第1文字から問題にした。 

≪145≫  それは文字をもたなかった日本が漢字を借りたからしかたないとして、しかし、それはあくまで借りただけなのである。稗田阿礼はアメツチと誦んだはずだった。それなら「天」は阿米であって、それを漢字の「天」にしたのでは、本来の意味など見えてはこない。 

≪146≫  そこで宣長はアメは「そらの上にありて、あまつかみたちの坐(まし)ます御国なり」と読むことにした。では、「地」はどうか。これはツチである。ツチは「ひじ」(泥土)がかたまって「くに」になった状態ではないか。そう、宣長は解釈して、なぜそのように解釈できるのかの例証を万葉・祝詞そのほかの資料に引いていく。 

≪147≫  たった2文字だけでもこれだけの“考証”と“推理”をするのだから、これは壮絶だ。  

≪148≫  こうして虫が地球を歩むような思索歩行によって、やっと次の「於高天原成神名」にたどりつく。宣長はここで「成」(なりませる)に注目をした。 

≪149≫  宣長は、この「なる」には3つの意味があるとみた。第1には、なかったものが生まれ出るという意味、第2は、何かのものが変わって別のものになるという意味、第3は、「なすことがなしおわった」という意味である。  

≪150≫  それぞれ、人が生まれること、一体の神が別の神になること、神が国を生んだこと、などにあてはまる。宣長はそうだとすれば、日本本来の「なる」とはこれらのどれにもなりうることを意味する「なる」の意味をもっていたと仮説した。いや、そう決めた。すでに、第483夜の山本健吉と第564夜の丸山真男にもふれたことである。 

≪151≫  ついで、「成神名」の「神」そのものが問題になる。宣長はこのカミは「迦微」ということで、意味はまだわからないが、ともかくいろいろな社に鎮座する「みたま」(御霊)であろうと推測する。 

≪152≫  それはきっと「かしこきもの」と言われてきたもので、尊いものや優れたものだけをあらわしているのではなく、悪しきものや奇しきものもふくんでいるだろうとみた。ようするに「すぐれてあやしきもの」、それがすべてカミなのだとみなしたのである。  

≪153≫  結局、宣長はこうした解読作業を全文にわたってやりぬいたのである。なんとも恐ろしい探求である。 

≪154≫  それでは、今夜の最後に言っておきたいことで締めくくろう。二つある。 

≪155≫  ひとつは、『玉勝間』のことで、これは、19世紀の冒頭の享和元年(1801)に宣長が死ぬ直前に、その14巻目の版下浄書をおえたばかりの著作物だった。「勝間」とは籠の網目がびっしり詰まっていることをいう。そんな表題で何を暗示したかったかというと、言葉や文章はメディアになるということだった。 

≪156≫  ということは、『玉勝間』はエンサイクロメディアなのである。まちがってもらっては困る。エンサイクロペディアではなく、エンサイクロメディアだ。 

≪157≫  全14巻には、「初若菜」「桜の落葉」「たちばな」「ふぢなみ」「山菅」「つらつら椿」といった項目がずらりと並んでいる。巻一の冒頭には、「言草(ことぐさ)のすずろにたまる玉がつま つみてこころを野べのすさびに」という一首が添えられている。そのほかの巻にもやはり一首ずつが載っている。その1巻ずつに特色があって、行事習慣をほどいたり、漢文でひっかかることが説明してあったり、文物の解説になったりしている。

≪158≫  一口でいえば『玉勝間』は「言草の辞典」なのである。どこからでも、どのようにでも読める。しかもそれが、宣長の最後の著書であるというのが、傑作なのだ。ぼくの感想で言うのなら、宣長はここで少年に戻ったのである。あの架空の町の絵図に戻ったのだ。 

≪159≫  エンサイクロメディアであるというのは、ここには自在な書きこみの作用だけが作用しているからである。まずは、それを告げておきたかた。 

≪160≫  もうひとつのことは、ちょっと重大な指摘になる。「千夜千冊」のなかでも十指に入る指摘であろう。 

≪161≫  話は「もののあはれ」につながるのだが、いまは切り離して見てもらえばよい。 

≪162≫  宣長には、情というものについて、「はかなく児女子のやうなるもの」が本来のものだという確信があった。この確信が画期的だった。『排蘆小船』や『石上私淑言』での独得の言いっぷりをさす。 

≪163≫  たとえば、「ただしくきつとしたるもの」は人情の本質をあらわさないというのだ。キッと虚勢をはるのは本質的ではないという。それは世間の風に倣ったもので、宣長には無縁だというのだ。そうではなく、「しごくまつすぐに、はかなく、つたなく、しどけなきもの」こそが人間の本来の本質だというのである。 

≪164≫  これは驚くべき思想である。「はかなく、つたなく、しどけない」なんて、まさにフラジリティの根本に迫っている。 

≪165≫  残念ながら、小林秀雄はついにこのことに気がつかないで終わっている。言葉を弄ぶことをできるだけ避けて、一歩一歩の思索を自問自答することは叶えているが、そこにフラジャイルな本質を嗅ぎわけはしなかった。 

≪166≫  こういうことをさっと気がつくのは、どちらかといえば蓮田善明や吉川幸次郎や中島誠だった。とくに吉川は岩波の「日本思想大系」の宣長の巻の解説や筑摩の『本居宣長』で、そういう話を出している。そして、こう書いた。  

≪167≫  「日本思想史の素人である私は、かく〈めめしさ〉を価値として、〈ををしさ〉を反価値とする主張が、宣長のほかにどれだけ江戸の世にあるかを知らない。ただ彼が『紫文要領』を書きあげたのと、ほぼ時を同じくしてその門人となった賀茂真淵に、正反対の主張があるののみを知る」。また、「しかし、武断を少なくとも立て前の価値とする武士支配の時代にあって、宣長が〈めめしさ〉の価値を大胆に主張したのに対して、私は大きな敬意を表する」。 

≪168≫  吉川は、これを「文弱の価値」というヘッドラインにしているが、なにも文弱だけではあるまい。宣長のフラジリティは最も勇気のいるラディカルなフラジリティなのだ。 

≪169≫  では、蛇足である。 最後にどうしても言っておきたいことがある。それは本居宣長は生涯、タバコを手放さなかったということだ。ほっほっほ。 

≪170≫  あれっ、さんざん書いてきて、こんな終わり方ではまずかっただろうか。では、もう一言。前夜の芭蕉に続いて今夜が宣長では、もはや心もくたくた、体もぼろぼろ、頭もへなへなである。次夜は一応は某人某書を想定しているのだが、はたして、そう思惑通りにいくのだろうか。よろしゅう、おなぐさみに。 

≪01≫  碁敵の別役実に勧められて読んだとき、つまらなかった。こんなことで「粋」が説明されてたまるもんかよと、すぐに思った。早稲田小劇場が生まれる前後のころである。 

≪02≫  いまとなってはそのときの読感を正確に思い出せるわけではないが、薄っぺらなんじゃないかとか、和の美学の頓珍漢のほうに入りこんで理屈っぽいという感じだったのだろうと憶う。それまでぼくが生意気に感じてきた「粋」とは違うのだ。 

≪03≫  それがいつだったか、九鬼の『偶然の諸相』を読んで、格段の新鮮なものを感じた。あいかわらず定言的偶然とか因果と目的によって偶然を分類しているところなど、少しうるさいのだが、ここまで「偶然」にこだわることが一筋縄ではないというのか、只事ではないと気がついた。 

≪04≫  そこで、岩波の全集をとりよせてあれこれ拾い読んでみると、おお、おお、なんだ、胸が詰まるほどに、いい。最初に『風流に関する一考察』や『日本詩の押韻』を読んだのだったと思うが、これはどうも日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたことにさしかかっている。 

≪05≫  気持ちがしゃんとした。 

≪06≫  ふたたび『「いき」の構造』に戻った。目に活字が入ってくるところがまったく違っていた。ぼくは何も読んではいやしないのだと愕然とした。  

≪07≫  たとえば着物の「抜き衣紋」。本式ではなくちょっと略式に結った「髷ぐあい」、舌ざわりなどの「さはり」‥。こういうものが粋の意味体験をつくっていて、それが心の糸にふれるということ、だからこそ三味線の一の糸の「さはり」が粋に聞こえてもくるということ‥。 そういうことか。 

≪08≫  こんなことが書いてあるとは思わなかった。そしてそのうえで、ぷいっと「赤勝の京紫よりも、青勝の江戸紫のほうが“いき”と看倣される」なのである。うーん、京紫と江戸紫のちがい、ねぇ。 

≪09≫  もっと感服したのは、これはもっとあとになって気がついたのであるが、浮世絵で粋を持ち出すのなら鈴木春信は欠かせないだろうに、九鬼は春信の「いき」については触れてはいない。どうしてだろうと思っていたところ、草稿にはちゃんと春信のことを書いていたと安田武が言っていた。 ということは、本番で春信をきっぱり捨てたのだ。こういうことをする人だったのである。  

≪010≫  これでは何も読めていなかったと言われても仕方がない。 いつもこういう体験をするのも困ったことだが、一冊の本というもの、読み方ひとつでどうにもならなくなってくる。帯の締め方、筆の持ち方、「かな」か「けり」かの選び方なのだ。『「いき」の構造』については、ぼくはあきらかに失敗の巻。もっとも、だからこそ再読が身に染みた。   

≪011≫  白状すれば、ぼくにはそのころもっと決定的な欠陥もあった。東京には来ていたものの、「江戸」がほとんどわかっていなかったのである。たとえば「婀娜(あだ)は深川、勇みは神田」なんて、そんなカッコいい風情があつたことが、まったく見えていなかった。 

≪012≫  実は「浮世」も「浮世絵」もわかっていなかった。 さきほどの春信云々を引きとっていうのなら、『「いき」の構造』には「意気地や媚態の霊化が粋なのである」と書いてあるところがあるのだが、春信のあの時代の絵では、たしかに浮世絵のもつ意気も媚態も、まだ霊化までには進んでいなかったのだ。 

≪013≫  それにしても、媚態の霊化、なのである。 こういうことがわかるまでに、ざっと二〇年くらいの損をした。とくに九鬼がパリで詠んだ「ふるさとのしんむらさきの節恋し、かの歌沢の師匠も恋し」という歌が、なんともせつないと思えるにいたるまで――。でも、それが損じゃなかったのだ。 

≪014≫  では、あたらためて九鬼周造を評価しておきたいのだが、この人はよほどの人である。異例の人である。 

≪015≫  まずわかりやすくは、おおざっぱな文化地理上のことだけをいうと、東京は芝に生まれて江戸の花柳界や俗曲によく遊んだうえで、ドイツではリッケルトやフッサールやベッカーに影響をうけ、フランスではベルグソンに学んで、その文化の風土にひそむ感覚、たとえば“シック”を哲学したのち、天野貞祐や西田幾多郎に誘われて京都帝国大学に招かれ、その後はずっと京都に暮らした。二度目の夫人は祇園の芸者である。 

≪016≫  ようするに九鬼は、「江戸の鉄火」と「ヨーロッパの形而上学」と「京のはんなり」を、その土地からもその言葉からも吸いこんでいた。 

≪017≫  次は血の遍歴のこと。 周造の父は九鬼水軍の流れをくむ九鬼隆一で、近代日本の最初の文部官僚であって、最初の駐米特命全権公使だった。フェノロサと岡倉天心の東京美術学校の開設を後押した。 

≪018≫  母は祇園出身の星崎初子(はつ・波津)。アメリカ滞在中にその初子が身ごもったので、隆一は同行していた若い天心に付き添わせて、日本で出産できるようにはからった。けれども横浜までの船旅はあまりに長い。どうやら二人は交わるようになり、これがスキャンダルとして発覚し、天心はつくったばかりの東京美術学校の校長の座を追われた。 

≪019≫  もっともそれがため天心は孤立しながらも奮起して、大観・春草らと日本美術院をおこすのだが、この事件によって九鬼夫婦は別居する。そのスキャンダルの渦中で生まれた周造は、幼年期を天心に“父”を感じて育っていった。母の初子はやがて発狂、精神病院に入っていく。 

≪020≫  さらに九鬼その人の境涯について言っておく。そのほうが九鬼のいう「いき」がよくわかる。今度は知の遍歴だ。 

≪021≫  日露戦争のさなか、九鬼は一高に入って天野貞祐・岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎と知り合い、最初は植物学をめざしていたのだが、やがて哲学に向かい、東京帝大の哲学科に入る。途中、キリスト教の洗礼をうけ、岩下壮一の妹に痛恨の失恋をして、大学院に進んでいく。卒業論文がすでに九鬼らしい。名付けて「物心相互の関係」というものだった。 

≪022≫  しかし、大学院は途中で放棄、九鬼は颯爽とハイデルベルク大学に留学して、リッケルトや新カント派に師事をする。ところがその哲学があまりに「同一性」を確信しすぎていることに苛立って、フランスへ飛んでサルトルにフランス語を習い、かつベルグソンを知ると、直観的な純粋持続の可能性こそ思索を深めるものだと了解して、むしろ「異質性」の重要性に向かうようになる。 

≪023≫  ヨーロッパで九鬼がしきりに考えたことは、「寂しさ」と「恋しさ」とは何かというものだった。 

≪024≫  「寂しさ」とは他者との同一性が得られないという感覚、「恋しさ」は対象の欠如によって生まれる根源的なものへの思慕である。これらはすなわち「異質性」への憧れを孕んでいる。つまりは清元なのである。 

≪025≫  九鬼はそのような感覚が「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあること」によって卒然と成立することに思いいたり、ついに東洋的な「無」の大切を知る。 

≪026≫  ふたたびドイツに戻ってハイデガーをしばしば訪れるようになるのは、この大切な「無」をめぐる東西の橋梁を求めてのこと、このあたりから九鬼には何かのミッションが芽生えていた。 

≪027≫  九鬼はこうして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっていることに深い関心を寄せた。 

≪028≫  では、どうすれば生きられるのか。何かに出会う必要がある。出会ってどうするか。恋をする。どのように恋の相手に出会えるか。そして恋だけを持続できるのか。そんなことばかりを考えた。こんな思索がのちにやがて、ぼくが瞠目した「偶然性」の問題にとりくむあの九鬼周造になっていく背景になっている。 

≪029≫  しかしここまでのことは、九鬼周造という一個の存在が「二人の父のあいだ」と「不在の母」によってこの世に投げ出されていたという「血の事情」を、どこかで暗示するような「知の行方」そのものだったように思われる。 

≪030≫  8年におよんだヨーロッパの日々を終えて日本に戻った九鬼は、いまのべたように、「寂しさ」を本質的に抱えた者こそが、その喪失感覚がゆえに何かに出会うことで、きっと新たな異質の快感を得るのではないかという期待をもちはじめる。 

≪031≫  その期待の思いを結実させようとしたのが、帰国後1年にして書きあげた『「いき」の構造』なのである。どうだろうか、これで何が「いき」になったのか感得できるのではないだろうか。 

≪032≫  そもそもヨーロッパでは、哲学においてすら、恋愛の基底に自己同一性や自己発見をおいている。せっかく「無」に到達したハイデガーの哲学ですら西欧の論理に邪魔をされ、来たるべき相手を求められないものになっている。 そこでは美の堪能が塞がれている。 

≪033≫  九鬼はそれがおかしいと考えていた。男女の関係はもっともっと自由でなければならないのではないか。そこからはもっと新たなものが創発してもよいのではないか。そう考えた。それが見えれば、恋愛によって精神と肉体を分断する必要はなく、結婚と結びつける必要もない。 

≪034≫  では、その美の堪能をどこに求めるべきか。それでいて「無の堪能」にもなるものを、では、どこに求めるか。 

≪035≫  日本の美が浮世の片隅において磨きに磨いた「いき」こそが、あるいはその「いき」の感覚を交わしうる相手との出会いこそが、美の堪能であって、無の堪能だったのである。九鬼の新たな哲学は、いや存在学は、こうして一気に「婀娜な深川、勇の神田」に向かっていく。 

≪036≫  九鬼が持ち出した「いき」は、既存の男女の関係を超越する自由のための根拠の概念であり、そのアクティヴィティだったようだ。だから九鬼は、「いき」は恋愛をさえ越えるものではないかと考えていた。 

≪037≫  この結論は、かなりおもしろい。「いき」がそういうものなら、ぼくだって粋がりたい。けれども多少残念なことに(そして、そこが最初にぼくが感じた『「いき」の構造』の読感印象だったのかもしれないが)、九鬼の「いき」論は“論理”であろうとしたそのぶん、どうも「いき」の本来からずれていったようにも見える。ハイデガーだって、ヘルダーリンの詩には「無」と「美」の両方を見いだしていたはずなのだ。 

≪038≫  ただしすぐさま付け加えなくてはならないが、九鬼その人は「いき」の何たるかを、これ以上のかたちでは身につけるのは不可能であろうとおもうほど、身につけていた。けっして論理で生きている人ではなかったのである。 

≪039≫  そこが哲学者としての九鬼周造が「異例の人」であったという理由になってくる。  

≪040≫  さて九鬼の言葉によると、「いき」の契機は「媚態」「意気地」「諦め」によって成立しているという。  

≪041≫  それらは、わが国の道徳的理想主義と宗教的非現実性によって支えられ、前者は武士道によって、後者は仏教によって育まれてきたという。九鬼はこの見方にもとづいて「いき」の説明に緻密に入っていこうとしてしまう。 

≪042≫  先にも書いたように、九鬼にとっては人間が「自己」であるのは「寂しさ」や「恋しさ」のせいである。けれどもそのような自己はいまだ「一元的の自己」であって、それを脱するには異性との出会いによって二元的な関係に入らなければならない。 

≪043≫  それを九鬼は「可能的関係」とよぶ。 この可能的関係は、当初はきっと互いの「媚態」のうちに予想しあったものである。もし、両者が媚態を感じつづけ、可能的関係を持続できれば、人間はかなり自由になれるはずである。 

≪044≫  しかし、ここで異性との「合同のこと」を求めすぎると、そこから媚態がたちまちなくなっていく。そこで媚態をぎりぎりにさせつつ、共同的な二元関係を感じあっていくには、いくら男女が快楽を交わそうとも、そこには適当な「距離」が必要になる。この媚態と距離との両方をキリリと表象しているのが、どうやら「いき」なのだ。 

≪045≫  わかったような、虫のいいような、男女の身体性を度外視したような、いかにも男っぽい説明に聞こえるのだが、しかしこれらがそもそも「寂しさ」を決定的な端緒として生じていることに気がつくと、やはりこの説明には初期の九鬼周造がまるごと表出されているということになる。 

≪046≫  次の「意気地」は、一言でいえば媚態のテンションを持続させ、距離をおいても媚態が朽ちないために、そこにさらに磨きをかける「心の強み」のことをいう。こう説明している。 

≪047≫  「意気地」は理想主義のもたらした心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供し、可能性を可能性として終始せしめようとする。 

≪048≫  この「心の強味」としての意気地は、おそらく養って絞って削って身につくものだろう。だから九鬼は、日本においては意気地が生まれてきたのは武士道によっていると見た。  

≪049≫  もっとも九鬼のいう武士道は、新渡戸稲造や奈良本辰也が解説してきた武士道とはずいぶん異なっている。献身や礼儀の武士道ではなくて、とうてい実現することのない理想を求める心意気を武士道とよんだ。そこを九鬼は、「無際限」の中に「真無限」を求めよ、というふうに書いた。  

≪050≫  けれども男女のあいだに、こんな武士道を重ねていくなんて、これはよほどのことである。まず、できまい。そこで九鬼は、むしろ「いき」の振舞や「いき」な存在をまっとうしようとする心意気こそが、意気地をつくっていくとみなしていった。ふつうは、これを「はり」(張り)という。 

≪051≫  かくて「いき」を心意気にしつづける最後の契機として、九鬼は「諦め」を持ち出した。 

≪052≫  これは諦念というよりも「恬淡無碍の心」というもので、意気地や張りの対極にありながら、それを対角線で重ねるものである。それゆえにこそそこを、大胆にも「諦めと意気地とは、無力と超力として、唯一不二」とも書いてみた。つまり二つは反しあうようでいて、どこかがつながっているひとつの覚悟というものなのだ。そうそう、春信をきっぱり諦めるのも、張りのうちなのだ。 

≪053≫  エッセンシャルには、『「いき」の構造』の構成要素はこういうものなのだが、こんなぼくの拙(つたな)い要約でもなんとなく予感ができるだろうように、このような「論理」だけでは、なかなか「いき」は説明しきれない。 

≪054≫  九鬼もそれは重々わかっていて、そこで随所に具体例を入れていく。それが抜き衣紋や江戸紫の例だった。しかしぼくが読み返してさらに気がついたのは、「いき」を「苦界」(くがい)と結びつけていること、そこにこそこの時期の九鬼周造の最も哀しい「いき」の存在学が吐露されていたということである。 

≪055≫  端的には、次のような文章に九鬼が最も言っておきたい「いき」の発生がひそんでいる。 

≪056≫  「いき」は『浮かみもやらぬ、流れのうき身』といふ「苦界」にその起源をもつてゐる。 

≪057≫  苦界。そこは遊郭であって、この世に戻るために出遊してきた彼岸の場所である。芸も身もやりとりする曲輪であって、心は売れない岡場所である。 

≪058≫  流れているから、止まり、抜けられないから、何かを抜いてみせる意気の帳場である。冬でも黒塗の下駄を裸足で履いてみせ、野暮を蹴散らし、左褄(ひだりづま)とって、まるで瞬時だけにしか恋が生きない伝法を引き立たせる花街なのである。 

≪059≫  九鬼は、結局、そのようなところでしか「いき」は授受できないのではないかと考えていたふうなのだ。 

≪060≫  しかし、それでは九鬼の哲学者としての行方を、あまりに「小指の反り」のような極点へ向かわせてしまうのではあるまいか。西田幾多郎や和辻哲郎や友人たちが心配しはじめたのも、当然だった。けれども九鬼はすでにミッションを意識していたようだ。敢然と、こう言い放ちたいというところまで、進みすぎていた。 

≪061≫  私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる。 

≪062≫  この言葉はのちの『小唄のレコード』から採ったものだが、まさに九鬼の気持ちはそこまで進みすぎていたようなのだ。 友人知人たちが、それならおまえがいるところは、すでに都であることをもぎ取られた京都なんじゃないか、京都に来たらどうだと思ったのも当然だった。 

≪063≫  ここから先、九鬼周造は一気に異例の人となり、伝説の人となっていく。 

≪064≫  最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。 むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。 

≪065≫  こうして九鬼は「偶然性」の解明にとりくんでいく。「もののはずみ」や「たまたま」の問題にとりくんでいく。「ふと」や「それから」の世界に入っていく。いったいそんな覚束(おぼつか)ないものばかりをあげて、どうしてそこまで真剣に賭けられるのかというほどに。 

≪066≫  それは『「いき」の構造』にはまだ残っていた原因と結果をめぐる「因果の理屈」さえ打擲しようというほどの、そういう「せつなさ」がいっぱいの考察である。ぼくにはそういう覚悟が痛いほど伝わってきた。満州事変は悪化して、日本はどんどん泥沼に突っこんでいった時期である。昭和10年、1935年、そういうときに九鬼周造は『偶然性の問題』という結晶を発表する。 

≪064≫  最初の妻を捨て、二度目に選んだのは祇園の芸妓の中西きくえであった。失った母を近づかせたとはいえないだろうものの、京都帝国大学の教授としては、かなりきわどい選択だ。祇園から人力車で帝大に乗り付けているという噂も、しきりにとんだ。 むろん、そんなことは覚悟のうえのことである。 

≪068≫  それほど九鬼自身が自分が遣った言葉をも、その葩(はな)から揮発させていくような気分になっている。実際にも、そこには重たい言葉もひしめいていて、それを引用しなければその九鬼の推理の説明もつかないのだが、その言葉をすぐに揮発させ、投企しなければ、やはり九鬼の推理を感じさせることはできないという、そういうものなのだ。 

≪069≫  そこでかえって、次のような文章こそが、その偶然の存在学を告示しているようにぼくには思われる。『日本流』にもそこを引いたのだが、また引いてみたい。 

≪070≫  松茸の季節は来たかと思ふと過ぎてしまふ。その崩落性がまたよいのである。(中略)人間は偶然に地球の表面の何処か一点へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何処に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。 

≪071≫  これが、偶然であり、「いき」なのである。 未練はもたない。鼻緒が切れれば、紬(つむぎ)の袖だって破るということなのだ。 

≪072≫  しかし、そんなところへひたすら突進していく哲学などというものが、あっていいのだろうか。それが芝とハイデルベルクとパリと祇園を学んだ末の結論なのか。 そうなのである。よござんすか。 

≪073≫  九鬼周造はそれを断固として選びきったのである。それが哲学というものなのだ。そしてこの人は、その後、『日本的性格』や『風流に関する一考察』のほうへと、どんどんと一人で歩いていってしまったのである。そこは「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」の方角、だからこそ「昔はものを思はざりけり」の、その「ざりけり」の哲学の彼方というものだった。 

≪074≫  それを九鬼の大好きな言葉でいえば、「可能が、可能の、そういうふうになるところ」という彼方だ。そこはもとより寂しくて、恋しいところではあるけれど、だからこそ、どこよりも「いき」で、「粋」(すい)なところなのである。 では、諸君、こんな文章で終えてみる。 

≪075≫  私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになつた。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。 

≪076≫ 【参考資料】
「いき」の構造ーー抜粋 

≪01≫  中世には「能読」とよばれた人物が何人もいた。読書家のことではない。能読とは読経がうまい僧のことである。後鳥羽院の御読経衆の慶忠は「持経者」として名高く、『孔雀経』を読ませるとその妙音はなんとも優美であったと記録にのこる。エキゾチックな密教呪文の多い『孔雀経』にはキリキリキリ(希利)が十回くりかえされる有名な陀羅尼が入っていて、それが神楽歌にもとりいれられている。きっとそういう陀羅尼のところの唱え声で人を酔わせたのであったろう。 

≪02≫  能読とはべつに「能声」という名人もいた。これは念仏名人のことで、迦陵頻伽のような声のことだというのだが、さて迦陵頻伽がどんな声で唏きながら天空を翔ていたのかはわからない。カストラートのようなのか、北島三郎やドミンゴのようなのか。また、「能説」という評価もあった。主として説経師に与えられた褒め言葉だ。これらは虎関師錬の『元亨釈書』ではまとめて「音芸」とよばれていた。 

≪03≫  本書は、この能読・能声・能説をとりあげ、こうした「音芸」にひそむ仏教世界と人々とのかかわりを綴って、出色恰好の一書となっている。こういう本があったらいいのにと思っていたら、こういう本が出た。著者は日本文学と日本語史の研究者のようだが、よくぞここまで踏みこんで、読経という世界を浮上させた。いささか網羅的で脈絡が整っていないきらいはあるけれど、その領域の設定に感心した。日本文化の解読にはボーカリゼーションの変遷を見ることが欠かせない。日本文化にはたえず「声」が響いていたのである。 

≪04≫  日本の歴史的なボーカリゼーションには、大別すると基本的には二つの「声」があった。ひとつは倭人がつかっていた言葉の音である。よく大和言葉といわれる。いまでも祝詞などにそのイントネーションやリズムが残響する。 

≪05≫  もうひとつは中国の漢字を読む声だ。正式文書も経典も漢字だらけだった。それをどう読むか。どんな発音発声をしたか。この漢字の発音に漢音(北方中国語音)と呉音(南方中国語音)、および唐音(新たに流行しつつあった発音)のちがいがあったため、僧侶たちは読誦のボーカリゼーションを「漢音で読むか、呉音で読むか、それとも流行中のモードで読むか」の選択をしょっちゅう迫られた。聖武期から桓武期にわたる一三〇年間はもっぱら漢音が奨励されている。 

≪06≫  なぜこんなことが重要になったかというと、中国では帝王というものは正字正音を継承するもので、その中国の正音を日本もちゃんと模倣すべきだと考えられたからだ。しばしば孔子の正名、荘子の狂言とはいうが、この正名には正字正音をともなっていたのである。とくに桓武天皇はこの正音継承に熱心だった。これをわが国では正字を四書五経などの筆写で、正音を各種経典の読経で学んだ。  

≪07≫  平安時代になると、大学寮の明経道(儒学)と紀伝道(史学)をまなぶ学生には漢音の誦習が義務づけられた。天台・華厳・三論・法相などの宗派が僧侶試験をするときは、経典読誦では一句半偈のボーカリゼーションを音博士がチェックをするという厳しさが要求された。 

≪08≫  また、藤原氏の私学校にあたる勧学院でも試験が行われるようになると、そこでは引音で読むというような指導も始まった。引音は試験官の笏にあわせて伸ばしたり縮めたりして読む工夫である。ちなみに本書にはのべられていないけれど、この笏によって引音を長短させることによって読誦するという習慣こそ、のちの能などで確立する「間拍子」を準備していったのではないかと、ぼくは推理している。 

≪09≫  このような日本のボーカリゼーションを強く牽引したのは、密教、とくに真言密教だった。第五四四夜の『五十音図の話』にも書いたことだ。密教の言語音韻をめぐる研究の歴史こそが、日本のボーカリゼーションのエンジン部分を設計し、和漢にまたがる「読み」のインターフェースを開発してきた〝プロジェクトX〟だったのである。密教は五十音図やいろは歌のみならず、日本のボーカリゼーションの巨きな幹と枝葉の両方をつくったのだ。  

≪010≫  それゆえ真言密教にはいろいろ凝った読経が生まれた。ぼくの体験でいうと、高野山で最初に『理趣経』を読んでいるのを聞いたとき、この音楽性はなんと豊饒なんだろうと驚いたことがある。広沢僧正寛朝が《中曲理趣経》という曲をつくっていて、それが近世になってかなりとりこまれていったことをあとで知った。つまりそのころは密教社会には〝経典作曲家〟ともいうべき才能の持ち主がたくさんいたということなのだ。そのような作曲がいまも続いているかというと、おそらくおこなわれてはいない。ひたすら分派的伝統を継承しているだけである。 

≪011≫  こうしてあれこれの苦労と工夫をへて確立してきた読経世界は、だいたいのところは次のようなシステムに収まった。 

≪012≫  おおざっぱにいうと、読経には経典を見ながら読む「読」と、これを暗誦してしまう「誦」がある。ついで、読経を行法としてマスターするには、経典を最初から最後まで文字に即して読んでいく「真読」、次々に大部の経典を読みこなしていく「転読」、仏の諸相を観相しながら読む「心読」、さらにはそれらの経典の教えを実行する「身読」などを通過することが要求された。  

≪013≫  この読経のレベルにそれぞれ読み方が対応する。律動や抑揚が加わっていく。たとえば「直読」は単調だが力強い。その直読にも二つの読みがあって、しばしば「雨滴曲」といわれるようにほぼ同じリズムで読経するばあいと、なんらかの節をつけていくばあいがある。これはよく「曲節」とよばれてきた。曲節では天台の「眠り節」、三井寺の「怒り節」などが有名だ。 

≪014≫  初心者の読経は「いろは読み」である。修験にはよくあるのだが、経典の最初と中央と最後を七行・五行・三行で略読するのは「七五三読み」などともいった。羽黒修験では「逆さ経」といって、般若心経をさかさまに読む。 

≪015≫  つまりは読経にも真行草があったのである。実際にも真読・行読・草読という言い方をしている宗派もあるし、時宗のように「念声一体」といって、どう読もうとも、ともかく思念と名号が一緒になるように読めばいいとするところもあった。むろん宗派によるちがいも多く、当時は「声ぶり」で宗旨がわかったほどだった。天台では行法を五段階に分け、その第二に「読誦品」をおき、浄土宗では浄土三部経を読むことそのものを「読誦正行」、そのほかを「雑行」と分けた。 

≪016≫  中世社会では、各寺院のそこかしこがボーカル・ミュージカルの会場だったのである。アカペラとはかぎらない。さまざまな楽器や音具もとりこまれ、多くのばあいはパフォーマンスも伴った。  

≪017≫  しかし、この時代は僧侶だけがボーカリゼーションを独占したのではなかった。貴族・庶民・職人・遊女たちもそれぞれに読経をたのしんだ。一条天皇の時代では、解斎の場でも管弦を用い、催馬楽・今様・朗詠をたのしんだだけでなく、「読経争い」「読経比べ」として経典読誦を遊びのように興じた。 

≪018≫  こうして藤原公任のような朗詠名人・読経達人が公達のほうからも続々と輩出されてきたのである。公任と藤原行成と源為憲の三人が法華経を題材に詠みあい、漢詩を作りあい、書を交わしあった。きっと絶妙のものだったとおもわれる。 

≪019≫  こうしたイベントは、そのうちしだいに「型」をつくっていった。『元亨釈書』はそのような音芸イベントがプログラム化されていて、「経師」による読経、「唄」による声明、「唱導」による説経、そして最後は「念仏」で締めくくられていたと報告している。「行」と「伎」はひとつだったのだ。本書はこの「経師」の名人系譜を何人にもわたって紹介する。 

≪020≫  一方、本書にはふれられていないのだが、披講とか講式というボーカリゼーションの領域もあった。漢語調を歌うのを朗詠といったのに対し、和語による歌を披講といった。朗詠は多く楽器を伴ったが、披講はアカペラでよかった。藤原長家が後冷泉天皇から「歌仙正統」の称号をうけるのだが、この長家によって披講がおこり、その家系がのちに和歌の道を仕切ることになった御子左家に成長した。 

≪021≫  読経の能読能声はこのままでは終わらない。浄土信仰が広まるにつれ法文歌が派生して、これが和讚となったし、これらの披講、和讚、法文歌を背景に、遊女たちが「今様」を流行させた。今様は能読能声のポップス化であり、すべての仏教歌謡のフュージョンだったのである。 

≪01≫  小説である。韓国の現代作家が書いた。『華厳経』が膨らんでいる。『華厳経』といっても善財童子が総勢53人の善知識をたずねて修行の旅をする「入法界品」だけを扱っている。それでも長い。そもそも「入法界品」自体が『華厳経』の4分の1以上を占めているからだ。 

≪02≫  それにしても珍しい。なぜこんな長編仏教小説が韓国に生まれたのか、最初にそのことを説明しておく。 

≪03≫  著者自身の述懐によると、高銀は26歳のころは生意気な禅学院の学生(がくしょう)で、そのせいか、転虚こと李学泳和尚から「華厳経を読め」と言われたらしい。 

≪04≫  理由がもうひとつあった。すでに韓国では近代文学運動の推進者の一人の李光洙が『華厳経』の現代語訳を試みようとして、実現できなかった。そこで李光洙の又従兄弟の李学泳が、この無念を高銀の才能によって晴らそうという気になったというのだ。 

≪05≫  これだけでは、事情はいまひとつわかりにくい。まず李光洙という人物のことを知る必要がある。そこからは意外な日韓近代史とアジア仏教における華厳観の問題が見えてくる。その関連で、高銀という現代韓国でもあまりに異色な作家の経歴にもふれておく。訳者の三枝さんの解説などを参考に、まとめてみる。 

≪06≫  そのうえで華厳経について、ふれたい。 

≪07≫  李光洙は『無情』などで有名な韓国近代文学の立役者の一人で、かつ独立運動にも上海臨時政府にもかかわった活動家だった。 

≪08≫  ところが日本が朝鮮を植民地化していた時期の後半に日本の戦争に協力したとみられ、1945年以降は親日派民族反逆者として断罪されることになった。しかし李光洙はこの断罪と白眼視に耐えて、周囲から“法華の行者”といわれるほどに仏教研究に入りこみ、さらには『無明』『愛』『元暁大師』(古代新羅の華厳僧を描く)などの仏教小説を手がけた。そこには法華経と華厳経からの引用が多くある。 

≪09≫  李光洙が華厳経の翻訳にも着手しようとしていたのは、このころのことらしい。が、翻訳は実現しなかった。また李光洙の仏教作品には華厳経からの引用は六十華厳の「盧舎那仏品」から「十地品」までに限られていて、「入法界品」についてはまったく触れてはいない。 

≪010≫  そのかわり李光洙は、自分の身を犠牲にしても他者の救済に尽くそうとする菩薩行に徹底した関心をもち、またそのことを実践しようとしていたようなのである。 

≪011≫  こうして『華厳経』入法界品の韓国文芸化はまわりまわって李光洙から高銀の手に落ちた。けれども、その高銀が華厳に手を染めた背景が、またまた興味深い。 

≪012≫  師の李学泳から翻訳を勧められた高銀は、いっこうに華厳経に関心がもてないでいた。そのころの高銀は般若経典の思想のほうに、すなわち「空の思想」のほうに惹かれていた。 

≪013≫  そのうち高銀に彷徨の時代がやってくると、善財童子の純潔な求道が自分の境遇と遠いものではないと思いはじめ、やっとその一部に着手した。翻訳ではない。自分なりの華厳世界観を交えた小説として、書くことにした。入法界品の冒頭部分を『幼い旅人』としてまとめたのだ。 

≪014≫  それから22年をかけ、高銀は『華厳経』を完成させる。なぜそれほどの時間をかけたのか、かかったのか。 

≪015≫  高銀といえば1980年の光州事件で有名である。逮捕された。  

≪016≫  けれども高銀はそれ以前から、東亜日報広告禁止事件や維新憲法「民主救国憲章」の発表や逮捕や、そして脱獄で、もっと有名だった。拷問をうけて聴覚を失ったため、不屈の意志と手術で聴力を回復させたというニュースも伝わってきている。 

≪017≫ 高銀がこのような過激な活動をするようになったのは、1974年に自由実践文人協会を創立して初代幹事になってからのことである。しかしそれ以前から高銀の活動には異様なものがある。 

≪018≫  高銀は1933年生まれで、少年期に書堂で漢文を学び古小説を堪能した。やがて日本の韓国支配がおわると、学校で日本に協力した校長を排斥する運動を始めるような生徒になっていた。それがたたって師範学校入学を拒否され、郡山中学に行くのだが、あるとき癩病詩人の詩集『韓何雲詩抄』を読んで衝撃をうけ、詩人になる決意をする。 

≪019≫  ところが1950年の朝鮮戦争で民間人による大量報復虐殺を目撃して精神異常をきたし、自殺衝動と闘いながら翌年に出家。それ以降は各地で座禅修行をするようになった(この時期のことは、のちになって『一九五〇年代』という貴重な現代史の証言としてまとめられた)。 

≪020≫  その後、ソウルに入って総務院で仏教新聞の編集執筆をし、しだいに現代仏教の代表ともくされるようになって、幹部として禅学院に迎えられている。一方、1958年に詩集『肺結核』を刊行、さらに『彼岸感性』を発表するようになると、折からの政治的仏教混乱の現状を見て、今度は仏教に疑念を抱くようになって、1962年には還俗してしまう。 

≪021≫  しかし仏教界を離れてみると、自身の内なる「存在の不安」に抗しきれず、さかんに自殺にあこがれる。その衝動をなんとか乗り越えていくうちに、政治事件に絡んで拘束された文人の釈放活動に携わるようになるのだが、そこからは、さきに紹介した自由実践文人協会を立ち上げるまで、さかんに社会活動に邁進する。 

≪022≫  ここまで社会活動に高銀を駆り立てたのは、1970年の全泰壱の焼身自殺であった。 

≪023≫  このような高銀が、「民主救国憲章」の発表や逮捕や、そして脱獄をくりかえすなか手掛けたのが『華厳経』なのである。ぼくは華厳を選んだことに感心してしまった。 

≪029≫  こうして華厳経は最後に「入法界品」をおくのだが、ここはさきほどのべた十住・十行・十回向・十地のステップを、迷える善財童子が旅を通して実践するというバニヤンの『天路歴程』ふうのスクリプトを採っていて、飽きさせない。  

≪030≫  わかりやすくいえば「認識と階梯のキャラクタリゼーション」なのである。それを善財童子とその出会いの相手とに分けた。そのため旅程の物語という結構を採った。 

≪031≫  つまりは「巡礼」という画期的な構造を提示してみせたのだ。イエスが生まれる前の編集である。これが仏典というもののもつ驚くべき編集構造の発見なのである(このことについては別のところでまたふれたい)。 

≪032≫  ところで、実際に善財童子が訪れるのは55ケ所にわたっていて、最初の文殊が54ケ所目に再度登場し、遍友童子は説法していないので、善友の数は53人になる。うち20人が女性、菩薩以外にも長者・賢者・婆羅門・外道・夜神など、まことに多様な存在者が交じる。観音菩薩は28番目に、弥勒菩薩は53番目に登場する。ようするに世のすべての象徴的な人材との出会いを善財童子は次々に実現して普賢菩薩に至るのだ。 

≪033≫  ちなみに徳川幕府による東海道五十三次の設定はこの数字を借りている。また世に伝わる華厳絵巻では、東大寺にのこる絵巻のように『華厳五十五所絵巻』というふうになっている。 

≪034≫  ところが、高銀はこの55ケ所53人のもともとの結構に、いささかダンテ『神曲』ふうの不思議な時空構造と、語り部(ナレーター)と、フィクショナルな人物を相当に加えたのだった。 

≪035≫  前世の痕跡が地下世界という姿で継続していたり、地上の道が弥勒菩薩の高楼に通じていたりするという時空の捩れを加えたのもおもしろいが、小説としては妖しくも高潔な人物をどっとふやしたのが、より華厳の現代化という試みを強固なものにした。文図の娘の尼蓮、若い漁師、隊商の妻、少女の世以也、阿弥華、歌姫の羅利陀、スメラ(サネタ)、サナンダ(提婆達多の息子)、マニ夫人、チホル、ステ、アーラヤ識の娘、老いた船頭たちなどだ。とりわけ尼蓮は物語冒頭で善財に絡んでなかなか重要な役割を演じる。 

≪036≫  これらによって善財は仏教的なウィルヘルム・マイスターであるだけではなく、どこか精神的なカサノヴァとしての影をおび、さらに高銀の『華厳経』の全容を輪廻の趣向の強いものにすることに成功した。 

≪037≫  語り部をサナンダにしているのも、物語技法上の常套手段ではあるが、相手が経典ではあってもこのようなアイディアの導入に踏みきったのは、さすが高銀の魂胆である。 

≪038≫  日本には、これほどまでに仏教小説にこだわる作家はいない。またこれほどまでに華厳観に関心をもつ作家もいないし、仏教界で華厳と現代が議論されているともまったく思えない。それを一人の韓国人の作家がなしとげたことに嫉妬をおぼえるほどの勇気を感じるのだが、では、いったい華厳の現代化とは何を意味しているというべきなのか。そのことについて、ちょっとだけふれておきたい。 

≪039≫  華厳世界観が顕教の最高の位置を示す経典であって、かつ密教の最高の入口になっていることについては、省略する。ぼくの『空海の夢』(春秋社)を読まれたい。あの本の後半はこの問題の解明に尽くしている。  

≪040≫  その華厳世界観には恐るべき方法論がある。「一即多」と「相移即入」である。一つの事象をすべてにつなげ、それらの関係をことごとく相互共鳴させるように世界を眺めたいという方法だ。このホロニックで、かつ超平等な方法によって『華厳経』を読むと、世界が次のように見えるようになっている。 

≪041≫  まず「事法界」がある。現象の世界というもので、現に存在しているあらゆる事物や事実がそこに見えている。一個一個と自己をつなげることはできるが、これらは一見バラバラである。この段階は小乗仏教思想の全般と大乗仏教思想の相始教があてはまる。 

≪042≫  ついでよく目を凝らしてみると、「理法界」が見えてくる。理法界は理性が見る世界ともいうべきもので、いったん空じて世界を見ていることにあたる。すなわち仏教的には中観あるいは空観にあたる。もっとも、空というのは何かを意識や解釈が空じようとするということであるから、ここには関係の現象学が全面化したとみるべきなのである。かつてシチェルバトスコイは「空」を英訳するにあたって“relativity”を選んだものだったが、まさにそうなのである。すべてはここで関係化はされうる。 

≪043≫  しかし、この両者の認識論的で現象学的なインターフェースだけでは世界の本質はまだ見えない。二つの見方の根底を大きくつなげる必要がある。 

≪044≫  これが「理事無礙法界」という世界の見え方で、ここに華厳経の最も重要な「無礙」(むげ)があらわれる。無礙とは疵(礙)のない鏡面のようなメタファーであって、その無礙によって世界の事と理を見ようというもので、鏡面だからそこには向こう側の事も頭の中の理も映る。いや、映りあう。これがいよいよ「一即多」と「相移即入」の方法の面目躍如するところで、世界は劇的にかつダイナミックに理事が溶けあってくる。 

≪045≫  この見え方は、仏教史的には如来蔵の「随縁」という見方を敷延して先鋭化したところなのであるのだが、ここでとくに重視するべきことがある。それは、仏教ではしきりに真如ということを言うのだが、その真如が次々にいろいろなものを随縁して「方法」そのものになるという抜群の思索が華厳では展開されているところであった。ぼくはかつて、この、わかりやすくいうなら「理解はやがて方法になっていく」という“発見”に、どれほど衝撃的な示唆をうけたことだったか。 

≪051≫  しかし現代にあって、この「一即多」と「相移即入」の方法をもってしだいに現象界からノミナリズムをへて、言語と事物を融通無礙にさせていく思想がまったく浮上してこないのだ。  

≪052≫  多くがせいぜいフッサールやレヴィナスに、カオス思想や複雑性にとどまったままにある。まして精神や意識の科学はまったく頓挫したままに、一人の錯乱を治療しえないでいる。それだけではない。現代の仏教がカオスや複雑性の思想の消化にさえ向かえないでいるというべきなのだ。 

≪053≫  こういう今日、高銀が『華厳経』に着手して、そこに華厳世界観の奥への突破口を開いたことを称えたい。けれども、それはまだ称えるということであって、称なうということには、至らない。 

かねてよりぼくは、日本文化を支えてきた方法には必ずや「あわせ・かさね・きそい・そろい」が揃い踏みしていると断言してきた。

本書はその「かさね」に代表焦点をあて、そこから「くずし・やつし・ずらし・ちらし」を、「もじり・もどき・まぎれ」を、「あそぶ・すさぶ」を、

「まねる・うつす」を、「うがち・かけあい」を、そして「寄せ・譬え・見立て」を解きほぐした。

その文芸遊芸な手法、あっぱれだ。

少々ふくらませて、諸君にも提供しておこうと思う。 

≪01≫  いささか業を煮やして、今夜を千夜千冊する。 「かさね」のこと、「あわせ・かさね・きそい・そろい」の一連のことについては、ずいぶん以前から「日本という方法」で最も重要な方法だと強調してきたのに、いっこうに理解が深まっていないのに呆れているからだ。 

≪02≫  まあ、ぼくの喧伝力が貧しいということになるだろうが、どうもそれだけでもないとも感じている。いつのころからか、きっと高度成長に酔っているうちのことだろうが、「かさね・あわせ」における「元」と「子」の関係がわからなくなってしまっているのだ。これではまさに元も子もなくなる。 

≪03≫  現状日本のビョーキは、「元」を取り違え、わかりやすい「子」ばかり量産していることにあるのだから、これではかなりヤバイのだ。 

≪04≫  能『葵上』はワキツレが登場して、葵の上に取り憑いたもののけの療治のために貴僧高僧がいろいろ大法秘法を尽くしたがまったく効なく、そこで照日の巫女を呼んで「もののけの正体」をつかもうとしている、という場面から始まる。 

≪05≫  こんな話をすると、あれっ難しそうだなと思うかもしれないが、まあ、これは宮崎駿のアニメ・プロットのひとつに近いと思ってもらえばいい。 

≪06≫  巫女の祈祷によって六条御息所の生霊(いきりょう)がシテとしてあらわれると、この生霊は光源氏の愛を奪った葵の上に対する恨みを述べ、責め立てる。よく知られた「後妻(うわなり)打ち」だ。ここで横川の小聖が呼ばれて加持祈祷するのだが、生霊は鬼となってふたたびあらわれ、一進一退の攻防になる。それでも行者が念珠を突き付け、押し揉むので、ついにシテは力尽きて舞い収める。 

≪07≫  この『葵上』が狂言『くさびら』では、庭の茸をいくら取ってもはえてくるので山伏に祈祷してもらう場面になる。そこでは横川の小聖そっくりのセリフを言い、似た所作をする。話も登場人物もまったくちがうのだが、これは狂言が能をもじったのだ。 

≪08≫  これが日本の「かさね」というものなのである。 

≪09≫  別の例でいえば、能『定家』をもじって同じセリフを重ねると、狂言『祐善』になる。また能『長柄』をもじってセリフを借りると、狂言『蛸』になる。あるいは名曲『頼政』は狂言『通円』に変わる。両者は互いに「かさね」の部分を共有する。 

≪010≫  能狂言にはこのような関係がいくつも成り立っている。能が正統だとしたら、狂言はその「もじり」であり、その「くずし」なのである。そこに「かさね」という方法が貫かれている。 

≪011≫  このような「かさね」の手法は伝統的芸能に溌剌していただけではない。記紀神話の記述にも、万葉歌謡にも、美術や工芸の意匠の工夫にも躍如した。 

≪012≫  とくによく知られているのは、「かさね」は早くから王朝文化の「襲」(かさね)の色目として愛用されてきたことだ。色の自他を突き合わせて重ねながらずらしていくことが、独特の日本的色彩をあらわした。十二単(じゅうにひとえ)はその格別なレパートリーだった。  

≪013≫ 「かさね」は単純ではない。「重ね」であって「襲ね」であり、「ずらし」であって「ちら見せ」なのだ。それは固定的でなく、動的だ。かつ手がこんでいた。色目の「襲」でいえば、平安末期には強装束が出てきて、重ねても下の色が透けなくなってきたのだが、そこで表地の周縁に裏地をのぞかせる「おめり」という手法が工夫された。二色ずらし、三色ずらしの「おめり」が装束になったのだ。 

≪014≫  本書は、こうした「かさね」が主として日本の文芸にどのように多用されてきたかということを、目次順でいえば(1)くずす・やつす、(2)もじる・もどく、(3)あそぶ・たわける、(4)まねる・うつす、(5)うがつ・からかう、(6)譬える・見立てる、の6講で繙(ひもと)いてみせた。最終講の「かさね」論にいたるまで、執拗に案配解説している。 

≪015≫  ぼくはかねてから、藤原成一という御仁には一目も二目も置いてきた。置碁なら五子ほど置かせてほしい。 

≪016≫  こういう“日本通”の御仁は、残念なことに唐木順三(85夜)・寺田透・広末保・松田修などを除いて、大学でふんぞりかえっているアカデミックな学者にはなかなかいない。 

≪017≫  多くの学者たちは個別の専門知識はあっても、当の「芸」や「味」がとんとわからない。鉄斎、会津八一、住太夫、下保昭、吉右衛門、ちあきなおみ、椎名林檎をちゃんと説明できない。ましてそれらにひそむ「方法」が採掘できない。ついつい史実で塗り込め、美術史で武装し、フランス仕込みの薄っぺらな表象論などを持ち出す。それでもわからないと武智鉄二(761夜)や白洲正子(893夜)にその技を頼ることになる。 

≪018≫  ところが、この藤原の御仁はすでに『仏教ごっこ日本』(法蔵館)では、日本にはインドや中国の仏教が本物仏教というならそんなものはなく、ただひたすら日本的仏教を編集しただけだと見抜いた仏教史を綴り、『風流の思想』(法蔵館)では、日本人の生き方なんて風流と遊ぶこと以外にいったい何があるんですかと、大いに嘯(うそぶ)いてくれた。 

≪019≫  長らく日大の芸術学部で教壇に立っておられたはずだが、いつのまにか湘南某所の「白虚庵」の庵主となっていた。ぼくより7歳ほどの年長だ。 

≪020≫  あらかじめ言っておくが、本書はぼくのこの案内だけで読んだつもりになってほしくない。ぜひとも手にとってその文芸的な戯れの文体に酔いながら、この「かさね、あそび、やつし、見立て」の醍醐味を実感してもらいたい。事例の多くは文芸的かつ遊芸的な引用だから、ちゃんと通読していけば、それなりのことが見えてくるはずだ。 

≪021≫  しかしとはいえ、おそらく能も文楽も、連歌にも狂歌にも、浦上玉堂にも山東京伝にも愛着のない諸君には、本書を「文芸」のうえで読んだだけでは、日本文化の奥に疼きまくっている「日本という方法」や「かさね」の真髄はわからないかもしれない。まして本書は芸能の「技」ではなくて「ことば」にこだわっているので(そこが不満でもある)、視覚性や触知性がつかみにくいかもしれない。 

≪022≫  そこで以下は、本書にもとづきつつも、ぼくなりに「かさね」語群のグルーピングを調整し、その意図や趣向を少々現代にも引きつけて「日本という方法」にふくらませた要約編集をしておいた。いささかJ文化っぽくしておいた。それを承知のうえで日本文化マニュアルの一端として参考にしてほしい。 

≪020≫  あらかじめ言っておくが、本書はぼくのこの案内だけで読んだつもりになってほしくない。ぜひとも手にとってその文芸的な戯れの文体に酔いながら、この「かさね、あそび、やつし、見立て」の醍醐味を実感してもらいたい。事例の多くは文芸的かつ遊芸的な引用だから、ちゃんと通読していけば、それなりのことが見えてくるはずだ。 

≪021≫  しかしとはいえ、おそらく能も文楽も、連歌にも狂歌にも、浦上玉堂にも山東京伝にも愛着のない諸君には、本書を「文芸」のうえで読んだだけでは、日本文化の奥に疼きまくっている「日本という方法」や「かさね」の真髄はわからないかもしれない。まして本書は芸能の「技」ではなくて「ことば」にこだわっているので(そこが不満でもある)、視覚性や触知性がつかみにくいかもしれない。 

≪022≫  そこで以下は、本書にもとづきつつも、ぼくなりに「かさね」語群のグルーピングを調整し、その意図や趣向を少々現代にも引きつけて「日本という方法」にふくらませた要約編集をしておいた。いささかJ文化っぽくしておいた。それを承知のうえで日本文化マニュアルの一端として参考にしてほしい。 

≪023≫ (1)やつし・くずし・ずらし・ちらし・わかち 

≪024≫  まず「やつし」がわからなければ、ワビ・サビも歌舞伎も新内も、日本文化のヒミツはことごとく解けないだろうから、そこから入ることにする。 

≪025≫  能『鉢の木』で北条時頼は「旅の僧」として登場する。水戸光圀は正体を隠して「黄門さま」として行脚する。『仮名手本忠臣蔵』の七段目では大星由良之助が本音を隠してくつろいでいる。これらが「やつし」なのである。 

≪026≫  『伊勢物語』の在原業平は「京」という都ぶりのセンターから東国というマージナルなところへ下る。この「東(あずま)下り」がやはり「やつし」なのだ。業平は「みやび」という正統から外れていったのだが、それがわかっていてあえて外れた「ひなび」な東国の方に向かって「やつし」をおこしてみせた。いや、あえてそういうふうに業平を扱って『伊勢』が綴られた。 

≪027≫ 「やつし」には「やつれる」という意味が含まれている。けれども何かに疲れてやつれるのではない。あえて正体を隠しているのが「やつし」なのだ。 

≪028≫  ということは、諸君がよく知っている例でいえば、歌舞伎十八番の助六が曽我五郎の世を忍ぶ仮の姿になっているのが「やつし」なのである。 

≪029≫  お祭りに登場して見物客を笑わせる「ヒョットコ・おかめ」の踊りはたいていペアになっている。ヒョットコは「火男」(ひおとこ)が訛って「ひおっとこ」になった。このルーツはとことん行きつけばイザナギ・イザナミの男女二神にまでさかのぼるのだが、そこでヒョットコ・おかめは実は男神・女神の「やつし」のヴァージョンだったということになる。 

≪030≫  「やつし」を一般化すれば「変身・変装・仮装・擬装・異装」などというふうになろう。流行のコスプレや子供たちの「へんしーん!」でもあろう。ただし、「やつし」はたんに変装しているのではないことを、知るべきだ。目立ちたいわけでもない。「かわいい」だけではない。 

≪031≫  正体をあからさまにできないような場面で、あえて世間の目をはずしてみせるのが「やつし」なのだ。身分の高い者、つまり「やんごとなきもの」がそうなる場合は、それゆえ、たいていはあえてカジュアルになったり、みすぼらしくなったりする。 

≪032≫  わかりやすい例が案山子だ。案山子はたいてい蓑笠をつけているけれど、あれは神々の「やつし」なのである。スサノオが高天が原を追放されて葦原中つ国に降りてくるときも蓑笠をつけていた。助六も同様にかつては菰僧(こもそう)姿だった。その後の演出で江戸紫の鉢巻に天蓋をかぶって、さらに蛇の目傘をもって「やつしの華麗」を演じるようになった。 

≪033≫  ビートたけしは「やんごとなきかた」ではないけれど、身をもってどこで「やつし」をするかがわかっている。あれは、いい。それは「てれ」でもあったろうけれど、「てれ」は「照り」なのだから、そこは曇ってみせるのが上等なのだ。ただし、かつてはそれで「笑い」のウケをとりたいという助平根性が目立っていた。ついでに言うと、立川談志(837夜)やジュリー(沢田研二)にも「やつし」があった。最近の落語家やジャニーズ系にはそれがない。  

≪034≫  ついでながらテレビタレントの大半は目立てばそれですむという輩が多く、「やつし」とは無縁な連中だ。鶴瓶や太田光にはちょっと可能性があるかと期待していたが、モトになる本格の芸がない。  

≪035≫  というわけで、つまり「やつし」は「くずし」や「てれ」や「くもる」を含むわけである。 では「くずし」とは何か。「くずし」は「崩す」の名詞形で、崩壊や毀損や崩落のイメージがある。ふつうの語義なら「こなごなにする、ばらばらにする」というニュアンスになるだろうが、そこをちょっと深く考えたい。 

≪036≫  そうなのだ。コンビニで1万円紙幣を「くずしてください」と言い、美容院で髪形を「もう少しくずしてほしい」などと言うように、「くずす」には実は「扱いやすくする」とか「あえて整えない」とか「大きいサイズのままではいかない」という用法がある。ここが注目だ。 

≪037≫  日本文化では、フォーマルあるいは定型というものからちょっと外れることが「くずし」であり「やつし」なのである。そこには「整えきっているのは、やりきれない」という感覚がある。談志やビートたけしには、それがあった。 

≪038≫  もっとも、フォーマルや定型を身につけない「やつし」「くずし」は、たんなる反抗か身持ちくずしか、あるいはウケ狙いか恥知らずにすぎない。「型」がなければ、「くずしの美」も「やつしの美」もおこらない。型があるから「型破り」が芸になる。 

≪039≫  最も代表的な「くずし」は、中国からやってきた漢字を万葉仮名にし、さらには仮名にくずしていったことだ。  

≪040≫  チャイニーズ・フォーマルな漢字が真名(まな)で、くずしたほうがジャパニーズ・カジュアルな仮名になった。仮名には「仮の」というニュアンスがある。つまりカジュアルというニュアンスがこもっている。漢字が「真」(フォーマル)の文字で真名ならば、くずしの文字は「仮」(カジュアル)の仮名なのだ。 

≪041≫  万葉仮名から平仮名へ。「波」をくずして「は」となって、「安」をくずして「あ」にしてみせた。そこで、この仮名まじりの歌を筆で料紙にさらさらと書くときは「分かち書き」になり、これを屏風や扇面に書くときは「散らし書き」になった。こうして、「くずし」から「ちらし」と「わかち」の美学が派生した。ここには、あとでも説明するが、中国離れということもおこっていた。  

≪042≫  いずれにしても、整えられたフォーマルをカジュアルにする。そのために、日本文化は「くずす、散らす、分かつ」をおもしろがり、さらには「やつし」の手法として磨き上げたのである。 

≪043≫  このこと、もうちょっとわかりやすくするには身近な例を見ればいいだろう。たとえば「ちらし寿司」だ。 

≪044≫  あのお椀や丼に盛られた「ちらし寿司」は「にぎり」の寿司がフォーマルだとすると、これをネタだけはがして酢ごはんの上に散らしている。それが「ちらし」だ。新聞にはさまっている折り込み「チラシ」だって、そうなっている。ポスターやパンフレットがフォーマルだとすれば、その中身とフォームをくずして、散らしたものがビラだったのだ。これを落ち葉に見立てて、あられや干菓子の切片を散らして飾ったものを、風流にも「吹き寄せ」などとも言った。 

≪045≫  同様なことが茶の湯にもあてはまる。 中国からやってきた茶は「真」という唐物(からもの)のものだったのだが、侘茶はこれを「草」(そう)に「やつし」て「くずし」ていった。侘茶を「草の茶」と、そのための茶室を「草庵」というのはこのためだ。ここに真行草の日本的ヴァージョンがある。 

≪046≫  これを総じて「ずらし」の手法というふうにも言う。聞けばリクルートという会社の創業以来の商法には「ずらし」があるという。そうであるなら、この日本的手法は「かさねのJビジネス」なのだから、自信をもって海外にも喧伝してほしい。 

≪047≫ (2)もどき・もじり・まがい・まぎれ・にせもの 

≪048≫  日本の芸能や遊芸が「やつし」を構想してきたのは、その奥に「もどき」という方法があったからだった。冒頭で能の『頼政』は狂言の『通円』に変わると書いたけれど、あれは「やつし」であって「もどき」だったのだ。 「もどき」は「擬き」と綴る。擬態や擬似の「擬」だ。動詞では「もどく・擬く」というふうに言う。つまり「擬する」ということだ。いったい「擬する」とはどういう意味なのか。 

≪049≫  平易には、何かをモトにしてそれを擬くことをいう。それに似せることをいう。何かを真似ることをいう。ただし、何でもイミテートすればいいわけではない。桜や紅葉をプラスチックの造花にして商店街を飾ることや、木の根っこに似せた擬木を公園のあちこちに置くのは、「もどき」ではない。たんなる「ものまね」パレードが「もどき」なのではない。ストレートな模造ではなく、本来の何かを継承したいための模倣が「もどき」なのだ。 

≪050≫  おでんのタネの「がんも」は、ガンモドキという。高級な雁(がん)の肉の味に似せて作ったからだ。イミテートするのだが、そのイミテートがとても重要なことを伝えていること、それが本来の「もどき」なのである。外見だけ似せているわけではないのだ。 

≪051≫  世阿弥(118夜)が芸能の本質を「物学」(ものまね)にあるとみなしたのは、そこに大事や大切の「もどき」を投影したかったからだった。だからこそ世阿弥の芸能は神や翁のもどき芸となって今日に伝わった。 

≪052≫  折口信夫(143夜)がマレビトの芸能としてとりあげた冬の祭りに、「新野(にいの)の雪まつり」があった。長野伊那郡の祭りだ。「さいほう」の次に「もどき」と呼ばれる仮面の舞い手が登場する。 

≪053≫  よく見ると「もどき」は「さいほう」とよく似ているが、すべてがさかさまになっている。目尻の下がった穏やかな表情の「さいほう」に対して、「もどき」は目と眉が吊り上がっていて、怖い面をつけている。両手の採物(とりもの)も左右逆に持っている。足の撥ね上げ方などの動作も逆なのだ。 

≪054≫  子供や村人たちは、これを見て笑う。このように「もどき」は滑稽な真似をして「さいほう」を揶揄しているのであるが、その揶揄によって「さいほう」の慄然とした姿と立場が伝わってくるわけなのである。 

≪055≫  このような芸能の在り方が、いつしか「翁」(おきな)と「三番叟」(さんばそう)の関係として儀式化されたのだ。折口は、このような「もどき」の芸能には、「代わって再説する」という役割があると見た。 というわけで、「ヒョットコ・おかめ」の踊りが神々のもどき芸だったのである。神楽や説経節の大半も「もどきの芸能」なのである。 

≪056≫  もう少し広げていうと、「もどき」は「もじり」であり、また誤解をおそれずにいえば「まがいもの」や「にせもの」づくりでもある。このこと、誤解なく理解したい。 中世、連歌が大いに発達した。これは一人で詠む和歌が王朝期の「歌合せ」に発展し、さらに何人かで一座建立して「詠み連ねる」ようになったものだ。連歌がどういうものかは739夜に案内した『連歌の世界』などを参照してほしい。「初折」「名残」「去嫌」(さりぎらい)など、たいへん精緻なルールでつくりあげた「座の文芸」だった。 

≪057≫  やがて連歌は二条良基や宗祇らによって『新撰菟玖波集』というすばらしい精華に結実した。また堂上連歌(貴族の連歌)に対する地下(じげ)連歌というものもあらわれて、民衆による花下連歌(はなのもとれんが)としても各地に派生していった。アンダーグラウンドなポップソングが広がったのだ。ところが、近世になるとこれをさらに「やつし」にしたい、「もどき」にしたいという連中が出てきた。 

≪058≫  ここに登場したのが寺山修司(413夜)や唐十郎めいた山崎宗鑑という男で、『新撰犬菟玖波集』をぶちあげた。『菟玖波集』の「もじり」だった。「みやび」がくずされ、もじられ、擬かれたのだ。 宗鑑は浪人者で、当時のあぶれ者たち、犬侍、かぶき者、六法者たちに同情と関心があった。かれらは朱鞘の大太刀を腰に帯刀したり、昔のバサラ者に似て大袈裟な扇をもって衣裳を着飾る“too much”な連中でもあった。つまりはJコスプレをしたがる連中なのだ。 

≪059≫  「犬」とは差別用語のようでいて、そうではない。本当はサムライになりたいのに、そうはなれないでいる連中の身上と心情を卑下した(やつした)言葉だったのだ。スパイを揶揄する「犬」ではない。若松孝二の映画を想われたいhttps://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1526_img56.jpg。 

≪060≫  ともかくもこうして『犬菟玖波集』が世にあらわれた。いったんそうなると、これは流行にも風俗にもなる。「犬」ががんばるのだ。ただちに『枕草子』をもじった『犬枕』、『百人一首』もどきの『犬百人一首』、『徒然草』を揶揄してみせた『犬つれづれ』などが次々に出ていった。「犬もの」の流行だ。 俳諧でも同様のことがおこる。もともとは紹巴や幽斎に正統な「型」を習った連歌師だった松永貞徳は、やがて『新増犬菟玖波集』『犬子集』を編集してみせ、しだいに貞門という一派を広げて、その門下に北村季吟らを輩出させた。 この風潮はさらに飛び火する。伊勢物語に対する『仁勢物語』、古今和歌集に対するに石田未得の『吾吟我集』(ごぎんわがしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)の『古今馬鹿集』などというふうに。 

≪061≫  これらの方法の基本には、まず「あわせ」があり、ついで何重かの「かさね」がおこり、そこから「やつし」「もじり」「ずらし」があった。これがさらには「まがい」というふうになったわけである。その総体に「もどき」の芸能が息づていた。 このことから「かさね」には「まぎれる」(紛れる)という手法が混在していることも見えてくる。これはむろん「まぎらわしさ」の自覚的混入で、したがってそこからは「まがい」「にせもの」が派生する。 けれども、そのような方法による「にせもの」づくりは、社会や世間に対するクリティックであり、体制批判ともなった。西鶴の浮世草子が一世風靡していったのは、こうした虚実皮膜が超接近した時代背景によっていた。アンドレ・ジッド(865夜)の『贋金づくり』、島田雅彦(1376夜)の『悪貨』など読まれたい。 

≪062≫  ちなみに最近のサブカルタームでは、「もどき」のことを巧妙にも「インスパイヤ」と言っている。ウェブサイト「インスパイヤ」によると、どうやら次のように使われるらしい。 

≪063≫ (3)あそぶ・すさぶ・まねる・うつす・うつろう 

≪064≫  これでだいたいの“筋”が見えてきただろうが、日本文化のなかでなぜこのような手法や作法や方法が重視されてきたのかということは、これだけではわかるまい。本書にも、そのあたりの説明がない。 ぼくが思うには、ここにはそもそも「あそび」と「すさび」ということの二重性や多重性があったのである。 

≪065≫  アソビはいまでは「遊び」と綴るけれど、古来、「遊び」はスサビとも読んできた。スサビは「荒び」でもある。ところが、もともと「あそび」と「すさび」とは言葉の上でも意味の上でも同根なのだ。そのことは「手遊び」と綴って「手すさび」と、「口遊び」と綴って「口ずさみ」と音便で読むことでもわかるだろう。 このようなアソビやスサビは、何かが過ぎることを暗示する。風が吹き過ぎることが「吹きすさぶ」であり、庭が荒れほうだいになることが「庭が荒(すさ)んでいる」なのだ。中世ではこれを「過差」とも「かぶく」(傾く)とも言った。 

≪066≫  ここにはアマテラスとスサノオの姉弟において、アマテラスの「和するもの」に対してスサノオの「荒ぶもの」という対比が成り立っていたことまでさかのぼるものがあるのだが(スサノオのスサも「すさび」のスサなのだが)、そしてまたここには「和霊」(にぎみたま)に対する荒霊(あらみたま)の対比がひそんでいるのだが、いまはそれは措く。とりあえずは歌舞伎に「和事」(わごと)に対する「荒事」(あらごと)があることを思ってもらえばいい。 

≪067≫  さて、このアソビ・スサビの感覚を、誰かが「何かを好んでいる」という状態や傾向にあてはめると、つまりは「好み」にあてはめると、何かに執着しているとか、何かに惚れこむとか、何かに徹して遊ぶという意味になる。 これは一言でいうなら「数寄」ということである。つまりアソビ・スサビは、何かに執着してそこを遊びきること、それをはたから見ると“J too much”な「荒び」にさえ見えるということをあらわしている。そもそも数寄とはそういうことなのである。「好み」に徹するということだ。 

≪068≫  数寄は、すでにのべてきた「やつし」「ずらし」「もどき」を綜合する感覚だった。ときには「おまえ、やりすぎだよ」になるほどの感覚だ。しかし手法としては「かさね」の徹底ということだったのである。 

≪069≫  ところで、日本文化がこのようなアソビ・スサビを伴うような数寄に徹するようになるには、つまりは「好み」を文化にするには、そこには「まねる」「うつす」ということができなければならない。 

≪070≫  そもそも「うつす」は「移す」であって、また「写す」「映す」「遷す」なのである。移りながら何かを反映しつづけること、何かにトランジットしながらミラーリングしつづけること、それが「うつす」や「うつし」なのだ。 

≪071≫  この「うつし」の多重な意味合いが、もともとは「ウツ」(空)や「ウツロ」「ウツホ」から出て、「ウツロイ」(移・写・映)をへて、「ウツツ」(現)にいたるプロセスのなかから、さまざまに生じていたことについては、『日本という方法』(NHKブックス)、『日本流』『日本数寄』(ちくま学芸文庫)、さらには『連塾・方法日本』全3巻(春秋社)などにさんざん説明しておいたので、ここでは省く。 

≪072≫  注目しておいてほしいのは、この「うつす」の感覚は見るからに映像的ではあろうが、日本文化ではつねに文芸的でもあったし、また工芸的でもあったということだ。 つまり、和歌であれ連歌であれ、陶芸であれ、書道であれ舞踊であれ、日本においては何かを「まねる」ことが「移し」であって、それはもともと「写し」であったのだ。遊びは、この「うつし」から起動したのである。 

≪073≫  こうして、空海や貫之の書を写す、陶芸家が志野や織部を写す、宗達が王朝の絵を写す、狂言や歌舞伎が能を写すといったことが、日本文化を貫いてきたことになる。 これらはたんなる「まね」ではない。まさに「生き写し」という言葉があるように、そこには何かを「生かす」「活かす」ということがなくてはならなかったのだ。いきいきした写生のことを「活写」と言ったり、立花を「いけばな」とも言うのは、そこなのである。 またたとえば、書道では誰かの書を手本にしてまねて書くことを「臨模」とか「臨書」というのだが、こういう「まね」は実は「臨む」ことから始まるということにもなる。日本流の「うつし」や「まねび」は「のぞみ」なのである。 

≪074≫ (4)本歌どり・ゆかり・由緒・あやかる 

≪075≫  以上のことは、まとめていえば何らかのモトがあって、そこから「もどき」や「やつし」や「うつし」が生じるということでもある。これはいいかえれば「本歌どり」ということだ。 

≪076≫  本歌どりとは本歌に肖(あやか)った歌なのだ。「あやかり」という編集技法なのだ。「あやかる」は「肖る」で、そのプロフィールやフィギュアをずらしながらもってくることをいう。このこと、「すがた」(姿形)をうつす、とも言った。姿は「す・かた」(素・型)のことである。 

≪077≫  かくして歌詠みたちは、つねに自分があやかるモト歌をあれこれ手元にアーカイブしておいて、そこにブラウジングするという愉しみを存分に発揮した。ウェブをスマホで引き出してくるのではない。自分でモト歌になりそうなものを探してアーカイブしておいたのだ。 

≪078≫  もっと正確なことをいえば、たんに引用しているのではなく、引用したものに自分の好みを重ねたのだ。そして、本歌と自分の好みを競わせたのだ。ここに方法日本の真骨頂である「アワセ・カサネ・キソイ」が生じ、そうしてつくられた作品は、つねにある種の「ソロイ」(揃い)として編集されていったのだ。 

≪079≫  ということは、日本文化は、あらかじめ後々の「そろい」を意識して競いあい、あらかじめ「きそい」を意識して重ね、その「かさね」を意識して当初の「Jあわせ」を始めていたということになる。 

≪080≫  これらは「歌合わせ」に始まり、貝合わせ、前栽(せんざい)合わせ、犬合わせ、茶合わせなどというふうに工夫が凝らされていった手法であった。これが日本流のベストマッチングの方法というものなのである。 

≪081≫  歌だけに本歌どりがあったのではない。屏風絵にも着物の柄染めにも、芸能一般にも民謡や小唄など音曲にも本歌どりがおこなわれた。北原白秋(1048夜)や吉井勇(938夜)や安藤鶴夫(510夜)が、よくよく知っていたことだ。 このような本歌どりや「あやかり」には、もうひとつ、きわめて重要な継承が動いていた。それは「由緒をいかす」ということだ。これを「ゆかり」とも呼んできた。仏教用語では「縁起」とも言った。 

≪082≫  何を由緒とし、何を「ゆかり」とするのかというと、「ゆかしい」ことを継承しようということである。これはもともとは寺社の縁起が神仏の「あやかり」をあらわすようになって広まったものだが、その後は歌枕や名所や名物を由緒にし、さらには『伊勢』や『源氏』に肖るという方法に転じていった。 

≪083≫  ここに「かさね」が「襲ね」であることが成立する。日本における文化の継承は単調なインヘリタンスではなくて、「ゆかり」「ゆかしさ」にもとづいた重合的なインヘリタンスだったのだ。わかりやすくは和菓子のネーミングや形姿や色合いのことを想えばいいだろう。「おくゆかしさ」とはこのことだ。 ちなみに日本の伝統芸能では、よく知られているように家元や名取りが満を持して「襲名」するということがおこっているが、この襲名の「襲」もまた、「かさね」であって「ゆかり」であって「のぞみ」なのである。念のため。 

≪084≫ (5)とりまぜ・まぜこぜ・かけあい・うがち・からかい 

≪085≫  まあ、ここまでは基礎篇だ。ほんとうはもっと詳しく説明したいのだが、詳しくなるとわからなくなるというのが最近の〇×式やクイズ番組に慣れた日本病なので、あえてくだいてきた。 しかし、ここからはちょっと手がこんでくる。とはいえロジカルシンキングに近くなるというのではない。日本文化は二元法や二分法などによるロジックで相手を攻めるというようなローコンテキストにはじっとしていられないので、うんとハイコンテキスト(暗示的)になって、「もどき」「もじり」を大前提に、ハイ&ローの両方にむかって「かさね」「あわせ」のアクロバティックな芸当になる。 ただし、ここには基本の技がいる。 

≪086≫  その第一歩は歌語に遊べることにある。たとえば枕詞や懸詞(かけことば)や縁語に遊べるようにする。枕詞なら「くさまくら」といえば「旅」を、「ぬばたまの」からは「夜」のイメージを、「ひさかたの」で「光」や「空」を想定し、「たらちね」によって母なる想いに至ればよろしい。一種のパスワードを使うのだから、難しくはない。 ついでは「沖」と「置き」をかさね、「大坂」を「逢う坂」に懸け、「ひとり立田山」というふうに連動させていくことに慣れておくことだ。ここまでは、いいだろうか。が、次に心得たいのは問答を感じるということだ。 

≪087≫  問答というのは、『枕草子』が見せたように、「すさまじきもの」「あてなるもの」と問うて、これに応じることをいう。たとえば「遠くて近きもの。極楽。船の路。人の仲」とか、「ありがたきもの。舅にほめらるる婿、毛のよく抜くる銀の毛抜。主をしらぬ従者。つゆの癖なき」とか。 これは言ってみれば「笑点」の大喜利だ。そう思っていいだろう。ということは「謎かけ」なのだ。何々とかけて何と解く、という謎かけだ。ただし、その「かける」というところが、必ずやどこかで、係り結びの日本や懸詞の日本になっていく。また、能舞台に橋懸かりという「かかり」ができあがるところと連動する。 

≪088≫  さらには、その問答や応答がその後のモト(=モデル)になっていくところがもっと大事なところなのである。 

≪089≫  なぜ問答などがモデルになりうるのかといえば、問答や応答はそもそもが記紀神話に始まっていた基本的な文法(話法)であって、たんなるQ&Aではないからだ。問うたもの、応えたもの、それぞれが互いにセットとなって、そのパターンが次の文化的な文脈に生かされていく。 つまり問答・応答の交換そのものがJモデルとなって、次の「もどき」となりうるからなのである。 

≪090≫  すなわち日本文化の問答・応答は、Q&Aの正解など求めるものではなく、またツイッターのリツィートなどではなく、その応答のコンテクスチュアル・フォーマットそれ自体が継承されていくこと、そのことを重視した。どちらかといえばテニスや卓球のラリーに近い。「意図のラリー」だ。このラリーは、今夜は述べないが、日本の挨拶、本来の学習法、相撲の仕切り、贈答品の礼儀などにのこっていく。 

≪091≫  また「往来」「去来」「加減」「出入り」といった正負の用語、イン・アウトの用語にものこっていく。これらの用語は“文脈のフォーマット”でしか解釈できないものなのだ。プラスの意味の「いい加減」と、「いい加減にしなさい」の意味とは、その場の文脈(コンテクスチュアル・フォーマット)が決めるのだ。 

≪092≫  一方、次のことも言っておかなくてはならない。日本文化では「をかし」「おもしろし」を尊重するけれど、それは高級になるとか高度になるとか、ハイブローになることではなくて、実は「雅俗をまぜる」「和漢をとりまぜる」ということだということである。 「みやび」と「ひなび」を分かたず、硬軟をとりまぜ、むこうとこちら、相手と主人をまたぎ、主客を呼吸の間合いで入れ替える。この「とりまぜ」「応答」におもしろみがあった。これはすでに記紀の文脈に「春と秋とはくらべようがない」とあり、漢風と和風を対立させずに和漢朗詠集や和漢貼り交ぜ屏風に仕立て、その後も和漢の「さかいをまぎらかす」(村田珠光)という方法が重視されたからであった。この手立てが行き着くところに、茶の湯の「主客一亭」の心得があった。 

≪093≫  かくて、「あわせ」「かさね」は、他方においては「とりまぜ」「かけあい」というJパフォーマティブなものにまで及ぶことを知る。これはぼくが長らく強調してきたように、日本文化では「もてなは・しつらい・ふるまい」が三つで一つにつながっているということと共鳴する。 ということは、日本の謎かけは「あわい」や「あいだ」に何かがひそむということにもなっていく。何がひそむかというと、こんな謎々がある。「二、くだもの。何ぞ」というものだ。 

≪094≫  お題は「二」だけ。ヒントは果物。これは何を意味しているのかというのだ。答えは「いちご」だ。「二は一のあと」だから、いちご。たんにそれだけだが、ここにはこの問答独特のちょっとしたあわいの味がある。 もっと美しいものでは「つばき、葉おちて露となる。何ぞ」。「つばき」から葉が落ちたのだから、「つき」。それが「露となる」のだから「つ」が「ゆ」になって「雪」。答えは雪だが、これが椿、葉、露、雪というふうに雪月花するのだ。なんとも溜息が出る。  

≪095≫  もっとも、これらの雅俗をとりまぜた美しい成果は、やはりのこと時代がたてば「もじり」や「なぞり」の対象になり、江戸文化のなかでは「うがち」というものになっていく。川柳・狂歌・浮世絵が得意としたものだ。 

≪096≫  「うがち」はむろん「穿つ」からきているのだから、そのフォーマットや様式やモデルを穿つことで成立する遊びのことをいう。つまり「うがち」はそこに入りこんで、刳り抜いてくることである。木工細工のようなものだ。だから、けっこう技量がいる。しかし、江戸文化はこれをへいちゃらにこなしていった。西鶴も源内も一九も京伝も「うがち」の天才たちだった。 

≪097≫  このため、「うがち」は「滑稽」とも「通」とも「洒落」ともなった。いずれも江戸メディアの名称(滑稽本・洒落本など)にもなっている。それぞれ説明したいけれども、このへんも今夜は省いておこう。 

≪098≫ (6)寄せ・あしらい・なぞり・たとえ・見立て・こしらえ 

≪099≫  延喜13年3月13日、宇多天皇は亡くなった后の藤原温子の屋敷「亭子院」で、歌合わせを催した。その後の歌合わせのモデルとなった亭子院歌合だ。左方に赤色に桜襲ねの装束のチーム、右方に青色に柳襲ねの装束のチームが並び、そこへ、これまた左右の調子に着飾った太夫たちが音曲を奏しながら、洲浜をかついで入ってくる。  

≪100≫  あまり知られていないようだが、この洲浜がものすごい。浜辺の形の曲面に似せた台座に、木々・石組・花鳥などをあしらって拵(こしら)えたもので、金銀細工を凝らした盆景になっている。のちには山水見立てになって、山も川も鳥も船も載せられた。  洲浜だけではない。村上天皇の天徳4年の天徳歌合わせでは、清涼殿から渡殿まで開放して、北面の壷に前栽を、南面には左に藤の花を右には山吹をあしらった。「あしらい」とは言っても造花をもってきたのではない。実際に植えたのである。このときは洲浜が入ってくるときに、その上を裾濃(すそご)の覆いがかぶっていて、打敷(うちしき)は縹(はなだ)色に染められていた。 以降の歌合わせもこれらにまさる「あしらい」と「こしらえ」で、つまりはその場の趣向にあわせた「見立て」が駆使された。  

≪101≫  いったい見立てとは何かというに、たんなる見かけの借景なのではなく、単純な比喩でも譬喩でもない。モトの光景から何かを捌き、必要な景物だけを抽出してくるものだ。きわめてエッセンシャルなスクリーニングをほどこすこと、それが「見立て」なのである。 このとき「おもしろし」「わがものになす」「やはらげる」ということが心得られる。「やはらげる」とはソフィスティケーションということだ。橘俊綱の『作庭記』には、石立て(庭作り)のことが縷々述べられているのだが、とくに「国々の名所をおもひめぐらして、おもしろき所をわがものになして、おほすがたをそのところになずらへて、やはらげて立つべき也」としているのが、深い。 

≪102≫  ここには、これまで紹介してきた「かさね・あわせ」の数々の手法が集まっている。これを「寄せ」とも言う(あの「吹き寄せ」の寄せ)。 日本の神々は寄り神で(つまり客神で)、どこからか寄ってきた神であるのだが、まさに風景や景物を縮めながら寄せること、これが「洲浜」であり「庭」なのだ。ちなみにのちの「寄席」という席亭も、もとはといえば神々の芸能にあたる「もどき芸」の寄せたるところなのである。 

≪103≫  このように本来の見立てには、神々の寄って来たる原郷を見立てる気持ちが必要だ。それは見立てによって、その場が本来の由緒にもとづいたものとして立ち上がるからだった。 かつてはそれを「村立て」とも言った。また、そのために高いところからその候補地を眺めることを「国見」とも言った。見立てによって、その場が地鎮され、それゆえそこが「ふるまい」や「しつらえ」や「もてなし」の可能な場所となったのである。  

≪104≫  日本各地の「名所」はこうした見立てによって確定された。また「名物」もここに派生した。総じては、これが日本の「景色」というもので、実は「景気」というものなのである。 とくに「景気」がたんに経済の景気のことではなく、このように各地の景物・名所・名物の勢いが寄せられてきたことを、看過すべきではない。エコノミストたちが肝に銘ずることだ。すでに『花鳥風月の科学』(中公文庫)に書いたことだった。 

≪105≫  いろいろ見当がついてきただろうと思うが、以上のことから今日なおピンとくるようなことがさまざまに説明できる。 たとえば「とりよせ」だ。いまでも産地直送ものは「お取り寄せ」という。また「こしらえ」だ。馴染みの客が板前のおやじに「何か、拵えてよ」というのがその「こしらえ」だ。これはいまでは「見繕ってよ」というふうにもなっている。「見つくろう」とは、すでに冷蔵庫などに寄せてあるものから見立てて、それを繕ってほしいという意味だ。 

≪106≫  ぼくの家はしがない呉服屋だったけれど、注文の着物が仕上ると、必ず「拵」という墨文字が入った畳紙(たとう)に包んで収めたものだ。 いずれにしても、これらの手法や作法がすこぶる編集的であること、言うまでもない。「日本する」とは「編集する」ということなのだ。 

≪107≫  さてところで、冒頭に、「いささか業を煮やして、今夜を千夜千冊する」と書いたのは、以上のこと、ぼくとしてはのべつ語ったり綴ったりしてきたことなのだが、昨今の日本はこうしたことをちっとも大切なこととして受け止めず、とんちんかんな日本自慢をするか、まったく日本を大事にしていないか、あるいは一知半解の日本でごまかしているか、そんな体たらくばかりが続いているのに業を煮やしているということだった。 

≪108≫  もはやグローバル日本は「日本のない日本」でいいんだという混乱なのだ。先だってシャネルのリシャール・コラスさんがこんなことを資生堂に向けて語っていた。「日本の企業がグローバルになりたいなら、“郷に入っては郷に従え”には、しないことです。日本は世界のどこでも日本を主張するべきです」。 

≪109≫  その通り。日本はナショナルな「国」よりも、パトリオットな「郷」をもって世界に向かうべきなのだ。企業だけではない。政治もサッカーも歌舞伎も、そのほうがいいに決まっている。それなのに経産省はクールジャパン予算で400億円をありきたりなシナリオでばらまこうとしているし、家庭雑誌たちは今年もまた「おせち」の特集で正月をごまかそうとするだろう。

≪110≫  こんなことばかり続いているのは、いけません。そろそろ足腰を鍛え、“Jかさね”の方法日本を方法日本用語で解読できるようにするべきである。今夜の千夜千冊がその一助となれば、有難い。 

≪01≫  あいかわらず柴田元幸の訳が酔わせるポール・オースター(243夜)の『写字室の旅』(新潮社)の主人公は、ミスター・ブランク(逸名氏)という老人である。この老人は軟禁されているのか病気のせいなのか、部屋から一歩も出られないままにいる。自分が何者かもわからない。 

≪02≫  老人の外見的な一部始終は、部屋に備えられたカメラが記録しているという設定になっているのだが、小説としては部屋の中にあるさまざまな写真や本や原稿の束などを手掛かりに老人の日々を描いていくというふうになる。この設定をいかして、オースターは自分がこれまで小説に登場させてきた人物たちを老人の正体を推測するためのちょっとしたヒントに使った。バルザック(1568夜)がそうしたように、既存作品の登場人物を再登場させるのだ。 

≪03≫  やがて老人が読む小説の作者がジョン・トラウズで、世話をやいてくれる女性がアンナ・プルームというふうになって、オースター・ファンを愉しませてくれる。 

≪04≫  写字室というのはスクリプトリウムのことだ。中世の修道院の写本僧たちが過去の本を書写していた部屋のことをいう。ウンベルト・エーコ(241夜)の『薔薇の名前』の小説や映画で知られるようになっただろうが、アラン・ケイのダイナブックはスクリプトリウムをパソコン化することで始まった。 

≪05≫  これに対してオースターは、写字室に対する思いを軟禁状態の老人に託して、その節々に自分の過去作品に出入りした何かの「写し」を仕込んだのである。老人によって、オースターは自分で自分を真似たのだ。なかなかうまい物語技法だった。 

≪06≫  オースターは老人を「生けるスクリプトリウム」に擬したけれど、世の中の文体や文意は、アラン・ケイが肖ったように、そもそもが相互スクリプトリウムの状態になっているというふうにみなせる。ジュリア・クリステヴァ(1028夜)の用語でいえば、すべてのテキストはインターテキスト状態(間テキスト状態)なのである。 

≪07≫  これを敷延していえば、どんなテキストもなんらかの意味でアナロジカルに、あるいはメタフォリカルに関連しあう可能性をもっているということだ。何でもが似ているのではなく、「どこか似ている状態」だけが次々に関連しあう。ただし「どんなテキストも」とはいっても、どこをアナロジーやメタファーの対象にしたかということは、参照した作品、影響をうけた文体、著述者の力量、時代社会の理解度、言いまわし、場面(シーン)の特定性などによって、たえず千変万化する。  

≪08≫  この「どこをアナロジーの対象にしたか」をめぐって、全世界の文学作品や文章群に「ミメーシスの重層構造」が、まるでそれまで伏せられていたアンダーテキストやシャドウ文化やグノーシス思想がちらちら姿を見せてくるかのようにあらわれてくる。 

≪09≫  というわけで今夜はその重層構造を、ヨーロッパ文学史を飾った作品を通して分析してみせたエーリッヒ・アウエルバッハの定番名著『ミメーシス』を借りて、とりあげる。 

≪010≫  ミメーシス(mimesis)という技能はめずらしくはない。何かをまねることだ。文芸からアートまで、機械工作から建築まで、植物や昆虫の擬態からコスプレまで、カリカチュアからものまね歌合戦まで、いずれもミメーシスだ。模倣、模作、ものまね、モデル化、比喩、暗示、諧謔、見立て、シミュレーション、似顔絵、ごっこ遊び、擬態、イミテーション、模型、みんなミメーシスなのである。 

≪011≫  アウエルバッハが『ミメーシス』でとりあげた文学や文芸では、ミメーシスは古典ギリシア以来の基本的な文芸技法で、古代中世のイメージ変換術の基本作法のひとつだった。その基本作法には、これまで何度も千夜千冊で紹介してきたように、「アナロギア」(英analogy:類推・連想)、「ミメーシス」(英mimicry:模倣・相似)、「パロディア」(英parody:諧謔・滑稽)が並ぶ。並んで相互に嵌入しあう。それぞれの技法が詩や悲劇や喜劇の作詩法や作劇法で確立し、かつまた互いに濃く関連しあっていた。すべてがアナロギアで、すべてがパロディアで、そしてすべてがミメーシスでありえたのである。   

≪012≫  そもそもミメーシスは、古代ギリシアや古代中世ローマ(ラテン世界)で明確な出発点をもっていた。  

≪013≫  プラトン(799夜)が「自然界の個物はすべてイデアの模造である」と言ったことにもとづいて、この模造をめぐるテーゼをアリストテレス(291夜)が発展させ、ミメーシスこそは人間の本来の心の動向をあらわすもので、そのことが諸芸術の様式をつくってきたとみなしたこと、これが出発点になっている。 

≪014≫  もう少し丁寧にいうと、よく知られているようにプラトンには「世界はイデアでできている」というイデア論があった。プラトンは、そのイデアの中身を現在のギリシア人のわれわれは(当時のギリシア人は)すっかり忘れてしまっているのだとみなし、これを思い出すことが必要だと考えた。プラトン哲学とは、何をどのように想起するかということ、それがすべてなのだ。 

≪015≫  これがプラトンの有名な「想起説」というもので、プラトンは想起のためには記憶から重要なアイテムやコンセプトを思い出すための学習が必要だとみなした。記憶想起の学習(アムネーシス、アナムネーシス)だ。 

≪016≫  しかし、忘れたものをすべて想起するのは難しい。順番もあるし、軽重もある。けれどもバラバラになる。そこでついつい比喩や類比がまじってくる。プラトンはそこに問題があると見て、そのような作用をミメーシス(模倣)の作用とみなして、本来のイデアの再現に向かわないミメーシス多用型の芸術的表現性に不満をのべた。 

≪017≫  しかしアリストテレスとその後の哲学では、とくにネオプラトニズムやヘルメス主義やローマ哲学(ラテン哲学)では、とはいえミメーシスの作用がなければイデアは地上に降りてこない(脳内でうまくひらめかない)と考えられて、むしろさまざまなポイエーシス(制作作用)がつかうミメーシスや、なかでも芸術の中にひそむミメーシスの技法(レトリケー=レトリックの技法)を注目するようになったのである。 

≪018≫  こうしてその後は、ミメーシスが文芸や芸術の方法解読の巨大で多様なスコープになっていった。  

≪019≫  ここまでがアウエルバッハが用意してくれたことだ。そうなってきたはずなのだが、ところがぼくが長らく怪訝に思ってきたのは、ミメーシスがどういう方法の束で何をスコープしてきたかということが、意外なことにそれほど本格的には議論されてこなかったということだ。あまりに当たり前に広がった技法だからなのか、それとも技巧に走っていると思ったからなのか、そこはイマイチわからないのだが、ミメーシスがたんなる模倣技法などであるはずはないのに、ついつい技法(レトリケー)の一種としてしか扱われてこなかったのだ。 

≪020≫  これではミメーシスの感覚(「まね」の感覚)くらいはなんとか維持できたとしても、その本来の「方法の核心」が忘れられてしまう。「方法の核心」はアナロジカル・シンキングやメタフォリカル・エディティングにあるはずだ。いつしかぼくはそんなふうに思うようになり、そのうち編集工学を組み立てるようになって、その方法をイシス編集学校などで実践的に学んでもらうように努力するうち、ミメーシスによる編集方法を強調することになったのだった。