「コラバ」という方法 

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コラバという方法

上記に掲げた①命題~⑮「着を得る」までの15項目を心得として、合せて、競わせ、揃えて、重ね信念を、心得て、信頼を糧に共生・生長する方法です。その成り往きは、以下の様な寸法です。慎重に折り重ね、体聴・体話・体談・体感・体解・体性・体得・体現し、事場が生まれ出て往きます。共感という感動フラッシュが生じるたびに、コノトコロ・コノコロ・コノキロク新たな像が記憶・記念されます。間尺に合えば、幸甚です。
対の数奇間は中心となって機能し、間心は関心と成り、観念と成って心が極まります。
素直で正直な間心が、素直に正直に機能すれば、情報は素直に、正しく伝導し、心は素直に・正直に充され・育まれ、素性を顕します。これが「人は経験に学ぶことによって成長する」と謂われる由縁です。

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 もっと端的にいうのなら、音楽はそれを意識したとたん、ゲシュタルトクライスになるということだ。「あいだ」になるということだ。音楽的なユーザーイリュージョンをつくるということだ。ということはピアニストたちも、0.2秒のズレと闘っているということなのだ。 それはフッサールならば「間主観性」のあいだというものにあたるだろうし、西田幾多郎なら「行為的直観」のうしろにあたるものだということになる。 

 意識をノエシスとノエマに分けるのは、フッサール現象学の常套手段である。ドイツ哲学に入りこむと、たいていこの振り分けに出会う。 意識そのものの能動的な側面がノエシスで、その意識が何かについて意識している場合をノエマ的という。意識の作用そのものがノエシスで、意識の対象的側面がノエマだ。いずれもギリシア語の「ヌース」(精神・理性)から派生した。フッサールは意識の志向性を考究して、このような振り分けをした。 

 で、木村さんは、音楽演奏はノエシスがノエマに投影しながら進んでいるとみなしたのである。これは独奏者においても合奏者においても、そうなっているのではないか。そのようにみなしたうえで、では音楽そのものがどこで“鳴っている”かといえば、木村さんはノエシスとノエマの「あいだ」で“鳴っている”とみなすしかないだろうと言うのだ。 

≪01≫  対談である。 老練と達意の、学と知との、果熟と錬成の、対談。 衒学の応酬といえばまさに衒学を尽くした上品な応酬だが、互いの鋭い時代意識やタフな知の体験に支えられている。そういう二人がカミソリをもって龍と虎のように向かいあっている。こういう対談が最近はまったく少なくなった。

≪02≫  どういうふうな対談かということを、本書では久野が聞き役で林が応ずるという構図になっているので、ここでは林達夫という稀有の“知格”の紹介によって伝えたい。

≪03≫  林達夫は平凡社を支えた知識人として有名で、例の平凡社百科事典は林のもとに編集された。ぼくにはいまのところどこの出版社も百科事典の編集を頼んでこないが、ある意味では林はぼくが絶対にやらない知識編集の王道を拓いてみせた。いまの日本の知識編集の土台は林がつくったもので、非線形な知に関心があるぼくには、もはやその“岩波・平凡社型構成法”に納得がいかないところも多いけれど、それはそれで称賛に値する。

≪04≫  早熟だった。1925年の『思想』誌上デビューですでに新村出の『南蠻廣記』を批評して、ヨーロッパの学問のありかたの日本における継承の仕方を問題にした。いわば「ヨーロッパ」という知の大陸にいくつか屹立するらしいテーベの門ともいうべきもののくぐり方があるはずだが、そのくぐり方を専門に引っ提げて登場した知識人である。その広域性と厳密性は他を圧していた。

≪03≫  林達夫は平凡社を支えた知識人として有名で、例の平凡社百科事典は林のもとに編集された。ぼくにはいまのところどこの出版社も百科事典の編集を頼んでこないが、ある意味では林はぼくが絶対にやらない知識編集の王道を拓いてみせた。いまの日本の知識編集の土台は林がつくったもので、非線形な知に関心があるぼくには、もはやその“岩波・平凡社型構成法”に納得がいかないところも多いけれど、それはそれで称賛に値する。

≪04≫  早熟だった。1925年の『思想』誌上デビューですでに新村出の『南蠻廣記』を批評して、ヨーロッパの学問のありかたの日本における継承の仕方を問題にした。いわば「ヨーロッパ」という知の大陸にいくつか屹立するらしいテーベの門ともいうべきもののくぐり方があるはずだが、そのくぐり方を専門に引っ提げて登場した知識人である。その広域性と厳密性は他を圧していた。

≪03≫  林達夫は平凡社を支えた知識人として有名で、例の平凡社百科事典は林のもとに編集された。ぼくにはいまのところどこの出版社も百科事典の編集を頼んでこないが、ある意味では林はぼくが絶対にやらない知識編集の王道を拓いてみせた。いまの日本の知識編集の土台は林がつくったもので、非線形な知に関心があるぼくには、もはやその“岩波・平凡社型構成法”に納得がいかないところも多いけれど、それはそれで称賛に値する。

≪04≫  早熟だった。1925年の『思想』誌上デビューですでに新村出の『南蠻廣記』を批評して、ヨーロッパの学問のありかたの日本における継承の仕方を問題にした。いわば「ヨーロッパ」という知の大陸にいくつか屹立するらしいテーベの門ともいうべきもののくぐり方があるはずだが、そのくぐり方を専門に引っ提げて登場した知識人である。その広域性と厳密性は他を圧していた。

≪05≫  林は3つから7つぐらいまでをアメリカで、米人家庭教師によって育てられている。いまイチローと佐々木で沸いているシアトルである。

≪06≫  林は3つから7つぐらいまでをアメリカで、米人家庭教師によって育てられている。いまイチローと佐々木で沸いているシアトルである。

≪07≫  それから京都一中に行って、英語に磨きをかけるのだが、あまりにデキがよくて、同志社の米人教師のパーティなどではかえって会話が浮いていく。そこには歳が近い村山槐多や風見八十二も来ていたらしい。ともかくデキすぎの英語は林を捩れさせ、「沈黙の中の語学」といった独自の趣向を耽らせる。いまどきの語学ひけらかし知識人とは、そこが根本的に違っている。

≪08≫  ついで林は聖フランチェスコに惹かれた。のちにこの感覚はトゥルバドールの把握に変化して、ヨーロッパの「道」の理解に役立っていく。このあたりの一連の変節に林のディスポジションがある。ディスポジションというのは、イギリスの日常言語学派が名付けた用語で、人格を形成する態度原理のようなことをいう。林のディスポジションは変わっていた。

≪09≫ 一中から一高ヘ進んだ林は深田康算・波多野精一・朝永三十郎らの哲学史に没頭する一方、歌舞伎と新劇をさんざん見ていて、その二つを自分の専門のヨーロッパの知識学に転用するにあたっては、二つのつなぎにシュニッツラーをつかった。こういうところが憎いところで、菊五郎をモリエールから見るというような芸当を生んでいく。

≪010≫  そんな林は学者としては最初はルネサンスの研究に入るのだが、それをもたらしたのは上田敏だったというのだから、このあたりはなかなかロマンティックなのである。上田家の玄関には「パンタ・レイ」というギリシア語を綴った紙が貼ってあり、書斎には精巧な『モナリザ』の複製画がかかっていたらしく、林は、あんなに香気に満ちた書斎に出入りしたことはその後はなかったと、本書で述懐している。ぼくのばあいは、そういう“香ばしい書斎”は下村寅太郎さんの逗子の書斎とパリのピエール・ド・マンディアルグの書斎だった。他人の書斎をどのくらい見てきたかということ、これは案外、その人物のディスポジションを変えるものなのである。

≪011≫  で、林を引っ張ったのは、その上田敏先生と、もう一人はウォルター・ペイターである。これもよくわかる。ブルクハルトばかり読んでペイターのルネサンス論を読まないでヨーロッパを語れるなんて、当時は考えられなかったはずである。まあ、いまだってペイターを読まない連中など、何を言っても始まらない。

≪012≫  林を有名にしたのは『共産主義的人間』である。1951年に花田清輝が月曜書房を動かして出版させた。この発想も飛び抜けて早いもので、それから数年たってやっとスターリニズムが問題になってきた。

≪013≫  その内容はともかくも、ぼくは本書でその背後に「ソヴェートの友の会」というものがあったことを知って、膝を打った。長谷川如是閑が会長、秋田雨雀が副会長、林は編集長の役目をしていたらしい。そこからグラビア誌が出ていて、ぼくも古本屋でそれを何度も手にとったことがあるのだが、それが伊奈信男のヴィジュアリティだったようなのである。なるほど、こういう編集作業とデザインが下敷きになって『共産主義的人間』が突起してきたのかと納得できた。林の後輩の中井正一が「世界文化」を編集したことも、これであらかた理解できた。

≪014≫  編集思想の大先輩。まさにそうなのである。しかし林達夫の真骨頂は、その編集思想のなかでも、やはりレトリシズムの牙城を一人で突き進んできたというところにある。だいたいこの対談そのものがレトリシアン林達夫とロジシアン久野収という対比なのである。そのことをちょっとふれておく。

≪015≫  だいたいヨーロッパの知においては、デカルト、ホッブス、ライプニッツといった流れは、建前として“反レトリック”を標榜してきた。だからこそかれらにおいては数学的シンボリズムによる論述がモデルをつくってきた。その典型的な一般化がフランス言語学派による「ポール・ロワイヤル・ロジック」である。

≪016≫  けれども、そのようにつくられたロジック・モデルはひとつだけではおもしろくもなんともない。これらは互いに結びあわさって、生きている。そこでヨーロッパにはもうひとつの伝統として「アルス・コンビナトリア」というものが活動してきた。いわゆる結合術である。正統派からは異端視されたり神秘思想視されてきたが、たとえばガリレオなどは科学の根本に結合術をつかっている。

≪017≫  林達夫は、このヨーロッパの知の両方を睨みながらレトリックの研究をしつづけた。そうすると、ここにはキケロはむろんだが、ペトラルカやエラスムスやモンテーニュが浮上する。またシェイクスピアをはじめとするすべての演劇者が浮上する。頂点にはゲーテもチェーホフもサルトルもでてくる。つまりはドラマトゥルギーというものが問題になってくる。林の得意はこの思想史上を滑空するドラマトゥルギーというものの把握なのである。

≪018≫  ぼくがなんだかんだといっても林達夫を尊敬するのは、結局はその博学に対してよりも、レトリック戦線を一歩も譲ろうとはしない断固としたディスポジションにある。

≪019≫  久野収については何も紹介できなかったが、本書における久野の対応は絶妙である。ほとんど林を手玉にとっている。いや、これこそは西田幾多郎のいう「逆対応」である。ぜひ味わうとよい。

≪020≫  ところで、本書には若き日々の林達夫が竹越与三郎に傾倒していたことなども詳しく喋られていて、ちょっと驚いた。『2500年史』や『日本経済史』の竹越であるが、林は『三叉演説集』や『惜春雑話』にぞっこんだったらしい。また、弁論部での演題が「日蓮を想う」であったことも驚いた。

≪020≫  ところで、本書には若き日々の林達夫が竹越与三郎に傾倒していたことなども詳しく喋られていて、ちょっと驚いた。『2500年史』や『日本経済史』の竹越であるが、林は『三叉演説集』や『惜春雑話』にぞっこんだったらしい。また、弁論部での演題が「日蓮を想う」であったことも驚いた。

≪01≫  先だってのイシス編集学校の師範代選考会(二〇〇三年六月)には編集者や主婦や地域リーダーやデザイナーの顔触れに交じって、ちょっと変わった応募者がいた。

≪02≫  東急エージェンシーのマーケティング・プランナー、旦那さんが高エネルギー研究所の物理学者だという食の専門家で「遊」の探求者、セキスイハイムのトップセールスマンで竹内久美子の好きな営業リーダー、東大工学部で化学エネルギーを研究していた旭化成のプラント設計技師、いろいろな病院の事務長をしている廣松渉派、日本写真印刷の制作室を仕切っている篆刻技師、編集学校の教室でカミングアウトをしてしまったゲイの内科医師、水戸芸術館のプランニング・ディレクターの恩寵派、新日本石油でマネジメント・モデルをつくっているカルト映画派、各地の大型開発を手掛けてきた建築設計マネージャーで編集派、などなどである。

≪03≫  みんな、おもしろい。師範代になってもらうための面談をしながら、いよいよ編集学校も本格的に多彩になってきたと実感した。すこし社会的にもなってきた。みんな仕事をもっていたり、主婦や学生であったりするのだが、その一方で編集師範をやってみたいというのだ。こうなると、もう、ぼくの編集工学の基本構想がどうのこうのというよりも、次々に自律的な相乗効果があらわれているのだという気がする。編集とはもともとがそういうものなのだ。 

≪04≫  一方、そろそろ誰かが編集工学や編集的世界像をもっとラディカルに、もっと大胆に、もっと尾鰭をつけてまとめてくれたり、システム化してくれたり、アプリの開発をしてくれたりするとありがたいなという気にもなっている。 

≪05≫  すでに第六七一夜の米山優『情報学の基礎』(大村書店)がぼくの編集工学を全面展開していたことを案内したように、そうした試みはしだいに陽の目を見つつあり、ぼくが読んでもなるほどと納得できることがふえてきた。卒論に松岡正剛を選んだ学生も、知っているかぎりでもすでに九人がいる。 

≪06≫  言い出しっぺとしては、そうした成果がぜひとも稔って学界や思想界や、芸術分野や芸能界やメディア業界に、あるいは無名なものの群れの一隅に、あたかもソリトンのごとく波及してほしいと思うばかりである。 

≪07≫  本書もそうした一冊で、著者とはまだ面識がないのだが、手紙とともに贈本されてきた。十八世紀フランスの「市民的公共圏と百科全書の知」を解読するにあたっては、松岡さんの「編集知」の考え方が参考になるので使わせてもらったという手紙だ。とくに序論には、ぼくの著書からの引用とともに著者による松岡解説が試みられていて、この著者にとって「編集知」という概念が必要になっていたことが説明されている。 

≪08≫  ぼくより十歳ほど年下の著者の略歴は、東大で科学哲学をやったあと一橋大学とモンペリエ第三大学で博士号をとって、いくつかの大学勤務をへて、いまは名古屋市立大学にいるようだ。興味深いのはマルセ太郎の芸や人物に惹かれているらしいことで、森正の『マルセ太郎・記憶は弱者にあり』(明石書店)にも名を連ねていた。マルセ太郎は田中泯と木幡和枝が主宰する中野の「プランB」で、長らく独演会をやっていた。 

≪09≫  余談ながら、そういえば米山優も名古屋大学である。いま最もラディカルなインダストリアル・デザイナーの川崎和男は名古屋市立大学である(二〇〇三年現在)。先頭をきって編集学校を瑞々しい振動体にしてくれたのは名古屋の女性起業家リーダーの久野美奈子や主婦の太田眞千代や版画家の小島伸吾だった。どうやら中部の一角には、時ならぬ編集的活火山があるらしい。 

≪010≫  本書の内容は一言でいえば、ディドロやダランベールの時代の知に活気があったのは、必ずしも上からの「啓蒙知」が君臨していたせいではなくて、むしろ横に広がり、縦に重なった知のクロス・レファランスをつくりつづけた「編集知」が稼働しつづけたからだったということを、さまざまな史料にもとづいて証そうとしたものである。 

≪011≫  それをハーバーマスの「市民的公共圏」の構想と松岡正剛の「編集的世界観」の見取り図を軸に、最初はサロン・カフェ・劇場に何がおこっていたかをさぐり、ついでそのように動きはじめた知がどのように「情報文化のメディア化」として印刷出版されていったかに光をあてた。とくに重要だと思われたのは、そのような場面には必ず「ヌーヴェリスト」(ゴシップが好きで短いコメントをする者たち)や「ギャルソン」(無名のちょっとした文士たち)が登場して、新たな動向の撹拌や波及に一役買っていたことである。 

≪013≫  ヴォルテールやモンテスキューやルソーだけが啓蒙者ではなかったというのは、まさにそうだと思う。本来の啓蒙とは、無知蒙昧な民衆を尊大な言葉やうっとりするような意匠で刺激して、いつのまにか踊らせることなどではなかったのだ。もともと「知」はどこにも及んでいるものなのだ。 

≪012≫  こうして著者は、いったい「公論」や「世論」というものは、そもそもが「編集知」として活性化していくものなのではないかということを力説した。中村雄二郎が初期の常識の編集的役割や創発性に注目していたことが思いあわされる。加えて著者はベンチャー的な起業活動も見落とせないと言う。ぼくは知らなかったのだが、十八世紀フランスはいってみれば最初のベンチャー・スピリットが謳歌されたスモールマネジメント時代だったのである。 

≪014≫  あらためていえば、世の歴史のなかで「知の時代」でない時代などというものもない。ヘラクレイトスの時代も明恵の時代も、朱子の時代もゲーテの時代も、レンブラントの時代も孫文の時代も、ずっと「知の時代」だったのだ。 

≪015≫  問題は、そういう知には最初から流行もあり凹凸もあるということ、それらの知の乗り物や運び手にはたえずいちじるしい変化があらわれてキャリアーを交代しているということ、また、ときには劇的なほどのキーワードとホットワードのダイナミックな変更がおこるということなのである。 

≪016≫  このダイナミックな変更には「知」を分母や分子に分けたり、系統樹に仕立てたり、アルファベット順にソートしておくという方法がつかわれる(『百科全書』はアルファベット順だった)。こうした「知」の組み替えを情報編集の歴史と変遷とみれば、それらの動向のすべてには「もうひとつの編集知のアーキテクチャとネットワーク」が動いていたとも見えてくる。フーコーの『知の考古学』はそうした事情を明るみに出した成果であった。 

≪017≫  最近、ぼくは井口尊仁君の勧めによってデジタオ・ブックレット「松岡正剛編集セカイ読本」というシリーズを、毎月三冊ずつ刊行することにした(高速本・中速本・低速本に分かれている)。ジャストシステム社をスピンアウトした井口君らが開発したオンデマンド出版のシステムで始まったものではあるが、書店がほしがってくれるため、なかなかの話題になっているらしい(後記=井口君はその後「セカイカメラ」を開発し、頓智ドットのCEOやテレパシー社のCEOになった)。 

≪018≫  そのシリーズに『分母の消息』が入っている。「時代の思想」と「時代をまたぐ思想」とを、同じ分母(デノミネーター)でとらえて対角線を結ぶように記述するという試みをしておいた。デノミネーションといえば分母の変更をさす。世界史上の編集知というものは、そもそもこういう「分母の姿」をそのつど胚胎し、変更しているものだということを書いた。 

≪019≫  たとえば、ここに一曲の歌があるとして、その歌を分子にしたとき、何を分母にもってくるか。音楽性、時代性、言語性が分母にくるたびに分子の意味は変わる。都市、消費生活、政治動向が分母になっても変わる。そうした分母と分子の動静関係こそが時代と時代を超えるものを結んでいくわけなのである。それゆえこうした分母の編集知の動向に気がつくことは、たんに分子の知で結ばれているだけの知を追いかけるよりも、その時代の情報をずっと痛快に読みやすくしてくれる。 

≪020≫  本書は編集知をもって十八世紀のフランスの知の出入りを解読しているものではあるが、それがそのまま時代をまたいで、たとえばライプニッツに突き刺さり、グノーシスをひっくりかえし、空海や西田幾多郎を折り紙にしてしまってもよかったのである。著者にはそうした知も渦巻いている。それらの成果については、今後を期待しておくことにする。 

≪021≫  われわれは、雑音の海をダイナミックに航海しつづける一艘の小舟という句読点なのである。また巨大な文脈に惑溺しそうな一個の編集子としての引用句なのである。 

≪022≫  これらは必ずしも孤立しはしない。また、必ずしも世界を見失うものではない。そこには分母の動向がぴったりくっついている。そこには波の共有があり、光の共振があり、風の共感がある。たしかに局所には高波が生じ、カタストロフィがおこり、波濤は逆巻くが、それらも含めて情報はひとつながりの風波となって、むしろ非局所的に伝達されるはずなのだ。 

≪023≫  知は思いがけないところでゆさぶられ、忘れたころに書き合わされ、予想のないところで一団を形成するものなのだ。 

≪024≫  そのような知は学者や作家に宿っているとはかぎらない。人格に宿るだけでもない。知は、とりわけ編集知は、ときにコーヒーハウスそのものであり、ときに隣りあう帽子屋と楽器屋であり、ときにノートの片隅であって、ときに部品の集合なのである。分母の消息は、そういうところにも求められる。知を組み立て、知を裏返し、知を書きなおしていくこと、それが今も昔も本来の啓蒙であって、本来の編集なのである。 

≪01≫ われわれは脳にだまされているのではないか。 意識だって、その大半が幻想的な産物で、「まやかしの私」を演じているのではないか。 そこには重大なユーザーイリュージョンが気が付かれないままに、生じているのではないか。 〈私〉と〈自分〉とのあいだには、重大な「遅れ」や「ずれ」があるのではないか。 こういう疑問から仮説を組み立てた本書は、ぼくの判定では、極上の編集工学集になっている。 脳と意識とPCとユーザーイリュージョン。 これらを詳細に組み合わせつつ、ノーレットランダーシュが斬りつけた。 

≪02≫  原著は20年前のものだが、もはや古典的名著といっていいだろう。画期的な本だった。ぼくは10年ほど前に読んで、いろいろ啓発された。これってジョン・C・リリーのECCOじゃないか、世阿弥の「却来」(きゃくらい)じゃないかとも、思った。ページを行きつ戻りつで、3度くらいは読んだだろう。 

≪03≫  いまふりかえると、インターネットすらなかった1991年に書かれた原著がこれほど先駆的な議論を詳細に提供していたことが、もったいないほどだ。ここに応用されているのは、80年代末までの熱力学や脳神経科学や意識科学やネットワーク科学の報告成果ばかりなのである。 

≪04≫  それでも、総じては複雑系に関する科学や思想がフルに応用されている。もしノーレットランダーシュが新たにこの改訂版を書けば、もっともっと豊富な研究成果や仮説を、あたかも“思考のヒッグス粒子”をあてがうように、もっと適確に組み立てることができたであろう。 

≪05≫  それほどにこの御仁、どんな最前線の研究成果であれ、それらを組み合わせてとびきりの「抜き型」をつくってみせ、それによって必ずや新たな展望を編集するだろうと思わせる才人なのである。 が、あまり知られてはいない。ぼくも本書に出会うまで、この北欧の片隅の思索者について何も知らなかった。 

≪06≫  トール・ノーレットランダーシュは1955年にコペンハーゲンに生まれ、デンマーク工科大学で修めた環境計画学と科学社会学を背景に、独自の著作を次々に発表してきたようだ。おそらくはあまりに独自な見解を提示するために、また大学教授などの肩書を欠いているために、過小評価されてきたのだろう。 

≪07≫  本書のあとでは、インターネット社会を素材とした『存在しない場所』や、エイリアンの視点から地球を点検する『先行して』などを書いているらしい。 

≪05≫  それほどにこの御仁、どんな最前線の研究成果であれ、それらを組み合わせてとびきりの「抜き型」をつくってみせ、それによって必ずや新たな展望を編集するだろうと思わせる才人なのである。 が、あまり知られてはいない。ぼくも本書に出会うまで、この北欧の片隅の思索者について何も知らなかった。 

≪06≫  トール・ノーレットランダーシュは1955年にコペンハーゲンに生まれ、デンマーク工科大学で修めた環境計画学と科学社会学を背景に、独自の著作を次々に発表してきたようだ。おそらくはあまりに独自な見解を提示するために、また大学教授などの肩書を欠いているために、過小評価されてきたのだろう。 

≪07≫  本書のあとでは、インターネット社会を素材とした『存在しない場所』や、エイリアンの視点から地球を点検する『先行して』などを書いているらしい。 

≪08≫  では、本書が何を書いたのか。簡潔には紹介できないほど多様な領域を「抜き型」にした。そう、言うしかない。「抜き型」で見るとは、フォン・ユクスキュル(735夜)が言うように、世界はこれをある種の型で抜いたものと、抜かれたものとの関係で読みとるという意味だ。インタースコアしようじゃないかということだ。そこで、ここでは〈ユーザーイリュージョン〉という「抜き型」の窓によって、この著者が何を仮説したのか、何を暗示したかったのか、そのことをのみ案内してみようと思う。

≪09≫  問題は人間と情報の関係なのである。それをどう科学するか、何をもって哲学するかということだ。以下の話を枕に、一気に核心点を案内しておく。 

≪010≫  「科学と技術には情報という幽霊がとりついている」と言ったのは1988年のサンタフェ会議の議長ヴォイチェフ・ズーレクだった。 情報という幽霊とは、情報には“マックスウェルの魔”のようなものが棲みついているという意味だ。物理学者のズーレクは「複雑性、エントロピー、情報」は切り離せないとみなし、これらに共通する“強い類似性”こそがこれからの科学・技術の新たなフロンティアになると予言した。 

≪011≫  この予言はその通りになった。情報は新たな“マックスウェルの魔”(デーモン)となって、複雑性とエントロピーを携えて、次々に社会の隅々にまでいきわたることになった。そいつはインターネットのあいだを走りめぐり、金融の確率統計の数値の中に入りこみ、さらには見えないサイバーテロを随所でおこし、いまではモバイルなスマホともフェイスブックともなって、いまいましいほどの情報デーモンぶりを発揮している。 

≪012≫  しかし、問題はそういうことだけにあるのではなかった。情報デーモンはズーレクの予言を上回り、一方ではグーグル型の検索エンジンを伴ってわれわれの日々の問題意識の寸前にまで辿り着き、他方では国家や産業や市場社会のそこかしこに膨大なビッグデータを溜め込むようになったのである。 

≪013≫  ズーレクの予言から3年後に、本書が発表された。僅か3年後ではあったけれど、ノーレットランダーシュは問題をズーレクよりさらに深めて、視点を「情報と意識のあいだ」においたのだ。 

≪014≫  できれば問題は「情報と社会とPCネットワークと脳と意識」の5項で捉えたい。なぜなら、情報と意識のあいだには社会化されたデバイスが介在するからだ。けれどもノーレットランダーシュはこの介在者たちを本書のなかではいったん棚上げし(いや、それらをたくみに抜き合わせてとも言うべきだが)、ずばり「情報と意識」とを直結して議論するには、問題のおきかたを新たにつくりなおすべきだと、そう提案したのである。 

≪015≫  どういうふうにおいたかというと、次のようにおいた。「われわれがふだん実感していると思っている知覚や判断や意識というものは、はたして〈私〉や〈自分〉のものなのか」というふうに。 また、「われわれがふだん実感していると思っているコンピュータの画面にあらわれている情報は、はたして〈私〉や〈自分〉の何が処理しているものなのか」というふうに。 これ、けっこうな難問である。この難問をすらすらと答えられる者は、そう多くない。 

≪016≫  千夜千冊の読者なら、『皇帝の新しい心』のロジャー・ペンローズ(4夜)、「エス」を探求したゲオルグ・グロデック(582夜)、われわれの意識は脳の複数のドラフトで成立しているとしたダニエル・デネット(969夜)、そもそも紀元前1000年代にそれ以前のバイキャメラル・マインドが崩れて以来、われわれの意識は歪んでしまったと仮説したジュリアン・ジェインズ(1290夜)、身体的なソマティック・マーカーによって意識はマッピングされているとしたアントニオ・ダマシオ(1305夜)、脳の中の水分子が意識のカギを握っているとする中田力(1312夜)などの、脳と意識をめぐる果敢な議論をただちに思い浮かべてくれるかもしれないが、実はこれらには情報デーモンとの関連や、コンピュータ・ネットワークとの関連は同時にはふれられていなかった。 

≪017≫  本書はそこにずかずか介入していったのだ。 本書の351ペーシから数ページをとびとびに引用して、ノーレットランダーシュが問題をどのように立てたのか、その核心的なところを、一気にお目にかけたいと思う。丹念に順を追って読まれたい。「」内が本書の記述部分だ。 

≪018≫  「意識が私たちに示す感覚データは、すでに大幅に処理されている」。ところが「意識はそうとは教えてくれない」。 意識はそんなこと、知っちゃいないのだ。では意識はどうなっているかといえば、「意識が示すものは生(なま)のデータのように思えるが、実はコンテクストというカプセルに包まれている」。「そのカプセルがなければ、私たちの経験はまったく別物になる」。 

≪019≫  つまり、「意識の内容は、人がそれを経験する前にすでに処理され、削除され、あるコンテクストの中におかれている」だけなのだ。「意識的経験」というものはあるが、それは、そもそも「すでに、あるコンテクストの中におかれている」という、そういう根本的な「深さをもっている」ところで動いているにすぎないのである。 

≪020≫  もちろん、脳においては「たくさんの情報が処理済みではある」。けれども「その情報が私たちに示されることはない」。「意識的自覚がおこる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる」からである。  

≪021≫  しかし「その捨てられた情報は示されない」。だが実は、おそらく「経験そのものは、この捨てられた情報にこそもとづいている」はずなのだ。 

≪022≫  考えてみてほしい。「私たちは感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは、経験しない」。すなわち「物事を経験するときに、アタマの中でなされる膨大な量の仕事は経験しない」のだ。しかし「ほんとうは、感覚は、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果」なのである。 いいかえれば「意識は深さ」なのである。ところが私たちはそれを「表層として体験する」というふうにしか経験できない。 

≪023≫  ここまではいいだろうか。世阿弥(118夜)の「我見」と「離見」を問題にしているわけだ。では、さらに説明してみたい。 

≪024≫  ノーレットランダーシュの見方によると、「意識は、世界に対する大幅に異なる二つのアプローチを結びつけるというトリックをやってのけている」。二つのアプローチとは、一方は「外界から感じる刺激にまつわるアプローチ」というもので、もう一方は「そういう体験を説明するためにもつイメージに関するもの」である。 

≪025≫  「人は生の感覚データを経験するわけではない。光の波長計を見るのでははなく、多彩な色を見る。ニュースキャスターの声は」キャスターの口から聞こえてくるのではなく、「テレビから聞こえる」。「キスをされたとき、蚊に刺されたのかもしれないとは思わない」。私たちは「そういう色やニュースキャスターの声やキスを、いまここでおきているかのように経験する。あたかも自分が体験している通りのものであるかのように、経験する」。だが実は「それらはシミュレーションの結果なのだ」。  

≪026≫  「人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーション」なのである。つまりは「感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説」にすぎないのである。「このシミュレーションを人は体験している」。「物事自体を体験しているのではない。物事を感知はするが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ」。 

≪027≫  このことは何を意味するのか。「非常に意味深長な事柄を」示している。人が直接体験するのは錯覚(イリュージョン)であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す」のである。 だとすれば、「この錯覚こそが意識の核であり、意味のある形で経験される世界なのである」。 

028≫  諸君もそろそろ、ノーレットランダーシュが驚くべきことを指摘しようとしていることを察知してきたのではないだろうか。もう少し、進めよう。  

≪029≫  「なぜ、人は感覚器官から入ってくるものを経験しないのか」。「それは毎秒何百万ビットという、あまりに多くのインプットがあるからだ」。それゆえ「感知するもののごく一部、すなわちそのコンテクストで意味するものだけを経験する」ようにした。それなら、なぜ私たちには「経験するデータが処理済みであること、そしてほんの少しの情報が示される前に、膨大な量の情報が捨てられていることが、わからないのだろうか」。 

≪030≫  またまたなかなかの難問だが、こう、推理できる。 「この深さに達するには時間がかかるが」、「そのあいだになされる途方もない量の計算は、この世界における私たちの行動に関係がない」からだというふうに。私たちは「結びつけ問題」を解決しないでは、「何も経験できない」からであろうというふうに。 

≪031≫  これについてはちょっとした証拠もある。「ベンジャミン・リベットは、感覚器官から脳につながる特殊系の神経線維が、感覚の時間調整を許していることを実証した」。「非特殊系の神経線維が0・5秒の活動をおこし、その結果、経験されうるようになるまで、その感覚は経験されない」ということを、突き止めたのである。もしこの「0・5秒がなかったら、私たちは現実の認識に乱れを経験する」にちがいない。 

≪032≫  おそらく「意識は、周囲の世界について、意味あるイメージを示さなくてはならないので」、どうしても「遅れてしまう」のだ。それでも「示されるイメージは、まさにその周囲の世界のイメージなのである」。それはしかし「脳によってなされる仕事のイメージではない」とも言わなければならない。 

≪033≫  私たちにおいては、事態はたしかに「感知、シミュレーション、経験の順におこる」。けれども、この途中の「シミュレーションのところ」は「経験から外される」。こうして「私たちは、編集された感覚を未編集のものとして体験する」わけなのである。 

≪034≫  この最後のところを、もう一度読んでもらいたい。「こうして私たちは、編集された感覚を未編集のものとして体験するわけなのである」! 

≪035≫  おわかりか。わかってもらえているかどうか心配なので、老婆心ならぬ老人心で念のため説明するが、ノーレットランダーシュは次のようなところに問題の本体があると言ったのだ。  

≪036≫  われわれは「脳におけるシミュレーション編集のプロセス」と、われわれが実感として周囲の世界から感知していると思っている「現実的な編集的判断」とのあいだを注目すべきなのである。 

≪037≫  ここには、きわめて決定的な「遅れ」や「ずれ」がある。われわれはこのことを知らされないようになっているのだけれど、その「知らされていないところ」に注目し、そのことがひょっとして「意識」の正体の基本のコンポーネントをつくってきたのではないかと、そう仮説してもいいのではないか。 本書はこのように問題を設定してみせたのである。 

038≫  ベンジャミン・リベットの実験とその結果にもとづく瞠目の「0・5秒の遅れ」仮説については、本書で多くのページがさかれているのだが、今夜は省略する。むろんぼくはそのエビデンスを科学的に評価できるわけではないが、本書がこの結果と仮説にもとづいている以上は、前提として受け入れたい。 

039≫  まことに刺激に富んだ議論設定だった。これこそ編集工学の核心のひとつでもあると、ぼくには思えた。でも、これって芭蕉(991夜)じゃないか、芭蕉が山寺に居ることと、「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」と詠んだ“あいだ”の問題じゃないかとも思った。 

≪040≫  それでは、この「遅れ」や「ずれ」による二つのアプローチの差によっておこっていること、すなわち、二つのあいだのトリッキーな「あやしい現象」を、いったいどう見立てればいいのか。どう名付ければいいのか。いよいよ問題はそこである。ノーレットランダーシュはここに、コンピュータ設計のときに以前からとりこまれていた、あの〈ユーザーイリュージョン〉という概念をつかうことにした。 

≪041≫  ユーザーイリュージョンという概念を最初につかったのは、1980年前後ののアラン・ケイである。そのころアラン・ケイは初期シリコンバレーのゼロックス社のパロアルト研究所にいた。

≪042≫  当時のパロアルト研究所はほぼ10年をかけ、3世代にわたって「スモールトーク」(Smalltalk)を開発していた。これは、驚くほどの潜在能力をもつオブジェクト指向型のプログラミング言語で、このスモールトークをつかって、アラン・ケイのチームは「ダイナブック」(DynaBook)という世界史上初のパーソナルコンピューティングの作法のあらかたを設計しようとしていた。ダイナミックメディア(メタメディア)としての機能をもったエレクトロニック・デバイスの“本”のようなものを構築したのだ。プログラマーにチャック・サッカーとダン・インガルスが立った。

043≫  ところが、当時のゼロックスの上層部はこの設計の実装と商品化には展望がないと決定し、それがアップル社に譲られて、例のマッキントッシュの奇蹟的誕生につながったわけだった。

044≫  ゼロックス社がおバカで、アップル社がお利口であったことは、この際はどうでもいい。経営陣なんて、3年おきにおバカとお利口を繰り返すものなのだ。スモールトークとアラン・ケイが何をめざしたのかが、そこを本書がどう見たのかが大事な問題だ。 

045≫  何をめざしたのかといえば、コンピュータの前のユーザーはコンピュータの中の回路やマシン言語をいじるのではなく、自分が感知したり判断したりする世界とコミュニケーションしたいのだから、新たなコンピュータ、つまり「ユーザーパーソナルなコンピュータ」、つまりは「パソコン」は、そのような実感がもてる〈ユーザーイリュージョン〉をもてるものでなければならず、そのためのユーザーインターフェースを提供するべきだということだったのである。 

≪046≫ いまでは、この設計思想にもとづくプロトタイプのことを、「暫定ダイナブック」(Interim Dynabook)と呼んでいる。アラン・ケイは、こう書いている。 「かつてのコンピュータ屋たちは、ユーザーインターフェースをシステムの最後に設計していた。それが、いまでは最初に設計される。なぜ最優先されるようになったかといえば、感覚器官が接するのはコンピュータの使い勝手であるからだ。ゼロックスのパロアルト研究所で、私と同僚たちが〈ユーザーイリュージョン〉と呼んでいたのは、システムの動きとその次にするべきことを、説明もしくは推定できるコンピュータ・イリュージョンを、どうやってつくりあげるかということだった」。 

≪047≫  こうして、マルチウィンドウ、マウスオーバー、位置移動、サイズ変更、ペイントツール、スクロールバーといったインタラクティブな「抜き型」が用意されたのだった。 

≪048≫  ユーザーイリュージョンは、諸君がPCネットワークで毎秒毎分感知していることを成立させた基本戦略なのである。いいかえれば意識戦略なのである。それはきわめて根本的なイリュージョン・トリックであって、かつまた、われわれの意識と情報に関するきわめて根本的なメタファーの活用だったのである。 

≪049≫  ユーザーイリュージョンによるユーザーインターフェースあるいはGUIをつくるということは、ユーザーにマシンの中の実際の0と1などを相手にさせないようにすることであり、そのかわり0と1との複雑な組み合わせで、何ができるかだけを相手にしているようにさせる「情報と意識」の関係にかかわる重大な根本トリックだったのだ。 

≪050≫  いや、たんなるトリックなのではない。これは、われわれのふだんの言動における意識と感知の関係や、思考と判断の関係にもあてはまる。そのように見立てたノーレットランダーシュは、この〈ユーザーイリュージョン〉という用語によって、次のように考えるべきだと気が付いた。「私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのである」と。 

≪051≫  コンピュータの中にはユーザーが見ていないビットのつながりが山ほどあるように、〈自分〉の中にも〈私〉が与り知らない情報が山ほどある。〈私〉は〈自分〉の血液がどうやって心臓と肺のあいだを動いているかなんてことを、知りえない。 

≪052≫  しかし〈私〉はその知りえないことの総体を〈自分〉として統覚しているのだから、そこにはユーザーイリュージョンとしてのそのような「遅れ」や「ずれ」をいかした意識が巧みにはたらいている。 

≪053≫  〈私〉は〈自分〉に何かを命じる上司であって、かつまた〈自分〉の何かに従う秘書なのである。〈私〉は「私は自転車に乗れる」と思っているけれど、実は〈私〉には乗れるのではない。乗れるのは〈自分〉なのである。 これは言ってみれば、〈私〉と〈自分〉のあいだには、どちらがどちらにアプローチするかによって、向きと扱いが異なる双方向型のオブジェクト指向めいたものが「抜き型」ふうに、そして世阿弥の「却来」のように、はたらいているということでもあろう。 

≪054≫  ノーレットランダーシュはそのように見て、意識の正体を構成しているしくみに、スモールトークがもたらしたユーザーイリュージョンの介在を察知したのであった。そして、こういう仮説的な結論を示したのだ。「私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのである」。また「私は、私自身の、私にとってのメタファーなのである」。さらにまた「私は、私自身の、私にとっての編集なのである」。 

≪055≫  ちょっと余談になるが、ぼくは20世紀がおわるころ、リチャード・ワーマン(1296夜)のお誘いでモントレーのTEDに参加したときに、アラン・ケイと出会った。彼はTEDの常連だったのだ。ついでにテッド・ネルソン(ハイパーメディアの提唱者)も常連で、ぼくはかれらと話しこんでばかりいた。 

≪056≫  そのころのアラン・ケイは来たるべき「言語楽器」のヴィジョンに夢中になっていて、楽器を演奏するように言語コミュニケーションできるデバイスを研究開発しているのだと言っていた。その後、まだそういう代物はどのメーカーからも登場していないので、開発はうまくいっていないのだろうが、しかし、彼があいかわらず図抜けたオブジェクト指向の持ち主であることは、すぐにわかった。 

≪057≫  さすがにスモールトークを先見の明をもって開発したチームのアイディアリーダーである。 ぼくも北大の田中譲さんの肝入りでスモールトークとオブジェクト指向を学習させてもらい、それにもとづくプログラム「インテリジェント・パッド」で、京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」や触発連鎖型ブックアーカイブ「図書街」のプロトタイプを開発できた。いずれもぼくなりの〈ユーザーイリュージョン〉を知の連鎖のシステムに応用したものだったが、それもこれもアラン・ケイの初期の発想がとびぬけて秀抜だったことのおかげであった。 

058≫  ちなみに「オブジェクト指向」(object-oriented)とは、マシンとユーザーとのあいだで交わされるすべてのやりとりを、「オブジェクト」が「メッセージ交換」されているとみなせるようにしたプログラミング言語とその環境すべてのことをいう。 

≪059≫  これは単なるデータ構造やモジュールのやりとりではなかった。一言でいえばコードとデータをたくみに連動させ、ユーザーが扱う情報の大半のオブジェクト化をはかったのだ。そのため、「カプセル化」「インヘリタンス(継承)」「ポリモルフィズム(多相性)」という機能をもつようにした。 

≪060≫  スモールトークは、このようなオブジェクト指向がスムーズにはたらけるようにしたプログラミング言語のことである(それ以前、Simulaというオブジェクト指向的なプログラミング言語もあった)。 

061≫  いまではこの考え方は、いくつもの有力なプログラミング言語になっている。C++、Eiffel、Self、Python、Ruby、Java、COBOL、Ceylon‥‥等々。いずれも多くのIT現場で大活躍しているものたちばかりだが、これらの母型がスモールトークなのだ。 

≪062≫  話を戻して、ノーレットランダーシュが〈私〉と〈自分〉を分けて扱っていることの編集工学的効用性について、最後に説明しておきたい。 あらためてまとめると、この見方には二つの視点が絡んでいる。ひとつには、〈私〉と〈自分〉のあいだで情報が0・5秒ほど遅れるということは、それがわれわれにも謎となっている意識の正体の大きな部分を形成しているのではないかというものだ。これは芭蕉における「発句の遅れ」というものだ。 

≪063≫  もうひとつには、そもそも言語や社会をもったわれわれは〈私〉と〈自分〉を分けることでしか、〈私〉も〈自分〉も意識できなかったのではないかというものだ。これは世阿弥が「我見」と「離見」を分けざるをえなかったことにあたる。 われわれの日々のすべては、そしてコンピュータとわれわれの関係は、この二つの絡みぐあいの中にある。 

≪064≫  今夜はティモシー・ゴールウェイの提案に倣って、これをセルフ1(私)とセルフ2(自分)に分けて整理してみよう。セルフ1は意思をもつ主体であり、セルフ2はその意思にかかわらず露呈される主体だ。 

≪065≫  たとえばテニスをしているとき、あそこにスマッシュを決めようと思っているのがセルフ1という〈私〉で、とはいえそんなスマッシュにならないかもしれないほうを演じつづけているのがセルフ2という〈自分〉なのだ。 

≪066≫  われわれもつねにセルフ1とセルフ2の葛藤的関係に悩まされている。「思った通りにいかない」「言ったことと行動が異なってしまう」「思いもよらずに暴言を吐いた」「理性で抑えられない行動をしてしまった」云々云々。だいたいにおいて、セルフ1は自己意識めき、セルフ2は理念っぽい。あるいはセルフ1は線形的で、セルフ2は非線形じみている。 

≪067≫  ふりかえってみれば、歴史上の哲学や宗教というもの、まさにセルフ1とセルフ2のあいだの調整に挑んできた認知哲学と認知科学のオンパレードのようなものだった。調整や対策はいろいろあった。 

≪068≫  孔子はセルフ1を言語とみなし、その言語を正しく使うという「正名」(せいめい)をもってセルフ2を仁や礼の理念的人間像に仕向けようとした。ブッダはセルフ1を座して瞑想させ、セルフ2が解脱状態になるように仕向けて、そのための菩薩道を提案した。アリストテレス(291夜)は、セルフ1がどんなに不調であれ、セルフ2としての人倫が対応すべき外界世界を分類しておこうと考えた。デカルトは強引にセルフ1とセルフ2を直結させて「我思うゆえに我あり」とした。 

≪069≫  オルダス・ハクスリーやアンリ・ミショー(977夜)はメスカリンを服用して、セルフ1をぼやぼやにしておいて、ふだんは気が付かないセルフ2が奥にひそませている「知覚の扉」を開けようとした。この薬用に借りた対策を練った者たちには、阿片使用のボードレール(773夜)からLSD使用のティモシー・リアリー(936夜)までがいる。ちょっとエコなのは、クジラやイルカの研究から意識の中心に関心をもったジョン・C・リリー(207夜)の対策で、セルフ1をアイソレーションタンクにぷかぷか浮かべて何もさせないようにしておいて、セルフ2のほうで好きな交信感覚をたのしもうというものだった。 

≪070≫  科学者たちもセルフ1とセルフ2の実態を調べようとして、ロジャー・スペリーのように左右の脳を分断した実験をしたり、癲癇や認知症を克明に調べようとした。ヴィラヤヌル・ラマチャンドランにあっては、まさに情報デーモンを脳の中に探索して『脳のなかの幽霊』(角川書店)などまで書いた。本書にも科学者たちの奮闘が縷々述べられている。 

≪071≫  これでだいたいの見当がつくだろうが、セルフ1はつねに〈私〉に占められすぎる傾向があり、セルフ2のほうには「神」や「超越者」が盤踞するという傾向がある。 

≪072≫  このようなセルフ1とセルフ2のあいだで、われわれは「意識」「自己」「自覚」「自我」「憂鬱」「快感」などをつくりあげ、他方において「神」「如来」「覚醒」「悟り」「開放」「涅槃」などを想定してきたわけである。そして、これらをめぐって数々の思考実験が試みられ、そこから宗教も自由も民族も、民主も共和も芸術も派生してきたのだった。セルフ1とセルフ2の区別はほったらかしにしたままで。 

≪073≫  いま、そのことがコンピュータ・ネットワークにずぶ濡れになったわれわれの日々のなかで、ふたたび浮上してきたわけだ。そう、考えるべきなのである。 そのコンピュータ・ネットワークには、スモールトーク、ジャヴァ、C++、コボルなどなどのプログラミング言語がくっついたままになっている。 

≪074≫  しかしながら、ここには注目すべき決定的な違いもある。コンピュータ・ネットワークのほうはその設計の当初から〈ユーザーイリュージョン〉がジェネラルに組み込まれていたわけである。人間社会の歴史のほうは、そうなってはいない。さまざまな学説や宗派や思い込みがいまなお連打され続けているわけだ。 

≪075≫  けれどもまた、さらに次のようにも言わなければならないかもしれない。いまやコンピュータ・ユーザーは、自分が使っているPCやケータイやスマホと「意識」とを切り離せなくなってしまっている、というふうに。 

≪076≫  そうだとすると、すべての問題はやはりノーレットランダーシュが本書の全体をつかって試みたように、多くの現象に出入りする情報デーモンを、次から次へと「抜き型」にしていかなければならないはずなのだ。 

≪077≫  本書は第16章が最終章になっている。「崇高なるもの」というチャプタータイトルが付いている。 情報と意識とのあいだの「相転移」の可能性が語られ、情報と意識の絡み合いから脱出しようとしたセーレン・キルケゴール、ニールス・ボーア、クルト・ゲーデル(1058夜)、ロバート・オーンスタイン、セオドア・ローザック(366夜)らの試みが紹介され、デンマーク語の“hygge”という言葉が人々に崇高な一体感をもたらすことを暗示して、最後の最後になって“マックスウェルの魔”を想定したジェームズ・クラーク・マックスウェルの次の言葉を引用するのだ。本書の劇的なエンディングになっている。 

≪078≫  「私自身と呼ばれているものによってなされたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」。“魔物”の介在を示唆したマックスウェル自身はユーザーイリュージョンとは無縁だったのである。 

モモが住む廃墟のような円形劇場。

そこへやってくる時間銀行御用達の灰色の男たち。

このお話は凄腕の時間泥棒の暴挙を

可愛いいけれども果敢なモモが

すっかり退治しました、というお話ではない。

ニンゲン本来の時間を

ついに取り戻しましたというお話でもない。

お金を銀行に預けておくと、

利子が利子を生むということを告発した物語だった。

いやエンデは、その多くの作品で

貨幣経済社会を問題にしてきたのである。

これから数夜にわたって、

エンデの物語とその遺言を少しく案内したい。 

≪01≫  読書には「ドッキ」というものがある。ドッキは「読機」だ。その本をいつ読んだのかということ、いつ通過したのかということ、そこにその本とわれわれのあいだにひそむドッキがある。 

≪02≫  ドッキは容易には掴めない。だからドッキなのである。念のために言っておくが、果物に旬があるようにその本に旬があるのではない。そんなものはない。どんな本もその気になればいつだって旬になる。これはシュンドクというもので、「旬読」という。旬読は版元がそれをこよなく願っていて、その本が時代の中に提示されたときに買って読むことが大いに期待されているのだが、けれども本そのものには、実は旬はない。アリストテレス(291夜)も太宰治(507夜)もつねに旬なのだ。だから本というものはいつだって旬読を待っている。 

≪03≫  ところが旬読はなかなかおこらない。それを読み食べるこちら側の時機に問題があるからだ。その本をいつどんな心境やどんな状況で読んだかが、その本についての印象や感想にひどく関係してしまうのに、それがずれるため旬読がおこらない。これはドッキのせいなのである。 

≪04≫  ドッキはそもそもが潜在的なものなので、これを制御したり有利にすることはできない。太宰の『女生徒』や『葉桜と魔笛』をぼくが読んだのは高校時代だったけれど、このときはドッキがよかった。だからやたらに感動した。だからといって、こういうことを自慢してもしょうがない。セレンディップな恩恵として有り難く感じるしかない。ドッキとはそういうものなのだ。 

≪05≫  日本で『モモ』が岩波から刊行されたのは1976年で、ぼくは「遊」の第2期をぶんぶん編集していた頃だった。寝るなんてことが惜しくて、ともかくいろんなディープで過激なことに挑んでいた。 

≪06≫  そんななか、それでも話題になっていた本にはなんとか目を通すという作業だけは欠かしていなかったので、噂の『モモ』も一読した。時間泥棒というアイディアにはなるほど感心したが、全体に寓意が勝ちすぎていておもしろくなかった。ビビガールという“完全無欠な人形”がちらちらと印象に残ったにすぎない。 

≪07≫  このころはSFを片っ端から読んでいた。劇画を読んだのもこの時期だったが、これは勢いで読んだにすぎなかった。なかでJ・G・バラード(80夜)やレイ・ブラッドベリ(110夜)にはついに会いたくなってロンドンやロスアンジェルスにまで行った。きっとチャンスがあればアーサー・クラーク(428夜)やフィリップ・K・ディック(883夜)やトマス・ピンチョン(456夜)とも会っていただろう。  

≪08≫  そういう時機に『モモ』を読んだのだから、いけない。きっと劇画のように読んでしまったのだろう。実はトールキンの『指輪物語』やC・G・ルイスの『ナルニア国ものがたり』もこのあとしばらくして読んだのだが、残念ながらつまらなかった。いずれもドッキが悪かったのだ。『指輪物語』は別役実に薦められたので読んだのだけれど、やはりその一定した寓話力や寓意力に、どうしても感心できなかった。 

≪09≫  というわけでぼくはエンデを旬読すらできなかったのである。それからずいぶん時間がたった。『モモ』を再読したのはごく最近のことで、10カ月ほど前なのである。 

≪010≫  きっかけは河邑厚徳らがまとめた『エンデの遺言』(NHK出版)を読んだせいだった。その『エンデの遺言』を読んだのは反グローバリゼーションの見解を片っ端から読んで、その傍らでハイエク(1337夜)の貨幣論、たとえば『貨幣発行自由化論』(東洋経済新報社)を知り、さらにケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫)にとりあげられているシルビオ・ゲゼルの「スタンプ付き貨幣」のアイディアに、エンデがひとかたならない関心をもっていたことを知ったからだった。 

≪011≫  そこからはジグザグとした読書が数カ月ほど続いて、一方では経済学の本を啄(ついば)みながら、エンデの『遺産相続ゲーム』や『鏡のなかの鏡』を遊ぶというようなことの“折り紙読み”が、あれこれ前後したと思われたい。こういうことはぼくにはよくあることで、新たな集中ドッキをつくりながら世界読書の渦中に自分でどんどこ入っていくという読み方になる。  

≪012≫  ともかくはこうして、ひとつにはゲゼルの自由貨幣論が、もうひとつにはエンデの「お金」に対する思想の片鱗が手元に残ったのだ。ゲゼルのほうのことについては、このあとの千夜千冊にまわすとして、今夜は初読のドッキをまちがえたぼくが、あらためてエンデに“再会”できた感想を、以下、ごくかんたんに披露しておきたい。 

≪013≫  まず、『モモ』である。 物語はよく知られているだろうから紹介しないが、モモという少女が大きな街の古びた廃墟のような円形劇場に住み着く。モモには人の話にじっと耳を傾けるだけで、人々に自信を取り戻させるような不思議な力がそなわっているらしい。 

≪014≫  そのモモのところに「灰色の男」たちがあらわれる。「時間貯蓄銀行」からやってきた灰色の男たちは、人々から時間を奪っていくのが専門の職業になっている。時間を節約して、時間貯蓄銀行にその時間をせっせと預ければ、利子が利子を生んで人生の何十倍もの時間をもつことができるというふれこみだ。モモはこれは時間泥棒だと思う。

≪015≫  けれどもその街の人々は時間泥棒たちの言葉巧みな説得に誘導されて、しだいに余裕のない生活に追い立てられていく。気がつくと時間とともに人生の意味も失っている。モモは盗まれた時間を人々に取り戻すため、カメやカシオペイアとともに灰色の男たちとの戦いに挑んでいく‥‥。ざっといえば、そういうお話である。 

≪016≫  モモは孤児に設定されている。身寄りのない「みなしご」だ。「棄人」や「みなしご」や「孤児」は内村鑑三(250夜)や野口雨情(700夜)が最も重視した社会存在のモデルだった。「歌を忘れたカナリア」を連れてモモのところにやってきた少年も出てくる。 

≪017≫  そんなモモにも親友が二人いる。道路掃除夫のベッボ爺さんは自分で建てた煉瓦とブリキの小屋にいる。どんな話にもにこにこ笑えるが、自分ではほとんど喋らない。観光ガイドの若者ジジは何でもよく喋る。けれどもほとんどが空想で、この街の神話を勝手に作っている。つまりはこのモモを含めた3人は、何も所有していない無所有者たちなのである。当然、無産者でもあった。 

≪018≫  そこへ時間貯蓄銀行の灰色の男たちがやってきて、「みなさん、時間はどこから手に入れますか」と聞き、「それは倹約するしかないでしょう」と説得しまわっていく。たくさんの計算と数字も見せる。すべてを損得勘定で説明できる連中である。時間銀行の銀行員は「時間をあずけてくれたら5年で同額を利子として払う」と言い、時間の節約の仕方を説明する。 

≪019≫  仕事はさっさとすます。老いた母親は養老院に入れて、自分の時間を大事にする。役立たずのセキセイインコの世話の時間ももったいないから、捨てる。とくに歌を唄ったり、友達と遊ぶのを避ける。このようにして時間を節約したぶん、幸福が確実にたまっていく。そう、言うのだ。住人たちは次々に時間が倍になって戻ってくることに狂喜する。 

≪020≫  いったいこのお話は何を書いたのか。 失った時間を取り戻したという話ではない。「時間」を「幸福」と見立てたのでもなかった。エンデはあきらかに時間を「貨幣」と同義とみなしたのである。「時は金なり」の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ。ドッキを失うと、こういうことすら読めてこなかったのである。 

≪021≫  さて、あらためてエンデの作品群をつらつら読んでわかったのは、エンデは同じことを『鏡のなかの鏡』でも、また初期の戯曲の『遺産相続ゲーム』でもメタフォリカルに書いていたことだった。同じことというのは「お金」をめぐるということだ。 

≪022≫  『鏡のなかの鏡』(丘沢静也訳)はカフカ=アインシュタインふうの一種の迷宮小説で、モモに代わってホルという少年が主人公になるのだが、『モモ』よりもずっと挑戦的である。文字だけでできている紳士、デュシャンのガラス絵のような花嫁と花婿、売春宮殿、部屋になっている砂漠、貧しい女王、輪郭を溶かせる男、伝達力を問うブリキ缶、格子のある螺旋階段、市街電車に合図をする白髭‥‥。 

≪023≫  なんともいろいろなものが出てくるが、エンデはこれらを巧みに組み合わせて話を進める。とくに「列車の来ない駅カテドラル」の全面が紙幣でできていることを証かすと、この街のどこかで「奇蹟の金銭増殖」がおこっていることを仄めかす。 

≪024≫  どうやらカテドラルの祭壇がお金を増殖させているらしい。案の定、祭壇についている説教師は大声で「真なるものも商品である!」「お金は万能である!」などと叫んでいる。その意味するところは、「われわれは永遠にわれわれ自身の債権者(グロイビガー)であって、かつまたわれわれ自身の債務者(シュルドナー)である」ということだった。 

≪025≫  なるほど、われわれは何かの債権者であって債務者なのである。何を担保に債権し、債務を感じているのかといえば、生命と社会がもたらすイレギュラーなものいっさいに、債権し、債務を感じているのだ。セイゴオ流にわかりやすくいえば、われわれは生と死という両端の無明(むみょう)に挟まれて危険な日々を生きる不断のリスク・テイカーなのである。いや、そのはずだったのだ。 

≪026≫  ところが「お金」が発達するにつれ、われわれのリスクはすべからく値段に換算されることになった。いまや出産も葬式も、結婚も病気も、洗濯も食事も、教育も音楽も、おいしい水も山の空気さえ、マネーゲームに関与しないものはない。リスクはすっかり貨幣に乗っ取られてしまったのだ。 

≪027≫  エンデが『鏡のなかの鏡』で現代の貨幣経済の陥穽を突いていると最初に指摘したのは、おそらくは『金と魔術』で『ファウスト』の錬金術の近代的意味を解剖してみせたビンスヴァンガー(1374夜)だった。 

≪028≫  ビンスヴァンガーはエンデの遺作となった『ハーメルンの死の舞踏』でも、その問題がとりあげられていると見た。金貨の報酬を得られなかったハーメルンの笛吹き男に子どもたちが誘い出されたことを、エンデは資本主義社会からの次世代の救済というふうに読み替えたというのだ。 

≪029≫  ぼくはエンデが救済の物語を書いたとは判定しないけれど、多くの作品に貨幣経済の影を描こうとしていることは明白だった。 

≪030≫  こうしてやっと『遺産相続ゲーム』を、3ヶ月ほど前に読むことになった。エンデが36歳のときの戯曲処女作である。『モモ』が発表されたのは43歳のときだから、その10年前の作品だ。フランクフルトで上演されながらさんざんな酷評に見舞われたことで有名になった。 

≪031≫  岩波のエンデ全集(9巻)の解説では、平田オリザがなぜに『遺産相続ゲーム』が失敗作なのかをしつこく書いていたが、それは上演上の問題にすぎない。むしろ興味深いのは、エンデはこの戯曲ですでに貨幣経済社会の矛盾を暴こうとしていたということにある。 

≪032≫  そもそも、いったい何がその人間の財産目録かということは、時代によっても社会によっても異なるはずである。15世紀のロンドンの貴族にとっての財産目録とドゴン族の財産目録は一致しっこない。かつては田畑を保有すればそれが石高になったわけだが、いまでは日本の農民の財は土地ではなく農協の作物買い上げ額によって決まる。 

≪033≫  もっとはっきりいえば、財産目録なんていっときの国家の管理物にすぎないともいえるわけで、そのリストと価格には何の普遍性もない。それが今日の社会では、税務署や金融機関が認定する価値判断によって財産が規定されていくばかりなのである。たとえばぼくの財産なんて金高にすればおよそ知れているが、しかし「誰によってもとうてい算定できないもの」とも言えるはずなのだ。 

≪034≫  エンデはこの財産目録が明示できるということに疑問をもった。そのため作品の中では、財産をとりまく人物たちを異様にも、多様にも仕立てた。 

≪035≫  この戯曲の第3幕には、保険会社の社長エーゴン・ゲーリュオンが財産目録を作成している場面が出てくる。思考磁石、星時計、ミツバチの天の梯子、精霊の卵の殻といったわけのわからない財産ばかりが並んで、ゲーリュオンは多幸感に酔いしれ、そのくせそれがどのような値打ちになるのか、焦燥感を禁じえない。ゲーリュオンという名はダンテの『神曲』(913夜)の冒頭近くに出てくる地獄の番人、ジェリオーネのことである。ダンテは「堅気の顔をした竜」と書いたが、エンデはこの人物をブレヒト流の「搾取する者」になりすぎないように設定した。 

≪036≫  もっといろいろな人物が出てくる。公証人のレーオ・アルミニウスは義務を忠実にはたすことでいっさいの紛争に巻き込まれないようにしている。女教師のクララ・ドゥンケルシュタインは論理的なシステムが大好きで、「公平」とは何かということをつねに主張する。年輩の前科者ヤーコプ・ネーベルはどんなときでも大儲けをしようとしている。ゲーリュオンの妻はどんな難問からも逃れてばかりいる。将軍マルクス・シュヴェーラーは全員の幸せのためには暴力が必要だと考えている。 

≪037≫  こんな連中によって遺産相続ゲームはとんでもなく頽廃的になっていく。誰も、何が本当の遺産であるか、わからない。そういう物語なのだ。ここにはエンデがその後に書き綴っていこうとした“モモ的なるもの”がすべて用意されていたわけだった。 

≪038≫  諸君、ドッキとは掴めぬものなのだ。 よほどにセレンディップでないかぎり、本は2度目の読みに入ったほうがいい。ぼくにとっては『モモ』とはそういう物語だったのである。 

≪039≫  では、エンデのドッキが次に何を呼びこんだかということについては、次夜に説明したい。エンデは長らく「老化する紙幣」や「時計がついた貨幣」を夢想しつづけたのだ。それをシルヴィオ・ゲゼルやルドルフ・シュタイナー(33夜)に学んでいたのだ。これ、「エイジング・マネー」とは何かという、とんでもなく大きな問題である。 

≪040≫ 【参考情報】(1)ミヒャエル・エンデについて、その略歴を感想を交えて書いておく。次夜の千夜千冊の下敷きとされたい。 エンデは1929年に南ドイツのバイエルンに生まれた。父親のエドガーは画家で、初期にはエンデのための挿絵も描いた。母親はレース・アクセサリーの店を開いていた。子供時代は父親の絵がよく売れていて、ミュンヘン郊外のパージングに住んだりしていて、そこでエンデのメルヘン風の気質も育まれた。そのころまでは街にやってくるサーカスの一団とも存分な交流をしたようだったが、やがて父親がナチスの文化政策を拒む姿勢を見せたため、経済状態がたちまち悪化していった。のみならず、あろうことかミュンヘン美術館は父親の絵を「無用の長物」と断罪した。 小学校時代のエンデはあまり勉強をしていない。両親も諍いが多くなり、その仲裁をするような子供になっていた。親友も肺炎で死んだ。太っちょのこの親友の死はそうとうに衝撃だったようで、のちに『はてしない物語』のバスチアンとなった。こうなれば、魚やトカゲやカメを飼って遊ぶしかなくなった。そのせいか、10歳前後には「ドリトル先生」シリーズ(55夜)を全部読破した。あっぱれ、あっぱれ。家計は母親が医療体操とマッサージの免許をとって支えるようになっていた。しかしドイツは第二次大戦に突入、生活はとてもひどいものになっていた。エンデはヒトラー・ユーゲントを逃れ、馬との日々を選んだ。 以上の日々の一端は、『ものがたりの余白』(岩波現代文庫)に切々と語られている。インタヴューを担当した田村都志夫は、エンデにおける「負の余白」こそがエンデを形成したと見ている。 

≪041≫ (2)エンデが14歳のとき、ミュンヘンの空襲が激しくなった。夏休みにハンブルクの伯父を訪ねると、そこでも大空襲に会った。翌年はついにカウルバッハ通りの住まいが爆撃され、父親の油絵800点がすべて焼失した。 父親がこのように「社会的に傷めつけられる」ということが、少年の心に何をもたらすかは、ぼくには十分な予測がつかないが、もしも「アンチアンチ・オイディプス」ということがあるのなら、きっとそういう擦傷こそがおこったことだろう。召集令状を受け取ったエンデがそれを破り捨て、ガルミッシュからミュンヘン郊外プラーハに疎開していた母のもとに80キロを歩き続けたというのは、そして「バイエルン自由行動」という反ナチス抵抗組織の16歳の伝書係りとなって爆撃の町々を走り抜け続けたというのは、社会的軍隊性というオイディプスに対する反撃でもあったにちがいない。 戦後がやってきた。ひどいドイツの戦後だ。17歳のエンデはシュタイナーの「キリスト者共同体」に出入りするようになった。そこで3年歳上の少女に恋をするのだが、その仲を少女の両親が裂くため、エンデはシュトゥトガルトのシュタイナー学校に転校させられた。その両親が授業料を負担したらしい。しかし、ここはエンデの才能を開花させる編集学校だった。たちまち演劇に傾倒し、友達と屋根裏を借りて「屋根裏劇場」をつくると、コクトーの『オルフェ』を翻訳上演したり、ヒロシマに捧げる処女戯曲『時は迫る』を書いたりした。 こうしたなか、敗戦ドイツに通貨改革が施行されるのだ。一方で、エンデは働いてその通貨を受け取り、他方では社会がもたらす貨幣価値の変転に疑問をもっていく。もっと表現を過激にしたくなったエンデは、19歳でオットー・ファルケンベルク演劇学校に進み、ブレヒトの演劇理論を浴びた。このころ、ラジオで聞いたインゲボルグ・ホフマンの朗読を聞いて魂が震えた。インゲボルグはのちのエンデの伴侶となった。8歳の年上だった。 

≪042≫ (3)23歳から26歳まで、エンデはミュンヘンのキャバレー(97夜)に出入りして、歌やコントを書いて糊口をしのぎ、さらにバイエルン放送局で6年にわたって映画批評の番組をもった。黒沢明や溝口健二に惹かれたのはこのころだ。のちにラフカディオ・ハーンの怪談にも魅せられ、『牡丹灯籠』をラジオドラマに仕立てたりもしている。 しかし、精気を取り戻した父親にはてこずった。エンデと同年代のロッテ・シュレーゲルと同棲を始め、母親を絶望させた。母は父の絵にナイフを入れ、自殺をはかったが、エンデがなんとかこれをとりなした。やっとの思いで、エンデはイタリアのサンアンドレアを旅行する。27歳のときにはどうやら父との和解をはたしたようだ。 28歳はひとつの転機になっている。ひとつにはブレヒト理論に見切りをつけた。リアリズムでは自分の表現がまとまらないと見通したのだ。もうひとつはグラフィックデザイナーになった友人から絵本の共同制作をもちかけられて、筆に任せて書いたところ500枚の大作となった。これが『ジムボタン』のプロトタイプで、その後に『ジムボタンの機関車大冒険』になり、ドイツ児童文学賞を受賞した。 30歳代、エンデはインゲボルグと結婚、『遺産相続ゲーム』を組み立てた。上記にも書いたように、この作品はフランクフルトで初演されたのだが、さんざんな酷評にあった。演出家がまったく戯曲を理解できなかったという、お寒いマッチングだった。そんなところへ西ドイツ放送局からテレビ・ドラマの依頼がきた。そこで構想されのが『モモ』である。1966年、37歳のときだ。このあたりのことについて、エンデは井上ひさし(975夜)と『三つの鏡』(朝日新聞社)と語りあっている。 

043≫ (4)『モモ』は1972年に完成出版された。センダックの挿絵を希望したが果たされず、やむなく自分で絵を描いた。どうもエンデのやることは計画通りにいかない。しかし、それでも少しずつ根底にひそむものが起爆していった。翌年、母親が死に、次の表現作品に向かうことになった。 それは3年がかりで50歳のときに脱稿する『はてしない物語』なのだが、そのため、エンデは日本を訪れている。約半月にわたる滞在で、佐藤真理子の案内のもと、能・歌舞伎・禅寺・弓などを堪能している。『M・エンデが読んだ本』(岩波書店)には、『荘子』(726夜)とともにヘリゲルの『弓と禅』が大事そうにとりあげられている。 ちなみに『M・エンデが読んだ本』には、ノヴァーリス、ゲーテ、シラー、マイリンク、グリム兄弟、ドストエフスキー、カフカ、リルケ、ストリンドベリ、ボルヘス、シュタイナー、ガルシア・マルケス、ルネ・ホッケ、トールキンなどが挙げられている。 実はエンデの名が世界的に知られるようになったのは、やっと『はてしない物語』のあとからで、このときついでに『モモ』がベストセラーになった。1980年、51歳のときだ。いくつかの賞も受けたが、ポーランドのヤヌシュ・コルチャック賞は全額を児童施設に寄付した。ナチスの犠牲になった子供たちのために自身の命を懸けたヤヌシュを記念した賞であったからだ。 『はてしない物語』は映画化にも着手された。しかしエンデは自分が指定した脚本と監督ではないチームによって映画化が進行していることを知らず、抗議のために撮影所に駆けつけるのだが、入所を拒否される憂き目にあっている。なんともいつもバツが悪いのだ。やむなくエンデはタイトルロールから「原作者」の名を削らせた。こうしてエンデが10年来の鬱屈を作品に昇華したのが、タルコフスキー(527夜)ばりの『鏡のなかの鏡』なのである。 しかしこのころ、エンデこそ時間を泥棒されていたのだろう。63歳には食道炎に罹り、翌年には胃潰瘍となり、65歳でウルム大学病院でガンを発見され、抗ガン剤治療に入ったのだが、1995年8月28日、65歳で亡くなった。モモは駆けつけなかったのだろうか。 

≪042≫ (3)23歳から26歳まで、エンデはミュンヘンのキャバレー(97夜)に出入りして、歌やコントを書いて糊口をしのぎ、さらにバイエルン放送局で6年にわたって映画批評の番組をもった。黒沢明や溝口健二に惹かれたのはこのころだ。のちにラフカディオ・ハーンの怪談にも魅せられ、『牡丹灯籠』をラジオドラマに仕立てたりもしている。 しかし、精気を取り戻した父親にはてこずった。エンデと同年代のロッテ・シュレーゲルと同棲を始め、母親を絶望させた。母は父の絵にナイフを入れ、自殺をはかったが、エンデがなんとかこれをとりなした。やっとの思いで、エンデはイタリアのサンアンドレアを旅行する。27歳のときにはどうやら父との和解をはたしたようだ。 28歳はひとつの転機になっている。ひとつにはブレヒト理論に見切りをつけた。リアリズムでは自分の表現がまとまらないと見通したのだ。もうひとつはグラフィックデザイナーになった友人から絵本の共同制作をもちかけられて、筆に任せて書いたところ500枚の大作となった。これが『ジムボタン』のプロトタイプで、その後に『ジムボタンの機関車大冒険』になり、ドイツ児童文学賞を受賞した。 30歳代、エンデはインゲボルグと結婚、『遺産相続ゲーム』を組み立てた。上記にも書いたように、この作品はフランクフルトで初演されたのだが、さんざんな酷評にあった。演出家がまったく戯曲を理解できなかったという、お寒いマッチングだった。そんなところへ西ドイツ放送局からテレビ・ドラマの依頼がきた。そこで構想されのが『モモ』である。1966年、37歳のときだ。このあたりのことについて、エンデは井上ひさし(975夜)と『三つの鏡』(朝日新聞社)と語りあっている。 

043≫ (4)『モモ』は1972年に完成出版された。センダックの挿絵を希望したが果たされず、やむなく自分で絵を描いた。どうもエンデのやることは計画通りにいかない。しかし、それでも少しずつ根底にひそむものが起爆していった。翌年、母親が死に、次の表現作品に向かうことになった。 それは3年がかりで50歳のときに脱稿する『はてしない物語』なのだが、そのため、エンデは日本を訪れている。約半月にわたる滞在で、佐藤真理子の案内のもと、能・歌舞伎・禅寺・弓などを堪能している。『M・エンデが読んだ本』(岩波書店)には、『荘子』(726夜)とともにヘリゲルの『弓と禅』が大事そうにとりあげられている。 ちなみに『M・エンデが読んだ本』には、ノヴァーリス、ゲーテ、シラー、マイリンク、グリム兄弟、ドストエフスキー、カフカ、リルケ、ストリンドベリ、ボルヘス、シュタイナー、ガルシア・マルケス、ルネ・ホッケ、トールキンなどが挙げられている。 実はエンデの名が世界的に知られるようになったのは、やっと『はてしない物語』のあとからで、このときついでに『モモ』がベストセラーになった。1980年、51歳のときだ。いくつかの賞も受けたが、ポーランドのヤヌシュ・コルチャック賞は全額を児童施設に寄付した。ナチスの犠牲になった子供たちのために自身の命を懸けたヤヌシュを記念した賞であったからだ。 『はてしない物語』は映画化にも着手された。しかしエンデは自分が指定した脚本と監督ではないチームによって映画化が進行していることを知らず、抗議のために撮影所に駆けつけるのだが、入所を拒否される憂き目にあっている。なんともいつもバツが悪いのだ。やむなくエンデはタイトルロールから「原作者」の名を削らせた。こうしてエンデが10年来の鬱屈を作品に昇華したのが、タルコフスキー(527夜)ばりの『鏡のなかの鏡』なのである。 しかしこのころ、エンデこそ時間を泥棒されていたのだろう。63歳には食道炎に罹り、翌年には胃潰瘍となり、65歳でウルム大学病院でガンを発見され、抗ガン剤治療に入ったのだが、1995年8月28日、65歳で亡くなった。モモは駆けつけなかったのだろうか。 

≪01≫  今日、78歳になった。自慢もできないし失望もできない歳だ。とくに感想はないが、来し方行く末が平衡を保ちにくいところにさしかかっているのは実感できる。来し方には川床のように堆積してきたものがそれなりにあり、その川にはぴちぴちした小さな魚たちやおもしろいザリガニたちがいつのまにか棲息しているようだが、行く末のほうは数カ月先のささやかな生態系さえ予想がつかなくなった。 

≪02≫  老いたのかどうかさえさだかではない。同い歳の吉右衛門や寛斎がさきごろ旅立ったのだから、老いはともかく何かの臨界の旗印が近くをうろうろしているのは否めない。 

≪03≫  それでも仕事はあいかわらずで、身近なスタッフの諸君と一緒になっていろいろやっている。これがなければとっくにぼくは消息をくらましていただろう。ゲストたちとのコラボレーションも昔通りに続いている。ただ以前とちがって先方に迷惑がかかるほどに負担をかけているだろうことが気になってきた。かつてはその場のブーツストラップの大半を引き受けていたけれど、いまはみなさんに依存している(おんぶにだっこしてもらっている)ことが多い。これでは隣りの爺さんだ。 

≪04≫  日々のリズムもずいぶん変わってきた。このところ途中で仮眠をとらないと先に進めない。仕事場でも家でもちょっとずつ書斎のリクライニングチェアや家のリビングソファで休む。そういう姿勢になると、ついうとうとする。 

≪05≫  仮眠のように途中で何かを挟まざるをえなくなったことのひとつに、酸素吸入が加わった。去年4月末に左の肺癌の手術をしてからのことで(右肺はその2年前に3分の1を取った)、仕事場にも家にも小ぶりの酸素タンクが置いてあって、そこからチューブを鼻に刺して数十秒か数分ほど酸素をとる。そうすると左の人差し指で測るバイオパルス・オキシメーターが95や97に戻る。遠出をするときは、スタッフがケータイ酸素缶を持ってきてくれる。 

≪06≫  そういうやむをえないことはあれこれあるけれど、ぼくは今日もまた世界読書にとりくんでいる。誕生日だからといって、これは変らない。これはやめない。庭木に水を遣るか小鳥に餌をやるようなもので、千夜千冊がそのルーチンである。千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)の前口上にはこう書いた、「古今の推断と仮説に目を凝らし、東西の擬装と模倣に学んで、なお誰も見たことがない未生の模様をつくっていく」と。 

≪07≫  かくして今夜の千夜千冊にまた新たな援軍が加わった。ネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』だ。 

≪08≫  本書は分析哲学の系譜に属する本で、おそらく多くの読者には面倒な感じがするだろう。著者のグッドマンはクオリアの提唱者クラレンス・ルイスやルドルフ・カルナップの影響を受けていて、いっときはラッセルとホワイトヘッド(995夜・1267夜)の『プリンキア・マテマティカ』(岩波文庫)が集合論こそ数理思考の基本だと説いたにもかかわらず、これに疑問を呈した強者(つわもの)である。  

≪09≫  本書のほかに邦訳されているものとして、『事実・虚構・予言』(勁草書房)、エルキンとの共著『記号主義』(みすず書房)、このほど翻訳された『芸術の言語』(慶応義塾大学出版会)がある。  

≪010≫  書名だけでもいかにも面倒な印象だろうけれど、そこへもってきてメレオロジー(mereology)が駆使できる。メレオロジーは部分と全体の関係(part-whole relation)を扱う数理理論のこと、この用語はスタニスワフ・レシニェフスキの造語だが、グッドマンはこのメレオロジーを表象論にあてはめた。 

≪011≫  そのうえでいささかトリッキーな「グルーの理論」を持ち出して斯界で有名になった。宝石のエメラルドの色をグリーンなのかブルーなのかと決めるのではなく、そこに「グルー」(グリーン+ブルーの曖昧語)という第三の審級の概念を導入することで、グルーから見るとグリーンもブルーも揺れながら幅をもって議論が変形していくことを示して、従来の二択的思考や既存のロジカル・シンキングがいかに縮退した思考にとどまっていたかを、少々ゆるがしたのである。 

≪012≫  そんなことを説明されても一般読者はやっぱり困るだろうが、だからこれまで敬遠されがちにきたのだろうが、ところがどっこいだ。この本は読んだほうがいい。きわめて大事なことを書いている。グッドマンはこう言ったのだ。「われわれはヴァージョンを制作することによって世界を制作する」。 

≪013≫  世界を制作するとは世界のヴァージョンを制作することだというのが本書の内容である。これでピンときたかどうかはわからないが、本人はこんなふうに書いている。 

≪014≫  はるかに印象的なことは、いろいろな科学として、またさまざまな画家や作家の作品として結実したヴァージョンやヴィジョンが、はなはだ多種多様であるという事実だ。また、これらの作品、環境、われわれ自身の洞察、関心、過去の経験などによって形成されたわれわれの知覚にも、ヴァージョンとヴィジョンの非常な多様性が認められる。 

≪015≫  ヴァージョン(version)とはたいへんおもしろい用語だ。もとのラテン語は「転換」という意味で、“vertere“は「向きを変える」というニュアンスをもっている。 

≪016≫  そこからヴァージョンは次のように展開した。①個々に説明や解釈すること、その内容、②改作・脚色・翻案すること、そのされたもの、③原物や原型に対しての異形、変形、改造をあらわしたもの、④演奏者や役者などの解釈・演奏・演出のスタイル、⑤翻訳物、訳された文章、転移した文脈、⑥聖書の訳本。 

≪017≫  ようするに何かの「あらわし」にひそむ要素・機能・属性をなんらかの方法で変換したものすべてがヴァージョンなのである。メタモデルやメタデータがなんらかの方法で動いたもの、その変化のプロセスすべてがヴァージョンなのだ。(このことはホワイトヘッドも気が付いていた)出版業界ではこれを「エディション」と言い、映像・演奏業界ではこれを「テイク」と言う。 

≪018≫  いったんヴァージョンになったものたちは、それぞれが世界の新たな要素・機能・属性(アクチュアル・エンティティ)を担当する。だから適当に選ばれたヴァージョンだけを組み合わせた世界はいくらでもあるし(アート作品の多くがそうだ。たとえば風景画や水墨画を想定すればわかりやすい)、工業製品の多くやIT関連のシステムやソフトがそうである。それらはたいていヴァージョン・アップをめざす。 

≪019≫  そうしたヴァージョンだらけの世界も、じっとしていない。たえず擬(もど)かれたり、準(なぞ)らえられたりする。ヴァージョンどうしで裏をかくこともある。松浦理英子(1062夜)に『裏ヴァージョン』(文春文庫)という傑作があった。二人の女が互いに裏ヴァージョン化していく話だった。 

≪020≫  それはともかくグッドマンは、世界というものはこういうヴァージョンでできてきたのではないか、世界制作とはヴァージョンを発見することではないかと言ったのだ。その通りだろう。まさに編集工学だった。 

≪021≫  世界はいくつかのヴィジョンと、それにまつわるたくさんのヴァージョンでできている。世界を制作するとはヴィジョンとそれに絡まるヴァージョンの群に新たに参画し、その異様なほどの多元性の中に分け入ることなのである。寄せ手をふやして、言寄せに加わっていくことなのだ。 

≪022≫  世界を作っている材料には、たとえば物質、エネルギー、波動、電子、マグマ、遺伝子、大腸菌、シダ、おたまじゃくし、オナガザル、ノイズ、住宅、装飾などがある。これらは世界と一緒に作られてきたか、もしくはその言割り(コトワリ)=「分節されたもの」にあたる。出来のよしあしはべつとして、世界はつねにこうした「手持ちの世界」から作られてきたはずなのである。 

≪023≫  そうだとしたら世界制作とはリメイク(remake)なのである。造物主がいようといまいと、世界はずうっとリメイクされつづけてきたはずだ。だから誰だっていまからでも「手持ちの世界」を土台に世界制作にとりくめばばいい。少しずつでもリメイクに着手していけばいい。 

≪024≫  ぼくはそれをエディティングと呼び、手持ちと援軍の編成体を編集工学と名付けてきた。  

≪025≫  グッドマンはこのことを、世界はどこかしかるべき所、しかるべき時に所与されたものではない、所与を必然と捉える必要はないと述べた。これを「世界の多数性」が標榜されているなどとまとめてはつまらないが(学問はすぐにそういうまとめをしたがるが)、とはいえそんなこと(世界はヴァージョンだということ)はカントもヘーゲル(1708夜)も言ってこなかったことだった。 

≪026≫  多くの近代哲学は世界を「所与された必然」だと捉えようとした。とくにヘーゲルは「所与の体系」にこだわった。しかし、そうではなかったのである。もっと偶発的であり、偶有的だった。世界はもっとコンティンジェントに制作されていて、その重要な骨格さえヴァージョンの組み合わせから構成されるものだったのだ。 

≪027≫  残念ながら、このことを哲学や学術を駆使して証明した試みはきわめて少なかったか、おずおずと言い淀んできたか、もしくはバークリー、カッシーラー、ゴンブリッジ、ブルナーらによって試みられながらもたいていは相対主義だと片付けられてきたことだった。 

≪028≫  グッドマンはこの桎梏を解く。そして、世界制作とは、世界を「ばらす」か「結びつける」か、あるいはこの二つの作業をデュアルに一緒にするかによって成立してきたものだということを証してみせた。デュアルに、というところが眼目だ。 

≪029≫  こんなに大事なことに気付いていながら、本書のページの多くが退屈な記述ととくに格別だとは思えない事例とによって埋められていることは、いまさら驚くにあたらない。グッドマンはそのほかの多くの学者と同様に分析哲学界というギョーカイを意識しすぎているにすぎない。 

≪030≫  ぼくはいつも学術的な本の読書のときはそうしているけれど、そういう著者のギョーカイ的な配慮は引き受けないようにする。当該の本を熟読はするけれど、そこから引き出すものに向かう時はときはギョーカイとの縁を切る。これが編集工学にとりくむコツだ。 

≪031≫  それよりも、ここからは勝手な想像になるのだが、グッドマンが世界制作の方法をヴァージョンとのかかわりによって説明できると思えたのは、グッドマンが哲学研究のかたわら、ボストンで画廊をやっていたことが大きかったではないかと思う。絵や彫刻などのアイコニックなヴァージョンは、美術においてはたいていヴィジョンとして作用していたわけだが、グッドマンはそれを画廊の日々で実感できたにちがいない。画廊に携わってきたことが、ハーバード大学で哲学教授をすることよりもうんと自在な発想をもたらしたのではないか。そんなふうに思うのだ。 

≪032≫  本書の訳者解説にほとんど言及がないので、これまた勝手な想像になるけれど、グッドマンが大学でダンスセンターを創設していたらしいことも、本書の核心に近づける何かのヴァージョンであったのだろうと思う。ちなみに『芸術の言語』という著作は、アートやダンスに触れているものではあるが、芸術にひそむ記号システムの解明に向かいすぎていて、肝心のヴァージョン力を失っていた。研究者たちの芸術論というもの、なかなか際立つものがない。ジョン・ラスキン(1045夜)あるいはジャコメッティ(500夜)から遠ざかってばかりいる。 

≪033≫  それでは、ここからは78歳の爺さんからの冬の「おまけ」ということにする。先にもあげた千夜千冊エディション『編集力』に示した「世界制作=世界編集」のための寄せ方の特色を、蛇足ながら少しだけ案内しておこうと思う。 以下に「V」としてあるのはヴァージョンのことをいう。かなり摘まんであるので、詳しくは『編集力』にあたってほしい。あの本は、ぼくの現代思想ヴァージョン要訣集なのだ。 

≪034≫  【寄せ方Ⅰ】マラルメV→まずはともかく書物に惚れて「類推の魔」をはたらかせるクセをつける。何かを読んだらひたすら連想に耽るのだ。ヴィトゲンシュタインV→世界を説明する言語はすべて「言いかえ」であるとみなす。そのかわりカタルとシメスを両方感じるようにする。ベンヤミンV→認識が敷居をまたぐたびにアウラが変わることに気付く(敷居はメディアが変われば必ず出現する)。カイヨワV→以上の作業でできあがりつつあるドローイング・マップをいろいろの対角線で折ってみる。そして想像力は対角線の上でこそ結ばれることに思いを致す。 

≪035≫  【寄せ方Ⅱ】ロラン・バルトV→自分の夢(ヴィジョン)をテキストの中に発見するように努める。つまり「読み」(自分の何かを解釈したり推断すること)が多様な思考の継続になるように訓練する。フーコーV→どんな図表(タブロー)や標識(サイン)からも「類似」が見えてくるようにする。そのうち「主体」(スジェ)の外に立てるようになる。ジュラール・ジュネットV→物語の中で動くフィギュアの動向を追い、そこに「編集の肖像」を見いだす。それらが相互テキスト、パラテキスト、メタテキスト、ハイパーテキスト、アーキテキストとどのように交わっているかを留意する。この作業はウェブ化された電子社会ではとくに必要だ。アガンベンV→一方で「言葉の鍵」と「イメージの鍵穴」がつくる隙間に注目し、他方で「内なる幼児性と助平」を自覚して、すべての技法のふところとしてのスタンツァ(部屋)を少しずつ用意する。この部屋は古代においては洞窟だったものだ(『全然アート』参照)。ジジェクV→以上のさまざまな方法を動員してアナモルフィック・リーディングに耽り、世界制作は「ないものねだり」によるヴァージョンづくりに始まることをあらためて知る。 

≪036≫  【寄せ方Ⅲ】中村雄二郎V→自分の五感が複合化する共通感覚に着目して、歴史の中の価値観をあらわす概念を、「述語に包摂される主語群」としてあらためて包囲してみる。マイケル・ポランニーV→いったい自分はこれまで何を発見してきたのかということに、思いをめぐらす。おそらく「不意の確証」と「暗黙知」が関与したはずである。このことを自分の興味の対象と結合させて、ダイナミック・オブジェクティブ・カップリングを次々におこしてみる。そのうえで、その動的結合の中からアート・スキル・レリバンスの目途をつける。エドワード・ホールV→世界制作にあっては、われわれは「外分泌学」に向かうといいと思うこと。外に分泌されたもの、それは文化である。文化にひそむプロクセミックス(知覚文化距離)に敏感になり、内なる分泌に対する外なる分泌が世界を覆っていることを知る。ギブソン・佐々木正人V→すべての事物はわれわれに要求特性と創発特性を黙って突き付けている。これをアフォーダンスとして取り出し、その作用に編集性が駆動していることを確認する。 

≪037≫  【寄せ方Ⅳ】ガブリエル・タルドV→世界は発明と模倣の歴史の連続だ。いったい何が模倣され、何がギミックになり、何かイミテートされ、何がシミュラークルになったのか。そのいっさいの流れを情報編集の歴史として俯瞰する。機械工学・川瀬敏彦V→システムもまた何かを模倣してきた。そのためにモデル思考を積み重ねてきた。モデリングの秘訣はAの設計のためにBなるヴァージョンをつくってみて、これを比較検証することにある。このデュアリティ(双対性)から機械工学も編集工学も生まれる。世界制作はヴアージョン間をどのようにリバース・エンジニアリングするかにかかっている。 

≪038≫  【寄せ方Ⅴ】認知言語論・鈴木宏昭V→編集的世界制作を推進する力はアナロジー(類推)にある。アナロジーが編集力をもつには、任意のイメージ(像・事態・対象物)がどんなプロフィールをとるかということを、B(ベース)からT(ターゲット)に向かうP(プロフィール)の変化様相ととらえて追跡するのがいい。このとき、同型・準同型・擬同型が少しずつ動いているのがわかる。バーバラ・スタフォードV→イメージのヴァージョンは「くっつく」か「のっとる」かで変化する。アナロジーはそれを「つなぐ」か「組み合わせる」かさせがら走っていく。編集工学はイメージング・サイエンスをめざしている。パースV→以上すべての方法にとって、発想法もしくは構成法として欠かせないのがアブダクションだ。先行するものが仮説的アブダクションによって変形する可能性をもつことを、いっときも軽視してはならない。世界制作はこの出発点の仮説的変形によって、多様なヴァージョンをもちうるのである。 

≪039≫  どうも風変わりな千夜千冊になった。ネルソン・グッドマンにかこつけて編集工学による世界制作の秘密を上書き(更新登録)したような書き方になったが、まあ、いいだろう。ついでながらちょっと付け加えたいことがある。 

≪040≫  最近、遊刊エディストで「おっかけ千夜千冊」というラジオ番組が始まっている。編集工学研究所の吉村堅樹君と穂積晴明君が掛け合いでアップロードされたばかりの千夜千冊をそのつど追っかけるというもので、「おつ千」の名で一挙に人気が出ているのだが、これが千夜を書いている当人(ぼくのこと)が聴いてもたいへんおもしろく、タメになる。林頭(りんとう)こと吉村君の縦横無尽に穂積が食らいついているのがおもしろいのだ。 

≪041≫  今夜の『世界制作の方法』がどんな「おつ千」になるのかわからないが、実は冒頭から「おつ千」に向けて綴り始めていたような気もするのである。78歳になった夜に書いたせいもあるだろうけれど、「おつ千」の絶妙な掛け合いに、ついつい歌合わせをしているような気分になったのかもしれない。これは以前から大事にしてきた「番」(つがう)という感覚にもよる。 

≪042≫  世の中には追っかけているものも、追っかけられているものもかなりある。先だって91歳で亡くなったチャック・ベリーの追悼番組を見たが、ビートルズもブルース・スプリングスティーンもエリック・クラプトンもチャック化しているのに聴き惚れた。かれらとコラボしているチャック本人もチャック化するのだ。 

≪043≫  山田洋次の寅さんも、監督本人が自分で手掛けた作品に追っかけられながらメガホンをとりつづけたのだろうと思う。寅さんは制作的に打つ手のすべてをヴァージョンにしようとしているわけで、たんに手を替え品を変えているのではない。こういう未到の経験は他人がとやかく口を挟めない。 

≪044≫  ユーミンがゴートクジの本楼に来たとき、ずうっとシンガーソングライターをやり続けることについてちょっと話を交わしたことがあるのだが、ユーミンであってユーミンじゃないユーミンをユーミンが演じていくようなものよ、と言っていたのがすこぶる印象的だった。 

≪045≫  千夜千冊にもそういうことがのべつおこっている。その千夜を角川のエディションではいろいろ入れ替え、組み直して構成し、もとの文章をそうとう加筆訂正しているのも、やっている本人による本人追っかけなのである。 

≪046≫  談志さんが亡くなる数年前に「談志十時間」というNHKの番組に出た。なぜか対談相手に選ばれて収録対談をしたのだが(志の輔らの弟子たちは師匠に叱られるやりとりが番組になるのを嫌がってみんな降りた)、終わっての雑談のとき、こんなことを洩していたのが滲みた。ねえセンセ(なぜかぼくのことをそう呼ぶ)、落語って自分で自分の落語をどのくらい追っかけられるかなんですよ。でも、喋りはじめてすぐにこりゃ違うぞと気がつくとね、これは二重三重の蟻地獄みたいなもんでねと言っていたのである。たいへんよくわかる。きっと三浦カズもそんな気分の回り灯籠で闘いつづけることがどういうものか、よくよく知っていることだろう。 

≪047≫  こういう話にくらべると、多くの諸君はあまりにも「継続」から逃げようとしすぎているのではないですか。自分が自分のつまらないヴァージョンであることに嫌気がさしているのではないですか。それはねえ、まちがっているよ。自分のヴァージョンとヴァージョンの隙間に「世界」を入れ込めることを看過しすぎているのです。 

≪048≫  世界制作とヴァージョンの関係は、実はまだまだこれから語られることになるだろう議題だ。「おまけ」ながら、このことをぼく自身にも刻印しておきたかったのである。あらあら、かしこ、あなかしこ。 

≪01≫ ◉1意識、2自己意識、3理性、4精神、5宗教、6絶対知  

≪02≫  今夜の千夜千冊は長谷川宏さんの新訳で話題になったヘーゲルの『精神現象学』を採り上げるけれど、話はうんとさかのぼって、ぼくが早稲田の一年にいたときの秋の、ちょっぴり苦い話から始めたい。 

≪03≫   マルクスの『ヘーゲル批判』(新潮社「マルエン選集」第一巻)の読み合わせ会に出たのだ。城塚登訳の「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」と日高晋訳の「ヘーゲル法哲学批判」の共読だ。当時の革マル派の拠点のひとつであった早稲田大学新聞会の主催で、のちに宝島社をおこした鈴木(石井)慎二のすすめで参加した。慎二さんはぼくが九段高校で新聞部にいたときの三年生で、そのころから多弁多論派のジャーナリスティックな先輩だった。その後も何かと面倒をみようとしてくれていたが、それが「オルグ」だということは、しばらくあとでわかった。 

≪04≫  読み合わせをしてみると、マルクスの言葉づかいの切れ味と逆説的な言いまわしでヘーゲルが木っ端微塵の仕打ちを受けているのが風呂上りのようななかなかの快感で、だからマルクスの言い分にはそこそこ入りこめたのだが、ただ少し変な気分にもなっていた。これでは肝心のヘーゲルのことがさっぱりわからない。打倒の標的となったヘーゲルのことが少しくらいは見えないと、マルクスの狙いがいまひとつ掴めない。 

≪05≫  高田馬場の古本屋でヘーゲルを物色した。棚から本を手にしつつ一瞥一感、マルクスはこんな途方もない分厚い相手を一撃で倒す気になったのかとびっくりした。何から入ったらいいのかわからなかったけれど、樫山欽四郎訳の『精神現象学』にした。 

≪06≫  初めて読むヘーゲルは樫山訳の苦虫を噛みつぶしたような言葉づかいのせいもあって、そうとうに執拗な中身だったが、それにもかかわらず構想の全容に何かが漲っているのが伝わってきて、みっちりとした絨毯の模様を読むようだった。 

≪07≫  しばらく鞄の中に『精神現象学』を持ち歩いていたので、あるとき新聞会の先輩から「なんだヘーゲルなんか読んでるのか。逆立ちするぞ」と揶揄された。「でもマルクスだってヘーゲルを読んだんだから、やっぱり一応はぼくも……」とかなんとか説明しようとしたと思うのだが、すかさず「だからお前は歴史主義なんだよ」と一蹴された。逆立ちとか歴史主義という用語がピンとこなかったけれど、ケチがついたぶん、意地になって『精神現象学』を鉛筆なめなめ読んでみた。 

≪08≫  1「意識」、2「自己意識」、3「理性」、4「精神」、5「宗教」、6「絶対知」という構成である。半分以上は退屈で、残りの半分はうねうねした説明に参ったのだが、まさに「意識→自己意識→理性→絶対知」の順に、読み手が絨毯模様の中で絶対知に向かうようになるはずだという意図には惹かれた。 

≪09≫  とくに3「理性」の中ほどに「頭蓋論」という一節が出てきて、生物が進化してヒトになり、自己意識が脳(頭蓋)にまで昇りつめたのだが、そこで転回をおこすべきだというところに、ハッとさせられた。『精神現象学』は頭蓋論のところで折り返されていたのである。ドイツの観念哲学は折り返すのかと思った。 

≪010≫  人間は進化のあげく巨大で濃密な脳神経系を得た。それが言葉や道具を発明させ、家族や国家や文学や建物や音楽をつくりだしもした。もしも生命史を通した「意識あるいは精神の歴史」というものがあるとするなら、その発端は「物質が情報高分子になって光合成とDNAを操るようになったこと」にあり、その現在は「脳が自己と意識をもって全物質史と全生命史と全文明史を眺めていること」にある。  

≪011≫  ヘーゲルの時代は十八世紀晩期から十九世紀前半にかけての時期だから、遺伝子のことも光合成のことも脳のこともほとんど見えてはいない。つまり「情報」についてはまったくなんらの展望ができていなかった。けれどもヘーゲルは、この長大な「物質が精神に変じてきた歴史」のプロセスに、自分自身が属していることをもって、その変遷を自覚するにはどうすればいいかについて考えたのだろうと思う。そして、「自分の脳」が「物質の歴史」を「精神の歴史」に読み替えているのだろうと確信したのだろう。 

≪012≫  『精神現象学』のプランは、人間の頭蓋の中に「脳」という「意識によって世界を観察する力」(理性や知性)が成熟し、そこから転回がおこって、その理性や知性が世界の変遷の真相を求めて精神をフルに燃焼させ、すべてをひっさげたうえで絶対知に向かうのではないかというものだったのだ。 

≪013≫  この大胆なプランによる大冊が発表刊行されたのは一八〇七年のことである。一八〇七年がどんな年だったかということは、あとでふれる。 

≪022≫ ◉「フィヒテはカントを超えている」 ヘーゲルのフルネームは、ドイツ人はみんなそうだけれど、長ったらしい。ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルという。一七七〇年八月にシュトゥットガルトの主税局で書記官をしていた父親のもとに長男として生まれた。母親は家庭教育に熱心で、三歳でドイツ語学校に、五歳でラテン語学校に、七歳からはギムナジウムに通った。両親はヴィルヘルムと呼んでいた。 

≪023≫  一七七〇年はカントの『感性界と叡知界の形式と原理について』やヘルダーの『言語起源論』が書かれた年で、その後はゲーテの『若きウェルテルの悩み』やレッシングの『賢者ナータン』が立てつづけに出版され話題となった。ドイツ人の眠りがゆっくりと覚めつつあった時期である。 

≪024≫  しかし隣りのフランスではディドロの『ダランベールの夢』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』第一巻が、イギリスではヒュームの著作群やアダム・スミスの『国富論』が登場し、アメリカでは独立戦争が始まっていた。イギリス経験論と大陸合理論と新大陸アメリカ主義とが一挙に蠢動していたのである。目覚めつつあったとはいえ、ドイツは分国状態のままで、国際舞台の最前線からかなり遅れていた。 

≪025≫  一七八八年、十八歳のヘーゲルはシュトゥットガルトのギムナジウムの少年浪漫の日々を了えて、南ドイツのテュービンゲン大学の付属神学校に入る。三〇人の新入生の中にのちに詩人となったフリードリッヒ・ヘルダーリンがいて、二年後にはフリードリッヒ・シェリングが入学してきた。ヘーゲルとヘルダーリンが同い歳で(ベートーヴェンも同い歳)、シェリングはすこしおませで、五歳年下だった。この一七八八年というのはカントの『実践理性批判』第一版が発表された年だから、哲学史にとっては象徴的な年にあたる。 

≪026≫  三人のフリードリッヒはとても仲良しで、寄宿舎の同じ部屋で何度も話しこんだり、一緒に郊外の森に「自由の樹」を植えたりした。有名な話だが、ヘーゲルはヘルダーリンのノートに「ヘン・カイ・パン」(hen kai pan)と書き込んだ。ギリシア語で「一つですべて」という意味だ。クセノファネスが言い出したことで、その後は中世神学の汎神論のテーゼになったものだが、いかにも青年ヘーゲルの気概があらわれている。 

≪027≫  時代はドタンバタンと動いていた。そのうち神学校は、一七八九年のバスチーユ解放とともに狼煙をあげたフランス革命の話で持ちきりになった。フランスの新聞やパンフレットを読みあさる学生サークルもできた。学生たちのあいだに神学校に対する不満が募り、理性による神学問答に対する疑問が交わされるようになっていた。 

≪028≫  そんなとき、天才肌のシェリングが「おい、フィヒテはカントを超えているぞ」と言いだした。ヘーゲルはギョッとし、その指摘を補うものが自分にないことを感じる。慌ててフィヒテの「知識学」に関する論文群(のちの『全知識学の基礎』)を読み、そこに知識ではなくて「知識学という束」が世界史を展望してきたという構想があったことに腰を抜かした。さらにさかのぼってカントの『純粋理性批判』やその後の三部作を比較しながら読んでみて、神や自然や歴史に対する人間の理性や知性がどういうはたらきをもったのか、もちうるのか、大いに考えこんでいく。 

≪029≫  三人のフリードリッヒは神学校の内外で、こういうことをのべつ交わしていたのだろう。だから三人の熱い交際の渦中からこそ、このあとのヘーゲル哲学のエスキース(素地)が生まれたと言っていい。ヘーゲルはマルクスが言うほどに独断的でもなく、独創的でもなかったのである。 

≪030≫  当時の神学校はそこを出れば牧師補の資格がとれた。けれどもヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングともにその道には進まず、それぞれあちこちの都市で家庭教師をする。二三歳になったヘーゲルはベルンの町で家庭教師をしながら『イエスの生涯』や『キリスト教の実定性』などの神学論文を書いた。「実定」というのは、キリスト教は人間の内なる自然から生じたものではなく、人間を超えたところで作成されたので、それは実定的なことだったと見たのである。 

≪031≫  一七九六年のクリスマスのとき、シュトゥットガルトに帰郷したヘーゲルは妹の友達のエンデルに惹かれた。ちょっと浮かれてみた。しかし翌年にフランクフルトでヘルダーリンに再会したとき、みんなが前年に出版されたゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のすばらしさを語っていたのにハッとした。ヘーゲルもさっそく新たにシンクレア、ツヴィリングとの友誼のサークルでゲーテをめぐる議論に口角泡をとばすのだが、まだまだロマンチックな考えに憧れていた。一七九九年に父親が亡くなってそれなりの財産を相続したので、本格的に焦るものはなかったようである。 

≪032≫  ただ「おい、フィヒテはカントを超えているぞ」というシェリングの言葉だけがあいからず気になっている。早熟で天才肌のシェリングは弱冠二三歳でイエーナ大学の講師になった。これも羨ましい。 

≪033≫ ◉ナポレオンとドイツ観念哲学 一八〇一年、シェリングを頼ってイエーナに移ったヘーゲルは、自分も大学教授の資格をとりたいと思う。『惑星の軌道に関する哲学的論文』を書いて提出したところ、査定を通った。このころ大半の哲学の学徒はラテン語で惑星軌道論を書いてみせるのが登竜門で、ニュートンの天体的世界観をどう見るかが哲学の基礎問題とみなされていたからだ(このことは近世ヨーロッパ哲学の規範として無視しがたい)。 

≪034≫  シェリングはヘーゲルをワイマールのゲーテのところに連れていった。当時の知識人のあいだで定番の儀式のようになっていた「ゲーテ参り」だ。ゲーテは一七七五年冬からは、十八歳のカール・アウグスト公からの招聘でワイマール公国に移っていた(しばしば各地を遊学するが、のちに永住した)。当時すでにゲーテの活動・研究・文学作品の数々はドイツ人の最高の理性と情熱の結晶として、各方面から崇敬されていた。シェリングとヘーゲルが連れ立って訪れたときも、ゲーテは二人に鉱物学会や植物学会の集いに出入りすることを勧めている。 

≪035≫  ゲーテとドイツ観念哲学の流れについて一言説明しておく。ごくごく大ざっぱにいうと、のちのち「カント→フィヒテ→シェリング→ヘーゲル」と展開していったドイツ哲学の流れを、西洋哲学史では「ドイツ観念論」と一括りに呼んできた。 

≪036≫  ドイツ観念論の系譜だなんて、いかにも太くて厚い哲学の束のように思われるが、実際には短期的に集中した。その期間は一七八一年のカント『純粋理性批判』から一八二一年のヘーゲル『法哲学』までの、わずか四十年間ほどの沸騰である。あれほど有名になったドイツ観念論ではあるけれど、その正味は四十年ほどの異様なフィーバーだったのだ。 

≪037≫  これに対して、一七七〇年から一八三〇年までの六十年間のドイツの精神潮流は、ずうっと「ゲーテの時代」だった。わかりやすくいえば『若きウェルテルの悩み』から『ファウスト』までの六十年間だ。ヘーゲルにはそういう同時代の息吹を読み取る才能がなかったようだが、こういうことにすぐピンとくるのはシェリングだ。シェリングはそのへんにも長けていたので「ゲーテ参り」もしてみせたし、晩生のヘーゲルにワイマール公国の現状も見せておいたのだろう。 

≪038≫  そんなことも手伝って、ヘーゲルはシェリングに感心したまま処女論文の中身を決めることになる。『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』というものだ。今日のヘーゲリアンによって「差異論文」と称されている論文である。年下の親友シェリングの思想の凄さを称えたのである。この論文はフィヒテを媒介にしてシェリングの優位を際立たせ、そのうえでヘーゲル自身の橋頭堡をつくろうとしたものだった。そしてこの直後、ヘーゲルは『精神現象学』の構想にとりかかる。 

≪039≫  ちなみにシェリングはというと、イエーナ大学教授をしていたヴィルヘルム・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の兄、その後のドイツ・ロマン主義の旗手)の奥さん、カロリhttps://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1708_img0202.jpgーネと親密な関係になっていた。あきらかに不倫だが、啓蒙主義時代とドイツ観念論時代は、思想家の大半が不倫をしていたと言ってよい。不倫をしないと思想が武者ぶるいしないのだろう。シェリングはカロリーネを連れてイエーナを去り、ワルツブルク大学に移った。このことは、このあとのヘーゲルとシェリングの分岐を暗示した。 

≪040≫  フランス革命の衝撃以上に、ドイツおよびドイツ人にとって、またフィヒテやヘーゲルにとって決定的だったのは、ナポレオンの登場とドイツへの侵攻である。  

≪041≫  一七九九年にクーデターによってフランス陸軍の指揮権を握ったナポレオンは、その後は破竹の進撃で、一八〇六年七月にライン同盟を結成すると、十月にはイエーナでプロイセン軍を破って進駐してきた。イエーナ大学も閉鎖された。ヘーゲルはイエーナに進軍してきたナポレオンの馬上の姿を見て、「皇帝――この世界霊が、示威のために馬で街を通り抜けていくところを、私は見ました」と書いている。 

≪042≫  ナポレオンその人が「世界霊」すなわち「世界史的個人」と見えたのである。同様の感想を同い歳のベートーヴェンも抱き、交響曲第三番《英雄》を作曲した(あとでナポレオンの権勢欲を知ってナポレオンへの献呈を取り消した)。 

≪043≫  このナポレオンの侵攻に対して、慄然としてドイツ人の魂の高揚を訴えた者がいた。フィヒテである。ベルリン科学アカデミーでの連続講演は『ドイツ国民に告ぐ』というものだった。フィヒテはこのなかで「知識学」の必要を強く訴え、その全貌をもってドイツ人が教育されるべきだと説いていた。 

≪044≫  プロイセン国王だったヴィルヘルム三世もドイツ人に哲学の火を燃やすことに使命を感じ、一八一〇年にヴィルヘルム・フォン・フンボルトをしてベルリン大学を創設させた。フンボルト兄弟の兄で言語人類学をリードした。外交官でもある。弟のアレクサンダー・フォン・フンボルトは博物学や地理学のリーダーで、主著『コスモス』はポーの『ユリイカ』のお手本になった。 

≪045≫  兄のフンボルトは大学が国民精神の養成の拠点になるべきことを訴えた。ナポレオンの侵攻とフィヒテとフンボルトの檄によって、目覚めきれていなかったドイツ人に火が点いたのである。 

≪046≫  こうして「カント以降のドイツ哲学」としてのドイツ観念論と、ゲーテに依拠しつつもドイツ的魂を夢想するドイツ・ロマン主義の勃興が唸りを上げていく。  

≪047≫ ◉精神現象学を仕上げる  閉鎖したイエーナ大学の再開を待ちつつも、ヘーゲルはいったんニュールンベルクのギムナジウムの校長を引き受けたりしながら、自分の構想の基台となるべき『精神現象学』をもとにして、そのまわりを論理学・形而上学・歴史哲学・法学・美学などでかためていこうとしていた。三七歳前後のことだ。 

≪048≫  『精神現象学』は、その正式な書名を『「学問の体系」第一部「精神現象学」』という。ナポレオンの侵攻が目前に迫り、フランス軍が占拠を果たしていた時期なので、かなり一挙に草稿を書いたのだろうと見られているが、実際には「学問の体系」のタイトルにあたる書物は完成せず、第二部としてのテキストも成立しなかった。それでもヘーゲルはあくまで「学問の体系」の理想形を提示したかったのだ。

≪049≫  このことは冒頭の矜持に如実にあらわれている。「われわれの時代が誕生の時代であり、新しい時節への移行の時代であることを知るのは、むずかしいことではない。精神はこれまでの日常世界と観念世界に別れを告げ、それを過去の淵に沈め、変革の作業にとりかかっている。(中略)これはなにか新しいものが近づきつつある前兆である。(中略)全体の外観を変えることのないこうした緩慢な破壊作用が、あるとき突如として様相を一変させ、稲妻のように新しい世界像を一挙に打ち立てるのである」(長谷川宏訳)。  

≪050≫  新しい世界像を突如として打ち立てる宣言をすること、それが『精神現象学』の狙いだったのだ。 

≪051≫  ヘーゲルは何を構想して、何を書きえたのか。それはたとえば、アリストテレスのフィシカ(自然学)とメタフィシカ(形而上学)に代わるものなのか、あるいはライプニッツやデカルトやカントに代わるものなのか。それともフィヒテの知識学の体系に代わるものなのか。少々、問題の対象領域を分けながら説明しておくことにする。 

≪052≫ まず、自然(Natur)についてのヘーゲル以前の考え方であるが、ヨーロッパ哲学においては自然はもっぱらギリシア語の「ピュシス」を原型にしてきた。この言葉はピュオー(成育する)という動詞から派生したもので、生命活動に意図を見るという立場にもとづいている。ローマ時代になるとナトゥーラというラテン語も自然を意味するようになるが(ネイチャーの語源)、こちらも「生む」という意味から派生したもので、スコラ神学ではナトゥーラ・ナトゥラータを「所産的自然」と捉え、これをつくった神をナトゥーラ・ナトゥランス、すなわち「能産的自然」と捉えた。 

≪053≫  神を能産的自然とみなす考え方はその後はスピノザに濃厚で、ドイツでは主にゲーテに多く開花していったと、ぼくは思っている。ゲーテの植物学や形態学はとみに能産的自然の多様なあらわれをめざしている。 

≪054≫  しかし、自然には人間も含まれる。そういう自然から分かれて自立していったかに見える人間という存在の系譜は何なのかといえば、それは「自然の隠れたプラン」だろうと見たのが、カントだった。カントは、自然を目的のある体系だとみなすのは反省的判断力によるもので、自然自体にはそういう判断力はなく、人間の理性や知性が自然に判断力を加えて文明をつくっていったとみなしたのである。 

≪055≫  ヘーゲルはこの見方を踏襲する。それなら、その人間に生じた意識とか自己意識はどのように説明すればいいのか。アリストテレスからカントにいたるまで、そのことには突っ込んではいない。そこでヘーゲルはそこに精神現象学という起爆点をおいた。 

≪056≫ ◉意識から理性へ 『精神現象学』の構成は先にもふれたように、大きくはA「意識」、B「自己意識」、C「理性」というふうに進む。そしてC「理性」がさらに「精神」「宗教」「絶対知」というふうに分かれていく。これらは理性が精神という恰好をとって、期待されるべき到達域(絶対知)に向かって進むレベル(レイヤーあるいはプロセス)をあらわしていた。どのように、こういうふうに進むと見たのか。 

≪057≫  A「意識」のレベルとは、世界に対して自覚のない状態のことで、カントもこのレベルについては言及していて「他律的」だとみなした。けれどもヘーゲルはこういう意識はむしろ「即自的」(an sich)だと見た。世界の状態に自分の状態そのままに依存している意識なのである。 

≪058≫  次のB「自己意識」は自己主張が始まるレベルにあたる。自己意識はときに自分が世界の主役であることを証明しようともするし、他者に対して自己意識の優位をあらわす。そういう自己意識を、ヘーゲルは「対自的」(für sich)だと見た。他者が意識されての自己なのである。 

≪059≫  それがC「理性」になると、なんとかして世界の本質に達しようとするものになる。ヘーゲルは、理性とは「自分こそがすべてにいきわたっているという意識の確信である」と述べている。この確信は「人倫」(Sittlichkeit)と名付けられた。人として守るべき道徳のことで、個人的道徳性(Moralität)に比較される。「人倫」は儒学の用語なので、長谷川さんの訳では柔らかく「共同体精神」というふうにしてある。で、こんなふうになる。「自己意識が理性に高まるとともに、意識と外界との否定的な関係は肯定的な関係に転化する。(略)理性とは、物の世界のすべてに行きわたっているという意識の確信である」。 

≪060≫  ヘーゲルは「精神とは人倫的な現実」のことだと書いたのである。そうだとすれば、人間が理性の原理に従って社会や世界を建設しようとすれば、それは世界の法則に逆らうものではなく、「われわれ」の世界像の本来に向かうものになるはずだ。 

≪061≫  この理性は自然にひっついているものではなく、それらを眺める「観察する理性」である。理性はこれまでの歴史のなかで「理論」という形をもって発揮されてきた「観察する理性」でもあったのだ。どのように発揮されてきたのかといえば、ヘーゲルはそれが「精神」の現象としてあらわれ、ギリシア哲学とかライプニッツの思想とか啓蒙思想とかになってきたとみなした。「観察する理性」はそのすべてではないが、各時代の哲学者たちによって理論理性として議論されてきたものなのだ。 

≪062≫  ヘーゲルとしては、そうした「精神の歴史」をいったん歴史的に回顧する必要があると見たかったのである。そのうえで次の段階に進む必要があるとしたかった。こういう意図だったので、この回顧のプロセスが「意識の経験を追走する」という『精神現象学』独特の記述法になっていったのだろう。  

≪063≫ ◉理性から絶対知へ 一人ずつの人間にとっては精神とは何なのだろうか。精神の現象は感性の段階から始まり(つまり感覚や知覚の段階から始まり)、しだいに知性に及んでいくはずだ。幼児や子供の発達をみれば、このことはすぐに了解できる。 

≪064≫  この場合、プリミティブな感性は実体(Substanz)をそのままリンゴを見るように捉えるのだが、そのうち主体が実体を捉えたというふうになっていく。そうするとリンゴは果実や植物として深まり、そのありかたも多様になる。一般に「理解した」とか「わかった」というのは、そのことだ。 

≪065≫  このプロセスをヘーゲルはとくに重視した。ドイツ語の主体(Subjekt)はもともとは「下に投げられたもの、下に横たわるもの」を意味しているので、感性は主体を通して次の知性のほうへ導くバネになったともみなせる。知性は実体を分けて「分かる」状態にするのである。これはカントのいう判断力にあたる。けれども、なんであれ知性は分解してしまう傾向をもつものでもあるので、ここにはいたずらな抽象化もいろいろおこる。そこにはひからびた抽象や死んだ抽象も混じる。そこで理性の力がこれらの分裂や対立を統一していくという役割をもつ。  

≪066≫  かくて理性は真理をめざしたくなっていく。ヘーゲルはそうみなし、かつ真理をめざすということを「絶対知」に向かうと捉えた。のみならず、絶対知に向かうことで見いだされた真理は必ずや言語によってあらわされうると見た。ヘーゲルが真理を言語であらわしうるとみなしたことは、その後の近現代哲学の大前提になっていく。  

≪063≫ ◉理性から絶対知へ 一人ずつの人間にとっては精神とは何なのだろうか。精神の現象は感性の段階から始まり(つまり感覚や知覚の段階から始まり)、しだいに知性に及んでいくはずだ。幼児や子供の発達をみれば、このことはすぐに了解できる。 

≪064≫  この場合、プリミティブな感性は実体(Substanz)をそのままリンゴを見るように捉えるのだが、そのうち主体が実体を捉えたというふうになっていく。そうするとリンゴは果実や植物として深まり、そのありかたも多様になる。一般に「理解した」とか「わかった」というのは、そのことだ。 

≪065≫  このプロセスをヘーゲルはとくに重視した。ドイツ語の主体(Subjekt)はもともとは「下に投げられたもの、下に横たわるもの」を意味しているので、感性は主体を通して次の知性のほうへ導くバネになったともみなせる。知性は実体を分けて「分かる」状態にするのである。これはカントのいう判断力にあたる。けれども、なんであれ知性は分解してしまう傾向をもつものでもあるので、ここにはいたずらな抽象化もいろいろおこる。そこにはひからびた抽象や死んだ抽象も混じる。そこで理性の力がこれらの分裂や対立を統一していくという役割をもつ。  

≪066≫  かくて理性は真理をめざしたくなっていく。ヘーゲルはそうみなし、かつ真理をめざすということを「絶対知」に向かうと捉えた。のみならず、絶対知に向かうことで見いだされた真理は必ずや言語によってあらわされうると見た。ヘーゲルが真理を言語であらわしうるとみなしたことは、その後の近現代哲学の大前提になっていく。  

≪067≫  こうして、理性の特徴を描いた『精神現象学』の展開は、理性が宗教的なものになり、芸術的なものになりながら(自然宗教→芸術宗教→啓示宗教といった様相を見せながら)、ついには絶対知の領域に入っていくのである。こう、書いている。「(精神の最後の形態とは)完全にして真なる内容に、自己という形式をあたえ、もって、概念を実現するとともに、現実のなかで概念を堅持する精神だが、それこそが絶対の知である」。「(絶対知とは)精神の形態のうちに自己を知る精神であり、概念的な知である。(略)存在と概念が一体化した場で意識にあらわれる精神、あるいは同じことだが、そうした場で意識によってうみだされる精神――それが[学問]である」。 

≪068≫  それほど重要な絶対知がどういうものであるか、残念ながらヘーゲルは最終章になってもそのことをうまく表現できてはいない。「精神の環を描いて自分へと還っていく運動」とか、「自己によって捉えられることのない純粋な自己」とか、「精神の完成が自分の本当のすがた――自分の本体――を完全に知ることにある以上、この知は内へとむかわざるをえず、その内向の過程で現実の存在は捨てさられ、精神の形態は記憶にゆだねられざるをえない」とかと書いてはいるのだが、どうにもまどろっこしい。 

≪069≫  ぼくはこのあたりは、むしろ『華厳経』の法界論や海印三昧のほうがうまく言いあらわしているのではないかと、のちのち思ったものだ。華厳の蓮華蔵世界観は「事法界」と「理法界」を理事無礙法界から事事無礙法界にまで進捗したのだった。「ヘン・カイ・パン」(一にしてすべて)というなら、こっちなのだ。 

≪070≫  ヘーゲルは『精神現象学』のプログラムによって、絶対知という自由に到達しうるとみなし、そこではどんな偶然も必然となされうると主張したのだが、だからその狙いの総体は一応は「自由の哲学」の確立をめざしたといえるのだが、残念ながら『精神現象学』で到達した世界観では、うまく「自由」を説明できなかったのである。「ヘン・カイ・パン」にならなかったのだ。 

≪071≫  もっとも、ヘーゲルにとってはその程度の不首尾はへいちゃらだったようだ。もともとのプランが『「学問の体系」第一部「精神現象学」』だったのである。まだ「出だし」だったのだ。だから不首尾すら感じていなかったかもしれない。ヘーゲルは第二部を解体して(組みなおして)、論理学や法哲学などの著述にあてていく。

≪072≫ ◉論理学とエンチクロペディ 再開されるべきイエーナ大学で、ヘーゲルは新たな授業にとりかかる予定を立てていた。予告のシラバスとしては書き上げたばかりの『精神現象学』にもとづいて、思弁哲学としての論理学と形而上学を新たに講義して、そこに自然哲学と精神哲学を含ませようというプランだ。 

≪073≫  実際にはイエーナでの授業はなく、大学を去って、一八〇八年から一八一六年までニュールンベルクのギムナジウムの校長をつとめながら、教育論の組み立てをし、予告していた『大論理学』(岩波書店)を著述するというふうになる。結果、これは三部作(三冊分冊)になった。「存在論」→「本質論」→「概念論」である。 

≪074≫  存在論では、質と量のカテゴリーをつかって「存在‐無‐生成」のありかたを問い、これを「提言‐否定‐揚棄」という弁証法(Dialektik)に仕立てた。有名な「テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ」によってアウフヘーベンにいたるヘーゲル弁証法の最初の提案である。 

≪075≫  弁証法用語として大流行した「アウフヘーベン」(Aufheben)は、日本語では止揚とか揚棄とか、なかなかやっかいな訳語があてはめられてきたが、長谷川さんはこれは「捨てつつ持ち上げる」という意味なのだから、それがわかれば「捨てる」でもいいはずだと言う。『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)では、「種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができる」というふうに考えるのが弁証法だと説明していた。 

≪076≫  次の本質論では、理性が展開していくときの「反省」のプロセスに注目して、事象(現象)が事象そのものの運動によって自分の内部で反転して自分のところに戻ってくるという可能性を示した。このプロセスは「反省」とも「反射」とも「反照」とも名付けられたのだが、途中の反省段階ではいったん「仮象」があらわれると見た。これは一種の「模倣」であり、「準え」である。そうだとすると、興味深い仮説だ。仮象は「見えるとおりに準えられるだけでなく有るとおりに準えられる」というのである。 

≪078≫  概念論は、以上の存在論と本質論で使われた諸々のカテゴリーを統一させ、論理が自己同一性を保つようになっていくにはどういうことを考えればいいかを議論した。 

≪079≫  こうしてヘーゲルは、概念が自分で自己規定運動をして弁証法的に自己同一性を貫徹しうるはずだと見たのである。ややこしい言いまわしだが、言いなおせば最初に無規定な普遍があらわれ、次にその否定として規定された特殊があらわれ、そこから統一としての個別があらわれるとみなしたのだ。 

≪080≫ へたくそな説明になってしまったが、以上がヘーゲル論理学のごくごくおおざっぱな概要である。この論理学の三部作は、続いてこれらを駆使して思弁哲学と形而上学を内包できる『エンチクロペディ』に膨らんでいった。所属がハイデルベルク大学に移ってから講義されたので「ハイデルベルク・エンチクロペディ」とも呼ばれる。 

≪081≫  エンチクロペディとは文字通りにはエンサイクロペディア(百科全書)のことであるが、ヘーゲルは項目別に知識が網羅されていくことではなく、どの項目にもテーゼが孕まれて、そのテーゼが連鎖していくようになるべきだと思ったようだ。明治初期に西周がエンサイクロペディア(エンチクロペディ)を「百学連環」と訳したのは有名だが、ヘーゲルはまさにテーゼ連打型の百学連環を試みたかったのである。長谷川さんはエンチクロペディを「総合哲学概説」と訳している。 

≪082≫ ◉こうして法哲学へ 一八一八年、ヘーゲルはハイデルベルク大学からベルリン大学に移った。ベルリン大学はフンボルト兄やフィヒテが創立にかかわった「ドイツの苦難突破のための大学」である。そのベルリン大学で、ヘーゲルは『エンチクロペディ』を教科書にして「合理的自然学または自然哲学」の講義などをおこない、ついで三年後、「世界史の哲学」にとりかかって、「自然法と国家学または法の哲学」の講義を計画した。 

≪083≫  ドイツ語の「法」(Recht)は、もともと「法であり権利であり正義である」という意味をもっている。だからここで法哲学と呼ばれているのは法律のことだけではなく、道徳や人倫(共同体精神)を内包した世界思想あるいは世界観の基準をあらわしていた。人倫には家族や市民社会も含まれる。それゆえヘーゲルの法哲学は「自然法と国家学」という副題をもっていた。自由を実現するための基準、それが法哲学だったのだ。 

≪084≫  こんな経緯をへて、マルクスがこっぴどくやっつけたヘーゲル法哲学がテキスト化されたのである。マルクスはこのテキストが気にいらない。『ヘーゲル法哲学批判序説』(大月書店・岩波文庫)を書いた。ぼくが早稲田の読み合わせ会で出会った『ヘーゲル批判』の論文とは、この序文のところだった。 

≪085≫  マルクスはこう書いた。ヘーゲルが哲学としているのは「人間が外在化してきた精神の労働の成果」のことである。ヘーゲルはその個々の契機を総括し、自分の哲学を真の哲学に上げることができると考えた。それゆえヘーゲルの哲学は絶対知に向かえた。しかし、そのような哲学は法哲学であれ歴史哲学であれ、自己意識が対象になったものにすぎない。これでは人間存在はすべて自己意識にすぎないということになる。 

≪086≫  「ヘーゲルの法哲学では止揚された私法は道徳に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された家族は市民社会に等しく、止揚された市民社会は国家に等しく、止揚された国家は世界史に等しいとされる」。「しかし、ヘーゲルが哲学へと止揚する定在なるものは、現実的な宗教・国家・自然ではなく、すでに知識の対象となった宗教そのもの、すなわち教養学であり、法律学であり国家学であり自然科学なのである」。「一言でいえば、諸君は哲学を現実化せずには、これを止揚できないのである」。「一言でいえば、諸君は哲学を現実化せずに 

≪087≫  ここでマルクスはドイツの国家や社会や法の実情を述べ、ヘーゲルの法哲学ではドイツは解放されえないことを強調し、それならどう考えるべきかと言って、答えは「ラディカルな束縛をもった一つの階級を形成すること」、ここにあるのだと言うのだ。 

≪088≫  この階級とは、「社会のあらゆる階層から自分を解放するとともに、社会の他のあらゆる階層を解放することなしには自分を解放することができないような、一言でいえば、人間性を完全に失ったものであり、したがって人間性を完全にとりもどすことによってだけ自分自身を自由にすることができるような、そういう階層」を形成する階級のこと、すなわちプロレタリアートのことである。かくて有名な宣言が下される。「哲学はプロレタリアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない」。 

≪089≫  これではヘーゲルは処置なしだ。反論する余地がない。マルクスは最初からプロレタリアートを持ち出すつもりで、ヘーゲルをやっつけたのだ。フェアでないようだが、それよりもマルクスのパンチアウトはヘーゲルを倒すには最も有効な〝逆説斬り〟だったろう。 

≪090≫  しかし他方、ぼくは早稲田時代はマルクスに惚れぼれしながらも、それでもヘーゲルが達しようとした世界観に至る方法を、いつかどこかで再解釈してみたいと思ったのである。それは読み手としての自由をまっとうしたかったからだった。けれども、その作業はいまなお果たせないままになっている。 

≪091≫ ◉その後のヘーゲル解釈について ヘーゲルは劇症コレラによって一八三一年十一月に亡くなった。六一歳ちょっとの人生だ。当時としてもやや短い。そのせいもあって、ただちにヘーゲル学派が形成され、ゲオルグ・ガプラー(イエーナ大学→ベルリン大学)、カール・ダウプ(ハイデルベルク大学)、ペーター・ファン・ゲールト(イエーナ大学→ライデン大学)、レオポルト・ヘニング(ベルリン大学)らが次々に登場した。カール・ローゼンクランツ(ベルリン大学→ハイデルベルク大学)は早くも一八四四年に『ヘーゲル伝』(みすず書房)を書いた。 

≪092≫  こうしたヘーゲル右派に対して、ヘーゲル左派として名のりを上げたのがフォイエルバッハとキルケゴールとマルクスだった。フォイエルバッハは唯物論の立場で人間学にとりくみ、そこからヘーゲルの神学的傾斜を批判した。キリスト教の神が人間から切り離されて人間性をむしり取ったことを痛烈に衝いた『キリスト教の本質』(岩波文庫など)は、マルクスとエンゲルスにかなり大きな影響を与えている。 

≪093≫  デンマークの青年ヘーゲル派にいたセーレン・キルケゴールは僅か四二歳の生涯だったが、父ミカエルが篤実なクリスチャンで、かつ自分は「神の怒りを買った」と思っていたことに少年期から疑問をもち、のちに『おそれとおののき』を綴った。ヘーゲルについては、ヘーゲルが「あれもこれも」だったことに対して「あれか、これか」を突き付けて、二律背反や矛盾律の只中にとびこみ、「不安」や「絶望」をこそ源泉とする哲学を思索した。 

≪094≫  キルケゴールの『不安の概念』や『死に至る病』(白水社著作集、岩波文庫など)はその後は実存哲学の黎明とうけとめられているが、人間の存在を無限者とみるか有限者とみるかという推論や、また人間を「自分自身を問題にする関係者」とみる見方において、つまり主体性の本質をどうみるかという根本的な見方において、現代思想のすべての源流になっている。 

≪095≫  マルクスはさまざまな文章でヘーゲル批判を敢行したが、『聖家族』では「ヘーゲルは世界を頭で立たせて、頭の中ですべての制限を解消させている」とも書いた。まさに頭蓋の中の追走学だと言ったのである。 

≪096≫ ◉二十世紀のヘーゲリアンたち 二十世紀になってからもヘーゲルをどう読むかという議論は継続されている。とくにカッシーラーとその門下のブルーメンベルクはヘーゲル哲学のエンジンを象徴や暗喩におきかえた。カッシーラーは日本では『シンボル形式の哲学』全四冊(岩波文庫)がよく読まれているようだが、ブルーメンベルクについてはあまり知られていない。第一五一九夜に『世界の読解可能性』(法政大学出版局)をとりあげ、その意義律やメタファー学の重視について強調しておいた。 

≪097≫  アレクサンドル・コジェーヴは一九三三年から七年にわたって『精神現象学』の講義をパリの高等研究実習院でおこなった。聴講生にはアンドレ・ブルトン、ジョルジュ・バタイユ、メルロ゠ポンティ、ジャック・ラカン、レイモン・アロン、ロジェ・カイヨワがいた。コジェーヴの講義は『ヘーゲル読解入門』(国文社)になって、その後のポストモダン派のバイブルになった。 

≪098≫  一方、スラヴォイ・ジジェクはヘーゲル哲学をラカンの鏡像理論によって読み、「実体は主体である」を導いた。 

≪099≫  そのほか、ジュディス・バトラーからマルクス・ガブリエルまでが、ぼくが見るに「ヘーゲルの傘」の中を出入りしているとおぼしい。新実在論のニューフェイスとして登場したガブリエルは、あらゆるものは存在するが、あらゆるものを規定する全体、つまり「世界」だけは存在しないという表明で話題になったけれど、これはヘーゲル学が絶対者や絶対知によって世界を律したところ、そこをスポッと抜き去ったのである。ロジックはヘーゲルそのままだ。 

≪0100≫  もうひとつ、大きく「ヘーゲルの傘」を感じるのは生命科学の分野だが、こちらは話が広がりすぎるので、今夜の苦い話には入れないでおくことにする。ヘーゲルの新たな解釈については、今夜の訳者である長谷川宏の『ヘーゲルを読む』(河出書房新社)、『格闘する理性』(洋泉社)、『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)とともに、大橋良介の自在な一冊『絶対者のゆくえ』(ミネルヴァ書房)や寄川条路がまとめた『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房)などを参照されるといいと思う。 

≪01≫  今日の社会において語り部になるなんてことが、ありうるのだろうか。まして反文明を奉じている密林の語り部になるだなんてことが――。もし、ありうるのだとしたら、どのように?  

≪02≫  サウル・スラータスの顔の右半分には大きな痣がある。髪はぼさぼさの赤毛だ。みんなからは「マスカリータ」(小さな仮面)と呼ばれていた。「私」が学生時代に出会ったユダヤ系の民族学の青年学徒なのだが、ペルーの大学にやってきてアマゾンの未開部族(インディオ)の暮しぶりや考え方に共鳴すると、観察者や研究者であろうとすることをかなぐり捨てて、執拗な方法で密林の語り部になっていった。 

≪03≫  レヴィ=ストロースやマーガレット・ミードのように、学者として未開文化に共鳴したのではなかった。原住民がキリスト教の洗礼を受けて村づくりに精を出す手伝いをしたのでもない。みずから「未開の日々」の現状に同化することを選んだのだ。とくにマチゲンガ族にはぞっこんで、一族の歴史や文化そのものになりきっていた。 

≪01≫  今日の社会において語り部になるなんてことが、ありうるのだろうか。まして反文明を奉じている密林の語り部になるだなんてことが――。もし、ありうるのだとしたら、どのように?  

≪02≫  サウル・スラータスの顔の右半分には大きな痣がある。髪はぼさぼさの赤毛だ。みんなからは「マスカリータ」(小さな仮面)と呼ばれていた。「私」が学生時代に出会ったユダヤ系の民族学の青年学徒なのだが、ペルーの大学にやってきてアマゾンの未開部族(インディオ)の暮しぶりや考え方に共鳴すると、観察者や研究者であろうとすることをかなぐり捨てて、執拗な方法で密林の語り部になっていった。 

≪03≫  レヴィ=ストロースやマーガレット・ミードのように、学者として未開文化に共鳴したのではなかった。原住民がキリスト教の洗礼を受けて村づくりに精を出す手伝いをしたのでもない。みずから「未開の日々」の現状に同化することを選んだのだ。とくにマチゲンガ族にはぞっこんで、一族の歴史や文化そのものになりきっていた。 

≪04≫  バルガス=リョサはこういうことを『密林の語り部』に綴り上げたのである。「文明に逆らった文明小説」だった。 

≪05≫  サウル・スラータスが語り部になっていく事情や経緯を報告しているのは、いまはフィレンツェにいる放送番組の制作者の「私」なのであるが、その「私」がサウルのことを思い出しながら、そもそもの話が始まっていたことが、読むうちにちゃんとわかってくる。 

≪06≫  こんなふうに「神話」を「実話」にまぜて今日に向けて語れる方法があったのである。南米文学なんて苦手だなと思っている諸君も、きっと共感できると思う。 

≪07≫  それにしても、なんとも実験的な構成だった。こういう小説は読んだことがなかった。構成だけではない。未知のアマゾンの習慣や文化がページのどこからも溢れ出てくるし、ボルヘス(552夜)やマルケス(765夜)以来の南米独特のマジック・リアリズムも駆使されている。 

≪08≫  だから慣れない読者には読むのが躊躇されるかもしれないが、実際には冒頭からしてたいへん読みやすい。だから安心して期待をもって読んでいくのがいい。 

≪09≫  サウルに感情移入をする必要はない。「私」が密林に惹かれ、語り部に憧れている様子が、作品のあらゆるところに染み出していることに、読み手のわれわれがいつのまにか感染してしまうようになっている。この才能は並大抵ではない。 

≪010≫  初めて読んだときは、こんな文学がありえたこと、こんな才能がいたことに驚いた。だいたいバルガス=リョサの作家人生がわからない。それで、さっそく本作の前の話題作『緑の家』(上下・岩波文庫)も読んでみたのだが、こちらも密林の奥地のピウラやニエバの人々が50人以上も出てくる話なのに、また、物語トータルでは小説の中でざっと30年以上の月日が流れていて、そのため物語はけっこう複雑になっているのだが、あっというまに読めた。 

≪011≫  話の中心には娼家「緑の家」がある。それがタイトルになっている。長きにわたって「緑の家」とその周辺事情にかかわる人物たちは、ほぼ尋常ではない。 

≪012≫  たぬき爺のような船頭、村人を悪魔呼ばわりするシスター、そのシスターに育てられたインディオの娘ボニファシア、無法者のような日系人フシーアの半生、入れ替わり立ち代わりするさまざまな娼婦たち、その娼婦たちの仕切り屋、「緑の家」に放火する神父、3人の夫を平然と操る女たち。そういった連中が騒乱しているのである。 

≪013≫  にもかかわらず、すべてが善良で、悪辣で、陽気なのだ。なるほど、これが次の『密林の語り部』に昇華したのかということが、よくよくわかった。未開の密林だからといって、ユートピア扱いもせず、ディストピア扱いもしていない。アマゾンの現実を多彩に採り上げた。 

≪014≫  ようやく、バルガス=リョサはどんなつもりでこのような文学に挑んだのかということに興味をもった。たんなる手法にめざめたわけではあるまい。 

≪015≫  フォークナー(940夜)やガルシア・マルケスからの影響は濃いのはすぐにわかったが、それだけではない。リョサ自身がマルケスについて論じた『ガルシア・マルケス:ある神殺しの歴史』には、こんなふうにある。これには唸った。「小説を書くということは、現実に対する、神に対する、神の被造物としての現実に対する反逆行為である」「小説というのはどれも密かな神殺し、象徴としての現実の殺害にほかならない」というふうに。 

≪016≫  なるほど、反逆行為なのである。小説は文明の進捗に逆らっているのだ。 

≪017≫  マリオ・バルガス=リョサはかなり特異な文人だ。ラテンアメリカを代表するノーベル文学賞の作家で、いまなお驚くべき物語を書き続けている。まあ、ここまではわかりやすいし、その類いの作家なら各地にかなりいる。 

≪018≫  けれども1984年にペルーの内閣首相就任を要請されて断り、ガルシア大統領時代には銀行国有化政策に反対して運動の先頭に立ち、1990年の大統領選には出馬してフジモリに破れたといったキャリアは、ペルーの政治情勢を知らない者にとっては、かなり奇妙に映る。 

≪019≫  いったいどんな男だったのか。それでいて反逆の作家でありつづけるとは、どういうことなのか。およその自伝にあたる『水を得た魚』(水声社)などを参考にかいつまんでおく。 

≪020≫  1936年にペルー南部のアレキーパに生まれた。両親が不仲なせいで祖父母とボリビアで過ごし、ピウラでの高校生活ののちはリマの国立サンマルコス大学で法律と文学を学んだ。この大学は『密林の語り部』で「私」がサウルと出会った大学だ。  

≪021≫  在学中からオドリア軍事政権に反抗する学生運動にかかわり、放送局やAP通信でニュース原稿を書いたり、雑誌や新聞に短篇小説を発表したりしていた。このころすでに「情報」のリアリズムと「物語」のアクチュアリティの両方に異常な関心をもっていたように思われる。 

≪022≫  その一方では、周囲の反対を押し切って、19歳で十歳年上の伯母と結婚した(この経緯と思惑については『フリアとシナリオライター』に描かれている)。長くは続かなかったが、彼女と別れたあとは今度は従兄妹と結婚した。 

≪023≫  どうして血縁の相手ばかりを選んだのかわからないが、バルガス=リョサの育った土地の習慣なのか、そうでないのなら何かの決意のようなものを感じる。 

≪024≫  アマゾンに小旅行したところ、何かを大きく感じた。痛くて、嬉しくて、何かがこみ上げてきた。この体験がのちの『緑の家』になるわけである。ただもう少し勉強したい。南米以外も見ておきたい。 

≪025≫  1958年からは奨学金を得てスペインのマドリード・コンプルテンセ大学の大学院に留学し、そのあとはパリに赴いた。 

≪020≫  1936年にペルー南部のアレキーパに生まれた。両親が不仲なせいで祖父母とボリビアで過ごし、ピウラでの高校生活ののちはリマの国立サンマルコス大学で法律と文学を学んだ。この大学は『密林の語り部』で「私」がサウルと出会った大学だ。  

≪021≫  在学中からオドリア軍事政権に反抗する学生運動にかかわり、放送局やAP通信でニュース原稿を書いたり、雑誌や新聞に短篇小説を発表したりしていた。このころすでに「情報」のリアリズムと「物語」のアクチュアリティの両方に異常な関心をもっていたように思われる。 

≪022≫  その一方では、周囲の反対を押し切って、19歳で十歳年上の伯母と結婚した(この経緯と思惑については『フリアとシナリオライター』に描かれている)。長くは続かなかったが、彼女と別れたあとは今度は従兄妹と結婚した。 

≪023≫  どうして血縁の相手ばかりを選んだのかわからないが、バルガス=リョサの育った土地の習慣なのか、そうでないのなら何かの決意のようなものを感じる。 

≪024≫  アマゾンに小旅行したところ、何かを大きく感じた。痛くて、嬉しくて、何かがこみ上げてきた。この体験がのちの『緑の家』になるわけである。ただもう少し勉強したい。南米以外も見ておきたい。 

≪025≫  1958年からは奨学金を得てスペインのマドリード・コンプルテンセ大学の大学院に留学し、そのあとはパリに赴いた。 

≪026≫  青少年期のバルガス=リョサの心を黒雲のように覆っていたペルーの情勢は、1948年に軍事クーデターでオドリア将軍が大統領に就いて長期にわたって圧政を敷いていたことに象徴されている。 

≪027≫  サルトル(860夜)の哲学と文学に触発されていたバルガス=リョサは、サルトルが熱く呼びかけていた「アンガージュマン」(自覚的参加)にめざめたようだ。その勢いでマルクス主義に傾倒すると(これは当時はよくあるコース取りだ。サルトルもそうなった)、サンマルコス大学での日々の一部を反政府運動の活動に向けた。リョサのアンガージュマンである。 

≪028≫  一方で、ニュースや情報に敏感になりたくて通信社にも出入りした。そしてペルー人の血のルーツを調査した。スペイン語とインディオの言葉の関係も気になった。 

≪029≫  大学を出て、マドリードに留学していると、1960年、青天の霹靂ともいうべきニュースがとびこんできた。キューバ革命がおこったのだ。カストロやゲバラ(202夜)らがアメリカを後ろ盾にしていたバティスタ政権を一気に打倒した。その劇的で武力的でゲリラ的な革命行動は、圧制に苦しむ南米人の熱を滾(たぎ)らせるものとなり、ペルーにもその風を及ばせたいと思わせた。浪漫すら感じた。 

≪030≫  なんとか世界の風を知りたくて、フランスに行くことにした。パリに来たのは奨学金をとるためだったのだが、それはならず、リョサはキューバ革命のニュースを知って血が逆流し、最初の作品『都会と犬ども』(新潮社)にとりくんだ。 

≪031≫  1963年に刊行された『都会と犬ども』は、全寮制男子中学校で軍事演習中におきた生徒の死をめぐるサスペンス仕立ての小説である。サスペンスなのだが、多様な文体を駆使して人種渦巻く中学校の生態をいきいきと描き、そこに軍部のあさましさと腐敗を描きこんだ。 

≪032≫  このデビュー作は評判になった。26歳だったが、現実社会に食い入って書いた鮮烈な作品だ。いろいろ賞もとった。 

≪033≫  そこへ意外な表明が伝わってきた。サルトルがなんと「文学の無力」を告白したのだ。のみならず、発展途上国の知識人や作家たちに「創作よりも実践活動を優先すべきだ」と説いたのだ。 

≪034≫  この記事は1965年の「ル・モンド」に掲載されたもので、ぼくも早稲田にいてこのサルトルの「転向」を知った。早稲田の学生運動や劇団活動が急にサルトルから離れていったのをよくおぼえている。 

≪035≫  バルガス=リョサもサルトルの言うことをそのまま聞くわけにはいかない。作品の中にだって「現実に対する反逆」も「アンガージュマン」も棲みつかせることはできるはずだ。こうして第2作目として翌年に描いたのが『緑の家』(新潮社→岩波文庫)だったのである。 

≪036≫  当時、『緑の家』がサルトルに対する言い知れぬ落胆から転じたものだとは、読書界は気がついていなかったと思う。  

≪037≫  だいたい世界中がアマゾンに関心をもっていなかったし、密林に社会があるなんて、今日の社会のどんな問題とも連動しないと思いこんでいた。作品もあまりにマジック・リアリズムにまぶされていた。 

≪038≫  それでも一部の連中はギョッとして「政治と文学」の両立がありうるのかどうか、考えこんだ。また、コミュニズム、反アメリカ、反スターリニズムなどによる革命を夢想していた連中は虚を突かれていた。とくに日本の文学者たちの60年代は、日共(日本共産党)批判にあけくれていて、ごくごく一部の愛好者を除いて、南米にはとんでもない表象力があるとは、いっこうに気づいていなかったのだ。 

≪039≫  リョサにしてみれば、そうした反応などどうでもよかったようだ。『ラ・カテドラルでの対話』(集英社・世界の文学/岩波文庫)、『パンタレオン大尉と女たち』(新潮社)、『フリアとシナリオライター』(国書刊行会)など、問題作を次々に書く。 

≪040≫  それでも、ぼくはずっとあとになって読んだのだが、1981年に発表された大作『世界終末戦争』(新潮社)あたりで、これはただならない文明告発と殺戮感覚と集団蜂起の三すくみの謎が仕組まれているのではないかと、日本の読者たちも思いはじめたのではないかと思う。 

≪041≫  19世紀末ブラジル内陸部におこったカヌードス紛争に取材したもので、プリミティブなコミューンもどきのような恰好になっていたキリスト教集団を、共和国になったブラジル政府が正規軍をさしむけて粉砕しようとするのだが、抵抗やゲリラにあい、4度目の攻撃で包囲と経済封鎖を断行してやっと殲滅させるという話である。 

≪042≫  うっかりするとカルト集団の末路のように見える話なのに、アントニオ・コンセリェイロというリーダーとそのチームが絶妙に描かれていて、いったい「聖人志向」と「アンチキリスト」と「現代文明の頽廃」は三重の同義反復にあるのかと思わせる作品になっていた。サルトルにこそ読ませたかった傑作だ。 

≪043≫  こうして『密林の語り部』が1987年に打ち放たれたのである。日本はバブルに浮いて、女たちはワンレン・ボディコンに酔い、ジュリ扇で踊りまくっていた。 

≪044≫  『密林の語り部』は時代をぶっちぎっていただけではない。さきほどはそのことを言わなかったけれど、ここにはインディオが抱きかかえた『神曲』のような世界観が語られるとともに、そこにかかわっていく知識人たちの姿勢が問い詰められていた。その実像には、バルガス=リョサに知的な刺激をもたらしてくれた当時の進歩的知識人が混っている。 

≪045≫  作品の中では、そういう知識人とマチゲンガ族の姿勢が対照的に浮かび上がって、読者は、その天秤棒の向こう側にひそむ密林の神話にナマのまま浸れるようになっていく。 

≪046≫  このあとのバルガス=リョサについては省くけれど、あいかわらず創作と行動の両方をどちらも手離さない。握りしめたままなのだ。何を握りしめているのかというと、おそらくは「共同体の宿命」を握りしめている。 

≪047≫  この宿命は、部族にも町にも都市にも国家にもあてはまる。リョサはそのいずれにも入りこむ。その入りこみ方は戦術的ではない。エントリズムでもなく、外挿的ではない。文芸詐術的でもない。ある意味では正攻法なのだ。これがヤバいのだ。 

≪048≫  たとえば1990年の大統領選挙に、自由主義政権の確立を旗印に出馬するのだが、出馬直前には聖なるエロスを問うような『継母礼讚』(福武書店→中公文庫)を発表したばかりだった。選挙のほうも、あえて右寄りの自由を標榜し、大衆路線と軍事力を組み合わせたアルベルト・フジモリに破れた。 

≪049≫  それなら捲土重来をはかるのかというと、そうではなく、その直後から新たな構想を練り、『アンデスのリトゥーマ』(岩波文庫)で作家に復帰した。続く『官能の夢』(中公文庫)ではまたまたエロスと幻想性の「あわい」に浸った。縦横無尽なのではない。まことに正攻法なのだ。「衒い」がないのだ。 

≪050≫  そう書くと、たんに政治活動や国家活動に熱心な作家像が思い浮かぶかもしれないが、そうではない。比較しようもないけれど、日本の例でいえば、江藤淳(214夜)にも石原慎太郎にも三島由紀夫(1022夜)にも高橋和巳にも、まったく似ていない。当然、南米と日本のちがいもあるが、作家としての資質がちがうのだ。 

≪051≫  伝えそこなったことがある。それは言葉のことだ。まさに『密林の語り部』がそのことを充分に感じさせるのだが、バルガス=リョサはどんな言語文化も「部族言語の林立」というふうに捉えているということ、このことだ。 

≪052≫  ペルー語とスペイン語とアマゾン語は、それぞれが部族言語なのだ。物語にはマチゲンガ族、ユダヤ人、ペルーの都市人、アイルランド人など、複数の言語文化が交差する。しかしそれを、この作家は「国語の戦争」にしないし、「記憶の上塗り」にもしない。すべからく林立させる。どんな言葉をも嵐のように、稲妻のように、発酵食品のように、馬の走りのように、互いを誘うように連ねるのである。 

≪053≫  この特色は、言語文化などというオツにすました容器を用意しないということなのだろうと思う。そんな容器に頼らないとして、では文学作品としてどうしているかというと、出発のレトリックと到着のレトリックを主要な登場人物のすべてに見通して書いているということだ。 

≪054≫  こういうことを、日本の作家の例で何に準(なぞら)えたらいいかほとほと困ってしまうけれど、ぼくの直観ではひょっとすると近松(974夜)が確立した手法がそうなっていたのではないかと感じる。もしもそうだとすれば、バルガス=リョサは「ペルー浄瑠璃の発明者」だったのである。 

≪01≫  この本はぼくの四十年前のアンチョコだ。古代キリスト教からフランス革命前後までの知の歴史を扱っているのだが、知の扱い方が高速で澱みなく、時代の文脈を折りたたみ、そこをトポロジカルに展いていく語り口がよかった。 

≪02≫  学生時代にお世話になったバートランド・ラッセルの大冊『西洋哲学史』(みすず書房)のような編年的な哲学史でもなく、フランツ・ボルケナウの『封建的世界像から市民的世界像へ』(みすず書房)のように近代的世界観がどのように成立してきたかといったイデオロギッシュなものでもない。むろん野田又夫や今道友信のような西洋憧憬にもとづいたものでも、ポストモダンの側から睥睨したものでもない。ヨーロッパ人が「ヨーロッパ」を自覚してきた精神文化の背景を縫っていた。 

≪03≫  当時(ぼくが「遊」を休刊して仕事場をプライベート・オフィスにした頃)、フリードリッヒ・ヘーアのことはほとんど日本では知られていなかった。ひょっとするといまなおあまり知られていないかもしれないが、ウィーン大学で歴史学を教えるかたわら、一九六一年からはウィーン市民の劇場「ブルクテアター」の文芸主任をしつつ、厖大な歴史的著作をしつづけた。 

≪04≫  ぼくにはずっと以前から、文献考証に溺れていないこの手の独自の研究者の歴史文化観を少なからず信用する傾向がある。ましてその研究者が芝居やピアノや登山や俳諧に手を出していたら、すぐに応援したくなる。歴史観や世界観は歴史資料から生まれるとはかぎらない。 

≪05≫  ドイツ語版の本書はけっこうな大著で、一九五三年の大判七〇〇ページ以上の『ヨーロッパ精神史』と、それより分厚い続篇『ヨーロッパ―諸革命の母』とで構成されていた。それをおそらく読書界から待望されたのだろうと思うのだが、十七年後に本人が縮約した。 

≪06≫  H・G・ウェルズやアーノルド・トインビーやアナール派がそうしたように、ヨーロッパの歴史書の大著には、しばしばすぐれたダイジェスト・エディションがある。縮約版だ。縮約して十分な説得力と分析力を示すエディションになる。格調も落ちない。残念ながら日本の学者には大著も少ないし、それを圧縮編集する芸当が仮にあったとしても、評価されない傾向がある。そもそも歴史はまるごと縮約なのだから、これではいけない。 

≪07≫  ぼくが今夜案内するのはヘーアの縮約のそのまたラフな縮め編集といったもので、とうていヘーアの概念工事を駆使した速度感に溢れる叙述をいかせるものとはならないだろうが、「ヨーロッパはどのように理性による精神遍歴を遂げてきたのか」という一点にかかわって、好きに案内してみる。 

≪08≫ ☆東方から自立するヨーロッパ ヨーロッパは最初はなかった。呼称だけがあった。ホメーロスにも使われている。フェニキアの女王エウロペ(Europe)が語源となったとも、ギリシア語の「広い眼をもった顔」が語源とも、セム系の「太陽が沈むところ」という意味だったとも言われる。ヘロドトスは「アジアと異なる西の世界」というふうに解義していた。 

≪09≫  当初のヨーロッパはヘレニズム時代の「東方の動向」に左右されていた。ヘレニズムはエジプトの世界都市アレキサンドリアがセンターだったから、東方文化の象徴だったのである。ローマ帝国が成立してキリスト教が帝国的国教になり、版図も拡張していったローマ帝国後期においても、ヨーロッパはやっぱり「東方の動向」に対比されていた。 

≪010≫  カッシオドルスは、「ヨーロッパ人」という見方は一九九年の段階ではオリエントの「シリア人」に対照させるための用語だったと、のちに書いている。カッシオドルスは東ゴート王国のテオドリック大王に仕えて、引退後は写本室「スクリプトリウム」を発案して修道院文化に寄与したヴィルトゥオーソ(達人・見者)だ。 

≪011≫  ヘーアは古代ローマ時代の「ヨーロッパ」という言い方は、東方に対して自分たちを守る軍事体制のことだったろうと見ている。それがキリスト教がローマ教会東西分裂に向かっていくにしたがって、大きく変化した。「ヨーロッパの力」を真のロゴスあるいは真のオルフェウスとして捉え、ヨーロッパを種子的理性(ロゴス・スペルマティコス)にしたいと思うようになったのだ。 

≪012≫  キリスト教が新たな「ヨーロッパの力」を代行できたにあたっては、四つの力が与かった。 

≪013≫  第一にパウロのテキスト編集力が、第二にアフリカ人のテルトゥリアヌスの思念力が、第三にアレキサンドリアのクレメンスの理解力が、そして第四にキリスト教に「教父」という役割をもちこんだオリゲネスの言説力が、それぞれ寄与した。 

≪014≫  なかでも教父オリゲネスの言説力が大きい。オリゲネスは生涯を通して灼き尽くすような解義と説得に専念し、二五四年に没した(ゲルマン民族のヨーロッパ侵入がおこる前のことだ)。その思想は「理性と禁欲は自己支配(autousion)をもたらしうる」というもので、ときにニコデミズム(nicodemism)とよばれた。 

≪015≫  ヨーロッパ精神史は「プラトンの注とオリゲネスの注」から始まったのである。それまで単純な救世主(メシア)待望主義的で、奇跡主義的なものにすぎなかったキリスト教的な世界観は、ここで「信仰」(ピスティス)であることから「認識」(グノーシス)に突き刺さる武器となった。その認識の武器はアウグスティヌス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、デカルト、カントに及んだ。一方、第二のアフリカ出身のテルトゥリアヌスの知性はパスカルやスピノザやキルケゴールを先取りしていた。 

≪016≫  ヨーロッパの理性的精神は、異端がキリスト教に転向(コンヴァージョン=回心)してから発揮した知的努力によってつくられたのである。 

≪017≫ ☆キリスト教と異教の出入り

 キリスト教がヨーロッパの世界観の強力なエンジンになったことは言を俟たないけれども、それは一様ではなかった。初期キリスト教は長らく「東方の優越」に劣っていたし、そのためパウロは、古代の密儀の言説をエペソ書やコロサイ書などでキリストの力の説明に転用することにした。 

≪018≫  聖書の言葉だけがキリスト教的世界観を広めたのではない。いろいろのアトリビュート(属性文化)が伴った。カタコンベ(墓地・地下会堂)、バシリカ式の教会、ヘレニズム的な庭園などが組み合わさって、思わぬ力を示す。とくに「庭園」は死から救ってくれる神々、すなわちオルペウス、ヘルメス、アッティス、ミトラス、キリストが、牧者として羊や小動物や人間を守って世話をしてくれるのかもしれないという別世界幻想を用意した。 

≪019≫  その甲斐あって、キリスト教徒は二世紀から五世紀あたりまで、古代後期の世界観、ヘレニズムの恩恵、祈りの仕方、テーブルマナー、作法を異教徒たちに広めることになった。信仰の世界化と生活態度の教化を重ねた布教だったのである。のちのちまでキリスト教徒の殉教説話や墳墓様式にデカダンの風俗が出入りしていたのは、この時期の異教徒との共存による。 

≪020≫  初期ヨーロッパの各地にヘレニズム以来の「異教的文化性」が混在していたことは、意外なほどに役立った。ヨーロッパ精神の源流はその前身においては、ユダヤ一神教とギリシア哲学とキリスト教世界観に根差しているのだが、これが広がるにはアレキサンドリアという世界都市とヘレニズムという異教撹拌装置とが役立ったのである。 

≪021≫  ヘレニズムはグノーシス、新プラトン主義、カバラ、神秘主義などのエゾテリスムともいうべき「格別な知」を発芽させたので、そのせいもあって、アウグスティヌス、ボエティウス、エリウゲナはこれらの夾雑物をなんとかキリスト教的な統合理性にするべく努力を発揮できたのである。 

≪022≫  その後はキリスト教ヒューマニズムも動き出した。それを言葉にしたのは、カッシオドルスと、三人の偉大なカッパドキア人、カエサレアのバシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスだ。三人ともにヨーロッパ中心から生まれたのではない。各地のエートスをとりこんでいた。だからこそそのキリスト教ヒューマニズムが、その後のヒエロニムス、アベラール、ペトラルカ、エラスムス、ビュデ、ライプニッツをへて十九世紀まで継承されたのだった。ヘーアは、そう展望している。 

≪023≫  こうしてゆっくりと、ジグザグに(理性と神秘のあいだをワインディングしながら)、かつ対比的に(東西のタタラを踏むように)、そしてかなり頑迷に(ここがカトリシズムの普遍主義になっていく)、ヨーロッパの理性が姿をあらわしはじめたのである。 

≪024≫  以下、わかりやすく見取り図のポイントだけを示すにとどめるが、十一世紀のヨーロッパは一〇七七年のカノッサの屈辱的な事件のあと、グレゴリウス革命によって東方の優位を抜け出そうとした。続いて十字軍による街道の伸展(ネットワーク主義)とイスラム叩き(キリスト教的聖戦主義)、スコラ哲学の相互に溺れあうような深化、クリュニー修道院の拡張と誇りの強化、新しい神秘主義の探究、歴史的な神学の模索、こういうことが連続的におこった。 

≪025≫  一〇四五年に哲学と法律の大学がコンスタンチノープルに設立され、ヨーロッパの中心が分離可能なものとして東に移された拠点力を象徴した。当時のシメオンの神秘主義(コンスタンチノープルの神学者の思想)はそのことを誇り高く主張する。 

≪026≫ ☆西欧が歴史の主語をめざす

 十二世紀になると、ヨーロッパに初めて歴史思想が芽生えた。サンヴィクトールのフーゴー、ハーフェルベルクのアンセルムス、ビンゲンのヒルデガルト、フライジングのオットー、フィオーレのヨアキムがほぼ同時に登場した。 

≪027≫  オットーは一国の盛衰が観察できるものだということを告げ、ヨアキムの系統樹の発想(タクソノミーの発生)はヨーロッパ人が歴史の順に力と技の枝葉を広げてきたことに自信をもたせ、ぼくがいっとき惚れこんでいたヒルデガルトは「歴史とヴィジョンは別ものではない」ということを教えた。 

≪028≫  およそ、この時期に西ヨーロッパはようやく「自己の端緒」を知ったのである。それとともに古代の英知の地中海化や街道化が進んだ。マイモニデスがユダヤ思想とアリストテレスをカサネ編集してみせたのは、ヨーロッパの知が時間と空間をまたげるということを示していた。  

≪029≫ ☆宗教会議が正統性を模索する 

十三世紀になると、一二一五年の第四回ラテラノ公会議を、教皇インノケンティウス三世が教会崩壊の危機を警告する辞をもって開会させた。次々に出てくる異端者をどうするか、その対策が練られていった。 

≪030≫  異端とされたのは、六九三夜のベルント・レックの『歴史のアウトサイダー』のところでも少し列挙しておいたが、ヴァルド派、フランシスコ会士、カタリ派(アルビ派)、ドミニコ会士たちである。けれどもそうした異端派たちは、憤慨したり驚いたりしたというよりも、自分たちが新たな世界史に所属させられるのなら、その意図はどういうものであるべきかを問うようになった。たとえば十世紀はじめにブルガリア王国に発した「神の友」団のボゴミール運動は、そのことをコンスタンチノープルにもちこんだ。 

≪031≫  カタリ派は「清いこと」とは何かを追究した。このカタリ派の思念がのちの清教徒(ピューリタン)の起源になっていく。フランシスコ会は「小さな兄弟たちの集団」(兄弟団)という旗のもと、このあとのヨーロッパのプルードンからシモーヌ・ヴェイユに及ぶ思想を準備した。アッシジのフランチェスコの無所有・清貧の姿勢から生まれた修道会で、ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアム、ロバート・グロステスト、ロジャー・ベーコンなど、多くの傑出した才能を生んだ。映画にもなったエーコの『薔薇の名前』の主人公はフランシスコ会士だった。 

≪032≫  宗教会議はスコラ談義や異端審問にあけくれていたわけではない。やむをえない事情ながら、矛盾とともに重層性をもっていた。この重層性が大きい。だからこそ教会側にもそれなりの教訓と対策がのこった。いたずらに異端裁判を連打するよりも、これらの異端派は民衆の発現の意志にまじらせておいたほうがよかった。 

≪033≫  たとえばトゥールーズは最初に異端審問所ができたところだが、その地には一二二九年にトゥールーズ大学が創立された。その創建の標語は「博士と火と剣のみが邪悪を倒す」というもので、異端の撲滅を図っているようだが、その実は異端や邪悪の研究に向かっていった(このことがヨーロッパからオカルティズムが消えなかった理由だ)。それはまたはからずも、人間にひそむ善悪の分岐点を学問することになった。 

≪034≫  かくてこうした十三世紀の宗教会議のなかで、いよいよ「世界に秩序を与えるのは理性の仕事である」という見解が採択されたのである。キリスト教の矛盾を合理によって組み立てたヨーロッパ理性は、ここに世界の秩序のリーダーシップをとる宣教者になっていく。 

≪041≫ ☆宗教改革が世界を分立させる   

一五一五年、教皇レオ十世がサンピエトロ大聖堂建築資金調達の名目で贖宥状(免罪符)を発売したとき、マルティン・ルターはヴィッテンベルク大学の神学教授の一人だった。 

≪042≫  当時、神聖ローマ帝国下のドイツでは、ヨハン・テッツェルらの説教師が贖宥状をさかんに売りまくっていた。ルターはこれに疑問をもち、ローマ教会に抗議するためヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に九五ヵ条の論題を打ち付けた(後日別人説が有力)。論題の条文は折からのグーテンベルクの印刷に乗って広まり、周辺の諸侯・騎士・市民・農民を巻き込む教会批判のムーブメントになった。 

≪043≫  もっともルターはこの段階では会派を作る気はなく、あくまでカトリック教会内部の改善を求めるつもりだった。実際にもローマ教会への批判は、すでにルター以前に始まっていた。イングランドのウィクリフ、ベーメンのフス、フィレンツェのサヴォナローラがローマ教会批判をした。ただフスもサヴォナローラもローマ教会によって処刑された。神学教授ルターはこの抑圧の歴史を知っていた。 

≪044≫  一五二〇年、レオ十世はルターが論題を撤回しなければカトリックから破門すると宣告した。カトリックとは「普遍の門」のことだ。ユニヴァーサリズム(普遍主義)のことだ。翌年、ルターは破門され、次の年には皇帝カール五世がヴォルムス帝国議会への召喚を促した。ルターはふたたび拒否した。このときルターへの仕打ちに抗議する諸侯があらわれた。この抗議行為が「プロテスタント」(抗議者)の由来になる。 

≪045≫  ルターは破門後に蟄居させられ、そこで新約聖書のドイツ語訳にとりくんだ。これがグーテンベルクの活版印刷力とともに世界読書界を席巻した。SNSで「アラブの春」が広まったようなものだ。ルターは必ずしも宗教改革運動の旗手になったわけではなかったが、その信念はこの活版聖書とともに各地に燎原の火のごとく広まったのである。 

≪046≫  一五二二年にはプロテスタントと人文主義者が結びついた騎士戦争が、一五二四年にはトマス・ミュンツァーと武装農民の蜂起によるドイツ農民戦争が、一五四六年にはヴォルムスの勅令に抗議した連中によるシュマルカルデン同盟戦争がおこった。これらドイツのプロテスタントの火はチューリッヒではツヴィングリの改革となり、ジュネーヴではカルヴァンの礼拝制度改革と教会制度改革として急進的になり、そのカルヴァン主義がイングランドの英国国教会の設立を促し、フランスのユグノー戦争に波及していった。 

≪047≫  まさに奔馬の群である。あれよ、あれよのまだった。のみならず改革の嵐から産みおとされたプロテスタンティズムとピューリタニズムの理念と行動は、十六世紀末のナントの勅令(一五九八)と十七世紀の三十年戦争(一六一八~一六四八)をへて、十八世紀の科学合理を高らかに謳う真理至上主義の「理性の世紀」へ、ついでは啓蒙主義のうねりへ、さらには十九世紀アメリカのWASPの差別的価値観にまで影響をもたらしたのだ。いまやどこにもプロテスタント教会がある。 

≪048≫  一連の宗教改革の嵐にいちばん驚いたのは、当然のことながら本家本元のローマ・カトリック教会側だ。トリエント公会議(一五四五~一五六三)でプロテスタントとの決定的訣別を確定すると、対抗宗教改革としての整備を急いだ。 

≪049≫  ウルガタ版のラテン語聖書のみを正典と定め(四世紀にヒエロニムスが訳した聖書を「ウルガタ」と言う)、洗礼・堅信・聖餐(聖体)・告解・叙階・結婚・塗油を七つのサクラメント(秘跡)とし(プロテスタント教会では洗礼と聖餐だけを認める)、ルター派の「信仰」中心に対して、カトリックは「善行」も義認の対象になるとした。聖遺物崇拝、聖人崇拝、聖画像崇拝も積極的に許認した。  

≪050≫  カトリック側はひたすら「保守」に徹したのだが、これでは布教が広まるとはかぎらない。キリスト者の修行が深まるとも思えない。ここに登場してきたのがイエズス会である。ロヨラが決意してザビエルら六人が結束した。 

≪051≫  イエズス会は教皇に絶対服従を誓い、まずはプロテスタント化していた南ドイツ、ポーランド、ハンガリーをカトリックに戻した。さらにスペイン人が荒らした南米へ旅立ち、またキリスト教を知らない未到のインド、インドネシア、フィリピン、日本に布教した。そこにはつねに「学事規則」(Ratio Stusdiorum)が躍如した。オリゲネス以来の「知」を未学習の地域に学習させ、そこにデウスを輝かせていったのである。 

≪052≫  パリにはラ・フレーシュ学院を設立した。当時最先端の学校だ。神学から科学までを教える。「世界」とは何かを知るための教育機関である。一六〇六年の復活祭の日、この学校に十歳になったデカルトが入学した。デカルトは「方法」(トロポス=メトード)を学び、その思索を精神指導の規則として取り出す決意をかためた。 

≪053≫ ☆イエズス会、カルヴァン主義、デカルトが並ぶ   

 いま、多くの歴史家やメディアは「西側」とか「西側諸国」という言い方をする。この言い方はチャーチルとスターリンの対立やその後のケネディとフルシチョフによる米ソの対立がもたらしたものではない。ヘーアはそこをはっきりさせているのだが、カルヴァン主義こそがヨーロッパを「完全な西側」にしてみせたのだ。 

≪054≫  ジャン・カルヴァンはスイスで宗教改革をおこしたが、フランス人である。パリ大学ではカトリック神学の学徒で、一五三三年頃にコンヴァージョン(回心)をしてからは檄文を書くようになり、しばしば筆禍によって亡命する。三年後に亡命先のひとつだったバーゼルで『キリスト教綱要』(新教出版社・教文館)を刊行すると(この本はその後何度も改訂された)、ジュネーヴで牧師ファレルに要請されて同市の宗教改革に着手した。  

≪055≫  弾圧と追放を受けつつも、カルヴァンに期待を寄せる市民の懇願は熱く、ジュネーヴを神権政治さながらの「神の国」にしていった。かつてないほどのプロテスタントによる神政(セオクラシー)の断行だった。 

≪056≫  カルヴァンの思想は、もとはといえばオッカム的な後期スコラ学による主知主義から出てきた。ルイ十一世は後期スコラ学によるオッカム主義(唯名主義=多くの実在は名前によって存在しうる)を禁止したのだが、実はそうとはならず、一四五〇年から一〇〇年にわたって精神界をリードしていた。「オッカムの剃刀」は鋭かったのだ。 

≪057≫  剃刀が錆びないあいだに、四つのことが進捗した。第一に世界観における自然と超自然とが截然と区別され、第二に信仰における神の威光に対する畏れが高められ、第三に道徳においては厳格主義をゆきわたらせ、第四に哲学では無味乾燥なよそおいを辞さないほどの懐疑論に傾いていった。 

≪058≫  その後のカルヴァン主義こそは、マックス・ウェーバーを瞠目させたあのプロテスタンティズムだ。ベルーフ(天職思想)と勤労と資本主義の前哨を結び付けた。のみならず、ヨーロッパに神の霊的本質を取り戻し、ヨーロッパが「神の国」の自動延長帯域であると確信させ、その精神方式を「完全な西側」のための強力なアジェンダにしていったのである。 

≪059≫  カルヴァン主義は最鋭最強の「西側の論理」となった。きわめて厳しい選民思想が彫琢され、「勝ちにいく」ための意志が強化され、不屈と勤労が用意できた。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫・日経BPクラシックス)の中で、カルヴァンが「神という非合理に依拠した合理」によって人間にひそむ生産力を解放させたことに驚いたのは、当然だ。 

≪060≫  しかし、カルヴァン主義は資本主義や勤労者や経営者の福音になったばかりではない。その後の西の哲学の代表にもなった。それをやってのけたのは宗教者ではなかった。デカルトである。 

≪061≫  デカルトは「西の理性」を下敷きに省察を始め、ラ・フレーシュ学院で刺激を受けた「方法」に思いを致して合理精神の規則の探索に向かった。その後は、そこにトマス・アクィナスのスコラ学、ルターのテキスト(=聖書)重視主義、カルヴァンの「神の方法」主義、ジャンセニスムをまぜこぜに統合し、その思考の基盤にもとづいて、ルターの「我信ず、故に我あり」(クレド・エルゴ・スム)とまったく同様の、「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を導き出したのだ。 

≪062≫  ただし、こうしたデカルトの理性的世界観をヨーロッパ中に広めたのは最初は知識人や大学人ではなく、イエズス会とカルヴァン主義者とジャンセニストだった。ジャンセニスム(Jansénisme)とは十七世紀以降に流行した思潮で、カトリック教会が異端視したコルネリウス・ヤンセンの『アウグスティヌス』の主旨にもとづき、ミシェル・バイウスが広げたものをいう。 

≪063≫  デカルトにプロテスタンティズムの影響を読みとるのは意外かもしれないが、かの二分法(ダイコトミー)によって精神と物質を分けたデカルト哲学は、物的生産力に携わる精神者にとってこその福音なのである。 

≪059≫  カルヴァン主義は最鋭最強の「西側の論理」となった。きわめて厳しい選民思想が彫琢され、「勝ちにいく」ための意志が強化され、不屈と勤労が用意できた。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫・日経BPクラシックス)の中で、カルヴァンが「神という非合理に依拠した合理」によって人間にひそむ生産力を解放させたことに驚いたのは、当然だ。 

≪060≫  しかし、カルヴァン主義は資本主義や勤労者や経営者の福音になったばかりではない。その後の西の哲学の代表にもなった。それをやってのけたのは宗教者ではなかった。デカルトである。 

≪061≫  デカルトは「西の理性」を下敷きに省察を始め、ラ・フレーシュ学院で刺激を受けた「方法」に思いを致して合理精神の規則の探索に向かった。その後は、そこにトマス・アクィナスのスコラ学、ルターのテキスト(=聖書)重視主義、カルヴァンの「神の方法」主義、ジャンセニスムをまぜこぜに統合し、その思考の基盤にもとづいて、ルターの「我信ず、故に我あり」(クレド・エルゴ・スム)とまったく同様の、「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)を導き出したのだ。 

≪062≫  ただし、こうしたデカルトの理性的世界観をヨーロッパ中に広めたのは最初は知識人や大学人ではなく、イエズス会とカルヴァン主義者とジャンセニストだった。ジャンセニスム(Jansénisme)とは十七世紀以降に流行した思潮で、カトリック教会が異端視したコルネリウス・ヤンセンの『アウグスティヌス』の主旨にもとづき、ミシェル・バイウスが広げたものをいう。 

≪063≫  デカルトにプロテスタンティズムの影響を読みとるのは意外かもしれないが、かの二分法(ダイコトミー)によって精神と物質を分けたデカルト哲学は、物的生産力に携わる精神者にとってこその福音なのである。 

≪064≫ ☆三十年戦争から「バロックの知」へ    

三十年戦争はボヘミア(ベーメン)のプロテスタントの反乱をきっかけに勃発した。神聖ローマ帝国を舞台に一六一八年から一六四八年まで、まさに三十年に及ぶ稀にみる国際戦争で、ヨーロッパ史上最後で最大の宗教戦争だった。 

≪065≫  その戦乱の騒音が鎮まりつつあった頃、プロテスタントの多いライプツィヒに比類のない天才が生まれた。ライプニッツだ。のちにディドロは「ライプニッツはたった一人でプラトンとアリストテレスとアルキメデスの三人がもたらした名声に匹敵するものをドイツにもたらした」と書いたが、これはまだ過小評価というものだ。 

≪066≫  デカルトも数学的知性をもっていたけれど、ライプニッツの鋭利で広範な「アルス・コンビナトリア」(結合術)の発想や「ローギッシュ・マシーネ」(論理機械)のような数理的知性は、べらぼうだった。数学者でもあったバートランド・ラッセルは「人類の知の歴史を通して最高の頭脳であった」と言った。 

≪067≫  ライプニッツについては九九四夜にも一通り触れたので、今夜はヘーアの見方を援用しつつ、大まかなことだけを強調するにとどめるが、この天才が洞察し、展望したことは、次のようなことだ。 

≪068≫  ①いったい「世界」はどのようなものであるのか、それは人知によって解明できるのか、②解明できるとしたら、世界はどんな「世界様相」をもっているのか、③世界様相を構成している「世界の要素」とは何か、その要素をできるかぎり絞ってみることはできるのか、④われわれはつねに過ぎ去る現象に立ち会っているのだが、その「世界現象」を切り取ってみる可能性はどのくらいあるのか、⑤現象は様相と要素を結合して示せるはずである、それを示すのに必要な「世界をあらわす方式」とは何か。 

≪069≫  それなら、⑥その方式を「世界記号」をつかった論理様式によって記述することはできないか、⑦もしそれができるなら、様相・現象・要素をコンビネーションさせた自動的に計算できる機械がつくれるはずである、⑧自分なら以上の課題に答えうる新たな方法によって「世界観」を提示できるはずだ、⑨ところで「神」は以上のことについてどういう思し召しを用意されていたのか、そこをどう考えればいいのか――。だいたいはこういうことだったろうと思う。 

≪070≫  この時代はバロック紀というべき時代だが、すでにコペルニクス、ケプラー、ガリレオによってプトレマイオス以来の古いヘレニックな宇宙像がひっくりかえっていた。のみならず、ニュートンは『プリンキピア』(自然哲学の数学的諸原理)を発表して、四歳下のライプニッツを驚かせていた。 

≪071≫  ガリレオの望遠鏡とフックの顕微鏡はとっくに発明されていたけれど、しかし新しい「世界」を説明するためには、望遠するマクロコスモスと顕微するミクロコスモスをつなぐ「人間の知の領域」が拡張されなければならないと、ライプニッツには思われた。それにはマクロとミクロの現象を同時にあらわす、ないしはこれらを結合(コンビネート)するマニエリスティックな「バロックの知」が必要だった。ライプニッツは若くしてその「バロックの知」のすべてに挑むことを決断したのである。  

≪072≫  世界様相を語るには新たなフレームを組み立てなければならない。それにはアリストテレスのフィシカ(自然学)とメタフィシカ(形而上学)のフレームを変更するべきだった。『形而上学叙説』(岩波哲学古典叢書)が書かれた。世界要素は「モナド」と呼ばれるべきものだろうと推理した。複合性をもつ単一な実体がモナドである。『単子論』(岩波文庫)はデモクリトスの原子論に代わるものになった。そのモナドのレベルで世界の現象を科学的に切り取るには「流率法」(微積分法)という数学を考案するべきだった。 

≪073≫  これらの見方と道具を使えば、世界は計算できるものになりえた。中国の「易」を分析してみると、そこでは二進法が使用可能になっていることがわかった。ルルスの結合術をヒントにしてみると、新たな「世界記号」による論理機械をつくる可能性があるとも思えた。 

≪074≫  残るは、いったい神はこのような計画を許容されるものなのかどうかということだ。またこのような計画を胚胎する人間の知性とはどういうものだと言えばいいのかということだ。 

≪075≫  ライプニッツは『弁神論』(著作集・工作舎)、『人間知性新論』(みすず書房)などでこのような問題にもとりくみ、かつデカルト、スピノザなどにも直接問い合わせて、こうした世界観の筋書きを陶冶していった。なぜそんなことすべてを検証可能なことにできるのか。ライプニッツは「アルス・コンビナトリア」に徹したのだった。 

≪076≫ ☆イギリス経験論が「本性」を持ち出す    

 さて、この時期、宗教革命(プロテスタント)にも対抗宗教革命(カトリック)にも与しなかったヨーロッパがあった。イギリスである。イギリスはヘンリー八世の時期に独自の英国国教会(アングリカニズム)を標榜した。 

≪077≫  そのイギリスからすると、ルター主義、カルヴァン主義、デカルト主義は大陸特有のおめでたい合理論(continental rationalism)に見えた。あまりに理性(reason)が勝ちすぎて、知覚による経験や試作・実験による検証を省きすぎている。 

≪078≫  イギリスは今日もなおEUからの離脱をはかるような「あいまいヨーロッパ」をもっている国なのだが、その萌芽は英国国教会とともに始まっていた。そういうイギリスに、大陸の理性的思想とは異なる思想潮流が出現した。いわゆるイギリス経験論(British empiricism)の流れだ。 

≪079≫  フランシス・ベーコンとジョージ・バークリーが知覚と判断の相対性を説き、ホッブズとロックが政治現象を通した人間と社会と国家のありかたを問い、そこへスコットランド人のフランシス・ハチソン、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミスという三人が、欲求や本性によって社会や経済がどのように形成されうるかを構想していった。 

≪080≫  これらを「経験論」とか「経験主義」とよぶのは、観念や理性が組み立てた世界観に従うのではなく、知覚や認知によって喚起される経験知を素材に世界像を組み立てようとするからで、世界像に及ばない経験ならなんでもいいというような体験主義を標榜したわけではない。 

≪081≫  かつてぼくはバークリーの『人知原理論』(岩波文庫・ちくま学芸文庫)を読んで、その見方にマッハの相対性原理の先取りがあるように思えて興奮したものだが、その後、ヒュームの『人間本性論』(法政大学出版局)やアダム・スミスの『道徳感情論』(講談社学術文庫・日経BPクラシックス)にも、やっぱり相対的に思念や現象を掴まえるところがあると感じた。 

≪082≫  ロックやヒュームの出発点は、観念(idea)は生得的なものではないということにある。この「観念」は僧正バークリーが「想像されるイメージ」と呼んだもので、外界についての印象をもてる力のようなことをさす。プラトンなら理念に高められたイデアともみなしたものだが、ロックは観念は抽象化されて人間に出入りしていると見た。 

≪083≫  観念が生得的ではないということは、生まれてきた人間のもともとの本性にはイメージはないということだから、それなら観念はどこから生まれたのかが問われなければならない。それが経験によってもたらされるというのが、イギリス経験論の立場だった。  

≪084≫  しかし、これでは問題のすべては解決しない。経験によって観念がもたらされるのだとしたら、経験以前の意識の状態はタブラ・ラサ(白紙の状態)だったのかということになる。これは動物を見ても乳幼児を見ても、あてはまらない。生まれ落ちた人間には、すでに何かが芽生えているはずだ。では観念が生まれつきではないとして、もともとの人間の意識がタブラ・ラサでもないとしたら、そのもともとの人間の本性には何があるのか、その本質はどういうものか、この問題が残る。 

≪085≫  こうしてヒュームの「人間の自然本性」についての探究が始まった。人間の自然本性、略して人間本性(human nature)をめぐる探究である。ヒュームはこの探究を「実験的推理方法を精神上の主題に適用する試み」だというふうに捉えた。「精神上の主題」は論理、道徳、政治、文芸のいずれにもかかわる。「実験的推理方法」とは、ヒュームによれば因果関係を解くための方法である。 

≪086≫  因果関係には原因と結果を結ぶ明示的なものもあるが、偶然や「おとづれ」によって生じる関係も含まれる。ヒュームはここにはもともと蓋然性(probability)のようなものが関与しているのだろうとみなした。そして、この蓋然性が因果関係をつかまえようとして、そこに「人格の同一性」が生まれるのだろうと見た。卓見だった。 

≪087≫  ヒュームにはイングランドの歴史についての大著や、ホッブズやロックの政治論を批判した著作もある。その思索領域はかなり広いのだが、神についての議論はあまりしなかった。そのため無神論者とも懐疑論者とも詰られもしたけれど、ぼくはそうは思わない。ヒュームはライプニッツとは異なる思索方法ではあったが、やはり「結合」の裡に神も意識も知覚も社会も入れ込んでいたはずなのだ。 

≪088≫ ☆なぜ理性主義と経験論は並んだのか     

こうして大陸型の理性主義とイギリス型の経験主義が対比的かつ対立的に浮上したのである。ふりかえってみると、この対比や対立は古代ギリシア以来のものだった。ヨーロッパ精神史というもの、あらためて通観するとそこがたいへんに分厚い。ここでいったん、古代ギリシア以来の哲学の変遷をかいつまんでおく。 

≪089≫  一言でいえば、理性主義はマグナ・グラエキア(イタリア南部)のピタゴラス学派やエレア学派に発祥し、ヘラクレイトスのイオニア学派が「ロゴス」を重視したときは、それは理性の代名詞で、かつ論理の代名詞だったのである。 

≪090≫  これらを四十歳頃にイタリア南部に旅行したプラトンが継承して、理性にもイデアやプシュケーが動くとみなし、その粗雑な構想をアリストテレスが『オルガノン』や『形而上学』で精緻にしていった。ストア派もペリパトス派(逍遥学派)も折衷的であるとはいえ、「ヘイマルメネー」(定め)に理性のはたらきを見ていた。 

≪091≫  こうして古代ギリシアの理性主義は、プラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオンとして、その後のキリスト教とヨーロッパの「学舎のモデル」になる。教え学ぶことには理性こそが要求されたのだ。 


≪092≫  この理性主義がキリスト教によってさらに戦闘化していったのが神学であり、スコラ哲学である。スコラ哲学は理性主義の牙城にすらなって、その牙城のパリ大学でトマス・アクィナスが頂点に立った。 

≪093≫  しかし経験論もまた、実は古代ギリシアに発していたのである。イオニア学派、ソフィストたち、デモクリトスやエピクロスらの原子論者、キュレネ学派は知覚や観察にもとづく世界観の獲得をめざした。それなら「もっと実験をせよ」と言ったのが、フランシスコ会の司祭でオックスフォード大学の教授でもあったロジャー・ベーコンである。   

≪094≫  けれどもここまでは、まだ「試す」ことが重要であることと、理性に代わって数学が有効であることが強調されていた程度なのだが、ドゥンス・スコトゥスやオッカムのウィリアムにおいては、いよいよ「理性には限界がある」ことが持ち出され、ここに哲学と神学の切り離しがはかられたのだった。 

≪095≫  こんなぐあいだったから、デカルトが合理と数学と自我を結び付けたのは、かなりの徹底した理性主義の拡張だったのだ。また、それに対してロックやヒュームが「本性の自由」を理性から解放しようとしたことも、かなりの思索だったのだ。 

≪096≫ ☆ついに国家を弄んだフェヌロンの小説     

 話を戻して、バロック期以降のフランスの動向を見ておきたい。一冊の本がフランスに啓蒙主義をもたらし、フランス革命をおこさせた。 

≪097≫  この一冊の本とはフェヌロンの小説『テレマックの冒険』(現代思潮社・古典文庫)だ。テレマック(テレマコス)が父親オデュッセウスをたずねて行く先々で出来事と教訓に遇うという、プラトン゠ゲーテ風の理想国家を求める教養小説である。フェヌロンとは何者か。 

≪098≫  ルイ十四世はナントの勅令を廃止すると(一六八五)、聖職者たちにプロテスタントの誤りを説くように要請した。フランソワ・ド・フェヌロンは幼くしてギリシア語を学び、ラテン語の古典にも通じ、従姉妹のギュイヨン夫人との交際でもブルゴーニュ公の家庭教師としてもよく知られ、司祭としてははやくから人望を集め、のちにはカンブレーの大司教の任にも就いた。けれども国王の要請には応じなかった。 

≪099≫  フェヌロンはローマから「静観主義」の烙印を押され、ルイ十四世によって宮廷からも追放されるのだが、それに応えたのが『テレマックの冒険』だった。のみならずフェヌロンは国王に「この三十年来、貴方の大臣は貴方の権威を頂点まで高めるために、国家の旧来の原理をすべて破ってきました」に始まる親書を書いた。 

≪100≫  以下のような驚くべき内容だ。「この連中は内政においても外交においても、ただひとつの方策しか知りません。つまり、自分たちに手向かう者をすべて威し、負かし、壊滅することです」「貴方の治安の理論は妄想にすぎず、その治安の要求はわれわれの隣人の国を奪うことを正当化しません」「国王陛下、一六七二年のオランダ侵略以来、貴方は多くの国、都市、村を荒らし、何もかも残らず奪い去ったので、世界はすべてのキリスト教国家の自由と安全の唯一の源泉として、ただもう貴方の没落を期待しているのです」。  

≪102≫ ☆啓蒙主義の拡大とロベスピエール      

 モンテスキューとヴォルテールは、一七二六年からの旅行でイギリス経験論の政治思想の刺激を受けた。モンテスキューはボルドー高等法院の副院長時代に、匿名で『ペルシア人への手紙』(岩波文庫・筑摩世界文学大系)を書いてフランス絶対王政を詰り、高等法院を辞職してからは実名で『法の精神』(岩波文庫)を書いて三権分立の可能性を問うた。 

≪103≫  本書が注目しているヴォルテールの姿は、フェルネーという古いユグノーの庭園で小さな共和国をつくったことだ。畑を耕し、道路を通し、蚕を飼い、ささやかな産業をおこした(主に時計工場)。 

≪104≫  この農園の啓蒙君主はヴォルテール自身なのである。ヴォルテールの出現は、ヨーロッパがめざしていたエラスムス以来の平俗的市民意識を開花させ、その立場から王政批判も改革提案もできるのだという確信をフランスにもたらした。 

≪105≫  とはいえルソー、モンテスキュー、ヴォルテールばかりが啓蒙主義者だったのではない。啓蒙思想(英Enlightenment/仏Lumières/独Aufklärung)による世界観はやたらに多様で、あまりにエンサイクロペディックな知識を扱ったので、相互に矛盾していることを惧れなかった。そのため、かなりの啓蒙思想がヨーロッパを動きまわった。 

≪106≫  政治思想においては自然法や自然国家の理想を追うので、ここにはピューリタン革命を潜り抜けたトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』が先行する。これを発展させたのがロックの『統治二論』(岩波文庫)やルソーの『社会契約論』(岩波文庫・白水Uブックス)である。科学においては理神論や無神論の傾向をもつので、イギリスではトマス・バーネットらの自然神学になった。  

≪107≫  倫理思想や人間論ではロックが「観念の生得性」を否定したのが大きく、モーペルテュイやヴォルテールではそのハンドリングができなかった。これを発展できたのはヒュームだ。実在的本質と理性的推理には強い連関はないというヒュームの指摘は、啓蒙主義の限界の指摘にもなっていた。 

≪108≫  啓蒙主義は知識の網羅と掘り下げにおいては圧倒的な効果を上げた。シャフツベリーやコンディヤックやドルバックやルソーと交流したドゥニ・ディドロは、最初のうちは理神論を下敷きに道徳の起源を明らかにしようとし、後半には得意の語学力をいかして万巻の書物にあたり、知識をマテーシス(数えること)とタクシノミア(分けること)によって突き合わせるという二十年をかけた『百科全書』を完成させた。「記憶」「理性」「想像」という大項目が組み合わされている。 

≪109≫  しかし、こうした啓蒙思想を一番におもしろがったのは、大学人や知識人ではなかった。ハプスブルク家のマリア・テレジア、プロイセン王国のフリードリヒ大王、ロシア帝国のエカテリーナ二世であり、ポンパドゥール夫人らのサロンだった。 

≪110≫  ヘーアはフランス革命についてはほとんど触れずに、ヨーロッパ精神史の節目としてロベスピエールを熱く採り上げている。たしかにマクシミリアンとオーギュスタンの、ロベスピエール兄弟はともに突出していた。 

≪111≫  兄弟ともに弁護士だった。弟のオーギュスタンはパ゠ド゠カレーの行政官で、一七九二年のテュイルリー宮殿襲撃後は国民公会の議員や三部会の第三身分代表となり、山岳党に所属してからはジロンド党と争い、ジャコバン党に入党した。このときサン゠ジュストと出会ったのが衝撃的だったようだ。サン゠ジュストはフェヌロンとルソーに影響を受けた活動家で、ヘーアはそこにヨーロッパが生んだ最初の「ルサンチマン(怨恨)の革命者」の出現を見いだしたうえで、サン゠ジュストをパスカルとニーチェをつなぐ線上に位置づけている。 

≪112≫  兄のロベスピエールはルイ十六世を処刑させ、フランス革命を成就させたが、ジャコバン派の独裁者となってからはエベールやダントンを処刑し、恐怖政治の執行者となり、弟やサン゠ジュストとともに断頭台でギロチンにかけられた。ただそのたった四ヵ月のあいだにジャコバン憲法とともに提案し執行したプランはヨーロッパの歴史に類を見ないものだった。 

≪113≫  封建領主たちの地代無償を廃止し、徴兵制を敷き、暦を独自化して(非キリスト教化)、革命裁判所の審査を簡素化した。とりわけキリスト教の諸行事に代わる「最高存在の祭典」は熱狂的なもので、式典ではロベスピエール自身が拳をふりあげて「共和国万歳!」を叫んだ。軍隊は愛国的で、要塞型から密集部隊展開型の戦術となり、僅かな期間でオーストリア、イギリス・オランダ連合軍を破った。このときロベスピエール兄弟の目にとまったのが、コルシカ島出身の兵士ナポレオンだった。 

≪114≫  ヘーアはヨーロッパが革命を俎上にのせたいと思うなら、クロムウェル、ロベスピエール、レーニンを根本的に検討したほうがいいと暗示している。 

≪115≫ ☆ドイツが観念哲学に向かった理由       

ドイツはどうだったのか。一五五一年、ドイツの宗教地図の五分の四はプロテスタントだった。一六〇一年、レーゲンスブルクの宗教会議でプロテスタントとイエズス会が初めて同席した。一六七〇年、二四歳のライプニッツが「ドイツはヨーロッパの中心である」と述べた。 

≪116≫  一六四八年、三十年戦争の後始末としてウェストファリア条約が結ばれた。ヨーロッパ史を画期する国際条約だが、凡百の歴史学者がよく言うように、これで「帝国の権威が失墜した」のではない。これ以降のドイツの地ではカトリックであれプロテスタントであれ、封建領主であれカルヴァン主義者であれ、それぞれに「改革する権利」があることが確約されたのだ。 

≪117≫  その後、ドイツはどうなったのかといえば、「バロックの知」が広がり、ライプニッツが縦横に活躍したことはすでに述べた。そのあとライプニッツやヒュームの受容が目立ち、ヴォルフやバウムガルテンの著作が続くのだが、これは感性や美学を重視するものだった。この時期はフランス啓蒙思想やイギリス経験論のほうが強い。  

≪118≫  こうして十八世紀末になる。一七八一年に敬虔主義の風土のケーニヒスベルクで思索していたカントが『純粋理性批判』を著し、一七九一年にモーツァルトが死に、ゲーテは宗教詩と『ファウスト』草稿にとりくんで、世界をどう開示すればいいかを構想していた。 

≪119≫  一七九九年にゲッティンゲン大学の実験自然学者ゲオルク・リヒテンベルクが亡くなった。その厖大な『雑記帳』(作品社)は、ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ベンヤミンらのドイツ精神文化の担い手たちに多大な影響を与えた。 

≪120≫  そして一八〇〇年、フィヒテの『人間の使命』(全集・哲書房)が刊行されたのだ。それまでドイツの世界精神を啓蒙的市民文化と講壇文化で形づくっていたハンブルク・ライプツィヒ・フランクフルト・ゲッティンゲンの四都市がつくる四辺形は、フィヒテによってあらためて「ドイツ国民」の拡張の中に再浮上することになった。ナポレオンが占領していた最中のベルリンで、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』(玉川大学出版部)という連続講演をするのだが、そこには『全知識学の基礎』(全集)が裏付けられ、総動員されていた。 

≪121≫  フィヒテにおいて、ヨーロッパ精神は一国の民族と国家と自己の一体の中に注入されることになったのである。それでどうなったのか。ドイツ観念論が席巻した。 

≪122≫  近世から近代にかけてのドイツの知識人たちによる世界観をめぐる議論は、まとめて「ドイツ観念論」と呼ばれてきた。カント以降のフィヒテ、シェリング、ヘーゲルに向かった哲学がドイツ観念論だというのだ。 

≪123≫  これは俗称であるが、まちがってもいる。同様に、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カントを「自我思想の合理化」の潮流として一筋に捉えることもできない。いずれもカントを取り違えている。 

≪124≫  ハイネがこういうふうに言った。ロベスピエールはたかだか国王の首を飛ばしたにすぎないけれど、カントは神の首を切り落としてしまったのではないか、と。マルクスの友人だったハイネらしい言いっぷりだが、カントが褒められているのか貶されているのか、わからない。カントは難しく、危うく、さまざまに誤解もされてきた。いずれにしても、本書の案内をカントで了えるのはふさわしいだろう。カントにおいては「ヨーロッパ精神史」はたしかに首を落とされるかのように伐採されているのだ。カントの著作は岩波の「カント全集」と岩波文庫による。 

≪125≫ ☆カントの「理性批判」では了らない       

 イマヌエル・カントの処女作は『活力測定考』である。力の概念をめぐるデカルトとライプニッツの解釈のちがいに調停を買ってでた野心作だ。活力(vis viva)をめぐった。次の野心作は『天界の一般自然史と理論』だ。太陽系がどのように形成されたかをめぐった。エピクロスの原子論とニュートンの力学法則で説明しようとしている。カント゠ラプラス星雲説としてのちのち天文学から評価された。 

≪126≫  ついで『神の存在の唯一可能な証明根拠』を書いた。ここでカントは自然神学を批判した。神の首を落としたのはこのときだ。ただし、カントが描く神はかなり擬人的なもので、そこには「神性」はキャッチされていない。 

≪127≫  続く『自然神学と道徳の原則の判明性』では、神の存在証明のためであれ、自然をめぐる哲学にであれ、数学的方法をもちこむことを嫌った。そのくせニュートンに対しては寛容なのである。 

≪128≫  こうして十年の沈黙のあと、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の有名な三部作が登場する。カントはこの三部作によって自身の哲学が「超越論的哲学」になったと自負した。  

≪129≫  超越論的とはカントの用語だが、認識をアプリオリなものとして(経験に先立つものとして)追究していくことをいう。そのため「感性」「悟性」「理性」の独特の使いまわしを躍如させた。これまたかなりわかりにくい独特な用語づかいなのだが、カントにおいては論理学で言う「概念」が感性のことで、「判断」にあたるのが悟性で、「推論」にあたるのが理性なのである。 

≪130≫  カントは、人間の認識能力には感性(概念に対する受容力)と悟性(判断力を生む力)がアプリオリにそなわっていると考えた。その感性には空間と時間が含まれ、悟性には因果性などの一二のカテゴリー(概念あるいは範疇)が含まれる。感性に時間と空間が含まれるのは、それが純粋直観にもとづくとみなされるからだ。 

≪131≫  われわれの意識はこのような感性と悟性の二種の形式によって、現象や出来事や「ものごと」を認識している。だとすれば、この形式による認識は「物」の経験なのでもある。一方、この形式に適合しない認識もおこりうる。本来、それは人間の認識の所産にひっかかるものではないのだが、そのことをあえて敢行してきたのが、われわれが初期の歴史において神や超越者というものを想定したことだった。  

≪132≫  これは純粋悟性概念の所産であって、認識がしからしめたものでなかった。そこでカントは、こうしたものを「物自体」(Ding an sich)と名付けた。物自体は不可知なものなのである。 

≪133≫  こんな説明で何かが伝わったかどうか心もとないが、ぼくはカントがこれらを論証するためにいつも「判断表」を作成していたこと、および組み立てをするためにたいてい「三段の統合(重合)」を試みていることに、妙に納得したものだった。三段というのは、①直観における覚知の総合、②構想作用における再生の総合、③概念における再認の総合、というものだ。この手順、すこぶる編集工学的なのである。 

≪134≫  主著『純粋理性批判』は次のように結ばれる。「二つのものが、それを考えることが多く、かつ長ければ長いほどますます新たに、また増大する賛嘆と畏敬をもって心を満たす。それは私の頭上にある星が鏤められた天空であり、私のうちにある道徳法則である」。 これでわかるように、カントの理性批判は、ヨーロッパ精神史が培ってきた理性のぎりぎりの擁護だったのである。 

≪135≫  以上がヘーアの『ヨーロッパ精神史』の概略だ。適当に補って案内したところもあるので、そのぶんヘーアのストイックな反省的集中力が伝わらなかったことを惧れる。 

≪136≫  あらためて強調しておきたいのは、ヨーロッパは「東」を封印あるいは抑圧することで、その精神的基盤を確立してきたということである。そのための武器になったのが「神」と「理性」というものだった。ただヨーロッパ哲学は、その「神」と「理性」を唯一無比なものと考えすぎた。そのため、この唯一無比の論証のため、多くのロゴスが投入されすぎもした。 

≪137≫  そこで、これらの思索風土に紛らわされないための「方法の哲理」が用意されることになった。それがデカルトやライプニッツに代表される「数理」というものだ。しかしながら初期の数学思想にはまだまだ「神」と「理性」との整合性を気にする風情が付きまとっていた。数理や数学的方法が哲学から自立するのはカントール以降のことになる。  

≪138≫  ヘーアの記述は何かの思想や哲学に偏ってはいない。公平でもないし、正攻法でもないが、一九六〇年代後半のとりくみだったこともあって、いわゆるポストモダンの眼が加わっていない。マルクス主義にも冒されていない。どちらかというとダニエル・ベルが「イデオロギーの終焉」を謳ったような、個人思想にとらわれない記述に徹したのである。カントの時代までなら、そういう書き方を貫くのも、ぼくには参考になったのだ。だから、本書はあくまでアンチョコであって、ヘーアの思想ではなかったのである。哲学史の絵筆による写生だったのだ。 

≪01≫  さすが杉本博司だった。あとがきに「この歳になるまで文章を書くとは露ほども思っていなかった」と書いていたが、どうしてどうして、文体・文意・文飾、いずれもすばらしい。大いに読ませた。「和楽」の当時の編集長だった花塚久美子に唆されて毎月10ページの連載をしたのをきっかけに文筆処女懐胎をしたようで、それで杉本ワールドが本書のような言葉によっても辿れるようになったのだから、杉本ファンにとってはまことに悦ばしいことだったろう。 今夜は処女懐胎の『苔のむすまで』を採り上げたが、このあとも何冊か懐妊した。『現(うつつ)な像』(新潮社)、『空間感』(マガジンハウス)、『アートの起源』(新潮社)、『趣味と芸術』(講談社)などなどだ。もっとも最初の2冊から先は、だんだんフツーの本になっている。 

≪010≫  杉本の写真は一言でいえばすこぶる戦略的な写真だ。最初の最初から「アートなシリーズ」をめざしている。アートではなく「アートなシリーズ」である。そんなことができるのは、いいかえればコンセプトが明確だということなのだが、コンセプトがあるというだけなら多くの写真家がそうなので、そう言うだけでは当たらない。 

≪018≫  原初の写真を撮るという行為は、一言でいえば「光をフィルムにうたた寝させる」という行為である。最初は銀塩フィルムではなくて、室内や屋外の実像をピンホールを通してカンバスに投影して、現像・焼付をするかわりにそこに油彩などで絵を描いた。このときカメラ・オブスキュラが実像とカンバスのあいだにあった。15世紀以降にダ・ヴィンチ(25夜)、レンブラント(1255夜)、フェルメール(1094夜)らが使った。 

≪019≫  杉本の写真はこのカメラ・オブスキュラを今日(現在)まで引っ張ってきている。カメラは光学レンズの精度が増し、さらにインスタントカメラを嚆矢に高度な電子化もされるようになったけれど、杉本はフェルメール時代のカメラ・オブスキュラを時空間ごと引っ張っているのだから、杉本カメラにはそのフェルメールから今日までの空間量も時間量も引っ張れているのである。 

≪020≫  似たようなことをやった者たちはいた。バロックの建築家、浮世絵師、覗きからくりの制作者たち、そしてマルセル・デュシャン(57夜)だ。デュシャンの遺作『①落ちる水、②照明用ガス、が与えられたとせよ』は作品全部がカメラ・オブスクラという部屋になっていた。この作品はフィラデルフィア美術館の一室になっている。杉本は見田宗介とここを訪れて、驚天動地した。ぼくは官能の極みに達した。  

≪021≫  それで、なぜ杉本がこういう考え方や見方をするようになったのかといえば、ぼくが察するには、世界が模像であることを早くから見抜けたからである。ただし、ここには二つの大きな仕掛けの理解がひそむ。 

≪022≫  ひとつは、われわれの視覚像は眼球と脳神経系によるものなのだから、何かが「見えているということ」そのものがすでにして模像だということがある。 

≪023≫  印象として模造っぽくなるというのではない。知覚がそうなっている。このことはすでにエルンスト・マッハ(157夜)の知覚認識論、ケーラーやレヴィンやコフカ(1273夜)のゲシュタルト心理学、数々の脳科学、メルロ=ポンティ(123夜)に始まる「間主観」による知覚哲学、デヴィッド・マーの『ヴィジョン』、最近の人工知能論までもがあきらかにしている。 

≪024≫  もうひとつには、絵画も建築も衣裳も写真も(つまりは大半のアートは)、型と型とを抜きあって成立してきたということがある。「抜き合わせ」だ。風景を描くことも仏像を彫ることも、住居を建てることも衣服をつくることも(着ることも)、何かと何かの「抜き合わせ」なのである。多くは「地」と「図」の抜き合わせだ。 

≪025≫  このことについてもプラトン(799夜)からジャコメッティ(500夜)まで、フォン・ユクスキュル(735夜)からフランシス・ベーコンまで、文晁・北斎からベンヤミン(908夜)まで、三浦梅園(993夜)から中井正一(1068夜)まで、ナムジュン・パイク(1103夜)から森村泰昌(890夜)まで、とっくにわかっていたことなのだが、多くのアーティスト、とりわけ写真家はこのことをちょっと失念しすぎていた。 

≪028≫  杉本は古美術品のコレクターであって、骨董屋でもある。そうなったのは杉本の前夫人の絹枝さんのせいだった。 

≪029≫  話が前後するけれど、杉本は立教大学の経済学部で学んでいるうちに写真をやりたくなって(中高大ともに立教ボーイだ)、ロスアンジェルスのアートスクール(アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン))に入った。1970年のことだ。 

≪030≫  途中シベリア鉄道でヨーロッパをまわったりしているが(このシベリア鉄道経由のヨーロッパ覗きは、五木寛之や安藤忠雄がそれをしているが、なかなかのイニシエーションなのである)、そのロスの4年間で西海岸特有のカウンターカルチャーの波濤を浴び、そのなかで東洋や日本が注目されているのを知る。 

≪031≫  クルアックやギンズバーグ(340夜)によるビートニック世代がタオイズムや禅に依拠していた風土が、まだカリフォルニアのそこかしこに熱を発していた時期だ。ぼくもバークレーの本屋が軒並み「東洋」で埋まっているのに驚いた。 

≪032≫  ところが、そのころの杉本はせいぜい鈴木大拙(887夜)を読む程度のことで、東洋宗教も日本美術も見えてはいない。そのうち74年にニューヨークに移り住んだ。ここで写真のアート化に挑戦するために腰を下ろし、初期の傑作「ジオラマ」「劇場」「海景」などのシリーズを撮った。これらは州政府やグッゲンハイムの奨学金やNEAのグラントをもらっていた。無収入でも凝った写真にとりくめたのは、この軍資金のおかげだった。 

≪033≫  このころ画家の絹枝さんと結婚した。絹枝さんは資生堂の宣伝部にいた人で、広告の仕事に満足できずニューヨークで画家を始めていたのだが、杉本の収入がなく、仕事も途絶えそうなので心配をして自分で小さな店を始めた。いろいろ買い付けをしてソーホーのビルの2階を借りたのである。これが「MINGEI」だ。1978年だ。ぼくが杉本を訪ねたのはこのときだった。 

≪034≫  話によると、銀行には200ドルしか残っていなかったらしいが、初日にはイサム・ノグチ(786夜)もやってきて、一カ月後にはニューヨーク・タイムズが家庭欄で大きく採り上げたため、在庫はすべて売り切れた。 

≪035≫  絹枝さんは1歳の子の育児が忙しい。そこで杉本が買い付けに赴くことになった。「伊万里と鍋島の違いも知らないような、ズブの素人がそば猪口や印判の皿、久留米絣や筒描、はたまた廃仏毀釈で川に流されたとおぼしいズルズルになった仏像など、変なものを含めて買い集めた」のだ。 

≪036≫  そんななか、円空仏に出会った。ギョッとしたようだ。杉本はそれからというもの、年に4度は日本に戻って神社仏閣をめぐり、東寺の弘法市に出入りし、骨董業者と顔なじみになり、目利きの腕を磨いた。「本物」と「もどき」の行き来にだんだん自信がついたはずである。 

≪037≫  このあとの杉本の仕事ぶりは、円空仏や写真術で感じたことを心像にごつんと落として、その「ごつん」を裏切ることなくさまざまに変換するものになっていく。 

≪040≫   「ジオラマ」も「劇場」も、いずれも杉本流の調整と工夫を施した古めかしい大型カメラによる撮影だ。カメラ・オブスキュラの杉本ヴァージョンである。「海景」もそういう大型カメラを世界各地の海岸に運び、同一画角、同一アングル、同一露光、同一深度で撮った。そのため大ボケ写真が少なくない。それなのにじっとしている。これまた見る者を唖然とさせた。 

≪041≫  どんなカメラであれ、それで撮った写真は「写真としてのリアル」を示す。しかし、カメラ・レンズの向こうの被写体も、博物館であれ海であれレストランの料理であれ、やはりリアルだ。けれども、その博物館や海や料理も、もとはといえば目や耳や口で知覚された、いわば「知覚のリアル」なのだ。 

≪042≫  いったい「向こうのリアル」と「写真としてのリアル」と「知覚のリアル」は何がどう、ちがっているのか。メディエートされるフィルターが異なっている。これが一番のちがいだ。けれども見えているものは「同じ」に感じる。それらは「もどき」として貫かれたものなのであるからだ。 

≪043≫  杉本の「ジオラマ」「劇場」「海景」はその「貫かれたもどき」を空間と時間を切り取ったり跨いだりして、面倒を厭わぬ絶妙な方法で表象してみせた。みごとな凱歌だ。 

≪044≫  これ以降の写真制作やその他の仕事も、「もどき」の集約であり拡張であり、その転移や組み合わせだった。今夜はそのいちいちを採り上げないけれど、展覧会や作品集で見てもらうのが一番いい。ついでに、杉本の言葉も噛みしめるといい。ウェブにも杉本博司通信「言葉」が上がっている。木村俊介のインタビュー『物語論』で答えているのもおもしろい。 

≪045≫  そういうなか、ぼくが強調しておきたいのは、それらが「何か」ですべてつながっているということだ。 

≪046≫  一人のアーティストの作品がなんであれ、それらが相互につながった作品群になっているということは、とくに驚くことではない。むしろほぼみんなそうなっていくほうが多い。 

≪047≫  運慶であれセザンヌであれ草間弥生であれ、歌麿であれウォーホル(1122夜)であれ、サティであれ桑田佳祐であれ、マレーヴィッチ(471夜)であれメシアンであれ、そうなる。それを個性があらわれているとか表現のマチエールが継続しているとかと見るのは、当たり前すぎてつまらない。 

≪048≫  そんな流れに抗するかのように、一人のアーティストの仕事とはにわかにわからない仕事が連打されるもある。デュシャンがそれをあえて示したのだが、ウィリアム・ターナー(1221夜)の絵やル・コルビュジエ(1030夜)の建築や早坂文雄(1095夜)の作曲や河井寛次郎(5夜)の陶芸も、そういうものだった。しかし、それらは見た目(アピアランス)ですぐに一人の作品とわからずとも、奥で「ごつんと落としたもの」の多様な再現であったのだから、それが感じられさえすれば、やはり見分けがつく。 

≪049≫  では、一見ちがうものに見えるのは何かというと、それはたいてい当初の「ごつん」で掴まえた「何か」の「分景」(ディマーケーション)や「転景」(トランスヴィスタ)なのである。 

≪057≫  さて本書は、最終章にヘンリー・ヒュースケンの『日本日記』(岩波文庫)が紹介されていて、杉本がときどき散歩の途中に麻布光林寺のヒュースケンの墓を詣でていることがふれられている。そして章扉には「苔のむすまで」とあって、昭和天皇の蝋人形を撮ったモノクローム写真が掲げられ、「神の視点をお持ちです」というキャプションが添えられている。 

≪057≫  さて本書は、最終章にヘンリー・ヒュースケンの『日本日記』(岩波文庫)が紹介されていて、杉本がときどき散歩の途中に麻布光林寺のヒュースケンの墓を詣でていることがふれられている。そして章扉には「苔のむすまで」とあって、昭和天皇の蝋人形を撮ったモノクローム写真が掲げられ、「神の視点をお持ちです」というキャプションが添えられている。 

≪058≫  畏まる雰囲気がある。本の中にこういう雰囲気をつくりだすのはけっこう難しい。みんなすぐに豪華本にしたり桐箱に入れるのだが、ページそのものが凛とするのは、そういうことではない。様式についての思想がなければならず、「しつらい・もてなし・ふるまい」についての抑制がおこるべきであり、出入りする言葉の選定が必要なのだ。「ありがたい」「かしこまる」とはそういうものからしか出てこない。できればそこに「稜威」(いつ)が見え隠れしてほしい。「触れるなかれ、なお近寄れ」だ。 

≪059≫  戦後、日本の天皇は象徴天皇になった。誰もがそう思っているし、憲法の規定ではもちろんそうなるのだが、天皇が象徴になったとはどういうことだったのだろうか。 

≪060≫  杉本は後鳥羽院のときから日本の天皇はずっと象徴でありつづけてきたとみなしている。ぼくは崇神・応神にも、雄略・天武天皇にも象徴を感じる。さまざまな事績や歌や伝承に稜威を感じるからだ。 

≪061≫  それはともかくとして、われわれはいま、日本の天皇に去来する「象徴」をどうあらわすかということを、よほどに熟慮したほうがいい時代を直截に迎えているはずである。 

≪062≫  上皇となられる今上天皇は、即位このかたずっと「象徴天皇とは何か」を考えられてきた。昭和天皇の場合は、在位途中から「象徴天皇」だと定められ、時の半分や体の半分を「象徴」にした。では、われわれは何をもって象徴を感じていると言えるのか。また、われわれ自身は何をもって象徴をあらわせると思っているのか。かなり曖昧なままのようだ。 

≪063≫  杉本博司はずうっと「象徴とは何か」を探求してきためずらしいアーティストだ。特別なことをしてきたのだろうか。必ずしも、そうではない。かつては藤原隆信もラファエロも象徴をどのように描くかということを考えたのである。それだけでなく、キリスト教美術をはじめとする宗教美術の多くが象徴芸術だったのだ。とくにバロックはそこに両界宇宙をも加えた。 

≪064≫  けれども、われわれはこうした歴史を過去のものにしてきてしまった。時間を止めた。ウォーホルが毛沢東やマリリン・モンローをシンボルやイコンにしてシルクスクリーンにしたあたりをもって、歴史と断絶もした。 

≪01≫  この「千夜千冊」はあらかじめ千冊を選んで書いているのではない。では、二千冊とか数千冊を想定しておいて、そこから選んでいるのかというと、そういうこともしていない。 

≪02≫  だいたい一週間ほどの単位で数冊を想定し、それらを再読するつもりで拾い読みながら、あくまでその前日か前々日か当日に何を書くかを決めている。どうしても旅行などで書けないときは、そのぶんを書く。初読のものもかなりある。既読書ばかりでは、ぼくがつまらない。ついつい新しい本を入れたくなる。とくに学術的研究書や科学関係の書は、データも見解もメソッドも、新しいものが断然おもしろい。また流行、風俗、ポップなもの、コンピュータものは新しくなければ意味がない。 

≪03≫  こういうぐあいなので、選書が決定すると同時に、その本をどう書くかということが一緒にやってくる。このとき意識と体調と表現力が一気に寄り添う必要がある。これがちょっとでもずれると書きにくい。 

≪04≫  こんな作業を毎日2年以上続けてきてみると、さすがに、「そろそろあの本を採り上げなきゃなあ」というオブセッションが動き始めるようになった。とくに古典や名作の書名や内容がのべつアタマの中を去来する。たとえばダンテ『神曲』、芭蕉『奥の細道』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』、ハイデガー『存在と時間』、手塚治虫(これは何にするか迷う)、大友克洋『AKIRA』といったやつだ。  

≪05≫  加えて、実は数日前に扁桃腺炎になって高熱が下がらず困って、なんとか起き上がって「千夜千冊」を書いてスタッフに該当本を取りに来てもらっているのだが(そして、これもそうなのだが)、こういうことがあると、もしどうしても書けない事情ができて中断してしまったらどうしようかという不安が、さきほど床に伏していたときに初めて過(よぎ)った。 

≪06≫  日本人なんだろうね、そんなことになったら恥だな、カッコ悪いな、みっともないなと思うばかりで、たとえば、(いま思いついたのだが)時間のあるときにもっとたくさん書きためておいて、それをそういうときに配信すればいいなどとは思えないのだ。これも日本人なんだろうね、そういうことをするのは卑怯だなどと、バカなことを思ってしまうのだ。 

≪07≫  ともかくも「千夜千冊」も700冊をこえて、あれこれの事情が複雑に押し寄せている。この重圧は想像以上のもので、むろんのこと「しまった!」と思っている。 

≪08≫  さて、そこで、というわけではないのだが(いや、そこで、という気持ちもないではないが)、いったいぼくはこれからどんな本を採り上げるつもりなのか、そういう“予想” も含めて今宵はこういう本書を選んだ。 

≪09≫  1984年から3年にわたった「朝日新聞」の連載を編集したもので、たいへんにおもしろいガイドになっている。多彩な選者と選本の組み合わせに興味をもつことも少なくないだろう。もっともゲーテやフロベールや漱石が入っていなかったり、読み物にしてほしいという編集部からの注文があったとしても政治・思想・歴史学系があまりにも少ないのに驚くが、それはそれで参考になる。 

≪010≫  いったい、ぼくはこのうちから「千夜千冊」に何を選ぶのだろうかということだ。まるで他人事のような話だが、あえて自分を突き放して、そのようにしてきたともいえる。  

≪011≫  書名はおおざっぱに時代順に並べなおしておいた。★印はすでに「千夜千冊」に書いたもの、◆は著者は同じだが別の本を採用したもの(「千夜千冊」は一著者一作品主義)、▲印はひょっとしたら今後に採りあげるかもしれないもの、〓印はどうしようかと迷っているもの、▼印はおそらく今後も選ばないだろうもの、●印はまだ読んでいないもの。 

≪01≫  これはベンヤミンの千夜千路あるいは千夜千境である。また、ベンヤミンの書物売り立て目録である。だいたいは一九二七年から一九三五年までノート風に書かれた。最晩年のノートになる。ただし厖大なノートだ。そのあいだに、ベンヤミンはナチスから逃れてパリに移住したりしていた。 

≪02≫  パサージュ(passage)とは、十八世紀からパリの中心街付近に登場した回廊型のアーケードのことで、パレ・ロワイヤルやパサージュ・フェイドーが先行して、ナポレオン時代から復活王政時代にかけてまたたくまにふえた。歩道整備がままならないなか、フランス革命によって解放された敷地と建物のパサージュ(小道)に次々に小さな店が開店して軒を並べ、パリの住民や旅行客の夢を誘ったのである。盛時には一〇〇ヵ所以上のパサージュが曲折した賑わいをつくりだしていた。 

≪03≫  ベンヤミンはこの驚くべき細密な実景に注目して、パサージュの実態を綿密に綴ろうとした。当初のプランでは三六路の視点を用意して、これを「Aパサージュ」「Bモード」「G博覧会・広告」「S絵画」「Y写真」「d文学史」「g株式市場」「r理工科学校」などとして記述するつもりだったようだが、着手した草稿では「Ⅰフーリエあるいは路地」「Ⅱダゲールあるいはパノラマ」「Ⅳルイ・ヴィリップあるいは室内」「Ⅴボードレールあるいはパリの街路」「Ⅵオスマンあるいはバリケード」という、やや大胆な六部の概括になった。 

≪04≫  全五巻の草稿を見ればすぐさまわかるように、これはたんなる都会の実見録なんかではない。パサージュの展示光景の輪郭と細部に「時代社会の言説と思想」をさまざまに引用して読み取った。 

≪05≫  ベンヤミンはパリのパサージュに世界モデルを見いだし、そこに込められ、そこから導きだしうる言説と思想を厖大に並べ、組み立て、編集してみせたのである。それはかつてならバルザックが小説にし、ユゴーが描写し、ボードレールが詩篇にしたものであり、また版画家や画家たちがスケッチし、初期の写真家たちが長時間露光で撮影したものであったけれど、ベンヤミンはそれらを実景の中に引用し、独自の「面影」(Bild)を編集したかったのだった。 

≪06≫  はたしてノート群をその後どうしたかったのかは、作成者が途中で死んでしまったのでわからない。察するに、ノートのままにしておきたかったのではないかと想う。ベンヤミンはただただパサージュの輪郭と細部から、意識と欲望の「表象」(representation)そのものを取り出したかったのである。そのために、自身が洞察の知をもって歴史と現在をまたぐ「遊歩者」(flâneur)になったのだ。 

≪07≫  だからパサージュはたんなるアーケードなのではない。たんなる空間でもなく、たんなる店の並びでもない。ベンヤミンにとってのパサージュとは移行者であって街路者であり通過者なのである。境界をまたぐ者になることである。 

≪08≫  ベンヤミンはパリのパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものでもあった。おそらくマラルメ以来、「本」とは本来はそういうものなのである。ベンヤミンはこう書いた、「パサージュは外側のない家か廊下である、夢のように」。 

≪09≫  この夢はベンヤミンの関心では「集団の夢」(Traum des Kollektivs)というもので、時代社会の舞台としては十九世紀の都市におこったことをさしている。そのことをベンヤミンは「十九世紀とは個人的意識が反省的な態度をとりつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的無意識のほうはますます深い眠りに落ちていくような時代なのである」と書いている。 

≪010≫  その深い眠りに落ちるものを都市から掬い出してみたくてメモとノートを取りつづけた。厖大になったが、それがパサージュだった。 

≪011≫  生前にはまったく刊行されてはいない。それどころか、ベンヤミンはこれをジョルジュ・バタイユに託して図書館に消えていった。 

≪012≫  いや、実際に消えたのは一九四〇年にドイツ軍の接近にともなってパリからルルドに逃げ、そこからマルセイユに飛んで、最後にピレネーからスペインへの入国をはかって足止めにあい、強制連行の直前に服毒自殺をとげたときだ。このような亡命者ベンヤミンが、最後まで「目の言葉のアーカイブ」として綴り残した『パサージュ論』が活字となって陽の目を見たのはずっとのちのことだった。 

≪013≫  ともかくも、まことに奇妙なのに緻密、あくまで外見的なのに内密な「本のパサージュ」なのである。これまで千夜千冊が案内したものでは、これに類する「本」はほとんど見当たらない。たとえばベルナール・パリシーの道具手記とも、今和次郎の考現学ともまったくちがっている。どちらかといえばハンフリー・ジェニングズの『パンディモニアム』(パピルス)がやや近い。 

≪014≫  ベンヤミンの才能、思考癖、業績、世界観、陥穽、特長を言いあてるのは容易ではない。専門分野も指摘しにくい。おそらく指摘などしないほうがいい。専門などにとらわれていない。

≪015≫  ベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ育ち、フライブルク大学・ベルリン大学・ミュンヘン大学・ベルン大学を移り渡っていて、修学したのは言語学や美学や芸術史ではあるが、これらのどの研究にもチャージされなかった。教授資格申請で『ドイツ悲劇の根源』を提出しているけれど、フランクフルト大学に拒否された。拒否されても平気だった。関心を寄せたのはゲーテの親和力であり、パウル・クレーの版画であって、手がけた仕事はボードレールやプルーストの翻訳だったのだ。 

≪016≫  仲間は好きだった。大切にしたのは、ゲルショム・ショーレム(ユダヤ人研究)、エルンスト・ブロッホ(異化の思想家)、テオドール・アドルノ(フランクフルト学派の社会学者)、ベルトルト・ブレヒト(劇作家)らとの親交だ。なかでものちにアドルノ夫人となるグレーテルには、心身面でも活動面でもかなりの信頼を寄せている。 

≪017≫  現代思想史ではアドルノやホルクハイマーが中心になったフランクフルト学派の一員とみなされることが多いけれど、そういうふうに見たところで、あまりベンヤミンの特異性を語るうえでの参考にはならない。 

≪018≫  現代思想史ではアドルノやホルクハイマーが中心になったフランクフルト学派の一員とみなされることが多いけれど、そういうふうに見たところで、あまりベンヤミンの特異性を語るうえでの参考にはならない。 

≪019≫  文明技術がもたらしたものは農耕から貨幣まで、神殿から兵器まで、ワインからタバコまで、百貨店から通信社まで、いくらでもある。しかし、それを「現在」という一回かぎりの光景で切り取ってみると、その現前性には何を感じるべきなのか。ベンヤミンはそういうことを考えた。 

≪020≫  多くのものが量産され、複製され、消費されている。けれどもそれらを一回かぎりの感覚で受けとめたとしたら、そこに放たれているのは何なのか。ベンヤミンは「アウラ」(Aura)であろうと見た。この用語は『複製技術時代の芸術』などで使われているのだが、そこでは文明技術が複製消費しているうちに失われた輝きのようなものをさしている。しかし「アウラ」にはもっと微妙で、もっと広範で、もっと格別なものがこめられている。 

≪021≫  今日でも、しばしば「あいつにはオーラがある」とか「この作品にはオーラがあるね」などと言う。アウラのことだ。このアウラないしはオーラはギリシア語では生体が発している霊的なエネルギーのようなものを、ラテン語では風や香気や光輝をさしていた。英語のオーラ(aura)もだいたいそれに近く、実態はよくわからないが感受できる存在の放射力のことをオーラとみなしている。転じて、霊視者や超能力者が看取できるものともみなされた。 

≪022≫  ベンヤミンの「アウラ」にはオカルティックな意味はない。文明技術が組み合わさって現前させているもの、いま、そこで、刻々と放っている渦中のもの、それが「アウラ」だった。 

≪023≫  一九七六年から八一年まで、山野浩一が編集をしていた季刊誌「NW‐SF」に『スーパーマーケット・セイゴオ』という連載をしていたことがある。少年時代に出会った画鋲やホッチキスや吸取紙や月球儀などの印象をひたすら綴ったもので、百数十点の商品を選んだ。 

≪024≫  気に入った理由、魅惑された事情を綴りたかったので、ほとんど思想的なしつらえを施していない。ただ、なぜそういうオブジェたちに魅かれたのか、それだけを思い出しながら列挙しておきたかったのだ。注射器・文庫本・ガーゼ・自転車・リトマス試験紙・電気花火・五線譜・鉱物標本などがぼくの心を奪った顛末を綴っておきたかったのである(追記=二〇一八年に『雑品屋セイゴオ』として春秋社から刊行された)。 

≪025≫  ベンヤミンのパリのパサージュの記録とぼくの『スーパーマーケット・セイゴオ』では動機も表現スタイルもだいぶん異なるけれど、どこか重なりあうところ、共通するところもある。ぼくがスーパーマーケットなるものに初めて出会ったのは、京都から横浜に越してきた高校一年の春のことで、元町のユニオン・スーパーマーケットに入って、夢が棲んでいるのかと思うほど新鮮だったのだ。人によってはディズニーランドのような遊園地やテーマパークがファンタジーなのかもしれないが、ぼくにはユニオン・スーパーマーケットこそが断然に愉快だった。高校生にとってその「集合の姿」が美しかったのだ。おそらくベンヤミンがパリのパサージュに感得した「アウラ」もそういうものだったにちがいない。 

≪026≫  もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。その逆である。「個人の外部性」と「集団の内部性」に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。 

≪027≫  ベンヤミンがこうした「集団の夢」に一貫した関心をもちつづけたことは、近現代思想のレパートリーではかなり特異なものである。なぜなら近代社会ではやっと個人や自我が歴史や社会と対応して、その確立と懐疑に向かえたからだ。それなのにベンヤミンは二十世紀の半ばに向かって、むしろ十九世紀の集団が夢みた痕跡を解明することにこだわった。それはヘタをすれば資本主義が商品や製品に託した幻影のようなものの追慕になりかねない。 

≪028≫  けれどもベンヤミンはそれをした。そしてその資本主義社会が十九世紀の都市の隅々に投下したファンタスマゴリア(幻像)に、今後の社会がそれ以上のものを付け加えるのは不可能ではないかというほどの原型の羅列を見た。そこに「アウラ」を見た。あとは「複製の時代」になるだろうと予想した。これはアナクロニズムだろうか。そういうところも少しはあるが、ぼくはそうは思わない。このような思索態度や記録態度こそは、これからやっと重視されることだろうと思う。 

≪029≫  ベンヤミン以降の時代、それは第二次世界大戦後の社会ということになるのだが、しだいに集団よりも個人を重視するようになっていった。そのうち、集団に排除された個人や集団に埋没した個人については、その集団の意義を無視してまでも擁護されていくようになった。 

≪030≫  ベンヤミンはそれとはまったく逆の方向に歩んでいた戦時者だったのである。ベンヤミンにとっては情報の「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたのか、それを編集できるかどうかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の代名詞であったのだ。 

≪031≫  このことが示唆する意味は、ベンヤミンが若いころから書物を偏愛し、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えたわけだった。 

≪032≫  しかし、書物も都市も、また商品も、それを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。 

≪033≫  そこでベンヤミンはさきほどのべた「個人にとって外的であるようなもの」と「集団にとっては内的なもの」との絶妙な線引きに関心をもつ。そして、その線引きを「敷居」(Schwelle)と名付けた。この敷居はファンタスマゴリアな閾値と境界をともなう敷居である。のちにヴィンフリート・メニングハウスがベンヤミン論でそうのべているのだが、ベンヤミンの業績のすべてにお節介な学問の名をつけるとすれば、それはやっぱり「敷居学」というものなのだ。 

≪034≫  しかし、意外にもベンヤミンは敷居そのものではなく、また個人が敷居をまたぐ意識の分析ではなく、そのような敷居をつくった都市や百貨店や商品の現象のほうに記述の大半を費やした。それゆえ『パサージュ論』を読む者が驚くのは、その都市の敷居がトポグラフィックにも、精神科学的にも、また現象学的にも文学的にも、個人の意図も集団の意図も消しているということだ。ベンヤミンは敷居(たとえば門や呼び鈴)に意味を与えようとしなかっただけでなく、敷居を通過させるようにした装置そのものにのみ関心を注いだのである。 

≪035≫  さあ、これが「数寄のパサージュ」でなくて、いったい何であろうか。 

≪036≫  これまで多くのベンヤミン論者がパサージュの解明に挑んでいて、その多くがベンヤミンがたまさか使った「遊歩者」や「遊歩の弁証法」という言葉にこだわったけれど、たんなる遊歩ではあるまい。これはどう見ても茶室の構造をその内容にも意図にもこだわらずに、その出来事のすべてを詳細にメモしようとした試みそのものなのだ。 

≪037≫  いずれにしてもそこに「数寄のパサージュ」として記録されるのは、ベンヤミンの言葉でいえば「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」であり、「それによって視覚がずらされたのに、そこから出現してくる積極的な部分」なのであって、つまりは「寓意の数寄」を認証するための部分品リストなのである。 

≪038≫  思想というものは主題にしがみつく。他方、職人と商業は述語と方法を神とする。パサージュとは通過することだ。通過とは、茶碗でいうなら轆轤で成形をして窯に入れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを切り開くことである。 

≪039≫  これらは述語的な行為というものだ。むろんそれらの行為にはあらゆる意図がからみあう。けれどもその行為はいずれは終わる。終わってどうなるかといえば、それはどこかに配列されて布置される。述語として散っていく。それを膨張させたのが都市というもので、社会というものなのである。 

≪040≫  ならば、それらを記録するとはどういうことなのか。たとえば写真というものは近代社会がつくりだした述語を、最も劇的な配列と布置によって記録する方法だった。ベンヤミンは写真に注目し、「それはまだ複製ではない」と見抜いた。 

≪041≫  まさにそうである。写真はベンヤミンがいま記録したばかりのパサージュそのものなのだ。けれどもそれ以降は、写真は複製され、印刷され、メディア化される。では、写真家が写真を撮ったときは何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。その写真を見た者には何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。では、これらの行為のなかでどこからが複製なのか。答えはあきらかだ。パサージュを忘れた者の意識のなかで、そのとたん、それは複製になってしまうのだ! 

≪042≫  パサージュの積み重ね、それをぼくは「移行イメージの編集」あるいは「トランジット・エディティング」とよんでいる。亡命戦時者だったベンヤミンは『パサージュ論』では最後の「移行イメージの編集」ができなかった。われわれはいまだれからも、どこからも亡命していない。それなのに、パサージュは街に転がったままにある。われわれはもう一度、敷居を探しなおさなければならない。 

≪01≫  福井の男である。床屋の倅だった。それがあるときお座敷で男衆の芸を見て魅せられた。男衆がどういうものかはおいおいわかるだろうから、説明しないでおくが、一九七二年ごろに大阪や北陸でお座敷芸を披露しはじめ、二十年をへて東京浅草演芸ホールでその芸を舞台に上げた。その芸を太鼓持ちという。 かつて太鼓持ちは戦前の東京でも三〇〇人を超えていた。ぼくの父も悠玄亭玉介師匠とは若い日からの昵懇で、京都の家にも何度か出向いてくれたことがある。役者の声色もうまかったし、優しい人だった。「そいじゃあ、今日の播磨屋さんをひとつ」などと言って、さきほどの南座の舞台の一節の声色をしてみせたことをいまでも憶えている。平成六年まで長生きした。その翌年に亡くなった三代目桜川善平のところには、玉介の芸を慕う相当数のプロの芸人がいたという。玉介については小田豊二が聞き書きをした『幇間の遺言』(集英社文庫)がある。 

≪02≫  太鼓持ちといっても、こうした名人級が何人もまざっていたのだが、それがいまではすっかり廃れて、東京では松廼家喜久平・喜代作、富本半平ほか何人もいない。大阪では、本書の著者だけらしい。大和屋の閉店といい、吉本一点張りといい、このところの大阪はどうかしているが、太鼓持ちがいないのはとくにおかしい。 

≪03≫  だいたい太鼓持ちがどういう仕事をするのかまったく知られなくなった。「太鼓餅」という名産の餅だと思われてもいるそうだ。客がお座敷で遊ぶときに、その酒や料理や話や遊びの「間」を助けるのが太鼓持ちなのである。 しかし、これがたいそう難儀なのである。むろん一人で「間」をとってはいけない。まず客と客との「間」があり、客と女将との、客と芸者衆との「間」もあって、それらの「間」をうまく捌いて出入りする。その間合いを何によって保証していくかというのが、太鼓持ちの芸と勝負手になっていく。 芸者と「拳」や「金毘羅ふねふね」「とらとら」「どんたくさん」などの浮いた遊びをしているときは、いい。みんなと交じってはしゃげばよろしい。芸者さんが芸をしているときもいい。これは邪魔をしてはいけない。太鼓持ち本人が「えびす大黒」や「三人ばあさん」をやっているときも、むろんいい。これは芸を見てもらうところだから「それじゃひとつ」とさっとやってみせるにかぎる。 

≪04≫  大変なのは平場で酒を酌みかわし、料理をつまみながら喋っているときである。ここはひたすら「間」だけが動いている。ここで太鼓持ちはどうするか。むろん法則なんてものはない。さまざまな場に当たって「間」を読んでいくしか修業の方法はない。ようするに太鼓持ちこそ「間の人」なのだ。本書がだいそれて『間の極意』などと「間」と「極意」というブンカ用語を二つも並べて大事を謳っているのも、あながち大袈裟というものでもない。 名前を出すのはさしひかえるが、数年前に祇園の一力で太鼓持ちを呼んだ。本職ではないが自称太鼓持ちで、色街では名物男なのだが、まったくつまらなかった。出しゃばりすぎていて「間」がとれない。おかげで一力の座敷まで精彩がなくなった。そういうこともあるのだ。 

≪05≫  太鼓持ちは正式には「幇間」という。落語にも《鰻の幇間》や《愛宕山》がある。桂文楽が得意とした。もっともこの落語の幇間は本式の座敷に呼ばれる幇間でなく、俗に野太鼓とよばれる出張型の幇間のことで、ちょっと筋がちがう。落語に出てくるのは野太鼓が多い。 そもそもの幇間は男芸者にあたるもので、これが男衆だ。もともとは戦国時代に登場して、男にしかできない芸をする御側衆のことだった。つまりはときに男色も含んでいたということだ。時代が進んでそこに芸事やお咄が加わっていく。これを御伽衆とか御咄衆という。太閤秀吉に仕えた曾呂利新左衛門が名を知られた御伽衆だ(実在したかどうかはわからない)。 だから、かつては男だけが芸者だったのである。歌舞伎が女だけだったものが若衆歌舞伎や野郎歌舞伎に移っていったのと反対に、男がしていた芸者を女がするようになって、芸者といえば女をさすということになったので、わざわざ男芸者と断るだけのこと、本来は芸者は男であり、それが幇間だった。 

≪06≫  幇間の「幇」は「助ける」という意味がある。「間を幇ける」から幇間という名がついた。『色道大鏡』には、祭りでは「鉦を持つ者は鉦を首から下げて踊り、鉦を持たない者は太鼓を持つ」とあり、その鉦が金に見立てられ、金がある者は遊び、金のない者が太鼓を持つというふうに変わっていった。それが太鼓持ちの語源かどうかはさだかではないが、まあ、そんなところだ。だから本来は咄上手が幇間なのである。 その後、江戸や東京の太鼓持ちが有名になったが、これは遊郭や経済半径の大きさからきているもので、江戸のお大尽の遊びに合わせて太鼓持ちも派手になっていった。もとはやはり京・上方の咄上手が幇間の芸というものだった。ただ、そのころは芸者と呼ばれた。対して女性のほうは芸妓や芸子だった。 

≪07≫  咄上手が芸だったというひとつの証拠は、京都誓願寺の五五代法主の安楽庵策伝がおもしろおかしな咄をこつこつと集めて『醒睡笑』(平凡社東洋文庫)を著し、これが落語のスタートになったことである。幇間は『醒睡笑』をネタにずいぶんお座敷で落語の原型のようなものを撒きちらしたものだった。だからほんとうは上方落語と幇間の芸とは同じルーツのものだったということになる。 けれども、太鼓持ちは落語家とちがって芸ばかりを磨くわけではない。お座敷で人の心と向き合うことが仕事というものになる。人の心というものはナマである。これに付き合うには芸ばかりではうまくはならない。しかも相手に気に入ってもらわなければ何も始まらないし、幇間が客を贔屓にするのではなく、客が幇間を選んでくれなければならない。 

≪08≫  だいたい遊びの場では頼みごとはご法度である。これでは商談になる。ついつい下手に出ると頼みごと・願いごとの調子が声にあらわれるものだが、まずそこから振り切っていかなければならない。 愚痴もいけない。愚痴を言えば甘えられるとおもいがちなのだが、これはかえってダメになる。自分を気に入ってほしいので、ついつい他人の悪口や欠点を言いがちになるが、これもご法度だ。では、どうするか。そこで本書の登場ということになる。 いろいろ「ふむふむ」「なるほど」「そうかな」「たいへんだなあ」「ほんとかな」というところがあった。気楽に読んだが、最初に強調してあることは「兜と鎧を脱ぐ」ということだ。 カブトを脱ぐのは、ぼくにも多少は身についているもので、相手のいいところにはすぐにカブトが脱げる。尊敬できる。これがあるので編集も効く。ところがヨロイはなかなか脱げない。そこが太鼓持ちではまずヨロイを脱ぎ、ついでに相手のヨロイも脱がせてしまう。カブトもなければヨロイも着ない。相手も同じ恰好にしてしまう。これはそうとうの難題である。 

≪09≫  しかも幇間は男だ。これが芸者やバーのホステスならまだしも女が男のカブトもヨロイも脱がせるのだから、男のほうも悪くない。それを男が男を脱がせる。これは怪しいというか、おかしいというか、危ないというか、いかにもむずかしい。この怪しさ、おかしさ、危なさ、むずかしさを取り除くのが「間」の取りかたというものになる。 たとえば、どこに坐るか。それだけで「間」の第一歩が始まる。次に「間」があくのを怖がらないようにする。いまや日本中があまりにも「間」があくのを怖がって、すぐに詰めようとするのだが(テレビのバラエティはこればかり)、そうではなくて、最初のうちは「間」がそこにポーンと置いてあると思うほうが、いい。ああ、ここはこういう「間」なんだと思う。それからやおら「間」を自分のものにし、それをその場で、その客から貰った「間」だと思えるように自分を柔らげていく。 

≪010≫  もうひとつの「間」の取り方では、メリハリをつける気になるほうがいい。「間」はのんべんだらりなものではないはずなのである。ただし、そのメリにもハリにも自分がかかわる。この自分を放っておいては、いつまでも「間」は取れない。 こんな調子で幇間が身につけた「間」の話は粛々と進んでいくのだが、どうも「間の極意」というよりも「コミュニケーションの極意」を幇助してくれるという内容になっている。この人、やはり昔の人じゃない。現代の幇間なのである。しかし、この「コミュニケーションの極意」には読者の参考になるものがある。ざっと三十項目を超えているが、なかでおもしろそうな項目だけにぼくの見方を加えてメモにした。 

≪011≫  A◇ともかく笑顔で。◇相手の話になったら集中をする。◇失敗を先に取る(失敗を早くすませる)。◇その会話、その場で自信がつくものを早く見つける。◇いばらない。◇気をつかう(なんでもいいから察知する)。◇済んだことをおぼえておく。 B◇どんな予定についてもイメージトレーニングをすることを欠かさない。◇けれども予定通りには進まないと思うこと。 C◇感情は抑えない。◇ただし自分の気持ちの逃げ場をふだんから工夫しておく。◇勝負や競争はその場で決めない(勝負はあきらめたときにつく)。 D◇信用を残してその場を去る。◇それ以外は付かず離れず。◇ただし嫌なことからは絶対に逃げない。◇もうひとつ、責任転嫁をしないこと。 E◇話のきっかけはその場にないことが多いのだから、いつも用意しておく。◇矛盾や逆説は話を進める(押してダメなら引いてみな)。◇繊細かつタフに。 

≪012≫  何でもそうだが、幇間も想像する以上にたいへんな仕事だ。しかし、数少ないこういう職人がいまや新書をすらすら書くようになったことにも驚いた。 今夜は実は柳家小さんが亡くなったことに因んで、何か一冊を選ぼうとしていて、この本になった。小さんは昭和の落語の最後の名人だった。ぼくが〝落語界のイチロー〟と名付けた柳家花緑は小さんの孫で、兄の小林十市はモーリス・ベジャール舞踊団のダンサーである。才能あふれる孫をつくった小さん師匠の冥福を、こんなところでこっそり祈りたい。 もうひとつ。ぼくは幇間というと英一蝶を思い出す。江戸の絵師であるが吉原で幇間に身をやつし、三宅島に流され、それでも俗世の遊びに徹しきった。世の中で「あいつは太鼓持ちのような奴だ」という難クセ付けの言葉があるが、筋の通った太鼓持ちこそがもっと登場したほうがいい。 

≪01≫  数年前まで、ぼくの仕事場にはオモチャとリボンという犬が2匹と、駒と桂馬という猫が2匹いた。仕事をしていようと、打ち合わせをしていようと来客が訪れようと、かれらは自由気儘に動きまわっていた。ペットを飼うなどいまでは当たり前になりすぎているが、さてそれが勝手に4匹も動きまわっている仕事場となると、ぼくが知るかぎりはそんなにない。困るのは来客と動物が苦手なスタッフだ。半ばあきらめた表情の来客からよく訊かれた。「お好きなんですか」。 

≪02≫  嫌いでこんなことしているわけがないだろうに、そう訊くしかないようだ。そこでこちらも忖度して、「動物が動いていると、ほら、こちらの視線も動くでしょう。それがいいんですね」と答える。客は「はあ、目が休まりますからね」と精いっぱいの返答をしてくれる。 

≪03≫  その4匹は次々に死んでしまって、いまは自宅の親猫が生んだ新たな4匹の仔猫のうちのハク(白)とセン(千)という猫が仕事場にコンバートされ、君臨している。飼育担当は仁科哲君という本好きの哲猫である。ちなみにわが自宅にはその親猫ミーコと、仔猫の佐助とナカグロと小麦がいて、これを書いているのを邪魔している。 

≪04≫  客に答えた「視線が動くといいんですね」は、もうすこし正確にいうと、何かを書いているときなど、その脇をナカグロたちが動いていて、その動きをときどき目に入れていると当方の思考がうまく活動できるということである。「目が休まりますからね」ではなく、その逆なのだ。アタマの中の何か思考しようとしていることと、目の前を動いているものとの関係をなんとなく相互追走していることが、うまいぐあいにかみあってくるのだ。 

≪05≫  このかみあいぐあいのことを、もともとは生理学を専門にしていたフォン・ヴァイツゼッカーは「からみあい」(Verschrankung)と言った(以降はたんにヴァイツゼッカーと綴る)。 

≪06≫  じっとしていないかぎり、人間はつねに動いている。眠っていないかぎり、眼球もつねに動いている(睡眠中も動いているが)。そういう人間の生理にとって、知覚するということは運動している何かを知覚の中に現出させて、それをサッとつかむことなのである。このつかみは「相即」(Koharenz)とよばれる。  

≪07≫  ヴァイツゼッカーは目の前に動いているものとそのときの同時知覚の関係を説明したのだが、その後ぼくは、そこをいろいろ自分で実験的に発展させて、何かを思考しているときに別のものが目の脇を動いているときにも応用するようになった。アリストテレスを読んでいるときにナカグロが動き、ソンタグを考えているときに小麦が動く。この具合がいいのだ。 

≪08≫  なぜそんなことがいいのかというと、そこではナカグロはすでにぼくの思考の中でときどき重大な役割を演じるパラメーター(変動子)あるいはイヴォケーター(励起子)になっているからで、べつだんナカグロや小麦のかれらの色や形のままでぼくの脳のスペースを動いてくれなくてもいいわけなのである。かれらはぼくのエージェント(代理人)になってくれなくて、いい。そういう動きのきっかけを、机のそばの猫たちが励起させてくれればいいわけなのだ。とくに尻尾のゆらゆらなど、とても思索の深まりにいい。 

≪09≫  だいたい哲学や思索のメカニズムというものは、目の前のコップを手にとろうとした瞬間の全生理的プロセスを説明し尽くすことができるなら、それですべてのことがわかるはずなのである。  

≪010≫  ところが、これがなかなか尽くせない。そこで研究者たちはアブダクション(推感編集)とかアフォーダンス(捕捉編集)とかインテンショナリティ(志向編集)とかの、たいそう難解な作業仮説をつくってそのメカニズムの解明に入っていくのだが、これらはいま総じて認知心理学とは言われているものの、なかなかその成果を実践的に応用して、自分の思索活動や表現活動にいかされているとは見えない。 

≪011≫  ぼくはたまたまそういう推感や捕捉をめぐる自己編集プロセスを見る実験がやたらに好きで(下條信輔君の影響が大きいのだが)、それで自分で自分の思考プロセスをかなり正確にトレースできるようになったけれど(それで猫たちも動員されたのだが)、そういうことをしてみると、認知心理学のさまざまな仮説やモデルがどの程度のデキなのかということも(何の役にも立たないことも)、あらかた判定できてくる。そんなことを遊べるようになったのも、もとはといえば認知心理学の果敢な挑戦の歴史に刺激されたことが多かったからである。 

≪012≫  ヴァイツゼッカーはもともとは内科学の専門家だった。その後に心理学から宗教学までを、ライプニッツからベルクソンまでを横断して、しだいに総合的で共感覚的な人間学の完成をめざすようになった。その晩年近くに満を持して発表したのが「ゲシュタルトクライス」という変わった仮説である。 

≪013≫  ゲシュタルトクライスなんて、なんとも訳しにくい言葉だが、人間の知覚には形態的な構造円環めいたものがビルトインされているということをいう。知覚に円環の構造が用意されているのではなくて、そこに形態あるいは形態の運動性が照射されると動き出すダイナミックな円環性がひそんでいるということである。だからゲシュタルトクライスは「知覚+α」で動き出すかたちなのである。ヴァイツゼッカーはこの「+α」に独自の見解を加えていった。 

≪014≫  このように、そこに“注意のカーソル”が動いたときに作動するものが「+α」にある。このときそのカーソルはフィックス(停止)するのではなく、動態認知のままになっている。 

≪015≫  このわずかな時間の動態認知がおこっているあいだ、われわれのなかではいろいろ重大なことがおこる。閾値と負荷の関係がバランスをとり、過剰と不足の関係がくるくるまわり、さらには刺激と訂正の、説明と無知の、空間と時間の、事物と場所の関係などが、すばやく計算されている。しかもそれらの関係は互いに入れ替わるかのようにおこっているにちがいない。また、これらにはつねに「持ち込み」や「書き換え」がおこっているにちがいない。ゲシュタルトクライスとは、このような「+α」を受けたとたんに動き出す述語的な形態円環である。 

≪016≫  ゲシュタルトクライスの見方をさぐっていくと、われわれはたえず何らかの「作業の適合性」や「手続きの妥当性」とともに知覚像を手に入れているのであって、作業手続きをともなわない知覚像などはないということになる。
何であれただ漫然と見たり聞いたりなどしているわけではなかったのである。 

≪017≫  ただし、ここには宿命的なひとつの矛盾が待っている。それは、そうした作業や手続きのほうに注意を向けると、知覚活動がトーンダウンしてしまって自在な知覚や思考が発揮しにくくなり、反対に知覚の対象に夢中になっているときは、そのとき自分がどのような手続きをしているかに注意が向かなくなるという、この矛盾だ。 

≪018≫  ヴァイツゼッカーはこれを「相互隠蔽」ともよんで、そこには「回転扉の原理」のようなものが動いているのではないかと考えた。まことにおもしろい。知覚と方法とは互いにマスキングされていて、そこには回転扉のようなものがくるりと動くわけなのだ。パッと右から入ると左の方法が向こうへ遠ざかり、左から進むと右の知覚が別のほうへ進んでいく。そんなスウィッチのようなものがはたらいていると考えた。 

≪019≫  おそらくはそれだけでなく、この回転扉だかスウィッチ機構だかによって、アタマの中の認知システムのほうでも「形式転換」とか「回転反応」などが併動しているのであろう。つまりはアタマの中のフォーマットの変更やスキーマの入れ替えもしているのであろう。そしてきっと、それらがいつしか記憶のなかの「力の場」や「身体の凹凸」となって残存しているとも言うべきだった。 

≪020≫  こうしてヴァイツゼッカーは、われわれは何らかの方法の束ねによって知覚しているのであって、単一な知覚をあれこれ寄せ集めて総合知覚をしているのではあるまいと判断し、その方法の束ねのしくみを「構組的手法」(Komponierendes Verfahren)とよんだのだった。つまりは方法そのものに協調や離反や転換のゲシュタルトがあるのではないか、それがあるから方法は束ねられるのではないか、その方法にはそれらを鍵と鍵穴でつなぐゲシュタルトクライスがあるのではないかというところまで仮説してみせたのだった。  

≪021≫  方法と実体は切り離してはならなかったのだ。 すでにのべたように、これはぼくがナカグロや小麦で実験済みのことだった。ナカグロが回転扉で、小麦がスウィッチなのである。ついでにいうなら、そのナカグロや小麦の向こうに見え隠れしている本棚の書物の配列などが、ヴァイツゼッカーのいう感覚と知識と場所の根底関係を「背後から投射する機序」というものだった。 




≪022≫  知覚はすべからく述語的である。方法はあらかた形態をともなうものである。なんであれ、相似性と相反性とを分割してはならなかったのである。犬は2匹、猫は4匹ほど必要なのである。  

われわれは脳にだまされているのではないか。

意識だって、その大半が幻想的な産物で、「まやかしの私」を演じているのではないか。

そこには重大なユーザーイリュージョンが気が付かれないままに、生じているのではないか。

〈私〉と〈自分〉とのあいだには、重大な「遅れ」や「ずれ」があるのではないか。

こういう疑問から仮説を組み立てた本書は、ぼくの判定では、極上の編集工学集になっている。

脳と意識とPCとユーザーイリュージョン。

これらを詳細に組み合わせつつ、ノーレットランダーシュが斬りつけた。 

≪02≫  原著は20年前のものだが、もはや古典的名著といっていいだろう。画期的な本だった。ぼくは10年ほど前に読んで、いろいろ啓発された。これってジョン・C・リリーのECCOじゃないか、世阿弥の「却来」(きゃくらい)じゃないかとも、思った。ページを行きつ戻りつで、3度くらいは読んだだろう。 

≪03≫  いまふりかえると、インターネットすらなかった1991年に書かれた原著がこれほど先駆的な議論を詳細に提供していたことが、もったいないほどだ。ここに応用されているのは、80年代末までの熱力学や脳神経科学や意識科学やネットワーク科学の報告成果ばかりなのである。 

≪04≫  それでも、総じては複雑系に関する科学や思想がフルに応用されている。もしノーレットランダーシュが新たにこの改訂版を書けば、もっともっと豊富な研究成果や仮説を、あたかも“思考のヒッグス粒子”をあてがうように、もっと適確に組み立てることができたであろう。 

≪05≫  それほどにこの御仁、どんな最前線の研究成果であれ、それらを組み合わせてとびきりの「抜き型」をつくってみせ、それによって必ずや新たな展望を編集するだろうと思わせる才人なのである。 が、あまり知られてはいない。ぼくも本書に出会うまで、この北欧の片隅の思索者について何も知らなかった。 

≪06≫  トール・ノーレットランダーシュは1955年にコペンハーゲンに生まれ、デンマーク工科大学で修めた環境計画学と科学社会学を背景に、独自の著作を次々に発表してきたようだ。おそらくはあまりに独自な見解を提示するために、また大学教授などの肩書を欠いているために、過小評価されてきたのだろう。 

≪07≫  本書のあとでは、インターネット社会を素材とした『存在しない場所』や、エイリアンの視点から地球を点検する『先行して』などを書いているらしい。 

≪08≫  では、本書が何を書いたのか。簡潔には紹介できないほど多様な領域を「抜き型」にした。そう、言うしかない。「抜き型」で見るとは、フォン・ユクスキュル(735夜)が言うように、世界はこれをある種の型で抜いたものと、抜かれたものとの関係で読みとるという意味だ。インタースコアしようじゃないかということだ。そこで、ここでは〈ユーザーイリュージョン〉という「抜き型」の窓によって、この著者が何を仮説したのか、何を暗示したかったのか、そのことをのみ案内してみようと思う。 

≪09≫  問題は人間と情報の関係なのである。それをどう科学するか、何をもって哲学するかということだ。以下の話を枕に、一気に核心点を案内しておく。 

≪010≫  「科学と技術には情報という幽霊がとりついている」と言ったのは1988年のサンタフェ会議の議長ヴォイチェフ・ズーレクだった。 情報という幽霊とは、情報には“マックスウェルの魔”のようなものが棲みついているという意味だ。物理学者のズーレクは「複雑性、エントロピー、情報」は切り離せないとみなし、これらに共通する“強い類似性”こそがこれからの科学・技術の新たなフロンティアになると予言した。 

≪011≫  この予言はその通りになった。情報は新たな“マックスウェルの魔”(デーモン)となって、複雑性とエントロピーを携えて、次々に社会の隅々にまでいきわたることになった。そいつはインターネットのあいだを走りめぐり、金融の確率統計の数値の中に入りこみ、さらには見えないサイバーテロを随所でおこし、いまではモバイルなスマホともフェイスブックともなって、いまいましいほどの情報デーモンぶりを発揮している。 

≪012≫  しかし、問題はそういうことだけにあるのではなかった。情報デーモンはズーレクの予言を上回り、一方ではグーグル型の検索エンジンを伴ってわれわれの日々の問題意識の寸前にまで辿り着き、他方では国家や産業や市場社会のそこかしこに膨大なビッグデータを溜め込むようになったのである。 

≪013≫  ズーレクの予言から3年後に、本書が発表された。僅か3年後ではあったけれど、ノーレットランダーシュは問題をズーレクよりさらに深めて、視点を「情報と意識のあいだ」においたのだ。 

≪014≫  できれば問題は「情報と社会とPCネットワークと脳と意識」の5項で捉えたい。なぜなら、情報と意識のあいだには社会化されたデバイスが介在するからだ。けれどもノーレットランダーシュはこの介在者たちを本書のなかではいったん棚上げし(いや、それらをたくみに抜き合わせてとも言うべきだが)、ずばり「情報と意識」とを直結して議論するには、問題のおきかたを新たにつくりなおすべきだと、そう提案したのである。 

≪015≫  どういうふうにおいたかというと、次のようにおいた。「われわれがふだん実感していると思っている知覚や判断や意識というものは、はたして〈私〉や〈自分〉のものなのか」というふうに。 また、「われわれがふだん実感していると思っているコンピュータの画面にあらわれている情報は、はたして〈私〉や〈自分〉の何が処理しているものなのか」というふうに。 これ、けっこうな難問である。この難問をすらすらと答えられる者は、そう多くない。 

≪016≫  千夜千冊の読者なら、『皇帝の新しい心』のロジャー・ペンローズ(4夜)、「エス」を探求したゲオルグ・グロデック(582夜)、われわれの意識は脳の複数のドラフトで成立しているとしたダニエル・デネット(969夜)、そもそも紀元前1000年代にそれ以前のバイキャメラル・マインドが崩れて以来、われわれの意識は歪んでしまったと仮説したジュリアン・ジェインズ(1290夜)、身体的なソマティック・マーカーによって意識はマッピングされているとしたアントニオ・ダマシオ(1305夜)、脳の中の水分子が意識のカギを握っているとする中田力(1312夜)などの、脳と意識をめぐる果敢な議論をただちに思い浮かべてくれるかもしれないが、実はこれらには情報デーモンとの関連や、コンピュータ・ネットワークとの関連は同時にはふれられていなかった。 

≪017≫  本書はそこにずかずか介入していったのだ。 本書の351ペーシから数ページをとびとびに引用して、ノーレットランダーシュが問題をどのように立てたのか、その核心的なところを、一気にお目にかけたいと思う。丹念に順を追って読まれたい。「」内が本書の記述部分だ。  

≪018≫  「意識が私たちに示す感覚データは、すでに大幅に処理されている」。ところが「意識はそうとは教えてくれない」。 意識はそんなこと、知っちゃいないのだ。では意識はどうなっているかといえば、「意識が示すものは生(なま)のデータのように思えるが、実はコンテクストというカプセルに包まれている」。「そのカプセルがなければ、私たちの経験はまったく別物になる」。 

≪019≫  つまり、「意識の内容は、人がそれを経験する前にすでに処理され、削除され、あるコンテクストの中におかれている」だけなのだ。「意識的経験」というものはあるが、それは、そもそも「すでに、あるコンテクストの中におかれている」という、そういう根本的な「深さをもっている」ところで動いているにすぎないのである。 

≪020≫  もちろん、脳においては「たくさんの情報が処理済みではある」。けれども「その情報が私たちに示されることはない」。「意識的自覚がおこる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる」からである。 

≪021≫  しかし「その捨てられた情報は示されない」。だが実は、おそらく「経験そのものは、この捨てられた情報にこそもとづいている」はずなのだ。 

≪022≫  考えてみてほしい。「私たちは感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは、経験しない」。すなわち「物事を経験するときに、アタマの中でなされる膨大な量の仕事は経験しない」のだ。しかし「ほんとうは、感覚は、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果」なのである。 いいかえれば「意識は深さ」なのである。ところが私たちはそれを「表層として体験する」というふうにしか経験できない。 

≪023≫  ここまではいいだろうか。世阿弥(118夜)の「我見」と「離見」を問題にしているわけだ。では、さらに説明してみたい。 

≪024≫  ノーレットランダーシュの見方によると、「意識は、世界に対する大幅に異なる二つのアプローチを結びつけるというトリックをやってのけている」。
二つのアプローチとは、
一方は「外界から感じる刺激にまつわるアプローチ」というもので、もう一方は「そういう体験を説明するためにもつイメージに関するもの」である。 

≪025≫  「人は生の感覚データを経験するわけではない。光の波長計を見るのでははなく、多彩な色を見る。ニュースキャスターの声は」キャスターの口から聞こえてくるのではなく、「テレビから聞こえる」。「キスをされたとき、蚊に刺されたのかもしれないとは思わない」。私たちは「そういう色やニュースキャスターの声やキスを、いまここでおきているかのように経験する。あたかも自分が体験している通りのものであるかのように、経験する」。だが実は「それらはシミュレーションの結果なのだ」。  

≪026≫  「人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーション」なのである。つまりは「感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説」にすぎないのである。「このシミュレーションを人は体験している」。「物事自体を体験しているのではない。物事を感知はするが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ」。 

≪027≫  このことは何を意味するのか。「非常に意味深長な事柄を」示している。人が直接体験するのは錯覚(イリュージョン)であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す」のである。 だとすれば、「この錯覚こそが意識の核であり、意味のある形で経験される世界なのである」。 

≪028≫  諸君もそろそろ、ノーレットランダーシュが驚くべきことを指摘しようとしていることを察知してきたのではないだろうか。もう少し、進めよう。 

≪029≫  「なぜ、人は感覚器官から入ってくるものを経験しないのか」。「それは毎秒何百万ビットという、あまりに多くのインプットがあるからだ」。それゆえ「感知するもののごく一部、すなわちそのコンテクストで意味するものだけを経験する」ようにした。それなら、なぜ私たちには「経験するデータが処理済みであること、そしてほんの少しの情報が示される前に、膨大な量の情報が捨てられていることが、わからないのだろうか」。 

≪030≫  またまたなかなかの難問だが、こう、推理できる。 「この深さに達するには時間がかかるが」、「そのあいだになされる途方もない量の計算は、この世界における私たちの行動に関係がない」からだというふうに。私たちは「結びつけ問題」を解決しないでは、「何も経験できない」からであろうというふうに。 

≪031≫  これについてはちょっとした証拠もある。「ベンジャミン・リベットは、感覚器官から脳につながる特殊系の神経線維が、感覚の時間調整を許していることを実証した」。「非特殊系の神経線維が0・5秒の活動をおこし、その結果、経験されうるようになるまで、その感覚は経験されない」ということを、突き止めたのである。もしこの「0・5秒がなかったら、私たちは現実の認識に乱れを経験する」にちがいない。 

≪032≫  おそらく「意識は、周囲の世界について、意味あるイメージを示さなくてはならないので」、どうしても「遅れてしまう」のだ。それでも「示されるイメージは、まさにその周囲の世界のイメージなのである」。それはしかし「脳によってなされる仕事のイメージではない」とも言わなければならない。 

≪033≫  私たちにおいては、事態はたしかに「感知、シミュレーション、経験の順におこる」。けれども、この途中の「シミュレーションのところ」は「経験から外される」。こうして「私たちは、編集された感覚を未編集のものとして体験する」わけなのである。 

≪034≫  この最後のところを、もう一度読んでもらいたい。「こうして私たちは、編集された感覚を未編集のものとして体験するわけなのである」! 

≪035≫  おわかりか。わかってもらえているかどうか心配なので、老婆心ならぬ老人心で念のため説明するが、ノーレットランダーシュは次のようなところに問題の本体があると言ったのだ。 

≪036≫  われわれは「脳におけるシミュレーション編集のプロセス」と、われわれが実感として周囲の世界から感知していると思っている「現実的な編集的判断」とのあいだを注目すべきなのである。 

≪037≫  ここには、きわめて決定的な「遅れ」や「ずれ」がある。われわれはこのことを知らされないようになっているのだけれど、その「知らされていないところ」に注目し、そのことがひょっとして「意識」の正体の基本のコンポーネントをつくってきたのではないかと、そう仮説してもいいのではないか。 本書はこのように問題を設定してみせたのである。 

≪038≫  ベンジャミン・リベットの実験とその結果にもとづく瞠目の「0・5秒の遅れ」仮説については、本書で多くのページがさかれているのだが、今夜は省略する。むろんぼくはそのエビデンスを科学的に評価できるわけではないが、本書がこの結果と仮説にもとづいている以上は、前提として受け入れたい。 

≪039≫  まことに刺激に富んだ議論設定だった。これこそ編集工学の核心のひとつでもあると、ぼくには思えた。でも、これって芭蕉(991夜)じゃないか、芭蕉が山寺に居ることと、「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」と詠んだ“あいだ”の問題じゃないかとも思った。 

≪040≫  それでは、この「遅れ」や「ずれ」による二つのアプローチの差によっておこっていること、すなわち、二つのあいだのトリッキーな「あやしい現象」を、いったいどう見立てればいいのか。どう名付ければいいのか。いよいよ問題はそこである。ノーレットランダーシュはここに、コンピュータ設計のときに以前からとりこまれていた、あの〈ユーザーイリュージョン〉という概念をつかうことにした。 

≪041≫  ユーザーイリュージョンという概念を最初につかったのは、1980年前後ののアラン・ケイである。そのころアラン・ケイは初期シリコンバレーのゼロックス社のパロアルト研究所にいた。 

≪042≫  当時のパロアルト研究所はほぼ10年をかけ、3世代にわたって「スモールトーク」(Smalltalk)を開発していた。これは、驚くほどの潜在能力をもつオブジェクト指向型のプログラミング言語で、このスモールトークをつかって、アラン・ケイのチームは「ダイナブック」(DynaBook)という世界史上初のパーソナルコンピューティングの作法のあらかたを設計しようとしていた。ダイナミックメディア(メタメディア)としての機能をもったエレクトロニック・デバイスの“本”のようなものを構築したのだ。プログラマーにチャック・サッカーとダン・インガルスが立った。 

≪043≫  ところが、当時のゼロックスの上層部はこの設計の実装と商品化には展望がないと決定し、それがアップル社に譲られて、例のマッキントッシュの奇蹟的誕生につながったわけだった。 

≪044≫  ゼロックス社がおバカで、アップル社がお利口であったことは、この際はどうでもいい。経営陣なんて、3年おきにおバカとお利口を繰り返すものなのだ。スモールトークとアラン・ケイが何をめざしたのかが、そこを本書がどう見たのかが大事な問題だ。 

≪045≫  何をめざしたのかといえば、コンピュータの前のユーザーはコンピュータの中の回路やマシン言語をいじるのではなく、自分が感知したり判断したりする世界とコミュニケーションしたいのだから、新たなコンピュータ、つまり「ユーザーパーソナルなコンピュータ」、つまりは「パソコン」は、そのような実感がもてる〈ユーザーイリュージョン〉をもてるものでなければならず、そのためのユーザーインターフェースを提供するべきだということだったのである。 

≪046≫ いまでは、この設計思想にもとづくプロトタイプのことを、「暫定ダイナブック」(Interim Dynabook)と呼んでいる。アラン・ケイは、こう書いている。 「かつてのコンピュータ屋たちは、ユーザーインターフェースをシステムの最後に設計していた。それが、いまでは最初に設計される。なぜ最優先されるようになったかといえば、感覚器官が接するのはコンピュータの使い勝手であるからだ。ゼロックスのパロアルト研究所で、私と同僚たちが〈ユーザーイリュージョン〉と呼んでいたのは、システムの動きとその次にするべきことを、説明もしくは推定できるコンピュータ・イリュージョンを、どうやってつくりあげるかということだった」。 

≪047≫  こうして、マルチウィンドウ、マウスオーバー、位置移動、サイズ変更、ペイントツール、スクロールバーといったインタラクティブな「抜き型」が用意されたのだった。 

≪048≫  ユーザーイリュージョンは、諸君がPCネットワークで毎秒毎分感知していることを成立させた基本戦略なのである。いいかえれば意識戦略なのである。それはきわめて根本的なイリュージョン・トリックであって、かつまた、われわれの意識と情報に関するきわめて根本的なメタファーの活用だったのである。 

≪049≫  ユーザーイリュージョンによるユーザーインターフェースあるいはGUIをつくるということは、ユーザーにマシンの中の実際の0と1などを相手にさせないようにすることであり、そのかわり0と1との複雑な組み合わせで、何ができるかだけを相手にしているようにさせる「情報と意識」の関係にかかわる重大な根本トリックだったのだ。 

≪050≫  いや、たんなるトリックなのではない。これは、われわれのふだんの言動における意識と感知の関係や、思考と判断の関係にもあてはまる。そのように見立てたノーレットランダーシュは、この〈ユーザーイリュージョン〉という用語によって、次のように考えるべきだと気が付いた。「私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのである」と。

≪051≫  コンピュータの中にはユーザーが見ていないビットのつながりが山ほどあるように、〈自分〉の中にも〈私〉が与り知らない情報が山ほどある。〈私〉は〈自分〉の血液がどうやって心臓と肺のあいだを動いているかなんてことを、知りえない。 

≪052≫  しかし〈私〉はその知りえないことの総体を〈自分〉として統覚しているのだから、そこにはユーザーイリュージョンとしてのそのような「遅れ」や「ずれ」をいかした意識が巧みにはたらいている。 

≪053≫  〈私〉は〈自分〉に何かを命じる上司であって、かつまた〈自分〉の何かに従う秘書なのである。〈私〉は「私は自転車に乗れる」と思っているけれど、実は〈私〉には乗れるのではない。乗れるのは〈自分〉なのである。 これは言ってみれば、〈私〉と〈自分〉のあいだには、どちらがどちらにアプローチするかによって、向きと扱いが異なる双方向型のオブジェクト指向めいたものが「抜き型」ふうに、そして世阿弥の「却来」のように、はたらいているということでもあろう。

≪054≫  ノーレットランダーシュはそのように見て、意識の正体を構成しているしくみに、スモールトークがもたらしたユーザーイリュージョンの介在を察知したのであった。そして、こういう仮説的な結論を示したのだ。「私は、私自身の、私にとってのユーザーイリュージョンなのである」。また「私は、私自身の、私にとってのメタファーなのである」。さらにまた「私は、私自身の、私にとっての編集なのである」。 

≪055≫  ちょっと余談になるが、ぼくは20世紀がおわるころ、リチャード・ワーマン(1296夜)のお誘いでモントレーのTEDに参加したときに、アラン・ケイと出会った。彼はTEDの常連だったのだ。ついでにテッド・ネルソン(ハイパーメディアの提唱者)も常連で、ぼくはかれらと話しこんでばかりいた。 

≪056≫  そのころのアラン・ケイは来たるべき「言語楽器」のヴィジョンに夢中になっていて、楽器を演奏するように言語コミュニケーションできるデバイスを研究開発しているのだと言っていた。その後、まだそういう代物はどのメーカーからも登場していないので、開発はうまくいっていないのだろうが、しかし、彼があいかわらず図抜けたオブジェクト指向の持ち主であることは、すぐにわかった。 

≪057≫  さすがにスモールトークを先見の明をもって開発したチームのアイディアリーダーである。 ぼくも北大の田中譲さんの肝入りでスモールトークとオブジェクト指向を学習させてもらい、それにもとづくプログラム「インテリジェント・パッド」で、京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」や触発連鎖型ブックアーカイブ「図書街」のプロトタイプを開発できた。いずれもぼくなりの〈ユーザーイリュージョン〉を知の連鎖のシステムに応用したものだったが、それもこれもアラン・ケイの初期の発想がとびぬけて秀抜だったことのおかげであった。

≪058≫  ちなみに「オブジェクト指向」(object-oriented)とは、マシンとユーザーとのあいだで交わされるすべてのやりとりを、「オブジェクト」が「メッセージ交換」されているとみなせるようにしたプログラミング言語とその環境すべてのことをいう。 

≪059≫  これは単なるデータ構造やモジュールのやりとりではなかった。一言でいえばコードとデータをたくみに連動させ、ユーザーが扱う情報の大半のオブジェクト化をはかったのだ。そのため、「カプセル化」「インヘリタンス(継承)」「ポリモルフィズム(多相性)」という機能をもつようにした。 

≪060≫  スモールトークは、このようなオブジェクト指向がスムーズにはたらけるようにしたプログラミング言語のことである(それ以前、Simulaというオブジェクト指向的なプログラミング言語もあった)。 

≪061≫  いまではこの考え方は、いくつもの有力なプログラミング言語になっている。C++、Eiffel、Self、Python、Ruby、Java、COBOL、Ceylon‥‥等々。いずれも多くのIT現場で大活躍しているものたちばかりだが、これらの母型がスモールトークなのだ。 

≪062≫  話を戻して、ノーレットランダーシュが〈私〉と〈自分〉を分けて扱っていることの編集工学的効用性について、最後に説明しておきたい。 あらためてまとめると、この見方には二つの視点が絡んでいる。ひとつには、〈私〉と〈自分〉のあいだで情報が0・5秒ほど遅れるということは、それがわれわれにも謎となっている意識の正体の大きな部分を形成しているのではないかというものだ。これは芭蕉における「発句の遅れ」というものだ。 

≪063≫  もうひとつには、そもそも言語や社会をもったわれわれは〈私〉と〈自分〉を分けることでしか、〈私〉も〈自分〉も意識できなかったのではないかというものだ。これは世阿弥が「我見」と「離見」を分けざるをえなかったことにあたる。 われわれの日々のすべては、そしてコンピュータとわれわれの関係は、この二つの絡みぐあいの中にある。 

≪064≫  今夜はティモシー・ゴールウェイの提案に倣って、これをセルフ1(私)とセルフ2(自分)に分けて整理してみよう。セルフ1は意思をもつ主体であり、セルフ2はその意思にかかわらず露呈される主体だ。 

≪065≫  たとえばテニスをしているとき、あそこにスマッシュを決めようと思っているのがセルフ1という〈私〉で、とはいえそんなスマッシュにならないかもしれないほうを演じつづけているのがセルフ2という〈自分〉なのだ。 

≪066≫  われわれもつねにセルフ1とセルフ2の葛藤的関係に悩まされている。「思った通りにいかない」「言ったことと行動が異なってしまう」「思いもよらずに暴言を吐いた」「理性で抑えられない行動をしてしまった」云々云々。だいたいにおいて、セルフ1は自己意識めき、セルフ2は理念っぽい。あるいはセルフ1は線形的で、セルフ2は非線形じみている。 

≪067≫  ふりかえってみれば、歴史上の哲学や宗教というもの、まさにセルフ1とセルフ2のあいだの調整に挑んできた認知哲学と認知科学のオンパレードのようなものだった。調整や対策はいろいろあった。 

≪068≫  孔子はセルフ1を言語とみなし、その言語を正しく使うという「正名」(せいめい)をもってセルフ2を仁や礼の理念的人間像に仕向けようとした。ブッダはセルフ1を座して瞑想させ、セルフ2が解脱状態になるように仕向けて、そのための菩薩道を提案した。アリストテレス(291夜)は、セルフ1がどんなに不調であれ、セルフ2としての人倫が対応すべき外界世界を分類しておこうと考えた。デカルトは強引にセルフ1とセルフ2を直結させて「我思うゆえに我あり」とした。 

≪069≫  オルダス・ハクスリーやアンリ・ミショー(977夜)はメスカリンを服用して、セルフ1をぼやぼやにしておいて、ふだんは気が付かないセルフ2が奥にひそませている「知覚の扉」を開けようとした。この薬用に借りた対策を練った者たちには、阿片使用のボードレール(773夜)からLSD使用のティモシー・リアリー(936夜)までがいる。ちょっとエコなのは、クジラやイルカの研究から意識の中心に関心をもったジョン・C・リリー(207夜)の対策で、セルフ1をアイソレーションタンクにぷかぷか浮かべて何もさせないようにしておいて、セルフ2のほうで好きな交信感覚をたのしもうというものだった。 

≪070≫  科学者たちもセルフ1とセルフ2の実態を調べようとして、ロジャー・スペリーのように左右の脳を分断した実験をしたり、癲癇や認知症を克明に調べようとした。ヴィラヤヌル・ラマチャンドランにあっては、まさに情報デーモンを脳の中に探索して『脳のなかの幽霊』(角川書店)などまで書いた。本書にも科学者たちの奮闘が縷々述べられている。 

≪071≫  これでだいたいの見当がつくだろうが、セルフ1はつねに〈私〉に占められすぎる傾向があり、セルフ2のほうには「神」や「超越者」が盤踞するという傾向がある。 

≪072≫  このようなセルフ1とセルフ2のあいだで、われわれは「意識」「自己」「自覚」「自我」「憂鬱」「快感」などをつくりあげ、他方において「神」「如来」「覚醒」「悟り」「開放」「涅槃」などを想定してきたわけである。そして、これらをめぐって数々の思考実験が試みられ、そこから宗教も自由も民族も、民主も共和も芸術も派生してきたのだった。セルフ1とセルフ2の区別はほったらかしにしたままで。  

≪073≫  いま、そのことがコンピュータ・ネットワークにずぶ濡れになったわれわれの日々のなかで、ふたたび浮上してきたわけだ。そう、考えるべきなのである。 そのコンピュータ・ネットワークには、スモールトーク、ジャヴァ、C++、コボルなどなどのプログラミング言語がくっついたままになっている。 

≪074≫  しかしながら、ここには注目すべき決定的な違いもある。コンピュータ・ネットワークのほうはその設計の当初から〈ユーザーイリュージョン〉がジェネラルに組み込まれていたわけである。人間社会の歴史のほうは、そうなってはいない。さまざまな学説や宗派や思い込みがいまなお連打され続けているわけだ。 

≪075≫  けれどもまた、さらに次のようにも言わなければならないかもしれない。いまやコンピュータ・ユーザーは、自分が使っているPCやケータイやスマホと「意識」とを切り離せなくなってしまっている、というふうに。 

≪076≫  そうだとすると、すべての問題はやはりノーレットランダーシュが本書の全体をつかって試みたように、多くの現象に出入りする情報デーモンを、次から次へと「抜き型」にしていかなければならないはずなのだ。 

≪077≫  本書は第16章が最終章になっている。「崇高なるもの」というチャプタータイトルが付いている。 情報と意識とのあいだの「相転移」の可能性が語られ、情報と意識の絡み合いから脱出しようとしたセーレン・キルケゴール、ニールス・ボーア、クルト・ゲーデル(1058夜)、ロバート・オーンスタイン、セオドア・ローザック(366夜)らの試みが紹介され、デンマーク語の“hygge”という言葉が人々に崇高な一体感をもたらすことを暗示して、最後の最後になって“マックスウェルの魔”を想定したジェームズ・クラーク・マックスウェルの次の言葉を引用するのだ。本書の劇的なエンディングになっている。 

≪078≫  
「私自身と呼ばれているものによってなされたことは、私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」。
“魔物”の介在を示唆したマックスウェル自身はユーザーイリュージョンとは無縁だったのである。 

≪01≫  この一冊は原題を見てもらえばわかるように、エリアーデの著名な『宗教学概論』全3巻のうちの3巻目にあたる。ルーマニアに生まれ育ってブカレスト大学を拠点にしていたエリアーデがソルボンヌの牙城を落として円熟しきったころの著作で、1970年代せりか書房の画期的な出版企画であった「エリアーデ著作集」では、『太陽と天空神』『豊饒と再生』につぐ。 なぜ第3巻目を選んだかということは、ぼくがずっと「場所」に関心をもっていて、エリアーデを読んできたとき、この『聖なる空間と時間』で多くのことにピンときたからだ。何にピンときたかはあとでのべる。 

≪02≫  エリアーデから貰ったものはたいへん大きいものだった。なにしろ神と観念技術と祭祀の発生をめぐっている。もう一人、まったく同時期に同じく大きいものを貰った相手がいた。折口信夫だ。 西のエリアーデ、東の折口とでもいえばいいだろうか。ぼくはこの二人からの贈りものの読み解きを「遊」創刊直前のほぼ2年間で費やし、すでに先行していたジェームズ・フレーザーの「王と殺害」の金枝やルドルフ・オットーの「聖なるもの」の杖や、また柿本人麻呂の「ぬばたま」の依代や本居宣長の「なる」の松に、まるでいくつもの翼を挿すかのようにエリアーデ=折口世界観をくっつけていったものだ。大鵬だか崑だかの翼のように次々に羽根を挿していったのは、そうでもしなければ、東西の巨人から貰ったものをとうてい扱えなかったからだ。こうして、エリアーデ=折口流のでっかい"思想の門松"がハリボテのようにできつつあったと思われたい。「遊」創刊前後のことだ。 

≪03≫  父が大学4年の春に胆嚢癌にかかったとき、ぼくは父にせがまれて毎日、横浜の中央病院に行って体を揉んでいた。そのぼくの両手のなかで父の皮膚が刻々褶曲していった。それはまるで大地の皮膚が永遠の皺や襞をあらわしたかのようで、ぼくの二つの掌はその"事実"をうけとめるのにせいいっぱいだった。 

≪04≫  けれども父は入院後、全身を真っ黄色にして(黄疸を併発した)、たった2カ月であっけなく死んでしまった。通夜の真夜中、みんなが寝静まったのち、ぼくはふたたび父の体にふれてみた。すでに冷たくなってはいたが、その褶曲した皮膚は突拍子もなくアクチュアルだった。これは何だとギョッとした。手の中に事態はあからさまだった。そのときすべてが理解できたのだ。これは場所に還ろうとしているのだということが――。 

≪05≫  人間が死ねば場所に戻るというのは、だれだってどこかで感じていることである。けれども、その場所がどういうもので、生きた者が皮膚を褶曲させながら場所に「なろう」としているというのは、おそらくなかなか見当がつくものではないだろう。ぼくはそれを一夜で手に入れた。 

≪06≫  場所はギリシア語ではトポスとかコーラという。アリストテレスにすでに強靭な場所論が発祥していた。学習や記憶と場所が結びつけられていた。とくにトポスと記憶の関係は「トピカ」と呼ばれて、特筆され、やがてキケロらに継承されて記憶術とも修辞学ともなって、西洋2000年のアルス・コンビナトリアの大樹を広げた。 

≪07≫  そのアリストテレスの場所論を卒業論文にしたのがアンリ・ベルグソンだった。ベルグソン哲学というと、ついつい瞬間・時間・持続と意識の関係が特色だとおもわれて、『時間と自由』の書名にあらわれているように、時間意識こそがテーマだったと解釈されているが、もともとは場所の自覚を問題にしていた。もとより時間と空間はどこかでつながっている。 

≪08≫  しかしこうした場所の哲学の経緯があっても、欧米では学問として場所を扱うのはもっぱら地理学や人類学の領分になっていった。当然である。どこであれ、スペースやプレイスという場所の上に歴史や生活が乗っかっているのだし、そこで交易や都市やコミュニケーションがさまざまに立ち上がり、さまざまに交換されるのだから、その土台をめぐる学問は場所だけを扱うというより、文化活動のすべてを分布的に相手にすることになるのは当然である。地理学も人類学もそれゆえにフィールドワークを重視した。 

≪09≫  20世紀の中核を担った思想の大半は、結局はフィールドワークにもとづいた場所の文化学だったのである。場所そのものを考えきろうとしたわけではなかったのである。 それでも、そうした文化学の片隅で場所にこだわる地理学や景観学というものもあった。だからそこから、たとえばイーフー・トゥアンの『トポフィリア』(せりか書房)やエドワード・レルフの『場所の現象学』(筑摩書房)のようなものも、最近ではデイヴィド・カンターの『場所の心理学』(彰国社)やアラン・コルバンの『風景と人間』(藤原書店)のようなものが派生してきたのだが、これらはぼくがこのあとのべるような場所感覚や場所観念の本来を解くものとは、いささかべつの成果であった。 ミルチャ・エリアーデの場所論はこういう文化学から一頭二頭もアタマを突き出している。 

≪010≫  日本では、場所について考えるときには大きくは二つの流れに注目したい。 ひとつは、古代から「斎きの庭」とか「結界」として意識されてきた場所である。ここにはたいていムスビ(産霊)がこめられてきた。そのムスビのエージェント・モデルが神籬である。もうひとつは、西田幾多郎の「場所の論理」に発想された場所論だったろう。西田は最初はプラトン=プロティノスふうの「形質をうけとる場所」と「観念をうけとる場所」とを二つながら考え、それを「述語としての場所」に発展させようとしていたのだが、そのうち、そのようにわれわれに対して述語的に場所がはたらくのは、そこになんらかの媒介する論理があるはずだとみなして、その媒介者を「M」と名付けた。西田がしばらくその「M」を追って、そこに「無の介在」を認めるようになったことは、その後の日本哲学の静かな主流になっていくのだが、ここで西田哲学を説明するのはやめておく。 

≪011≫  そのほか、和辻哲郎の「風土」をめぐる考察もあるが、これは第77夜の『風土の日本』にとりあげたように、いまはオギュスタン・ベルクによって発展されている。 

≪012≫  以上とはまったく異なる科学的な場所論がある。これは「場の物理学」と総称されているもので、一方ではアインシュタインの「重力場の科学」となり、一方では「場の量子力学」になった。いずれも20世紀を飾る最大の理論であって、そこから湯川秀樹の素領域も、ゲルマン・ファインマン・南部陽一郎のクォークも、スーパーストリング理論も出てきたのだが、このこともここでは省く。 

≪013≫  エリアーデが考えた場所は、一言でいえばヒエロファニーエピファニーがおこる場所だった。そこに聖なるものの顕現があるところ、それがエリアーデの場所である。 たとえば古代インドでアシュヴアッタというイチジクが神聖視されるのは、そのイチジクが樹木そのもの以上のヒエロファニーをおこしていると感じるからであって、そのようなヒエロファニーがおこるところが聖なる場所なのである。ヒエロファニーのなかで神の顕現がともなうばあいはエピファニーとされる。 

≪014≫  ようするに聖なる顕現は必ず「しるし」をもっていた。その「しるし」を民族学や宗教学や心理学ではトーテムという。白川静さんは呪物というふうに言う。この「しるし」を感じさせるトーテムの周辺一帯が聖なる空間と時間が生まれつづける場所になる。エリアーデはそのように場所が特定され、神聖なものとして認知されることを「中心のシンボリズム」と名付けた。そこには、たいていは宇宙木や生命木があり、聖なる水を湛えた川が流れる。 

≪015≫  こうして中心のトーテムや呪物が動きだし、その呪能を感じとれる領域が、聖なる時空間としての結界なのである。そこは、大きさや形はどうであれ、その民族や部族や村落の、つまりは、世界の臍、なのだ。 

≪016≫  やがてこの結界は、さまざまな物語を生んでいく。そこにかかわった者、そこに交わった者、そこで穢れをおこした者、そこを奪取しようとした者、そこで死んだ者‥‥。それぞれの時期のそれぞれの出来事が交錯し、編集され、数々の神話や伝承になっていった。 

≪017≫  それらはいくつもの出来事の物語から構成されてはいるが、いつのまにか「場所が場所を語る物語」になっていく。神話や伝承の奥の院では、実は場所こそが語り部なのである。 

≪018≫  ここにおいて、その場所には「永遠回帰」という周期性が付与される。再生のリズムが付与される。聖なる場所は何度でも何かを再生してくれる場所になる。カイラス山であれ、水かけ不動さんであれ、四国八十八ケ所であれ、ルルドの泉であれ――。かくてエリアーデは世界各地の聖なる場所にひそむ周期性の解明に向かい、そこに顕現するシンボルとイコンの問題の特徴検出のための総動員をかける。 

≪019≫  それでこの話から何をエリアーデが導いてくるかといえば、その永遠回帰する場所がエデンの園となり、浄土となり、エルドラドとなっていったということだ。浄瑠璃寺となり、サンチャゴ・デ・コンポステーラとなり、二上山となり、ノートルダム・ド・パリとなり、吉田神社になったということだ。 

≪020≫  すなわち、そこにユートピアや観音郷やアルカディアや桃源郷が生まれ、そしてそれとはまったく逆なる場所として、そこに「負の力」もまた同時に宿ったということだった。強力なタブーも生じたことである。このように聖なる場所と負を引き取る場所とが同時に同一のトーテムを挟んでおこりうることを、エリアーデは好んで「反対の一致」と呼んだ。 

≪021≫  そこで新たな問題は、こういうことになる。 では、このような永遠回帰を促す場所こそがわれわれの母なるもののすべての起源ではないのか、この場所こそが生と死の観念のルーツではないのか、この再生と死滅を同時に約束する場所にこそわれわれのノスタルジアの根拠ではないのか、という問題だ。 答えは諾である。それ以外の説明はしないことにする。ただ、こういうことだけは言っておきたい。 

≪022≫  いま、多くの者の心は何かを喪失している「いたみ」を感じているであろう。そういう時代だ。その「いたみ」は親しいものを亡くした「悼み」であり、体におぼえのある「痛み」であり、自身の心だけが知る「傷み」でもあろう。この「いたみ」はいつかは必ず知らなければならないもので、捨てようとしても棄却できない。いつかは直面せざるをえない。 しかも、この「いたみ」は実はずっと以前から諸君の心のどこかにひそんでいたものでもあったのである。諸君はそれを忘れていただけなのだ。 

≪023≫  それを、とりあえず「原郷喪失感」とでも言っておく。
原郷が何かはわからない。一人一人が異なる喪失をしているのだから、何であるとは、言いがたい。
幼年期に育った町かもしれないし、父親の面影かもしれないし、何かを諦めてしまったときの茫漠かもしれない。 
諸君には必ずそういう喪失感がある。むろん、ぼくにもある。それは、それとは名指しできない原郷なのである。
それこそが本来の意味でのホームシックであり、ノスタルジアというものなのだ。そこへ行ってみなければ、ああ、ここだったのかとわからない場所なのだ。  

≪024≫  わかってもらえただろうか。
諸君は原郷という場所を喪失したままなのだ。回復されるべきなのは本来のノスタルジアなのである。そして、そのようなノスタルジアには必ず永遠回帰のための結界がどんなに小さくても必要なのだろうとということだけを、言っておきたい。
そう、アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』のように。 

生命と人間のあいだ。記憶と表現のあいだ。 主体と客観。ノエシスとノエマ。

自分とそれ以外のもの。私と他者。 脳と心と体のあいだ。アナザーセルフ。

われわれはいつも、さまざまな「あいだ」にいる。 この「あいだ」とは何なのか。

「あいだ」は夾雑物なのか。隔てるものなのか、

近しいものなのか。それとも実は

われわれが「あいだ」そのものなのか。

木村敏さんに倣って、このことを考えてみたい。 

≪01≫  「あいだ」だなんて、なんともすばらしい眼目だ。これを言われたら「参った」だ。ただし、この「あいだ」、けっこう手強い。なぜかというと、この「あいだ」は物理的な空間や時間のことではない。渋谷と新宿の中間地点や区域のことでもない。何かのビトウィーンな間隔や隙間なのではない。自分にまつわる「あいだ」なのだ。つまりは無人称な「あいだ」ではないものなのだ。 

≪02≫  自分にまつわる「あいだ」ということは、自分や自己を成立させているものである。ふつう、自分や自己をつくっているのは自我(エゴ)や個我や自己意識や、エス(無意識・イド)やスーパーエゴのようなものだと思われてきた。それが「あいだ」こそ自分に関係があるという。  

≪03≫  いったい、そういう「あいだ」ってどういうものなのか。実体のあるものなのか。いや「もの」ではなく、おそらくそれは「こと」なのである。その「こと」が自己や自分というものにくっついている。 というのも、精神病理学的に言うと、この「あいだ」に亀裂が入ったり、「あいだ」のどこかがツイストしていたり、そこに不鮮明な膜が陥入していたりすると、おおむね精神病とみなしてきたわけなのだ。ということは、そうした病いを治癒するには「あいだ」の回復が重要になるということだ。心の病いは「もの」がおかしくなるのではなく、「こと」がおかしくなる。 

≪04≫  でも木村さんは、このような自己にまつわる「こと」としての「あいだ」に関心をもち、一貫してそこに探求の目を注いできた。そのため大好きなヴァイツゼッカーの思索を敷衍しながら、ドイツ仕込みの精神医学を駆使し、ときに西田幾多郎(1086夜)の哲学を借りつつ日本的な「あいだ」の感覚をもそこに読みとろうとしてきた人なのである。 

≪05≫  木村さんには、木村さんの「あいだ」論で前提にしているとても大事な仮説がある。それは、次のような仮説だ。 「この地球上には、生命一般の根拠とでもいうべきものがあるはずであって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれという存在が行為的にも感覚的にも、この生命一般の根拠とのつながりを維持しているということにほかならない」。 

≪06≫  こういう仮説が前提になっている。この「生命一般の根拠」は個体の生命活動のいちいちにとらわれるものではない。したがって個々の生死には関知していない。一人ひとりの時々刻々の出来事や意識にも左右されていない。もっとディープで、かつディープなままにどこかに広がっているリゾームのように根をのばす根拠性だ。 

≪07≫  ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』でそれを「根拠関係」(Grundverhältnis)と呼ぶのだが、難しい定義はさておくとすると、「生死一般の根拠」はそれ自体としては対象にはなりえないもので、生命はこの根拠関係にかかわるけれど、その根拠自体は取り出せないものだということになる。 つまり、われわれが「生きているな」「みんなのことを感じるな」「死にたくないな」というとき、そこには何か奥のほうからのなんらかの“原-関係力”のようなものとのつながりが作用しているはずで、それはおそらく生命活動にもとづく根拠関係との「かかわり」によるものなのだということだ。 

≪08≫  ヴァイツゼッカーがこの「かかわり」を「からみあい」と言っていたことは、756夜にも紹介した。「からみあい」は木村さんが「ゲシュタルトクライス」をわかりやすい日本語に移した言葉だった。  

≪09≫  このように、木村さんの言う「あいだ」は、生命一般の根拠関係との「かかわり」や「からみあい」のもとに成立している範囲のことなのである。そして、この範囲こそが自己を成立させている「あいだ」だったのである。 

≪010≫  「私」というものが「意識」によって形成されているとしても、その意識が示す感覚データはすでに脳による大幅な処理をうけている。感覚も知覚も、ナマなものではない。それらはすでに脳のネットワークがかなりの処理を加えたコンテクストの中におかれているのであって、そのカプセルの経験をそのまま意識が反映(あるいは射影)しているにすぎない。 

≪011≫  ところが、そういうふうになっているんですよということを、意識は「私」に教えてはくれない。たとえば、脳が「どんな情報を捨てたか」ということは意識にのぼってこない。採用した情報だけが意識にのぼる(そうでないものは「夢」などで混乱状態をさらけだす)。それゆえ「私」はその処理のプロセスがどんなふうになっているのか、知らないままにいる。 

≪012≫  意識は現実の世界についての二つのアプローチを一緒くたにして、「私」をだましているのだ。 二つのアプローチとは、一方は「外界から感じる刺激にまつわるアプローチ」、他方は「そういう体験を説明するためにもつイメージに関するアプローチ」なのだが、意識はこれらを巧みに一緒くたにしてしまっている。そのため「私」は、つねにそのような一緒くたの操作を区別しない“ユーザーイリュージョン”の中にいつづける。 

≪013≫  それは、あたかもニュースキュスターの声はテレビの機械本体から聞こえているのに、「私」はそれがキャスターの口からいままさに発せられていると思いこめるようなものだ。 

≪014≫  ノーレットランダーシュはさらに大胆に推理した。「私」とは実は、このような“ユーザーイリュージョン”を成立させているシミュレーションとしての「私」なのではあるまいか。あるいはヴァーチャルな意図を演じる「私」なのではあるまいか。そこには、或る根本的なズレがかかわっているのではあるまいか、というふうに。 

≪015≫  またさらに、この「ズレ」がまわりまわって、「私」の意識にセルフ1とセルフ2のようなものをつくってしまったのだともみなした(セルフ1・2という言い方はティモシー・ゴールウェイの用語)。セルフ1は意思をもつ主体、セルフ2はその意思にかかわらず現実化している主体だ。 

≪016≫  たとえば、テニスでスマッシュを決めようとしているのがセルフ1、そんなスマッシュにならないほうを演じてしまっているのがセルフ2だ。そういうふうに言ってもいいだろう。ソチ・オリンピックでの浅田真央ちゃんは、このセルフ1とセルフ2のズレと葛藤にまさにもがいていた。  

≪017≫  ベンジャミン・リベットの実験では、セルフ1とセルフ2の「あいだ」は僅か0.2秒のズレなのだが、それがときに決定的なのである。真央ちゃんも、この0.2秒に泣いたのだ。 

≪018≫  だいたいはこういう仮説なのだが、木村さんの言う「あいだ」は、このズレをもっと大きく掴まえた。0.2秒を時間的にも空間的にも広げたのである。そこに生命の根拠関係もが動向していると捉えたのである。 

≪019≫  しかしながら、「あいだ」を大きく捉えると、そのぶん「私」や「自己」にまとわりつく「範囲」を実感しにくくもなる。なにしろセルフ1とセルフ2の矛盾と葛藤が生命の根拠関係にもおよんでいるのだから、これは精神医学の治療にあたっては、いささか大きすぎる。 

≪020≫  そこで木村さんは、この「あいだ」を多少なりとも実感できるものとして「祭り」を想定するようにした。そして、「私」や「自己」にからみつく心理的な「あいだ」には、祭りのアトサキに類する過集中や過放置が関与して、そこでの歪みが心の病いをつくっているのではないかと考えた。 

≪021≫  こうして、祭りをひとまず時間的に区分して、「祭りの前」(アンテ・フェストゥム)、「祭りの中」(イントラ・フェストゥム)、「祭りの後」(ポスト・フェストゥム)と分けた。そしてこの3つには何かの違いがあるのではないか、代表的な精神病はこの3つにおおまかに対応しているのではないかと仮説したのだった。 

≪022≫  いまではこの3つは、
「祭りの前」が統合失調症的にあてはまり、
「祭りの中」が癇癪症的で、「祭りの後」が憂鬱病的にあてはまるのではないかと解釈されている。 

≪023≫  祭りは、われわれを不思議な気分にさせる。そこに参入していることと、そこに参入させられているということが、からみあっている。 ふだんは出会えないスペクタクルが眼前にあらわれ、そこに臨んだ者たちを別のところへ誘っていく。多くの祭りはなにがしかの歴史的背景をもっていて、ここでおこっていることは、ずっと以前から繰り返されていることだとも、思わせる。 ぼくも、何度も祭りに臨んでいるときの奇妙な実感を味わってきた。楽しいのに哀しかったり、賑わっているのに寂しかったりした。友人たちが、ちょっとしたことで別人に感じられもした。祭りには多くの非日常的な要素が多層多様になっているので、「私」や「自己」にひそんでいたいろいろなことが多義に引き出され、拡張するようにも思えるのであろう。 

≪024≫  木村さん以外の精神医学者はあまり「祭り」に注目していなかったけれど(注目してきたのは文化人類学のほうだった)、たしかに「祭り」はうまく扱えば、精神の祝祭や意識の多義性の説明に使えるはずなのだ。 グレゴリー・ベイトソン(446夜)がナヴェン族の祭儀を調査して、その異装的交換が部族内の片寄りを解消させる「相補的分裂生成」(シズモジェネシス)になっていると指摘したのは、有名な話だ。 

≪025≫  たしかに祭りには仮装や異装がともなうことが多く、そこに何らかのアルター・エゴやエクストラ・アバターの“編集”がすすむようになっているのであろう。  けれども、精神障害というものは、祭りのような儀式的でファナティックな集合力のなかで引き出されるものともいえる一方、個人の奥に向かおうとして生起されていくものでもある。 ニーチェ(1023夜)ふうに言うのなら、ディオニソス的な情感が過集中や過放置によって歪むことも多かろうが、他方、アポロン的な理性の中から見いだせるものもあるはずだ。 このようなときは、祭りに代わって何か別なメタファーが使えたほうがいい。  

≪026≫  木村さんは若い頃からピアノに堪能で、音楽にめっぽう明るい人である。学生時代には毎日新聞主催のコンクールで1位になったこともあった。息子の木村元さんも音楽出版社アルテスパブリッシングの代表を務める。 そういう音楽派なので、木村さんは「あいだ」の説明としてしばしば音楽の例を持ち出すことがある。祭りが集合的個人のメタファーだとすると、音楽は個人的集合性のメタファーになりうるのではないか。そう考えて音楽にひそむ「あいだ」にも考察を向けた。  

≪027≫  木村さんは音楽の演奏という行為が、およそ3つの契機で成り立つとみなした。(A)瞬間瞬間の現在で音楽をつくりだしているという行為、(B)自分が演奏している音楽を聴いているという行為、(C)これから演奏する音や休止を先取り的に予期する行為。この3つだ。 むろん3つはいろいろ重なりあい、組み合わさっている。しかしながら、この3つは(A)と(B・C)ではかなり異なるものなのではないか。(A)の行為は音楽の発露をめざすノエシス的な行為であり、音楽の発生が古代や幼児にさかのぼることを考えあわせると、おそらく生命の律動つまりは生命一般の根拠関係にかかわっているはずである。 これに対して(B・C)はノエマ的な“意識されている音楽”の行為なのだ。(A)がセルフ1であるとすると、(B)と(C)はセルフ2に属する。 

≪028≫  意識をノエシスとノエマに分けるのは、フッサール現象学の常套手段である。ドイツ哲学に入りこむと、たいていこの振り分けに出会う。 意識そのものの能動的な側面がノエシスで、その意識が何かについて意識している場合をノエマ的という。意識の作用そのものがノエシスで、意識の対象的側面がノエマだ。いずれもギリシア語の「ヌース」(精神・理性)から派生した。フッサールは意識の志向性を考究して、このような振り分けをした。 

≪029≫  で、木村さんは、音楽演奏はノエシスがノエマに投影しながら進んでいるとみなしたのである。これは独奏者においても合奏者においても、そうなっているのではないか。そのようにみなしたうえで、では音楽そのものがどこで“鳴っている”かといえば、木村さんはノエシスとノエマの「あいだ」で“鳴っている”とみなすしかないだろうと言うのだ。 

≪030≫  もっと端的にいうのなら、音楽はそれを意識したとたん、ゲシュタルトクライスになるということだ。「あいだ」になるということだ。音楽的なユーザーイリュージョンをつくるということだ。ということはピアニストたちも、0.2秒のズレと闘っているということなのだ。 それはフッサールならば「間主観性」のあいだというものにあたるだろうし、西田幾多郎なら「行為的直観」のうしろにあたるものだということになる。 

≪031≫  一度だけ、木村さんに原稿を依頼したことがあるが、それは磯崎新(898夜)さんと編集した「間(MA)」の東京展覧会のときだった。1978年にパリのルーブル装飾美術館で開催した「間(MA)」展を、20年ぶりに装いを変えて上野の芸大ミュージアムに“再生”させたときのパンフレット原稿だ。 

≪032≫  「木村さん、認識と表現の間(あいだ)について書いてください」とお願いした。よろこんで引き受けていただいた。『自己の居場所としての間』という原稿で、「世界や他人とのあいだに間をもつことは、自己の居場所をもつということだ」という主旨である。最終行には「あいだは自己の別名だ」となっていた。 

≪01≫  遅れて催された追悼の会。たしかにそういう会だったが、誰も故人のことを話題にしなかった。 生前の間章(あいだ・あきら)が好んで着ていた黒い服の帳(とばり)に似て、そこはなんとも暗くて遠い部屋だった。まるでフェルディナンド・セリーヌがさっき帰ったばかりのような、つまりは所在というものがない一隅だった。参加者はワインを片手にひそひそしていたが、すべては片言か、さもなくば上の空だった。 

≪02≫  ぼくもこの夜のことをはっきりとは憶えていない。まるで黒ミサに誘われるように行って、そして黙って帰ってきた。実はそこが一階だったのか、ワインだったかどうかも曖昧である。こんなことは珍しい。誰がいたのだったか。音楽は鳴っていたのか。何ひとつとしてはっきりしない。高橋巌さんとちょっと、竹田賢一や坂本龍一ともちょっと言葉を交わした程度で、別れた。そうするしかなかった。土取利之や近藤等則がいたのかどうかも、忘れた。 

≪03≫  一冊の分厚い遺稿集が残った。『時代の未明から来たるべきものへ』。けれども「来たるべき者へ」と託されたところで、誰一人として間章(あいだ・あきら)の思索と交信に面と向かって応えられるはずはなかった。 

≪04≫  それほど間章は図抜けていたし、それほど深すぎた。その一冊には、半夏舎をおこした29歳から、『モルグ』を創刊してそのまま脳出血で倒れた32歳までの濃密な文章が収録されているのだが、このフリージャズ鎮魂歌ともいうべき壮絶な凝結を、その後の誰もが言及していない。ぼくも、とうてい語れない。  

≪05≫  1978年に間章が32歳で死んだ夜、坪井繁幸は電話で導引愉気を必死に勧めていた。坪井さんはもともとが合気道で、その後は新体道をへて身体気流法を編んでいた。間章を最初にぼくに紹介したのはその坪井さんである。 

≪06≫  その後、ミルフォード・グレイヴスとぼくが「遊」で長い対談をしたときに間章は立ち会ってくれた。妙に親切だったが、無駄なことはいっさい言わなかった。それからはフリージャズの演奏会に行くたびに間章に会った。とくに小杉武久やデレク・ベイリーのインプロヴィゼーションの会場では、お互いにニヤリと笑って肩をぶつけあうのが挨拶になった。例の黒い服である。銀のペンダントをいつもぶらさげていた。が、あいかわらず言葉らしい言葉はほとんど交わさなかった。 

≪07≫  そういう間章との"関係"ではあったが、結局は何も知らなかったに等しい。1970年の11月25日に三島由紀夫が自決をしたその日に、アルバート・アイラーの死体がハドソン河で発見されたとき以来、間章はずっと「なしくずしの死」に属していたのかもしれないとさえ思われる。 

≪08≫  最初はエリック・ドルフィだった。それからセシル・テイラーとスティーヴ・レイシーである。 

≪09≫  途中、小杉武久や阿部薫や富樫雅彦がいたが、小杉は演奏を中断し、阿部は死に、富樫は刺された。そこまでのことはきっと梅津和時や灰野敬二の呼吸の中に残響しているのだとおもう。さらに詳しいことは吉沢元治・近藤等則・高木元輝か、あるいはぼくがいちばん親しい土取利之に訊ねればいいのかもしれないが、そういう気はおこらない。きっと誰も話したがらないだろう。 

≪010≫  それからミルフォード・グレイヴスをへてデレク・ベイリーに行き着いた。そのドルフィからベイリーに及んだ軌跡は「音の全きアナキズム」に突入しきりたいというものだった。いいかえば奈落の彼方に、ということだ。 

≪011≫  間は新潟の磯町に生まれた。少年期から短歌・俳句に親しみ、京都にいたこともある。富沢赤黄男が好きだった。 

≪012≫  立教大学を中退するころは、すでにジャズ闘争集団JRJEを組織していた。当時はシカゴ前衛派と三味線や尺八による邦楽に傾倒し、高柳昌行・吉沢・阿部・高木・豊住芳三郎らと組んだ。大学在学中の23歳から「ジャズ」誌に渋々執筆していたが、「開示またはエピグラフを含むジャズ円周率への接近」「絢爛たる不在の中での底止なきカタストロフィ」といったタイトルのものばかりで、ごく一部のミュージシャンを除き、ジャズ界にはまったくその意思が伝わっていなかった。 

≪013≫  26歳(1972)のとき、新潟市体育館でプロデュースした新潟現代音楽祭がすごかった。その後、この音楽祭を越えたものは日本では催されたことがない。ぼくはNHKでその様子を見て(なんと放映されたのである!)、腰を抜かし、そのころNHKの技研にいた知人に頼んで全収録テープを見せてもらいに行き、またまた打ちのめされた。 

≪014≫  出演者は、高柳・吉沢・高木のジャジー連中に加え、フォークの三上寛、マジカルパワー、シャンソンの工藤勉、龍笛の藤舎推峯、鼓の藤舎呂悦、薩摩琵琶の鶴田錦史、竹笛の歌代鉄之助、三味線の木田林松栄と津軽三味線の高橋竹山、法竹の海堂道宗祖、それに高田瞽女たちである。 

≪015≫  その年の11月、渋谷東横劇場で間が『瞽女・姻』をプロデュースをしたときは、ぼくも飛んでいった。土方巽が舞台に出てきて驚かせた。 

≪016≫  間はずっとフリージャズがジャズの最終形態かどうかを模索しつづけていた。  

≪017≫  二つの極点があった。ジョン・コルトレーンとセシル・テイラーである。コルトレーンはテーゼを吹きまくり音のアイデンティティを中心にすべての音の意図を組織しようとしていた。テイラーはテーゼそのものを分解し、音の自由に向けて非中心的に自在な組み直しをおこしていた。しかし間章には、ここからはなかなかジャズの最終形態は見えてはこない。 

≪018≫  なぜなのか。そこには危機が創出されていなかったから、危機からの脱出すら不可能だったのである。すでに間はマイケル・マントラーの薄まった理念性、マイルス・デイヴィスのずるがしこい右傾性、チック・コリアの軽薄、マッコイ・タイナーのホームドラマ、ガトー・バルビエリの未熟、キース・ジャレットのインテリ日和見主義などがどうしても許せず、これらを決定的に葬っていた。 

≪019≫  それらにくらべれば、コルトレーンやテイラー、あるいはアルバート・アイラーやエリック・ドルフィに賭けてもよさそうなのに、間はなお厳密な無政府性を探求しようとしていたのだった。フリージャズの先の先に間が求めていたのは、バタイユやアルトーやクロソウスキーであり、セリーヌやシオランや、あるいは稲垣足穂や富沢赤黄男だったのである。 

≪020≫  苛立ちを隠せない間はヨーロッパを旅しながら、10冊の本を読んでは捨て、読んでは捨てて、最後にハイデガーの『存在と時間』だけを繰り返し読んだ。本書にも浩瀚なハイデガー論がものされている。 

≪021≫  感性にも観念にも階級性がある。こんなことはぼくの青年時代にはごくごく当然のことだったのだが、いまやすっかり忘れられてしまった。 

≪022≫  間章は、この感性と観念の階級性に挑戦しつづけた。それをフリージャズに求め、真のインプロヴィゼーションに求めた。間はそのために自身を「非命者」とみなした。  

≪023≫  非命者なんて、まさに間にふさわしい。使命でもなく、破命でもなくて、非命。間はそこにニヒリズムとデカダンを加え、そこに倫理の根拠すらを措いた。しかし、ひとつはっきりさせておいたほうがよいことがある。間は、いわゆる「内在化」というものを絶対に嫌ったのだ。すべてを外へ放出することを思い、そのようにするアーティストに出会おうとした。脱自と超出である。そこは徹底してアナーキーだった。そこに間の「希求」ともいうべきものがあったということだ。 

≪024≫  こうした間章は長きにわたってアルトサックスの負性を好んだ。テナーサックスは過剰なレトリックをもっている。しかも上昇的なのである。 

≪025≫  アルトサックスは否定的であり、形而上学的であり、奏者を責める。それはチャーリー・パーカーにもオーネット・コールマンにもあらわれていた。間はそのようにアルトサウンドを聴いていた。そこをいっさいの負性にまで引きこんだのがエリック・ドルフィと阿部薫だったのだろう。しかし、その負性はそこで途絶えた。間はアルトサックスの負性を別のかたちに探しはじめた。  

≪026≫  そこで出会ったのがデレク・ベイリーである。究極のアーティストであった。ベイリーは何もしなかったし、何でもなった。ぼくが初めて語り合えたミュージシャンでもあった。間の最後はデレク・ベイリーに対する感動で満ちている。  

≪027≫  もっといろいろ書きたいのだが、真夏だというのに急に寒くなってきた。間は、人を寒くする。 そういえば間章は「半夏」という言葉が好きだった。半夏舎というカンパニーを最後につくりもした。ぼくも「半巡通信」を出しつづけ、いまはそのなかに「絆然半碍記」というものを書いている。すでに書いたことだが、「半碍」という造語は、間の半夏舎からもらった。またぼくは、数年前に「半塾」という青年青女のための私塾をもっていた。 夏も半分、自分も半分。日本も半分、世界も半分。 半分は反分であり、切分なのである。ああ、もっと間章と半分微笑を交わしておくのだった。 

气や氣は「気」ではない。

気の思想は諸子百家をへて生まれた。

孔子と孟子が気を人間の血気に引き付け、老子と荘子が気を自然動向のタオにつなげた。

その後、気は儒教にも道教にも採用され、さらに仏教からも研究されて、中国哲学全般のキーコンセプトになるほどの勢いをもった。

これらを集大成してみせたのが朱子学である。

「気」はついに「理」と結びついたのだ。

その流れをざっと眺めたい。 

≪01≫  さて、中国における気の思想史をかいつまむのは、複雑すぎるし、その範囲は儒教・道教・仏教の三教にかかわるし、サマライズといったって容易ではないので、かなり乱暴に粗略していくことになる。が、今夜はそのほうがかえってわかりやすいかもしれない。 

≪02≫  いったい中国で「気」が俎上にのぼったのはどんな前史があるかといえば、歴史の順にいうと、まずもって甲骨・金文時代の「气」には思想的な気の意義はなかったと見たほうがいい。卜辞には「雨を气(もと)めんか」とあって、いわゆる気象的な意味合いしかもたせてはいない。気はだいたいにおいて山野を流動する雲気めいた現象のことだったのだ。許慎の『説文解字』でも気宇を雲気とし、雲を「山川の気」だと解釈している。 

≪03≫ 馴染みやすいといいんだけれどね。いまの日本人はタオを本格的に見るというより、健康術や神秘学の一環のように見るからね。そうでなければ風水の親戚みたいに思っている。 

≪04≫  いや、その前がある。老荘以前の歴史がある。導引や漢方も老荘以降です。そもそも殷周時代までの古代中国人の思考に著しいことはね、「生と死」「心と身」とが二つの別々の世界に属すると感じていたことなんです。人は生まれたからには死ぬもので、死ねば肉体は滅んで、精神や霊魂は別の世界で彷徨しているとみなしていた。そのため、そこから二つのプリミティブな考え方が生じていったと見るといい。ひとつは、「生きているあいだにできるかぎり生命と身体の神秘をしっかりつなげておこう」というもので、もうひとつは「心身が分断された死後においてもなんらかの方法で、その分離をくいとめよう」というものです。 

≪05≫  そうだね。当時の古代中国では亡霊にすらも何かにくっつく形代(かたしろ)、つまり「尸」(し)がないと、死者の魂魄がさまよって安定しないという見方をしてたからね。ところがその後の春秋戦国期、とりわけ戦国期になると、生と死や、心と身をつなげている根源的なものとして「気」が想定されるようになってきた。そうすると生と死の奥を握る生命の力そのものが気の集散によって維持されているとみなせるようになったわけです。 

≪06≫  そうだね。そこで、『荘子』(726夜)の知北遊篇に「人の生や、気の聚(あつ)まれるなり。聚まら荘子ばすなわち生と為り、散ずればすなわち死と為る。ゆえに万物は一なり」というふうに説明されるわけだ。では、この「万物は一なり」の「一」とは何なのかというと、それこそがその前後に老子(1278夜)によって「道」(タオ)と称ばれたものだったわけです。ここから古代中国思想がおおいに変化し、やっと多様になっていく。 

≪07≫  いや、それももう少しあとのことだね。まずは、気を操って生をぎりぎりいっぱい延ばすことを夢想して、独特の長寿幻想をつくりあげた。『詩経』の頌歌には「眉寿」という言葉がよく出てくるんですが、これは当時すでに長寿が人生最大の関心事であり、そのことを詩歌に託することが重要だったことを暗示しているんだね。次に、この長寿幻想がやがて不老不死の強調というふうになって、そういう長寿や不老不死を実現している者がどこかにいるとしたら、それは山野の人跡未踏のところの仙境にいる者だろうというので、だんだん神仙思想が芽生えるんです。 

≪08≫  とりわけ、このように人間にまつわってくる気の意義を、さらに大胆に発展させたのが孟子だった。『孟子』には総計19の「気」が登場するが、とくに次の3種の表現が注目される。「志は気の師(すい)なり、気は体の充(じゅう)なり」(公孫丑)。「平旦の気、これを梏(こく)して反復すれば、その夜気は存するに足らず」(告子)。「我は善(よ)く浩然(こうぜん)の気を養う」(公孫丑)。 

≪09≫  これでわかるように、気が呼吸としての気息をあらわし、呼吸をする人間にはどこかで「血気」や「浩然の気」が出入りするのだということは、気は養うことも可能になったということだ。気が養えるものならば、すなわち「養気」というものがあるのなら、そこに志気や士気も生まれうる。それが孟子の「志は気の師なり」の意味なのである。 

≪010≫  孟子はそこから「浩然の気」を謳い、その様態は至大至剛にもなりうると考えた。気が大きくなるとも剛毅になるとも説いたのだ。それは孟子においては道義と気とが結びつきうるものと捉えられたからだった。義が気を成長させると考えられたのだ。こうなると気は社会性をすら帯びてくる。 

≪011≫  しかし、気がそのような「強さ」をもつとみなされたことに対して、むしろ気は「弱さ」や「柔らかさ」の象徴ではないかと考える見方もあった。それが老子(1278夜)や荘子(726夜)の解釈である。 

≪012≫  老子は「沖気(ちゅうき)をもって和となす」「気を専らにして柔を致せば、よく嬰児たらんか」と語り、荘子は「静かならんと欲すれば、気を平らかにする」「人の生は気の聚(あつ)まるなり。聚まればすなわち生を為し、散ればすなわち死を為す」と語った。 

≪013≫  この老荘思想の登場によって、気はタオ(道)のあらわれとみなされ、タオが一を生じ、その一が陰陽の二気を生じて、その二が三となって万物が化成するという、かのタオイズムの根源思想が胚胎することになった。一元二気万物の世界生成論が萌芽していったのだ。 

≪014≫  以上の流れは、孔孟の説く気と老荘の説く気とが“気の二面性”をもたらしていったということでもあるが、実はこの二つの特色を巧みにまとめたアタマのいい者たちもいた。その代表が管仲である。その言説集『管子』には「一気のよく変じるを精という」「精とは気の精なるものなり」とある。気は心のあらわれであるとみなされたのだ。『管子』はまた「人は水なり。男女の精気が合えば、水流れて形となる」とも解釈をすすめた。 

≪015≫  この時期、管子が天と人と地をつなぐものとして水を重視したことは特筆されるが、それとともに、ここに「精気」が男女の和合をもたらすものともなっていった。これは「胎」の思想の芽生えであった。前夜(1442夜)にふれておいたことである。 

≪016≫  時代は次の漢代に入る。ここで最初に気の思想群をまとめたのは『淮南子』(1440夜)だった。平岡禎吉の『淮南子にあらわれた気の研究』という格別な論考があるのだが、それによれば、『淮南子』には実に204箇所に気の用語用法が綴られているという。 

≪017≫  熟語にもなっている。たとえば、天気、地気、土気、水気、陰気、陽気、春気、秋気、蒸気、神気、正気、生気、煩気、偏気、賊気、人気、民気、食気、含気、吐気、合気、同気、養気、専気、懐気、望気、接気、失気‥‥。 

≪018≫  実に多様だが、『淮南子』はこれらをまとめて、「気とは生を之れ充たすもの」と概括してみせている。これでわかるように、『淮南子』がその後の気の思想史の開展のための“気のエンサイクロペディア”の役割を大いにはたしただろうことはあきらかだ。一元二気万物の世界生成論に「太一」というカテゴリーを前提させて、これをタオと重ねてみせたのも『淮南子』だった。 

≪019≫  また漢代では、『黄帝内経』や『霊枢』などの、のちの漢方経典にあたるテキストも編集され、東西南北の気や五色の気が体内活動とリンクしていくと、そこに絶妙な具合で陰陽五行説が組み込まれていったことも強調しておかなければならない。ここからは外丹や内丹も派生する。それだけではなかった。『呉子』や『孫子』が再解釈されて、気は「勇気」とも「利気」ともつながった。これは医療の気ではない。戦闘の気というものだ。気はもはや戦場においても病床においても重視されるようになったのだ。本書ではそこを“気の可変性”と言っている。 

≪020≫  こうして医療から兵法にまで気が及んで、時代は多様きわまりない魏晋南北朝に移る。 ここには天人相関説を広げた董仲舒の『春秋公羊伝』を徹底解義したテキストワークや、鄒衍(すうえん)に始まる時令説(種蒔き・豊作・収穫を想定した気のカレンダー化)による気の解釈学などが挟まれた。「玄気」や「元気」がペダンティックに練り上げられていったのだ。また竹林の七賢や王羲之らによって、文や書や絵画の特性にも気が注入されていったのだ。  

≪021≫  他方では、王充の『論衡』をうけた気の思想も発展した。ここには「精気」とともに「元気」が取沙汰されて、人は生まれる以前から元気の中にあって、死ねばまた元気に帰るのだという考え方が引き継がれていった。 

≪022≫  このあたりまでで、気に関するたいがいのカテゴリー表は出尽くした。レパートリーは満杯だ。しかし、ここからの気の思想史の流れは折からの仏教の拡張にともなって、儒教と道教が新たな思想戦線を組み立てたので、遠慮会釈ない気の思想が取り込まれていって、きわめて紆余曲折することになる。 

≪023≫  たとえば仏教では「気が因果応報する」というふうになり、道教では「気を修行によって養生できる」というふうになった。これでは気が仏教と道教によって股裂き状態になったというふうにしか見えないはずだった。 

≪024≫  隋唐から宋代に向かって、気の思想がどうなっていったかといえば、端的にはそれまでまったくお目にかからなかった「理」と「気」とがくっついて理気哲学という新たな様相を呈していったのだ。これが朱子学というものだ。 

≪025≫  朱子(朱熹)や程子(程頤)によって儒学が新儒学となり、気を理で呑みこんだのだ。新儒学はのちに宋学ともよばれた。 もともとは離れているはずの理知と気とが結託したのだから、これはそうとうにドラスティックな気の思想の新展開だった。しかし、なぜこんなふうになったかという説明は必ずしもかんたんではない。 

≪026≫  まずは仏教思想の側から説明するが、きわめて特徴的な宗密(しゅうみつ)の『原人論』が唐代に先行していた。宗密は華厳思想を大成した澄観の弟子で、儒教と道教を批判して仏教がそれらを勝ることを説いた。その儒道仏の比較は「古来の諸徳、皆判ずるに、儒宗は五常、道宗は自然、釈宗は因縁なり」にその言い分が象徴されている。五常は仁・義・礼・智・信をさす。 

≪027≫  宗密はそうした比較を通して、宗教は人間の本性を究めるべきだと説いた。それまでの儒教や道教は、①もっぱら身を修めること、②タオイズムのように自然回帰すること、あるいは③鬼神の呪法に頼ることばかりに傾いていて、人間の本性についての真実を語ろうとしていない。仏教にはそれがある。そう、宗密は言いたかったわけだ。 

≪028≫  ただ宗密はこれを強調するにあたって、気の思想のなかの「元気」に着目して、それを仏教の『大乗起信論』と合わせ、気を実感することは「忽生」(こっせい)であり、それによって忽然と因縁を感知するのではないかというふうに、気を仏教に取り込んだ。 この『原人論』がひとつの鏡像デバイスとなって、宋代の仏教にも道教にも儒教にも大きな変化をもたらしたのである。 

≪029≫  仏教についてはここでは省くが、なんといっても禅が興隆したことが大きい。気は禅のなかでコンセントレートされる対象になっていった。道教では『雲笈七籤』(うんきゅうしちせん)などの幅広いアーカイブが編集されて気を集大成した。これによって「元気はもとは一つであって、化して生じて万物となる」とか「元気には号がなく、化して生じれば名となる」といった見方、また「元気は生命の源で、腎間の動気である」といった見方が広まっていった。 

≪030≫  これらにくらべると、儒教の戦線は最初は苦労した。なにしろ『原人論』によって一番痛めつけられたのが、唐代の韓兪の儒学や柳宗元の儒詩であったからだ。儒者たちが訓詁学にあけくれていたせいだったかもしれない。 

≪031≫  しかし唐末に社会混乱がおこり、五代十国による民族の多様な交流をへて北宋が立ち、さらに南宋が興って、都合トータル300年にわたる宋時代を迎えてみると、儒教は新たな儒学として徹底した武装をなしとげたとみるに足るものになっていた。それが総説としての朱子学だった。 

≪032≫  新たな展開は王安石の新法に始まり、張載の『正蒙』『横渠易説』をへて、周敦頤(しゅうとんい)の『太極図説』に発端した。 

≪033≫  あまりにも有名な太極図を含む周敦頤のアイディアは、タオイズムが得意とする一元二気万物の世界生成論を儒学の理屈で説明しようとしたものであったが、その門下に程頏(程明道)・程頤(程伊川)の兄弟が出て(のちに二程と呼ばれる)、そこに「理」「心」「性」それぞれが気と組み合わさる道筋をひらき、さらにこれを胡宏が「性」(性理)を中心に組み立てていくうちに、ここについに朱子が登場してすべてをかっさらう「理気学」としての朱子学を確立したのである。 

≪034≫  それは気を扱ってまことに勇敢であり、いいかえれば儒の核心において仏教も道教もねじ伏せてしまうような理屈を駆使したものであった。 

≪035≫  気の思想からみると、朱子学は「一気→陰陽→五行」が重層的に展開する気の集散によって骨格をつくっている。これは気の一元論に近い。 

≪036≫  しかし他方では、その中心コンセプトには仏教から採った「理」と道教から採った「気」とが扱われているのだから、朱子学は思想としてはすこぶる二元論的でもあった。しばしば理気二元論といわれるゆえんだ。 

≪037≫  ところがどっこい、朱子その人はたんなる一元論にも二元論にもとどまらなかった。そこに「心」や「性」を加えたロジックを用意して、「一気→陰陽→五行」が「気-質-物」の三位一体とも「心性」や「性理」とも対応して、ときには「性即理」のイデオロギーが唸るように組み立てた。 

≪038≫  理屈っぽいといえばこれほど理屈っぽい中国哲学もないが、ワーディングとロジックの組み合わせの妙からいえば、そうとう華麗なアクロバティック・エディティングでもあろう。ともかくもこうして朱子学は新儒学として、これまでの中国哲学の全般をディコンストラクションしたかのように見えるほどのもシステム理論になったのである。 

≪039≫  けれども、どんな理論も近隣者からこそ不満は出るもので、続く陸九淵(陸象山)は朱子による「心」の扱いに不満をもって、そこから心学を引き抜き、新たな「心即理」のテーゼを引き出した。今日、朱子学あるいは宋学と呼ばれているのは、この朱子と陸九淵を足し合わせたものをいう。 

≪040≫  だいたいこれらが宋代までの気の思想の流れである。ずいぶんはしょってしまったが、大筋はつかめると思う。 以上をふりかえって重要なことは、「気」は単独で概念の傘を広げてきたとはかぎらないということだ。たいてい組み合わせのカテゴリーと交差連携することでその意味を広げてきた。その場合、いくつか補足しておいたほうがいいことがあるので、ごく少々付け加えておくことにする。 

≪041≫  (1)気の思想にはたいてい「天」というカテゴリーがつきまとっている。これは周王が天からの命をうけて天下を統治したという大前提が中国史の根底に貫かれているせいによる。そこから董仲舒の天人相関説なども派生した。このことを抜いて気は考えられない。 

≪042≫  (2)朱子学で初めて「理」と「気」が出会ったかのような印象を与えたかもしれないが、理というカテゴリー自体はけっこう古くからあった。「理」はもともとは「剖(わ)けて割くこと」という意味をもっていた。そこから岩石や鉱物の肌理や条理を念頭に「理の哲学」が出た。 したがって、そのような理を最初に持ち出したのは朱子ではない。ずっと以前に荀子が理と人間社会とを関係づけていた。『礼記』にも「礼は理なり」という表現がある。また『韓非子』では道と理を組み合わせて「道理」などを重視した。 

≪043≫  (3)その点でいえば、「性」についても朱子学以前からいろいろ思考されていた。最も有名なのは孟子の性善説と荀子の性悪説にいう性である。人間をめぐる本性のことをいう。ちなみに「性」に対応するカテゴリーは「情」になる。性は内的で、情は外的なのだ。 

≪044≫  (4)朱子学が後期になって重視したカテゴリーに「心」があるが、これも宋代になって躍り出たものではない。 これはもともとは心臓の意味だった。そのため思考の中枢だと考えられた。荀子が「人心は危険だが、道心は道と心が合一したものだからそのぶん深く、それゆえに微妙だ」と言い切ったのは特筆に値する。 仏教においても「心」はいくつも思索されてきた。たいていは「念」や「信」と同義になっている。とくに華厳の三界唯心や天台止観の一心三観が特色をもつ。 

≪045≫  (5)儒教・儒学は「仁・義・礼・智・信」の五常を金科玉条としていたのだが、ここに朱子学が「気」を先鋒にして「理」や「性」や「心」を次々にもちこんだのは、たいそうな概念工事だった。ぼく自身は996夜にも書いたように朱子学よりも陽明学や日本儒学のほうが好きなのだが、概念工事力という点では、朱子の理屈ばかりの果敢な編集力には脱帽せざるをえない。 

≪01≫  

祇園南海は「趣は奇からしか生まれない」と書いた。
その「奇」は「正」や「恒」と闘うものであるとも書いた。
注目すべきは、だから奇こそが反俗なのだというくだりだ。

それは鬼・貴・希に通ず

≪01≫  祇園南海は「趣は奇からしか生まれない」と書いた。

その「奇」は「正」や「恒」と闘うものであるとも書いた。

注目すべきは、だから奇こそが反俗なのだというくだりだ。 

≪02≫  奇なるものを見いだして案内すること、その奇に入って奇に属することなくそこを出てくる振舞の手法を指南することは、たんに思想をのべることをはるかに超える営みである。

この案内と指南の仕方にマニエリスムやレキシコグラフィやニュークリティシズムが生まれた。 

≪03≫  高山宏を褒めすぎて褒めすぎることはない、とぼくはおもっている。そのくらい果たしてくれた役割は、貴い。 誰もそういう役は勘弁だというならぼくが引き受けてもよいけれど、おそらくはグノーシス主義、ゴシック、魔術的ルネサンス、マニエリスム、モダンスペクタクル、アートフル・サイエンス、世紀末幻想、シュルレアリスム、ニュークリティシズム、さらには英文学、探偵文学、キャロル主義者、記号論(いやいや、もっとこれ以上の領域をあげてもいいのだが)、それらにかかわるすべての学徒がこのさい挙って、たとえば「高山さん、ありがとう」を叫ぶべきなのだ。 

≪05≫  しかしながら、これが高山ファンにもできてはいない。理由はわからないが、察するに、高山宏の鋭意と速度が勝ちすぎて、誰もその隙に介入できず、いたずらにそのカルト的な知の乱舞の捕捉をあきらめているということなのだろう。それほどに高山宏の領域に置かれたテーブル=タブロー=タブレットには、すべての案内と指南の脈絡が乗っている。

≪04≫  それは、高山宏が澁澤龍彦から由良君美をへて中野美代子に及んだ先見に対して、またグスタフ・ルネ・ホッケからウィリー・サイファーをへてバーバラ・スタフォードに至った充当に対して、つまりは自身にヒントを与えてくれた「奇」に分け入った先達たちにつねに配慮し敬意を表し、あまつさえかれら先達たちの案内と指南を継承超越することをもって「奇に出て奇を出る」という執筆の日々を送ってきた高山宏の“仁義”に応えるためにも、ぜひぜひ必要なことなのである。 

≪06≫  しかし、高山宏の知をカルトと呼んで片付けることほど横柄な無礼はない。祇園南海が書いたように、奇は反俗なのである。それゆえ、その知はカルト的なのではなくバルト的であり、デカルト的でなくレトルト的なのだ。おっと、これは洒落。 

≪07≫  さて、こんなふうに言い募ったうえで“一冊の高山宏”を選ぶのは至難であるけれど、ここでは最近の高山節がとくによく見えて、どこか高山による高山案内になっている本書をもって、高山賛歌の一端を担うことにした。

≪08≫  『綺想の饗宴』とあるように、まさに「奇」や「綺」や「畸」を扱っている。1995年以降の、たぶん依頼されて書いたであろう原稿を約30本ほど集め、これに編集的アラベスクを付与した一冊だ。諸君には『アリス狩り』から一冊ずつ読まれることを勧めたいが、本書自体がアリス狩りシリーズの4弾目として、またマニエリスムの目を縦横に張りめぐらせた『魔の王が見る』の続編にあたるように拵えられている。あとがきには「わくわくするような本をつくりたかった」と珍しく素直に本人は書いているが、わくわくというよりどきどきする。あいかわらずプロローグとエピローグがうまいし、ルビの使い方は達芸である。  

≪09≫ 
本書の狙い、つまりは高山宏の積年の周到な狙いをとうてい一言では説明できないものの、きっとここを漢字一字でいえば、「露」「憑」「穿」とは何かということなのである。 

≪010≫  「露」は露出すること、何かが内から外へ露れることをいう。夜露や露地がそうであるように、何かに向かって出てきたもので、英語のエクスポーズも「外」(エクス)に「置く」(ポーズ)という組み立てになっている。 

≪011≫  しかし見方を変えれば、そのような露呈がおこるということは、 その突起や流出を余儀なくしたなんらかの内部意思の過飽和があるはずだということで、そこにはすでに外部の事情に共鳴してしまった「憑」がおこっている。ポゼッションである。夜露も勃起も、病気のせいで顔面が蒼白になることも、急に何かを喚きたくなることも、エクスポジションであってポゼッションなのだ。しかもそこには必ずやポゼス(所有・支配)が背後に迫っている。 

≪012≫  このような「露」と「憑」が言語行為や美術行為にもおこっていることを断定してみせたのが、そもそもマニエリスムとその裏腹の関係にあるエンライトメント(啓蒙)というものだった。そこでは知もまた“露憑”という衝動をもつ。

≪013≫  ようするに「露」とはいえ、ただのストリップティーズではなくて(それも大いにあってよいが)、たとえば病弱によって体の外に兆候があらわれるように、言葉を選んで紡ぐことや林檎を精密に描くことにも、“露憑”がおこっているとみなすわけなのである。そう考えてみると、皮膚の上に施した外的な刺青でさえ、実は身体や意思の内側から何か龍やら薔薇やら秘文字のようなものが、倶利加羅紋紋(ミナザビーム=紋中紋)としてあらわれたとみなすこともできたのだ。 

≪014≫  こんなふうに中から出てきた「露」「憑」を、あえて外からリバース・エンジニアリングすること、つまりは技や知によって再挿入を試みていくこと、それが「穿」あるいは「窄」、また「鑿」ということである。これらのサクは「裂く」「咲く」に通じる。  

≪015≫  グロッタ(洞窟)という言葉から生まれたグロテスクという趣向は、まるで地球の内部が露出してきた様相を呈する洞窟を、そこを通って内奥に入っていくための入口とみなして次々に加飾することをいう。ゴシックな部屋やロココな書斎を異様な書棚で飾り、そこに万巻の書物を配するのは、したがってマニエリスムであってグロテスクであって、しかもその内奥へのそれぞれの無数のアイコンをもつ穿知構造というものなのである。 

≪016≫  この「穿つ」というすぐれて遡及的で遡知的な行為は、同時にそれまで「露」「憑」にとどまっていた他者の知技を「做」にしていくということをもたらしていく。 

≪017≫  となると、たとえば蒐集、聚集、編輯ということもたんなるコレクションではないことが見えてくる。博物学・博覧会がそうであるように、蒐められた異物はつねにワンダーカンマー(驚異陳列)としてわれわれの知識の内外をゆさぶるものなのである。模写や剽窃や滑稽ということも、たんなる表層の技法なんぞではない。それは内部をめくるエクスポーズ行為なのだ。 

≪018≫  これでだいたい見当がつくだろうが「奇」とはエキセントリックなことを意味するけれど、それはエクス(脱)・センター(中心)なのである。かくていっさいはアルス・コンビナトリア(結合術)とフィギュラリズム(象徴術)の裡にある、という結構だ。 

≪019≫ 本書ではこういうことを、夥しい研究成果の書物案内・読解指南のフリをしながら穿ってまとめてある。ご他聞にもれず、高山推薦の快著・魔著・驚著の書名が乱舞する。 

≪020≫  ちょっとだけ本書に紹介されている書名をピックアップしておくと、著作順ではないが、ブラウン『エロスとタナトス』、ターナー『儀礼の過程』、ホッケ『迷宮としての世界』『文学におけるマニエリスム』、ロッシ『普遍の鍵』、ブリヨン『幻想芸術』、イエイツ『世界劇場』、カイザー『グロテスクなもの』、ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』、スタイナー『脱領域の知性』、プラーツ『記憶の女神ムネモシュネ』『肉体と死と悪魔』『官能の庭』『綺想主義研究』、サイファー『文学とテクノロジー』、アルバース『描写の芸術』、ダイクストラ『倒錯の偶像』、ノイバウアー『アルス・コンビナトリア』あたりがキー本で、次のようなものがそこからの爆発点になる。 

≪021≫  たとえば、カウフマン『自然の征圧』『綺想の帝国』、バクサンドール『影と啓蒙主義』、レイナム『修辞の動機』ペルジーニ『創造的記憶』、カッシュ『地が動く』、ギルマン『健康と病』、ジャンヌレ『食と言語』、ロミ『悪食大全』、アモン『エクスポジション』、スタフォード『ボディ・クリティシズム』、ダストン『驚異と自然の秩序』、コーズ『テクストの中の目』『インターフェランスの芸術』、ジョーダノーヴァ『セクシャル・ヴィジョン』、キルガー『コミュニオンからカニバリズムへ』、などなどといったところ。特徴はいずれも大著だということだ。 

道。気。陰陽。五行。そして丹、また胎。

初期タオイズムから道教への流れは、多分に生命主義的だった。

そこから仙道も錬丹術も、尸解も鍼灸も、本草的漢方も導引も、存思法も房中術も、派生した。

そのため体内には24種もの道教独特の神々が君臨することになった。

それにしても外丹をよくしたはずの道術は、なぜ内丹や内観に及んだのか。

今夜はそのあたりの基礎を眺める。

≪03≫ 馴染みやすいといいんだけれどね。いまの日本人はタオを本格的に見るというより、健康術や神秘学の一環のように見るからね。そうでなければ風水の親戚みたいに思っている。 

≪04≫  いや、その前がある。老荘以前の歴史がある。導引や漢方も老荘以降です。そもそも殷周時代までの古代中国人の思考に著しいことはね、「生と死」「心と身」とが二つの別々の世界に属すると感じていたことなんです。人は生まれたからには死ぬもので、死ねば肉体は滅んで、精神や霊魂は別の世界で彷徨しているとみなしていた。そのため、そこから二つのプリミティブな考え方が生じていったと見るといい。ひとつは、「生きているあいだにできるかぎり生命と身体の神秘をしっかりつなげておこう」というもので、もうひとつは「心身が分断された死後においてもなんらかの方法で、その分離をくいとめよう」というものです。 

≪05≫  そうだね。当時の古代中国では亡霊にすらも何かにくっつく形代(かたしろ)、つまり「尸」(し)がないと、死者の魂魄がさまよって安定しないという見方をしてたからね。ところがその後の春秋戦国期、とりわけ戦国期になると、生と死や、心と身をつなげている根源的なものとして「気」が想定されるようになってきた。そうすると生と死の奥を握る生命の力そのものが気の集散によって維持されているとみなせるようになったわけです。 

≪05≫  そうだね。当時の古代中国では亡霊にすらも何かにくっつく形代(かたしろ)、つまり「尸」(し)がないと、死者の魂魄がさまよって安定しないという見方をしてたからね。ところがその後の春秋戦国期、とりわけ戦国期になると、生と死や、心と身をつなげている根源的なものとして「気」が想定されるようになってきた。そうすると生と死の奥を握る生命の力そのものが気の集散によって維持されているとみなせるようになったわけです。 

≪07≫  いや、それももう少しあとのことだね。まずは、気を操って生をぎりぎりいっぱい延ばすことを夢想して、独特の長寿幻想をつくりあげた。『詩経』の頌歌には「眉寿」という言葉がよく出てくるんですが、これは当時すでに長寿が人生最大の関心事であり、そのことを詩歌に託することが重要だったことを暗示しているんだね。次に、この長寿幻想がやがて不老不死の強調というふうになって、そういう長寿や不老不死を実現している者がどこかにいるとしたら、それは山野の人跡未踏のところの仙境にいる者だろうというので、だんだん神仙思想が芽生えるんです。 

≪08≫ うん、ずっとのちにはプネウマとかプラーナとかとみなされるけれど、古代中国の気は世界や生命や身体の構成要素そのものじゃありません。生命も人体も気によって支えられているとは考えたわけだけれど、ギリシアの自然哲学のようにそれを世界元素的には見なかった。タオイズムにおいては世界元素は一元的で、それは「道」です。 

≪09≫ 古代インドのプラーナは「気息」というもので、それがマクロコスモスとミクロコスモスを出入りするんだが、中国の場合は本書の葛兆光さんも書いているけれど、たしかにマクロコスモスとしての世界とミクロコスモスとしての人体は気によってつながっているんだけど、タオイズムではそこには同源的で、同構造的で、相互感応的なのものが動いているという見方がはたらいて、それが身体的な循環系をつくりあげていると考えたわけです。そこを堀池信夫さんは「気は身体の構成要素であるというよりも、げんにある身体という形態に統括してる機能、あるいはそういう機能をもつ何者か」なのだなんて言っている。 

≪010≫ そうだね。儒教や儒学の気はもっと普遍的で世界要素的だけれど、タオイズムではずっと身体的になっていった。そこがまた、タオイズムの生命主義的なところで、その生命主義があからさまに中国の民間信仰を覆ったのが道教というものなんです。 

≪011≫  陰陽や五行だね。陰陽説と五行説とはちがう出自だけれど、時代的には陰陽五行という見方の発生はやっぱり春秋戦国時代のことです。 

≪012≫  陰や陽は要素ではなくて様相です。五行が要素。白川静さんも書いていることだけれど、もともと陰・陽っていうのは「陰」も「陽」も光が当たったり陰ったりすることでしょう。だから陰陽は気候や気象や季節や地勢や方位の説明に使っていた様相上のカテゴリーなんです。一方、五行は「木火土金水」(もっかどこんすい)の5つの世界要素のことで、こちらは素材論であって要素論です。陰陽は様相論。 

≪013≫  文献的な初出でいうと『尚書』の「洪範」では「水・火・木・金・土」になってるね。その説明は「水は潤下し、火は炎上し、木は曲直し、金は従革し、土は稼穡する」という程度のもので、まあ、それぞれの属性を世界要素の説明に使っている段階です。ところが最近の研究で、春秋末期に「五声」という考え方も芽生えていて、これが『春秋左氏伝』に「気は五味となり、発して五色となり、章ありて五声となる」というふうに説明されている。このことと春秋期のものとして発掘された編鐘という楽器の音律と調べて比較してみると、どうも五声と五行が対応していたらしいというんだね。そこで「洪範」の「水火木金土」という順は、5・6・7・8・9というふうにきれいに並ぶものとして設定されたということになった。 

≪014≫  そうみたい。しかもここで水がトップにきているのが春秋戦国的なところなんだね。それがやがて「木火土金水」の五行相生説や「土木金火水」の五行相勝説になっていくんだけれど、これはどうも戦国末期以降、とくに秦漢時代になってのことで、あとからカテゴリー編集されて理論化された。そのとき初めて気の思想と交じっていったらしい。ということは何を意味するかというと、初期においては「光を重視した陰陽カテゴリー」と「水をトップにおいた五行カテゴリー」とがあって、それらを気の思想がだんだん包含していったということです。 

≪015≫  そうだね。本書の中でも堀池信夫さんのそういう一章がある。で、このあたりから今度は身体そのものの養生法が絡んでくるわけだ。これは『神農本草経』や葛洪の錬丹術の世界ですね。 

≪016≫  これも話しだすとキリがないけれど、かんたんにいうと古代中国医療は、もともと「巫術系」「鍼灸系」「湯液系」という3つの流れをもっているんだよね。巫術系はアニミスティックでシャーマン系のもの。祈祷や呪術による観念技術的な医療です。鍼灸系は最初は瀉血や切開のための骨鍼・竹鍼・石鍼による医療が先行していて、それがだんだん刺法に転化していった。このとき「気血」を決め打ちしていくということが始まって、これがいわゆる「経穴」や「経絡」の発見になっていく。いわゆるツボですね。ここにお灸が加わって鍼灸医療が発達していった。でも、これはかなりあとのことです。初期の中国医術はまだまだ今日の漢方医学のようなものではなくて、多分に神仙道的で、まあ仙人に近づくための技みたいなものだったということです。だから服餌や辟穀(へきこく)や導引、あるいは錬丹術が中心でしょう。 

≪017≫  そうね。だから古代中世で目立つのは本格的な医療ではなくて、むしろ房中なんです。「接して漏らさず」という閨房術だね。  

≪018≫  そうですね。薬草生い茂る地域に発生して、それらを煎じて服用するという方向に発達していった。いわゆる「本草」(ほんぞう)です。伝説的な神農さんが書いたという『神農本草経』がバイブルになるわけだけれど、誰が書いたかは詳細はわからない。おそらく後世の編集でしょう。もっとも陶弘景の『神農本草経集注』ができたころに、『神農本草』という4巻本があったらしいから、似たようなバイブルはあったのだと思いますね。陶弘景の『神農本草経集注』のほうはちゃんと敦煌から出土したものです。 

≪019≫  「丹」ねえ。これもすこぶるあやしい世界だね。『山海経』にも葛洪の『抱朴子』にも、それから『管子』にも「丹」のことがしっかり出ているから、後漢のころには一部で流行していたんだろうね。ただ流行したのはそのころだとしても、漢の武帝の方士の李少君が武帝に丹砂(丹)を操って黄金を見せたとか、『淮南子』(1440夜)に方士が「黄白術」を操って「白金」を生成したというような話が載っているんで、実際にはもっと前から神秘的に錬丹術めいたことを先駆していた例はあったんでしょう。 

≪020≫  『抱朴子』に金丹篇がありますね。「丹」というのは丹砂を焼いて採れる水銀のことですが、常温で液状であることがたいへんめずらしいので、金を生成するといった特殊な力を秘めていると見られたんだろうね。もっともそのころは水銀とともに王水や苺子(いちご)も使っていたらしい。苺子というのは未成熟の時期はシアン化水素酸(青酸)を含むから、金を溶かすことができたみたい。 

≪021≫  そうなんだけれど、内丹はけっこう生理的です。正確な定義はないようなんだけれど、「丹」を水銀や薬草などを使ってつくっていこうというのが外丹で、それを体内につくりだそうというのが内丹というふうになっている。でも内丹とか内修という用語そのものは南岳慧思の『立願誓文』で初めて使われ、内丹思想も隋の蘇元朗によって組み立ってきたというんだから、やっと唐代で広がったものなんですね。それまでは「陰丹」と言ってきた。 

≪022≫  陰丹も内丹も房中での精気を蓄えたり強くしたりするものだよね。 

≪023≫  というより、道教はセックスをする方法とセックスをしない方法を組み合わせていったと見たほうがいいかもしれない。 

≪024≫  気と精をためるためだね。 

≪025≫  ぼくに聞いてもらっても困るけど(笑)、道士たちの房中ではそこを最も重視しているね。 

≪026≫  パトリズムでもマトリズムでもないと思うね。道教にはそもそも「胎」という考え方があって、本書では加藤千恵さんが担当しているけれど、これは男女が交合することで生じる小さな世界そのものなんだね。 

≪027≫  そうだけれど、おそらくもっと普遍的なものだろうね。道教では男女が接すると「胚」「胞」「胎」「肌」というふうな世界充実があると見るんです。六朝のころに『胎精中記経』、正確な名称は『上清九丹上化胎精中記経』というテキストがつくられているんですが、そこでは男女の交わりによって大宇宙の陰陽が交合して、人の胞胎の中に気を降ろすというふうにあってね、それが受胎でもあるとともに、世界との交信ともなっていくと考えられている。こういうものを含めて「内丹」と捉えてきたんだと思う。 

≪029≫  それをきわめて特徴的に象徴するのが「存思」です。 

≪028≫  むろん快楽を肯定しているよね。ただ、そこに古来からの思想が絡んでいる。もともと古代中国では老荘のように「無」を重視した思潮があったわけですね。それで「無為自然」というような考え方も出てきた。これは「何もしないほうがいい」という極のほうに振った思想です。いわば「無に戻る」。これに対してタオイズムや道教は「無」に発していながらも、そこから生命力が生まれていくという方向になっていった。いわば「無から生む」。この「無から生む」が外丹によって自信をもったタオイストたちが、次に陰丹や内丹に向かっていった原動力になっていったんだろうね。 

≪030≫  「存思」って修行法ですか 

≪031≫  観念や思想であって、修行にもなっている。だいたいタオイズムはすべて観念イコール修行ですよ。 

≪032≫  「胎」を感じるための修行でしょうね。『胎精中記経』では存思法は体内の「結」を解くためだというふうに書いている。結というのは人体には受胎とともに幾つもの結び目が出来上がって、これが十二結と十二節をつくる。それが成長しながら「胞」や「胎」になっていく。それらを内観して“解結”していくのが存思だというんです。 

≪033≫  解くというのは「感じる」ということでしょう。つまり内観です。しかし体内の具体的な部位を実感するというんだね。 

≪034≫  タオイストになってやってみなけりゃわからない(笑)。もちろん簡単なことじゃないから、当時もいろいろ体内に神々を想定してそれを観法するようにしたようだよね。『太平経』にすでにそういう五臓六腑の体内神がいろいろ出てきます。 

≪035≫  そうです。守一、抱一、存思はつながっている。さっきも言ったように、その「一」というのがタオですよ。 

≪036≫  そうだねえ。これほど古代において「からだ」というものを科学や医学ではなくて思想したというのはめずらしいよね。ただ、それについてはヨーガや密教についても議論しておかないと道教のオリジナリティを特定できない。そういう意味では、まだ道教を世界思想の中で捉えるという作業は本格的なものにはなっていないということです。しかも、そうした道教独特の内丹や内観の修法は随唐期よりずっとあとに発達したものだから、仏教と相い並んでいた道教思想のレベルとなると、いまのところはこのあたりまでのことでしょう。 

≪037≫  ユング(830夜)たちの研究はほとんど近代道教の観察だから、あそこには老荘すら入ってないよね。  

≪038≫  ずいぶん端的なことを聞くね。それをちゃんと言うには、いろいろ準備がいるんだな。まず第1にはこれらの背景にある「気」の思想の流れをどう見るかということから評価しなおす必要があるね。そこに東洋思想の大きな底辺を見るべきだからね。第2にそれとともに、インドの「プラーナ」思想とも比較しなくちゃいけない。そこにヨーガも密教もタントリズムも出てくる。もうひとつは第3に、禅と比較する必要があるよね。禅は多分に道教的なるものと共鳴しているからね。でも禅もまた随唐以降に発展するので、これは東洋史がモンゴル帝国をとりこんでからどう変わっていったかということに大きく関係してくるわけです。そのへんのことは、もう少し連環篇がすすんでから話していこう。 

≪039≫  そうだね。そこで、『荘子』(726夜)の知北遊篇に「人の生や、気の聚(あつ)まれるなり。聚まら荘子ばすなわち生と為り、散ずればすなわち死と為る。ゆえに万物は一なり」というふうに説明されるわけだ。では、この「万物は一なり」の「一」とは何なのかというと、それこそがその前後に老子(1278夜)によって「道」(タオ)と称ばれたものだったわけです。ここから古代中国思想がおおいに変化し、やっと多様になっていく。 

≪040≫  いや、それももう少しあとのことだね。まずは、気を操って生をぎりぎりいっぱい延ばすことを夢想して、独特の長寿幻想をつくりあげた。『詩経』の頌歌には「眉寿」という言葉がよく出てくるんですが、これは当時すでに長寿が人生最大の関心事であり、そのことを詩歌に託することが重要だったことを暗示しているんだね。次に、この長寿幻想がやがて不老不死の強調というふうになって、そういう長寿や不老不死を実現している者がどこかにいるとしたら、それは山野の人跡未踏のところの仙境にいる者だろうというので、だんだん神仙思想が芽生えるんです。 

≪041≫ うん、ずっとのちにはプネウマとかプラーナとかとみなされるけれど、古代中国の気は世界や生命や身体の構成要素そのものじゃありません。生命も人体も気によって支えられているとは考えたわけだけれど、ギリシアの自然哲学のようにそれを世界元素的には見なかった。タオイズムにおいては世界元素は一元的で、それは「道」です。 

≪042≫ 古代インドのプラーナは「気息」というもので、それがマクロコスモスとミクロコスモスを出入りするんだが、中国の場合は本書の葛兆光さんも書いているけれど、たしかにマクロコスモスとしての世界とミクロコスモスとしての人体は気によってつながっているんだけど、タオイズムではそこには同源的で、同構造的で、相互感応的なのものが動いているという見方がはたらいて、それが身体的な循環系をつくりあげていると考えたわけです。そこを堀池信夫さんは「気は身体の構成要素であるというよりも、げんにある身体という形態に統括してる機能、あるいはそういう機能をもつ何者か」なのだなんて言っている。 

≪043≫ そうだね。儒教や儒学の気はもっと普遍的で世界要素的だけれど、タオイズムではずっと身体的になっていった。そこがまた、タオイズムの生命主義的なところで、その生命主義があからさまに中国の民間信仰を覆ったのが道教というものなんです。 

≪044≫  陰陽や五行だね。陰陽説と五行説とはちがう出自だけれど、時代的には陰陽五行という見方の発生はやっぱり春秋戦国時代のことです。 

≪045≫  陰や陽は要素ではなくて様相です。五行が要素。白川静さんも書いていることだけれど、もともと陰・陽っていうのは「陰」も「陽」も光が当たったり陰ったりすることでしょう。だから陰陽は気候や気象や季節や地勢や方位の説明に使っていた様相上のカテゴリーなんです。一方、五行は「木火土金水」(もっかどこんすい)の5つの世界要素のことで、こちらは素材論であって要素論です。陰陽は様相論。 

≪046≫  文献的な初出でいうと『尚書』の「洪範」では「水・火・木・金・土」になってるね。その説明は「水は潤下し、火は炎上し、木は曲直し、金は従革し、土は稼穡する」という程度のもので、まあ、それぞれの属性を世界要素の説明に使っている段階です。ところが最近の研究で、春秋末期に「五声」という考え方も芽生えていて、これが『春秋左氏伝』に「気は五味となり、発して五色となり、章ありて五声となる」というふうに説明されている。このことと春秋期のものとして発掘された編鐘という楽器の音律と調べて比較してみると、どうも五声と五行が対応していたらしいというんだね。そこで「洪範」の「水火木金土」という順は、5・6・7・8・9というふうにきれいに並ぶものとして設定されたということになった。 

≪047≫  そうみたい。しかもここで水がトップにきているのが春秋戦国的なところなんだね。それがやがて「木火土金水」の五行相生説や「土木金火水」の五行相勝説になっていくんだけれど、これはどうも戦国末期以降、とくに秦漢時代になってのことで、あとからカテゴリー編集されて理論化された。そのとき初めて気の思想と交じっていったらしい。ということは何を意味するかというと、初期においては「光を重視した陰陽カテゴリー」と「水をトップにおいた五行カテゴリー」とがあって、それらを気の思想がだんだん包含していったということです。 

≪048≫  そうだね。本書の中でも堀池信夫さんのそういう一章がある。で、このあたりから今度は身体そのものの養生法が絡んでくるわけだ。これは『神農本草経』や葛洪の錬丹術の世界ですね。 

≪049≫  これも話しだすとキリがないけれど、かんたんにいうと古代中国医療は、もともと「巫術系」「鍼灸系」「湯液系」という3つの流れをもっているんだよね。巫術系はアニミスティックでシャーマン系のもの。祈祷や呪術による観念技術的な医療です。鍼灸系は最初は瀉血や切開のための骨鍼・竹鍼・石鍼による医療が先行していて、それがだんだん刺法に転化していった。このとき「気血」を決め打ちしていくということが始まって、これがいわゆる「経穴」や「経絡」の発見になっていく。いわゆるツボですね。ここにお灸が加わって鍼灸医療が発達していった。でも、これはかなりあとのことです。初期の中国医術はまだまだ今日の漢方医学のようなものではなくて、多分に神仙道的で、まあ仙人に近づくための技みたいなものだったということです。だから服餌や辟穀(へきこく)や導引、あるいは錬丹術が中心でしょう。 

≪050≫  そうね。だから古代中世で目立つのは本格的な医療ではなくて、むしろ房中なんです。「接して漏らさず」という閨房術だね。 

≪051≫  そうですね。薬草生い茂る地域に発生して、それらを煎じて服用するという方向に発達していった。いわゆる「本草」(ほんぞう)です。伝説的な神農さんが書いたという『神農本草経』がバイブルになるわけだけれど、誰が書いたかは詳細はわからない。おそらく後世の編集でしょう。もっとも陶弘景の『神農本草経集注』ができたころに、『神農本草』という4巻本があったらしいから、似たようなバイブルはあったのだと思いますね。陶弘景の『神農本草経集注』のほうはちゃんと敦煌から出土したものです。 

≪052≫  「丹」ねえ。これもすこぶるあやしい世界だね。『山海経』にも葛洪の『抱朴子』にも、それから『管子』にも「丹」のことがしっかり出ているから、後漢のころには一部で流行していたんだろうね。ただ流行したのはそのころだとしても、漢の武帝の方士の李少君が武帝に丹砂(丹)を操って黄金を見せたとか、『淮南子』(1440夜)に方士が「黄白術」を操って「白金」を生成したというような話が載っているんで、実際にはもっと前から神秘的に錬丹術めいたことを先駆していた例はあったんでしょう。 

≪053≫  『抱朴子』に金丹篇がありますね。「丹」というのは丹砂を焼いて採れる水銀のことですが、常温で液状であることがたいへんめずらしいので、金を生成するといった特殊な力を秘めていると見られたんだろうね。もっともそのころは水銀とともに王水や苺子(いちご)も使っていたらしい。苺子というのは未成熟の時期はシアン化水素酸(青酸)を含むから、金を溶かすことができたみたい。 

≪054≫  そうなんだけれど、内丹はけっこう生理的です。正確な定義はないようなんだけれど、「丹」を水銀や薬草などを使ってつくっていこうというのが外丹で、それを体内につくりだそうというのが内丹というふうになっている。でも内丹とか内修という用語そのものは南岳慧思の『立願誓文』で初めて使われ、内丹思想も隋の蘇元朗によって組み立ってきたというんだから、やっと唐代で広がったものなんですね。それまでは「陰丹」と言ってきた。 

≪055≫  陰丹も内丹も房中での精気を蓄えたり強くしたりするものだよね。 

≪056≫  というより、道教はセックスをする方法とセックスをしない方法を組み合わせていったと見たほうがいいかもしれない。 

≪057≫  気と精をためるためだね。 

≪058≫  ぼくに聞いてもらっても困るけど(笑)、道士たちの房中ではそこを最も重視しているね。 

≪059≫  パトリズムでもマトリズムでもないと思うね。道教にはそもそも「胎」という考え方があって、本書では加藤千恵さんが担当しているけれど、これは男女が交合することで生じる小さな世界そのものなんだね。 

≪060≫  そうだけれど、おそらくもっと普遍的なものだろうね。道教では男女が接すると「胚」「胞」「胎」「肌」というふうな世界充実があると見るんです。六朝のころに『胎精中記経』、正確な名称は『上清九丹上化胎精中記経』というテキストがつくられているんですが、そこでは男女の交わりによって大宇宙の陰陽が交合して、人の胞胎の中に気を降ろすというふうにあってね、それが受胎でもあるとともに、世界との交信ともなっていくと考えられている。こういうものを含めて「内丹」と捉えてきたんだと思う。 

≪061≫  むろん快楽を肯定しているよね。ただ、そこに古来からの思想が絡んでいる。もともと古代中国では老荘のように「無」を重視した思潮があったわけですね。それで「無為自然」というような考え方も出てきた。これは「何もしないほうがいい」という極のほうに振った思想です。いわば「無に戻る」。これに対してタオイズムや道教は「無」に発していながらも、そこから生命力が生まれていくという方向になっていった。いわば「無から生む」。この「無から生む」が外丹によって自信をもったタオイストたちが、次に陰丹や内丹に向かっていった原動力になっていったんだろうね。 

≪062≫  それをきわめて特徴的に象徴するのが「存思」です。 

≪063≫  「存思」って修行法ですか  

≪064≫  観念や思想であって、修行にもなっている。だいたいタオイズムはすべて観念イコール修行ですよ。 

≪065≫  「胎」を感じるための修行でしょうね。『胎精中記経』では存思法は体内の「結」を解くためだというふうに書いている。結というのは人体には受胎とともに幾つもの結び目が出来上がって、これが十二結と十二節をつくる。それが成長しながら「胞」や「胎」になっていく。それらを内観して“解結”していくのが存思だというんです。 

≪066≫  解くというのは「感じる」ということでしょう。つまり内観です。しかし体内の具体的な部位を実感するというんだね。 

≪067≫  タオイストになってやってみなけりゃわからない(笑)。もちろん簡単なことじゃないから、当時もいろいろ体内に神々を想定してそれを観法するようにしたようだよね。『太平経』にすでにそういう五臓六腑の体内神がいろいろ出てきます。 

≪068≫  そうです。守一、抱一、存思はつながっている。さっきも言ったように、その「一」というのがタオですよ。 

≪069≫  そうだねえ。これほど古代において「からだ」というものを科学や医学ではなくて思想したというのはめずらしいよね。ただ、それについてはヨーガや密教についても議論しておかないと道教のオリジナリティを特定できない。そういう意味では、まだ道教を世界思想の中で捉えるという作業は本格的なものにはなっていないということです。しかも、そうした道教独特の内丹や内観の修法は随唐期よりずっとあとに発達したものだから、仏教と相い並んでいた道教思想のレベルとなると、いまのところはこのあたりまでのことでしょう。 

≪070≫  ユング(830夜)たちの研究はほとんど近代道教の観察だから、あそこには老荘すら入ってないよね。 

≪071≫  ずいぶん端的なことを聞くね。それをちゃんと言うには、いろいろ準備がいるんだな。まず第1にはこれらの背景にある「気」の思想の流れをどう見るかということから評価しなおす必要があるね。そこに東洋思想の大きな底辺を見るべきだからね。第2にそれとともに、インドの「プラーナ」思想とも比較しなくちゃいけない。そこにヨーガも密教もタントリズムも出てくる。もうひとつは第3に、禅と比較する必要があるよね。禅は多分に道教的なるものと共鳴しているからね。でも禅もまた随唐以降に発展するので、これは東洋史がモンゴル帝国をとりこんでからどう変わっていったかということに大きく関係してくるわけです。そのへんのことは、もう少し連環篇がすすんでから話していこう。